「何が見えますかな?」男爵はなおもからかうようにたずねた。「率直に申し上げて、もう待ちきれませんぞ。遺産はどこに? わしのささやかな財産を立て直すための、新たなメゾン=ルージュはどこですかな?」
「お告げが見えましたよ。何者かがあなたを捕まえるから、そう伝えてほしいそうです」
「何と! わしは襲われるということですかな?」
「そうじゃない。朝のうちに訪問客が来るのです」
「つまり、わしの家で待ち合わせをしていましたか。そいつはまずい。非常にまずい。お忘れですかな、もうヤマウズラはありませんぞ」
「真面目な話を申し上げているんです。それにとても重大なことだ。今朝、タヴェルネに発った者がいます」
「いったいどうした気の迷いで、どんな人間がやって来ると? 是非お聞きしたい。白状しますが――あんな歓迎を受けたならお気づきでしょうが――客など煩わしい限りでしてな。詳しく聞かせてくれませぬか。無理なら仕方ないが」
「無理どころか、幾らでも詳しい話をお聞かせしましょう。ナニたいしたことではありません。朝飯前ですよ」
バルサモはコップの中でうねる白い波に、探るように目を戻した。
「ほほう! 見えますかな?」
「曇りなく」
「だったら教えて、アンヌ姉さん、ですな【ペロー「青髭」より、青髭に捕まった若妻が兄弟の助けを待つあいだ、姉妹アンヌにたずねる場面「アンヌ、アンヌ姉さん、何か見えない?」のもじりだと思われる。】」
「いらっしゃるのは身分の高いお方ですな」
「ふうむ! まことですか! そのお方が、誰に招かれたでもなく、こんな所に?」
「ご自分の意思ですよ。案内しているのは息子さんです」
「フィリップが?」
「息子さんご自身で」
ここで男爵は腹を抱えて冷やかすように笑い出した。
「これはこれは! 伜の案内で……そのお方は伜に案内されてくると言うのですか」
「その通り」
「すると伜をご存じでしたか」
「知りませんね」
「して、伜は今……?」
「一里弱といったところでしょう!」
「ここから?」
「ええ」
「よいですかな。倅はストラスブールに駐屯しとります。脱走の汚名でもかぶっているならともかく、そうでもない限り、誰一人連れて来ることなどできんのですわ」
「ですが人を連れて来るのは間違いない」バルサモはコップに目を凝らした。
「ではその御仁は男ですかな、女ですかな?」
「ご婦人ですよ。それも極めて高貴なご婦人です。おや! ご覧なさい、ちょっと変わったことがある」
「大事なことですか?」
「ええ、そうです」
「ではお聞かせ下さらんか」
「あの女中を何処かへやっておいた方がいい。あなたの言葉を借りれば、指に角を持つあばずれですか」
「何故そんなことを?」
「ニコル・ルゲの顔には、今からやって来るお方を思わせるところがあるからです」
「貴婦人と? 貴婦人とニコルが似ていると? 辻褄が合わぬことを仰る」
「いけませんか? クレオパトラによく似た奴隷を見たこともありますよ。その娘をローマに連れて行き、オクタヴィアヌスの勝利に利用しようという話もありました」
「ほほう! またそれですかな」
「では、私の話などではなく、お望みのことをなさるといい。おわかりでしょう。これは私とは無関係で、すべてあなたと関わりのある話なんですよ」
「だがニコルに似ているからといって、その方が気分を害されますかな?」
「あなたがフランス国王だとしましょう。そうでないことを祈るばかりですがね。あるいは王太子だとしますか。こちらはさらに御免こうむりたいが。さて、ある家を訪れたところ、召使いの中にあなたのご尊顔そっくりのまがいものを見つけたら、いい気分になりますか?」
「ふむ! なるほど、これは難問ですな。仰ったのはつまり……?」
