翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』64-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 セバスチャンはフォルチエ神父が二日前から誰彼構わずにピトゥのことを話していたのを知っていたので、遠からず勃発するに違いない言い争いには居合わせぬが吉だと考え、そっと退出した。

 ピトゥはセバスチャンが立ち去るのを見て心を痛めた。強固な同盟関係ではなかったにしろ、同じ党派の子供だった。

 だからセバスチャンが戸口から姿を消すと、ピトゥは溜息をついて神父に向き直った。

「先生、なぜ革命家だなんて呼ぶんですか? 革命のきっかけがボクだとでも?」

「革命を起こした者たちと一緒にいたではないか」

「先生」ピトゥは「どんな考えを持つかはその人の自由です」

「そうだが?」

意思ト理性ヲ司ルハ人ナリEst penes hominem arbitrium et ratio

「ほう、ラテン語がわかるのか?」

「先生に教わったことはわかります」ピトゥは控えめに答えた。

「そうだな、語形間違いに改められ、歪められ、悪化させられ、彩られていたが」【Est penes hominem arbitrium et ratio. est(~である:三人称単数現在)、penes(~に支配されて/~で/~に関して:前置詞[対格と共に用いる])、hominem(人:単数対格[~を]) arbitrium(思惑:単数主格)、et(と)、ratio(理性:単数主格)。「意思と理性は人の支配下にある」。単数形「est」となっているが正しくは複数形「sunt」か。】

「でも先生、誰にだって間違いはあるじゃありませんか」

「何だと?」神父は目に見えて傷ついた顔をした。どうやらピトゥは拡大解釈しようとしているらしい。「この私も語形間違いをすると考えているのか?」

「先生よりもラテン語に明るい人から見たらそうだと思います」

「それがどういうことかわからぬか?」怒りのあまり神父の顔から血の気が引いたが、理性という確かな力のおかげで落ち着きは失わずにいた。

 フォルチエ神父はうんざりしたように説いた。

「一言で言うと、ならず者の論理というやつだ。誰のために暴れているのか、自分でもわかっておらぬ。見も知らぬ誰かのためだ。いいかね落ちこぼれ殿、正直に言い給え。私よりもラテン語に明るい人間を誰か知っておるのか?」

「知りません。でもいるかもしれない。ボクが知らないだけで――ボクは何にも知りませんから」

「それにはクソほど同意する」

 ピトゥが十字を切った。

「何の真似だ?」

「先生が悪態をついたので十字を切ったのです」

「ほう、私を指弾するために此処に来たのか?」

「指弾するですって!」

「ほらわからぬだろう」

「そんなことはありません。先生のおかげで語根もわかります。『指弾するtympaniser』とは、ラテン語で『太鼓tambour』を意味する『tympanum』、ギリシア語の『tympanon』、即ち『太鼓』『撥』『鐘』由来です」

 神父は呆気に取られて何も言えずにいた。

「語根は『typos』、即ち『印』『痕跡』。ランスローが『ギリシア語根の庭(Jardin des Racines grecques)』で書いているところによれば、『typos:残された形』。この語を遡れば明らかに『tupto』即ち『叩く』にたどり着きます。以上です」

「たいしたものだ」神父はいよいよ仰天した。「まだいろいろ知ってそうだな。知らないことまで知ってそうだ」

「はあ」ピトゥはうわべだけ謙遜してみせた。

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『アンジュ・ピトゥ』64-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 だが何よりもまず、この場面について説明しよう。他の箇所であれば冗長のそしりを免れ得ぬであろうが、この箇所であれば不自然とは言われまい。

 この説明によって、フォルチエ神父の家に三、四十挺の銃があることが明らかになるであろう。ピトゥと共犯者二人が欲しがっている銃のことである。

 以前お伝えする機会のあった通り、かつて城館の所属司祭もしくは副司祭だったフォルチエ神父は、時と共に、そして長く根を張るという聖職者の習いによって、舞台構成的に家の付属物と呼ばれるものの唯一の管理者となっていた。【※第1章によればフォルチエ神父は chapelain du château(城館の礼拝堂所属司祭)である】

