翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』37-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 公爵夫人は不意に黙り込んだ。またも国王と目が合ったのだ。

「ところで、誰の話だったのかな、公爵夫人?」リシュリュー元帥は、どうやら問題の人物が誰なのか探ろうとしているようだ。

「名前は聞いてませんわ」

「それは残念だ」

「でも見当はついてます。閣下もお考え遊ばせ」

「代母を頼まれたご婦人連が、そのかみのフランス貴族のように勇敢で道義に厚い方々でしたなら、足を折るという気高い発想を思いついたその田舎婦人のところに駆けつけているところですのに」ゲメネー夫人が苦い顔をした。

「なるほど、その通りですな。しかしそのご婦人は我々を危険から救ってくれたのだ、是非とも名前を突き止めなくては。何しろ、もはや恐れるものなどないのだから。違いますか、公爵夫人?」

「ええ、何一つ。その代母候補も足に包帯を巻かれて、一歩も動けずベッドで休んでいますから」

「でもね、ほかの代母を見つけようとしたら?……諦めるような人じゃないでしょう」ゲメネー夫人がたずねた。

「大丈夫。見つかりっこありませんから、代母なんて」

「したり! まあそうでしょうな」リシュリュー元帥はちびちびと飴をかじっていた。人が言うには、この飴こそが若さの秘密であるらしい。

 この時、国王が近づいて来たため、皆が口を閉じた。

 やがてよく知られた国王の声が、はっきりと部屋に響き渡った。

「では失礼、メダム。ご機嫌よう、メッシュー」

 一同はすぐに立ち上がり、それが大きな波となった。

 王は戸口に向かったが、扉から出しなに振り返った。

「ところで、明日はヴェルサイユで認証式がある」

 この言葉に、誰もが雷に打たれたようだった。

 国王が目を遣ると、貴婦人方は青ざめた顔を見合わせていた。

 やがて国王はそれ以上は何も言わずに立ち去った。

 国王がお供の侍従を引き連れて敷居を跨ぐや、後に残った王女たちは大騒ぎになった。

「認証式ですって!」グラモン公妃が土気色になって口ごもった。「陛下は何を仰りたかったんでしょう?」

 リシュリュー元帥が、親しい仲でも許されないような笑いを浮かべた。「認証式というと、もしやあなたの認証式では?」

「そんな! あり得ません!」グラモン夫人は気が抜けたように答えた。

「するとどうやら今日は足が治ったようだ」

 ショワズールが妹に近づき、腕を小突いて注意を引こうとしたが、あまりに大きな打撃を受けた公妃には何も聞こえてはいなかった。

「ああ憎たらしい!」

「ええ、憎たらしい人ね!」ゲメネー夫人も同意した。

 すべきことは何もないと見て、ショワズールは立ち去った。

「ああマダム!」グラモン公妃が三王女に泣きついた。「もうほかに頼れる人はいません。マダムのように高貴な方々が、禁中奥深くにいながら、小間使いにも関わらせたくない身分の人間と交わるのを余儀なくされることに耐えられますか?」

 だが王女たちは答える代わりに顔を伏せた。

「どうかお願いいたします!」

「決めるのは王様ですから」とマダム・アデライードが溜息をついた。

「その通り」リシュリュー公爵も言った。

「でもそれではフランス宮廷中が不面目に晒されることになります! ご家族の名誉が心配ではないのでしょうか!」

「皆さん」ショワズールが口を挟んだ。「話が陰謀めいて来たので、サルチーヌ氏と共にここらで失礼させていただきます。あなたはどうなさいます、公爵?」とリシュリュー元帥に話しかけた。

「いや、結構! 陰謀には目がないのでな、ここに残るとしよう」

 ショワズールはサルチーヌを従えて席を外した。

 三王女の許には、グラモン夫人、ゲメネー夫人、デヤン夫人、ミルポワ夫人、ポラストロン夫人、ほか十人ほどの婦人だけが残り、認証式についてかまびすしい議論を始めた。

 残された男はリシュリューのみ。

 婦人たちはギリシア軍の中にトロヤ人を見つけたような不安そうな目つきでリシュリューを見つめていた。

「わしのことは娘のデグモン夫人の代わりだと思っていただこう。さあ続けて」

「皆さん」とグラモン夫人が始めた。「こうした恥ずべき行いを防ぐ手だてが一つあるので、それを実行しようと考えております」

「どんな手だてです?」婦人たちが一斉にたずねた。

「先ほど『決めるのは王様です』と仰いましたね」

「そしてわしは『その通り』と答えた」

「確かに、ここで何かを決めるのは王様です。でも私たちの家でなら、決めるのは私たちです。今晩御者に『ヴェルサイユに』と言わずに『シャントルーに』と告げるのを、誰にも邪魔は出来ないでしょう?」

「それは確かだが、そんな抵抗してどうなると?」リシュリューがたずねた。

「皆さんよく考えたうえで、あなたに倣おうとなさるでしょうね、公爵夫人」とゲメネー夫人。

「公爵夫人を倣わない理由などありませんし」ミルポワ元帥夫人。

「ああ、どうか!」公爵夫人が再び王女たちに泣きついた。「フランス王女自ら宮廷にお手本をお示し下さい!」

「王様は立腹なさるわ」マダム・ソフィーが指摘した。

「そんなことはありません!」グラモン公妃は憎々しげに答えた。「それどころか、素晴らしい考え、またとない才覚だと感謝なさるでしょう。王様は誰にも乱暴はなさいません」

「それどころか」リシュリュー公爵がまたもやグラモン夫人の押しかけを当てこすった。「夜中に寝室で乱暴され、奪われたのは王様の方だったとか」

 この言葉の威力たるや、貴婦人たちの中に、爆弾が破裂したような動揺をもたらした。

 ようやく落ち着きが戻ると、その場の昂奮に後押しされるようにして、マダム・ヴィクトワールが口を開いた。

「私たちが伯爵夫人を追い返した時に、王様が何も仰らなかったことは間違いありません。でも公式の場の話となると……」

「ええそうだと思います」グラモン夫人は言いつのった。「欠席したのがマダムたちだけでしたら、恐らくそうでしょう。でも私たち全員が参加しなかったとしたら」

「全員ですって!」婦人たちが声をあげた。

「間違いなく全員だ」老元帥が答えた。

「ではあなたも陰謀に参加なさるの?」マダム・アデライードがたずねた。

「仰る通りです。である以上は一言申し上げたい」

「お話し下さい、公爵」グラモン夫人が言った。

「順番に始めましょう。『全員で!』と叫ぶだけがすべてではない。『こうしよう!』と言った人間が、いざとなると正反対のことをしたりするものです。今し方申し上げたようにわしも陰謀に加担する以上は、切り捨てられたくはありませんからな。前王や摂政時代には謀のたびにそうされたものでしたが」

 グラモン公妃が皮肉った。「まさか何処にいるのかお忘れじゃありませんよね? アマゾンの国で大将を気取ってらっしゃるんですから!」

「お叱りを受けてしまいましたが、失礼ながらその地位を得る権利はあるものと思っております。あなたの方がデュ・バリー夫人を――いや、つい名前を言ってしまったが、聞こえなかったでしょうな? あなたの方がわしよりデュ・バリー夫人を嫌っているというのに、わしの方があなたより際どい立場にいるのですから」

「際どい立場ですか?」ミルポワ元帥夫人がたずねた。

「さよう、非常に際どい。わしは八日間ヴェルサイユを訪れておりません。昨日は伯爵夫人からアノーヴル邸に、具合が悪いのかと使いがあり、ラフテには、身体は悪くないが前日から戻っていないのだと答えさせてしまいました。だが権利など放棄しましょう、だいそれた望みもありません、大将の地位はお譲りしますよ、何ならここで。我々の心を動かした火付け役だ、あなたなら指揮杖で心に革命を起こせるでしょう」

「マダムたちがいらっしゃいますわ」公爵夫人は謙虚に答えた。

「あら、私たちは脇役で結構」マダム・アデライードが言った。「ルイーズに会いにサン=ドニに行くことにします。引き留められて戻っては来られないでしょうから、何か言う必要はありません」

