第百六十四章 アゾレス諸島
船長の言葉どおりの時間に、船の前方、輝く太陽の彼方に、北東に連なる群島の海岸線が見えた。
アゾレス諸島だ。
風が海岸に吹き寄せ、船は順調に進んだ。午後三時頃、島が全貌を現わした。
奇妙な形の丘の天辺が幾つも見えた。火山活動によって黒ずんだ岩石、輝く尾根と深い崖が形作る起伏。
一つ目の島にある大砲の射程距離に入ると、船が止まった。乗組員が上陸の準備を始めた。船長が言っていたように、冷たい水を数トン補給する為である。
乗客全員が地上を歩けることにわくわくしていた。何十日にもわたる辛い船旅を送った後で固い大地に足を降ろす喜びは、長い航海をした者だけが味わえる感覚だった。
「皆さん」心を決めかねている乗客に向かって船長が声をかけた。「上陸時間は五時間です。この機会にお楽しみ下さい。自然に興味がおありなら、人っ子一人いないこの島には冷たい泉がございます。狩りに興味がおありなら、兎や山鶉がいます」
フィリップは銃と弾丸を身につけた。
「ところで船長は船に残るのですか? ぼくらと一緒には来ないのですか?」
「あれですよ」船長は海に注意を向けさせた。「怪しい動きをしている船がある。四日前くらいから跡を尾けて来ています。面構えが気に食わない、とでも言いますか、それで船の動きを見張っていようと考えております」
フィリップはその説明に納得し、しんがりのボートに乗って地上に向かった。
ご婦人たちや甲板の乗客の中には、敢えて降りようとしないのか、はたまた順番を待っているらしき人たちもいた。
二艘のボートが遠ざかってゆく。乗っているのは機嫌のいい水夫たちと、さらに上機嫌な乗客たちだ。
船長が最後に発したのは、
「八時になったら最終ボートでお出迎えいたします。いいですか、遅れた者は置き去りにしていきます」、という言葉だった。
自然に興味のある者も狩りに興味のある者も誰もが上陸し終えると、水夫たちは海岸からほどしばらくのところにある洞窟に駆け込んだ。洞窟は日光を避けでもするように大きく曲がっていた。
青く甘美な水を湛えた冷たい泉が、苔むした岩の下に流れ、洞窟から出ることなく、細かい流砂の奥に消えていた。
水夫たちがそこで立ち止まり、水で樽を満たして海岸まで転がして行こうとしている。
フィリップはそれを見つめていた。洞窟の青みがかった暗さに見とれていた。ひんやりとした空気や、水が滝を流れ落ちる心地よい音に、身体を委ねていた。淡く神秘的な光の散りばめられた暖かい暗がりからほんの数分のところに、光の射さない暗闇と涼しい場所があることに驚きを隠せなかった。手を伸ばし、岩壁にぶつかりながら、姿の見えない水夫たちを追いかけた。やがて少しずつ顔や姿が光に照らされ明らかになり始めた。空の光よりも、澄んでいる洞窟の光の方が好きだった。海岸に溢れている陽射しはうるさいし強過ぎる。
そうこうしているうちに同行者たちの声が遠くに消えてゆく。銃声が一つ二つ、山の方で鳴り響いたかと思うと静かになり、フィリップは一人取り残されていた。
水夫たちの方は仕事を終えていた。もう洞窟には戻って来ないだろう。
フィリップは徐々にこの孤独の魔力と考え事の渦に引き込まれていた。柔らかい砂に寝そべり、むんむんとする苔むした岩に凭れて、物思いに耽った。
こうして時間は流れ、浮世のことなど忘れていた。弾を抜いた銃を傍らの岩に寝かせると、安心して休めるように、肌身離さず持ち歩いている拳銃をポケットから取り出した。
昔のことが何もかも甦って来た。ゆっくりと、厳かに、まるで諭したり責めたりするように。これからのことは何もかも飛び去ってしまった。時たま姿を見せはするが手では触れられなかったここらの野生の鳥のように、素っ気なく。
