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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』011-2 アレクサンドル・デュマ

 若く逞しく、溢れんばかりの打たれ強い生命力には、あの忘れるという能力が備わっており、忘れたいと願いさえすればどんな人間にも効き目がある。ニコルは眠りに就くまでの間、ささやかな復讐計画を練っていたが、そこには十七歳の小さな心に巣食った悪意が詰まっていた。

 だいたい、むしろタヴェルネ嬢の方こそジルベールよりも罪が重いのではないか。お高くとまって、偏見に凝り固まり、自惚れで膨れ上がった小娘ときたら、ナンシーの修道院では王女には三人称を、公爵夫人には敬称を、侯爵夫人にはタメ口を、それ以下には口も聞かぬ。見た目は彫像のように冷たいくせして、大理石を一皮むけば随分と気まぐれらしい。ジルベールと同じく田舎芝居の操り人形だとすれば、滑稽でさもしい限りだ。

 事実ニコルなら女らしいセンスを発揮してそう言うに違いないし、頭脳だけはジルベールに劣っているが、ほかの面では勝っていると感じていたのも事実である。五、六年にわたる読書のおかげで上回っていた智性という後光なくしては、落ちぶれた男爵の小間使いといえど、農夫に身を任せることなど堕落もいいところであった。

 だとすると、ジルベールに身を任せたのが本当だとしたら、お嬢様はいったいどうするつもりなのだろうか?

 考えてみると、見たというより見たと思っているものを男爵に告げるのは、大きな間違いだろう。第一に、男爵の性格からして、笑いながらジルベールに平手打ちを喰らわした後で追っ払うことになる。第二に、ジルベールの性格からして、さもしく卑劣な復讐を思いつくことだろう。

 だがアンドレのことでジルベールを苦しめ、二人を手の内にして、小間使いが見つめるたびに二人の顔色を変えることが出来れば、アンドレを苛立たせ、うわべだけはお堅い手に口づけしたことをジルベールには後悔させられる。こうして、空想も満たされ自尊心も暖められた。見たところ一分の隙もない。こうして、ニコルは考えるのをやめた。それから、眠りに就いた。

 夜が明けてから目が覚めてみると、清々しく軽やかで気分がいい。いつもどおりの時間、とはつまり一時間かけて身だしなみを整えた。何しろ長い髪を梳かすだけでも、下手にやったり念入りにしたりすれば二倍の時間がかかるはずだ。先ほど述べた錫張りの天窓を鏡代わりに、瞳を覗き込んだ。今まで以上に魅力的ではないだろうか。続いて口元を確認した。口唇は色合いといい丸みといいさくらんぼのようだし、影を落とした鼻筋はすっきりとして軽く上を向いている。太陽の口づけを決して許さずにおいた首筋は、百合のように白かったし、これだけ豊かな胸、これだけくびれた胴などお目にかかれまい。

 これだけ綺麗なら、アンドレに嫉妬させることだって容易いだろう。見た目ほどには、根っからの性悪というわけではない。わがままや気まぐれで振る舞っているわけではなく、タヴェルネ嬢がジルベールを愛しているのではと考えるあまりなのだ。

