翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 138

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百三十八章 ルイ医師

 アンドレが気絶した場所からほど近いところに、庭師助手が二人働いていた。二人はジルベールの声を聞いて駆けつけて来ると、ド・ジュシュー氏の指示に従ってアンドレを部屋まで運びあげた。それをジルベールは遠くから顔を伏せて追いかけていた。殺し屋が標的の死体につきまとうように、生気のない動かぬ身体を追いかけていた。

 使用人棟の玄関までたどり着くと、ド・ジュシュー氏は庭師たちを重荷から解放した。その時になってちょうどアンドレが目を開けた。

 騒ぎ声や慌ただしい様子を聞きつけてド・タヴェルネ男爵が部屋から出て来た。そこで目にしたのが娘の姿だった。まだふらついているものの、ド・ジュシュー氏の助けを借りて身体を起こして階段を上ろうとしている。

 男爵は駆け寄って国王と同じ質問をした。

「どうしたんだ?」

「何でもありません、お父様」アンドレが弱々しい声で答えた。「ただちょっと気分が悪くなって、頭痛がするだけです」

「あなたの娘さんでしたか?」ド・ジュシュー氏が男爵にお辞儀した。

「まあそうじゃな」

「でしたらこれほど安心なこともありませんね。ただし僭越ながら、医者にお見せした方がいい」

「そんな、大丈夫です!」アンドレが口を挟んだ。

 これにタヴェルネも同調した。

「もちろん大丈夫じゃとも」

「それに越したことはありませんが、お嬢さんは真っ青じゃありませんか」ド・ジュシュー氏が言った。

 それから石段までアンドレに手を貸すと、ド・ジュシュー氏はいとまを告げた。

 父と娘だけが残された。

 タヴェルネはアンドレのいない間に考える時間がたっぷりあったので、立ったままのアンドレの手を取って長椅子に坐らせてから、自分も隣に腰を下ろした。

「すみませんけれど、窓を開けていただけますか。苦しくて」

「実は大事な話があるのだが、こんな住まいではあちこち隙間風だらけじゃな。まあよい。小声で話せば済むことじゃ」

 そう言って男爵は窓を開けた。

 それからうなずきながら娘のそばに戻って腰を下ろした。

「話というのはほかでもない、最初こそあれほどわしらに関心を抱いて下さった国王が、こんなあばら屋にお前をほったらかしにしておいて、ご好意を見せてくれん」

「だってお父様、トリアノンには住むところがありませんもの。あんなところに住めるなんてとんでもありませんわ」

「ほかの場所にも住むところがなかったというわけか」タヴェルネが当てこすりを言った。「百歩譲って納得もして来たが、お前の為には譲るつもりはないぞ」

「お父様はわたくしのことを随分と評価して下さっていますけれど、ほかの方々から見ればそうではありませんもの」とアンドレは微笑みを浮かべた。

「何の、お前のことをちゃんとわかっている者たちなら、みんなわしと同意見じゃよ」

 アンドレは見ず知らずの人に向かってするようなお辞儀をした。というのも父から褒められて何処となく不安を感じ始めたのだ。

「しかもな……」タヴェルネはなおも優しい口調で続けた。「……国王はお前のことをちゃんとご存じなのじゃろう?」

 そう言いながらも、耐え難いほどに厳しい目つきをアンドレに向けていた。

「国王はわたくしのことなどほとんどご存じありませんわ」アンドレはごくさり気なく答えた。「国王にとってわたくしなど物の数ではありませんもの」

 それを聞いて男爵が飛び上がった。

「物の数ではないじゃと! お前の言っていることはさっぱりわからん。随分とまた自分を安く見積もっているようじゃの!」

 アンドレは驚いて父を見つめた。

「何度でも言ってやるぞ。謙虚にもほどがある。自分の価値というものをわかっておらん」

「大げさなことばかり仰って。国王はわたくしたち一家の窮状を気にして下さっているに過ぎませんわ。わたくしたちの為に幾つかのことをして下さいましたけれど、玉座の周りにはほかにも山ほど不幸があって、慈しみ深い国王の手から洩れているんですもの。今はご厚意を見せて下さっていてもいずれわたくしたちのことなど忘れてしまうに違いありません」

 タヴェルネは娘をじっと見つめて、度の過ぎた慎みにむしろ感嘆していた。

「よいか、アンドレ」と言って近づいた。「お前の父親はお前とその肩書きにとって一番最初の請願者になるつもりだ、拒絶はせんでくれよ」

 今度は見つめるのはアンドレの方だった。女らしい仕種で説明を求めた。

「お前頼みなんじゃ。わしらのために取りなしてくれ、家族のためになることをしてくれ」

「ですけど何がお望みですか? わたくしは何をすればよいのでしょうか?」アンドレの言葉からは混乱が窺えた。

「わしや兄のために何かする気はあるのか、ないのか? はっきりせい」

「やれと言われたことなら何でもいたします。ですけれど、あまりがっついているように思われるのはお嫌ではありませんか? 既に陛下は十万リーヴルもする宝石を下さいました。そのうえお兄様に聯隊を任せる約束をして下さいました。これほど多くのお恵みをかけていただいているのですもの」

 タヴェルネは哄笑を抑えることが出来なかった。

「つまり充分に報われていると思っておるのか?」

「お父様のご尽力のおかげだということは承知しております」

「何じゃと! そんな話を誰から聞いた?」タヴェルネが爆発した。

「そもそも何の話をしてらっしゃるのですか?」

「隠しごとをして遊んでいる場合か!」

「いったい何を隠しているというのです?」

「すべてお見通しじゃ!」

「お見通しですって……?」

「すべてをじゃ」

「何のすべてでしょうか?」

 慎ましい心に遠慮のない攻撃を受けて、アンドレの顔が赤らんだ。

 父としての我が子に対する敬意など、数々の疑問の前では急な坂道で足を止める如く止まっていた。

「まあよい! お前の好きなようにするがいい。静かにしておきたいというのなら、おかしな話だがそれでいい。父と兄をどん底にほっぽっておくというのならそれも結構。だがわしの言葉を覚えておくがいい。初めから帝国を持たざる者は、最後まで帝国を持てぬかもしれんのだ」

 タヴェルネはくるりと背を向けた。

「わたくしにはわかりません」とアンドレが答えた。

「構わん。わしにはわかっておるからの」

「話をしているのは二人なのに、それでは困ります」

「でははっきりさせよう。我が一族の美徳である、お前の持っている武器を余さず使えと言っておるのだ。そうすれば、機会さえ来れば家族とお前自身のために幸運を引き寄せられる。国王にお会いしたら真っ先に伝えてくれ。お前の兄が任命状を待ち望んでいること、それにお前が空気も景色も悪い住まいで打ち沈んでいることを。要するにだな、あまりに愛や無私を貫くような馬鹿なことはするな」

「でもお父様……」

「今夜からは、国王にそうお伝えしろ」

「いつ国王にお会いしろというのです?」

「それから忘れずに、わざわざお越しいただく必要はないと陛下に伝えてくれ……」

 恐らくタヴェルネは直截的な言葉を使うことで、アンドレの胸に群がりつつある嵐を呼び起こし、疑問を晴らしてくれるような説明を求めるつもりだった。ところがちょうどその時、階段に足音が聞こえた。

 男爵はすぐに口を閉じて手すりから訪問者を眺めた。

 アンドレが驚いたことに、父親は壁際にぴったりと身体を避けた。

 それと同時に王太子妃が、黒い服を着て長い杖を突いた男性を連れて部屋に入って着た。

「妃殿下!」アンドレが力を振り絞って王太子妃の前まで進み出た。

「そうよ、患者さん。お見舞いとお医者さんを連れて来ましたからね。こちらです、先生。まあ、ド・タヴェルネさん」王太子妃が男爵を見て言った。「お嬢さんはお加減が優れないようですが、お一人ではあまりお世話が出来ませんでしょう」

「妃殿下……」タヴェルネが口ごもった。

「さあ先生」王太子妃にしか出来ないような魅力的な心遣いを見せた。「わたしの患者さんの脈を取って、目の隈を調べて、症状を教えて下さい」

「そのようなご親切を……!」アンドレが口ごもった。「わたくしのような者がお受けすることなど……」

「こんなあばら屋で、と仰りたいの? こんなひどいところだったなんて申し訳ないわ。考えておきます。ですからルイ先生に手を見せて。大変よ、この人は何でも見抜く哲学者であるうえに、何でもお見通しの学者なんですから」

 アンドレは微笑んで医師に手を預けた。

 医師はまだ若かったが、その顔は王太子妃の信頼を窺わせる智的なものであり、部屋に入ってからはすぐに病人の様子を眺め、次いで部屋の様子を、さらには奇妙なことに不安ではなく不機嫌を浮かべている父親の顔を眺めていた。

 学者として調べようとしたが、哲学者としては既に見抜いていたのではないだろうか。

 ルイ医師はしばらく脈を診てから、アンドレに病状をたずねた。

「何を食べても受けつけないんです。それから突然の引きつけ、急な発熱に、痙攣、動悸、失神があります」

 アンドレの話を聴いて、医師の顔がだんだんと曇り出した。

 とうとう手を離し、目を逸らした。

「どうでしょうか、先生?」王太子妃がたずねた。「病状は如何でした? 危険な状態ですの? 死を宣告しなくてはなりませんの?」

 医師はアンドレに目を戻し、無言でもう一度診察をした。

「殿下、こちらのお嬢様の患いは特別なものではございません」

「深刻ではないの?」

「普通はそうでございます」医師は微笑んだ。

「そう、よかった」大公女はほっと息をついた。「あんまり辛い目に遭わせないであげてね」

「辛い目に遭わせることなど一切ございません」

「薬を飲ませたりしないの?」

「こちらのお嬢様には一切必要ございません」

「そうなの?」

「ええ」

「何も?」

「何もいりません」

 そう言うと医師は、それ以上の説明を避けるようにして、患者が待っていると言って大公女にいとまを告げた。

「先生、わたしを安心させるためだけにそんなことを仰っているのでしたら、わたしの方が具合が悪くなってしまいます。どうか今晩いらっしゃる時にはわたしがよく眠れるように、約束なさった糖衣ドラジェを忘れずにお持ちになって下さい」

「戻ったらこの手でご用意いたします」

 そう言って医師は立ち去った。

 王太子妃は朗読係のそばに残った。

「大丈夫ですからね、アンドレ」王太子妃は励ますような笑顔を見せた。「心配するようなものではないわ。ルイ先生が何も処方しなかったんですから」

「安心いたしました。妃殿下へのお仕えを休まなくて済みますもの。それだけが心配でございました。でもお医者の先生には悪いのですが、実を申しますと少し具合が悪いのです」

「でも医者を嘲笑うようなひどい病気の苦しみではないはずよ。ぐっすり眠ることです。あなたのお世話をする人を手配しておきます。一人きりですものね。お見送りいただけますか、ド・タヴェルネ殿」

