翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

「さあこい、マクダフ!」第13章 シャーロット・アームストロング

第十三章

 J・Jとわたしはタクシーの道中ずっと手を取り合ってぺちゃくちゃしゃべり楽しんでいた。少なくともわたしは楽しかったし、J・Jもそうだと思っていた。ヒューは一言も口を利くことはなかった。その機会もなかったのだ。わたしは申し訳なく思い、ヒューのそばでむっつり心を閉ざし、不安に駆られて押し黙った。J・Jが明るく寛大な人だったので、怯えて身をすり減らし感情的にならないヒューが、相対的に堅苦しく生真面目に見えてしまう。もちろんJ・Jは音を立てて爆ぜる火花だったし、わたしは家から逃げ出すつもりも隠れるつもりも安全圏にいるつもりもすべてを失うつもりも断じてなかった。J・Jの落ち着きのたまものだ。彼に言わせるとわたしの落ち着きの問題だそうだが。わたしたちはあれこれ言い合った挙句、話のまとまらないないまま伯父の家に到着した。

 エファンズがドアを開けてくれるまで、ヒューはわたしたちから少し離れて立っていた。邸内になだれ込むと、J・Jとわたしは不意に黙り込んでしまった。この家に入ると幸せなやり取りもふっとんでしまうのだろうか……三人とも気が塞いでしまった。押し黙ったまま中に入ると、リビングから話し声がはっきりと聞こえてきた。

「ライナ……ねえ……」請うような口調。「まずいのはわかってるだろう?」

 ライナの声にはうんざりしたような響きがあった。「そんな言い方やめて、ガイ。何になるの――」

 エファンズが雷の如き咳払いをした。「エリザベスさま!」うわべだけ快活な、忠誠心あふれる大声。「ライナさまがお探しでした! ヒューさまのこともでございます!」わたしたちは何も言わなかった。

 ライナの声がためらいがちに途切れ、結局こう結ばれた。「あなたのことなんて信用してないのに」

 急ぎ足の足音が聞こえ、ライナが戸口に現れた。淡いリーフ柄のドレスと、大きな白い襟飾り。百二十五ドルあればミシンで即日仕上げてくれるようなタイプ。十七歳にだって見えた。きらびやかな金のイヤリングと地味なドレスの豪華な細工さえなければ。目はまっすぐにJ・Jに向けられていた。「あら、ジョーンズさん! よくお越しくださいました」

「そうですか?」J・Jの声が不自然にうわずっている。

「ええ。みなさんどうぞお入りになって。ガイ、こちらはジョーンズさん」ライナはくるりと振り返り、彼らがもごもごと挨拶しているのをさえぎった。「ガイが教えてくれたんです。また別のパチーシの駒が、ギャスケルさんの死亡現場から見つかったんですってね。どなたか教えてくださらない? 本当のことなんですか?」

「間違いありません」J・Jの声はもとに戻っていた。聞くとほっとする。「少なくとも――」

 ヒューが口を挟んだ。「本当です。この目で見ました」

 ライナは下唇を噛みしめた。

「君に嘘はつかないよ、ライナ」ガイは二人称代名詞にかすかなアクセントを置いていた。「どうだい?」

「ジョーンズさん」ライナの声には決意がこもっていた。「マクドゥガル・ダフと連絡を取ることはできますか?」

「大丈夫でしょう」J・Jは続きを待った。

「それじゃあ聞いてもらえますか。ここにいらっしゃるよう頼んでほしいんです」

「何のためなのさ、ライナ?」ガイがたずねた。「どうしてそんなこと……?」

「どうして? はっきりさせたいからに決まってるじゃない」冷やかにわたしたちを見つめていた。「チャールズは罠にはめられたってことを」

「罠にはめられたですって!」ヒューだった。驚きの声をあげた。「何があったにせよチャールズに限ってそれはありませんよ」

 ライナが頭ごなしに噛みついた。「ほかにどんな説明があるの? わかってるの?」

 ヒューがわかっていたにしろわからなかったにしろ、わたしにはわかった。きっとそうだ。ライナは知っている、気になっている【疑っている】、不安を覚えてもいる。何かせずにはいられないのだ。彼の安否に不安を覚えていると言い張るつもりなのだろう【不安なのは彼の安否だとごまかすつもりなのだろう】。そうでなければわざわざマク・ダフに頼んだりはしまい。その実、マク・ダフが真実を見つけ出すと信じているのだ。真実の真相を。なんて頭がいいんだろう。悲しいくらいに頭がよかった!

「そういうことなら『マックス』から帰ってしまう前に電話した方がいいな」J・Jが言った。おそらくこれで問題は解決する。「それでいいんですね?」

「お願いします」ライナは冷やかに答えた。「電話はここにありますから」

 J・Jが部屋を横切って電話に向かうと、ライナが疑問を口にした。「本当のことを教えて。パチーシの駒だけじゃないんでしょう? ベッシー、マク・ダフが昨日やって来たのはなぜなの? だってもし……もし違うのなら」ここで口ごもった。

「お願いライナ」わたしはいつでも叫び出していただろう。「わたし怖かったの。ヒューも……わたしたち……J・Jも……みんな……マク・ダフも知ってる」

「聞かせてほしいの」穏やかな非難。「お願いだから教えて」

「ベッシーが何を聞かせてくれるというのだ?」

 当の本人だった。駱駝毛のコートを来たその人、頬の傷、伯父の両目があった。ライナは素早く果敢に頭を上げた。「殺人事件の話をしていたの、チャールズ。あなたが疑われているって考えたことはあって?」

「無論だ」伯父が答えた。戸口にいるとますます大きく堂々と見えた。

「考えたくもない」投げ遣りな口調。「マクドゥガル・ダフがここに来た理由を聞いていたの」伯父のはねた眉が心持ち下がった。「ベッシー――この青年の――誰かがマク・ダフの知り合いなんですって。チャールズ、協力が必要よ。こんなの……ほっとくわけにはいかないじゃない!」

 伯父が穏やかに答えた。「わたしなら自分で身を守れるよ」

「今度はだめ」ライナが声をあげた。「もうだめよ。二人が死んだあとでまだそんなことを。次はあなたかも……」

「死体が雨あられと降り注ぐとでも?」内心では可笑しくて笑い転げていたのかもしれない。「いいだろう」と大きな肩をすくめた。「それで気が済むのなら。あとでここに来てもらうといい」

