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翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』67-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 だがそれよりも狩人や森番を激しく嫉妬させていたのは、クルイース親父が年に三百六十五発しか撃たず、その三百六十五発で百八十三羽の野兎と百八十二羽の白兎を仕留めているという事実であった。

 ドルレアン公に招かれて城館で数日を過ごしたパリの貴族たちは、一度ならずクルイース親父の物語を聞かされていたので、一ルイや一エキュを施しに来て、三百六十五回の射撃で三百六十五回の機会を成功させた人間の秘密を探ろうとしていた。

 だがクルイース親父には次のような説明しか出来なかった。軍隊では同じ銃に銃弾を込めて人間を撃ち殺して来た。銃弾を用いて人間にして来たことを、散弾を用いて白兎や野兎にするのはずっと簡単なことだと気づいた。

 それを聞いて笑みを浮かべた人々に、クルイース親父はたずねた。

「確実に命中しないのに撃つ理由なんてあるかい?」

 クルイース親父が射撃の名手でなければ、ラ・パリス氏の碑文に連なっていてもおかしくはない言葉だった。
 【※Jacques II de Chabannes, Jacques de La Palice(La Palisse)、1470-1525。シャルル八世~フランソワ一世時代の大将軍として知られる。その死を悼む小唄「Hélas La Palice est mort, /Il est mort devant Pavie, /Un quart d'heure avant sa mort, /Il faisait encore envie, 」の「envie」が「en vie」と誤読され、「死の十五分前までまだ生きていた」という「自明の理」を表す言葉となった。】

「それにしたってドルレアン公のオヤジさんはけちではないんだ、どうして一日に一発しか撃たせてもらえないのだ?」

「それ以上は余分だ。ちゃんとわかってくれてるんだよ」

 そうした珍しい光景と突飛な理論のおかげで、クルイース親父は年に十ルイほどを手に入れていた。

 兎の革と自分で作った祭りでこれだけの金額を儲けたうえに、巻脚絆一組――正確に言うと五年で巻脚絆半足と十年で服一着にしか使わなかったので、親父は貧乏とは程遠かった。

 噂によればそれどころかへそくりを隠していたし、相続人がひどく困窮することはないだろうという話だった。

 ピトゥが真夜中に会いに来たのはこうした特徴のある人物であった。この人物なら絶体絶命の状況から引き上げてくれるに違いないと閃いたのである。

 だがクルイース親父と会うにはかなりの手際を要する。

 ネプチューンの老牧者であるプロテウスよろしく、クルイース親父は易々と捕まえられるような相手ではなかった。何ももたらさない邪魔者(l'importun improductif)とそぞろ歩いている金持ち(du flâneur opulent)を的確に見分け、金満家の方を少なからず見下していたので、飛び切りの厄介者をどれだけ荒々しく追い出していたかも察せられるほどであった。
 【※「ネプチューンの老牧者であるプロテウス」の原文は「Tel que le vieux pasteur des troupeaux de Neptune」であり「プロテウス」の名は見られないが、ルソーの詩により補った。詩人・劇作家のジャン=バプティスト・ルソー(Jean-Baptiste Rousseau,1671-1741)の詩「Ode au comte de Luc」には、「Tel que le vieux pasteur des troupeaux de Neptune, Protée, à qui le ciel, père de la fortune, Ne cache aucuns secrets, Sous diverse figure, arbre, flamme, fontaine, S'efforce d'échapper à la vue incertaine Des mortels indiscrets」という一節がある。「ネプチューンの畜群の牧人」とはプロテウスのこと。プロテウスは「海の老人」と呼ばれ、ポセイドン(ローマ神話のネプチューンに該当)の従者としてアザラシの番をしていた。予言を能くするが、さまざまに変身するので捕まえるのは困難だった。】

