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翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 13-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 ルイ十四世はコルベールの教えに従って、二人の徴税請負人を吊るすことでその治世を始めた。その後ラ・ヴァリエールを愛人にして、ヴェルサイユを造らせた。ラ・ヴァリエールは金食い虫ではなかった。

 だが国王はヴェルサイユに愛妾を泊めたがり、ヴェルサイユは金を食った。

 そして一六八五年、新教徒だからだという理由で、何万人もの職人が追放された。

 そして一七〇七年、いまだ大王の世、【経済学者の】ボワギルベール(Boisguillebert)が一六九八年のことを話しながら言った。

「あの頃はまだどうにかなっていた。あの頃には灯す油があったからね。今は何も出来ない。原料がなくなってしまったから」

 二十年後、デュ・バリー家とポリニャック家がそんなものには無頓着にやり出した暁には、いったい何と言っただろうか? 初めは人々に水を流させ、次いで血を流させた。それだけのことだ。

 それもうっとりするような手際で。

 かつての徴税人は粗野で厳しく冷たかった。囚人を閉じ込めている檻のように。

 それが今では慈善家の仲間入りだ。むしり取るのは事実だが、一方で病院を建ててもいる。

 金融関係の友人によれば、間接税だけで一億二千万フランの税収があり、徴税人はそのうち七千万を自由にしていた。

 斯くして会議の席で支出の状態étatsを問われた議員は、「必要なのは特別な状態ではなく、通常の状態états généraux=三部会だ」と言葉を掛けて答えた。

 火花が火薬に落ち、火薬は火を吹き火災を引き起こした。

 誰もが議員の言葉を繰り返し、やがて三部会は大きな叫びとなった。

 政府は三部会の開催を決定した。開催日は一七八九年五月一日。【1787.7】

 一七八八年八月二十四日、ド・ブリエンヌは辞職した。迅速な財政の立て直しを試みた人物の一人であった。

 だが辞職しながらも適切な助言だけは忘れなかった。ネッケルの再登用である。

 ネッケルが大臣に返り咲き、世間もほっと息をついた。【1788.8】

 それでも三身分の問題がフランス全土の話題から無くなることはなかった。

 シェイエスが第三身分についてのあの有名なパンフレットを刊行した。【1789.1】

 政府の意向を無視して開かれたドーフィネの三部会で、第三身分代表も貴族代表や聖職者代表と対等であることが決定された。【1788.7】

 二度目の名士会議が開かれた。【1788.11】

 この会議は三十二日間にわたって開催された。一七八八年十一月六日から十二月八日までである。

 今回は神が御手を加えた。王家の鞭では飽き足らず、神の鞭が宙でしなり、人々を追い立てた。

 冬が飢饉を連れてやって来た。

 飢えと寒さが一七八九年の扉を開いた。

 パリは人混みで溢れ、路上が彷徨う人々で埋まった。

 何度かにわたって飢えている人々の前に武器が積み上げられた。

 だがそれから、その武器は使うべき時にも使われることはなかった。

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『ジョゼフ・バルサモ』 164&エピローグ

第百六十四章 アゾレス諸島

 船長の言葉どおりの時間に、船の前方、輝く太陽の彼方に、北東に連なる群島の海岸線が見えた。

 アゾレス諸島だ。

 風が海岸に吹き寄せ、船は順調に進んだ。午後三時頃、島が全貌を現わした。

 奇妙な形の丘の天辺が幾つも見えた。火山活動によって黒ずんだ岩石、輝く尾根と深い崖が形作る起伏。

 一つ目の島にある大砲の射程距離に入ると、船が止まった。乗組員が上陸の準備を始めた。船長が言っていたように、冷たい水を数トン補給する為である。

 乗客全員が地上を歩けることにわくわくしていた。何十日にもわたる辛い船旅を送った後で固い大地に足を降ろす喜びは、長い航海をした者だけが味わえる感覚だった。

「皆さん」心を決めかねている乗客に向かって船長が声をかけた。「上陸時間は五時間です。この機会にお楽しみ下さい。自然に興味がおありなら、人っ子一人いないこの島には冷たい泉がございます。狩りに興味がおありなら、兎や山鶉がいます」

 フィリップは銃と弾丸を身につけた。

「ところで船長は船に残るのですか? ぼくらと一緒には来ないのですか?」

「あれですよ」船長は海に注意を向けさせた。「怪しい動きをしている船がある。四日前くらいから跡を尾けて来ています。面構えが気に食わない、とでも言いますか、それで船の動きを見張っていようと考えております」

 フィリップはその説明に納得し、しんがりのボートに乗って地上に向かった。

 ご婦人たちや甲板の乗客の中には、敢えて降りようとしないのか、はたまた順番を待っているらしき人たちもいた。

 二艘のボートが遠ざかってゆく。乗っているのは機嫌のいい水夫たちと、さらに上機嫌な乗客たちだ。

 船長が最後に発したのは、

「八時になったら最終ボートでお出迎えいたします。いいですか、遅れた者は置き去りにしていきます」、という言葉だった。

 自然に興味のある者も狩りに興味のある者も誰もが上陸し終えると、水夫たちは海岸からほどしばらくのところにある洞窟に駆け込んだ。洞窟は日光を避けでもするように大きく曲がっていた。

 青く甘美な水を湛えた冷たい泉が、苔むした岩の下に流れ、洞窟から出ることなく、細かい流砂の奥に消えていた。

 水夫たちがそこで立ち止まり、水で樽を満たして海岸まで転がして行こうとしている。

 フィリップはそれを見つめていた。洞窟の青みがかった暗さに見とれていた。ひんやりとした空気や、水が滝を流れ落ちる心地よい音に、身体を委ねていた。淡く神秘的な光の散りばめられた暖かい暗がりからほんの数分のところに、光の射さない暗闇と涼しい場所があることに驚きを隠せなかった。手を伸ばし、岩壁にぶつかりながら、姿の見えない水夫たちを追いかけた。やがて少しずつ顔や姿が光に照らされ明らかになり始めた。空の光よりも、澄んでいる洞窟の光の方が好きだった。海岸に溢れている陽射しはうるさいし強過ぎる。

 そうこうしているうちに同行者たちの声が遠くに消えてゆく。銃声が一つ二つ、山の方で鳴り響いたかと思うと静かになり、フィリップは一人取り残されていた。

 水夫たちの方は仕事を終えていた。もう洞窟には戻って来ないだろう。

 フィリップは徐々にこの孤独の魔力と考え事の渦に引き込まれていた。柔らかい砂に寝そべり、むんむんとする苔むした岩に凭れて、物思いに耽った。

 こうして時間は流れ、浮世のことなど忘れていた。弾を抜いた銃を傍らの岩に寝かせると、安心して休めるように、肌身離さず持ち歩いている拳銃をポケットから取り出した。

 昔のことが何もかも甦って来た。ゆっくりと、厳かに、まるで諭したり責めたりするように。これからのことは何もかも飛び去ってしまった。時たま姿を見せはするが手では触れられなかったここらの野生の鳥のように、素っ気なく。

 フィリップがこのように物思いに耽っている間、ほかの人々もつい鼻の先で物思いに耽ったり、声をあげて笑ったり、希望に胸をふくらませたりしていたようだ。フィリップもそれを漠然と感じ取っていたし、ボートの櫂を漕ぐ音も一度ならず聞こえていたような気がする。海岸に向かっているのか、乗客を船まで送っているのだろう。気晴らしに飽きた人々もいれば、今度は自分が楽しむ番だと意気込む人々もいるに違いない。

 だがそれでもフィリップの夢想が破られることはなかった。洞窟の入口に気づかれなかったのかもしれないし、或いは目にしても入る気にならなかったのかもしれない。

 不意に人影がおずおずと躊躇うように、陽射しと洞窟のちょうど境目の辺りに現れた……誰かが歩いて来る。手探りで、背を丸め、水のせせらぎに近づいて来る。一度など苔に足を滑らせて岩にぶつかりもした。

 それを見たフィリップは立ち上がって手を差し伸べようとした。フィリップの指と件の人物の手が暗闇の中で触れ合った。

「こちらです」フィリップは明るい声を出した。「水はこちらです」

 その声を聞いて相手の人物がぱっと顔を上げた。洞窟の青ざめた光に顔をさらし、口を利こうとした。

 だが突然フィリップが恐ろしい悲鳴をあげ、後じさった。

 それを聞いて相手の方も叫び声をあげて後じさった。

「ジルベール!」

「フィリップ!」

 二人の声が地を這う雷鳴のように同時に鳴り響いた。

 その後に聞こえるのは争いの音だけだった。フィリップは両手でジルベールの首根っこをつかみ、洞窟の奥に引きずり込んだ。

 ジルベールは呻き声一つ出さずに引きずられていた。岩に押しつけられ、もう後じさることも出来ない。

「人でなしめ! とうとう捕まえたぞ!……神のお導きだ……神が正しく裁いて下さったんだ!」

 ジルベールは真っ青になって一言も発しなかった。両腕をだらりと降ろした。

「臆病な卑怯者め! 身を守る本能すらないのか」

 だがジルベールは悲痛な声を出した。

「身を守るですって? どうしてです?」

「自分がぼくの手の内にあることも、罰を受けて当然の人間だということも知っているはずだ。罪を犯したのは間違いない。おまえは一人の女を辱め、残酷にも息の根を止めたんだ。一人の生娘を辱めただけでなく、一人の母親を死に至らしめようとしたんだ!」

 ジルベールは一言も答えない。フィリップは思わずかっとなり、再びジルベールに手を伸ばした。抵抗はなかった。

「おまえは男じゃないのか?」フィリップはジルベールを乱暴に揺さぶった。「うわべだけなのか?……抵抗すらしないなんて!……首を絞めているんだぞ、抵抗くらいしたらどうだ! 身を守るがいい……意気地なしめ! 臆病者! 人殺し!」

 フィリップの指が喉に食い込むのを感じたジルベールは立ち上がって身体を強張らせ、獅子のように獰猛に、肩を動かしただけでフィリップを投げ飛ばし、腕を組んだ。

「わかりましたか? 守ろうと思えば身を守れるんです。でもそれに何の意味があるんですか? あなたは銃に飛びついているじゃないですか。爪で引き裂かれたりぼこぼこに殴られたりするよりは、一発で殺される方を選びます」