「ありがとう、チャールズ」と言ってからライナは、話を中断して受話器を持ったまま待機していたJ・Jに話しかけた。「夕食のあとで」

「なるほど、おもてなしせねばなるまいな」伯父はライナに向かってわずかに頭を下げさえした。「九時でいいかね? 七時まではオフィスにいる予定だ」

「ありがとう」ライナの目は伯父の顔に注がれていた。

「そのあいだはわたしも安全だろう」伯父の柔らかな声に、わたしの背筋に震えが走った。「心配することはない」

「心配」という言葉が出るとは! 立派なコートを着てここに立っている、大きく力強く鋭く自信たっぷりな伯父は、身の安全を心配することとは世界で一番縁遠い人物だったし、本人もそれは自覚していたはずだ。「いいね?」伯父が喉を鳴らした。「それから、七時までだ」

 ライナも繰り返した。「七時までね」興奮も去り、力の抜けた声だった。ライナは椅子に腰を下ろし、両目に拳を当てた。マクソンがうなり声をあげてマントルピースに歩き始めた。ヒューは両手を見下ろしていた。J・Jが話している。「九時で大丈夫ですか、マック? カスカートさんはそう言ってます。ええ、もう行っちゃいました……オフィスに。問題ありませんね。よしきた、わかりました」

 J・Jがわたしの隣にやって来て、「万事オーケーです」と肩越しにライナに声をかけたが、ライナはぴくりともしなかった。「よしベッシー、マックが呼んでるんだ」緑色の瞳が澄みわたり、わたしの心を読もうとしていた。

「部屋に戻って待っ、待ってる」

 ささやくように声をかけられた。「もう全部知られてるけど、いいかい、間違っちゃだめだ。戸締まりはしっかりしてくれるね。約束だ。そしてスーツケースに荷造りを」わたしはうなずいた。「すぐ戻ってくるよ」

「マク・ダフも?」

「それより先に」と言うと顔を近づけた。「それじゃあ、ベッシー。また戻る」そうして頬にそっとキスをして、耳元でささやいた。「七時を過ぎたらうろちょろしているから、ときどき窓から外を見てくれるかい」

 J・Jが行ってしまうと、ヒューも階上に退がりたがるそぶりを見せたけれど、ライナが引き留めていた。きっとわたしも引き留められていただろうけれど、とっくに立ち去っていた。三階に舞い戻り、今度は椅子を二脚使ってできるかぎりしっかりと鍵を締め、窓にもすべて錠を下ろしてから、顔にコールド・クリームを塗り、靴を脱いで、服を着たまま眠りに落ちた。

 目が覚めると薄暗かった。目が覚めたのはなぜだったのだろう。六時半過ぎだった。チャールズ伯父さんが部屋に戻る予定まであと三十分たらずだ。まだ戻っていなければの話だけど。わたしたち、J・Jとわたしが伯父の言葉を鵜呑みにしたのはなぜなんだろう。これじゃあまるで、伯父が好きな時間に自宅に戻ることができないみたい。戻ることもできなければ戻る可能性もないと言うつもりだったみたい。わたしはベッドから抜け出して裏手の窓から身を乗り出した。真下の部屋に明かりがついているかどうかは見えなかった。わからない。何も聞こえもしなかった。けれどずっと下の方から明かりがぼんやりと煉瓦を照らしている。わたしは暗闇で身震いすると、ランプに手を伸ばした。

 スイッチを入れた瞬間、中庭で何かが動いた。見られている? 丸見えのはずだ。床に膝をついて、窓敷居の下まで這っていけないだろうか。そのあいだも目は離さずにいた。

 男は薄明かりに向かって移動していた。はためいたコートの、ラグラン型の袖と襟にようやく気づいた。それが上下している。帽子を取って暗闇に突き出し、わたしに振って見せた。馬鹿みたいに振り回しているのを見ると、伯父はまだ帰宅していないのだろう。さもなきゃJ・Jだってあそこに立ってあんなふうに帽子を振り回したりはしないはずだ。

 目を惹くつもりなのか、突然両手をあげた。何かを伝えようとしているらしい。わたしは座り込んだ。J・Jは太腿を叩いている。足を上げて指さしている。

 足だ。マク・ダフの足代わり。わたしはなるべく大きくうなずきを送った。

 次にJ・Jは椅子に座ったように膝を曲げると、見えないハンドルを回し始めた。ハンドルの操作を繰り返す。片側に帽子を引っ張るように、頭を引っ張る(掻きむしる)しぐさをした。唾を吐いた。また何度もハンドルを動かす。

 車だ。何か車のこと。わたしはうなずいた。ただし控えめに。

 J・Jは身体を伸ばして困ったように辺りを見回した。それからまた膝を曲げて、片手でおかしな動きをしながらハンドルを動かすしぐさをした。まったくわからないので首を横に振った。J・Jは降参したように大げさに肩をすくめるや、自分の手を指さした。目を凝らしたところでは小指を差している。その指を高く上げて揺らしながら指さすと、激しく首を振り否定のしぐさをした。

 伯父だ。伯父、ではない。伯父は、違う。伯父は、していない。伯父、ではなかった。何か伯父と否定に関することなのだ。

 けれどわたしは肩をすくめた。

 するとJ・Jは両手を差し出し指で二つの丸を作ると、双眼鏡のように目に当て、食堂の窓の方に顔を向けた。食堂の窓を指さすと、もう一度双眼鏡のしぐさをし、力強く自分の胸を指さした。それからものを食べるしぐさをすると、ふたたびすべてを繰り返した。

 わたしは手を叩いた。音を出そうとしたわけではなく、ジェスチャーで。夕食のあいだも見張ってくれるということなのだろう。うれしかった。

 するとJ・Jは両手を合わせて胸を張った。

 わたしも胸を張る。

 ドアに音がした。振り返って誰何する。エレンだった。わたしは振り返ってみたけれど、J・Jはすでに深まる闇に溶け込んでいた。

 エレンが来たのはドレスの着付けを手伝ってくれるためだったので、そうしてもらうことにした。J・Jがいるのはわかっていたから、着替えのあいだは部屋の奥から出ないようにしていたけれど、ブラインドを完全に降ろして明かりを閉ざしてしまう気にはなれなかった。たぶんライナがエレンをよこしてくれたのだと思う。なにしろわたし一人では卒業式のガウンさえ自分で着られなかっただろう。素敵なドレスなのだ。故郷のコックスさんが『ヴォーグ』の型から作ってくれたものだ。スカートの衣擦れを聞くのも、十六のゴアも、コックスさんが始終文句を言っていたどの縫い目も大好きだった。もとは白かったが、卒業式のあとで染めていたので今は淡い薔薇色だった。コールド・クリームも仮眠も、顔を傷めたりはしていなかった。もういつでも伯父と食事を取れる気分だ。着替えが終わると、髪に薄紅色のサテンの薔薇を一房をつけた。ちょっと大仰な気もする。

