フィリップ・ド・タヴェルネ、シュヴァリエ・ド・メゾン=ルージュは、妹とはちっとも似ていなかった。とはいえ女らしい美女の兄に相応しく、男らしい美丈夫であった。事実、自信に満ちた穏やかな瞳、けちのつけようのない横顔、美しい手、女らしい足にバランスの良い体躯など、どこから見ても申し分のない騎手である。
気高き者【自尊心の高い者】なら騒ぎ立てるような生活に苦しんでいる矜恃持ちの例に洩れず、フィリップは悲しげではあったが悲観的ではなかった。恐らくはこの悲しげな見かけのおかげで随分と優しそうに見えたものの、ひとたび悲しげな見た目を剥いでしまえばそこにいるのは、生まれながらに傲然、尊大、超然たる人物であったはずだ。権利上では富貴な者たちと暮らしているはずが、事実上は貧しい者たちと暮らす必要に迫られていたために、神に与えられた厳しく横柄で気難しい本性も和らいでいたのである。いつ何時とも、獅子のように広い心にも軽蔑が潜んでいるのだ。
フィリップが父を抱きしめかけたところに、歓喜のあまり催眠術から醒めたアンドレがやって来て、青年の首に飛びついたことは既に述べた。
そうしている間にもすすり泣きが聞こえてきたことから、無邪気な魂にとってこの再会がいかに大切なものだったかがわかろう。
フィリップはアンドレの手と父の手を取り、水入らずで過ごそうと応接室に向かった。
「お疑いですね、父上。驚いているね、アンドレ」二人を両脇に座らせると、フィリップが言った。「ところがこれ以上ないほど真実なのです。あと少しすれば、王太子妃殿下がぼくらの侘住まいにいらっしゃいます」
「いかなることがあっても止めねばならんぞ!」男爵が声をあげた。「そんなことがあろうものなら、わしらは未来永劫に浮かばれん! 王太子妃殿下がフランス貴族の見本をご覧になるおつもりなら、お気の毒様じゃな。だが先も言うたが、何の間違いでこの家をお選びになったのだ?」
「それが何もかも成り行きなのです」
「成り行きですって! 聞かせて下さらない?」
「ええ、成り行きです。主は我らが救世主にして父である。それを忘れ給う者たちでさえも主を讃え給うことを思い出すような出来事でした」
男爵は口を引き結んだ。人類や物事を審判し給う至高の存在がわざわざ自分に目を向け首を突っ込むとは思えなかったのだ。
得意げなフィリップを見れば疑いなど湧くはずもなく、アンドレは兄の手を握り、もたらされた報せと込み上げる幸せに感謝を込めて囁いた。
「お兄様!」
「お兄様、か」男爵が繰り返した。「この出来事を喜んでいるようじゃな」
「だってお父様、フィリップがこんなに嬉しそうなのに!」
「フィリップは興奮しやすい質じゃからな。だがわしは幸か不幸かものを考える質でな」と言ってタヴェルネ男爵は応接室の家具に一瞥をくれた。「どんなことでもそこまで気楽には思えぬ」
「これから話すぼくの体験談を聞けば、すぐにお気持ちが変わりますよ」
「では聞かせてもらおうか」老人はぶつぶつと呟いた。
「ええお願い、フィリップ」アンドレも言った。
「もちろんです! 知っての通りぼくはストラスブールに駐屯していました。ご存じのようにストラスブールとは、王太子妃殿下が入国をなされた場所なんです」
「こんな侘住まいにおっては、ものを知っとるわけがなかろう?」
「それでお兄様、ストラスブールで王太子妃殿下は……?」
「ああ。ぼくらは朝から斜堤の上で待っていました。土砂降りの雨のせいで服はびしょびしょだった。王太子妃殿下が何時に到着するのか正確に知っている者は一人もいません。連隊長【駐屯長?長官major】に命じられてぼくが偵察に向かいました。一里ほど進んで道を曲がった途端、先頭の騎士たちと顔を合わせたんです。言葉を交わしていると、妃殿下が馬車から顔をお出しになり、ぼくのことを誰何しました。
「呼び止められたような気がしましたが、ぼくは一刻も早く良い報せを伝えようと、すでに駆足《ギャロップ》で走り出していました。六時間も歩哨に就いていた疲れも魔法のように消え去っていました」
「それで、王太子妃殿下は?」アンドレがたずねた。
「おまえと同じくらい若く、どんな天使にも負けぬほど美しかった」
「待っとくれんか?」男爵が躊躇いがちにさえぎった。
「何ですか?」
「王太子妃殿下は、知り合いの誰かに似てらっしゃらんか?」
「ぼくの知っている人ですか?」
「うむ」
「妃殿下に似ている者などいるはずがありませんよ」青年は熱っぽく答えた。
「考えてみてくれ」
フィリップは考えた。
「心当たりはありません」
「そのな……例えばニコルはどうじゃ?」
「ニコル? 驚いたな! 確かに共通するところもありますね。でも遙かに及びませんよ! でもそんな情報をいったい何処から仕入れたんです?」
「さる魔術師からじゃよ」
「魔術師?」フィリップは驚きの声をあげた。
「うむ。お前が帰ってくることも言い当てた」
「旅の方のことですか?」アンドレが自信なげにたずねた。
「その旅人というのは、ぼくが帰って来た時に一緒にいた人ですか? ぼくが近づくと目立たぬように立ち去りましたが」
