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翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』70e

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 第七十章 突然の終幕

 悲しみを宴会で塗り込めれば、悲しみがひときわ強まるか完全な慰めとなるかのどちらかだ。

 二時間後にピトゥが気づいたのは、悲しみが増してはいないということだった。

 宴会の参加者がもうみんな立てなくなった頃に、ピトゥは席を立った。

 スパルタ人の節制について一席ぶったが、誰もが酔いつぶれていた。

 そこでピトゥは考えた。誰もがテーブルの下でいびきをかいているような時には外をぶらついて来るのがいい。

 名誉のために言っておくと、少女たちは頭や手足や心ではっきりとわかっていたわけではないもののデザート前にそっと立ち去っていた。

 勇者の中の勇者ピトゥは幾つかのことを考えざるを得なかった。

 これだけの愛情や美女や贅沢も、ピトゥの心や記憶には何一つ残らなかった。残っているのはカトリーヌの最後の眼差しと最後の言葉だけだった。

 記憶を覆う陰影越しに、ピトゥはカトリーヌのことを何度も思い出していた。自分の手に触れたあの手のことや、親しげに肩をかすめたあの肩のことや、打ち解けてお喋りを重ねる中で見せたあの色気や可愛らしさのことも。

 素面の時には気にしていなかったものに上気せて(ivre)、ピトゥは我に返ったように辺りを見回した。

 ピトゥは暗がりに問いかけた。愛と優しさと恵みに染め抜かれているような女性に対し、どうしてあれほど厳しくなれたのか。生まれた時から叶わぬ夢を見ていられたような女性に対し、どうしてあれほどつらく当たれたのか。そもそも叶わぬ夢を持たぬ者などいるだろうか?

 ピトゥは自問した。どうしたら孤独で醜男の貧しい自分が村一番の美少女に恋愛感情を起こさせることが出来たというのか。ましてやすぐそばで美男の領主という村一番の孔雀が羽を広げているというのに。

 それから自分にも長所はあると言い聞かせ、人知れず目に見えぬ香りを放つ菫になぞらえた。

 香りが目に見えぬのは確かにその通りだが、真実とはいつだって酒の中にあるものだ。それがアラモンの酒であろうと同じこと。【※「la vérité est dans le vin」。ラテン語「In vino veritas」で知られる諺。「酒の中に真実あり」。人は酒に酔うと本音を洩らす、の意】

 ピトゥはこうした哲学のおかげで非道い状態から快復し、カトリーヌに対して恥ずべき振舞とは言わないまでも場違いな振舞をしたことを正直に認めた。

 あんなやり方では嫌われて当然だ。計算が完全に間違っていた。ピトゥが性悪(mauvais caractère)なところを見せようものなら、シャルニーに心を奪われているカトリーヌは、ピトゥの素晴らしい長所を認めるまいとする口実にするだろう。

 ということは善良(un bon caractère)だということをカトリーヌに証明しなければならない。

 どうやって?

 女たらしならこう言うだろう。――騙されてもてあそばれたんだ、今度はこっちがもてあそんで嘲笑ってやろう。

 ――軽蔑してやろう。恥知らずな行為でもしたように愛の行為を咎めてやろう。

 ――怖がらせ、恥を掻かせ、逢い引きの道には棘があると気づかせてやろう。

 ピトゥは寛容で高邁な人間だったが、酒と喜びのせいで火照り切っていたので、自分のような男を振ったことをいつかカトリーヌに後悔させてやろう、ほかにもいろいろなことを考えていたといつか打ち明けてやろうと思いついた。

 加えて述べておくと、潔癖なピトゥには美しく清らかで誇り高いカトリーヌしか認めることは出来なかった。イジドールにとっても、レースの胸飾りや拍車付きの長靴に仕舞われた革製キュロットに微笑みかけるような小娘とは別物だったことだろう。

 もしもカトリーヌが胸飾りや拍車に熱を上げていたとしたら、そのことが上気せ切ったピトゥにどれだけの痛みをもたらすことになっていただろうか。

 いつの日にかイジドールは都会に行って何処かの伯爵夫人を娶り、カトリーヌのことなどもう見向きもせずに物語は終わることになるのだろう。

 年寄りを若返らせる酒というものが、アラモン国民衛兵の司令官にこのような老成した考えを吹き込んだのだった。

 そこで自分が善良(bon caractère)な人間だということをカトリーヌにきちんと証明するために、夕べの失言を一つ一つ訂正しようと決めた。

 そのためにはまずカトリーヌを捕まえなくてはならない。

 上気せて酔っ払った人間、しかも時計を持たない人間には時間など存在ない。

 ピトゥは時計を持っていなかったし、バッカスやその愛弟子テスピスのように酔っ払ってからは家の外に出かけていなかった。【※テスピスは古代ギリシアの劇作家・俳優。ディオニュソス祭でディオニュソスに捧げる悲劇を演じた。ディオニュソスはローマ神話のバッカスに相当】

 カトリーヌと別れたのが三時間以上前だということも、カトリーヌがピスルーに戻るのに遅くとも小一時間しか掛かからないということももう思い出せなかった。

 ピトゥは森の中を駆け抜け果敢に木立を突っ切り、踏み固められた道の端々を避けてピスルーを目指した。

 木立を抜けて、藪を抜けて、荊の茂みを抜けて、ドルレアン公の森を足で踏みつぶし杖で掻き分けては、森からしっぺ返しを喰らっていた。

 カトリーヌの話に戻れば、カトリーヌは物思いと悲しみに沈んで母にくっついて家に戻っているところだった。

 農場から少し離れたところにある沼まで来ると、道が狭くなっているため、これまでは並んで歩いていた馬を一頭ずつ通さなくてはならなかった。

 ビヨ夫人が最初に通った。

 カトリーヌが通ろうとした時、かすかな口笛の合図が聞こえた。

 振り返ると暗がりの中にイジドールの従僕がかぶっているひさし帽の飾り紐が見えた。

 母親はそのまま進んだ。というのも農場のすぐそばだったため心配する必要もなかったからだ。

 従僕がカトリーヌに近づいた。

「お嬢様、イジドール様が今晩是非ともお会いしたいと仰ってます。十一時にご希望の場所でお待ちいただけますか」

「不幸でもあったの?」

「存じません。ですが今宵パリから黒い封印のある手紙が届いておりました。もう一時間も前のことです」

 ヴィレル=コトレの教会が十時の鐘を知らせていた。時鐘の一つ一つが青銅の翼の上を震えながら運ばれ、空中を通り過ぎて行った。

 カトリーヌは周りに目を遣った。

「そうね、この場所は暗くて人気もないし、此処で待つことにする」

 従僕は馬に跨り、駆け足で立ち去った。

 カトリーヌは震えながら母を追いかけ農場に戻った。

 こんな時間に伝えなくてはならないこととは、不幸でないなら何だというのだろう?

