翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 37-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「糞ッ! もう駄目だ!」ジャンが絶望の叫びをあげた。「畜生! 誰か殺してやらなくちゃ気が済まない。美容師がいないだと! くたばっちまえ! リュバンの腹をかっさばいてやる。七時半の鐘が鳴ったというのに、まだ来ない。ふざけやがって! くたばるがいい!」

 今夜の認証式には呼ばれていないジャンは、腹立ち紛れに髪を掻きむしった。

「それよりドレスよ!」ションが叫んだ。「美容師ならほかにも見つけられるかもしれない」

「どうかな? どんな美容師がだ? ああ最悪だ、糞ったれめ!」

 伯爵夫人は何も言わず、ショワズール兄妹も心を動かされるような溜息を、気づかれぬようそっと洩らした。

「ねえ、少し落ち着きましょう」ションが言った。「まず美容師を探すこと。それに仕立屋のところに戻れば、何かドレスになるようなものがあるかもしれないし」

「美容師がいない!」伯爵夫人が苦悶の呟きを洩らした。「ドレスがない! 馬車がない!」

「そうだ、馬車がない! 馬車も来ていないぞ。もうとっくに着いてなけりゃならないのに。これは陰謀だ。サルチーヌが職人たちを逮捕させた訳でもあるまい? モープーが縛り首にするとでも? グレーヴ広場で共犯者が火あぶりにされたとでも? 美容師を車責めにして、仕立屋をやっとこ責めにして、馬車屋の皮を剥いでやる」

 こうしている間にも伯爵夫人は落ち着きを取り戻していたが、それは自分の置かれている立場に不安を感じるあまりのことであった。

「今度こそもう駄目よ。リュバンを手に入れたような人なら、パリ中の優れた美容師を囲い込んでおくだけのお金もあるもの。きっと髪を切り刻むような能なししか見つからないわ……。それにドレス! ドレスが!……それにあの新品の馬車。誰もが嫉妬に駆られるはずだったのに……!」

 ジャンは何も答えず、恐ろしい目つきで部屋中を当たり散らし、家具にぶつかればそのたびにぶち壊して、それでも破片が大きいと思えばさらに小さく砕いていた。

 閨房から控えの間、控えの間から中庭へと広がってゆくこの愁嘆場の真っ直中、従僕たちは相矛盾する命令の渦に困り果て、行ったり来たり、走ってはぶつかり合っていたところ、一人の若者が二輪馬車から降り立った。鮮やかな緑の仕着せ、繻子の上着、藤色のキュロット、白い絹靴下を身につけたその若者は、放っておかれていた門の敷居を跨ぎ、中庭を横切り、敷石を渡り、階段を上り、化粧室の扉を叩いた。

 ジャンは日本の壺を叩き落とした際にセーヴル焼きの酒器に服を引っかけてしまい、粉々に踏み砕いている最中だった。

 静かに、控えめに、おずおずと、扉が三度鳴るのが聞こえた。

 沈黙が訪れた。もしやとは思ったものの、そこに誰がいるのかたずねようとする者はいなかった。

「失礼ですが、デュ・バリー伯爵夫人にお目にかかれないでしょうか」

「お客様、こんな風に入って来られては困ります」どんどん中に入って行くのを止めようとして、門番が追いかけて来た。

「まあまあ。これ以上悪いことなど起こるもんか。伯爵夫人に何の用です?」

 ジャンはガザの門も引き抜けそうな勢いで扉を開けた。

 訪問者は飛び退いてそれをかわし、第三ポジションで着地した。

「失礼。デュ・バリー伯爵夫人のお役に立てないかと思いまして。認証式があるんですよね?」

「何の役にです?」

「私の仕事のことで」

「どんなお仕事を?」

「美容師です」

 そう言って二度目のお辞儀した。

「何だって!」ジャンが若者の首に飛びついた。「美容師だって。さあ入ってくれ、さあ入って!」

「どうぞこちらに」ションはどぎまぎしている若者に両手を回した。

「美容師ですって!」デュ・バリー夫人が天を仰いだ。「美容師! 天の使いだわ。リュバンから頼まれたのかしら?」

「誰かに頼まれた訳ではありません。新聞を読んで、今夜は伯爵夫人の認証式があると知り、『まだ美容師を見つけてないかもしれない。ありそうなことではないけれど、ないとは言い切れない』と思い、お邪魔いたしました」

「お名前は?」いくらか落ち着いて来た伯爵夫人がたずねた。

「レオナールと申します」

「レオナール? 聞いたことがないわ」

「今のところは。ですが奥さまがお任せいただければ、明日には名も知られましょう」

「ふん! 美容師といってもいろいろだからな」

「試している時間はないわ」ションが言った。

「試すとは?」若者は昂奮し、デュ・バリー夫人の周りをぐるぐる回った。「奥さまは髪型でみんなの目を釘付けにしなくてはならないのでしょう。私は奥さまを見初めて以来、一番美しく見えるはずの型をずっと考えて参りました」

 そう言って自信に満ちた手つきをしたために、伯爵夫人の心は揺れ始め、ションとジャンの胸にも期待が舞い戻って来た。

「本当なのね!」伯爵夫人は若者の落ち着きぶりに目を見張った。腰に手を当てた様など、大リュバンそのものではないだろうか。

「ですがその前に、ドレスを拝見しなくてはなりません。髪飾りと釣り合いを取らなくてはなりませんので」

「そうよ、ドレスだわ!」デュ・バリー夫人は恐ろしい現実に引き戻された。「ドレスが……!」

 ジャンが額を叩いた。

「まったくだ! 想像してみてくれ、とんでもない陰謀さ。みんな盗まれたんだ! ドレスも、仕立屋も、何もかも!……ション! ああション!」

 ジャンは髪を引き抜くのに疲れて、嘆き始めた。

「戻ってみたらどう、ション?」伯爵夫人がたずねた。

「無駄よ。だってここに来るために家を出たんでしょう?」

「駄目ね!」伯爵夫人は椅子にひっくり返った。「ドレスがないんじゃ、美容師も役に立たないじゃない?」

 この時、またも扉のベルが鳴った。先ほどのように侵入されるのを恐れて、門番は扉を閉めたうえに、閂を掛けていた。

「誰か来たみたい」デュ・バリー夫人が言った。

 ションが窓に駆け寄った。

「箱だわ!」

「箱? うちに?」

「ええ……ううん……でも……門番に手渡した」

「行って、ジャン、急いで」

 ジャンは従僕たちを追い越して階段に急行すると、門番の手から箱を奪い取った。

 ションは窓越しにそれを見ていた。

 ジャンは箱の蓋を開け、手を突っ込むと、歓喜の雄叫びをあげた。

 箱の中には中国繻子のドレスが入っていた。花の縁取りに、高価なレースも一揃いついている。

「ドレスだわ! ドレスよ!」ションが手を叩いて声をあげた。

「ドレスですって!」先刻までは苦しみのあまり気を失いそうだったデュ・バリー夫人は、今度は喜びのあまり気を失いそうになった。

「誰からだ、おい?」ジャンが門番を質した。

「ご婦人でございます」

「どんなご婦人だ?」

「私の知らない方でした」

「どこの人だ?」

「その方は門から箱を手渡して『伯爵夫人に!』と叫ぶと、乗ってきた二輪馬車にお戻りになり、全速力で走り去ってしまいました」

「まあいい! 大事なのはドレスがあるってことだ!」

「早く来なさいよ、ジャン!」ションが叫んだ。「死ぬほど待ち焦がれてるじゃない」

「さあ手にとって確かめるんだ。じっくり見とれるがいいさ。これが天の贈り物だ」

「でもサイズが合わないわ、合うわけないじゃない、あたしに合わせて作ったわけじゃないんだもの。ああ口惜しい! こんなに素敵なのに」

 ションが急いでサイズを測った。

「縦も横もぴったりよ」

「素晴らしくいい生地だぞ!」

「信じられない!」

「怖いくらいね!」伯爵夫人が言った。

「だがこれでわかったな。手強い敵がいるにしても、同じくらい力強い味方がいる」

「人じゃないわ」ションが言った。「だって陰謀のことをどうやって知ったの? きっと妖精か何かよ」

「たとい悪魔だとしてもいいわ。グラモン夫人たちと渡り合う手助けをしてくれてるんだから! あの人たちの方がよっぽど悪魔じゃないの!」

「ところで……」ジャンが言った。

「なあに?」

「こちらの紳士に頭を任せちまった方がいいと思うな」

「何でそう言い切れるのよ?」

「おいおい! ドレスを届けてくれた人が知らせたに決まってるだろう」

「私にですか?」レオナールは心底驚いていた。

「新聞の話は出任せだ、そうだろう?」

「間違いなく本当の話です」

「説明して頂戴」伯爵夫人が言った。

「奥さま、ポケットに新聞がございます。包み紙にしようと保っておいたのです」

 若者は言葉通りに上着の隠しから、認証式の記事の載った新聞を取り出した。

「さあ始めましょう」ションが言った。「八時の鐘が鳴ったわ」

「ああ、時間はございます」美容師が言った。「式場までは一時間ですね」

「ええ、馬車があったらの話だけど」伯爵夫人が言った。

「そうだ! 畜生! フランシャンの野郎がまだ来てないぞ!」

「報せを受け取らなかった? 美容師もドレスも馬車も手に入らないって!」

「ねえ」ションが怖気立った。「フランシャンも約束を守らないってこと?」

「そんなことはない。あそこだ」

「それで馬車は?」伯爵夫人がたずねた。

「きっと家の前に停まっているさ。そのうち門番が扉を開けに行くとも。いったいどうしたんだ?」

 というのも、この言葉と相前後して、怯えきったフランシャン親方が部屋に飛び込んで来たのである。

「ああ、子爵! 奥さまの馬車をお届けする途中、トラヴェルシエール通りの角で、四人の男が馬車を止めて小僧を殴りつけ、全速力でサン=ニケーズ通りに逃げてしまったのです……!」

