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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 29-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第二十九章 三人芝居

 アンドレが意識を取り戻し始めた。介抱されているともわからぬまま、直感的に助けが来たことは理解した。

 身体を起こして、思いがけない助け船にしがみついた。

 だが心までは甦らなかった。心はしばらくの間ぐらついたまま、怯えたように、半睡半醒を彷徨っていた。

 シャルニー氏はアンドレを肉体的に目覚めさせると、今度は精神的に目を覚まさせようとした。だが心はいつまでも恐ろしく凝り固まった狂気にだけしがみついていた。

 ようやくのこと、アンドレは怯えた目を向けると、誰に抱き起こされているのかも気づかずに発作的に悲鳴をあげて、シャルニーを乱暴に押しやった。

 その間中、王妃は目を背けていた。女である王妃の務めは、自分が見捨てた女を慰めたり元気づけたりすることだったはずなのに。

 シャルニーは抗おうともがくアンドレを逞しい腕で抱えると、振り返って冷たく強張ったままの王妃に話しかけた。

「何か恐ろしいことがあったに違いありません。シャルニー夫人は普段から失神するような質ではありませんし、そもそも意識を失くしたのを見るのは今日が初めてのことです」

「ひどくつらいことがあったのでしょう」王妃の頭からは、アンドレに会話をすっかり聞かれたのではないかという漠とした疑いが消えなかった。

「仰る通りつらそうに見えます。ですから陛下にお許しを願って、部屋まで連れて行かせようと思うのですが。侍女たちに世話させなくては」

「そうなさい」王妃が呼鈴に手を伸ばした。

 すると銅が鳴り響くと共に、アンドレが身体を強張らせ、うわごとを叫んだ。

「ジルベール! ジルベールだわ!」

 この名前を聞いて王妃は身体を震わせ、伯爵はぎょっとして妻の身体を長椅子に降ろした。

 ちょうどこの時、鈴に呼ばれてやって来た使用人が入室した。

「用はありません」王妃は退がるように合図した。

 二人きりになった伯爵と王妃は目を交わした。アンドレの瞼がまた降りている。どうやら悪い徴候ではないか。

 シャルニー伯爵は膝を突いて、長椅子の上にアンドレを横たえた。

「ジルベールですか」王妃が繰り返した。「ジルベールという名を聞いたことは?」

「調べてみなくてはなりませんね」

「聞き覚えがあるような気がするんです。伯爵夫人の口からジルベールという名を聞いたのは初めてではないような気がします」

 ところが王妃に思い出されては困るとでもいうように、痙攣のさなかに火をつけられたように、アンドレは目を開いて腕を宙に伸ばし、懸命な努力をして身体を起こした。

 今度ははっきりとシャルニー伯爵に目を向け、それが誰なのかを認めて、穏やかな炎で伯爵を包み込んだ。

 そんな無意識の振舞に禁欲的な心が耐えかねたのか、アンドレは目を背けて王妃を見つけた。

 アンドレは慌てて頭を下げた。

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『アンジュ・ピトゥ』 24-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「陛下」ジルベールは感動していた。「そのようなお話を聞かせていただき感謝いたします。友人のように打ち明けて下さるとはもったいないお話しでございます」

「嬉しいぞ」気弱なルイ十六世はすかさず言った。「欧州中の人間がそのように言ってくれたらよいものを。フランスの人間が余の心を読んで、強さと優しさが詰まっていることに気づいてくれれば、反抗も減るだろうに」

 この最後の一言には特権階級らしい苛立ちが見て取れたため、ジルベールは内心でルイ十六世への評価を下げた。

 すぐさまジルベールは容赦ない一言を浴びせた。

「お望みとあらば申し上げます。私の師匠はカリオストロ伯爵です」

「何だと!」国王の顔が朱に染まった。「あのいかさま師empiriqueか!」

経験主義者empiriqueですか……確かにその通りです。陛下もご存じのように、お使いになったその言葉は、科学の分野においては最大の誉め言葉に当たります。経験主義者とは、新しいことに挑む人間のことです。思想家にとって、医者にとって、果ては人間にとって、新しいことに挑み続けることこそ、神から許されたもっとも気高く素晴らしい行為にほかなりません。生涯を通じて挑み続けることが出来れば、その人間の生涯は満たされたものとなりましょう」

