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翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

「さあこい、マクダフ!」05-01 シャーロット・アームストロング

第五章

 階段を上ったところでライナに声をかけられた。「一緒にお昼をどう? エレン、アトウォーターさんにお願い……何があったの?」

「ヒューと事件の話をしていただけです。それがこたえたみたいで」

 何も言わずに連れて行かれた窓際のテーブルには、まとめて取っていた朝食と昼食が載っていた。もうすっかりよそ行きの着替えを済ませ、カーキ色の毛織りスーツにトーストみたいに小っちゃな小麦色の帽子(羽根飾付き)を身につけている。とても素敵だった。

「そんなことを考えてはだめよ」どう言おうか迷っているようだった。「そうしたいのなら戯れに頭を悩ませたっていい。でもハドソン・ウィンベリーはあなたの知り合いではなかったし、特別な存在でもなかった。まったくの無関係だったのだから。チャールズやわたしに同情しようとするのもだめ。それから」と微笑みながら締めくくった。「この家の知り合いが毎日殺されてるなんて想像もなしよ」

「そんなこと……」わたしは今にも喚き出しそうだった。ライナはあまりにも優しくて、気持をわかってくれようとしている【親身になってくれる/気を遣ってくれる】。でもなぜ悩んでいるのかは知らないし、知ることもないのだ。ライナは一生懸命に聞き出そうとした。ベイカーズ・ブリッジのこと、そこに暮らす人たちのこと。そのうちにライナが笑い出したので、自分でも何だかおかしく思い始めた。

 昼食を済ませると出かけなければならないらしい。戦時奉仕なの、と言ったライナがまとっている毛皮のコートは、小型戦艦級の値段なのではないだろうか。「午後には戻るわ。ガイが来るし、チャールズもいると思うの。あなたもいらっしゃい。都合は悪くない?」

「もちろんです。もちろん伺います」

 ライナが出かけてしまうとわたしは完全に一人きりで、好きなことができた。そのうえお金もあった。五十ドル入りの封筒が鏡台(dressing table)の化粧箱(powder box)の下に挟まれていたのだ。それでもやはり途方に暮れていた。ショッピングをする気にはなれない。将来を一計する気にもなれない。誰かが家に残ってあれこれ考えてみた方がいいんじゃないだろうか。

 というわけで長椅子に寝そべりあれこれ考えてみた。思ったようには筋道だてて考えられなかったけれど。第一に、誰一人としてウィンベリーが自殺した可能性を考慮していないのはなぜだろう? 自分の銃だったのに。はずれ、自分で撃ったのなら、あんなことを言うはずがない。「見いへん」あるいは「見いへん人やった」という言葉の意味を考えれば、誰かがいたことは間違いない。それに管理人が、もう一人やって来た音を聞いている。間違いなく誰かがいた。確かに。では泥棒か何かではないのだろうか? はずれ、何者だったにしろ、鍵を持っていたし銃のありかを知っていたのだ。いや待てよ、ウィンベリー自身が保管場所から銃を取りだしたのかもしれない。そんなことをする理由は思いつけないけれど。

 伯父のパチーシ駒こそ一番の悩みの種だった。どうやって現場に移動したんだろう? 脳みそをふりしぼって、伯父さんが赤い駒を窓から捨てたときウィンベリーが立ち去っていたかどうかを思い出そうとした。漠然と考えていたのだが、伯父がやって来たのは、ウィンベリーとギャスケルが立ち去った直後だったのだろう。ライナはもうちょっとあとまでガイ・マクソンと話していたのだと思う。だけど実際どうだったのかはわからない。仮にこの通りだったとすれば、ウィンベリーがタクシーにギャスケルを乗せて公園(庭園)を走っていたときには、伯父はまだ窓を開けていなかった。ということはウィンベリーにはパチーシの駒を拾えないし、百八番街まで持ち帰ることもできない。

 じゃあ誰が?

 ヒュー・ミラーの話によれば、ハドソン・ウィンベリーの死に関わることができたのは伯父だけらしい。なぜ? ヒューはほかにも何か知っている。間違いない。わたしの知らない何らかの理由を――もしかすると何らかの動機を? きっと伯父とウィンベリーのあいだには、ただのゲームにとどまらぬ敵意を抱くような、諍いの種があったのだ。ヒューはそれを知っている。絶対にそうだ。

 伯父にたずねてみればいいことに、どうして二人とも気づかなかったのだろう。赤い駒を見せ、どこで見つけたのかを伝えて、どういうことなのかたずねればよい。鍵のことも忘れずに。でもたずねたりはしないだろう。なぜたずねないのかに思いいたってぞっとした。伯父が殺人犯ではないと確信していれば、たずねたはずだ。何か知っていれば答えてくれただろうし、それが事件と何の関係もなかったことがわかるはずだ。だけど万が一犯人だったとしたら、いくらでも嘘をつけるし、事態は今より悪くなる。「伯父さんが人を殺せると思ってるの?」自問してみて恐ろしくなった。どんな回答が待っているのかは痛いほどよくわかった。嘘をつかれても、わたしには判断するすべがないのだ。

 こうして考えてみれば、不安に悩むのも当然だった。(a)伯父が殺人犯だと思われているにせよ、(b)百歩譲って殺人を伺わせるような証拠があるだけにせよ、どちらにしたって容疑者なのだ。いや間違っている。ヒューもわたしも。伯父のような人には防御(助け・護衛)は必要ない(いらない)。なすべきなのはすべてを伝えることだ。知っていることすべて、伯父がやるべきことすべて。