「言った通りだ」デュ・バリー子爵は椅子に坐ったまま、馬車屋が入ってくるのを機嫌良く眺めていた。

「襲撃じゃないの! どうにかしなくちゃ!」ションが叫んだ。

「どうにかする! どうしてだ?」

「馬車を探しに行かなきゃ。ここには疲れている馬と汚い馬車しかないのよ。こんなポンコツでジャンヌをヴェルサイユに行かせる訳にはいかないわ」

「いいこと?」デュ・バリー夫人が昂奮をなだめた。「ひよこに餌をくれた人、美容師を用意してドレスを送ってくれた人が、馬車がないままにさせておく訳がないでしょう」

「ねえ! あれは馬車の音じゃない?」ションが言った。

「停まったな」

「でも入って来ない」伯爵夫人が言った。

「入って来ない、それだ!」

 ジャンが窓に飛びつき、開けた。

「急げ! 遅れちまうぞ。いいか! 俺たちには少なくとも恩人がいるのを忘れるなよ」

 下男、馬丁、使者は急ぎに急いだが、既にだいぶ遅れていた。白繻子が張られ、鹿毛の馬が二頭繋がれた馬車が、門の前に停まっていた。

 だが御者も従者も影も見えない。使い走りが轡を握っているだけだ。

 馬車の持ち主はその使い走りに六リーヴルを与え、噴水広場の方に姿を消してしまったと云う。

 扉を確かめた。だが紋章の代わりに、一輪の薔薇があっさりと書かれているだけであった。

 いろいろな出来事のせいで時間がなかった。

 ジャンは馬車を中庭に入れさせ、門を閉めて鍵を掛けた。化粧室に戻ると美容師が手並みを披露しようと準備をしていた。

 ジャンがレオナールの腕をつかんだ。「失礼だが、恩人の名を教えなかったり、こんなに感謝しても知らせないのなら……」

「いいですか」若者は落ち着いていた。「そんなに強く腕をつかまれては、伯爵夫人の髪を整えたくても手が痺れてしまいます。それに急がなくては、もう八時半になりました」

「放して頂戴、ジャン!」伯爵夫人が声を出した。

 ジャンは椅子に倒れ込んだ。

「奇跡よ! ドレスはぴったりだわ……ほんのちょっと長いだけだけど、十分で直せるもの」ションが言った。

「馬車はどう……? 立派な馬車?」伯爵夫人がたずねた。

「見事なもんだ……中に入ってみたよ。白繻子の内張に、薔薇の香り」ジャンが答えた。

「じゃあ問題ないわね!」デュ・バリー夫人は小さな手を叩いて喜んだ。「さあレオナール、上手く出来たらあなたも明日から有名人よ」

 レオナールは二言とは言わせなかった。デュ・バリー夫人の髪に手を掛け、櫛を入れるや、その才能を披露し始めた。

 素早さ、センス、正確さ、心と身体を見事に一致させ、この重大な仕事をこなしていた。

 最後の仕上げをし、強度を確かめ、手を洗う水を求めた。ションが君主にでも仕えるように喜んで水を持ってくると、控えめに礼を言って、退出の意向を示した。

「いや、待て待て! おれは好き嫌いにかかわらずしつこいんだ。もうそろそろ、あなたが誰なのか教えてくれてもいいでしょう」

「とっくにご存じですよ。駆け出しの若者で、レオナールと申します」

「駆け出し? ご冗談を! 名人級の腕前だ」

「あたくしの美容師にならない?」伯爵夫人は手鏡に見入っていた。「催しごとのたびに髪を整えてくれるごとに、五十ルイお支払いするわ。ション、第一回目の今回は百ルイ差し上げて。五十ルイはご祝儀よ」

「奥さま、申し上げました通り、これで私の名も知られるでしょう」

「でもあなたはあたしの専属に……」

「百ルイはお納め下さい。私は自由でいたいのです。今日あなたの髪を整えることが出来たのも、自由だったおかげです。自由とは、あらゆる人間にとって一番大事なものですから」

「哲学者みたいな美容師だな!」ジャンが天を仰いだ。「神よ、我々は何処に行くのです? さあレオナール、あんたと喧嘩はしたくない。百ルイ受け取ってくれ。心配ない、あんたの秘密と自由は守るから……よし馬車だ、伯爵夫人!」

 この言葉はベアルン伯爵夫人に向けられたものだった。聖遺物のように厳かに着飾ったベアルン夫人が入って来た。使う直前になって棚から引っぱり出して来たような有り様だった。

「よし、いいか。四人で階段の下まで静かに運ぶんだ。ちょっとでも苦しそうな声を出させてみろ、お前らをぶん殴ってやるからな」

 ジャンがこうして慎重かつ重要な作業を取り仕切り、ションがそれを手伝っている間、デュ・バリー夫人はレオナールの姿を探した。

 レオナールは消えていた。

「何処を通って行ったのかしら?」デュ・バリー夫人は相次ぐ災難からまだ立ち直っていなかった。

「何処を通って行っただって? 床から? 天井から? そんなことが出来るのは魔法使いだけだぞ。いいか伯爵夫人、髪が鳥の巣に変わらないように、ドレスが蜘蛛の巣に変わらないように、鼠が牽く南瓜の馬車でヴェルサイユに着いたりしないように、気をつけようじゃないか!」

 最後の一言を口にしながら、ジャン子爵が馬車に乗り込んだ。そこには既にベアルン伯爵夫人と幸せな代子が腰かけていた。

『ジョゼフ・バルサモ』 37-1 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十七章 美容師もなし、ドレスもなし、馬車もなし

 デュ・バリー夫人が認証式の大広間に向かうのには、ヴェルサイユの部屋から出るのは都合が悪かった。

 第一に、ヴェルサイユにはこうした晴れの日に相応しい物があまりにも足りなかった。

 何よりも、結局のところいつもとはまったく違っていたのである。選ばれし者たちが、ヴェルサイユの宿やパリの自宅から、重々しい音を立てて到着していた。

 デュ・バリー夫人は出発点にパリの自宅を選んだ。

 朝の十一時にはヴァロワ通りに到着しており、ベアルン夫人も一緒だった。微笑みで縛ることが出来ない時には鍵を掛けて閉じ込めておいた。医学と化学の粋を集めて火傷は今も冷やされていた。

 前日からジャン・デュ・バリー、ション、ドレの三人は働き通しだった。その仕事ぶりを見ないことには、金の威力や人の能力について考えるのも難しかろう。

 一人は美容師を確保し、もう一人は仕立屋を急かした。ジャンは馬車担当だったが、仕立屋と美容師にも手を尽くした。伯爵夫人は花、ダイヤ、レースに没頭し、宝石箱の中に埋もれながら、次々ともたらされるヴェルサイユからの報せによって、王妃の間に明かりを入れるという命令が出されたこと、何一つ変わった点はないことを知った。

 四時頃、ジャン・デュ・バリーが戻って来た。青ざめて慌ててはいたが、上機嫌である。

「どう?」伯爵夫人がたずねた。

「どうだって! 準備万端だ」

「美容師は?」

「美容師のところでドレを見つけた。話はついた。五十ルイの手形を押し込んでやったんだ。六時ちょうどにここに夕食にやってくるから、おれたちはそこでのんびりしてればいい」

「ドレスは?」

「凄いのが出来るぞ。ションがしっかり監督していたからな。二十六人のお針子が真珠とリボンと飾りを縫っているところだ。そうやって一幅ごとに丁寧に仕上げているから、ほかの奴らだったら八日は取られただろうな」

「嘘でしょう、一幅ごとだなんて?」

「本当さ。生地は十三幅ある。一幅につき二人がかりだ。右と左に分かれてレースと宝石を縫いつけているから、最後の最後にならないと一つにならない。後二時間の辛抱だ。夕方六時にはドレスが手に入る」

「間違いないのね?」

「昨日のうちに技師と縫い目を計算しておいた。一幅当たり一万箇所だ。お針子一人につき五千だな。あれだけ厚い生地だと、一目縫うのに五秒はかかる。一分で十二、一時間で七百二十、十時間で七千二百。休憩も必要だし、縫い間違いもあるだろうから、二千二百は計算外としても、まだたっぷり四時間の余裕がある」

「それで馬車は?」

「ああ、馬車か! おれに任せとけって言っただろう。倉庫の中で五十度で塗装を乾かしているところだ。あの素晴らしさと比べちゃあ、王太子妃のお迎え馬車もかすみたいなもんさ。四つの扉の真ん中には紋章が描かれているし、おれが塗らせた方の二枚にはデュ・バリー家の標語『前進あるのみ!』があり、その脇で二羽の白鳩が矢で射られたハートを温めている。その周りを弓、矢筒、松明が取り囲んでいる。フランシャンのところには、あれを見に行列が出来ているぞ。八時ちょうどにはここに届く予定だ」

 この時、ションとドレが戻って来た。二人はジャンの言葉を裏づけた。

「ありがとう、みんな勇敢な右腕たちね」伯爵夫人が言った。

「隈が出来てるぞ。少し眠ったらどうだ。そうすれば元通りになる」

「眠る? ええ、そうね! 今夜は眠れそう。それに尽きるわね」

 こうして伯爵夫人邸で準備が進められている間も、認証式の噂が町を駆け巡っていた。無聊を慰めている者であろうと、無関心を装っている者であろうと、噂の嫌いなパリっ子などいない。十八世紀の野次馬ほど、宮廷人やその陰謀に詳しい人間はあるまい。いかなる祝宴にも潜り込むことは出来なかったし、ちんぷんかんぷんな馬車の羽目板や徹夜で走る急使の変わった服装を除けば、何も見たことはなかったのだが。そんなわけだから、貴族の誰それ氏がパリ中の有名人であるのも珍しいことではなかった。単純なことだ。劇場でも、遊歩道でも、宮廷人は主役を演じていた。つまりリシュリュー氏はイタリア劇を見ている間も、そしてデュ・バリー夫人は王妃のように豪華な馬車に乗っている間も、今日の喜劇役者や人気女優と同じように、人目を意識していたのである。

