翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

「さあこい、マクダフ!」第8章

第八章

 マクドゥガル・ダフはリビングで待っていた。わたしたちもすぐに向かった。ダフは背が高く痩せぎすで、面長、薄い唇の大きな口をしていた。細くて骨張った手には、干涸らびて(gauntness)いるくせに温かみが宿っていた。

 J・Jが言った。「こちらがベッシー・ギボン」

「はじめまして」とわたしも挨拶する。

 長い手足が控えめにバランスを取って佇んでいた。ほどよく清潔な髪と同じ控えめな茶色になるまで着古した服装からすると、顔色は控えめだ。瞳は榛色、青でも茶でもない。まぶたは重たげ【悲しげ】に目尻を覆っている(heavy and fallen at coners)。わかりきったものを見続けるのはうんざりだとでも言いたげに。

 翳りのある顔には、たいへんな苦労をしのばせるしわが刻まれていた。とはいえしわはそれほど深くない。時を経て、心の安らぎがしわを消してしまったかのようだ【心の安らぎにしわを消し去る力でもあるかのようだ】【長い時をかけて心の安らぎがしわを消す作用を及ぼしたかのようだった】。幾つなのかわからないが、伯父と同じく若くはない。伯父と同じようなところばかりだ。

 そのうえ、一番の相違点こそが、同じような印象を与える一番の点なのだ。おかしな表現だけど、まるで両極端、好対照の、互いにかけ離れた部分が、一回りして反対側で再会したようなものだ。チャールズ伯父さんは堅牢で一筋縄ではいかない百戦錬磨だ。【チャールズ伯父さんは逞しく厳つい百戦錬磨の強者である(tough, hard, armored with experience)】。老獪なファイター、覚醒した危険な手練れ。マク・ダフも数々の戦さを経ていたけれど、彼にとってはもう戦争は過去のものだった。知性だけでなく弱さと悲しみも刻まれている。その静けさ、その諦念こそが、彼の原動力であり、伯父と同じくまた違う部分なのだ。

 二人とも力に満ちている。だけどマク・ダフの力だけには伯父の力も及ばない【働かない】ことがわかった。

 もちろんこれは追々わかってきたことだ。

 J・Jとマク・ダフのあいだに座らされると、J・Jの……その……挨拶の温もりも冷めぬままに、マク・ダフの話を聞こうと顔を見た。

 なのに何も話さない。

 物言わぬ人というのは不気味なものだ。その人が支離滅裂でも慌てているのでもなければなおさらだ。「わたし、アメリカ史は何にも知らないんです」と口を滑らせた。ダフは微笑みはしなかったものの、悲しげな目尻が大きく開いた。一瞬だけ瞬いたように見えた。

「アメリカ史の話をしにきたわけじゃないだろう」J・Jがわたしの手をつかんだ。「やつが何を隠しているのか知っているというんなら別だけどね。さあ、マック。何が聞きたいんです?」

「実際にあったことだ」

 それでわたしは話し始めた。赤い駒のこと、伯父によってヒューが駒を見せざるを得なくなったこと、駒がテーブルに落ちたこと、その影響、抑えた圧力、敵意の再現。

「ちょっと待った」マク・ダフがさえぎった。声は穏やかですり切れ気味で低く、伯父の喉から出るオルガンのような響きはないが、同じような意味ありげ(sound significant)響きを持っていた。「聞いてないな、J・J」

「事実だけをほしがっていると思ってましたからね。この子が感じたと思ったことですよ、緊迫した雰囲気とか、部屋に満ちる悪意とか、そういったことは……」

「この子が感じた事実だ」

「この子があると思った事実ですよ。だけどぼくが証拠と呼んでいるものとは違いますからね」

「証拠か。事実を無視して証拠の話でもするかね? 感情は事実であると同時に事実の一要素だ。むしろ理性より大事だよ。あらゆる推理の裏に感情ありだ。あらゆる行動の中心に感情あり。証拠の話など聞かせてくれるな。解明の助けになることだけでいい」

「なるほど。だけどこの子は憎悪の気配を感じていますよ。どうやったら気配に憎悪が存在したなんてことを事実として理解できるんです? この子は若いしここに来たばかりだ、それに緊張もしていたんじゃないかな……」

「言いかえるなら、ミス・ギボンに感情があるという事実をわれわれは理解しなくちゃならんな。生けるものにはみな感情があるんだよ、J・J。誰もが彼らなりの見方で歪んだガラス越しに世界を見てるんだ」J・Jは不満の声をあげた。「薔薇色の眼鏡で世界を見たことがあるかね? 青色では?」

「わかった、わかりましたよ」

「わかったわ」わたしもつぶやいた。ちょっと前まで薄緑色の暗闇に塗られた吹き抜けを、どういうわけか恐れていたことを思い出していた。

「そもそも誰もがあるがままの世界を見ているとでも?」

ぼくがものの見方に左右されていると言いたいのなら、筋違いですよ。この子が他人の感情を読みとれるっていう話をしてるんですから」

「読みとれるとは思わんのか? 奥さん連中のことを考えてみたまえ。一人の男と――そうだな、十年間としておこう――結婚している連中が、旦那が怒っているのか喜んでいるのか、はたまた何かに怯えているのか、一ブロック先からわからないとでも? 目の前にいるのに睫毛一本からでも読みとれないとでも? ふん、具体的な根拠を唱えることはできなくとも、旦那が何を考えているのかはちゃんとわかっとるんだよ。逆もまたしかりだ。いいかね、共感とは何だ? 他人の気持の実態を受け入れることにすぎない。それだけだ。赤の他人ではそうはいかないというのかな。しかし、俳優という人種はわれわれには赤の他人であるのに、気持が伝わってくるだろう。名優であればな。それにだ、嫌悪や敵意というのはもっとも見破りやすい感情だよ。その反対もしかりだ。そうは思わんか」とからかうように続けた。「二人の人間が愛し合っていたり惹かれ合っていたりすれば、誰だってわかるだろう? 説明書きでもぶら下げてもらわなけりゃ、二人が恋人同士だと気づかないのか?」

「参りましたよ」J・Jはふたたび髪の生え際まで真っ赤になった。「O・K。わかりました」

 マク・ダフが微笑んだ。今まで見たなかでも最高の笑顔だった。悲しげな顔も不思議なほど明るくなり、内気な感情が見え隠れし、疲れた仮面の向こうに永遠の若さと最高に強固な希望が顔を覗かせ、わたしはたちどころに参ってしまった。からかわれていたとしても気にならない。うれしいのは、互いにピンときたことに気づいてくれたことだ。気づいてくれたことで、いっそうその感情が強まった気がする。

「だけどいったい、これが事件と何の関係があるんです?」J・Jが言った。

「人の行動というものは――」マク・ダフが説明する。「感情に左右されるのだ。偉大な知性による判断過程などは、あとで自らを欺いたにすぎん。ウィンベリーの殺害は何者かの感情により引き起こされたのだよ」

「つまり発作的ではない殺人などないと?」

「発作的でない殺人は、謀りごとの一部、ゴールを目指した謀りごとの計画的段階として行われる。だが謀りごと自体は人の欲望と衝動によって、人の感情によって引き起こされるのだ。結構じゃないか。ここに何者かの感情が大っぴらに転がっているようなものなのだからな。部屋の雰囲気にすぎないがね。あまり簡単に忘れないことだ。無論ミス・ギボン自身の感情も考慮したうえで、そいつがどんな感情なのか、誰の感情なのか確かめようじゃないか。重要なことだからな」