 一時的に気分がよくなった。でもすぐに思った。仮に伯父が犯人だったとするなら、そのときは何を? そのときは、疑っているなんてことを本人に知らせるわけにはいかない。

 不安のあまり緊張が走る。起きあがって窓の外を見たけれど、隣家の裏側しか見えなかった。階下に行ってちょっと調べて(見て回って)みよう。

 二階に降りて、かなりびくびくしながら開いたままの図書館の戸口を通りすぎたが、誰もいないようだった。さらに階段を降り始めると、なかばあたりで玄関ベルが鳴った。すぐにエファンズが階段下の小さな扉(small door under the curve of the stairs)から現れドアを開けた。赤毛の青年が立っていた。「カスカートさんはいますか?」カスカートさまは外出しておりますとエファンズが答えた。「じゃあ奥さんは?」恐れ入りますが奥さまも外出しておりますとエファンズが答えた。青年は顔を上げるとわたしを見つけた。

「やあ!」何年も会わなかった知り合いにでも声をかけているような言い方だった。「いったいぜんたいいつここに?」そう言ってすぐにホールに入ってきたので、エファンズは退いた。

「どうも」わたしは青年をもっとよく見ようとしながら曖昧に答えた。

「会いたいと思ってたんだ。ここにいるとは知らなかったな」

「夕べ着いたばかりだったから」誰だったっけ。思い出さなきゃ。とうとう玄関まで降りていた。

「リビングをお使いいただけます、エリザベスさま」エファンズが白塗りの両開き扉(white double doors)のところでうやうやしくささやいた。

「エリザベス」赤毛の青年が言った。「話したいことがあるんだ」

「ええ、いいけど……」かなり混乱していたせいで、リビングに入ってからようやく、この人には今まで一度もあったことがないとはっきりした。「それよりいったい誰なの?」

「しいっ」エファンズがいないことを確認してから振り返ってにっこりした。それほど背は高くないし、それほどかっこよくもない。緑の瞳は腕白そうで、大きな口が、顔全体で微笑みかけていた。「ちょっとした悪戯さ。すぐに追い出してくれてかまわない。ところできみは誰だい?」わたしは目をぱちくりさせた。「チャーリー・カスカートにこんなきれいな娘さんがいたなんて知らなかったな」

「きれいもなにも娘さん自体いないってば」頭に来た。「それに……ちょっと待って。だいたい何がしたくって、どうなってるのか……」

「中に入りたくてからかってみたんですよ。怒ってるでしょうね。で、どちらのきれいな娘さんです?」

「きれいなんかじゃない!」かっとなった。

「きれいじゃないですか!」かっとしたように言い返された。「どこのどいつがきれいじゃないなんて言ってるんだ?」

 あまりに気短でおどけて見えたので、思わずくすくすと笑い出すと、青年も笑い出した。ただし真っ赤になっていた。こんなふうに真っ赤になる男性は初めて見る。頭の先まで真っ赤っかだ。

「ガードマンを呼ばれる前に名乗っておきましょう。あなたに追放の楽しみを与えるのは何者か。ジョン・ジョゼフ・ジョーンズと言います」

「嘘ね」

「信じてもらえなくてもしょうがない。新聞社で働いてます。ここにはちょっと嗅ぎ回りに」

「嗅ぎ回りに?」

「ハドソン・ウィンベリーのことはお聞きでしょう?」

 わたしは答えなかった。

「聞いてるはずだ」すらすらと続けた。「ウィンベリーは昨夜ここにいた。違いますか?」

「答えてもいいのかどうかわからない。わたしの家じゃないもの」

「ぼくが何をしたらいいのかわかりますか?」答えは素早かった。「脅迫です」

「わたしを!」

「そうです。うまくいったら新聞にはこう書くつもりだったんだ。『謎の少女、被害者の存在を認めず』とかね。書こうと思えば書ける。ちょっと脅して、知っていることをすべて聞き出すこともできるんです。でもやらない。留守で誰もいなかったことにしときましょう」帽子を頭に叩きつけ玄関(ホール)に向かった。

「待ってよ。なんでなの?」

「なぜ夜は重ね、いつ月や出る(why some night when the moon's up)、ですかね?」

「謎の少女なんかじゃない。エリザベス・ギボン。カスカートさんの姪です。ええと……バイバイ」

 リビングを端から端まで歩いた。素敵な部屋だ。上の図書館と同じ大きさで、さらに立派な家具がある。フレンチ・ソファ【フランス製ソファ?】に腰を掛けた。

「こんなふうに出会った以上は――」

 顔を上げると、そばにジョーンズが立っていた。帽子を脱いでコートを抱えている。緑色の目が笑っていた。「――ここにいてもかまいませんよね?」

「質問には答えられない。答えちゃいけないと思うの。そりゃウィンベリーさんはここにいたけど。みんな知ってることだもの。伯父の友人たちと一緒に……ううんと……夜を過ごしてた」