 見知った顔ほど興味が湧く。パリ中の人間がデュ・バリー夫人を知っていた。裕福で若く美しい婦人たちがしたがるように、デュ・バリー夫人は劇場、遊歩道、店舗に姿を見せることに熱心だったからだ。さらには肖像画、諷刺画、ザモールを通して知っていた。故に認証式のいきさつは、宮廷だけではなくパリにも広まっていた。その日のパレ=ロワイヤル広場にはいつも以上の人だかりが出来ていたが、哲学には申し訳ないことに、それはカフェ・ド・ラ・レジャンスでチェスを指すルソー氏を見るためではなく、噂に聞いた見事な馬車と見事なドレスに彩られた寵姫を見るためであった。ジャン・デュ・バリーの「おれたちはフランスに随分と金をかけている」という言葉には重みがある。パリの様子からも明らかなように、大金のかかった光景をフランスが満喫しようとするのは至極単純なことであった。

 デュ・バリー夫人は国民のことをよく理解していた。フランス人はもはやマリ・レクザンスカの頃とは違う。驚かされるのが好きなのだ。気立ての良いデュ・バリー夫人は、出したお金に見合った光景にしようと労をいとわなかった。義兄に言われた通りに眠る代わりに、五時から六時まで牛乳浴をし、六時には小間使いに世話をさせながら、美容師が来るのを待っていた。

 今日ではよく知られている時代について、お伝えすべき特別な事実はない。同時代と言ってもいいくらいだろうし、ほとんどの読者もご承知のことだ。だが今この場で、デュ・バリー夫人の髪を整えるのには大変な手間と時間と技術がかかるのだということを説明するのは的外れなことでもあるまい。

 完全なる建築物を思い描いて欲しい。若王ルイ十六世の宮廷では頭の上が銃眼だらけになっていたが、あの城塞の原型である。この時代にはあらゆるものが前触れとなる運命だったのだろうか。貴族や貴族もどきたちの足許の地面を穿っていた社会的情熱を反映して、頭の上に誇示しないと、貴族の女たちには特権を享受する時間がほとんどないことを、浮ついた流行が告げていたのだろうか。さらに不吉ではあるがやはり正確な予言によって、首を保護する時間もあまり残されていないことを知り、大げさなまでに飾り立て、何もない頭の上に出来るだけ高く聳えさせたのだろうか。

 こうした見事な髪を編むには、絹のクッションで持ち上げ、鯨鬚の鋳型に巻きつけ、宝石や真珠や花で飾りつけ、目に輝きを与え顔に与える雪をまぶす。仕上げに薄紅、螺鈿、ルビー、オパール、ダイヤモンド、あらゆる色の花をバランスよく整えるためには、大芸術家であると同時に、忍耐も必要だった。

 それ故、あらゆる職人の中でも整髪師だけは彫刻家のように剣を携えていた。

 これがジャン・デュ・バリーが宮廷美容師に五十ルイ差し出したことの理由であり、さらには大リュバンが――当時の宮廷美容師の名はリュバンといったのだが――そのリュバンが時間通りに来てくれぬのではないか、こっちが望んでいるほど巧みには仕上げてくれないのではないか、という不安の理由である。

 やがてその不安は的中した。六時の鐘が鳴っても、美容師は現れなかった。六時半、六時四十五分。心臓が破れるほどに脈を打つ。ただ一つ頼みの綱は、リュバンほどの才能の持ち主であれば、人を待たせるのも当然だということだ。

 だが無惨、七時の鐘が鳴った。用意した夕食も冷めてしまうだろう。不快な思いをさせることにはなるまいか。そこで密使を遣ってスープが出来ていることを報せに行った。

 従者が戻ってきたのは、十五分の後。

 同じような状況で待ち続けた人間だけが、十五分が何秒であるのかを知っている。

 従僕はリュバン夫人本人と口を聞いていた。夫人の曰く、夫は先ほど家を出た、もう着いている頃だろう。そうでなくとも向かっている途中なのは間違いあるまい。

「そうか、馬車に何かあったんだな。もう少し待とう」

「でもまだ妥協は出来ないわ。服を途中まで着ておいても髪は整えられる。認証式は十時なんだもの。まだ三時間あるし、ヴェルサイユには一時間で着けるでしょう。待っている間にドレスを見せて頂戴、ション、気晴らしになるわ。ねえ、ションは? ドレスだってば!」

「ドレスはまだ届いておりません」ドレが言った。「お妹さまは十五分前にお出かけになり、ご自身でお求めにいらっしゃいました」

「馬車の音が聞こえたぞ。きっと待ち人来たれり、だ」

 子爵は間違っていた。汗まみれの二頭の馬が牽いていたのは、戻って来たションの馬車だった。

「ドレスは?」ションがまだ玄関にいるうちに、伯爵夫人はたずねた。

「来てないの?」ションが驚いてたずねた。

「来てないわよ」

「そう。遅くはならないと思う」ほっとして続けた。「あたしが行った時には、仕立屋はもう辻馬車で出た後だったから。ドレス運びと着付けのためにお針子二人も一緒だって」

「家はバック通りだったな。その辻馬車は随分とのんびり馬を走らせてるじゃないか」

「ええ、そうね」そうは言ったものの、ションはある不安を抑えることが出来なかった。

「ねえ、馬車はこっちから取りに行かせたら?」デュ・バリー夫人が言った。「そうすれば馬車だけは待たなくてもいいもの」

「もっともだな、ジャンヌ」

 ジャン・デュ・バリーは扉を開けた。

「フランシャンのところに馬車を取りに行ってくれ。馬九頭も連れて行って、すべて繋いでおくんだ」

 御者と馬が出発した。

 馬車の音がサン=トノレ通りの方に小さくなった頃、ザモールが手紙を持って来た。

「バリー奥さまにお手紙です」

「誰から?」

「男です」

「男? どんな男なの?」

「馬に乗った男です」

「どうしてお前に渡したのかしら?」

「ザモールが玄関にいたからです」

「質問は後だ、まずは読もうじゃないか」ジャンが堪えきれずに喚いた。

「そうね」

「凶報じゃなければいいんだが」

「まさか。陛下に届けて欲しい請願書か何かでしょう」

「請願書の折り方ではないぞ」

「死ぬほど怖がってるのね」伯爵夫人は微笑み、封印を切った。

 一行目を読んだ途端に恐ろしい悲鳴をあげ、死んだようになって椅子に倒れ込んだ。

「美容師も、ドレスも、馬車もないですって!」

 ションが伯爵夫人に駆け寄り、ジャンが手紙を奪い取った。

 まっすぐで小さな文字は、間違いなく女の手になるものだ。

『マダム、お気をつけ下さい。今夜は美容師もドレスも馬車も手に入らないでしょう。
 この助言が間に合うといいのですが。
 恩に着せるつもりはありませんので、名前は申しません。お知りになりたい時はご想像下さい』

『ジョゼフ・バルサモ』37-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 公爵夫人は不意に黙り込んだ。またも国王と目が合ったのだ。

「ところで、誰の話だったのかな、公爵夫人?」リシュリュー元帥は、どうやら問題の人物が誰なのか探ろうとしているようだ。

「名前は聞いてませんわ」

「それは残念だ」

「でも見当はついてます。閣下もお考え遊ばせ」

「代母を頼まれたご婦人連が、そのかみのフランス貴族のように勇敢で道義に厚い方々でしたなら、足を折るという気高い発想を思いついたその田舎婦人のところに駆けつけているところですのに」ゲメネー夫人が苦い顔をした。

「なるほど、その通りですな。しかしそのご婦人は我々を危険から救ってくれたのだ、是非とも名前を突き止めなくては。何しろ、もはや恐れるものなどないのだから。違いますか、公爵夫人?」

「ええ、何一つ。その代母候補も足に包帯を巻かれて、一歩も動けずベッドで休んでいますから」

「でもね、ほかの代母を見つけようとしたら?……諦めるような人じゃないでしょう」ゲメネー夫人がたずねた。

「大丈夫。見つかりっこありませんから、代母なんて」

「したり! まあそうでしょうな」リシュリュー元帥はちびちびと飴をかじっていた。人が言うには、この飴こそが若さの秘密であるらしい。

 この時、国王が近づいて来たため、皆が口を閉じた。

 やがてよく知られた国王の声が、はっきりと部屋に響き渡った。

「では失礼、メダム。ご機嫌よう、メッシュー」

 一同はすぐに立ち上がり、それが大きな波となった。

 王は戸口に向かったが、扉から出しなに振り返った。

「ところで、明日はヴェルサイユで認証式がある」

 この言葉に、誰もが雷に打たれたようだった。

 国王が目を遣ると、貴婦人方は青ざめた顔を見合わせていた。

 やがて国王はそれ以上は何も言わずに立ち去った。

 国王がお供の侍従を引き連れて敷居を跨ぐや、後に残った王女たちは大騒ぎになった。

「認証式ですって!」グラモン公妃が土気色になって口ごもった。「陛下は何を仰りたかったんでしょう?」

 リシュリュー元帥が、親しい仲でも許されないような笑いを浮かべた。「認証式というと、もしやあなたの認証式では?」

「そんな! あり得ません!」グラモン夫人は気が抜けたように答えた。

「するとどうやら今日は足が治ったようだ」

 ショワズールが妹に近づき、腕を小突いて注意を引こうとしたが、あまりに大きな打撃を受けた公妃には何も聞こえてはいなかった。

「ああ憎たらしい!」

「ええ、憎たらしい人ね!」ゲメネー夫人も同意した。

 すべきことは何もないと見て、ショワズールは立ち去った。

「ああマダム!」グラモン公妃が三王女に泣きついた。「もうほかに頼れる人はいません。マダムのように高貴な方々が、禁中奥深くにいながら、小間使いにも関わらせたくない身分の人間と交わるのを余儀なくされることに耐えられますか?」

 だが王女たちは答える代わりに顔を伏せた。

「どうかお願いいたします!」

「決めるのは王様ですから」とマダム・アデライードが溜息をついた。

「その通り」リシュリュー公爵も言った。

「でもそれではフランス宮廷中が不面目に晒されることになります! ご家族の名誉が心配ではないのでしょうか!」

「皆さん」ショワズールが口を挟んだ。「話が陰謀めいて来たので、サルチーヌ氏と共にここらで失礼させていただきます。あなたはどうなさいます、公爵?」とリシュリュー元帥に話しかけた。