「よいか、そなたがかばっているそのカリオストロという男は、王という王たちの敵なのだぞ」

 ジルベールは首飾り事件を思い浮かべた。

「王妃という王妃の、のお間違えではないですか?」

 痛いところを突かれて国王はぞっとした。

「そうだ。奴はルイ・ド・ロアン公の事件を裏で操っていた疑いがある。いや疑いではない」

「その事件でもカリオストロは人類として任務を果たしていたに過ぎません。誰かのために労を執っていたわけではないのです。科学的、道徳的、政治的には、善も悪もなく、ただ観察された事象と確定した事実があるだけです。それでもなお、カリオストロのことは陛下にお預けしましょう。仰る通りその男は非難されるようなことも散々して来ました――が、いつの日か、そうした非難が称讃に変わる日が来るはずです。時代が変われば人間の判断も見直されるでしょうから――それはともかく、私はその男の許で学んだわけではありません。私は哲学者の許で、科学者の許で学んで来たのです」

「わかった、わかった」国王は矜恃と心を共に傷つけられて血を流した。「伯爵夫人のことを忘れておるぞ。苦しんでいるのではないか」

「陛下がそう仰るのでしたら術を解きましょう。ですが小箱が到着するのは、伯爵夫人が眠りに就いている間にしていただきたいのです」

「それはまた何故だね?」

「あまり高い授業料を払わせるのは酷でしょう」

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 さて申し上げたように、一七八九年七月十四日から十五日にかけての夜には、ヴェルサイユ中が騒然としていた。フランス国王が如何にして王冠に為された侮辱を受け止め、如何にして権力につけられた傷に応えようとするのかに、関心が向けられていた。

 ドルー=ブレゼ(Dreux-Brézé)から伝えられた国王の返答を聞いて、ミラボーは王権にびんたを喰らわしていた。

 バスチーユが落ちたと知って、民衆は王権の心臓にがつんと喰らわした。

 それでもなお、度量が小さく視野の狭い人間には、これはすぐに決着のつく問題だった。とりわけ物事の結果を暴力による勝ち負けで見ることにしか慣れていない軍人の目には、パリを行進するというただそれだけで済む話であった。三万の人間と二十台の大砲を見れば、パリっ子たちの憤怒も陶酔もしぼんでしまうに違いない。

 王国にこれほどまでの数の助言者がいたことはかつてなく、誰もが憚ることなく大きな声をあげていた。

 穏健派は言った。「簡単なことだ」。おわかりのように我が国では、得てして難しい局面である時ほどこうした表現が用いられる。

「簡単なことじゃないか。国民議会から認可をもらい、拒むことが出来ぬようにすればいい。ここ最近の国民議会の様子なら安心できる。下から突き上げる暴力だけではなく、上から投げ落とされた悪習にも抗う姿勢を見せているではないか。

「叛乱は犯罪であると、国民議会なら宣言するだろう。議員がいるのは何のためだ? 市民が国王に訴えを届けるため、国王が市民の誤解を解くためではないのか。武器に頼って血を流すのは間違っている。

「国民議会からこうした宣言が出されさえすれば、国王も父親らしい厳しい態度でパリに罰を与えずとも済む。

「やがて嵐が去れば、王権は第一の権利を取り返し、国民は服従という義務を取り戻し、すべてはいつもの道をたどることになるはずだ」

 通常はこうして大通りの上で事態は収束する。

『アンジュ・ピトゥ』 21-7

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「そういうことでしたらお気をつけなさい。あなたは政治的陰謀の玩具だったんです。カリオストロ伯爵の話をしたことはありませんでしたか?」

「あります」

「お知り合いですか?」

「友人でした。友人というよりも師、師というより救世主です」

「そうですか。投獄を命じたのはオーストリアか教皇庁でしょう。パンフレットをお書きになったのでしょう?」

「ええ、その通りです」

「それですよ。あなたの身の上に起こったささやかな仕返しのどれもが元をたどれば王妃を指し示しているのです。羅針盤コンパスの針が北を指し、鉄が磁石に向かうように。密議の結果あなたは尾けられ、最終的に王妃がシャルニー夫人に封印状への署名を命じて、疑惑の芽が摘まれたのでしょう。これで謎などなくなりました」