「ですね」と言って隣に腰を下ろしてきた。

「帰ったのは十二時半ごろ」彼が口を閉じた途端に落ち着かない気分になった。

「ええ。ギャスケルさんが話してくれました」

「じゃあギャスケルさんと二人で(庭園(公園)を)タクシーに乗ってたの?」

「そのようです」

「ウィンベリーさんはクラブかどこかに向かったのね? 行かなきゃって言ってたもの」

「行きましたね」

「クラブはどこにあるの?」

「六十番街セントラル・パーク西」

「ふうん。でも何の役にも立たないけど」

 彼は向きを変えてソファの背に腕を預けると、わたしを見た。「ほかに知りたいことは?」

「山ほど。ねえ、わたし、さっきからずっと謎を解こうとしていたの」

「探偵の才能があるんですか?」

「そうよ」

「よし、それなら始めましょうか、何でも聞いてください」

「迷惑じゃない?」

「ちっとも」

「じゃあね、封筒の中身は何?」

「封筒って何です?」

「そう言ってたの。クラブで封筒を受け取らなきゃって(手に入れなきゃって)」

「ああ、現金ですよ。五十ドル。貸してた金の分割受取りが終わったんです。この件とは無関係ですね」

「借金を払い終わった途端に相手を殺したりはしないだろうし」

「そう。殺しちゃいない。昨日の午後にはカリフォルニアだからね」

「わかった。待って……ウィンベリーさんがクラブを出たのは何時?」

「一時ごろ」

 また一つたずねたいことができた。「六十番街と百八番街ってどのくらい離れてるの?」

「引き算するといい。二十ブロックで一マイル」

「四十八ブロックだから、二マイルと……十分の四マイル」

「引き算だけじゃだめですよ。割り算して通分しなくちゃ。ベティと呼ばれてるのかい?」

「ベッシーよ。それって五、六分で行ける距離?」

「ちょっと待てよ」彼は立ちあがってポケットを探ると、鉛筆で印をつけた【書込みのある】ぼろぼろの紙切れに目を通した。「ピーター・フィン。ここの住人。曰く、ウィンベリーが来たのは一:〇八(ごろ【推定/だいたい/approx】)。二マイルと十分の四を八分で。スピードは? ほら早く」

「わかんないってば。そんなの計算できない」

「そりゃよかった」まじめくさって言った。

「どうして?」

「気にするな。男の秘密というやつさ。さて」ちびた鉛筆をかじりかじり、紙に印をつけていた【書き込んでいた】が、ようやく口を開いた。「不可能ではない。が、まずないだろうな。信号機を忘れないことだ。でも全部何時ごろ【ごろ/だいたい】だからな。それじゃあ何の意味もない。きっかり何時ごろ、か【だいたいちょうど、か】」

「でもタクシーの運転手は見つかってないの? 運転手さんなら何時に着いたかわかるんじゃない?」

「何時に着いたかわかったところで、何の違いもないよ」

「そうだけど」

「じゃあどうして?」

「整理してみようと思っただけ……ずいぶんと早いと思って【and then that looked too fast】」

「なるほどね。いや、運転手を見つけたって話は聞いてないな。ほかの二人は見つけたそうだけど」

「一人はウィンベリーとギャスケルを乗せていった人でしょう?」

「ああ」

「じゃあもう一人は?」

「ちょうどその時間帯に、交差点(の角)で男を拾ったそうなんだ」

「すごいじゃない。ねえほかにもわからないことがあるんだけど。警察はどうやって撃たれた時刻を特定したの?」

 彼の顔を見るつもりはなかったけれど、微笑んでいるのは毛穴を通して(皮膚を通して)感じていた。

「よし、いいだろう。おかしな話なんだ。もっとも、ぼくは信じてるけどね。ところがガーネットは頭っから疑ってかかってる。出来すぎなんだとさ。探偵小説は読むかい?」

「そりゃあね」

「そんなとこだろうね。おしどり夫婦のコートさんも、探偵小説を読むんだ。夫妻は二階に住んでいる――ウィンベリーから借りてるのさ。ベッドには入ってたんだろうけど、まだ眠ってはいなかった。そんなとき、銃声が聞こえた。『ねえおまえ、銃声だ』『ほんとね。明かりをつけましょう。時計を見なくっちゃ。警官に聞かれたときに言うことはわかってるんだから』『その通りだよ。一時十六分だ(on the second)』『これでいいわ』そして二人は眠りについた。ガーネットとしては受け入れざるを得ないけれど、自分をごまかすことはできないってわけなんだ」

「だけどそれなら、その人たちはどうしてベッドに戻ったの?」

「バックファイアだとしか思わなかったんだよ。銃撃だったらいいな、というのはささやかな願いにすぎない。物語を楽しんでたんだ。どう思う?」

「嘘ではないと思うけど」わたしは慎重に答えた。

「充分に論理的で可能性のあることに思えるな。嘘ではありえない

「その人たちが殺したんでなければね」

「おいおい待ってくれよ」

「何?」

「きみは何でもかんでも思いつくけどね。彼らが殺したとは思わないな。動機は何だい? それに管理人が言ってた時間とぴったり符合するだろう。研究所のアシスタントの話とも一致してる」

「誰?」

「ヒュー・ミラーって名前だ。知ってるだろう?」

「ええ。あの……管理人はどんな人なの?」

「問題ないよ」彼はメモを見ながら答えた。「ピーター・フィン、六十二」

「ねえどうして必ずそうするの?」

「何がだい?」

「新聞だと名前のあとに年齢を書くでしょ?」

「わかりやすくするためだよ、いいかい?」

「ええ、まあ。わたしはてっきり……」

「あーあーあー。ピーター・フィンの証言のなかに、気づかれたくないことでもあったのを思い出したのかい?」

「何よそれ?」

「忘れてくれ。いいかい。ウィンベリーが一時八分ごろに帰宅したのを聞く。鍵を使用」いったん言葉を切ってからまた話を続けた。「挨拶。『ウィンベリーさん、ボイラーのポンプにゃ修理が要るよ』。W、独特の音を立てる。『うなるっちゅうんですか、よくやっとりました』。一時十五分ごろ、二人目登場、鍵を使用。うん。銃声を聞く。二分後に上へ。表のドアを見る。長身の男を目撃……ええと……車道の方に逃げていった。オフィスに入る。ドアは開いていた。ウィンベリーが床に。撃たれたのは胸。『見いへん(かった)』と言い残す。死亡。一時二十二分ごろ、ヒュー・ミラーが証言、ベルを鳴らす。ふう」また一息ついたところで、わたしは手を開いた。いつの間にか掌に爪が食い込んでいたのだ。「ミラー、警官を呼ぶ」彼はメモをポケットに押し込んで息を吐いた。

「警察は知ってるの、――」

「ガーネットもそろそろたどり着いてるよ」

 心臓が跳びはね大きく脈打った。「その人は?」

「担当の刑事だよ」

「その人と話さなくてもすむわよね?」頭が真っ白になる。

「そうだといいけど。いいかい、ベッシー――ギボン、さん――きみの顔は、そのう、とてもきれいだし、ぼくはそういう白い肌や目が好きなんだけど、隠しておきたいことがあるのなら、サングラスをかけて、口にも風邪引き用のマスクをつけることを勧めるね。それだけ繊細な口は――」