「いや、結構! 陰謀には目がないのでな、ここに残るとしよう」

 ショワズールはサルチーヌを従えて席を外した。

 三王女の許には、グラモン夫人、ゲメネー夫人、デヤン夫人、ミルポワ夫人、ポラストロン夫人、ほか十人ほどの婦人だけが残り、認証式についてかまびすしい議論を始めた。

 残された男はリシュリューのみ。

 婦人たちはギリシア軍の中にトロヤ人を見つけたような不安そうな目つきでリシュリューを見つめていた。

「わしのことは娘のデグモン夫人の代わりだと思っていただこう。さあ続けて」

「皆さん」とグラモン夫人が始めた。「こうした恥ずべき行いを防ぐ手だてが一つあるので、それを実行しようと考えております」

「どんな手だてです?」婦人たちが一斉にたずねた。

「先ほど『決めるのは王様です』と仰いましたね」

「そしてわしは『その通り』と答えた」

「確かに、ここで何かを決めるのは王様です。でも私たちの家でなら、決めるのは私たちです。今晩御者に『ヴェルサイユに』と言わずに『シャントルーに』と告げるのを、誰にも邪魔は出来ないでしょう?」

「それは確かだが、そんな抵抗してどうなると?」リシュリューがたずねた。

「皆さんよく考えたうえで、あなたに倣おうとなさるでしょうね、公爵夫人」とゲメネー夫人。

「公爵夫人を倣わない理由などありませんし」ミルポワ元帥夫人。

「ああ、どうか!」公爵夫人が再び王女たちに泣きついた。「フランス王女自ら宮廷にお手本をお示し下さい!」

「王様は立腹なさるわ」マダム・ソフィーが指摘した。

「そんなことはありません!」グラモン公妃は憎々しげに答えた。「それどころか、素晴らしい考え、またとない才覚だと感謝なさるでしょう。王様は誰にも乱暴はなさいません」

「それどころか」リシュリュー公爵がまたもやグラモン夫人の押しかけを当てこすった。「夜中に寝室で乱暴され、奪われたのは王様の方だったとか」

 この言葉の威力たるや、貴婦人たちの中に、爆弾が破裂したような動揺をもたらした。

 ようやく落ち着きが戻ると、その場の昂奮に後押しされるようにして、マダム・ヴィクトワールが口を開いた。

「私たちが伯爵夫人を追い返した時に、王様が何も仰らなかったことは間違いありません。でも公式の場の話となると……」

「ええそうだと思います」グラモン夫人は言いつのった。「欠席したのがマダムたちだけでしたら、恐らくそうでしょう。でも私たち全員が参加しなかったとしたら」

「全員ですって!」婦人たちが声をあげた。

「間違いなく全員だ」老元帥が答えた。

「ではあなたも陰謀に参加なさるの?」マダム・アデライードがたずねた。

「仰る通りです。である以上は一言申し上げたい」

「お話し下さい、公爵」グラモン夫人が言った。

「順番に始めましょう。『全員で!』と叫ぶだけがすべてではない。『こうしよう!』と言った人間が、いざとなると正反対のことをしたりするものです。今し方申し上げたようにわしも陰謀に加担する以上は、切り捨てられたくはありませんからな。前王や摂政時代には謀のたびにそうされたものでしたが」

 グラモン公妃が皮肉った。「まさか何処にいるのかお忘れじゃありませんよね? アマゾンの国で大将を気取ってらっしゃるんですから!」

「お叱りを受けてしまいましたが、失礼ながらその地位を得る権利はあるものと思っております。あなたの方がデュ・バリー夫人を――いや、つい名前を言ってしまったが、聞こえなかったでしょうな? あなたの方がわしよりデュ・バリー夫人を嫌っているというのに、わしの方があなたより際どい立場にいるのですから」

「際どい立場ですか?」ミルポワ元帥夫人がたずねた。

「さよう、非常に際どい。わしは八日間ヴェルサイユを訪れておりません。昨日は伯爵夫人からアノーヴル邸に、具合が悪いのかと使いがあり、ラフテには、身体は悪くないが前日から戻っていないのだと答えさせてしまいました。だが権利など放棄しましょう、だいそれた望みもありません、大将の地位はお譲りしますよ、何ならここで。我々の心を動かした火付け役だ、あなたなら指揮杖で心に革命を起こせるでしょう」

「マダムたちがいらっしゃいますわ」公爵夫人は謙虚に答えた。

「あら、私たちは脇役で結構」マダム・アデライードが言った。「ルイーズに会いにサン=ドニに行くことにします。引き留められて戻っては来られないでしょうから、何か言う必要はありません」

「それで文句をつけるのは、よほどの根性悪でしょう」リシュリュー公爵が評した。

「私はシャントルーで干し草の用意を」とグラモン公妃。

「結構! 立派な口実です!」リシュリュー公が言った。

「子供が病気なので、世話をするため部屋から出られません」ゲメネー夫人はそう言った。

「今夜は頭がぼうっとしているので、明日トロンシャンに瀉血してもらわなくてはならないかもしれません」これはポラストロン夫人だ。

「私がヴェルサイユに行かないのは、行かないから行かないんです。自由意思が理由ですよ!」ミルポワ元帥夫人は厳かにそう言った。

「結構、結構。どれももっともらしいではありませんか。しかし誓う必要がある」

「誓うですって?」

「さよう、共謀には誓いがつきものです。カティリナの陰謀以来セラマレの陰謀――これにはわしも関わっておりましたが――そのセラマレの陰謀に至るまで、誓いが欠かされたことはありません。どちらの陰謀も失敗に終わってしまいましたが、しきたりに敬意を表して、誓いを立てましょう! 重大なことですぞ」

 婦人たちに向かって手を突き出し、厳かに誓った。

「誓います」

 婦人たちも誓いを繰り返したが、王女マダム王女たちだけはそっと立ち去った。

「さあお終いです。共謀の誓いを立てたからには、もうやることはない」

「ふふ! 広間に一人きりだとわかったら真っ赤になって怒るでしょうね!」グラモン夫人が言った。

「ふむ! 国王はわしらをしばらく追放するでしょうな」

「あら! 私たちが追放されたら、宮廷はどうなります……? デンマーク王陛下がいらっしゃったら、いったい何をご覧に入れるつもり? 王太子妃殿下がいらっしゃったら、いったい誰に紹介なさるというのかしら?」ゲメネー夫人が言い返した。

「宮廷中を追放する訳にはいかないんですから、誰かが貧乏くじを引くことになるのでしょうね」

「よくわかっておりますとも」リシュリューが答えた。「いつもいつも貧乏くじを引く幸運に恵まれて来ましたからな。もう四度も引いて来た。これが五回目の陰謀という訳です」

「そんなことは考えないで下さいまし」グラモン夫人が言った。「見捨てられるのは私ですから」

「或いはショワズール殿ですかな。お気をつけなさい!」

「ショワズールも私と一緒。失脚には耐えられても、侮辱には耐えられません」

「公爵も、公爵夫人も、ショワズール氏も、追放されたりはなさいませんわ」ミルポワ元帥夫人が言った。「あるとすれば私でしょう。伯爵夫人のことを侯爵夫人よりすげなく扱えば、陛下はお許しにならないでしょうから】」

「相違ない。寵姫ファヴォリットお気に入りファヴォリットと呼ばれたあなただ。残念だが元帥夫人! 揃って追放されようではありませんか!」

「追放される時はみんな一緒です」ゲメネー夫人が立ち上がった。「既に決まった取り決めを覆すようなことはありません」

「誓った約束を、ですぞ」

「それに、万が一の備えもしてありますから!」グラモン夫人が言った。

「あなたが?」とリシュリュー公爵。

「ええ。明日の十時にヴェルサイユにいるためには、三つのものが必要です」

「というと?」

「美容師、ドレス、四輪馬車」

「なるほど」

「どうでしょう?」

「なるほど! 伯爵夫人が十時にヴェルサイユにいなければ、国王は苛立って客を帰してしまう。王太子妃の到着も近いことから、認証式は無期延期になる」

 この新たな展開に拍手喝采が起こった。だがひときわ大きな拍手喝采を送りながら、リシュリュー氏とミルポワ夫人が目を交わしていた。

 二人の古参宮廷人の頭の中に、同じ考えが生じていたのだ。

 十一時、共謀者たちは、見事な月に照らされたヴェルサイユとサン=ジェルマンの路上に姿を消した。

 ところがリシュリューだけは馬丁の馬に乗っていた。四輪馬車がヴェルサイユの路上をこれ見よがしに走っている間、近道を通って全速力でパリに向かっていた。

『ジョゼフ・バルサモ』36-1 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十六章 リシュリュー元帥の第五の陰謀

 国王はいつも通りマルリーを管理(?)しに戻った。

 ルイ十四世は取り巻きに囲まれていても力を誇示する機会を求めていたが、十四世ほど作法には縛られないルイ十五世は、その輪の中で新しいものを貪欲に求めていた。なかんずく様々な顔を見ることに、それも笑っている顔を見ることに、このうえない気晴らしを見出していた。

 先ほどお話しした会見と同じ晩、ベアルン夫人が今回は約束を守りデュ・バリー夫人の部屋に腰を下ろしていた二時間後、国王は青の間でカードをしていた。

 左には d'Ayen 公爵夫人、右にはゲメネー公妃がいる。

 国王は見るからに落ち着かなかった。そのせいで八百ルイ負け、負けたおかげで身を入れだした。ルイ十五世はアンリ四世の後裔に相応しく、勝利をこよなく愛していた。九時になると席を立って前大法官の息子マルゼルブ(Malesherbes)と窓辺で話しに行くと、モープーが反対側の窓辺でショワズールと話しながら不安そうに二人を目で追っていた。

 国王がいなくなると暖炉の側に輪(人だかり)が出来ていた。庭の散歩から戻って来たマダムたちアデライード、ソフィー、ヴィクトワールが、侍女と侍従を付き従えてそこに腰を下ろした。

 国王の周りには――マルゼルブが謹厳なことは知られていたから、大事な話の最中なのだろうと見え――国王の周りには陸海軍の長、大貴族、領主、判事たちが集まっていたが、礼儀をわきまえて遠巻きに待機していた。暖炉前で独り立ちしていた小宮廷では、前哨戦とも言うべき小競り合いを端緒にして、かなりかまびすしいおしゃべりが始まっていた。