 逢瀬の約束ならもっと華やいだ形を取るものだ。

 だが問題はそこではない。イジドールは夜中に会う約束をしたがっていた。時間にも場所にもこだわらず。しようと思えば真夜中にヴィレル=コトレの墓場で待ち合わせることだって出来ただろう。

 だからあれこれ考えようともせずに母親に口づけをすると、眠ろうとするように寝室に引っ込んだ。

 母親も疑うことなく服を脱いで床についた。

 もっとも、疑ったとしても何だというのか! カトリーヌこそ上に立つ家長ではなかったのか?

 寝室に引っ込んだカトリーヌは服も脱がず床にも入らなかった。

 カトリーヌは待っていた。

 十時半の鐘が鳴り、十時四十五分の鐘が鳴った。

 四十五分の鐘の音を聞くとカトリーヌは灯りを消して食堂に降りた。

 食堂の窓は道路に面していた。カトリーヌは窓の一つを開けて素早く地面に飛び降りた。

 また中に戻れるように窓は開けっ放しにし、鎧戸を合わせるだけにしておいた。

 そうして暗闇の中を約束の場所まで走った。到着した時には心臓が跳ね、足は震えていた。火照った顔と破裂しそうな胸を押さえてカトリーヌは待った。

 さほど待たぬうちに、馬の駆ける音が聞こえて来た。

 カトリーヌは前に進んだ。

 イジドールがそばにいた。

 従僕が後ろに控えている。

 イジドールは馬に乗ったまま腕を伸ばしてカトリーヌを鐙に乗せ、口づけをしてこう言った。

「カトリーヌ、昨日ヴェルサイユでジョルジュ兄さんが殺された。オリヴィエ兄さんに呼ばれたから、行かなくてはならない」【※ジョルジュが死んだのは10月6日。現在はピトゥがビヨたちと別れた7月下旬~8月初旬頃から2か月強(=銃の訓練期間)経っているので、平仄は合う】

 痛ましい悲鳴を響かせて、カトリーヌはイジドールの腕を千切れるほど強くつかんだ。

「ジョルジュが殺されたんだもの、あなたも殺されてしまう」

「何が起こっていようと行かなくちゃ。兄が待っているんだ。カトリーヌ、どれだけ愛しているかわかるだろう」

「行かないで!」カトリーヌには一つのことしかわからなかった。イジドールが行ってしまう。

「でもカトリーヌ、名誉のためだ、ジョルジュ兄さんのためだ、復讐のためなんだ!」

「そんなの耐えられない」

 カトリーヌはイジドールの腕の中にくずおれて、冷え切った身体をひくひくと震わせた。

 イジドールの目から涙がこぼれ、カトリーヌの首筋に落ちた。

「泣いてるの? ありがとう、愛してくれて」

「もちろんだ、愛しているよ。でもわかって欲しい、兄から『来い』という手紙が届いたんだ。言う通りにしなくては」

「だったら行っていいよ。もう引き留めない」

「最後に口づけをくれないか」

「さようなら!」

 カトリーヌも事態を受け入れた。イジドールが兄の命令に逆らえないことはわかっていたので、観念してイジドールの腕の中から地面に滑り降りた。

 イジドールは目を逸らして溜息をつき、少しだけ躊躇っていたがすぐに絶対的な命令に従って馬を走らせた。最後にカトリーヌに別れの言葉をかけてから。

 従僕もその後から畑を通り抜けて行った。

 カトリーヌは地面に取り残され、狭い道を塞ぐようにその場に倒れ込んでいた。

 その直後、ヴィレル=コトレの方からやって来た一人の男が丘の上に姿を見せた。大股で急いで農場の方に歩いているうち、舗道に横たわっている意識のない肉体にぶつかった。【※農場のあるピスルーはヴィレル=コトレのすぐ南。ピトゥはアラモンからピスルー目指してずっと南下していた】

 男は平衡を崩してよろめいて倒れ込み、動かぬ手に触れてようやくそれが誰のものなのか気づいた。

「カトリーヌ! カトリーヌが死んでしまった!」

 その恐ろしい叫び声を聞いて、農場の犬たちも吠え始めた。

「誰がカトリーヌを殺したんだ?」

 がたがたと震え、真っ青になって縮こまり、動かぬ身体を膝の上に横たえて坐り込んだ。

 幕

 
 
 これにて『アンジュ・ピトゥ』完結です。

 本書が唐突な終わり方をした事情については、次作『シャルニー伯爵夫人』の前書きに説明があります。デュマによれば、フィユトン(新聞小説)が風紀に悪影響を与えていると考えられたため、一作につき一サンチームの印紙が課されることになり、社主のジラルダンから作品を短くカットするよう促されたという事情があったそうです。

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『アンジュ・ピトゥ』69

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十九章 蜂蜜と苦ヨモギ

 母親も一緒だったが、カトリーヌはピトゥと二人きりになれるよう措置を講じた。

 ビヨ夫人は馬の後ろからついて来るおかみさんたちと連れ立っておしゃべりに花を咲かせていたので、カトリーヌはおかみさんの一人に自分の馬を預けて、称讃の声から逃げて来たピトゥと一緒に森を通って徒歩で帰宅することにした。

