翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』43-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「通りかかればみんなが振り返るのでしょうね? 尊敬されていて、人類の保護者として指を指されるんでしょう?」

「そんなことはありません。両親にけしかれられた子供たちに後ろから石を投げられていました」

「何ですって!」ジルベールは愕然とした。「それでも裕福ではあるのでしょう?」

「今朝のあなたと同じように感じることも多いようですよ。『何処で朝食を食べよう?』」

「でも、貧しくたってみんなから尊敬されて慕われているんでしょう?」

「毎晩床につく時には明日のこともわからない状態です。バスチーユで目を覚まさずに済むのかどうか」

「そうなんですか! さぞかしみんなを憎んでいるのでしょうね?」

「愛しても憎んでもいません。嫌気が差しただけです」

「自分を迫害する人たちを憎まないなんて、信じられません!」

「ルソーはいつも自由でした。ルソーは自分一人で生きていけるほどには強かったし、強さと自由は人を穏やかで善良にさせます。奴隷状態と弱さだけが人を辛辣にさせるのですよ」

「だから自由に憧れていたんです」ジルベールは胸を張った。「今お話し下さったようなことは見当がついていましたから」

「人は牢獄の中でも自由です。明日ルソーがバスチーユに入れられたとして――いつかはそうなるでしょうが――それでもスイスの山にいた時とまったく変わらず自由に書いたり思索したりするでしょう。わたしだって人間の自由とは欲することを行うことにあるとは思ったことはありませんし、欲しないことを行うよう無理強いさせないことにあると思っています」

「つまり、ルソーがそう書いているのですか?」

「そのはずですよ」

「『社会契約論』ではありませんよね?」

「ええ、『孤独な散歩者の夢想』という新作です」

「失礼ですが、僕らはある点で見解が一致するのではないでしょうか」

「というと?」

「二人ともルソーを敬愛しているという点です」

「こうして錯覚の時代に生きているあなたは、どうお考えなんです?」

「物事については誤っているかもしれませんが、人間についてはそんなことはありません」

「ああ! いずれわかるでしょうが、誤まっているのはまさしく人間についてなんですよ。ことによればルソーはほかの人々よりはいくらか正しいかもしれません。でもいいですか、彼には欠点があります。大きな欠点が」

 ジルベールは納得していないように首を振った。だがそんな不作法な態度を見せられながらも、老人は同じように丁寧に応じ続けた。

「出発点に戻りましょう。先ほどあなたに、ヴェルサイユで主の方と喧嘩でもしたのかとたずねましたね」

 ジルベールもいくらか落ち着いて答えた。「主人などいない、と僕は答えました。さらにつけ加えるなら、大きな力を手にするかどうか決めたのは僕自身でしたし、ほかの人たちが羨むような条件を拒んで来たんです」

「条件ですか?」

「ええ、暇をもてあましている大貴族を楽しませるという条件でした。だけど僕はまだ若いのだし、学ぶことも上を目指すことも出来るのだから、貴重な若盛りを無駄にしたり人間の尊厳を自ら危うくするようなことはしてはならないと思ったんです」

「仰る通りです」と老人は深くうなずいた。「ですが上を目指すに当たってはっきりとした計画があるのですか?」

「僕は、医者になりたいと思っています」

「慎ましやかで犠牲を伴う真の科学と、メッキで塗りたくられた恥知らずなペテンを見わけることが出来る、立派な良い仕事です。真実を愛するのなら、医者におなりなさい。輝きを愛するのなら、医者をおやりなさい」

「でも学ぶには大金が必要ではないでしょうか?」

「お金は必要ですが、大金というのは言い過ぎでしょう」

「確かにジャン=ジャック・ルソーは何も費やさずに学んだそうですね」

「何も費やさずに……ですか!」老人は悲しげに微笑んだ。「神が人間に与え給うた大切なものを『何も』と言うのですか。純心、健康、睡眠。あのジュネーヴの哲学者はそれだけのものを費やして、ほんの僅かなことを学んだだけでした」

「ほんの僅かなですって!」ジルベールは露骨に嫌な顔をした。

「そうですよ。人にたずねてみて、ルソーのことを何と言うか聞いてご覧なさい」

「まずは偉大な音楽家でしょう」

「ルイ十五世が情熱的に『尽くしてくれるひとを失った』と歌ったからといって、『村の占い師』が良いオペラだとは限りません」

「偉大な植物学者です。『植物学についての手紙』をご覧下さい。僕は部分的にしか手に入れてませんが、あなたならご存じでしょう、こうして森で植物を集めてらっしゃるんですから」

「植物学者扱いされながら、実際には……」

「最後まで言って下さい」

「実際には、単なる植物屋でしかないのもよくある話です」

「ではあなたはどうなんですか……? 植物屋ですか、植物学者ですか?」

「ああ! 草や花と呼ばれる神の驚異を前にした、しがない無知な植物屋です」


 続く

『ジョゼフ・バルサモ』 43-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「主の方と喧嘩でもしたのですか?」老人は問いかけるような視線をジルベールにぶつけながら、箱の中の植物をきれいに並べていた。

「主人なんていません」

「いけません、そんな大それた答えは」老人は帽子をかぶった。

「でも嘘偽りのないことですから」

「誰もがこの世に主人を持っているのですよ。『主人などいない』と口にしては、自尊心を正しく理解しているとは言えません」

「どうしてです?」

「だってそうではありませんか? 老いも若きも誰もが皆、一つの力によって支配されているのですから。人間によって縛られている者もいれば、信条や原理によって縛られている者もいるでしょうが、主人と言っても声や手で命令したりぶったりする人間たちとは限らないということです」

「だとしたら、僕は信条に縛られているんです。精神に苦痛なく主人として受け入れられるのは、信条だけですから」

「どのような信条でしょうか? 見たところまだお若い、既存の主義を持つには早すぎるようですが」

「人間はみな兄弟であり、生まれながらにして一人一人が互いに一つの義務を負っているということです。ちっぽけなものとはいえ僕も神から何らかの価値を授かりましたが、僕が他人の価値を認めるのと同じように、僕の価値も認めてくれるよう他人に要求する権利があります。行き過ぎない限り。不当なことや不名誉なことさえしなければ、人間としての性質に沿う場合に限って、尊敬を分かつ権利が僕にもあるということです」

