アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
第十章 ピトゥの旅の終わり、即ちパリで起こったこと
ダマルタンからパリまではまだ八里ある。前半の四里は難なく攻略したものの、ル・ブルジェ(Le Bourget)まで来たところでマルゴの足が遂にもたつき出し、ピトゥが長い足でけしかけてもどうにもならなかった。夜のとばりが降り始めていた。
ラ・ヴィレット(La Villette)まで来ると、パリの辺りが輝いているように見える。
地平線が赤く色づいていることにピトゥも気づいた。
「見えませんか? きっと軍隊が野営して火をたいているんです」
「軍隊だと?」
「こっちにはたくさんいるのに、どうしてあっちには行かないんだろう?」
なるほどビヨが右手に目を凝らすと、サン=ドニ平原の闇の中を静かに歩く歩兵や騎兵の黒い影が見えた。
星の微光を受けて時折り武器がきらめいている。
夜中に森を歩き回っていたピトゥは夜目も利くので、ビヨに状況を報告した。ぬかるんだ土に大砲の車輪が埋まっているのが見える。
「そうか、向こうで何か起こっているんだな。よし、急ごう」
「向こうで火の手が上がりました」ピトゥがマルゴの上で首を伸ばした。「ほら! 光ったのが見えませんか?」
ビヨがマルゴを止めて舗道に飛び降り、木陰で休んでいる青と黄の兵士たちに近づいた。
「やあ兄弟たち、パリで何が起こっているのか教えてもらえないだろうか?」
だが兵士たちはドイツ語で何やら言い返すだけであった。
「何て言っているんだ?」ビヨがピトゥにたずねた。
「ラテン語ではありません」ピトゥの声は震えていた。「それだけは断言できます」
ビヨはしばし考え込んだ。
「馬鹿だな! ドイツ野郎に話しかけるとは」
何事なのかとそのまま道の真ん中に佇んでいると、将校が近づいて来た。
「ざっざとお行きなざい」
「それが大将、俺はパリに行きたいんだがね」
「ぞれで?」
「道の真ん中にあんたらがいたものだから、市門に行けないんじゃないかと思ってね」
「いけるとも」
そこでビヨは馬に跨り市門に向かった。
だが今度はベルシュニー(Bercheny)軽騎兵隊がラ・ヴィレットの道をふさいでいるのに出くわした。
今回は質問するのがフランス人相手なのでさっきよりも上手くやれた。
「失礼ですが、パリで何が起こっているんですか?」
「パリっ子どもがネッケルを返せと言って、俺たちに向かって銃をぶっ放してるんだ。俺たちは関係ないだろうに」
「ネッケルを返せ? つまりネッケルを奪われたんですか?」
「ああ、国王が罷免したんだ」
「国王がネッケル氏を罷免しただって!」ビヨは愕然とした。まるで涜神的な言葉を吐いた信徒のようだ。「国王があの大人物を罷免した?」
「それだけじゃない。あの人はブリュッセルに向かってるんだ」
「笑うしかないな」ビヨが声をあげた。何百とない王党派が剣を佩いている真ん中で叛乱めいた言動をするにも躊躇がない。
ビヨはマルゴの背に戻り、思い切り拍車を当てて市門に向かった。
進むに連れて赤い火勢が増しているのが見えた。火柱が門から空まで立ち上っている。
市門それ自体が燃えているのだ。
群衆の怒号が聞こえる。男よりも女たちの声も混じっていた。建物の木っ端や入市税官吏の家具や事務用品が火の勢いを絶やさずにいた。
路上ではハンガリーやドイツの軍隊が立て銃の姿勢で眉もひそめずこうした惨状を見つめていた。
ビヨは炎の砦を前にしても立ち止まらなかった。火の中に馬をはっしと進めると、マルゴは果敢にも燃えさかる障害を飛び越えた。だが飛び越えた先の群衆を前にして立ち止まらざるを得なかった。街の中心部から外れまで引き寄せられた群衆の、ある者は歌い、ある者は「武器を取れ!」と叫んでいる。
ビヨはすっかり素のままの、用事でパリにやって来た農夫そのものだった。恐らくビヨは「どいてくれ!」と怒鳴っていたのだが、ピトゥがその後から「どいて下さい! お願いします!」と丁寧に繰り返していたので、互いに補う形になっていた。ビヨの邪魔をするつもりの者などいなかったので、人垣が割れて道が出来た。
マルゴも体力を取り戻していた。火の粉が皮膚を焦がし、いつにはない騒ぎにマルゴも怯えている。ビヨはビヨで戸口の前にいる群衆や戸口を離れて市門に駆け出してゆく群衆を踏みつぶしてしまわぬように、駆け出したい気持を抑えざるを得なかった。
ビヨは何とか前に進み、大通りまでマルゴを右に左に操った。だが大通りまで来ると再び足止めを余儀なくされた。
バスチーユから寄せて来た人波がガルド=ムーブルに歩みを進めていた。この当時、この二箇所はパリの周縁をつなぐベルトの留め金だった。
大通りを埋め尽くしている群衆は一台の担架を先頭にして練り歩いている。担架の上には二つの胸像が乗せられていた。一つはヴェールで覆われ、一つは花で飾られている。
