と、梯子をつかんで慎重に引きずってゆくと、別棟の壁に立てかけ、ニコルの部屋の窓に架けたのである。
「こういうものよ。梯子はお嬢様の部屋に上るつもりで用意したんでしょうけど、ニコル・ルゲの部屋に乗り込むのにだって役立つんだから。ざまあ見ろだわ」
ニコルはひどく調子に乗っていた。だからこそこうして勝利に飛びついた。良きにつけ悪きにつけ頂点に立っていれば話は別だが、蓋し女とは、勝利宣言は早い者勝ちだと思うているのである。
ジルベールは窮地に追い込まれていた。だからこそ、ニコルの後を追いながら、来たるべき一騎打ちに備えて持てる力を蓄えていた。
とまれ慎重な男のこととて、二つの点を確認していた。
一つ、窓を外を通り過ぎざま、タヴェルネ嬢が今なお応接室にいることを確かめた。
二つ、ニコルの部屋に入り際、首の骨を折ることなく梯子の一段目に手を伸ばしそのまま地面まで滑り降りられることを確かめた。
ニコルの部屋はほかの部屋同様に至って質素であった。
そこは屋根裏部屋で、緑を基調としたくすんだ壁紙に覆われていた。革を張っただけの寝台と天窓近くの大きなゼラニウムが部屋を飾っている。加えて、アンドレにもらった大きな板紙の箱が、箪笥と卓子を兼ねている。
ニコルは寝台の端に、ジルベールは板紙の角に腰を下ろした。
部屋まで上るうちにニコルの頭は冷えていた。落ち着いているのが自分でもわかる。翻ってジルベールは先刻の動揺が今も収まらず、冷静であるとはとんと言えぬが、沸々と湧き出る怒りを、部屋に入る頃には気力で何とか静めていたようだ。
静寂の中、ニコルはジルベールに焼けつくような眼差しを注いでいた。
「つまり、お嬢様を愛してるんでしょ。で、あたしは捨てられた?」
「お嬢様を愛してるなんて一言も言ってないじゃないか」
「何それ? 逢い引きしといて」
「お嬢様と逢うだなんて言ってない」
「ほかに別棟の誰に用があるっていうの? 魔法使い?」
「駄目かい? 僕に夢があるのは知っているだろう」
「その願望を教えてよ」
「その言葉は良い意味にも悪い意味にも取れる」
「ものや言葉について議論する気はないの。もうあたしのこと愛してないんでしょ?」
「そんなことない、今も好きだよ」
「じゃあどうして避けるの?」
「だって会うたび怒っているから」
「あのね。怒っているのは会おうとしてくれないからなの」
「人づきあいが苦手だし独りが好きなんだ」
「だよね。独りになりたいときって梯子がいるもんね……ごめんなさいそんなの聞いたことない」
この単純な指摘には手も足も出なかった。
「ねえほら、頼むからはっきり言くれる? もうあたしを愛してないの、それとも二人とも愛してるの?」
「そんな……もしそうだったら?」
「人でなしって呼んでやるわ」
「そうじゃない、過ちと呼ぶんだよ」
「あなたにとって?」
「僕らの社会にとって。みんな七、八人の妻を持っている国があるよね」
「異教徒でしょ」その声には苛立ちが現れていた。
「哲学者だよ」とジルベールの答えは麗々しい。
「出たわね哲学者! あたしがおんなじことをしたり愛人を持ったりすれば嬉しいわけ?」
「無理強いしたりわがまま言おうと思ったことはないし、気持を縛りつけようなんて気は……自由のなかでも大事なのは自由意思だもの……ほかに好きな人はいないの? 無理に引き留めるなんて出来ないよ、そんなの不自然だ」
「何よそれ! もう愛してないって自分でもわかってるくせに!」
議論はジルベールの得意とするところ、お世辞にも論理的とは言えぬが理屈では計れぬ頭の使い方をする。即ち、わずかしか知らずとも、ニコルより知らぬことはない……ニコルが読み取るのは興味のあることに留まる。ジルベールが読み取るのは興味のあることに加え、役に立つことであった。
というわけで、諍いをしながらも、ジルベールは落ち着きを取り戻しつつあったが、ニコルはかっかしていた。
「記憶力はいい方、哲学者さん?」と薄笑い。
「場合によるけど」
「じゃあ覚えてる? 五か月前、お嬢様とアノンシアードから戻った時に言ってくれたこと」
「いや。何だっけ」
「こう言ったの。『僕にはお金がない』。崩れた古城の屋根の下、二人して『Tanzai』を読んだ日よ」