 王太子妃はアンドレの手を取り、励ましをかけ約束してから立ち去った。

『ジョゼフ・バルサモ』 137

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 引っ越しするのでたぶん一か月くらい更新できません。
 

第百三十七章 アンドレの失神

 タヴェルネが正気に戻って、災難の原因をじっくりと考えてみると、機会と大義が幾つもの警報を俎上にして深刻にぶつかり合っていたことに気づいた。

 そこでタヴェルネは、かんかんに怒ってアンドレの住まいに向かった。

 アンドレは身繕いを終えようとしていたところで、ふっくらとした腕を上げて頑固な髪を耳の後ろに留めようとしていた。

 控えの間に父親の足音が聞こえると、腕に本を抱えて戸口を跨いだ。

「ご機嫌よう、アンドレ。出かけるのかね?」

「はい、お父様」

「一人か?」

「ご覧の通りです」

「まだ一人なのだな?」

「ニコルがいなくなってから、小間使いを使っておりませんから」

「それでは着替えも出来まい。それはいかんぞ。そんななりでは宮廷で出世できん。それはそれとして話したいことがあったのじゃが」

「申し訳ありませんがお父様、王太子妃がお待ちですので」

「悪いがの、アンドレ」タヴェルネは話しているうちに昂奮して来た。「そんな質素ななりでは、笑われるのが落ちじゃぞ」

「お父様……」

「何処であれ笑いものにされるのは死の宣告に等しいが、宮廷ではなおのことだ」

「覚悟はしております。ですが現時点では質素な身なりであれすぐにおそばに駆けつける方が妃殿下もお喜びになると思っております」

「では出かけるがよい。お許しが出たらすぐに戻って来てくれ。重大な話がある」

「わかりました、お父様」

 アンドレはそう言って先を急ごうとした。

 男爵はそれをまじまじと見つめていた。

「待ちなさい。そんななりで出かけてはならぬ。紅を忘れておるぞ。ひどく真っ青ではないか」

「そうでしょうか?」アンドレが立ち止まった。

「鏡を見てもそうは思わんか? 頬は蝋のように真っ白で、目には隈が出来ておる。そのまま出かけては、人を驚かせてしまうぞ」

「ですがやり直している時間はありません、お父様」

「何てことだ!」タヴェルネは肩をすくめた。「世の中はこんな女ばかりで、それがわしの娘と来ておる! まったくひどいこともあったもんじゃ! アンドレ! アンドレ!」

 だがアンドレはとっくに階段の下まで行っていた。

 アンドレが振り返った。

「せめて具合が悪いのだと言ってくれぬか。めかし込む気はなくとも、自分のことを気に掛けてくれ」

「そういうことでしたら簡単です。嘘をつく必要もありませんわ。実際に気分が優れないんですもの」

「左様か」男爵が唸った。「問題はそれだけだ……具合が悪いのだな!」

 それから歯の隙間から絞り出した。

「まったく澄まし屋どもと来たら!」

 男爵は娘の部屋に戻り、懸命になって自分の憶測が正しいことを確かめようとした。

 その間にもアンドレは広場を横切り花壇に沿って歩き続けた。時折り顔を上げて、空気をもっと貪るように吸い込もうとした。新鮮な花の香りが脳に染み入り五感のすべてを揺るがしていたのだ。

 こうして太陽の下で眩暈を起こして何処かにつかまりたいと感じ、経験したことのない辛さと戦いながら、アンドレはトリアノンの控えの間までたどり着いた。王太子妃の小部屋の前に立っているド・ノアイユ夫人の一言で、アンドレはたちまち理解した――とっくに時間は過ぎ、待たせてしまったのだ。

 大公女公認のフランス語教師である×××修道院長が妃殿下と朝食の席に着いていた。王太子妃は親しい間柄の人々をよくこうして招いていたのだ。

 修道院長はバター入りのパンの出来に舌鼓を打っていた。ドイツ製の食器が綺麗に積み上げられた横には、クリーム入りコーヒーが置かれてある。

 修道院長は朗読ではなく、情報屋や外交官のところで仕入れてきたウィーンの現状を王太子妃に話していた。この時代には政治は屋外でおこなわれていた。屋外というのは穴蔵に隠してある大法官府の最高機密と同じくらい安全なのである。パレ=ロワイヤルの貴族たちやヴェルサイユの植え込みの陰から見抜いたりでっちあげたりした報せが内閣に報告されるのも、この時代には稀ではなかった。

 なかでも修道院長はつい先日起こった小麦高騰に絡む密かな暴動について話をしていた。「暴動」という言葉が用いられた。大きく買い占めていた五人をド・サルチーヌ氏が迅速に逮捕してバスチーユに送ったという。

 アンドレが入って来た。王太子妃もここ何日かは気まぐれと頭痛に悩まされていた。修道院長もそれが気になっていた。会話が弾んでいる最中にアンドレが本を手にやって来ると、王太子妃の機嫌が悪くなった。

 そこで王太子妃は朗読係に速やかに出て行くように命じ、朗読のようなことには何よりも頃合いというものがあるのだと言い添えた。

 アンドレはそうした非難に恐縮しつつ、それ以上に不当な思いを感じながらも、口答え一つしなかった。父に引き留められたために遅くなったうえに、体調が悪くてゆっくりとしか歩けなかった、と言い訳することも出来たのだが。

 だが何も言わずに狼狽えて慌てて頭を下げると、死んだようになって目を閉じてぐらりと身体を傾けた。

 ド・ノアイユ夫人がいなければ倒れていたところだ。

「お行儀がなっておりませんね!」とエチケット夫人が呟いた。

 アンドレから答えはない。

「具合が悪いのではなくて?」王太子妃が立ち上がってアンドレに駆け寄ろうとした。

「大丈夫です」慌てて答えたアンドレの目には涙が浮かんでいた。「具合は悪くありません。いえ、よくなりましたから」

「でも顔色が手巾のように真っ白じゃありませんか。公爵夫人もご覧なさいな。わたしが悪かったわ、叱ったりして。どうかお坐りなさい」

「妃殿下……」

「命令ですよ!……修道院長、その折りたたみ椅子を譲って差し上げて」

 アンドレは腰を下ろした。王太子妃の気遣いのおかげで、少しずつ頭も落ち着き頬にも色合いが戻って来た。

「では本を読んで下さるかしら?」

「ええ、もちろんです。どうかお願いします」

 アンドレは昨日の続きから本を開き、出来る限り聞き取りやすく耳に快い声を出そうとした。

 だが二、三ページほど目を通したところで目の前を小さな黒点が飛び回り、渦を巻いて震え出したので文字が見えなくなってしまった。

 再び顔が土気色になり、嫌な感じの汗が胸元から額にまで滲んで来て、男爵が厭ったような黒い隈がどんどん目元に広がっていた。アンドレが堪えているのを見て、王太子妃が顔を上げた。

「まただわ!……公爵夫人、この子はやっぱり具合が悪いのよ。気を失っているじゃないの」

 王太子妃は気付け薬を朗読係に吸い込ませた。アンドレが意識を取り戻し、本を拾おうとしたが上手くいかなかった。手の震えがしばらく止まらなかったのだ。

「やはりアンドレは体調が悪いようね、公爵夫人」王太子妃が言った。「ここに引き留めてはさらに具合が悪くなってしまうわ」

「では直ちにお部屋に戻っていただきましょう」

「あらどうして?」

「恐らくこれは――」夫人は恭しく答えた。「天然痘の徴候でございますから」

「天然痘?」

「そうです、失神、人事不省、震え」

 修道院長はド・ノアイユ夫人から指摘され、天然痘を移されてはかなわないと思い、椅子から立ち上がったが、誰もがアンドレの様子を気に掛けていたので、爪先立って密かに逃げ出しても誰一人それには気づかなかった。

 アンドレは王太子妃の腕に抱かれるような恰好になっていることに気づいて、畏れ多くも大公女にそんな迷惑を掛けていると思うと申し訳なくなり、そのために力が――いやむしろ勇気が――湧いて来た。そこでアンドレは窓辺に近寄り深呼吸をした。

「そんなんじゃなく、外の空気を吸った方がいいわ」と王太子妃が言った。「お部屋に戻りなさい、ついて行ってあげますから」

「とんでもございません。もうすっかり良くなりました。席を外すお許しをいただけるのでしたら、一人で戻れます」

「わかったわ、お大事にね。もう叱ったりはしません。これほど繊細な方だとは知らなかったものですから」

 アンドレはまるで姉妹のような心遣いに感激し、王太子妃の手に口づけして部屋を出た。王太子妃がそれを心配そうに見守っていた。

 アンドレが階段の下まで行くと、王太子妃が窓から大きく声をかけた。

「すぐに戻らずに花壇を少し散歩なさい。陽に当たれば良くなりますよ」

「何てお優しいんでしょう!」アンドレは呟いた。

「それから修道院長に戻って来てもらって頂戴。あそこのオランダ・チューリップの花壇で植物学の講義をしているわ」

 アンドレは修道院長に会いに、行き先を変えて道を曲がり、花壇を横切った。

 アンドレは下を向いて歩いていた。朝から続く眩暈のせいで今もまだ頭が重い。花の咲いた生け垣や並木道の上を驚いて飛び回る鳥たちにも、タイムやリラの上でぶんぶんと羽根を鳴らす蜜蜂にも、まったく意識が向かなかった。

 だから少し離れたところで二人の男が話をしていて、そのうちの一人が戸惑い顔で心配そうにアンドレを見つめていることにも気づかなかった。

 二人はジルベールとド・ジュシュー氏であった。

 ジルベールは鋤に凭れて著名な師匠の話に耳を傾けていた。草状の植物に水をやるに当たって、地面に水を溜めずに染み込ませるやり方を説明している最中だった。

 ジルベールはその説明を真剣に聴いているようだし、ド・ジュシュー氏の方でもこうした技術に興味を持つのは当然のものだと思っていた。というのも、教室に坐っている生徒の前で同じ話をすれば拍手が巻き起こるような内容であったのだ。哀れな庭師の青年にとって、教材を目の前にして偉大な教師に教えを受けることほどの幸運はあるまい。

「いいかい、ここには大きく分けて四種類の土壌がある」とド・ジュシュー氏が説明していた。「私ならこの四種類をさらに細かく十に分けられる。だが見習いの庭師が見分けるのは難しいだろうね。いずれにしても栽培人は土を知らなくてはならないし、庭師は植物を知らなくてはならない。わかるね、ジルベール?」

「はい、わかります」そう答えたジルベールの目は一点に釘付けで、口は半開きだった。アンドレを見つめていたのだ。それでも態度を変えたりはしなかったので、ずっとアンドレを目で追っていても、上の空で講義を聴いて空返事をしているとは気づかれずに済んだ。

「土を知るには――」ド・ジュシュー氏はジルベールが脇見している間も話し続けた。「簀の子に土を乗せて、そっと水を注ぐといい。土で濾された水が簀の子の下から出て来たら、水を舐めてみなさい。しょっぱいか、苦いか、水っぽいか、育てたい植物の性質に合った成分の香りがするのか。あなたがお世話になっていたルソーさんが言っていたように、自然界のものはどんなものでも似たもの同士や同じもの同士が引かれ合うものだからね」

「大変だ!」ジルベールが腕を前に伸ばした。

「どうしたね?」

「気絶してしまいました!」

「誰のことだ? 大丈夫かい?」

「あの人です!」

「あの人?」

「ええ、ご婦人です」ジルベールは必死で伝えた。

 ド・ジュシュー氏が指の先に目をやりジルベールから視線を外さなければ、言葉はもちろん怯えて青ざめた表情から何もかもばれてしまっていたことだろう。

 だが指さす方向に顔を向けて、ド・ジュシュー氏もアンドレを見つけた。熊垂の並木道の向こうからのろのろと歩いて来て、並木道までたどり着くと腰掛けに倒れ込み、そのまま動かなくなってしまった。最後まで残っていた意識の欠片が消え失せてしまったかのようだった。