フィリップがこのように物思いに耽っている間、ほかの人々もつい鼻の先で物思いに耽ったり、声をあげて笑ったり、希望に胸をふくらませたりしていたようだ。フィリップもそれを漠然と感じ取っていたし、ボートの櫂を漕ぐ音も一度ならず聞こえていたような気がする。海岸に向かっているのか、乗客を船まで送っているのだろう。気晴らしに飽きた人々もいれば、今度は自分が楽しむ番だと意気込む人々もいるに違いない。
だがそれでもフィリップの夢想が破られることはなかった。洞窟の入口に気づかれなかったのかもしれないし、或いは目にしても入る気にならなかったのかもしれない。
不意に人影がおずおずと躊躇うように、陽射しと洞窟のちょうど境目の辺りに現れた……誰かが歩いて来る。手探りで、背を丸め、水のせせらぎに近づいて来る。一度など苔に足を滑らせて岩にぶつかりもした。
それを見たフィリップは立ち上がって手を差し伸べようとした。フィリップの指と件の人物の手が暗闇の中で触れ合った。
「こちらです」フィリップは明るい声を出した。「水はこちらです」
その声を聞いて相手の人物がぱっと顔を上げた。洞窟の青ざめた光に顔をさらし、口を利こうとした。
だが突然フィリップが恐ろしい悲鳴をあげ、後じさった。
それを聞いて相手の方も叫び声をあげて後じさった。
「ジルベール!」
「フィリップ!」
二人の声が地を這う雷鳴のように同時に鳴り響いた。
その後に聞こえるのは争いの音だけだった。フィリップは両手でジルベールの首根っこをつかみ、洞窟の奥に引きずり込んだ。
ジルベールは呻き声一つ出さずに引きずられていた。岩に押しつけられ、もう後じさることも出来ない。
「人でなしめ! とうとう捕まえたぞ!……神のお導きだ……神が正しく裁いて下さったんだ!」
ジルベールは真っ青になって一言も発しなかった。両腕をだらりと降ろした。
「臆病な卑怯者め! 身を守る本能すらないのか」
だがジルベールは悲痛な声を出した。
「身を守るですって? どうしてです?」
「自分がぼくの手の内にあることも、罰を受けて当然の人間だということも知っているはずだ。罪を犯したのは間違いない。おまえは一人の女を辱め、残酷にも息の根を止めたんだ。一人の生娘を辱めただけでなく、一人の母親を死に至らしめようとしたんだ!」
ジルベールは一言も答えない。フィリップは思わずかっとなり、再びジルベールに手を伸ばした。抵抗はなかった。
「おまえは男じゃないのか?」フィリップはジルベールを乱暴に揺さぶった。「うわべだけなのか?……抵抗すらしないなんて!……首を絞めているんだぞ、抵抗くらいしたらどうだ! 身を守るがいい……意気地なしめ! 臆病者! 人殺し!」
フィリップの指が喉に食い込むのを感じたジルベールは立ち上がって身体を強張らせ、獅子のように獰猛に、肩を動かしただけでフィリップを投げ飛ばし、腕を組んだ。
「わかりましたか? 守ろうと思えば身を守れるんです。でもそれに何の意味があるんですか? あなたは銃に飛びついているじゃないですか。爪で引き裂かれたりぼこぼこに殴られたりするよりは、一発で殺される方を選びます」
確かにフィリップは銃をつかんでいた。だがジルベールの言葉を聞いて銃を押しやった。
「違うんだ」
呟いてから、はっきりと声に出してたずねた。
「何処に行くつもりなんだ?……どうしてここにいる?」
「僕はラドニ号に乗っているんです」
「では隠れていたのか? ぼくに気づいていたのか?」
「あなたが乗っていることさえ知りませんでした」
「嘘だ」
「嘘じゃありません」
「だったらどうして姿が見えなかったんだ?」
「夜にならないと部屋から出ないようにしていたからです」
「ほらみろ、隠れていたんじゃないか!」
「そうかもしれません」