 確かにフィリップは銃をつかんでいた。だがジルベールの言葉を聞いて銃を押しやった。

「違うんだ」

 呟いてから、はっきりと声に出してたずねた。

「何処に行くつもりなんだ?……どうしてここにいる?」

「僕はラドニ号に乗っているんです」

「では隠れていたのか? ぼくに気づいていたのか?」

「あなたが乗っていることさえ知りませんでした」

「嘘だ」

「嘘じゃありません」

「だったらどうして姿が見えなかったんだ?」

「夜にならないと部屋から出ないようにしていたからです」

「ほらみろ、隠れていたんじゃないか!」

「そうかもしれません」

「ぼくから隠れていたんだな?」

「そうじゃありません。アメリカ行きはある任務の為で、人に見られてはならないんです。船長が乗客とは別に部屋を用意してくれました……その為に」

「おまえは隠れていたんだ。ぼくから逃れる為に……分けても、攫った子供を隠す為に」

「子供ですって?」

「そうだ、いつかその子を武器にして利益を引き出そうと、攫って連れ歩いているんだろう。人でなしめ!」

 ジルベールが首を横に振った。

「ぼくがあの子を取り返したのは、父親を軽蔑したり裏切ったりするようなことを覚えてもらいたくなかったからです」

 フィリップは少し呼吸を整えた。

「それが本当なら……それを信じるとすれば、おまえも思っていたほど悪人ではないようだな。だがどうして攫ったことまで正直に話したんだ?」

「僕が攫ったですって?」

「あの子を攫っただろう」

「僕の子ですよ! 僕のものだ! 自分のものを取り返すのは盗みでも誘拐でもありません」

 フィリップが怒りに身を震わせた。「いいか! ぼくはついさっきまでおまえを殺そうと考えていたんだぞ。そう心に誓ったし、そうする権利がぼくにはあるんだ」

 ジルベールは無言だった。

「ところが神が光を与えて下さった。神はぼくの足許におまえを投げ出し、『復讐は無益。神から見放された者のみが復讐に手を染めなさい……』と仰ったんだ。だからおまえは殺さない。おまえが組み立てた悪しき計画を壊すだけにしておこう。おまえにとってあの子は将来の手だてなのだろうが、今すぐぼくに返すんだ」

「でも子供はいません。赤ん坊を二週間も船で旅行させられるわけがないじゃないですか」

「子守りを見つけなければならなかったものな。子守りを連れて来ているんだろう?」

「あの子を連れて来てはいないんです」

「あの子をフランスに置き去りにしたと言うのか? 何処に置いて来たんだ?」

 ジルベールが口をつぐんだ。

「答えろ! 何処の子守りに預け、どれだけ金を積んだんだ?」

 ジルベールは口をつぐんだままだ。

「人でなしめ、逆らう気か? 堪忍袋の緒が切れようとも厭わないというわけか……妹の子が何処にいるのか教えてくれ。あの子を返してくれ」

「僕の子は僕のものです」

「ろくでなしめ! どうやら死にたいらしいな!」

「僕の子を差し出すつもりはありません」

「ジルベール、落ち着いて話そう。過去のことは水に流すように努めるし、おまえのことも恨んだりしない。ぼくが優しいのは知っているだろう?……許すよ! おまえがぼくらの家に放り込んだ恥と不幸のすべてを許すと言っているんだ。とんでもない譲歩だぞ……あの子を返してくれ。何が望みだ?……アンドレが抱いていて当然の嫌悪感を取り除いて欲しいのか? 取りなして欲しいのか? わかった……やってみよう……あの子を返してくれ……それと……アンドレはあの子を愛している……おまえの子を熱愛しているんだ。後悔していることがわかればアンドレの気持も変わるだろう。約束する。誓うよ。だからあの子を返してくれ、ジルベール、返してくれ!」

 ジルベールは腕を組んで、暗い炎の宿った瞳でフィリップを見つめた。

「あなたは僕のことを信じなかった。僕もあなたを信じません。あなたが不正直だからじゃない。身分の隔たりの深さを嫌というほどわかっているからです。返してもらうものが多ければ多いほど、それだけ許しも多い。僕らは天敵同士……あなたは強い。きっと勝つでしょう……武器から手を離せとは言いません。だから僕の武器も取り上げないで下さい……」

「武器だと認めるんだな?」

「ええ、そうです。軽蔑と忘恩と侮辱に対する武器として!」

「もう一度だけ聞く、ジルベール」フィリップの口元には泡が浮かんでいた。「返してくれ……」

「嫌です」

「考え直せ!」

「嫌です」

「おまえを一方的に殺したくないんだ。おまえにもアンドレの兄を殺す機会を与えよう。また一つ罪が増えるな!……いいだろう。この拳銃を取れ。ここにもう一つある。お互い三つまで数えてから、引き金を引くんだ」

 フィリップはジルベールの足許に拳銃を放った。

 ジルベールは動かない。

「決闘なんて冗談じゃありません」

「では自殺する方を選ぶのか?」フィリップは怒りと絶望に吠え狂った。

「あなたに殺されることを選びます」

「よく考えろ……頭がおかしくなりそうだ」

「よく考えた結果です」

「ぼくには殺す権利がある。神はぼくをお許しになるはずだ」

「わかっています……殺して下さい」

「これが最後だぞ。決闘する気はあるのか?」

「望みません」

「身を守るつもりはないのか?」

「ええ」

「わかった。だったら罪人として死ねばいい。ぼくが地上を浄めてやる。冒涜者や強盗や犬コロのように死ねばいい!」

 フィリップは至近距離からジルベールに銃弾を撃ち込んだ。ジルベールは腕を伸ばし、後ろによろめいたかと思うと、前にかしぎ、声をあげることもなくうつぶせに倒れた。足許の砂に生暖かい血が染み込むのを感じたフィリップは、すっかり動顛して洞窟から飛び出した。

 目の前には海岸があり、小舟が待っていた。出発時刻は八時だと言っていた。今は八時数分過ぎだった。

「あなたですか……」水夫たちが声をかけた。「あなたで最後ですよ……みんな船に戻りました。何を仕留めたんです?」

 フィリップはその言葉を聞いて意識を失った。そういうわけで出航の準備をしている船まで運ばれることになった。

「みんな戻ったか?」船長がたずねた。

「俺らが連れて来たのが最後の乗客です。滑って転んだんでしょうな、気を失ってしまいましたぜ」

 船長が決定を下し、船はアゾレス諸島を速やかに離れた。それと入れ替わりに、じりじりして待っていた大型船が、アメリカ国旗の掲げられた港に移動した。

 ラドニ号の船長はその大型船と合図を交わし、不安を見せる様子もなく、進路を西に取ると、やがて夜の闇の中に見えなくなった。

 乗客が一人足りないことに気づいたのは翌日になってからだった。

 

エピローグ

 一七七四年五月九日、夜八時、ヴェルサイユでは興味深い光景が繰り広げられていた。

 その月の初めからルイ十五世が重い病にかかり、医者もどれだけ深刻かを口にはしようとしないものだから、寝込んでいる国王は真実か希望を求めるように周囲に目を走らせていた。

 国王を診察したボルドゥ医師は、それがたちの良くない天然痘であることを指摘していた。同じ見立てをしたラ・マルティニエール医師は、国王に告知すべきだという立場だった。精神的にも肉体的にも、キリスト教徒として、国王の救済と王国の救済のため措置を執らなくてはならないのだから、というのがその理由だ。

「キリスト教の信仰篤きフランス国王陛下には、終油の秘蹟を受けていただかなくてはなりません」

 ラ・マルティニエールは王太子派、即ち反体派だった。ボルドゥが言うには、病気が重いことを単刀直入に告げれば国王の命を縮めることになる、暗殺者の前で尻込みしていた御仁なのだ。

 ボルドゥはデュ・バリー派だった。

 国王の許に聖職者を呼ぶのは、寵姫を退出させるということだ。神が戸を開けて入って来れば、必ずや悪魔が別の扉から入って来る。

 医師、家族、各派閥が内部分裂している間も、放蕩のせいで衰え、老いて衰弱した身体に、病気は穏やかに留まっていた。病はこうして力を蓄え、どんな薬でも医療でも追い出せぬようになってしまった。

 ルイ十五世の不節制にはデュ・バリー夫人も快く手を貸していた。そうした不節制が祟って病の発作が起こってからというもの、国王の枕元には二人の娘に、寵姫、寵臣たちが侍っていた。誰もがまだ笑っていたし、自らを鼓舞していた。

 驚いたことに、ヴェルサイユにマダム・ルイーズ・ド・フランスが厳めしく陰気な姿を見せた。サン=ドニの独房を離れ、父の世話をしにやって来たのだ。

 運命の女神像のように冷たく陰鬱なその姿は、もはや娘でもなく姉妹でもなかった。それはまるで、辛い逆境の日々の中で国王に災いの声を報せに来た、太古の予言者のようであった。ヴェルサイユに到着したのは一時――国王がデュ・バリー夫人の手に口づけし、その手を優しく愛撫するように、火照った額や頬に押し当てた日のことだった。

 その姿を目にして、誰もが逃げ出した。姉妹たちは震えながら隣室に逃げ込んだ。デュ・バリー夫人はひざまずき、自室に駆け込んだ。寵臣たちも控えの間まで退いた。二人の医師だけが暖炉の脇に留まっていた。

「そなたか!」国王は痛みと熱のせいで閉じていた目を開いた。

「わたくしです、陛下」

「いったいどうして……」

「神から遣わされました」

 国王は身体を起こし、口元に笑みを作った。

「陛下は神をお忘れでしたから」

「余が……?」

「神のことを思い出していただきに参りました」

「待ちなさい! 余はまだ死ぬわけではない。そんなに説教を急がなくともよい。重い病ではないのだ。筋肉の痛みと軽い炎症だよ」

「陛下のご病気は、習わしに従って王国の聖職者を枕元に集めなくてはならないほどのものです。王家の人間が天然痘にかかった際には、直ちに終油の秘蹟を受ける決まりでございましょう」

「マダム!……」国王は目に見えて動揺し、青ざめた。「そなたは何を言っておるのだ?」

「マダム!……」医師たちも顔に怯えの色を浮かべた。

「陛下は天然痘にかかっていると申し上げているのです」

 国王が叫びをあげた。

「医師たちはそのようなことは言わなかったぞ」

「敢えて申し上げなかったのです。わたくしは陛下に代わってフランスとは別のもう一つの王国を見て参りました。どうか神の身許にお近づきになり、これまでお過ごしになった日々をお検め下さい」