 クルイース親父が寝ているのはヒースで出来た寝台だった。九月の森がもたらす馥郁たる香りの寝台は、翌年の九月まで替える必要がない。

 刻は夜の十一時頃、空気は澄んでひんやりとしていた。

 クルイース親父の小屋に行くためには、どうしたってぶ厚いどんぐりの敷物や密集した荊の茂みから抜け出なくてはならず、そうなると枝やどんぐりの折れたり割れたりする音で誰かが来たことが筒抜けだった。

 ピトゥは普通の人間の四倍も音を立てた。クルイース親父が顔を上げて目を向けた。眠ってはいなかったのだ。

 その日のクルイース親父は気が立っていた。非道い事故があったせいで、愛想のいい近所の者でも近寄りがたいほどだった。

 本当に非道い事故だった。五年にわたって銃弾を放ち、三十五年にわたって散弾を放って来た銃が、野兎を撃った時に暴発したのである。

 三十五年の間、仕留め損ねたのは初めてのことだった。

 だが不愉快極まりないのは野兎に無傷で逃げられたことではなかった。左手の指が二本、暴発でズタズタになってしまったのだ。指は草を噛んで紐で縛って治したが、銃を直すことは出来なかった。

 別の銃を手に入れるために財産を掘り返さなくてはならなかったし、多大な犠牲を払い新しい銃に二ルイという大金を費やしたところで、暴発してしまった銃と同じく百発百中の精度を持つものかどうかわからないではないか?

 この通りピトゥが訪れたのは最悪の時機だったと言っていい。

 だから掛け金に手を掛けた瞬間にクルイース親父が発した唸り声を聞いて、アラモン国民兵司令官ピトゥは後じさった。

 狼か出産中の猪がクルイース親父と入れ替わってしまったのではないか?

 ピトゥは赤頭巾を読んだことがあったので、中に入る勇気を持てずに外から声をかけた。

「クルイースさん!」

「何だ?」

 ピトゥはほっとした。よく知っている声だった。

「よかった。いらっしゃるんですね」

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『アンジュ・ピトゥ』67-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十七章 クルイース親父とクルイーズ岩、或いはピトゥが如何にして戦術家となりて気高さを身につけしか

 斯くしてピトゥは三十分近くにわたって走り続け、どんどん草深い森の奥まで分け入って行った。

 すると樹齢三百年にはなろうかという大樹の聳える中、巨大な岩を背にするようにして、荊の茂みに囲まれた、四十年ばかり前に建てられた掘っ立て小屋があった。そこには個人的な理由から人に知られぬすべを身につけた人物が閉じ籠もっていた。

 小屋の半分は地面に沈み、残り半分は節くれ立った枝や幹に絡みつかれていたために、屋根に斜めに空いた穴からしか日光や空気は通らない。

 アルバイシン(l'Albaycin)のジプシー(Bohémiens)小屋にも似たこの掘っ立て小屋は、屋根の上から青い煙の洩れるのが見えることもある。

 そうでもなければ森番や狩人や密猟者や近隣の農夫以外には、まさか人が住めるとは思われないような代物だ。

 ところがそこには引退した老兵が四十年前から暮らしていた。ルイ=フィリップの父ドルレアン公(monsieur le duc d'Orléans, père de Louis-Philippe)の許しを得て、森に住み、制服を着たまま、日毎に兎を撃っていた。

 鳥と大型獣は許可されていない。

 この物語当時の年齢は六十九歳。初めはクルイース(Clouïs)とだけ呼ばれていたが、後に年齢に合わせてクルイース親父と呼ばれるようになった。

 小屋の裏にある巨大な岩は、親父の名前から洗礼を授かってクルイーズ岩(la pierre Clouïse)と呼ばれていた。

 クルイース親父はフォントノワで受けた傷が元で足を切断しなくてはならなかった。若くして退役し、ドルレアン公の恩恵を受けているのにはそうした事情がある。

 都会には決して足を踏み入れなかったし、ヴィレル=コトレに来るのも年に一回しかない。火薬と散弾を三百六十五発分、閏年には三百六十六発分、購入するためだ。

 同じ日、ソワッソン街の帽子業者コルニュ氏のところに三百六十五ないし三百六十六枚の革を運んで来る。白兎と野兎が半々のその革を、帽子業者は銀貨七十五リーヴルで買い取っていた。