「ぼくから隠れていたんだな?」
「そうじゃありません。アメリカ行きはある任務の為で、人に見られてはならないんです。船長が乗客とは別に部屋を用意してくれました……その為に」
「おまえは隠れていたんだ。ぼくから逃れる為に……分けても、攫った子供を隠す為に」
「子供ですって?」
「そうだ、いつかその子を武器にして利益を引き出そうと、攫って連れ歩いているんだろう。人でなしめ!」
ジルベールが首を横に振った。
「ぼくがあの子を取り返したのは、父親を軽蔑したり裏切ったりするようなことを覚えてもらいたくなかったからです」
フィリップは少し呼吸を整えた。
「それが本当なら……それを信じるとすれば、おまえも思っていたほど悪人ではないようだな。だがどうして攫ったことまで正直に話したんだ?」
「僕が攫ったですって?」
「あの子を攫っただろう」
「僕の子ですよ! 僕のものだ! 自分のものを取り返すのは盗みでも誘拐でもありません」
フィリップが怒りに身を震わせた。「いいか! ぼくはついさっきまでおまえを殺そうと考えていたんだぞ。そう心に誓ったし、そうする権利がぼくにはあるんだ」
ジルベールは無言だった。
「ところが神が光を与えて下さった。神はぼくの足許におまえを投げ出し、『復讐は無益。神から見放された者のみが復讐に手を染めなさい……』と仰ったんだ。だからおまえは殺さない。おまえが組み立てた悪しき計画を壊すだけにしておこう。おまえにとってあの子は将来の手だてなのだろうが、今すぐぼくに返すんだ」
「でも子供はいません。赤ん坊を二週間も船で旅行させられるわけがないじゃないですか」
「子守りを見つけなければならなかったものな。子守りを連れて来ているんだろう?」
「あの子を連れて来てはいないんです」
「あの子をフランスに置き去りにしたと言うのか? 何処に置いて来たんだ?」
ジルベールが口をつぐんだ。
「答えろ! 何処の子守りに預け、どれだけ金を積んだんだ?」
ジルベールは口をつぐんだままだ。
「人でなしめ、逆らう気か? 堪忍袋の緒が切れようとも厭わないというわけか……妹の子が何処にいるのか教えてくれ。あの子を返してくれ」
「僕の子は僕のものです」
「ろくでなしめ! どうやら死にたいらしいな!」
「僕の子を差し出すつもりはありません」
「ジルベール、落ち着いて話そう。過去のことは水に流すように努めるし、おまえのことも恨んだりしない。ぼくが優しいのは知っているだろう?……許すよ! おまえがぼくらの家に放り込んだ恥と不幸のすべてを許すと言っているんだ。とんでもない譲歩だぞ……あの子を返してくれ。何が望みだ?……アンドレが抱いていて当然の嫌悪感を取り除いて欲しいのか? 取りなして欲しいのか? わかった……やってみよう……あの子を返してくれ……それと……アンドレはあの子を愛している……おまえの子を熱愛しているんだ。後悔していることがわかればアンドレの気持も変わるだろう。約束する。誓うよ。だからあの子を返してくれ、ジルベール、返してくれ!」
ジルベールは腕を組んで、暗い炎の宿った瞳でフィリップを見つめた。
「あなたは僕のことを信じなかった。僕もあなたを信じません。あなたが不正直だからじゃない。身分の隔たりの深さを嫌というほどわかっているからです。返してもらうものが多ければ多いほど、それだけ許しも多い。僕らは天敵同士……あなたは強い。きっと勝つでしょう……武器から手を離せとは言いません。だから僕の武器も取り上げないで下さい……」
「武器だと認めるんだな?」
「ええ、そうです。軽蔑と忘恩と侮辱に対する武器として!」
「もう一度だけ聞く、ジルベール」フィリップの口元には泡が浮かんでいた。「返してくれ……」
「嫌です」