 わたしはできるかぎり詳しく説明した。覚えているかぎりを繰り返した。この本に書いたとおりだ。

君はどのように感じたのかね?」

「ええと……隅に座っていて」

「いい子だ。誰かの気を引いたりはしなかったんだな。内気なわけではないね?」

「それはまあ。興味津々だったんです。それはすぐに怖くなりましたけど」

「部屋には誰が?」

「ウィンベリー、ギャスケル、マクソン、チャールズ伯父さん、ヒュー、わたしです」と指を折った。

「では午後にまた感じたとき部屋にいたのは?」

「ウィンベリーはいなくて」身震いした。「ギャスケル、マクソン、チャールズ伯父さん、ヒュー、ライナ、わたしです」

「なるほど」思案げにつぶやいた。「それでは、その感情が霧散したのはいつだ? 消え去ったのは?」

「昨夜、ライナが帰ってきたときです。違うかな。その後も漂っていたと思うけど、ライナに気を取られてしまったので。はっきりとはわからないわ」

「特定の人物が部屋を出たとき霧散したりはしなかった?」

「みんなが帰るころにはそんなこと頭から抜け落ちてました。それに、ヒューは別ですけど、みんなほとんど同時に帰りましたから」

「今日の午後は?」

「ほんの一瞬でした。そのときはパニックになってしまって」

「二度の機会には異なる要素が存在するな。赤いパチーシ駒だ」

「ほんとだ。何で気づかなかったんだろう。何かあると思ってたの。ヒューも知ってるけど」伯父が赤い駒を燃やしたこと、その匂い、それがふたたび図書室から匂ってきたことを話した。マク・ダフは何も言わなかった。「でもヒューは何か知ってる。ここに泊まってるの。伯父がそうしろって。いま降りてきたところ。J・J、わたし絶対に……」

「この子はどうやって君の胸中の嫉妬を読みとったのかな、ふむ?」

「やめてください。要点は聞きましたよ」J・Jが言った。「そんな状態で何者かを呪っているのは誰だと思ってるんです?」マク・ダフはわずかに肩をすくめた。

「ギャスケルは怖がっていました」わたしは去り際のギャスケルのおかしな態度を伝えた。

「それは恐怖という感情を持たないということか?」

「そうじゃありません。怯えるつもりはないっていうニュアンスでした」

「いい子だ」

 嬉しさのあまり喉を鳴らしてしまったかもしれない。どんな子にも言っているセリフではないとわかったからだ。飲み込みのよさを褒めそやすタイプの人たちがいる。つまり、話の内容をわたしが理解しているのはわかっている、という彼らの考えをわたしが知ったとしたら、意気も揚がろうし鼻も高くなろうということだ。

 マク・ダフはまったく動きも見せず音も立てずにしばらく椅子に座っていた。長い指先がしなやかな腕からぶら下がっている。組んだ足の先には反対足の足首が延びている。できる手だてをばらばらにしながらもすっかり留めていられる人に会ったのは初めてだった/それぞれのピースをばらばらにしながらも全体像はそっくり留めておける手際を見たのは初めてだった。

「君たちの望みは――」ようやくマク・ダフが口を開いた。「実の伯父チャールズ・カスカートが殺人者なのか無実の伯父なのかを証してほしいということだな」

「その通りです」J・Jが二人分の返答をした。

「捜査料金は誰が払ってくれるんだ?」と言った顔はしかし微笑んでいた。

 J・Jが答えた。「お支払いできるほどお金を持ってませんからね。ぼくらを気に入ってくれたんならそれでどうです【ぼくらは君からお金をもらったりはしない。気に入ってくれたんならそれでいい】」

 きまりが悪かった。「お二人にそんなことをしてもらう理由がないわ……」

「二人とも大いにあるんだよ、いいかい」J・Jが手を強く握った。「マク・ダフはあっという間に君を気に入った。睫毛の一本からでも読みとれたよ」

「この子の顔はおしゃべりだ【この子は眼鏡っ娘(おしゃべり顔)だろう】」マク・ダフはわたしがいないかのような口を聞いた。「しかし、ものを見る目は素晴らしい」

「そうですよ。もちろんそうです」

「腰を落ち着けて考えればよい。安上がりだ。足がないならどのみち腰を落ち着けて考えることになる」

「そいつは願ったりです。お忘れですか、このぼくには両足ともに揃ってるんです」

「関係者に会わなくては。だがさしあたっては、頼みがある、ベッシー」

「喜んで」みんながベッシーと呼んでくれるのはうれしい。

「簡単なことだ。考えてはいかん。わたしが名前を挙げたら、その人物について一言でコメントしてほしい。どんな人間か。どんなことでもいい、頭に浮かんだことをだ」

「わかりました」わたしは姿勢を正した。

「頭を戻して。足も楽にしたまえ。ウィンベリーだ」

「腐敗」と答えると、J・Jが笑いを漏らした。「なまっちろく(pink and white)て、嫌な奴」

「ギャスケル」

「嫌な奴。それに頑固

 マク・ダフはうなずいた。「よし。執事だ」

「ええと、従順。それを誇りにしています」

「マクソンは?」

「癇性。神経質。過敏。とんま」わたしは目を閉じた。「危険」

「ライナは?」

「ええと、ライナは。輝き。あふれ出す光【内なる光】」

「ヒュー・ミラー」

「真剣。生真面目。一途」

「チャールズ伯父さんは?」

 何も言えなかった。

「チャールズ伯父さんは?」マク・ダフがまったく同じ声音で繰り返した。

「力。強大。強大な人。わたし、あまりよく……」

「わかった。J・J・ジョーンズは?」

「正直で優しい」眠くなってきた「賢くて優しい」

「マク・ダフは?」

「えっ、あなたのこと?」ぱっちりと目が開いた。「戦いと終焉」

「いい子だ」

「輝く日の宮」J・Jがつぶやいた。「それがぼくか、へえ?」だけどわたしに手を触れた彼はうれしそうだった。「これは何です? 催眠術ですか?」

「この子はまだここに慣れていないから、極めて感じやすく鋭敏なのだ。ありがとう。さあ、個々の事例について――」

 誰かがホールにいて、階段をこする足音がした。

「初めに、電話のベルについて頼む。何回鳴ったかね?」

「二回です。一度目のときは、二回でした」

「では二度目には?」

「一回でした」

「一度目と二度目の間隔は?」

「十分」

「印象かね時計かね?」

「時計を見ました」

 J・Jが立ちあがった。顔に驚きと喜びが浮かび、感心しているようにも見える。振り向くと、青いドレスに緋のショール【外套?】姿のライナがいた。ステンドグラス色のせいで、教会の窓から抜け出したスタイルのいい聖母マリアのように見える。わたしはJ・Jの方に急いで向き直ったけれど、彼の目から悪戯っ気は消えていた。きれいだと思っているに決まってる。ライナは実際美しいのだ。誰だってそう思うはず。

「伯母です」わたしはささやいた。「ライナ、こちらはマク・ダフさんとジョーンズさん」

 ライナはキュートな頭を下げた。マク・ダフは立ちあがっただけでまったく何もしなかった。その沈黙ゆえに、名前を呼ばれたようにライナが顔を向ける。「マクドゥガル・ダフさんではありません?」彼は頭を下げなかったのに、下げたような気がした。「まあ」と言ってひと息ついた。「ごめんなさい。ベッシーがお知り合いだとは知りませんでした」