「それで文句をつけるのは、よほどの根性悪でしょう」リシュリュー公爵が評した。

「私はシャントルーで干し草の用意を」とグラモン公妃。

「結構! 立派な口実です!」リシュリュー公が言った。

「子供が病気なので、世話をするため部屋から出られません」ゲメネー夫人はそう言った。

「今夜は頭がぼうっとしているので、明日トロンシャンに瀉血してもらわなくてはならないかもしれません」これはポラストロン夫人だ。

「私がヴェルサイユに行かないのは、行かないから行かないんです。自由意思が理由ですよ!」ミルポワ元帥夫人は厳かにそう言った。

「結構、結構。どれももっともらしいではありませんか。しかし誓う必要がある」

「誓うですって?」

「さよう、共謀には誓いがつきものです。カティリナの陰謀以来セラマレの陰謀――これにはわしも関わっておりましたが――そのセラマレの陰謀に至るまで、誓いが欠かされたことはありません。どちらの陰謀も失敗に終わってしまいましたが、しきたりに敬意を表して、誓いを立てましょう! 重大なことですぞ」

 婦人たちに向かって手を突き出し、厳かに誓った。

「誓います」

 婦人たちも誓いを繰り返したが、王女マダム王女たちだけはそっと立ち去った。

「さあお終いです。共謀の誓いを立てたからには、もうやることはない」

「ふふ! 広間に一人きりだとわかったら真っ赤になって怒るでしょうね!」グラモン夫人が言った。

「ふむ! 国王はわしらをしばらく追放するでしょうな」

「あら! 私たちが追放されたら、宮廷はどうなります……? デンマーク王陛下がいらっしゃったら、いったい何をご覧に入れるつもり? 王太子妃殿下がいらっしゃったら、いったい誰に紹介なさるというのかしら?」ゲメネー夫人が言い返した。

「宮廷中を追放する訳にはいかないんですから、誰かが貧乏くじを引くことになるのでしょうね」

「よくわかっておりますとも」リシュリューが答えた。「いつもいつも貧乏くじを引く幸運に恵まれて来ましたからな。もう四度も引いて来た。これが五回目の陰謀という訳です」

「そんなことは考えないで下さいまし」グラモン夫人が言った。「見捨てられるのは私ですから」

「或いはショワズール殿ですかな。お気をつけなさい!」

「ショワズールも私と一緒。失脚には耐えられても、侮辱には耐えられません」

「公爵も、公爵夫人も、ショワズール氏も、追放されたりはなさいませんわ」ミルポワ元帥夫人が言った。「あるとすれば私でしょう。伯爵夫人のことを侯爵夫人よりすげなく扱えば、陛下はお許しにならないでしょうから】」

「相違ない。寵姫ファヴォリットお気に入りファヴォリットと呼ばれたあなただ。残念だが元帥夫人! 揃って追放されようではありませんか!」

「追放される時はみんな一緒です」ゲメネー夫人が立ち上がった。「既に決まった取り決めを覆すようなことはありません」

「誓った約束を、ですぞ」

「それに、万が一の備えもしてありますから!」グラモン夫人が言った。

「あなたが?」とリシュリュー公爵。

「ええ。明日の十時にヴェルサイユにいるためには、三つのものが必要です」

「というと?」

「美容師、ドレス、四輪馬車」

「なるほど」

「どうでしょう?」

「なるほど! 伯爵夫人が十時にヴェルサイユにいなければ、国王は苛立って客を帰してしまう。王太子妃の到着も近いことから、認証式は無期延期になる」

 この新たな展開に拍手喝采が起こった。だがひときわ大きな拍手喝采を送りながら、リシュリュー氏とミルポワ夫人が目を交わしていた。

 二人の古参宮廷人の頭の中に、同じ考えが生じていたのだ。

 十一時、共謀者たちは、見事な月に照らされたヴェルサイユとサン=ジェルマンの路上に姿を消した。

 ところがリシュリューだけは馬丁の馬に乗っていた。四輪馬車がヴェルサイユの路上をこれ見よがしに走っている間、近道を通って全速力でパリに向かっていた。

『ジョゼフ・バルサモ』36-1 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十六章 リシュリュー元帥の第五の陰謀

 国王はいつも通りマルリーを管理(?)しに戻った。

 ルイ十四世は取り巻きに囲まれていても力を誇示する機会を求めていたが、十四世ほど作法には縛られないルイ十五世は、その輪の中で新しいものを貪欲に求めていた。なかんずく様々な顔を見ることに、それも笑っている顔を見ることに、このうえない気晴らしを見出していた。

 先ほどお話しした会見と同じ晩、ベアルン夫人が今回は約束を守りデュ・バリー夫人の部屋に腰を下ろしていた二時間後、国王は青の間でカードをしていた。

 左には d'Ayen 公爵夫人、右にはゲメネー公妃がいる。

 国王は見るからに落ち着かなかった。そのせいで八百ルイ負け、負けたおかげで身を入れだした。ルイ十五世はアンリ四世の後裔に相応しく、勝利をこよなく愛していた。九時になると席を立って前大法官の息子マルゼルブ(Malesherbes)と窓辺で話しに行くと、モープーが反対側の窓辺でショワズールと話しながら不安そうに二人を目で追っていた。

 国王がいなくなると暖炉の側に輪(人だかり)が出来ていた。庭の散歩から戻って来たマダムたちアデライード、ソフィー、ヴィクトワールが、侍女と侍従を付き従えてそこに腰を下ろした。

 国王の周りには――マルゼルブが謹厳なことは知られていたから、大事な話の最中なのだろうと見え――国王の周りには陸海軍の長、大貴族、領主、判事たちが集まっていたが、礼儀をわきまえて遠巻きに待機していた。暖炉前で独り立ちしていた小宮廷では、前哨戦とも言うべき小競り合いを端緒にして、かなりかまびすしいおしゃべりが始まっていた。

 主立った顔ぶれは、三王女のほかに、グラモン夫人、ゲネメー夫人、ショワズール夫人、ミルポワ夫人、ポラストロン夫人。

 折りしも司教が教区の贖罪師をやめさせたという話を、マダム・アデライードがしていたところだった。話の内容をここでは繰り返さない。あまりに、それも王女の話として下品に過ぎる。だがこうして書き綴ろうとしている時代には、まだ女神ウェスタ【ギリシア神話の家庭の神・処女神】の加護の元になかったことは、周知の通りである。

「まあ!」マダム・ヴィクトワールが口を開いた。「でもその司教って、ほんの一月前にここに坐ってた方じゃありませんか」

「陛下のところで会っていたなら、さらにひどいことになっていましたでしょう」グラモン夫人が言った。「そんな人たちが陛下に謁見していたら、これまで会ったこともないくせに、それからも会いたがっていたんじゃないかしら」

 公爵夫人の最初の一言から、とりわけその口調から、夫人が話したがっていること、どんな話題であれ会話の主導権を得ようとしていることをその場の誰もが感じ取った。

「ありがたいことに、言うは易し行うは難しではありませんかな、公爵夫人?」会話に加わったのは、小柄な老人だった。七十四歳だったがまだ五十にしか見えず、身体つきは颯爽として声も若々しく、足も目もしっかりとして、肌は白く手は小ぎれいだった。

「あら、リシュリュー公爵さま。マオンの戦場のように梯子を使って、会話に乗り込んでらっしゃるおつもり? どうせ私たちはたかが擲弾兵というわけね」グラモン公夫人が言った。

「たかが? ああ、それは言い過ぎだ、わしを困らせんでくれ」

「それで、私が言ったのは嘘だと仰いますか?」

「いつの話かね?」

「さっきの話です」

「して、何と仰っただろうか?」

「国王の扉を力ずくで開こうとしてはなりません……」

「寝室の緞帳を力ずくで開こうとしてはならないように。そのご意見にはいつでも賛成いたしますぞ」

 この言葉を聞いて何人かのご婦人が扇で口元を隠した。過去には公爵の機知も衰えたりと陰口を叩く者たちもいたが、これはいい出来だった。

 グラモン公爵夫人は真っ赤になった。その皮肉は特に夫人に向けられたものだったのだ。

「皆さん、公爵にこんなことを仰られては、お話を続けることも出来ません。もう続きは聞けないんですから、せめて別のお話をしてくれるよう元帥にせがんで下さいな」

「確か、わしの友人の悪口を邪魔してしまったんでしたな? ではじっくり拝聴するとしよう」

 公爵夫人を中心にした人垣がぎゅっと小さくなった。

 グラモン夫人は窓の方に目を遣り、王がまだそこにいるか確かめようとした。国王はまだそこにいた。だがマルゼルブと話しながらも、国王はこちらを見ていた。国王の目とグラモン夫人の目がぶつかった。

 国王の目に浮かんだように見えた表情に怯んだものの、公爵夫人はもう歩き出しており、途中で止まるつもりはなかった。

 グラモン夫人は、主に三王女に向かって話し始めた。「この間あるご婦人が――名前はどうでもいいですけど――私たちに面会を求めて来たことがありましたでしょう? 羨む気持すら失うような栄光に彩られている、主に選ばれし私たちに」