 こんなことがあっても田舎では誰も気にしない。他人に対しておおらかなので、隠しごとがあろうとも核心を探ろうとする者がいないのだ。

 だからピトゥにビヨ母娘と話があるのは当然のことだと思われたし、もしかすると気づかれてさえいなかったかもしれない。

 この日は誰もが深閑として鬱蒼たる木陰(des ombres)に惹かれていた。栄光や幸福といったものはすべて、森深い土地にある太古の木楢の下に眠っている。

「此処でいいでしょう、カトリーヌさん」ピトゥは二人きりになると言った。

「どうしてこんなに長く農場からいなくなってたの? 非道いじゃない、ピトゥさん」

「だって……」ピトゥは絶句した。「わかってますよね……」

「知らない……非道いじゃない」

 ピトゥは口唇を咬んだ。嘘をつくカトリーヌは見たくなかった。

 カトリーヌもそれに気づいた。というのも、いつもは隠れなく真っ直ぐなピトゥの眼差しが伏せられていたからだ。

「ねえ。それよりも、ほかに話があるの」

「そうですか」

「こないだ、藁葺き小屋(la chaumière)のところでわたしを見かけたでしょう……」

「あなたを見かけた?」

「わかってるでしょ」

「わかってますとも」

 カトリーヌは真っ赤になった。

「あそこで何をしてたの?」

「じゃあボクに気づいたんですね?」非難の声は柔らかく侘びしかった。

「初めはわからなかったけど、しばらくして気づいた」

「どういうことですか、しばらくしてって?」

「放心することだってあるでしょ。見るともなく見ていて、それからようやく頭が追いつくの」

「そうですね」

 カトリーヌがまた口を閉じると、ピトゥも押し黙った。二人とも考えなくてはならないことが多すぎて、整然とした話をするためには時間がかかった。

「やっぱりキミだったんだね」

「ええ」

「あそこで何をしてたの? 隠れてなかったのは何故?」

「隠れるわけないじゃありませんか。どうして隠れていなくちゃならないんです?」

「そんなの、覗いてたからじゃあ……」

「ボクは覗きなんかじゃありません」

 カトリーヌは苛立って地団駄を踏んだ。

「どっちにしろキミはあそこにいたんだし、いつもいるような場所でもないじゃない」

「本を読んでいたんですよ」

「知らないわ」

「ボクの姿を見ているんですからご存じのはずです」

「キミのことは見ているけど、何となくだったから。それで……読んでいたってのは?」

「『国民衛兵完全読本』です」

「それ何?」

「戦術を学んでいたんです。後で隊員に教えなくちゃならなかったので。それに集中して勉強するには人気ひとけのない静かなところが必須ですから」

「そうだね、まったくその通り。つまりあの森の外れだと、何の邪魔も入らずに済むんだ」

「皆無でした」

 また沈黙が降りた。ビヨ夫人とおかみさんたちはそのまま進んでいた。

「それでその勉強ってのは長い時間していたの?」

「一日中することもありました」

「だったらさ」カトリーヌの語気が強まった。「長い間あそこにいたってこと?」

「ずっといました」

「どうしてだろう、到着した時には見かけなかったよね」

 ここからカトリーヌは嘘をついた。あまりの図太さに、さすがのピトゥも正直に言えと言いたい気持になりかけた。だがピトゥには負い目があったし、愛していたから一歩が踏み出せなかった。こんな嘘ばかりつくという短所も、ピトゥにしてみれば慎重であるという長所と同意だった。

「たぶん眠っていたんです。頭を使いすぎるとたまにそうなってしまうので」

「だったらキミが眠っている間に森の木陰に入って行ったんだね。そして……そして小屋の塀のところまで行ったの」

「小屋ですか……何処の小屋です?」

 カトリーヌがまた顔を赤らめた。だが今度の赤らめ方はわざとらし過ぎた。

「シャルニーさんの小屋」カトリーヌは努めて冷静であろうとした。「この辺りで一番よく効く屋根万代草ヤネバンダイソウが生えてるから」【※屋根万代草(ヤネバンダイソウ joubarbe)は傷薬や魔除けの薬草として用いられた】

「そうでしょうね」

「洗濯中に怪我しちゃって、万代草の葉っぱが欲しかったんだ」

 ピトゥは哀れにも信じようとでもするかのように、カトリーヌの手に視線を注いだ。

「手じゃなくて足だから」カトリーヌが慌てて答えた。

「見つかったんですか?」

「よく効くのがね。ほら、ちゃんと歩けてるでしょ」

 ――その前だってちゃんと歩いていたじゃないか。ボクの見ている前で、荒野の鹿より素早く逃げて行ったくせに。

 カトリーヌはまんまとやりおおせたつもりでいた。ピトゥが何も知らず何も見ていないものだと信じていた。

 だから高邁ならざるカトリーヌは勝ち誇るという善からぬ衝動に勝てなかった。

「やっぱりピトゥさんはわたしたちを避けてるんだね。新しい地位が誇らしくて、貧しい農夫なんて見下してるんでしょ。何てったって将校だものね」

 ピトゥは傷ついた。表立ってではないとは言えあれほどの犠牲を払ったのだから、常に見返りを求めていた。それなのにどうやらカトリーヌはピトゥを騙そうとしているらしいし、恐らくイジドール・ド・シャルニーと引き比べて嘲笑っていたとあっては、好意も機嫌も吹き飛んだ。自尊心とは眠れる蝮である。その上を歩こうとするのは軽率のそしりを免れまい。一撃で踏み潰さぬ限りは。

「避けているのはむしろあなたじゃありませんか」

「どうして?」

「仕事をくれずに農場から追い出したからです。ビヨさんには何も言うつもりはありませんし、ボクには必要なものを手に入れられる両手も熱意もありますけれど」

「言っとくけどね、ピトゥ……」

「結構です。家長はあなたですからね。だから追い出した。だからシャルニーさんの小屋に行き、そこにいたボクを見かけたのなら、林檎泥棒のように逃げ出さずに、ボクと話をすべきだったんです」

 蝮が咬んだ。カトリーヌは安心していた高みから転がり落ちた。

「逃げ出す? わたしが逃げ出したって言うの?」

「農場から火が出たみたいに。ボクが本を閉じる間もなく、草陰に繋いでいたカデに飛び乗って逃げ出したじゃありませんか。奏皮は樹皮を食い尽くされてすっかり駄目になっていましたよ」

「奏皮の木が駄目になった? いったい何が言いたいの、ピトゥさん?」カトリーヌは自信という自信が擦り抜けてゆくのを感じ始めた。

「当たり前のことです。あなたが万代草を摘んでいる間、カデは樹皮を食んでいたんですから。馬一頭が一時間あれば平らげてしまうでしょう」

「一時間?」カトリーヌが声をあげた。

「一頭の馬があの木の皮を歯で咬んで毟るには、一時間以下では不可能です。あなたが万代草を摘んでいたとすると、バスチーユ広場で負ったくらいたくさんの傷を負っていたことになります。あれはいい湿布薬ですからね」

 カトリーヌは真っ青になって言葉を詰まらせた。

 ピトゥも言うべきことを言って口を閉じた。

 ビヨ夫人が四つ辻で立ち止まり、おかみさんたちを見送っていた。

 たったいま作ったばかりの傷の痛みに苦しんでいたピトゥは、飛び立とうとする鳥のように足を交互に揺すっていた。

「将校さんは何て?」ビヨ夫人がたずねた。

「良い晩を、と言ったんです、ビヨおばさん」

「それだけじゃないでしょ」カトリーヌが投げ遣りに呟く。

「じゃあ良い晩を。来ないのかい、カトリーヌ?」

「ほんとのことを言いなさいよ」カトリーヌが呟いた。

「何ですか?」

「わたしたち、もう友達じゃないんでしょ?」

「そんな!」ピトゥが声をあげた。まだ経験もないのに打ち明け話の相手という非道い役どころで恋愛という舞台に足を踏み出したというのに。利益を引き出すには頭を絞って自尊心を犠牲にしなくてはならない役どころだというのに。

 ピトゥの口唇から秘密が出かかった。カトリーヌが一言でもしゃべれば何でも言うことを聞いてしまいそうだった。

 だが同時に、口に出してしまえば終わりだと感じていたし、疑ってばかりいるとカトリーヌに言われようものなら苦しみのあまり死んでしまいそうだった。

 こうした不安がピトゥをローマ人のように寡黙にさせた。

 ピトゥはカトリーヌの心を突き刺すような恭しい挨拶をすると、ビヨ夫人にはにこやかに微笑んで挨拶をしてから、厚い木叢に姿を消した。

 カトリーヌは追いかけようとでもするように思わず足を踏み出した。

 ビヨ夫人が声をかけた。

「いい子だね。物識りだし、思いやりもある」

 ピトゥは一人きりになると先の主題についてぶつぶつと呟き始めた。

「愛とは何だろう? ある時はとても甘いのに、ある時にはとても苦いものだな」

 ピトゥはあまりにうぶで善良だったため、愛には蜂蜜も苦ヨモギも含まれているということや、イジドールがピトゥにとっての蜂蜜を手に入れていたとは考えなかった。

 カトリーヌは非道い苦しみを味わったあの瞬間から、無害で滑稽だと考えていたピトゥに対し、数日前にはまるで感じていなかった恐れのようなものを抱いた。

 他人の心に愛を芽吹かせたことのない者は、ささやかな恐れを芽吹かせようとも何も感じない。ましてやピトゥは個人の尊厳というものに並々ならぬこだわりを持っていたので、カトリーヌの心にそういった感情を見つけたとしたらさぞや得意になったことだろう。