「とてもお美しいですよ、エリザベスさま。お母さまもお綺麗な方だったんでしょう?」

「ええ」寂しさがこみ上げた。「とてもきれいだった」

「お嬢さまもお綺麗でございますよ」力強くそう言ってくれた。「口紅もつけてごらんなさい」わたしは一本も持っていなかったので、エレンがこっそり貸してくれた。

 ドレスで盛装するには確かに助けがいる。わたしが自分のことを――つまり――高貴だとか何だとか考えていたとしたら、やはりお金持ちの男性と結婚して四六時中きれいに着飾りたいと思うものなのだろうか。それはともかく衣擦れの音を立てて部屋を出ると、ホールから吹き抜けを物憂げに見下ろしているライナがいた。可哀相。家の裏にJ・Jがいてくれてほっとした。たとえ金曜までは二十九ドル九十三セントしか持っていなくたっていい。ライナは黒いシフォン・ドレスを着ていた。深いカットに、てらいのない無地の服。きれいで可愛くて悲しげに見えた。一緒に階段を降りながら、一瞬だけ、髪から薔薇を取ってしまいたくなった。

 パーティーに行くわけではなく、階下で食事を取るだけなのだと思うと可笑しかった。ヒューはどこにも見あたらない。招かれていないのだろうか。階段のふもとで一緒になったチャールズ伯父さんに連れられ食堂に向かうと、テーブルの片端を三人で囲んだ。ライナが向こう、わたしがその反対側。夕食を取るのがびくびくだったのだけれど、楽しめるようになっていた。第一に、外にJ・Jがいるとわかっていたから、そのおかげで独りぼっちで豪華なあれこれと向き合っているわけではないという気持になれた。第二に、盛装したりといったあれこれが原因で、伯母と伯父にしてみれば姪と食事をしているのは当たり前なのだと思ってみたりもしたし、この特殊な家だってわりと普通なのだとひとたび感じてしまえば途端に楽しくなれた。今回のエファンズはさっそうと給仕をしていた。うれしそうなのがわかる。その場に主人夫妻がいて、仕事ぶりを見てもらうのがうれしいのだ。

 そのうえ、伯父は機嫌が良かった。人間味もあった。大きくなったわたしを見るように話しかけ、大事なことのようにわたしを話題にし、わたしが喜ぶような魅力的な話をたくさんしてくれた。映画館についての内部情報にはもちろんわくわくした。伯父は言葉でわたしを虜にしてしまった。それに気がつくまでに、無意識のままにとりとめのない話を続けていた。伯父が殺人者かもしれないなんてことは忘れかけていた。打ち解けるような、好きになってしまいそうな、それでいてすべては伯父にそう仕向けられたのではという不安もぬぐえない、不思議な気持だった。

 ライナはきれいで優しかったし、ところどころで打つ相づちもかわいかったけれど、別人だった。わたしと二人きりのライナとは、同じではない。微妙に違う。

 わたしたちは女優の話をしていた。きれいな人たち。「でもライナはすごくきれい。女優よりもずっときれい」

 伯父がはねた眉を心持ち上げた。「そうだな」と素っ気なく言った。「ライナはたいそう綺麗だ」

 ライナが喉をごくりと動かした。目を伏せたまま静かに座っていたけれど、それが見えた。「しかし」伯父が話を続けた。「ライナが舞台に立ちたがっているとは知らなかった。それともそうなのか?」伯父の声は瑞々しい好奇心にあふれていた。今までほんとうにそんなことを一度も考えたことがなかったのだろうか。

「女優なんて無理よ」ライナは目を伏せたまま控えめに答えた。

 伯父は微笑んだ。秘密を知ったときのような、一瞬の笑み。「ではベッシーなら……? この子はたいそう可愛い」

「かわいいなんてとんでもありません。そんなこと! わたしそんなに……」ちょうどそのときライナの目が、振り向きかけた伯父の顔を見つめているのに気づいた……そう、苦悶と言うべきだろうか……その目には苦悶があった。わたしは急いで目をそらした。

 突然ライナが明るい声を出した。「ベッシーはかわいいわ。でしょ、チャールズ?」違和感の原因がわかった。ライナは演技している。チャールズ伯父さんがそばにいるとそうなるのだ。別人になるのはいつも、伯父がそばにいるときだ。

「それにね、将来はきっと美人になると思う!」そう言うと今度は、こともあろうにJ・J・ジョーンズのことでからかい始めた。わたしが知ったことすべてがJ・Jに筒抜けだったかと思うと、狼狽のあまりそれ以外のことは考えられなくなってしまった。

 チャールズ伯父さんは話には加わらず、口を閉じてしまった。ちょうどそのときエファンズがコーヒーを持ってきた。コーヒーが出されたところで伯父がぴしゃりと告げた。「エファンズ、ブラインドを降ろしてくれ」

 エファンズがブラインドをばさりと降ろし、窓にカーテンをかけてしまうと、途端に心細くなった。コーヒー・カップを口唇につけたまま降ろすことが出来なかった。それでもチャールズ伯父さんを見なくてはならない。見つめられているからだ。それはわかっていた。

「夜中にコーヒーを飲んでもかまわないかね?」穏やかな声。「眠れなくならないか?」

 冷たい視線はわたしを離れた。「おまえの頼んだ探偵がもうすぐやって来る」と冷やかにライナに告げた。「階上に行こうではないか」そうして先頭に立って食堂から出ていった。食事中にあった和やかな親睦の泡沫は、ぐちゃぐちゃにされたクリスマスの飾りのように、はじけて消えて打ち捨てられた。

 ライナとわたしは一言も言葉を交わさなかった。ただ伯父について階上に向かった。図書室にはガイ・マクソンとヒューがいて、ヒューは暖炉のそばで爪を噛み、ガイは雑誌越しに軽蔑したような目を送っていた。嵐の前の積雲のように、ふたたび空気が不穏に包まれた。伯父がなかに入ると、二人が立ち上がった。三人とも背が高く、不安と敵意を帯びている。ライナは迷子のように戸口に立ちすくんでいた。三人がこちらを見た。伯父は腹を立てているようだ。階下でベルが鳴った。

 どんなものでもいい。マク・ダフと伯父の対面を見てみたかった。きっと、脅威的な力と確固たる肉体のぶつかり合いになるはずだ。実現したときに結果がどうなるのか、はっきりと答えられる人などいないだろう。なのにわたしが求めていたのは、きらきらと輝くJ・Jの緑の瞳と軽やかな手の温もりだった。

「車のことだとはわかったんだけど」わたしはささやいた。「でも頭の回転が悪くて」

「タクシー・ドライバーだよ。唾を吐いたのは見えなかったかい?」

「見えたけど――」

「気にするな」

「大事なことだった?」

「それはわからない」

「外にいてくれて心強かった」

「ここにいてってことだろ?」

「外と言ったのだ」伯父が口を挟んだ。「君の命令かね、ダフ。今夜、家の裏で見張らせていたのは?」

「違いますな」ダフは動じず、焦りも不安も苦闘もくたくたにしおれるような、深い(?)平静を保っていた。惑いのない人間には何もできない。その平静を破ろうとして伯父の力が衝動的に波打ち、次いで戦略的退却を受け入れた。

