翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

「ブラッキー」その44(完) トーマ・ナルスジャック

 

 目を覚ますと救急車の中にいた。リンダの顔がのぞき込んでいる。

「噛まれなかった?」震え声でたずねた。

「ええ。動けなくなっていた。病気のせいね。警察に電話したら、楽にしてくれた。そのあとであなたを見つけた」

「知らせようと思って……」ジャックはつぶやいた。

「休まなきゃ……眠って……話はあとでいいわ。今は生きていることを喜びましょう」


終わり

 トーマ・ナルスジャックによるウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ贋作)「ブラッキー」の翻訳がこれにて完了いたしました。誤訳や齟齬を手直して翻訳書房にアップする準備をしつつ、次回は久々にコッパードを訳す予定です。

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「ブラッキー」その43 トーマ・ナルスジャック

「ジャック! 眠ってるの?」

 リンダはドアの前にいる。ジャックは声をあげたかった。「戻るんだ!」だが口からはどんな音も出てきはしなかった。リンダがドアを開ける。リビングの明かりが庭に細長い影法師を映し出し、ブラッキーが恐ろしい吠え声をあげた。ジャックは目を閉じ、意識を失った。

「ブラッキー」その42 トーマ・ナルスジャック

 義足がすべった。身体が傾く。指先が離れる。声をあげる暇もなかった。空気が顔を打ち、ジャックは闇に転落した。灌木に打ちつけられて身体がばらばらになったようだった。ジャックは気を失った。

 目を覚ましたのは雨だった。肩に痛みが走る。おそらく骨が折れているのだろう。なんとか身体を起こす。義足は膝の部分で折れていたが、強い打撲以外はほとんど無傷だった。あいにくなことに傾斜がきつくて、庭に行くにはよじ登らなくてはならない。リンダを止めるのは間に合わないだろう。もはや荷物でしかない義足をはずし、痛みに顔をしかめながらあたりの地面を探った。手が藪と灌木にぶつかり、しっかりしたとっかかりができた。ミミズのようにのたくりながら這い登った。ときどき腕時計で時間を確かめようとしたが、痛みで目がぼやけ、蛍光塗料の青白い文字盤を読みとることはできなかった。戦いは長時間つづいた。ジャックは庭に転がり込んだ。柵を照らすヘッドライトは見えなかったが、ドアの閉まる音が聞こえた。砂利を踏む音。リンダだ。

「ブラッキー」その41 トーマ・ナルスジャック

 休憩だ! 壁の境の柱に頭をもたれさせ、集中力を取り戻す。幸せだった日々の思い出を振り返った。この家は、見つけた瞬間に二人とも一目で気に入ったのだ。リンダが魅せられたのは景色。ジャックは広いリビングに。その暖炉に爆ぜる火を熾そうと心に決めたのだ。進まなきゃ、また一歩、さらに一歩……二人で家具を選んだ……親友たちと鉤を吊った……ボブ、ラリー、スティーヴ……ほかのやつらと再会するのも楽しいだろう……あと三、四メートル……いちばん厳しい部分は去った。ジャック、おまえならできる……おまえなら……

「ブラッキー」その40 トーマ・ナルスジャック

 やがてそれ以上は進めないと悟った。無理だ。手も足も悲鳴をあげていた。手を放せば真っ逆さまに落ちてゆくが、そんなことは問題ではない。でもリンダが……リンダは庭から名前を呼ぶだろう。――ジャック……ねえジャック……そしてドアを開けるはずだ……ジャックは歯を食いしばって崖道を這い進んだ。丸太を組んで作られた家は、濡れてすべりやすかった。隙間に指をうがち、出っ張りを探さねばならなかった。体力が奪われる。消耗する気力が、消えかけたランプのようにちろちろと燃えていた。

「ブラッキー」その39 トーマ・ナルスジャック

 頬、身体、両脚を壁にぴったり押しつけたまま左手で手探りし、靴底の下に何の感覚もなくなってずり落ちるたびに義足の方にせいいっぱい体重をかけて、何センチか進んだ。後にした窓からは、四角く切り取られた光が雨を照らしていた。窓が少しずつ遠ざかる。だがあまりにも少しずつだった! すでに疲労で膝が痺れていた。汗でびしょびしょだ。死体が結ばれているのかと思うほど足が前に進まない。ほとんど引きずっていて言うことを聞いてくれなかった。

「ブラッキー」その38 トーマ・ナルスジャック

 靴を履いたままなのをすぐに後悔した。編み上げ靴では感覚がつかめないので、やみくもに動かしとっかかりを探した。ようやく探し当てた。次いで隣に並べた義足が木を削った【次に踏み降ろした義足が木を削った。】。ジャックは窓を放し、じっとしたまま呼吸を整えた。もう戻ることはできない。日が暮れた。細かい雨が背や手を濡らす。気にするな【それを気にはしなかった】。不安になるだけだ【それは不安にする空白だった】。airの感覚を失っていたので、動きたくなかった【パニックになっているあいだは動きたくない】。――愛してくれてる。そう独り言ちた。こう言ったも同然だった。――ご加護を。

