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「さあこい!」シンプキンズは震えながらも精一杯の威厳を込めて命令した。誰一人口を利かなかったので、嘲るように繰り返した。「さあこい!」
ルルが強く息を吐いた。両手は胸に置かれていた。サイフォンを落っことしそうな男の子を見て、びっくりしたような顔をしている。シンプキンズは両手でサイフォンを身体に押しつけて抱えながら、少女を見つめ続けていた。少女は桜色のタイツを履いていた――すみれ色のランプ・シェードから洩れる強い光でシルクがきらきらと輝いている――カーネーションのように広がる白いモスリンのスカートに、薔薇色の胴衣。小柄で、こぢんまりとした野薔薇のような顔をしていた。けれど壊れやすい花のような美しい外見とはうらはらに、芯は強そうに思えた。暗めの金髪が、ピンやリボンで留めずにお洒落に垂れており、首のあたりで切りそろえられた巻毛が、白い肌をこするようにカールされていた。まっすぐな前髪が子どもらしさの残る額の上できれいに梳かれている。灰色だったのは驚きの浮かんだ目、大きいのは尖らせた口。素肌の腕は――見つめていられないほどに魅力的だった。少女は立ったまま片手を腰に当て、もう片方を頬に当て、シンプキンズを見つめていた。それから嬉しそうに飛び跳ねながら近づいてくると、サイフォンを取り上げた。
「よし」エヴァンズ=アントロバスがルルに言った――落ち着きを取り戻しており、シンプキンズの突然の出現に驚いた様子はなかった。「ちょうといいサイズじゃないか、こいつの服を着るんだ、早くしろ、あとは簡単だ」
「いやよ」
「ぼくだっていやだ」シンプキンズも荒々しく――と言っていいほど強く答えた。
ちょうどそのときドアが音を立ててわずかに開くと、ロープが投げ入れられた。持ってきた人物はあっという間に階下に舞い戻った。
「おい、待てよ!」エヴァンズ=アントロバスがドアに駆け寄ったが、誰もいなかったし答えもなかったので、部屋に戻ってロープを拾い上げた。
「そのコートを着ろよ」とルルに命じた。「その帽子も。よしいいか、何もしゃべるな、笑うのもなしだ、さもなきゃおれらは終わりだ、てめえの首をねじ切った方がましだよ!」
「やってみたらどうです?」シンプキンズが少なからぬ憎しみを込めて鼻を鳴らした。
「ええ、やってごらんなさい!」ルルも繰り返したが、そう言いながらも身体は階段を下りる男を追っていた。少女が振り返って手招きすると、シンプキンズも後に続いた。暗い中庭を横切り、真っ暗な通路を通り抜け、別の中庭、別の通路を抜けて、薄暗い礼拝堂の裏庭で立ち止まった。エヴァンズ=アントロバスがマッチをすると、空き箱や空き瓶などのごみが十フィート近い塀の下に積み上げられているのが見えた。
「おまえが最初だ、しゃべるなよ」エヴァンズ=アントロバスがシンプキンズにうなった。誰一人しゃべるものはいなかった。夜の闇は深く、星の輝きはかすみ、空気は靄がかって冷たかった。シンプキンズは助けを借りながら不安定な箱に上り、高い塀に足を踏ん張った。ロープもひっかけられ、大きな身体がふたたび地面に飛び降りると、それに体重を預けながらシンプキンズは反対側に滑り降りた。そこは細い路地で、外れに薄暗い街灯があるものの、滑り降りた場所までは光が届いていなかった。まわりには陰気な知識の塔が不気味に迫っていた。ロープの端を握ったまま立ちあがって星を見上げた――わずかに見える。塀はこちら側から見るといっそう高く、山のように見えたせいで、ベン=ネヴィスのことを思い出した。これは(深みにはまりこんで)理解できないことだった。よければ、まったく理解できないことだったと言ってもいい。よくわからないが間違っていたのだ、いずれにせよ正しいとも言えなかった。正しいわけがない。あんなおかしな人たちとは二度と関わり合いになるつもりはなかった。何の得にもならなかったし、お金すら払ってもらえなかった――それもすっかり忘れていた。頭痛のほかに何一つ得たものはなかったのだ。