「この子も知らなかったでしょうな」マク・ダフは愉快げだ。「われわれはウィンベリー氏の死について話し合っていたところです」

「そうなんですか」ほんのわずかに眉間にしわが寄った。

 ここでライナの後ろからヒューが現れたので、みんなに紹介した。

「夕食は出来てるわ、ベッシー。あなたもヒューもいつでもどうぞ。わたしは……これから出かけてくる」ライナはためらいを見せたが、マク・ダフにも声をかけた。「夫にお会いするのでしょうね」

 マク・ダフは何も言わない。

「ベッシーのお友だちが、あなたをお連れしてくれてよかったわ」ライナは挑むように言葉を続けた。

 マク・ダフは海のように穏やかだった。「できたらカスカート氏にお会いしたい」

「ええ」心なしかそっけない。「できたらあなたのことお伝えしておくわ」ダフの沈黙には否定で答えなくてはと思ったのかもしれない。ライナは不機嫌に続けた。「笑っちゃう。夫が関係してると思ってるなんて。どんな形であれこんな……こんな馬鹿げたことに」

 マク・ダフの態度は、取り乱したと呼ぶべきものだったかもしれない。つまり、そのとき現れたのはほんのわずかな反応にすぎなかったのではあるけれど。「人殺しが馬鹿げてるなんて言うつもりはないのよ」ライナの声が潤んでいた。「でもチャールズだなんて馬鹿げてる! わかるでしょ?」

 これだけ取り乱したライナは初めてだった。ここには感情がある、でもどんな?

「ありがとう」マク・ダフが言った。ライナは落ち着きを取り戻した。ホールからエファンズが声をかけた。「ギャスケルさまです」白い胸をふくらませた、これまで以上に蛙じみた短躯が現れた。ライナは彼を誰にも紹介しなかった。すばやくショールをすべらせると、「失礼します」と冷やかに会釈して立ち去った。褒めそやす蛙の声の波が、航路のようにあとを追った。

「ひゅうっ!」J・Jが声をあげた。「とんでもない美人だなあ!」

「そう言ったじゃない」ちょっとむかついた【むっとする】。

 ヒューが口を挟んだ。「ライナは混乱してましたよね? どうしたんだろう……」

 またも胸にきざした恐怖の震えを止めようと、わたしはJ・Jの腕に手を伸ばした。

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「さあこい、マクダフ!」第7章 シャーロット・アームストロング

第七章

 わたしは大きなリビング(応接間)【drawing room】を探し物でもするように歩きまわっていたが、何かを見ていたわけではなかった。自分に言い聞かせていたのだ。「賢くなりなさい。これじゃいいカモじゃないの、ベッシー。あの人はどうせすけこましよ、忘れないで。あの人が言ったことも言わなかったことも信じないこと。大人になるのよ、ベッシー、田舎娘のままではだめ」

 暖炉(マントルピース)の時計は四時十五分を告げていた。ふたたび調査を始めようか(見て回ろうか)。自分に言い聞かせていたことなど、すっぽり頭から抜け落ちてしまった。リビングの向こう側(the end?)に引き戸があったけれど、玄関ホールの小さな扉を試してみたかった。扉を開けると、食器室ともクローク・ルームともつかない不思議な小部屋にエファンズがいた。窓が一つ、煉瓦敷きの庭に面している。

「調査中なんだけど(見て回ってるところなんだけど)、かまわない?」

 エファンズが相好を崩した。「喜んでお屋敷をご案内させていただきます、エリザベスさま。光栄でございます」エプロンのようなものを脱ぎ捨てて泰然としていた【そつのない態度をまとった】。「こちらが地下室でございます【地下室についてご説明いたします】」と言って一つ扉を開けると、階段が見えた。「下に参りますとキッチンと準備室がございまして、料理用エレベーターが通じております。キッチンは食堂の下まで延びております。無論、旧式のキッチンでございます」わたしはうなずいた。

 エファンズは壁にある小さな扉を一つ開け、咳払いをして頭を入れると、声をあげた。「おや、ミセス・アトウォーター」何かが聞こえ、すぐに遠ざかった。「エリザベスさま」エファンズが厳かに言った。「コックを紹介させていただきます」

 わたしも頭を入れて、料理用エレベーターのシャフトを覗き込んだ。赤ら顔の女性が底から見上げ、大声で挨拶をした。「どうも、お嬢さま」

「はじめまして」と答える。わたしたちは見交わしていた。彼女は上に、わたしは下に。「マトン、こちらはアリス。アリス、こちらはマトン【『鏡の国のアリス』第9章より】」と聞こえたような気がしはじめた。

「何かお好きなものがあったら、お知らせくださいまし」

「ありがとう、そうするわ」という言葉にうなずいた彼女を見て、わたしも微笑んでうなずき返した。向こうも微笑み返す。こうして外交関係を築き上げたまま、わたしたちは同時に顔を引っ込めた。

 エファンズは誇らしげに見えた。「コックの部屋は玄関の下に位置しております。あいだには炉部屋(ボイラー室)がございます。無論、出入りのものは正面玄関の下にございます勝手口を利用しております」

「ああ、そうね。たしか見たことあるわ」

「こちらが食堂でございます」案内されたのは見栄えのいい簡素な部屋で、わたしの寝室と同じ場所に窓が三つあり、煉瓦敷きで高い塀のある庭に面していた。鉢に植わった常緑樹があちこちに見える。蔦の蔓が木鉢から後ろの塀まで這い上ろうとしていた。「中庭には夏のあいだ部屋を涼ませる効果がございます。ほかの用途はございません。ここは古いお屋敷なのでございますよ」

「ずいぶん高いのね」

「地上四階と地下がございます」

「四階には何があるの?」

「エレンの部屋と、わたくしの部屋がございます。それから建物の正面側まで広がる大きな客室が」

「ちょっと変わった家に見えるけど」

「極めて様式的なものでございます(ごく標準的なものにございます)」

「ほかにはどんな家があるの?」

「いいえ、エリザベスさま。ご主人さまがお出かけになるときは――めったにございませんが――わたくしどもはホテルの部屋を予約いたします。車もお持ちではございません。タクシーでご満足なされておりますから」

「ああ、そうね」わたしはつぶやいた。曲がった指で料金を払った人のことを考えていた。知っていることのすべてを話すことなくエファンズに質問できたらいいのに。「伯父さんのところでどのくらいになるの?」

「かなりになります。十年でございますか。ご結婚の前からでございますから」そう言って目を瞬かせた。「働きやすい職場でございますので、とどこおりなくお勤めさせていただいております。地下はコック。階上はエレン。この階と図書室はわたくし自身が管理しております【取り仕切っております】。とどこおりなく」ここでエファンズはため息をついた。「お客さまをご招待する際には、無論ライナさまも手伝ってくださいます」彼は咳払いをして、どこか不安げにわたしを見つめた。「お差し支えなかったでしょうか、その……警察の方をお通ししてしまいまして」