「考え直せ!」
「嫌です」
「おまえを一方的に殺したくないんだ。おまえにもアンドレの兄を殺す機会を与えよう。また一つ罪が増えるな!……いいだろう。この拳銃を取れ。ここにもう一つある。お互い三つまで数えてから、引き金を引くんだ」
フィリップはジルベールの足許に拳銃を放った。
ジルベールは動かない。
「決闘なんて冗談じゃありません」
「では自殺する方を選ぶのか?」フィリップは怒りと絶望に吠え狂った。
「あなたに殺されることを選びます」
「よく考えろ……頭がおかしくなりそうだ」
「よく考えた結果です」
「ぼくには殺す権利がある。神はぼくをお許しになるはずだ」
「わかっています……殺して下さい」
「これが最後だぞ。決闘する気はあるのか?」
「望みません」
「身を守るつもりはないのか?」
「ええ」
「わかった。だったら罪人として死ねばいい。ぼくが地上を浄めてやる。冒涜者や強盗や犬コロのように死ねばいい!」
フィリップは至近距離からジルベールに銃弾を撃ち込んだ。ジルベールは腕を伸ばし、後ろによろめいたかと思うと、前にかしぎ、声をあげることもなくうつぶせに倒れた。足許の砂に生暖かい血が染み込むのを感じたフィリップは、すっかり動顛して洞窟から飛び出した。
目の前には海岸があり、小舟が待っていた。出発時刻は八時だと言っていた。今は八時数分過ぎだった。
「あなたですか……」水夫たちが声をかけた。「あなたで最後ですよ……みんな船に戻りました。何を仕留めたんです?」
フィリップはその言葉を聞いて意識を失った。そういうわけで出航の準備をしている船まで運ばれることになった。
「みんな戻ったか?」船長がたずねた。
「俺らが連れて来たのが最後の乗客です。滑って転んだんでしょうな、気を失ってしまいましたぜ」
船長が決定を下し、船はアゾレス諸島を速やかに離れた。それと入れ替わりに、じりじりして待っていた大型船が、アメリカ国旗の掲げられた港に移動した。
ラドニ号の船長はその大型船と合図を交わし、不安を見せる様子もなく、進路を西に取ると、やがて夜の闇の中に見えなくなった。
乗客が一人足りないことに気づいたのは翌日になってからだった。
エピローグ
一七七四年五月九日、夜八時、ヴェルサイユでは興味深い光景が繰り広げられていた。
その月の初めからルイ十五世が重い病にかかり、医者もどれだけ深刻かを口にはしようとしないものだから、寝込んでいる国王は真実か希望を求めるように周囲に目を走らせていた。
国王を診察したボルドゥ医師は、それがたちの良くない天然痘であることを指摘していた。同じ見立てをしたラ・マルティニエール医師は、国王に告知すべきだという立場だった。精神的にも肉体的にも、キリスト教徒として、国王の救済と王国の救済のため措置を執らなくてはならないのだから、というのがその理由だ。
「キリスト教の信仰篤きフランス国王陛下には、終油の秘蹟を受けていただかなくてはなりません」
ラ・マルティニエールは王太子派、即ち反体派だった。ボルドゥが言うには、病気が重いことを単刀直入に告げれば国王の命を縮めることになる、暗殺者の前で尻込みしていた御仁なのだ。
ボルドゥはデュ・バリー派だった。
国王の許に聖職者を呼ぶのは、寵姫を退出させるということだ。神が戸を開けて入って来れば、必ずや悪魔が別の扉から入って来る。
医師、家族、各派閥が内部分裂している間も、放蕩のせいで衰え、老いて衰弱した身体に、病気は穏やかに留まっていた。病はこうして力を蓄え、どんな薬でも医療でも追い出せぬようになってしまった。
ルイ十五世の不節制にはデュ・バリー夫人も快く手を貸していた。そうした不節制が祟って病の発作が起こってからというもの、国王の枕元には二人の娘に、寵姫、寵臣たちが侍っていた。誰もがまだ笑っていたし、自らを鼓舞していた。