「面会を求めるとは、何処に?」

「もちろんヴェルサイユ、マルリー、フォンテーヌブローです」

「わかった、わかった、わかった」

「その女は晩餐でしか私たちを見たことがありませんでした。それも柵の後ろで陛下と来賓の食事を見物する人たちに混じってです。もちろん、守衛の杖に追われながら」

 リシュリューが突然セーヴル製の箱から煙草を取り出した。

「無論、ヴェルサイユ、マルリー、フォンテーヌブローに面会に来るためには、誰かの紹介が必要だ」

「そうなんです。そのご婦人はそれを頼みに来たんです」

「お許しは出たのだろうね、国王は優しい方だ」

「生憎、国王のお許しだけではなく、人に紹介してくれる人間が必要ですから」

「ええ、そう」ゲメネー夫人も続けた。「例えば代母のような人が」

「でも誰も代母にはなりません」ミルポワ夫人も続いた。「ベル・ブルボネーズがいい証拠。探したって見つかりません」

 そう言って口ずさみ始めた。

 ラ・ベル・ブルボネーズは
 気分があまりすぐれません。

「ああ、元帥夫人、どうか公爵夫人に話の続きをさせて下さい」リシュリュー公が言った。

「そうよ、そうよ」マダム・ヴィクトワール。「気を引いておいて、ほったらかしなんて」

「とんでもない。最後までお話しさせていただくわ。代母がいないので探したそうです。福音書にも『求めよ、さらば与えられん』とありますし。探したら見つかったんです。どんな代母のことやら! 無邪気な田舎のお人好しを鳩小屋から引っぱり出して、仕込んで、なだめすかして、着飾らせたってお話です」

「ぞっとするお話じゃございません?」とゲメネー夫人が言った。

「でも仕込まれた途端に、きっと階段から真っ逆さま」

「というと……?」リシュリューがたずねた。

 足がぽっきり。
 ああ!ああ!ああ!

 公爵夫人はミルポワ元帥夫人の歌に合わせて口ずさんだ。

「では代母の件は……?」とゲメネー夫人がたずねた。

「影もなし」

「これが神の摂理なのか!」リシュリュー元帥が両手を掲げて天を仰いだ。

「失礼ですけど」マダム・ヴィクトワールが口を挟んだ。「わたくしはその田舎っぺに同情いたしますわ」

「むしろ祝福して差し上げるべきですよ。二つの不幸のうち、被害の少ない方を選んだんですから」公爵夫人が答えた。

『ジョゼフ・バルサモ』35-2 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「ご迷惑をかけに来たんじゃないの」デュ・バリー夫人は老婦人がどれだけ取り澄ましていられるか見つめていた。「ただ、この件に陛下がどれだけこだわっていてどれだけ感謝していたかをわかっていただきたくて」

「この状態をご理解下さらないと」

「そうね。でも一つ言いたいことがあるの」

「仰って下さいまし。聞かせていただきます」

「つまりね、いろいろと考え合わせると、この事故の原因はあなたの気持にあるんじゃないかしら」

「ああ、それもありましょうねえ」老婦人が腰を深く折った。「あんなにご丁寧に歓迎して下さったんですもの、もう胸が一杯になってしまって」

「もう一つあるんじゃないかしら」

「もう一つ? さあ、わかりませんよ」

「まさか! 誰かに会ったでしょう……?」

「そんなことありましたでしょうか!」

「ええ、うちを出る時」

「誰にも会いませんでしたよ。お兄さまの馬車に乗っていましたしねえ」

「馬車に乗る前よ」

 老婦人は記憶を探っているようなそぶりを見せた。

「玄関の階段を降りている時」

 老婦人はさらに頭を捻っているようなふりをした。

「そうよ」デュ・バリー夫人が苛立ち混じりの微笑みを浮かべた。「うちを出る時に中庭で会った人」

「申し訳ありませんけれども、思い出せませんよ」

「若い女よ……もうわかったでしょう」

「目が悪いものですから、目の前にいるあなたのこともよく見えないんでございますよ。そうなんでございます」

 ――さあこの人は手強いわ。伯爵夫人は独り言ちた。――下手な小細工はやめましょう。真っ向勝負よ。

「そうでしたの! ご覧にならなかったというのであれば」と声に出して続けた。「あれが誰だかお教えしますわ」

「帰る間際にやって来た方のことですか?」

「そうよ。あれはあたくしの妹、マドモワゼル・デュ・バリーです」

「まあ、そうでしたか! 何分にも一度もお目にかかったことがないものでございますから……」

「そんなことはないわ」

「お目にかかったことが?」

「ええ、それどころか話し合ったことも」

「マドモワゼル・デュ・バリーと?」

「ええ、そうよ。ただしあの日はマドモワゼル・フラジョと名乗っていたけれど」

「ああ!」声には隠しようもないほどの辛辣さがこもっていた。「ああ、あの偽フラジョさんでしたか。私に会いに来て、連れ出した、あの方がお妹さんですか?」

「間違いないわ」

「あなたの差し金でございますか?」

「あたくしが頼んだの」

「私を騙すために?」

「まさか。あなたの役に立ちたいのと、あたくしの役に立ってもらうためよ」

 老婦人は白髪混じりの太い眉を寄せた。

「来てもらっても私にはたいした得にもなりそうに思えませんけど」

「モープーさんに歓迎されることはなかったんじゃないかしら?」

「口先だけですよ」

「ただの口先よりは実のあるものを差し上げたつもりでしたのに」

「すべては天の思し召しと申しますよ」

「ねえベアルン夫人、真剣なお話なんです」

「お聞きいたしますとも」

「足を火傷なさいましたのね?」

「ご覧の通りでございます」

「火傷はひどいの?」

「重傷ですよ」

「おつらいのはわかりますし、ひどい怪我ですけど、命に別状はないでしょう? 頑張れば馬車でリュシエンヌに行くのにも耐えられますし、あたくしの部屋で陛下にお目にかかるほんのちょっとの間だけでも立っていられません?」

「無理ですよ。立ち上がることを考えただけでも気を失ってしまいそうです」

「じゃあ火傷はそんなにひどいの?」

「そうですよ、ひどい火傷です」

「処置や診断や手当はどなたから?」

「家を切り盛りしている女でしたら、火傷に効く薬くらい持ってますからね。自分で作った痛み止めを塗ったんですよ」

「お嫌でなければ、その特効薬を見せて下さらない?」

「卓子の上のその壜ですとも」

 ――偽善者もいいところね! そこまでするなんて。やっぱり手強いわ。だけど最後までやり終えなくっちゃ。

「実はあたくしも怪我によく効くオイルを持ってますの。でも特定の火傷にしか効かないものですから」

「どんな火傷でしょう?」

「腫れ、水ぶくれ、赤剥け。あたくしは医者じゃないけど、誰だって一度や二度は火傷くらいしますものね」

「赤剥けでございますよ」

「それは痛そうね! オイルを塗って差し上げてもいいかしら?」

「お願いいたします。今お持ちですか?」

「今はないの。でも誰かを遣って……」

「本当にありがとうございます」

「火傷の具合をあたくしも確かめてみた方がいいと思うの」

 老婦人が抗議した。

「とんでもありません! こんな状態お見せ出来ませんよ」

 ――お生憎さま。逃げられないわよ。

「そんなの気にしないで。怪我を見るのは慣れてるから」

「ですがあんまり不作法ですし……」

「助け合う時くらい、作法なんて忘れましょう」

 と言っておもむろに、椅子に寝かせていた足に手を伸ばした。

 デュ・バリー夫人が軽く触れただけで、老婦人は恐ろしい悲鳴をあげた。

 ――ふうん、お上手ね! 顔を歪めたベアルン夫人の苛立ちを目にし、伯爵夫人は呟いた。

「殺す気でございますか。何て恐ろしいことをなさるんです!」

 老婦人の頬は青ざめ、目は虚ろで、倒れて気絶してしまいそうだった。

「構いませんよね?」

「なさって下さい」老婦人は消え入りそうな声で答えた。

 デュ・バリー夫人は時間を無駄にはしなかった。足に巻かれた包帯のピンを外すと、大急ぎでほどき始めた。

 意外なことに、老婦人は抵抗しなかった。

 ――湿布まで来たら騒ぎ出すつもりね。黙らせなきゃならないけど、でも足を見ることは出来る。

 デュ・バリー夫人はそう呟いて、作業を続けた。

 ベアルン夫人は呻きこそあげたものの、後はおとなしくしていた。

 包帯をほどき終えると、デュ・バリー夫人の目に本物の火傷が飛び込んで来た。偽りではなかった。そこがベアルン夫人の外交術の終着点だった。鉛色をして血の滲んだ火傷が、雄辯に物語っていた。ベアルン夫人はションに気づいていたかもしれない。だがその時に、ポルキアやムキウス・スカエウォラのような崇高な道を選んだのだ。