「身分も高く地位もあるご婦人が、短いスカートを着て布きれを巻きつけたご自分の顔を目にした場合、いい気分にはならぬだろうということです」
「なるほど!」男爵は相変わらず笑みを浮かべたままだった。「その時が来たら考えましょう。だが何より嬉しいのは伜のことですぞ。フィリップめ、幸運とはこのように前触れなく訪れるのですな!」
男爵の笑いが大きくなった。
「では――」バルサモの言葉は真剣だった。「予言には満足していただけましたか? それは何よりです。ですがあなたの代わりに……」
「わしの代わりに?」
「私が指示を出し、準備をした方が……」
「ほう?」
「ええ」
「ふむ、考えておきましょう」
「今お考えいただきたい」
「すると本気で仰っているのですかな?」
「これ以上に本気にはなれませんよ。何恥じることなく奇特な客人をおもてなししたいのなら、時間を無駄には出来ません」
男爵は首を横に振った。
「お疑いだ、ということですか?」
「それはそうでしょうに。済まんがあなたの相手は筋金入りの疑り屋ですぞ……」
こう言って男爵は娘の部屋の方を向き、この予言を聞かせようと声をかけた。
「アンドレ! アンドレ!」
父の呼びかけに娘が何と答え、如何にしてバルサモの眼力によって窓に釘付けにされたかは、既に述べた通りである。
やって来たニコルが驚いてラ・ブリを見ると、いろいろと合図を送って話を理解しようとしていた。
「信じろと言われてもどだい無理ですな。この目で見んことには……」
「ではお見せしなくてはなりませんな。あちらをご覧下さい」そう言って並木道の方に腕を伸ばすので、見ると向こうから騎手を乗せた馬が、足音を響かせまっしぐらに駆けてくる。
「何と! 確かにあそこに……」
「フィリップ様!」背伸びして目を凝らすニコルが声をあげた。
「若様!」ラ・ブリが喜びで声を鳴らした。
「お兄様だわ!」アンドレも窓から腕を差し出した。
「もしやあれはご子息では?」ずばりバルサモはたずねた。
「うむ、何とまあ! いや確かに伜ですわい」男爵は茫然と呟いた。
「手始めはこんなところです」
「まさか本当に魔術師なのですかな?」
旅人の口唇に勝ち誇った笑みが浮かんだ。
馬は見る見るうちに大きくなった。やがて流れる汗や、立ちのぼる蒸気、そして手前の並木を越えるのがはっきりと見え出した。走り続けているのは若い将校であった。中背で泥まみれ、駆けてきたせいで顔が上気している。ひらりと馬から飛び降りると、父をしっかと抱擁した。
「何と! いやまさか!」さしもの疑り者も気持が揺らいだらしい。「まさかこんなことが!」
老人の顔に浮かんだ疑いの名残を見て、フィリップは。「そのまさかです。ぼくですよ! 本当にぼくなんです!」
「確かにお前じゃ。いやいやそれは間違いない! だがいったいどうしたんじゃ?」
「父上、我が家が大変な名誉に預かったのです」
老人が顔を上げた。
「大変な方がタヴェルネをご訪問下さいます。一時間もしないうちに、オーストリア女大公にしてフランス王太子妃、マリ・アントワネット・ジョゼファ殿下がいらっしゃるのです」
男爵は揶揄や皮肉を表わした時のように、今度は卑下する意味で力なく腕を広げ、バルサモを振り返った。
「これは申し訳ない」
「男爵殿」とバルサモは一揖した。「ここで私は失礼しましょう。久しぶりにご子息と会いなさったのですから、積もる話もあるでしょうしね」
そうしてバルサモはアンドレに頭を下げた。兄の帰宅に喜び勇んで、急いで会いに駆け降りてきたのだ。バルサモはニコルとラ・ブリに合図をしてその場を離れたが、それは二人にも理解できたらしく、バルサモに続いて並木の下に姿を消した。