 こうして肉体的にも精神的にも武装を整え、ニコルはアンドレの部屋の扉を開けた。主人は七時にはまだ寝ているが、許可は与えられている。

 と、部屋に入りかけて立ち止まった。

 アンドレは透き通るように青白かった。額に浮かぶ汗には髪がまとわりつき、寝台に横たわったまま息も絶え絶えに、寝苦しいのか時折り辛そうに身をよじっていた。

 しわくちゃに丸まった夜具からは肌が露出し、寝乱れの激しさを物語っていた。片頬を腕に預け、手で胸をまだらになるまで締めつけている。

 息も切れ切れに苦しげな喘ぎを洩らし、或いは聞き取れぬ呻きを発した。

 ニコルは黙ってしばらく考え、首を横に振った。認めざるを得ない。アンドレの美しさには太刀打ちできようはずもなかった。

 窓に向かい、鎧戸を開けた。

 溢れる光がすぐに部屋中に満ち、アンドレの色づいた瞼を震わせた。

 目を覚まし起きあがろうとして、ひどく疲れていることに気づくと同時に激しい痛みに襲われて、悲鳴をあげて枕に倒れた。

「お嬢様! どうなさいました?」

「もう遅いのかしら?」と目を擦ってたずねた。

「はい、いつもより一時間は遅うございます」

「どうしたのかしらね」アンドレはそう言って、自分が何処にいるのか確かめようと辺りを見回した。「何だか身体が痛いわ。胸が苦しい」

 ニコルはじっと見つめてから、答えた。

「風邪ですよ。昨夜お引きになったのでしょう」

「昨夜? ちょっと!」しわくちゃの服を見て、驚いて声をあげた。「どうして服を脱いでないの? 何故こんなことを?」

「覚えておいででしょう?」

「何にも覚えてなどないわ」アンドレは頭を抱えた。「何が起こったのかしら? 頭がどうかしてしまったの?」

 身体を起こすと困惑顔で再び辺りを見回した。

 何とか気持を奮い立たせる。

「そうね。覚えています。昨日は、ひどく退屈だったし、ひどく怠くて………嵐のせいね。それから……」

 ニコルは寝台を指さした。しわくちゃではあったが夜具は掛かっていた、がやはり乱れていた。

 アンドレはじっとしたまま、妙な目つきで自分を見つめていた旅人のことを考えていた。

「それから……?」先を促すようにニコルがたずねた。「覚えておいででしょう」

「それから、チェンバロに腰かけたまま眠ってしまったわ。その後のことは、何にも覚えてない。恐らくまどろみながら部屋に戻って、床に就いたときには服を脱ぐ気力もなかったのでしょう」

「お呼びくださるべきでした」と猫撫で声を出した。「あたしはお嬢様の小間使いではございませんか?」

「そんなこと思いつかなかったわ。もしかするとそんな気力すらなかったのでしょうね」アンドレは何処までも無邪気に答えた。

「この女狐!」ニコルは呟いた。

「ですがそうなると随分と遅い時刻にチェンバロの前にいらっしったことになりますよ。あたし、お嬢様がまだ部屋にお戻りにならない時分に、物音が聞こえたので階下に降りたんですから」

 ここでニコルとしては口を閉じ、アンドレが尻尾を出すなり朱に染まるなり何らかの反応を見せるだろうと見込んでいた。が、アンドレに動揺は見えず、曇りのない表情を見ていると、さては鏡のように、曇りのない魂を映しているのかと思えてくる。

「階下に降りたところ……」ニコルが繰り返した。

「降りたところ?」

「降りてみると、お嬢様はチェンバロの前にはいらっしゃいませんでした」

 アンドレが顔を上げた。が、その澄んだ瞳をいくら覗いてみたところで、そこに驚き以外の感情を見つけるのは不可能だった。

「おかしな話だこと!」

「そうでしょうか」

「応接室にいなかっただなんて。わたくしは一歩も動いてはいませんよ」

「よろしいでしょうか?」

「では何処にいたのかしら?」

「お嬢様の方がよくご存じのはずですよ」とニコルは肩をすくめてみせた。

「きっと勘違いよ」アンドレは一層優しい声を出した。「わたくしは椅子から離れませんでした。とても寒くて身体が怠く、歩くのに骨が折れたことだけは辛うじて覚えてるわ」

「あら!」吹き出してしまった。「でもあたしが見たときは普通に歩いてらっしゃいましたよ」

「見たの?」

「と思いますけど」

「だけど、応接室にはいなかったと聞いたばかりよ」

「お見かけしたのは応接室ではございません」

「では何処で?」

「玄関です。階段のそばで」

「そんなところに?」

「お嬢様ご本人でした。お嬢様のことならよく存じておりますから」と言い条、無心を装った笑顔を見せた。

「でも間違いなく、応接室からは一歩も動いていないわ」アンドレは無邪気にも記憶を探ってそう答えた。

「こちらも間違いなく、お嬢様は玄関においででした。もちろん――」一層注意深く言葉を続けた。「お庭を散歩がてらお戻りになったのでしょう。嵐の後で、いい夜でしたでしょうから。夜の散歩っていいですものね。空気はひんやりとしているし、花はずっと香しいし。そうじゃありません?」