 デュ・バリー夫人は無言のまま敬服した。

 顔を向けた老婦人は存分に勝利を味わっていた。野獣のような眼差しで足許に跪いている伯爵夫人を包み込んでいた。

 デュ・バリー夫人は女らしい細やかな様子で湿布を元通りにし、怪我を傷めぬように優しく足をクッションに戻し、老婦人の側に腰を下ろした。

「思った以上に手強い方ね。初めからあなたのような方に相応しい質問をしなかったことをお詫びいたしますわ。そちらの条件を仰って」

 老婦人の目がきらめいたが、それも一瞬のことだった。

「あなたのご希望を明言して下さいまし。お役に立てるかどうかはそれから判断いたします」

「ヴェルサイユの認証式にあなたに出てもらいたいの。今朝はひどい苦しみを味わわせてしまったけれど」

 ベアルン夫人は眉一つ動かさなかった。

「それで?」

「それだけ。次はあなたの番よ」

 ベアルン夫人は断固とした態度を見せ、対等に渡り合っていることをはっきりと示した。「私の望みは、訴訟中の二十万リーヴルが保証されることですよ」

「待って。訴訟に勝てば四十万リーヴルになるんじゃありませんの」

「違いますとも。サリュース家と係争中の二十万リーヴルは私のものだと思っておりますからね。あと半分の二十万リーヴルが、あなたとお知り合いになれたご利益ですよ」

「二十万リーヴル手に入れたとして、その後は?」

「可愛がっている息子が一人おります。我が家は代々剣で身を立てて参りました。ところが将校の才能を持って生まれながら、一兵卒にしかなれないとお考え下さいまし。来年には大佐の肩書きをもらって、すぐにでも中隊を指揮させなくちゃなりません」

「聯隊のお金は誰に出していただくの?」

「国王陛下ですよ。二十万リーヴルを聯隊に当ててしまえば、明日になったら今と同じく貧乏に逆戻りですからね」

「最低でも六十万リーヴルはかかるわよ」

「二十万分の聯隊だと考えれば、四十万は余計でございましょう」

「まあいいわ。それで構わないなら」

「それから、トゥレーヌの葡萄畑を返していただけるようお願いするつもりです。十一年前、運河にするとか言って技師たちに奪われた四アルパン分でございます」

「お金は払ってもらえたんでしょう」

「ええ、でも専門家の言い値でした。その二倍の価値はあると踏んでおりましたのに」

「わかったわ。もう一度払ってもらえるわよ。これでお終い?」

「もう一つ。ご推察の通り私にはお金がありません。フラジョ先生に九千リーヴルばかし借りがあるんでございます」

「九千リーヴル」

「どうしても必要だったんです。フラジョ先生は素晴らしい助言をして下さいますし」

「ええ、そうね。九千リーヴルはあたしが払っておくわ。こちらからかなり歩み寄ったと思ってくれてたらいいのだけれど」

「もちろんですよ! ですが私の方だって最善を尽くしたつもりですよ」

「火傷なさったことをどれほど残念に思っているか、わかっていただけたらね」デュ・バリー夫人が笑みを浮かべた。

「残念なものですか。災難でしたけど、あなたのためを思えば前と変わらずお役に立てるよう力が湧いて来ますとも」

「じゃあ話をまとめましょうか」

「お待ち下さい」

「忘れていたことでも?」

「たいしたことじゃありませんが」

「聞かせて頂戴」

「国王陛下の御前に伺うとは思ってもいなかったものですから。ヴェルサイユや栄華なんてものからは随分と長いこと離れていたので、ドレスがないんでございますよ」

「用意はしておいたわ。昨日、あなたが帰った後で、認証式用の服を作らせたの。立て込んだりしないように、あたしのとは違う仕立屋に頼んでおいたから。明日の昼には出来るはずよ」

「ダイヤモンドもございませんし」

「あたくしが言っておいたから、ベーメルとバサンジュが明日届けてくれるわ。二十一万リーヴルの装身具。明後日には二十万リーヴルで買い戻してくれる手筈になっているの。保証金はあなたのものよ」

「ありがとうございます。もう何も言うことはございません」

「喜んでもらえたみたい」

「そうでした、息子の肩書きは?」

「陛下ご自身で下さるわ」

「聯隊の召集資金も保証して下さるのでしょうか?」

「それも込みよ」

「わかりました。後は葡萄畑の問題だけですよ」

「四アルパンでおいくらだったと……?」

「アルパン当たり六千リーヴルです。それは素晴らしい土地だったんですよ」

「支払われている一万二千リーヴルと併せて、きっかり二万四千リーヴルになるよう、一万二千リーヴルの債務を返済するようお約束するわ」

「文箱はこちらですよ」と指さした。

「あなたが取っていただけないかしら」

「私が?」

「ええ」

「でもどうして?」

「これから口述する手紙を陛下に書いていただきたいの。持ちつ持たれつよ」

「そういうことですか」

「じゃあ書いて下さるわね」

 老婦人は机を引き寄せ、紙とペンを取った。

 デュ・バリー夫人が口述を始めた。

 『前略、親しい友人であるデュ・バリー伯爵夫人の代母に立候補したという申し出を陛下にお許しいただけたことを知った幸運によりまして……』

 老婦人が口を開いてペンを舐めた。

「ペンがよくないのよ。変えた方がいいわ」

「構いませんよ、慣れてますから」

「そう?」

「ええ」

 デュ・バリー夫人は続けた。

 『明日ヴェルサイユで紹介いただく際、もしお許し下さいますなら、お目をかけて下さいました陛下にぶしつけながらお願いがございます。私といたしましては或いは陛下に喜んでいただけるのではないかと考えております。と申しますのも、高貴なるお血筋でいらっしゃる王孫殿下たちの軍隊のために血を流した将校たちの一族に嫁いだ者でございます』

「署名をお願い」

 老婦人は署名した。

 『アナスタシー=ユーフェミー=ロドルフ、ベアルン伯爵夫人』

 老婦人の筆跡は力強かった。半プス大の文字が紙の上に横たわっており、綴りの間違いは貴族として恥ずかしからぬ程度に散見されるだけだった

 老婦人は署名を記すと、書き終えたたばかりの手紙を手で押さえたまま、デュ・バリー夫人にインクと紙とペンを手渡した。デュ・バリー夫人はまっすぐ尖った小さな字で、二万一千リーヴル、葡萄畑の補償金として一万二千リーヴル、フラジョ弁護士の報酬として支払う九千リーヴルの債務返済を確約した。

 それから宝石職人べーメルとバサンジュに言伝を書き、ルイーズと呼ばれているダイヤモンドとエメラルドの装身具を持ち主に返して欲しいと伝えた。ルイーズと呼ばれているのは、王太子の叔母である王女のものだったからであり、王女はそれを慈善のために売ったのだった。

 これが終わると、代母と代子は手紙を交換した。

「これで友情の証を見せて下さるわね」

「精一杯いたしますよ」

「あたくしのところにいらしてくれたら、トロンシャンに三日で治してもらえるわ。いらっしゃいな。それにあのオイルがどれだけ素晴らしいか試していただけるもの」

「馬車にお乗り下さいまし。ご一緒する前にやらなくてはいけないことが二、三ございますので」

「断られたってこと?」

「とんでもありません。承諾いたしましたよ。ただ、今はちょっと。修道院で一時の鐘が鳴りました。三時まで待っていただけますか。きっかり五時にはリュシエンヌに伺います」

「三時に兄を迎えに寄こしても構わない?」

「もちろんでございます」

「じゃあ、それまでお大事に」

「心配ございません。仰ったように私は貴族ですから、死ぬようなことがあっても、明日のヴェルサイユには伺いますよ」

「じゃあ後で、代母さん!」

「では後ほど、代子さま!」

 こうして二人は別れ、老婦人は足をクッションに置き、書類を手にして、そのまま横になっていた。デュ・バリー夫人の気持は来た時よりも弾んではいたが、老婦人に対してもっと強気に攻められなかったことに幾分か心を痛めていた。ベアルン夫人は、フランス王と渡り合うのを楽しんでいたではないか。