 だが一人の女の頭の中を一里半離れたところで見抜くことが出来るほどには生理学に通じていなかったため、滂沱の涙を流して地元の悲曲を暗い調べに乗せて幾つも繰り返したところでまずはやめておいた。

 こんな風に指揮官が女々しい泣き言に溺れているのをもし部下たちに見られでもしたら、さぞや幻滅されたことだろう。

 散々歌って散々泣いて散々歩いた末に部屋に戻ると、部屋の前にはアラモンの崇拝者たちが武器を持たせて立ち番を置いていた。

 ところがその立ち番は銃を手に持てないほど酔っ払っており、足の間に銃を挟んで石の腰掛けの上で眠りこけていた。

 ピトゥは驚いて揺り起こした。

 立ち番の話によると男たち三十人がアラモンのヴァテールことテリエ親父のところで宴会を開き、奔放な女たち十人ばかりがその勝利を祝い、隣村のコンデ公を打ち負かしたテュレンヌのために上座は空けているということであった。【※ヴァテール:ルイ14世時代の料理人。テュレンヌ、コンデ公:フロンドの乱において、反乱軍側のコンデ公はテュレンヌと戦って破れた】

 ピトゥの心は疲弊しきっていたので、胃がその影響を受けないわけにはいかなかった。シャトーブリアン曰く、「王の目にたたえられた涙の量に驚いたが、その涙によって大人一人の胃袋がどれだけ空っぽになったのかは推し量り難かった」のである。]【※「王の目にたたえられた涙の量に驚いた」の部分は、シャトーブリアン『アタラ(Atala)』より。「les reines ont été vues pleurant comme de simples femmes, et l'on s'est étonné de la quantité de larmes que contiennent les yeux des rois ! 」】

 立ち番に連れられて宴会場に着いたピトゥは、壁も揺るがすほどの喝采で出迎えられた。

 ピトゥは無言のまま挨拶で応え、やはり無言のまま席に着き、いつものように物静かに牛肉一切れとサラダにかぶりついた。

 これはピトゥの心の傷が癒え、胃袋が満たされるまで続いた。

 
 
 第69章おわり。最終章第70章につづく。

『アンジュ・ピトゥ』68

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十八章 今度はカトリーヌが戦術を練った次第

 クルイース親父に銃が渡された。ピトゥは名誉を重んじる青年だ。ピトゥにとって約束とは果たすべき義務であった。

 一日目と同じように何回も通い、ピトゥは申し分ない精鋭兵となった。

 困ったことにクルイース親父は演習指揮(la manœuvre)に関しては基本教練(l'exercice)ほど詳しくはなかった。回れ右と、右向け右と、旋回運動の説明をした時、智識が底を突いた。【※lorsqu'il eut expliqué le tour, le demi-tour et les conversions, il se trouva au bout de sa science. 「demi-tour」は「回れ右」だが、「tour」だと一回転してしまうため、試みに「tour」を「回れ右」にして「demi-tour」を「右向け右」と訳した】

 そこでピトゥは出版されたばかりの『フランス式実践(Praticien français)』と『国民衛兵必携(Manuel du garde national)』に助けを求め、一エキュもの大枚をはたいた。

 この指揮官の大出血のおかげで、アラモン大隊は演習場で問題なく動き回ることが出来た。

 動きが複雑になって来たと感じたピトゥは駐屯地であるソワッソンに出かけ、本物の将校が指揮する本物の軍隊演習を見学し、二か月かけて理論で学ぶであろう以上のことを一日で学んだ。

 二か月はこうして過ぎて行った。努力と疲労と熱狂の二か月であった。

 ピトゥは志高く、恋をし、恋に破れていた。だが栄光に彩られたささやかな代償として、ピトゥは生理学者が「獣性」と呼んだものを乱暴に揺り動かされていた。

 ピトゥの中の獣は魂のために容赦なくすり減らされていた。ピトゥは懸命に走り回り、懸命に手足を動かし、懸命に頭脳を研ぎ続けていたから、自分が今もまだ心を満たしたり心を慰めたりするつもりだったことに驚いていた。

 それでも結局は実行していた。

 教練の後でいったい幾たび――教練はたいてい晩の作業が終わると自然に生じていた――ピトゥはいったい幾たびラニー(Largny)とヌー(Noue)の平野を端から端まで横切るに任せたことだろうか。そして幾たび森深い茂みを掻き分けて、ブルソンヌ領の外れでいつも決まって逢瀬を重ねるカトリーヌを覗き見に行ったことだろうか。【※「Largny」はアラモンの南にある。第57章参照。「Noue」はラニーとヴィレル=コトレの間に位置する。ブルソンヌはラニーの南、クルイーズ岩はヴィレル=コトレ。ピトゥはアラモンで教練を終え、ラニーとヌーの平野を通ってブルソンヌに向かったのである】

 カトリーヌは日に一、二時間、家事の時間を削り、ブルソンヌ城館の領内にある兎猟場の真ん中に建つ小屋(petit pavillon)まで、最愛のイジドールに会いに行っていた。幸せ者のイジドールは周りがどれほど苦しんで力をなくしていようとも、常に自信たっぷりで凜々しかった。

 哀れなピトゥがどれだけの苦悶にさいなまれ、人間の幸福は不平等だという悲しい考えに幾たび囚われたことか!

 アラモンやタイユフォンテーヌ(Taillefontaine)やヴィヴィエール(Vivières)の娘たちにちやほやされ、仮に森の中で逢瀬を持つようになったとしても、色男のように気取って歩くよりは、殴られた子供のようにイジドールの小屋の門前まで泣きに来る方を選んでいた。【※Taillefontaine、Vivières。アラモン北東に隣接する村】

 ピトゥはカトリーヌを愛していたということだ。それは激しく愛していた。カトリーヌが高嶺の花だとわかっているだけにますます強く愛していた。

 カトリーヌの愛が別の男に向いていることなどもう考えることさえしていなかった。ピトゥにとってイジドールは嫉妬の対象ではなくなっていた。貴族であるうえに凜々しいイジドールなら愛されるのも当然だ。だがカトリーヌは田舎娘である。家族の名誉を傷つけたり、ピトゥにつらい思いをさせたりすべきではないのではないか。

 ピトゥが考えていたのはそういったことだ。これは鋭い切っ先であり、耐え難いうずきであった。

 ――冷たい人だな、ボクが出て行ってもほったらかしだなんて。出て行ったボクが飢えていやしないか確かめようともしてくれないなんて。自分の友人や仕事がほったらかしにされてると知ったら、ビヨさんは何て言うだろう? 一家の主が使用人の働きぶりを監督しに行かずに、貴族のシャルニー氏と乳繰り合いに行っていると知ったら、何て言うだろう? ビヨさんはきっと何も言わない。カトリーヌを殺すだろう。

 ――それでも、そんなふうにいつでも復讐できる手札を持っているのは大きい。

 大きいが、実行せずにいたのは立派ではないか。

 とは言えピトゥはとっくの昔に痛感していた。どんなに立派な行為であれ理解されなければ無益だということを。

 ではどれだけ立派にふるまったかをカトリーヌにはわかってもらえないのだろうか?