「その通りじゃ。だが話を続けてくれ、フィリップ。最後までな」
「おもてなしの用意をした方が良くはありません?」
と言ったアンドレを、男爵が手で止めた。
「用意をすれば一層間抜けに見えるだけじゃ。続けてくれ、フィリップ」
「そうしましょう。というわけでぼくはストラスブールに戻り、報せを伝えたところ、報せを受けたド・スタンヴィル司令官(le gouverneur)がすぐに駆けつけました。報せを聞いた司令官が斜堤に到着した頃、太鼓が鳴り響き、行列が見え始めたのでぼくらはケールの城門まで駆け出したんです。隣には司令官がいました」
「ド・スタンヴィル殿。待ってくれぬか、確か聞き覚えが……」
「大臣ド・ショワズール殿の義理のご兄弟に当たります」
「そうじゃった。続けてくれ」
「妃殿下はお若いため、恐らく若い者の方が気安かったのでしょう。司令官の言葉を聞き流して、ぼくに目をお留めになったのです。畏れ多くて前には出られませんでした。
『迎えに来てくれた方じゃありません?』妃殿下がぼくを見てたずねました。
『さようでございます』とスタンヴィル殿が答えました。
『これへ』
ぼくはお側に進み出ました。
『お名前は?』妃殿下はきれいな声をしていました。
『シュヴァリエ・タヴェルネ=メゾン=ルージュ』ぼくの声は震えていました。
『書きつけておいてちょうだい』と妃殿下が老婆に告げました。後で知りましたが、それは養育係のランゲルスハウゼン(Langershausen)伯爵夫人で、言葉どおりにぼくの名前を手帳に書きつけたのです。
それからぼくの方を見て、
『こんなひどい天気ですのに! わたしのためにそんなひどい目に遭ったのかと思うと、ほんとうに心苦しいことです』」
「何て素敵な方なのかしら! それに何て素晴らしいお言葉!」アンドレが手を合わせて声をあげた。
「ぼくもお言葉の一つ一つを覚えている」フィリップは感に堪えぬようであった。「その言葉を紡ぎ出すお顔も、何もかも全部だ!」
「素晴らしいことじゃ!」男爵は呟いて、何とも言えぬ笑みを浮かべた。そこに浮かんでいたのは父親としての誇らしさと同時に、女性はもちろん王妃に対してすら抱いている偏見であった。「では続けてくれ」
「お兄様は何と答えたの?」
「何も言わなかった。地面に頭をこすりつけていると、妃殿下が通り過ぎたんだ」
「何だと! 何も言わなかったじゃと?」
「声が出なかったのです。どんな力も胸から出てきてくれず、胸は激しく鳴るばかりでした」
「わしがお前くらいの歳にレクザンスカ皇太子妃に紹介されて、言うことが何もないなぞあるまいに!」
「父上は聡明な方ですから」と答えてフィリップは頭を垂れた。
アンドレがぎゅっと兄の手を握った。
「何が見えますかな?」男爵はなおもからかうようにたずねた。「率直に申し上げて、もう待ちきれませんぞ。遺産はどこに? わしのささやかな財産を立て直すための、新たなメゾン=ルージュはどこですかな?」
「お告げが見えましたよ。何者かがあなたを捕まえるから、そう伝えてほしいそうです」
「何と! わしは襲われるということですかな?」
「そうじゃない。朝のうちに訪問客が来るのです」
「つまり、わしの家で待ち合わせをしていましたか。そいつはまずい。非常にまずい。お忘れですかな、もうヤマウズラはありませんぞ」
「真面目な話を申し上げているんです。それにとても重大なことだ。今朝、タヴェルネに発った者がいます」
「いったいどうした気の迷いで、どんな人間がやって来ると? 是非お聞きしたい。白状しますが――あんな歓迎を受けたならお気づきでしょうが――客など煩わしい限りでしてな。詳しく聞かせてくれませぬか。無理なら仕方ないが」
「無理どころか、幾らでも詳しい話をお聞かせしましょう。ナニたいしたことではありません。朝飯前ですよ」
バルサモはコップの中でうねる白い波に、探るように目を戻した。
「ほほう! 見えますかな?」
「曇りなく」
「だったら教えて、アンヌ姉さん、ですな【ペロー「青髭」より、青髭に捕まった若妻が兄弟の助けを待つあいだ、姉妹アンヌにたずねる場面「アンヌ、アンヌ姉さん、何か見えない?」のもじりだと思われる。】」
「いらっしゃるのは身分の高いお方ですな」
「ふうむ! まことですか! そのお方が、誰に招かれたでもなく、こんな所に?」
「ご自分の意思ですよ。案内しているのは息子さんです」
「フィリップが?」
「息子さんご自身で」
ここで男爵は腹を抱えて冷やかすように笑い出した。
「これはこれは! 伜の案内で……そのお方は伜に案内されてくると言うのですか」
「その通り」
「すると伜をご存じでしたか」
「知りませんね」
「して、伜は今……?」
「一里弱といったところでしょう!」
「ここから?」
「ええ」
「よいですかな。倅はストラスブールに駐屯しとります。脱走の汚名でもかぶっているならともかく、そうでもない限り、誰一人連れて来ることなどできんのですわ」
「ですが人を連れて来るのは間違いない」バルサモはコップに目を凝らした。
「ではその御仁は男ですかな、女ですかな?」
