アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
「糞ッ! もう駄目だ!」ジャンが絶望の叫びをあげた。「畜生! 誰か殺してやらなくちゃ気が済まない。美容師がいないだと! くたばっちまえ! リュバンの腹をかっさばいてやる。七時半の鐘が鳴ったというのに、まだ来ない。ふざけやがって! くたばるがいい!」
今夜の認証式には呼ばれていないジャンは、腹立ち紛れに髪を掻きむしった。
「それよりドレスよ!」ションが叫んだ。「美容師ならほかにも見つけられるかもしれない」
「どうかな? どんな美容師がだ? ああ最悪だ、糞ったれめ!」
伯爵夫人は何も言わず、ショワズール兄妹も心を動かされるような溜息を、気づかれぬようそっと洩らした。
「ねえ、少し落ち着きましょう」ションが言った。「まず美容師を探すこと。それに仕立屋のところに戻れば、何かドレスになるようなものがあるかもしれないし」
「美容師がいない!」伯爵夫人が苦悶の呟きを洩らした。「ドレスがない! 馬車がない!」
「そうだ、馬車がない! 馬車も来ていないぞ。もうとっくに着いてなけりゃならないのに。これは陰謀だ。サルチーヌが職人たちを逮捕させた訳でもあるまい? モープーが縛り首にするとでも? グレーヴ広場で共犯者が火あぶりにされたとでも? 美容師を車責めにして、仕立屋をやっとこ責めにして、馬車屋の皮を剥いでやる」
こうしている間にも伯爵夫人は落ち着きを取り戻していたが、それは自分の置かれている立場に不安を感じるあまりのことであった。
「今度こそもう駄目よ。リュバンを手に入れたような人なら、パリ中の優れた美容師を囲い込んでおくだけのお金もあるもの。きっと髪を切り刻むような能なししか見つからないわ……。それにドレス! ドレスが!……それにあの新品の馬車。誰もが嫉妬に駆られるはずだったのに……!」
ジャンは何も答えず、恐ろしい目つきで部屋中を当たり散らし、家具にぶつかればそのたびにぶち壊して、それでも破片が大きいと思えばさらに小さく砕いていた。
閨房から控えの間、控えの間から中庭へと広がってゆくこの愁嘆場の真っ直中、従僕たちは相矛盾する命令の渦に困り果て、行ったり来たり、走ってはぶつかり合っていたところ、一人の若者が二輪馬車から降り立った。鮮やかな緑の仕着せ、繻子の上着、藤色のキュロット、白い絹靴下を身につけたその若者は、放っておかれていた門の敷居を跨ぎ、中庭を横切り、敷石を渡り、階段を上り、化粧室の扉を叩いた。
ジャンは日本の壺を叩き落とした際にセーヴル焼きの酒器に服を引っかけてしまい、粉々に踏み砕いている最中だった。
静かに、控えめに、おずおずと、扉が三度鳴るのが聞こえた。
沈黙が訪れた。もしやとは思ったものの、そこに誰がいるのかたずねようとする者はいなかった。
「失礼ですが、デュ・バリー伯爵夫人にお目にかかれないでしょうか」
「お客様、こんな風に入って来られては困ります」どんどん中に入って行くのを止めようとして、門番が追いかけて来た。
「まあまあ。これ以上悪いことなど起こるもんか。伯爵夫人に何の用です?」
ジャンはガザの門も引き抜けそうな勢いで扉を開けた。
訪問者は飛び退いてそれをかわし、第三ポジションで着地した。
「失礼。デュ・バリー伯爵夫人のお役に立てないかと思いまして。認証式があるんですよね?」
「何の役にです?」
「私の仕事のことで」
「どんなお仕事を?」
「美容師です」
そう言って二度目のお辞儀した。
