翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 150

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百五十章 父と息子

 フィリップが戻ると、アンドレがひどく狼狽えて不安がっていた。

「お兄様。お兄様がいない間に、わたくしの身に起こったことを残らず考えておりました。わたくしに残っていた理性をすっかり飲み込んでしまいそうな深淵でございました。お兄様はルイ先生にお会いになったのでしょう?」

「先生のところから戻ったところだよ」

「あの人はわたくしをひどく侮辱なさいました。正しかったのでしょうか?」

「間違ってはいなかった」

 アンドレは青ざめ、細く白い指を神経質に引きつらせた。

「名前を。わたくしを破滅させた卑怯者の名前は?」

「ずっと知らない方がいい」

「フィリップ、嘘は仰らないで。ご自分の良心を誤魔化さないで……名前を知る必要があるんです。わたくしは弱いだけの人間で、祈ることくらいしか出来ません。祈ることで犯人に神の怒りをもたらしてやれるのです……その為にも、犯人の名前を」

「その話はよそう」

 アンドレがフィリップの手をつかみ、顔を見つめた。

「それがお兄様のお返事ですか? 腰に剣を佩いているお兄様の?」

 フィリップはアンドレの激しさにたじたじとなったが、すぐに自分の怒りは抑え込んだ。

「アンドレ、自分でも知らないことを教えることは出来ない。ぼくらを悩ましている運命が、それが明らかにならぬよう定めたのだ。秘密にしておこうという願いも我が家の名誉と共に危険に晒されたけれど、神がせめてもの情けをかけて誰からも触れられぬようにしてくれるはずだ。誰からも……」

「例外が一人だけいます、フィリップ……高らかに笑い、わたくしたちに歯向かっている人間が!……きっと人の目の届かない隠れ場所から、わたくしたちを嘲笑っているんです」

 フィリップが拳を固め、天井を見上げたまま、一言も答えなかった。

「その男のことを――」アンドレが怒りと苛立ちをさらに高まらせた。「わたくしはその男のことを知っているような気がするんです……フィリップ、思い出させてしまってごめんなさい。あの男がわたくしに不思議な力を及ぼしていることはもうお伝えしましたね。お兄様はあの人のところに会いに行ってしまったのでしょう」

「その人は違うんだ。会って確かめてきた……もういい。もう忘れるんだ。もう考えなくてもいい……」

「フィリップ、あの人よりも高いところを一緒に目指しましょう。お嫌?……この王国の権力者たちの最上段まで……国王のところまで!」

 フィリップはアンドレを抱き締めた。何も知らぬまま憤りに震えているアンドレは、哀れで神々しかった。

「いいかい、目を覚ましている状態で名を挙げている人たちのことを、おまえは眠っている間に名を挙げていたんだ。今こうして美徳の限りに非難してしている人たちに対して、罪が犯されるのを目にしながら無実を訴えたんだ」

「ではわたくしは犯人を名指ししたのですね?」アンドレの目に炎が灯った。

「いいや。そんなことはない。もう質問をするのはやめてくれ。ぼくに倣って運命に従おう。起こってしまったことは元には戻らない。犯人が罰せられないのはおまえにとっては二重の苦しみだろう。だが希望はある。希望……神は何よりも偉大だからね。神は不幸に押しつぶされた人に、復讐と呼ぶ甘美な悲しみを残してくれた」

「復讐……!」フィリップがこの言葉に込めた恐ろしい響きに、その言葉を繰り返したアンドレも怯えていた。

「今のところは休むといい。ぼくの好奇心のせいでおまえに悲しい思いや恥ずかしい思いをさせてしまったね。予め知ってさえいたら! わかってさえいたら!……」

 フィリップは悔しさのあまり両手に頭をうずめた。だがすぐに顔を上げた。

「ぼくは何を嘆いているんだ?」フィリップは笑みを浮かべた。「純粋で、ぼくのことを愛している妹がいるんじゃないか! 信頼も愛情も裏切ったりはしなかった。ぼくのように若く、ぼくのように誠実だった。ぼくらは共に暮らし、共に歳を取ってゆくんだ……二人なら、世界の誰よりも強くなれる!……」

 フィリップが慰めの言葉を綴るにつれ、アンドレの顔色が翳って行った。顔をさらに青ざめさせてうつむき、フィリップが気丈にもふるい落としたばかりの絶望的な態度と眼差しを湛えていた。

「二人のことなど二度と話さないで下さい!」青く鋭い目を、動揺しているフィリップの顔に向けた。

「じゃあ何を話せばいいんだい、アンドレ?」フィリップはアンドレの視線を受け止めた。

「だって……わたくしたちにはお父様がいます……お父様が娘を裏切ると言うのですか?」

「昨日言った通りだよ」フィリップは淡々と言葉を返した。「悲しいことも恐ろしいこともみんな忘れてしまうんだ。朝靄を吹き払う風のように、ぼく以外の思い出も愛情も吹き払ってしまって欲しい……だってアンドレ、この世の誰も愛してはいなかったのだろう。ぼくのほかには。ぼくが愛していたのもおまえだけだ。哀れなみなし児が、どうして感謝や親戚といったくびきに囚われなくちゃならないんだ? ぼくらが恩恵を受けたことがあったか? 父から守ってもらったことがあったか?……ははっ!」フィリップは苦々しい笑みを浮かべた。「ぼくの考えていることならすっかりわかっているだろう。ぼくの気持などお見通しだろう……今話している人のことを愛さなくてはならなかったなら、『愛しなさい』と言っていたさ。ぼくは黙るから、おまえも口を閉じるといい」

「でもお兄様……わたくしに必要なのは信じることでしょうか……?」

「ねえ、恐ろしい災難の中で、子供というのは知らず知らずのうちに、理解できないながらも『神を恐れよ!』という言葉が鳴り響くのを聞いているものさ……ああ、そうだとも。神様は残酷にもぼくらに思い出させたんだ……『父を敬え……』とね。敬意を最大限に表そうと思ったら、おまえに出来ることは記憶を消し去ることだろうな」

「本当にその通りね……」アンドレは侘びしげに呟いて、椅子に倒れ込んだ。

「アンドレ、どうでもいい話で時間を無駄にするのはよそう。身のまわり品を揃えるんだ。ルイ先生が王太子妃殿下に会いに行って、おまえがいなくなることを伝えてくれる。どんな理由をつける予定なのかわかっているね……原因不明で苦しんでいるから、空気を変える必要があると……出発に必要なものを用意してくれ」

 アンドレが立ち上がった。

「家具はどうしますの?」

「それは無理だ。下着に上着に宝石」

 アンドレは言われた通りにした。

 まずは洋服箪笥や、ジルベールが隠れていた衣装部屋の衣装を片し、それから、貴重品箱に移すつもりだった宝石を幾つか手に取った。

「それは……?」

「トリアノンで陛下に謁見した際に賜った装身具です」

 贈り物が豪華なのを見てフィリップの顔が青ざめた。

「この宝石だけで、何処に行ってもそこそこの生活が出来ますわ。真珠だけでも十万リーヴルだと聞きました」

 フィリップが宝石箱を閉じた。

「驚くほど高価だね」

 と言って、宝石箱をアンドレの手に戻した。

「ほかにも宝石があるんだろう?」

「でもこの宝石とは比較にはなりません。母がお洒落をした時に身につけていたもので、十五年も前の……懐中時計、ブレスレット、ダイヤの散りばめられた耳飾り。それに肖像画もあります。お父様はみんな売ろうとなさいました。流行遅れだからと言って」

「それがすべてここに残っているんだね。ぼくらの唯一の財産だ。金は溶かして、肖像画の宝石は売ろう。それで二万リーヴルにはなる。貧乏人には充分な額だよ」

「でも……この真珠の宝石箱はわたくしのものです!」

「触れちゃ駄目だ。火傷するぞ。この真珠には奇妙な性質があって……顔に触れると痣が出来るんだ……」

 アンドレが身震いした。

「この宝石箱はぼくが預かるよ。正当な権利を持つ人に返そうと思うんだ。これはぼくらのものじゃない。何一つ主張するつもりはないね?」

「お兄様がそう仰るのでしたら」アンドレは恥ずかしさに震えた。

「じゃあ着替えてくれ。妃殿下に最後のご挨拶をしに伺おう。これほど高貴な主人の許から離れるんだから、ちゃんと落ち着いて、敬意を払い、胸に刻むんだぞ」

「もちろん胸に刻みますわ」感極まったアンドレが囁いた。「今度の不幸の中でも一番辛いことですもの」

「ぼくはパリに行くけれど、夕方頃には戻って来る。着いたらすぐに迎えに来るよ。必要な人たちには支払いを済ませておくんだぞ」

「そんな人はおりません。ニコルがいましたけれど、逃げてしまいましたから……あら、ジルベールのことを忘れていました」

 フィリップの背筋が凍り、目に炎が灯った。

「ジルベールにそんなことをする必要があるのか?」

「ええ」アンドレは当たり前のように答えた。「季節の初めから花を届けてくれましたから。それにお兄様も仰ったように、あの子には不当に厳しく接することもありましたし。何だかんだ言っても慇懃な子だったのに……何らかの形でお礼をしようと思っています」

「ジルベールなど放っておけ」フィリップが声を絞り出した。

「どうしてですか?……庭にいるでしょうから、何なら呼びに行かせましょう」

「駄目だ! 貴重な時間を無駄にするな……そんなことをせずとも、並木道を歩いて行けば、途中で出くわすだろうから……ぼくが話して……お礼を言っておくよ……」

「そういうことでしたら構いません」

「ああ。それじゃあ晩に」

 フィリップは腕の中に飛び込んで来たアンドレの手に口づけをした。心臓の鼓動が伝わるまで優しく抱き締めると、時間を無駄にせずパリに向かい、コック=エロン街の門前で馬車から降りた。

 そこに行けば父と会えることはわかっていた。男爵はリシュリューとおかしな仲違いしてからは、ヴェルサイユでの耐えがたい生活を良しとせず、活動的な人々がよくやるように、場所を変えることで無為な感覚を紛らそうとしていたのだ。

 フィリップが正門の小窓から訪いを告げた時には、男爵は悪態をつきながら宿の庭や隣接する中庭を歩き回っていた。

 呼鈴の音にびくりとすると、男爵自ら門を開けに現れた。

 人が来るとは思っていなかったので、こたびの予期せぬ訪問に期待を抱いていたのだ。転落した人間はどんな枝にもしがみつきたがる。

 悔しさと好奇心の入り混じった捕えがたい気持で、男爵はフィリップを迎え入れた。

 だが息子の青ざめて強張った顔や痙攣する口を見るや、質問しようとして開いた口は凍りついた。

「お前か!」とだけ言うのがやっとだった。「どういう風の吹き回しだ?」

「これからご説明いたします」

「ふん! 一大事か?」

「極めて重大なことです」

「お前はいつも仰々しいから不安でならん……それで、今回の報せは不幸と幸運のどっちじゃ?」

「不幸の方です」フィリップの声は重かった。

 男爵の身体がかしいだ。

「ここにはぼくたちしかいませんね?」

「無論だ」

「家に入りませんか?」

「どうして外ではいかん? この木の下では……?」

「明るい空の下では言えないようなことだからです」

 男爵は息子を見つめ、無言で招かれるがままに従った。平静を装って笑みまで浮かべて地下室までついて行くと、フィリップが扉を開けて待っていた。

 扉がしっかりと閉められると、フィリップは父親が話せと合図するのを待った。男爵は部屋で一番いい椅子にどっかりと腰を下ろしている。

「父上、アンドレとぼくは、父上とお別れすることになりました」

「どういうことだ?」男爵は驚いてたずねた。「行ってしまうというのか!……では兵役はどうなる?」

「もう兵役などありません。ご存じの通り、国王のお約束は実現しませんでしたから……幸いなことに」

「幸いだと? 意味がわからん」

「父上……」

「説明せんか。聯隊長になれぬのが幸いとはどういうことだ? 哲学をこじらせおったか?」

「たいした哲学ではありません。不名誉よりは運命を取ったまでです。ですがこの種の理由には突っ込まないでいただけませんか……」

「突っ込まずにおられるか!」

「お願いです……」フィリップのかたくなな言葉からは、『嫌だ!』という叫びが聞き取れた。

 男爵が眉をひそめた。

「妹はどうなんじゃ?……あれも務めを忘れてしまったのか? 妃殿下のおそばにお仕えするという……?」

「まさしく、ほかにしなくてはならない務めがあるのです」

「どういった務めじゃ?」

「極めて緊急性の高いものです」

 男爵が立ち上がった。

「うつけ者めが。謎めいたたわごとをほざきよって」

「ぼくの言ったことが謎めいていたでしょうか?」

「謎ばかりではないか」と答えた男爵は驚くほどに冷静だった。

「それでは説明いたします。アンドレが立ち去るのは、不名誉から逃れるために雲隠れを余儀なくされたからです」

 男爵が笑い出した。

「はッ! たいした親孝行どもじゃのう! 息子は不名誉を恐れて聯隊という希望を諦め、娘は不名誉を怖がってせっかくつかんだ地位を捨ててしまうのだから。ブルートゥスとルクレティアの時代に戻れればのう! わしの若かった頃は良い時代ではなかったし、哲学にとっては冬の時代だったろうが、不名誉を蒙るのがわかっておって、お前のように腰に剣を佩いているうえに、二人の師と三人の隊長に教えを受けているのなら、剣の切っ先にその不名誉を突き刺していたところだぞ」

