翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

「ブラッキー」その20 トーマ・ナルスジャック(『贋作展覧会』より、ウィリアム・アイリッシュ風に

 ジャックは袖口で額に流れる汗を拭った。都会っ子の習いをすっかり失くしてしまったブラッキーは、とっくに野生の獣になってしまっていた。助けを呼びに誰かに通報する手段はない。救助隊を呼びに行くのは不可能だ。窓が面しているのは、小川まで垂直に切り立った【ちょっとした】崖【岩壁】の上だった。およそ十メートルの虚空。かつてならさしたる苦労もなく、窓の外を取り囲む崖沿いの隘路を歩くことができた。庭に身を乗り出し、飛び降りていただろう【庭に垂直になって、飛んでいただろう】。ドアは閉まっているのだから、ブラッキーを恐れなくともよい。そして車に乗って……だがそんなことを考えて何になる? この足を引きずって、どんな動きも封じられているのだ。ではほかのことを考えなくては。どんなことを? 囚われの身なのだ。ブラッキーに立ち向かおうか? 殴りつけて? 気絶させる? 最初の一打で反撃されるだろう。解決はただ一つ。待つことだ。犬が病気に負けるまで待つことだ。それには何日かかかるはずだった。

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「ブラッキー」その19 トーマ・ナルスジャック

「ブラッキー、僕だ! 親友だろ。まさか僕を襲うつもりはないだろうな!」

 ぼんやりした影越しに見知った姿を見つけようとでもいうように、ブラッキーは悲しげに見つめていた。うなっていたが声はしゃがれてきて、今や悪態のように喉からほとばしり出ているのは、ひどくしゃがれた忌まわしい咆哮だった。ジャックは部屋に逃げ帰った。犬がゆっくりと階段をのぼってドアの前で立ち止まったのが聞こえた。急くように爪を立てている。しゃがれて酔っぱらったような声を脅すように洩らすと、ブラッキーは下に降りていった。

「ブラッキー」その18 トーマ・ナルスジャック

 眠りを破ったのは、咳に似たしゃがれた吠え声だった。初めは、見知らぬ犬が家の周りをうろついているのだと思った。だが次の吠え声ですっかり目が覚めた。ブラッキーだ。ジャックはできるかぎり急いで部屋を出て踊り場に向かい、リビングを眺めた。痛みを抑えようとしている患者のように、ブラッキーが歩き回っている。息が荒い。時折、虚ろな叫びのような恐ろしい咆哮をあげていた。

「ブラッキー!」

 ブラッキーは頭を上げて牙を剥くと、階段に向かってきた。ジャックは恐ろしくなって部屋に逃げ、ドアにもたれかかった。狂犬病なのか?――でもいったいどうして? だがこうなってもブラッキーを怖がらることはない。とにかく、狂犬病について知っていることは?

 ブラッキーの脚についていた擦り傷のことをふと思い出した。森で遊んでいるときに、おそらく何かの動物に噛まれたのだ。何日くらい経った? 指を折って数えてみた。十一日。病気の潜伏期間は十五日だったような気がする。だがまったく確信はない。獣医でなければ……そうだ、今すぐ獣医に電話しなければ。ドアを開け、あわてて立ち止まった。電話機はリビングにあって、そこにはブラッキーがいる。階段の下で陰気にうなっている。ジャックは首を伸ばした。

「ブラッキー」その17 トーマ・ナルスジャック

「鼻を見せてくれ」

 鼻先をさわってみると、乾いていた。

「おいおい、何か企んでるのか。明日よくなっていなかったら……でもおまえは優しくないな。今はほかのことで手一杯だってのに」

 皿洗いは後回しにして部屋に戻った。ブラッキーは階段を上ろうとはせず、下で座り込んでいた。ジャックはおそろしく強い優しさをこめて犬を見つめた。「おまえが大好きだ」ドアを閉めながらつぶやいた。義足をつけたままベッドに倒れ込むと、離婚専門の弁護士の名前を調べたあとで眠りについた。

「ブラッキー」その16 トーマ・ナルスジャック

 ジャックは昼食用に取っておいた見事な牛肉を一切れ冷蔵庫から取り出した。ブラッキーが肉の匂いを嗅ぎつけて元気を取り戻した。ジャックは心配そうに急いで食事した。もちろん心配することは何一つないけれど、獣医に電話しなくてはならないだろうが、そうするのは簡単じゃない。だが獣医を呼ぶ必要があるだろうか? 落ち着けよ、ちぇっ! 腹が減ってなかったんだ。結構じゃないか! 二十四時間、様子を見ればいい。