 平年なら三百六十五枚、閏年なら三百六十六枚と記したが、これには一切間違いはない。クルイース親父には一日に一回銃を撃つ権利があり、一発で野兎か白兎を仕留めるすべを心得ていた。

 平年なら三百六十五発、閏年なら三百六十六発、許された数より多く撃つことも少なく撃つこともなかったので、平年にはきっかり百八十三羽の野兎と百八十二羽の白兎、閏年には百八十三羽の野兎と百八十三羽の白兎を仕留めていた。

 クルイース親父は獲物の肉で命を繋いでいた。食べることもあれば、売ることもあった。

 先述したように、革で火薬と散弾を買い、資本を作っていた。

 そのうえ年に一回、ささやかな投資をおこなっていた。

 小屋の裏にある岩は屋根のような斜面になっていた。

 斜面の表面は十八ピエの広さがあった。

 上端に何かを置けば下までゆっくりと転がってゆく。

 クルイース親父は、野兎や白兎を買いに来るお内儀さんの口を通して、近隣の村々に少しずつ広めていた。それはサン=ルイの日にこの岩を何度か滑り降りた若い娘が年内に結婚するという話であった。【※le jour de la Saint-Louis。la fête de la Saint-Louis とも。8月25日におこなわれる、聖ルイを記念した祝祭。】

 最初の年はたくさんの若い娘が訪れたが、滑り降りる者は一人もいなかった。

 次の年には三人の娘が挑戦した。二人は年内に結婚した。残った三人目の娘のことを、クルイース親父は恥ずかしげもなく切り捨てた。夫が見つからなかったのは滑る時の信心がほかの二人より足りなかったせいだと。

 その翌年には近所の娘がこぞって駆けつけ滑り降りた。

 娘の数に対して男が足りないが、滑り降りた娘の三分の一、つまりより信心深い娘たちが結婚できると、クルイース親父は断言した。

 その言葉に違わず多くの娘が結婚した。それ以来、クルイーズ岩には縁結びの加護があるという評判が立ち、毎年サン=ルイの日には二つの祭りがおこなわれるようになった。村の祭りと森の祭りだ。

 そこでクルイース親父は権利を主張した。一日中飲み食いせずに滑っているわけにはいかないのだから、八月二十五日に飲み物や食べ物を若い男女に売る独占権が自分にはあるという主張である。男女、というのはつまり、岩の霊験を確実にするためには二人一緒に――それも同時に――滑らなければならないと、若い男たちが若い娘たちを掻き口説くようになっていたからだ。

 三十五年にわたってクルイース親父はこうして暮らして来た。地元ではアラブ世界で聖人が受けるような扱いを受け、もはや伝説として生きていた。

『アンジュ・ピトゥ』66-5

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 銃は前日のうちに配られていたし、この日の昼間は銃を使える状態にすることに費やされていた。明日には兵士たちに銃の取扱方(exercice)を見せなくてはならないというのに、ピトゥは十二段式弾込め(la charge en douze temps)の第一令(le premier commandement)も知らないのだ。

 いずれにしてもピトゥは正しい手順を踏まずに装填していたし、それで出来ていたのである。

 演習を指揮する(la manœuvre)に至っては銃の扱いどころではない。

 十二段式弾込めのやり方もわからないうえに演習の指揮も出来ない国民衛兵の指揮官など、いったい何者だというのか?