「あのね。ボツ」

「わかったよ。ああそうだ。鍵のことで何か知ってるだろう」

「えっ!」

「なるほど。てことは、ピーター・フィンが報告できたのにしなかったことについても知ってるね」

「なんで!」わたしは両手で口を覆った。

「それに」容赦なく話は続いた。「長身の男が昨夜ここから現場までタクシーを拾ったかもしれないことを知っているせいで、実際にそうした可能性も疑っている」

 わたしは目に袖を当てて泣き始めた。

「ちょっと待った待った。ちぇっ、頼むよ。これは役に立つかもしれない。タクシーの乗客は指が曲がっていたんだ」

 腕を降ろしてこわごわと彼を見つめた。

そいつはそうなのかい? それはまずいな」

「出てってよ」わたしは立ちあがった。「これから出かけるの。買い物に行かなくちゃ」

「ガーネットはぼくほど融通が利かない。逃げない方がいいよ」

「でも行かなきゃ。わたしの顔に全部書いてあるって言うんなら……」

「黙るんだ。そいつが好きなのか?」

「どうでもいいでしょ。もう質問しないで」

「それでも言うよ。知っていることをすべて話してくれる気になったなら」そこで決まり悪げになって、「きみがいいと言うまでは秘密を漏らさないと約束してもいい」今度はさっきよりも強気に。「ぼくは出ていかないよ。きみを置いてけぼりにして、ガーネットの攻撃にさらしはしない。だから出かけるのはやめた方がいい。取り乱したまま【all upset】行かせるつもりもないしね、行くときはぼくも一緒だ」」

「そんなこと何とも思っちゃいないくせに。だいたいわたし、あなたのこと知りもしない」

「そのうちわかるよ。それよりもさ、伯父さんのところにまっすぐ行かせてくれるなら――おいおい。すると伯父さんなのか」

「それもわたしの顔に書いてあるの?」

「(その)鼻と同じくらい、いや遙かにでかでかとね。きみの鼻はキュートだけど控えめだし、そんなにでかくはないものな」

「わたしの鼻はどうでもいいでしょ! ねえジョーンズさん、どうすればいいの?」


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 第五章が終わりました。また新たな登場人物が登場。J・J・ジョーンズというふざけた名前の新聞記者です。この人が出てくると話のテンポがよくなるので訳しやすい。続く第六章もJ・Jとベッシーが事件を検討しつづけます。

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「さあこい、マクダフ!」04-01 シャーロット・アームストロング

第四章

 わたしの家でなら、誰かがコーヒーを淹れていただろうし、たぶん夜明けまで慰め合ったり話し合ったりしていただろう。なのにこの家は静まりかえっていた。わたしは気を落ち着けてベッドに潜り込んだ。空想が恐ろしい小径をさまよい出すと、おやすみ代わりに「ばっかみたい!【Nonsense】」とつぶやくことにしている。目が覚めて朝日の中でもう一度その豪華な部屋を見たときもそれを覚えていたので、エレンが朝食をお盆に載せてドアから入ってきたときにも、はっきり声に出して「ばっかみたい!」と言ってみた。

 すでにウィンベリー氏のことを聞いているふりをすべきかどうか迷ったけれど、すぐにエレンがその話をしてくれたので、それほど長く迷わずに済んだ。「新聞に出てるんですけどね。お読みになるよりお聞かせした方がよいと思ったんですよ」

「恐ろしいことね」ゆうべのエファンズと同じことを言った。「どうやって殺されてたの?」

「撃たれているのを発見されたと書かれてますね。ほんとうに恐ろしいことですよ。ご主人様は何が起こったのか確認しに行かれました。ウィンベリー様はよくこちらにいらっしゃってましたから。ほんとうにしょっちゅうでした」

「警察は来たの?」

「こちらにでございますか? 警察が来るようなことでもありましたでしょうか?」

「そんなんじゃないけど。でも昨夜ここにいたでしょう」

「そうでございましたね。エファンズもそう言ってましたよ。Think of it」

 たずねてみると、ライナは遅くまで寝ていたそうだ。エレンが出ていくと、わたしは新聞記事を読んだ。あっさりとした記事だった。

 昨夜一時過ぎ、ハドソン・ウィンベリー(58)がオフィスで撃たれているのが発見された。発見時ウィンベリー氏は床に倒れており重態。現場は東一〇八街六〇九番地一階フロア。発見者はビルの管理人ピーター・フィン(62)。ウィンベリー氏はこの改築ビルのオーナーで独身。

 これで全部だった。僧正は死んだ。もうあの銀髪も、なまっ白い丸顔も見ることはないのだ。少なくとも、あの四人がパチーシをすることは二度とない。

 わたしはのろのろと【時間をかけて】着替えをした。十時半ごろ、エファンズがドアをノックした。「不都合がございませんでしたら、ミラーさまが階下でお待ちしております」

「すぐに行くって言ってくれる?」どうやら重大事だ【?】。

「図書室においででございます」エファンズはそう言ってから立ち去った。正直なところ好都合だったので、もうちょっと時間をかけてから下に降りた。

「すみません」わたしを見るなりヒューはそう言った。「こんな早い時間に。だけど話しておきたかったんです。その……お聞きになりましたか?」顔には昨夜よりも生気が感じられた。衝撃に叩き起こされたみたい。だけど不安げにも見えた。