 ちょうどその時はいつも国王が王太子妃を訪問する時間帯だった。国王がグラン・トリアノンからプチ・トリアノンに向かおうとして、果樹園から姿を現した。

 つまり陛下は突然現れたのである。

 早なりの桃を手にわがままな国王は、フランスの幸福のためには国王自身がこの桃を味わうよりは王太子妃が味わった方がよいと言えるのだろうか、と自問していた。

 ド・ジュシュー氏がアンドレの方に慌てて駆け出すのを見ても、目の悪い国王には事情がよくわからなかったが、押し殺したようなジルベールの叫びを聞いて足を早めた。

「どうしたんだ?」ルイ十五世は道を挟んだ反対側に来ていた。

「陛下!」アンドレを抱きかかえたド・ジュシュー氏が声をあげた。

「陛下!」アンドレは囁いて気を失った。

「それは誰だね?」国王がたずねた。「ご婦人だな? 何が起こったのだ?」

「気絶なさったのです」

「何と!」

「意識を失っています」ド・ジュシュー氏はぐったりとしたアンドレを、改めて腰掛けに横たえ直した。

 国王はそばに寄ってアンドレに気づき、悲鳴をあげた。

「またか!……恐ろしい。それほど具合が悪いなら部屋に籠もってなくてはならん。しょっちゅうみんなの前でこんな風に気を失っているとは言語道断だ」

 ルイ十五世はきびすを返してぶつぶつと文句を垂れながらプチ・トリアノンに向かった。

 ド・ジュシュー氏はそれまでのことを知らなかったので、しばらくぽかんとしていたが、ふと振り返ってジルベールがすぐそばで不安そうにしているのに気づいた。

「来てくれ、ジルベール。君なら力があるからド・タヴェルネ嬢を部屋まで運んでくれるかな」

「僕がですか!」ジルベールは震え出した。「僕が手を触れて運ぶんですか? いけません、そんなの絶対に許してくれません。絶対に出来ません!」

 ジルベールはその場から逃げ出し、助けを呼びに行った。

『ジョゼフ・バルサモ』 136

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第百三十六章 国王たちの記憶

 リシュリューが約束通り果敢にも国王陛下の目の前に進み出たため、ド・コンデ氏が国王のシャツを引っ張った。

 国王は元帥を見て慌ててそっぽを向いたのでシャツが落ちそうになり、ド・コンデ公は驚いて後じさった。

「済まぬな」ルイ十五世が声をかけ、急に動いたのは公のせいではないと伝えた。

 だからリシュリューとしては、国王の怒りは自分に向けられているのだとはっきりと悟った。

 だがそもそも怒りを引き出そうと思ってやって来たのだし、いよいよとなれば真剣に話し合うために、フォントノワ時代のように豹変して部屋への退路を塞ぐつもりだった。

 国王はもう元帥には見向きもせず、寛いだ様子で会話を再開した。着替えをして、マルリーに狩りに行く計画を立て、コンデ公と長々と話し合った。コンデ家の人間は評判の狩猟家だったのだ。

 ルイ十五世が慌てたように話をやめた。

「まだいたのかね、ド・リシュリュー殿?」

「恐れ入りますがその通りです」

「そうするとヴェルサイユを離れぬのか?」

「四十年来、ほかならぬ陛下のためにヴェルサイユを離れたことを除けば、ほとんど離れたことはありませぬ」

 国王は元帥の目の前で立ち止まった。

「何か言いたいことでもあるのかね?」

「老生が?」リシュリューがにんまりとした。「いったい何を?」

「余を追いかけ回しているではないか! すっかり気づいておるのだぞ。違うか?」

「愛と敬意を込めてその通りです。ありがとうございます、陛下」

「聞こえぬふりなどしおって。ちゃんとわかっておるのだろう。よいか、元帥殿、こちらにはそなたに言うことなど一つもない」

「一つも、でございますか?」

「一つとしてない」

 リシュリューは無関心を装った。

「陛下、常日頃から変わらぬ思いを抱いておる老生にとって、魂と良心にかけて、陛下に対するひたむきな思いには私利私欲などございません。重要なのは、この四十年というもの陛下にはそのようにしてお話しして来たということです。どれだけ嫉妬深い人間であっても、陛下がこれまでに老生に何かをお許し下さったことがあったとは言いますまい。幸いなことにその点では世評も定まっておりましょう」

「公爵、用件があるのなら言いなさい。ただしさっさとすることだ」

「要望など一切ありませんし、現在のところは陛下にお願いするのを差し控えさせて……」

「何の話だね?」

「陛下に感謝をお伝えしたい者が……」

「誰のことだ?」

「陛下に大変な恩義のある方です」

「つまり誰なのだ?」

「陛下が輝かしい栄誉をお与えになった人間でして……さいですな、陛下と食卓を共にする栄誉を賜ったり、同席者としてこのうえない陛下の洗練された会話や魅力的な明るさを味わったりした者は、そのことを決して忘れませぬし、瞬く間にそうした幸せに慣れてしまうものでございます」

「おべっかは結構、ド・リシュリュー殿」

「陛下……」

「要するに誰のことを話しておるのだ?」

「友人のタヴェルネのことでございます」

「友人だと?」国王が声をあげた。

「はあ」

「タヴェルネか!」国王が恐怖の声をあげたので、公爵はひどく驚いてしまった。

「どうなさいました、陛下! 昔からの同僚で……」

 そこでいったん言葉を切り、

「共にヴィラールで軍役に就いておりましたが」

 そこで再び言葉を切った。

「ご存じの通り世間では友人という言葉を、知り合いであるだとか敵ではないという意味合いで使っておりまして。これといって裏のない型通りの言葉でございます」

「危険な言葉、ではないかな、公爵」国王は辛辣だった。「慎重に用いた方がよい言葉だ」

「陛下のお言葉ありがたく拝聴いたしました。改めましてド・タヴェルネ殿は……」

「ド・タヴェルネ殿は不道徳な人間だ」

「貴族の名誉にかけて、老生もかねがねそう思っておりました」

「気遣いに欠けた人間だ」

「気遣いにつきましては意見を申し上げるのを控えさせていただきます。知らないことは請け合えませぬゆえ」

「ほう! 友人であり同僚でありヴィラールの同胞であり、今から余に引き合わせようとしている男のことを、請け合えぬと申すか。よく知っておるのだろう?」

「それはもちろんです。ですが気遣いについては存じませぬ。シュリーは高祖アンリ四世に対して、緑の服を着た熱が出て行くのを見たと申しました。老生といたしましても、恐れながらタヴェルネの気遣いがどんな服を着ているのかは存じ上げません」

「すると余が言わねばなるまいな。鼻つまみ者が鼻持ちならない役を演じたわけだ」

「陛下が仰るというのでしたら……」

「そうだ、余が言おう!」

「陛下にそう仰っていただけますとこちらも気が楽になります。はっきり申し上げますと、タヴェルネは気遣いなど持ち合わせておりませぬし、そのことは老生もよく存じております。ですが陛下がご意見を明らかになさるほどでは……」

「結論を言おう。余はあの男が嫌いなのだ」

「判決は為されましたな。しかしあの男にとっては幸いなことに、力強い味方が陛下のおそばにおりますからな」

「何のことだね?」

「生憎なことに父親が国王に疎まれたとしても……」

「ひどく嫌っておる」

「否定はいたしません」

「だから何の話をしておるのだ?」

「青い目と金色の髪をした天使の話でございます……」

「わからんな、公爵」

「そうかもしれませんな」

「わからぬとはいえ、理解したいのだがね」

「老生のような俗人は、愛しさと美しさの謎を秘めているヴェールの裾をめくろうと考えただけで震えてしまいます。しかしながら国王の怒りを和らげるのに、タヴェルネがその天使にどれだけのおかげを蒙っているでしょうか! さよう、アンドレ嬢は天使にほかなりませぬ!」

「父親が精神上の怪物であるなら、アンドレ嬢は肉体上の怪物だ!」

「はてさて!」リシュリューは呆れかえった声を出した。「わしらはすっかり勘違いしておったようですな。あの美しい見た目が……」

「あの女子おなごの話はよしてくれ、公爵。考えただけで怖気が立つ」

 リシュリューは同情したようなふりをして手を合わせた。

「まさか! あんな姿形の娘が……王国一の観察眼をお持ちで、無謬を体現されている陛下が仰ったことでなければ、信じられますまい……あの見た目が偽りであると?」

「それどころではない。病気の発作……恐ろしい……罠だ、公爵。神に誓って、そなたは余を殺すところであったのだぞ」

「もう口を開きますまい。陛下を殺してしまうとは! 恐ろしい! 何という一家なのだ! あの青年も気の毒に!」

「今度は誰の話をしておるのだ?」

「忠実にして献身的な偽りなき陛下の奉仕者のことです。言うなればあれこそ臣下の鑑、陛下もそう判断なさいました。今回こそは陛下の寵愛も裏切られはなさいませんでした」

「だから誰の話をしておるのだ? さっさと言いなさい。焦れったい」

「申し上げているのは――」リシュリューは落ち着いて答えた。「タヴェルネの息子であり、アンドレ嬢の兄のことです。フィリップ・ド・タヴェルネ、陛下が聯隊をお任せになった勇敢な若者の話をしております」

「余が聯隊を任せただと?」

「左様です。フィリップ・ド・タヴェルネが待ちわび、陛下がお任せになった聯隊のことでございます」

「余が?」

「そう思っておりますが」

「馬鹿を言うな!」

「はて?」

「そんなもの一切任せてはおらぬ」

「まことですか?」

「どうしてそんな話を持ち出したのだ?」

「しかし陛下……」

「そなたに関係があるのか?」

「まったくありません」

「ではそんな厄介ごとの山で余を火あぶりにしようとでも思ったのか?」

「何を仰います! どうやら――老生が間違っていたようですが――陛下が約束なさったとばかり思っておりましたもので……」

「余には関係ない。そもそも陸軍大臣がおるのだぞ。聯隊を任せたりはせぬ……聯隊を任せるだと! たいした法螺を吹き込まれたものだな! そなたはそのひよっこの辯護人なのか? 余に話すのは間違いであったと言われた時には、血が煮えくり返る思いがしたぞ」

「陛下!」

「煮えくり返ったのだ。たとい悪魔が辯護人であろうと、一日たりとも我慢するつもりはない」

 そう言うと、国王は公爵に背中を向け、腹を立てて小部屋に引っ込んだ。残されたリシュリューは、言うべき言葉が見つからないほどにしょげ込んでいた。

「まあ、これでどうすべきかわかったわい」

 動揺のあまり汗まみれになっていたのを手巾で拭うと、じりじりしながら友人が待ちわびている一隅に歩いて行った。

 元帥の姿を見つけると、男爵は獲物を襲う蜘蛛のように、最新の報せを目がけて駆け出した。

 目を輝かせ、口を尖らせ、腕を組んで、たずねた。

「何か報せは?」

「報せはある」リシュリューは口に蔑みを浮かべ、馬鹿にしたように胸飾りをつついて、胸を張った。「二度とわしに話しかけないでもらいたい」

 タヴェルネが唖然として公爵を見つめた。

「貴殿は国王から嫌われておる。国王に嫌われおる人間は御免蒙りたい」

 タヴェルネは足が大理石に根づいてしまったかのように、呆然として立ちつくしていた。

 だがリシュリューはそのまま歩き続けた。

 やがて鏡の間の出口まで来ると、待っていた召使いに声をかけ、姿を消した。

「リュシエンヌに!」

『ジョゼフ・バルサモ』 135

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百三十五章 再び地に落ちる次第

 ド・リシュリュー公爵はヴェルサイユにある自宅の寝室にいた。バニラ入りのチョコレートを飲みながら、ラフテ氏から会計についての報告を聞いていた。

 とは言うものの秘書が伝える正確な数字にはなおざりな注意しか払わず、鏡に映った自分の顔を遠くから見つめるのに忙しかった。

 不意に短靴の鳴る音が聞こえた。控えの間を誰かが訪れたのだ。公爵はチョコレートの残りを急いで飲み干して気がかりな様子で戸口を見つめた。

 ド・リシュリュー氏には年老いた悪女のように、誰にも邪魔されたくない時間があるのだ。

 召使いがド・タヴェルネ氏の来訪を告げた。

 公爵としては別の日に出直してくれとか、せめて別の時間に改めて訪問してくれないかと言い訳するつもりであった。ところがそうする間もなく、開いた扉から矍鑠とした老人が部屋に飛び込んで来た。そうして元帥を指さしながら、大きな安楽椅子に駆け寄り腰を沈めると、椅子はその重さというよりもその衝撃に呻きをあげた。