「ご婦人ですよ。それも極めて高貴なご婦人です。おや! ご覧なさい、ちょっと変わったことがある」
「大事なことですか?」
「ええ、そうです」
「ではお聞かせ下さらんか」
「あの女中を何処かへやっておいた方がいい。あなたの言葉を借りれば、指に角を持つあばずれですか」
「何故そんなことを?」
「ニコル・ルゲの顔には、今からやって来るお方を思わせるところがあるからです」
「貴婦人と? 貴婦人とニコルが似ていると? 辻褄が合わぬことを仰る」
「いけませんか? クレオパトラによく似た奴隷を見たこともありますよ。その娘をローマに連れて行き、オクタヴィアヌスの勝利に利用しようという話もありました」
「ほほう! またそれですかな」
「では、私の話などではなく、お望みのことをなさるといい。おわかりでしょう。これは私とは無関係で、すべてあなたと関わりのある話なんですよ」
「だがニコルに似ているからといって、その方が気分を害されますかな?」
「あなたがフランス国王だとしましょう。そうでないことを祈るばかりですがね。あるいは王太子だとしますか。こちらはさらに御免こうむりたいが。さて、ある家を訪れたところ、召使いの中にあなたのご尊顔そっくりのまがいものを見つけたら、いい気分になりますか?」
「ふむ! なるほど、これは難問ですな。仰ったのはつまり……?」
「身分も高く地位もあるご婦人が、短いスカートを着て布きれを巻きつけたご自分の顔を目にした場合、いい気分にはならぬだろうということです」
「なるほど!」男爵は相変わらず笑みを浮かべたままだった。「その時が来たら考えましょう。だが何より嬉しいのは伜のことですぞ。フィリップめ、幸運とはこのように前触れなく訪れるのですな!」
男爵の笑いが大きくなった。
「では――」バルサモの言葉は真剣だった。「予言には満足していただけましたか? それは何よりです。ですがあなたの代わりに……」
「わしの代わりに?」
「私が指示を出し、準備をした方が……」
「ほう?」
「ええ」
「ふむ、考えておきましょう」
「今お考えいただきたい」
「すると本気で仰っているのですかな?」
「これ以上に本気にはなれませんよ。何恥じることなく奇特な客人をおもてなししたいのなら、時間を無駄には出来ません」
男爵は首を横に振った。
「お疑いだ、ということですか?」
「それはそうでしょうに。済まんがあなたの相手は筋金入りの疑り屋ですぞ……」
こう言って男爵は娘の部屋の方を向き、この予言を聞かせようと声をかけた。
「アンドレ! アンドレ!」
父の呼びかけに娘が何と答え、如何にしてバルサモの眼力によって窓に釘付けにされたかは、既に述べた通りである。
やって来たニコルが驚いてラ・ブリを見ると、いろいろと合図を送って話を理解しようとしていた。
「信じろと言われてもどだい無理ですな。この目で見んことには……」
「ではお見せしなくてはなりませんな。あちらをご覧下さい」そう言って並木道の方に腕を伸ばすので、見ると向こうから騎手を乗せた馬が、足音を響かせまっしぐらに駆けてくる。
「何と! 確かにあそこに……」
「フィリップ様!」背伸びして目を凝らすニコルが声をあげた。
「若様!」ラ・ブリが喜びで声を鳴らした。
「お兄様だわ!」アンドレも窓から腕を差し出した。
「もしやあれはご子息では?」ずばりバルサモはたずねた。
「うむ、何とまあ! いや確かに伜ですわい」男爵は茫然と呟いた。
「手始めはこんなところです」
「まさか本当に魔術師なのですかな?」
旅人の口唇に勝ち誇った笑みが浮かんだ。
馬は見る見るうちに大きくなった。やがて流れる汗や、立ちのぼる蒸気、そして手前の並木を越えるのがはっきりと見え出した。走り続けているのは若い将校であった。中背で泥まみれ、駆けてきたせいで顔が上気している。ひらりと馬から飛び降りると、父をしっかと抱擁した。
「何と! いやまさか!」さしもの疑り者も気持が揺らいだらしい。「まさかこんなことが!」
老人の顔に浮かんだ疑いの名残を見て、フィリップは。「そのまさかです。ぼくですよ! 本当にぼくなんです!」
「確かにお前じゃ。いやいやそれは間違いない! だがいったいどうしたんじゃ?」
「父上、我が家が大変な名誉に預かったのです」
老人が顔を上げた。
「大変な方がタヴェルネをご訪問下さいます。一時間もしないうちに、オーストリア女大公にしてフランス王太子妃、マリ・アントワネット・ジョゼファ殿下がいらっしゃるのです」
男爵は揶揄や皮肉を表わした時のように、今度は卑下する意味で力なく腕を広げ、バルサモを振り返った。
「これは申し訳ない」
「男爵殿」とバルサモは一揖した。「ここで私は失礼しましょう。久しぶりにご子息と会いなさったのですから、積もる話もあるでしょうしね」
そうしてバルサモはアンドレに頭を下げた。兄の帰宅に喜び勇んで、急いで会いに駆け降りてきたのだ。バルサモはニコルとラ・ブリに合図をしてその場を離れたが、それは二人にも理解できたらしく、バルサモに続いて並木の下に姿を消した。
旅人は早起きをして馬車に向かい、アルトタスの無事を確かめに行っていた。