「新聞で読んだだけなの。ほかにも何かあったんですか?」

 ヒューはもどかしげに首を振った。「ぼくには質問する権利はないけど、ただ……」と唇を噛む。

「どうしたの?」

「どう始めればいいんでしょうね。誤解されたくはないので」

「誤解なんてしないわよ」わたしは驚いて声をあげた。

 ヒューは何歩か進んでから振り向いた。「ぼくが帰ったあとで何が起こったんです?」

「しばらく残っていたけど、三十分くらいかな、もっと短かったかもしれない。あとは帰っただけ。何も起こらなかった」

 「何かありませんでしたか」ヒューはこちらを見ずに話を続けた。「そのあとで伯父さん【カスカートさん】が外出したのを匂わすようなことが?」

「気づかなかったと思う。気づきようがないもの。ライナと二人でけっこう長いあいだおしゃべりしていたから――」

「ライナと?」

「ええ」

「そうなのか」それからなかばつぶやくように言った。「すると(伯父さんは)あの人と一緒ではなかったんだ」

 わたしは聞こえなかったふりをしたけれど、顔を赤らめる間もなかった。「どのくらい話してたんです? いつごろまで?」

「一時十五分。たしか」

 ヒューは片方の手で絶望的な仕種をした。「伯父さんがどうしていたかわかればなあ。何も聞いてないのはたしかなんですね? これから事情をお話ししましょう」

 わたしは怖くなった。「電話が鳴ったあとで伯父さんの声を聞いたわ。たまたまそのとき……聞いていて……」

「電話が聞こえたんですか!」まじまじと見つめるのでどぎまぎする。

「よく眠れなかったの。ええ、聞こえた。というか、電話だと思ったけど」

「伯父さんの部屋でしたか?」

「場所はわからないけど」

「いや、きっとあそこあたりですよ」

 わたしは窓の反対側にある、(長い)図書館のドアを見た。

「伯父さんの部屋(とバスルーム)はあの裏なんです」

「あそこなの? だったらわたしの部屋の下だわ。ベルは下から聞こえていた」

「電話が聞こえたのは一回だけじゃなかったでしょう?」何かがわたしの答えにかかっているような言い方だった。

「ええ。一時五十分(二時十分前)に一度。それから二時にもう一度」

 表情が変わり、どこかがっかりしたように見えた。まったく違う顔になっていた。

「一時五十分(二時十分前)には誰も電話に出ませんでした。二回ともぼくがかけたんですが」

「誰も出なかった?」わからない。

「番号を間違えてつながれたのかと思ったんです。でも今のお話を聞くと、番号は合っていたようですね」

「たぶん寝てたのよ」と言ったあとで思い出した。

「どうしました?」ヒューがわたしの表情を読んですぐにたずねた。

「ベッドに入っていたはずないわ。だって靴を履いたままだったもの」

「どうしてわかるんです?」(今度は)ゆっくりとたずねた。

「ドアのところで耳を澄ましていたら伯父さんがやってきて、ライナと、それからエファンズにも話してたの。ウィンベリーさんのことを。あなたから……電話で話を聞いたあとに。なんでこんなことばかり知りたいの?」

 ヒューは胸ポケットに手を入れて何か引っぱり出した。ためらったあとで指を開いてみせた。

「なんだ、ペッピンジャーじゃない」小さなころに売られていた、甘くてスースーする飴だ。「子どものとき以来だなあ。もう作ってないのかと思ってた」

「違います。キャンディじゃない。伯父さんのパチーシ駒ですよ、間違いありません」

 わたしはばかみたいにその赤い円盤(?)を見つめていた。

「これがどういうことなのか具体的にはわかりません。見つけたのが……ウィンベリーの身体(死体)の上だったんです。このことはいっさい口にしていません。管理人もペッピンジャーだと思ってたので、警察には伝え忘れてました……今のところは」

「だけど……チャールズ伯父さんは赤い駒を窓から投げ捨てていたのに」

「何ですって!」

「見たの。駒を三つ、あの窓から投げ捨ててた。アルコーブのあるところ」

「いつです?」

「昨日の夜」

 ヒューはぐるぐると歩きまわった。「おかしな頼みですが……箱を確かめるべきですよ」

「箱って?」

 アルコーブに出ていたヒューは、伯父がパチーシ一式を仕舞ってある棚から箱を取り出した。箱を開けると、わたしも右隣に行って二人で数えた。中には赤い駒が三つ、緑と青と金色の駒と一緒に入っていた。箱の中の三駒とヒューの手にある一駒は確かによく似ている。

「どういうことでしょうね」ヒューが顔をしかめた。「伯父さんは家から出たはずです。だってそうでしょう? 伯父さんが窓から投げ捨てた駒を、ほかの人がどうやってここに戻しておけるんです?」

「わかんない。いったいどういうことなの? 出かけていたらどうだっていうの? どこに行ったと思ってるわけ? パチーシが元で人を殺す人なんているわけないじゃない。ばっかみたい!」容赦なかった。

 ヒューが微笑んだ。「もちろんですよ。もちろんばかげてますとも」と言ってパチーシ一式を片づけた。「きっと何の意味もありませんよ」

 だけどわたしは言い聞かせていた。赤い駒は自分で歩いたりしないのだ。

 おそるおそるたずねてみた。「あなたはわたしよりもいろいろ知ってるんでしょう……」

「知っていることは始まりからすべてお話ししますよ。座ってください。お話ししましょう」ヒューはソファに――昨日のあのソファに――しばらく頭をもたせかけていた。疲れているように見える。「きっとぼくがおかしくなったと思いますよ」と言って目を閉じた。

「お願いだから話を続けて」とはっきり伝えた。

 ヒューが目を開けると、眼鏡の奥がきらめくのが見えた。「ぼくが帰ったのは何時でした? 十二時十分ごろでしたね? マジソン街まで歩いてドラッグストアでサンドイッチを買ったんです。それから五番街まで戻ってバスに乗りました。五番街を走っている、百十番通り行きのバスです。百十番地とブロードウェイの角で降りると、ほんの数ブロック先がウィンベリーのところです。ぼくらはそこに住んでました。本来ならぼくが先に家に着いているはずだったんですが、バスが故障してしまったんですよ。ぼくにとっては運が良かった、ある意味ではね。だけど先に帰っていたとしたら……」ヒューはぼんやりとして、話すのを忘れているように見えた。