 リシュリューはそれをホフマンの作品に出て来る奇怪な人間のように見つめた。椅子が大きく軋み、大きな溜息が洩れるのを聞いて、リシュリューは男爵に向き直った。

「やあ男爵、何か新しい報せでも? 随分と辛そうだな。まるで死人のようではないか」

「辛い? 辛いじゃと!」

「はてさて? 嬉しくて息をついているようには見えんぞ」

 男爵は元帥を見つめた。ラフテがいる間は溜息の理由を説明せぬぞ、とでも言いたげだった。

 ラフテは背中を向けたままそれを理解した。主人同様よく鏡を覗き込んでいたからだ。

 そこでラフテはさり気なく退出した。

 男爵はそれを目で追って、扉が閉まるのを確認した。

「辛いとは言わんでくれ、公爵。不安なのだ。死ぬほど不安なのだ」

「ほほう!」

「せいぜいとぼけなされ」タヴェルネが手を擦り合わせた。「もう丸一月近く、曖昧な言葉でごまかしてわしを引きずり回しておるな。ある時は『国王にお会い出来なかった』、ある時は『国王が会って下さらなかった』、ある時は『国王はご機嫌斜めだ』。いい加減にせんか! それが旧友に対する返答か? たかが一月とはいえ、永遠のように感じておるのだぞ」

 リシュリューは肩をすくめた。

「何をどう言えば満足なのだ、男爵?」

「真実に決まっておろう」

「おいおい、わしが伝えたのは真実じゃぞ。貴殿の耳に入れるのは真実だ。信じたくないのならそれで構わんがな」

「ふん、公爵にして大貴族、フランス元帥、部屋付き侍従のあなたが、国王にお会い出来ないと言ってわしを騙すおつもりか? 毎朝起床の儀に参加しているあなたが? 馬鹿馬鹿しい!」

「事実そうなのだから繰り返すしかあるまい。たとい信じられなくとも、事実なのだ。三週間前からは昼にならぬとお部屋に入れぬ。公爵にして大貴族、フランス元帥にして部屋付き侍従のこのわしがな!」

「国王があなたと口を利かぬと言うつもりか?」タヴェルネが口を挟んだ。「あなたが国王と口を利かぬと? そんな嘘が信じられるか!」

「さすがに無礼が過ぎぬか、男爵。四十年のつきあいも無視して、そんな汚い言葉で罵倒するとはの」

「だが口惜しいのだ、公爵よ」

「何を言うか。口惜しいだと。わしだって口惜しいわい」

「あなたが?」

「当然だ。あの日からというもの、国王はわしのことを見ようともしてくれん! 陛下はわしに背中を向けたままじゃ! 気持ちよく笑ってもらえるに違いないと思うたびに、恐ろしく顔をしかめて返事が返って来るのだぞ! わざわざ愚弄されるためにヴェルサイユに行くのはうんざりだわい! どうしろと言うのだ?」

 タヴェルネは言い返されている間中、ぎりぎりと爪を咬んでいた。

「わしにはわからん」ようやくそう答えた。

「わしもだよ、男爵」

「実際のところ、あなたがやきもきするのを国王は楽しんでいる、と見てよいのだろうな。要するに……」

「うむ、わしが言っているのはそういうことだ。要するにな!……」

「そうなると公爵、わしらはこうした窮状から抜け出さなくてはならぬぞ。すべてに説明がついて丸く収まるような上手いやり方を考え出さなくてはならん」

「男爵、男爵」リシュリュー。「国王に説明を求めるのは危険だ」

「そうであろうか?」

「うむ。話しても構わぬか?」

「頼む」

「どうにも解せぬことがあってな」

「何のことかな?」男爵がたずねた。

「ふん、怒っておるな」

「それも当然、ではないかな」

「では話すのをやめよう」

「いやいや、話は続けよう。だが説明してくれ」

「貴殿は説明が好きだのう。いやまったく、気違いじみておるぞ。気をつけんとな」

「嫌なお人じゃな、公爵。わしらの計画が支障を来し、どういうわけか停滞しているというのに、あなたと来たら『待て』と忠告するのだからな!」

「停滞だと?」

「まずはこれだ」

「手紙か?」

「うむ、わしの伜からじゃ」

「ほう、聯隊長殿か!」

「たいした聯隊長だわい!」

「ふん、何かあるのか?」

「こういうことじゃ。これも一か月ほど前から、国王が約束された辞令をフィリップはランスで待っておるのだが、とんと音沙汰がない。ところが聯隊は二日後には出発するという始末じゃよ」

「何と! 聯隊が出発すると?」

「うむ、行き先はストラスブールじゃ。つまりフィリップが二日後に辞令を受け取れぬ場合は……」

「うむ?」

「二日後にもフィリップはここにいることになるじゃろう」

「なるほどな。忘れられておるのか。新しい大臣を任命する時のように、普通ならばすっかりお膳立てされておるはずじゃからのう。わしが大臣であったなら、とっくに辞令を出しておるのだがな!」

「ふん!」タヴェルネは吐き捨てた。

「何じゃ?」

「一言だって信用できんわ」

「ほう?」

「あなたが大臣だったとしたら、フィリップを追放しておったであろうに」

「おい!」

「そして父親もな」

「おいおい!」

「そして妹はさらに遠くにやらされてしまうわけじゃ」

「貴殿と話をするのは面白いのう、タヴェルネ。極めて頭がよい。しかしそういう話はやめにしようではないか」

「わしは自分のために善処を請うているのではない。息子のために話をやめるわけにはいかぬのだ。今の地位では耐え難い。公爵、国王に会わなくてはならん」

「わしには会うことしか出来ぬと言ったはずだ」

「話がしたい」

「国王が話を拒めば話すことなど出来ぬ」

「そこを無理にでも」

「わしは教皇ではないのだぞ」

「のう、わしは娘と話をするつもりだ。すべてにおいて疑わしい点があるのでな、公爵殿」

 この言葉が魔法のように効いた。

 リシュリューはタヴェルネのことをしっかりと調べていた。若い頃の友人だったラ・ファル氏やド・ノセ氏のように奸智に長けた人物であり、それは今も衰えていないことはわかっていた。それ故、父と娘が手を組むことを恐れていた。失脚をもたらしかねない未知のものを恐れていたのである。

「まあ怒るでない。もう一つやってみようと思っておることがあるのだが、口実がないのでな」リシュリューは答えた。

「口実ならあるではないか」

「何?」

「違うか?」

「何のことだ?」

「国王が約束なさった」

「誰に?」

「わしの伜に。その約束を……」

「ふむ?」

「思い出してもらえばよい」

「搦め手じゃな。手紙はあるのか?」

「うむ」

「見せてくれ」

 タヴェルネは上着のポケットから手紙を取り出し、大胆且つ慎重に、公爵に手渡した。

「火と水じゃな」リシュリューが言った。「人が見たら気が違ったと思われるじゃろうが。それでも乗りかかった船じゃ、もう後には引けん」

 呼び鈴を鳴らした。

「着替えの用意と、馬を繋いでくれ」

 それからタヴェルネに向かって落ち着かなげにたずねた。

「着替えを手伝ってくれるおつもりかな、男爵?」

 そのつもりだと答えれば友人の機嫌を損ねるのはタヴェルネにもわかった。

「いや、無理じゃな。ちょっと町まで行かねばならんのでな。何処かで落ち合えんかな」

「では宮殿で」

「では宮殿で」

「重要なのは貴殿も陛下にお会いすることじゃぞ」

「そうかね?」タヴェルネが喜色を浮かべた。

「絶対にだ。わしの言葉が正しいことを貴殿が自分で確かめてみればよいではないか」

「もとよりそのつもりだ。まあなんだ、あなたがそこまで言うのなら……」

「そこまで思っておるのか?」

「無論だ」男爵は即答した。

「では鏡の間で、十一時に。わしは陛下のお部屋にお邪魔することにする」

「心得た。ではまた」

「恨みっこなしじゃぞ、男爵」リシュリューは飽くまでも、相手の力がはっきりする瞬間までは、敵に回そうとはしなかった。

 タヴェルネは馬車に戻ることにして、一人物思いに耽りながら延々と庭を歩いた。リシュリューは召使いの手を借りてあっさりと若作りをした。著名なマオンの勝者がそうした重要な作業を終えるのには二時間もかからなかった。

 しかしながら、タヴェルネ男爵が悩んでいたのはわずかな時間だった。やきもきしながら見張っていると、十一時ちょうどに元帥の馬車が宮殿の石段前に停まり、リシュリューに向かって宮殿の士官たちが挨拶し、取次たちが迎え入れた。

 タヴェルネの心臓は激しく脈打っていた。散策をやめ、はやる心の許す限りゆっくり落ち着いて、鏡の間に向かった。そこには寵愛の薄い廷臣たちや、請願書を持った士官たちや、野心を抱いた貧乏貴族たちが、彫像のように立ちつくしていた。つやつやに磨き上げられた床は、運命に焦がれるモデルたちにぴったりの台座であった。

 タヴェルネは人混みの中で途方に暮れて溜息をついたが、元帥が国王の部屋から出て来ると、周りを気にしながら隅に近寄って行った。

「何たることだ!」田舎貴族や汚れた羽根飾りを除けながら、歯の隙間から声を洩らした。「一か月前には陛下と差し向かいで夜食を取っていたというのに!」

 顰めた眉には哀れなアンドレを恥じ入らせるようなおぞましい疑いが浮かんでいた。

『ジョゼフ・バルサモ』 134

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第百三十四章 人と神

 これまでお伝えして来た恐ろしい光景がバルサモと五人の親方の間で繰り広げられている間も、家のほかの部屋には見たところ何一つ変化はなかった。一つだけ変わったところといえば、バルサモが部屋に戻ってロレンツァの死体を運び出すのを見たアルトタスが、こうした新たな動きに触発され、周りで起こっていたことを思い出して正気を取り戻したことだった。

 バルサモが肩に死体を担いで階下に降りて行くのを見て、これが最後だ、老いた心を打ち砕いた男ともこれで永久にお別れだ、と思い込んだ。取り残された老人を恐怖が捕らえた。アルトタスにとって、それも不死にすべてを捧げて来たとあっては、常人以上に死ぬのが恐ろしかった。

 バルサモが何をしに行ったのかも何処に向かったのかもわからなかったが、とにかく声をあげて叫んだ。

「アシャラ! アシャラ!」

 幼名を呼べば、素直だった頃のように従順になるのではないかと期待して。

 だがバルサモは降り続けた。下に降りても揚戸を戻そうともせず、廊下の奥に姿を消した。

「糞ッ! 所詮こんな男だわい。無知で恥知らずの畜生め。戻って来い、アシャラ! 戻って来い! そちは女という馬鹿げたものより、儂のような完璧な人間の方を選ぶであろうな! 永遠の生命の欠片を選ぶであろうな!