 広間の前を通りかかると、ジャンが見えた。長々と居座っているのを怪しまれないためだろう、二本目の壜を空けていたところだった。

 妹に気づくと椅子から飛び上がって駆け寄った。

「どうだった?」

「サクス元帥がフォントノワの戦場に現れた陛下にこう言ったでしょう。『陛下、勝利がどれだけ高くつき、痛ましいものか、この光景からお学び下さい』」

「つまり勝ったということか?」

「こういう言葉もあるわ。今度は古代の言葉。『もう一度勝ったなら、我々は滅びてしまうだろう』」

「代母は確保したんだな?」

「ええ。百万近くかかったけれど!」

「何だと!」ジャン子爵の顔が恐ろしく歪んだ。

「仕方ないでしょう! 取るか失うかだったんだから」

「それにしたってふざけてる!」

「それはそうだけど。そんなに怒るものでもないわ。あたしが上手くやらなかったら、何も手に入らなかったかもしれないし、お金が二倍かかったかもしれないんだから」

「畜生、何てアマだ!」

「ローマ人ね」

「ギリシア人だろう」

「どっちでもいいわよ! そのギリシア人だかローマ人だかを三時間後に迎えに行って、リュシエンヌまで連れて来る準備をして頂戴。手元に閉じ込めておかないと安心出来そうもないわ」

「俺はここにいよう」

「あたしの方は準備に大わらわね」

 伯爵夫人は馬車に駆け込んだ。

「リュシエンヌに! 明後日には、マルリーに!って言ってるはずよ」

「いずれにせよ――」ジャンは馬車を目で追っていた。「俺たちはフランスに随分と金をかけたもんだな!……デュ・バリー家にとっちゃいいごますりだ」

『ジョゼフ・バルサモ』 35-1 「代母と代子」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十五章 代母と代子

 気の毒な伯爵夫人……国王が使った呼び名を我々も使うことにしよう。目下のところその通りであるからだ。その気の毒な伯爵夫人は、不安に駆られてパリへの道を急いでいた。

 ジャンの手紙の第二段落に怯えていたションは、苦痛や不安を見せぬようリュシエンヌの私室に籠り、大通りでジルベールを拾おうなんて思いついたことを悔やんでいた。

 セーヌからロケットまでパリを囲んでいる、川まで達する下水道の上を飛ばし、ダンタン橋に着くと、四輪馬車が待っていた。

 馬車の中ではジャン子爵と代理人が熱心に話し込んでいたようだ。

 ジャンは伯爵夫人に気づくや、代理人を残して地面に飛び降り、馬車を急停止させようと御者に合図を送った。

「急げ。俺の馬車に乗るんだ。サン=ジェルマン=デ=プレまで行くんだ」

「ベアルン夫人にかつがれたって訳?」デュ・バリー夫人が馬車を乗り換えている間に、予めジャンから合図されていた代理人も同じようにした。

「多分ね。多分そうだ。仇に恩。いや、恩を仇で返された」

「何が起こったの?」

「簡単なことさ。俺はパリに残ってた。疑り深いんでね。そしたら案の定だ。夜九時になって『時の声』の周りを歩きまわっていたが、人通りもなく訪問客もない。何事もなく、順調だった。だから戻って眠ってもよさそうだと判断して、眠ったんだ。

「今朝、夜が明けて目が覚めてから、パトリスを起こして路標のところで見張りに就かせた。

「九時だ、いいか、予定より一時間早く、馬車で夫人を訪問した。パトリスに聞くと、怪しいものは見なかったと言う。それで安心して階段を上った。

「玄関で女中が俺を止めて、伯爵夫人は今日は外にお出でになれません、八日間かかるでしょうと抜かしやがった。

「不慮の事態は覚悟していたが、こんなのは予想しちゃいなかった。

「『外に出られないだと? 何があった?』

「『お具合が良くないのでございます』

「『具合が悪い? 馬鹿な! 昨日はいたって元気だったぞ』

「『ええ、それが奥さまはいつもチョコレートをお作りになるのですが、今朝は火に掛けていたところ、足にこぼしてしまいまして、火傷を負ってしまったんでございます。悲鳴を聞いて慌てて駆けつけましたところ、奥さまは気も失わんばかりでございまして、私がベッドにお連れいたしました。今はお寝みになっているはずです』

「俺はそのレースのように青ざめて、声をあげたよ。

「『嘘だ!』

「『嘘ではありません、デュ・バリー様』梁も突き刺すような刺々しい声だった。『嘘ではございませんよ。もう痛いやら苦しいやら』

「声のした方に飛び出して無理に扉を押し開けると、そこには老婦人が実際に寝込んでいた。

「『ああ、伯爵夫人……!』

「それだけしか言えなかった。はらわたが煮えくりかえっていたから、喜んであの婆を絞め殺せたね。

「『これなんです』床に置いてある糞忌々しい湯沸かしを指して、『何もかもこのポットのせいなんでございますよ』

「俺はそのポットに飛びかかった。

「これでもうチョコレートは作れまい。それは確かだ。

「『何てひどい!』哀れっぽい声を出しやがる。『お妹さんを引き立てるのはダロワーニ夫人なんでしょうよ。そうなんでしょう! 書いてありました! 東洋人たちの言った通りだわ』」

「ああ、ジャン! がっかりさせないで」デュ・バリー夫人が声をあげた。

「俺はがっかりなんてしないぜ。お前が会いに行ってくれ。そのために呼んだんだからな」

「でもどうして?」

「おいおい! お前になら、俺に出来ないことも出来るだろう。女なんだから、目の前で服を脱いでもらえばいい。化けの皮が剥がれたら、息子はこれからずっと田舎貴族のままだと言ってやれ。サリュース家の金にも一スーだって手は付けられないってな。俺はオレステスみたいに怒り狂った。それ以上の迫真の演技でカミラのように呪ってくれ」

「冗談でしょう!」

「好きでやってるわけじゃない」

「で、何処にいるの、我らが巫女は?」

「わかってるだろう。『時の声』亭だ。サン=ジェルマン=デ=プレの大きな黒い家で、鉄の看板に大きな雄鶏が描かれている。鉄が軋むと、鶏が鳴く」

「ひどいことになりそう」

「俺もそう思う。だが危険を冒す必要があるとも思う。俺もついて行こうか?」

「気をつけて頂戴。全部ぶち壊さないでね」

「代理人も同じことを言ってたよ、ここで相談していたんだが。ちなみに、家の中で人を殴れば罰金と牢獄行き。外で殴れば……」

「お咎めなし。ようくご存じでしょ」

 ジャンが口を歪めた。

「ふん! 払いが遅れるほど利子が貯まるってもんだ。今度あの男を見つけた日には……」

「今はあの女の話よ、ジャン」

「もう話すことはない。出かけてくれ!」

 ジャンは道を空け、馬車を通した。

「何処で待機してるの?」

「その旅籠で。イスパニア産のワインでも飲んで、助けが要りそうになったら駆けつける」

「馬車を出して!」伯爵夫人が叫んだ。

「サン=ジェルマン=デ=プレの『時の声』亭までだ」子爵が続けた。

 馬車は勢いよくシャン=ゼリゼーに躍り込んだ。

 十五分後、修道院教会《アバシャル》通りとマルシェ=サント=マルグリットの近くで馬車は止まった。

 その場所でデュ・バリー夫人は馬車から降りた。何せ相手は狡猾な老婦人、どうせ見張っているのに違いなく、馬車の音で気づかれたくはない。窓掛の陰にでも身を翻し、デュ・バリー夫人の訪れるのを見て悠々と逃げ出してしまうかもしれない。