 びっくりしたけれど、チャンスを逃さなかった。「何か質問されたでしょ。何を訊かれたの?」

「いえ……訊かれたというほどではございませんが」

「ウィンベリーさんのことは訊かれなかったってことでしょう?」

「さようでございます」

「あなたに訊けばよかったのに。わたしよりもこの家のことに詳しいんだから。ウィンベリーさんが帰るところ、見たでしょ?」

「その通りでございます」

「間違ってなかったかな。警察には、みんな一緒に帰ったって言ったんだけど」

「ウィンベリーさまとギャスケルさまはご一緒にお帰りになりました。マクソンさまもその後すぐにお帰りになりました」

「ふうん。ならわたしの言ったことでもだいたい合ってたのね?」

「さように存じます」厳かな答え。「正確に申しますと、ウィンベリーさまとギャスケルさまはタクシーでお帰りになりましたが、マクソンさまはそうではございませんでした」

「タクシーがあったの?」

「わたくしが一台待たせておきました」

「やっぱりあなたに訊けばよかったのに。わたしは知らなかったもの。この家の人がそのあとどうしたかって訊かれたんだけど。眠ったって答えておいた」

「賢明なお答えでございました。間違いなくそのとおりでございましたから」

「待って。あなたは四階に行ったんでしょう」

「はい、さようです」

「エレンはそのときもう四階にいた」

「はい、さようでございます」

「コックはうろちょろしてなかったわよね?」

「まさかそのようなことは! コックは階上に上がったりは……長いことございません」エファンズはショックを受け困惑しているように見えた。「警察がこのようなことをおたずねになったのでしょうか?」

「その……ただの……」わたしの声は尻すぼみになった。「電話が鳴ったのは聞こえた? 無理よね?」

「はい、お嬢さま。ご主人さまの部屋は除きますが。夜のあいだはその電話だけが通じております。戸締まりをいたしますとき、ほかのベルの電源を切っておりますから」

「ふうん。どういうことなのかはわからないんだけど【事情はよくわからないんだけど】」わたしはつぶやき、考えた。何も知られずに赤い駒のことをたずねるにはどうしたらいいだろう。一つ思いついた。「こんな些細なことを気にしてるのは……覚えてない? ヒューさんの鍵のこともあるの。どこかで見かけなかった?」

「どこにもございませんでした。ヒューさまから今朝、お問い合わせいただいたのですが」

「わたしも訊かれたけど、わかんないわ。今朝、玄関の石畳まで行ってみた? そこで落としたのかも」

「家から出る際には」エファンズは説くように答えた。「わたくしは地階のドアを利用いたします」

「そっか。でも勝手口に落ちていた可能性だってあるでしょう」

「勝手口には何もございませんでした」

「今朝そこから外に出たのね?」

「さようでございます」

「じゃあここで落としたわけじゃなさそうね」

「さように存じます。と申しますのも、正面玄関のベルが鳴りました際には、わたくしにも石畳(石段)を見る機会がございますから」

「それはそうね」

「今朝そこには何もございませんでした。ヒューさまにもお伝えいたしましたが、図書室にも何もございませんでした。鍵はございません。鍵がここにあるのでしたら、わたくしが見つけているはずでございます」細長くて赤い首の上に、顔を高く反らした。怒っているように見えた。

「ええ、そうよ。きっとそう。わたしも言ったの。どこで失くしたか心当たりがあるなんて馬鹿げてるって。失くした場所を知ってるのなら失くすはずないじゃない」エファンズの顔がにこやかに戻った。「ありがとう、エファンズ。このドアは……?」

「リビングとの連絡用でございます」と言って一礼した。「恐れ入りますが、ベルの音が聞こえたようですので……」

 わたしはそこから動かなかった。J・J・ジョーンズのメモ紙と、歯形のあるちびた鉛筆がほしかった。エファンズが嘘をついているとしたら、真実を一かけらも漏らさない筋金入りの大嘘つきだ。『勝手口にも、石畳にも、何もございませんでした』 夜明け前に赤い駒を拾った人物がいるのだ。それはもうわかった。それが誰なのかがまだわからない。エファンズ以外の誰かなのだ【エファンズではないのだろうけれど】。

 ようやく引き戸を開けたころには、リビングに人が集まっていた。暖炉が燃えている。ライナが紅茶をすすっていた。

 伯父がしゃべっている。「遺言のことなど気に病んでどうするというのだ。分け前があるでもない。それともやつの負債を返してやるつもりでもあるのか」

「まさか」ガイ・マクソンが言った。昨夜とまったく同じ服装だった。不意に気づいたが、彼は見かけほど裕福ではないのだ。

「まさかねぇ」ギャスケル氏は、短い足が床に届くように椅子の端に座っていた。股を大きく開いている。ティーカップを手にしていた。

「あら、ベッシー」ライナが言った。「お茶をどう」

 ヒュー・ミラーがいた。驚いたことに、わたしが席に着くまで弱々しく立ちあがっていた。

「ハドソンは楽天家だったからな」伯父が言った。「手の届くところに財産を置いていた。今もそのままだろう」伯父は立ったまま紅茶を飲んだ。大きな頭がかすかに前に出た。

「見捨てられちまったねぇ、ヒュー?」ギャスケルが目玉をぎょろぎょろさせた。

「ええ」ヒューは一言だけ答えた。

「これからどうなさるの?」気を遣うようにライナがたずねた。

「ここに泊まるんだよ」どういう意図か知らぬが、伯父が大きな声を穏やかに抑えて答えた。「この事件が片づくまで」

 ヒューが話し始めた。ライナにも聞いてもらうべきだと思ったのかもしれない。「カスカートさんが招いてくれたのはありがたいのですが――」

「エファンズには言ってある」伯父の鶴の一声だった。「ウィンベリーのアパートでは具合が悪かろう。半分がた警察に封鎖されておる」

「忘れてた」わたしは声をあげた。「話があるんです」

 みんながこちらを見る。

「警察がここに来たんです」

「ここに!」蛙が声をあげたが、驚いているのは彼一人だった。ティーカップを置いて葉巻を取り上げた。「目的はなんだろう、なぁ?」わたしにではなく伯父にたずねている。わたしは伯父に話を聞かせた。

 J・J・ジョーンズがやって来たことを伝えた。なかば記者として。なかば友人として。自分でも信じかけていた。幼なじみだということを。そのため、嘘をついているということを、だいぶあとになるまで自覚していなかった。それ以外のことは、ガーネットの最初の質問に始まり最後の質問に至るまで真実だった。伯父の視線がサーチライトのようで、わたしは急いで話し終えた。アクが強すぎて落ち着かない気分にさせる。

「狙いは何だろう?」話し終えるとギャスケルが口を開いた。「ねぇ、チャーリー?」

 だが伯父はわたしに優しい言葉をかけただけだった。「ありがとう、エリザベス」突然恐ろしくなった。

「よかったんでしょうか? わたし、わ、わかんなくて……」ヒューに触れられてびくっとした。ティーカップが皿の上で音を立てた。

「もちろんよかったわ」ライナが言った。

 伯父は微笑んだ。「怖がることはない」豊かで穏やか(great, soft)な、人を金縛りにさせるような声。「やるべきことをしっかりやってくれた」だがわたしを捕らえた目には、普段の楽しむような色はなく、冷たかった。

 恐怖のあまり、心のなかで繰り返していた言葉を口に出してしまった。「わたし、わたし田舎者だから……」声は馬鹿らしいほど震えていた。だがそれがみんなの笑いを引き起こしたのだ――伯父も高らかに(beautiful)笑っていた――わたしは怒ったように真っ赤になったが、気分はほぐれていた。