「天然痘だと!……もう助からぬのか!……何ということだ!……ラ・マルティニエール!……本当なのか?」

 医師は二人とも顔を伏せた。

「まさかもう死期が近いのか?」国王の顔からさらに血の気が引いた。

「治らぬ病気などございません」真っ先にボルドゥが答えた。「お心を確かになさっていればなおのこと」

「神は心の平穏も肉体の救済も与えて下さいます」マダム・ルイーズはそう答えた。

「マダム」ボルドゥの声は小さくはあったが迫力に満ちていた。「陛下を殺すおつもりですか!」

 王女はそれには答えようとせず、国王に近づくと、手を取って口づけした。

「過去を断ち、国民に範をお示し下さい。誰も陛下にお知らせなさいませんでしたね。危うく永遠に魂を失うところでございました。地上にお留まりになれましたら、キリスト教徒として生きることをお誓い下さい。神が陛下をお召しになるのなら、キリスト教徒として死ぬことをお約束下さい」

 話を終えるともう一度口づけをして、ゆっくりと控えの間に歩いて行った。控えの間に来ると黒いヴェールを下ろし、階段を降りて馬車に乗った。何も考えられずに恐怖で呆然としている国王を後ろに残して。

 国王は医師に質問することでしか正気を保てない状態だったが、はっと我に返っていた。

「シャトールー公爵夫人とメスで演じた醜態を繰り返しとうない。デギヨン夫人を寄こして、デュ・バリー夫人をリュイユに連れて行ってくれ」*1

 この命令は爆弾だった。ボルドゥが何か言おうとしたが、国王に止められた。第一、ラ・マルティニエールが王太子に報告するのは目に見えている。国王の病状とその行き着く先を理解していたボルドゥは、抗わずに部屋を出て、デュ・バリー夫人に衝撃的な事実を知らせに向かった。

 誰もが顔に浮かべている蔑むような不吉な表情を見て怯えていた伯爵夫人は、報せを聞いてすぐに姿を消した。一時間後、伯爵夫人はヴェルサイユを出て、忠実なデギヨン公爵夫人に連れられて、リュイユの城館に到着した。リシュリューから相続したものである。ボルドゥの方では、伝染の恐れがあるという名目で、王家の人間を締め出した。こうしてルイ十五世の寝室は隔離された。中に入れるのは聖職者と死神だけとなった。同日、国王は秘蹟を施され、その報せはパリに広がった。寵姫が失脚したことは既に過去のものとなっていた。

 廷臣という廷臣が王太子の許を訪れて取り次いでもらうのを待ったが、王太子は扉を閉め切って誰も入らせなかった。

 ところが翌日、力を取り戻した国王がデギヨン公爵を遣わしてデュ・バリー夫人に挨拶を届けた。

 これが一七七四年五月九日のことであった。

 廷臣たちは王太子の館を離れ、寵姫のいるリュイユに群れをなして押し寄せた。これほどまでに馬車が列を作ったのは、ド・ショワズール氏がシャントルーに追放されて以来のことだ。

 事態はここまで来ていた。国王は長らえて、デュ・バリー夫人は女王の地位を守るのか?

 国王は身罷り、デュ・バリー夫人はただの忌むべき娼婦でしかなくなるのか?

 一七七四年五月九日の夜八時、ヴェルサイユで極めて興味深い光景が繰り広げられていたのには、こうした事情があった。

 宮殿前のアルム広場には幾つも人だかりが出来て柵の前に群がっていた。情報が欲しくてたまらないお人好したちだ。

 衛兵に向かって出来うる限り丁寧に国王の近況をたずねているのはヴェルサイユやパリのブルジョワたちだった。衛兵たちは手を後ろに組んで無言で正面広場を歩き回っていた。

 徐々に人だかりは数を減らしていった。パリの住人は乗合馬車に乗り込んで家に戻り、じかに情報を聞けると信じていたヴェルサイユの住人も家路についた。

 もはや町にはいつもより無気力に務めを果たしている見廻りしか見えない。ヴェルサイユ宮殿と呼ばれる巨大な世界は、宮殿を囲むさらに大きな世界と共に、徐々に夜と静寂に覆い尽くされた。

 その夜、宮殿の正面にある並木通りの角、石の腰掛けの上、マロニエの木陰に、年老いた男が坐っていた。宮殿に顔を向け、杖で両手を支え、その両手で頭を支えて物思いに耽っている。腰の曲がったやつれた老人ではあったが、目からは炎が放たれていたし、頭の中では目の中よりも熱い炎が燃えていた。

 老人は瞑想と物思いに沈んでいたので、宮殿の外れにもう一人の人間がいることには気づかなかった。その人物は探るように柵を見つめ、衛兵に質問をしてから、広場を横切り、腰掛けに向かって真っ直ぐやって来るのは、足を休めようというつもりらしい。

 まだ若く、突き出た頬骨、やつれた顔、曲がった鷲鼻、口元に浮かんだ冷笑。一人だというのに腰掛けに向かって歩きながらにやにや笑っているのは、何か人知れぬ考えに耽っているのだろう。

 腰掛けの手前まで来て老人に気づき、後ずさった。何者なのか横目で確かめようとしながら、見つめていることに気づかれやしないかとも感じていた。

「涼んでらっしゃるのですか?」とっさに近づいてたずねた。

 老人が顔を上げた。

「先生!」若者が声をあげた。

「医者の卵のお方でしたか」

「隣に坐っても構いませんか?」

「もちろんです」

 老人が若者に場所を空けた。

「国王は快方に向かっているようです。みんな喜んでますよ」

 若者はそう言って再び笑い声をあげた。

 老人は無言だった。

「一日中、パリからリュイユ、リュイユからヴェルサイユに、馬車が駆け巡り……デュ・バリー伯爵夫人は、国王が回復次第、結婚することになりそうです」

 そう言うと、さらに大きく哄笑した。

 老人はそれでも口を開かない。

「馬鹿笑い失礼」若者は苛立ちを見せた。「善良なフランス人は国王を愛していますし、その国王が快方に向かっているんですから」

「ふざけるような話題ではないでしょう。人が死ねばその死を悲しむ人間は必ずいますし、国王の死は誰にとっても悲劇なのではないでしょうか」

「死ぬのがルイ十五世でも?」若者が皮肉な口調で遮った。「先生! 偉大な哲学者であるあなたがそんな主張を!……あなたの逆説の腕前はよくわかっていますが、それを駆使させるつもりはありませんよ……」

 老人は首を横に振った。

「そもそも、どうして国王が死ぬと思われたんです? 誰がそんな話を? 国王が天然痘だ、ということしかわからないのに。ボルドゥとラ・マルティニエールがつきっきりなんですよ。二人とも名医だ……最愛王ルイが良くなる方に賭けましょう。ただし今回は国民も前回のように教会に籠って九日間の祈りを捧げてはいません……使い古されぬものなどないのですよ」

「お黙りなさい!」老人が身体を震わせた。「今この瞬間にも神が手を差し伸べている人間のことを、そんな風に話すものではない……」

 若者は意外な言葉に驚いて、老人を見つめた。老人は宮殿から目を離さない。

「何か確かな情報でも?」

「見なさい」老人が宮殿の窓を指さした。「何が見える?」

「窓に明かりが……そうですね?」

「そうです……では何の明かりでしょうか?」

「角灯の中の蝋燭の明かりでしょう」

「まさしく」

「すると?」

「すると、あの蝋燭の光が何を意味するのかわからないのですか?」

「ええ」

「あれは国王の命です」

 若者は老人をまじまじと見つめた。頭がおかしいわけではないと自分に言い聞かせようとでもするように。

「友人のド・ジュシュー氏が、あそこに蝋燭を置いて、国王が生きている間は燃やしているのですよ」

「合図ですか?」

「ルイ十五世の後継者が、カーテンの後ろからあの合図に目を注いでいます。あの合図こそ、次なる治世の始まりを野心家たちに告げ、私のような哀れな哲学者には、神が時代と存在に息を吹きかける時代の来ることを告げているのです」

 今度は若者が震え、老人の腰掛けに近寄った。

「あの夜空をご覧なさい。雲と嵐が蠢いているのがわかりませんか……それに続く夜明けも私は見ることが出来るはずです。明日の光を見ることが出来ぬほど年老いてはおりませんからね。ですがこれから始まる一つの治世については話が別です。あなたなら終わりまで見届けられるでしょう……私には見ることの叶わない謎をあの空のように蠢かせている治世を……ですから今ご説明したあの揺らめく蝋燭の火を、私が見つめているのも無意味ではないのです」

「その通りです」若者が呟いた。「まったくその通りです」

「ルイ十四世の治世は七十三年でした。ルイ十五世の世は何年でしょうか?」

「あっ!」若者が窓を指さした。光がふっと消えていた。

「国王が亡くなったのです!」老人が怯えたように立ち上がった。

 二人はしばらく黙りこくっていた。

 突然、八頭引きの四輪馬車が宮殿の中庭から駆け出して来た。馬丁が二人、松明を手に先導している。馬車には王太子、マリ=アントワネット、王妹マダム・エリザベートが乗っていた。松明の光が青ざめた顔を不気味に照らしている。馬車は腰掛けに近い二人のそばを通り過ぎた。

「ルイ十六世万歳! 王妃万歳!」若者が金切り声を出した。新王を祝うのではなく呪うような声だった。

 王太子が挨拶を返した。王妃が厳めしく悲しげな顔を上げた。馬車は見えなくなった。

「ルソーさん」と若者が言った。「これでデュ・バリー夫人は未亡人です」

「明日、夫人は追放されるでしょうね」老人が答えた。「さようなら、マラーさん……」

 

 幕

『ジョゼフ・バルサモ』 163/165

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百六十三章 船上にて

 その時から、アンドレの家には墓場のような静寂と陰鬱な空気が垂れ込めた。

 我が子の死を伝えられてアンドレは死んでいたかもしれない。それは永遠に続くかと思われるような、鈍く重い苦しみだったはずだ。ジルベールの手紙は刺激が強すぎた。残されていた激しい力と感情のすべてが、アンドレの穏やかな心の中で爆発した。