 そこで伯爵夫人は従僕を連れて二人だけで修道院教会通りまで走った。建物が三軒しかなく、目指す旅籠は真ん中にあった。

 大きく開いた門から、入るというより躍り込んだ。

 誰にも見られなかった。だが木で出来た階段の手前で女将と出くわした。

「ベアルン夫人は?」

「ベアルン夫人は具合が悪いんで、お会いになれませんよ」

「ええ、そのことで、お加減を伺いに参りましたの」

 そう言って鳥のように軽やかに、あっという間に階段の上までたどり着いた。

「奥さま、奥さま、誰かが押しかけて来ました!」女将が声をあげた。

「どなたです?」部屋の奥から老婦人がたずねた。

「あたしよ」伯爵夫人がこの場にぴったりの表情を浮かべて戸口に現れた。即ち、礼儀正しく微笑み、いたわしそうに眉を寄せていたのである。

「伯爵夫人でしたか!」老婦人は真っ青になって震え出した。

「ええ、そうよ。さっき耳にして、お見舞いを申し上げに参りました。事故のことを聞かせて下さらない」

「ですけどこんな汚いところに腰を下ろしていただく訳にも参りませんからねえ」

「トゥレーヌにお城を持っているような方を旅籠に泊めたことはお詫びいたします」

 そう言って伯爵夫人は腰を下ろした。すぐには帰らないことはベアルン夫人にもわかった。

「かなりお悪そうですね?」デュ・バリー夫人がたずねた。

「そりゃもう」

「右足ですの? まあ! でもどうして足を火傷なんかなさったんですか?」

「簡単なことですよ。取っ手を持つ手を滑らせてしまいまして、ちょっと熱湯をこぼして足にかけてしまったんでございます」

「ひどい話ね!」

 老婦人は溜息をついた。

「ええ、ひどい話です。でもどうしようもないじゃございませんか! 災難はまとめてやって来るものなんですよ」

「今朝は国王陛下がお待ち下さってるのよ?」

「ますます口惜しくて仕方ありませんよ」

「あなたに会い損ねたら陛下もいいお顔をなさらないわ」

「何分にも火傷がひどうございますから、ただただお詫び申し上げるだけでございます」

『ジョゼフ・バルサモ』 34-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「署名なぞ糞食らえだ。それに署名をもらいに来る奴らときたら! 大臣や書類入れや用紙など発明したのは何処のどいつだ?」

 悪態を吐き終わった途端、伯爵夫人が出ていったのとは反対側の扉から大臣と書類入れが入って来た。

 国王は最前よりもさらに大きな溜息をついた。

「ああ、そなたか、サルチーヌ。時間に正確だな!」

 国王の口調からは、果たして褒めているのか貶しているのかを推しはかるのは難しかった。

 サルチーヌ氏は書類入れを開き、中から文書を取り出そうとした。

 その時、馬車の車輪が並木道の砂を鳴らすのが聞こえた。

「待ってくれ、サルチーヌ」

 国王は窓に走り寄った。

「何だ? 伯爵夫人が出て行ったのか?」

「ご本人ですね」

「だが、ベアルン伯爵夫人を待っていたのでは?」

「待っていられず、迎えにおゆきになったのではないでしょうか」

「しかし今朝ここに来る予定なのだから……」

「陛下、恐らくいらっしゃることはないでしょう」

「ほう、何か知っているのか、サルチーヌ?」

「すべて知っているわけではありません。それでご満足していただけるでしょうか」

「何が起こったのだ? それを言い給え」

「老伯爵夫人にでしょうか?」

「そうだ」

「どんな時にも起こり得ること。障碍が立ちふさがったのです」

「そうは言ってもやって来るのだろう?」

「それが陛下、昨夜ならともかく今朝はどうでしょうか」

「伯爵夫人も気の毒に!」そうは言いながらも、目に喜びの光がきらめくのを防ぐことは出来なかった。

「ああ。四国同盟や家族協定など、認証式の問題に比べれば些細なことでした」

「気の毒に!」と繰り返して首を振った。「あれの望みは叶わぬのだな」

「遺憾ですが。陛下もさぞやご立腹でございましょう」

「あれにもわかっておるのだろう」

「伯爵夫人にはなお悪いことに、王太子妃殿下の到着前に認証式が行われなければ、二度と行われない可能性がございます」

「可能性どころか、サルチーヌ、そなたの言う通りだよ。嫁御は厳格で敬虔な淑女という噂だ。気の毒に!」

「認証式が行われぬのをデュ・バリー夫人がお嘆きになるのはもっともですが、陛下にとっては心配の種がなくなることにもなりましょう」

「そう思うか?」

「間違いありません。妬み屋、毒舌家、諷刺家、ごますり屋、お喋りどももそれほど現れぬでしょうし。デュ・バリー夫人が愛妾になられた場合、警察活動にはさらに十万フランかかります」

「そうだな! 気の毒に! それでもあれは認証式を望んでおる」

「陛下がお命じになれば、伯爵夫人の望みも叶いましょうに」

「どういうことだ、サルチーヌ? 正直に言って、こんなことに口を挟むことが出来るとでも? デュ・バリー夫人をそっとしておけという命令に署名出来るとでも? 伯爵夫人の気まぐれを満足させるためにクーデターでも起こせというのか?」

「とんでもありません! 私が言ったのはただ陛下の『気の毒に!』のようなものです」

「そうは言うものの、まだ希望がない訳でもない。いろいろな可能性を考えてみ給え。ベアルン夫人が意見を変えないとも限らぬ。王太子妃が遅れぬとも限らぬ。王太子妃がコンピエーニュに着くまでまだ四日ある。四日あれば、何か出来るだろう。ところで、今朝は仕事があったのではないかね?」

「そうでした! 署名を三つだけお願いします」

 警視総監は書類入れから一つ目の文書を取り出した。

「待て! 封印状か?」

「はい、陛下」

「誰宛てだ?」

「ご覧になって下さい」

「ルソー氏宛てだ。このルソーとは何だ? 何をしたのだ?」

「何を? 『社会契約論』です」

「ああ! ジャン=ジャック宛てか? では投獄するつもりかね?」

「そんなことをすれば大騒ぎになります」

「いったいどうしたいというのだ?」

「いずれにせよ投獄するつもりはありません」

「それではこの文書は無意味ではないか?」

「保険でございます」

「何にしても、哲学者どもなど大嫌いだ!」

「それはもっともなことでございます」

「だが非難されはせぬか。第一、パリで暮らすことを許されたのではなかったか」

「許しはしましたが、人前に姿を見せないという条件付きです」

「で、姿を見せたと?」

「それしかしておりません」

「あのアルメニアの恰好で?」

「ああ、いいえ、あの服は脱がせました」

「言う通りにしたかね?」

「ええ、迫害だと喚いていましたが」

「では今はどんな恰好をしているのだ?」

「ごく普通の恰好でございます」

「ではさして大事ではあるまい」

「陛下、自由に出歩くのを禁じられた人間が、毎日何処に出かけるのかお分かりになりますか?」

「リュクサンブール元帥のところ、ダランベール氏のところ、デピネー夫人のところかね?」

「カフェ・ド・ラ・レジャンスです! 向きになったように毎晩チェスを指して、負けてばかりいます。我々としても家に押し寄せた群衆を見張るために、毎晩一旅団の人員を割かざるを得ません」

「そうか、パリっ子は思ったより間抜けなのだな。好きなようにさせておけ、サルチーヌ。そうしている間は、あの者たちも貧困を叫んだりはせぬ」

「わかりました。ですがロンドンにいた時のような演説をしようとした日には……?」

「そうだな、公に罪を働いたのであれば、封印状の必要もあるまい」

 国王はルソーの逮捕には直接関わりたくないのだ。それを悟った警視総監は、それ以上には強辯しようとしなかった。

「それでは陛下、別の哲学者の話がございます」

「まだあるのか?」国王はうんざりしていた。「もう哲学者とは縁を切ろうではないか?」

「何を仰いますか! 向こうの方で縁を切ってくれぬのではありませんか」

「それで話とは?」

「ヴォルテールのことです」

「ヴォルテールもフランスに戻ったのか?」

「そうではありません。或いはそうしてくれた方がありがたいのですが。そうすれば監視はしておけますから」

「何をしたのだ?」

「本人は何もしていません。やったのは支持者たちです。彼の像を建てるというのは見過ごせません」

「騎馬像を?」

「そうではありませんが、ヴォルテールが有名な攻城塔だということを申し上げているのです」

 ルイ十五世は肩をすくめた。

「あれほどの攻城者ポリオルケテスは見たことがありません。あらゆるところに通じています。陛下の王国の第一人者たちも、まるで闇業者のように彼の本を流通させているくらいです。先日は八箱差し押さえました。いずれもショワズール殿宛てでした」

「それは面白い」

「陛下、君主にだけ許されていることが彼のために行われているのだということを、今一度お考え下さい。民衆たちは像を建てることを決めたのです」

「君主の像を建てるのを決めるのは民衆ではないよ、サルチーヌ。君主自身が決めるのだ。ところでその傑作の作者は誰だね?」

「彫刻家のピガールです。型を取るためにフェルネーまで出向いていました。そうしている間にも予約申込みが殺到しております。既に六千エキュに達しましたが、いいですか、予約出来るのは文学者だけなのです。みんなお布施を持って行くんです。あれはお参りですよ。ルソー氏も二ルイ納めました」