 フィリップは肩をすくめた。

「そうじゃろう。血を見たくない博愛主義者にとっては、わしの言っていることは嫌なことじゃろうな。だがな、軍人というのは哲学者になる為に生まれて来たわけではない」

「父上と同様、ぼくにだって名誉に関わる問題を背負う覚悟はあります。ですが血を流してあがなうのではなく……」

「口先だけ!……詭弁か……哲学者のお家芸じゃな!」男爵の怒りに凄みが現れ始めていた。「確か、臆病者の話をしようとしていたところじゃったな」

「しようとしただけでやめて下さったのは正解でしょう」フィリップは青ざめ、震えていた。

 フィリップの挑むような視線に、男爵は毅然として応えた。

「わしを言いくるめようとしている人間ほどには、わしの理屈は錆びついておらぬぞ。この世で不名誉を蒙るのは、おこないのせいではなく言葉があるからじゃ。犯罪者が聾や盲や唖の前に引き出されて、不名誉を感じると思うのか? どうせ馬鹿な格言を持ち出すつもりじゃろう。

『恥を生むのは罪であり、断頭台ではない』

「女子供が相手ならそれでも良かろう。だが男が相手ではそうはいかぬぞ! まるで外国語だわい……男を作り出したと思っておったが……とにかく、盲の目が明き、聾の耳が聞こえ、唖が口を利くようになれば、剣の鍔に手を置き、目を潰し、鼓膜を破り、最後に舌を切り取るがいい。タヴェルネ=メゾン=ルージュの名を戴く男は侮辱に対してそのように答えねばらなん!」

「その名を戴く人間なら、やるべきことの中でも第一にしなければならないのは、不名誉な行動を取らぬことだと心得ております。だからこそあなたに反論するつもりはありません。ただし、時には避けがたい不運から恥が生まれることもあるではありませんか。それがアンドレとぼくに起こったことなのです」

「アンドレの話に移ろうか。わしに言わせれば、男なら抗えることから逃げてはならぬし、女とて毅然として耐えねばならぬ。哲学者殿よ、悪意ある攻撃を防ぐことが出来ぬのであれば、美徳に何の意味があるのだ? 悪意に勝てぬのであれば、美徳に活躍の場などあるのか?」

 そう言ってタヴェルネ男爵はまた笑った。

「ド・タヴェルネ嬢は怯えている……そうだな?……それで弱気になっている……つまり……」

 フィリップが突然歩み寄った。

「父上、ド・タヴェルネ嬢は弱気になったのではなく、征服されたのです! 罠に嵌められ、陥れられたのです」

「罠だと……?」

「そうです。染み一つない名誉を貶めようと企んだろくでなしに報いを受けさせる為に、先ほどは父上を煽るようなことを申しました」

「わからんが……」

「すぐにおわかりになります……ある卑劣漢がド・タヴェルネ嬢の部屋に人を引き入れたのです……」

 男爵の顔から血の気が引いた。

「犯人はタヴェルネの名に……ぼくの……そして父上の名に……消せない汚点をつけようとしたのです……さあ、父上の剣は何処ですか? 血を流すに足る出来事ではありませんか」

「フィリップ……」

「ああ、心配はいりません。表立って誰かを非難しても告発してもいませんから……犯罪は暗がりの中で計画され、暗がりの中で実行されたのです……その結果も暗がりの中に消えてくれることを願っています! 我が家の栄光をぼくなりに誇っているのですから」

「どうやって知ったのだ……?」茫然としていた男爵が、恐ろしい野心とおぞましい希望の力で我に返った。「どんな徴候があったのだ……?」

「ここ何か月かの間にぼくの妹を――あなたの娘を――見かけた人の誰一人として、そのようなことをたずねたりはしませんでした!」

「だがな、フィリップ」男爵の目には歓喜が溢れていた。「我が家の運命と栄光は消えてなくなってはおらぬ。わしらは勝利を収めたのじゃ!」

「やはり……父上はぼくの考えていた通りの人でした」フィリップの言葉には激しい嫌悪が滲んでいた。「本音を洩らしましたね。息子の前で感情を忘れてしまっただけでなく、神の前でも心を無くしてしまったのですね」

「たわけ者めが!」

「落ち着いて下さい! 大きな声を出すと、凍てついた母の幽霊が目を覚ましてしまいますよ! 生きていれば、我が娘を見守ってくれたでしょうに」

 フィリップの目からほとばしる光のまぶしさに、男爵は瞼を伏せた。

「わしの娘は、父の意思に反して立ち去ったりはせんよ」と、ようやく口を開いた。

「ぼくの妹は、父上と二度と会うことはないでしょう」

「本人がそう言ったのか?」

「父上にそう伝えるように本人から言われたのです」

 男爵は震える手を伸ばし、血の気の引いて湿った口唇を拭った。

「まあよいわ!」

 と言って肩をすくめた。

「子供に関しては運がなかったの。馬鹿と人でなしとは」

 フィリップは口答えしなかった。

「もうよいわ。もうお前たちなどいらぬ。行ってしまえ……言いたいことを言ってしまったのであればな」

「あと二つ申し上げたいことがあります」

「言うてみろ」

「一つ目です。国王が父上に下さった真珠の宝石箱ですが……」

「お前の妹に、であろう……」

「父上に、です……何にしてもどうでもいいことです。アンドレはあのような宝石を身につけたりはませんから……ド・タヴェルネ嬢は娼婦ではありません。宝石箱をお返しして下さるよう言づかって来ました。ただし、ぼくらにあれほど親切にして下さった陛下のご機嫌を損ねるのがご心配でしたら、どうかお手元にお留め下さい」

 フィリップは父に宝石箱を差し出した。男爵は箱を受け取って蓋を開き、真珠を見つめてから洋箪笥の上に箱を放った。

「次は?」

「二つ目に、ぼくらは裕福ではありません。母の財産まで質に入れたり使ったりしていたくらいですから。ですから非難するつもりはありません。とんでもないことです……」

「それでよかったのかもしれん」男爵が歯を軋らせた。

「ですがぼくらにはささやかな財産の一つであるタヴェルネしかないのですから、父上はタヴェルネとこの家のどちらかを選んで住んで下さい。ぼくたちは残りの方に引き籠もります」

 男爵がレースの胸飾りをしわくちゃにした。怒りに耐えているのは、その手が震え、額が汗ばみ、口唇が震えているところからしかわからなかった。フィリップは気づきもせずにそっぽを向いていた。

「タヴェルネにしよう」

「ではぼくらは宿を」

「好きにせい」

「いつ出発なさいますか?」

「今晩……いや、今すぐにだ」

 フィリップが頭を下げた。

「タヴェルネでは、三千リーヴルの年金があれば大金持じゃ……わしはその二倍の金持じゃな」

 男爵は洋箪笥に手を伸ばし、宝石箱をつかんでポケットに入れた。

 それから戸口に向かったが、不意に残忍な笑みを浮かべて引き返して来た。

「フィリップよ、これから哲学論を発表することがあれば、我が家の名を冠しても構わぬぞ。アンドレには……初めての子が授かったら……ルイかルイーズと名づけてくれるよう伝えてくれ。幸運をもたらす名じゃからの」

 男爵は卑屈に笑って立ち去った。フィリップは目を血走らせ、顔を上気させ、剣の鍔に手を掛けて呟いた。

「神よ! 我に忍耐と忘却を与え給え!」

『ジョゼフ・バルサモ』 149

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第百四十九章 ルイ医師の小庭園

 前章でフィリップが訪れたのが、ルイ医師の家であった。ルイ医師は四方を塀に囲まれた小さな庭を歩き回っていた。そこは古いウルスラ修道院の一部であり、現在は国王親衛隊の竜騎兵用の秣倉庫になっていた。

 医師は歩きながら、出版予定の新作の試し刷りを読んでいるところだった。時折しゃがみ込んでは、歩いている並木道や左右に広がっている花壇から、好き勝手に伸びている雑草を引き抜いていた。

 愛想の良くない家政婦が一人で、仕事の邪魔をされたくない医師の為に、家事のすべてを取り仕切っていた。

 フィリップの手の下で青銅の敲き金が立てた物音を聞いて、家政婦は門に近づいて扉を細めに開けた。

 だがフィリップは家政婦と話し合うことも厭って、扉を押しやり中に入って来た。いったん並木道に入れば、庭が見え、庭には医師がいた。

 厳戒中の番人の如く、フィリップは声も音も立てずに庭に駆け込んだ。

 足音に気づいて医師が顔を上げた。

「おや、あなたですか!」

「勝手に押し入って一人きりの時間を邪魔してしまったことをお許し下さい。ですが、あなたがお考えになっていた瞬間が来たのです。ぼくにはあなたが必要なんです。あなたの助けを請わねばならないのです」

「確かにお約束いたしました。お助けしましょう」

 フィリップがお辞儀をした。感激のあまり何も言葉が出て来なかった。

 ルイ医師はその気持を酌み取った。

「妹さんの具合は如何ですか?」フィリップがあまりに真っ青だったので、何らかの悲劇が起こったのではないかと不安になってたずねた。

「おかげさまで何よりです。妹ほど誠実で気高い女はいないのに、苦しみや脅威に晒されるとしたら、神様は不公平だと言うしかありません」

 医師はフィリップを物問いたげに見つめた。昨夜のことを否定されているように聞こえたのだ。

「では、妹さんは何らかの事件や罠の犠牲になったのだと?」

「その通りです、先生。途方もない事件の犠牲者であり、おぞましい罠の犠牲者でした」

 医師は手を組み、天を仰いだ。

「ああ! そういう点では私たちはひどい時代に生きているのですよ。ずっと前から個人専属の医者は生まれていたのですから、これからは国民全員の医者を作り出すのが緊急の課題だと考えております」

「その通りです。そんな時代が来てくれたら、誰よりも嬉しい気持でそれを見守ることでしょう。ですが今は……」

 フィリップはひどく脅すような仕種をした。

「そうですか! あなたも、罪を償うには暴力や死をもってと考えている人なのですね」

「そうです」フィリップの声は穏やかだった。「ぼくはそういう人間です」

「決闘ですか」医師は溜息をついた。「犯人を殺すことが出来たとしても、妹さんの名誉は回復しませんし、あなたが殺されるようなことがあれば妹さんを絶望の底に投げ込むことになるだけですよ。あなたは真っ直ぐな心と、聡明な魂の持ち主だと思っておりました。この事件のことは何もかも隠し通したがっているとばかり思っていましたが?」

 フィリップが医師の腕を押さえた。

「どういうわけかわかりませんが、先生は誤解していらっしゃいます。深い確信と汚れない良心にかけて、ぼくの頭ははっきりとしています。ぼくの望みは、この手で裁きをおこなうことではなく、裁きを受けさせることです。ぼくの望みは、妹をひとりぽっちにすることでもぼくを亡くして死んだも同然にすることでもなく、ろくでなしを殺して妹の恨みを晴らしてやることなんです」

「あなたが殺すというのですか? 殺人を犯すのですか?」

「もし罪が犯される十分前に姿を見かけていたなら――あんな立場の人間が足を踏み入れる権利などない部屋に盗っ人のように入り込むのを見かけていたなら――ぼくは犯人を殺していましたし、ぼくの行動は正しかったのだと言われたことでしょう。だったらどうして今になって犯人を見逃さなくてはならないのですか? 罪が浄化されたとでもいうのでしょうか?」

「では、そんな残酷な計画を、心の中で固め、魂に誓っているのですね?」

「誓っていますとも! 心を固めていますとも! 何処に隠れていようといつか必ず見つけ出し、見つけた暁には、憐れみも後悔も見せずに、犬のようにぶち殺してやります!」

「ではあなたは、犯人と同じような罪を――それ以上に恐ろしい罪を――犯すことになるのですよ。女の不用意な言葉や媚びた仕種が、男の願望や気持を何処に向かわせるかわかったものでもないというのに。人殺しなどと! ほかの償わせ方があるのではありませんか、結婚させるとか……」

 フィリップが顔を上げた。

「タヴェルネ=メゾン=ルージュの歴史は十字軍にまで遡り、妹の身分は内親王や大公女にも匹敵するのだということをご存じないのですか?」

「そうでしたか。犯人はそうではなく、平民であり愚民であり、あなた方とは別の人間だというわけですね。ええ、そうですとも」医師は辛辣な笑みを見せた。「仰る通りだ。神は劣った粘土から造った人間を、優れた粘土で造った人間に殺して欲しいのですよ。まったくあなたは正しい。どうぞお殺りなさい」

 医師はフィリップに背を向け、雑草取りの作業に戻った。

 フィリップが腕を組んだ。

「先生、聞いて下さい。今ここで問題にしているのは、何だかんだ言って浮気女からその気にさせるようなことをされた色男なのではありません。問題にしているのは、ぼくらに養ってもらったろくでなしのことなんです。慈悲のパンを口にしていた癖に、夜中に眠ったように気絶して仮死状態になっているのをいいことに、恩を仇で返して卑怯にも、この世でもっとも清らかで純粋な女を汚したろくでなしなんです。昼間の光では顔をまともに見ることも出来ない癖に。法廷に出ればこの犯人には死刑の宣告が待っているに違いないんです。それなら法廷のように公正に、ぼくが裁いてやる。ぼくが殺してやる。先生のことは寛大で立派な方だと信じています。ぼくにこの務めを果たさせてもらえませんか? でなければ、犯人を引き渡すという条件を認めてくれませんか? 親切な第三者として役目を果たし自己満足しようとするような方だったんですか? そうだとしたら、先生は尊敬していたような素晴らしい方ではなく、普通の人間だったんですね。あなたは先ほどぼくを軽蔑してみせたけれど、ぼくの方がよっぽど尊敬できる人間ですよ。何の下心もなく秘密をすっかり打ち明けたんですから」