「馬鹿馬鹿しい!」すぐに声を荒げた。「あのチンピラは師匠を裏切り、儂の信頼をもてあそんだのじゃ。儂が長生きするのを見て、科学の分野で儂に追い越されるのを見るのが怖かったのじゃろう。完成間近だった研究成果を受け継ぎたがって、儂を罠に嵌めたではないか。師匠であり恩人であるこの儂を。アシャラよ!……」

 徐々に老人の怒りに火がつき、頬に熱気が戻って来た。閉じかけていた目にも暗い光が戻り、悪戯小僧が頭蓋骨の眼窩に塗りつけた燐光のような輝きを放った。

 アルトタスは再び声をあげた。

「戻って来い、アシャラ! 用心するがいい。儂が火を呼び起こしあの世の精霊を呼び出す呪文を知っているのはそちも承知しておろう。儂は司祭たちにフェゴールと呼ばれていたガド山の悪魔を呼び出し、闇に沈んだ深淵に押し込められていた悪魔が姿を現したのじゃ。神の怒りを担う七人の天使と口を利いたこともある。モーセが律法の石板を授かったあの山の上でじゃぞ。トラヤヌスがユダヤ人から奪った七つの燭を持つ三脚を、意思の力だけで燃え上がらせたこともある。用心するがいい、アシャラよ、今に見ておれ!」

 だが答えはなかった。

 アルトタスの意識がだんだんと混濁して来た。

「馬鹿め、そちにはわからぬのか」絞り出すように声をあげた。「そこらの人間と同じように死神が儂を捕らえに来るのだぞ。いいか、戻って来ても構わぬ、アシャラ。悪いようにはせん。戻って来い! 火を呼び起こしたりはせぬ。邪悪な精霊や復讐の七天使を恐れんでもよい。復讐は諦めよう。それでもそちを恐怖に陥れ、理性を奪い去り大理石のように凍えさせることは出来る。儂には血の巡りを止めることが出来るからの。アシャラ。戻って来い。ひどいことをするつもりはない。それどころか幾らでもそちの役に立てるのだぞ……アシャラよ、見捨てんでくれ。儂の命を見守ってくれ。儂の財産も秘密もすべてそちのものじゃ。それを伝えるまでは、生き長らえさせてくれ、アシャラ。頼む!……アシャラ、頼む!……」

 アルトタスは震える指を上げ、部屋にある幾つもの品物や書類や巻物を目顔で示した。

 そうして少しずつ抜け出してゆく体力をかき集めながら、耳をそばだてて待った。

「そうか、戻っては来ぬのか。儂がこのまま死ぬと思っておるのか? 見殺しにすればすべて手に入ると思っておるのか? 儂が死んだら殺したのはそちじゃぞ。糞ッ垂れめ、儂にしか読めぬ覚書を読めたとしても、一生と引き替えにして二百年三百年をかけて儂の科学を精霊から学ぶことが出来たとしても、儂が集めた材料をどう用いればよいかはわからぬぞ。何度でも言おう。絶対にわからぬ。そちには引き継ぐことは出来ぬ。考え直せ、アシャラ。アシャラ、戻って来い。戻って来てこの家が滅びるのを見るがいい、そちのために素晴らしい光景を用意しておくから見とれるがいい。アシャラ! アシャラ! アシャラ!」

 答えはなかった。その頃バルサモは親方マスターたちの告発に応えて、殺害されたロレンツァの死体を放り出していたのだ。見捨てられた老人の叫び声は徐々に高まり、絶望に増幅されて、しわがれた咆吼が廊下にまで轟き、恐怖が遠くまで伝わって来た。それはあたかも虎が鎖を千切り檻の柵を曲げて吠えているようだった。

「そうか、戻っては来ぬのか! 見捨てるのだな! 死にかけているから都合がいいというわけか! よかろう、見ているがいい。火事じゃぞ、火事じゃ、火事じゃ!」

 客たちを追い払うことに成功したバルサモは、アルトタスの憤怒の叫びをはっきりと耳にして、苦しみの淵で目を覚ました。ロレンツァの死体を抱え直すと階段を上り、二時間前には催眠術で寝かせていた長椅子に今は亡骸を横たえ、昇降台に上がると、前触れもなくアルトタスの目の前に姿を表した。

「ほほっ! やはりな」老人の声は喜びに酔いしれていた。「不安になったのじゃろう! 儂が自分の片くらいつけられるのはわかっておろうからな。確かにやって来たな。やって来るのが正解じゃった。もうちょっと遅ければ、この部屋に火をつけていたところだわい」

 バルサモは肩をすくめてアルトタスを見つめたが、一言も口を利こうとはしなかった。

「喉が渇いた」アルトタスが叫んだ。「喉が渇いたぞ! 水をくれ、アシャラ」

 バルサモは口も開かず、動きもしなかった。死にかけた老人の断末魔の苦しみを目に焼きつけておこうとでもするように、じっと見つめているだけだった。

「聞いておるのか?」アルトタスが吠えた。

 鬱々としたバルサモからは答えも反応もないままだった。

「聞いておるのか、アシャラ?」アルトタスは怒りを吐き出すために、最後の力を振り絞って喉を開いて怒鳴り散らした。「水じゃ、水をくれ!」

 アルトタスの顔が見る見るうちに苦痛に歪んだ。

 目にはもはや炎はなく、邪悪でおぞましい光があるだけだった。肌の下にはもはや血の気もなく、身体も動かず、息さえほとんどしていなかった。長く筋張った腕は、先ほどまではロレンツァを赤子のように軽々と抱え上げていたというのに、持ち上げようとしても動かず、ポリプの触手ようにふわふわと揺れるだけであった。絶望に駆られて束の間甦っていた力も、怒ったせいで使い果たしてしまった。

「は、は! そう簡単にはくたばらんぞ。は! 干涸らびさせて死なせるつもりなのであろう! 儂の研究、儂の宝を物欲しそうに見つめおって! はん! もう手に入れたつもりなのじゃろう! ふん、待っておれ!」

 アルトタスは力を振り絞って、椅子に敷いてあった座布団の下からガラス壜を取り出し、栓を抜いた。空気に触れると、液体が炎となって壜から流れ出し、アルトタスの周りを魔法のように取り巻いた。

 途端に、椅子のそばに積み上げられていた研究成果や、部屋に散らばっている書籍、クフ王のピラミッドやヘルクラネウムの遺跡から苦労して盗んで来た巻物が、火薬に着火したように瞬く間に燃え上がった。火は大理石の床にまで届き、ダンテが語った地獄の火の輪のようにバルサモの面前で揺らめいた。

 アルトタスとしてはこうした貴重な財産と共に滅ぶつもりであったので、バルサモがそれを救おうとして炎に飛び込むものと考えていたのだろう。だがそうはならなかった。バルサモは慌てる素振りも見せずに、炎が届かぬように昇降台の上でじっとしていた。

 炎がアルトタスを包み込んだ。だが老人は怯えたりはせずに、むしろ本来の元素に還ることを受け入れているようであった。それはあたかも古い城館のペディメントに刻まれたサラマンダーが、炎によって焼かれるのではなく愛しまれているかのように見えた。

 バルサモはアルトタスを見つめ続けていた。炎は板張りにまで達し、老人を完全に包み込んでいる。炎は楢で出来た椅子の脚を舐め、とうに下半身に喰らいついているというのに、どういうわけか老人は何も感じていないようだった。

 それどころか炎が浄化装置の役目を果たしたらしく、炎に炙られて筋肉が徐々にほぐれ、得も言われぬ安らぎが仮面のように顔中に貼りついていた。最後の瞬間になって肉体から離れた老予言者は、火の戦車の上で天に昇る準備をしているように見えた。全能の老人の心は最後の瞬間になって物質界のことなど忘れ捨て、もう何も期待する必要はないのだと悟り、炎に連れ去られるようにして至高の世界を真っ直ぐに目指した。

 それまでは炎に照らされてこの世に舞い戻ろうとしているように見えたアルトタスの目も、その瞬間から虚ろな目つきになって彷徨い、天でも地でもなく地平線を射抜こうとしているように見えた。穏やかなまま醜態も見せず、あらゆる感覚を分析しあらゆる苦しみに身体を預け、この世に別れを告げでもするように、力と生と希望に向かってひっそりと声を洩らした。

「よいか、儂は後悔しておらぬぞ。儂は地上のすべてを手に入れた。すべての知識を身につけた。神から人間に与えられたことで出来ないことはなかった。もうすぐ不死になれるところであった」

 バルサモがくつくつと笑い出した。その嘲るような笑い声を聞いて、老人ははっと我に返った。

 するとアルトタスはヴェールのように覆っている炎の向こうから、威厳と憤怒に満ちた目つきで睨みつけた。

「うむ、そちが正しい。儂に予想できなかったことがある。それは、神の存在じゃ」

 その激しい言葉に魂を引っぺがされたように、アルトタスは椅子に倒れ込んだ。神から掠め取ろうとしていた最期の呼気を、今ようやく神に返したのだ。

 バルサモがため息をついた。アルトタスという第二のツァラトゥストラが死の床に選んだ貴重な薪から逃れようともせずに、ロレンツァのそばに足を降ろして揚戸のバネを動かし、元通り天井に戻しておいた。そうしておけば燃えさかる猛火も目に触れることはない。

 炎は一晩中頭上で嵐のように唸っていたが、バルサモは火を消そうとも逃げようともせず、危険も顧みずにロレンツァの冷たい死体から離れずにいた。だが炎の勢いも続かなかった。すべてを貪り尽くして立派な装飾を煉瓦の穹窿を裸にしてしまうと、炎は勢いを失った。アルトタスの声にも似た咆吼が最後に洩れると、それもやがて衰えて呻き声に変わり、臨終の溜息を吐くのが聞こえた。

『ジョゼフ・バルサモ』 133

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第百三十三章 裁判

 フリッツは正しかった。サン=クロード街にやって来た来客たちの態度は、もはや平和的でも友好的でもなかった。

 五人の馬丁が馬車を護衛しており、横柄で陰気な顔つきをした五人の使用人が完全武装して、閉じた門を見張っていた。そうやって主人たちを待っているようだ。

 馬車に坐った御者と二人の従僕は、外套の下に狩猟用ナイフと小銃を携えている。このように、サン=クロード街に現れた者たちは総じて訪問というよりは探検に赴いたような気配を漂わせていた。

 かかる恐ろしき人々が夜中に押しかけて来たのを見て、フリッツはただならぬ恐怖に襲われた。小窓から護衛の姿を目にして武装していると気づいた時には、全員を追い返そうとした。だが絶対的な合図、抗えぬ権利の証拠を見せられては、もはや異議を唱えることは出来なかった。主人たちが部屋に向かうと、使用人たちは熟練した軍人のように戸口を固め、敵意を隠そうともしなかった。

 中庭や通路を従者もどきに占拠され、応接室を主人もどきに陣取られて、フリッツとしては悪い予感しかしなかった。呼び鈴を乱暴に鳴らしたのにはこうした理由があった。

 バルサモは驚きもせず何の心積もりも持たずに応接室に足を踏み入れた。訪問者たちに失礼のないようにと、フリッツによって部屋には然るべく明かりが入れられていた。

 バルサモが姿を見せても五人とも立ち上がらず椅子に腰を下ろしたままだ。

 この家の主人であるバルサモは、五人を見回して丁寧にお辞儀をした。

 これに対して五人は顔を上げ、厳めしい挨拶を返しただけであった。

 バルサモは五人と向き合うように椅子に坐ったが、奇妙な椅子の並びには頓着しないのか、または気づいていないようだ。五つの椅子は半円形に並べられており、二人の補佐役を従えた裁判長がいた。これは昔の裁判と同じである。またバルサモの席は裁判長の正面に置かれており、これは議会や法廷で被告人が坐る位置だった。

 初めに口を切ったのはバルサモではなかった。別の状況ならばそうしていたであろうが、衝撃のあまり放心状態から抜け切れておらず、目には物が見えていなかったのだ。

「どうやらわかっておるようだな」裁判長が、言い換えるなら中央に坐している者が声をかけた。「ぐずぐずしておるから、探しに行くべきかどうか話し合っていたところであったぞ」

「俺にはわからない」とだけバルサモは答えた。

「こうして向かい合っているのは、被告人の立場と態度をわきまえているからだと思っておったが」

「被告人?」バルサモは呆然として呟き、肩をすくめた。

「俺にはわからんな」

「ではわからせて見せよう。難しいことではない。顔は青ざめ、目は翳り、声は震えているではないか……聞いているのか?」

「もちろん聞いているさ」つきまとっている幻影を振り払おうと、バルサモはぶるぶると首を振った。

「結社の大幹部の一人が裏切りを目論んでいることについて、先の通達によって最高議会が忠告を与えたことは覚えているな?」

「多分……ああ……違うとは言わない」

「その答えを聞く限りでは意識が混乱しておるようだな。正気になってもらわねばならん……倒れてもらうわけにはいかぬぞ。はっきりと答えてもらおう。状況は抜き差しならぬ。納得できるような明確な説明をしてもらおう。こちらは予断も敵意も持ってはおらぬ。我らは法なり。法律が口を利くのは判事が話を聞いてからだ」

