翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』60-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 カトリーヌは女の鋭さでピトゥが落胆していることを見抜いた。

「パリの女の子たちは男の子を連れて歩くようなふしだらな真似をしてたの?」

「でもあなたは女の子じゃありません。一家のあるじなんですから」

「もういいだろ?」ビヨ夫人が割って入った。「一家の主にはやらなきゃならないことがあるからね。おいで、カトリーヌ。お父さんの指示通り、あんたに家を任せようじゃないか」

 そうして身動きも出来ずに唖然としているピトゥの目の前で、質素とはいえ厳かで趣のある儀式が始まった。

 ビヨ夫人が鍵束から鍵を一つずつカトリーヌに手渡し、衣類と酒と備品と食料の帳簿を預けた。それから一七三八か四〇製の寄木細工の抽斗付き机の前まで連れて行った。その鍵の掛かった抽斗の中に、ビヨ氏が仕舞っていた書類や金貨や財産や家族の記録があった。

 カトリーヌはにこりともせず家の実権と秘密を譲り受けた。如才なく質問をおこない、返答についてじっくりと考えた。受け取った情報を、戦いに備えて武器を仕舞い込んでおくように、記憶と理性の奥深くに仕舞い込んでいるように見えた。

 ビヨ夫人は身のまわり品の確認を終えると、次にしっかりと数の管理されている家畜に移った。

 羊は健康かどうか。それに子羊、山羊、雌鶏、鳩、馬、牡牛、乳牛。

 だがそれも型通りのものに過ぎなかった。

 カトリーヌは家畜の世話ならもう何年もおこなって来た。いっぱしの専門家だった。

 カトリーヌほどビヨ家の動物と親しい者はいまい。鶏は餌を求めて鳴き、子羊はひと月も経てば懐き、仲良くなった鳩が周りを取り囲んで円を描いて飛んだり、夢うつつの熊のように行き来して足許に挨拶してから肩にとまったりすることもよくあった。

 馬はカトリーヌが近づくといなないた。悍馬をなだめられる?のはカトリーヌだけだった。子馬の頃からビヨ家の農場で育てられ、今や手のつけられない種馬になった一頭などは、カトリーヌの手やポケットの中に固くなったパンくずが入っているのを承知しているものだから、パンくずを探そうとして厩舎の中でよく暴れ回っていた。

 カトリーヌほど美しい者はいなかったし、金色の髪、青い瞳、白い首筋、ぽってりとした腕、ふくよかな手をしたカトリーヌが、種や殻だらけの前掛けをして、水たまりのそばの綺麗な場所から、硝石を吹いて踏み固められた地面に撒き散らされた殻粒を踏み鳴らして近づいて来れば、喜びを見せぬものなどなかった。

 そんなわけだから、放し飼いにされたひよこや鳩や子羊が水たまりのそばから殺到すると、餌をつつく嘴で地面が彩られ、燕麦や蕎麦を舐める山羊の赤い舌がかりかりと音を立てた。餌が撒かれて黒くなっていた場所は、瞬く間に白い空間に変わっていた。刈入れ人夫が食事を終えた後の陶器の皿のようだった。

スポンサーサイト

『アンジュ・ピトゥ』60-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「こういうことです。ビヨさんはおばさんには苦労させまいと決意していました」

「じゃあ誰に?」カトリーヌは良くも悪くも心を高ぶらせて身体を震わせた。

「ビヨさんが選んだのはもっと強い人間、ビヨさん本人とほかならぬあなたです。ビヨさんはカトリーヌさんに決めたんです」

「カトリーヌが家を切り盛りするのかい?」ビヨ夫人が不審と何らかの嫉妬から声をあげた。

「わたしはママの言う通りにする」カトリーヌが慌てて口を挟んだ。

「駄目です、いけません」飛び込んだからには最後まで突き進んだ。「ちゃんと言伝は伝えますからね。ビヨさんはカトリーヌさんに家業と家事すべてを代理として委譲し認可したんです」

 真実に裏打ちされた言葉の一つ一つが、ビヨ夫人の心に突き刺さった。生来の人の良さゆえに、嫉妬や怒りに燃えるどころか夫が間違うはずがないと確信して、立場を明け渡すこともすんなりと受け入れていた。

 ビヨを裏切ることが出来ようか? ビヨに逆らうことなどあり得ようか?