驚いたことに、ヴェルサイユにマダム・ルイーズ・ド・フランスが厳めしく陰気な姿を見せた。サン=ドニの独房を離れ、父の世話をしにやって来たのだ。
運命の女神像のように冷たく陰鬱なその姿は、もはや娘でもなく姉妹でもなかった。それはまるで、辛い逆境の日々の中で国王に災いの声を報せに来た、太古の予言者のようであった。ヴェルサイユに到着したのは一時――国王がデュ・バリー夫人の手に口づけし、その手を優しく愛撫するように、火照った額や頬に押し当てた日のことだった。
その姿を目にして、誰もが逃げ出した。姉妹たちは震えながら隣室に逃げ込んだ。デュ・バリー夫人はひざまずき、自室に駆け込んだ。寵臣たちも控えの間まで退いた。二人の医師だけが暖炉の脇に留まっていた。
「そなたか!」国王は痛みと熱のせいで閉じていた目を開いた。
「わたくしです、陛下」
「いったいどうして……」
「神から遣わされました」
国王は身体を起こし、口元に笑みを作った。
「陛下は神をお忘れでしたから」
「余が……?」
「神のことを思い出していただきに参りました」
「待ちなさい! 余はまだ死ぬわけではない。そんなに説教を急がなくともよい。重い病ではないのだ。筋肉の痛みと軽い炎症だよ」
「陛下のご病気は、習わしに従って王国の聖職者を枕元に集めなくてはならないほどのものです。王家の人間が天然痘にかかった際には、直ちに終油の秘蹟を受ける決まりでございましょう」
「マダム!……」国王は目に見えて動揺し、青ざめた。「そなたは何を言っておるのだ?」
「マダム!……」医師たちも顔に怯えの色を浮かべた。
「陛下は天然痘にかかっていると申し上げているのです」
国王が叫びをあげた。
「医師たちはそのようなことは言わなかったぞ」
「敢えて申し上げなかったのです。わたくしは陛下に代わってフランスとは別のもう一つの王国を見て参りました。どうか神の身許にお近づきになり、これまでお過ごしになった日々をお検め下さい」
「天然痘だと!……もう助からぬのか!……何ということだ!……ラ・マルティニエール!……本当なのか?」
医師は二人とも顔を伏せた。
「まさかもう死期が近いのか?」国王の顔からさらに血の気が引いた。
「治らぬ病気などございません」真っ先にボルドゥが答えた。「お心を確かになさっていればなおのこと」
「神は心の平穏も肉体の救済も与えて下さいます」マダム・ルイーズはそう答えた。
「マダム」ボルドゥの声は小さくはあったが迫力に満ちていた。「陛下を殺すおつもりですか!」
王女はそれには答えようとせず、国王に近づくと、手を取って口づけした。
「過去を断ち、国民に範をお示し下さい。誰も陛下にお知らせなさいませんでしたね。危うく永遠に魂を失うところでございました。地上にお留まりになれましたら、キリスト教徒として生きることをお誓い下さい。神が陛下をお召しになるのなら、キリスト教徒として死ぬことをお約束下さい」
話を終えるともう一度口づけをして、ゆっくりと控えの間に歩いて行った。控えの間に来ると黒いヴェールを下ろし、階段を降りて馬車に乗った。何も考えられずに恐怖で呆然としている国王を後ろに残して。
国王は医師に質問することでしか正気を保てない状態だったが、はっと我に返っていた。
「シャトールー公爵夫人とメスで演じた醜態を繰り返しとうない。デギヨン夫人を寄こして、デュ・バリー夫人をリュイユに連れて行ってくれ」*1
この命令は爆弾だった。ボルドゥが何か言おうとしたが、国王に止められた。第一、ラ・マルティニエールが王太子に報告するのは目に見えている。国王の病状とその行き着く先を理解していたボルドゥは、抗わずに部屋を出て、デュ・バリー夫人に衝撃的な事実を知らせに向かった。