 バルサモは答えなかった。

「繰り返す。バルサモ、こちらは一度忠告を与えた。拳闘士たちも殴り合う前には忠告を受け取るものだからだ。これから公正ではあるが容赦のない武器で告発をおこなう。弁明してみよ」

 バルサモが動揺も見せずに冷静でいるのを見て、四人は驚いて顔を見合わせたが、やがて裁判長に目を戻した。

「聞いているのか、バルサモ?」

 バルサモは肯定の印に首を振った。

「では誠実にして寛大なる同志の名に於いて、予め忠告し、尋問することをそれとなく知らせていたのは間違いないな。忠告を受け取った以上は心して聞くがよい。

「忠告を伝えると、結社は裏切り者として告発された人物の足取りを見張るために五人の会員をパリに放った。

「知っての通り、手に入れた情報が間違っていることはまずない。人々の中には忠実な諜報員が紛れておるし、物事の中には確実な証拠があるし、ほかの誰にもわからぬ自然界の複雑な神秘の中から徴候や兆しを読み取ることが出来るからだ。一人に貴下を幻視させ、間違っていないことが確かめられた。そこで警戒を怠らず、貴下を見張っておったのだ」

 バルサモは苛立ちどころか正気を保っているらしきところすら見せなかった。

「貴下のような人間を見張るのは容易ではなかった。何処にでも現れ、結社と敵対している人間の家や当局にも足を運ぶ。生まれついての豊かな才能は、目的達成のために結社が与えた助力より遙かに大きい。リシュリュー、デュ・バリー、ロアンといった敵たちが家を訪れるのを見て、長い間疑いを抱いておった。そのうえ、先日プラトリエール街で開かれた会議では巧みな逆説に満ちた演説をして、この世から一掃しなくてはならない類の人間に愛想を使い、交際しているように見えるのは、そういう役割を演じているのだと、信じさせようとした。目的がわからぬ間は尊重し、良い結果が出るものと期待しておったのだ。だが結局はそれも失望に終わった」

 相変わらず身動きもせず狼狽えもしないバルサモを見て、裁判長は苛立ちに襲われた。

「三日前、五通の封印状が発行された。ド・サルチーヌ氏が国王に請願したものだった。署名が済むとすぐに交付され、同日、パリに住む五人の忠実な諜報員の許に届けられた。五人は逮捕され、連行された。二人はバスチーユの奥深くに、二人はヴァンセンヌの地下牢に、一人はビセートルの劣悪な物置に収監された。こうした事情は知っておるか?」

「いいや」バルサモが答えた。

「貴下が王国の権力者と知り合いであることを考えれば、それは解せぬな。しかしさらに解せぬことがある」

 バルサモは続きを待った。

「ド・サルチーヌ氏は五人を逮捕させるに当たって、五人の名前を記した覚書を目の前に持っていたそうだ。その覚書は一七六九年の最高会議で貴下に手渡されたものであり、新しい会員を受け入れ、最高会議から承認された地位を五人に授けたのは、貴下自身ではなかったか」

 バルサモは記憶にないといった仕種をした。

「では思い出させて進ぜよう。五人には五つのアラビア文字が与えられた。この文字は貴下に手渡された覚書にある五人の名前と頭文字に一致する」

「そうかい」

「覚えはあるな?」

「好きなように考えてくれ」

 裁判長は四人に対し、この告白をよく覚えておくように目顔で告げた。

「ではこの覚書が一枚しかなく、また同志たちに危険をもたらしかねないものであることは承知のうえで、六番目の名前が記されていたことは覚えているか?」

 バルサモは答えなかった。

「その名は、ド・フェニックス伯爵!」

「なるほど」

「五人の名前が封印状に記されていたにもかかわらず、貴下の名前が宮廷や官廷で敬意を払われ、大事にされ、愛しまれているのはどういったわけだ? 監獄行きが五人に相応しいなら、貴下も同じではないか。何か言うことはあるか?」

「何も」

「ふん! 言い訳の見当はつく。名も無い同志には容赦がないが、大使や権力者の名前には敬意を払うのが警察のやり方だと言いたいのであろう。それどころか警察は疑いもしなかったと言うつもりであろう」

「何も言うつもりはない」

「名誉よりも自尊心を取るつもりか。最高会議が手渡した覚書を読まなければ知りようのない五人の名前を、警察がどのように知ったというのか……貴下が小箱に仕舞っておいたはずだ。そうであるな?

「先日、女が小箱を手に家から出て来た。目撃した見張りが尾行すると、たどり着いたのはフォーブール・サン=ジェルマンにある警視総監の邸であった。すべての元凶を差し押さえることも出来た。小箱を取り返し、女を捕まえれば、すべては平穏無事に治まったことであろう。だが我々は掟に従うことにした。会員の誰かが目的のために用いている独自の手段を尊重しなくてはならぬ。見たところその手段が裏切り行為や軽率な行動に見えたとしてもだ」

 バルサモはこれに同意したように見えたが、その仕種があまりに目立たなかったので、これまでにまったく動いていなかったという事実がなければ、誰もその動きには気づかないところだった。

「この女は警視総監のところに行き、小箱を手渡し、すべてが明るみに出た。そうだな?」

「完全にその通りだ」

 裁判長が立ち上がった。

「この女は何者であったか? 貴下に身も心も熱烈に捧げ、深く愛しているこの美しい女は? 才気に優れ狡猾でしなやかな闇の天使のように、男を助け悪事を成功に導くこの女は? ロレンツァ・フェリチアーニというのがその女だ、バルサモ!」

 バルサモは落胆に満ちた吠え声を聞き流した。

「納得したか?」

「結論を聞かせてくれ」

「まだ終わってはおらぬ。女が警視総監の邸に入ってから十五分後、今度は貴下が入って行った。女が裏切りの種を蒔き、貴下が報酬を刈りに来たのだ。女は従順な召使いとして罪を犯し、貴下が汚い仕事に手際よく最後の一仕上げを加えたのだ。ロレンツァは一人で出て来た。貴下は女を切り捨て、一緒に歩くような危険を冒したくなかったのであろう。貴下が出て来た時にはデュ・バリー夫人と一緒だった。自分を売り込もうとしている証拠を、本人の口から聞かせるために呼び出されたのであろう……貴下はこの娼婦の四輪馬車に乗り込んだ。罪人マグダラのマリアと船に乗り込んだ渡し守のように。我々を破滅させる覚書をド・サルチーヌ氏のところに残しておきながら、我々だけではなく自分を破滅させかねない小箱は持ち去った。ありがたいことにすべてお見通しだ! 神の光は然るべき時に我らと共にあるのだ……」

 バルサモは何も言わずに一揖した。

「結論を言おう。裏切者が二人いるという報告が結社に届いた。共犯者である女の方は、恐らくそうとは知らずに罪を犯したのであろうが、我らの秘密を暴露して計画に支障をもたらしたのは間違いない。次は親方マスターであり大コフタである貴下だ。輝かしい光という存在でありながら、裏切りが目立たぬように女の背後に隠れるような卑劣な行為をおこなった」

 バルサモは青ざめた顔をゆっくりと上げ、尋問が開始された時から胸に温めていた炎を瞳に燃やして一同を見据えた。

「女を告発する理由は?」

「かばうつもりなのであろうが、貴下が何よりもこの女を愛していることは承知している。この女こそ科学と幸福と運命の宝庫であり、何にも増して得難い触媒なのだということも承知している」

「お見通しというわけか?」

「その通りだ。貴下を攻撃するなら本人ではなくこの女を狙う方が効果的だということもわかっている」

「続けてくれ……」

 裁判長は立ち上がった。

「判決を申し渡す。ジョゼフ・バルサモは裏切りの罪を犯した。誓いに背いた。ただしその科学的知識は豊富であり、結社にとって役に立つ。バルサモは今後、裏切りを働いた計画に尽くすために生きるものとす。本人が如何に拒もうとも、同志たちから逃れることは出来ぬのだ」

「ふん!」バルサモは陰気に吐き捨てた。

「永久に拘束しておけば新たな裏切りから組織を守ることが出来るし、いろいろと役に立つことをバルサモから手に入れることも出来るであろう。会員の一人一人にそれを手にする権利があることは言うまでもない。ロレンツァ・フェリチアーニに関しては、厳しい罰を……」

「待ってくれ」バルサモの声はいつにも増して落ち着いていた。「俺がまだ辯護を始めちゃいないことを忘れてもらっちゃ困る。被告人には自分が正しいという主張を聞いてもらう権利があるはずだ……一言だけでいい。証拠は一つだけだ。ちょっと待っていてくれたら、俺が約束していた証拠を持って来よう」

 五人が相談を始めた。

「ふん! 自殺されやしないかと心配しているのか?」バルサモが馬鹿にしたように笑った。「そうするつもりならとっくにやっていたさ。この指輪を開ければ、あんたたち五人をそっくり殺すことだって出来るんだ。それとも逃げられるのを恐れているのか? だったらついてくればいい」

「行って来い!」裁判長が答えた。

 バルサモはしばらく姿を消した。やがて階段を降りる重たげな音が聞こえて、バルサモが戻って来た。

 肩に担いでいるのは、強張り冷え切って色を失ったロレンツァの死体だった。白い手が床にだらりと垂れ下がっている。

「これが俺の愛していた女だ。俺の宝だった女、唯一無二の俺の命。あんたらが言う通り、これが裏切りを働いた女さ。受け取るがいい! あんたらが罰するまでもない、神が裁いてくれたよ」

 そして稲妻の如き勢いで腕から死体を滑り落とし、判事たちの足許の絨毯まで転がした。冷たい髪と強張った手が、恐怖におののいていた五人に触れた。ランプの明かりの下で、白鳥のように白い首の真ん中に、おぞましい傷口がぱっくりと開いているのが見えた。

「さあ、判決を聞かせてくれ」

 判事たちは怯え切って悲鳴をあげ、目も眩むような恐怖に囚われて、恐慌を来して逃げ出そうとした。やがて馬がいななき、中庭を蹄で蹴る音が聞こえて来た。門の蝶番が唸りをあげ、やがて静寂が――冷え切った静寂が、死と絶望のそばに腰を下ろしに戻って来た。

『ジョゼフ・バルサモ』 131・132

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百三十一章 血

 邸の扉が閉まるのをデュ・バリー夫人が目にするよりも早く、バルサモは隠し階段を上って毛皮の部屋に取って返した。

 伯爵夫人との会話が長びいたこともあるし、急いでいるのには二つの理由があった。

 一つにはロレンツァに会いたい気持。二つ目にはロレンツァの体力が持たないのではないかという恐れだ。何しろ与えられたばかりの新しい人生には、麻痺状態に耐えられるだけの余裕がなかった。催眠状態からトランス状態に陥ることがあると、ぐったりとしてしまうのだ。

 霊力によって身体の機能を上手く調整できなければ、トランス状態に陥ると決まって叫びをあげて苦しんでいた。

 バルサモは扉を閉め、ロレンツァが横たわっているはずの長椅子に急いで目を向けた。

 ロレンツァはいなかった。

 肩掛けに用いていた金糸で花模様が縫い取りされたカシミアのケープだけがクッションの上に残されており、持ち主が確かにこの部屋にいたし、この長椅子の上で休んでいたことを証言していた。

 バルサモは強張ったまま、空っぽの長椅子から目を離すことが出来なかった。部屋に漂っている嫌な匂いに耐えかねて出て行っただけに違いない。無意識のうちに本来の人生の習慣に従って、本能的に部屋を変えたのに違いない。