「どうなってるのかねぇ?」笑いが止むとギャスケルがたずねた。「君は知っているはずだろう、チャーリー。現場にいたんだから。マッポ(dick)と会っただろう?」

「会ったとも」

「今朝うちにも来たんだけどねぇ」ギャスケルが続けた。「何にも聞き出せなかったよ」

「だが」と伯父が言った。「わたしはピーター・フィンとも少し話をしたよ」椅子のなかでヒューが強張るのが感じられた。彼の手が離れた。「おかしなことだ」穏やかなだけに意味深な口調だった。「ペッピンジャーを見た気がすると言っておった」

 誰も動かなかった。ライナだけが両手をティーセットに伸ばした。わたしは音を立てないようにカップを置いた。ギャスケルが目を見開いてまくし立てた。「どこで? ペッピンジャーなんてもうないだろうに。知っているはずだろう」

「ウィンベリーの死体の上だ。ペッピンジャーなどもうない。わかっているとも」伯父は泰然と答えた。

「なんてぇこった……」ギャスケルはさらににじり寄った。「ウィンベリーとオレはあの件で一緒にやってた」

「ああ、そうだ。そうだろうとも」

「ぼくらは一蓮托生だよ」マクソンが口を歪ませた。「それがなんだい?」

 伯父は肩をすくめてヒューを見た。サーチライトが移動する。わたしの目にはヒューが照らし出されているように見えた。

「ペッピンジャーじゃありません」ヒューが言った。「これですよ」

 ポケットから赤い駒を取り出し、そばにあったドラムテーブルの上になおざりに【ぞんざいに】落とした。赤い駒が木に当たって音を立てた。誰もがそれを見ていた。

 途端に、昨夜の図書室が再現された。怒りに燃えた敵意の波が部屋に立ちのぼっている。これは何? この人たち、この何人かの人たちが、どういうわけか、互いのあいだに気圧のごとき悪意を生み出している。ウィンベリーが死んだのに、悪意はまだ死んでいなかったのだ。

 伯父がパチーシの駒をつまみ上げた。「こんなことだろうと思っていた」と冷やかに言うと、火にくべた。

 マクソンがびっくりしていた。ギャスケルは口をしきりにぱくぱくさせた。ヒューが歯を食いしばる。静脈がこめかみに青く浮き上がっている。マクソンがすぐに口を開いた。「それはまずいよ、チャーリー」見ると、マクソンの気難しげな【神経質げな】小鼻がぷるぷると震えていた。

 二つのことを考えた。一つ、指紋のついていた可能性があること。二つ、マクソンのこと。マクソンが未練がましかったこと。覚えておこう。あとで考えなくては。

「もう!」ライナがぴょんと立ちあがった。「ひどい匂い!」

「すまんな」伯父の声には満足感はあっても後悔はなかった。「図書室に行こうではないか」わたしたちは赤い駒の燃える匂いから逃れて、ぞろぞろと二階に上った。嗅いだこともないような、言いようもなくひどい悪臭だった。セルロイドの燃える匂いよりも、ゴムの燃える匂いよりもひどい。どんなものよりもひどかった。

 ライナが先頭に立って階段を上った。ガイ・マクソンとわたしが並んでそのあとに続く。途中でマクソンがたずねた。「ディナー?」

 ライナは振り向かずに答えた。「たぶん」

「いいね」

「どうだか」

「へえ?」

 これで全部だった。わたしたちは図書室に陣取った。伯父が暖炉の火を熾した。火が好きなのだ。それがわかった。火を見るとわくわくするのかもしれない。燃え始めた炎を見つめていた。

 ギャスケルが口を切った。「おいおいおい。なんなんだい、えぇ?」

 マクソンも言った。「警察は知っているのかい、ミラー……君が見つけたものを?」

「いいえ」

「なぜだ?」伯父の言葉はただの好奇心からのものらしい。

「忘れていただけです」ヒューは押し出すように答えた。伯父はそれを斜に眺めたが何も言わなかった。

「ある意味ラッキーだよ」ガイ・マクソンが指摘した。伯父は肩をすくめた。赤い駒を窓から捨てたことについては何一つしゃべらない。

 ギャスケルは葉巻をくわえていた。火は消えていたが、気づいていないようだ。「気をつけるこったね」挑むように言った。「誰にも居場所は言わないことだ。オレは今夜はショーを見に行くけどねぇ。それは忘れてくれよ。来るかい、ライナ?」

「予定はある、チャールズ?」ライナの言葉は伯父に聞こえていないようだったが、繰り返したりはしなかった。やがて答えが返ってきたところを見ると、聞こえていたのだ。

「今夜は遅くまで仕事だ」

「陽気な店で景気づけのディナーってぇのはどうだい。ねぇ、ライナ? 食べて、飲んで、楽しむとしよう、さてさて?」

 行かないでほしかった。ライナを見せびらかし、ぎょろ目で眺めまわす姿が目に見えた。我がもののように扱い、チャンスがあれば肩に手を回し、他人の前でも今と同じ目つきでライナの絶対性を汚すのだろう。

 なのにこれがライナの答えだった。「あなたは階上で召し上がるんでしょう、チャールズ?」伯父がうなずく。ライナは蛙に微笑みかけた。「何を見に行くの、バートラム?」

 蛙が目を瞬かせた。「初演のチケットは手に入るかな、チャーリー?」

 伯父は図書室の電話に向かい、言われるままにおとなしく二言三言話しかけた。ライナがガイ・マクソンの方を向き、合図を送ったのが見えた。合図が届き、答えが返ってきた。わたしには読みとれない。口惜しかった。

 ギャスケルは立ち去り際に戸口で立ち止まり、おかしなことを言った。「オレは怖くないよ」特定の誰かに向けた言葉ではなかった。答えた人もいなかった。

 お茶がお開きになろうというところで、マクソンが伯父に何かの“件”について話しているのが聞こえた。「ちょっと残ってくよ。三十分いいかい」伯父が答えた。「それで足りるのならばな」

「それでいいよ」マクソンはそう言って、ライナには特に何も言わずに立ち去った。

 階上に行く途中でヒューが映画に誘ってくれたので、驚きながらも行くと答えた。そのあとヒューはわたしの部屋の隣にある小さな寝室に引っ込んだ。

 すぐにライナが戸口にやって来た。「だいじょうぶ?」

「ええ……だいじょうぶです。どうぞ」

 ライナは白っぽいウールのスーツのままふらりと入ってきた。ブティックから届いたばかりのようにぱりっとしている。キュートな顔にしわが寄っていた(thoughtful)。「この家のやり方(方針)【この家がどう動いているか】を説明してなかったわね。でもその方がいいと思う。他人にまで同じことを強要したくないもの【させたくないもの】。チャールズはちょっと古風な考えの持ち主なの。使用人に給仕させるのが好きなのね。だから気にしないで……。わかる? 夕食がこの家に用意されているのは、別に誘いを断る口実というわけじゃない」

「ああ」

「ごめんね。外に食べに行くことが多いの。あなたが来てから初めてのディナーだってことうっかりしてた」

「そんな」腑に落ちた気がした。「そんな。かまわないでください。そんなのだめです。わたしを甘やかすだけだもの。この家のやり方(動き)【この家がどう動いているか】を教えてください、覚えるから」