城館中が寝静まっていたが、ジルベールだけはles barreaux d'une chambreの影で入口に潜み、興味に駆られてバルサモの振舞を追い、足取りをたどっていた。
だがバルサモはアルトタスのいる小部屋の扉を閉めて立ち去ってしまい、ジルベールが並木道に足を踏み入れる頃には随分と遠くまで行っていた。
事実、バルサモは木叢の方に戻りながら、陰鬱だと思っていた風景も日の下で見ればこうも変わるのかと驚いていた。
白と赤の、つまり石と煉瓦造りの小塔は、
花壇の手前には、こんもりと芝生に縁取られ
両別棟の脇から延びたその先では、鬱蒼とした林を根城にする鳥たちが朝の演奏会を催すのが聞こえ、話を戻せば別棟の脇からは楓や
こうしてバルサモは領地の終わりにたどり着いた。そこには燧石造りの城の廃墟が、今も厳かに立っていた。巨大な石積みの中央だけを残して半分方は崩れていたが、植物文様のように這い回る木蔦や蔦の、即ち母なる自然が産み落としたこの野生の破壊児のおかげで、廃墟そのものにも生命が漲っていることがわかるのである。
こうして見ると、この七、八アルパンに過ぎぬタヴェルネ領は、威厳にも気品にも欠けていた。邸は花や蔦や岩を思いついたように飾り立てた洞窟のようではあったが、剥き出しの外見には、夜を岩屋で過ごそうとする旅人を怯ませ追い返すだけの凄みがあった。
一時間ばかり廃墟を彷徨ってから本邸の方へ戻ってみると、小柄な身体を花柄のインド更紗の部屋着に包んだ男爵が、階段脇の通用口から姿を現わし、庭を見回り薔薇を剪定したり蝸牛を除けたりしていた。
バルサモはこれを見て急いで駆けつけた。
「おはようございます」男爵の窮状をこの目で確認しただけに、感謝の気持にも力が入る。「何と申しますか、ご主人がいらっしゃるまで勝手に出歩くのは控えるべきだったのでしょうが、窓の外を覗いた途端にタヴェルネの景色に打たれましてね。この素晴らしいお庭や堂々たる廃墟を是非この目で確かめずにはいられませんでした」
男爵も丁寧な挨拶を返すと言った。「確かにあの廃墟は素晴らしいですからな。いやいやこの土地で素晴らしいものと言えばあれくらいですぞ」
「城館があるではないですか?」
「おお、確かにわしのもの、いやわしのご先祖様のものですがな。メゾン=ルージュと呼ばれとりまして、長いことタヴェルネの名と共に預かって来ました。男爵位はまさにメゾン=ルージュのものでしてな。じゃが過ぎた話はよしませんかな」
バルサモは同意の印にうなずいた。
「わしとしては、お詫び申し上げたい。お話しした通り、我が家は貧しいのですわ」
「ご冗談を」
「ほんの犬小屋です。鼠が居着き始めたのも、事の起こりはほかの城から逃げ出した狐や蜥蜴や蛇ですわ。いやはや。あなたが魔術師か何かなら、杖の一振りでメゾン=ルージュの古城も元通り、城を取り巻く牧場や森の二千アルパンも忘れずにお願いしたいものですな。しかしご安心くだされ、そんなことは忘れましょう。何しろ文句も言わずにあのボロ寝台で眠って下さったのですから」
「とんでもない」
「ご謙遜無用。あの寝台がオンボロなのは百も承知。何せ伜のですからな」
「いいですか男爵殿。私にとってはあの通り素晴らしい寝台でした。お心遣いには感謝しておりますし、このお礼は心より尽くすつもりです」
老人はからかうような笑みをたたえて切り返すのを忘れなかった。
「なるほど!」ラ・ブリが見事なザクセンの大皿に水の入った器を乗せて運んできたのを指して、「いい機会ですな。主がカナの婚礼で為された奇跡をわしにもやってもらいませんかな。この水をワインに、せめてブルゴーニュ、或いはシャンベルタンに変えていただきましょう。目下のところはそれが最大の贈り物ですぞ」
バルサモが微笑んだのを見て、降参の笑みだと男爵は捉え、コップを取るとひと息に飲み干した。
「結構ですな。水より優れたものはない。なにせ神の御心を被造物のもとに運んだのは水なのですから。何ものも邪魔立ては出来ません。石を穿ち、恐らくはダイヤをも溶かすとわかる日も遠くはないでしょう」
「ほほう! わしもそのうち溶かされるでしょうかな。乾杯といきましょう。水さえあればわしのワインも一流級ですな。ほら、まだ残っておりますぞ。そこがマラスキーノとは違いますな」
「私にも一つ水をいただけたなら、お役に立てるかと思いますが」
「是非ともお聞きしたい。まだお時間はありますな?」
「もちろんですよ。真水を持ってくるようお願いしてもらえますか」
「ラ・ブリ、聞こえたな?」
いつも通りにラ・ブリが立ち去った。
「ふむ。はてさて、あなたが毎朝お飲みになる水には、わしの知らぬ特性なり秘密なりが隠されておるのですかな? 散文言葉のジュールダン氏のように、何も知らぬままン十年と錬金術にはげむべきでしたかな?」
「あなたのことは存じませぬが」とバルサモは重々しく答えた。「自分の修めたもののことなら心得ております」
と答えておいて、疾風の如く務めを果たしたラ・ブリに向き直った。
「すまんな」
コップを手に取り目の高さまで持ち上げて太陽にかざすと、光に照らされ真珠が浮かび、まばゆいばかりに紫やダイヤの縞が走った。
