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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

「無謀な誓い弁護」G・K・チェスタトン

無謀な誓い弁護

 シルクハットとフロックコートを身につけた地位も名誉もある現代人が、部下や友人の前で厳かに誓いを立てようとしているところを想像してみてほしい。ホーランド・ウォークにある木々の葉っぱを三本おきに数えてみせようだの、毎週木曜日にはシティまで片足飛びしてみせようだの、ミルの『自由論』を丸ごと七十六回暗唱しようだの、ブラウンなる人物の所有する土地でタンポポを三百本集めようだの、三十一時間のあいだ右手で左耳をつかみっぱなしにしてのけようだの、乗合バスのてっぺんでおばの名前を年齢順に唱えようだの、常軌を逸したその手の約束をしようものなら、この人物は気が狂っているか、よく使われる言い回しで言えば“人生の芸術家”であることは論を俟たないであろう。だがこういった誓いも、中世やそれに類する時代に為された誓いと比べてさして異常なわけではない。当時こうした誓いを立てたのは狂信者だけではなかった。都市文明や国家文明の重要な担い手たち――王も判事も詩人も司祭も誓ったのである。ある人は二つの山を鎖で繋ぐことを誓い、その超常的愚行の記念碑として、そこには何年ものあいだその偉大な鎖が架けられていた、と言われている。あるいは目隠しをしてエルサレムにたどり着くつもりだと誓ったために、その途上で命尽きた人もいた。ごく理性的な観点から判断すれば、この二つの偉業が実は見かけより遙かに正常なことなのだと考えるのは容易ではない。よほどのことがないかぎり山とは動きも騒ぎもしない物体なのだから、犬のように夜中に鎖に繋いでおく必然性はないのだ。あるいは、聖都に最大級の敬意を表したいがために、どう考えてもたどり着くのが不可能な状態をわざわざ作り出してから旅立ったのだとは、すぐには理解しがたいことである。

 だがこのことについては、気をつけておくべき大事な点が一つある。現代においてこんなことをしでかす人物がいたならば、すでに述べたように誰もがそれを“頽廃デカダンス”の象徴と見なすであろう。だがこうしたことを行った人々はデカダン主義者ではなかったのである。おおむね健全だと見なされている時代のもっとも健全な階級におおむね属していた。しかしながら、根っから正気けんぜんな人々がこうした気違いじみた行動を取るからには、盲信的な考えに囚われて不安に襲われたのだとおっしゃる向きもあるだろう。しかしながら、それは理屈が通らない。何となれば、愛情だの欲情だのといった純粋に世俗的で官能的ですらある分野において、中世の王子たちもこうした気違いじみた約束や行動を取ったし、同じように奇怪な想像力や馬鹿げた自己犠牲を示していたからだ。ここに矛盾がある以上、このことを明らかにするためにも、誓いというものの性質を洗いざらい初めから考えてみる必要がある。誓いの性質を真剣かつ正確に考察してみれば、筆者がひどい誤りを犯していないかぎり、山と山を鎖で繋ごうと誓うのも完全に正気なことであり、あまつさえ分別があるという結論に達するだろうし、さらには少しでも狂気の気があるのならそうしないことこそいかにも正気ではないという結論に達するはずだ。