「ブラッキー」その37 トーマ・ナルスジャック

 崖道を逃げるって! 気違い沙汰だ! だがあきらめたら、リンダの電話を無視することになる。血管の中に新たに血が流れ込むようだった。危険は大きいが、スポーツマンにならやれる可能性はある。ほんのちょっとのあいだ、スポーツマンでいられないのか? ぼくの過ちは……それは時間を無駄にしていたことだ【何もかもやけになっていたことだ】……そんなのは自分が病人だと認めることになる。誘惑を退けるように、過ちを否定し、はねのけなければ。終わってはいない。それを今から証明する。今すぐに。ジャックはブラッキーを一瞥した。だらりと口唇を垂らし、うなだれて、立っているのもやっとのようだったが、ジャックが動いたのを見て躯を起こすと階段の方に悲痛な咆吼を浴びせた。弱ってきたのは間違いないが、まだかなりの体力があるだろうからしばらくは危険だった。ジャックは迷わなかった。かつて頭上のコックピットを閉じたように、機械的にドアを閉めた。再び出陣だ。打ち破るべき敵、それは自分だ。義足の留め具を確かめ、ごわごわしているブルゾンを脱ぎ捨てた。壁に止まっている蠅のように、外壁にぴったりと身体を貼りつけなければならないのだ。すべてうまくいけば、崖道沿いに角まで歩いて二十分もかからない。そこからは庭に飛び降りるだけでいい。窓の桟をまたいで後ろ向きに腕でつかまると、無事な方の爪先で足場を探った。

「ブラッキー」その36 トーマ・ナルスジャック(『贋作展覧会』よりウィリアム・アイリッシュ贋作)

「ジャック……わたしたち会わなきゃね……二人とも馬鹿だった……どうしたの? ねえ何か言ってよ……そんなに怒ってるの? ジャック、愛してる……初めにそれを言っておくわ……ずっと寂しかった……聞いてる? あなたも後悔してるって言ってよ……しゃべりたくないの? 邪魔だった?……いいわ。車に乗ってすぐ行くから……」

「だめだ!」ジャックは叫びをあげた。「だめだ。来てはだめだ」

 受話器から漏れる濁った言葉はほとんどわからない。もはやリンダの声は消えかけていた。

「来るな!」

 声は途絶え、ジャックは落胆したまま釣り竿を引き寄せた。リンダは間もなくやってくる。そしてドアを開ける。ブラッキーが飛びかかるはずだ。だめだ。そんなのだめだ! 絶対にだめだ。少し落ち着きを取り戻し、電話の場所を確かめようとした。悪いことに花壇(?)の柵の上だった【運の悪いことに板材のバリケードの向こう側だ】。壁際まで転がっていては、コードと柵のあいだに針を垂らすなんて不可能になった。この勝負は完敗だ。ジャックはのろのろと戻った。ぼくだってリンダを愛している。迷いも不平も嫌な天気もすべて吹き払われた。それでも大きな痛みが残っていた。いますぐに新たな解決策を見つけなければ、リンダは死ぬ。ジャックの怒鳴り声が聞こえたかどうかはわからないのだ。あらんかぎり祈った。言葉を拾っていたとすれば、拒絶されたと受け取ったとすれば……いやだ! それこそ最悪じゃないか。リンダはまだ愛してくれているのだ。どんなことをしてでも、この袋小路から抜け出さなくては。ドアから出ることはできないのだから、もはや窓からでることしか残されていなかった。

「ブラッキー」その35 トーマ・ナルスジャック

 不格好な刺の塊を作るのは造作なかった。これがまもなく救ってくれることになるかもしれない。口唇を焦がした吸いさしを抜き取ると、的がよく見えるように階段の半ばまで降りた。その瞬間、手首に衝撃が走った。電話が鳴ったのだ。驚きのあまり釣り竿を落としかけた。ブラッキーが激しく吠えた。それでもジャックはすぐに落ち着きを取り戻した。どこの馬鹿がニュー・ヨークからかけてきたんだ! どうやらボブは口が軽すぎるようだ。だが夜のこんな時間に起こすような友人はいない。ことによると……

 ベルは執拗に請うように訴え続けた。戸惑い顔でテーブルの上に向かって竿を投げると、電話機の向こうに垂れた糸の先を急いで引き戻したが、力みすぎた。家具の縁に釣り針が引っかかって倒れ、電話機が一メートルほど放り出された。受話器がはずれ、床から湧き出るように不意にリンダの声が聞こえた。遠いせいで聞こえないほどのかすかな声だったが、それでもはっきりとわかった。

「ジャック……もしもし? ジャックでしょ、だってブラッキーの声がするもの……でもやめさせて……なんでこんなに吠えてるの?」

 ジャックはがらくた(破片)の山から木切れを拾い、ブラッキーの方に放り投げた。やり損ねたものの、ブラッキーはおとなしくなった。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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