「水の入ったコップとは、こんなに美しいのですな? ふうむ!」
「無論です。とりわけ今日は美しい」
こう言うとバルサモの顔つきがぐっと変わった。我知らず男爵は目で追っていたし、ラ・ブリはといえば驚きのあまり皿を差し出したままである。
「わかりました! 相手は……ジルベールです」
ニコルの予想とは裏腹に、アンドレは表情一つ変えなかった。
「ジルベール、あのジルベール、乳母の子の?」
「そうでございます」
「そうだったの! あの子と結婚したいのね?」
「はいお嬢様」
「向こうも愛してるのね?」
ここが正念場だ。
「いつもそう言ってくれます」
「なら結婚なさいな」アンドレは至って落ち着いていた。「何の障碍もないのじゃないかしら。お前のご両親はもういないし、ジルベールはみなしごだし。決めるのは自分たちでしょう」
「そうかもしれませんが」とニコルは口ごもった。予想と異なる展開に戸惑っている。「そのう、よいのですか……?」
「当たり前でしょう。二人ともまだ若いのが気にかかるけど」
「二人して年を取っていきますから」
「二人とも財産がないんでしょう」
「働きます」
「何をして働くの? あの人、何も出来ないじゃないの」
この一言にいよいよニコルはかちんと来た。隠しておくのも嫌になった。
「お嬢様がジルベールを悪く言ってたと伝えても構わないんですか?」
「何を今さら! その通りに言ったまでです。あれは怠け者でしょう」
「暇さえあれば本を読んでますし、何かと言えば知識を得てばかりですよ」
「横着なだけよ」
「お嬢様に尽くしてるじゃないですか」
「何をしてくれたのかしら?」
「ようくご存じのはずです。夜食に鳥を撃つよう命じたのはお嬢様なんですから」
「わたくしが?」
「鳥を探しに何十里も歩くこともあるんですよ」
「悪いけどそんなこと気にしたこともなかったわ」
「鳥のことですか?」ニコルが鼻で笑った。
いつもと同じ精神状態であれば、アンドレはこの冗談に笑ったであろうし、小間使いの皮肉に漲っていた悪意にも気づかなかっただろう。だがアンドレの神経は、弾き過ぎた楽器の弦のようにぶるぶると震えていた。その震えは意思や身体の動きよりも素早かった。ほんのわずかの動きも抑えるのは難しかった。現代の我々であれば、これを苛立ちと表現したであろう。言語学の成果による優れた表現である。酸っぱい果物を口に入れたりざらざらしたものに触れたりしたときに起こるあの不愉快な震えを連想されたし。
「その皮肉はどういう意味?」アンドレはようやく目を覚まし、初めのうちは怠さから衰えていた洞察力も、苛立ちと共に甦った。
「皮肉ではありません。皮肉は貴婦人のご専門ですから。あたしは田舎娘、言葉どおりの意味しかありません」
「どういうことなの? 仰いなさい!」
「お嬢様はジルベールを馬鹿にしています。あんなにお嬢様のことを考えているのに。そういうことです」
「召使いとしての義務を果たしているだけじゃありませんか。ほかには?」
「でもジルベールは召使いじゃありません。お給金を貰ってませんから」
「昔使っていた小作人の息子ね。食事も出して、部屋も与えて。代わりに何かしてくれた? 残念だけどあの人は泥棒よ。だけど何が言いたいの? どうしてそこまでして非難からかばいたいのかわからないわ」
「あら! お嬢様がジルベールを非難してるわけじゃないことくらい存じておりますよ」ニコルは棘のある笑みを見せた。
「またわからないことを言いだしたわね」
「お嬢様がわかろうとなさらないからです」
「いい加減にして頂戴。今すぐ言いたいことを説明なさい」
「あたしの言いたいことなんて、お嬢様の方がようくご存じでらっしゃいます」
「いいえ、知らないわ。見当もつかない。謎々を解く暇などなかったもの。結婚の了解を得に来たのではなかったの?」
「そうなんです。ジルベールがあたしを愛しているからといって、妬んだりしないで欲しいんです」
「ジルベールがあなたを愛してようといまいと、わたくしに何の関係があるのかしら? 本当にもうたくさんよ」
ニコルは蹴爪を立てた若鶏のように、小さな足を蹴り上げた。溜まりに溜まった怒りがついに爆発したのだ。
「てことは、とっくに同じことをジルベールに仰ったんでしょうね」
「わたくしがジルベールに? もう勘弁して頂戴。馬鹿げてるわ」
「たった今とか今後とかはともかく、ちょっと前ならわかりません」
アンドレが歩み寄ると、ニコルは軽蔑しきった目つきを浴びせた。
「一時間も前からふざけたことばかり繰り返してます。早く済ませなさい。いいですね」
「でも……」ニコルの気持がぐらついた。
「わたくしがジルベールと親しくしていたと?」
「ええ、そうです」
ずっと心を占めてはいたがとても信じ難い考えが、アンドレの胸に浮かび上がった。
「まさかこの子、嫉妬してるのかしら。ちょっとごめんなさい!」笑い声がさんざめいた。「安心して、ルゲ。ジルベールのことなんて考えたこともないわ。目の色が何色なのかもわからないのだから」
アンドレにとっては無礼というより狂気の沙汰ではあってが、すべて水に流すつもりだった。