 聖器、蔵書(la bibliothèque)、家具(le garde-meuble)に加えて、国王フィリップの父であり後にエガリテと呼ばれたドルレアン公ルイ=フィリップ二世の狩猟用具を預かっていた。この古い狩猟用具の幾つかはルイ十三世やアンリ三世にまで遡る。こうした道具類が神父によって城館の回廊に整然と並べられていた。そのために城館を任されていた。ひときわ見る者の目を惹くように、周りには円楯、狩猟槍、短刀、短剣、カトリック同盟時代に象嵌が施されたマスケット銃が散りばめられていた。【※Louis-Philippe II Joseph, duc d'Orléans, Philippe Égalité(1747-1793)は革命時にフィリップ・エガリテを自称した。その息子 Louis-Philippe(1773-1850)は7月王政で国王ルイ=フィリップとなる】

 回廊の扉はルイ十四世が王弟ムッシューに授けた銀張りの青銅の大砲二門にしっかりと守られている。

 さらにはウェサンの戦い(combat d'Ouessant)でジョゼフ=フィリップが戦勝記念に持ち帰った五十ばかしの小銃ムスクトンが、町に寄贈されていた。先述したようにフォルチエ神父に無料で宿を貸していた町としては、このマスケット銃の扱いにあぐねて神父の家(la maison collégiale)の寝室に預けたというわけであった。【※ジョゼフ=フィリップ。上記ルイ=フィリップ二世のこと。1778年のウェサンの海戦にて、当時シャルトル公だったルイ=フィリップは、司令官の命令を聞き逃し、退却するイギリス艦隊をみすみす逃してしまうというミスを犯した。必死で弁明したものの容れられず】

 これこそがフォルチエという名の龍が守りアンジュ・ピトゥという名のイアーソンが狙っている財宝であった。

 この城館の小さな武器庫は、労せず武器を持ちたいと願う者にとってはよく知られたところとなっていた。

 だが眠らぬ龍たる神父には、このヘスペリデスの黄金の林檎を、如何なイアーソンにも易々と明け渡すつもりはないようだった。

 そういうわけで、ピトゥの話に戻ろう。

 ピトゥは愛想良くフォルチエ神父に挨拶しながら、咳払いをした。放心したり没頭したりしている人間の注意を引くように。

 フォルチエ神父が新聞から顔を上げた。

「ほう、ピトゥか」

「お役に立てることがあれば仰って下さい」ピトゥは恭しく応じた。

 神父は新聞を折り畳んだ。より正確に言えば二つ折りの書類入れのように新聞を閉じた。古き良きこの当時にはまだ新聞は冊子の形であったのだ。

 神父は閉じた新聞をベルトに通した。九尾鞭とは反対側だ。

「そうか。だが生憎だな」神父はからかうように言った。「役には立てまいよ」

「先生!(l'abbé !)」【※この行と次の行は、底本・初出にはなし】

「聞こえぬか、語形間違い(barbarismes)の名人よ?」

「先生!」

「聞こえぬか、偽善者殿?」

「先生!」

「聞こえぬか、革命家殿?」

「ちゃんと聞こえてますとも。話を始めてもいないのに怒り出して。そういうのは、拙い出だしなんじゃないですか」

『アンジュ・ピトゥ』64-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十四章 フォルチエ神父による君主制の本質とピトゥによる革命の本質を目の当たりにする次第

 その夜ピトゥはたまたま巡って来た栄誉に心を奪われていたせいで罠を見に行くのをすっかり忘れていた。

 翌日、ピトゥは兜と剣を身につけてヴィレル=コトレに向かった。

 村の大時計が朝六時を告げた時、ピトゥは城館広場(la place du Château 第1章参照)に到着し、庭に通じている門を控えめに叩いた。

 叩いた音は心を落ち着かせるには充分な強さであり、家まで届かぬには充分な小ささであった。

 出来うるなら十五分の余裕が欲しかった。フォルチエ神父を説得するため用意して来た演説を辯論の花で彩りたかった。

 ぎょっとしたことに、あれだけそっと叩いたというのに門が開いた。だがすぐに恐怖は止んだ。門を開いた人物の顔にセバスチャン・ジルベールを認めたからだ。

 セバスチャンは庭を歩きながら曙光の下で勉学に励んでいたところだった。正確に言えば励んでいるような行動を取っているところだった。というのも開いた本は手の先にぶら下がり、好きなことを考えて思いはあちこち駆け巡っていたからだ。

