若く逞しく、溢れんばかりの打たれ強い生命力には、あの忘れるという能力が備わっており、忘れたいと願いさえすればどんな人間にも効き目がある。ニコルは眠りに就くまでの間、ささやかな復讐計画を練っていたが、そこには十七歳の小さな心に巣食った悪意が詰まっていた。
だいたい、むしろタヴェルネ嬢の方こそジルベールよりも罪が重いのではないか。お高くとまって、偏見に凝り固まり、自惚れで膨れ上がった小娘ときたら、ナンシーの修道院では王女には三人称を、公爵夫人には敬称を、侯爵夫人にはタメ口を、それ以下には口も聞かぬ。見た目は彫像のように冷たいくせして、大理石を一皮むけば随分と気まぐれらしい。ジルベールと同じく田舎芝居の操り人形だとすれば、滑稽でさもしい限りだ。
事実ニコルなら女らしいセンスを発揮してそう言うに違いないし、頭脳だけはジルベールに劣っているが、ほかの面では勝っていると感じていたのも事実である。五、六年にわたる読書のおかげで上回っていた智性という後光なくしては、落ちぶれた男爵の小間使いといえど、農夫に身を任せることなど堕落もいいところであった。
だとすると、ジルベールに身を任せたのが本当だとしたら、お嬢様はいったいどうするつもりなのだろうか?
考えてみると、見たというより見たと思っているものを男爵に告げるのは、大きな間違いだろう。第一に、男爵の性格からして、笑いながらジルベールに平手打ちを喰らわした後で追っ払うことになる。第二に、ジルベールの性格からして、さもしく卑劣な復讐を思いつくことだろう。
だがアンドレのことでジルベールを苦しめ、二人を手の内にして、小間使いが見つめるたびに二人の顔色を変えることが出来れば、アンドレを苛立たせ、うわべだけはお堅い手に口づけしたことをジルベールには後悔させられる。こうして、空想も満たされ自尊心も暖められた。見たところ一分の隙もない。こうして、ニコルは考えるのをやめた。それから、眠りに就いた。
夜が明けてから目が覚めてみると、清々しく軽やかで気分がいい。いつもどおりの時間、とはつまり一時間かけて身だしなみを整えた。何しろ長い髪を梳かすだけでも、下手にやったり念入りにしたりすれば二倍の時間がかかるはずだ。先ほど述べた錫張りの天窓を鏡代わりに、瞳を覗き込んだ。今まで以上に魅力的ではないだろうか。続いて口元を確認した。口唇は色合いといい丸みといいさくらんぼのようだし、影を落とした鼻筋はすっきりとして軽く上を向いている。太陽の口づけを決して許さずにおいた首筋は、百合のように白かったし、これだけ豊かな胸、これだけくびれた胴などお目にかかれまい。
これだけ綺麗なら、アンドレに嫉妬させることだって容易いだろう。見た目ほどには、根っからの性悪というわけではない。わがままや気まぐれで振る舞っているわけではなく、タヴェルネ嬢がジルベールを愛しているのではと考えるあまりなのだ。
こうして肉体的にも精神的にも武装を整え、ニコルはアンドレの部屋の扉を開けた。主人は七時にはまだ寝ているが、許可は与えられている。
と、部屋に入りかけて立ち止まった。
アンドレは透き通るように青白かった。額に浮かぶ汗には髪がまとわりつき、寝台に横たわったまま息も絶え絶えに、寝苦しいのか時折り辛そうに身をよじっていた。
しわくちゃに丸まった夜具からは肌が露出し、寝乱れの激しさを物語っていた。片頬を腕に預け、手で胸をまだらになるまで締めつけている。
息も切れ切れに苦しげな喘ぎを洩らし、或いは聞き取れぬ呻きを発した。
ニコルは黙ってしばらく考え、首を横に振った。認めざるを得ない。アンドレの美しさには太刀打ちできようはずもなかった。
窓に向かい、鎧戸を開けた。
溢れる光がすぐに部屋中に満ち、アンドレの色づいた瞼を震わせた。
目を覚まし起きあがろうとして、ひどく疲れていることに気づくと同時に激しい痛みに襲われて、悲鳴をあげて枕に倒れた。
「お嬢様! どうなさいました?」
「もう遅いのかしら?」と目を擦ってたずねた。
「はい、いつもより一時間は遅うございます」
「どうしたのかしらね」アンドレはそう言って、自分が何処にいるのか確かめようと辺りを見回した。「何だか身体が痛いわ。胸が苦しい」
ニコルはじっと見つめてから、答えた。
「風邪ですよ。昨夜お引きになったのでしょう」
「昨夜? ちょっと!」しわくちゃの服を見て、驚いて声をあげた。「どうして服を脱いでないの? 何故こんなことを?」
「覚えておいででしょう?」
「何にも覚えてなどないわ」アンドレは頭を抱えた。「何が起こったのかしら? 頭がどうかしてしまったの?」
身体を起こすと困惑顔で再び辺りを見回した。
何とか気持を奮い立たせる。
「そうね。覚えています。昨日は、ひどく退屈だったし、ひどく怠くて………嵐のせいね。それから……」