 筆者はそんな人間を一人だけ知っていた。その人間がピトゥと同郷であったのは間違いない。【※ピトゥと同じヴィレル=コトレ出身のデュマ自身が1847年に Saint-Germain-en-Laye の国民衛兵司令官になっている。そのことか? 『アンジュ・ピトゥ』は1850~1851年にかけての連載。】

 とにもかくにもピトゥは頭を抱え、虚空を見つめ、身動きもせずに考え込んでいた。

 草深いガリアの藪を分け入ったカエサルも、雪深いアルプスの尾根で道に迷ったハンニバルも、そして未知の洋上で進路を見失ったコロンブスも、この長い一日の間にピトゥがしたほどには、知らないものを前にして重々しく考えたりはしなかっただろうし、生と死の秘密を知るあの恐ろしい知られざる神々Dis ignotisにどっぷりと思いを捧げたりはしなかっただろう。

「どうしよう」とピトゥは口に出していた。「時間は進み、明日が来る。明日になれば惨めったらしくボクの無能が晒されるんだ。

「明日になればバスチーユを攻め落とした勇将(le foudre de guerre)もアラモン中の人たちからぼんくら扱いされるんだ。ちょうど……何とかいう人がギリシア中の人たちからされたように。

「明日は非難の的か。今日は英雄だったというのに!

「そんなのない。そんなのあり得ない。カトリーヌに知られたら、ボクの面目丸潰れじゃないか」

 ピトゥはひと息ついた。

「どうすればそんな状態から抜け出せる?

「勇気だろうか?

「違う違う。勇気なんて一分間しか持ちやしない。プロイセン式の射撃訓練は十二段階もあるのに。

「考えてみればおかしな話だな、プロイセン式の訓練をフランス人に教えるんだもの。

「ボクみたいな愛国者にはフランス人にプロイセン式の訓練を教えるなんてこと出来やしないし、もっとこの国独自の訓練方法を編み出すと言っていたらどうなっていたろうか?

「いや、そんなの頭がこんがらかってしまうに決まってる。

「ヴィレル=コトレの市場で猿を見たことがあったっけ。あの猿は銃をいじっていた(faisait l'exercice)けれど、たぶん猿のことだからでたらめにいじっていたんだろうな。

「そうか!」ピトゥは突然声をあげた。

 コンパスのように長い足を伸ばして空き地を横切ろうとしたが、ふと思いついて足を止めた。

「急にいなくなったらみんなびっくりするかな。知らせておかなくちゃ」

 ピトゥは扉を開けてクロードとデジーレを呼び、指示を伝えた。

「銃の訓練は明後日が初日だと告知しておくように」

「明日じゃ駄目なのか?」二人がたずねた。

「二人とも疲れてるだろう? それに兵卒に教える前に上官に教えておきたいんだ。それからもう一つ」ピトゥは凄みのある声を出した。「反論したりせず命令に従う癖をつけるように」

 部下は二人とも敬礼した。

「よし。では周知させておくように。訓練は明後日の朝四時だ」

 二人は再び敬礼してから立ち去った。夜の九時だったので寝みに行くのだ。

 ピトゥは二人が角を曲がるまで見送ると、反対方向に走り出し、五分後には森深く鬱蒼とした木立に分け入っていた。

 では人民解放のためのピトゥの思いつきが如何なるものかをご覧いただこう。

 

 第66章おわり。第67章につづく

『アンジュ・ピトゥ』66-4

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 そこで助役は書記を連れて憲兵二人について行き、憲兵はピトゥたち三人について収蔵品庫(musée)に向かった。ピトゥは何処で曲がればいいのかよく知っていた。

 セバスチャンが若獅子のように身体を躍らせ、愛国者たちの足取りをたどった。

 ほかの若者たちは呆然として見つめていた。

 神父は収蔵品庫の扉が開かれたのを見て、怒りと不名誉のあまり死ぬほど打ちのめされて手近の椅子に倒れ込んだ。

 中に入ると補佐官二人はそっくり奪いたがったが、正直者ピトゥのわきまえ心がまた顔を出した。

 ピトゥは指揮下の国民衛兵数を勘案し、三十三人いるのだから三十三挺の銃を持ち出すよう命じた。

 ところで場合によっては銃を撃たなくてはならない状況が訪れるかもしれない。ピトゥにはそんな時に銃後に納まるつもりはさらさらなかったので、自分用に三十四挺目の銃を手に取った。紛うことなき将校用の銃であり、ほかの銃と比べて短く軽めだったが、小口径とは言え兎に鉛玉をお見舞い出来るのと変わらぬように、愛国者もどきや根っからのプロイセン人に弾丸をお見舞い出来よう。