ニコルの思いは違った。侮辱されたと思っているのはニコルの方で、許しなど望んではいなかった。
「そうでしょうね。夜中では見ようがありませんから」
「どういうこと?」わかりかけて来たが、まだ信じられない。
「ジルベールと会うのは昨日のようにいつも夜中だったんでしょう。だったら顔の細かいところははっきりわかりませんよね」
「いいですか。今すぐに説明なさい!」アンドレの顔は青ざめていた。
「そうしろと仰るなら」じっくり行くのは止めだ。「昨夜、見たんです……」
「お待ちなさい。階下で誰か呼んでいます」
確かに花壇から声が聞こえる。
「アンドレ! アンドレ!」
「お父様ですよ。昨晩のお客様もご一緒です」
「行って、お断わりして来て頂戴。具合が悪くて、身体も怠いので。戻って来たら、このおかしな議論を然るべく終わらせましょう」
「アンドレ!」再び男爵が声をかけた。「バルサモ殿がお前に朝の挨拶をしたいと仰っておる」
「行きなさい」アンドレは女王のように扉を指し示した。
ニコルは指示に従った。アンドレに命じられた人間なら誰でもするように、口答えもなく、眉一つ動かさず。
だがニコルが出てゆくと、アンドレに不思議な変化が訪れた。姿を見せまいという決意は固かったのだが、目に見えぬ超越的な力にでも触れられたものか、ニコルの開けた窓の方へと引き寄せられて行った。
見るとバルサモはアンドレに目を据えたまま深くお辞儀をした。
身体が震えてしまい、バランスを崩さぬよう鎧戸にしがみついた。
「おはようございます」アンドレも挨拶を返した。
とその時、言伝を預かっていたニコルが到着し、お嬢様の気まぐれにはついていけないとばかりに大きく口を開けて呆れていた。
途端にアンドレの身体中から力が抜け、椅子に崩れ落ちた。
バルサモはそれをじっと見つめていた。
「あたし、結婚するつもりでした」
「え?……そんなこと考えてたの? まだ十七でしょう?」
「お嬢様はまだ十六でございます」
「それが?」
「それが!? お嬢様はまだ十六ですけど、ご結婚を夢見たりなさらないんですか?」
「いったい何が言いたいの?」
ニコルは口を開いて罵声を浴びせようとしたが、アンドレが議論を切り上げるだろうことはよくわかっていたし、まだ殆ど話は進んでいないのだ。そこで作戦を変更した。
「ええとですね、あたしにはお嬢様が何を考えているのかはわかりません。ただの田舎娘ですから、いつも自然なんです」
「おかしな言葉ね」
「どこがです? 好きになったり好かれたりするのが不自然ですか?」
「それならわかるわ。それで?」
「好きな人がいるんです」
「その人もお前のこと好きなの?」
「そのはずです」
疑いが大きくない以上、こうした場合には肯定しておくに限ると思い、ニコルは言い直した。
「というか、そうなんです」
「わかったわ。タヴェルネでそんなことしてたのね」
「将来のことを考えなくてはなりません。お嬢様は貴族でらっしゃいますし、お父様の財産もおありになるかと存じます。あたしは二親ともいませんし、今のところ無一文なんです」
話を聞いてみればしごく単純なことに思えたので、ニコルの口調に棘が感じられたことも徐々に忘れてしまい、持って生まれた優しさが甦って来た。
「それで、相手は誰なの?」
「お嬢様もご存じの人ですよ」と、ニコルは美しい双眸でアンドレの瞳を睨みつけた。
「わたくしが?」
「間違いなく」
「誰かしら? 焦らさないで」
「お嬢様のご機嫌を損ねないかと思いまして」
「わたくしの?」
「ええ」
「ということは素性の良くない人なのかしら?」
「そういうわけでは」
「だったら思い切って仰い。よく働く使用人のことを知りたいと思うのは主人の務めです。そしてお前はよく働いてくれてるわ」
「ありがたいお言葉です」
「だったら早く仰い。それから服の紐を留めて頂戴」
ニコルはここぞとばかりに心を凝らした。
若く逞しく、溢れんばかりの打たれ強い生命力には、あの忘れるという能力が備わっており、忘れたいと願いさえすればどんな人間にも効き目がある。ニコルは眠りに就くまでの間、ささやかな復讐計画を練っていたが、そこには十七歳の小さな心に巣食った悪意が詰まっていた。
だいたい、むしろタヴェルネ嬢の方こそジルベールよりも罪が重いのではないか。お高くとまって、偏見に凝り固まり、自惚れで膨れ上がった小娘ときたら、ナンシーの修道院では王女には三人称を、公爵夫人には敬称を、侯爵夫人にはタメ口を、それ以下には口も聞かぬ。見た目は彫像のように冷たいくせして、大理石を一皮むけば随分と気まぐれらしい。ジルベールと同じく田舎芝居の操り人形だとすれば、滑稽でさもしい限りだ。
事実ニコルなら女らしいセンスを発揮してそう言うに違いないし、頭脳だけはジルベールに劣っているが、ほかの面では勝っていると感じていたのも事実である。五、六年にわたる読書のおかげで上回っていた智性という後光なくしては、落ちぶれた男爵の小間使いといえど、農夫に身を任せることなど堕落もいいところであった。
だとすると、ジルベールに身を任せたのが本当だとしたら、お嬢様はいったいどうするつもりなのだろうか?