「つまり――」医師が考え込んだ。「犯人が逃亡したと仰るのですか?」

「そうです。事情の説明が始まりそうなことに感づいたのでしょう。非難されているのを聞いて、慌てて逃げ出したんです」

「では、これからどうなさるおつもりですか?」医師がたずねた。

「手を貸していただけませんか。妹をヴェルサイユから連れ出し、何も洩れることのない濃い闇の中に、明らかにされれば恥辱となるような恐ろしい秘密を埋めてしまいたいのです」

「一つだけ訊きたいことがあります」

 フィリップが不機嫌な顔をした。

「まあまあ」医師はなだめるような仕種をした。「僧侶代わりに懺悔された哲学者としては、務めとしてではなく主義主張を持つ権利に基づいて、条件をつけなくてはなりますまい。思いやりとは為すべき務めであって、単なる美徳ではありません。人を殺すと仰いましたね。私はどんな手を使ってでも全力でそれを阻止しなくては。その為には暴力も辞しません。妹さんに降りかかった災難を自ら裁くのも阻止したのですから。だからどうか、私に誓って下さい」

「嫌だ! 嫌です!」

「誓ってもらわなくては」ルイ医師が声を荒げた。「誓いなさい。神の手を意識して、その拳も間合いも見誤らないようになさい。もう少しで犯人を捕まえるところだったと仰いましたね?」

「そうなんです。あそこにいるとわかっていたなら、扉を開けて顔を合わせていたでしょうに」

「それで犯人は逃げ出して震え出し、辛い逃亡生活が始まったというわけですか。ああ、笑っていますね。神がお造りになったものがあなたには足りないのです! 悔恨という気持があなたには欠けているようだ! どうか落ち着きなさい! これからも妹さんのそばに居続けて、犯人を追いかけたりしないと約束して下さい。あなたが犯人と再会することがあれば――言いかえれば、神が犯人をあなたに売り渡したとしたら――私も男ですからね!――あなたにもわかるでしょう!」

「馬鹿らしい。犯人が逃げずにいるとでも?」

「わからないではありませんか? 殺人犯は逃げ出し、隠れ場所を探し、死刑台を恐れ、それでも磁石に引かれるように、裁判所の柵に引き寄せられ、死刑執行人の手の下に頭を垂れに来るものです。もっとも、あなたが辛い思いで実行しようとしていたことをやめるのが問題でしょうか? あなたが生きている世界にとっては問題であり、妹さんの純潔を明らかに出来ない人には問題なのでしょう。あなたが人を殺すのも、そのことで好奇心を何倍も満足させてくれるのを楽しみにしている暇人の為でしかありません。野次馬たちは最初は犯行の告白を聞いて楽しみ、次に罰が下るのを大騒ぎして楽しむつもりなんですよ。いけません。私を信じて沈黙を貫き、今回の不幸を隠し通す覚悟をなさい」

「あのろくでなしをぼくが殺したとして、殺したのが妹の為なのかどうか、誰にわかります?」

「殺した動機が見つかるに違いありません」

「いいでしょう。あなたの言う通りにして、ぼくは犯人を追うのはよしますが、きっと神が裁いて下さることでしょう。神は罰から免れることを餌にして、犯人をぼくの許まで届けて下さるはずです」

「では、神が裁くことでしょう。手をお貸し下さい」

「どうぞ」

「ド・タヴェルネ嬢の為にしなくてはならないことは何ですか?」

「しばらく王太子妃殿下のおそばを離れる口実を考えなくてはなりません。ホームシック、環境、政治……」

「難しく考えることはありません」

「そうですね。あなたについては信頼いたします。ですから妹をフランスの片隅――例えばタヴェルネ――人の目からも猜疑の目からも遠く離れたところに連れて行くことにします」

「それはいけません。あの子には継続的な治療と絶え間ない安らぎが必要です。恐らくは科学の助けが必要になるに違いありません。この辺りで私の知っている小村を探しますから、そこならあなたが連れて行く予定の田舎よりも百倍も人目につかず百倍も安心な隠れ家となるでしょう」

「先生、そうお思いですか?」

「そう思うのにも理由があります。水に石が落ちて広がる輪のように、疑いとは中心から遠ざかるにつれ拡散してゆくものなのですよ。ですが石そのものは拡散しませんし、波紋が消えてしまえば原因を見つけることは出来ませんし、石は水の奥深くに沈んでしまっているものです」

「ではお願いいたします」

「今日から始めましょう」

「妃殿下に知らせていただけますか」

「今朝すぐに」

「ほかの点については……?」

「二十四時間後には答えがわかります」

「何とお礼を言って良いか! あなたこそ神様です!」

「では、すべて決まったからには、あなたは自分のすべきことをなさい。妹さんのところに戻って慰め守っておやりなさい」

「それでは失礼いたします、先生!」

 医師はフィリップが見えなくなるまで見送ると、再び歩き始め、庭の点検と掃除を再開した。

『ジョゼフ・バルサモ』 148

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第百四十八章 真相

 バルサモが扉を閉じて戸口に姿を見せると、フィリップが恐れと好奇心の入り混じった目を妹に向けていた。

「覚悟はいいかな、騎士シュヴァリエ?」

「ええ、大丈夫です」フィリップは震えながら呟いた。

「では妹さんに質問を始めるぞ?」

「お願いします」フィリップは深呼吸して、胸にかかる重みを和らげようとした。

「だがその前に、妹さんを見てもらおう」

「見ています」

「間違いなく眠っているな?」

「ええ」

「ならばここで起こることに何一つ気づくことはないだろうな?」

 フィリップは答えずに、迷ったような仕種を返した。

 バルサモは暖炉に向かい、蝋燭をつけてアンドレの目の前にかざしたが、炎を前にしてもアンドレの瞼は閉じなかった。

「眠っていることに間違いはありませんが、何て不思議な眠り方なんだ!」

「では質問をしよう。いや、俺が妹さんに無礼な質問をしないか心配だと言っていたな。あなたがご自分で質問なさい」

「でもぼくはさっき話しかけたし手を触れたんです。ぼくの声が聞こえもしないし、何も感じもしないようでした」

「それはあなたが妹さんと結びつけられてなかったからだ。俺が段取りを整えよう」

 バルサモはフィリップの手を取り、アンドレの手と重ねた。

 すぐにアンドレが微笑んで囁いた。

「あなたなの、お兄様?」

「どうだ、あなたのことがわかったようだぞ」バルサモが言った。

「本当ですね。何て不思議なんだ」

「質問すれば、答えが返って来る」

「ですが、目を覚ましている時に覚えていなかったものを、どうやって眠っている時に思い出すというのでしょうか?」

「そこが科学の神秘だな」

 バルサモは息を吐いて、隅にある椅子に腰を下ろした。

 フィリップは手をアンドレの手に重ねたまま動かなかった。アンドレに何とたずねればいいのだ? 答えを聞けば、辱めを受けたことが確実になるだろうし、誰が犯人なのかも明らかとなり、誰に復讐心を向ければいいのかもわかるだろう。

 アンドレは半ば恍惚として、その顔からは何よりも安らぎが窺えた。

 フィリップは震えながらも、準備はいいかと問いかけるバルサモの目つきに応えた。

 だがフィリップが不幸な出来事のことを考え、顔色を曇らせるにつれて、アンドレの顔にも雲が覆い、ついに口を開いたのはアンドレの方だった。

「ええ、その通りです、お兄様。わたくしたち家族にとって大変な不幸でした」

 兄の心を読んだように、フィリップの考えていたことを口に出した。

 不意打ちされたフィリップはおののいた。

「不幸とは何のことだい?」何と答えて良いのかわからずに問いかけた。

「まあ! ご存じじゃありませんか」

「話をさせるのです。そうすれば話してくれる」

「どうやって話をさせればいいのでしょうか?」

「話をして欲しいと願いなさい。それだけでいい」

 フィリップは内なる衝動に任せてアンドレを見つめた。

 アンドレが顔を赤らめた。

「まあ、ひどい。アンドレがお兄様に嘘をついたと思ってらっしゃるなんて」

「では愛している者などいないのかい?」フィリップがたずねた。

「おりません」

「すると、二人で示し合ったのではなく、ぼくを裏切ったのは犯人一人なんだね?」

「何のことでしょうか?」

 フィリップは助言を求めるように伯爵を見つめた。

「問いつめなさい」とバルサモが答えた。

「問いつめるですって?」

「ええ、単刀直入に質問なさい」

「アンドレにも恥じらいというものがあるのに?」

「抑えて抑えて。目が覚めれば何も覚えていないのだから」

「それなのに、ぼくの質問には答えられるというのですか?」

「よく見えるか?」バルサモがアンドレにたずねた。

 アンドレはその声の響きに身体を震わせ、バルサモの方に光の消えた目を向けた。

「あまりよく見えません。あなたが質問して下されば――あっ、でもだんだん見えて来ました」

「見えるんだね。それなら、おまえが気絶したあの夜のことを詳しく話してくれないか」フィリップが声をかけた。

「五月三十一日の夜からではないのですか? 疑いはあの夜まで遡るものと思っておりましたが? すべてを一斉に明らかにするなら今ですぞ」

「あの夜から質問する必要がありませんから。あなたの言葉を信じることにしました。これほどの力を自在に操れる方でしたら、それをつまらない目的に使ったりなどはなさらないでしょう。アンドレ、気絶した夜に起こったことを残らず話してくれないか」