 主立った顔ぶれは、三王女のほかに、グラモン夫人、ゲネメー夫人、ショワズール夫人、ミルポワ夫人、ポラストロン夫人。

 折りしも司教が教区の贖罪師をやめさせたという話を、マダム・アデライードがしていたところだった。話の内容をここでは繰り返さない。あまりに、それも王女の話として下品に過ぎる。だがこうして書き綴ろうとしている時代には、まだ女神ウェスタ【ギリシア神話の家庭の神・処女神】の加護の元になかったことは、周知の通りである。

「まあ!」マダム・ヴィクトワールが口を開いた。「でもその司教って、ほんの一月前にここに坐ってた方じゃありませんか」

「陛下のところで会っていたなら、さらにひどいことになっていましたでしょう」グラモン夫人が言った。「そんな人たちが陛下に謁見していたら、これまで会ったこともないくせに、それからも会いたがっていたんじゃないかしら」

 公爵夫人の最初の一言から、とりわけその口調から、夫人が話したがっていること、どんな話題であれ会話の主導権を得ようとしていることをその場の誰もが感じ取った。

「ありがたいことに、言うは易し行うは難しではありませんかな、公爵夫人?」会話に加わったのは、小柄な老人だった。七十四歳だったがまだ五十にしか見えず、身体つきは颯爽として声も若々しく、足も目もしっかりとして、肌は白く手は小ぎれいだった。

「あら、リシュリュー公爵さま。マオンの戦場のように梯子を使って、会話に乗り込んでらっしゃるおつもり? どうせ私たちはたかが擲弾兵というわけね」グラモン公夫人が言った。

「たかが? ああ、それは言い過ぎだ、わしを困らせんでくれ」

「それで、私が言ったのは嘘だと仰いますか?」

「いつの話かね?」

「さっきの話です」

「して、何と仰っただろうか?」

「国王の扉を力ずくで開こうとしてはなりません……」

「寝室の緞帳を力ずくで開こうとしてはならないように。そのご意見にはいつでも賛成いたしますぞ」

 この言葉を聞いて何人かのご婦人が扇で口元を隠した。過去には公爵の機知も衰えたりと陰口を叩く者たちもいたが、これはいい出来だった。

 グラモン公爵夫人は真っ赤になった。その皮肉は特に夫人に向けられたものだったのだ。

「皆さん、公爵にこんなことを仰られては、お話を続けることも出来ません。もう続きは聞けないんですから、せめて別のお話をしてくれるよう元帥にせがんで下さいな」

「確か、わしの友人の悪口を邪魔してしまったんでしたな? ではじっくり拝聴するとしよう」

 公爵夫人を中心にした人垣がぎゅっと小さくなった。

 グラモン夫人は窓の方に目を遣り、王がまだそこにいるか確かめようとした。国王はまだそこにいた。だがマルゼルブと話しながらも、国王はこちらを見ていた。国王の目とグラモン夫人の目がぶつかった。

 国王の目に浮かんだように見えた表情に怯んだものの、公爵夫人はもう歩き出しており、途中で止まるつもりはなかった。

 グラモン夫人は、主に三王女に向かって話し始めた。「この間あるご婦人が――名前はどうでもいいですけど――私たちに面会を求めて来たことがありましたでしょう? 羨む気持すら失うような栄光に彩られている、主に選ばれし私たちに」

「面会を求めるとは、何処に?」

「もちろんヴェルサイユ、マルリー、フォンテーヌブローです」

「わかった、わかった、わかった」

「その女は晩餐でしか私たちを見たことがありませんでした。それも柵の後ろで陛下と来賓の食事を見物する人たちに混じってです。もちろん、守衛の杖に追われながら」

 リシュリューが突然セーヴル製の箱から煙草を取り出した。

「無論、ヴェルサイユ、マルリー、フォンテーヌブローに面会に来るためには、誰かの紹介が必要だ」

「そうなんです。そのご婦人はそれを頼みに来たんです」

「お許しは出たのだろうね、国王は優しい方だ」

「生憎、国王のお許しだけではなく、人に紹介してくれる人間が必要ですから」

「ええ、そう」ゲメネー夫人も続けた。「例えば代母のような人が」

「でも誰も代母にはなりません」ミルポワ夫人も続いた。「ベル・ブルボネーズがいい証拠。探したって見つかりません」

 そう言って口ずさみ始めた。

 ラ・ベル・ブルボネーズは
 気分があまりすぐれません。

「ああ、元帥夫人、どうか公爵夫人に話の続きをさせて下さい」リシュリュー公が言った。

「そうよ、そうよ」マダム・ヴィクトワール。「気を引いておいて、ほったらかしなんて」

「とんでもない。最後までお話しさせていただくわ。代母がいないので探したそうです。福音書にも『求めよ、さらば与えられん』とありますし。探したら見つかったんです。どんな代母のことやら! 無邪気な田舎のお人好しを鳩小屋から引っぱり出して、仕込んで、なだめすかして、着飾らせたってお話です」

「ぞっとするお話じゃございません?」とゲメネー夫人が言った。

「でも仕込まれた途端に、きっと階段から真っ逆さま」

「というと……?」リシュリューがたずねた。

 足がぽっきり。
 ああ!ああ!ああ!

 公爵夫人はミルポワ元帥夫人の歌に合わせて口ずさんだ。

「では代母の件は……?」とゲメネー夫人がたずねた。

「影もなし」

「これが神の摂理なのか!」リシュリュー元帥が両手を掲げて天を仰いだ。

「失礼ですけど」マダム・ヴィクトワールが口を挟んだ。「わたくしはその田舎っぺに同情いたしますわ」

「むしろ祝福して差し上げるべきですよ。二つの不幸のうち、被害の少ない方を選んだんですから」公爵夫人が答えた。

『ジョゼフ・バルサモ』35-2 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「ご迷惑をかけに来たんじゃないの」デュ・バリー夫人は老婦人がどれだけ取り澄ましていられるか見つめていた。「ただ、この件に陛下がどれだけこだわっていてどれだけ感謝していたかをわかっていただきたくて」

「この状態をご理解下さらないと」

「そうね。でも一つ言いたいことがあるの」

「仰って下さいまし。聞かせていただきます」

「つまりね、いろいろと考え合わせると、この事故の原因はあなたの気持にあるんじゃないかしら」

「ああ、それもありましょうねえ」老婦人が腰を深く折った。「あんなにご丁寧に歓迎して下さったんですもの、もう胸が一杯になってしまって」

「もう一つあるんじゃないかしら」

「もう一つ? さあ、わかりませんよ」

「まさか! 誰かに会ったでしょう……?」

「そんなことありましたでしょうか!」

「ええ、うちを出る時」

「誰にも会いませんでしたよ。お兄さまの馬車に乗っていましたしねえ」

「馬車に乗る前よ」

 老婦人は記憶を探っているようなそぶりを見せた。

「玄関の階段を降りている時」

 老婦人はさらに頭を捻っているようなふりをした。

「そうよ」デュ・バリー夫人が苛立ち混じりの微笑みを浮かべた。「うちを出る時に中庭で会った人」

「申し訳ありませんけれども、思い出せませんよ」

「若い女よ……もうわかったでしょう」

「目が悪いものですから、目の前にいるあなたのこともよく見えないんでございますよ。そうなんでございます」

 ――さあこの人は手強いわ。伯爵夫人は独り言ちた。――下手な小細工はやめましょう。真っ向勝負よ。

「そうでしたの! ご覧にならなかったというのであれば」と声に出して続けた。「あれが誰だかお教えしますわ」

「帰る間際にやって来た方のことですか?」

「そうよ。あれはあたくしの妹、マドモワゼル・デュ・バリーです」

「まあ、そうでしたか! 何分にも一度もお目にかかったことがないものでございますから……」

「そんなことはないわ」

「お目にかかったことが?」

「ええ、それどころか話し合ったことも」

「マドモワゼル・デュ・バリーと?」

「ええ、そうよ。ただしあの日はマドモワゼル・フラジョと名乗っていたけれど」

「ああ!」声には隠しようもないほどの辛辣さがこもっていた。「ああ、あの偽フラジョさんでしたか。私に会いに来て、連れ出した、あの方がお妹さんですか?」

「間違いないわ」

「あなたの差し金でございますか?」

「あたくしが頼んだの」

「私を騙すために?」

「まさか。あなたの役に立ちたいのと、あたくしの役に立ってもらうためよ」

 老婦人は白髪混じりの太い眉を寄せた。

「来てもらっても私にはたいした得にもなりそうに思えませんけど」

「モープーさんに歓迎されることはなかったんじゃないかしら?」

「口先だけですよ」

「ただの口先よりは実のあるものを差し上げたつもりでしたのに」

「すべては天の思し召しと申しますよ」

「ねえベアルン夫人、真剣なお話なんです」

「お聞きいたしますとも」

「足を火傷なさいましたのね?」

「ご覧の通りでございます」

「火傷はひどいの?」

「重傷ですよ」

「おつらいのはわかりますし、ひどい怪我ですけど、命に別状はないでしょう? 頑張れば馬車でリュシエンヌに行くのにも耐えられますし、あたくしの部屋で陛下にお目にかかるほんのちょっとの間だけでも立っていられません?」