考えてみると、見たというより見たと思っているものを男爵に告げるのは、大きな間違いだろう。第一に、男爵の性格からして、笑いながらジルベールに平手打ちを喰らわした後で追っ払うことになる。第二に、ジルベールの性格からして、さもしく卑劣な復讐を思いつくことだろう。
だがアンドレのことでジルベールを苦しめ、二人を手の内にして、小間使いが見つめるたびに二人の顔色を変えることが出来れば、アンドレを苛立たせ、うわべだけはお堅い手に口づけしたことをジルベールには後悔させられる。こうして、空想も満たされ自尊心も暖められた。見たところ一分の隙もない。こうして、ニコルは考えるのをやめた。それから、眠りに就いた。
夜が明けてから目が覚めてみると、清々しく軽やかで気分がいい。いつもどおりの時間、とはつまり一時間かけて身だしなみを整えた。何しろ長い髪を梳かすだけでも、下手にやったり念入りにしたりすれば二倍の時間がかかるはずだ。先ほど述べた錫張りの天窓を鏡代わりに、瞳を覗き込んだ。今まで以上に魅力的ではないだろうか。続いて口元を確認した。口唇は色合いといい丸みといいさくらんぼのようだし、影を落とした鼻筋はすっきりとして軽く上を向いている。太陽の口づけを決して許さずにおいた首筋は、百合のように白かったし、これだけ豊かな胸、これだけくびれた胴などお目にかかれまい。
これだけ綺麗なら、アンドレに嫉妬させることだって容易いだろう。見た目ほどには、根っからの性悪というわけではない。わがままや気まぐれで振る舞っているわけではなく、タヴェルネ嬢がジルベールを愛しているのではと考えるあまりなのだ。
こうして肉体的にも精神的にも武装を整え、ニコルはアンドレの部屋の扉を開けた。主人は七時にはまだ寝ているが、許可は与えられている。
と、部屋に入りかけて立ち止まった。
アンドレは透き通るように青白かった。額に浮かぶ汗には髪がまとわりつき、寝台に横たわったまま息も絶え絶えに、寝苦しいのか時折り辛そうに身をよじっていた。
しわくちゃに丸まった夜具からは肌が露出し、寝乱れの激しさを物語っていた。片頬を腕に預け、手で胸をまだらになるまで締めつけている。
息も切れ切れに苦しげな喘ぎを洩らし、或いは聞き取れぬ呻きを発した。
ニコルは黙ってしばらく考え、首を横に振った。認めざるを得ない。アンドレの美しさには太刀打ちできようはずもなかった。
窓に向かい、鎧戸を開けた。
溢れる光がすぐに部屋中に満ち、アンドレの色づいた瞼を震わせた。
目を覚まし起きあがろうとして、ひどく疲れていることに気づくと同時に激しい痛みに襲われて、悲鳴をあげて枕に倒れた。
「お嬢様! どうなさいました?」
「もう遅いのかしら?」と目を擦ってたずねた。
「はい、いつもより一時間は遅うございます」
「どうしたのかしらね」アンドレはそう言って、自分が何処にいるのか確かめようと辺りを見回した。「何だか身体が痛いわ。胸が苦しい」
ニコルはじっと見つめてから、答えた。
「風邪ですよ。昨夜お引きになったのでしょう」
「昨夜? ちょっと!」しわくちゃの服を見て、驚いて声をあげた。「どうして服を脱いでないの? 何故こんなことを?」
「覚えておいででしょう?」
「何にも覚えてなどないわ」アンドレは頭を抱えた。「何が起こったのかしら? 頭がどうかしてしまったの?」
身体を起こすと困惑顔で再び辺りを見回した。
何とか気持を奮い立たせる。
「そうね。覚えています。昨日は、ひどく退屈だったし、ひどく怠くて………嵐のせいね。それから……」
ニコルは寝台を指さした。しわくちゃではあったが夜具は掛かっていた、がやはり乱れていた。
アンドレはじっとしたまま、妙な目つきで自分を見つめていた旅人のことを考えていた。
「それから……?」先を促すようにニコルがたずねた。「覚えておいででしょう」
「それから、チェンバロに腰かけたまま眠ってしまったわ。その後のことは、何にも覚えてない。恐らくまどろみながら部屋に戻って、床に就いたときには服を脱ぐ気力もなかったのでしょう」
「お呼びくださるべきでした」と猫撫で声を出した。「あたしはお嬢様の小間使いではございませんか?」
「そんなこと思いつかなかったわ。もしかするとそんな気力すらなかったのでしょうね」アンドレは何処までも無邪気に答えた。