 これほど簡単なことはない。すべきなのは日曜日にダンスのさなかカトリーヌに近づき、偶然を装って、秘密が見抜かれているとわからせるような言葉を口にすることだけだ。【※復讐できるのにしなかった=立派な行為=復讐内容を本人に知らせることで口外という復讐をしなかったと本人にわかってもらう、という理屈か?】

 思い上がったカトリーヌをちょっと困らせたいだけだとしても、そんなことはすべきではないだろうか?

 そもそもダンスに行くならイジドールとまた同じ場所に姿を見せなくてはならない。あんな伊達男と比較されるような状況は、恋敵としては避けたいところだ。

 悲しみを堪える人というのはいろいろと考えるものなので、ピトゥもダンスの場で話をすべきではないと考え直した。

 カトリーヌとシャルニー子爵が逢瀬を重ねていた小屋は、ヴィレル=コトレの森に隣接する鬱蒼とした雑木林に囲まれていた。【※次男のジョルジュは男爵だが、三男のイジドールが子爵なのか?】

 ちっぽけなどぶが伯爵領と一私人領の境目だった。

 カトリーヌは農家の用事で近隣の村に呼ばれるたび、森を通り抜ける必要があった。森の中を通れば誰からも話しかけられることはないので、後は恋人と雑木林で過ごすためどぶを越えるだけでよかった。

 疑われないために好都合な場所がしっかりと選ばれていたのである。

 小屋からは雑木林がよく見えたので、色つきガラスの嵌った斜めの窓から周囲のものを確かめることが出来たし、小屋の出入口は雑木林でうまく隠れていたので、出かける時にも馬で三歩跳躍するだけで森という名の中立地帯に出ることが出来た。

 だがピトゥは昼も夜もしょっちゅうやって来て見張っていたので、獣道で待ち伏せして飛び出して来た鹿を仕留める密猟者のように、カトリーヌが出て来る場所を把握してしまっていた。

 森に戻るカトリーヌがイジドールと一緒の時はなかった。イジドールはカトリーヌが出た後もしばらく小屋に残り、カトリーヌの身に何も起こらないことを確かめてから反対側から出るようにしていた。それですべてだ。

 ピトゥは実行日を決めると、カトリーヌの通り道に待ち伏せしに行き、三百年にわたり小屋と雑木林を見下ろして来た巨大なぶなの木に登った。

 一時間もしないうちにカトリーヌが通りかかった。

 カトリーヌは馬を森の窪地に繋ぐと、驚いた牝鹿のようにどぶをぴょんと飛び越えて、小屋を囲む雑木林に入り込んだ。

 ピトゥが隠れているぶなの真下をカトリーヌが通り過ぎた。

 ピトゥは枝から下りて幹に寄りかかると、ポケットから『国民衛兵完全読本(Parfait Garde national)』を取り出し、読んでいるような恰好だけし始めた。

 一時間後、扉を開閉する音が耳に届いた。それから木の葉に服がこすれる音が聞こえた。カトリーヌの頭が木陰から現れ、見られてはいないかと不安そうに見回している。

 カトリーヌがピトゥのすぐそばまで来た。

 ピトゥは膝の上で本をつかんだままじっとしていた。

 だが読んでいるふりだけはやめて、見られていたことにカトリーヌが気づくように目を向けた。

 カトリーヌはピトゥに気づいて小さな悲鳴をあげ、死神にでも近寄られて触れられたように真っ青になった。手が震えていることからすると少しだけ迷っていたようが、力なく肩を揺らして脱兎の如く森に駆け込み、馬に乗って逃げ出した。

 首尾よく機能したピトゥの罠にカトリーヌは引っ掛かったのである。

 ピトゥは喜びと怯えの入り混じった気持でアラモンに戻った。

 何しろ実行してみて気づかされたのだが、今回の単純な計画を進めて行くうえで、当初は考えもしなかった様々なことに思い当たった。

 今度の日曜はアラモンで観閲式(une solennité militaire)がおこなわれる予定だった。

 アラモンの国民衛兵たちは、あれだけ訓練したのだからと少なくともそのように主張して、招集を掛けて演習を公開するよう司令官に要求した。

 隣村の人々も対抗意識を燃やして訓練をおこなっていたので、軍歴の長い先輩の胸を借りるつもりでアラモンにやって来るに違いない。

 それぞれの村の代表者たちがピトゥの参謀本部と合流した。以前は軍曹だったという農夫が代表団をまとめていた。

 面白いものが見られるという報せに、野次馬たちが着飾って押し寄せた。アラモンの練兵場は朝から娘たちや子供たちで賑わい、その後から遅ればせながらではあったがいずれ劣らぬ好奇心を抱えて兵士の父母たちが加わった。

 まずは飲み食いが始まった。果物や泉の水に浸したパイのような粗末なものだった。

 やがて四方から四つの太鼓が鳴り響いた。ラニー、ヴェズ、タイユフォンテーヌ、ヴィヴィエール(de Largny, de Vez, de Taillefontaine et de Vivières)の四つだ。【※Vez はラニーの西にある村落】

 今ではアラモンは中心となり、四方は固められていた。

 五つ目の太鼓が勇ましく打ち鳴らされ、三十三人の国民衛兵をアラモンから送り出した。

 見物人の中にはひやかしで見に来ているヴィレル=コトレの貴族や富裕商人もいた。

 さらには試しに見に来た近隣の農夫もいた。

 やがて二頭の馬が並んで到着した。カトリーヌとビヨ夫人だ。

 その時である、アラモン国民衛兵が村から現れたのは。笛手と鼓手と指揮官ピトゥもいる。ピトゥは副官マニケに借りた白馬に乗っていた。パリをより完全に模倣するためであり、ラファイエット侯爵を生ケルガ如クad vivumアラモンに再現するためであった。

 ピトゥは晴れがましさと図々しさで生き生きと輝き、剣を手にして金色の鬣を持つ馬に跨っていた。皮肉でも何でもなく、優雅だとか高貴だとかは言い過ぎにしても、少なくとも目もあやな逞しく雄々しい人間そのものであった。

 ピトゥと部下たち、言い換えるなら辺境の地を目覚めさせた者たちが勝ち誇って入場すると、割れんばかりの喝采で迎えられた。

 アラモンの国民衛兵たちは皆、徽章の付いた同じ帽子をかぶり、ぴかぴかの銃を持ち、二列になって一糸乱れず行進していた。

 こうして演習場に着いた時には見物人の心をすっかり射とめていた。

 ピトゥは視界の隅にカトリーヌを認めた。

 ピトゥは顔を赤らめ、カトリーヌは青ざめた。

 この瞬間から観閲式は万人のものではなく一個人のものになった。

 ピトゥがまず部下たちに銃の教練をさせると、命じた動作が一つ一つ正確に実行され、大気が喝采と歓喜の声で満たされた。

 だがほかの村の場合は同じようにいかなかった。兵士たちはだらだらしていて動きもばらばらだった。武器を持った者や訓練をした者たちの大半は、比較されてがっかりされているのをひしひしと感じていたし、それ以外の者たちは前日に覚えたことをこれ見よがしにひけらかしていた。