 意識を取り戻したアンドレは兄を探し、兄の目に怒りを読み取ると勇気を新たにした。

 アンドレは声が出せるまで力が戻るを待ってから、フィリップの手を取った。

「お兄様、朝になればわたくしをサン=ドニ修道院に入れると仰いましたね。王太子妃殿下が一人部屋を用意して下さったとか」

「ああ」

「今日連れて行って下さいますか」

「わかってくれてありがとう、アンドレ」

「それから先生、お心遣いにお心尽くしには感謝してもしきれません。お礼しようにもこの世ではお礼の方法も見つけられませんわ」

 アンドレは医師に近づき抱擁した。

「このロケットにはわたくしの肖像画が入っています。十歳の誕生日に母からもらったものです。あの子のものになるはずでした。どうか預かっていただけますか。そうして、先生がこの世に生を授けたあの子のことや、看病して救って下さった母親のことに、時々でいいので耳を傾けて下さい」

 そう言ってアンドレは何の感情も見せずに修道院行きの準備を終え、夜六時には顔も上げずにサン=ドニの面会室の小門をくぐった。鉄柵の向こうで、感情を抑えきれないフィリップが、永遠となるであろう別れを心の中で呟いていた。

 憑物が落ちたようにアンドレから力が奪われた。慌てて駆け寄って来たフィリップが腕を広げ、アンドレの方に手を伸ばした。冷たい柵越しに二人は再会を果たし、涙で火照る頬を寄せ合った。

「さようなら、お兄様!」アンドレが悲しみを抑えきれずに泣き出した。

「さようなら!」フィリップも絶望に息を詰まらせて応えた。

「いつかあの子に会うことがあったなら……」アンドレが囁いた。「一度もこの手に抱きしめずには死にきれません」

「馬鹿なことは考えるな。さようなら」

 アンドレはフィリップから離れると、平修道女に付き添われて前に進んだ。その間中ずっと修道院の奥の暗がりを見つめ続けていた。

 フィリップはアンドレが見えなくなるまで表情で思いを伝え、やがて手巾を振り、最後には暗い回廊の奥からアンドレが送った別れの合図を受け取った。ついに二人の間に重い音を立てて鉄の門が降ろされ、すべてが終わった。

 フィリップはサン=ドニの宿駅に向かった。馬の背に鞄を置き、夜も昼もなく馬を走らせ、翌日の夜にはル・アーヴルに到着した。最初に見かけた宿に泊まり、その翌日の夜明けと共に、次にアメリカ行きの船が出る港は何処かをたずねた。

 ちょうどその日、ラドニ号がニューヨーク行きの出航準備を終えたところだ、という話だった。フィリップは船長に会いに行き、準備を終えたばかりの船長に途中までの船賃を支払って乗船の許可を得た。それから、王太子妃に対する心からの献身と感謝を伝える手紙を書いてから、荷物を船室に入れ、潮時になると自分も船に乗り込んだ。

 四時の鐘がフランソワ一世塔に鳴り響くと、ラドニ号は中檣帆と前檣帆を掲げて水路を出た。海は青く暗く、水平線上の空は赤く染まっていた。フィリップはまばらな同乗者と挨拶を交わし終えると、菫色の靄に覆われたフランスの海岸を見つめていた。船は帆を幾つも掲げ、右に大きく舵を切ると、エーヴ岬を過ぎ、満潮の海を進んだ。

 やがてフランスの海岸も、乗客も、海も、何も見えなくなった。真っ黒な夜が巨大な翼ですべてを包み込んだのだ。

 フィリップは小さな寝台に潜り込み、王太子妃に送った手紙の写しを読み返した。それは人に捧げた別れの言葉であると同時に、神に捧げた祈りでもあった。

『妃殿下、希望も支えもない人間は殿下の許を去らせていただきます。殿下の未来の為に何のお役にも立てなかったことが残念でなりません。殿下が政府の危機と難局の中でお過ごしになる間、斯かる人間は海の暴風と波瀾の中を進みます。お若くてお美しく、誠実なご友人と熱烈な信奉者に崇められ、取り囲まれていらっしゃる妃殿下は、王家の手によって人々の中から掬いあげていただいた者のことなどお忘れのことと存じますが、小生は妃殿下のことを絶対に忘れません。小生はこれから新世界に行って、玉座におわす妃殿下の為にもっとお役に立てる方法を学びます。見捨てられた哀れな花である妹のことはお願いいたします。妹にとって殿下の眼差しだけがもう一つの太陽となることでしょう。時々でよいのでどうか妹にも目を向けて下さい。慈しみの心や王権の力を纏い、万人から祝福を唱和される妃殿下にお願い申し上げます。もうその名を耳にすることも出会うこともない亡命者の為に、どうか祝福をお与え下さい』

 読み返すと心が締めつけられた。船が呻くような陰鬱な音を立て、円窓にぶつかった波が砕け散ってざわめき、どれだけ陽気な気分をも落ち込ませるような侘びしいアンサンブルを奏でていた。

 フィリップには長く苦しかった夜が終わった。朝になって船長の訪問を受けても、心は元のようには晴れなかった。船長の話では、大部分の乗客は海を恐れて船室に籠っているという。航海は短いが厳しいものになるだろう。暴風のせいだ。

 それ以来フィリップは船長と夕食を摂り、部屋で朝食を給仕させてもらうようになった。快適とは言い難い海に耐性があるとは思えなかったので、士官の外套にくるまって長い時間を上部甲板で過ごすようになった。残りの時間はこれからの計画を立てるのと、手紙を読み返して心の支えにするのに充てた。時々は乗客にも出会った。二人の婦人は遺産を相続しに北アメリカに行くところだった。二人の息子のいる老人を含む四人の男にも会った。こうした人々は一等船室の乗客だった。もっと庶民的な身なりをした人を見かけたこともある。興味を惹かれるような人間はいなかった。

 決まったことを繰り返すことで苦しみは和らぎ、空のように穏やかな心を取り戻していた。晴れ渡り嵐もない天気のいい日が続いているのは、温暖な気候帯に近づいているからだろう。甲板で過ごす人も増えた。人とは話さないと決め、船長にさえ名前を明かさず、如何なる話も避けて来たフィリップにも、夜中まで頭上で足音がしているのが聞こえていた。乗客たちと歩いている船長の声さえも聞こえる。上に出ないのはそういう理由だった。円窓を開いて冷たい空気を吸い込み、次の日が来るのを待った。

 一度だけ会話も足音も聞こえない夜に、フィリップは甲板に上がった。生暖かく、空は曇り、航跡が泡を立てて輝いていた。乗客たちにとっては、どうやら今夜は暗くて天気が悪いのだろう。船尾楼甲板では誰にも会わなかった。だが船首に行くと、第一斜檣に寄りかかって眠っているか空想に耽っているかしている人影が見えた。どうにか見分けたところでは、二等船室の乗客らしい。フィリップがフランスの港を見つめていた間、アメリカの港を夢見て前方を見つめていた亡命者だろう。

 フィリップはこの乗客を長いことじっと見つめていたが、朝の冷気に触れられて、船室に戻ろうとした……だが前甲板の乗客は白み始めた空を見つめたままだ。船長の足音を聞いてフィリップは振り返った。

「涼みにいらしたのですか?」

「今起きたところです」

「乗客に起こされてしまいましたか」

「あなたに、ですよ。軍の方も船乗りに負けず早起きのようですな」

「ぼくだけではないでしょう……あそこで物思いに耽っている人がいますよ。あの人も乗客ではありませんか?」

 気づいた船長が驚きを見せた。

「あれは誰です?」フィリップがたずねた。

「あれは……商人ですよ」船長が困ったように答えた。

「財産を追い求めているというわけですか? そういう人にはどうやらこの船は遅すぎるようだ」

 船長はそれには答えずに、乗客のところに行って声をかけた。すると乗客は中甲板に姿を消した。

「考え事の邪魔をしてしまったようですね」フィリップは戻って来た船長にそう言った。「別に迷惑だったわけではないのですが」

「なに、この辺りは朝の冷え込みが厳しいと忠告して来たんですよ。二等船室の客はあなたのように立派な外套を持っていませんからな」43825

「ここはどの辺りなのですか?」

「明日にはアゾレス諸島に着くので、そこで冷たい水を補給する予定です。暑くなりますから」

『ジョゼフ・バルサモ』 162

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百六十二章 ジルベール最後の挨拶

 フィリップは恐ろしい夜を過ごしていた。雪の上に足跡があるのを見れば、誰かが家に侵入して赤ん坊を攫ったのは明らかだった。だがいったい誰が? それを明らかにする手がかりが何もない。

 フィリップは父親のことがよくわかっていたから、父親こそこの事件の共犯であるのだと信じて疑わなかった。ド・タヴェルネ男爵はこの子の父親がルイ十五世だと信じていた。である以上、国王がデュ・バリー夫人におこなった不貞の、生きた証拠を確保することに大きな価値を見出したに違いない。遅かれ早かれアンドレが寵姫に助けを求め、もたらされるありきたりの財産にもっと高い値をつけて買い戻そうとすると信じたに違いない。

 父の性格について天啓を受けて、フィリップは多少なりとも落ち着きを取り戻した。誘拐犯が誰なのかわかっている以上、取り返す見込みはある。

 そこで八時にルイ医師を待ち伏せ、通りを歩きながら恐ろしい夜の出来事を話して聞かせた。

 医師は相談相手として最適だった。庭の足跡を調べ、考えた結果、フィリップの推理を後押しした。

「私も男爵のことは知っています。このくらいのことはしかねないでしょう。しかしですね、別の利害――もっと直接的な利害を持った人物が、この子の誘拐をおこなった可能性はないのでしょうか?」

「どういうことでしょうか?」

「本当の父親ですよ」

「そのことは考えました。でもあいつにはパンすらないんです。それにあの気違いは今頃は逃げ出して、ぼくの影にさえ怯えているはずです……間違ってはいけません、あいつは好機に乗じて罪を犯しました。でも今のぼくは怒りとは程遠いところにいるんです。あの犯罪者を憎んでいるのはもちろんですが、二度と顔を合わせないようにするつもりです。会うと殺してしまうでしょうから。あいつだって悔恨の念を感じて罪の意識に打たれているものだと信じてます。あいつなんて飢えてさすらえばいいんです、この剣を用いずともそれが復讐になるでしょうから」

「もうその話はやめにしましょう」

「一つだけ嘘に付き合ってくれませんか。何よりも大事なのは、アンドレを安心させることですから。昨日は赤ん坊の具合が心配になって、夜になってから乳母のところに連れて行ったのだと伝えてくれませんか。アンドレのことを思って最初に考えついた作り話なのです」

