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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

「忘れ薬」キャサリン・ウェルズ

「忘れ薬」キャサリン・ウェルズ

 薬剤師は店のカウンターの後ろに立ち、陶器の壜のなかで泡立っている濃紺の液体を見つめていた。革の取っ手に縛りつけた火ばさみでその壜を挟み、火鉢に当てている。長い白髪の髭は黒天鵞絨の長衣ガウンに落ちかかり、その毛皮つきの長衣は仕事中の事故でぼろぼろに傷んでいた。この小さな部屋には火鉢のほかに光るものといえば今でもローマで売られている型の銅ランプの明かりだけで、カウンターの後ろに並ぶ棚に詰まった瀬戸物の蓋が薄闇のなかでちろちろと照り返していた。紋章の図案とゴシック文字で青く彩られた瀬戸物には、表向きの商売道具が入れられていた。両隅には扉つきの戸棚があり、それがその場所にある木製品のすべてだった。風変わりな彫刻の施された扉は不気味に黒ずんでいた。戸棚の一つは大きく口を開けて鍵穴から鍵束をぶら下げたままで、乱雑な棚に詰め込まれた秘密の一端を覗かせていた。エジプトの古墳から盗んできた緑がかったガラスの薬壜、ギリシアの陶器の壺、赤みがかった何かの入ったガラス壜、三つの髑髏とどこかの骨、鮫の皮、乾燥させた薬草の束、古い革装の本が数冊。薬剤師の傍らのカウンターには、ずっしりとした真鍮の留め金と角金で装幀された大きな二折本フォリオが開いてある。それはひどく黒くて難解な文字の記された写本であった。その横には天秤と錘、すりこぎとすり鉢、インク入れと羽根ペンがある。頭上には剥製の鰐がぶら下がっており、薬剤師がうつむいた頭をあちこち動かすたびに、剥き出しになった長い牙が輝いたり隠れたりした。

 暗くなってから一時間経ち、夜のあいだは邪魔も入らずに安心して作業ができる。そうでなければ複雑で難しい毒薬の調合を始めてはいなかっただろう。閣下に贈呈する指輪用に依頼されていたのだ。だから舗道を歩く足音が、柵を閉じシャッターを閉めたドアの前で止まったときには、驚きもしたし戸惑った。そのうえ控えめではあったがしつこく入店を求める声が聞こえてきた。

 薬剤師は慌ててカウンターの下に坩堝を放り込み、戸棚を閉め、小物入れに鍵束を不器用に突っ込むと、口のなかでぶつぶつ言いながら表通りの戸口に向かい、覗き穴の木蓋を開けた。

 頭巾をかぶった背の高い女性の頭が格子にかぶさるようにして、「入れてくださらない、メッセール・アーニョロ」とささやいた。ささやきからも尊大な響きは抜けきっていない。

 薬剤師は閂をはずしながらもまだぶつぶつ言っていたが、訪問者が誰だかわかって気持は高ぶっていた。それはレディ・エミリアだった。若く美しく高貴で情熱的なうえに、人も羨む宝物を手にしていたのだ。薬剤師はこれまでそれを目にしようとあらゆる手段や説得を試みたが果たせなかった。何ものにも増して喉から手が出るほど欲しかった。それは優れた処方箋を書き留めた祖母の覚え書きであった。レディ・エミリアの祖母は激しい気性に莫大な知識を兼ね備えており(当時の貴婦人としても驚くほど毒薬に関する知識があった)ため、チョコレート・パーティに招かれた知己たちは戦々兢々としたものだった。だから孫娘が恐れられるのも約束されたことだった。親はなく財産はあったが、それでも結婚しようとする向こう見ずな男は一人もいなかった。

 開いたドアを若々しくまたぐと、ずんぐりした婆や一人と頑強な従者二人もあとに続いた。レディ・エミリアに仕えるには頑強であるに越したことはない。小さな薬屋が立て込んだが、レディ・エミリアは老婦人を戸口のスツールに座らせ、薬剤師とスペイン語で話すことでプライバシーを手に入れた。