「覚えておりません」とアンドレが答えた。

「お聞きになりましたか、伯爵?」

「絶対に覚えているし、話してくれるはず。そう命じてご覧なさい」

「ですが眠っているのなら……?」

「魂は起きている」

 バルサモは立ち上がってアンドレに手をかざし、眉をひそめて意思と霊力をさらに強めた。

「思い出せ、いいな」

「思い出しました」

「凄い!」フィリップが額を拭った。

「お知りになりたいことは?」

「すべて!」

「どの時点からでしょうか?」

「おまえが横になった時点から」

「自分が見えるか?」バルサモがたずねた。

「はい、見えます。ニコルが用意したコップをつかんで……おお、恐ろしい!」

「どうした? 何があった?」

「人でなし!」

「話してくれ、アンドレ」

「コップには混ぜものが入っていました。それを飲んでいたら、わたくしは終わりでした」

「混ぜものだって! いったい何の目的で?」フィリップが声をあげた。

「待って下さい!」

「まずは飲み物だ」

「口元に持って行こうとしましたが……その時……」

「どうした?」

「伯爵に呼ばれました」

「何処の伯爵だい?」

「この方です」アンドレはバルサモに手を向けた。

「それから?」

「それから、コップを元に戻して、眠りに陥りました」

「それからどうしたんだ?」

「立ち上がって伯爵に会いに行きました」

「伯爵は何処に?」

「窓の正面にある菩提樹の下です」

「じゃあ伯爵はおまえの部屋に入ったことはないんだね?」

「ありません」

 バルサモの目が、「嘘をついていたかどうかおわかりいただけましたな?」とフィリップに告げていた。

「伯爵に会いに行ったと言ったね?」

「はい。呼ばれればその通りにいたします」

「伯爵の用事は何だったんだ?」

 アンドレは躊躇った。

「言うんだ。俺は聞かぬことにする」

 バルサモは椅子にうずくまって両手で頭を抱えた。アンドレの言葉が届かないようにしているのだろう。

「伯爵の用事が何だったのか教えてくれるかい?」フィリップが繰り返した。

「知りたがっておいででした……」

 ここで再び口を閉ざした。伯爵の心臓が破れてしまわないかと心配しているかのようだった。

「続けてくれ、アンドレ」フィリップが懇願した。

「家から逃げ出してしまった人のことを知りたがっておいででしたが」アンドレの声が小さくなった。「その方はその後、お亡くなりになってしまいました」

 アンドレの言葉は小さかったものの、バルサモの耳に届いたか、もしくは見当がついたに違いない。バルサモが苦しげに呻くのが聞こえたからだ。

 フィリップが口をつぐんだ。沈黙が降りた。

「続けてくれ」バルサモが言った。「兄上はすべてを知りたがっているぞ。すべてを知らなくてはならぬ。その男は手に入れたかった情報を受け取った後どうした?」

「お逃げになりました」アンドレが答えた。

「おまえを庭に置いて?」フィリップがたずねた。

「はい」

「おまえはどうしたんだ?」

「伯爵が立ち去ると共に、わたくしを捕えていた力も遠ざかりましたので、わたくしは倒れました」

「気絶したのかい?」

「違います。眠っていましたが、それまでとは違う重い眠りでした」

「眠っている間に起こったことを思い出せるかい?」

「やってみます」

「よし、何が起こった?」

「男が茂みから出て来て、わたくしの腕をつかんで連れて行きました……」

「何処に?」

「ここ。わたくしの部屋に」

「そうか!……その男が見えるかい?」

「待って下さい……はい……はい……また!」アンドレが嫌悪と不快感を見せた。「またあのジルベールです!」

「ジルベール?」

「はい」

「ジルベールは何をしたんだ?」

「わたくしを長椅子に寝かせました」

「それから?」

「待って下さい……」

「見るんだ、目を凝らせ」バルサモが言った。「それが俺の望みだ」

「耳を澄まし……別の部屋に行き……怯えたように後じさり……ニコルの部屋に入って……ああ! ああ!」

「どうした!」

「その後から男が一人。目を覚ますことも、抵抗することも、叫ぶことも出来ずに、眠っているわたくしを!」

「誰のことだ?」

「お兄様! お兄様!」

 アンドレの顔がこれまで以上の苦痛に歪んだ。

「その男が誰なのか言うんだ。命令だ!」バルサモが命じた。

「国王です」アンドレが呟いた。「国王です」

 フィリップが身体を震わせた。

「そうだろうと思っていた」バルサモが呟いた。

「陛下はわたくしに近づいて、話しかけ、腕を回して抱き寄せました。お兄様! お兄様!」

 大粒の涙がフィリップの目に浮かび、バルサモから受け取った剣の柄を握り締めていた。

「続けてくれ!」伯爵の声がさらに威圧的になった。

「幸運でした! 国王は狼狽え……立ち止まり……わたくしを見つめ……怯えて……逃げ出しました……アンドレは助かりました!」

 妹の口から出てくる言葉の一つ一つに、フィリップは喘ぎをあげ、息を吸った。

「助かった! アンドレは助かったんだ!」と機械的に繰り返した。

「待って下さい、お兄様!」

 アンドレは身体を支えようとでもするように、フィリップの腕にしがみつこうとした。

「それからどうなったんだ?」

「すっかり忘れていました」

「何を?」

「あそこ。ニコルの部屋に、ナイフを持って……」

「ナイフを?」

「死人のように真っ青になっているのが見えます」

「誰だい?」

「ジルベールです」

 フィリップが息を呑んだ。

「国王のいたところまで出て、扉を閉め、絨毯を焦がしていた蝋燭を踏んで、わたくしの方へ進んで来ました。ああ!……」

 アンドレは兄の腕の中で立ち上がった。筋肉という筋肉が、折れそうなほどに強張っていた。

「おぞましい!」

 ついにそれだけ言うと、アンドレは力なく崩れ落ちた。

 フィリップは止めることさえ出来なかった。

「あいつです! あいつです!」

 そう呟いてからアンドレは兄の耳元まで這い上がり、目を輝かせ、震える声で囁いた。

「あいつを殺して下さいますね、フィリップ?」

「もちろんだ!」

 フィリップは飛び上がった拍子に後ろにあった円卓にぶつかり、磁器をひっくり返してしまった。

 磁器が粉々に砕け散った。

 その音と共に、壁が音もなく鳴り振動した。そしてそのすべてを掻き消すようなアンドレの悲鳴。

「何だ?」バルサモがたずねる。扉が開いた。

「誰かに聞かれたのか?」フィリップが剣をつかむ。

「あいつです。またあいつです」アンドレが答えた。

「あいつとは?」

「ジルベールです。いつもジルベール。殺して下さいますね、フィリップ、ジルベールを殺して下さいますね?」

「もちろんだ! もちろんだとも!」

 フィリップは剣を手にしたまま控えの間に飛び込んだ。アンドレは長椅子に倒れ込んだ。

 バルサモがフィリップの後を追い、腕をつかんで引き留めた。

「待ちなさい。秘密が秘密でなくなりますぞ。陽が昇った。王宮の噂はかしましい」

「糞ッ! ジルベールめ。あそこに隠れて盗み聞きしていたんだ。殺してやるとも。ろくでなしなど死んでしまえ!」

「異論はないが、まずは落ち着きなさい。いずれあの若者には再会できる。差し当たって気にかけなくてはならないのは妹さんだ。昂奮のあまりぐったりし始めているではありませんか」

「わかっています。ぼくと同じ苦しみに喘いでいるんです。あまりにおぞましくて、立ち直れそうにありません。ああ、死んでしまいそうだ!」

「妹さんの為にも生きなくてはなりません。妹さんにはあなたが必要だ。あなたしかいないんだ。妹さんを愛で、憐れみ、大事になさい……」バルサモはしばらく押し黙ってから、口を開いた。「これでもう私はお役御免ですかな?」

「ありがとうございました。疑ったり侮辱したりしたことをお詫びいたします。それでもやはり、すべての不幸の元凶はあなただったのではありませんか」

「言い訳はいたしません。だが妹さんの話をお忘れではありませんかな……?」

「妹が何と? 頭が混乱してしまって」

「仮に私が来なかったとしたら、妹さんがニコルの用意した飲み物を飲んだところに、国王が訪れていた……そっちの方がましでしたかな?」

「そうは思いません。どちらも同じく不幸な出来事でしょう。よくわかってます。ぼくらはそうした宿命に生まれついたんですよ。妹の目を覚ましてくれませんか?」

「だが妹さんが私の姿を見たら、恐らく何が起こったのか察するのではありませんかな。眠らせた時と同様に、遠くから目覚めさせた方がいい」

「ありがとうございます!」

「ではこれにて」

「もう一つだけ。あなたは信用できる方ですね?」

「秘密を守れるかどうかですかな?」

「伯爵……」

「念押しは無用。第一に、私は信用できる人間です。第二に、もう人と関わるようなことはしないと決めたのです。人とも人の秘密ともおさらばするつもりだ。それでももし、私でお役に立てるようなことがあれば頼っていただきたい。もっとも、もう何の役にも立たぬでしょうが。この世にはもう何の未練もない。ではご機嫌よう!」

 バルサモはフィリップに向かって頭を下げ、今一度アンドレを見つめた。アンドレは苦痛と疲労から心持ち顔を仰け反らせていた。

「科学というやつは、価値なき結果に幾多の犠牲を求めやがる!」とバルサモは呟き、姿を消した。

 バルサモが遠ざかるにつれ、アンドレが自由を取り戻した。鉛のように重かった頭を起こし、目に驚きを浮かべて兄を見つめた。

「フィリップ 何があったの?」

 フィリップは嗚咽を喉の奥で引っ込め、気丈にも微笑んだ。

「何でもないよ」

「何も?」

「ああ」

「ですけれど、何だかわたくし、頭がおかしくなって夢を見ていたようなんです!」

「夢を? どんな夢だい、アンドレ?」

「ルイ先生、ルイ先生、お兄様!」

「アンドレ!」フィリップはアンドレの手を握った。「おまえは太陽のように純粋だ。それなのにひどい目に遭わされ、汚されてしまい、ぼくら二人は恐ろしい秘密を抱えることになった。ぼくはルイ先生を探しに行くつもりだ。おまえがホームシックにかかり、治すにはタヴェルネで過ごすしかないと、王太子妃殿下に伝えてもらおうと思うんだ。そうしたら二人で出かけよう。タヴェルネでもいいし、何処か別の場所でもいい。この世に二人きりになって、愛し合い、慰め合えれば……」

「でもお兄様の仰るように、わたくしが純粋なのなら……?」

「そのことはいずれ説明するよ。今は出発の準備をしなさい」

「でもお父様は?」

「父上か」フィリップの顔色が翳った。「そのことも考えている。手筈はととのえるよ」

「ではお父様も一緒なのね?」

「父上も? あり得ないよ。ぼくら二人きりだと言ったはずだ」

「怖がらせないで下さい、お兄様! わたくしは具合が悪いんですから!」

「最終的には神様が判断して下さるさ。だから勇気を出すんだ。ぼくは先生を探しに行く。おまえの具合が悪くなったのは、タヴェルネから離れたのが寂しいからさ。それを妃殿下に遠慮して感づかれまいとしたんだろう。元気を出すんだ。ぼくら二人の名誉の問題だ」

 フィリップは息が詰まりそうになって、アンドレを抱き締めた。

 それから落としていた剣を拾うと、震える手で鞘に戻し、階段に向かって駆け出した。

 十五分後、フィリップはルイ医師宅の門を叩いていた。医師は廷臣がトリアノンにいる間は、ずっとヴェルサイユで暮らしていたのだ。

『ジョゼフ・バルサモ』 147

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百四十七章 トリアノンへの道

 話し合いや説明にはかなりの時間がかかったので、サン=クロード街を出たのは午前二時を回っていた。

 ヴェルサイユまでは一時間十五分かかり、ヴェルサイユからトリアノンまでは十分を費やした。つまり目的地に到着した時にはまだ三時半にしかなっていなかった。

 旅も後半になると朝日も顔を出し、セーヴルの丘やひんやりとしている森を薔薇色に染め上げていた。目の前で幕が上げられたように、ヴィル=ダヴレーの池や遠くに見えるビュク(Buc)の池が、鏡のように照らされている。

 やがてヴェルサイユの列柱と屋根が見え始めた。太陽はまだ姿を見せぬものの、建物は既に赤く染まっている。

 だんだんと、朝日を反射して窓ガラスがきらめき、紫色の朝靄に穴を穿つ。

 ヴェルサイユからトリアノンまで通ずる並木道の端まで来ると、フィリップは馬車を停めさせ、同乗者に声をかけた。バルサモは道中むっつりと黙り通しだった。

「伯爵、もしかすると待たされることになりそうです。トリアノンの門は朝の五時まで開きません。規則に逆らえば、ここに来た理由を衛兵や門番に疑われかねません」

 バルサモは何も言わず、首を縦に振って同意を示した。

「もっとも、その時間を利用して、道中あれこれ考えていたことをお話しするにはいい機会です」

 バルサモはフィリップをぼんやりと見つめた。その瞳には倦怠と無気力が浮かんでいる。

「話したいのなら、そうなさい。聴きましょう」

「お話によれば、五月三十一日の夜に、妹をド・サヴェルニー侯爵夫人のお宅に運んでくれたのでしたね?」

「そのことを疑ってはいないのでしょう。侯爵夫人にお礼をしに行ったくらいなのだから」

「それから、国王の馬丁をお供に、侯爵夫人邸からコック=エロン街のぼくらの宿までいらっしゃったんですね。つまりあなたと妹は二人きりではなかった。名誉を尊重してあなたのことを信じていました」

「当然のことです」

「ですが、最近の状況を考えてみると、あなたが一か月前にトリアノンの庭に忍び込んだあの夜、妹と話をする為に部屋に入り込んだのだと思わざるを得ないのです」

「トリアノンで妹さんの部屋に入ったことはありません」

「ですが!……アンドレに会う前に、すべてをはっきりとさせておかなくてはなりません」

「すべて明らかにするのは望むところです。その為にここにいるのですから」

「でしたらあの晩――答えにはお気をつけ下さい、これから申し上げるのは確実なことなのですから。何しろ妹本人の口から聞いたのです――あの晩、妹は早い時間に床についていました。つまりあなたは寝台にいる妹を見つけたのではありませんか?」

 バルサモは否定の印に首を振った。

「否認するのですか!」

「否認ではない。質問に答えたまでだ」

「では質問を続けますから、引き続き答えて下さい」

 バルサモは苛立ちを見せるどころか、急かすように合図した。

「あなたは妹のところに行き――」フィリップはだんだんと昂奮していた。「霊力で眠らされている妹を見つけた。アンドレは横になって本を読んでいたが、あなたの霊力のせいでいつものように眠気を催し、意識を失った。質問しただけだ、と仰いましたね。いや、そのほかに、立ち去る際に術を解くのを忘れたとも仰った」フィリップはバルサモの手首をつかんでぎりぎりと締めつけた。「ところが――妹が翌日になって目を覚ますと、寝台ではなく長椅子の下にいた。服のはだけた状態で……この点について申し開きをお願いします。言い逃れは許しません」

 フィリップが話している間、バルサモは寝起きのような顔で、心を翳らせる暗い考えを払っていた。

「本音を言えば、その問題をほじくり返すべきではないし、いつまでも諍いを続けようとするのも間違ったことだ。俺がここに来たのは善意からと、あなたに興味があったからです。それを忘れておいでのようだ。あなたはまだ若いし、そのうえ軍人だ。剣の柄に手をかけて高圧的に話すのに慣れているのだろう。そういった事情のせいで、深刻な事態に対して間違った解釈をしてしまったんでしょう。俺はあそこや自宅で、あなたを説得し、ささやかな安らぎを与えるためにすべきこと以上のことをして来たんだ。もう一度チャンスを与えよう。ただし、俺を退屈させるようなら、深い悲しみの底に籠ってしまうから、そのつもりで。俺の悲しみに比べたら、あなたの悲しみなど、暇つぶしのようなものに過ぎない。眠りに籠った俺を起こす奴など死んでしまえばいい! 俺は妹さんの部屋には入らなかった。言えるのはそれだけだ。俺の意思が大きかったとはいえ、自分で庭まで会いに来たのは妹さんなんだ」

 フィリップが動きかけたが、バルサモが制した。

「約束通り証拠をお見せしましょう。今からで構いませんな? 結構。トリアノンへ行こうではありませんか。無駄な時間を費やしていたも仕様がない。それとも待つとしますか? それならそれで構わないが、静かに取り乱さずにお願いしたい」

 こう言うと、これまで同様バルサモは一瞬だけ目を光らせ、また元のように物思いに沈んでしまった。

 フィリップは咬みかかろうとする猛獣のように、無言の叫びを発したが、すぐに態度を変えて考えを改めた。

 ――この男といれば、説得するなり主導権を握るなりしなくてはなるまい。だが一時間のうちにや威圧したり説得したりする方法を見つけられそうもない。まずは我慢だ。

 だがバルサモのそばで衝動を堪えるのは難しかったので、馬車から飛び降りると、馬車の停まっている青々とした並木道を歩き回り始めた。

 十分もすると、もう待つのには耐えられなくなった。

 人から疑われる危険を冒してでも、一時間早く鉄柵を開ける方を選ぼう。

 フィリップはこれまで幾度となく心に浮かんでいた考えを改めて持ち出した。「だいたい、スイス人衛兵が疑ったりするだろうか? 妹の具合が悪いから心配になってパリまで医者を呼びに行き、叩き起こしてここまで連れて来たんだと言えばいいんじゃないのか?」