 ピトゥを目にしたセバスチャンが喜びの声をあげた。

 抱き合った後でセバスチャンがたずねた。

「パリから便りは?」

「何も。セバスチャンは?」ピトゥもたずねた。

「父から手紙が届いたよ」

「よかった」

「君にも託けがあるよ」

 セバスチャンは胸元から手紙を取り出しピトゥに見せた。

『追伸 ビヨからピトゥへ忠告がある。農場のみんなを困らせたり気が散るようなことをしたりしないこと。』

「嗚呼」ピトゥは溜息をついた。「無意味な忠告だな。農場の人たちに苦労をかけたりよそ見させたりすることなんてもうないのに」

 ピトゥは小声で呟いてから、さらに大きな溜息をついた。

「そんな言葉はイジドールさんに掛けてあげればいいんだ」

 だがすぐに元気を取り戻してセバスチャンに手紙を返した。

「神父は?」

 セバスチャンが耳をそばだたせた。中庭(la cour)と庭大半(une partie du jardin)の分だけ階段から離れているにもかかわらず、司祭の足の下で階段が軋んでいた。

「ほら、降りて来た」

 ピトゥが庭から中庭に進むと、その時になって初めて神父の重い足音が聞こえた。

 神父(Le digne instituteur)は新聞を読みながら階段を降りて来た。

 例の九尾鞭を将軍が太刀を佩くように腰から吊るしている。

 階段の段数も古い家の凸凹の場所も身体に染み込んでいたので、神父は紙面から顔を上げぬままアンジュ・ピトゥに向かって来た。ピトゥは精一杯堂々とした態度で臨もうとした。

『アンジュ・ピトゥ』63-5

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「でも銃は?」

「在処を知ってるんじゃないのか」

「そりゃあフォルチエ神父のところですけど」

「だろう」

「だけどフォルチエ神父に拒まれたらどうするんですか」

「愛国徒が廃兵院でやったように、奪えばいい」

「ボク一人で?」

「署名を用意しよう。何なら人手を連れて来るぜ。どうしてもって言うならヴィレル=コトレを焚きつけたっていい」

 ピトゥは首を横に振った。

「フォルチエ神父は頑固ですから」

「お気に入りの生徒なんだろう、断られるわけが無え」

「神父のことをまるでわかってませんね」ピトゥは溜息をついた。

「まさかあいつが断ると思ってんのか?」

「王室ドイツ人聯隊(un escadron de Royal-Allemand)相手でも断るでしょうとも……頑固者なんです、『不当ニシテ頑固injustum et tenacem』……そうですよ」言いかけてピトゥはやめた。「ラテン語もわからないんでしたっけ」