 どうやらただ噂話をしに来たようにしか思えないが、風変わりな依頼を切り出しかねている顧客の振る舞いには慣れていたので、薬剤師は辛抱強く待ち続けた。ようやく青磁の壺の中身に話題が変わると、魔術や媚薬の話が始まった。興奮で頬を染めた黒髪の訪問者がいったい何を考えているのかといぶかりながら、薬剤師は受け答えをしていた。

「うちの馬鹿なメイドがね、カーニヴァル・ウィークに媚薬を買ったけど、ちっとも効きやしなかったの。町でごみをつかまされたのね」

「思い人はお腹を壊したことでしょうな」薬剤師はくすくすと声を立てた。

「そんなものありますの?」さりげなさを装ってはいたが、声には鋭さがにじみ出ていた。

 老薬剤師は肩をすくめた。「そうですな」答えは素っ気なかったが、目はレディ・エミリアから離れなかった。「そんな伝説やお伽噺ならありましょうが」

 レディ・エミリアはうるさそうに手を振った。「あるのがわかっているのなら、ごまかすのはおやめになって。あなたは博識な方ですもの、秘薬をお持ちでしょう。あれは?」

「あれとは?」

「ああいった――ああいった惚れ薬は?」

 老人はうやうやしく頭を下げた。「そんなものがあるのなら、あなたに売ったりはいたしません。醜いお客様に使うために取っておきますよ」

 レディ・エミリアはうるさそうに首を振った。「お世辞は間に合ってるわ、メッセール・アーニョロ。ただの――好奇心よ。変わったものに惹かれるの。もしそんなものがあるのなら……払いははずみましょう」

 薬剤師はひそかに喜んだ。明らかにこれを欲しがっているし、同じように何かを欲しがっている。「それが奥さま」ため息をついて頭を振ると、大きな眼鏡の角縁越しにレディ・エミリアを見つめた。「秘薬と引き替えにたっぷりお支払いくださる方ならたくさんいらっしゃるでしょうな。一介の薬剤師も裕福に……」

 レディ・エミリアがカウンターに拳を叩きつけた。ビーカーががちゃがちゃと音を立て、真鍮の錘が天秤の上でがたがたと鳴った。「メッセール・アーニョロ」細く黒い眉を寄せてずばりと切り出した。「見かけより賢い方なのはわかっています。秘薬をお持ちだと聞きました。好奇心を満足させてくれれば、たっぷりお支払いする用意はできています。あなたには包み隠さず正直になりますから、あたたもわたしには礼を尽くしてください」

 薬剤師の目が光った。「たっぷり払ってくださるのでしょうか?」

「糸目はつけません」

「それで、どなたに飲ませるおつもりでしょうか?」

 レディ・エミリアは口元を強張らせた。「いやよ! 教える気はありません」

 薬剤師は諦めたように首を振った。「たいへん残念ですが――」

 レディ・エミリアが声を荒げた。

 薬剤師は肩をすくめた。「わたしはしがない老人にすぎません。秘伝など知るよしもない。どうやって秘伝を学ぶというのです? 奥さまにあられましては、お婆さまの手で著された秘伝をお持ちのはずです。わたしから秘伝を手に入れるまでもないでしょう」

 奥さまは口唇を噛み、無表情な戸棚の正面をにらみつけていた。しばらく考え込んでから、苦々しげに口を開いた。「取引しましょう。半年間、本を貸して差し上げるから、差し当たってわたしの欲しいものをくださらない?」

 薬剤師は相手が折れたことに驚愕して、むしろ戸惑ってしまった。「惚れ薬はありません」おずおずと口に出した。

「嘘だと言って」声には苦悩がにじんでいた。

「嘘ではございません」目の先にぶら下がっている貴重な本を前に、悔しさをにじませた。「以前は持っておりましたし、ほかにも珍しいものがいくつかございました。ですが今はもうどれもなくなってしまいました」

「なくなった?」

「最後に残ったわずかな量を、シニョール・マッテオにお売りいたしました。それはおきれいなドイツ人のご新婦のためにお求めになりましたが、本当にわずかしかございませんでしたので、冷淡でつれない奥さまになられたそうでございます」