「うん、続けて」
「あの日、随分と震えてたじゃない」
「そうだったかも。生まれつき臆病なんだ。直そうとしなかったわけじゃないよ――ほかの欠点も」
「だったら――」とニコルは笑って、「その欠点がみんな直れば、完全無欠ってわけね」
「せめて強い人間にはなれるさ。智性こそ力なんだ」
「それは何の受け売り?」
「関係ない。屋根の下で何て言ったかって話だったじゃないか」
どうにも分が悪いことにニコルも気が付き始めた。
「ああ、そうね。『僕にはお金がない、ニコル、誰も愛してくれないだろうけど、ここにあるべきものはある』、そう言って胸を叩いたの」
「そんなはずない。そう言って叩くなら、胸ではなく頭でなくちゃおかしいよ。心臓は手足に血を送るためのポンプでしかないんだから。哲学事典の心臓の項を読んでご覧よ」
と言って誇らしげに胸を反らした。バルサモの前では畏縮し、ニコルの前では堂々としていた。
「わかったわ。確かに叩いたのは頭だったんでしょ。で、頭を叩いてこう言ったの。『僕は飼い犬のように扱われてる。それならマオンの方がまだしも幸せだよ』。誰も愛さないなんて馬鹿ね、あたしたち兄妹だったら愛情で結ばれるのに。そう答えたのは、頭じゃなくて心だった。でもきっと勘違いなんでしょ。哲学事典なんて読んだことないから」
「心なはずはないよ」
「あたしを腕に抱いて、『ニコルはみなしご。僕も。僕もみなしごだ。二人とも貧しくて二人とも惨め、兄妹以上の絆だよ。本当の兄妹みたいに愛し合おう。もっとも本当の兄妹だったら、こんなふうに愛し合うのは許されないことだけど』、そう言ってキスしたの」
「かもしれない」
「思ってもいないことを口にしていたの?」
「それは……。口にした瞬間は、口にした通りに思ってたんだ」
「じゃあ今は……?」
「今は、あれから五か月経った。知らないことも学んだ。まだわからないことも見えて来た。今は、そんなふうに思ってはいない」
「つまり嘘をついたの? ペテン師! 偽善者!」思わず我を忘れてニコルは叫んだ。
「旅人と同じだよ。谷底で景色についてたずねる。遮るもののない山のてっぺんで同じ質問をしてご覧よ。僕にも前より開けた景色が見えたんだ」
「結婚するつもりはないってこと?」
「結婚しようなんて言わなかったよ」とジルベールは切り捨てた。
「何よ! 何なのよ!」苛立ちが爆発した。「ニコル・ルゲとセバスチャン・ジルベールの何処が違うっていうの」
「人間はみんな同じで、違いなんてないよ。でもね、もともとの素質やその後の学習によって、いろんな実力や才能が身につくんだ。少しでも能力が伸びるにつれて、一人一人の差は開いていく」
「あたしより成長したから、あたしから離れてくって言いたいの?」
「そうだよ。理解はしてなくても、もうわかってるんだよね」
「ええそうね! わかってますとも」
「ほんとう?」
「あなたが不実な人だってことをね」
「そうなのかもしれない。人は欠点を持って生まれてくるけど、意思の力でそれを正すものなんだ。ルソーだってそうだよ、生まれた時は欠点があった。でもそれを正したんだ。僕もルソーのようになる」
「嘘でしょ! どうしてこんな人を愛してたんだろう?」
「愛してなんかなってなかったんだよ」ジルベールの答えは冷たかった。「僕といるのが楽しかっただけ。ずっとナンシーにいたんだもの、会う人といえば笑える神学生と怖い軍人だけだったんだろう? 僕らは若くて、無智で、刹那的だった。自然の囁く声に抗えなかった。望みさえすれば血管の中で燃え上がるものがあったし、不安を抑えようと本の中を探せば、君をいっそう不安にさせた。二人で本を読みながら、覚えてるよねニコル、君が折れたわけじゃない。僕は誘わなかったし、君は拒まなかった。人に知られぬ秘密の言葉を見つけただけだったんだ。ひと月かふた月の間は、言葉は確かに存在してた。幸せだったなあ! あの頃は、退屈なんかこれっぽっちもなく充実していたっけ。持ちつ持たれつで二た月幸せだったからって、持ちつ持たれつで永遠に不幸せでいろっていうの? いいかい、ニコル。幸せを取引にそんな約束をするなんて、自由意思の放棄だもの、そんなの馬鹿げてるよ」