 誓いを立てる人は、別の時間や別の場所で自分自身と会う約束をしている。そこで脅威となるのが、自分自身が約束を守れそうにないことである。現代においてはこのような、自我に対する恐怖、つまり自我の弱さや脆さに対する恐怖が危険なほどにふくれあがり、紛れもなくあらゆる誓いを拒む原因になっている。現代人がホーランド・ウォークで三本おきに葉っぱを数えると誓ってみせるのを避けるのは、何もそうするのが馬鹿げているからではなく(もっと馬鹿なことをいくらでもしているのだから)、一本目の木の三百七十九葉目までたどり着かないうちにすっかり飽き飽きして、家に帰って紅茶を飲みたくなることが確実にわかっているからである。言いかえれば、平凡ではあるが恐ろしく意味深な言い方をするなら、そのころまでに自分が別人になってしまうことに不安を感じるのだ。すなわち、デカダンスの本質とは、恐ろしいお伽噺のようにこうして絶えず別人に変身することなのである。ジョン・パターソンが見るからに落ち着き払って、月曜日にはジェネラル・バーカーに、火曜日にはドクター・マクレガーに、水曜日にはサー・ウォルター・カーステアズに、木曜日にはサム・スラッグになることを待ち望むとしたら、さながら悪夢のようだろう。だがこの悪夢に、われわれは現代文化という名を与えたのだ。今は亡くなったある偉大なデカダン派の作家が、しばらく前に一つの詩を出版した。そのなかで詩人は、この変化の全容を力強くまとめ上げた。監獄の庭に立ち、絞首刑にされる男の気持をすっかり理解することができた、と宣言したのである。

 一人以上の生活を生活する人は
 一人が死なねばならぬ以上の死を死なねばならぬものだからね。

 こうしたことが最後にはどうなるかというと、現実の欠如という狂えるほどの恐怖がデカダン主義者を襲うのであり、それと比べれば肉体的苦痛そのものなどは瑞々しく溌剌さをたたえていることだろう。想像しうるかぎりこれ以上の地獄はないというほどの地獄を想像してみるならば、それは人間らしくいられる狭く汚い楽屋すらないままに永遠に劇を演じ続けることである。そしてこれがデカダン主義者や耽美主義者、自由恋愛主義者の状態なのだ。害のあるわけがないとわかっている危険に常に挑んでいること、縛られようがないとわかっている誓いを常に立てていること、負けるわけがないとわかっている敵に常に刃向かっていること――これがデカダンスの残虐な圧政であり、自由と呼ばれるものである。

 それはそれとして、誓いを立てた人間の話に戻ろう。どれほど気違いじみたものであろうと誓いを立てた人間は、ある偉大な瞬間の偉大さを健全かつ自然なままに表現したのだ。たとえば二つの山を鎖で繋ぐと誓ったのは、何かの偉大な救いや愛や野心の象徴だったのかもしれない。決意の瞬間がどれほど短かろうと、それはどんな偉大な瞬間にも劣らず永遠の瞬間であったし、そのことについて『青銅よりも永遠なるいしぶみを我は打ち立てり』と口にしたいという気持だけが、心を満たすはずの感情であった。もちろん現代の耽美主義者なら、心を動かされるような機会にたやすく出くわすであろうし、二つの山を鎖で繋ぐと誓うことだろう。だが同じくして、地球と月を繋ぐことも軽々と同じように誓うはずだ。自分の言ったことが口から出任せだということも、実は重要なことなど露ほども口にしていないことも自覚しているがゆえに意識も萎え、無謀なことをしているという実感もともなわず、誓うことによって興奮を感じることもまったくないのである。どれほど気違いじみたことがあるといって、平生変わらず落ち着き払ってこれから王を暗殺しに行くとかベン=ネヴィス山に寺院を建立しに行くとかいう報せを、母なり叔母なりが受け取るような暮らしぶりに勝るものがあり得ようか?

 誓いを拒むという叛乱は、今日においてはとうとう結婚の誓いという典型的な誓いを拒むまでに至った。結婚上この点を拒む者たちの言い分は非常に面白い。どうせ貞節を守るのなら、恋人同士によってしっかりと課せられた束縛などではなく、悪魔によって謎めかして人類に課せられた束縛の方が理想的だ、と考えている節があるのだ。そうして一つの言い回しがひねり出された。黒と白のごとく相反する二つの単語でできた言い回し――『自由-恋愛』――これではまるで、恋人に一度でも自由があった、いや一度でも自由であり得たみたいではないか。束縛こそ愛というものの本質であり、婚礼の際の決まりごとなぞは、相手に敬意を表するために凡人の言うことにうなずいているに過ぎないのだ。現代の賢人たちは、悪趣味にほくそ笑んで、最大限の自由と責任からの解放を恋人に与える。だが昔の教会が敬意を払っていたように敬意を払ったりはしない。人が天に誓った言葉を、もっとも崇高な瞬間として記録したりはしないのである。現代の賢人たちはあらゆる自由を与える。ただし自由を売る自由だけは別だ。そしてただそれのみが、人の欲しているものなのである。