「わかったわ。家というものは暮らしている人に合わせて動いてるの。したいことをすればいいのよ。外食する予定があるなら、前もって使用人に伝えること――エファンズに言えばいいわ――ルールはそれだけ。そのうち一緒にご飯を食べましょう。わかった?」

 わからなかった。「伯父さんたちに確認した方がいいってこと……?」

「家で食べたいのなら、常に夕食は用意されてるから。でも一緒に夕飯を食べたいときには、そうね、わたしたちに予定を確認してもらえるかな」ちょっと困っているようだった。「よし、明日の晩、ディナーを一緒に取らないかチャールズに頼んでみる。あなたも一緒よ」

「ぜひお願いします」とつぶやいた。

「それとね、どこで食べてもかまわないの。例えばここで夕飯を食べたいのなら、エファンズにそう言って。もちろん昼食もね。食卓に着く必要はなし。まるっきり。いい?」

「何を作ればいいのか、コックはどうやって知るんですか?」

「そう言えばそうね」お手上げみたいだ。「きっと天才よ」二人とも笑い出した。

「それとね」とライナは続けた。なぜだかわかった。これが言いたかったことなのだ。「もう一つルールがあるの。チャールズが部屋にいるときはね。図書室の裏の部屋よ」――わたしはうなずいた――「絶対に邪魔しちゃだめ。絶対に。それは火事にでもなれば別だけど」と微笑んだ。

 だが伯父がこう言っているのが目に浮かんだ。「ここに入ってはいけないことをあの娘は知っておるのか? 伝えておくべきだろう」

「わかりましたと伯父さんに伝えておいてください」我ながら芝居じみていた。

「伝えておくわ、ベッシー。この家を気に入ってもらえたら嬉しいな」

「もちろん」とはいうものの、あーあ、この家は伯父に合わせて動いている。

 ライナはディナーのために着替えに行った。

 ライナ。ハートがチクリと痛んだ。理解できない。この家にいて幸せ【満足】なんだろうか? 幸せでいられるのだろうか? あんなに輝いている源はどこにあるのだろう? 身を隠すための虚像なのか? わたしが田舎娘の役をふられているように。契約通りに義務を果たしているだけなのかも? 伯父がライナを買ったのだとすると、仕入れた商品の価値を下げずに鮮度を保っておくのがライナの務めなのだろうか? なぜあんな嫌らしい蛙と出かけるのだろう? なぜガイ・マクソンのこっそりした誘いを受け入れるのだろう? 第一、老人ホームにいる父親のことはどう思っているのだろう? 自分の方はお金の匂いの立ちこめる場所で暮らしているというのに。贅沢に浸かりきってしまったのだろうか? 贅沢品から幸せを享受できるような人なのか。

 ライナは身勝手なんかじゃない。これはずばり“直感”のようなものだ。ライナの魅力だって作り物なんかじゃない。虚像ではない。ライナは完全に生身の人間だ。

 あの蛙がにくらしかった。伯父さんは憎らしくないのだろうか? 親切にも妻と他の男に黙ってチケットを取ってあげながら、静かな怒りに燃えているのだろうか? 頼んだときのギャスケルは図々しくなかっただろうか? 蛙が「怖くない」と言ったのにはどういう意味があるのだろう?

 わたしは怖かった。

 ガイ・マクソンについてはどうだろう? 間違いなく嫉妬に狂っている。マクソンのことで考えておくことは? そうだった、昨夜は一番最後に帰ったのだ。ということは、パチーシの駒が窓から投げられたときには、まだ家から出ていなかった可能性がある。マクソンなら拾うこともできたのだ。

 J・J・ジョーンズに伝えなくちゃ。いや違う、ヒューに伝えなくては。誰にもしゃべったりしないと約束した以上、どうやってすべてを明らかにすればいいのだろう。でもヒューは話した。やむなく赤い駒のことを話したのだ。でも警察にではない。伯父にだけ。

 チャールズ伯父さんはどういう人なのだろう?

 ドアに控えめなノックの音がした。ヒューだと思ったが、いたのはエファンズだった。

「ジョーンズさまが――」

「今どこ!?」

「リビングにいらっしゃいます。ダフさまと申される方もご一緒でございました」

そうだった!」

 逃げ出すこともできたけれど、ヒューには伝えなければならない。エファンズが立ち去るのを待って隣のドアをノックした。

「階下に友だちが来てるの」わたしはささやいた。「午後に全部話したんだけど。その人がね……人を……人を連れてきたの」

「誰です?」恐れたほどにはヒューの機嫌は損なわれてない。

「マク・ダフっていう名前」ヒューの表情が変わった。なんだか嬉しそう。

「知ってるの?」

「どんな人かはね。あなたは?」

「何かの教授で……どんなことでもお見通しなんだって。階下に行かない?」

「すぐに行きますよ」

 わたしはきびすを返し、一緒に二階に下りた。ところが図書室のドアを通り過ぎたところで立ち止まった。踊り場の手すりを握ったまま固まってしまった。

「どうしたんです?」ヒューが手すりをつかんだまま上から声をかけた。

「焦げくさいの」わたしはささやいた。

「何ですって!」

「この匂い……!」まったく同じ悪臭だった。間違えようもない匂いが一筋、図書室から漏れている。動けなかった。恐ろしくて、手すり上のヒューの手を見上げると、血の気が引いていた。

「赤い駒だ」喉を絞められたようなしゃがれ声だった。

 呪縛が解けるやわたしは階下へ走り出し、玄関ホールを駆け抜け、両腕を広げたコートのなかに飛び込んだ。

「なんだ? どうしたんだい? 何が起こったんだ?」

「わかんない」鼻をコートに押しつけると、ひんやりとしてふかふかでいい匂いがした。「あなたなの、J・J?」

「もちろんさ。君をこんなに愛してるやつがほかにいるかい?」

「ううん、いない」すけこましなんかじゃなかった。わたしのヒーローだ。

「さあこい、マクダフ!」06-01 シャーロット・アームストロング

第六章

 こうしてわたしはすべてを打ち明けた。だまそうとしても何にもならない気がした。それに、助けてくれると信じたのだ。なぜかはわからない。彼は一つ一つ耳を傾けた。赤い駒のこと、電話のこと、鍵のこと。聞いたそばから頭のなかで整理しているらしい。それが終わると、情報を提供したタクシー運転手のことを聞かせてくれた。男を一人、午前〇〇時四十五分(ごろ、とジョーンズ氏は言った)拾ったそうだ。五番街(Avenue)、伯父の家近くで乗せ、百八番街とブロードウェイの交差点に一時十五分ごろ到着。運転手が気づいたのは運賃を渡されたときだった。男の右手の小指は不自然に曲がっていた。

「じゃあきっと伯父ね。それで決まり」

「あのねえベス。ごめん、口が滑って(Excuse me, that's just an expression.)」

「よして。伯父はそこにいた。間違いなくそこにいたの」

「そんなふうに見えるな。だが何の証明にもならない。微塵もね。ぼくが間違ってなければ、伯父さんが模範的市民よろしくベッドに入らなかったという証拠はない。そりゃあ塵も積もればどでかい山になることだってある。古典的な話だよ。男の子が口にジャムをつけて食料品庫から出て来て、壜からはジャムが消えていた……。一目瞭然に見えるね。その子を知ってるならなおのこと、だ」そこで押し黙り、考え込んでいるように見えた。