 ジルベールは反芻してみた。

 思い出した。ピスルー(Pisseleux。ヴィレル=コトレにある村)のビヨの家から盗まれた小箱には、王妃やオーストリアや教皇庁の欲しがるようなものは何も入っていなかったのだ。危うく間違えるところだった。

「違うんです、そんなわけはない。でも構いません。別の話をしましょう」

「何の話を?」

「あなたの話です」

「私ですか? お話しするようなことがあるとは思えませんが?」

「誰よりもよくご存じじゃありませんか。三日も経たずにあなたは再任されるでしょうから、そうなればお好きなようにフランスを支配できるはずです」

「本気でそんなことを?」ネッケルは吹き出した。

「あなただって同じことを考えていたのでは。ブリュッセルに行かなかったのがその証拠です」

「いいでしょう。その結果は? 必要なのは結果だ」

「結果ですか。あなたは今フランス人に愛されていますが、すぐに崇拝されるようになるでしょう。王妃はあなたが愛されているのを見るのにうんざりしていますが、国王はあなたが崇拝されるのを見て苦々しく思うことになるはずです。あなたの努力が実って二人は支持されることになりますが、あなたはそれに耐えられなくなります。その頃あなたの方は支持が下がるでしょうね。民衆は飢えた狼なんです。餌をくれさえすればどんな手であろうと舐め回すものなんですよ」

「それからどうなる?」

「それからあなたは再び忘れられます」

「忘れられる?」

「ええ」

「なぜだ?」

「大きな出来事が起こるからです」

「何を言う。あなたは予言者なのか?」

「悲しいことに或る程度は」

「いったい何が起こると?」

「予言するのは難しくありません。現に議会には兆しが芽吹いているんですから。今は眠っていますが、いずれ或る党が立ち上がることでしょう。間違った。眠っちゃいません。起きているけど身を潜めているだけです。信念を旗印に、思想を武器に掲げて」

「わかりました。オルレアン党のことですね」

「はずれです。オルレアン党のことなら、人間を旗印に、人気を武器にしていると言いますとも。今まではその党の名前が口にされたことさえありません。共和党です」

風邪をひたので一週やすみます。

風邪をひたので一週やすみます。

今週はお休みします

今週はお休みです。あしからずご了承ください。

『アンジュ・ピトゥ』 10-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第十章 ピトゥの旅の終わり、即ちパリで起こったこと

 ダマルタンからパリまではまだ八里ある。前半の四里は難なく攻略したものの、ル・ブルジェ(Le Bourget)まで来たところでマルゴの足が遂にもたつき出し、ピトゥが長い足でけしかけてもどうにもならなかった。夜のとばりが降り始めていた。