ニコルは寝台を指さした。しわくちゃではあったが夜具は掛かっていた、がやはり乱れていた。
アンドレはじっとしたまま、妙な目つきで自分を見つめていた旅人のことを考えていた。
「それから……?」先を促すようにニコルがたずねた。「覚えておいででしょう」
「それから、チェンバロに腰かけたまま眠ってしまったわ。その後のことは、何にも覚えてない。恐らくまどろみながら部屋に戻って、床に就いたときには服を脱ぐ気力もなかったのでしょう」
「お呼びくださるべきでした」と猫撫で声を出した。「あたしはお嬢様の小間使いではございませんか?」
「そんなこと思いつかなかったわ。もしかするとそんな気力すらなかったのでしょうね」アンドレは何処までも無邪気に答えた。
「この女狐!」ニコルは呟いた。
「ですがそうなると随分と遅い時刻にチェンバロの前にいらっしったことになりますよ。あたし、お嬢様がまだ部屋にお戻りにならない時分に、物音が聞こえたので階下に降りたんですから」
ここでニコルとしては口を閉じ、アンドレが尻尾を出すなり朱に染まるなり何らかの反応を見せるだろうと見込んでいた。が、アンドレに動揺は見えず、曇りのない表情を見ていると、さては鏡のように、曇りのない魂を映しているのかと思えてくる。
「階下に降りたところ……」ニコルが繰り返した。
「降りたところ?」
「降りてみると、お嬢様はチェンバロの前にはいらっしゃいませんでした」
アンドレが顔を上げた。が、その澄んだ瞳をいくら覗いてみたところで、そこに驚き以外の感情を見つけるのは不可能だった。
「おかしな話だこと!」
「そうでしょうか」
「応接室にいなかっただなんて。わたくしは一歩も動いてはいませんよ」
「よろしいでしょうか?」
「では何処にいたのかしら?」
「お嬢様の方がよくご存じのはずですよ」とニコルは肩をすくめてみせた。
「きっと勘違いよ」アンドレは一層優しい声を出した。「わたくしは椅子から離れませんでした。とても寒くて身体が怠く、歩くのに骨が折れたことだけは辛うじて覚えてるわ」
「あら!」吹き出してしまった。「でもあたしが見たときは普通に歩いてらっしゃいましたよ」
「見たの?」
「と思いますけど」
「だけど、応接室にはいなかったと聞いたばかりよ」
「お見かけしたのは応接室ではございません」
「では何処で?」
「玄関です。階段のそばで」
「そんなところに?」
「お嬢様ご本人でした。お嬢様のことならよく存じておりますから」と言い条、無心を装った笑顔を見せた。
「でも間違いなく、応接室からは一歩も動いていないわ」アンドレは無邪気にも記憶を探ってそう答えた。
「こちらも間違いなく、お嬢様は玄関においででした。もちろん――」一層注意深く言葉を続けた。「お庭を散歩がてらお戻りになったのでしょう。嵐の後で、いい夜でしたでしょうから。夜の散歩っていいですものね。空気はひんやりとしているし、花はずっと香しいし。そうじゃありません?」
「でもわたくしが夜中の散歩を避けているのは知っているでしょう」アンドレは微笑んだ。「とっても臆病なんですから!」
「散歩は二人でも出来ますよ。二人なら怖くないでしょう」
「では誰と散歩したらいいかしら?」小間使いの質問の一つ一つが訊問なのだということに、気づいた素振りもない。
さらに問いただすべきかどうか、ニコルにはわからなかった。アンドレの落ち着きぶりを見ていると、嘘をついているようにも思えたし、怖くなっても来た。
どうやら話題を変えた方がいい。
「苦しいと仰いましたよね?」
「ええ、ひどく苦しいの。怠くて力が入らない、何も原因はないのに。昨夜はいつもしていることしかしなかったのに。もしかしたら病気に掛かったのじゃないかしら!」
「あらお嬢様、誰だってときには悲しくなるものですよ!」
「それが?」
「悲しいときって身体から力が抜けてしまうでしょう。ようく知ってますから」
「あら、何が悲しかったの、ニコル?」
この何気ない屈辱的な一言を耳にして、ニコルはついに切り札に手を付けた。
「当たり前じゃないですか」と目を伏せた。「悲しいに決まってるでしょ」
アンドレは何事もなく寝台を降りて、服を脱いで着替え始めた。
「聞かせてちょうだい」
「実はここに来たのもそれを伝えるためなんです……」と言い淀んだ。
「何の話? どうしたの? ずいぶん落ち着きがないみたいよ!」
「落ち着きなく見えるのは、お嬢様がお疲れのように見えるのと同じ理由です。あたしたち、きっと二人とも苦しんでるです」
この「私たち」が気にくわなかったらしく、アンドレは額に皺を寄せて、こう声をあげた。
「ああ!」
だがニコルはその声にさして驚いた様子もない。その声の抑揚を聞いて、一つ考えてみるべきだったのだが。
「お許しいただきましたので、お話しいたします」
「お願い」