誰もが顔に浮かべている蔑むような不吉な表情を見て怯えていた伯爵夫人は、報せを聞いてすぐに姿を消した。一時間後、伯爵夫人はヴェルサイユを出て、忠実なデギヨン公爵夫人に連れられて、リュイユの城館に到着した。リシュリューから相続したものである。ボルドゥの方では、伝染の恐れがあるという名目で、王家の人間を締め出した。こうしてルイ十五世の寝室は隔離された。中に入れるのは聖職者と死神だけとなった。同日、国王は秘蹟を施され、その報せはパリに広がった。寵姫が失脚したことは既に過去のものとなっていた。
廷臣という廷臣が王太子の許を訪れて取り次いでもらうのを待ったが、王太子は扉を閉め切って誰も入らせなかった。
ところが翌日、力を取り戻した国王がデギヨン公爵を遣わしてデュ・バリー夫人に挨拶を届けた。
これが一七七四年五月九日のことであった。
廷臣たちは王太子の館を離れ、寵姫のいるリュイユに群れをなして押し寄せた。これほどまでに馬車が列を作ったのは、ド・ショワズール氏がシャントルーに追放されて以来のことだ。
事態はここまで来ていた。国王は長らえて、デュ・バリー夫人は女王の地位を守るのか?
国王は身罷り、デュ・バリー夫人はただの忌むべき娼婦でしかなくなるのか?
一七七四年五月九日の夜八時、ヴェルサイユで極めて興味深い光景が繰り広げられていたのには、こうした事情があった。
宮殿前のアルム広場には幾つも人だかりが出来て柵の前に群がっていた。情報が欲しくてたまらないお人好したちだ。
衛兵に向かって出来うる限り丁寧に国王の近況をたずねているのはヴェルサイユやパリのブルジョワたちだった。衛兵たちは手を後ろに組んで無言で正面広場を歩き回っていた。
徐々に人だかりは数を減らしていった。パリの住人は乗合馬車に乗り込んで家に戻り、じかに情報を聞けると信じていたヴェルサイユの住人も家路についた。
もはや町にはいつもより無気力に務めを果たしている見廻りしか見えない。ヴェルサイユ宮殿と呼ばれる巨大な世界は、宮殿を囲むさらに大きな世界と共に、徐々に夜と静寂に覆い尽くされた。
その夜、宮殿の正面にある並木通りの角、石の腰掛けの上、マロニエの木陰に、年老いた男が坐っていた。宮殿に顔を向け、杖で両手を支え、その両手で頭を支えて物思いに耽っている。腰の曲がったやつれた老人ではあったが、目からは炎が放たれていたし、頭の中では目の中よりも熱い炎が燃えていた。
老人は瞑想と物思いに沈んでいたので、宮殿の外れにもう一人の人間がいることには気づかなかった。その人物は探るように柵を見つめ、衛兵に質問をしてから、広場を横切り、腰掛けに向かって真っ直ぐやって来るのは、足を休めようというつもりらしい。
まだ若く、突き出た頬骨、やつれた顔、曲がった鷲鼻、口元に浮かんだ冷笑。一人だというのに腰掛けに向かって歩きながらにやにや笑っているのは、何か人知れぬ考えに耽っているのだろう。
腰掛けの手前まで来て老人に気づき、後ずさった。何者なのか横目で確かめようとしながら、見つめていることに気づかれやしないかとも感じていた。
「涼んでらっしゃるのですか?」とっさに近づいてたずねた。
老人が顔を上げた。
「先生!」若者が声をあげた。
「医者の卵のお方でしたか」
「隣に坐っても構いませんか?」
「もちろんです」
老人が若者に場所を空けた。
「国王は快方に向かっているようです。みんな喜んでますよ」
若者はそう言って再び笑い声をあげた。
老人は無言だった。
「一日中、パリからリュイユ、リュイユからヴェルサイユに、馬車が駆け巡り……デュ・バリー伯爵夫人は、国王が回復次第、結婚することになりそうです」
そう言うと、さらに大きく哄笑した。