「伝えましょう。あなたは赤ん坊を捜しに?」

「手はあります。ぼくはフランスを離れます。アンドレがサン=ドニの修道院に入る際に、父上と会うことになるでしょうから、すべて知っていると告げるつもりです。赤ん坊の隠し場所を引き出してみせますよ。世間にぶちまけると言ったり妃殿下に口を利いてもらうと言ったりして圧力をかければ、きっと上手くいきます」

「妹さんが修道院に入るとなると、赤ん坊はどうするつもりなのです?」

「どなたか紹介していただけますか。その方のところに子守りに預けたいと考えています……学校に進み、大きくなったら、引き取るつもりです。ぼくが生きていればの話ですが」

「あなたも子供もいなくなることに、母親は同意しているのですか?」

「ぼくのやろうと思っていることになら、アンドレは何にでも同意してくれます。ぼくが妃殿下に陳情申し上げたことは知っていますし、ぼくは妃殿下から約束の言葉をいただきました。ぼくらを庇護して下さる方に対して敬意を欠くようなことは妹もするはずがありません」

「よければ母親のところに戻りませんか」

 医師は言葉通りアンドレの部屋に入った。アンドレはフィリップに看病されたおかげで安らかに眠っていた。

 目を開けて最初に口に出したのは、医師への質問だったが、答えるまでもなく医師の明るい表情がすべてを語っていた。

 それでようやくアンドレもすっかり落ち着いて、快復も早まり、一週間すると起き上がり、ステンドグラスに陽が落ちる頃には温室を歩けるようになっていた。

 ちょうどその日、何日か家を空けていたフィリップがコック=エロン街の家に帰って来た。その表情があまりにも暗かったので、扉を開けた医師は、何か良くないことがあったのだと悟った。

「何があったのです? お父上から赤ん坊を返してもらえませんでしたか?」

「父上は……熱を出して、パリを発った日から三日間、寝台に釘付けになっており、ぼくが訪れた時には息も絶え絶えでした。これはきっと病気のふりをして一杯食わせるつもりだな、それこそ誘拐に関わっていた証拠に違いない、と考え、強気で責め立てました。ですが父上はキリストの名にかけて、何を言われているのかわからない、と誓ったのです」

「それで何の手がかりもないまま戻って来たと?」

「そういうことです」

「男爵が本当のことを仰っているのは間違いありませんか?」

「まず間違いありません」

「あなたよりも狡猾な方だ。本音を見せなかったのではありませんか」

「妃殿下に口を利いてもらうと言って脅すと、真っ青になって言ったのです。『わしを破滅させたいのならすればいい。父と自分の名誉を汚せばよかろう。怒りにまかせてとち狂ったところで、何の解決ももたらされんぞ。お前が何を言いたいのかわしにはさっぱりわからん』と」

「それで……?」

「それで、ぼくはがっかりして帰って来たのです」

 その時、アンドレの呼ぶ声が聞こえた。

「いま入って来たのはフィリップなの?」

「何てこった! こんな時に……何と言えばいいのだろう?」

「何も言ってはいけません!」医師が諫めた。

 アンドレが部屋から出て来て優しく抱きしめるので、フィリップは肝を冷やした。

「何処に行ってらしたの?」

「まずは父上のところだよ。話しておいただろう」

「お父様はお元気でした?」

「ああ、元気だったよ。でも立ち寄ったのは父上のところだけじゃない……お前をサン=ドニに入れる為に、いろいろな人に会って来たんだ。ありがたいことに、これですべての準備は整った。これで髪を下ろして、将来を修身と信仰に費やすことが出来るよ」

 アンドレがフィリップに近寄り、穏やかに微笑んだ。

「お兄様、わたくしは自分の将来になどもう何も費やしません。わたくしの将来には誰も時間を費やしてはならないんです……我が子の将来こそが、わたくしのすべて。神が与えて下さった息子の為だけにすべてを捧げます。それがわたくしの決意――体力が回復して心に迷いがなくなってから、心に決めたことです。息子の為に生き、切りつめて生活し、必要とあらば働くことも厭いませんが、息子から片時も離れるつもりはありません。それがわたくしの描いた将来です。修道院も諦め、我欲も捨てます。わたくしは他人のもの。神様もわたくしのことはもうお構いなさいませぬよう!」

 医師がフィリップに目顔で問いかけた――先ほど言った通りではありませんか?

「アンドレ、アンドレ、何を言っているんだ?」

「怒らないで、フィリップ。弱くて見栄っ張りな女の気まぐれではないんです。お兄様に迷惑はかけません、すべて自分で面倒を見ます」

「だが……だがアンドレ、ぼくはフランスを離れなくちゃならない。すべてを置き去りにしていくつもりなんだ。もうぼくには財産もない。未来もない。祭壇の下におまえを置いていくつもりだったんだ。それなのに、世間だって?……仕事だって?……アンドレ、大丈夫なのか?」

「もう覚悟は出来ています……愛してます、フィリップ。でもわたくしの許を離れるというのなら、涙は堪えて、息子の揺りかごのそばで引き籠もることにします」

 医師が近づいた。

「あなたは混乱しているんです」

「仕方ないじゃありませんか、先生! 母親というのは混乱しているものですわ! でもこの混乱も神様が下さったのです。あの子がわたくしを必要としている以上は、決意を曲げるつもりはありません」

 フィリップと医師が目を交わした。

「お嬢さん」医師が初めに口を開いた。「私は説教師ではありませんから上手く話せませんが、神が人間に対して激しすぎる執着を禁じていたことは覚えていますよ」

「そうだとも、アンドレ」

「神様も母親に対して我が子を愛することを禁じてはいなかったのではありませんか、先生?」

「いいですかお嬢さん。哲学者も医者も、人間の愛の為に神学者が掘った穴の深さを測ろうとしているんです。神から授かった教えに従い、大本を探りなさい。精神的な理由を探すだけではいけません。それだと完全で細かすぎることがありますからね。物質的な理由も探すのです。神は母親に対して、子供に愛を注ぎすぎることを禁じました。子供とは弱く細い茎であり、災いや苦しみを引き寄せやすいからです。束の間の命に過剰な愛を注ぐことは、絶望に陥る危険を伴っているからです」

「先生、どうしてそんなことを仰るんですか? それにフィリップも、どうしてそんな慰めるような顔をして見つめているの? 真っ青じゃない」

「アンドレ、友人からの助言だと思って聞いてくれ。元の身体に戻ったんだから、出来るだけ早くサン=ドニ修道院に入った方がいい」

「フィリップ!……あの子を置いては行けないと言ったじゃありませんか」

「あなたのことが必要ならそうしますよ」医師が静かに言った。

「どういうことです? 話して下さい。何かひどいことでもあったのですか?」

「お気をつけなさい」医師がフィリップに耳打ちした。「まだ衝撃に耐えられるほどではありません」

「お兄様、答えてくれないのね。説明して下さい」

「アンドレ、帰りがけにポワン=デュ=ジュールを通って、あの子を子守りに預けて来たと言っただろう」

「ええ……それで?」

「うん、あの子は具合が悪くてね」

「あの子の具合が……マルグリット……マルグリット……急いで馬車を! あの子のところに行かなくては!」

「無茶だ! あなたはまだ馬車に乗れるような状態じゃない」医師が声をあげた。

「今朝は大丈夫だと仰ったじゃありませんか。フィリップが戻って来た時、明日になればあの子に会えると仰ったじゃありませんか」

「きっと良くなりますから」

「嘘ではございませんね?」

 医師は答えなかった。

「マルグリット! 言う通りにして……馬車を!」

「そんなことをしては死んでしまう」フィリップが止めた。

「だったら死にます!……命に未練はないもの……」

 マルグリットはアンドレとフィリップと医師に代わる代わる目を遣りながら立ち尽くしていた。

「早く! 命令です!……」アンドレの頬が真っ赤に染まった。

「アンドレ!」

「何も聞くつもりはありません。馬車を用意できないというのなら、歩いて行きます」

「アンドレ」フィリップがアンドレをとっさに抱きしめた。「行くな、行っても仕方がないんだ」

「あの子は死んでしまったのね!」アンドレは凍えるような声を出した。フィリップと医師が椅子に坐らせると、アンドレは椅子に滑らせるように腕を落とした。

 フィリップは何も言えずに、冷たく強張った手に口づけすることしか出来なかった……やがて首筋から緊張も解けると、アンドレはうなだれて涙を流した。

「神の思し召しだよ。ぼくらはこの試練に耐えなくてはならない。偉大で公正な神のすることだもの、きっとお考えがあるんだよ。あの子がおまえのそばにいるのは不当な罰だったと判断なさったんだ」

「でも……どうして神様は罪もないあの子を苦しめるようなことをなさるのかしら?」

「神は苦しめたりなどなさっていませんよ」と医師がいった。「あの子は生まれたその晩に亡くなったのです……消え去った幻にいつまでも未練を抱いてはいけません」

「わたくしが聞いたあの声は……?」

「あの子がこの世に別れを告げる声でした」

 アンドレが顔を覆うと、フィリップと医師は目を交わした。優しい嘘が効果を上げたという点で、二人の思いは一致していた。

 突然マルグリットが手紙を持って戻って来た……アンドレ宛てだ……

『アンドレ・ド・タヴェルネ嬢、パリ、コック=エロン街、九番地、プラトリエール街を出て最初の正門』

 フィリップはアンドレの頭越しに医師に手紙を見せた。アンドレは泣きやんでいたが、苦しみのうちに閉じ籠もっていた。

 ――誰だろうな? とフィリップは考えた。ここの住所は誰も知らないはずだし、父上の筆跡ではない。

「アンドレ、おまえ宛てだよ」

 考えることも抵抗することも驚くこともせず、アンドレは封筒を破って目を拭い、手紙を広げて読み始めた。だが三行の文章に目を走らせただけで、大きな悲鳴をあげ、気が違ったように立ち上がり、四肢を痙攣で強張らせ、駆け寄って来たマルグリットの腕の中に彫像のようにずさりと倒れ込んだ。

 フィリップが手紙を拾い上げて読んだ。

『海上にて、一七……年、十二月十三日

 あなたに追い払われて旅に出ます。もう会うことはないでしょう。僕の子は預かってゆきます。この子があなたを母と呼ぶことはありません!