「ブラッキー、教えてくれよ。病気なんかじゃないだろう?」

 ドーベルマンはテーブルのそばに座って物思わしげに主人を見ていた。赤い光が時折り栗色の瞳にきらめく。どこか悲しそうだった。

「ブラッキー」その15 トーマ・ナルスジャック

「戻った方がいいな。そら行け、少し楽しんで来い、だっておまえは走れるんだからな」

 枝を拾って遠くに放り投げた。ブラッキーは駆け出そうとして止まり、ひとこえ吠えた。

「わかった。好きなようにしろ」

 ジャックはブラッキーを眺めた。具合が悪いのだろうか? だがニュー・ヨークに戻るなんて問題外だ。だけど何だ? もちろん動物だって体調が悪くなることもある。戻る道すがら、目を離さないでいた。ブラッキーは静かに隣を歩いていたけれど、いつもなら鳥を目で追ったり、頭を上げて音のする方へひっきりなしに耳を立てたりしていた。今日は周りの風景に無関心のようだ。何だっていうんだ! きっと真っ赤なステーキでも見て幸せになってるんだろうさ。

「ブラッキー」その14 トーマ・ナルスジャック

「おまえがいてよかった。おい、こっちを見ろ。様子がおかしいな」

 ドーベルマンは走ったあとのように喘ぎをもらした。

「手伝ってくれ、そら!」

 ジャックはブラッキーの肩を借りて、苦労して立ちあがった。

「ブラッキー」その13 トーマ・ナルスジャック

 ジャックは受話器を置いた。――反省か。十五日も要るもんか。わかってるさ、全部パーだ。

 ドーベルマンは鼻先を脚にくっつけて皿のそばに座っていた。

「なんだ、ブラッキー。腹は減ってないだろ? 今は肉どころじゃないんだ。あきらめろ」【「なんだ、ブラッキー。腹が減ってないのか? 肉は残しておいてくれるというわけか。まあいい」】

 ジャックは二階に戻り、手早く身だしなみを整えた。それから家を出ると、お気に入りの岩だらけの出っ張りに腰を下ろした。水面に映る雲を打ち砕くさざ波を眺めながら、つらい考えの中に飛び込んだ。リンダは悪くない。それが正視しなければならない真実だ。正直になれていたなら、とっくに電話をかけてこう言っていただろう。「悪かった」。でもそんなことは絶対に言えない。リンダの手足、あんなに好きだった身体に嫉妬して、もう以前のように触れられなかったなんて、弁護士には絶対に打ち明けられなかった。なめくじに花の上を這う権利はない。ジャックは犬を撫でた。

「ブラッキー」その12 トーマ・ナルスジャック

でもよかった、【?】ここにいることはみんな知らない。邪魔されたくないんだ……もちろん君は気にするな……いや、うまくやるさ。兵糧戦にも負けないくらい蓄えはあるんだ。どうなるかはわからない。そりゃあ考えただけでも、寂しいところだけど。車の中に銃もあるし、何よりブラッキーがいる。ブラッキーに襲われた奴がどうなるか考えるのも怖い【※】ね……ああ、何日かしょげてるように見えたけど、バカンスを楽しんでるよ。初めははしゃいでいて、森の中を走り回ったあげくに【森の中の畑をほとんど荒らさずに?】、脚をすりむいてきたんだ。都会っ子なのさ。今はすっかりおとなしくなったよ。じゃあ、十五日経ったらまた会おう。それまでは放っといてくれ。みんな放っといてくれよ……じゃあな」

「ブラッキー」その11 トーマ・ナルスジャック(『贋作展覧会』より)

朝から晩まで一人きりで、どれほど思いを巡らせてるか【※?】……気づいたよ、自分が嫌なやつになってしまったって。だけどリンダの方は、わかってるだろ。我慢強くはないのさ! それで十五日間ひとりで考える時間をくれた。すべて終わったと確信できれば離婚。反対に、こうなってしまったのに、今でも昔みたいに互いが必要だと感じたなら、うん、こう言ってよければ、また同じように足を踏み出すことになる。許す気になった方が電話をかけるんだ……いや、この電話には驚かなかった。謝るとしたら向こうじゃない、そうだろう。