「続けて」

「そうですね。しばらく待っていたんですが、原因が何であれ修理できないとわかると、みんな別のバスに乗り換えて出発しました。それで遅れたんです。角でバスを降りたのは、一時十五分ごろだったと思います。二ブロック先のドラッグストアに寄って煙草を買いました。部屋のベルを鳴らしたのが一時二十二分でした。そうピーターは言ってますし、ぼくもそう思ってます。ドアは玄関からウィンベリーのオフィスに通じていて、オフィスは通りに面した正面側にあります。ピーターが開けてくれたのがそのドアです。彼は見つけたばかりでした【見つけたところでした】……死体を。いや違うな、ウィンベリーは死んだばかりだったんです【死んだところだったんです】。ピーターが見つけたときにはまだ生きていました。部屋の真ん中辺りの床に倒れていて、胸を撃たれていました。ピーターによれば、上でドアの開くのが聞こえたそうです。地階に住んでいるので。暖房などを管理しています。それからぼくの研究室も。それも下にあるんです。ウィンベリーが帰ってきたのが聞こえたそうです。初めに表のドアの音がして、次にオフィスのドア。用がないかとたずねた【call up】のですが、ウィンベリーはぶつぶつと言い訳をして中に入ったそうです。一時過ぎのことでした。帽子と外套(コート)は脱いで掛けてありました。少ししてからまたドアの音が聞こえたそうです。初めに表のドア、次にオフィスのドアです。ぼくが帰ってきたのだと思ったそうです。ところが直後、銃声が聞こえました。すぐには上に行けなかった。老人でしたし、何よりショックを受けていましたから。だけど現場に着いたときにはオフィスのドアは開いていて、ウィンベリーが床に倒れ、銃が落ちていたそうです」

「何か言い遺したの?……亡くなる前に何か話せたの?」

「ええ、そうなんです。『見いへん(かった)』。ピーターが聞き出せたのはそれだけでした」

「てことは、知り合いではなかったのね」

「どうしてです?」

「そう言おうとしてたんじゃないの? きっとそう。『今まで見いへんかった人だ【見いへん人やった】』って」

「そう思いますか? でもおかしなことに、銃はウィンベリーのものだったんです。オフィスに保管していました。海賊なんだと言っておいたでしょう。いくつか後ろ暗い取引に巻き込まれていたんです。ぼくの仕事とは無関係ですが。ありがたいことに。とにかく銃を持っていた。ドアを入ったところにある書類棚の一番上の引き出しに仕舞ってありました。どっちにしろドアからそれほど離れてはいません」

「その……誰かは変装していたのかもしれない」

 ヒューがこちらを見た。「そんなことは考えもしませんでした」

「だってウィンベリーさんは、犯人が誰だかわからなかったんでしょう……」

「どういうことです?」

だって。だってnever saw him beforeって言い遺してるじゃない。でもちょっと待って、犯人は銃の置き場所を知っていたんだわ。そんなに(素)早く起こったのなら。銃を探し出して撃つまでは……確かあっという間だったんでしょ?」

「ええ。ぼくもそれには気づいていました」

「続けて」

「そうしましょう。ええと……ぼくがウィンベリーさんを見たところからでしたね。ピーターは聞こえた音のことを話し続けていました。ぼくが外套を押しやったら何かが落ちたんです。赤い駒でした。ピーターはペッピンジャーがどうとか言ってましたが、ぼくは駒をポケットにすべらせました。何か理由があってウィンベリーさんが持ち帰ったものだと思っていたんです」

「だけど、そうじゃなかった」

 ヒューは考え事をしているようにしばしわたしを見つめていたが、ようやく話を続けた。「すぐに警察を呼びました。到着したのが一時三十五分です。警察に聞かれたことを答えていたので、一時五十分になってようやく現場を離れて角のドラッグストアに行き、ここに電話することができました。伯父さんに事件を知らせようと思ったんです。誰も出ませんでした。しばらく時間をつぶしてからもう一度かけると、今度は伯父さんが出ました」

「警察はどう考えているの?」

「それは事細かに訊かれましたよ。なにしろ(時間が)分刻みですから。銃撃された正確な時刻を特定したようです。どうやって突き止めたのかわかりませんが。一時十六分だそうです。ぼくがバスからドラッグストアに向かっていたころですね。もしかすると店のなかだったかもしれません。でもはっきりとはわかりません。店員は時刻を覚えていませんでした。だけど警察はバスを調査したんです。運転手が覚えていました。ぼくが言ったとおりの格好の女性が乗っていたことを」

「そうなんだ?」

「おかしな格好をした人だったからよかったものの、そうじゃなければ気づいていなかったと思います。黒人でね、大きなつば広帽に裾の長い夜会服、チェック柄をした男物のジャケットを羽織っていたんです。ぼくみたいな男でも、いやでも気づきますよ」

「そんな格好じゃね」

「運転手の話だと、バスをブロードウェイの角に停めたのは遅くとも一時十五分だったそうです。それで助かりました。とにかく警察は満足したように見えました。本当のところはわかりませんが」

「命を狙っていた人たちがいたに違いないわ。ウィンベリーさんが後ろ暗い仕事をしていたというのなら。そうだったわよね?」

「そうですね」声の調子が変わっていた。「確かに、動機を持っていてもおかしくない人たちがいます」と言って立ちあがると、目の前をうろうろし始めたが、唐突にこう言った。「厄介なことに、鍵がなかったんです」

「鍵って?」

「ぼくはベルを鳴らさなきゃなりませんでした」

「どういうこと?」

「そのう……失くしてしまったんですよ。ポケットになかったんです。チェーンでほかの鍵と一緒にしてたんですが。ゆうべ家に戻ったらなくなっていて。だからベルを鳴らしたんです」