「でもわたくしが夜中の散歩を避けているのは知っているでしょう」アンドレは微笑んだ。「とっても臆病なんですから!」

「散歩は二人でも出来ますよ。二人なら怖くないでしょう」

「では誰と散歩したらいいかしら?」小間使いの質問の一つ一つが訊問なのだということに、気づいた素振りもない。

 さらに問いただすべきかどうか、ニコルにはわからなかった。アンドレの落ち着きぶりを見ていると、嘘をついているようにも思えたし、怖くなっても来た。

 どうやら話題を変えた方がいい。

「苦しいと仰いましたよね?」

「ええ、ひどく苦しいの。怠くて力が入らない、何も原因はないのに。昨夜はいつもしていることしかしなかったのに。もしかしたら病気に掛かったのじゃないかしら!」

「あらお嬢様、誰だってときには悲しくなるものですよ!」

「それが?」

「悲しいときって身体から力が抜けてしまうでしょう。ようく知ってますから」

「あら、何が悲しかったの、ニコル?」

 この何気ない屈辱的な一言を耳にして、ニコルはついに切り札に手を付けた。

「当たり前じゃないですか」と目を伏せた。「悲しいに決まってるでしょ」

 アンドレは何事もなく寝台を降りて、服を脱いで着替え始めた。

「聞かせてちょうだい」

「実はここに来たのもそれを伝えるためなんです……」と言い淀んだ。

「何の話? どうしたの? ずいぶん落ち着きがないみたいよ!」

「落ち着きなく見えるのは、お嬢様がお疲れのように見えるのと同じ理由です。あたしたち、きっと二人とも苦しんでるです」

 この「私たち」が気にくわなかったらしく、アンドレは額に皺を寄せて、こう声をあげた。

「ああ!」

 だがニコルはその声にさして驚いた様子もない。その声の抑揚を聞いて、一つ考えてみるべきだったのだが。

「お許しいただきましたので、お話しいたします」

「お願い」

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『ジョゼフ・バルサモ』011-1

第十一章 主人と小間使い

 部屋に戻ったニコルが落ち着いていたのは、何も見せかけではない。持てる手管をすべて披露し、確かな手の内をすべて曝したところで、際どいところまで悪ぶって見せるはったりの数などたかが知れている。あるのは歪んで生まれた想像力と、悪書で身についた不道徳心であった。この心根と想像力が二つながらに燃える思いに火をつけたが、決して心の晴れていたわけではない。強い自惚れも時には涙を止められようが、力ずくで押しやった涙も心に舞い戻り、溶けた鉛のように蝕んだ。

 顔に現れたのはただ一つ、ニコルにとってはひどく切実なものであった。即ち、満面の冷笑をもって、ジルベールの罵倒に答えたのだ。その笑みを見れば心の傷の深さが窺い知れよう! 確かにニコルは無徳、無主義の娘である。だが敗北から学んだことも幾つかあった。身を委ねることとはつまり、すべて委ねた贈り物を捧げることなのだと信じていた。冷淡、傲岸なジルベールを見て目が覚めた。たった今、過ちの報いを荒々しく受け、罰として激しい苦痛を感じたばかりなのだ。だがその身に鞭打ち立ち上がり、心に誓った。倍返しとは言わぬ、せめて受けた苦痛のわずかなりとも、この借りは返してくれよう。

『ジョゼフ・バルサモ』第10章-2

 と、梯子をつかんで慎重に引きずってゆくと、別棟の壁に立てかけ、ニコルの部屋の窓に架けたのである。

「こういうものよ。梯子はお嬢様の部屋に上るつもりで用意したんでしょうけど、ニコル・ルゲの部屋に乗り込むのにだって役立つんだから。ざまあ見ろだわ」

 ニコルはひどく調子に乗っていた。だからこそこうして勝利に飛びついた。良きにつけ悪きにつけ頂点に立っていれば話は別だが、蓋し女とは、勝利宣言は早い者勝ちだと思うているのである。