「ブラッキー」その10 トーマ・ナルスジャック

「はいはい、もしもし……ああ! ボブか。ああそうだよ、田舎にいる……なんでわかった?……リンダか……仲直りするつもりはないらしい……ああ、かなり激しくやり合ったよ、こないだの火曜日に……ふん、もう十日にもなるのか……君だから言うけれど、でもここだけの話にしてくれないか?……そんなにうまくは進めないんだ、リンダと僕は。いや、僕が悪いんだ。ここでたっぷり考えてるよ。

「ブラッキー」その9 トーマ・ナルスジャック

「おい、食い意地が張ってきたな!」

 大きな骨を載せた餌を用意し、コーヒーを入れたところで電話が鳴った。リンダではない。決して初めに電話をかけてきたりしないだろう。電話は部屋の奥、窓際のテーブルの上だ。お節介ものが諦めてくれないかと願いながら、ジャックはゆっくりと時間をかけたが、ベルはしつこく鳴り続けていた。

「ブラッキー」その8 トーマ・ナルスジャック

「いるんだろう、ブラッキー?」


 ドーベルマンはドアの向こうから喉を鳴らした。ブラッキー流の挨拶だ。ジャックはドアを開けた。


「ようし! 待て。よしいいぞ」


 義足は膝を曲げられるように改良されていたが、一歩すすむごとに棒のような足を不器用に下ろすのを好んだ。哀れみを誘いたい気持と、それを拒絶する酸っぱい喜びとを分かちながら。ブラッキーと一緒にいると芯からくつろげた。ブラッキーはご馳走の詰まった冷蔵庫の前に座っている。

「ブラッキー」その7 トーマ・ナルスジャック

 義足を身につけた。この義足というやつは、いつだって出動前を思い出させる。ベルトを身体にしばり、操縦席にしっかり固定されているか点検していたのだ。だが今となってはこの革と金属のがらくたは、地面にしっかり釘づけにする役にしか立たない。午前の第一陣は、何よりもまずブラッキーの餌を用意しに台所に行くことだ。

「ブラッキー」その6

 ジャックは身に迫る悪夢を恐れながらベッドに戻った。毎晩のように夢に見るのだ。追いかけられ、駆けまわり、炎の上で跳び惑う夢を。だが田舎の空気に和らげられたのか、朝まで眠りは覚めなかった。目が覚めたとき、なんだか気分がいいことに驚いた。部屋に光が満ち、人生はいつもほど悪くない。それにお腹もすいていた。

「ブラッキー」その5

 ドアを開けたかったが、ブラッキーはベッドに上って眠ってしまうだろう。ふとジャックは、睡眠薬を飲み忘れていたことに気づいた。もういちど明かりをつけると、杖にもたれて片足跳びで洗面所に向かった。確実に朝までぐっすり眠れるように、定量より多く二錠を飲んだ。一番つらいのは、もう足のない方に寝返りを打てずに、苦しい態勢のままあおむけでいることだ。そんなときには失った足にこらえようのないかゆみを感じる。「幻肢」そう医師は言っていた。夢の中でうめき、うなり、苦痛を訴えるほどの強い幻視だった。リンダは客間で寝ることにした。すでに議論の余地はない。

「ブラッキー」その4

 階下の台所ではブラッキーが歩いている。退屈らしい。やがて階段を上ってきた。重いので歩くたびに音を立てる。ドアの前で鼻を鳴らし扉を引っかくと、ひと声うなって戸口に寝ころがり、深く息をついた。リンダの贈り物、ブラッキー! 「あたしが仕事中でも寂しくないでしょ」 そう言っていた。そのころは黒地に茶模様の子犬でしかなかったけれど【?】、ひどくなついてくれた。無事な方の足で少しずつ歩く練習をしているとき、煙草に火をつけようと立ち止まると擦り寄ってきたのだった。自信家で、人も動物も相手にしなかった。我が物顔に主人と散歩し、家ではリンダを無視した。主人が二本足のときもあれば、一本のときもあることを不思議には思わなかった。ものを考えるのは自分の仕事ではないと思っていたからなのだろう。大事なのはそばにいること、主人の匂いがする場所にいることだ。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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