ロープがぴんと張った。ルルが塀にまたがり、向こう側の男と言い合っている。
「あんたの腐れコートでも取っときな!」少女はコートを脱ぎ捨てて塀から放り投げた。「このクソ帽子も!」それも放り投げると、暗闇に向かって唾を吐いた。こちらを振り向いてささやいた。「いま行くから」塀から這い降りてシンプキンズの腕に滑り込んだ。少年はいつのまにか少女を腕にしっかりと抱きしめていた。柔らかさと芳香に満ちた少女を離すことが出来なかった。少女はほとんど何も身につけておらず――離すことが出来なかった。あまりにも素敵で美しかった。白い顔の輝きが暗闇の中で壊れそうなほどに謎めいていた。少女が首に腕をまわした。
「ねえ――大好きよ」
The Ballet Girl, A. E. Coppard ~from The Black Dog(1923)~
A・E・コッパード「バレエ・ガール~踊り子と少年~」の翻訳が終わりました。このあと誤訳の訂正や訳語の統一をして完成です。
この次はシャーロット・アームストロングのミステリ・デビュー作『Lay On, Mac Duff!』を訳そうかなと思っています。本格ミステリとサスペンスを融合した異色作です。
ルルとエヴァンズ=アントロバスのほかは部屋から逃げ出したようだった。エヴァンズ=アントロバスは明らかに動揺していて機嫌が悪かった。大声で喚きながら部屋をどしどしと歩き回っている。「ああちくしょう、急げよ。おれがあの女と何の関係があるんだよ、あの豚! 急げよ!」
「豚って誰のこと? すぐに出てくわよ」ルルの声が高まり、ドアの方に向かったのがわかった。
「行っちゃいけない。やめろ、駄目だ。ばかなことはするな、ルル! 騒ぎを起こしたくないだろ?」
「あんたといっしょにここにいる気はないの! それはごめん。行くからね」
「行っちゃいけない、今は出て行けないんだ。考えるから待ってろ! 考えるまで待てないのかよ! 何か着てろ、おれのコートがいい。しっかりくるまれよ。おれは終わりだ、ちくしょう! なんでここに来たんだよ……!」
「誰がここに連れてきたのさ、アンティバスさん? そっか、あんたのことはわかってるんだから。代理人だか誰だかあんたが嫌がる人に言っちゃおうかなあ! 行くからね。あんたと二人でここにいる気はないの!」ひどい取っ組み合いの音が聞こえた。シンプキンズはもう我慢できなかった。ドアをばたんと開いて部屋に飛び込こむと、手近にあったサイフォンを武器代わりにつかみ上げた。それを見て二人ともそれぞれ驚いた様子で立っていた。
暗闇の中のシンプキンズに、誰かが階段を駆け上がってきてドアを閉めたのが聞こえた。喘ぎ声が騒ぎをたしなめた。「解散だ、解散! 警官が学生監とタクシードライバーと一緒に守衛小屋にいる!」
エヴァンズ=アントロバスがうなりをあげた。「くそっ、どうする? すぐにルルを連れ出さないと――塀を越えるんだ、今すぐ、急げ! ジョンストン、早くロープを探してこいよ、急げ、ロープだ」
ファズが口を開いた。「ばかげて見え始めたな。ずいぶんと具合が悪くなったよ――だがばかを責めるわけにはいかないだろう? ぼくは具合が悪い。とっととベッドに行くよ、ここにいるとどっぷり深みにはまっている気分だ。そういえばきみの友人のシンプキンズ、面白い子だったな! 楽しかったよ!」
「魅力的だね、すこぶる魅力的だ。委細はわかったよ。だがどうやってカレッジに連れ込んだんだ?」
「ぼくのコートを着せたんだ」一人が説明した。
「で、おれが帽子を」別の声。
「そうして門番を騙したってわけさ」三人目の声がした。たくさんの声が楽しそうに説明を始めた。ルルは抵抗しなかったし、楽しんでたんだ。悪戯だよ!