 レディ・エミリアは目に見えてがっかりしていた。「もうないとはどういうこと? もう作れませんの?」

 薬剤師は首を振った。「二十年以上も前のことです。ある晩、そこの戸口に男が座り込んでいるのを見つけました。髭を生やし腰は曲がり色は浅黒く、東洋人のような奇妙な衣服を着ていました。どうやらかなり衰弱していましたので、わたしは水を与えて介抱してやりました。今も昔も変わったものには興味を覚える質でしたので、一晩宿を貸してやることにしましたが、男が話している言葉はわたしにはまったくわかりませんでした。今になってみれば、あれはアラビア語だったのではないかと思います。翌日になると男は熱を出して、ここで息を引き取りました。ですが息を引き取る前に、荷物をもらってくれと訴えているのはどうにか理解できました。荷物のなかにはかなり古そうに見える小壜がいくつか入っており、壜にはアラビア語の書かれた紙片が結びつけられていました。わたしはアラビア語を学び、書かれてあることを読みました」

 薬剤師は言葉を切った。レディ・エミリアが身を乗り出してきた。「教えて」かき口説くような口調だった。

「惚れ薬、と――」

「信じられるものですか!」その激しい叫び声に、隅に腰かけていた婆やがびくりとし、若く頑強な従者が不安そうにおののいた。「あなたのことは馬鹿ではないと思っているの、メッセール・アーニョロ。きっと製法の秘密を見つけ出したに違いないわ」

 薬剤師は眼鏡をいじくり、ゆっくりと首を振った。「ずいぶんと努力いたしました」申し訳なさそうに言って本を見つめた。これでもうこの貴重な本は手から擦り抜けてしまうだろう。

 レディ・エミリアは腰を下ろし薬剤師を見つめ、悔しそうに拳を噛んだ。「いいわ」ついにそう言うと、「あなたの助けはもう結構。ほかを当たります」とつぶやいて、背中に垂れていた頭巾を黒髪と金襴のコワフの上に引き上げた。

「ちょっ、ちょっ、ちょっ!」薬剤師が舌を鳴らした。「メッセール・メッサジェリオのところには惚れ薬はありませんぞ。たいそうな名前のついた丸薬を売ってもらえましょうが、それを飲んだ殿方はずきんとした痛みを感じるはずです。ただしハートに、ではありません――断じて違います。ですがわたしは――」とほのめかすようにして、「わたしは正直な年寄りでございます」

「どうやら正直すぎるようね」素っ気なく答えて椅子から立ち上がった。「結局、あなたでは役に立つことはできません」

 振り返ったレディ・エミリアの目に、悔やし涙が光っているのが見えた。それを見て薬剤師の心が動いた。「ほかにも薬はございまして」薬剤師の声は自信なげだった。「それはまだ持っております」

 レディ・エミリアが薬剤師を見つめた。「薬って?」

「忘れ薬です」薬剤師はひどく穏やかな声を出した。

 涙がまぶたからあふれ、銀錦のドレスに流れ落ちた。腹立ちまぎれにそれをぬぐった。「そうする前にまだやってみたいことがあるの」

 薬剤師はうやうやしく見つめ返した。「ではいよいよのときはお待ちしております。不幸なご婦人方に三度お売りしたことがございました。三人ともすっかり忘れてしまい、二度と思い出すことはなく、わたしのことすら忘れてしまいました」

「どんなふうに――忘れるの?」

「とある薬草の葉に相手の方の名前を記し、その葉を薬に浸しておくと、やがて溶けてしまいます。それをお飲みになれば、その殿方なりご婦人なりはあなたにとって初めから存在しなかったも同然になりましょう」

 力なく聞いていたレディ・エミリアだったが、不意に火にくべられた枯葉のように身も心も燃え上がらせた。「それをいただくわ!」興奮に駆られて老人の肩をわしづかみにした。「最善とは言えないけれど、次善には違いないもの! 急いで! 本はあなたのものよ! いくらでも貸して差し上げます」若さに任せて戸棚に向かって急き立てたので、老人の頭がドアにぶつかりそうになった。