「この女狐!」ニコルは呟いた。
「ですがそうなると随分と遅い時刻にチェンバロの前にいらっしったことになりますよ。あたし、お嬢様がまだ部屋にお戻りにならない時分に、物音が聞こえたので階下に降りたんですから」
ここでニコルとしては口を閉じ、アンドレが尻尾を出すなり朱に染まるなり何らかの反応を見せるだろうと見込んでいた。が、アンドレに動揺は見えず、曇りのない表情を見ていると、さては鏡のように、曇りのない魂を映しているのかと思えてくる。
「階下に降りたところ……」ニコルが繰り返した。
「降りたところ?」
「降りてみると、お嬢様はチェンバロの前にはいらっしゃいませんでした」
アンドレが顔を上げた。が、その澄んだ瞳をいくら覗いてみたところで、そこに驚き以外の感情を見つけるのは不可能だった。
「おかしな話だこと!」
「そうでしょうか」
「応接室にいなかっただなんて。わたくしは一歩も動いてはいませんよ」
「よろしいでしょうか?」
「では何処にいたのかしら?」
「お嬢様の方がよくご存じのはずですよ」とニコルは肩をすくめてみせた。
「きっと勘違いよ」アンドレは一層優しい声を出した。「わたくしは椅子から離れませんでした。とても寒くて身体が怠く、歩くのに骨が折れたことだけは辛うじて覚えてるわ」
「あら!」吹き出してしまった。「でもあたしが見たときは普通に歩いてらっしゃいましたよ」
「見たの?」
「と思いますけど」
「だけど、応接室にはいなかったと聞いたばかりよ」
「お見かけしたのは応接室ではございません」
「では何処で?」
「玄関です。階段のそばで」
「そんなところに?」
「お嬢様ご本人でした。お嬢様のことならよく存じておりますから」と言い条、無心を装った笑顔を見せた。
「でも間違いなく、応接室からは一歩も動いていないわ」アンドレは無邪気にも記憶を探ってそう答えた。
「こちらも間違いなく、お嬢様は玄関においででした。もちろん――」一層注意深く言葉を続けた。「お庭を散歩がてらお戻りになったのでしょう。嵐の後で、いい夜でしたでしょうから。夜の散歩っていいですものね。空気はひんやりとしているし、花はずっと香しいし。そうじゃありません?」
「でもわたくしが夜中の散歩を避けているのは知っているでしょう」アンドレは微笑んだ。「とっても臆病なんですから!」
「散歩は二人でも出来ますよ。二人なら怖くないでしょう」
「では誰と散歩したらいいかしら?」小間使いの質問の一つ一つが訊問なのだということに、気づいた素振りもない。
さらに問いただすべきかどうか、ニコルにはわからなかった。アンドレの落ち着きぶりを見ていると、嘘をついているようにも思えたし、怖くなっても来た。
どうやら話題を変えた方がいい。
「苦しいと仰いましたよね?」
「ええ、ひどく苦しいの。怠くて力が入らない、何も原因はないのに。昨夜はいつもしていることしかしなかったのに。もしかしたら病気に掛かったのじゃないかしら!」
「あらお嬢様、誰だってときには悲しくなるものですよ!」
「それが?」
「悲しいときって身体から力が抜けてしまうでしょう。ようく知ってますから」
「あら、何が悲しかったの、ニコル?」
この何気ない屈辱的な一言を耳にして、ニコルはついに切り札に手を付けた。
「当たり前じゃないですか」と目を伏せた。「悲しいに決まってるでしょ」
アンドレは何事もなく寝台を降りて、服を脱いで着替え始めた。
「聞かせてちょうだい」
「実はここに来たのもそれを伝えるためなんです……」と言い淀んだ。
「何の話? どうしたの? ずいぶん落ち着きがないみたいよ!」
「落ち着きなく見えるのは、お嬢様がお疲れのように見えるのと同じ理由です。あたしたち、きっと二人とも苦しんでるです」
この「私たち」が気にくわなかったらしく、アンドレは額に皺を寄せて、こう声をあげた。
「ああ!」
だがニコルはその声にさして驚いた様子もない。その声の抑揚を聞いて、一つ考えてみるべきだったのだが。
「お許しいただきましたので、お話しいたします」
「お願い」

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