「教えを受けたのでしょうか?」

「生憎ですが。でも『不平等起源論』と『社会契約論』を読んだんです。この二冊の本から学んだことが、僕の知識のすべてだし、恐らく希望のすべてです」

 この言葉を聞いて、老人の目がきらりと光った。箱の仕切りに並べ損ねて、美しい花びらをした常盤花を危うくばらばらにしてしまうところだった。

「それがあなたの信条ですか?」

「あなたは反対なさるかもしれませんが、これはジャン=ジャック・ルソーの信条なんです」

 老人ははっきりと疑念を表したが、ジルベールの自尊心を傷つけないように気をつけていた。「しかし、正確に理解なさったのでしょうか?」

「これでもフランス語は理解しています。特に論理的で詩的であれば……」

「そういう意味ではありませんよ」老人は微笑んだ。「今は詩についておたずねしているのでないことは、おわかりでしょう。お尋きしたかったのは、哲学を学ばれてその全体系の本質を把握できたかということです、つまりル……」

 老人は言葉を止めて赤くなった。

「ルソーの体系を。僕は学校で学んだわけではありませんが、読んだ本が何を教えてくれたのかは直感的にわかります。『社会契約論』は、有益で素晴らしい本でした」

「若い人には退屈なテーマでしょう。二十歳の夢にとっては無味乾燥な考察、春の想像力にとっては苦くて香りのない花ですよ」老人は悲しげにそっと口を利いた。

「不幸は人の成長を早めますし、それに好き勝手に夢を見ていれば苦しいことも出て来ますから」

 老人は目を半ば閉じて考え込んだ。これは考える時の癖なのだが、それが老人の顔に何らかの魅力を与えていた。

「それは誰に対する皮肉でしょう?」老人は赤くなってたずねた。

「誰のことでもありません」

「しかし……」

「断言できます」

「ジュネーヴの哲学者のことを学んだと仰ったように聞こえましたが、彼の人生を皮肉ったのでは?」

「本人のことは知らないんです」ジルベールは率直に答えた。

「知りませんか?」老人は溜息をついた。「不幸な人間ですよ」

「何ですって! ジャン=ジャック・ルソーが不幸? それじゃあ正義なんて何処にもないんですね。不幸ですって! 人間の幸福のために人生を捧げた人が?」

「まあまあ。確かに本人のことを知らないようですね。それよりあなたのことを聞かせてもらえませんか?」

「よければこのまま話を続けたいのですが。だって僕みたいな誰でもない人間の話を聞いてもしょうがないでしょう?」

「それにわたしのような見ず知らずの人間を信用するのは不安ですからね」

「そんなつもりじゃありません! 不安なわけがないでしょう? 誰が何をしようと、今よりひどい目に遭わせられられるわけがないんですから。僕がどんな状態で現れたか思い出して下さい。独りぼっちで、惨めで、飢えていました」

「行き先は何処でしょうか?」

「パリに向かっているところですが……パリ人パリジャンの方でしょうか?」

「そうです……いえ、違います」

「ああ! どっちなんです?」ジルベールは笑い出した。

「嘘はつきたくないので、口を開く前によく考えてはならないと常々気をつけているんですよ。長年パリに住んでいてパリで生活して来た人間をパリジャンというのであれば、わたしはパリジャンです。ですがもうパリにはおりません。何故そんな質問を?」

「僕にとっては今まで話していたことと関係があるんです。つまりこういうことです。あなたがパリにお住まいなら、きっとルソー氏をご覧になったことがあるはずです」

「確かに何度か見たことはあります」

 
 続く

『ジョゼフ・バルサモ』42-2「老人」、43-1「植物学者」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

老人(承前)

 ジルベールは飢えた狼のようになって、空き地にたどり着いた。その中央に澱んだ水をたたえた池があり、葦や睡蓮に縁取られていた。

 草の生えた斜面を下ると、長い脚をした昆虫が水の上を行き交い、トルコ石か勿忘草の茂みが敷かれているかのようにきらめいていた。

 この景色の背景、いわば円周の外側に当たる部分には、大きなポプラが生垣を形作り、その銀色の幹の隙間を埋めるようにして榛が枝を茂らせている。

 六本の道がこの広場らしき場所に通じていた。そのうちの二本は太陽にまで続いているように見えた。遙か遠くの木々の梢が太陽によって金色に彩られている。残る四本は星型に広がり、青い森の奥深くに消え失せていた。

 この緑の広場は森のどの場所よりも涼しく華やいでいるように感じられた。

 ジルベールが通って来たのは薄暗い道の一本だった。

 ジルベールは上記の光景を一通り見渡した後で、真っ先に目に飛び込んで来たものに目を戻した。溝のような薄暗がりの中、倒木に腰かけている白髪の人物である。顔つきが穏やかで線が細く、茶色の粗羅紗の上着、同じ素材のキュロット、縦に灰色の刺繍の入ったベスト(ジレ)を着ていた。灰色の綿靴下が形の良い逞しい足を覆っている。留金付きの短靴にはところどころ汚れたままだったが、爪先の先っぽだけは朝露で洗われていた。

 傍らには蓋の開いた緑色の箱が置かれ、摘んだばかりの植物が詰まっていた。足に挟んだ棒には丸い握りが光っており、先端は幅二プス長さ三プスの鋤になっていた。

 ジルベールは以上のことを一瞥したものの、何よりもまず目に飛び込んで来たのは、老人が千切って口にしていたパンであった。遠くから窺っている花鶏アトリ川原鶸カワラヒワにも分けてやると、鳥たちはすぐにパンくずに群がり、けたたましく囀りながら茂みの奥に飛び去っていた。

 老人は穏やかながらも鋭い目つきでそれを眺めながら、時折り格子模様のハンカチに手を入れてパンの合間にさくらんぼを味わっていた。

「よし、この人だ!」ジルベールが枝を掻き分け、その人の方に四歩進んだところで、老人が我に返った。

 ジルベールは三分の一も進まないうちに、老人の穏やかで物静かな様子を目の当たりにして、立ち止まって帽子を取った。

 老人の方も他人がいることに気づき、急いで服に目をやり、ボタンを留めた。

 
 

第四十三章 植物学者

 ジルベールは腹を決めて側まで近づいた。だが口を開いた後で何も言わずにまた閉じてしまった。気持は揺らいでいた。施しを乞うような気がしたのだ。正当な権利を要求するのではなく。