 まずは先ほどまで一緒にいた研究室に戻ったのだろうかと考えた。

 そこで研究室を訪れたが、見たところ誰もいないようだ。だが東洋のタペストリーの裏にある巨大な竈の陰になら、女一人くらい容易く隠れられる。

 バルサモはタペストリーをめくって竈を一回りした。ロレンツァがいたという形跡すら何処にも見つけられなかった。

 残るはロレンツァの寝室だ。自室に戻っているのだろう。

 あそこは昨日のような状態の時だけに用いられる牢獄だった。

 バルサモは部屋まで急いだが、羽目板は閉まっていた。

 ロレンツァが部屋に戻っていないという証拠にはならない。何故なら、催眠状態で千里眼に目覚めているロレンツァがこの仕掛けを覚えていることは否定できないし、覚えているのなら頭の中に残っている夢の欠片に従うことも否定できないからだ。

 バルサモはバネを押した。

 研究室同様、部屋は空っぽだった。ロレンツァはここに足を踏み入れてさえいないようだ。

 こうして、前々から心に巣食っていた悪い予感が、ロレンツァは幸せなのだという想像や期待を一掃してしまった。

 ロレンツァは役を演じていたのだろう。眠っているふりをして、バルサモの心に居着いていた疑念や不安や警戒を逸らしていたのだろう。自由になる機会を得るが否や、またもや逃げ出したのだ。前回前々回の教訓を踏まえ、これまで以上に確実を期して。

 バルサモはそう確信するや呼び鈴を鳴らしてフリッツを呼んだ。

 フリッツがなかなか来ないことに苛立って、バルサモの方から部屋を飛び出すと、隠し階段のところでフリッツと出くわした。

「シニョーラは?」

「どういたしました?」バルサモの慌て方を見て、何かただならぬことが起こったのだとフリッツは理解した。

「見かけたか?」

「そのようなことは」

「出ては行かなかったんだな?」

「出て行くとは何処からでしょうか?」

「この家からに決まってるじゃないか」

「ここから出たのは伯爵夫人だけです。その後で私が扉を閉めに参りましたから」

 バルサモは気違いのように部屋まで駆け戻った。目の覚めている時のロレンツァは眠っている時とは違い、子供っぽいことをすることもあった。隅に隠れておいて、バルサモがぎょっとしたのを読み取ったり、驚かせてからほっとさせて楽しんだりしていた。

 そこでバルサモはつぶさに捜し始めた。

 部屋の隅を見るのも怠らず、箪笥の中を確認するのも忘れず、衝立も移動させた。その姿は情熱のあまり理性を失った人間、もはや何も見えていない狂人、酔っ払ってふらついている人間の姿そのものだった。もはや両腕を広げて叫ぶ力しか残されていなかった。『ロレンツァ! ロレンツァ!』。そうすれば喜びの声をあげて腕の中に飛び込んで来るのではないかという望みを抱いて。

 だがその異常な思いや気違いじみた呼びかけに応じたのは、沈黙だけ。陰鬱な静寂が続いているだけだった。

 走り回り、家具を揺すり、壁に呼びかけ、ロレンツァの名を叫び、盲になった目を向け、利かなくなった耳をそばだて、火の消えた鼓動を鳴らし、考えることも出来ずに震え、そんな状態のまま三分が過ぎた。バルサモにとっては三世紀にも匹敵する苦悶の一時であった。

 半ば気が狂ったように錯乱したまま部屋を出て、冷たい水の入った容器に手を漬け、こめかみを濡らして、動こうとする手を片手で押さえ込み、脳内で脈打つ煩わしい鼓動の音を意思の力で締め出した。命に関わって休みなく脈打つその規則的な音こそ、静と動を繰り返しているうちは生をもたらしているが、不規則になったり気にし出したりすると死や狂気が待っているのだ。

「よし、冷静になろう。ロレンツァはもういない。言い逃れはすまい。ロレンツァはいないんだ。つまり出て行ったということだ。間違いない、出て行ったんだ!」

 もう一度周りに目を走らせてから、再び名前を呼んだ。

「出て行ったんだ! いくらフリッツが見ていないと言い張ろうと、出て行ったんだ。まんまと出て行っちまった。

「可能性は二つある。

「一つは実際に見なかった可能性だ。あり得ない話ではない。人間は完璧ではないからな。もう一つはロレンツァに買収された可能性だ。

「フリッツが買収されたというのか?

「ないとは言い切れん。これまで忠実だったからといって、こうした推測を否定する理由にはならん。ロレンツァや愛や科学だってここまで人を欺いたり嘘をついたり出来るのだ、脆くて意志の弱い人間という生き物が誤りを犯してもおかしくはあるまい?

「待て待て! 俺には何だって知ることが出来るじゃないか! ド・タヴェルネ嬢が残されていなかったか?

「アンドレを使えばフリッツが裏切ったかどうかわかる。ロレンツァが裏切ったかどうかわかる。今度ばかりは……愛情も偽りで、科学も誤りで、忠誠も罠だったとすれば……今回ばかりは加減も遠慮もせんぞ。慈悲を捨て去り誇りを抱いて、復讐に燃える人間として罰を与えてやる。

「そうと決まれば急いで出かけるとしよう。フリッツに気づく暇を与えてトリアノンに逃げる機会を与える必要もない」

 バルサモは床に転がっていた帽子をつかんで戸口に走った。

 が、慌てて立ち止まった。

「そうだ、その前に……あの老人のことをすっかり忘れていた! まずはアルトタスの様子を確認しておかなくては。狂気に駆られて異常な愛に囚われている間中、ずっとほったらかしだったからな。俺も恩知らずで薄情な男だよ」

 バルサモは興奮に駆られてかっかしながら、バネに近づいて天井の仕掛けを動かした。

 やがて昇降台がするすると降りて来た。

 バルサモはその上に飛び乗り、錘を作動させて上昇させたが、その間も頭はすっかり混乱しており、ロレンツァのことしか考えられなかった。

 アルトタスの部屋まで来ると、老人の声が耳を打ち、悲痛な夢から引きずり出された。

 ところが驚いたことに、アルトタスの第一声は覚悟していたのとは違い罵倒ではなかった。飾り気のない無邪気な歓声で迎えられたのだ。

 バルサモは訝しげに師匠を見つめた。

 アルトタスは車椅子に反っくり返っていた。嬉しそうに大きく息を吸い込んでいる。息をするたびに生の喜びを吸い込んでいるかのようだった。目には暗い炎が満ちていたが、口元に浮かんでいる嬉しそうな微笑みによって表情は和らげられており、そんな目つきをバルサモにじっと注いでいた。

 バルサモは動揺を見せるまいと意識を集中させた。人間の弱さには厳しい人なのだ。

 集中している間も、バルサモの胸に奇妙な重みがのしかかっていた。恐らく呼吸のたびに空気が汚されているせいだ。重く濁った生暖かい匂いに吐き気がする。その匂いは階下にいる時から匂っていたが、かすかに漂っているだけだった。秋になると日の出や日の入りに湖沼から立ちのぼる沼気にも似ており、粒となって窓ガラスを曇らせていた。

 そうした酸っぱい空気が澱んでいるせいで、バルサモの心はくじけ、頭がぼうっとして眩暈を感じた。酸素と力がいっぺんに足りなくなるのがわかった。

「先生」バルサモは手を着ける場所を探し、大きく息を吸い込もうと努めた。「先生はこんなところで暮らしていられるのですか。息も出来ないじゃありませんか」

「そうか?」

「先生!」

「じゃが儂はたっぷり息を吸っておるぞ!」アルトタスは嬉々として答えた。「それでも生きておる」

「先生、先生」バルサモの頭がだんだんとくらくらとして来た。「くれぐれも用心して下さらなければ。窓を開けさせてもらいますよ。床から血が立ち上って来るようです」

「血か! 気づいたか!……血か!」アルトタスがからからと笑い出した。

「そうですよ! 殺されたばかりの死体から漂って来るような匂いがします! それが脳と心にずっしりとのしかかって来て耐えられそうにありません」

「そうじゃろう、そうじゃろう」老人は皮肉な笑みを浮かべた。「儂はとうに気づいておったぞ。そちの心が繊細で、脳があまりにも脆弱だということにな、アシャラ」

「先生」バルサモは真っ直ぐ老人に歩み寄った。「先生の手にも血がついてます。この卓子にも血がついてます。先生の目の中までも、炎のような血にまみれています。先生、ここに充満している匂いは――眩暈がするような匂いは――息が詰まりそうな匂いは――血の匂いですね」。

「ほう、そうか?」アルトタスは動じなかった。「血の匂いを嗅いだのは初めてか?」

「そんなことはありません」

「儂の実験を見たことはなかったか? そちも実験したことはなかったか?」

「だがこれは人間の血だ!」バルサモは汗に濡れた額を押さえた。

「そいつはたいした嗅覚だな。しかし人間の血と動物の血を嗅ぎ分けることが出来るとは思えんがな」

「人間の血です!」バルサモが呟いた。

 ふらつく身体を支えようとして、バルサモは家具の出っ張りにつかまろうとした。そこで銅製のたらいに気づいてぎょっとした。その内側が真新しい血で漆のように真っ赤に輝いていたのだ。

 たらいは半分ほど満たされていた。

 バルサモは驚いて後じさった。

「血だ! この血はどうやって?」

 アルトタスは無言だった。だがその目はバルサモの動揺や混乱や恐怖を見逃してはいなかった。突然バルサモが恐ろしい声で吠えた。

 獲物に襲いかかるような勢いで部屋の一隅に駆け寄り、床から絹紐を拾い上げた。金の刺繍のあるそのリボンからは、長い黒髪の房が垂れていた。

 身を切るような痛ましい悲鳴がやむと、死んだような沈黙が部屋を支配した。

 バルサモは震える手でゆっくりとリボンを持ち上げ、その黒髪をよく確かめた。一端は金の髪留めでリボンの端に留められ、反対端は綺麗に切り揃えられている。赤く泡立った滴が髪の先からしたたっているところを見ると、どうやら先端が血に染まった前髪のようだ。

 バルサモが手を上げるに従い、手の震えが大きくなった。

 汚れたリボンに目を引き寄せられるにつれて、鉛色の顔色がさらに青ざめた。

「これがどうしてここに?」呟きの言葉は耳に届くほど大きかったため、アルトタスに問いかける形になっていた。

「それか?」

「ええ、これです」

「これは、髪を束ねる絹のリボンじゃな」

「そうではなくこの髪です。濡れていますがこれは何なんです?」

「見ての通り、血じゃな」

「何の血ですか?」

「たわけたことを! 霊薬に必要な血じゃよ。そちが拒んだ血、儂に必要な血じゃ。そちに断られたから自分で手に入れたまでよ」

「ですがこの髪は――この編み込みは――このリボンが、どうしてここに? どう見ても子供のものではありません」

「子供の喉を掻き切ったとは言っておらんぞ」アルトタスはしれっとして答えた。

「しかし、霊薬には子供の血が必要だったのではありませんか? そう仰ったではありませんか」

「または生娘の血じゃよ、アシャラ」

 アルトタスは骨張った手を肘掛けに伸ばしてフラスコをつかみ上げ、その中身を嬉しそうに眺め回した。

 それから穏やかで優しい声を出した。

「助かったぞ、アシャラ。この部屋の真下のすぐ手の届くところにあの女を住まわせておくとは、なかなか賢く先見の明のあるやり方じゃったぞ。これで人類は苦しまずに済み、この世を司る理とて何も手に出来ん。血が手に入らず死にかけておったというのに、生娘を調達したのはそちではなかったな。儂がこの手でつかみ取ったのだ。はは! 済まんな、礼を言うぞ、アシャラ」

 そう言って再びフラスコに口唇を近づけた。

 バルサモの手から髪の房が落ちた。目の前が真っ白になっていた。

 正面にはアルトタスの作業台がある。いつもならこの大理石の作業台は、植物や本やフラスコでごちゃごちゃしていた。それが今は薄気味悪い花柄の白緞子のシーツで覆われており、ランプから放たれた赤みを帯びた光の先には忌まわしい輪郭が浮かんでいたが、バルサモはまだそれには気づいていなかった。