 ジルベール』

 フィリップは怒鳴り声をあげて手紙を握りつぶした。

「糞ッ!」と歯軋りし、「その場の勢いに流されて犯した罪だからこそ、大目に見てやっていたんだ。今回は明確な意思を持って罪を犯した以上、報いは受けさせてやる……アンドレ、失神したおまえの心にかけて誓おう。あいつが目の前に現れたらその場で殺してやる。神もぼくらを邂逅させてくれる。あいつは一線を越えたんだ……先生、アンドレは意識を取り戻すことが出来ますか?」

「ええ、大丈夫ですよ!」

「先生、明日はアンドレをサン=ドニの修道院に入れて、明後日には次の寄港地に行かなくてはなりません……あいつが逃げ出した以上……追いかけてやる……それに、ぼくにはあの子が必要なんです……先生、一番近い寄港地は何処ですか?」

「ル・アーヴルです」

「三十六時間後にはル・アーヴルに着いてみせます」フィリップが答えた。

『ジョゼフ・バルサモ』 161

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百六十一章 出発

 公証人の家でおこなわれた取り決めは万事速やかだった。ジルベールは数百リーヴルを子供の教育や世話に充て、さらには成人した子に農場を作る為に取りのけてから、残りの二万リーヴルを預けた。

 十五年の間は年に五百リーヴルを教育と扶養に充て、残りは何らかの持参金なり農家や土地の購入に充てるなりする心積もりだった。

 そんな風に我が子のことを考えるにつけ、子守りのことを考えた。子供が十八歳になったら、ピトゥには二千四百リーヴルが渡るようにして欲しい。それまでは年に五百リーヴルまでしか払ってはいけない。

 ニケ氏には仕事の見返りに利子で満足してもらうことになった。

 ニケからはお金の、ピトゥからは赤ん坊の受領書を書いて貰った。ピトゥはニケの署名と金額を確認し、ニケは赤ん坊に対するピトゥの署名を確認した。そして昼頃、若いに似合わぬ賢明さに驚いているニケを感嘆のうちに、そして突然の財産を得たピトゥを歓喜のうちに残して、ジルベールは立ち去った。

 アラモン村のはずれまで来ると、全世界とお別れするような気分になった。この世界などもはやジルベールには何の意味も見込みもない。暢気な若者の生活に別れを告げて来たばかりなのだ。人からは犯罪と呼ばれ、神からは厳しく罰せられるような、重大な行動を終えて来たばかりなのだ。

 それでもジルベールは自分の考えと力を信じていたので、迷いなくニケ氏の腕から離れた。ニケ氏は友情を露わにして様々な訴えを持ちかけながらついて来ていたのだ。

 だが心とは気まぐれで、移ろいやすいのが人間の性だ。意思や気力の強い人間であればあるほど、考えていることを速やかに実行に移すものだ。ジルベールはその第一歩で隔てることになる距離を測った。迷いのなさに翳りが見えたのはその時だ。カエサルの言う如く、「ルビコンを渡るべきなりしか?」と自問したのはその時だった。

 ジルベールは森のはずれまで来ると、改めて木立に向かって振り返った。梢の赤く色づいた森はアラモン全体を覆い隠し、見えるのは鐘楼だけだった。幸福と平和に満ちたその美しい光景を見て、未練と歓喜の綯い交ぜになった夢に溺れた。

「僕は気違いだ。何をしようとしているんだ? 神様は天の向こうで怒りに顔を背けないだろうか? 糞ッ! 思いついてしまったものは仕様がない。思いつきを実行に移すのに状況が味方していたんだ。天啓に打たれて悪事をおこなった僕のような人間が、悪事の償いをしようという考えを受け入れて、今では財産と我が子を手にしているんだぞ! 一万リーヴルあれば――残りの一万リーヴルは我が子の為に取っておくから――善良な村人に混じって、この肥沃な大自然の中で、幸せな農夫のように暮らせるさ。働いたり考え事をしたり、世間のことを忘れたうえに僕のことを忘れてもらったり……そんな甘い幸福に埋もれて過ごしてもいいじゃないか。この手で我が子を育て、仕事を楽しめたら最高に幸せだろうなあ!

「駄目かな? 苦しんだ代償に幸運がもたらされたっていいはずだ。そんな風に暮らすのもいいじゃないか。お金の残りを使ってこの子の代わりに農夫になり、雇い人に払うお金はそうやって稼いで、子供はこの手で育てればいい。父親は僕なんだと、前に話したことはどれも僕のことだったんだと、ニケさんに告白したっていいじゃないか!」

 心の中に徐々に喜びと希望が満ちて来た。まだ味わうまでには至らないが、愉快な幻を夢見るまでに空想はふくらんだ。

 突然、果実の奥で眠っていた虫が目を覚まし、醜い頭をもたげた。悔恨、恥辱、不幸。

「無理に決まってるじゃないか」顔から血の気が引いていた。「僕はあのひとから赤ん坊を奪ったんだ。あのひとの名誉を奪ったように……その償いをする為にあの人からお金を引き出したんだ。もう僕には幸せになる権利なんかない。赤ん坊を育てる権利もない。あのひとに権利がないのなら、僕にだってあるわけがない。あの子は僕ら二人のものか、そうでなければ誰のものでもないんだから」

 その言葉に胸が裂かれたように痛んだ。ジルベールは絶望に駆られて立ち上がった。顔には暗くおぞましい激情が浮かんでいた。

「いいだろう、僕は不幸を選ぶ。苦しみを選ぶ。何もかも失う方を選ぶ。だが僕の幸せの為に使うはずだったお金は、災いの為に使うことにしよう。これからの僕が遺すのは復讐と不幸だ。怖がらなくていいよ、アンドレ、僕も一緒に辛い思いをしてあげるから!」

 ジルベールは右に曲がり、考えるたびに向きを変えた挙句、森の中に飛び込み、ノルマンディー目指して休みなく歩いた。四日歩けば到着する計算だった。

 九リーヴルと少しある。見た目は誠実そうで、顔は穏やかで落ち着いていた。本を抱えた姿は、実家に戻る学生そのものだった。

 夜は綺麗な道を歩き、昼は太陽の下で牧草地で眠るようにした。二度だけ、そよ風に邪魔されて民家に入るのを余儀なくされた時には、暖炉にある椅子の上で、夜が来たことも気づかずにぐっすりと眠った。

 言い訳も目的地も用意してあった。

「ルーアンの伯父に会いに行くんです。ヴィレル=コトレから来ました。若いので気晴らしも兼ねて歩いて行きたいんですよ」

 農夫たちは疑わなかった。本は尊敬の塊であったのだ。農夫たちの薄い口唇に疑いが上っていれば、天命を学んでいる神学校の話をするつもりだったのだが、ジルベールの悪い予感は完全に裏切られた恰好だった。

 こうして一週間が過ぎた。ジルベールは農夫のように暮らし、一日に十スー使い、十里を歩いた。ついにルーアンに到着した。もう道をたずねる必要も探す必要もない。

 携帯していたのは『新エロイーズ』の豪華本だった。一ページ目に署名を入れてルソーから贈られたものだ。

 所持金が四リーヴル十スーにまで減ると、ジルベールは大事にしていたこのページを破り取り、三リーヴルで本屋に売った。

 こうしてジルベールはル・アーヴル目指して進み、三日後の日暮れには海を見ることが出来た。

 短靴の状態はとてもではないが絹靴下を履いて街歩きをしゃれ込もうとする若者のものには見えない。だがジルベールにはまだ考えがあった。絹靴下を売った――というよりは、頑丈な短靴と交換してもらったのだ。野暮は言わぬ、多くは語るまい。

 最後の夜をアルフルールで過ごし、十六スーで泊まり、食事をした。そこで生まれて初めて牡蠣を食べた。

 ――貧乏人にはたいしたご馳走だな。人間が悪行を為している間も神は善行だけを為していた、というルソーさんの言葉は本当だったわけだ。

 十二月十三日、朝の十時、ジルベールはル・アーヴルの町に入り、三百トンの帆船ラドニ号が船渠ドックに浮かんでいるのを目にした。

 港には人気がない。ジルベールは思い切ってタラップを渡った。見習い水夫が近づいて来て、誰何した。

「船長は?」ジルベールがたずねた。

 水夫が三等船室で合図すると、すぐに下から声が聞こえた。

「降りて来てもらえ」

 ジルベールが降りて行くと、簡素な家具の入った、マホガニーで出来た小部屋があった。

 男は三十歳ほど。青白く、逞しい。目には輝きと不安。壁と同じマホガニー製の机に新聞を置いて読んでいた。

「用件は?」男がたずねた。

 ジルベールが水夫を退らせてくれるよう身振りで頼むと、すぐに水夫は出て行った。

「ラドニ号の船長さんでしょうか?」

「ああ」

「ではこの手紙の受取人はあなたで間違いありませんね?」

 ジルベールはバルサモの手紙を船長に差し出した。

 手紙を見た途端に船長は立ち上がって、慌ててジルベールに笑顔を見せた。

「あんたも?……随分と若いな? 結構結構!」

 ジルベールはお辞儀をするだけに留めた。

「行き先は?」

「アメリカ」

「いつ発つ?」

「あなたが発たれる時に」

「では一週間後だ」

「それまで何をすべきでしょうか、船長?」

「旅券は?」

「ありません」

「ではサン=タドレス辺りに行って町の外を一日ぶらついてから、今夜のうちに船に戻って来るといい。誰にも話しかけないように」

「お腹が空いたら食べなくてはなりませんが、お金がありません」

「ここで食べろ。今夜のところは夜食を食っていけ」

「その後は?」

「いったん乗り込んでしまえば陸には戻れん。ここに籠っていろ。海に出るまで太陽を拝むことは出来ない……二十里の海の彼方に出てしまえば、好きなだけ自由にしていい」

「わかりました」

「やり残したことがあれば今日のうちに済ませておけ」

「手紙を書かせてもらえますか」

「書くといい……」

「でも何処で?」

「この机を使え……ペンとインクと紙はそこだ。郵便宿は郊外にあるから、見習いに連れて行ってもらえ」

「ありがとうございます!」

 一人になったジルベールは、短い手紙を書いた。宛名は以下の通り。

『アンドレ・ド・タヴェルネ嬢、パリ、コック=エロン街、九番地、プラトリエール街を出て最初の正門』

 手紙をポケットに仕舞い、船長がわざわざ運んでくれた食事を食べ、見習い水夫の案内で郵便宿まで行き、手紙を投函した。

 一日中、ジルベールは崖の上から海を見ていた。

 夜になって戻ると、船長が待ち受けていて、ジルベールを船に入れた。

『ジョゼフ・バルサモ』 160

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百六十章 ピトゥ家

 道すがら何を見聞きしてもジルベールは怯えていた。後ろを走る馬車や追い抜いてゆく馬車の音、葉の落ちた木々の間を吹き抜ける風の呻き――そうした音の一つ一つが、群れをなして追って来る追跡者の声や、子供を奪われた者たちの叫びのように聞こえた。