 ジルベールは窮地に追い込まれていた。だからこそ、ニコルの後を追いながら、来たるべき一騎打ちに備えて持てる力を蓄えていた。

 とまれ慎重な男のこととて、二つの点を確認していた。

 一つ、窓を外を通り過ぎざま、タヴェルネ嬢が今なお応接室にいることを確かめた。

 二つ、ニコルの部屋に入り際、首の骨を折ることなく梯子の一段目に手を伸ばしそのまま地面まで滑り降りられることを確かめた。

 ニコルの部屋はほかの部屋同様に至って質素であった。

 そこは屋根裏部屋で、緑を基調としたくすんだ壁紙に覆われていた。革を張っただけの寝台と天窓近くの大きなゼラニウムが部屋を飾っている。加えて、アンドレにもらった大きな板紙の箱が、箪笥と卓子を兼ねている。

 ニコルは寝台の端に、ジルベールは板紙の角に腰を下ろした。

 部屋まで上るうちにニコルの頭は冷えていた。落ち着いているのが自分でもわかる。翻ってジルベールは先刻の動揺が今も収まらず、冷静であるとはとんと言えぬが、沸々と湧き出る怒りを、部屋に入る頃には気力で何とか静めていたようだ。

 静寂の中、ニコルはジルベールに焼けつくような眼差しを注いでいた。

「つまり、お嬢様を愛してるんでしょ。で、あたしは捨てられた?」

「お嬢様を愛してるなんて一言も言ってないじゃないか」

「何それ? 逢い引きしといて」

「お嬢様と逢うだなんて言ってない」

「ほかに別棟の誰に用があるっていうの? 魔法使い?」

「駄目かい? 僕に夢があるのは知っているだろう」

「その願望を教えてよ」

「その言葉は良い意味にも悪い意味にも取れる」

「ものや言葉について議論する気はないの。もうあたしのこと愛してないんでしょ?」

「そんなことない、今も好きだよ」

「じゃあどうして避けるの?」

「だって会うたび怒っているから」

「あのね。怒っているのは会おうとしてくれないからなの」

「人づきあいが苦手だし独りが好きなんだ」

「だよね。独りになりたいときって梯子がいるもんね……ごめんなさいそんなの聞いたことない」

 この単純な指摘には手も足も出なかった。

「ねえほら、頼むからはっきり言くれる? もうあたしを愛してないの、それとも二人とも愛してるの?」

「そんな……もしそうだったら?」

「人でなしって呼んでやるわ」

「そうじゃない、過ちと呼ぶんだよ」

「あなたにとって?」

「僕らの社会にとって。みんな七、八人の妻を持っている国があるよね」

「異教徒でしょ」その声には苛立ちが現れていた。

「哲学者だよ」とジルベールの答えは麗々しい。

「出たわね哲学者! あたしがおんなじことをしたり愛人を持ったりすれば嬉しいわけ?」

「無理強いしたりわがまま言おうと思ったことはないし、気持を縛りつけようなんて気は……自由のなかでも大事なのは自由意思だもの……ほかに好きな人はいないの? 無理に引き留めるなんて出来ないよ、そんなの不自然だ」

「何よそれ! もう愛してないって自分でもわかってるくせに!」

 議論はジルベールの得意とするところ、お世辞にも論理的とは言えぬが理屈では計れぬ頭の使い方をする。即ち、わずかしか知らずとも、ニコルより知らぬことはない……ニコルが読み取るのは興味のあることに留まる。ジルベールが読み取るのは興味のあることに加え、役に立つことであった。