 ビヨ夫人の行動原理はその二つだけだった。

 だから反論するのはやめた。

 娘の目を見つめてみたが、そこにあったのは謙虚さと信頼感とやる気と優しさと変わらぬ敬意だけであった。ビヨ夫人は完全に身を引くことにした。

「あの人が正しいんだ。カトリーヌは若いし、頭も良くて、芯がある」

「もちろんです」ピトゥは確信した。鋭い評価を投げつけられた瞬間にカトリーヌの自尊心がくすぐられたことを。

「カトリーヌならね」ビヨ夫人が話を続けた。「あたしよりずっと簡単に旅が出来るだろうし、一日通してずっと上手く農夫たちを見ていられるだろうさ。商売だってずっと上手くやれるよ。上手に人を使える子だろうからね」

 カトリーヌが微笑んだ。

「まったくねえ」ビヨ夫人が呟いた。溜息を押し殺すまでもなかった。「このカトリーヌが畑を見て回ったり、財布の紐を締めたりすることになるとは思わなかったよ。この子が一日じゅう外に出て、男の子みたいになるなんて……」

 ピトゥがさも偉そうに口を挟んだ。

「カトリーヌさんのことなら心配いりません。ボクがいますから。ボクは何処までもついて行きますから」

 この気障な申し出にピトゥも何らかの効果を期待していたであろうが、カトリーヌから送られて来たのが奇妙な眼差しだったものだからピトゥも面食らってしまった。

 カトリーヌの顔は赤く染まっていたが、それは歓喜に染まったご婦人の顔ではなかった。その赤い色合いは相反するしるしの表れであり、カトリーヌにとって第一の規範である魂の働き、即ち怒りと苛立ち、口を開きたい気持と閉ざさざるを得ない状況という、相反する働きの表れであった。

 野暮なピトゥにはこの顔色の違いには気づかなかった。

 それでもカトリーヌが赤面したのはピトゥの伝言を完全に受け入れたわけではないからだということはわかった。

「どうしたんです?」ピトゥはとっておきの笑顔になり、ぶ厚い口唇を開けて立派な歯を見せた。「どうして黙ってるんですか?」

「馬鹿なことを言ったってのがわからないの?」

「馬鹿なことですって?」

「そりゃそうだよ」ビヨ夫人も同意した。「カトリーヌに護衛を付けるつもりかね!」

「でも森の中は……」ピトゥはどうやら心の底から真面目に話しているようだった。笑い事ではなさそうだ。

「それもうちの人の指示かい?」ビヨ夫人が皮肉の才を見せつけた。

「そんなぬくぬくした仕事、パパがピトゥさんに勧めるわけないし、ピトゥさんだって承知しないでしょう?」カトリーヌも言った。

 ピトゥはカトリーヌからビヨ夫人に怯えた目を彷徨わせた。今や足場ががらがらと崩れてしまっていた。

『アンジュ・ピトゥ』60-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十章 ビヨ夫人、身を引く

 尊敬すべき父の意向を聞くべく、母娘が耳をそばだたせた。これからおこなおうとするのが難しいことであるのはピトゥも重々承知していた。働いているビヨ夫人とカトリーヌをこれまでずっと見て来たから、ビヨ夫人が日頃から他人に指示を出していることもカトリーヌがひどく束縛を嫌うこともわかっていた。

 カトリーヌは優しくよく働く気立ての良い娘だったから、当然ながら農場の人間に強い影響力を持つようになっていた。そして他人の意のままになるまいとする堅い意思こそ、支配者気質というものにほかなるまい。

 事を進めればそれがどれだけ一人を喜ばせることになり、もう一人を悲しませることになるのかよくわかっていた。

 ビヨ夫人が二番手に引き下ろされるのは非常識で不合理なことだとしか思えない。ピトゥの報告が終わればカトリーヌの地位は上がるが、それが現状にとってどんな意味があるというのか。