 不安も徐々に薄らいでこのように考え出すと、いてもたってもいられなくなり、馬車に駆け寄った。

「仰る通りでした。長々と待つのも意味がありません。行きましょう……」

 だがフィリップはその言葉を繰り返さなくてはならなかった。ようやく二度目にバルサモは外套を脱ぎ捨て、茶色い鉄製ボタンのついた黒っぽいウプランドを纏い、馬車を降りた。

 庭園の柵に向かう小径を、フィリップは近道をして斜めに横切った。

「急ぎましょう」

 言葉通りにフィリップが足を早めた為に、バルサモは遅れそうになった。

 柵が開くと、フィリップはスイス人衛兵に事情を説明して、通してもらった。

 柵が元のように閉じられたところでフィリップが立ち止まった。

「最後に一言だけいいでしょうか……これが最後です。あなたが妹に何をたずねるつもりなのかはわかりませんが、眠っている間に起こった恐ろしい出来事については、詳しい話をするのを避けてもらえませんか。魂は清らかなままでいさせてやって欲しいのです。清らかな魂は清らかな肉体に宿るものなのですから」

「よく聞いて欲しい。俺はあそこに見える木立より奥には入ったことがない。妹さんの部屋の向かいの木立だ。だから、ド・タヴェルネ嬢の部屋にも入ったことがない。それは名誉にかけて誓った通りだ。恐ろしい事実に妹さんの魂が耐えられるかどうか心配しているようだが、不安があるとしたらあなたの方だ。眠っている人間には関係ない――というのも、今から――俺が一歩踏み出してから、眠りに就くよう妹さんに命じるからだ」

 バルサモは言葉を切って腕を組み、アンドレが住んでいる別館に向き直ると、しばらく動かずに、眉を寄せて、意思の力を顔中に浮き上がらせた。

「これでいい」バルサモは腕を戻した。「今頃はもうアンドレ嬢は眠っているはずだ」

 だがフィリップの顔には不審の色が浮かんでいる。

「ほう! 信じていないのですな? いいでしょう! お待ちなさい。部屋に入る必要がないことを証明して見せましょう。これから妹さんに命じて、眠っているままでいいから、階段の下まで会いに来るように伝えましょう。妹さんとこの間お話ししたのもその場所です」

「実際に目にすれば信じるのもやぶさかではありません」

「この並木道の中まで入って、熊垂の後ろで待つとしよう」

 フィリップとバルサモはその場所まで向かった。

 バルサモがアンドレの部屋に向かって手をかざした。

 だがそうした途端、かたわらの熊垂からかすかな物音が聞こえた。

「誰かいる! 気をつけて」バルサモが言った。

「何処ですか?」フィリップは目を凝らした。

「そこです、左の茂み」

「あっ! ジルベールだ。昔の使用人です」

「見つかるとまずいことでもありますか?」

「そんなことはありません。でも放っておきましょう。ジルベールが追い出されたら、ほかの人間も追い出されかねません」

 そんな話をしているうちに、ジルベールは怖くなって逃げ出していた。フィリップとバルサモが一緒にいるのを見て、もうお終いだと直感的に理解したのだ。

「さて、どうしますかな?」

 フィリップはいつの間にかバルサモの魔力に囚われているのを感じていた。「アンドレをここまで連れて来るほどあなたの力が大きいのが事実なら、誰にでも盗み聞き出来るようなこんなところに妹を連れて来るのではなく、何か別の証拠を見せていただけませんか」

「ぎりぎりだったな」バルサモがフィリップの腕をつかんで、使用人棟の廊下の窓に気づかせた。アンドレが部屋から抜け出し、バルサモの命令に従って、階段を降りようとしていた。

「止めて下さい」フィリップが恐慌と驚愕を露わにした。

「そういうことなら」

 バルサモがド・タヴェルネ嬢に向けて腕を伸ばすと、すぐに歩みが止まった。

 それから、石の饗宴に現れた石像のように、くるりと振り返ると部屋に戻った。

 フィリップがそれを追い、バルサモも後に続いた。

 フィリップはアンドレとほぼ同時に部屋に入り、腕をつかんで坐らせた。

 やがてバルサモも追いついて来て、扉を閉めた。

 だが、フィリップがあまりに素早すぎた為、バルサモが部屋に入るまでには間隔が開いていた。そこで第三の人物が二人の間に割り込み、ニコルの部屋に忍び込む時間があったのである。隠れている人物は、これから繰り広げられるであろう場面に己の人生が左右されることを自覚していた。

 第三の人物とは、ジルベールであった。

『ジョゼフ・バルサモ』 146

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百四十六章 二つの苦しみ

 ド・タヴェルネ嬢を悲劇が襲ったあの晩に目撃された謎の人物のことを指して、ジルベールがこう言ったのには、然るべき理由があった。「誰だかばれるのではないか?」と。

 ジョゼフ・バルサモ、ド・フェニックス伯爵の住処をフィリップが知らないのは確かだ。

 だがあの貴婦人――五月三十一日にアンドレを休ませてくれたド・サヴェルニー侯爵夫人のことなら覚えていた。

 サン=トノレ街の住まいを訪問できないほど遅い時間ではない。フィリップが昂奮も感情も抑えて夫人の住まいを訪れると、小間使いからすんなりと、バルサモの住所を教えてもらった。マレー地区、サン=クロード街。

 フィリップは直ちにそこに向かった。

 だが問題の家のノッカーに触れた時には、少なからぬ昂奮を隠せずにいた。フィリップの推測では、ここにアンドレの安らぎと名誉が永久に飲み込まれたままなのだ。だが訪いを告げる頃には、憤懣も癇癪もようやく抑え込み、これから必要とする力を温存することが出来た。

 そこで迷いなくノッカーを敲くと、扉が開いた。

 フィリップは中庭に入り、馬の手綱を引いた。

 だが四歩と進まぬうちに、玄関の階段上に現れたフリッツから問いただされた。

「ご用件は?」

 これには思いもかけなかったらしく、フィリップはぎょっとした顔を見せた。

 フリッツが召し使いの義務を果たしていないとでも言いたげに、眉をひそめて睨みつけた。

「この家のご主人であるド・フェニックス伯爵とお話ししたい」フィリップは手綱を輪に通し、そのまま歩いて家に入った。

「主人は不在でございます」と言いながらも、フリッツはフィリップを丁寧に受け入れた。

 あらゆる場合を想定していたが、これほど素っ気ない返答だけは予期していなかった。

 フィリップは虚を衝かれた。

「何処に行けば会えるでしょうか?」

「存じません」

「と言いつつ知っているのでは?」

「遺憾ながら行き先を告げられておりません」

「すぐに話をしなくてはならないのだ」

「それは難しいかと存じますが」

「何が何でも話がしたい。極めて重大な用件なんだ」

 フリッツは無言でお辞儀をした。

「出ていると言うんだな?」

「さようでございます」

「だが戻って来るんだろう?」

「そうは思いません」

「そうは思わないって?」

「はい」

「わかったよ」フィリップの声に怒気が滲み始めた。「取りあえずは、ご主人に伝えてくれ……」

「重ねて申し上げますが、主人は不在なのです」フリッツは飽くまでも冷静に答えた。

「命令されているのはわかるし、それに従うのも否定はしない。だがぼくはその命令の適用外だ。突然の訪問なのだからね」

「どなたに対してもという命令でございます」フリッツが口を滑らせた。

「つまり命令はしたんだから、ド・フェニックス伯爵は家にいるんだな?」

「だとしたらどうだと仰るのですか?」あまりのしつこさに、今度はフリッツの方が苛立ちを見せ始めた。

「だとしたら、ここで待つとしよう」

「主人は不在だと申し上げたはずです。しばらく前に火が出たせいでこの家には住めなくなってしまいましたので」

「だが君は住んでいるじゃないか」今度はフィリップが口を滑らせた。

「管理人として寝泊まりしているのです」

 フィリップは乱暴に肩をすくめた。何を言われようと一言も信じられなかった。

 フリッツがいよいよ苛立ち始めた。

「そもそも伯爵閣下がいらっしゃろうといらっしゃらなかろうと、ご在宅だろうとご不在だろうと、力ずくで家に入ろうとなさる方などおりません。しきたりに従わないと仰るのでしたら、私といたしましてはやむを得ず……」

 フリッツは語尾を濁した。

「何だと言うんだ?」フィリップが腹を立てた。

「やむを得ず外に連れ出さざるを得ません」

「君が?」フィリップの目が光った。

「私がでございます」フリッツのドイツ人らしいところが出て、怒りが大きくなるにつれてうわべはますます冷やかになっていた。

 フリッツが足を踏み出すと、フィリップは思わず剣をつかんでいた。

 フリッツは剣を見ても狼狽えもせず、誰かを呼びもしなかった――とは言え、もともと誰もいないのだろう。フリッツは短いが鋭く尖った金属のついた杭のようなものをつかむと、剣術ではなく棒術のような動きでフィリップに飛びかかった。その一撃で、短剣の刃がきらめいて跳ね飛ばされた。

 フィリップは怒りの声をあげ、武具飾りの方に駆け寄り、武器を取ろうとした。

 その時、廊下の隠し扉が開いて、薄暗い戸枠の中に伯爵の姿が浮かび上がった。

「何事だ、フリッツ?」

「何でもございません」フリッツは矛を下ろし、それをバリケードのように主人の前に掲げた。それを伯爵が隠し階段の上から見下ろしていた。

「ド・フェニックス伯爵」フィリップが声をかけた。「客人を矛でもてなすのがお国のしきたりなのですか? それともあなたの家だけの特殊な事情でしょうか?」

 フリッツは矛を下ろし、主人の指示に従って玄関の隅に置いた。

「どなたですか?」伯爵がたずねた。控えの間を照らしている明かりの下でも、フィリップのことがわからないようだった。

「是が非でもあなたとお話しをしたがっている者です」

「是が非でも?」

「ええ」

「それではフリッツに分があるようですな。私は誰とも話したくありませんし、家にいる時に誰かが訪ねて来ても話し合いを認めることはありません。あなたは私に対して過ちを犯したわけですが――」バルサモは溜息をついた。「早々と立ち去って静かにしておいてくれると約束して下さるなら、許して差し上げましょう」

「静かにしておいて欲しいとはさすがですね。ぼくの静けさを奪った癖に!」

「あなたから静けさを奪ったですと?」

「ぼくはフィリップ・ド・タヴェルネだ!」この言葉ですべての説明がつくと信じていた。

「フィリップ・ド・タヴェルネ?……そうでしたか。お父上にはお世話になりました。どうぞお寛ぎ下さい」

「ありがたい!」フィリップは呟いた。

「こちらへどうぞ」

 バルサモは隠し階段の扉を閉めてフィリップのところまで来ると、この物語の中で読者には何度もお見せして来た応接室まで案内した。もっとも近いところでは、五人の親方マスターの場面で用いられた場所である。

 誰かをもてなす予定だったのかのように、応接室はこうこうとした明かりに照らされていた。だがそんな贅沢もこの家では普段通りのことに過ぎないのだ。

「今晩は、ド・タヴェルネ殿」穏やかでくぐもったバルサモの声に、フィリップは思わず目を上げた。

 だがいざバルサモを見るや後じさっていた。

 伯爵はもはや本人の影にしか過ぎなかった。目は落ち窪んで光も失せ、頬はそげて二本の皺となって口を囲い、骨張った剥き出しの顔の出っ張りを見ていると死者と対面しているような気にさせられた。

 呆然としたままのフィリップを見たバルサモは、暗く悲しげな微笑みを白い口唇にかすかに浮かべた。

「使用人のことはお詫びいたしますが、命令に従ったまでのこと。それに言わせていただければ、力ずくで押し入ろうとしたのはあなたの方だ」

「伯爵、極限状況下における命の問題はご存じでしょう。今のぼくがまさにそれなのです」

 バルサモは答えない。

「お会いしてお話ししたかったのです。あなたに会えるなら、死にさえ立ち向かう覚悟でした」

 バルサモは無言を貫いていた。フィリップが説明するのを待っているのだろうか、問いただすだけの気力も好奇心もないようだった。

「こうしてお会い出来たからには、話し合わせてもらえませんか。ですがその前に、この男を追い出して下さい」

 フィリップがフリッツを指さした。フリッツは闖入者をどうするか指示を仰ぎに来たのか、扉のカーテンを持ち上げたところだった。

 フィリップから逸らされることのないバルサモの視線の先が、心の奥まで突き刺さりそうだった。だが身分も階級も同じ男を前にして、フィリップは落ち着きや威厳を取り戻していた。

 バルサモは顔どころか眉を動かしただけで、フリッツを立ち去らせた。二人は向かい合って坐り、フィリップは暖炉を背にし、バルサモは円卓に肘を預けた。

「では端的にお話し下さい。こうして話をお聴きするも好意からに過ぎませんし、正直に申し上げると飽きっぽい人間なのですよ」

「ぼくとしては失礼に当たらないと判断した限りで、話すべきことを話すまでです。よろしければ、質問から始めさせていただきたいのですが」

 これを聞いてバルサモの眉が寄り、目から火花が散った。

 この言葉から思い出したことがあったのだ。バルサモの心の奥で蠢いているものを知れば、フィリップは震え上がったに違いない。

 だがバルサモはすぐに我に返った。

「おたずね下さい」

「伯爵。あなたはあの五月三十一日の夜どのように過ごしていたのかを、お話しして下さったことはありませんでしたね。ルイ十五世広場を埋める怪我人や死者の山から妹を連れ出してから後のことです」