 だが危険は迫ってなどいなかった。御者は立派に務めを果たし、二頭の馬は湯気を立てて時間通りにダマルタンに到着した。曙光もまだ見えてはいない。

 ジルベールは御者に半ルイ渡し、馬と御者を替えて逃走を続けた。

 この間赤ん坊は毛布にくるんでジルベールが自ら抱えていた。寒さでひきつけを起こしたり泣き声もあげたりもしなかった。陽が昇ると間もなく遠くに村が見えた。ジルベールはいっそう安心を確かにし、ぐずり始めた赤ん坊をおとなしくさせる為に、タヴェルネで狩りから帰る時に歌っていた歌を歌い始めた。

 車軸や革紐の軋み、車体の金属音、馬の鈴の音が不気味な伴奏となっているところに、御者がブルボネーズをがなり立てたおかげで、いっそう騒がしくなった。

 こうしたわけで、馬車の中に赤ん坊がいるとは、御者はゆめゆめ疑わなかった。御者はヴィレル=コトレの前で馬を止めると、約束通り馬車賃に加えて六リーヴル=エキュ受け取った。ジルベールは赤ん坊を念入りに毛布でくるむと、いっそう力を込めて歌を歌いながら馬車から離れ、溝を跨いで落葉の散らばった小径に姿を消した。道を下り、左に曲がれば、アラモン村に着く。

 寒さが増して来た。数時間前から雪の量が増えていた。固い地面は棘や筋のある茂みで覆われている。上空には葉の落ちた陰気な森の木々がくっきりと姿を見せ、まだ靄に覆われた白い空に枝がさやかに浮かび上がっていた。

 痺れるような空気、楢の蜜の香り、枝の先から垂れる氷の粒……こうした野性や詩情の何もかもが、ジルベールの想像力を荒々しく揺すぶった。

 小さな谷間を自信満々に素早く歩き回った。身じろぎもせず、躊躇いもしなかった。木立の中で、村の鐘や、暗い枝の格子越しに洩れて来る暖炉の青い煙を探していたのだ。小半時後、土手に木蔦と黄クレソンの生えた小川を渡り、最初に見つけた小屋で、農夫の子供たちにマドレーヌ・ピトゥの家まで案内を頼んだ。

 子供たちは呆然として固まるような農夫の如き反応は見せずに、無言でいそいそと立ち上がり、余所者の顔を覗き込み、手を繋いで、それなりに大きく立派な藁葺きの家までジルベールを連れて行った。その家はこの村のほかの家と同じように、小川のへりに立っていた。

 小川には澄んだ水が流れ、雪解けでわずかに増水していた。木で出来た橋、というか、大きな板の向こうには、家の土台と同じ高さにある道が見えた。

 案内している子供の一人が、マドレーヌ・ピトゥはあそこに住んでいる、とジルベールに目顔で教えた。

「あそこかい?」

 子供が口を閉じたままうなずく。

「マドレーヌ・ピトゥだね?」ジルベールが改めてたずねた。

 またも子供が無言で同意を示したので、ジルベールは橋を渡って扉を押した。それを再び手を繋いだ子供たちがじっと見つめていた。茶色い服を着て留金つきの短靴を履いたこの紳士は、マドレーヌの家で何をするつもりなのだろう。

 扉が開くと、一般的に言って誰の目にも魅力的な光景が――分けても哲学者の卵の目には魅力的な光景が、飛び込んで来た。

 体格のいい女将さんが生後数か月の赤ん坊に乳をやっていた。その前では四、五歳の逞しい男の子がひざまずいて祈りを口にしていた。

 窓のそばにある暖炉の角に三十五、六の夫人が一人いて、亜麻を紡いでいた。もっとも、窓といっても壁に空いた穴にガラスを嵌めたようなものであった。夫人の右には紡ぎ車が、足許には木製の腰掛けが、腰掛けの上には大きなプードルがいた。

 犬はジルベールを見て礼儀正しく歓迎の吠え声をあげた。それが犬の示した警戒心のすべてであった。祈っていた子供が主の祈りをやめて振り返った。二人の夫人は驚きと喜びの中間くらいの声をあげた。

 ジルベールは子守りに向かって微笑んだ。

「マドレーヌさん、はじめまして」

 夫人が飛び上がった。

「あたしの名前を知っていなさるんですか?」

「お聞きの通りです。でもどうか口を挟まないでいただきたい。世話をする赤ん坊を一人から二人に増やしてもらいます」

 ジルベールは村の赤ん坊が寝ている揺りかごに、抱いていた町の赤ん坊を寝かせた。

「可愛いねえ!」糸を紡いでいる夫人が言った。

「そうだね、アンジェリク、可愛いよ」マドレーヌも言った。

「ご姉妹《きょうだい》なのですか?」

「ええ、良人のね」

「ジェリク叔母さんなんだ」男の子がひざまずいたまま低い声で呟いた。

「お黙りなさい、アンジュ。話の邪魔をしちゃいけないよ」

「面倒なことをお願いするつもりはありません。この子は主人の領地で働いていた農夫の息子なのですが……その農夫は破産してしまい……主人はこの子の代父だったことから、田舎で育てて、立派な農夫にさせてやりたいと……健康で……善良な……この子を預かっていただけますか?」

「でも旦那さん……」

「昨日産まれたばかりで、まだ子守りもいません。この子のことはヴィレル=コトレの公証人ニケさんからお聞きしているかと思いますが」

 マドレーヌはすぐに赤ん坊を抱き寄せ、惜しみなく乳を与えた。ジルベールはそれを見て感動を覚えた。

「間違ってはいませんでした。あなたは立派な方です。主人の名の許に、この子をお預けいたします。ここでなら幸せになれるでしょうし、何かを見つけてこの藁葺き家に幸運をもたらしてくれるものと願ってます。ヴィレル=コトレのニケ氏の子供には月に如何ほど費やしておいでですか?」

「十二リーヴルです。でもニケさんはお金持ちですから、砂糖代や世話代に何リーヴルか足して下さることもありました」

「マドレーヌさん、ではこの子には月に二十リーヴルお支払いいたしましょう。年に二百四十リーヴルです」ジルベールは誇らしげに答えた。

「それはまあ! ありがたいことです」

「今年の分です」ジルベールが卓子の上に十ルイ並べると、二人の夫人は目をまん丸くし、アンジュ坊やはがさがさの手を伸ばした。

「でも赤ん坊が死んでしまったら?」子守りがおずおずとたずねた。

「それは大変な不幸ですね。起こってはならない不幸です。これが子守りの月給になりますが、不満はありませんか?」

「ええ」

「来年からの宿代の話に移りましょう」

「この子はずっとここで預かることに?」

「そうなるでしょうね」

「そうなりますと、あたしらがこの子の父母になるんですか?」

 ジルベールは青ざめた。

「そうです」押し殺した声を出す。

「そうしますと、可哀相にこの子は捨てられたんですね?」

 こうした不安や質問はジルベールにはまったくの不意打ちだったが、どうにか自制することが出来た。

「まだお話ししていないことがあります。この子の父親は苦しみのうちに死にました」

 二人の夫人は感情も豊かに手を合わせた。

「母親は?」子守りのアンジェリクがたずねた。

「母親ですか……母親は……」ジルベールはやっとのことで深呼吸した。「……既に産まれて来た子であろうと、これから産まれて来る子であろうと、あのひとを当てにすることは出来ません」

 ちょうどその時、父親のピトゥが畑から帰って来た。穏やかで機嫌が良さそうだ。グルーズが絵に描いたような、優しさと健康に満ちあふれた無骨な正直者といった類の人物だった。

 話をすっかり聞くまでもなかった。ピトゥは自尊心によって状況を――それも自分には理解できない状況を――理解していた。

 ジルベールはピトゥに話をした。赤ん坊が大人になるまで――つまり智恵と肉体の力を借りて一人で生きられるようになるまでは――必ずや宿代を払い続けると。

「そうだな。この子のことを可愛がってやれるだろう。何たって可愛いしな」

「この人もだよ!」アンジェリクとマドレーヌが言葉を交わした。「あたしらと同じことを感じたらしいね!」

「では一緒にニケ氏のところまで来ていただけますか。必要なお金はニケ氏に預けようと思います。そうすればあなたがたにもご満足いただけるだろうし、この子も幸せになれるはずですから」

「すぐ参りますよ」と言ってピトゥが立ち上がった。

 ジルベールは夫人たちに暇乞いをして、家の子を押しのけて我が子を寝かせておいた揺りかごに近づいた。

 覗き込んで初めて我が子をしっかりと見てみると、アンドレに似ていることに気づいた。

 心が音を立てて砕けた。身体に爪を立てて、心の奥から湧き出てこようとする涙を懸命に堪えた。

 おずおずと、震えながら、赤ん坊の冷たい頬に口づけをしてから、ふらふらになって後ろに下がった。

 ピトゥは既に戸口に向かい、手には鉄を履かした杖を持ち、上着を身につけていた。

 ジルベールが足許にまとわりついていたアンジュ・ピトゥ坊やに半ルイやると、夫人たちが田舎特有の親密さで抱擁を求めた。

 こうした感動は十八歳の父親には刺激が強すぎたので、もう少しでそれに負けそうになった。青ざめて神経質になり、冷静さを失い始めた。

「行きましょうか」ジルベールがピトゥに言った。

「いつでもどうぞ」先に進んでいたピトゥが答えた。

 そうして二人は出かけた。

 突然、マドレーヌが戸口から大声でジルベールを呼んだ。

「旦那さん!」

「何か?」

「名前ですよ! 名前! この子の名前は?」

「ジルベールと言います!」若者は誇らしげに答えた。

『ジョゼフ・バルサモ』 159

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百五十九章 アラモン村

 雪につけられた足跡はジルベールのものだった。先日バルサモと話し合いを持ってからというもの、監視を怠らず果たし復讐の準備をおこなっていたのだ。

 何一つ苦労はなかった。甘い言葉と愛想の良さを弄して、ルソーの妻から受け入れられるどころか慈しまれてさえいた。方法は単純なものだった。ルソーからは書写代として一日三十スー貰っており、週に三回その中から一リーヴル取り除けて、テレーズにあげるささやかな贈り物を購入したのだ。