 バルサモはシーツの一端をつかんで乱暴にめくった。

 途端に髪の毛は逆立ち、開いた口からは喉の奥から絞り出されるような恐ろしい悲鳴がほとばしった。

 シーツの下から現れたのはロレンツァの死体だった。ロレンツァは大理石に横たえられ、顔は土気色だというのに今も微笑みをたたえ、長い髪の重さで引っ張られたように顔を仰け反らせていた。

 鎖骨の下に開いた大きな傷口からは、もはや血の一滴も流れてはいない。

 両手は強張り、目は薄紫色の瞼の下で閉じられていた。

「さよう、生娘の血じゃよ。生娘の動脈血の最後の三滴、それが儂には必要じゃった」アルトタスはまたもやフラスコを眺め回した。

「人でなしめ!」絶望の叫びが毛穴の一つ一つから洩れ出しているようだった。「死んでしまえばいい。ロレンツァは数日前から俺の恋人だった、俺の妻、俺の女だったんだ! 殺しても何の意味もない……ロレンツァはもう生娘じゃなかったんだからな!」

 この言葉を聞いてアルトタスの目が揺らいだ。眼窩の中で電気にはじかれたように、びくりと。瞳孔が恐ろしいほどに開いた。抜けた歯の代わりに歯茎を軋らせる音が聞こえた。手からフラスコが擦り抜け、床に落ちて粉々に割れた。アルトタスは心と頭を同時に打たれたように、腑抜けたように呆然として、ゆっくりと椅子に倒れ込んだ。

 バルサモはロレンツァの遺体に泣きながらすがりつき、血塗れの髪に口づけすると意識を失った。

 
 

第百三十二章 人と神

 時間というのは手を繋いだ姉妹のようなものだ。不幸な人間のところには遅々として留まり、幸福な人間のところは矢のように通り過ぎる。時間は今、溜息とすすり泣きに満ちた部屋の上で、重い翼を畳んで静かに羽根を休めていた。

 一方には死。一方には断末魔。

 間には、断末魔にも等しい苦しみと死ぬほどの重みを持つ絶望。

 喉から叫びを絞り出してしまうと、バルサモの口からはもはや何の言葉も出て来なかった。

 衝撃的な事実を暴露して、残忍な喜びに浸っていたアルトタスを打ちのめして以来、バルサモは微動だにしていなかった。

 そのアルトタスはと言うと。神が人間に用意した普通の人生に荒々しく投げ返されて、未知の環境に沈んでいる様子は、鉛弾を撃たれて雲間から湖に落ちた鳥が、もがけばもがくほど翼を傷めることを知りもしないで湖面でもがいている姿を思わせた。

 鉛色に染まった行き場のない惚けた表情が、その絶望のただならぬ大きさを表していた。

 アルトタスはもはや考えることすらやめていた。目的に向かって順調に進んみ、岩のようにしっかりとしていると信じていた確信が、ついさっき煙のように掻き消えてしまったのだ。

 絶望に打ち沈み物も言わず、意識は既に朦朧としていた。絶望に縁のなかった精神にとって、物を言わぬこととは即ち何かを考えている印だったのだろう。さらに、絶望を垣間見たことすらないバルサモに至っては、これは力と理性と命の断末魔に等しかった。

 アルトタスは割れたフラスコから目を離さなかった。それは無惨にも砕けた希望そのものだった。粉々に割れて散らばった破片を数えているように見える。それだけの日々が人生から失われてしまったのだ。床にこぼれた貴重な――不死の基だと束の間だけ信じていた液体を、目で吸い上げようとしているように見えた。

 時折り、落胆の苦しみが大きくなると、老人は火の消えた瞳を上げてバルサモを見つめた。それからロレンツァの死体に目を向けた。

 その姿はまるで脚を罠に挟まれているのを朝になって猟師に見つかった野獣のようだった。首を巡らせもせずじっと脚の痛みに耐え、狩猟用の刀剣や銃剣を突き刺されようものなら、憎しみと復讐と非難と驚きの詰まった真っ赤な目を上げて横目で睨みつける獣のようだった。

「あり得ぬ」虚ろではあったが目にはまだ力があった。「これほどの不幸、これほどの手違いが儂に降りかかることなど信じられるか? 死んだこの女のようなくだらんもんの足許に、目の前でひざまずいているそちのようなちんけな存在のせいで、こんなことになるとはの。自然や科学や道理がひっくり返りおったわ。下司な弟子の分際で尊い師匠をもてあそびおって。たった一粒の塵のせいで、全速力で何処までも飛ぶように走っている戦車が止まってしまうとは、とんでもないことではないか?」

 バルサモはぼろぼろに打ちひしがれ、声もなく身動きもせず、生きている形跡すら見えず、脳の中に広がっていた血塗れの靄の向こうからは、人間らしい感情が何一つ現れては来なかった。

 ロレンツァ、愛しいロレンツァ! ロレンツァ、妻であり、偶像であり、天使であり恋人である大切な女性、ロレンツァ、喜びと栄光、現在と未来、力と信仰。ロレンツァ、バルサモがすべての愛を捧げ、すべての欲望を捧げ、何を措いてもそばに置いておきたかった存在。ロレンツァが永遠に失われてしまった!

 泣きもせず、叫びもせず、溜息すらついていなかった。

 驚く間もなく、恐ろしい災難に襲いかかられたのだ。寝ている間に洪水に襲われ、闇の中に流されたようなものだ。水に沈んだ夢を見て目を開ければ、頭上には波がうねっており、もはや叫び声すらあげることも出来ずに、黙って死を待つしかない。

 バルサモは三時間にわたって死の底に飲み込まれていた。無限の苦しみに沈んだまま、自分に起こったことは死者たちが見る不吉な夢のようなものだと、永遠の闇や墓地の静寂に包まれた死者たちの夢のようなものだとしか思えなかった。

 もはやアルトタスも、憎しみも復讐もなかった。

 もはやロレンツァも、生も愛もなかった。

 ただ眠り、夜、無があるだけだった!

 こうして時間は音もなくしめやかに絶え間なく部屋の中を流れていった。そうして原子に請われるように生命の素を受け渡してしまうと、血はすっかり冷え切っていた。

 突如、夜の静寂を破って、呼び鈴が三度鳴った。

 バルサモの居場所を知ったフリッツが、アルトタスの部屋の呼び鈴を鳴らしたのだろう。

 だが荒々しい音は三度とも無為に響くだけで、鈴の音は空中に散った。

 バルサモは顔を上げようともしなかった。

 数分後、再び呼び鈴が鳴らされたが、一度目と変わらずバルサモを夢想から引き剥がすことは出来なかった。

 やがて計ったように、それほど間を置かずに、三たび呼び鈴が鳴り響いた。割れるような音が催促するように部屋を揺るがせた。

 バルサモは慌てもせずゆっくりと顔を上げ、墓から抜け出した死者のように無表情なまま、目を彷徨わせた。

 三度にわたってキリストに呼びかけられたラザロは、きっとこんな目をしていたのだろう。

 呼び鈴がやむ気配はなかった。

 音はますます大きくなり、ついにバルサモの理性を目覚めさせた。

 バルサモは遺体の手から手を離した。

 身体の熱はロレンツァに伝わることなく、すっかりバルサモから奪われていた。

「重大な報せか重大な危機だな」バルサモは呟いた。「恐らくは重大な危機の方か!」

 バルサモはすっかり立ち上がっていた。

「とはいえ、応える必要などあるのか?」その声が薄暗い穹窿の下、死の漂う部屋の中に陰鬱に響いたが、それには気づかず独白を続けた。「これからはもう何かを気にしたり恐れたりする必要があるのか?」

 急かすようにまたもや呼び鈴が鳴り、青銅の内側を鈴の舌がけたたましく打ちつけたため、鈴の舌が外れてガラスの蒸留器の上に落ち、ガラスが乾いた音を立てて砕け散り、粉々になって床の上に散らばった。

 バルサモはもはや抗わなかった。大事なのは誰も――フリッツでさえバルサモのいるところまでは追っては来ないということだ。

 バルサモは落ち着いた足取りで歩き、バネを押して揚戸に上った。揚戸はゆっくりと降り、毛皮の部屋の真ん中に停まった。

 長椅子のそばを通った時、ロレンツァの肩から落ちたケープにぶつかった。死のように無慈悲な老人が二本の腕でロレンツァを攫った時に落ちたものだ。

 本人に触れた時よりも一層の生々しさを感じて、バルサモは刺すような震えに襲われた。

 バルサモはケープを手に取り、叫びを押し殺すように口づけした。

 それから階段に通じる戸口に向かった。

 一番上の段にはフリッツがいた。青ざめて息を切らし、片手に明かりを、片手に呼び鈴の紐を握って、怯えたように何度も何度も紐を引っ張り続けてバルサモが出て来るのを待っていた。

 バルサモの姿を見て安堵の叫びをあげたが、それはすぐに不安と恐怖の叫びに変わった。

 だがバルサモは叫びを無視し、無言で問いかけただけであった。

 フリッツは何も言わずに、いつものように恭しく主人の手を取り、ヴェネツィア製の大鏡の前まで案内した。鏡はロレンツァの部屋に通じる暖炉の上に飾られていた。

「ご覧下さい、閣下」フリッツは鏡に映る姿を指さした。

 バルサモがびくりと身を震わせた。

 それから微笑みを――永遠に治まることのない無限の苦しみの果てに生み出された死んだような微笑みを、口唇に浮かべた。

 フリッツが怯えるのももっともだ。

 バルサモは一時間で二十歳も年老いていた。目の輝きも消え、肌の血色も衰え、顔からは機知も知性も失われ、口唇には血の混じった泡が浮かび、白いシャツには大きな血の染みがついている。

 バルサモは鏡を見たが、それが自分だとは思えなかった。やがて鏡に映る見知らぬ人物の目をじっと覗き込んだ。

「そうだな、フリッツ、お前の言う通りだ」

 それから、忠実なフリッツが不安そうにしているのに気づいてたずねた。

「ところで何の用だ?」

「そうでした! あの方たちです」

「あの方たち?」

「はい」

「あの方たちとは誰のことだ?」

「閣下」フリッツはバルサモの耳元に口を寄せて囁いた。「五人の親方マスターの方たちです」

 バルサモが身震いした。

「全員か?」

「全員です」

「今いるんだな?」

「いらっしゃいます」

「五人だけか?」

「いいえ、武装した召使いを一人ずつ庭に待たせております」

「五人は一緒だったのか?」

「一緒にいらっしゃいました。かなりお腹立ちのようでしたから、あれほど強く何度も呼び鈴を鳴らした次第でございます」

 バルサモは血の染みをレースの胸飾りの襞で隠そうともせず、乱れた身なりを整えようともせず、来客たちが応接室にいるのか小部屋にいるのかをフリッツに確認してから、足を動かし階段を降り始めた。

「応接室でございます、閣下」とフリッツは答えてバルサモの後を追った。

 そして階段を降りたところでバルサモを呼び止めた。

「閣下、何かご指示はございますか?」

「何もないよ、フリッツ」

「ですが閣下……」フリッツが口ごもった。

「何だ?」バルサモが怖いほど落ち着いてたずねた。

「武器も持たずにお会いするつもりですか?」

「ああ、武器は持たない」

「剣も?」

「どうして剣が必要なんだ、フリッツ?」

「どうしてと言われましても」フリッツは目を伏せた。「思いますには、私としては、不安が……」

「わかった、退っていいぞ、フリッツ」

 フリッツは言われた通りに進んでから戻って来た。

「聞こえなかったのか?」

「閣下、一言申し上げておきますと、二連式の拳銃は金の円卓にございます黒檀の箱に入っております」

「いいからもう行くんだ」

 バルサモはそう言い捨てて応接室に入って行った。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
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