 さらにピトゥはラファイエットのような長剣(une épée droite)を選び取った。フォントノワかフィリップスブルクで戦った何処かの英雄の剣を、ピトゥは腰に差した。

 補佐官二人がそれぞれ十二挺の銃を肩に担いだ。大変な重さにもかかわらずびくともしないのは、重さを感じぬほど喜びの絶頂にあったからだ。

 ピトゥが残りの銃を担いだ。

 騒がれるのを避けて、ヴィレル=コトレを通り抜けずに狩猟場(le parc)を歩いた。

 第一、それが一番の近道だ。

 しかも近道には反対派に遭遇する危険を回避するという利点もあった。ピトゥは争いを恐れてはいなかったし、口先だけの勇気でないことは争いに備えて自ら選んだ銃が証明していた。だがピトゥは冷静に考えるすべを身につけていたし、冷静に考えるようになってからは、一挺の銃が身を守るための方便だとしても十挺の銃ではそうとは言えないことに気づいていた。

 三人は戦利品を担いで狩猟場(le parc)を駆け抜け、空き地(un rond-point)まで来たところで足を止めた。憔悴しきって汗だくではあったが、栄えある疲れだった。信頼されたわけではないのかもしれないがとにかく祖国から委ねられた大切な預かりものをピトゥの住まいまで運んだのだ。

 その晩の国民衛兵の集会で、司令官ピトゥは兵士一人一人に銃を手渡し、スパルタ人の母が息子に伝えたというあの楯に関する言葉を伝えた。

「楯を持ちて帰れ、さもなくば楯に乗りて帰れ」【※「楯に乗る」とは遺体となって楯に乗せて運ばれること。勝って帰って来い、さもなくば勇ましく戦死して来い、くらいの意味になる。】

 斯くしてピトゥという才能によって変えられたこの小さな村では、地震のあった蟻塚のような騒ぎが起こっていた。

 庶民たちは根っからの密猟者であり、狩りへの欲望を長いこと森番に抑えつけられていたので、銃を手にした喜びから、ピトゥを地上の神に祭り上げることとなった。

 ピトゥの長い足も長い腕もごつい膝もごつい頭も、果ては数奇な経歴も人々の頭から抜け落ちていた。輝ける太陽神ポイボス(Phœbus)が美しき女神アムピトリテ(Amphitrite)の宮殿を訪れていた夜の間中、ピトゥは村の守護神となり村を守り続けた。【※ポイボス(Phœbus)はアポロン・ヘリオスと同一視されたギリシア神話の神、太陽・光の象徴。アムピトリテ(Amphitrite)はポセイドンの妻であり海の女神。
 ヴィレル=コトレ出身の作家ドムスチエの『Les Lettres à Émilie sur la mythologie』第32章「NAISSANCE D'ADONIS」によれば、「ポイボス(アポロン)が夜毎アムピトリテの宮殿に降り、夜が明けるまで出てこなかったと報告された」とある。本文については、“太陽神が女のもとに通っているせいで闇に閉ざされている夜のあいだは、ピトゥが太陽神に代わって村を守護していた”、ということであろう。ドムスチエについては第63章の註1を参照。】

 翌日、人々は直感に導かれるままに武器をいじったり直したり磨いたりして一日を過ごした。壊れていない撃鉄に当たった者は上機嫌で過ごし、ポンコツな武器が当たった者は運命の不平等を是正すべく考えながら。

 その間ピトゥはテントに陣取るアガメムノンのように部屋に引っ込み、ほかの者が武器を磨いている間、ものを考えていた。部下たちが手を擦り剥いている間、ピトゥは脳みそを振り絞っていた。