老人はそれでも口を開かない。
「馬鹿笑い失礼」若者は苛立ちを見せた。「善良なフランス人は国王を愛していますし、その国王が快方に向かっているんですから」
「ふざけるような話題ではないでしょう。人が死ねばその死を悲しむ人間は必ずいますし、国王の死は誰にとっても悲劇なのではないでしょうか」
「死ぬのがルイ十五世でも?」若者が皮肉な口調で遮った。「先生! 偉大な哲学者であるあなたがそんな主張を!……あなたの逆説の腕前はよくわかっていますが、それを駆使させるつもりはありませんよ……」
老人は首を横に振った。
「そもそも、どうして国王が死ぬと思われたんです? 誰がそんな話を? 国王が天然痘だ、ということしかわからないのに。ボルドゥとラ・マルティニエールがつきっきりなんですよ。二人とも名医だ……最愛王ルイが良くなる方に賭けましょう。ただし今回は国民も前回のように教会に籠って九日間の祈りを捧げてはいません……使い古されぬものなどないのですよ」
「お黙りなさい!」老人が身体を震わせた。「今この瞬間にも神が手を差し伸べている人間のことを、そんな風に話すものではない……」
若者は意外な言葉に驚いて、老人を見つめた。老人は宮殿から目を離さない。
「何か確かな情報でも?」
「見なさい」老人が宮殿の窓を指さした。「何が見える?」
「窓に明かりが……そうですね?」
「そうです……では何の明かりでしょうか?」
「角灯の中の蝋燭の明かりでしょう」
「まさしく」
「すると?」
「すると、あの蝋燭の光が何を意味するのかわからないのですか?」
「ええ」
「あれは国王の命です」
若者は老人をまじまじと見つめた。頭がおかしいわけではないと自分に言い聞かせようとでもするように。
「友人のド・ジュシュー氏が、あそこに蝋燭を置いて、国王が生きている間は燃やしているのですよ」
「合図ですか?」
「ルイ十五世の後継者が、カーテンの後ろからあの合図に目を注いでいます。あの合図こそ、次なる治世の始まりを野心家たちに告げ、私のような哀れな哲学者には、神が時代と存在に息を吹きかける時代の来ることを告げているのです」
今度は若者が震え、老人の腰掛けに近寄った。
「あの夜空をご覧なさい。雲と嵐が蠢いているのがわかりませんか……それに続く夜明けも私は見ることが出来るはずです。明日の光を見ることが出来ぬほど年老いてはおりませんからね。ですがこれから始まる一つの治世については話が別です。あなたなら終わりまで見届けられるでしょう……私には見ることの叶わない謎をあの空のように蠢かせている治世を……ですから今ご説明したあの揺らめく蝋燭の火を、私が見つめているのも無意味ではないのです」
「その通りです」若者が呟いた。「まったくその通りです」
「ルイ十四世の治世は七十三年でした。ルイ十五世の世は何年でしょうか?」
「あっ!」若者が窓を指さした。光がふっと消えていた。
「国王が亡くなったのです!」老人が怯えたように立ち上がった。
二人はしばらく黙りこくっていた。
突然、八頭引きの四輪馬車が宮殿の中庭から駆け出して来た。馬丁が二人、松明を手に先導している。馬車には王太子、マリ=アントワネット、王妹マダム・エリザベートが乗っていた。松明の光が青ざめた顔を不気味に照らしている。馬車は腰掛けに近い二人のそばを通り過ぎた。
「ルイ十六世万歳! 王妃万歳!」若者が金切り声を出した。新王を祝うのではなく呪うような声だった。
王太子が挨拶を返した。王妃が厳めしく悲しげな顔を上げた。馬車は見えなくなった。
「ルソーさん」と若者が言った。「これでデュ・バリー夫人は未亡人です」
「明日、夫人は追放されるでしょうね」老人が答えた。「さようなら、マラーさん……」
幕