「絶対そうに決まって……」

「いや、絶対じゃない。それを言いたいんだ。たとえば運転手が右手と左手を間違えたのかもしれない。でなけりゃ指が曲がっているどっかの別人だという可能性もある。そもそも現場に行ったとしてもだ。必ずしも誰かを撃つ必要はないだろう。想像の翼を休めるなかれ――マクダフがいつも言ってることだ――たとえ怖くとも」

「マクダフって誰?」

「友だちさ。それよりジャム事件の場合には、その子と知り合いであるのが条件なわけだ」

「あなたは……伯父を知ってるの?」

「ああ、話は聞いてる。きみはどう思う?」

「難しいわね。伯父のことは何にも知らない。昨日、初めて会ったんだもの。知っていることと言ったら全然……つまりお客さんを家に招くときのマナーが全然……」

「奥さんは今回のことを何て言ってる?」

「そんな話はしなかった。だいたいわたし、伯母のことも知らないの。でも好きよ。素敵な人」

「ライナ・マクレディだね?」

「マクレディ?」

「自分の家族のことも知らないのか? いったいどこにいたんだ、ベッシー……ギボン、さん」

「なんでさんづけするの? メモのリストみたいじゃない」

「ベッシーでやめたら、ぼくを放り出すだろう?」

「もうしない」

 彼は大きく息を吸った。「先を続けて」そう言ってこちらをじっと見つめていた。

「わたし、ベイカーズ・ブリッジから来たの。父はメソジストの牧師だった」こうしてわたしはすべてを話した。

「身の上はわかった。婚約はしてないのかい?」

「してない。あなたの方は?」

「ぼくもしてないよ」

「違う。伯父の話よ」

「ああ、そうか。ぶっちゃけた話、仕事の方じゃかなり乱暴な御仁だと思われてるね」

「どんな仕事をしているかすら知らないの」

「今は劇場をいくつか持ってる。昔はいろんなものを宣伝販売してた。儲けたと思ったら一転して大損、伯父さん以外はみんな破産した。マクレディ氏と何らかの取引をした。そうしてライナを手に入れたんだ」

「嘘でしょ!」

「まあ、そういう話さ。マクレディは困っていた。カスカートが肩代わりして、見返りに娘を手に入れた」

「ほんとのことなの?」

「伯父さんはライナを手に入れた。話には何一つ手を加えちゃいないよ。いやそういう噂なんだ。マクレディは監獄入りでもおかしくなかった。そうはならずに老人ホームに入り、ライナは……ここさ」

「ライナのお父さんは施設にいるってこと! 救貧院に!」

「彼は満足してるよ。監獄よりは気に入ってるさ。ライナは若くてきれいだって話だな」

「素敵なひとだわ(beautiful)。それに優しくて/可愛いし(sweet)。信じられない。嘘よ。ライナが……」

「どうすることもできなかったんだと思うよ【きっとほかにどうしようもなかったんだよ】。きっと今もまだマクレディを監獄行きにできるだろうね。君の伯父さんは切り札を捨てるような男じゃない。そんなわけで、父親を守るためライナは伯父さんと結婚したんだ。メロドラマみたいにね。豪華な籠のなかの鳥ってやつだ」彼は部屋を見回した。「なるほど豪華だ。なるほど籠だね」

「どうすればいい? もう時間がないじゃない。その刑事(探偵)はここに来るんでしょう。隠れた方がいい? 赤い駒のことは……ううん、すべて伝えた方がいいの?」

「伝えちゃだめだ」ジョーンズ氏はきっぱりと言った。「そんなことはさせない」

「でもどうしようもないかもしれないじゃない? 気づいているかも?」

「警察に話をしてしまったあとでも、この家で暮らしていくなんてぞっとするな」

「そうね」わたしはささやいた。「わたしだってそう思うわ」

「どっちにしたってきみがここで暮らすなんて考えたくもない」彼は言った。「ぼくと結婚しないか?」

「ありえない。くっだらない! なんで……?」

 わたしは顔を背けたけど、手遅れだった。今度もまた見通されてる。彼のことをとびきり、いやになるくらい好きなことは気づかれてる。何か言われるかと耳をそばだてたのに、何も言われなかった。しばらく無言のままだった。

「ガーネットをどうするか考えよう」やがて彼はぼそりと言った。「そうじゃないか?」

「そうね」わたしは感謝しながら顔を元に戻した。「手伝って」

 彼は目をぱちぱちさせた。「よしきた!」と言って極めて事務的に話を始めた。ただし何が何でも両手でわたしの手を包んだまま。好きになってしまったのがわかる。彼の両手は温かく乾いていて力強かったのだ。まるで両親といるみたいだった。もう長いこと感じたことのなかった気持。

「ガーネットに会ったら嘘をつけばいい。嘘をつくコツは真実を話すことなんだ。真実といっても真実すべてじゃない。とりあえずミラーがここに来てしゃべったことは忘れてしまえ。もちろんここには来た。きみとしゃべった。でも内容はただの世間話だ。昨晩ベッドから抜け出して戸口で聞いたことも忘れること。力を抜いて。質問にはなるべく『はい』か『いいえ』で答えること。法廷ではそうやっているし、誤解させたいのなら一番だ。何か言わなくちゃならなくても心配いらない。ぼくがここにいてフォローする。話がおかしな方向へ行き始めたら割って入るから、知られることはないよ。全部まかせとけよ。それはともかく、ぼくらは昔なじみなわけだ。ベイカーズ・ブリッジで顔見知りだった。そうしとけばホールで執事に聞かれた挨拶とも食い違わないし、ぼくがここにいる理由にもなる。J・Jと呼んでくれるかな。みんなそう呼んでる」

「ねえよくわかんない」

「きみは田舎から来た女の子だ。昨夜ここに来た。ウィンベリーを見た。会った。帰ったのは知っている。ベッドに入った。朝起きて、死んだのを知った。これがきみの知っていること。知っているのはそれだけだ。質問は一言もしちゃいけない。田舎から来た女の子なんだ。天真爛漫なね」

「ええ、わかった」

「この大都会でこれから一人でどうするつもりなんだい?」まったく同じ気楽な口調だった。

「まだわからない。たぶん学校に通って何か習うつもり。デザインがいいかな。ほら洋服の生地とか壁紙の。ライナが――」

 玄関のベルが鳴った。エファンズがやって来るのが聞こえた。

「続けて」J・Jが言った。

「ライナがね、学校で勉強したければそうしてもいいんだって。デザインの学校もあると思うの」

「山ほどあるよ。デザインが好きだと思ったわけは?」

「え。だっていろんなデザインを夢中で描いてたもの。ママがいっつもゴミ箱いっぱいに捨てなきゃならなかったくらい。でも無意味ね」

「きっと才能があったんだな」

「そんなこと信じちゃいないわ。ただ好きなだけ。楽しいの。チャンスかもしれないじゃない。生計を立てる手だてを習いながら、しかも楽しめるなんて――」

「恐れ入りますが」エファンズが言った。「エリザベスさま。ガーネットさまがお話しになりたいといらっしゃっております」

「わたしと?」

「おめでとう」J・Jがそっとつぶやいた。

「さようでございます。警察の方です。思いますに用件は……」日焼けして恰幅のよい男が戸口に立っていた。

「すみませんがね。そちらがチャールズ・カスカートの姪っ子さんで?」

「はい、わたしです」

「やあガーネット」J・Jが言った。「またなんでここに?」

「そういうお前こそなんでこんなところに?」ガーネットはもう一人の男と一緒だった。まるでコピー。突っ立ったままこちらをじっと見つめていた。通信講座の説明書きを読んでいるみたいに。