「ふむ! どうせよと言うのだ? 余は文学者ではない。無関係ではないか」

「こんな出過ぎた真似を中止させようと陛下に伺いに参ったのですが」

「慌てるな、サルチーヌ。銅像の代わりに黄金像が建つだけだ。放っておけ。いやはや、銅像はさぞかし実物以上に醜いのだろうな!」

「では事態をこのまま泳がせておくのがお望みですか?」

「話し合おうではないか、サルチーヌ。望んでいるのは言葉ではない。一切を止めさせたいのはもちろんだ。だがそなたの望みは何だ? 不可能なことではないか。神が海に『此を越ゆべからず』と命じたように、国王が哲学者の心に口を挟める時代などとっくに去った。叫んでも無駄だ、打っても届かぬ、我々が無力なことを見せるだけだ。見方を変えよう、サルチーヌ、見ぬふりをするのだ」

 サルチーヌは溜息をついた。

「陛下、この者たちを罰さぬまでも、せめて銅像は壊しませんか。これはすぐにでも訴訟を起こすべき著作の一覧です。玉座を脅かすものもあれば、祭壇を襲うものも。これは謀叛であり、涜神でございます」

 ルイ十五世は表を取り上げ、気乗りしない声で読み上げた。

「『神聖なる伝染 あるいは迷信の自然誌』、『自然の体系 あるいは物理的世界と精神的世界の法則』、『神と人間』、『イエス・キリストの奇跡に関する論文』、『聖地に向かう Perduicloso に対するラグーザのカプチン会修道士の助言』……」

 国王は半ばまで読まずに紙を捨てた。いつもなら落ち着いている顔に、不思議な悲しみと落胆の色が浮かんでいた。

 しばらくの間、まるで心神喪失状態で、夢見たようにぼうっとしていた。

「これは世間が立ち上がるだろうな」国王は呟いた。「別の方法がいくらでもある」

 サルチーヌが国王を見た。この飲み込みの速さこそ、国王が大臣たちに求めているものだった。大臣が優秀なら、国王は考えたり動いたりしなくてもよい。

「平穏ですか?」今度はサルチーヌが口を開いた。「陛下は平穏をお望みなのですね?」

 国王は大きくうなずいた。

「ああ、そうだ! ほかに何がある。哲学者、百科全書派、魔術師、光明会徒、詩人、経済学者、三文文士、何処からともなく湧き出して、うごめき、書き記し、鳴き喚き、人を腐し、何かを企み、説教をし、叫んでいる奴らだぞ。奴らのために戴冠したり、像を造ったり、神殿を建てたりする者たちも、余のことはそっとしておいてくれる」

 サルチーヌは立ち上がり、一礼すると、口の中で呟きながら退出した。

「この国の貨幣に『主よ王を守り給へドミネ・サルヴム・ファク・レゲムと書かれてあって何よりだ」

 一人残された国王は、ペンを取り王太子宛てに書いた。

『王太子妃の到着を急がせろと言っていたな。そなたを喜ばせてやろう。

 ノワヨンで車を停めるなと命令を出しておいた。だから火曜の朝にはコンピエーニュに着くだろう。

 余もちょうど十時に、つまり王太子妃の十五分前には行くつもりだ』

「これで認証式のくだらぬごたごたも片がつく。ヴォルテールやルソー、過去や未来の哲学者たちよりしんどかったわい。こうなれば後は気の毒な伯爵夫人と王太子夫妻の問題だ。その通り。悲しみ、憎しみ、復讐なぞ、一つ丈夫な若者の心臓にでも押しつけてしまおう。若者は苦悩を覚えるもの。そうやって大きくなるのだ」

 こうして難題を退けたことに満足し、パリ中の話題となっている認証式を進めようと止めようと咎められる者など誰もいないことを確信すると、国王は馬車に乗り込み、廷臣が待っているマルリーに向かった。

『ジョゼフ・バルサモ』 34-1 「ヴォルテールとルソー」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十四章 ヴォルテールとルソー

 既にお話ししたように、リュシエンヌの寝室は、造りといい調度といい素晴らしいものだった。

 東向きのその部屋は、金張りの鎧戸と繻子の窓掛でしっかりと覆われ、陽射しがご機嫌取りのように大小様々な隙間から潜り込むまでは、完全に光を遮っている。

 夏には、何処とも知れぬ通気口から、幾千もの扇であおいだような柔らかな風が空気を揺らした。

 国王が青の間から出てきたのは十時のことだった。

 今回は供の者たちも九時から庭で待機していた。

 ザモールが腕を組んで命令を出している。あるいは出しているふりをしている。

 国王は窓から顔を出し、出発の用意を眺めた。

「どういうことだね、伯爵夫人? 朝食は取らぬのか? 国王を空きっ腹で帰らせたと言われるぞ」

「とんでもない! でもてっきりマルリーにはサルチーヌ殿とご一緒するのかと思ってましたけど」

「まさか! ここに会いに来るようサルチーヌに伝えられるとでも? こんな近くに」

「自慢する訳じゃありませんけど」伯爵夫人が微笑んだ。「そう思ったのは陛下が最初ではありませんの」

「それに、朝は仕事をするにはもったいない。朝食にしよう」

「でも署名はしていただかなくては」

「ベアルン夫人の件かな?」

「ええ、そうすれば日にちもはっきり出来ますし」

「日にちだと?」

「それに時間も」

「何の時間だ?」

「認証式の日時です」

「いやもっともだ、認証式か。日取りはそなた自身で決めるがよい」

「出来るだけ早い内に」

「もう準備は済んでいるのか?」

「ええ」

「三段の礼のやり方も覚えたのかね?」

「ちゃんと出来ますわ。一年間も練習したんですもの」

「ドレスは?」

「二十五時間あれば用意出来ます」

「代母は?」

「一時間後にここに」

「ふむ、では取引だ」

「何の?」

「ジャン子爵とタヴェルネ男爵の事件は今後一切口にせんで欲しい」

「泣き寝入りしろと?」

「まあそういうことだ」

「わかりました! もうそのことは口にいたしません……日取りは?」

「明後日」

「時間は?」

「通例通り夜十時に」

「決まりね?」

「決まりだ」

「王のお言葉ね?」

「貴族の言葉だ」

「お手をどうぞ」

 デュ・バリー夫人が美しい手を伸ばすと、国王はそれに手を重ねた。

 この朝、リュシエンヌ中が国王の満足感に浸されていた。しばらく前から譲歩しようと考えていたある点では譲歩したものの、別のある点では譲らなかったのだ。大成功だった。ピレネーかオーヴェルニュで湯治するという条件でジャンに十万リーヴルを与えれば、ショワズールの目には追放だと映るだろう。貧しい者たちにはルイ金貨を、鯉には菓子を、ブーシェの絵には讃辞を与えた。

 前の晩に夜食を堪能したというのに、朝食を食べる気も満々だった。

 そうこうしている内に十一時が鳴ったところだ。伯爵夫人は国王の世話をしながら、なかなか進まない柱時計をちらちらと脇見していた。

 国王はとうとう自ら、ベアルン夫人が来たなら食堂に招いてもよいと口にした。

 珈琲の用意が出来、味わい、飲み干しても、ベアルン夫人は来なかった。

 十一時十五分、馬が駆ける音が響き渡った。

 デュ・バリー夫人は急いで立ち上がり、窓に駆け寄った。

 ジャン・デュ・バリーからの使いが、汗まみれの馬から飛び降りていた。

 伯爵夫人は恐れおののいた。だが、国王に気分よくいてもらうためには、わずかなりとも不安を表に見せるべきではない。夫人は席に戻った。

 間もなく、手紙を手にションが入って来た。

 尻込みは出来ない。読むほかない。

「それは? 恋文かね、ション?」国王がたずねた。

「そんなとこです」

「誰から」

「子爵からです」

「間違いないね?」

「お確かめになって」

 筆跡には見覚えがあった。手紙はラ・ショセ事件のことかもしれない。

「よかろう」国王は手紙を返した。「もういいよ」

 伯爵夫人は気が気ではなかった。

「あたくし宛てですの?」

「その通りだ」

「構いませんか……?」

「もちろんだ! 読んでいる間はションがコルボー先生【※ラ・フォンテーヌの「カラスとキツネ」】を聞かせてくれるだろう」

 国王はションを引き寄せ、ジャン=ジャックが書き残した通りの王国一調子っぱずれな声で歌い出した。

 召使いを失った。
 運もすっかり失った。

【※ジャン=ジャック・ルソーの歌劇「村の占い師(Le Devin du Village)」より】

 伯爵夫人は窓際に戻って読み始めた。

『あの糞婆は当てにするな。夕べ足を火傷したと抜かして、部屋に引き籠もっている。よりにもよって昨日のあのタイミングで帰ってきたションに感謝しようじゃないか。それだけのことはしてくれた。婆さんがションに気づいたんだ。とんだ喜劇だよ。