 だがピトゥが今この農家で務めているのはホメロスの伝令使の役であった。智識はなくとも口と記憶がある。而してピトゥはこうした表現を用いた。

「ビヨさんはおばさんに出来るだけつらい思いをさせたくないと考えていました」

「どういうこと?」ビヨ夫人は驚いてたずねた。

「つらい思いをさせるってどういう意味?」カトリーヌもたずねた。

「つまりですね、おばさん家みたいな農家の経営は不安と苦労が絶えない職業形態で、取り引きもありますし……」

「そうかい」

「支払いとか……」

「それから?」

「耕したりとか……」

「ほかには?」

「収穫したりとか……」

「否定はしないよ」

「仰る通りです。でも取り引きするには旅に出なくては」

「馬があるさ」

「支払いの時には駆け引きが必要です」

「口は立つよ」

「耕す時は」

「監督したことがなかったとでも?」

「でも収穫はまた別の話です。農夫に料理を作らなくてはならないし、馬方に手を貸さなくては……」

「尻込みなんてしないよ、うちの人のためなんだ」

「でもおばさん……やっぱり」

「やっぱり何?」

「仕事が多くて……それに……お歳が……」

「そうかい」ビヨ夫人はピトゥを疑わしげな目で見つめた。

「助けて下さい、カトリーヌさん」ピトゥはがんじがらめになって事態が悪化していることに気づいた。

「そう言われても、どうしたらいいの」

『アンジュ・ピトゥ』59-6

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「何てむごい」

「きっと今ごろは、パリとヴェルサイユの貴族はみんな殺されているか火あぶりにされているに違いありません」

「非道い!」カトリーヌが呟いた。

「非道い? どうして? ビヨさん、あなたは貴族じゃないのに」

「ピトゥさん」カトリーヌが力を振り絞って「パリに行く前はそんなに残忍じゃなかったはずなのに」

「前より残忍だなんてことはありません」ピトゥは激しく狼狽えた。「でも……」

「だったらパリの人たちのやった犯罪を自慢しないで。キミはパリの人間じゃないんだし、罪を犯したわけでもないんでしょ」

「ほとんど何も出来ませんでした。ビヨさんとボクはベルチエさんを守って殺されそうになったんです」【※第42章参照。】

「やっぱりパパは勇敢だったんだ」

「あの人らしいよ」ビヨ夫人が目を潤ませた。「それで、あの人はどうなったんだい?」

 ピトゥはグレーヴ広場の惨劇やビヨの絶望やヴィレル=コトレに帰りたがっていたことを語った。

「どうして帰って来ないの?」カトリーヌの声の響きがピトゥの心を抉った。占い師に不吉な予言を告げられたように、胸に深く突き刺さった。

 ビヨ夫人が両手を合わせた。

「ジルベールさんにそのつもりがないんです」

「ジルベールさんはうちの人が死んでもいいっていうのかい?」ビヨ夫人がしゃくり上げた。

「うちが滅茶苦茶になってもいいっていうの?」カトリーヌも悲痛な声をあげた。

「そんなことはありません! ビヨさんはジルベールさんと同意のうえで、もう少しだけパリに残って革命を最後までやり遂げるつもりなんです」

「二人だけでそんなことを?」ビヨ夫人がたずねた。

「ほかにラファイエットさんとバイイさんも」

「ほんとかい!」ビヨ夫人が感嘆の声をあげた。「ラファイエットさんとバイイさんも一緒なら……」

「いつ帰って来るつもりなの?」カトリーヌがたずねた。

「ボクにはわかりません」

「だったらキミが帰って来た事情は?」

「フォルチエ神父のところにセバスチャン・ジルベールを連れて行き、ここにビヨさんの言伝をお伝えしに来たんです」

 そう言うとピトゥは立ち上がった。公使めいた威厳が見え隠れしていることに、使用人連中はともかく主人格なら気づくことが出来た。

 ビヨ夫人も立ち上がって人払いした。

 カトリーヌは坐ったまま、ピトゥが口を開く前に頭の奥の奥まで見透かそうとしていた。

 ――パパからはいったいどんな話があるのだろう?

 
 
 第59章終わり。第60章に続く。

『アンジュ・ピトゥ』59-5

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 ファン・オスターデ(Van Ostade)やブラウエル(Brauwer)の絵画に描かれたフランドル人のように、カトリーヌはだらだらと階段を降りて来た。【※Adriaen Van Ostade(1610-1685)、フランドルの画家。Adriaen Brauwer(1605-1638)、フランドルの画家。いずれも同門でオランダの農民の日常を描いた画家であり、flegme という作風ではない。】