「こんな仕打ちをするのが哲学者なの?」
「たぶんね」
「じゃあ哲学者には侵すべからざるものなんてないんだ?」
「だとしても、それには理由があるんだ」
「そういうことなら貞節を守っていたかった……」
「うん、でももう遅すぎるよ」
ニコルは青くなったり赤くなったり、さながら水車が血の一滴ごとに体内を巡回させているようであった。
「あなたには貞淑だったのに。今も貞節なままだよって慰めてくれたでしょ、心が決めたことに誠実ならそれでいいって言ったじゃない。覚えてないの? あの結婚についての説明を」
「僕は結束って言ったんだ。結婚する気はないからね」
「結婚しないの?」
「うん。科学者や哲学者でいたいから。科学者は精神の孤独を律し、哲学者は肉体の孤独を律するんだ」
「ジルベールさん、あんた惨めよ。あたしの方が人間として何倍も上じゃない」
「もういいだろう」ジルベールが立ち上がった。「非難する時間も、それを聞く時間もないよ。君は恋に恋してただけだよね。ね、そうだろ?」
「かもね」
「とうとう言ったね! 僕には不幸に引きずり込まれる謂われなんかない。君はしたいことをしただけ、そういうことだからね」
「糞ったれ。それで誤魔化したつもり? 強がってるふりをして!」
「強がってるのは君じゃないか。何が出来る? 嫉妬でおかしくなってるんだよ」
「嫉妬! あたしが?」ニコルは瘧《おこり》の憑いたような笑いを立てた。「勘違いしないでよ。いったい何に嫉妬するっての? そういうのはあたしよりご立派な何処かの町娘の話でしょ。あたしにお嬢様のような白い手があったら――働かなくて住む日が来たらいずれそうなるでしょうけど――そしたらお嬢様くらいにはなれると思わない? この髪を見てよ(と言ってニコルは髪を解いた)、外套のように全身を覆えるんだから。痩せっぽちなんかじゃない、すっかり大人の女でしょ(と両手で身体を締めつけた)。歯は真珠みたいに綺麗だし(枕元に吊るした鏡に歯を映した)。微笑んだり、秋波を送ったりしさえすれば、相手はきっと真っ赤になる。ぞくぞく震え出す。あなたが初めての人、それは事実。でも色目を使った最初の男ってわけじゃない。いい、ジルベール?」ひくひくと浮かべる笑みが、凄んで見せる以上に恐ろしい凄みを与えていた。「可笑しい? お願いだからあたしを敵に回さないで。内容は忘れたけど、母が戒めを説いてくれたことはぼんやりと覚えてる。子供の頃に唱えてた単調な祈りの文句も。そんな細い小径だけど今はまだそこに留まっていられるの。足を踏み外したりさせないで。あたしが一旦その気になったら、ただじゃ済まないからね。困ったことになるのはあんただけじゃない、あんたのせいでほかの人にも迷惑がかかるんだ!」
「そりゃよかった。ずいぶんと立派になったじゃないか。僕も一つ学んだよ」
「何?」
「僕が結婚に同意したとしたら……」
「そしたら?」
「そしたらね。断るのは君の方だってことさ!」
ニコルは考え込んだ。両手を握り締め、歯噛みした。
「あんたの言う通りだわ。あたしも、さっき言ってた山ってのを登り出したみたい。あたしにも開けた景色が見える。あたしだって一廉の人間になれる。科学者や哲学者の妻よりよっぽどましなものにね。梯子に戻ってよ。首を折らないでね。その方が世の中のためだと思い始めて来たけど。あなたにとってもその方がいいんじゃない」
と言って背を向けると、ジルベールなど無視して服を脱ぎ始めた。
ジルベールはなおもぐずぐずと躊躇っていた。怒りの情熱と嫉妬の炎に火照ったニコルは、思わず見とれるほどに美しかったのだ。だがジルベールの心は決まっていた。ニコルとは縁を切る。愛と夢を一度にぶち壊してしまえるような女なんだ。我慢しろ。
しばらく経ち、音のしないことに気づいてニコルが振り返ると、部屋は空っぽだった。
「行ってしまった!」
と呟いて窓に向かったが、何処も闇に包まれており、明かりは見えなかった。
「お嬢様か」
忍び足で階段を降り、主人の扉に耳を近づけた。
「あら一人で眠ってる。また明日。お嬢様が愛しているかはどうかすぐにわかるわ!」