「何だって!」ジャンが若者の首に飛びついた。「美容師だって。さあ入ってくれ、さあ入って!」
「どうぞこちらに」ションはどぎまぎしている若者に両手を回した。
「美容師ですって!」デュ・バリー夫人が天を仰いだ。「美容師! 天の使いだわ。リュバンから頼まれたのかしら?」
「誰かに頼まれた訳ではありません。新聞を読んで、今夜は伯爵夫人の認証式があると知り、『まだ美容師を見つけてないかもしれない。ありそうなことではないけれど、ないとは言い切れない』と思い、お邪魔いたしました」
「お名前は?」いくらか落ち着いて来た伯爵夫人がたずねた。
「レオナールと申します」
「レオナール? 聞いたことがないわ」
「今のところは。ですが奥さまがお任せいただければ、明日には名も知られましょう」
「ふん! 美容師といってもいろいろだからな」
「試している時間はないわ」ションが言った。
「試すとは?」若者は昂奮し、デュ・バリー夫人の周りをぐるぐる回った。「奥さまは髪型でみんなの目を釘付けにしなくてはならないのでしょう。私は奥さまを見初めて以来、一番美しく見えるはずの型をずっと考えて参りました」
そう言って自信に満ちた手つきをしたために、伯爵夫人の心は揺れ始め、ションとジャンの胸にも期待が舞い戻って来た。
「本当なのね!」伯爵夫人は若者の落ち着きぶりに目を見張った。腰に手を当てた様など、大リュバンそのものではないだろうか。
「ですがその前に、ドレスを拝見しなくてはなりません。髪飾りと釣り合いを取らなくてはなりませんので」
「そうよ、ドレスだわ!」デュ・バリー夫人は恐ろしい現実に引き戻された。「ドレスが……!」
ジャンが額を叩いた。
「まったくだ! 想像してみてくれ、とんでもない陰謀さ。みんな盗まれたんだ! ドレスも、仕立屋も、何もかも!……ション! ああション!」
ジャンは髪を引き抜くのに疲れて、嘆き始めた。
「戻ってみたらどう、ション?」伯爵夫人がたずねた。
「無駄よ。だってここに来るために家を出たんでしょう?」
「駄目ね!」伯爵夫人は椅子にひっくり返った。「ドレスがないんじゃ、美容師も役に立たないじゃない?」
この時、またも扉のベルが鳴った。先ほどのように侵入されるのを恐れて、門番は扉を閉めたうえに、閂を掛けていた。
「誰か来たみたい」デュ・バリー夫人が言った。
ションが窓に駆け寄った。
「箱だわ!」
「箱? うちに?」
「ええ……ううん……でも……門番に手渡した」
「行って、ジャン、急いで」
ジャンは従僕たちを追い越して階段に急行すると、門番の手から箱を奪い取った。
ションは窓越しにそれを見ていた。
ジャンは箱の蓋を開け、手を突っ込むと、歓喜の雄叫びをあげた。
箱の中には中国繻子のドレスが入っていた。花の縁取りに、高価なレースも一揃いついている。
「ドレスだわ! ドレスよ!」ションが手を叩いて声をあげた。
「ドレスですって!」先刻までは苦しみのあまり気を失いそうだったデュ・バリー夫人は、今度は喜びのあまり気を失いそうになった。
「誰からだ、おい?」ジャンが門番を質した。
「ご婦人でございます」
「どんなご婦人だ?」
「私の知らない方でした」
「どこの人だ?」
「その方は門から箱を手渡して『伯爵夫人に!』と叫ぶと、乗ってきた二輪馬車にお戻りになり、全速力で走り去ってしまいました」
「まあいい! 大事なのはドレスがあるってことだ!」
「早く来なさいよ、ジャン!」ションが叫んだ。「死ぬほど待ち焦がれてるじゃない」
「さあ手にとって確かめるんだ。じっくり見とれるがいいさ。これが天の贈り物だ」