「あら、ピトゥじゃない」一階に降りたカトリーヌが声をあげた。

 ピトゥが顔を赤らめて身体を震わせ、お辞儀した。

「兜をかぶってたんですよ」女中がカトリーヌに耳打ちした。

 その言葉を聞いたピトゥは、反応を確かめようとしてカトリーヌの顔を窺った。

 愛らしい顔が若干青ざめはしたものの、相変わらずふくよかでつやつやとしていた。

 だがピトゥの兜に対してはまるっきり感心した様子は見せなかった。

「兜? 何で?」

 今回ピトゥの胸に渦巻いたのは憤りの感情だった。

「兜と刀を持ってるのは――」ピトゥは胸を張って答えた。「どうしてかと言うと、龍騎兵やスイス人衛兵と戦い、やっつけたからです。お疑いならお父上に聞いてみて下さい。簡単なことです」

 何かに気を取られているようなカトリーヌの耳に届いたのは、ピトゥの返事の終盤だけのようだった。

「パパはどうしたの? どうして一緒に帰って来てないの? パリはいま非道い状態なの?」

「とても非道い状態です」

「全部うまく行っていると思っていたのに」

「うまく行きました。でも何もかもが混乱しているんです」

「国民と王様の話はまとまらなかったの? ネッケルさんは復帰しなかったの?」

「ネッケルさんのことは順調に行ってます」ピトゥは誇らしげに答えた。

「それでもみんな納得しなかったの?」

「納得したからこそ、復讐に励んで敵対者を殺しているところなんです」

「敵対者?」カトリーヌが驚きの声をあげた。「誰が国民(peuple)の敵だっていうの?」

「そりゃ貴族のことですよ」

 カトリーヌの顔から血の気が引いた。

「どんな人が貴族だというの?」

「決まってるじゃないですか。広い土地を持っていて――立派な城館を持っていて――国民(nation)を飢えさせて――ボクらは何も持っていないのに何でも持っている人たちのことです」

「ほかには?」カトリーヌが急かした。

「ボクらが歩いているというのに立派な馬と立派な馬車を持っている人たちです」

「そうなんだ」カトリーヌの顔色は土気色にまで変わっていた。

 ピトゥも顔色の変化に気づいた。

「あなたたちの知り合いも貴族ですよ」

「わたしの知り合いが?」

「あたしたちの知り合いが?」ビヨ夫人も声をあげた。

「誰のことよ?」カトリーヌが問いただした。

「例えばベルチエ・ド・ソーヴィニーさんです」

「ベルチエ・ド・ソーヴィニーさんが?」

「イジドールさんとダンスした日につけていた金の耳飾り(les boucles d'or)をくれたじゃありませんか」

「それで?」

「心臓を食べられているのを見ました。ボクのこの目で」

 恐怖の絶叫がほとばしり、カトリーヌが坐っていた椅子に崩れ落ちた。

「実際に見たのかい?」ビヨ夫人が恐ろしさに震えながらたずねた。

「ビヨさんも見ました」

『アンジュ・ピトゥ』59-4

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「わかったよ、じゃあ続きを」

「続きを話すのはカトリーヌさんが来てからにします。長い話なので」

 何人かが洗濯場まで走ってカトリーヌを捜した。

 だが誰もがあちこちと走り回っている間に、ピトゥは何気なく二階に通ずる階段に目を向けた。階下から吹き上げる風が二階まで空気の流れを作り出し、扉が開くと、窓を見ているカトリーヌが見えた。