「知っていたはずだ」非難の響きはなかった。

「さようですな」

「どうやって」愛想よくと言っていい口調で、今度はJ・Jにたずねた。「なかに入ったのだ?」

「ぼくが巡回中の警官を知っていて、警官はダフを知っていて、ミセス・アトウォーターは警官を知っていたんですよ。人のつながりというやつですかね」J・Jが楽しげに答えた。「ずいぶん楽しそうな食事でしたよ」

 伯父は笑い出した。「殺人犯でも見えたかね?」

「どうでしょうね。見えたかもしれません」

 ライナが慌てて口を挟んだ。「ダフさん、夫は事件の容疑者なんでしょう? 何か起こる前に助けてほしいんです……あなたに依頼しようと思ってます」

 マク・ダフは目に見えぬ程度に頭を下げた。

「うむ、そうだ。そのために集まったのだ」伯父が言った。「ウィンベリーとギャスケルの殺害犯をきみが見つけ出してくれることを、妻は期待している。請求書はわたしに送ってくれればいい」

 息を呑む音だけが宙に漂った。声を出すものは誰一人いなかったが、誰もがそうしたかったはずだ。

 ダフが口を開いた。「状況をご理解いただいておるのでしょうか」

「無論」口は引き結ばれていたのに、伯父はあざ笑っているようにも見えた。

「よいでしょう」ダフは穏やかに答えた。「ここには一堂揃っておるようですな」

 ダフが暖炉に斜めになるよう椅子に座り、伯父もその向いに同じように座った。J・Jとわたしはダフの右隣のソファ。ライナとマクソンは伯父の左側に。ヒューがマクソンとわたしのあいだで人の輪を閉じた。準備は整った。

 ガイ・マクソンが気難しげな声を出した。「さあこい、マクダフ。待ったの声を初めにあげた奴が地獄に堕ちるのだ!

 J・Jの手が発作的にわたしの手に重ねられた。ダフの長い顔がますます長くなる。嫌気を抑え、滑稽にも味気ない苦難に耐えている様子がひどくおどけて見えたので、わたしはもう少しで声をあげて笑ってしまうところだった。

「痛み入りますな、マクソンさん。しかしそこは『奴こそ』のはずですぞ」

 暖炉の薪が崩れ、人が「しーっ」と声を漏らすような音を立てた。誰一人音を立てなかった。

 

 今週は翻訳がはかどったので二章分進みました。このままスパートをかけたい。あと6章。

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「さあこい、マクダフ!」第12章 シャーロット・アームストロング

第十二章

 わたしは電話機の場所をたずね、エレンが教えてくれるあいだにコーヒーをすすった。数分後、ライナの部屋からプラザ七‐九二〇三にかけていた。エレンの話では、ライナは階下でアトウォーターさんと「いろいろ検討している」そうである。金曜の日課(?)なのだ。ライナには会いたくなかった。こう言ったライナ。「わたしたちが毎日友人を殺してまわってるなんて想像はしないでね」ライナにも伯父さんにも、J・Jのほかは誰にも会いたくない。

 女の子の声がした。「もしもし」

「ジョーンズさんは? J・J・ジョーンズさんはいらっしゃいますか?」

「ジョーンズは外出しております。恐れ入りますが、どちらさまでしょうか?」優しく事務的な声がどん底まで突き落とす。

「ベッシー・ギボンといいます」

「はい、ギボンさまですね。伝言がございます。ウィスコンシン九‐七六五六まで電話するようにとのことです」

 礼も言わずに電話を切ると、大急ぎでウィスコンシン九‐七六五六を呼び出した。

「はいはい?」

「J・J・ジョーンズさんは?」

「ここにはいませんね。ちょっと待って。お名前はギボンですか?」

「ええ。ええそうです」

「なるほどそうですか。J・Jからです。ウィッカーシャム五‐八八九四に電話するように」

 勢いよく受話器を置いてもう一度電話をかける。

「もしもし?」

「ジョーンズ。ねえ……あの、J・J。J・Jなの?」

「ぼくだよ。ほかの誰でもなくね」力強く陽気な声。「大丈夫かい?」

「起きたばかりなの。わたし――」

「知ってるとも。寝坊助め。もっと早い時間に電話したのに、家の人が言うには――」

「ねえJ・J。どこにいるの?」

「いてほしいところならどこにでも。落ち着けよ、ベッシー」

「ここにいてほしいのに」不満をぶつけた。

 一瞬、回線が音を立てた。「どこかで会おう。いいかい、できるだろう? 外に出てタクシーを拾うんだ。西四十八丁目にあるレストラン『マックス』まで。運転手は知ってるから。そこに着いたら中に入ってぼくを待っててくれ」

「四十八丁目。ねえ、あなたもそこに行くの?」

「今から行くつもりだ。ダフも一緒にね。お金はあるかい?」

「ええ」

「一人でもちゃんと来られるね?」

「たぶん大丈夫」

「いや待て。彼氏も連れてこいとダフが言ってる」

「彼氏なんかじゃ――」むっとして言い返す。

「いいから連れてくるんだ」忍び笑いが聞こえた。

「ねえJ・J、どう思う?」

「あとで話すよ。来るのは嫌かい?」

「嫌なわけないじゃない!」

「左右を確認せずに道路を渡っちゃだめだよ。道に迷ったら警官に聞けばいい。知らない人とおしゃべりをしないこと」

「やめてよ!」

「財布は身につけておくこと。運転手にはチップをあげて。十セント貨《ダイム》でいいよ」

「すぐ行くから」わたしはぴしゃりと言った。「市販の服に着替えたらね。あなたはその雑貨屋さんで準備でもしといて」

 J・Jはまだくすくす笑っていたけれど、わたしは電話を切った。それでも気分はよくなっていたので、きれいに見えるよう入念に着替えを済ませた。ヒューは部屋にいなかった。三階には誰もいない。二階でも誰にも会わなかった。一階のホールにも誰もいない。リビングに行ってベルを鳴らしエファンズを呼んだ。

 エファンズが現れた。「今から出かけるから、お昼は外で食べてくると思う。ミラーさんがどこにいるか知らない?」

 エファンズがぱちぱちと目を瞬かせた。「かなり早い時間にお出かけになったかと存じます。ギャスケルさまのお屋敷にでございます。その……はい……おそらく何か問題が――」