「何を仰りたいのですかな?」

「以前から気になってはいたのですが、あの夜のあなたの行動に極めて疑わしいところがあると申し上げているのです」

「疑わしいとは?」

「総体的に見て、とても立派な人間のすることとは思えません」

「よくわかりませんな。失礼ですが頭が重くてはっきりしないのです。そのせいで短気になっているところもあります」

「伯爵殿!」激情と落ち着きが綯い交ぜになったフィリップの苛立ち声に、バルサモが目を向けた。

「失礼ですが」と答えたバルサモの声には変化はない。「初めてあなたにお会いしてから、不幸に遭いましてね。家の一部が焼けて、あまりにも貴重なものの数々が失われてしまったのです。それ以来というもの、辛くて頭がどうかしてしまいそうなのです。お願いですからもっとはっきり仰っていただけませんか。そうでなければ直ちにお引き取りいただきたい」

「とんでもない! そう簡単においとまするわけにはいきませんよ。ぼくの事情を汲んでくれれば、あなたの側の事情を袖にするつもりはありません。というのも、ぼくも大変な不幸に遭ったのです。恐らくはあなたが遭った不幸よりも大変な不幸に」

 バルサモは悟ったような微笑みを浮かべた。先ほどから口唇に浮かんでは消えていたものだった。

「ぼくは、家族の名誉を失ったのです」

「それで、私に何が出来るというのですか?」

「何が出来るかですって?」フィリップの目が光った。

「ええ」

「失ったものを返してくれることが出来るではありませんか!」

「何ですって! 正気ですか!」

 バルサモが呼鈴に手を伸ばした。

 だがその動きには勢いがなかったし、怒った様子もなかったので、すぐにフィリップに腕をつかまれた。

「正気かと言うのですか?」フィリップの声はかすれていた。「では妹の話だということもわかりませんか? 五月三十一日、あなたの腕の中で気絶していた件についてです。妹はある家に連れて行かれた。あなたに言わせれば『名誉にも』だったのでしょうが、ぼくに言わせれば『汚らわしくも』です。結論を申し上げましょう。どうか剣を手にしていただきたい」

 バルサモは肩をすくめた。

「単純な話を随分と回りくどくなさいましたな」

「人でなしめ!」フィリップは叫んだ。

「何という声だ!」バルサモは辛く苛立った声をあげた。「耳が潰れそうだ。私が妹さんを侮辱したと言いに来たわけではないのでしょう?」

「まさにそう言いに来たのです、卑怯者め!」

「無意味に怒鳴ったり罵ったりするのはおやめなさい。いったい何処の誰から吹き込まれたのです。私が妹さんを侮辱したなどと?」

 フィリップが躊躇いを見せた。バルサモの声を聞いているとわからなくなって来た。よほどの厚顔無恥なのか、まったくの無実なのか、どちらかだろう。

「誰から聞いたかですって?」

「ええ、教えていただけますかな」

「妹本人からですよ」

「そうか。妹さんも……」

「何が言いたいんですか?」フィリップが脅すような仕種をした。

「お話を聞いた限りでは、あなたも妹さんもお気の毒に。ご婦人を辱めようとは、これ以上におぞましいことはありません。それであなたは、イタリア劇に登場する髭面の兄貴のように、脅しを口にしにやって来たのですな。剣を取るか、妹さんと結婚するか、選択を迫る為に。妹さんが結婚を望んでいるのか、あなたの為にお金を作ろうとしているのかはわかりませんが、あなた方としては私が金持だとご存じなのですからな。ところがあなたは二つの点で間違っている。あなたの手には一銭も入らないだろうし、妹さんはこれからも独身のままだろうということです」

「あなたが腹を立てているというのなら、ぼくも同じように血をたぎらせることに異存はない」

「腹を立ててさえおりません」

「何ですって?」

「血をたぎらせるとしたら、もっと重大なことが起こった時です。あなたも血を静めてもらえませんか。騒ぎ立てるというのでしたら、頭が痛くなるので、フリッツを呼びます。フリッツが来れば、命令に従ってあなたを葦のように真っ二つにしてしまいますよ」

 バルサモが呼鈴を鳴らした。フィリップに止められそうになると、円卓に置かれた黒檀の箱を開いて、拳銃を取り出した。二発の弾丸が装填されている。

「望むところです。どうぞ殺すがいい!」フィリップが怒鳴った。

「どうして殺さなくてはならないなどと?」

「あなたを侮辱したからですよ」

 フィリップの言葉には真実の重みがあった。バルサモがそれを穏やかに見つめていた。

「それを本心から仰っているとでも言うのですかな?」

「嘘だとでも? 紳士の言葉を疑うのですか?」

「それともド・タヴェルネ嬢が卑劣な考えを思いついただけで、あなたをそそのかしていたと?……そう思いたいところですな。ではすっきりさせて差し上げましょう。名誉にかけて誓います。五月三十一日の夜、私が妹さんに取った行動は、非難のつけようのないものです。名誉に照らしても、人間の法廷に於いても、神の審判を仰いでも、何処の裁判所からも反論されるような点はありません。信用していただけますかな?」

「何ですって!」

「こちらとしては決闘も厭わない。それはあなたもご承知だ。目を見ればわかります。体調が悪そうだと思っているのなら大間違い、見た目だけですよ。確かに顔色は悪い。だが筋肉は衰えちゃいない。証拠が見たいですかな? では……」

 ブールの手になる家具の上に青銅製の大きな花瓶が置かれてあるのを、バルサモは片手だけで軽々と持ち上げて見せた。

「わかりました。五月三十一日については信じます。ですがあなたは誤魔化しておいでだ。別の日のことも同じように証明なさろうとしていますが、後日また妹に会ったはずです」

 バルサモが躊躇いを見せた。

「確かに会いました」

 一瞬だけ顔が輝いたが、それも瞬く間に翳った。

「ほらご覧なさい!」

「確かに妹さんには会ったが、それがどうしたと?」

「どうしたもこうしたも、これまで三度にわたっておかしな力を使って眠らせて来たではありませんか。あなたに近づかれて発作を起こした妹を、無力なのをいいことにもてあそんで知らんぷりを決め込んでいるのではありませんか」

「改めてたずねるが、誰がそんなことを?」バルサモが大声でたずねた。

「妹本人がです!」

「眠っていたのに何故わかる?」

「では、眠っていたことを認めるのですね?」

「認めるどころではない。この手で眠らせていたことを認めよう」

「眠らせていた?」

「そうだ」

「辱める為でなければ、何の為に?」

「何の為に?」バルサモはがっくりと頭を垂れた。

「話して下さい!」

「俺にとっては命よりも大事な秘密を教えてもらう為にだよ」

「嘘だ! 言い逃れだ!」

「あの夜のことか……」バルサモは、フィリップの侮辱に応えるというよりも、自らの考えを追うようにして呟いた。「あの夜、妹さんが……?」

「辱められたのです」

「辱められた?」

「妹は母親になったのです!」

 バルサモが声をあげた。

「そうだった! 忘れていた。術を解かずに立ち去ってしまったんだ」

「お認めになるのですね!」

「ああ。何てことだ。あの夜。俺たちにとって悲劇だったあの夜、何処かの卑怯者が妹さんが眠っているのにつけ込んだんだ」

「からかおうと言うのですか?」

「いや、説得しようとしているのだ」

「それは難しいでしょうね」

「妹さんは今どこに?」

「よくご存じの場所ですよ」

「トリアノンに?」

「ええ」

「ではトリアノンに行こう」

 フィリップは驚きのあまり動けなかった。

「俺は間違いを犯した。だが罪は犯しちゃいない。催眠術にかけたまま放っておいてしまっただけだ。だがそのお詫びに犯人の名前を教えよう」

「誰なんです?」

「俺は知らない」

「では誰が知っているのですか?」

「妹さんだ」

「でもぼくには教えてくれませんでした」

「恐らく俺には言ってくれるだろう」

「妹が?」

「妹さんが犯人を名指ししたら、信じるな?」

「ええ。無垢な天使のような人間なのですから」

 バルサモは呼鈴を鳴らした。

「フリッツ、馬車の用意を!」

 フィリップは狂ったように応接室を歩き回っていた。

「犯人ですって! 犯人を教えると約束してくれるんですね?」

「先ほどの小競り合いで剣を折ってしまったようだが、よければ別のを差し上げようか?」

 そう言って椅子の上から金柄の見事な剣をつかみ、フィリップのベルトに通した。

「あなたはどうするのです?」

「俺には必要ない。自分を守らねばならぬとしたら、トリアノンに着いた時だ。妹さんが話してくれたら、その時はあなたが俺を守ってくれるだろう」

 十五分後、二人は馬車に乗り込み、フリッツが二頭の馬を操ってヴェルサイユまでの道を全速力で走らせた。

『ジョゼフ・バルサモ』 145

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百四十五章 ジルベールの良心

 ここまで記して来た出来事は、ジルベールに対して恐ろしい影響を及ぼしていた。

 良くも悪くも傷つきやすいジルベールにとって、極めて厳しい試練のただ中に放り込まれていたのである。庭の好きなところに隠れて、日毎にアンドレの顔色や足取りが衰えてゆくのを目にしていたのだ。前日に恐ろしいほど真っ青な顔をしていたというのに、翌日ド・タヴェルネ嬢が朝日と共に窓辺に現れると、危険な色合いがさらに増していた。ジルベールの眼差しや顔つきを見た者なら誰もが、そこに古代ローマの画家が素描したような悔恨の色を読み取ったに違いない。

 ジルベールはアンドレの美しさを愛している反面、憎んでもいた。輝くばかりの美しさに気位の高いところが加わると、二人の間の境界に新たな線が引かれる思いがする。とは言うものの、そうした美しさこそ新発見の宝のように我がものにしたい気もする。これがジルベールの愛と憎しみに対する申し分であり、憧れとも蔑みともつかない言い訳であった。

 だがこの美しさが汚された日、アンドレの顔に恥と苦しみが浮かんだ日。その日から、アンドレにとってもジルベールにとっても由々しき事態となった日から、状況が完全に変わり、ジルベールのアンドレに対する見方も変わってしまった。

 正直に言えば、最初に感じたのは深い悲しみであった。アンドレの美しさや健やかさが損なわれてしまったのを、涙なくして見ることはならなかった。ジルベールを蔑んでいた高慢な女を憐れんでやるのは誇りがくすぐられて気分が良かったし、アンドレが隠していたあらゆる恥辱に憐れみをかけてやるのも心地よかった。

 だがだからと言ってジルベールが許されるわけでもない。誇りが言い訳になると思ったら大間違いだ。だから、状況を検討することにしていたのも、誇りから出た習慣でしかなかった。青ざめてやつれてうなだれたド・タヴェルネ嬢が幽霊のように目の前に現れるたびに、ジルベールの心臓は飛び跳ね、血が瞼まで上って涙を誘った。ジルベールは不安で引きつった手を胸に押し当て、意識が暴発しそうになるのを抑えていた。

「アンドレが駄目になったのは僕のせいだ」

 貪るようにアンドレを見つめると、また会えると信じて、声なき呻きに追われるようにして、逃げ出していた。

 そんな気持に打たれるたびに、強い人間でも耐えられないような痛みを感じていた。狂えるほどの愛情は安らぎを求めていた。アンドレに跪き手を握り優しい言葉をかけ失神から目覚ざめさせる権利が得られるなら、時には命を投げ出してもいい。こんな時に何も出来ないのは、拷問という言葉ですら言い表せないほどの責苦だった。

 ジルベールは三日間、この苦しみに耐えていた。

 初めから、アンドレの部屋で起こっているゆっくりとした変化には気づいていた。やがて、もはやわからないことなどなくなり、すべてにはっきりとした説明をつけることが出来た。さらに。病気の進行具合から逆算して、起点となった正確な日付も手に入れた。

 気絶した日だ。恍惚状態で、汗をかき、夢遊歩行し、確実に意識が飛んでいた、あの日。行ったり来たり、冷淡だったり昂奮していたり、思いやり深かったり軽蔑を露わにしたり、そうしたことすべてをジルベールは最高の隠しごとや戦術だと見なし、シャトレの一書生、サン=ラザールの一牢番でしかない人間が、ド・サルチーヌ氏の密偵が暗号文書を読み写したのと同じように完璧に、分析し、翻訳したのである。

 息を切らして走り、突然足を止め、聞こえぬほどの声を洩らし、不意に暗い沈黙に沈んだのを、誰も見た者はいない。地面を擦るような、乱暴に木々を引っ掻くような、かすかな音が空中に響いたのを、聞いた者はいない。もしいたなら、呟いたに違いない。「気違いがいるぞ、さもなきゃ後ろめたいところのある人間だな」と。

 気持がすっきりすると、同情は引っ込み、ジルベールの身勝手な部分が出始めた。あれほど頻繁に気絶していては、よもや普通の病だとは思われていないだろうし、何が原因なのかとあれこれ噂されていることだろう。

 その時ジルベールは、乱暴で早急な裁判上の手続きのことを考えていた。余所の世界には知られていない尋問、調査、類似によって、予審判事と言う名の才能溢れる探偵が、犯人の足取りにたどり着き、人の名誉を傷つけ得るありとあらゆる犯罪について問い合わせる場所。