 カトリーヌは森の方を見ていた。言い換えるならブルソンヌ(Boursonne)の方を。

 カトリーヌは見つめるのに夢中で、階下の騒ぎにもまったく慌てていなかったし、屋内のことにもとんと気を留めずに、家の外で起こっていることだけに目を注いでいた。

「ああ」ピトゥは溜息をついた。「森の方、ブルソンヌの方、イジドール・ド・シャルニーの方、つまりそう言うことだ」

 そして再び溜息をついた。先ほどよりもずっとつらそうな溜息だった。

 その時、探しに行っていた者たちが洗濯場をはじめカトリーヌのいそうなところから戻って来た。

「どうだった?」ビヨ夫人がたずねた。

「見当たりません」

「カトリーヌ!」

 ビヨ夫人の声は娘には届いていなかった。

 ピトゥが思い切ってビヨ夫人に伝えた。

「ビヨおばさん、カトリーヌさんが洗濯場で見つからないのは当然です」

「どうしてだい?」

「洗濯場にはいないからです」

「居場所を知ってるのかい?」

「はい」

「何処だい?」

「二階です」

 ピトゥは夫人の手をつかんで階段を何段か上り、カトリーヌが朝顔と木蔦で囲われた窓縁に坐っているのを見せた。

「おや髪を結ってるよ」

「それどころか完璧に結ってますよ」ピトゥが苦しげに声を出した。

 ビヨ夫人はピトゥの苦悩には気づかず、大きな声で呼びかけた。

「カトリーヌ!」

 カトリーヌは吃驚して身体を震わせ、慌てて窓を閉めた。

「何?」

「早くおいで」ビヨ夫人は自分の言葉がもたらすであろう効果を疑いもしていなかった。「アンジュがパリから帰って来たよ」

 ピトゥはカトリーヌの返事におそるおそる聞き耳を立てた。

「そう」カトリーヌは素っ気なかった。

 ピトゥの胸が締めつけられ打ちのめされた。

『アンジュ・ピトゥ』59-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「王様は?」ビヨ夫人がたずねた。

 ピトゥは首を横に振って、国王には屈辱的なことに舌打ちをした。

「お后様は?」

 今度は返答すらしなかった。

「そうなのかい!」ビヨ夫人が声をあげた。

「そうなのか!」居合わせた人々も同じく声をあげた。

「いろいろ話しておくれ」ビヨ夫人が改めてピトゥに言った。

「何でも聞いて下さい」ピトゥは注目を浴びるような話をカトリーヌのいないところで口にしたくはなかった。

「何で兜をかぶってるんだい?」ビヨ夫人がたずねた。

「戦利品です」

「戦利品?」

「そうなんです」ピトゥは大人が子供に説明して聞かせる時のような笑みを見せた。「ご存じないかもしれませんが、戦利品っていうのは敵を倒した時のものです」

「あんたが敵の一人を倒したっていうのかい?」

「一人ですって?」ピトゥが教え諭すように言った。「そうかビヨおばさんは知らないんですもんね、バスチーユを占拠したのはボクたち二人、ビヨさんとボクなんです」

 その言葉を聞いた者たちは魔法に打たれたようになった。昂奮した人々の息がピトゥの髪にかかり、椅子の背に何人もの手が掛けられた。

「話しとくれよ、うちの人のことを」ビヨ夫人が誇りと不安の入り混じった声を出した。

 ピトゥはカトリーヌが戻ってやしないかと改めて確かめたが、まだ姿はない。

 こうしてピトゥが最新の情報を持ち帰っているというのに、洗濯物から離れないでいるとは許しがたい。

 ピトゥは首を振った。不機嫌になりかけていた。

「話すのにはだいぶ時間がかかります」

「お腹が空いてる?」

「そうですね」

「水は?」

「いただけますか」

 馬丁や下男下女がすぐに行動に移った。ピトゥの頼みを考えて理解するよりも先に、水差しやパンや肉やあらゆる果物をピトゥに届けていた。

 現地の言い方に倣うならば、ピトゥは熱い胃袋を持っていた。つまりどれだけ食べても消化できた。だがいくら消化が早くとも、アンジェリク伯母の鶏肉を消化しきるのには早すぎた。まだ三十分も経っていない。

 望みが叶えられるのに思ったほど時間がかからなかったせいだ。それだけ食べ物の出て来るのが早かった。

 これは頑張らねばならないとわかり、ピトゥは食事に取りかかった。

 だが気持だけは強かったものの、すぐに手は止まってしまった。

「どうしたんだい?」ビヨ夫人がたずねた。

「おばさん、実は……」

「飲み物を持って来ておくれ」

「林檎酒がありますから」

「でもきっとブランデーの方がいいんだろうね?」

「ブランデー?」

「パリではしょっちゅう飲んでたんだろう?」

 無邪気なビヨ夫人と来たら、ピトゥが地元を離れていた十二日の間に悪習を身につけて来たと考えていたのだ。

 ピトゥは胸を張ってそんな勘ぐりを退けた。

「ブランデーなんて飲みません!」

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
  • RSS
  • 01 | 2018/02 | 03
    S M T W T F S
    - - - - 1 2 3
    4 5 6 7 8 9 10
    11 12 13 14 15 16 17
    18 19 20 21 22 23 24
    25 26 27 28 - - -