 ピトゥは何を考えていたのか?と、ピトゥに共感している読者ならたずねるだろう。

 人々の羊飼いとなったピトゥは、この世の栄光が如何に空虚かを考えていたのである。

 果たしてその瞬間は訪れていた。かろうじて建っていた栄光という塔が、聳えるのをやめようとしていた。

『アンジュ・ピトゥ』66-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 セバスチャンはピトゥに近寄りたずねた。

「何が問題なの?」

 ピトゥは簡潔に説明した。

「その指令に署名は?」セバスチャンがたずねた。

「大臣とラファイエット将軍の署名、それにお父上の手跡です」

「だったらどうしてさっさと従わないのさ?」

 大きな瞳の眼、震える鼻孔、意志の堅そうな顔つきから、二種類の血筋が有している傲慢な性格が滲み出ていた。【※セバスチャンは貴族であるアンドレと庶民であるジルベールの子であり、『ジョゼフ・バルサモ』では二人とも傲慢な人物として描かれている】

 神父はセバスチャンの口から出たその言葉を聞いて、震え上がってうつむいた。

「三代にわたって反抗するつもりか」【※「Trois générations d'ennemis contre nous !」原文の意味するところをつかみづらいが、ジルベール(37)、ピトゥ(18)、セバスチャン(14)という神父にとっての敵を差すか?】

「神父さん、従うしかありません」市長が声をかけた。

 神父は一歩前に出ると、修道生活の名残でベルトに提げていた鍵をきつく握り締めた。

「断る! 冗談ではない! 自分の物ではない以上、持ち主の指示を待たせてもらおう」

「神父さん!」村長が思わず非難の声をあげた。

「謀叛になりますよ」セバスチャンも神父に言った。「わかっていらっしゃるんですか」

お前もかTu quoque!」神父はカエサルのように法衣で身体を覆った。【※暗殺者のなかにブルータスの姿を見つけたカエサルは、「お前もか、ブルータス」と嘆じてトーガで身体を覆った。】

「先生、落ち着いて下さい。此処にある武器は祖国の幸福のために使われるんです」ピトゥが言った。

「黙るがいい、ユダめ。恩師を裏切るような奴が祖国を裏切らない保証が何処にある?」

 ピトゥは良心に押し潰されてうなだれた。これまでして来たことは、精一杯人々の代表を務めたところで気高い心から発したものではなかったからだ。

 だがうなだれながらも側近二人を横目で確かめてみると、二人とも弱々しい指揮官に苛立っているように見えた。

 ピトゥは悟った。結果が伴わなければ威厳は剥がれ落ちてしまう。

 自尊心にネジを巻き直されて、ピトゥは再び顔を上げた。

「先生、恩師に逆らうつもりはありませんが、何の反論もせずそんな侮辱を捨て置くわけには行きません」

「では今から反論するのか?」神父は挑発によってピトゥを狼狽させようとした。

「ええ、反論してみせます。反論が正しいかどうか確認なさって下さい。ボクを裏切者扱いしたのは、ただではボクを認めようとしなかったからです。ボクが平和裡に武器の引き渡しを頼み、政府の指令書を後ろ盾に今から武器を奪おうとしているからです。先生と一緒に反革命に手を貸したと思われるくらいなら、裏切ったと思われる方がましです。祖国万歳! さあ、この手に武器を!」

 村長は神父に送ったのと同じような仕種をピトゥに送った。

「素晴らしい! 素晴らしい!」

 確かにその演説は神父には落雷に焼き尽くされたような効果をもたらし、ほかの人々には電撃に目を覚まされたような効果をもたらした。

 村長は助役にはその場に残るよう合図をしてから自分は姿を消した。

 助役も村長と同じく姿を消そうと考えていたのだが、村の責任者が二人もいなくなっては確かに人目を引くに違いない。

『アンジュ・ピトゥ』66-2

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「神父さんがアラモンの国民衛兵をどう思っているかお聞きになりましたね」村長がピトゥと将校二人に確認した。