 だが二人はラテン語を引用されたことにも話題を変えられたことにも誤魔化されなかった。

「おいクロード、たいした指揮官を選んじまったぞ。ぶるってやがる」デジーレが言った。

 クロードも黙って首を振った。

 ピトゥは立場が危うくなって来たことに気づいた。運命は大胆な者を好むという言葉を思い出した。

「わかりました、やってみます」

「じゃあ銃のことは任せていいんだな?」

「任せて下さい……努力します」

 二人の口から出かかっていた軽い不満の呟きが、満足の呟きに変わった。

 ――やれやれ、とピトゥは考えた。この人たちと来たら、ボクが指揮官になりもしないうちからボクに指図しているじゃないか。ボクが指揮官になったらどうなることやら。

「努力ねえ」クロードが首を横に振った。「それだけじゃ足りないねえ」

「足りないって言うのなら、自分でもっと上手くやればいいんです。指揮権は譲りますよ。フォルチエ神父や神父の鞭とお近づきになって来て下さい」

「ご苦労なこった」デジーレ・マニケが馬鹿にしたように言った。「剣と兜を着けてパリから戻って来たと思ったら、鞭を怖がるためだったとはな」

「剣と兜は鎧じゃありませんし、たとい鎧だったとしてもフォルチエ神父なら鞭を使ってあっと言う間にその鎧の弱いところを見つけてしまうでしょうね」

 クロードとデジーレにもそれは理解できたようだ。

「決まりだ、ぼん」とクロードがピトゥに言った。

 (ぼんとはこの地域でよく使われる親愛表現である。)

「まあいいでしょう。ただし命令には従って下さいね」

「ちゃんと従うから見ときな」と言ってクロードがデジーレに目配せした。

「ただし」とデジーレがつけ加えた。「銃はおめえの担当だ」

「わかりました」ピトゥが答えた。正直なところ不安は尽きないが、それでもどでかいことをやってのけろと囁く野心の声が聞こえ始めていた。

「約束だ」

「誓います」

 ピトゥが手を差し出し、二人もそれに倣った。斯くして星明かりの下、エーヌ県の森の開けた場所で、三人のアラモン人によって叛乱が宣言された。ヴィルヘルム・テルとその仲間を知らず知らずに真似ていたと言えよう。

 ピトゥが苦しみの果てに、名誉ある国民衛兵司令官の徽章を身につける幸運をおぼろげに目に浮かべていたのは事実であるし、その徽章を見ればカトリーヌも後悔とまでは行かぬまでも反省してくれるような気がしていたのも事実であった。

 こうして有権者の意思によって選ばれたピトゥは、三十三人の国民衛兵に武器をあてがう方法に思いを馳せながら家路についた。

 
 
 第63章おわり。第64章につづく。

『アンジュ・ピトゥ』63-4

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「では説明してもらいましょうか」それでもピトゥはそう言った。

「今から話すさ。もっと寄りな、デジーレ、生粋の密猟者なら、昼だろうと夜だろうと野っ原だろうと森ん中だろうと知らねえ物音は無えな。尾けられてねえか目ん玉ひん剥いて、見張られてねえか耳を押っ立てておくんな」