ヴェールで覆われているのは、罷免されたうえに追放されたネッケルの胸像だ。花で飾られているのは、ジュネーヴの財務官に公然と味方していたドルレアン公の胸像だ。
いったい何の行列なのかとビヨがたずねてみると、ネッケル氏と後援者ドルレアン公への民衆の敬意によるものだという言葉が返って来た。
ビヨが生まれたのは一世紀半にわたってドルレアン公という名前に敬意が払われている土地であった。ビヨは哲学の学徒であったから、ネッケルのことを偉大な大臣であるに留まらず人類愛の使徒であると考えていた。
ビヨの感情に火をつけるにはそれで充分だった。無意識に馬から飛び降り、「ドルレアン公万歳! ネッケル万歳!」と叫びながら人混みに加わった。
ひとたび人混みに交われば個人の自由はなくなる。人は自由意思を持つのをやめ、群衆の望むことを望み、群衆の為すことを為すようになる。おまけにビヨが加わったのは行列の尻尾ではなく頭に近いところであったから、熱気に飲まれるのも容易かった。
群衆は声を限りに叫んでいた。「ネッケル万歳! さらば外国人部隊! 打倒外国人部隊!」
力強いビヨの声がその声に同調した。
何であろうと優れたものは民衆に支持される。パリっ子たちの声は栄養失調のせいかワインの飲み過ぎのせいかは知らぬがか細くしゃがれていた。だから若々しさに満ちたよく響くビヨの声はパリっ子たちに認められた。場所を空けられて、ビヨは押しのけらも肘で突かれも押しつぶされもせずに、担架までたどり着くことが出来た。
十分後には限界に来ていた担ぎ手がビヨに担架を譲った。
ビヨはすぐさま担ぎ手に加わっていた。
昨夜まではジルベール医師のパンフレットを布教するだけの人間に過ぎなかったというのに、翌日にはネッケルとドルレアン公勝利の立役者の列に並んでいるのだ。
だがそんな身分に収まった途端に考えたことがある。
ピトゥはどうなった? マルゴはどうなった?
担架を運びながら振り返ると、行列を照らしている松明の光と、窓を照らす紙提灯の明かりを通して、行列の真ん中辺りで五、六人の塊が声をあげて動き回っているのが見えた。
その中心にピトゥの声と長い腕を認めるのは容易かった。
ピトゥはマルゴを必死に守ろうとしていたが、努力の甲斐なくとうとう押し切られた。もはやマルゴの背にはビヨとピトゥという大事な荷物は見えない。
マルゴは乗せられるだけの荷物を、背、尻、首、き甲に乗せていた。
夜の闇はあらゆるものを幻の如く大きく見せる。マルゴの姿は幾多の狩人を乗せて虎狩りに赴く象のようであった。
マルゴの背に乗った五、六人の男たちが昂奮して叫び始めた。「ネッケル万歳! ドルレアン公万歳! 打倒外国人部隊!」
「マルゴが潰れちゃいます」というのがピトゥの返事だった。
狂瀾が広がっていた。
すぐにビヨはピトゥとマルゴを助けに行こうとした。だがひとたび担架の持ち手を離してしまったら、もう二度とそうした名誉を担うことは出来ないのではないかと考え直した。よくよく考えてみれば、ルフラン親父との物々交換によってカデとマルゴを交換したのだから、マルゴは自分のものであり、たといマルゴに何か起ころうとも、三、四百リーヴルの問題で済む。ビヨの経済力があれば、祖国のために三、四百リーヴルを犠牲にするくらいは何でもない。
そうこうしているうちにも行列は進み、左に折れ、モンマルトル街を通ってヴィクトワール広場まで下っていた。パレ=ロワイヤルにまで来ると人でごった返して前に進めなくなった。帽子に緑の葉をつけた人々が叫んでいる。「武器を取れ!」
見極めなくてはならない。ヴィヴィエンヌ街を塞いでいるのは敵か味方か? 緑はダルトワ伯の色だ。なぜ緑の徽章を?
すぐに合点が行った。
ネッケルの罷免を聞いた若者がカフェ・フォワから出て来て、テーブルに上り、拳銃を手に「武器を取れ!」と叫んでいるのだ。
パレを歩いていた人々がその声を聞いて「武器を取れ!」と唱和して集まっていた。
外国の軍隊がパリを囲んでいることは既に述べた。オーストリアの侵攻ではないのか? フランス人の耳には軍人たちの名が怪物のように聞こえた。ライナッハ、サリス=サマード、ディースバッハ、エスターハツィー、レーマー。それが敵の名だと群衆に理解させるには、その名を呼ぶだけで充分だった。若者は敵の名を数え上げた。シャン=ゼリゼーに野営しているスイス人が、大砲を四台曳いて、ランベスク公の騎兵隊に先んじて今夜パリにやって来る、と訴えた。新しい徽章を作ることを呼びかけ、マロニエの葉を千切って帽子につけた。すぐに聴衆がそれに倣った。十分後には三千人の人々によってパレ=ロワイヤルの木々が裸にされていた。
朝には誰にも知られていなかった若者の名が、夜には人々の口に上っていた。
若者の名はカミーユ・デムーランといった。
味方を見極めた人々は抱擁を交わして、道を進んだ。