「そうなの。戻ってきたら西四十八丁目の『マックス』というレストランに来てくれるように言ってもらえる?」話を終えて手袋を振ると、エファンズが足早にドアを開けた。わたしは背を向けた。エファンズの顔では驚きと礼儀がせめぎ合っていた。冷たく輝く天候のなかへと、正面階段を駆け降りた。

 レストラン『マックス』は、窓に『女性専用席』と書いてある類の場所だったが、入口をくぐるまでもなくJ・Jの赤毛がぴょこりと動き、こっちにやって来た。わたしの腕をつかむと日除け帽が似合ってると言ってからマク・ダフのところに連れていった。壁際に座っていたマク・ダフは、長い足を片側に伸ばしてウェイターに迷惑をかけ、長い指を水の入ったコップにしなやかに巻きつけていた。こちらを見上げると、わたしが頼みさえすれば足を解いて立ち上がろうとでもいうように片足を横にし、あの独特の優しい笑みを見せた。

 わたしは息を切らせていた。「悪い状況でしょうか? 教えてください」

「わからないんだ」J・Jがテーブル越しにマク・ダフの隣にわたしを押し込むと、自分は反対側に陣取った。「朝一番に駆けつけて、話してくれたことはすべて聞き取ったんだけどね、それが話のすべてなのかどうかはわからない」

「ミラーは来るのかな?」ダフがたずねた。

「伝言を残しておきました。留守だったので」

「きっとまだ警官に事情を説明しているんだろうな。ミラーが死体を発見したことは知っているかい?」

「初めて知った。何にも聞いてないの」

 それから、恐れていた質問をした。「事件が起こったのは何時ごろ?」

「二時から三時のあいだだね」

「そんな」

 例によってダフは何もたずねなかったが、J・Jが言った。「全部話してくれるかい? なんでそれがまずいんだ?」

「昨夜の二時から二時半のあいだ、伯父が家にはいなかったことを知ってるだけ」J・Jがそっと口を鳴らした。それでもマク・ダフは座ったまま何も言わなかったので、信じてくれてないのだと確信した。納得してもらわなくては。だから起こったことすべてをありのままに話した。さきほどここに書いた通りだ。

「愉快な思いつきだな」話が終わるとJ・Jが鼻を鳴らした。ヒューが暗闇でわたしを抱きしめたのが気に入らないらしい。それはわかっている。それでも、マク・ダフに信じてもらうためにはすべて話すしかなかったのだ。「本当に愉快な思いつきだよ、そのドアのことなんか」

「確かに愉快だ」マク・ダフも同意した。興味を持ったようだ。マク・ダフの中の何かが琴線を揺り動かされたのだ。「なぜミラーは、君の伯父さんが昨晩外出したと思ったのだろうな?」

「わかりません。でも間違ってなかった」

「糸は風で飛んだのかもしれないさ」J・Jはまだ不機嫌だった。「ただの糸くずじゃないか! そんなものに怯えて……死ぬほど怯えるなんて」

「でもコートのこともあるじゃない!」

 ダフが低く深い声を出した。「もう一度すべて話してもらおうか。何が起こったのか、糸がなくなっているのを見つけたときにどう感じたのかを、正確に。地下の階段と廊下の見取り図も書いてもらおう。カスカート氏がどうやって家に入り二階に上がったのか、それになぜ君たちが気づかれなかったのかを知りたい。」

 わたしは描いて見せた。ダフの悲しげな顔は変わらないままだった。

「では今度は転んだことだ。ヒューが転んだ音は、閉め切ったドアの向こうで寝ている人間の目を覚ますほど大きかったのか?」

「でも伯父さんは寝てなかった」わたしはそう言った。「絶対に寝てなかったと思うんです。なんとなくだけれど」

「ほかには目を覚ました人はいないのだね?」

「はい。でも転んだのは二階だったし。伯父さんは……二階にいるので」

 J・Jはげんなりとしていた。「あの家にはいない方がいい。いいですか、マック――」

「まあ待て。ミラーが来た」

 ヒューは疲労と心労でひどく青ざめやつれて見えた。絶望したような視線をこちらに向けると、はずした眼鏡を拭きながら腰を下ろした。彼の目はぐったりと落ち込んでおり、眼鏡をかけた人が眼鏡を外すとよくあるように、元気なく見えた。

「何を食べるかね?」ダフがメニューを突き出した。「ミラー、君には酒が必要だな」

「お酒は飲みません。でもランチなら。あのおすすめ品をもらいます。それとソフト・ドリンクを」

「ディアーブル・ソース(レモンか酢にエシャロットと塩とこしょうを加えて煮つめたソース。肉料理に使われることが多い)はおつけいたしますか?」

「ソースがないんですね? 白身魚には」

 J・Jが言った。「お嬢さんにハム・エッグ、オレンジ・ジュース、コーヒー、トースト、アップル・パイを――アイスクリームは好きかい? ぼくはチキン・サラダ・サンドイッチをもらおう」

 ダフはスープを注文した。

「ぼくもスープをください。ほかに噛まなくていいものはありませんか」そう言うとヒューは眼鏡をかけて寄りかかった。「ディアーブル・ソースを」

 伯父のことを考えているのがわかった。マク・ダフもそうだ。「話を聞きたくて待っていたんだ」

 ヒューは水をすすって顔をしかめた。

「そうだ、ヒュー。歯は大丈夫なの?」

「おかげさまでだいぶよくなりました。刺激を与えなければ大丈夫です。エファンズの薬はよく効きますよ」

「エファンズにもらったの?」

「朝の三時に起こして、薬をもらいました。素晴らしい人ですね」

「いい人だわ。エファンズというのは伯父の執事です」わたしはダフに説明した。

「執事が痛み止めを調合しているのか?」ダフの口調には、心ひそかに馬鹿らしいと思っているような、いらいらした響きがあった。

「違うの。夕食のときにエファンズも薬を使っていたんです」マク・ダフは無表情のままだったので、わたしは話を続けた。エファンズに言ったこと、エファンズが言ったこと。

「それで君は朝の三時に起こしたのか? 別れたのは何時だ?」

「アリバイですか? 四時くらいだったと思います。四時過ぎでしょうか」ダフの眉が三ミリ上がった。ヒューの方は何としてでも納得させようとしているのがわかる。「エファンズとは知り合いですし、歯がじんじんしていたんです。それに、薬が効き始めると椅子の上で眠りこけてしまったんです。親切にも部屋まで送ってくれたのが、四時半ごろだったのだと思います。そうは言っても運ばれている最中に目が覚めていたとは言い切れませんから、エファンズに聞いてみてください」