 ある時はボンネット用のリボン、ある時は砂糖菓子や、ワインボトル。テレーズは味覚や誇りをくすぐられてその気になり、時には食卓に飛びついたジルベールから料理の腕前を褒められて気をよくした。

 そうなのである。ルソーの口添えの甲斐あってジルベールは食卓に着くことを許されていた。こうして二か月前から面倒を見てもらえたおかげで、藁布団の下に仕舞い込んでいた財産に二ルイを加えることが出来た。その隣にはバルサモから預かった二万リーヴルがある。

 それにしても何という生活だろう! 振舞や考えの端々に揺るぎがない。朝起きるとジルベールは無謬の目でアンドレの状態を確かめ、暗く規則的な隠遁生活に何の変化も入り込んでいないことを見極めた。

 ジルベールの目から逃れられるものなどなかった。庭の砂上にあったアンドレの足跡も見逃さなかったし、閉められたカーテンの隙間の多寡によってアンドレの機嫌を見抜いた。カーテン――閉じ籠もったアンドレは天の光に晒されることさえ拒んでいたのだ。

 このようにしてジルベールはアンドレの胸中や家の中で起こっていることを把握していた。

 同じようにしてフィリップの歩き方から意図を推しはかるすべも覚えた。それがわかってからというもの、何の為に出かけようとしているのかも、どういう結果を持って帰って来たのかも、誤ることはなかった。

 フィリップがルイ医師に会いにヴェルサイユに向かった晩には、跡を尾けるに至るまで徹底していた……このヴェルサイユ訪問にはジルベールも戸惑った。だが二日後に医師がコック=エロン街の庭に人目を避けて入り込んだのを見て、一昨晩の謎が氷解した。

 日にちは知っているのだ。すべての希望が実現する瞬間が近づいているのを知らないわけがない。困難に満ちた計画を滞りなく成功させる為に必要な用意を始めていた。計画はこのように進められた。

 二ルイはフォーブール・サン=ドニで二頭立ての二輪馬車を借りるのに使った。必要な日に指示通りに動いてくれるのだ。

 さらにジルベールは三、四日休みを貰ってパリ近郊を調査した。その間、パリから十八里離れたところにある、巨大な森に囲まれた、ソワソネの小村を訪れた。

 この村の名はヴィレル=コトレという。ジルベールは村を訪れると真っ直ぐにニケ氏という名の村でただ一人の公証人の許に向かった。

 ジルベールは自分のことを大領主の会計係の息子だと名乗った。小作人の子のことを考えた領主から、子守りを見つけて来いと頼まれたのだと告げた。

 大領主は気前がいいから子守りの月給に糸目はつけないはずだ、と伝えてから、子供の為にと言ってニケ氏の手に幾ばくかの金を握らせた。

 なるほどニケ氏には三人の息子がいたので、ヴィレル=コトレから一里のところにアラモンという小村があり、息子たちの子守りだった女の娘が、この事務所で正式に婚姻の手続きをした後で母の仕事を継いでいると教えてくれた。

 この女将さんの名はマドレーヌ・ピトゥといい、何処から見ても健やかな四歳の息子がいた。そのうえもう一人産んだばかりなので、ジルベールの好きな時に赤ん坊を連れてくればいい。

 こうしてすべての手筈を整えると、几帳面なジルベールは休暇の終わる二時間前にパリに戻った。さて、ジルベールがどうしてほかの村ではなくヴィレル=コトレを選んだのか疑問に思われる方もおいでだろう。

 今回もほかの多くの場合と同様に、ジルベールはルソーの影響を受けていた。

 ルソーはかつて、ヴィレル=コトレの森を、類を見ないほど植生の豊かな森だと言っていた。そしてこの森の中に、木の葉の奥に隠れている巣のように、三つか四つの村が存在していると。

 だから、この村のどれかでジルベールの子供を探そうとしても見つけられる心配はない。

 分けてもアラモンはルソーに強い印象を与えた。人間嫌いで孤独な隠者であるルソーが、いつも繰り返すほどだった。

「アラモンはこの世の果て。人跡も途絶えた地。枝の上で生き葉の下で死ぬ鳥のように、生き死にすることが出来るのです」

 ルソーは田舎家の詳しい事情までジルベールに話していた。心を温かくするような家庭の様子を語って聞かせていた。子守りの笑顔に、山羊の鳴き声。簡素なキャベツのスープの立てる食欲をそそる匂いに、野生の桑や紫ヒースの香り。

 ――あそこに行こう、とジルベールは考えた。ルソーさんが希望や失望を味わった木陰の下で、僕の子は大きくなるんだ。

 ジルベールにとって思いつきで行動するのはいつものことだったし、今回の場合は表向き道徳的な理由があるのだからなおさらだった。

 だからジルベールの気持を汲んだニケ氏が、希望にぴったりの村だと言ってアラモンの名を挙げた時には、喜びもひとしおだった。

 パリに戻るジルベールが心配していたのは二輪馬車のことだった。

 二輪馬車は立派ではないが頑丈だった。それでいい。馬はずんぐりとしたペルシュ馬で、御者は愚鈍な馬丁だったが、ジルベールにとって大事なのは人目を引かずに目的地に着くことだった。

 ジルベールのついた嘘はニケ氏には何の疑念も抱かれなかった。新しい服を着て立派な身なりをしていたので、良家の会計係なり人目を忍んだ公爵や大貴族の従僕なりだと名乗っても不自然ではなかったのだ。

 御者の方は輪を掛けて何も疑わなかった。庶民から貴族に至るまで秘密を持っていた時代なのだ。当時の人間は心づけを受け取りさえすれば何もたずねたりはしなかった。

 そのうえ当時は二ルイに四ルイの価値があったし、四ルイは今日から見ても稼ぐに値する金額だ。

 そこで御者は、二時間前に知らせてくれさえすれば、希望通りの場所に行くと約束した。

 この計画はジルベールにとって、詩心と哲学観という異なる衣装を纏った二匹の妖精が好ましい事態と決断をもたらすという点において、魅力的なものだった。冷たい母から子を攫おう。恥と死を敵陣に撒き散らそう。その後で姿を変えて、田舎家に乗り込むのだ。ルソーの言う通りなら善良な村人たちの許に。そうして揺りかごの上に大金を置いておけば、貧しい人たちが守護神のように見守ってくれるだろう。大人物の子供なのだと思ってくれるはずだ。これで誇りと恨みを満足させられる。隣人の為の愛も、敵に対する憎しみも、満足させられる。

 ついに運命の日がやって来た。この十日間というもの、日中は苦悶のうちに過ごし、夜間は眠れずに過ごしていた。どんなに寒かろうとも窓を開けて横たわり、アンドレやフィリップの一挙手一投足に耳を預けた。紐を引く手を呼鈴に預けておくように。

 その日はフィリップとアンドレが暖炉のそばで語らっていた。女中が鎧戸を閉めるのも忘れて大急ぎでヴェルサイユに向かったのも目撃していた。ジルベールは直ちに御者に知らせに走った。御者は厩舎の前に馬を留めて拳を咬んだり歩道を蹴ったりして苛立ちを抑えていた。すぐに御者は馬に跨り、ジルベールは馬車に乗り込んだ。そして市場のそばの人気のない通りの端で馬を止めさせた。

 そこでルソーの家に戻って、ルソーへの別れの手紙とテレーズへの感謝の手紙を書いて、南仏でちょっとした遺産が入ったことや戻って来るつもりのこと……詳しいことは書かずにそれだけを伝えた。ポケットに金を入れ、袖口に長庖丁を入れて、鉛管を伝って庭に降りた途端に、一つのことに思い当たった。

 雪だ!……この三日というもの無我夢中だったので、そんなことを考える余裕もなかった……雪の上に足跡が残る……ルソー家の壁まで続いている足跡を見れば、フィリップとアンドレは間違いなくそれを調べさせるだろうし、そうすればジルベールの失踪と誘拐が関連づけられ、すべての秘密が明るみに出てしまうだろう。

 こうなればコック=エロン街から迂回して、庭の門から入る必要がある。こんな時の為に、ジルベールは一月前から万能鍵を身につけていた。門から続いている小径は踏み固められているから、足跡は残らない。

 ジルベールは時間を無駄にしなかった。目的地にたどり着くと、ちょうどルイ医師を運んで来た辻馬車が正面玄関に止まっているところだった。

 ジルベールは慎重に門を開けたが、誰の姿も見えなかったので、温室から近い家の陰に隠れた。

 恐ろしい夜だった。あらゆる声が聞こえて来た。苦痛による呻きや叫び。産まれた我が子の第一声も聞くことが出来た。

 だがジルベールは剥き出しの石にもたれたまま、石の冷たさを感じもせずに、真っ暗な空から固く詰まった雪が落ちて来るのに任せていた。胸に押しつけているナイフの柄に、心臓の鼓動が伝わる。凝視する目には血の色が、炎の光が宿っていた。

 ようやく医師が出て来て、フィリップと別れの言葉を交わした。

 ジルベールは鎧戸に近づいた。くるぶしまで埋まって雪の絨毯に足跡をつけた。アンドレが寝台で眠っている。マルグリットが肘掛椅子でまどろんでいる。母の傍らに赤子を探したが、何処にも見えない。

 すぐに状況を理解して玄関に向かい、音も立てずに扉を開けて、ニコルのものだった寝台までたどり着いた。手探りのまま凍えた指で赤ん坊の顔に触れると、痛がって泣き出した。アンドレが耳にしたのはこの声だった。

 ジルベールは赤ん坊を毛糸の毛布にくるんで連れ出した。音を立てる危険を冒さないように、扉は半開きのままにしておいた。

 一分後、ジルベールは庭から外に出ていた。二輪馬車まで駆けて行き、幌の下で眠っていた御者を押しのけた。革のカーテンを引いている間に、御者が改めて馬に跨った。

「十五分で市門を越えられたら半ルイやる」

 蹄鉄をつけた馬がギャロップで駆け出した。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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