「無理ですよ。立ち上がることを考えただけでも気を失ってしまいそうです」

「じゃあ火傷はそんなにひどいの?」

「そうですよ、ひどい火傷です」

「処置や診断や手当はどなたから?」

「家を切り盛りしている女でしたら、火傷に効く薬くらい持ってますからね。自分で作った痛み止めを塗ったんですよ」

「お嫌でなければ、その特効薬を見せて下さらない?」

「卓子の上のその壜ですとも」

 ――偽善者もいいところね! そこまでするなんて。やっぱり手強いわ。だけど最後までやり終えなくっちゃ。

「実はあたくしも怪我によく効くオイルを持ってますの。でも特定の火傷にしか効かないものですから」

「どんな火傷でしょう?」

「腫れ、水ぶくれ、赤剥け。あたくしは医者じゃないけど、誰だって一度や二度は火傷くらいしますものね」

「赤剥けでございますよ」

「それは痛そうね! オイルを塗って差し上げてもいいかしら?」

「お願いいたします。今お持ちですか?」

「今はないの。でも誰かを遣って……」

「本当にありがとうございます」

「火傷の具合をあたくしも確かめてみた方がいいと思うの」

 老婦人が抗議した。

「とんでもありません! こんな状態お見せ出来ませんよ」

 ――お生憎さま。逃げられないわよ。

「そんなの気にしないで。怪我を見るのは慣れてるから」

「ですがあんまり不作法ですし……」

「助け合う時くらい、作法なんて忘れましょう」

 と言っておもむろに、椅子に寝かせていた足に手を伸ばした。

 デュ・バリー夫人が軽く触れただけで、老婦人は恐ろしい悲鳴をあげた。

 ――ふうん、お上手ね! 顔を歪めたベアルン夫人の苛立ちを目にし、伯爵夫人は呟いた。

「殺す気でございますか。何て恐ろしいことをなさるんです!」

 老婦人の頬は青ざめ、目は虚ろで、倒れて気絶してしまいそうだった。

「構いませんよね?」

「なさって下さい」老婦人は消え入りそうな声で答えた。

 デュ・バリー夫人は時間を無駄にはしなかった。足に巻かれた包帯のピンを外すと、大急ぎでほどき始めた。

 意外なことに、老婦人は抵抗しなかった。

 ――湿布まで来たら騒ぎ出すつもりね。黙らせなきゃならないけど、でも足を見ることは出来る。

 デュ・バリー夫人はそう呟いて、作業を続けた。

 ベアルン夫人は呻きこそあげたものの、後はおとなしくしていた。

 包帯をほどき終えると、デュ・バリー夫人の目に本物の火傷が飛び込んで来た。偽りではなかった。そこがベアルン夫人の外交術の終着点だった。鉛色をして血の滲んだ火傷が、雄辯に物語っていた。ベアルン夫人はションに気づいていたかもしれない。だがその時に、ポルキアやムキウス・スカエウォラのような崇高な道を選んだのだ。

 デュ・バリー夫人は無言のまま敬服した。

 顔を向けた老婦人は存分に勝利を味わっていた。野獣のような眼差しで足許に跪いている伯爵夫人を包み込んでいた。

 デュ・バリー夫人は女らしい細やかな様子で湿布を元通りにし、怪我を傷めぬように優しく足をクッションに戻し、老婦人の側に腰を下ろした。

「思った以上に手強い方ね。初めからあなたのような方に相応しい質問をしなかったことをお詫びいたしますわ。そちらの条件を仰って」

 老婦人の目がきらめいたが、それも一瞬のことだった。

「あなたのご希望を明言して下さいまし。お役に立てるかどうかはそれから判断いたします」

「ヴェルサイユの認証式にあなたに出てもらいたいの。今朝はひどい苦しみを味わわせてしまったけれど」

 ベアルン夫人は眉一つ動かさなかった。

「それで?」

「それだけ。次はあなたの番よ」

 ベアルン夫人は断固とした態度を見せ、対等に渡り合っていることをはっきりと示した。「私の望みは、訴訟中の二十万リーヴルが保証されることですよ」

「待って。訴訟に勝てば四十万リーヴルになるんじゃありませんの」

「違いますとも。サリュース家と係争中の二十万リーヴルは私のものだと思っておりますからね。あと半分の二十万リーヴルが、あなたとお知り合いになれたご利益ですよ」

「二十万リーヴル手に入れたとして、その後は?」

「可愛がっている息子が一人おります。我が家は代々剣で身を立てて参りました。ところが将校の才能を持って生まれながら、一兵卒にしかなれないとお考え下さいまし。来年には大佐の肩書きをもらって、すぐにでも中隊を指揮させなくちゃなりません」

「聯隊のお金は誰に出していただくの?」

「国王陛下ですよ。二十万リーヴルを聯隊に当ててしまえば、明日になったら今と同じく貧乏に逆戻りですからね」

「最低でも六十万リーヴルはかかるわよ」

「二十万分の聯隊だと考えれば、四十万は余計でございましょう」

「まあいいわ。それで構わないなら」

「それから、トゥレーヌの葡萄畑を返していただけるようお願いするつもりです。十一年前、運河にするとか言って技師たちに奪われた四アルパン分でございます」

「お金は払ってもらえたんでしょう」

「ええ、でも専門家の言い値でした。その二倍の価値はあると踏んでおりましたのに」

「わかったわ。もう一度払ってもらえるわよ。これでお終い?」

「もう一つ。ご推察の通り私にはお金がありません。フラジョ先生に九千リーヴルばかし借りがあるんでございます」

「九千リーヴル」

「どうしても必要だったんです。フラジョ先生は素晴らしい助言をして下さいますし」

「ええ、そうね。九千リーヴルはあたしが払っておくわ。こちらからかなり歩み寄ったと思ってくれてたらいいのだけれど」

「もちろんですよ! ですが私の方だって最善を尽くしたつもりですよ」

「火傷なさったことをどれほど残念に思っているか、わかっていただけたらね」デュ・バリー夫人が笑みを浮かべた。

「残念なものですか。災難でしたけど、あなたのためを思えば前と変わらずお役に立てるよう力が湧いて来ますとも」

「じゃあ話をまとめましょうか」

「お待ち下さい」

「忘れていたことでも?」

「たいしたことじゃありませんが」

「聞かせて頂戴」

「国王陛下の御前に伺うとは思ってもいなかったものですから。ヴェルサイユや栄華なんてものからは随分と長いこと離れていたので、ドレスがないんでございますよ」

「用意はしておいたわ。昨日、あなたが帰った後で、認証式用の服を作らせたの。立て込んだりしないように、あたしのとは違う仕立屋に頼んでおいたから。明日の昼には出来るはずよ」

「ダイヤモンドもございませんし」

「あたくしが言っておいたから、ベーメルとバサンジュが明日届けてくれるわ。二十一万リーヴルの装身具。明後日には二十万リーヴルで買い戻してくれる手筈になっているの。保証金はあなたのものよ」

「ありがとうございます。もう何も言うことはございません」

「喜んでもらえたみたい」

「そうでした、息子の肩書きは?」

「陛下ご自身で下さるわ」

「聯隊の召集資金も保証して下さるのでしょうか?」

「それも込みよ」

「わかりました。後は葡萄畑の問題だけですよ」

「四アルパンでおいくらだったと……?」

「アルパン当たり六千リーヴルです。それは素晴らしい土地だったんですよ」

「支払われている一万二千リーヴルと併せて、きっかり二万四千リーヴルになるよう、一万二千リーヴルの債務を返済するようお約束するわ」

「文箱はこちらですよ」と指さした。

「あなたが取っていただけないかしら」

「私が?」

「ええ」

「でもどうして?」

「これから口述する手紙を陛下に書いていただきたいの。持ちつ持たれつよ」

「そういうことですか」

「じゃあ書いて下さるわね」

 老婦人は机を引き寄せ、紙とペンを取った。

 デュ・バリー夫人が口述を始めた。

 『前略、親しい友人であるデュ・バリー伯爵夫人の代母に立候補したという申し出を陛下にお許しいただけたことを知った幸運によりまして……』

 老婦人が口を開いてペンを舐めた。

「ペンがよくないのよ。変えた方がいいわ」

「構いませんよ、慣れてますから」

「そう?」

「ええ」

 デュ・バリー夫人は続けた。

 『明日ヴェルサイユで紹介いただく際、もしお許し下さいますなら、お目をかけて下さいました陛下にぶしつけながらお願いがございます。私といたしましては或いは陛下に喜んでいただけるのではないかと考えております。と申しますのも、高貴なるお血筋でいらっしゃる王孫殿下たちの軍隊のために血を流した将校たちの一族に嫁いだ者でございます』

「署名をお願い」

 老婦人は署名した。

 『アナスタシー=ユーフェミー=ロドルフ、ベアルン伯爵夫人』

 老婦人の筆跡は力強かった。半プス大の文字が紙の上に横たわっており、綴りの間違いは貴族として恥ずかしからぬ程度に散見されるだけだった

 老婦人は署名を記すと、書き終えたたばかりの手紙を手で押さえたまま、デュ・バリー夫人にインクと紙とペンを手渡した。デュ・バリー夫人はまっすぐ尖った小さな字で、二万一千リーヴル、葡萄畑の補償金として一万二千リーヴル、フラジョ弁護士の報酬として支払う九千リーヴルの債務返済を確約した。

 それから宝石職人べーメルとバサンジュに言伝を書き、ルイーズと呼ばれているダイヤモンドとエメラルドの装身具を持ち主に返して欲しいと伝えた。ルイーズと呼ばれているのは、王太子の叔母である王女のものだったからであり、王女はそれを慈善のために売ったのだった。

 これが終わると、代母と代子は手紙を交換した。

「これで友情の証を見せて下さるわね」

「精一杯いたしますよ」

「あたくしのところにいらしてくれたら、トロンシャンに三日で治してもらえるわ。いらっしゃいな。それにあのオイルがどれだけ素晴らしいか試していただけるもの」

「馬車にお乗り下さいまし。ご一緒する前にやらなくてはいけないことが二、三ございますので」

「断られたってこと?」

「とんでもありません。承諾いたしましたよ。ただ、今はちょっと。修道院で一時の鐘が鳴りました。三時まで待っていただけますか。きっかり五時にはリュシエンヌに伺います」

「三時に兄を迎えに寄こしても構わない?」

「もちろんでございます」

「じゃあ、それまでお大事に」

「心配ございません。仰ったように私は貴族ですから、死ぬようなことがあっても、明日のヴェルサイユには伺いますよ」

「じゃあ後で、代母さん!」

「では後ほど、代子さま!」

 こうして二人は別れ、老婦人は足をクッションに置き、書類を手にして、そのまま横になっていた。デュ・バリー夫人の気持は来た時よりも弾んではいたが、老婦人に対してもっと強気に攻められなかったことに幾分か心を痛めていた。ベアルン夫人は、フランス王と渡り合うのを楽しんでいたではないか。