「三時で充分だ。ベッシーの話とも合う。三時までという下限はどうやって割り出したんだ、J・J?」

「医学的証拠【検死】ですよ」J・Jが眉をひそめた。「もちろん推定ですがね」

「ベッシーからはお聞きになりましたか?」ヒューの言葉に、二人はうなずいた。「そのことに加えて、ほかのことも……」声は途切れ、片手で絶望的な仕種をした。

「何のこと? ほかのことって?」

「知らないんですか?」

「始めから始めて、お終いになるまで続けたまえ、しかるのち止めるのじゃ(やめればよろしい)」ダフがあの魅力的な笑顔を見せた。少しだけ気持がほぐれた。【『不思議の国のアリス』第十二章より、ハートのキングのセリフ。ただし原文とは微妙に違う。まあtillがアメリカ風にuntilになってるとか、BeginがStartになってるとか、たいした違いじゃない。'Begin at the beginning,' the King said, very gravely, 'and go on till you come to the end: then stop.'】

 ヒューがスプーンで音を立てた。「わかりました。約束していた仕事があったので、今朝ギャスケルのところへ行ったんです。ウィンベリーの件でした。顧客を流してもらいたがっていたんです。と言いますか――」ヒューの声に倦んだような苦みが混じった。「つまり、カモの名簿のことです。住んでいた場所は知っていますか?」

「ぼくもそこに行ってきた」J・Jが答えた。「また立派なところじゃないか。独り暮らしだったんだろう?」

「ときによりけりです」ヒューが答えた。「来客がいるときもありましたから。ですが昨日の夜は誰もいませんでした。いちばん新しい人はフロリダにいるようです」

「来客、か」J・Jが言った。「もちろん女だな」

 ヒューはうなずき、わたしにショックを与えまいとでもするように、急いで先を続けた。「ベルを鳴らすと、家政婦が中に入れてくれました。家政婦がいるのは日中だけです。七時半に自分の鍵を使って家に入りました。リビングには近寄りもしなかった、と言っています」

「たぶんそうなんだろうな」J・Jが言った。「ぼくが到着したときにもまだカッカしていたよ」

「それで、ギャスケルは一階と二階を使っていました。ウィンベリーと同じく、上の階は人に貸していました。といっても借家人もういませんが。リビングは裏手に当たります。その向こうには小さな庭があります。ぼくがベルを鳴らしたのは九時かそこらでしたが、そのころブリンクリー夫人は朝食の準備をしていました。急いで掃除をする気はないようでしたね。それはともかく、ギャスケルはまだ降りてきていないけれど、約束をしていたのなら自分が上に行って呼んでくると言われたので、ぼくは待っていることにしました。家政婦が上に行っているあいだ、ふらりとリビングに立ち寄ったところ……見つけたんです」

「場所は?」ダフがたずねた。

「安楽椅子です。椅子が背中に乗っかっていました。争ったあとがあって、足を高く上げて身体を丸めていました。ナイフが……おそらく心臓に。血だらけでした。あんなに……」頭を抱えたヒューの手は震えていた。「ナイフはウィンベリーのものでした。大事にしていた肉切りナイフです。それに気づいたので、警察にもそう伝えました」

「年代順に続けてくれ」ダフが言った。「それから?」

「それから、ぼくはブリンクリー夫人に大声で喚いていました。彼女を中に入れないようにしておいてから、警察を呼びに行きました。これで警察を呼ぶのは二度目ですよ」

「時間は?」

「九時十四分です。ぼくが到着したのが九時……十一分だった……そのくらいです」

「続けてくれ」

「また別の赤いパチーシ駒がありました」ヒューは疲れたように続けた。「それはもう話しましたっけ?」

 J・Jがわたしの手をぎゅっと握った。「ちょっと待って。いや、それは知らなかった。まあひと息つかないか。その水を飲んじゃえよ、ベッシー。ちゃんと飲まなきゃ、お尻ぺんぺんだ。よし、話があるんだ。昨夜の一時半ごろ、ギャスケルのところにやってきた男の目撃情報がある。同じ人物が一時四五分に出てきたのも目撃されている。だけど――ええと――その男はすぐあとにまた舞い戻ったそうなんだ。その後は男の姿を見ていない」

「誰なんです?」ヒューがたずねた。

「目撃者のことかい? 窓からぼんやりと通りを眺めてた天然系の女の子さ。あんないかれた子はいないね。あんな証言じゃあガーネットもぼくも納得できない。だけどその通りだった可能性はあるんだ。そして、その通りだったとしたら、伯父さんはアウトだ。問題はね、その子によると――これについては信じるね――その子は人生と芸術について深く考えていたんだそうだ。つまり目撃者の時間感覚はあまり当てにできない。しかも途中でトイレが我慢できなくなっている。その間に男がまたすぐに外に出てきた可能性はある。どう頑張っても人を殺せるだけの時間はないけどね。ああ、真理はそのうちはっきりするとも【nature {will} take hold】。それにぼくは信じてる。うまく聞き出す時間はあったからね。手を洗いたくて仕方なくなったのが一時五二分だったそうだ。どうだ! すまない、ベッシー」

「どうして伯父さんがアウトなんです?」ヒューがたずねた。「その男は誰だったんですか?」

「知らない男だった。背が高かったと言っている。背の高い人はたくさんいるからね。でも誰が……」

「ガイ・マクソンに決まってるじゃない」わたしは声をあげた。「マクソンとギャスケルは一緒に伯父の家を出たんだから。覚えてない?」

「あり得るね。来たのはガイだし、出たのもガイだ。だけどガイはどちらも否定しているし、舞い戻ったりもしなかった。だけどギャスケルと一緒に帰宅したのが殺人犯だとすれば、伯父さんはアウトだ」

「マクソンにはアリバイは?」

「曖昧なのがね。ホテルに二時〇八分に到着した。歩いていたそうだ」

「裏付けは?」

「クラークが彼と話をしている」

「二時〇八分」ヒューが言った。「それならアリバイは成立しますね」

「そうかね?」ダフが声をあげた。

「だってギャスケルが殺されたのは二時以降なのでしょう」

「それはどうやって証明しているのかね?」

 ヒューはため息をついた。ウェイターが料理を運んできた。わたしの注文をテーブルいっぱいに広げ、残りを端に並べると立ち去った。

「その目撃者は、戻ってきた男と出ていった男が同一人物だと言っているんですか?」ヒューがたずねた。

「ああ、そこが問題だね」J・Jが答えた。「残念だけどその子は何の助けにもなりゃしない。頭を使うことを知らないんだ。確かにそう思ったんだろうけど、思ったことを証明してやれる人なんてどこにもいやしない。二時の件はどうなってる? 知ってるかい?」

 ヒューは最初が肝心とばかりに説明した。「ギャスケルの家には石油式の暖房があって、自動温度調節器《サーモスタット》には時計がついているんです。ここまではいいですか?」