 ラ・ヴィレット(La Villette)まで来ると、パリの辺りが輝いているように見える。

 地平線が赤く色づいていることにピトゥも気づいた。

「見えませんか? きっと軍隊が野営して火をたいているんです」

「軍隊だと?」

「こっちにはたくさんいるのに、どうしてあっちには行かないんだろう?」

 なるほどビヨが右手に目を凝らすと、サン=ドニ平原の闇の中を静かに歩く歩兵や騎兵の黒い影が見えた。

 星の微光を受けて時折り武器がきらめいている。

 夜中に森を歩き回っていたピトゥは夜目も利くので、ビヨに状況を報告した。ぬかるんだ土に大砲の車輪が埋まっているのが見える。

「そうか、向こうで何か起こっているんだな。よし、急ごう」

「向こうで火の手が上がりました」ピトゥがマルゴの上で首を伸ばした。「ほら! 光ったのが見えませんか?」

 ビヨがマルゴを止めて舗道に飛び降り、木陰で休んでいる青と黄の兵士たちに近づいた。

「やあ兄弟たち、パリで何が起こっているのか教えてもらえないだろうか?」

 だが兵士たちはドイツ語で何やら言い返すだけであった。

「何て言っているんだ?」ビヨがピトゥにたずねた。

「ラテン語ではありません」ピトゥの声は震えていた。「それだけは断言できます」

 ビヨはしばし考え込んだ。

「馬鹿だな! ドイツ野郎に話しかけるとは」

 何事なのかとそのまま道の真ん中に佇んでいると、将校が近づいて来た。

「ざっざとお行きなざい」

「それが大将、俺はパリに行きたいんだがね」

「ぞれで?」

「道の真ん中にあんたらがいたものだから、市門に行けないんじゃないかと思ってね」

「いけるとも」

 そこでビヨは馬に跨り市門に向かった。

 だが今度はベルシュニー(Bercheny)軽騎兵隊がラ・ヴィレットの道をふさいでいるのに出くわした。

 今回は質問するのがフランス人相手なのでさっきよりも上手くやれた。

「失礼ですが、パリで何が起こっているんですか?」

「パリっ子どもがネッケルを返せと言って、俺たちに向かって銃をぶっ放してるんだ。俺たちは関係ないだろうに」

「ネッケルを返せ? つまりネッケルを奪われたんですか?」

「ああ、国王が罷免したんだ」

「国王がネッケル氏を罷免しただって!」ビヨは愕然とした。まるで涜神的な言葉を吐いた信徒のようだ。「国王があの大人物を罷免した?」

「それだけじゃない。あの人はブリュッセルに向かってるんだ」

「笑うしかないな」ビヨが声をあげた。何百とない王党派が剣を佩いている真ん中で叛乱めいた言動をするにも躊躇がない。

 ビヨはマルゴの背に戻り、思い切り拍車を当てて市門に向かった。

 進むに連れて赤い火勢が増しているのが見えた。火柱が門から空まで立ち上っている。

 市門それ自体が燃えているのだ。

 群衆の怒号が聞こえる。男よりも女たちの声も混じっていた。建物の木っ端や入市税官吏の家具や事務用品が火の勢いを絶やさずにいた。

 路上ではハンガリーやドイツの軍隊が立て銃の姿勢で眉もひそめずこうした惨状を見つめていた。

 ビヨは炎の砦を前にしても立ち止まらなかった。火の中に馬をはっしと進めると、マルゴは果敢にも燃えさかる障害を飛び越えた。だが飛び越えた先の群衆を前にして立ち止まらざるを得なかった。街の中心部から外れまで引き寄せられた群衆の、ある者は歌い、ある者は「武器を取れ!」と叫んでいる。

 ビヨはすっかり素のままの、用事でパリにやって来た農夫そのものだった。恐らくビヨは「どいてくれ!」と怒鳴っていたのだが、ピトゥがその後から「どいて下さい! お願いします!」と丁寧に繰り返していたので、互いに補う形になっていた。ビヨの邪魔をするつもりの者などいなかったので、人垣が割れて道が出来た。

 マルゴも体力を取り戻していた。火の粉が皮膚を焦がし、いつにはない騒ぎにマルゴも怯えている。ビヨはビヨで戸口の前にいる群衆や戸口を離れて市門に駆け出してゆく群衆を踏みつぶしてしまわぬように、駆け出したい気持を抑えざるを得なかった。

 ビヨは何とか前に進み、大通りまでマルゴを右に左に操った。だが大通りまで来ると再び足止めを余儀なくされた。

 バスチーユから寄せて来た人波がガルド=ムーブルに歩みを進めていた。この当時、この二箇所はパリの周縁をつなぐベルトの留め金だった。

 大通りを埋め尽くしている群衆は一台の担架を先頭にして練り歩いている。担架の上には二つの胸像が乗せられていた。一つはヴェールで覆われ、一つは花で飾られている。

 ヴェールで覆われているのは、罷免されたうえに追放されたネッケルの胸像だ。花で飾られているのは、ジュネーヴの財務官に公然と味方していたドルレアン公の胸像だ。

 いったい何の行列なのかとビヨがたずねてみると、ネッケル氏と後援者ドルレアン公への民衆の敬意によるものだという言葉が返って来た。

 ビヨが生まれたのは一世紀半にわたってドルレアン公という名前に敬意が払われている土地であった。ビヨは哲学の学徒であったから、ネッケルのことを偉大な大臣であるに留まらず人類愛の使徒であると考えていた。

 ビヨの感情に火をつけるにはそれで充分だった。無意識に馬から飛び降り、「ドルレアン公万歳! ネッケル万歳!」と叫びながら人混みに加わった。

 ひとたび人混みに交われば個人の自由はなくなる。人は自由意思を持つのをやめ、群衆の望むことを望み、群衆の為すことを為すようになる。おまけにビヨが加わったのは行列の尻尾ではなく頭に近いところであったから、熱気に飲まれるのも容易かった。