「それで?」まだわからない。

「わかりませんか? ピーターは、ウィンベリーが入ってきて鍵を使うのを聞いてました。その後もう一人の人間が入ってくるのも聞いていたんです。一時十五分に、鍵を使って」

「ほかに鍵はないの?」

「ピーターが持ってます。よくは知りませんが。わかっているのは、ぼくのがなくなったということです」

「ふうん、じゃあやっぱり落としたのね」

「ところが気がかりなのは、ここで落としたのかもしれないってことなんです」

「ここで!」

「まさにここ、この部屋です。ソファにはありませんでした。もう探しました」

「この部屋なの?」

「何分か向こうにも座っていたでしょう? でもそこにもありませんでした」

「エファンズには聞いてみた?」

「ええ。見てないそうです」

「でも落としたのはここじゃないかもしれない。なんで……? どうして……? そんな」

 少ししてからヒューが言った。「あなたは伯父さんのことを知らないんですよ。真の姿も彼の望みも」

「伯父さんが殺人犯だってことね。そう言いたいんでしょう」わたしは怒りを露わにしようとした。でもわたしは怯えていた。

「頼みます……そんなつもりじゃなかったんです。だけどわからないから……ゆうべのウィンベリーの振舞を見ていたでしょう。ぼくが伯父さんだったなら、絞め殺したいと思っていましたよ。それに……」

「嫌なやつだったもの。怒っていたに決まってる。でも殺したりなんか……」

「いや、そのせいではなく……」ふたたび歩み去ると、ポケットのなかで硬貨をじゃらじゃらと鳴らした。

「じゃあなんのせいなの?」

「自分でもわからないんです」と吐きだしたが、わたしの問いに答えたというわけではないようだった。「ただなんとなく。どうすればよかったのか教えてください……これを」

 手には赤い駒があった。

「わからない。わかるわけないじゃない。どうしてわたしに聞くの?」わたしは立ちあがって窓まで歩いていった。幅のある窓敷居には雑誌と煙草入れが置かれていた。見るともなくレースのカーテンを眺めた。

「あなたのせいなんですよ」ヒューが後ろから近づいていた。「あなたがいなければ、なかば無意識にポケットに入れてしまったにしても、そのままそっとしまっておいたでしょう。いやそうじゃない、あそこに置きっぱなしにしておくべきだったんです。警察は伯父さんと結びつけたりしなかったでしょう」

あなたがしゃべらなければね」

「そうなんです。ところが、拾って隠しておいたことを白状すれば、理由も白状しなければならないでしょう。話すべきなんでしょうか。どちらがあなたのためになるのか。この家に危険があるのなら、ここにいるべきではありませんから」

 わたしは何も言わなかった。

「反面」細長い指で煙草入れを神経質にいじっている。「伯父さんに好意を持っていたり……ええと、親しみを感じているなんてことがあるのなら、嫌な気持になるようなことをするつもりがありません。だからあなたに聞いたんです」

「様子を見ない? 少しのあいだだけ。だって警察が間違っているかどうかまだわからないじゃない。不審者を探しているところかもしれない。とにかく」急いで続ける。「信じない。伯父さんは靴を履いたまま眠るのかもしれないし、エファンズが駒を見つけて朝のうちに戻しておいたのかもしれない。ウィンベリーさんがまっすぐ帰らずに自分で拾っていたのかもしれない。本当に知りたいっていうのなら……」

「あなたの話は」と安心したように言った。「どれも知りたかったことでした」

 だけどわたしはヒューの手を見下ろしていた。近寄って手を脇によけ、煙草入れを開いた。チェーンでつながれた鍵が二つ、なかに入っていた。わたしが取り出すと、ヒューが素早く手を伸ばし鍵をつかんだ。わたしたちは目を合わせた。

「意味があるとは限りません」

「わかってる」わたしは唾を飲み込んだ。「もちろん限らない」

「怖がることはありませんよ」少ししてからそっと声をかけられた。

 虫が知らせて振り向いた。伯父が戸口に立って微笑みかけていた。

「おはよう」わたしたちが二人きりなのを見てからかうように眉を動かした。視線の先が自室のドアの方にすばやく移動した。「見終わる(また会う)までは帰らないでくれ(Don't go until I've seen you, Hugh.)。ウィンベリーの件は大変だな」

 多くの人間は、その場を立ち去ったあともどういうわけか、背筋や首のつけ根に他人の存在を明確に意識しているものである。ところが伯父が立ち去ったあとには、放り出されて忘れ去られたという印象だけが残った。伯父は自室に消えていた。

 ヒューに腕を取られて、極度の緊張が徐々に解けていった。逃げ出したかった。ささやく声が聞こえた。「駒を投げ捨てるのを見られたことを、わかっているんじゃありませんか? 見せるつもりだったんじゃありませんか?」

「あるわけない。ばかみたい。もう行かなきゃ」

「だけどやはり、見られたことがわかっているんですよ」

「やめてよ。あり得ない。ばっかみたい!」髪がなびくほど首を振った。

「すみません。心配だったものですから」

「気にしないで。ただ何も……何もせずに……様子を見てほしいの」

「そうしますよ」という声を聞いてから、わたしは逃げ出していた。

「さあこい、マクダフ!」03-06 シャーロット・アームストロング

 ライナの部屋はキュートで、きれいな小物にあふれてはいたけれど、小ぎれいで質素(簡素)とも言えた。見るからに若い女の子の部屋だった。よくわからなくなる。わたしの家では父と母が一部屋持っていたけれど、半分は何もなくこざっぱりとしていて見るからに父らしかったし、もう半分はごてごてと詰め込まれていて見るからに母らしかった。ダブルベッドには母の羽根枕と父の毛枕(?羽毛枕)が並べてあったせいで、整えていてもちぐはぐな印象があった。ライナの部屋にも確かにダブルベッドはあったけれど、そこには備品がなにもなくてまるで別人が使っているみたいだった。