 ジルベールが犯したのは、道徳的にもっとも忌まわしく罪深いことなのではないか。

 途端にジルベールは身体の芯から震え出した。アンドレが苦しんでいるために自分が尋問されやしないかと怯え始めたのだ。

 それからは、青い松明を掲げた懺悔の天使を追い求めたあの著名な絵の罪人のように、絶えず怯えた目を周りに向け続けた。物音や囁き声が気になった。話をしているのが聞こえると、それがどうでもいい話題であっても、ド・タヴェルネ嬢か自分のことなのではないかと気が気ではない。

 ド・リシュリュー氏が国王のところに出かけ、ド・タヴェルネ氏が娘のところを訪ねるのが見えた。その日はいつもとは違って、家の中が陰謀と疑惑に満ちているように思えてしょうがなかった。

 王太子妃の医師がアンドレの部屋に向かうのを見た時にはさらにひどくなった。

 ジルベールは何も信じない懐疑論者だ。他人の視線や神の視線など気にならない。だが神の代わりに科学を信奉し、その全能性を高らかに公言していた。

 ジルベールは至高の存在が持つ無謬の洞察力には否定的だったが、医師の洞察力を疑ったことはなかった。だからルイ医師がアンドレを訪れたという事実に、ジルベールの心は立ち上がれないような衝撃を受けたのである。

 ジルベールは部屋まで駆け寄り、何もかも放り出し、上からの命令にも銅像のように固く耳を塞いでいた。急いでカーテンの陰に隠れて、診察結果を窺わせるようなどんな言葉も仕種も聞き逃すまい見逃すまいと、全神経をかき集めた。

 明かりは何もない。王太子妃が窓辺に近づいた時に顔が見えただけだ。窓ガラス越しに中庭を見ようとしたのだろうが、恐らく何も見えなかったに違いない。

 ルイ医師が窓を開けたのも確認できた。部屋の空気を入れ換えようとしたのだ。話を聞くことも顔色を窺うこともジルベールには適わなかった。厚いカーテンがブラインド代わりとなって窓全体を覆い、そこでおこなわれている出来事を遮っていた。

 ジルベールが怯えているのは明白だった。鋭い目を持つ医師は謎を見抜いていた。ジルベールの見るところ、爆発は起こるに違いないが、今すぐではない。今は王太子妃の存在が邪魔しているが、部外者二人が立ち去ったら、すぐに父と娘の間で火種がはじけるのだろう。

 苦しみと苛立ちで頭がぼうっとなり、ジルベールは屋根裏の壁に頭を打ちつけた。

 ド・タヴェルネ男爵と王太子妃が出て来るのが見えた。医師は既にいなくなっていた。

 つまり、話し合いはド・タヴェルネ男爵と王太子妃の間で為されるのだ。

 男爵は戻って来なかった。アンドレは一人きりで長椅子に横たわって過ごしていたが、やがて痙攣と頭痛に読書を妨げられ、ぐったりとして深い眠りに陥った。風にめくれたカーテンの隙間越しにそれを目にしたジルベールは、アンドレがトランス状態に陥ったものと誤解した。

 実際には苦しみと不安に押されて眠っていただけなのだが。とにかくジルベールはこれを機会に、噂を集めに外に出た。

 この時間は貴重だった。何をすべきか考えなくてはならない。

 事態は差し迫っていたので、思い切った迅速な決断を下すことが必要だ。

 それが揺れ動く心の最初の支点となって広まり、気力と安らぎを取り戻せた。

 だがどうすればいい? こうした状況の変化が明らかになったら。逃げるべきか? そうだ。若さを振り絞り、絶望と恐怖をバネに、逃げればいい。絶望や恐怖は武力にも匹敵するほどの力を人から引き出す……昼は隠れ、夜に歩き、やがてたどり着けばいい……。

 何処に?

 何処に隠れれば、王の裁きも手が届かないのだろう?

 田舎のことならよくわかっている。寂れた未開の土地では、どう思われるだろうか――都市部のことは考えるな。村や字では、パンを乞う余所者をどんな目で見るだろうか、盗っ人だと疑われるだろうか? ジルベールははっきりと自覚していた。これからは秘密で刻まれた消えない痕跡を顔に残してゆくのだ。一目で注意を引くことになるだろう。逃げるのは危険だ。だが見つかるのは恥辱だった。

 逃げれば、罪があると判断される。ジルベールは逃げようという考えを退けた。もはや一つのことを考える力しか残されていないかのように、逃げるのでなければ、死ぬことしか考えられなかった。

 そんなことを考えたのは初めてのことだったが、そうした忌まわしい妄想に顔を出されても、恐ろしいという気持にはならなかった。

 ――万策が尽きれば、どちらにしても死ぬことを考えなくちゃならないんだ。だけど、自殺するのは卑怯者だ、とルソーさんが言っていたな。苦しむことこそ尊いんだ、と。

 ジルベールは顔を上げて、あてもなく庭園をうろつき始めた。

 初めに安らぎの兆しが見えたのは、既に記したようにフィリップが不意に姿を見せた時だった。これにはジルベールも考えを掻き乱され、またもや混乱し始めた。

 兄か! 兄が呼ばれたのか! 間違いない! 一家は秘密を守ることに決めたのだ。だが詳細を徹底的に探られることは、ジルベールにとっては、コンシェルジュリ、シャトレ、トゥルネルの拷問道具に等しかった。そうなればジルベールはアンドレの前に引きずり出され、ひざまずかされ、卑屈に罪を告白させられ、棍棒かナイフで犬のように殺されるのだろう。幾つもの恋愛事件という先例が、正当な理由のある復讐を認めている。

 国王ルイ十五世は似たような立場の貴族には極めて好意的だった。

 それに、アンドレが復讐を恃むならフィリップになるだろうが、フィリップほど恐ろしい敵はいない。フィリップは一家で唯一ジルベールに同じ人間らしい感情を示してくれた。そんなフィリップが罪人を殺すとしたら、剣ではなく言葉で充分ではないだろうか。例えば「ジルベール、我が家の飯を食いながら、我が家を辱めるとはな!」

 そういう事情で、フィリップを一目見た途端にジルベールの足はがくがくと震え出した。我に返ると、罪を認めず口を閉ざすためには本能に従うしかなかった。その瞬間から、一つの目的に向かって全力を傾注した。抵抗するしかない。

 後を尾けるとフィリップがアンドレの部屋に入り、ルイ医師と話すのが見えた。すべてを覗き見て判断したところでは、フィリップは絶望に沈んでいた。苦しみが生まれ、大きくなるのがわかった。アンドレとの激しい諍いが、カーテン越しに影絵となって伝わって来た。

「もうお終いだ」

 そう思った途端に頭が真っ白になり、ナイフをつかんでフィリップを殺そうとしていた。戸口に現れるのを待ちかまえよう……それとも、必要とあらば自殺すべきだろうか。

 ところがフィリップは妹と仲直りした。フィリップがひざまずき、アンドレの手に口づけするのが見えた。これは新たな希望、救済の扉だ。フィリップがまだ怒りをはじけさせていないとしたら、それはつまり、アンドレが犯人の名前をまったく知らないということではないのか。唯一の証人であり告発者であるアンドレが何も知らないとしたら、誰一人として知っている者はいないのだ。希望的観測として、アンドレが知っていて口をつぐんでいるとしたら、救済どころではない。幸運、いや、大勝利だ。

 ジルベールはすぐに覚悟を決めて現場と同じ高さになるように背伸びした。見晴らしを遮るものがなくなると、もはや足を止めることは出来なかった。

「ド・タヴェルネ嬢が僕を告発しないとしたら、証拠は何処にある? 気が狂いそうだ。告発するとしたら、結果を責めるのだろうか、それとも罪そのものを責めるんだろうか? でも罪を咎められたりはしなかった。三週間経ったけれど、以前よりも嫌われたり避けられたりした形跡は微塵もないじゃないか。

「アンドレが原因を知らなかったのなら、結果については誰にも増して僕も安全だ。国王その人がアンドレ嬢の部屋にいるのを見たんだからな。必要とあらばフィリップにそれを証言してもいい。陛下がいくら否定しようと、僕の言うことを信じるだろう……きっとそうだ。でも危険な手だな……黙っているに越したことはない。国王なら、無実を証明し、僕の証言をぺしゃんこにする方法を幾らでも持っているだろう。だが国王の名前が出されることがないとすれば、国王は措いておくとして、あの晩ド・タヴェルネ嬢を庭に連れ出した謎の人物がいなかっただろうか?……あの人物はどう抗弁するだろう? あの人物は姿を見られているはずではないか? だとすれば、また姿を見られればばれるのではないか? あいつは当たり前の人間でしかない。そうであって欲しいし、いつだって負けるもんか。もっとも、僕のことなど考えもしないに違いない。見ていたのは神様だけさ……」ジルベールは苦笑いした。「それにしたって神様と来たら、ぼくの辛さや苦しみを何度も見ながら何も言わずにいたんだからな。どうしてこんな状況にぼくを陥れるような不公平なことをするのだろう? 初めて神様から与えてもらった幸運だったというのに……。

「そもそも、罪があるとしたら、神様にであって僕にはない。ド・ヴォルテール氏が何度も言っていたように、奇蹟なんてもはやありはしないんだ。助かった。安心だ。秘密は僕だけのもの。未来は僕のものだ」

 これだけのことを考えると、いや、良心によって組み立てると、ジルベールは農機具をつかんで、同僚たちと夜食を摂りに行った。晴れ晴れとして、のうのうとして、挑発的でさえあった。さっきまでは後悔もあったし、怯えもあった。それは男なら、哲学者なら、急いで忘れてしまわなくてはならない少なからぬ弱点だった。ただし、自覚はせずとも頭から離れることはなかった。ジルベールは眠らなかった。

『ジョゼフ・バルサモ』 144

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百四十四章 診察

 外には深い沈黙が立ち込めていた。

 空気を震わせるそよ風も、ざわめく人の声もなく、何もかもが静まり返っている。

 一方トリアノンの仕事もすべて終わっていた。厩舎や車庫の働き手は部屋に帰り、小さな中庭には人気がない。

 アンドレはフィリップと医師の態度から胸の内に大きな不安を感じていた。

 今朝はたいした病気ではないし薬もいらないと言っていたルイ医師が再び訪れたことに、訝しく意外な思いを感じていた。だが元来が素直な性根だったので、澄んだ魂の鏡が疑いに吹かれて曇ることはなかった。

 やがて医師はアンドレを見つめるのをやめてランプの明かりを向けると、医師としてというよりは、友人か懺悔僧であるかのように、脈拍を取り始めた。

 こうした思いがけない行動に、繊細なアンドレはいよいよ驚きを隠せずに、もう少しで手を引っ込めるところだった。

「お嬢さん、私に会いたがったのはあなたでしょうか、それとも私はお兄さんの望みに従っただけなのでしょうか?」

「戻って来た兄から、先生がまたいらっしゃると聞きました。ですが今朝、それほど重い病ではないと仰って下さったのですから、改めてご迷惑をかけるまでもないとわたくしは考えております」

 医師は一つうなずいた。

「お兄さんはかなり昂奮して、名誉を気にかけ、ある点にこだわっておいでのようでした。あなたが正直に打ち明けなかったのは、恐らくはその辺りに原因があるのではありませんか?」

 アンドレはフィリップを見つめた時と同じような目つきで医師を見つめた。

「先生もですか?」かなり苛立った口調だった。

「失礼ですが最後まで言わせて下さい」

 アンドレは我慢するといったような、いやむしろ諦めたような仕種をした。

「お兄さんが苦しんだり腹を立てたりすることを心配して、かたくなに隠し続けるのはよくわかります。ですが私に対しては――肉体の医者であると同時に魂の医者でもある私には――すっかり見てわかっている私には――つまり秘密を打ち明けるという辛い道をあなたと分かち合っている私には――率直に打ち明けて下さるのを待つ権利があります」

「先生。もしお兄様の苦しんでいる顔を目にしなかったなら、もし先生の素晴らしい評判を存じ上げなかったなら、二人揃ってわたくしを騙そうとしているのではないかと思うところです。わたくしを出しにして喜劇を演じるつもりなのではないか、病名を告げて恐怖を植えつけ黒くて苦い薬を飲ませるつもりではないのだろうかと思ってしまいますわ」

 医師が眉をひそめた。

「申し訳ありませんが、そのように隠し立てするのはやめていだたけませんか」

「隠し立てですって!」

「芝居と申し上げた方がよいでしょうか?」

「侮辱なさるおつもりですか!」

「図星だったと仰って下さい」

「先生!」

 アンドレは立ち上がったが、腰を下ろすよう丁寧に医師から命じられた。

「侮辱などしておりません。手を貸そうと思っているだけです。説得することさえ出来れば、あなたを救うことが出来るのですから!……怒った目つきで睨まれようとも、見せかけの癇癪を起こされようとも、私の決意を変えることは出来ませんよ」

「何を仰りたいのです? 何が望みなのですか?」

「正直に打ち明けて下さい。さもなければ、あなたご自身の口から惨めな事実を聞かせていただくことになりますよ」

「かばってくれる兄がいなくなったからと言って、また侮辱なさるのですか。意味がわかりません。先生が言うところの病気について、もっとはっきりとした説明をお願い出来ませんか」