「フォルチエ神父は子供だった頃のボクらを見て来ましたから、いつまでも子供のままだと思ってるんです」ピトゥは優しく悲しげな声で答えた。

「だがそのガキも大人になったんだ」マニケがぼそっと呟き、怪我をした手を神父に向かって伸ばした。

「此奴らは蛇だ!」神父はいよいよ激昂した。

「蛇が人を咬むのは攻撃された時さ」今度はクロード・テリエ軍曹が言った。

 村長はこうした反撃に、将来の革命そのものを感じ取った。

 神父は同じものを聞いて殉教を予感した。

「わかった、何が欲しいのですか?」

「欲しいのはお持ちになっている武器の一部です」村長は両者を取りなそうと努めて言った。

「あれは私のものではありません」

「では誰のものだと?」

「ドルレアン公閣下のものです」

「わかりました。でも何の問題もありません」とピトゥが言った。

「問題ないだと?」

「ええ。武器を要求するのに変わりはありません」

「閣下に手紙を書かざるを得まい」神父が厳かに宣言した。

「お言葉ですが神父」村長が小さな声で反論した。「引き延ばしは無益です。ご相談を受けたならば閣下は、敵である英国人の銃に加えて、曾祖父ルイ十四世の大砲も愛国者たちに与えてやれとお答えになるはずです」【※オルレアン公ルイ・フィリップの始祖はルイ十四世の弟オルレアン公フィリップ一世。妻の曾祖父がルイ十四世であるため、ルイ十四世は義理の曾祖父ということになる。】

 神父はその指摘に痛いところを突かれて呟いた。

汝、我ガ敵ヲシテ我ヲ包囲セシメリCircumdedisti me hostibus meis

「その通りですね、先生」ピトゥが言った。「ボクらの敵は、先生にとって都合の悪い愛国者だけですから」

「痴れ者めが!」フォルチエ神父は昂奮のあまり饒舌になった。「非常識な気違いめ! 我々二人のどちらが良き愛国者だというのだ。祖国の平和のために武器を守ろうとしている私か、それとも不和と内戦のために武器を欲している君か? どちらが良き息子だというのだ。母なる故郷を祝ぐためにオリーヴを大事にしている私か、母の乳房を切り裂くための刃を求めている君か?」

 村長は昂奮を隠そうとして顔を背けた。背けながらも神父にこっそりと仕種を送って、「素晴らしい!」という気持を伝えた。

 助役が傲慢王タルクィニウスのように杖で花を薙ぎ払った。【※原文は「nouveau Tartquin」。二人いる王制ローマのタルクィニウス王のうち第五代のルキウス・タルクィニウス・プリスクスに対し第七代の「傲慢王」ルキウス・タルクィニウス・スペルブスを指す。王位につくと政敵を殺害した。また、息子セクストゥスをガビイの町に送り込み、指示を仰がれたときに、罌粟を杖で薙ぎ払ってその意思を伝えたことが『ローマ建国史』に見える。デュマは『ジョゼフ・バルサモ』第104章でもこの逸話を引用している】

 ピトゥは何も言い返せなかった。

 それを見てテリエとマニケが眉をひそめた。

 スパルタ人のように剛毅なセバスチャンだけが動じなかった。

『アンジュ・ピトゥ』66-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十六章 勝利者ピトゥ

 フォルチエ神父はお人好し故にまったく気づいていなかった。水面下の外交によって動乱が仕掛けられていることも、アンジュ・ピトゥが政府要人につてがあることも。

 神父はセバスチャンに向かって証明しようと躍起になっていた。悪い仲間同士でいると美徳も純粋さも失ってしまうこと。パリは澱みであること。道を外れたゴモラの者たちのように、急いで天国に戻らなければ天使たちでさえ堕落してしまう場所であること。そのうえで堕天使ピトゥの訪問を大げさに言い立て、辨舌の限りを尽くしてセバスチャンを真の良き王党派に留まらせようとしていた。【※旧約聖書「創世記」によれば、二人の天使がソドムとゴモラを滅ぼすために街を訪れ、ロトとその家族だけを逃がした。】