 ライナはいつのまにかドレスを脱いでネグリジェに着替えていた。

「サンドイッチをいただいたら(食べたら)? ミルクは好き? わたしはいただくわ。ベイカーズ・ブリッジのことを教えてくれない? 都会が気に入ればいいけど。これからどうするの(今後の予定はあるのかしら?)」

 心が温まる。わたしのことをたずねてくれている。自分とは別の本来の自分になったみたいな気がしてきた。いつも幾夜も思い惑ってきたけれど、ここで何をしているのか思い惑うのをやめた。わたしのことが話題になんて信じられなかった。

 でもすぐに気づいたのだけれど、ライナはわたしに手取り足取り導いてくれるつもりはなかった。わたしの家では、母はいつだって父の世話を焼き、お返しに父は母の面倒を見ていたし、二人ともつねにわたしのことを気遣ってくれて(世話して)いたのだけれど、ライナの方はわたしが自分で考え自分で行動するものと思っているようだ。なんというか、気にはなっていたのだろうけれど、いわゆる「助言」めいたことは何一つくれなかった。元気づけてくれただけだ(くれたのは元気だった)。

「お小遣いがあったほうがいいってチャールズは思ってるみたい。週に五十ドルでどう?」

 わたしが息を呑んだのは、父がそれほどの収入を持ったことがなかったからだが、ライナは戸惑ったようだ。

「でも必要になるわよ。服だっているし外でご飯を食べたくなったら……それに……」

「今の服だって充分きれいなのに」わたしは惨めったらしい気持になりかけたが、ライナがさえぎった。

「そういうつもりじゃなかったの。でもね、服はそのうち古くなっちゃうでしょ。それに何かほしいものがあったときに、おねだりする方がいやじゃない。どっちみちわたしたちと暮らすんだし、洋服代もアイスクリーム代もキャンディ代も映画代もチューイン・ガム代も込みよ」そう言って笑ってから「わかった?」とたずねた。

「伯父さんはお金持ちなんですね!」

「だと思うわ」はっきりしない。結婚指輪にはダイヤモンドが散りばめられていたのに。

「おいくつなんですか?」失言してしまった。

「四月で二十五。あなたは?」

「六月で二十歳になります」

「信じられない(嘘でしょ)」そう言ってライナ伯母さんは話題を変えた。働きたいのはいいことだと言ってくれた。そうはいっても、働く必要なんかないとも言ったけれど。それよりも、学校に行って勉強したいならそうしてもいい。どっちみちいろんな人に会うことになるからと。もちろんいろんな人に会いたかった。伯父さんにも伯母さんにもわたしに合うような友だちはいないと言われたようなものだったけれど。それはつまり、何不自由ない状態で、好きなことをするのもやりたいことを見つけるのもわたし次第、自分で決めるということなのだ。ようやく部屋に戻って右側のベッドを選んだときには未来が薔薇色に思えた……けれど同時に重荷でもあった。

 ライナと別れたのは一時十五分だった。

 とても疲れていたけれど、慣れない部屋ではくつろげない。そりゃあ嬉しくなくはなかったけれど。興奮して眠れそうにない。いろいろな音の入り混じった騒音が遠くから聞こえてくるのには慣れていないし。だからずっと考えていた。仕事のこと、学校のこと、将来のことさえも。ライナがこんなことを言わないでくれてほんとうによかった。「いいかしら、ベッシー。あなたにはわたしのお洋服屋さん、美容師、マッサージ師、ネイルアーティストを使っていただくわ。それからここでの暮らし方(決まり)を覚えてちょうだいね」。だけど考えれば考えるほどライナのことが不思議に思えてくる。自分のことはほとんど話してくれなかった。チャールズ伯父さんのことも考えた。それから、母のこともちょっとだけ。

 ベルが鳴るのが聞こえたのは、うとうとしかかっていたときだった。階下から聞こえてくる。二度目のベルで完全に目が覚めた。わたしの家に真夜中かかってくる電話は、決まって誰かが亡くなったという報せだったから、いつも父に慰めてもらっていた。以前からの癖で胸をとどろかせながら、明かりをつけて時計を見た。

 二時十分前。耳を澄ませたけれど、もう何も聞こえなかったので、布団に戻って自問していた。

 しばらくするとまたベルが鳴った。よく聞こえるように頭を起こした。眠気はすっかり吹き飛んでしまった。結局明かりをつけ、今が午前二時だと確認しただけでベッドから降りるとドアに向かった。安心したくて、静まりかえったホールと吹き抜けを確認しようとしただけだったのだ。ドアを少しだけ開けると、足音が近づいてきた。足音とは言ったけれど、実際には絨毯をこするような静かな音が、少しずつ近寄っている。

 現れたのはガウン姿の伯父だった。ライナの部屋をノックする音と返事が聞こえた。すぐにライナが顔を出して、物問いたげにホールの伯父を見上げた。

「ヒューから電話があった」伯父の静かな声が一音一音はっきりと伝えた。「ウィンベリーが殺されたそうだ」

「殺された!」

「撃たれたらしい」

 栗色の部屋着を羽織ったエファンズは、長い首がますます長く見えた。四階途中の階段の手すりから身を乗り出している。

「お呼びになりましたか?」

「すまんな。ウィンベリーが深夜自宅で撃ち殺されたそうだ。言っておこうと思ってな。明日の朝は早くから警察が来るかもしれん。七時に起こしてくれ」

「かしこまりました。恐ろしいことでございますね」

「犯人は誰なの?」ライナがたずねた。

「まだわかってないようだ。起こして悪かったな。おやすみ」伯父が階段から降りようとこちらにやって来たので、ドアを静かにぴったりと閉めた。

 午前二時四分。こんな時間なのに伯父は靴を履いていた。


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 かなり久々に更新しました。いよいよ事件が起こりました。これからばしばし翻訳していこうと思います。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
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