 ジルベールが躊躇っているのを見て、老人も気が楽になったようだ。

「何かお話が?」と微笑んでパンを木の上に置いた。

「ええ、そうなんです」

「何でしょう?」

「失礼ですが、鳥に餌をやっていらっしゃいますよね、『神は之を養ひたまふ』というのに」

「神はきっと養って下さるでしょう。それでも、人間の手も鳥たちを養う手段の一つには違いありません。それを責めるのは間違っていますよ。人気のない森の中であろうと人通りのある町中であろうと、パンには事欠かないのですから。ここでは鳥たちがついばみ、そこでは貧しい人たちが手に取るのです」

「ああ!」ジルベールは老人の明晰で穏やかな声にひときわ胸を打たれた。「こうして森の中にいながら、鳥たちとパンを奪い合う人間もいるんです」

「あなたのことかな? もしやお腹が空いているのですか?」

「腹ぺこなんです。もしよければ……」

 老人はすぐさま気の毒そうにパンに手を伸ばした。そこで不意に考え込んで、鋭く射通すような目つきでジルベールを眺めた。

 考えてみると、目の前にいるのはそれほど飢えている人間には見えなかった。服は整っている。確かにところどころ土で汚れてはいるが。肌着は白かった。それもそのはず、前日ヴェルサイユで荷物から引っぱり出したシャツなのだ。そのシャツも確かに湿ってしわくちゃではあったが。つまりこの青年は明らかに森で一夜を過ごしたのだ。

 それでいて白く細い腕はやはり、労働者ではなく夢想家のものだ。

 如才のないジルベールのことである。老人が自分を疑い躊躇っていることに気づき、そうだとすると好意に甘えられなくなると思い慌てて前に出た。

「お腹が空きっぱなしなんです。昨日の昼から何も食べていなくて。もう二十四時間、何も取っていません」

 その言葉の真実であることは、真剣な表情、震えた声、青白い顔から明らかだった。

 老人は躊躇うのを(正確には不安がるのを)やめて、さくらんぼの入ったハンカチとパンを差し出した。

「ありがとうございます」そう言いながらジルベールはハンカチを返した。「でもパンだけで充分です」

 そのうえパンを二つに千切って半分だけもらい、もう半分は老人に返すと、傍らの草の上に腰を下ろした。それを見て老人はますますびっくりしていた。

 食事はあっという間に終わった。パンは少ししかなく、ジルベールは飢えていたのだ。老人はジルベールを困らせるようなことは何も言わなかったが、無言のままひそかに観察を続けた。その間も表向きは箱の中の草花に注意を払い、草花は深呼吸でもするように背筋を伸ばし、匂い立つ頭をブリキの蓋の高さまでもたげている。

 だがジルベールが池に近づくのを見て、慌てて声をあげた。

「飲んじゃいけない! 汚れているんです。去年の枯草が腐っているし、水面を泳いでいる蛙が卵を産んでいるので。どうせならさくらんぼを食べなさい。これだって喉の渇きは癒えますよ。さあお取りなさい、どうやら出しゃばりな押しかけ客ではないようですね」

「ええ、確かに僕は出しゃばりとは正反対の人間だし、出しゃばることほど嫌なことはありません。ついさっきヴェルサイユでそれを証明して来たばかりです」

「おや、ヴェルサイユからいらしたのですか?」

「ええ」

「あんな豊かな町で飢え死にするのは、よほど貧しいかよほど高潔な人だけでしょう」

「どちらも正解です」

『ジョゼフ・バルサモ』 42-1「老人」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第四十二章 老人

 ジルベールは追手を恐れて街道は通らなかった。木立から木立を抜けて、やがて大きな森のようなところで立ち止まった。四十五分で一里半ほど稼いだことになる。

 辺りを見回したが、ここにいるのは自分だけだとわかり、ほっと一安心して街道に出ようとした。間違っていなければ、パリに通じているはずだ。

 だが何頭かの馬がロカンクールから橙色の制服に引かれてやって来るのを見て、ひどく不安になり、道に出るのをやめて森に舞い戻った。

 ――栗の木の陰で休もう。追手がいても、捜すなら街道を捜すだろうし。木から木へ、辻から辻へ、今夜の内にパリに潜り込むぞ。パリは大きいと言うし。僕みたいな小さな人間はすぐに紛れてしまうはずだ。

 これはいい考えに思えた。天気がいいのと同じくらい。森が暗いのや、地面が苔むしているのと同じくらいに。それまでは陽光が草を焼き、地面から花や草の甘い香りを立ちのぼらせていたが、そんな厳しく容赦ない太陽もマルリーの丘の後ろに隠れ始めた。

 その頃になると空に穏やかな深い静寂が訪れ、辺りも暗くなり始めた。花びらを閉じた花が、眠りに就いた昆虫をがくの中に匿い出す。ぎらぎらとてかった身体でぶんぶんと唸っていた羽虫たちは、木の洞の我が家に帰還し、鳥たちは声も立てず葉陰に移り、聞こえるのはかすかな羽擦れの音だけ、なおも響いている歌声はツグミの甲高い鳴き声と、駒鳥の控えめな囀りだけである。

 森はジルベールにとっては庭も同然だ。物音のことも静寂のこともわきまえていた。だからあれこれ考えたり子供っぽい恐怖に囚われたりすることもなく、枯葉の散らばったヒースに飛び込んだ。

 不安などなかった。それどころか、非常に満足していた。混じり気のない自由な空気を目一杯吸い込むたびに、禁欲的なジルベールは、人間の弱さに対し張りめぐらされた罠などことごとく克服したような気持になっていた。パンもお金も家もないのが何だというんだ? 不自由だったじゃないか? 好きなように出来なかったじゃないか?