 何もかもが完璧には程遠かった。

 だが教練(l'exercice)が終わり演習(la manœuvre)に移ると、あの軍曹が待ち受けていた。

 軍曹は経験を買われて総指揮権を預かっていた。やるべきことは総軍百七十名を行進させ演習させることだけのはずだった。

 やり遂げることは適わなかった。

 ピトゥはいつもの剣と兜を身につけ、余裕の笑みを浮かべてその様子を眺めていた。

 隊列の先頭は森の木立に消えているのに、後尾はアラモンに戻りかけていた。方陣は四方八方に散り散りになり、分隊は不様に混じり合い、先導者は進むべき方向を見失った。軍曹はそんな光景を見て冷静さを失ってしまい、何人もの兵士たちから辞めろという声を浴びせられた。

 その時アラモンの方から声があがった。

「ピトゥ! ピトゥだ! ピトゥにやらせろ!」

「そうだ、ピトゥにやらせろ!」隣村の人々からも声があがった。お優しいことに下手くそなのを教官のせいにして怒り狂っていた。

 ピトゥは改めて白馬に跨って部下たちの前に戻り、軍の指揮を委ねて号令を発した。木楢も震えるほどの見事なまでに低く力強い声だった。

 途端に、まるで奇跡でも起こったように、ばらばらだった隊列が元に戻った。出された命令は昂奮にも乱されることなく整然と実行された。ピトゥはクルイース親父に習ったことと『国民衛兵完全読本』に書かれた理論を滞りなく実践し、大きな成功を収めた。

 軍隊はただ一つの心で結びつき、ただ一つの声が鳴り響いて、ピトゥは戦場の凱旋将軍imperatorと讃えられた。【※imperator インペラトル。共和制ローマで多大な勝利を収めた将軍に捧げられた称号。後に皇帝の称号となる】

 ピトゥは汗ぐっしょりになって意気揚々と馬から下り、地面に足を着けた時には絶賛を受けた。

 だが絶賛の声を浴びながらも、ピトゥは人込みの中にカトリーヌの眼差しを探していた。

 すると耳許で若い女の声がした。

 ピトゥからカトリーヌのところに行く必要もなく、カトリーヌの方からやって来たのだ!

「どうしたの?」真っ青な顔色とは裏腹の朗らかな声だった。「アンジュさん、挨拶もなし? 偉くなったものね、何たって大将軍だから……」

「まさか、とんでもない! こんにちは、お嬢さん」

「またお会い出来て何よりです、ビヨおばさん」

 ビヨ夫人に挨拶してからまたカトリーヌに向かって言った。

「違いますよ、ボクは大将軍なんかじゃなく、祖国のために尽くしたいという気持にはやる一青年に過ぎません」

 この言葉は波に乗って見物人の許まで運ばれ、歓呼の嵐で迎えられて、気高い言葉だと断定された。

「アンジュ」カトリーヌが声をひそめた。「話があるの」

 ――ほら来た! ピトゥは内心で思った。

 それから声に出して言った。

「わかりました、カトリーヌさん」

「後で一緒に農場に戻りましょう」

「ええ」

 ピトゥはカトリーヌに恭しくお辞儀をすると、誘惑には頑として抗おうと心に決めてその場を去った。【※この文章は初出と底本にはない。Et Pitou, saluant respectueusement Catherine, s'éloigna, en se promettant de tenir inflexiblement contre les tentations de la jeune fille. 】

 
 
 第68章おわり。第69章につづく。

『アンジュ・ピトゥ』67-4

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 ピトゥはいきさつを正直に包み隠さず明朗に話して聞かせた。

「なるほどな。教えてやりたいのはやまやまだが、指を怪我しちまった」

 そうして今度はクルイース親父の方が、事故の起こったいきさつをピトゥに話して聞かせた。

「そうでした、銃のことはお気になさらずに、代わりを探します。後は指ですが……銃のようにはいきません。ボクには三十四本もありませんから」

「指のことなら構うこたぁない。その代わり約束だ、明日には銃を持って来い」

 クルイース親父はそう言うとすぐに立ち上がった。

 天頂の月が白い輝きを家の前の空き地に注ぎ込んでいた。

 ピトゥとクルイース親父は空き地まで歩いて行った。

 こんな人気のない場所の暗闇で二つの黒い影が動くのを見た者があれば、言いしれぬ恐怖を覚えざるを得なかったであろう。

 クルイース親父は銃の残骸をつかんで、溜息をつきながらピトゥに見せた。初めに軍隊式の持ち方を実演して見せた。

 それから不思議なことに老人が突然力を取り戻した。藪の中を猟歩していたせいで背中は曲がりっぱなしだったが、聯隊の記憶や銃の教練に刺戟されて、ごつごつして広くがっしりした肩の上でざんばらの白髪頭を振り立てた。

「よく見ておけ。しっかり見ておくんだぞ。ものを覚えたいならよく見ることだ。俺のやることをようく見てから、自分でやってみろ。そうしたらお前がやるのを見ておいてやる」

 ピトゥは言われた通りにやってみせた。

「膝を引っ込めろ、肩をいからせるな、頭を楽にしろ。足許を安定させろ、せっかく足が大きいんだ」

 ピトゥは精一杯その通りにした。

「いいぞ、風格が出て来たじゃないか」

 ピトゥは風格が出て来たと言われて気分が良かった。そんなことは期待もしていなかったのだ。

 たった一時間の訓練で風格が出て来るのであれば、一か月したらどうなるのだろう? もしかすると威厳を纏っているのではないだろうか。

 だからピトゥは続きをおこないたかった。

 だがもう一課程分は済んでいた。

 それにクルイース親父が自分の銃を手にするまで先に進みたがらなかった。

「駄目だ。一回で充分だ。一回目の訓練で教えるのはこれだけでいい。どのみちみんな四日では覚えられんだろう。その間に二回、此処に通え」

「四回でお願いします!」

「そうかい」クルイース親父は素っ気なく答えた。「どうやら熱意もそれに見合う健脚もあるようだな。だったら四回だ。四回ここに来い。ただし今日は晦日の月だ、明日にはもっと暗くなるぞ」

「だったら穴蔵で訓練しましょう」

「それなら蝋燭を持って来い」

「一、二リーヴル(0.5~1kg)持って来ます」

「よし。俺の銃は?」

「明日にはお持ちします」

「待ってるぞ。俺が言ったことは覚えたな?」

 ピトゥは讃辞を期待して復唱した。喜びのあまり大砲を持って来る約束さえしかねなかった。

 こうして訓練後の話し合いが終わった頃には深夜一時に差し掛かっていたので、ピトゥは教官にいとまを告げて、いつもよりゆっくりであるのは確かだがやはり変わらず大きな足取りでアラモンまで戻ると、国民衛兵も羊飼いもみな深い眠りに就いていた。

 ピトゥは指揮官として何百万人もの軍隊を率いている夢を見た。一列に並んだ全兵士に一糸乱れぬ行進をさせ、ヨシャパテの谷のはずれまで届くような声で「担え銃!」と命ずるのだ。【※vallée de Josaphat(ヨシャパテの谷)とは、旧約聖書ヨエル書3:2、3:12に見られる、神が異教徒を裁く谷の名】

 翌日からピトゥは兵たちに稽古をつけた。いや、つけられた稽古をつけ返して、尊大な態度と確実な実技のおかげでありえないほどに高まった評判を味わっていた。

 人気とは何ととらえどころのないものだろう!