「奥さま!」羽目板に縫い留められた薬剤師がぜいぜいと喘ぎ、その場で死んでしまうのではないかと思うような咳の発作を起こした。

「天よどうかお願いです!」レディ・エミリアは息を呑んで後ずさり、薬剤師を見つめた。「この人が死んでしまったら……!」

 だが薬剤師は死んではいなかった。薬剤師が息を詰まらせ、咳き込み、唾を飛ばし、喘ぎ、息をつき、涙をぬぐって呼吸を整えたころには、レディ・エミリアも落ち着きを取り戻していた。それでもなお目はぎらぎらと輝き、胸は大きく波打っていた。

「それではご用意いたしましょう、奥さま」薬剤師はかすれ声でそう言って、最後に涙を一拭きした。毅然として椅子に着くと、おまけの咳を一つしてから鵞ペンを取り出した。「お書きする殿方のお名前をお聞かせ願えますか?」

「殿方じゃないわ、馬鹿ね」レディ・エミリアは吐き捨てると、他人に聞かれることを恐れて身体を寄せてささやいた。「書いてほしい名前は、テレサ・ザ・ゴールデン」

 薬剤師は顔を上げて眉を寄せた。「ご婦人の名前ですか?」腑に落ちない。

 レディ・エミリアが得意げにうなずいた。「あの人に飲ませれば、相手の女を忘れてしまうでしょう?」

「仰る通りです」薬剤師はうなずき、好奇心を抑えきれずにまじまじと見つめてしまった。

 レディ・エミリアは拳を作って嬉しそうに微笑んだ。「じゃああとはこっちの魔術を使うだけ」

 薬剤師はその暗く輝く美しさを目にして、年老いた心をかすかに震わせた。

「明日の朝にはご用意できます」

「本と交換よ」にっこりと微笑んで請け合い、マントをまとった。

 薬剤師は深々と腰を屈めた。「いつでもご用を承らせていただきます。かぐわしい香りの新しい香水に、口唇に塗る蜂蜜の滴もございます。もしご用命がありましたら……」

 麻色の髪をした若い方の小姓が、明かりをつけた。

「この子に黒い髪染めをもらえないかしら」驚いている小姓にうるさそうに合図して、イタリア語で手短に申しつけた。

「黄色い髪は好きになれなくて」つぶやくように言うと、マントを羽織ってドアから出ていった。
 

 二か月後、薬剤師は涼を求めて店内の日陰に腰を下ろし、レディ・エミリアの祖母のものだった本を膝に乗せていた。暑い午後の日差しが開いたドアの敷居に降り注ぎ、敷石の上に黄金色の日だまりをたたえている。青や緑に輝く蜥蜴が敷石のあいだから時折り現れては、日向に這いつくばり、息をするたびに小さな脇腹を震わせていたが、通行人が影を落とすたびにたちまち色鮮やかな線となって、もといた穴に舞い戻っていた。

 薬剤師は日陰に座っていたが、暑く重たい夏の空気のせいもあり、だんだんと眠気が襲ってきた。本の中身は当てはずれだった。花の香りの抽出法、洗顔法、軟膏に練り薬、ミルク酒に強壮剤、こうしたことがすべてきっちりとした筆跡で書かれていたが、いずれ受け継がれることになる一族の女性向けの品目ばかりであって、薬剤師の興味を惹くようなものはほとんどなかった。ほかの部分は判読しがたい筆跡や暗号で書かれており、散々骨を折ってみたものの、薬剤師には何の手がかりも見つけることはできなかった。

 影が戸口に落ち、止まった。薬剤師が顔を上げると、レディ・エミリアが一人きりでドアから入って来た。

 薬剤師はレディ・エミリアと目を合わせた。顔が青白くやつれ、目を赤くして翳りを宿しているのに気づいた。薬剤師の知っているレディ・エミリアはいつも自信に満ちて胸を張っていたものだが、今は見たこともない様子でドアにもたれかかっている。

「メッセール・アーニョロ」口にした声はかすれていた。

 薬剤師は立ち上がって日陰に座らせた。

 レディ・エミリアはしばらく無言で座っていたが、やがて口を開いた。「何も聞いてないの?」

 薬剤師は真剣な顔で見つめ、「いいえ、王女様」と答えた。「殿下の結婚式がどれだけ素晴らしかったか、奥さまがどれだけ華やかだったか、王子殿下がどれだけ気高く立派だったか、話ではうかがっております」