 群衆は声を限りに叫んでいた。「ネッケル万歳! さらば外国人部隊! 打倒外国人部隊!」

 力強いビヨの声がその声に同調した。

 何であろうと優れたものは民衆に支持される。パリっ子たちの声は栄養失調のせいかワインの飲み過ぎのせいかは知らぬがか細くしゃがれていた。だから若々しさに満ちたよく響くビヨの声はパリっ子たちに認められた。場所を空けられて、ビヨは押しのけらも肘で突かれも押しつぶされもせずに、担架までたどり着くことが出来た。

 十分後には限界に来ていた担ぎ手がビヨに担架を譲った。

 ビヨはすぐさま担ぎ手に加わっていた。

 昨夜まではジルベール医師のパンフレットを布教するだけの人間に過ぎなかったというのに、翌日にはネッケルとドルレアン公勝利の立役者の列に並んでいるのだ。

 だがそんな身分に収まった途端に考えたことがある。

 ピトゥはどうなった? マルゴはどうなった?

 担架を運びながら振り返ると、行列を照らしている松明の光と、窓を照らす紙提灯の明かりを通して、行列の真ん中辺りで五、六人の塊が声をあげて動き回っているのが見えた。

 その中心にピトゥの声と長い腕を認めるのは容易かった。

 ピトゥはマルゴを必死に守ろうとしていたが、努力の甲斐なくとうとう押し切られた。もはやマルゴの背にはビヨとピトゥという大事な荷物は見えない。

 マルゴは乗せられるだけの荷物を、背、尻、首、き甲に乗せていた。

 夜の闇はあらゆるものを幻の如く大きく見せる。マルゴの姿は幾多の狩人を乗せて虎狩りに赴く象のようであった。

 マルゴの背に乗った五、六人の男たちが昂奮して叫び始めた。「ネッケル万歳! ドルレアン公万歳! 打倒外国人部隊!」

「マルゴが潰れちゃいます」というのがピトゥの返事だった。

 狂瀾が広がっていた。

 すぐにビヨはピトゥとマルゴを助けに行こうとした。だがひとたび担架の持ち手を離してしまったら、もう二度とそうした名誉を担うことは出来ないのではないかと考え直した。よくよく考えてみれば、ルフラン親父との物々交換によってカデとマルゴを交換したのだから、マルゴは自分のものであり、たといマルゴに何か起ころうとも、三、四百リーヴルの問題で済む。ビヨの経済力があれば、祖国のために三、四百リーヴルを犠牲にするくらいは何でもない。

 そうこうしているうちにも行列は進み、左に折れ、モンマルトル街を通ってヴィクトワール広場まで下っていた。パレ=ロワイヤルにまで来ると人でごった返して前に進めなくなった。帽子に緑の葉をつけた人々が叫んでいる。「武器を取れ!」

 見極めなくてはならない。ヴィヴィエンヌ街を塞いでいるのは敵か味方か? 緑はダルトワ伯の色だ。なぜ緑の徽章を?

 すぐに合点が行った。

 ネッケルの罷免を聞いた若者がカフェ・フォワから出て来て、テーブルに上り、拳銃を手に「武器を取れ!」と叫んでいるのだ。

 パレを歩いていた人々がその声を聞いて「武器を取れ!」と唱和して集まっていた。

 外国の軍隊がパリを囲んでいることは既に述べた。オーストリアの侵攻ではないのか? フランス人の耳には軍人たちの名が怪物のように聞こえた。ライナッハ、サリス=サマード、ディースバッハ、エスターハツィー、レーマー。それが敵の名だと群衆に理解させるには、その名を呼ぶだけで充分だった。若者は敵の名を数え上げた。シャン=ゼリゼーに野営しているスイス人が、大砲を四台曳いて、ランベスク公の騎兵隊に先んじて今夜パリにやって来る、と訴えた。新しい徽章を作ることを呼びかけ、マロニエの葉を千切って帽子につけた。すぐに聴衆がそれに倣った。十分後には三千人の人々によってパレ=ロワイヤルの木々が裸にされていた。

 朝には誰にも知られていなかった若者の名が、夜には人々の口に上っていた。

 若者の名はカミーユ・デムーランといった。

 味方を見極めた人々は抱擁を交わして、道を進んだ。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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