「改めて確認しますが、あなたに恥ずかしい思いをさせる役目からは降ろしていただけませんか?」医師は驚きを浮かべていた。

「意味がわかりません! わかりません! わかりません!」アンドレは三度繰り返した。その目には、問いかけるような、挑発するような、いやほとんど脅すような光が籠っていた。

「私にはわかっております。あなたは科学に疑いを持ち、ご自身の状態を周りから隠したがっておいでですが、たった一言でその思い上がりをへし折って、過ちを正して差し上げましょう。あなたは妊娠しておいでです!……」

 アンドレは恐ろしい悲鳴をあげて、長椅子にひっくり返った。

 悲鳴に続いて扉が激しく音を立て、フィリップが部屋に飛び込んで来た。剣をつかみ、目を血走らせ、口唇を震わせていた。

「恥知らず! 嘘をついたんですね」

 とぎれがちなアンドレの脈拍を確かめながら、医師はゆっくりと振り返った。

「申し上げた通りに申し上げたまでです」医師は蔑むように答えた。「抜き身であろうと鞘にしまっていようと、その剣を使って私に嘘をつかせることは出来ませんよ」

「先生!」フィリップは口ごもって剣を落とした。

「改めて診察して初めの診断を確かめることをお望みだったのでしょう。私はそうしたまでです。確信は深まり、揺らぐことはありません。確かに残念なことです。あなたには共感を覚えていたのですから。飽くまで嘘をつく妹さんに反感を覚えたようにね」

 アンドレはぴくりともしなかったが、フィリップは身体を震わせた。

「私も一家の長ですから、あなたの苦しみはよくわかります。ですからあなたには協力するつもりですし、このことは誰にも洩らしません。私の言葉は絶対です。誰かに聞いていただければわかります。私は自分の命よりも言葉に重きを置く人間です」

「でも、でも、あり得ません!」

「あり得ないことかどうかは私には判断できませんが、これは事実なのです。それでは、ド・タヴェルネさん」

 医師はいたわるようにフィリップを見つめ、静かな足取りでゆっくりと立ち去った。フィリップは苦しみに身をよじり、扉が閉まった瞬間には、苦しみに打ちひしがれて、アンドレのすぐそばにある腰掛けに倒れ込んでいた。

 医師が立ち去るとフィリップは立ち上がり、廊下と部屋の扉と窓を閉めに行った後で、アンドレの許に戻って来た。アンドレは兄がこうした準備をするのを、不安そうに呆然として眺めていた。

「おまえは嘘をついた。卑怯なうえに愚か者だ」フィリップは腕を組んで話し始めた。「おまえは卑怯者だ。一つには、兄に嘘をついたのだから。一つには、弱みを持っている人間に嘘をついたのだから。ぼくはおまえのことを何よりも愛しているし何よりも素晴らしいと思っているし、こうして信頼しているからには愛情とは言わぬまでもせめておまえからも信頼されてしかるべきなのだから。おまえは愚か者だ。不名誉でおぞましい秘密を第三者に委ねたのだから。いくらおまえが口を閉ざそうとも、他人の目には明らかだったに違いない。自分の置かれている状況を真っ先にぼくに打ち明けていてくれたなら、恥をかかずに済ませてやれたのに。愛情からなのか身勝手からなのかはわからないけれどね。というのも、おまえを助けるべきかどうか躊躇っているんだ。おまえがどういう経過でどのように過ちを犯すことになったのかわからないからね。結婚していない以上、おまえの名誉はおまえ一人だけのものじゃない。おまえに名前を汚された者たちのものなんだ。だがそっちの方でお断わりだというのなら、もうぼくは兄なんかじゃない。ぼくが欲しているのは、どんな手を使ってでも隠していることをすべて吐き出させることだけだ。すっかり吐き出してもらえれば、何かの慰めにはなるだろうからね。だからぼくは腹を立てているし心を決めたんだ。いいね、おまえは嘘で誤魔化そうとした卑怯者なんだから、卑怯者が受けるような罰を受けるべきなんだ。罪を認めなさい、さもないと……」

「脅しですか! 女を脅すなんて!」

 アンドレは真っ青になって立ち上がり、脅すように叫んだ。

「脅しだとも。ただし女を、ではない。信仰も名誉もない人間を、だ」

「脅しですって!」アンドレもだんだんと感情を高ぶらせる。「何も知らないしわからないわたくしを脅すのですか? 残酷なことの大好きな気違いが協力して、絶望に追い込んだり辱めを与えたりして殺そうとしているみたい!」

「だったら死ぬがいいさ! 認めようとしないのなら死ぬがいい。それも今すぐだ。神が判断して下さるだろうから、打ちつけてやる」

 フィリップは発作的に剣をつかみ、稲妻のような速さで、アンドレの胸に切っ先を突きつけた。

「わかりました、殺して下さい!」刃からほとばしる稲光に怯えもせず、剣先の痛みから逃げようともしなかった。

 フィリップの怒りと乱暴もそこまでだった。後じさって手から剣を落とすと、膝を突いてすすり泣き、アンドレの身体を抱き寄せた。

「アンドレ! アンドレ! 駄目だ! 死ぬのはぼくの方だ。もうぼくのことなど何とも思っていないんだろう。おまえに捨てられては、この世に未練などない。これほどまでにおまえが愛しているのは誰なんだ? ぼくの胸に告白するよりは死を選ぶほど愛している人間は誰なんだ? アンドレ! 死ぬべきなのはおまえじゃない、ぼくなんだ」

 フィリップは逃げようとしたが、アンドレが狂ったように首筋にしがみついて、口づけを浴びせ、涙を降らせた。

「そんなことはありません。やはりお兄様が正しいの。わたくしを殺して下さい、フィリップ。だってわたくしに非があるそうじゃありませんか。ですけど、気高く純粋で善良なお兄様を責める人などおりません。生き抜いて、わたくしを恨む代わりに憐れんで下さい」

「アンドレ、天の名に懸けて、かつての友情の名に懸けて、おまえも、おまえが愛している人間も、怖がる必要はない。それが何者であろうと、ぼくの一番の敵であれ、人類最後の男であれ、ぼくは祝福するつもりだ。もっともぼくには敵はいない。おまえも気高い心と精神を持っているのだから、然るべき恋人を選んだことだろう。おまえが選んだ人間となら会うつもりだし、兄弟と呼ばせてもらうとも。どうして何も言わないんだ? 結婚できないような間柄なのか? そう言いたいのかい? 構うものか! ぼくは甘んじて痛みに耐えるつもりだし、血を求める名誉の声を抑えるつもりだ。相手の男の名前さえもう聞いたりはしない。おまえが気に入ったのなら、ぼくにとっても大事な人間だ……一緒にフランスを離れて逃げだそう。国王から高価な宝石を貰ったと聞いている。それを売って、半分を父に送ろう。残りを持って人知れず暮らすんだ。おまえの言うことなら何でも聞く。ぼくの言うことは何でも聞いてくれ。おまえ以外の誰も愛していない。おまえに尽くしていることはわかっているだろう。ぼくがしていることはわかっているね。ぼくの友情を当てにしてくれて構わない。ここまで言ったからには、信用してくれるだろうね? それとも、もう兄とは呼んでくれないのか?」

 アンドレは激昂したフィリップの言葉に黙って耳を傾けていた。

 心臓の鼓動だけが生きている証であり、眼差しだけが理性の存在の語り部だった。

「フィリップ」アンドレがようやく口を開いた。「わたくしがお兄様を愛してないと思われていたなんて! 別の人を愛していると思われていたなんて。名誉の作法を忘れていると思われていたなんて。名誉という言葉の持つあらゆる意味を理解している貴族の娘だというのに!……でもそんなことは水に流します。おぞましいと思われたのも、卑怯者と呼ばれたのも、気にしません。お兄様のことを恨むことなどありません。偽りの誓いを立てるほど不信心で卑劣な人間だと思われない限りは。わたくしの言葉を聴いて下さる神に誓って、母の魂に誓って――わたくしのことをあまり可愛がっては下さらなかったそうですけれど――それからお兄様へのひたむきな愛に誓って、愛について考えて理性を曇らせたことなどありませんし、誰かから『愛している』と言われたこともありませんし、誰かから口づけされたこともありません。生まれた時のままに、わたくしの心は清純ですし、肉体は清らかです。ですからフィリップ、神様がわたくしの魂を包み込んで下さるなら、お兄様の方は両の手でこの肉体を支えて下さい」

「わかったよ」フィリップも長い沈黙の後で口を開いた。「ありがとう。これでようやく心の奥まではっきりと見えるようになった。おまえは純粋で、無垢な、犠牲者に過ぎなかったんだ。だがこれは魔法の液体であり、毒入りの媚薬だぞ。誰かがおまえを罠に嵌めたんだ。目を覚ましているおまえから盗むことが誰にも出来なかったものを、眠っている間に盗んだ奴がいるんだ。おまえは罠に嵌ったんだ。だがぼくらは今は一つだ。一緒なら誰にも負けない。おまえの名誉も、復讐も、ぼくに預けてくれるね?」

「いけません!」アンドレは即答した。その様子は悲しみに溢れていた。「復讐は罪ですもの」

「いいかい、ぼくの手助けをして支えてくれ。過ぎ去った日々を遡って、一緒に探してみよう。記憶の糸をたどって、隠れた横糸と結ばれた最初の結び目で……」

「やってみます! 探してみましょう」

「ではまず、誰かにつけ回されたり見張られたりしたことは?」

「ありません」

「誰かから手紙を貰ったことは?」

「ありません」

「誰かから愛を告白されたことも?」

「ありません」

「女はその方面の直感が働くだろう? 手紙や告白でなくとも、誰かから……望まれていると気づいたことは?」

「気づいたことはありません」

「では普段の暮らしの、私的な部分を考えてみよう」

「お願いします」

「一人で歩き回ったことは?」

「覚えている限りではありません。妃殿下のところにお伺いする時を除けば」

「庭園や森に行ったことは?」

「ニコルがいつも一緒でした」

「そう言えばニコルはいなくなったんだろう?」

「ええ」

「いつ頃だい?」

「確か、お兄様がお発ちになった日だったと思います」

「いかがわしい子だったな。逃げ出した詳しい事情は?」

「存じません。ですけれど、好きな人と一緒でした」

「最後に会ったのはいつ?」

「九時頃でした。いつものように寝室に入って来て、着替えを手伝い、コップに水を入れてから出て行きました」

「その水に何か混ぜたかどうか気づかなかったのか?」

「気づきませんでした。もっとも、あの時の状況では、そんなのは意味のないことですけれど。コップを口に持って行った瞬間、異様な感覚に囚われたのを覚えていますから」

「異様な?」

「タヴェルネで感じたのと同じ感覚でした」

「タヴェルネでだって?」

「ええ、あの旅人が立ち寄った時です」

「旅人? 誰のことだい?」

「ド・バルサモ伯爵です」

「ド・バルサモ伯爵だって? どんな感じがしたんだ?」

「眩暈のような立ちくらみのようなものを感じると、身体から力がすっかり抜けてしまうんです」

「タヴェルネでそうした感覚を受けたと言ったね?」

「ええ」

「その時の状況は?」

「ピアノの前に坐っていると、意識が失われるのを感じたんです。前を見ると、鏡の中に伯爵が映っていました。それからのことは何も覚えていません。気づくとピアノの前で目を覚ましており、どのくらい眠っていたのかもわかりません」

「そうした異様な感覚を受けたのは一度きりだったのか?」

「もう一度ありました。花火の日、正確に言うと花火の夜のことです。人混みに連れ去られ、押しつぶされてぐったりとしていた時のことでした。わたくしは力の限りに抗おうとしていました。突然、強張っていた腕が楽になり、目の前が雲に覆われたんです。でもその雲の向こうに、またもやあの人の姿が見えました」

「ド・バルサモ伯爵か?」

「そうです」

「おまえは眠っていたのか?」

「眠っていたのか気絶していたのかはわかりません。タヴェルネでわたくしがどのようなことをされたのかはご存じの通りです」

「うん、そうだな。それであの夜、ニコルがいなくなった日の夜にも、伯爵に会ったのか?」

「姿を見てはいません。ですが存在を窺わせる徴候は感じていました。それにあの異様な感覚、神経が引きつるような眩暈、痺れ、眠り」

「眠り?」

「眩暈を伴った眠りです。抗おうとしても、不思議な力に押し切られてしまうのです」

「何てことだ! 続けてくれ」

「わたくしは眠っていました」

「場所は?」

「もちろん寝台の上です。ところが気づくと床の絨毯の上で、生き返ったばかりの死人のように冷たくなって、一人苦しんでいたのです。目が覚めるとすぐにニコルを呼びましたが、返事がありません。ニコルはいなくなっていました」

「その眠りもいつもと同じだったのか?」

「ええ」

「タヴェルネの時や、花火の時と?」

「ええ、そうです」

「最初の二回の時には、意識を失う前に、そのジョゼフ・バルサモ、ド・フェニックス伯爵を見たんだな?」

「間違いありません」

「なのに三度目の時には見なかった?」

「はい」アンドレは怯えていた。理解しかけていたのだ。「でも、姿こそ見ませんでしたが、存在は感じられました」

「わかった。もう落ち着いて、安心して、自信を持つんだ、アンドレ。事情はわかった。

 フィリップはアンドレに腕を回し、優しく胸に掻き抱くと、心を固め、昂奮に駆られて、待とうとも聞こうともせずに部屋から飛び出した。

 厩舎まで駆けつけると馬に鞍をつけて背中に飛び乗り、全速力で一路パリに向かった。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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