 レディ・エミリアは腰を下ろしたまま、ぼんやりと壁を見つめ、膝の上で指をもてあそんでいた。

「王女殿下の結婚式がことのほか素晴らしかったという噂でもちきりでございましたので」と、薬剤師は慎重に話を続けた。「世間ではテレサ・ザ・ゴールデンの痛ましい急死に驚く暇もございませんでした」

 レディ・エミリアは薬剤師から逃げるようにして震えた。口唇から小さな呻きが洩れた。

 その惨めにやつれた顔を見て、以前には気づかなかった事実を悟り始めた。

「殿下はわたしの薬を信用なさらなかったのですね?」

 レディ・エミリアの顔が震えた。「二重に保険を掛けたかっただけなの」声には以前のような激しさがにじんでいた。

 薬剤師はゆっくりとうなずいた。「殿下はふたたびここにはいらっしゃいませんでした。メッセール・メッサジェリオの毒薬は洗練されているとは言い難い……あの方は長いこと苦しんで亡くなったのでしょう?」

 王女の顔が苦痛に震えた。「ひどかったわ」

 老いた薬剤師はため息をついた。

 王女は力なくうなだれて座っていた。あまりに静かなので、蜥蜴がふたたび日の当たっている石畳に這い出してきた。やがて王女は自責の念を振り払うかのように、背筋を伸ばした。

「メッセール・アーニョロ。もう少しだけあなたのお薬をくださらない」

「わかりました。同じお名前を浸しております……今度はあなたのために」

「今度もあの人に飲ませるの」

「ですが王女様!」薬剤師はプライドを傷つけられ、反論した。「容量は適切でした。間違うはずがございません」

 王女はうなだれた顔を両手で覆った。

「容量は適切でした」薬剤師は繰り返した。

 王女が顔を上げて、静かに告げた。「あの人はすべて飲んだわけじゃないの」

 薬剤師は続きを待った。

「あの人は忘れ薬を」ひどく乾いた声だった。「冗談めかして笑いながら取り上げて、飲もうとしたの。あの人が飲んでいるのを見て、わたしは念のため確かめた――あの女の顔を――あの歪んだ顔を……ああ神さま! あの顔を忘れることはできるのでしょうか?」

 薬剤師はしばらくそれを見つめていたが、やがて口を開いた。「それからどうしました?」

「わたしも忘れなくてはならなかった。あの人の手から飲み残しのカップをもぎ取って、残りを飲み干しました」

「おお! そうなさったのですか?」

 王女は拳を握り締めたまま無言で座っている。

「殿下は幸せに貪欲すぎでございます」

「もう一度あの人に飲ませなくては」王女の口から乾いた声が振り絞られた。

 薬剤師は考え込んだ。「それでは、あの方は完全には忘れていらっしゃらないのですね?」

 王女は苦しげに目を閉じ、かぶりを振った。

「また少し分けていただかなくては」と繰り返した。

 薬剤師は申し訳なさそうな顔をして、決定的な言葉を先延ばしにしていたが、「あの薬を二度飲むことはできません、殿下」とようやく口を開いた。

「何の冗談?」

 薬剤師は首を振った。「二度飲んだ人間は」と恐る恐る口にした。「白痴になって何もかも忘れてしまうのです」

 王女は恐怖に目を見開いた。その瞳は虚ろで、目の前の薬剤師すら映ってはいないようだった。それはまるで、その顔に運命を見ているような……

 やがて重荷でも背負っているように苦労して、開いているドアに向かった。

 薬剤師はあとを追った。

「お幸せでございましょうね、王女様?」

 王女は力なくスカーフを肩にかけた。

「あの人はいつでも何かを探しているような顔をしているの」と言って、立ちつくした。それから力を振り絞り、立ち去った。


 

 ※夏のあいだに怪奇幻想ものを一篇訳すつもりが、九月になってしまいました。。。キャサリン・ウェルズ「忘れ薬」をお届けいたします。

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PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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