 広間の前を通りかかると、ジャンが見えた。長々と居座っているのを怪しまれないためだろう、二本目の壜を空けていたところだった。

 妹に気づくと椅子から飛び上がって駆け寄った。

「どうだった?」

「サクス元帥がフォントノワの戦場に現れた陛下にこう言ったでしょう。『陛下、勝利がどれだけ高くつき、痛ましいものか、この光景からお学び下さい』」

「つまり勝ったということか?」

「こういう言葉もあるわ。今度は古代の言葉。『もう一度勝ったなら、我々は滅びてしまうだろう』」

「代母は確保したんだな?」

「ええ。百万近くかかったけれど!」

「何だと!」ジャン子爵の顔が恐ろしく歪んだ。

「仕方ないでしょう! 取るか失うかだったんだから」

「それにしたってふざけてる!」

「それはそうだけど。そんなに怒るものでもないわ。あたしが上手くやらなかったら、何も手に入らなかったかもしれないし、お金が二倍かかったかもしれないんだから」

「畜生、何てアマだ!」

「ローマ人ね」

「ギリシア人だろう」

「どっちでもいいわよ! そのギリシア人だかローマ人だかを三時間後に迎えに行って、リュシエンヌまで連れて来る準備をして頂戴。手元に閉じ込めておかないと安心出来そうもないわ」

「俺はここにいよう」

「あたしの方は準備に大わらわね」

 伯爵夫人は馬車に駆け込んだ。

「リュシエンヌに! 明後日には、マルリーに!って言ってるはずよ」

「いずれにせよ――」ジャンは馬車を目で追っていた。「俺たちはフランスに随分と金をかけたもんだな!……デュ・バリー家にとっちゃいいごますりだ」

『ジョゼフ・バルサモ』 35-1 「代母と代子」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十五章 代母と代子

 気の毒な伯爵夫人……国王が使った呼び名を我々も使うことにしよう。目下のところその通りであるからだ。その気の毒な伯爵夫人は、不安に駆られてパリへの道を急いでいた。

 ジャンの手紙の第二段落に怯えていたションは、苦痛や不安を見せぬようリュシエンヌの私室に籠り、大通りでジルベールを拾おうなんて思いついたことを悔やんでいた。

 セーヌからロケットまでパリを囲んでいる、川まで達する下水道の上を飛ばし、ダンタン橋に着くと、四輪馬車が待っていた。

 馬車の中ではジャン子爵と代理人が熱心に話し込んでいたようだ。

 ジャンは伯爵夫人に気づくや、代理人を残して地面に飛び降り、馬車を急停止させようと御者に合図を送った。

「急げ。俺の馬車に乗るんだ。サン=ジェルマン=デ=プレまで行くんだ」

「ベアルン夫人にかつがれたって訳?」デュ・バリー夫人が馬車を乗り換えている間に、予めジャンから合図されていた代理人も同じようにした。

「多分ね。多分そうだ。仇に恩。いや、恩を仇で返された」

「何が起こったの?」

「簡単なことさ。俺はパリに残ってた。疑り深いんでね。そしたら案の定だ。夜九時になって『時の声』の周りを歩きまわっていたが、人通りもなく訪問客もない。何事もなく、順調だった。だから戻って眠ってもよさそうだと判断して、眠ったんだ。

「今朝、夜が明けて目が覚めてから、パトリスを起こして路標のところで見張りに就かせた。

「九時だ、いいか、予定より一時間早く、馬車で夫人を訪問した。パトリスに聞くと、怪しいものは見なかったと言う。それで安心して階段を上った。

「玄関で女中が俺を止めて、伯爵夫人は今日は外にお出でになれません、八日間かかるでしょうと抜かしやがった。

「不慮の事態は覚悟していたが、こんなのは予想しちゃいなかった。

「『外に出られないだと? 何があった?』

「『お具合が良くないのでございます』

「『具合が悪い? 馬鹿な! 昨日はいたって元気だったぞ』

「『ええ、それが奥さまはいつもチョコレートをお作りになるのですが、今朝は火に掛けていたところ、足にこぼしてしまいまして、火傷を負ってしまったんでございます。悲鳴を聞いて慌てて駆けつけましたところ、奥さまは気も失わんばかりでございまして、私がベッドにお連れいたしました。今はお寝みになっているはずです』

「俺はそのレースのように青ざめて、声をあげたよ。

「『嘘だ!』

「『嘘ではありません、デュ・バリー様』梁も突き刺すような刺々しい声だった。『嘘ではございませんよ。もう痛いやら苦しいやら』

「声のした方に飛び出して無理に扉を押し開けると、そこには老婦人が実際に寝込んでいた。

「『ああ、伯爵夫人……!』

「それだけしか言えなかった。はらわたが煮えくりかえっていたから、喜んであの婆を絞め殺せたね。

「『これなんです』床に置いてある糞忌々しい湯沸かしを指して、『何もかもこのポットのせいなんでございますよ』

「俺はそのポットに飛びかかった。

「これでもうチョコレートは作れまい。それは確かだ。

「『何てひどい!』哀れっぽい声を出しやがる。『お妹さんを引き立てるのはダロワーニ夫人なんでしょうよ。そうなんでしょう! 書いてありました! 東洋人たちの言った通りだわ』」

「ああ、ジャン! がっかりさせないで」デュ・バリー夫人が声をあげた。

「俺はがっかりなんてしないぜ。お前が会いに行ってくれ。そのために呼んだんだからな」

「でもどうして?」

「おいおい! お前になら、俺に出来ないことも出来るだろう。女なんだから、目の前で服を脱いでもらえばいい。化けの皮が剥がれたら、息子はこれからずっと田舎貴族のままだと言ってやれ。サリュース家の金にも一スーだって手は付けられないってな。俺はオレステスみたいに怒り狂った。それ以上の迫真の演技でカミラのように呪ってくれ」

「冗談でしょう!」

「好きでやってるわけじゃない」

「で、何処にいるの、我らが巫女は?」

「わかってるだろう。『時の声』亭だ。サン=ジェルマン=デ=プレの大きな黒い家で、鉄の看板に大きな雄鶏が描かれている。鉄が軋むと、鶏が鳴く」

「ひどいことになりそう」

「俺もそう思う。だが危険を冒す必要があるとも思う。俺もついて行こうか?」

「気をつけて頂戴。全部ぶち壊さないでね」

「代理人も同じことを言ってたよ、ここで相談していたんだが。ちなみに、家の中で人を殴れば罰金と牢獄行き。外で殴れば……」

「お咎めなし。ようくご存じでしょ」

 ジャンが口を歪めた。

「ふん! 払いが遅れるほど利子が貯まるってもんだ。今度あの男を見つけた日には……」

「今はあの女の話よ、ジャン」

「もう話すことはない。出かけてくれ!」

 ジャンは道を空け、馬車を通した。

「何処で待機してるの?」

「その旅籠で。イスパニア産のワインでも飲んで、助けが要りそうになったら駆けつける」

「馬車を出して!」伯爵夫人が叫んだ。

「サン=ジェルマン=デ=プレの『時の声』亭までだ」子爵が続けた。

 馬車は勢いよくシャン=ゼリゼーに躍り込んだ。

 十五分後、修道院教会《アバシャル》通りとマルシェ=サント=マルグリットの近くで馬車は止まった。

 その場所でデュ・バリー夫人は馬車から降りた。何せ相手は狡猾な老婦人、どうせ見張っているのに違いなく、馬車の音で気づかれたくはない。窓掛の陰にでも身を翻し、デュ・バリー夫人の訪れるのを見て悠々と逃げ出してしまうかもしれない。

 そこで伯爵夫人は従僕を連れて二人だけで修道院教会通りまで走った。建物が三軒しかなく、目指す旅籠は真ん中にあった。

 大きく開いた門から、入るというより躍り込んだ。

 誰にも見られなかった。だが木で出来た階段の手前で女将と出くわした。

「ベアルン夫人は?」

「ベアルン夫人は具合が悪いんで、お会いになれませんよ」

「ええ、そのことで、お加減を伺いに参りましたの」

 そう言って鳥のように軽やかに、あっという間に階段の上までたどり着いた。

「奥さま、奥さま、誰かが押しかけて来ました!」女将が声をあげた。

「どなたです?」部屋の奥から老婦人がたずねた。

「あたしよ」伯爵夫人がこの場にぴったりの表情を浮かべて戸口に現れた。即ち、礼儀正しく微笑み、いたわしそうに眉を寄せていたのである。

「伯爵夫人でしたか!」老婦人は真っ青になって震え出した。

「ええ、そうよ。さっき耳にして、お見舞いを申し上げに参りました。事故のことを聞かせて下さらない」

「ですけどこんな汚いところに腰を下ろしていただく訳にも参りませんからねえ」

「トゥレーヌにお城を持っているような方を旅籠に泊めたことはお詫びいたします」

 そう言って伯爵夫人は腰を下ろした。すぐには帰らないことはベアルン夫人にもわかった。

「かなりお悪そうですね?」デュ・バリー夫人がたずねた。

「そりゃもう」

「右足ですの? まあ! でもどうして足を火傷なんかなさったんですか?」

「簡単なことですよ。取っ手を持つ手を滑らせてしまいまして、ちょっと熱湯をこぼして足にかけてしまったんでございます」

「ひどい話ね!」

 老婦人は溜息をついた。

「ええ、ひどい話です。でもどうしようもないじゃございませんか! 災難はまとめてやって来るものなんですよ」

「今朝は国王陛下がお待ち下さってるのよ?」

「ますます口惜しくて仕方ありませんよ」

「あなたに会い損ねたら陛下もいいお顔をなさらないわ」

「何分にも火傷がひどうございますから、ただただお詫び申し上げるだけでございます」

『ジョゼフ・バルサモ』 34-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「署名なぞ糞食らえだ。それに署名をもらいに来る奴らときたら! 大臣や書類入れや用紙など発明したのは何処のどいつだ?」