「問題ないよ」J・Jがサンドウィッチを頬張っている。

「夜中に暖房を切るためには、設定時刻になると自動的に切れるように時計をセットしておくんです。朝に再点火させるときも同じです」

「うん、それは知ってるよ」

「それで、ギャスケル宅のタイマーは、午前二時にセットしてありました」

「ずいぶん遅い時間だな、なぜだろう?」

「ぼくもそう思います。ところが今朝伺うと、時計は床の上でばらばらに壊れていました」

「なぜそうなったのだ?」ダフが静かな声で穏やかにたずねた。

「格闘の際に叩き落としたのでしょう」

「それは部屋のどこにあったのだ?」

「ギャスケルの椅子があった後ろの壁際です。横には本棚がありました。犯人がナイフを前に突き出せば、椅子が後ろにひっくり返って、ギャスケルは壁に投げ出されたはずです。おそらくその際に時計にぶつかったのでしょう。まず間違いありません」

「叩きつけられたって時計は止まるじゃないか」J・Jが言った。

「それはありません。ガラスが割れて針が曲がっていましたから【?the hands bent】」

「まあいい」マク・ダフが「もうわかった。だがそれでも時刻は割り出せる。暖房が消えるか寒くなるかしていたのではないかな」

「ええ、そうなんです。家は寒かった。温度計は十五度(華氏六十度)を指していました。サーモスタットが十五度にセットされていたんです。時計が壊れる前にタイマーが作動してんですよ」

「つまり争いがあったのは午前二時過ぎというわけか」J・Jが考え込むように口を開いた。「そうでなければ、家は一晩中昼間みたいに暖かかったはずだものな。だけどサーモスタットなんて手で動かせるだろう?」

「時計が動けばできるとは思いますが」

「犯人は設定ボタンやタイマーに気づいたのでは? だとしたら、時刻を混乱させようと手動で十五度にセットすることだってできただろう?」

「できたでしょうね」ヒューはゆっくりと口にした。「やり方をしってさえいれば。考えつきさえすれば」

「ねえどういうこと?」わたしは声を出した。「もっとゆっくり説明してよ」

 マク・ダフが説明してくれた。「時計には異なる二つの機能がある。一つは時計として時刻を告げ、一つはタイマーとして時刻をセットする。今の話の場合だと、目覚ましベルが鳴るのではなくサーモスタットのスイッチが押されるのだが。時計が壁にぶつかり壊れたのだが、何時の出来事なのかわからない。しかしながら午前二時以降に起こったことだと推理はできる。タイマーがいじられておらず、サーモスタットのスイッチが別の手段で押されていないとしたらの話だが。J・Jが困っているのは、殺人犯が捜査員を欺くために手動でサーモスタットを動かした可能性があるからだ」

「わかりました」

「待てよ」J・Jが口を挟んだ。「あるいはタイマーの方をいじったってことはないのかな? 午前二時の設定をいじることはできないのかい?」

「無理みたいですね。警察はそう言っていました。壊れ方から見て、できないだろうと」

「そうか、それなら超特急で行動して二時のアリバイを作ったんだ」

「どうして? 全然わかんない。どうなの?」

 マク・ダフの目がふたたびきらめきかけた。「J・Jはずいぶんと頭が冴えている。そのうえ的確だ。真夜中に時計がぶつかって壊れたとしよう。二時に暖房が切れるように時計がセットしてあることに、殺人犯は気づいた。だが設定を変えることはできない。そこで犯人は手で暖房を切った。時計の落ちたのが作動してからのことに見えるだろう。二時のアリバイを作ることができれば、犯人は安泰だ。間違いない。設定時刻に気づき、捜査を攪乱しようと手で暖房を切るやつならば、二時のアリバイが必要なことにも気づいていたはずだ」

「実際にそうしたんでしょうね」ヒューがつぶやいた。「きっとそうです。今わかりましたよ」

 J・Jの咳払いにヒューが振り向いた。

「気を悪くしないでほしいんだけどね」J・Jは努めて明るく口にしていた。「君がベッシーの部屋をノックしたのは二時だっただろう?」

「と言うより、しばらく叩き続けていましたよ」ヒューの声には嫌気が差していた。

「この子が正確にいつ目を覚ますかなど、むろん知りようがない」ダフがコメントした。

「そうですよ」ヒューはダフに感謝するように振り向いた。

「ふむ。まあそうだろうね。さて。伯父さんは二時のアリバイがない。マクソンも二時のアリバイがない。君は二時に確固たるアリバイを持つことを予測しようがなかった。こうなると時計の証言は問題なさそうだな。いずれにしても、殺人が行われたのは二時以降という事実が導かれるね。理に適ってますか、どうですか?」

 この推理がどれだけ説得力があるか確かめでもするように、J・Jはマク・ダフを片目で見やった。ダフはピカピカのティー・スプーンを指先に乗せてバランスを取っている。「理に適っている」あまりにそっけなかった。ところがヒューは興奮してまくし立てた。

「ぼくらは何をすればいいんでしょう? ぼくは警察に渡してきました。つまり、警察が赤い駒を保管しています。今度は駒を置いてきたんです。ウィンベリーのナイフだということも知られました。ぼくがしゃべったからです。だけど、事件を結びつける第一の駒があったことを打ち明ける気にはなれないんです。赤い駒の正体や、どこにあったものなのかも、しゃべった方がいいんでしょうか? すべてを警察の手に委ねてしまった方がいいんでしょうか?」

「そうだな」J・Jもうなずいた。「どうなんです?」

「まだ何とも言えんな」ダフが答えた。「そのナイフのことを話してくれ。カスカートが手に入れるチャンスがあったと言いたいのだろうね?」

「その通りですよ。それにぼくにもチャンスはありました。むしろぼくの方が。だけどぼくがそんなことをする理由がありません」

「動機か。ふむ。前回と同じだな」

 みんな押し黙ってしまった。わたしはJ・Jの袖口をぎゅっとつかんでいた。

「しかしだ」ダフが穏やかに言葉を続けた。「今回、憎悪が限界に達したのは何が原因かね?」

 J・Jがつぶやいた。「ああ、わかりません。いったん動き出したからには、二人とも殺っちまった方がいいと思ったのかもしれませんね。毒を食らわば、です」

「その言葉に、おそらく何某かの事実があるのだろう」ダフも同意した。

 だけどわたしは、ヒューが何か言うのを待っていた。でも何も言わない。そのことが心に浮かんだのは、わたしだけのようだ。

 わたしは恐る恐る口を出した。「もしかしたら……ライナですか。昨日の夜、外に連れ出してたんです、ギャスケルが。みんな嫉妬していたんじゃないでしょうか」

「嫉妬か! またお決まりの……」J・Jは疑わしげだ。

「ぼくもそうは思いませんよ」ヒューが椅子をずらした。「それは違うと思うんです、ベッシー。これがガイ・マクソンだったと言うのなら……」そこから先は絶対に口にしたくないようだった。