    SEARCH

    RECENT ENTRIES

    CATEGORY

    RECENT TRACKBACKS

    RECENT COMMENTS

    ARCHIVES

  • 2018年02月 (3)
  • 2018年01月 (4)
  • 2017年12月 (5)
  • 2017年11月 (4)
  • 2017年10月 (4)
  • 2017年09月 (5)
  • 2017年08月 (4)
  • 2017年07月 (5)
  • 2017年06月 (3)
  • 2017年05月 (5)
  • 2017年04月 (4)
  • 2017年03月 (4)
  • 2017年02月 (4)
  • 2017年01月 (4)
  • 2016年12月 (5)
  • 2016年11月 (4)
  • 2016年10月 (5)
  • 2016年09月 (4)
  • 2016年08月 (4)
  • 2016年07月 (5)
  • 2016年06月 (4)
  • 2016年05月 (4)
  • 2016年04月 (5)
  • 2016年03月 (4)
  • 2016年02月 (4)
  • 2016年01月 (5)
  • 2015年12月 (4)
  • 2015年11月 (4)
  • 2015年10月 (5)
  • 2015年09月 (4)
  • 2015年08月 (5)
  • 2015年07月 (4)
  • 2015年06月 (4)
  • 2015年05月 (5)
  • 2015年04月 (4)
  • 2015年03月 (4)
  • 2015年02月 (4)
  • 2015年01月 (4)
  • 2014年12月 (4)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (4)
  • 2014年09月 (4)
  • 2014年08月 (5)
  • 2014年07月 (4)
  • 2014年06月 (4)
  • 2014年05月 (4)
  • 2014年04月 (4)
  • 2014年03月 (5)
  • 2014年02月 (4)
  • 2014年01月 (3)
  • 2013年12月 (4)
  • 2013年11月 (5)
  • 2013年10月 (5)
  • 2013年09月 (5)
  • 2013年08月 (4)
  • 2013年07月 (4)
  • 2013年06月 (5)
  • 2013年05月 (5)
  • 2013年04月 (4)
  • 2013年03月 (5)
  • 2013年02月 (4)
  • 2013年01月 (4)
  • 2012年12月 (5)
  • 2012年11月 (3)
  • 2012年10月 (4)
  • 2012年09月 (5)
  • 2012年08月 (4)
  • 2012年07月 (4)
  • 2012年06月 (5)
  • 2012年05月 (4)
  • 2012年04月 (4)
  • 2012年03月 (6)
  • 2012年02月 (4)
  • 2012年01月 (2)
  • 2011年12月 (4)
  • 2011年11月 (5)
  • 2011年10月 (6)
  • 2011年09月 (5)
  • 2011年08月 (5)
  • 2011年07月 (5)
  • 2011年06月 (4)
  • 2011年05月 (4)
  • 2011年04月 (5)
  • 2011年03月 (5)
  • 2011年02月 (7)
  • 2011年01月 (5)
  • 2010年12月 (5)
  • 2010年11月 (4)
  • 2010年10月 (5)
  • 2010年09月 (5)
  • 2010年08月 (4)
  • 2010年07月 (5)
  • 2010年06月 (4)
  • 2010年05月 (5)
  • 2010年04月 (5)
  • 2010年03月 (9)
  • 2010年02月 (5)
  • 2010年01月 (5)
  • 2009年12月 (5)
  • 2009年11月 (5)
  • 2009年10月 (5)
  • 2009年09月 (4)
  • 2009年08月 (5)
  • 2009年07月 (4)
  • 2009年06月 (4)
  • 2009年05月 (5)
  • 2009年04月 (4)
  • 2009年03月 (5)
  • 2009年02月 (3)
  • 2009年01月 (5)
  • 2008年12月 (4)
  • 2008年11月 (5)
  • 2008年10月 (4)
  • 2008年09月 (4)
  • 2008年08月 (3)
  • 2007年06月 (5)
  • 2007年05月 (3)
  • 2007年04月 (3)
  • 2007年02月 (4)
  • 2007年01月 (3)
  • 2006年12月 (1)
  • 2006年11月 (2)
  • 2006年10月 (1)
  • 2006年09月 (6)
  • 2006年08月 (13)
  • 2006年07月 (6)
  • 2006年06月 (10)
  • 2006年05月 (2)
  • 2006年04月 (4)
  • 2006年03月 (3)
  • 2006年02月 (11)
  • 2006年01月 (10)
  • 2005年12月 (14)
  • 2005年11月 (17)
  • 2005年10月 (3)
  • 2005年09月 (27)
  • 2005年08月 (3)
  • 2005年02月 (3)
  • 2005年01月 (8)
  • LINKS

    SEARCH

    SEARCH