「でもサイズが合わないわ、合うわけないじゃない、あたしに合わせて作ったわけじゃないんだもの。ああ口惜しい! こんなに素敵なのに」
ションが急いでサイズを測った。
「縦も横もぴったりよ」
「素晴らしくいい生地だぞ!」
「信じられない!」
「怖いくらいね!」伯爵夫人が言った。
「だがこれでわかったな。手強い敵がいるにしても、同じくらい力強い味方がいる」
「人じゃないわ」ションが言った。「だって陰謀のことをどうやって知ったの? きっと妖精か何かよ」
「たとい悪魔だとしてもいいわ。グラモン夫人たちと渡り合う手助けをしてくれてるんだから! あの人たちの方がよっぽど悪魔じゃないの!」
「ところで……」ジャンが言った。
「なあに?」
「こちらの紳士に頭を任せちまった方がいいと思うな」
「何でそう言い切れるのよ?」
「おいおい! ドレスを届けてくれた人が知らせたに決まってるだろう」
「私にですか?」レオナールは心底驚いていた。
「新聞の話は出任せだ、そうだろう?」
「間違いなく本当の話です」
「説明して頂戴」伯爵夫人が言った。
「奥さま、ポケットに新聞がございます。包み紙にしようと保っておいたのです」
若者は言葉通りに上着の隠しから、認証式の記事の載った新聞を取り出した。
「さあ始めましょう」ションが言った。「八時の鐘が鳴ったわ」
「ああ、時間はございます」美容師が言った。「式場までは一時間ですね」
「ええ、馬車があったらの話だけど」伯爵夫人が言った。
「そうだ! 畜生! フランシャンの野郎がまだ来てないぞ!」
「報せを受け取らなかった? 美容師もドレスも馬車も手に入らないって!」
「ねえ」ションが怖気立った。「フランシャンも約束を守らないってこと?」
「そんなことはない。あそこだ」
「それで馬車は?」伯爵夫人がたずねた。
「きっと家の前に停まっているさ。そのうち門番が扉を開けに行くとも。いったいどうしたんだ?」
というのも、この言葉と相前後して、怯えきったフランシャン親方が部屋に飛び込んで来たのである。
「ああ、子爵! 奥さまの馬車をお届けする途中、トラヴェルシエール通りの角で、四人の男が馬車を止めて小僧を殴りつけ、全速力でサン=ニケーズ通りに逃げてしまったのです……!」
「言った通りだ」デュ・バリー子爵は椅子に坐ったまま、馬車屋が入ってくるのを機嫌良く眺めていた。
「襲撃じゃないの! どうにかしなくちゃ!」ションが叫んだ。
「どうにかする! どうしてだ?」
「馬車を探しに行かなきゃ。ここには疲れている馬と汚い馬車しかないのよ。こんなポンコツでジャンヌをヴェルサイユに行かせる訳にはいかないわ」
「いいこと?」デュ・バリー夫人が昂奮をなだめた。「ひよこに餌をくれた人、美容師を用意してドレスを送ってくれた人が、馬車がないままにさせておく訳がないでしょう」
「ねえ! あれは馬車の音じゃない?」ションが言った。
「停まったな」
「でも入って来ない」伯爵夫人が言った。
「入って来ない、それだ!」
ジャンが窓に飛びつき、開けた。
「急げ! 遅れちまうぞ。いいか! 俺たちには少なくとも恩人がいるのを忘れるなよ」
下男、馬丁、使者は急ぎに急いだが、既にだいぶ遅れていた。白繻子が張られ、鹿毛の馬が二頭繋がれた馬車が、門の前に停まっていた。
だが御者も従者も影も見えない。使い走りが轡を握っているだけだ。
馬車の持ち主はその使い走りに六リーヴルを与え、噴水広場の方に姿を消してしまったと云う。
扉を確かめた。だが紋章の代わりに、一輪の薔薇があっさりと書かれているだけであった。
いろいろな出来事のせいで時間がなかった。