 ピトゥは人気者になり、男からも子供からも老人からも尊敬を受けた。

 女たちでさえピトゥがステントルのような大声で一列に並んだ三十人の兵たちに指示を出しているのを真剣に見守っていた。【※ステントル(Stentor)。『イリアス』に名前の出て来る、青銅の声をもつと言われる五十人分ほどの大きな声の持ち主】

「風格を持て! しっかり見て真似するんだ」

 確かにピトゥには風格が備わっていた。

 
 
 第67章おわり。第68章につづく。

『アンジュ・ピトゥ』67-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 ピトゥは小屋に足を踏み入れてにこやかに挨拶をした。

「今晩は、クルイースさん」

「誰だ?」

「ボクです」

「ボク?」

「ピトゥです」

「ピトゥだって?」

「アラモンのアンジュ・ピトゥですよ」

「アラモンのアンジュ・ピトゥだったらどうだって言うんだ?」

「ご気分を害されましたか、クルイースさん。こんな時間に起こしてしまって」ピトゥがおもねるように話しかけた。

「まったくだ。非道い時間だな」

「どうすべきでしょうか?」

「一番いいのは失せることだ」

「ちょっとだけ話をさせてくれませんか?」

「何の話を?」

「力を貸していただきたいんです」

「只では貸さんよ」

「力を貸してくださった方にはきちんとお支払いします」

「だろうな。だがもう力を貸すことは出来ん」

「なぜですか? これまで」

「もう殺生はしない」

「もう殺生はしない? これまで散々して来たのにですか。信じられません」

「失せろと言ったんだ」

「お願いです、クルイースさん」

「迷惑だ」

「話を聞いて下さい、無駄な時間は取らせません」

「よし、だったらすぐに済ませろ……何が望みだ?」

「兵士の経験がおありですよね?」

「それがどうした」

「それがその、お願いしたいのは……」

「さっさと言え!」

「銃の扱い方を教えて欲しいんです」

「狂ったのか?」

「それどころか頭はしっかりしています。銃の扱い方を教えて下さい。値段は話し合いましょう」

「そうかい。やっぱりいかれてるな」クルイース親父は冷たく吐き捨て、干しヒースの寝台の上で身体を起こした。

「クルイースさん、教えてくれるんですか、くれないんですか。軍隊でやっているような十二段式(en douze temps)の銃の扱い方を教えて欲しいんです。お望みのものを仰って下さい」

 クルイース親父は膝を立て、ピトゥに貪るような目を向けた。

「望むものだと?」

「そうです」

「だったら、欲しいのは銃だ」

「ちょうど良かった。銃なら三十四挺あります」

「三十四挺?」

「その三十四挺目はボクが自分用に持って来たものですから、クルイースさんにはぴったりだと思います。小さな将校用の銃で、銃尾には金で王家の紋章が入っているんです」

「どうやって手に入れたんだ? 盗んだわけじゃないんだろう?」

『アンジュ・ピトゥ』67-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 だがそれよりも狩人や森番を激しく嫉妬させていたのは、クルイース親父が年に三百六十五発しか撃たず、その三百六十五発で百八十三羽の野兎と百八十二羽の白兎を仕留めているという事実であった。

 ドルレアン公に招かれて城館で数日を過ごしたパリの貴族たちは、一度ならずクルイース親父の物語を聞かされていたので、一ルイや一エキュを施しに来て、三百六十五回の射撃で三百六十五回の機会を成功させた人間の秘密を探ろうとしていた。

 だがクルイース親父には次のような説明しか出来なかった。軍隊では同じ銃に銃弾を込めて人間を撃ち殺して来た。銃弾を用いて人間にして来たことを、散弾を用いて白兎や野兎にするのはずっと簡単なことだと気づいた。

 それを聞いて笑みを浮かべた人々に、クルイース親父はたずねた。

「確実に命中しないのに撃つ理由なんてあるかい?」

 クルイース親父が射撃の名手でなければ、ラ・パリス氏の碑文に連なっていてもおかしくはない言葉だった。
 【※Jacques II de Chabannes, Jacques de La Palice(La Palisse)、1470-1525。シャルル八世~フランソワ一世時代の大将軍として知られる。その死を悼む小唄「Hélas La Palice est mort, /Il est mort devant Pavie, /Un quart d'heure avant sa mort, /Il faisait encore envie, 」の「envie」が「en vie」と誤読され、「死の十五分前までまだ生きていた」という「自明の理」を表す言葉となった。】

「それにしたってドルレアン公のオヤジさんはけちではないんだ、どうして一日に一発しか撃たせてもらえないのだ?」

「それ以上は余分だ。ちゃんとわかってくれてるんだよ」

 そうした珍しい光景と突飛な理論のおかげで、クルイース親父は年に十ルイほどを手に入れていた。

 兎の革と自分で作った祭りでこれだけの金額を儲けたうえに、巻脚絆一組――正確に言うと五年で巻脚絆半足と十年で服一着にしか使わなかったので、親父は貧乏とは程遠かった。

 噂によればそれどころかへそくりを隠していたし、相続人がひどく困窮することはないだろうという話だった。

 ピトゥが真夜中に会いに来たのはこうした特徴のある人物であった。この人物なら絶体絶命の状況から引き上げてくれるに違いないと閃いたのである。

 だがクルイース親父と会うにはかなりの手際を要する。

 ネプチューンの老牧者であるプロテウスよろしく、クルイース親父は易々と捕まえられるような相手ではなかった。何ももたらさない邪魔者(l'importun improductif)とそぞろ歩いている金持ち(du flâneur opulent)を的確に見分け、金満家の方を少なからず見下していたので、飛び切りの厄介者をどれだけ荒々しく追い出していたかも察せられるほどであった。
 【※「ネプチューンの老牧者であるプロテウス」の原文は「Tel que le vieux pasteur des troupeaux de Neptune」であり「プロテウス」の名は見られないが、ルソーの詩により補った。詩人・劇作家のジャン=バプティスト・ルソー(Jean-Baptiste Rousseau,1671-1741)の詩「Ode au comte de Luc」には、「Tel que le vieux pasteur des troupeaux de Neptune, Protée, à qui le ciel, père de la fortune, Ne cache aucuns secrets, Sous diverse figure, arbre, flamme, fontaine, S'efforce d'échapper à la vue incertaine Des mortels indiscrets」という一節がある。「ネプチューンの畜群の牧人」とはプロテウスのこと。プロテウスは「海の老人」と呼ばれ、ポセイドン(ローマ神話のネプチューンに該当)の従者としてアザラシの番をしていた。予言を能くするが、さまざまに変身するので捕まえるのは困難だった。】