「ではカスカート氏がマクソンに嫉妬している可能性はあるわけだな?」ダフの言い方では、嫉妬の有無が紛れもない事実として扱われていた。それはそうだ。考えてみればわかる。

「ええ」わたしがヒューの代わりに答えた。「きっとそう。ライナはまだ若いしすごく可愛いんだもの。彼も若いし。マクソンのことだけど。だから二人が……そうだ、マクソンは昨日すごく怒っていました」

「マクソンには動機がある」ダフがたずねた。「というわけか?」

「マクソンにはアリバイがありますよ」J・Jが口を挟んだ。「二時にギャスケルを刺し殺したとしたら、二時〇八分に帰宅することはできなくなる。サーモスタットが信用できるとしての話ですがね。トリックだとしたら二時のアリバイはなくなります」

「八番街の地下鉄はどうなんだ?」

「そいつがありましたね。うまいことに。そうですよ。ちくしょう」

「ほんとにうますぎますよ」ヒューが聞き取れないほどの声でつぶやいた。

「そうはいってもね」J・Jが力を込めた。「言っておくけど、マクソンがそれで何かしたとは思っちゃいないよ。通りの向こうのお嬢さんが戻ってくるマクソンを目撃したとも思っちゃいない。マクソンがそこに戻ってきたとも思っちゃいないんだ。きっと目くらましか何かだよ。それと、ベッシーはカスカート邸から出るべきだ。夜中にそんなふうにうろつくなんて感心しないね」J・Jはヒューをにらんでいる。「言いたくないけどね。君たちが昨夜何をしたのかを、奴が知っていたらどうするんだ? 知っていたとしたら? 可能性はある」

「わかってます」ヒューは青ざめていた。

「ベッシー、ぼくには君を預けておく独身の伯母さんなんていないけど、でもちくしょう、誰かの伯母さんなり何なりを見つけられなくても、あの家から君を連れ出すつもりだ……」

「無理よ!」わたしはあえいだ。「どうするっていうの?」

「無理かどうかはすぐわかるさ」

「ぼくにはあまり――」ヒューが言いかけた。

「いいかい。ぼくはこの子と結婚する」とJ・Jが宣言した。「だめなら部屋の入口で眠る。獰猛な犬を六頭買って守らせる。ちくしょう、牢屋に入れておきたいよ。ねえマック、カスカートの手の出せない場所にかくまっておけるなら……」

 マク・ダフが答えた。「ガーネットは事件もないのに行動できんよ。する気もないだろう」

「でも事件はある。そう言ってるじゃないですか。法律なんてものに興味はありません。理屈にすら興味はありませんね。彼が犯人ですよ。今ぼくが心配しているのはそれだけです。彼は無実だと誰かが明らかにしてくれないかぎりはね。わかってます。わかってますよ。でもぼくはこの子《マイ・ガール》の話をしてるんだ!」

「落ち着いてよ」とわたしが言った。ヒューはあっけにとられていた。

「冷静になりたまえ、J・J。それではガーネットに話すには充分とは――」

「ぼくを納得させたうえでいらいらさせるには充分ですよ」J・Jはちっとも落ち着いていなかった。「いいでしょう。教えてください。あなたはどうすれば納得するんですか!」

「われわれの知っていることは不充分だ。確認すべき点が山ほどあるし、やるべきことが山ほどある。しかし時間があるかどうか……」そう言うと黙りこくってしまった。深い瞑想のような沈黙。〈時間〉という言葉がわたしたちの耳で鳴り響き、沈み込んでいた。

「問題はベッシーを守ることだ」ついにJ・Jが声をあげた。「それが理由ですよ。それだけで充分だ」

「論理だよ、論理的にだ」とダフが諭す。「しかし前進はせねばなるまい。理解を重ね情報を集めなくてはなるまいな」

「まさかあなたがたは――」ヒューがたずねた。これまでそんなことを真面目に考えたことは一度もなかったのだろうか。「誰かがベッシーを襲おうとしているとでも?」

「誰もベッシーを襲うものか」J・Jが答えた。「ベッシーだって、殺人犯かもしれない人間と同じ屋根の下で過ごすつもりはないさ。言わせてもらえば、ぼくにはそれで充分だ」

「ほんとうに危険があると思ってるんですか?」

「危険だと?」ダフが言葉尻をとらえた。「むろん危険はある。毒を食らわばの原則に従っているのならばだが。しかしね、わからないのだよ」唐突に皿を遠くに押しやり、両手の置ける空間を作った。「チャールズ・カスカートとの会談を希望する」

「会いたいのなら、会いに行くことですね」J・Jが言った。

「それも一つの方法だが。この事件のことで招いてもらいたいのだ」

「ガーネット・サイドから攻めますか?」

「ベッシーの方からだ」

「それではベッシーがやっかいなことになる」

「しかしだね、ベッシーには、すでに事件のことで招いてもらっておる。目下の希望は許可をもらうことだけだ。そして関係者と話すことだ」

「何か手伝いますか?」J・Jは冷静だった。

「やりたいことをすべて探るには時間が足りない。そうだ、マクガイアに頼むことにする」と言ってわたしに微笑みかけた。「実際に何が起こったのかを解明する時間はない。かすかな痕跡をたどって時間と手間をかけ、徹底的に手がかりと目撃者を調べあげるには、時間がかかりすぎる。迅速な援護があれば、手に入れた証拠と、それに脳みそと想像力と直感を使うことになるだろう。とにかく手に入れてからだ。午後は、やれる範囲で調査に費やす。だが夜までにはカスカート氏に会っているはずだ」

「いいでしょう」J・Jが言った。「とにかくセッティングしますよ。カスカートと会う場所を教えてくれれば、ベッシーが連れ出しますとも。おいで、ベッシー。今すぐにでも家に行ってスーツケースに荷造りするんだ」

「でもそんなことできない」

「でもできるとも。荷物を持ち出して用意しておくんだ。念を入れて。スーツケースに入れてね。ジョークなんだ。笑ってくれよ、ちくしょう。ねえベッシー、ぼくは赤毛でわがままなんだ。だって子どもだからね。今できることはほとんどないよ。このトーストは食べるかい? それならぼくがもらおう。さあ行こう。マック、あなたはここに座って考えに耽るつもりですか?」

「そしてマクガイアを待とう」

「ミラー、君はどこへ?」

「部屋に戻ります。ほかに行くところもなさそうですし」

「タクシー代を三分の二、持ってくれるかい。よし行こう!」

 マク・ダフを汚れた皿のあいだに残したまま立ち去ったときには、彼はすでにどっぷりと物思いに沈んでいるように皿を見つめ、より分け、並べ替え、いっぷう変わった方法で問題に耳を傾けていた。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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