 悪態を吐き終わった途端、伯爵夫人が出ていったのとは反対側の扉から大臣と書類入れが入って来た。

 国王は最前よりもさらに大きな溜息をついた。

「ああ、そなたか、サルチーヌ。時間に正確だな!」

 国王の口調からは、果たして褒めているのか貶しているのかを推しはかるのは難しかった。

 サルチーヌ氏は書類入れを開き、中から文書を取り出そうとした。

 その時、馬車の車輪が並木道の砂を鳴らすのが聞こえた。

「待ってくれ、サルチーヌ」

 国王は窓に走り寄った。

「何だ? 伯爵夫人が出て行ったのか?」

「ご本人ですね」

「だが、ベアルン伯爵夫人を待っていたのでは?」

「待っていられず、迎えにおゆきになったのではないでしょうか」

「しかし今朝ここに来る予定なのだから……」

「陛下、恐らくいらっしゃることはないでしょう」

「ほう、何か知っているのか、サルチーヌ?」

「すべて知っているわけではありません。それでご満足していただけるでしょうか」

「何が起こったのだ? それを言い給え」

「老伯爵夫人にでしょうか?」

「そうだ」

「どんな時にも起こり得ること。障碍が立ちふさがったのです」

「そうは言ってもやって来るのだろう?」

「それが陛下、昨夜ならともかく今朝はどうでしょうか」

「伯爵夫人も気の毒に!」そうは言いながらも、目に喜びの光がきらめくのを防ぐことは出来なかった。

「ああ。四国同盟や家族協定など、認証式の問題に比べれば些細なことでした」

「気の毒に!」と繰り返して首を振った。「あれの望みは叶わぬのだな」

「遺憾ですが。陛下もさぞやご立腹でございましょう」

「あれにもわかっておるのだろう」

「伯爵夫人にはなお悪いことに、王太子妃殿下の到着前に認証式が行われなければ、二度と行われない可能性がございます」

「可能性どころか、サルチーヌ、そなたの言う通りだよ。嫁御は厳格で敬虔な淑女という噂だ。気の毒に!」

「認証式が行われぬのをデュ・バリー夫人がお嘆きになるのはもっともですが、陛下にとっては心配の種がなくなることにもなりましょう」

「そう思うか?」

「間違いありません。妬み屋、毒舌家、諷刺家、ごますり屋、お喋りどももそれほど現れぬでしょうし。デュ・バリー夫人が愛妾になられた場合、警察活動にはさらに十万フランかかります」

「そうだな! 気の毒に! それでもあれは認証式を望んでおる」

「陛下がお命じになれば、伯爵夫人の望みも叶いましょうに」

「どういうことだ、サルチーヌ? 正直に言って、こんなことに口を挟むことが出来るとでも? デュ・バリー夫人をそっとしておけという命令に署名出来るとでも? 伯爵夫人の気まぐれを満足させるためにクーデターでも起こせというのか?」

「とんでもありません! 私が言ったのはただ陛下の『気の毒に!』のようなものです」

「そうは言うものの、まだ希望がない訳でもない。いろいろな可能性を考えてみ給え。ベアルン夫人が意見を変えないとも限らぬ。王太子妃が遅れぬとも限らぬ。王太子妃がコンピエーニュに着くまでまだ四日ある。四日あれば、何か出来るだろう。ところで、今朝は仕事があったのではないかね?」

「そうでした! 署名を三つだけお願いします」

 警視総監は書類入れから一つ目の文書を取り出した。

「待て! 封印状か?」

「はい、陛下」

「誰宛てだ?」

「ご覧になって下さい」

「ルソー氏宛てだ。このルソーとは何だ? 何をしたのだ?」

「何を? 『社会契約論』です」

「ああ! ジャン=ジャック宛てか? では投獄するつもりかね?」

「そんなことをすれば大騒ぎになります」

「いったいどうしたいというのだ?」

「いずれにせよ投獄するつもりはありません」

「それではこの文書は無意味ではないか?」

「保険でございます」

「何にしても、哲学者どもなど大嫌いだ!」

「それはもっともなことでございます」

「だが非難されはせぬか。第一、パリで暮らすことを許されたのではなかったか」

「許しはしましたが、人前に姿を見せないという条件付きです」

「で、姿を見せたと?」

「それしかしておりません」

「あのアルメニアの恰好で?」

「ああ、いいえ、あの服は脱がせました」

「言う通りにしたかね?」

「ええ、迫害だと喚いていましたが」

「では今はどんな恰好をしているのだ?」

「ごく普通の恰好でございます」

「ではさして大事ではあるまい」

「陛下、自由に出歩くのを禁じられた人間が、毎日何処に出かけるのかお分かりになりますか?」

「リュクサンブール元帥のところ、ダランベール氏のところ、デピネー夫人のところかね?」

「カフェ・ド・ラ・レジャンスです! 向きになったように毎晩チェスを指して、負けてばかりいます。我々としても家に押し寄せた群衆を見張るために、毎晩一旅団の人員を割かざるを得ません」

「そうか、パリっ子は思ったより間抜けなのだな。好きなようにさせておけ、サルチーヌ。そうしている間は、あの者たちも貧困を叫んだりはせぬ」

「わかりました。ですがロンドンにいた時のような演説をしようとした日には……?」

「そうだな、公に罪を働いたのであれば、封印状の必要もあるまい」

 国王はルソーの逮捕には直接関わりたくないのだ。それを悟った警視総監は、それ以上には強辯しようとしなかった。

「それでは陛下、別の哲学者の話がございます」

「まだあるのか?」国王はうんざりしていた。「もう哲学者とは縁を切ろうではないか?」

「何を仰いますか! 向こうの方で縁を切ってくれぬのではありませんか」

「それで話とは?」

「ヴォルテールのことです」

「ヴォルテールもフランスに戻ったのか?」

「そうではありません。或いはそうしてくれた方がありがたいのですが。そうすれば監視はしておけますから」

「何をしたのだ?」

「本人は何もしていません。やったのは支持者たちです。彼の像を建てるというのは見過ごせません」

「騎馬像を?」

「そうではありませんが、ヴォルテールが有名な攻城塔だということを申し上げているのです」

 ルイ十五世は肩をすくめた。

「あれほどの攻城者ポリオルケテスは見たことがありません。あらゆるところに通じています。陛下の王国の第一人者たちも、まるで闇業者のように彼の本を流通させているくらいです。先日は八箱差し押さえました。いずれもショワズール殿宛てでした」

「それは面白い」

「陛下、君主にだけ許されていることが彼のために行われているのだということを、今一度お考え下さい。民衆たちは像を建てることを決めたのです」

「君主の像を建てるのを決めるのは民衆ではないよ、サルチーヌ。君主自身が決めるのだ。ところでその傑作の作者は誰だね?」

「彫刻家のピガールです。型を取るためにフェルネーまで出向いていました。そうしている間にも予約申込みが殺到しております。既に六千エキュに達しましたが、いいですか、予約出来るのは文学者だけなのです。みんなお布施を持って行くんです。あれはお参りですよ。ルソー氏も二ルイ納めました」

「ふむ! どうせよと言うのだ? 余は文学者ではない。無関係ではないか」

「こんな出過ぎた真似を中止させようと陛下に伺いに参ったのですが」

「慌てるな、サルチーヌ。銅像の代わりに黄金像が建つだけだ。放っておけ。いやはや、銅像はさぞかし実物以上に醜いのだろうな!」

「では事態をこのまま泳がせておくのがお望みですか?」

「話し合おうではないか、サルチーヌ。望んでいるのは言葉ではない。一切を止めさせたいのはもちろんだ。だがそなたの望みは何だ? 不可能なことではないか。神が海に『此を越ゆべからず』と命じたように、国王が哲学者の心に口を挟める時代などとっくに去った。叫んでも無駄だ、打っても届かぬ、我々が無力なことを見せるだけだ。見方を変えよう、サルチーヌ、見ぬふりをするのだ」

 サルチーヌは溜息をついた。

「陛下、この者たちを罰さぬまでも、せめて銅像は壊しませんか。これはすぐにでも訴訟を起こすべき著作の一覧です。玉座を脅かすものもあれば、祭壇を襲うものも。これは謀叛であり、涜神でございます」

 ルイ十五世は表を取り上げ、気乗りしない声で読み上げた。

「『神聖なる伝染 あるいは迷信の自然誌』、『自然の体系 あるいは物理的世界と精神的世界の法則』、『神と人間』、『イエス・キリストの奇跡に関する論文』、『聖地に向かう Perduicloso に対するラグーザのカプチン会修道士の助言』……」

 国王は半ばまで読まずに紙を捨てた。いつもなら落ち着いている顔に、不思議な悲しみと落胆の色が浮かんでいた。

 しばらくの間、まるで心神喪失状態で、夢見たようにぼうっとしていた。

「これは世間が立ち上がるだろうな」国王は呟いた。「別の方法がいくらでもある」

 サルチーヌが国王を見た。この飲み込みの速さこそ、国王が大臣たちに求めているものだった。大臣が優秀なら、国王は考えたり動いたりしなくてもよい。

「平穏ですか?」今度はサルチーヌが口を開いた。「陛下は平穏をお望みなのですね?」

 国王は大きくうなずいた。

「ああ、そうだ! ほかに何がある。哲学者、百科全書派、魔術師、光明会徒、詩人、経済学者、三文文士、何処からともなく湧き出して、うごめき、書き記し、鳴き喚き、人を腐し、何かを企み、説教をし、叫んでいる奴らだぞ。奴らのために戴冠したり、像を造ったり、神殿を建てたりする者たちも、余のことはそっとしておいてくれる」

 サルチーヌは立ち上がり、一礼すると、口の中で呟きながら退出した。

「この国の貨幣に『主よ王を守り給へドミネ・サルヴム・ファク・レゲムと書かれてあって何よりだ」

 一人残された国王は、ペンを取り王太子宛てに書いた。

『王太子妃の到着を急がせろと言っていたな。そなたを喜ばせてやろう。

 ノワヨンで車を停めるなと命令を出しておいた。だから火曜の朝にはコンピエーニュに着くだろう。

 余もちょうど十時に、つまり王太子妃の十五分前には行くつもりだ』

「これで認証式のくだらぬごたごたも片がつく。ヴォルテールやルソー、過去や未来の哲学者たちよりしんどかったわい。こうなれば後は気の毒な伯爵夫人と王太子夫妻の問題だ。その通り。悲しみ、憎しみ、復讐なぞ、一つ丈夫な若者の心臓にでも押しつけてしまおう。若者は苦悩を覚えるもの。そうやって大きくなるのだ」

 こうして難題を退けたことに満足し、パリ中の話題となっている認証式を進めようと止めようと咎められる者など誰もいないことを確信すると、国王は馬車に乗り込み、廷臣が待っているマルリーに向かった。

PROFILE

江戸川小筐(wilderたむ改め)
  • 名前:江戸川小筐(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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