 断っておくと、この真の良き王党派という言葉をフォルチエ神父はジルベール医師とは違う意味で用いている。

 こうした違いに鑑みてセバスチャンへの布教活動が間違っているということを、神父は失念していた。何せ恐らくは無意識のうちに、息子に父親への反抗心を植えつけようとしていたからだ。

 しかも神父はしばらく前から息子に心の準備が出来ていることに気づかなかった。

 驚くべきことに、詩人の言葉を借りれば子供という柔らかい粘土の時期、言い換えればどんな印章を押しても痕跡が残るような時期に、既にセバスチャンは堅く揺るぎない意思を持つ一人の大人だった。【※「molle argile」という語句は、ヴォルテール「Temple du Goût」、ユゴー「Le doigt de la femme」、アルノー「Les ours mal léchés」などに見えるが、いずれも子どもを詠んだ詩歌ではない】

 これこそまさに庶民を恐ろしいまでに軽蔑していたあの貴族的な性質の産物だろうか?

 或いはこれこそまさに、正真正銘ジルベールの中で禁欲にまで昇華された選ばれし庶民というものだろうか?

 フォルチエ神父にはそうした謎を推し量る能力が欠けていた。ジルベール医師が熱狂的な愛国者であることは知っていたから、聖職者らしい悪気のない贖罪の気持から、国王と神の利益のために息子を改宗させようと試みていた。

 ところがどっこいセバスチャンは耳を傾けているようなふりをしていただけで、実際には忠告を聞いたりはせず、ヴィレル=コトレの公園の大樹の下でしばらく前から何度も襲われていたおぼろげな光景のことを考えていた。フォルチエ神父が生徒たちをサン=ユベール点検坑(du regard Saint-Hubert)やオーモン塔(la tour Aumont)からクルイーズ岩(la pierre Clouïse)の方に連れて行っている時などに、生まれついての人生に寄り添う第二の人生、つまり日々の勉学と学校という単調で無為な人生とは比べものにならない詩的な幸福に満ちた偽りの人生の幻に思いを馳せていたのである。【※「regard Saint-Hubert」はヴィレル=コトレにある地下水の点検坑。「tour Aumont」は不詳。「la pierre Clouïse」はヴィレル=コトレにある巨大な岩。】

 突然ソワッソン街の門が敲かれた。激しさのあまり門はひとりでに開き、数人の男が入って来た。

 ヴィレル=コトレ村長と助役と秘書であった。

 その後ろには憲兵の帽子が二つ見え、さらにその後ろには野次馬の頭が五つ六つ見えた。

 神父は不安を感じて直ちに村長に歩み寄った。

「どうなさいました、ロンプレさん(monsieur Longpré)?」【※「de」がつかないので、第62章に出てくる「M. de Longpré」とは別人か?】

「神父さん、先頃出た陸軍省のおふれをお聞きになりましたか?」村長は重々しい声で答えた。

「知りませんね」

「ではお読みになって下さい」

 神父はおふれを受け取った。

 読んだ途端に真っ青になった。

「どういうことですか?」すっかり動揺してたずねた。

「つまり神父さん、アラモンの国民衛兵の皆さんが此処にいて、武器が引き渡されるのを待っているのです」

 神父はその国民衛兵たちを貪り食わんばかりに飛び上がった。

 ピトゥは登場するなら今だと考え、副官と軍曹を従えて近づいた。

「国民衛兵の皆さんです」と村長が言った。

 神父の顔が真っ青な色から真っ赤に変わった。

「この悪ガキ共! 小僧っ子め!」

 村長は人の良い人物だったので、まだ確乎とした政治観を持っていなかった。山羊とキャベツの世話を続けて、神とも国民衛兵とも喧嘩するつもりはなかった。

 フォルチエ神父の悪態を聞いて村長は大きな笑い声をあげ、その場を支配してしまった。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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