 大きな栗の木の下で横になると、苔むした太い根と根の間がちょうど柔らかなベッドになった。空を見上げて微笑むと、ジルベールは眠りに就いた。

 鳥の鳴き声で目が覚めた。まだ日が出たばかりだ。堅い木のせいで痛む肘を起こすと、青く霞む曙光が三つ又にたなびいているのが見える。耳を澄ませば露に濡れた小径を兎が素早く駆け抜け、物好きな鹿が丈夫な脚を踏みしめて道の真ん中で立ち止まり、木陰に横たわる見慣れぬ存在を見つめてから、本能に導かれるままにとっとと逃げ出していた。

 すっかり起き上がるとお腹が空いていることに気づいた。そういえば昨日、ザモールとの会食を拒んだのだっけ。ヴェルサイユの屋根裏で昼食を食べてから、何も口にしていないことになる。自分が木々の天幕の下にいることにようやく気がついたが、ロレーヌとシャンパーニュの木立を堂々と踏破したジルベールには、夜中にアンドレを待ち伏せしようとした翌朝にタヴェルネの茂みやピエールフィットの藪の中で目が覚めたほどにしか思えなかった。

 だがいつもなら傍らには呼び戻されたことに驚いていた山鶉の雛や、木にとまっていたのを仕留めた雉があるのに、今は近くには帽子しか見えなかった。長旅でくたびれているうえに朝露ですっかり駄目になっている。

 つまり、これまでのことは夢ではなかったんだ。目を覚ましてすぐにそう思った。ヴェルサイユやリュシエンヌは現実だった。意気揚々とヴェルサイユに入り、リュシエンヌを出る時には怯えていたのだ。

 こうして現実に引き戻されたせいで、ますます空腹が募り、ますます辛くなって来た。

 ジルベールは無意識のうちに辺りを探していた。風味豊かな桑の実、野生のリンボクの実、しゃきしゃきとした木の根っこ。これは蕪よりは渋いものの、朝から肩に道具を担いで開墾地に向かう木樵たちには珍重されていた。

 だがまだそんな季節ではなかったし、見つかったのは奏皮、楡、栗、よく砂地で見かけるどんぐりだけだった。

 ――すぐにパリに向かおう。後まだ三、四里、多くても五里、それなら二時間で行ける。二時間くらいが何だ! それで楽になれるんだぞ。パリならパンもあるし、正直で勤勉な若者だとわかれば、職人さんだって働いた駄賃にパンを分けてくれるはずだ。

 日中には次の日の食事のことを考えるとして、その後は? 何も。次の日もまたその次の日も、僕は成長し、近づいてゆくんだ……目指す目的に。

 ジルベールは足を早めた。街道に戻りたいのに、方角の見当がつかない。タヴェルネや近隣の森でなら、東も西もよくわかっていた。その時々の太陽が時刻も道も教えてくれた。夜には星が案内役だった。それが金星や土星や明けの明星という名で呼ばれていることは知らなかったけれど。ところがこんな知らない土地では、誰にも増して何もわからない。道を求めてあちこちをでたらめに探すしかなかった。

 ――よかった。道しるべが見える。

 辻まで進むと、そこには道しるべがあった。

 確かに三つ。一つはマレ=ジョーヌ(Marais-Jaune)、一つはシャン・ド・ラルエット(Champ de l'Alouette)、一つはトル=サレ(Trou-Salé)を指していた。

 ほとんど進んでいなかったのだ。森から出られないまま三時間もかけて、ロン・デュ・ロワ(Rond du Roi)から王子ヶ辻(carrefour des Princes)まで戻っていたことになる。

 額に汗を流し、何度も上着を脱ぎ捨て栗の木に登った。だがてっぺんまで登っても、見えるのはヴェルサイユだけだった。ある時は右に、ある時は左に。ヴェルサイユに連れ戻されるのが運命なのではないかと思えた。

 リュシエンヌの連中がこぞって追いかけて来ると思い込んでいたため街道に出ようとはせず、常に木陰に身を潜めながら、気が狂ったようになってヴィロフレ、シャヴィーユ、セーヴルを通り過ぎた。

 ムードンの城館で五時半の鐘が鳴る頃には、工場とベルビューの間にあるカプチン修道院まで来ていた。十字架の上に登るとセーヌ川、市場町、手前側の人家の煙が見えた。十字架が折れることも、シルヴァンのように高等法院から車責めの判決を受けることもいとわなかった。

 だがセーヌ川の脇、町の真ん中、家々の門前には、あれほど遠ざかりたいと思っていたヴェルサイユの街道があった。

 ジルベールはしばし疲れも空腹も忘れた。地平線の向こうにまだいくつもの家屋が朝靄に隠れているのが見えたのだ。間違いない、あれがパリだ。町を目指して駆け出し、息が上がるまで走り続けた。

 気づけばムードンの森の真ん中、フルーリー(Fleury)とプレシ=ピケ(Plessis-Piquet)の間にいた。

 ぐるりと見回し、――さあ、遠慮なんかいらない。早起きの職人を見つけるんだ。きっとパンを抱えているから、「人はみな兄弟、助け合わなくてはいけません。あなたはパンをお持ちですが、昼食にはちょっと多いし、一日分だとしても余りそうですよね。ところが僕はお腹が空いているんです」と言おう。そうすればきっとパンを半分分けてくれないだろうか。

 飢えのせいでますます哲学者じみて来たジルベールは、頭の中で反芻し続けた。

 ――だいたい、すべてのものを地上の人間は分かち合っているんじゃないのか? すべてを生み出した普遍の神が、土を肥やす空気や果実を肥やす土を、こっちに与えようかあっちに与えようか選り分けたとでも言うのだろうか? なのに搾取されているものもある。だが主の目から見れば、哲学者の目で見たのと同じく、人は何物も所有していないはずだ。人が持てるものは神が貸し与えたものだけなんだから。

 ジルベールは、当時の人々が感じ取っていた曖昧で不確かな考えを直感的にまとめただけに過ぎない。それは雲のように空中に漂い頭上を移ろい、ただ一つのことに向かって積もり積もった、嵐の前触れであった。

 ジルベールは道を進みながら再び考えに耽った。――一部の人が万人のものを我がものにしている。そいつらから力ずくで奪うことは出来るはずだ。本来は分かち合わなくてはならないものなのだから。同胞がパンを山ほど持っていたとして、パンをくれるのを拒んだとしたら! 僕は……動物に倣い、あらゆる良識と正道に従って、力ずくで奪うつもりだ。だってそれが自然な欲求の流れなんだから。もしかするとこんな風に言われるかもしれない。「君が欲しがっているのは妻と子供の分だ」と。あるいは、「俺は力持ちでね、君がどう言おうとこのパンはいただくよ」と。

『ジョゼフ・バルサモ』41-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「終わりにしましょう」とションが言った。「でも、三人の人間に好かれるだけでいいのに」