 バーナード・ショウ氏の名戯曲『The Philanderer(女たらし)』のなかで、この種の状態が鮮やかに戯画化されている。チャータリスは常に自由恋愛者であろうと努めている男であり、つまり言いかえるならば既婚の独身者とか白人の黒ん坊たらんと努めているような男である。さまようのをやめる勇気を抱くときにだけ抱くことのできるある種の高揚感を求めて、飢えたようにさまよっている。昔の人はもっと分別があった――例えばシェイクスピアの主人公たちの時代である。シェイクスピア作品の人々が独身でいる場合、それはつまり独身・自由・責任からの解放・変化し続ける幸運といった、揺るぎない恩恵を謳歌しているのだ。だが彼らは、他人の眉の動き次第で幸せになるか不幸になるかが決まるような状況に置かれている場合に、自由の話を続けるほど間が抜けてはいなかった。詩人のサックリングは、自由を讃える祝歌のなかで、愛を負債に喩えている。

そして愛にも負債にも縛られず
この世のすべてに縛られぬ者。
かれは黄金時代のように生きる、
あらゆるものがあふれていた時代のように。
かれは煙管を喫み、酒を飲み、
男をも女をも恐れはしない。

 これぞまさしく、可能なかぎり合理的で人間らしい状態である。だが男も女も恐れないという馬鹿げたこけおどしが、恋人たちといったいどんな関係があるというのだろうか? 最果ての星まで飛べる宇宙エンジンも、ひっくり返せば楽器にも凶器にもなり得るということを彼らは知っている。いくつもの哲学を受け継いで来た、サックリングのものよりも古い歌を彼らは聞いている。「日のごとくに輝やき、月のごとくにうる美はしく、畏るべきこと旗をあげたる軍旅つはもののごとき、窓の外にいます者はたれぞや?」

 すでに述べた通り、私見によれば現代人の喜びや楽しみを萎えさせているのは、まさしくこうした裏口であり、退路を確保しようという感覚である。そのための対価を支払うことなく楽しみを手に入れようとする頑固者や気違いはどこにでもいる。かくして、政治の場では現代の好戦的愛国主義者たちは事務的に唱える。『我々に征服者の喜びを与えてくれ。ただし兵士の苦しみは要らぬ。ソファに腰を落ち着けたままの勇者でいさせてくれ』と。かくして、宗教や道徳の場ではデカダンな神秘主義者たち曰く、『我々に清純の芳香を与えたまえ。ただし自制の悲しみはないままに。処女ヴァージン男根プリアプスに代わる代わる讃美歌を歌わせたまえ』と。かくして、恋愛の場では自由恋愛者が曰く、『互いに身も心も捧げる輝かしさを与えてくれ。ただし互いに罪を犯す恐れはないままに。無限に自殺できないかどうか確かめさせてくれ』と。

 通るわけがあるまい。傍観者、愛好家、耽美主義者には確かにいくつものスリリングな瞬間が訪れる。だが自らの旗印を賭けて戦う兵士だけが――自らの悟りを求めて断食する苦行僧だけが――自ら心を決める恋人だけが知っているスリルが一つある。そして誓いというものを本当に正気で健全たらしめるのが、人を高めるこうした克己心なのである。ある決意の瞬間の結果、あの奇妙な鎖が静かな星や雪のなかアルプス山脈に何世紀も吊り下がっていると知れば、恋人や詩人さえ魂の渇きを癒したに違いあるまい。われわれの周りはどこもかしこも、裏道や退路であふれかえった小さな罪の町である。だが、遅かれ早かれ確実に、炎が火柱となって船着場から立ちのぼり、臆病者の治世が終焉を迎え人が船を燃やしているのだと教えてくれることだろう。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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