「すごいね! 面白い!」ファズも認めた。「だけどどうにかしてカレッジから連れ出してくれないか。ぼくの理解力はサタンの良心並なんだ――もう夜も遅すぎるだろう?」
すぐに何人かの声が言い訳した。「あの娘をさらってきたんだ――『サビーヌの掠奪』さ!――ボードビルだよ。ちょっとしたお祭りだったのさ、すばらしい――係員と裏方を捕まえて――舞台を乗っ取ったんだ――やっほう! 誰もが誰かを追いかけてて、おれらはルルを追いかけたんだ――やっほう!」
「静かにしてくれないか!」ファズが叫んだ。
「おれが話すよ!」エヴァンズ=アントロバスの大声が聞こえた。「起こったのはこうだ。みんなが舞台の外までヴィクトリア八姉妹を追っかけた。おれらはルルを見つけたんだ――ヴィクトリア姉妹の一人さ――舞台口の通路に釘づけになってた。ちょうど通りまで逃げてきたところだったんだ――かわいいだろ? そこにタクシーがいて、ルルは賢いから、飛び乗ったんだ――だからおれらも飛び乗った。(やっほう! やっほう!) 『どちらまで?』とドライバーに聞かれたから、『セイヴィア・カレッジまで』と答え、そしてここにいるわけだ――ルル!――ルルのことはどう思う?」
「ファズ! なんだファズかよ!」安心したような声が広がる。「このばか! さっさと入ってドアを閉めろよ!」
「驚いたな!」考え込むようなファズの大声がする。「こりゃ何だい?」
「やっほー、ロブ・ロイ! あたしよ」女の声がした。
「お会いできてよかった。こりゃあ愉快だ、面白い。ほんとによかったんだけどね、この馬鹿騒ぎがいつ終わるのか誰か教えてくれないかな。ぼくは具合が悪いんだよ、まるっきりわからないね、どっぷり深みにはまってるよ。きみらが騒がしくって参っちまった」
しばらくしてから目が覚めた――だいぶ経っているみたいだ――すっかり気分はよくなっていた。自分がどこにいるのか思い出せない。真っ暗で見慣れない場所だ。だがすぐそばで大騒ぎしていた――隣の部屋の蓄音機、コーラス、ダンス。女の声もする。この部屋にいてはいけなかったことをようやく思い出した。これでは犯罪じゃないか。泥棒か何かと間違われるかもしれない! ベッドから滑り降りて暗い中を手探りして帽子を探し、暑くなってきたのでコートのボタンを外すと、震えながらドアのそばに立ち、途方もない騒ぎに聞き耳を立てて待った。あそこに行くのは馬鹿げている! どうやって逃げればいい――いったいどうやって逃げればいいんだろう? 蓄音機が止まった。声がはっきり聞こえるようになった。静かに恐怖が忍び寄る。恐ろしいことに、そのうち誰かがここにやって来て、泥棒のようにこそこそしているのを見つけるだろう――逃げなきゃ、逃げなきゃ、絶対に逃げなきゃ。でもどうやって?
また歌が始まった。男たちが「ルル! ルル!」と囃し立てている。女の声がチャーリーなりジョージなりに答えているのだろう。そのとき部屋のドアが大きくノックされた。中の騒ぎがすぐにやんだ。深閑。ささやき声も聞こえるほどだった。室内の人たちは驚いていた。不安そうに見つめ合っているのがわかるほどだった。女が驚いたように甲高い笑い声をあげた。「しーっ!」まわりが鎮めた。ふたたび大きなノックがはっきりと聞こえた。震える心臓が気絶しそうなほど跳ね上がる。あの人たちはどうしてドアを開けないのだろう?――開けろ! 開けるんだ! 部屋を歩き回る音がして、三度目にノックが繰り返されたとき鍵が開けられたのがわかった。
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