「その三人とは?」

「国王、義妹、あたし」

「そのためには何をすればいいんですか?」

「ザモールには会った?」ジルベールの質問にまともに答えることを避けて、たずねた。

「あの黒ん坊ですか?」声には軽蔑の色が滲んでいた。

「ええ、あの黒ん坊」

「あれと何の関係があるんです?」

「運命だと思わなきゃ。あの子はもう国王の金庫に二千リーヴルも国債を持ってるの。もうすぐリュシエンヌの領主に任命されて、口唇の厚さや肌の色を馬鹿にしていた人たちも、ご機嫌を取ってムッシューって呼んだり、もしかすると閣下って呼んだりするかもしれない」

「僕は違います」

「ほらほら、哲学者の玉条は、『人はみな平等である』じゃなかったの?」

「だからザモールを閣下と呼ぶつもりはないんです」

 見事なパンチを喰らって、今度はションが口唇を咬む番だった。

「じゃあ野心はないの?」

「まさか!」ジルベールの目が輝いた。「そんなことはありません」

「確かお医者さんだったわね?」

「世界一立派な人間になって、同胞たちを救う仕事に就きたいんです」

「きっと叶うわ」

「そうでしょうか?」

「あなたは医者になる、それも国王付の医者にね」

「僕が? 医学の初歩も知らないのに……ご冗談でしょう?」

「ザモールが落とし門や石落としや堀の外壁が何なのか知っているとでも? そんなわけないじゃない。知りもしないし、知らないことを気にもしてないわ。リュシエンヌの領主であることに変わりはないもの。肩書きに加えてすべての特権もついて来るし」

「ええ、わかりますとも」ジルベールの声には棘があった。「道化が一人では足りないんでしょう。国王陛下が退屈なさって、二人必要になったんだ」

「ほら。誰かさんったらまたがっかりした顔をしてる。ほんとあなたって、人を喜ばせるとなるとぶさいくになるのね。取りあえず可笑しな顔をしておいて頂戴。かつらを頭にかぶせて、とんがり帽子をかつらに乗せている間は、ぶすったれないでおどけてみせてよ」

 ジルベールはまたもや眉をひそめた。

「ねえ、Tresme公がデュ・バリー夫人の尾巻猿の地位を願い出ているって知ったなら、陛下付の医者という地位もすんなり受け入れられるでしょう?」

 ジルベールが何も答えなかったので、ションは諺を都合よく解釈した。曰く、答えのないのは同意の印。

「仲良くしてくれたことだし、手始めに、これからは配膳室で食事を取らなくていいわ」[*1]

「ああ、ありがとうございます」

「気にしないで。こうなることはわかっていたから予めそういう指示は出しておいたの」

「それで、何処で食べればいいのでしょうか?」

「ザモールと一緒」

「え?」

「そうよ。領主と医者だもの、同じ食卓に着くのはおかしくないでしょう。よければ夕食を取りにどうぞ」

「お腹は空いていません」ジルベールは憮然とした声を出した。

 ションは落ち着き払っていた。「いいわ、今は空いてないでしょうけれど、夜には空くでしょう」

 ジルベールは首を横に振った。

「夜じゃくても、明日、明後日には。そのうち折れることになるわよ。それにあんまり迷惑をかけるようなら、あたしたちには忠実な矯正監もいるんだから」

 ジルベールは身震いして青ざめた。

「ザモール閣下のところに戻りなさい」ションが冷やかに告げた。「悪くないはずよ。料理は申し分ないし。でも礼儀は忘れないこと。でないと痛い目を見る羽目になるわよ」

 ジルベールは頭を垂れた。

 心を決めた時には返事をする代わりにそうするのが癖なのだ。

 ジルベールが部屋を出ると、先ほどの従僕が待ちかまえていた。案内された小食堂は、さっきまでいた控えの間のすぐ隣だ。ザモールが食卓に着いていた。

 ジルベールは傍らに坐ったものの、どうしても食べることは出来なかった。

 三時の鐘が鳴った。デュ・バリー夫人はパリに向かった。ションは後で合流することにして、厄介者を手なずけるための指示を与えた。いい子にすれば甘いお菓子をたっぷりと。強情を張るようならしばらく閉じ込めてから脅しの言葉をたっぷりと。

 四時になると、ジルベールの部屋に『いやいやながら医者にされ』の衣装が届けられた。とんがり帽子、かつら、黒タイツ、同じ色の上着。飾り襟、杖、大きな本も添えられていた。

 衣装を運んできた従僕が、一つ一つ目の前に見せ始めた。ジルベールは抵抗する素振りも見せなかった。

 グランジュ氏が従僕の後ろから入って来て、衣装の着け方を教えた。ジルベールはその説明をじっと聞いていた。

「確か――」とジルベールはそれだけ言った。「昔の医者は文箱と紙巻きを持っていたと思います」

「おや、本当だ。誰か文箱を見つけて来て、ベルトに吊るしなさい」

「羽根ペンと紙もお願いします。どうせなら完璧な衣装を着けたいので」

 従僕が飛び出して行った。指示に従うと同時に、ジルベールがやる気になっているとションに伝えに行ったのだ。

 ションは大喜びして、八エキュ入りの巾着を使いに手渡し、お利口な医者のベルトにインク壺と一緒に結びつけさせた。

「ありがとう」衣装を運んで来た従僕に、ジルベールは礼を言った。「ところで、着替えたいから一人にしてもらえませんか?」

「でしたら急ぐように」グランジュ氏が言った。「そうすればパリに発つ前にお嬢様にご覧いただけます」

「三十分。三十分だけお願いします」

「必要なら四十五分だ、お医者さま」家令はそう告げて、金庫の扉を閉めるように極めて慎重に扉を閉めた。

 ジルベールはつま先立って扉まで忍び寄り、耳を澄まして足音が遠ざかるのを確かめた。それから窓まで音を立てず移動した。そこから下のテラスまで十八ピエある。細かい砂の蒔かれたテラスは、大きな木々に囲まれて、その葉がベランダに覆いかぶさるほどだった。

 ジルベールは上着を三つに裂いて端と端を結んでから、帽子を卓子に、帽子の側に巾着を置いて、手紙を書き始めた。

『マダム、一番の財産は自由です。人間にとって一番大切なことは、その自由を守ることです。あなたに自由を奪われてしまうので、僕は逃げ出します。ジルベール』

 ジルベールは手紙を折りたたみ、ション宛てに宛名を書くと、十二ピエの布地を窓の格子に結びつけ、蛇のように下端まで滑り降りると、命の危険も顧みずテラスに飛び降りた。ちょっと無茶な行動ではあったが、木に飛びついて枝にしがみつき、栗鼠のように葉陰に滑り込んで、地面に降りた。そして全速力でヴィル=ダヴレーの森の方に姿を消した。