「ベッシー、こちらの嫌味なお方がガーネット刑事だ。向こうにいるのがハル刑事。ギボンさんとは高校のころ知り合ったんだ。ほら、ツテがあるからね」

「ほう?(Yeah?)」それからガーネットはやや改まってわたしに話しかけた。「いくつかお聞きしたいのですがね、なにしろ家にいるのはあたな一人のようなので。ハドソン・ウィンベリーという男が昨晩ここにいたのは間違いありませんな?」

「はい」

「ほかにはどなたが?」

「ギャスケルさん、マクソンさん、伯父さん、もちろんわたしも。それからああそう、ミラーさん」

「伯母さんは?」

「いませんでした」

「外出中だった?」

「はい」

「遅れて加わったわけですな?」

「はい」

「なるほど(I see)。おつきあい(Social evening社交の集まり)というやつですか?」

「はい」

「ギボンさんは昨日の夜にニュー・ヨークに着いたばかりなんだ」J・Jが口を挟んだ。「地方からね」

「ほほう?(That's so?)」

「ベイカーズ・ブリッジという町だよ。いいところだ。小さな町だけどね」J・Jが微笑んだので、わたしも笑みを返した。

「カスカート氏のご兄弟の娘さんというわけですか?」

「えっ? ええ、そうです、母が……そうでした」

「なるほど。では教えていただけますかな。ウィンベリーは何時ごろ帰りました?」

「十二時半くらいです」わたしは即座に答えた。不意に不安になってJ・Jを見た。

「間違いないよ」J・Jは安心させるように頷いた。つまり、わたしたちがそのことを話し合っていたとでも思わせるみたいに。口をついたのはそのせいだってことになる。

「帰るときには無事だったわけですな?」

 驚きと好奇心がJ・Jの顔をかすめ、それに合わせてわたしの顔色も変わるのがわかった。「どういうことですか?」

「何も変わったことは起こらなかったわけですな?」

「はい」

「帰ったのはほかの方々と一緒だった?」

「はい」

「その後ご家族は何を?」

「寝室に下がりました」

「亡くなったのをいつ知りました?」

「女中が教えてくれました」

「今朝ですな?」

「はい」

「伯母さんと伯父さんはいつごろ戻られますかな?」

「伯母はお茶の時間には戻ってくるはずです」

「よろしい(O.K.)。お手数をおかけしました(thanks)」刑事たちは帰る支度を始めた。ガーネットが帰ってくれれば、わたしの顔にも安堵が浮かんだはずだった。ところがJ・Jが声をかけた。

「ところでさ……」

 だがガーネットは「うるさいぞ」と答えた。それでもJ・Jは玄関までついて行き、いくつも質問をぶつけていた。もうちょっといてほしいと言わんばかりに。その結果もちろんのこと、刑事たちはとっとと退散した。

「すごいじゃないか」刑事が立ち去ると戻ってきてそう言った。「つこうと思えば誰よりもうまく嘘をつけるんだな」

「大丈夫だった?」

「すごかったよ。ほれぼれした。一度だけ返事に力が入りかけたけれどね」

「やっぱり(I know)。でもフォローしてくれたから。たくさんフォローしてもらったもの。一人じゃできっこなかったわ」

「そんなのたいしたことじゃない。どんなときでも……」わたしたちは同時に笑い出した。そして突然、同時に笑い止んだ。まったく同時に笑いのつぼを押されるなんて、話がうますぎて嘘みたいだった。

「同じように気をつけるんだ」真剣な口調だった。

「わかってる(I know)」

「伯父さんのそばでは田舎っ娘を演じるんだぜ」

「ええ、そうする。わかってる」

「巻き込みたくないんだ。だからガーネットには何も教えなかった。どっちみちよそから情報を手に入れるだろうし。だろう?」

「わからないわ」

「ぼくはこれからマクダフに話を聞きに行く。かまわないね? 自分一人でアドバイスを続ける自信がないんだ。マクダフの助言をあおぎたい」

「誰なの?」

「きっと気に入るよ。マクドゥガル・ダフ。いいだろ?」

「そんなこと言ったってマクドゥガル・ダフなんてひと知らないもの。どういう人なの?」

「頭がいいんだ。会えばわかるよ。教授だったころに、ぼくはアメリカ史を教わっていた。面白かったな! まったく! その後キンザー事件を解決して、一万ドルの報酬を受け取った。それからジョニー・パーマーの嫌疑を晴らした。パーマーは常識はずれに金を持っていたけれど、ダフの申し出を受け入れる程度の常識はあった」

「申し出って?」

「ああ、ダフはパーマーに会いに行って、その大金のためにすべて解き明かしたんだって言ってた。引退したかったんだ。大学生に日付や出来事を叩き込むのにうんざりしちゃったんだとか」

「ふうん。でもすべて解き明かすってどうやって?」

「新聞を読んだんだ。で、わかったらしい(?he'd read the newspapers, and he figured he knew.)。そこで二年間生活できるだけのお金を無心した。ところが困ったことに、半年後くらいに家を買いたくなったから、ブラッドベリ事件を解決した。グラディスを牢屋行きから救いだし、ブラッドベリ老人から十五万ドル手に入れたってわけさ」

「わたしは五十ドル持っているけれど、それじゃ足りないみたいね」

「ぼくは週末まで二十九ドル九十三セントさ。いいんだよ、マクダフはときどき壁を打ち破ってみたくなるんだ」

「その人はどんな厚い壁でもお見通しなのね?」

「比喩的に言えばそういうことさ。マクダフに話してみたいんだ、ベッシー、いいだろ?」

「わかった」

「よし。でもいいかい、間違ってもシェイクスピアから引用なんてしないでくれよ」

「どういうこと?」

「自分に向かって『さあこい、マクダフ』【『マクベス』より】なんて言う人のことをマックは憐れんでるのさ。賢い人間なら心のなかでそう思ったとしても、使い古しだってことにも思い当たって、口に出すのをはばかるはずなんだとさ。ところが馬鹿な人間ほど、おのれの知識をひけらかしたがる――と、マクダフがいつも言ってる」

「何も言わない」と約束した。

「きみなら間違いない。ほんとさ。だからマクダフもきみを気に入ってくれるはずだ。ったく、気に入らないはずないじゃないか。もう口は閉じて、とっとと乗り込んで呼んでくるよ。あとで連絡する」J・Jは帽子を叩きつけコートの襟を立てた。「必ず連絡するよ。じゃあまた」彼がこちらを見た。立ち去ってほしくなかった。「じゃあまた、眼鏡っ娘殿」J・Jは優しく挨拶したあとで、ずいぶんと古風なやり方でわたしの手を揺り動かすと、出ていった。

 --------------

 先週は忙しかったのであまり翻訳ができませんでしたが、それを考慮すればほぼ一週間に一章のペースで翻訳も順調に進んでいます。いよいよもう少しでマク・ダフが登場します。乞うご期待。あ、ちなみに全部で十九章あります。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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