 というわけで、諍いをしながらも、ジルベールは落ち着きを取り戻しつつあったが、ニコルはかっかしていた。

「記憶力はいい方、哲学者さん?」と薄笑い。

「場合によるけど」

「じゃあ覚えてる? 五か月前、お嬢様とアノンシアードから戻った時に言ってくれたこと」

「いや。何だっけ」

「こう言ったの。『僕にはお金がない』。崩れた古城の屋根の下、二人して『Tanzai』を読んだ日よ」

「うん、続けて」

「あの日、随分と震えてたじゃない」

「そうだったかも。生まれつき臆病なんだ。直そうとしなかったわけじゃないよ――ほかの欠点も」

「だったら――」とニコルは笑って、「その欠点がみんな直れば、完全無欠ってわけね」

「せめて強い人間にはなれるさ。智性こそ力なんだ」

「それは何の受け売り?」

「関係ない。屋根の下で何て言ったかって話だったじゃないか」

 どうにも分が悪いことにニコルも気が付き始めた。

「ああ、そうね。『僕にはお金がない、ニコル、誰も愛してくれないだろうけど、ここにあるべきものはある』、そう言って胸を叩いたの」

「そんなはずない。そう言って叩くなら、胸ではなく頭でなくちゃおかしいよ。心臓は手足に血を送るためのポンプでしかないんだから。哲学事典の心臓の項を読んでご覧よ」

 と言って誇らしげに胸を反らした。バルサモの前では畏縮し、ニコルの前では堂々としていた。

「わかったわ。確かに叩いたのは頭だったんでしょ。で、頭を叩いてこう言ったの。『僕は飼い犬のように扱われてる。それならマオンの方がまだしも幸せだよ』。誰も愛さないなんて馬鹿ね、あたしたち兄妹だったら愛情で結ばれるのに。そう答えたのは、頭じゃなくて心だった。でもきっと勘違いなんでしょ。哲学事典なんて読んだことないから」

「心なはずはないよ」

「あたしを腕に抱いて、『ニコルはみなしご。僕も。僕もみなしごだ。二人とも貧しくて二人とも惨め、兄妹以上の絆だよ。本当の兄妹みたいに愛し合おう。もっとも本当の兄妹だったら、こんなふうに愛し合うのは許されないことだけど』、そう言ってキスしたの」

「かもしれない」

「思ってもいないことを口にしていたの?」

「それは……。口にした瞬間は、口にした通りに思ってたんだ」

「じゃあ今は……?」

「今は、あれから五か月経った。知らないことも学んだ。まだわからないことも見えて来た。今は、そんなふうに思ってはいない」

「つまり嘘をついたの? ペテン師! 偽善者!」思わず我を忘れてニコルは叫んだ。

「旅人と同じだよ。谷底で景色についてたずねる。遮るもののない山のてっぺんで同じ質問をしてご覧よ。僕にも前より開けた景色が見えたんだ」

「結婚するつもりはないってこと?」

「結婚しようなんて言わなかったよ」とジルベールは切り捨てた。

「何よ! 何なのよ!」苛立ちが爆発した。「ニコル・ルゲとセバスチャン・ジルベールの何処が違うっていうの」

「人間はみんな同じで、違いなんてないよ。でもね、もともとの素質やその後の学習によって、いろんな実力や才能が身につくんだ。少しでも能力が伸びるにつれて、一人一人の差は開いていく」

「あたしより成長したから、あたしから離れてくって言いたいの?」

「そうだよ。理解はしてなくても、もうわかってるんだよね」

「ええそうね! わかってますとも」

「ほんとう?」

「あなたが不実な人だってことをね」

「そうなのかもしれない。人は欠点を持って生まれてくるけど、意思の力でそれを正すものなんだ。ルソーだってそうだよ、生まれた時は欠点があった。でもそれを正したんだ。僕もルソーのようになる」

「嘘でしょ! どうしてこんな人を愛してたんだろう?」

「愛してなんかなってなかったんだよ」ジルベールの答えは冷たかった。「僕といるのが楽しかっただけ。ずっとナンシーにいたんだもの、会う人といえば笑える神学生と怖い軍人だけだったんだろう? 僕らは若くて、無智で、刹那的だった。自然の囁く声に抗えなかった。望みさえすれば血管の中で燃え上がるものがあったし、不安を抑えようと本の中を探せば、君をいっそう不安にさせた。二人で本を読みながら、覚えてるよねニコル、君が折れたわけじゃない。僕は誘わなかったし、君は拒まなかった。人に知られぬ秘密の言葉を見つけただけだったんだ。ひと月かふた月の間は、言葉は確かに存在してた。幸せだったなあ! あの頃は、退屈なんかこれっぽっちもなく充実していたっけ。持ちつ持たれつで二た月幸せだったからって、持ちつ持たれつで永遠に不幸せでいろっていうの? いいかい、ニコル。幸せを取引にそんな約束をするなんて、自由意思の放棄だもの、そんなの馬鹿げてるよ」