 三十分後に人が戻って来た頃には、ジルベールはとっくに手の届かないところにいた。

『ジョゼフ・バルサモ』 41-1 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第四十一章 いやいやながら医者にされ

 ジルベールは従僕の言いなりにならなくてはいけないことが口惜しくてならなかった。とは言え、状況を変えなくてはならないだろう。それにどう変わろうとこれ以上に悪くなることはなさそうだ。ジルベールは先を急いだ。

 ションはベアルン夫人との会見をデュ・バリー夫人に報告し終えて、ようやく任務から解き放たれ、部屋着を着て窓辺でのんびり昼食を取っていた。すぐ側の植え込みからアカシアやマロニエが迫っていた。

 ションは食欲旺盛だった。雉のサルミやトリュフのガランティーヌを見ればジルベールにも一目瞭然だ。

 ションの傍らに招かれたジルベールは、丸テーブルに目を走らせ自分の皿を探した。誘われるのを今か今かと待っていた。

 ところがションは椅子を勧めてはくれない。

 ジルベールをちらりと見ただけで、トパーズ色のワインをごくりと飲み干した。

「あら、お医者さん。ザモールとはどうなったの?」

「どうなったですって?」

「ええ、仲良くなれたかしら」

「話も出来ないあんな動物と、どうやって仲良くなれと言うんですか? 話しかけても目を回して歯を剥き出すだけなのに」

「脅かさないで頂戴」ションは食事も止めず、脅かされたような顔もまったく見せずに答えた。「じゃああなたは友だちにうるさいってわけね?」

「友だちというのは対等な関係のことです」

「至言ね! つまり自分がザモールと対等だとは思わないってこと?」

「向こうが僕と対等ではないんです」

「そりゃあね」ションは呟くように言った。「あの子は可愛いもの!」

 ようやくジルベールを直視して、自尊心が強そうなことに気づいた。

「つまり、そう簡単には誰とでも仲良く出来ないってわけ?」

「そういうことです」

「ふうん。じゃあ、あたしたち、いいお友だちになれると思ったのは間違いだったみたいね」

「個人的にはあなたはいい人だと思ってます。ですが……」ジルベールは言いよどんだ。

「あら嬉しい。ありがと。それで、あなたに気に入ってもらえるにはどれだけの時間がかかるのかしら?」

「時間は随分とかかります。どんなことをしても仲良く出来ない人だっていますし」

「ふうん。タヴェルネ男爵のところで十八年過ごした挙句に突然飛び出したのは、そういうことなのね。タヴェルネ家の人たちはあなたのお眼鏡には適わなかった、と。そういうこと?」

 ジルベールは真っ赤になった。

「あら、返事は?」

「答える必要はないでしょう。大事なのが友情や信頼である以上は」

「つまりタヴェルネ家の人たちは友情にも信頼にも値しなかったってことじゃない?」

「どちらにも? そういうことです」

「それで何が気に入らなかったの?」

「愚痴などこぼしません」ジルベールは胸を張った。

「ねえ、あたしもジルベールさんに信頼されていないのはわかってるわ。でもそれは信頼を勝ち取りたいという気持がないからじゃないの。どうすれば信頼してもらえるかわからないからなの」

 ジルベールは口唇を引き結んだ。

「要するに、タヴェルネ家の人たちはあなたを満足させられなかったのね」ションの好奇心をジルベールは感じ取った。「タヴェルネ邸では何を?」

 ジルベールは戸惑った。タヴェルネ家でしていたことなど、自分でも知らなかった。

「僕は……僕は、信頼できる人間です」

 いかにもジルベールらしい哲学者然とした落ち着いた言い方に、ションは笑いの発作に襲われて椅子に反っくり返った。

「信じられませんか」ジルベールは眉をひそめた。

「やめてよ! あなたみたいに怒りっぽい人に反論できる人なんていないわ。タヴェルネ一家がどんな人たちなのか教えて欲しいだけ。あなたにとっては、気に入らないどころか、復讐の助けになるはず」

「誰かの手を借りるつもりはありません」

「結構よ。でもあたしたちにはあたしたちなりにタヴェルネ家に言いたいことがあるの。あなたが腹を立てているのが一人なのか何人かなのかはわからないけど、手を結んだ方がいいと思わない?」