 クルイース親父が寝ているのはヒースで出来た寝台だった。九月の森がもたらす馥郁たる香りの寝台は、翌年の九月まで替える必要がない。

 刻は夜の十一時頃、空気は澄んでひんやりとしていた。

 クルイース親父の小屋に行くためには、どうしたってぶ厚いどんぐりの敷物や密集した荊の茂みから抜け出なくてはならず、そうなると枝やどんぐりの折れたり割れたりする音で誰かが来たことが筒抜けだった。

 ピトゥは普通の人間の四倍も音を立てた。クルイース親父が顔を上げて目を向けた。眠ってはいなかったのだ。

 その日のクルイース親父は気が立っていた。非道い事故があったせいで、愛想のいい近所の者でも近寄りがたいほどだった。

 本当に非道い事故だった。五年にわたって銃弾を放ち、三十五年にわたって散弾を放って来た銃が、野兎を撃った時に暴発したのである。

 三十五年の間、仕留め損ねたのは初めてのことだった。

 だが不愉快極まりないのは野兎に無傷で逃げられたことではなかった。左手の指が二本、暴発でズタズタになってしまったのだ。指は草を噛んで紐で縛って治したが、銃を直すことは出来なかった。

 別の銃を手に入れるために財産を掘り返さなくてはならなかったし、多大な犠牲を払い新しい銃に二ルイという大金を費やしたところで、暴発してしまった銃と同じく百発百中の精度を持つものかどうかわからないではないか?

 この通りピトゥが訪れたのは最悪の時機だったと言っていい。

 だから掛け金に手を掛けた瞬間にクルイース親父が発した唸り声を聞いて、アラモン国民兵司令官ピトゥは後じさった。

 狼か出産中の猪がクルイース親父と入れ替わってしまったのではないか?

 ピトゥは赤頭巾を読んだことがあったので、中に入る勇気を持てずに外から声をかけた。

「クルイースさん!」

「何だ?」

 ピトゥはほっとした。よく知っている声だった。

「よかった。いらっしゃるんですね」

『アンジュ・ピトゥ』67-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十七章 クルイース親父とクルイーズ岩、或いはピトゥが如何にして戦術家となりて気高さを身につけしか

 斯くしてピトゥは三十分近くにわたって走り続け、どんどん草深い森の奥まで分け入って行った。

 すると樹齢三百年にはなろうかという大樹の聳える中、巨大な岩を背にするようにして、荊の茂みに囲まれた、四十年ばかり前に建てられた掘っ立て小屋があった。そこには個人的な理由から人に知られぬすべを身につけた人物が閉じ籠もっていた。

 小屋の半分は地面に沈み、残り半分は節くれ立った枝や幹に絡みつかれていたために、屋根に斜めに空いた穴からしか日光や空気は通らない。

 アルバイシン(l'Albaycin)のジプシー(Bohémiens)小屋にも似たこの掘っ立て小屋は、屋根の上から青い煙の洩れるのが見えることもある。

 そうでもなければ森番や狩人や密猟者や近隣の農夫以外には、まさか人が住めるとは思われないような代物だ。

 ところがそこには引退した老兵が四十年前から暮らしていた。ルイ=フィリップの父ドルレアン公(monsieur le duc d'Orléans, père de Louis-Philippe)の許しを得て、森に住み、制服を着たまま、日毎に兎を撃っていた。

 鳥と大型獣は許可されていない。

 この物語当時の年齢は六十九歳。初めはクルイース(Clouïs)とだけ呼ばれていたが、後に年齢に合わせてクルイース親父と呼ばれるようになった。

 小屋の裏にある巨大な岩は、親父の名前から洗礼を授かってクルイーズ岩(la pierre Clouïse)と呼ばれていた。

 クルイース親父はフォントノワで受けた傷が元で足を切断しなくてはならなかった。若くして退役し、ドルレアン公の恩恵を受けているのにはそうした事情がある。

 都会には決して足を踏み入れなかったし、ヴィレル=コトレに来るのも年に一回しかない。火薬と散弾を三百六十五発分、閏年には三百六十六発分、購入するためだ。

 同じ日、ソワッソン街の帽子業者コルニュ氏のところに三百六十五ないし三百六十六枚の革を運んで来る。白兎と野兎が半々のその革を、帽子業者は銀貨七十五リーヴルで買い取っていた。

 平年なら三百六十五枚、閏年なら三百六十六枚と記したが、これには一切間違いはない。クルイース親父には一日に一回銃を撃つ権利があり、一発で野兎か白兎を仕留めるすべを心得ていた。

 平年なら三百六十五発、閏年なら三百六十六発、許された数より多く撃つことも少なく撃つこともなかったので、平年にはきっかり百八十三羽の野兎と百八十二羽の白兎、閏年には百八十三羽の野兎と百八十三羽の白兎を仕留めていた。

 クルイース親父は獲物の肉で命を繋いでいた。食べることもあれば、売ることもあった。

 先述したように、革で火薬と散弾を買い、資本を作っていた。

 そのうえ年に一回、ささやかな投資をおこなっていた。

 小屋の裏にある岩は屋根のような斜面になっていた。

 斜面の表面は十八ピエの広さがあった。

 上端に何かを置けば下までゆっくりと転がってゆく。

 クルイース親父は、野兎や白兎を買いに来るお内儀さんの口を通して、近隣の村々に少しずつ広めていた。それはサン=ルイの日にこの岩を何度か滑り降りた若い娘が年内に結婚するという話であった。【※le jour de la Saint-Louis。la fête de la Saint-Louis とも。8月25日におこなわれる、聖ルイを記念した祝祭。】

 最初の年はたくさんの若い娘が訪れたが、滑り降りる者は一人もいなかった。

 次の年には三人の娘が挑戦した。二人は年内に結婚した。残った三人目の娘のことを、クルイース親父は恥ずかしげもなく切り捨てた。夫が見つからなかったのは滑る時の信心がほかの二人より足りなかったせいだと。

 その翌年には近所の娘がこぞって駆けつけ滑り降りた。

 娘の数に対して男が足りないが、滑り降りた娘の三分の一、つまりより信心深い娘たちが結婚できると、クルイース親父は断言した。

 その言葉に違わず多くの娘が結婚した。それ以来、クルイーズ岩には縁結びの加護があるという評判が立ち、毎年サン=ルイの日には二つの祭りがおこなわれるようになった。村の祭りと森の祭りだ。

 そこでクルイース親父は権利を主張した。一日中飲み食いせずに滑っているわけにはいかないのだから、八月二十五日に飲み物や食べ物を若い男女に売る独占権が自分にはあるという主張である。男女、というのはつまり、岩の霊験を確実にするためには二人一緒に――それも同時に――滑らなければならないと、若い男たちが若い娘たちを掻き口説くようになっていたからだ。

 三十五年にわたってクルイース親父はこうして暮らして来た。地元ではアラブ世界で聖人が受けるような扱いを受け、もはや伝説として生きていた。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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