ジャンは馬車を中庭に入れさせ、門を閉めて鍵を掛けた。化粧室に戻ると美容師が手並みを披露しようと準備をしていた。
ジャンがレオナールの腕をつかんだ。「失礼だが、恩人の名を教えなかったり、こんなに感謝しても知らせないのなら……」
「いいですか」若者は落ち着いていた。「そんなに強く腕をつかまれては、伯爵夫人の髪を整えたくても手が痺れてしまいます。それに急がなくては、もう八時半になりました」
「放して頂戴、ジャン!」伯爵夫人が声を出した。
ジャンは椅子に倒れ込んだ。
「奇跡よ! ドレスはぴったりだわ……ほんのちょっと長いだけだけど、十分で直せるもの」ションが言った。
「馬車はどう……? 立派な馬車?」伯爵夫人がたずねた。
「見事なもんだ……中に入ってみたよ。白繻子の内張に、薔薇の香り」ジャンが答えた。
「じゃあ問題ないわね!」デュ・バリー夫人は小さな手を叩いて喜んだ。「さあレオナール、上手く出来たらあなたも明日から有名人よ」
レオナールは二言とは言わせなかった。デュ・バリー夫人の髪に手を掛け、櫛を入れるや、その才能を披露し始めた。
素早さ、センス、正確さ、心と身体を見事に一致させ、この重大な仕事をこなしていた。
最後の仕上げをし、強度を確かめ、手を洗う水を求めた。ションが君主にでも仕えるように喜んで水を持ってくると、控えめに礼を言って、退出の意向を示した。
「いや、待て待て! おれは好き嫌いにかかわらずしつこいんだ。もうそろそろ、あなたが誰なのか教えてくれてもいいでしょう」
「とっくにご存じですよ。駆け出しの若者で、レオナールと申します」
「駆け出し? ご冗談を! 名人級の腕前だ」
「あたくしの美容師にならない?」伯爵夫人は手鏡に見入っていた。「催しごとのたびに髪を整えてくれるごとに、五十ルイお支払いするわ。ション、第一回目の今回は百ルイ差し上げて。五十ルイはご祝儀よ」
「奥さま、申し上げました通り、これで私の名も知られるでしょう」
「でもあなたはあたしの専属に……」
「百ルイはお納め下さい。私は自由でいたいのです。今日あなたの髪を整えることが出来たのも、自由だったおかげです。自由とは、あらゆる人間にとって一番大事なものですから」
「哲学者みたいな美容師だな!」ジャンが天を仰いだ。「神よ、我々は何処に行くのです? さあレオナール、あんたと喧嘩はしたくない。百ルイ受け取ってくれ。心配ない、あんたの秘密と自由は守るから……よし馬車だ、伯爵夫人!」
この言葉はベアルン伯爵夫人に向けられたものだった。聖遺物のように厳かに着飾ったベアルン夫人が入って来た。使う直前になって棚から引っぱり出して来たような有り様だった。
「よし、いいか。四人で階段の下まで静かに運ぶんだ。ちょっとでも苦しそうな声を出させてみろ、お前らをぶん殴ってやるからな」
ジャンがこうして慎重かつ重要な作業を取り仕切り、ションがそれを手伝っている間、デュ・バリー夫人はレオナールの姿を探した。
レオナールは消えていた。
「何処を通って行ったのかしら?」デュ・バリー夫人は相次ぐ災難からまだ立ち直っていなかった。
「何処を通って行っただって? 床から? 天井から? そんなことが出来るのは魔法使いだけだぞ。いいか伯爵夫人、髪が鳥の巣に変わらないように、ドレスが蜘蛛の巣に変わらないように、鼠が牽く南瓜の馬車でヴェルサイユに着いたりしないように、気をつけようじゃないか!」
最後の一言を口にしながら、ジャン子爵が馬車に乗り込んだ。そこには既にベアルン伯爵夫人と幸せな代子が腰かけていた。