 デジーレはうなずくと、ピトゥとクロードの周りをぐるりと巡った。羊小屋の周りをうろつく狼のように音もなく巡っていた。

 やがてデジーレが戻って来た。

「話せ。俺たちだけしかいない」

「まあ聞きな」クロードが言った。「おめえに言われたけどな、ピトゥ、フランスの町はみんな、武装して国民衛兵のところに馳せ参じたいんだよ」

「もちろんそうですとも」ピトゥがうなずいた。

「だったらアラモンも武装しようぜ。ほかの町みたいに」

「昨日クロードが言ってたじゃありませんか。ボクが武装を呼びかけたけど――アラモンは武装できない、アラモンには銃がないからって」

「銃なら心配いらん。おめえが在処を知ってんだから」

「そりゃ知ってますよ」ピトゥはクロードの意図を察し、危険を感じた。

「今日みんなで話し合ったんだ。愛国心のある若えのみんなで」

「凄い」

「三十三人いた」

「百引く一の三分の一ですね」

「演習(l'exercice)したことは?」クロードがたずねた。

「まさか!」ピトゥは武器の持ち方さえわからなかった。

「わかった。演習を指揮(la manœuvre)したことは?」

「ラファイエット将軍が四万人の演習を指揮しているところなら何度も見たことがあります」ピトゥは自慢げに答えた。

「いいじゃねえか」デジーレが黙っているのに耐えきれなくなって、さほど押しは強くないながらも、口を挟もうとした。

「だったら指揮するつもりはあるか?」クロードがピトゥにたずねた。

「ボクがですか?」ピトゥは驚いて飛び上がった。

「ほかに誰がいる」

 二人の謀反人がピトゥを凝っと見つめた。

「ふん、尻込みしてるな」クロードが断じた。

「だけど……」

「愛国心は無えのか?」デジーレがたずねた。

「冗談じゃありません」

「じゃあ何を怖がってる?」

「怖がる? バスチーユで勝利を収めた受勲者ですよ」

「受勲者だ?」

「勲章が出来たらそうなります。ビヨさんが約束してくれました、ボクの名前で一つ引き取っておいてくれるって」

「受勲者か。勲章持ちの指揮官ってわけだな」クロードが昂奮のあまり声をあげた。

「で、受け取るのか?」デジーレがたずねた。

「受け取るのか?」クロードもたずねた。

「もちろん受け取りますとも」ピトゥの声はうわずっていた。昂奮のせいと、恐らくは虚栄心という感情に目覚めたせいだ。

「決まりだ」クロードが言った。「明日、出発しよう。指揮してくれ」

「何の指揮でしょうか?」

「演習(L'exercice)だよ」

『アンジュ・ピトゥ』63-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 だがねぐらに向かっていると十時の鐘が鳴ったのだが、いつもなら蝋燭は消えて村人も眠っている時刻だというのに、家の前には驚くべき光景が待ち受けていた。坐っている者たち、立っている者たち、歩いている者たちがいた。

 誰もが普段とは違う様子をしていた。

 ピトゥはわけのわからないまま、自分が話題になっているのだろうと考えた。

 ピトゥが街路まで来ると、人々ははじかれたように顔を上げてピトゥが来たと囁き合った。

 ――どうしたんだろう?とピトゥは考えた。――そう言えば兜をかぶってないや。

 ピトゥは人々と挨拶を交わしておずおずと部屋に戻った。

 建て付けの悪い扉を閉めてもいないうちに、扉を敲く音が聞こえた気がした。

 ピトゥは布団に入る前も蝋燭を点けない。蝋燭は贅沢品だ。粗末な寝台一つしかないのだから寝床を間違えようもないし、本もないのだから読みようもない。

 だが確かなことはあった。誰かが扉を敲いている。

 ピトゥは掛け金を外した。

 アラモンの若者二人が遠慮なく入って来た。

「何だ蝋燭もないのか、ピトゥ」

「ありません。あったってどうするんです」

「そりゃものを見るんだよ」

「夜目が利くんです。昼盲症ですから」

 それを証明するようにピトゥが挨拶をした。

「今晩は、クロード。今晩は、デジレ」

「おお、確かに俺たちだ」

「ようこそ。何のご用でしょう?」

「灯りのあるところ行こうや」クロードが言った。

「灯り? 月もないのに」

「空の灯りがあるさ」

「話があるんですね?」

「ああ、是非とも話さなくちゃなんねえ、アンジュ」

 クロードは意味深にその言葉に力を込めた。

「では行きましょうか」ピトゥが答えて言った。

 三人は外に出た。

 森の中の開けた場所まで来ると三人は立ち止まった。ピトゥは未だ用件を聞かされていない。

「どうしたんです?」二人が立ち止まったままでいるのを見たピトゥがたずねた。

「なあピトゥ、俺たち二人、俺とデジーレ・マニケでこの村(le pays)を動かすつもりなんだよ。おめえは来るか?」

「目的は?」

「そこだ。目的は……」

「目的は?」ピトゥが背筋を伸ばしてたずねた。

「叛乱さ」クロードがピトゥの耳に囁いた。

「パリの真似ですね」ピトゥは冷やかに応じた。

 森の奥だというのに、その言葉とその言葉のこだまを恐れていたのは事実だ。

『アンジュ・ピトゥ』63-2

 実際ピトゥはこう考えていた。人一人が食事をするのに三リーヴルやら十八スーやら掛ける必要はない。ルクッルス(Lucullus)ではないのだ。野兎代の十八スーがあればまるまる一週間は暮らしていける。

 つまり週の初めに野兎一羽を捕えたとするなら、残り七日で三羽は捕えられる計算になる。正確に言うなら七日ではなく七夜である。ということは一週間で一か月分の食料が手に入るということだ。