「こんな仕打ちをするのが哲学者なの?」

「たぶんね」

「じゃあ哲学者には侵すべからざるものなんてないんだ?」

「だとしても、それには理由があるんだ」

「そういうことなら貞節を守っていたかった……」

「うん、でももう遅すぎるよ」

 ニコルは青くなったり赤くなったり、さながら水車が血の一滴ごとに体内を巡回させているようであった。

「あなたには貞淑だったのに。今も貞節なままだよって慰めてくれたでしょ、心が決めたことに誠実ならそれでいいって言ったじゃない。覚えてないの? あの結婚についての説明を」

「僕は結束って言ったんだ。結婚する気はないからね」

「結婚しないの?」

「うん。科学者や哲学者でいたいから。科学者は精神の孤独を律し、哲学者は肉体の孤独を律するんだ」

「ジルベールさん、あんた惨めよ。あたしの方が人間として何倍も上じゃない」

「もういいだろう」ジルベールが立ち上がった。「非難する時間も、それを聞く時間もないよ。君は恋に恋してただけだよね。ね、そうだろ?」

「かもね」

「とうとう言ったね! 僕には不幸に引きずり込まれる謂われなんかない。君はしたいことをしただけ、そういうことだからね」

「糞ったれ。それで誤魔化したつもり? 強がってるふりをして!」

「強がってるのは君じゃないか。何が出来る? 嫉妬でおかしくなってるんだよ」

「嫉妬! あたしが?」ニコルは瘧《おこり》の憑いたような笑いを立てた。「勘違いしないでよ。いったい何に嫉妬するっての? そういうのはあたしよりご立派な何処かの町娘の話でしょ。あたしにお嬢様のような白い手があったら――働かなくて住む日が来たらいずれそうなるでしょうけど――そしたらお嬢様くらいにはなれると思わない? この髪を見てよ(と言ってニコルは髪を解いた)、外套のように全身を覆えるんだから。痩せっぽちなんかじゃない、すっかり大人の女でしょ(と両手で身体を締めつけた)。歯は真珠みたいに綺麗だし(枕元に吊るした鏡に歯を映した)。微笑んだり、秋波を送ったりしさえすれば、相手はきっと真っ赤になる。ぞくぞく震え出す。あなたが初めての人、それは事実。でも色目を使った最初の男ってわけじゃない。いい、ジルベール?」ひくひくと浮かべる笑みが、凄んで見せる以上に恐ろしい凄みを与えていた。「可笑しい? お願いだからあたしを敵に回さないで。内容は忘れたけど、母が戒めを説いてくれたことはぼんやりと覚えてる。子供の頃に唱えてた単調な祈りの文句も。そんな細い小径だけど今はまだそこに留まっていられるの。足を踏み外したりさせないで。あたしが一旦その気になったら、ただじゃ済まないからね。困ったことになるのはあんただけじゃない、あんたのせいでほかの人にも迷惑がかかるんだ!」

「そりゃよかった。ずいぶんと立派になったじゃないか。僕も一つ学んだよ」

「何?」

「僕が結婚に同意したとしたら……」

「そしたら?」

「そしたらね。断るのは君の方だってことさ!」

 ニコルは考え込んだ。両手を握り締め、歯噛みした。

「あんたの言う通りだわ。あたしも、さっき言ってた山ってのを登り出したみたい。あたしにも開けた景色が見える。あたしだって一廉の人間になれる。科学者や哲学者の妻よりよっぽどましなものにね。梯子に戻ってよ。首を折らないでね。その方が世の中のためだと思い始めて来たけど。あなたにとってもその方がいいんじゃない」

 と言って背を向けると、ジルベールなど無視して服を脱ぎ始めた。

 ジルベールはなおもぐずぐずと躊躇っていた。怒りの情熱と嫉妬の炎に火照ったニコルは、思わず見とれるほどに美しかったのだ。だがジルベールの心は決まっていた。ニコルとは縁を切る。愛と夢を一度にぶち壊してしまえるような女なんだ。我慢しろ。

 しばらく経ち、音のしないことに気づいてニコルが振り返ると、部屋は空っぽだった。

「行ってしまった!」

 と呟いて窓に向かったが、何処も闇に包まれており、明かりは見えなかった。

「お嬢様か」

 忍び足で階段を降り、主人の扉に耳を近づけた。

「あら一人で眠ってる。また明日。お嬢様が愛しているかはどうかすぐにわかるわ!」

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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