「残念ですが。僕のやり方はあなたたちとは相容れません。あなたはタヴェルネ家一般の話をしているけれど、僕の方は一人一人に違った感情を持っていますから」

「じゃあフィリップ・ド・タヴェルネのことはどう思ってるの? 嫌い? 好き?」

「何とも思ってません。フィリップさんは良くも悪くもしてくれませんから。好きでも嫌いでもありません。構われていませんから」

「じゃあ陛下やショワズールの御前でフィリップ・ド・タヴェルネを訴えるつもりはないのね?」

「何のかどで?」

「あたしの兄と決闘をしたかどで」

「訴えろと言われたなら、知っていることを話すつもりです」

「知っていることって?」

「真実を」

「あなたの言う真実って何? 随分と曖昧な言葉じゃない」

「善と悪、公正と不正が出来る者にとっては曖昧ではありません」

「わかったわ。つまり善とは……フィリップ・ド・タヴェルネ。悪とは……デュ・バリー子爵」

「僕はそう思ってます。良識に照らした限りでは」

「何て子を拾って来ちゃったんだろう!」ションは歯ぎしりした。「これが命の恩人に対するお礼ってわけね?」

「死から救った恩人です」

「同じことじゃないの」

「全然違いますよ」

「どう違うのかしら?」

「あなたは命の恩人じゃありません。馬が僕の命を奪うのを止めてくれただけです。それだってあなたじゃなく御者のやったことです」

 平然とそんなことを言いつのる屁理屈屋を、ションはじっと見つめた。

「もう少し優しい言葉をかけてくれてもいいのに」と笑みと声と和らげた。「手をクッションの下に入れ足を膝の上に預けていた連れじゃないの」

 ションが優しく馴れ馴れしく挑発したため、ジルベールはザモールや仕立屋のことも誘ってもらえなかった昼食のことも忘れた。

「ね? 仲直りしましょう」ションがジルベールの口元に触れた。「フィリップ・ド・タヴェルネに不利な証言をしてくれるでしょう?」

「まさか! 絶対にしません!」

「どうしてよ?」

「悪いのはジャン子爵だからです」

「何が悪いの?」

「王太子妃を侮辱しました。けれどフィリップ・ド・タヴェルネは……」

「ええ」

「王太子妃に誠実でした」

「ふうん、王太子妃の肩を持っているみたいじゃない?」

「僕が肩を持つのは正義です」

「お黙りなさい、ジルベール! この城館でそんな口の利き方は許さないわよ」

「でしたら質問だけして、答えを聞かなければいいのです」

「だったら、ほかの話をしましょう」

 ジルベールは同意の印にお辞儀をした。

「さあ、いい?」ションの声は厳しかった。「あたしたちを喜ばせてくれないなら、ここで何をするつもりなの?」

「偽誓して喜べと?」

「何だってそんな大げさな言葉を使おうっていうのかしら?」

「人が信念を守り続ける権利において」

「いい? 人に仕えれば、ご主人さまがすべて取り仕切ってくれるの」

「僕は誰にも仕えていません」ジルベールは頬をふくらませた。

「しかもあなた流に従えば、これからも仕えるつもりはないのね」ションはゆっくりと優雅に立ち上がった。「もう一度聞くから、はっきり答えて頂戴。ここで何をするつもりなの?」

「役立つ人間ならご機嫌を伺わずともよいのではありませんか」

「残念ね。会うのはみんな役立つ人ばかりで、飽き飽きしてるくらいよ」

「それではここを出てゆきます」

「出て行くですって?」

「ええ。来たいと頼んだ訳ではなかったでしょう? だから僕は自由です」

「自由?」慣れない反抗に遭って、怒りが湧いて来た。「ふざけないで!」

 ジルベールの顔が強張った。

「ねえ、いい」ジルベールが眉をひそめたのを見て、簡単には自由を諦めそうにないとションも悟った。「仲直くしましょう……可愛くて潔癖なところが気に入ってるの。周りにいる人たちと比べたらの話だけど。とにかく、真実を愛する心を温めておいて頂戴」

「冷ますつもりはありません」

「そうね、でも別の言い方をするわね。一つ、あなたの胸の中で温めておいて頂戴。一つ、トリアノンの回廊やヴェルサイユの広間で信念を披露しないで頂戴」

「ふん!」

「『ふん』はなし! 女から学べることはたくさんあるのよ、哲学者ちゃん。一つ目の金言、『口を閉じていれば嘘をつかなくてすむ』。よく覚えておいて」

「何か聞かれたら?」

「誰から? 馬鹿ね。あたしのほかにあなたのことを気にする人なんかいやしないわよ。まだ一派をなしたとは思えないものね、哲学者さん。同じ考え方をする人たちはまだ少ない。仲間を探すには道路を駆けまわり、藪を掻き分けなくてはならないわ。ここに留まりなさい。二十四時間を四回繰り返すうちに、あなたを完璧な宮廷人に変えてみせるから」

「そうでしょうか」ジルベールは強気だった。

 ションは肩をすくめた。

 ジルベールが笑みを浮かべた。

『ジョゼフ・バルサモ』 40-2 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 ションは心も魂もヴェルサイユの住人であったので、宮殿を離れて新鮮な空気を吸いに森や牧場に向かうのが楽しくて仕方がなかった。手足を伸ばして、町から出るや、ほとんど人が変わってしまった。

「ねえ! ヴェルサイユはどうだった、哲学者ちゃん?」

「凄いとしか言いようが。でももうヴェルサイユを出たんですよね?」

「ええそう、うちに向かってるの」

「あなたのお宅と仰ったんですか?」ジルベールのぶすったれた声が和らいだ。

「そう言ったつもり。ジャンヌに会わせようと思って。気に入られるように頑張ってね。今はフランス中の大貴族がそうしようと夢中なんだから。ところでグランジュさん、この子の服を一揃い用意してくれないかしら」

 ジルベールは耳まで真っ赤になった。

「どのような服にいたしましょう? 普通のお仕着せで構いませんか?」

 ジルベールは座席の上で飛び上がった。

「お仕着せですって!」憎しみのこもった目つきを家令に向けた。

「違うってば。そうね……後で言うわ。義妹に話したいことがあるし。だけどついでにザモールの服も注文するのだけは忘れないで」

「わかりました」

「ザモールは知ってる?」この話に驚いているらしいジルベールに声をかけた。

「いえ、残念ですが」

「あなたの同僚みたいなもの。もうすぐリュシエンヌの領主になるの。仲良くしてあげて。何だかんだ言ってもいい子だから。肌の色は関係ないわ」

 ザモールの肌が何色なのかたずねようとしたが、好奇心についての忠告を思い出し、再び小言を食らうのはご免だと、質問を飲み込んだ。

「頑張ります」と言って、威厳をたたえた微笑みを浮かべるだけでやめておいた。

 リュシエンヌに到着した。哲学者君はすべてを目にしていた。植樹されたばかりの道路、緑なす丘、ローマ時代のような大水路、葉の茂った栗の木、そして本館に向かって流れるセーヌ両岸を伴走する素晴らしい平野と森の景色。

「じゃあここが」とジルベールは独語した。「フランス中のお金を費やした城館だ、とタヴェルネ男爵が言っていたところか!」

 犬が喜び勇み、使用人がいそいそと駆け寄ってションに挨拶をしたために、ジルベールの貴族哲学的断想は中断された。

「もう帰って来た?」

「まだお戻りになりませんが、お客様がお待ちでございます」

「どなた?」

「大法官様、警視総監様、デギヨン公爵です」

「そう。急いで中国の間を開けて来て。義妹にはほかの人より先に会っておきたいの。戻って来たらあたしが待っていると伝えて頂戴、わかった? ああ、シルヴィー!」ションは小箱と子犬を預かりに来た小間使いか何かに声をかけた。「小箱とミザプーはグランジュさんに渡してね。それからこの哲学者ちゃんはザモールのところに連れて行って頂戴」

 シルヴィー嬢は辺りを見回した。ションの言っているのがどんな動物なのか確かめようとしたのだろう。だがシルヴィー嬢の視線とションの視線がジルベールの上でかち合ったところで、この若者のことよ、とションが目配せした。