 その計算で行けば、四十八羽いれば一年を賄える。残りはまるまる純利益だ。

 ピトゥは仔兎を食べながらそんな計算結果をはじき出していた。仔兎は十八スー儲かるどころかバター代一スーと脂身代一スー掛かってしまった。玉葱は村有地から拾って来たものだ。

 食事の後は暖炉か散歩、と諺にある。ピトゥは食事を終えると心地よい寝床を探しに森に出かけた。【※「「Après le repas, le feu ou le pas.」または「Après le repas, le feu, le lit ou le pas (le mouvement). (食事の後は暖炉か寝床か散歩)」。古い諺】

 言うまでもなく、政治の話が済んでまた一人きりになるとすぐに、イジドールがカトリーヌといちゃついていた光景が脳裡に浮かんで来た。

 木楢と椈がピトゥの溜息に震えた。普段なら満腹した胃袋に微笑みかける自然も、ピトゥには当てはまらなかった。それどころか真っ暗で広大な砂漠のようにしか見えず、白兎と野兎とノロジカを除いて何もいないように感じられた。

 祖国の森の大樹の下に寝そべると、木陰の涼しさにいざなわれて、きっぱりと決意を固めた。カトリーヌの目の前から姿を消そう、カトリーヌを束縛するのはよそう、選ばれなかったからといって馬鹿みたいに悲しんではいけない、イジドールと自分を比べてむやみと卑屈になるのはやめだ。

 もうカトリーヌと会わない(ne plus voir)ためには身を切るような努力がいる。だがそれでも、男たるものは男でなければならないのだ。

 もっとも、問題はまったく別のところにある。

 正確に言うなら問題なのはカトリーヌをもう見つめない(ne plus voir)ことではなく、カトリーヌからもう見つめられなくなる(n'être plus vu)ことだ。

 何となれば、巧みに身を潜めた執念き男が通りしなにつれない想い人を時折り目にすることは誰にも防げまい。

 アラモンからピスルーまでの距離は? たった一里半。ほんのひとっ飛びだ。

 ピトゥからしてみればあんな場面を目撃した後でなおもカトリーヌを追いかけ回す勇気はない一方で、カトリーヌの様子や言動を把握し続けることには抜け目がなかった。そのために身体を動かすのはピトゥのような健康児にはうってつけだった。

 そのうえピスルーの向こうに広がる森林一帯は、ブルソンヌに至るまで野兎の宝庫だった。

 夜には罠を仕掛けに行き、翌朝には丘の上から平地を眺めてカトリーヌが出て来るのを待てばよい。それがピトゥの権利であったし、ビヨ氏直々の代理人であるピトゥにとって、ある意味では義務であった。

 こうして自分で自分を励ませば、溜息もやむと考えた。持ち歩いていたパンをたっぷり一切れ食べ、夕方になると罠を十個ばかり仕掛け、陽射しの温もりが残るエリカ(des bruyères)の上に寝転がった。

 そこでピトゥはあらゆる希望を失った人間のように眠った。つまり死んだように眠ったのである。

 夜の冷え込みに目が覚めると、罠を見に行ったが、まだ何も掛かってはいなかった。だがピトゥが当てにしていたのは朝狩りの方だった。今はとにかく頭が重いので、ねぐらに帰って翌日戻って来くることにした。

 だがこの日は、ピトゥにとっては何の異変も騒ぎもなく過ぎた一日であったが、村人にとってはいろいろと考えて様々に頭を巡らして過ごした一日であった。

 この日の中頃、即ちピトゥが森の中で夢を見ていた頃、木樵がまさかりに凭れ、農夫が殻棹を振り上げたまま固まり、建具師が板を削る鉋の手を止めた。

 こうした無為な時間の原因はピトゥにあった。ピトゥこそ雑然と揺らぎ始めた麦わらの中に投じられた波瀾の一吹きだった。

 ところが騒ぎの大元たるピトゥはそんなことをすっかり忘れていた。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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