 すべての元凶のジルベールのガキがいなくなった。幸運な奴め。そうでなきゃ首をねじ切っていたところだ。だが今度会った時には、どれだけしおらしくしていようとも見逃してやるものか。

 結論を言う。急いでパリに来てくれ。さもなきゃ俺たちは昔に逆戻りだ。ジャン』

「どうしたのだ?」急に青ざめた伯爵夫人に驚いて、国王が声をかけた。

「何でもありません。義兄が容態を知らせてくれただけ」

「よくなって来ているのだろう?」

「よくなっていますわ。ありがとうございます、陛下。それより、庭に馬車が到着したみたいですけど」

「代母の伯爵夫人ではないかね?」

「違うわ、サルチーヌ殿ね」

「では?」デュ・バリー夫人が戸口に行ったのを見て、国王がたずねた。

「では、陛下はあちらにどうぞ。あたくしはお化粧に参ります」

「するとベアルン夫人は?」

「いらっしゃったら陛下にご連絡差し上げます」伯爵夫人は手紙を丸めて部屋着のポケットの奥に突っ込んだ。

「では余は追い出されるのかな?」国王は嘆息した。

「陛下、今日は日曜日です。ご署名を!……」

 伯爵夫人が瑞々しい頬を差し出したので、国王は右と左に盛大に口づけした。それが終わると夫人は部屋を後にした。

『ジョゼフ・バルサモ』 33-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 国王がグラスを差し出し、伯爵夫人が細首のデカンタを手に取った。

 力を入れているために指は白く、爪は赤く染まっていた。

「ゆっくりと静かに注いでくれ」

「濁らせたくないからですの?」

「そなたの手を見ていたいからだ」

「陛下は見つけるのがお上手ね」伯爵夫人は微笑んだ。

 国王の機嫌も少しずつ直って来た。「うむ、確かにもう少しで見つけるところ……」

「世界を?」

「違う、違う。世界など手に余る。王国で充分だよ。ただ、一つの島、地上の一隅、美しい山、アルミーダのようなご婦人たちのいる宮殿、何もかも忘れてしまいたい時にはありとあらゆる怪物がその入口を固めてくれる」

 伯爵夫人は冷えたシャンパンのデカンタを国王に差し出した(これは、この時代に新たに工夫されたものである)。「レテ川で汲んだ水をどうぞ」

「忘れ川? 確かかね、伯爵夫人?」

「間違いありません。だってつい先日地獄に片足を突っ込んだジャンが持ち帰ったものですもの」

 国王はグラスを掲げた。「では、甦ったことを祝して。だが政治の話はよしてくれ」

「それじゃあもう話すことがなくなっちゃったわ。陛下がお話を聞かせて下さるんでしたら、面白そうですけど……」

「話はないが、詩を聞かせよう」

「詩ですって?」

「ああ、詩だが……何を驚いている?」

「陛下は詩がお嫌いでしたのに!」

「嫌いだよ。十万のうち、九万は余をネタにしておる」

「では陛下がお聞かせ下さるのは、九万の方ではなく、陛下のお眼鏡に適わなかった一万の方なのね?」

「違うな。余が聞かせるのは、そなたの詩だ」

「あたくし?」

「そなただ」

「作者は?」

「ヴォルテール」

「陛下がお預かりに……?」

「そんなことはない。伯爵夫人殿下宛てだった」

「でもどうやって?……手紙もないのに?」

「それどころか、素敵な手紙に入っていたよ」

「ああ、そういうこと。陛下は午前中、郵便局長(directeur des postes)とご一緒だったのね」

「その通り」

「読んで下さる?」

 ルイ十五世は紙片を広げて読み上げた。

 歓楽の女神よ、恩寵の慈母よ、
 黒き疑いを以て、醜き失態を以て
 パフォスの宴を汚さんとするは如何に?
 英雄の死を図るは如何に?
 オデュッセウスは祖国の要、
 そはアガメムノンの基なり。
 その走れる才気、溢れる才知に
 驕れるイリオンも膝を折れり。
 帝国に神々を侍らすがよい、
 美もて心を捕えしヴィーナスよ。
 麗しき狂乱に溺れて摘み取るがよい、
 快楽の薔薇を。
 だが我らの瞳には微笑みを、
 怒れる海神には平穏を授け給え。
 トロヤも恐れるオデュッセウスに、
 そなたは怒りをぶつけるのか
 何となれば、美に接する術はなし
 跪いて溜息をつくよりほか。

 伯爵夫人はこの詩を聞いて喜ぶというより気分を害したようだ。「やっぱりヴォルテールは陛下と仲直りしたいのね」

「だとしたら、大問題だな。あれがパリに戻って来たら騒ぎを起こす。親しくしているフリードリヒ二世のところに行くのだろう。我々はルソーだけでもう充分だ。それはともかく、この詩はそなたにやろう。よく考えるがいい」

 伯爵夫人は紙片を受け取ると、付け木のように丸めて小皿の脇に無造作に置き捨てた。

 国王はただただそれを見つめていた。

「トカイ・ワインを如何?」ションが国王に推めた。

「オーストリア皇帝陛下の酒蔵のものです。安心してお飲み下さいな」伯爵夫人も続けた。

「何だと! 皇帝の酒蔵から……持ち出せるとしたら余しかおるまいが」

「陛下のソムリエも、ですわ」

「まさか! 誘惑したのか……?」

「いいえ。命令したんです」

「お見事。とんだ間抜けな国王だな」

「あら、そうね。でもフランスちゃんも……」

「フランスちゃんにも、心からそなたを愛するだけの器量はあるぞ」

「本当に、あなたがただのフランスちゃんならよかったのに」

「伯爵夫人、政治は抜きだ」

「珈琲は如何?」ションがたずねた。

「喜んで」

「いつも通り火に掛けます?」伯爵夫人がたずねた。

「嫌でなければ」

 伯爵夫人が立ち上がった。

「どうしたのだ?」

「あたくしがご用意いたします、閣下」

「そうか」夜食を満喫した国王は、椅子の上でゆったりと寛いだ。腹がふくれれば機嫌も良くなる。「どうやら一番いいのは、そなたに任せることだな」

 伯爵夫人は熱いモカの入った珈琲ポットを、金の調理台に運んだ。それから、金張りのカップとボヘミアの水差しを乗せた小皿を、国王の前に置いた。最後に、小皿の側に紙で出来た小さな付け木を置いた。

 国王はいつものように極めて注意深く、砂糖を量り、珈琲を見積もり、そっと蒸留酒を注ぐと、紙の付け木で火を付けた。これで中まで火が伝わる。

 後は調理台に放り入れれば、付け木は燃え尽きてしまう。

 五分後、至極満ち足りた気分で国王は珈琲を味わった。

 伯爵夫人は黙って見ていたが、最後の一口を飲み終えると声をあげた。

「ふふふ。陛下が火を付けるのに使ったのはヴォルテールの詩よ、ショワズールにはお気の毒さま」

「これはしたり」国王は苦笑した。「そなたは妖精ではない、悪魔だ」

 伯爵夫人が立ち上がった。

「陛下、領主殿が戻って来たらお会いになりますか?」

「うん? ゾマールか? それはまたどうして」

「陛下をマルリーにお連れするためですわ」

「そうだった」せっかくの満足感から気持を引き離さねばならなかった。「会いに行こう」

 デュ・バリー夫人が合図し、ションが立ち去った。

 国王はザモール探しに戻ったが、当初とはまったく違った気持だった。哲学者の言う如く、人のやる気の明暗は胃の状態によるのである。

 ところで、王たちの胃は概して、臣下の胃ほど具合が良くないのは事実であるが、肉体のほかの部分にも人並みに満足感や不満足感が伝わるからには、斯かる状態の王に相応しいほどには上機嫌に見えた。

 十歩ほど進んだところで、廊下からまた別の香りが漂って来た。

 青い繻子と生花の錦で飾られた寝室の扉が折りしも開き、妖しい光に照らされたアルコーヴが姿を見せた。妖婦の足取りは二時間も前からここを目指していたのだ。

「陛下。ザモールはまた姿を消してしまいました。あたくしたちは今も閉じ込められたままです。窓から逃げ出すほかありませんの……」

「ベッドのシーツでかね?」

 伯爵夫人は莞爾と微笑んだ。「陛下、正しい使い方をいたしません?」

 国王が笑って腕を広げると、伯爵夫人は薔薇を投げ捨て、花びらが絨毯に散った。

PROFILE

江戸川小筐(wilderたむ改め)
  • 名前:江戸川小筐(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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