「こちらに」シルヴィーが言った。

 ジルベールがぽかんとしながら小間使いについて行くと、ションの方は鳥のように軽やかに脇の扉から姿を消した。

 ションの言葉が命令調ではなかったために、ジルベールはシルヴィーを小間使いというよりむしろ貴婦人のように考えた。第一、服装もニコルのものよりはアンドレのものに似ている。シルヴィーはジルベールの手を取ってにこやかに微笑んだ。というのも、ションの話しぶりから言って、新しい恋人とは行かぬまでも新しい遊び相手だろうと察したからだ。

 シルヴィー嬢は、飲み込みが早く、背の高い美しい娘だった。目は濃い青、白い肌にはうっすらとそばかすが浮かび、燃えるように美しい金髪をしていた。口元は瑞々しくほっそりとして、歯は白く、腕はふくよかで、そのことがジルベールに以前の艶事を思い出させた。ニコルが話していたあの蜜月のことが、甘苦しい震えと共に甦っていた。

 ご婦人というものはその種のことに聡い。シルヴィー嬢もすぐに感づいて笑みを洩らした。

「お名前をお聞かせ下さいますか、ムッシュー?」

「ジルベールと申します」我らが青年は柔らかな声で答えた。

「ではジルベールさま、ザモール閣下のところにご案内いたします」

「リュシエンヌの領主ですね?」

「領主です」

 ジルベールは腕を伸ばし、袖口で服を拭い、ハンカチで手をこすった。重要人物の前に出るのかと思うと、怯みそうになる。だが「ザモールはいい子よ」という言葉を思い出して、心を落ち着けた。

 既に伯爵夫人とも子爵とも親しい。これから領主とも親しくなるのだ。

 ――宮廷では誰とでもすぐに親しくなれると陰口を叩かれるのだろうか? この人たちは親切でいい人じゃないか。

 シルヴィーが控えの間の扉を開けた。そこは私室とも見まがうほどで、羽目板の鼈甲には金張りの銅が嵌められ、古代ローマの将軍ルクルスのアトリウムかとも思われただろう。無論ルクルス家の象眼は純金であったが。綿の詰まった大きな肘掛椅子の上で足を組み、チョコレートをかじっているのが、ご存じザモール閣下だった。もっとも、ジルベールはまだそれを知らない。

 だから将来のリュシエンヌ領主の姿を目にして哲学者殿の顔に浮かんだのは、まことにけったいな表情であった。

「何だ?」ジルベールはその人物を冷たく見据えていた。黒ん坊を見るのは初めてだったのだ。「何だ? あれは何だ?」

 ザモールの方は頭を上げもせずに、相変わらず菓子をかじったまま、幸せそうに白目を回していた。

「ザモール閣下です」シルヴィーが答えた。

「あの人が?」ジルベールは唖然とした。

「そうですよ」シルヴィーはことの成り行きとは裏腹に笑って答えた。

「領主だって? この醜い猿がリュシエンヌの領主? からかってらっしゃるんでしょう?」

 この侮辱にザモールが身体を起こして白い歯を剥き出した。

「私は領主です、猿ではありません」

 ジルベールはザモールからシルヴィーに戸惑うような視線を移したが、堪えきれずに笑っているのを見て怒りを感じた。

 ザモールの方はインドの神像のように厳めしく泰然として、繻子の袋に黒い爪を戻してまたもぐもぐとやり出した。

 その時扉が開き、グランジュ氏が仕立屋を連れて入って来た。

 ジルベールを指さし、「この人の服です。説明した通りにサイズを測って下さい」

 ジルベールは無意識のうちに腕と肩をしゃちほこばらせ、シルヴィーとグランジュ氏は部屋の隅で話をしている。シルヴィーはグランジュ氏の言葉の一つ一つに声を立てて笑っていた。

「え、可愛い! スガナレルみたいなとんがり帽子なの?」

 ジルベールは続きを聞きもせず、出し抜けに仕立屋を押しやった。何があろうとこれ以上おままごとに付き合わされるのはご免だ。スガナレルとは何者か知らないが、名前といいシルヴィーの笑いといい、滑稽極まりない人物に決まっている。

「まあまあ」家令が仕立屋に言った。「乱暴はしないで。もう充分なのでは?」

「仰る通りです。それに、ゆとりを持たせれば破れませんしね。大きめに作ることにしましょう。」

 それからシルヴィー嬢、家令、仕立屋は部屋を出たため、ジルベールは黒ん坊と差し向かいで残された。相変わらず菓子をかじり、白目をぐりぐりと回している。

 田舎者の目にはあまりにも謎めいていた。タヴェルネにいる時以上に尊厳を踏みにじられたと悟った(と言おうか、悟ったと思っている)哲学者にとっては、あまりにも恐ろしく、あまりにも苦しかった。

 それでもどうにかザモールに話しかけてみた。きっとインドか何処かの王子なのだろう。クレビヨン・フィスの小説で読んだことがある。

 だがそのインドの王子は、答える代わりに鏡の前に行って自分の豪華な衣装を眺め始めた。まるで結婚式の花嫁だった。それから車輪付きの椅子に馬乗りになると、足で床を蹴り、控えの間を十周ほど回り出した。その速さを見れば、この独創的な遊びを究めるのにどれだけ練習を重ねたのか想像もつこうというものだ。

 突然ベルが鳴った。ザモールは椅子を放ったらかしにして扉の一つから駆け出して行った。

 ベルに対するその素早い反応を見て、ザモールは王子ではないのだとジルベールは得心した。

 ジルベールはザモールに続いてその扉から出て行くつもりだった。だがサロンに通じている廊下の端まで来ると、青や赤の紐が見え、図々しく横柄で出しゃばりな従僕たちが番をしていた。血管に震えが走り、額に汗が浮かぶのを感じながら、ジルベールは控えの間に戻った。

 こうして一時間が過ぎた。ザモールは戻って来ておらず、シルヴィー嬢は相変わらず姿を見せない。誰でもいいから人の顔が見たかった。よくわからないことを言って脅かしておいて仕上げに行った仕立屋の顔でもよかった。

 ちょうど一時間過ぎ、入って来る時に開けたのと同じ扉が開き、従僕が現れてこう言った。

「どうぞ!」

PROFILE

江戸川小筐(wilderたむ改め)
  • 名前:江戸川小筐(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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