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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

「ジョゼフ・バルサモ」12-2 日中 アレクサンドル・デュマ

「何が見えますかな?」男爵はなおもからかうようにたずねた。「率直に申し上げて、もう待ちきれませんぞ。遺産はどこに? わしのささやかな財産を立て直すための、新たなメゾン=ルージュはどこですかな?」

「お告げが見えましたよ。何者かがあなたを捕まえるから、そう伝えてほしいそうです」

「何と! わしは襲われるということですかな?」

「そうじゃない。朝のうちに訪問客が来るのです」

「つまり、わしの家で待ち合わせをしていましたか。そいつはまずい。非常にまずい。お忘れですかな、もうヤマウズラはありませんぞ」

「真面目な話を申し上げているんです。それにとても重大なことだ。今朝、タヴェルネに発った者がいます」

「いったいどうした気の迷いで、どんな人間がやって来ると? 是非お聞きしたい。白状しますが――あんな歓迎を受けたならお気づきでしょうが――客など煩わしい限りでしてな。詳しく聞かせてくれませぬか。無理なら仕方ないが」

「無理どころか、幾らでも詳しい話をお聞かせしましょう。ナニたいしたことではありません。朝飯前ですよ」

 バルサモはコップの中でうねる白い波に、探るように目を戻した。

「ほほう! 見えますかな?」

「曇りなく」

「だったら教えて、アンヌ姉さん、ですな【ペロー「青髭」より、青髭に捕まった若妻が兄弟の助けを待つあいだ、姉妹アンヌにたずねる場面「アンヌ、アンヌ姉さん、何か見えない?」のもじりだと思われる。】」

「いらっしゃるのは身分の高いお方ですな」

「ふうむ! まことですか! そのお方が、誰に招かれたでもなく、こんな所に?」

「ご自分の意思ですよ。案内しているのは息子さんです」

「フィリップが?」

「息子さんご自身で」

 ここで男爵は腹を抱えて冷やかすように笑い出した。

「これはこれは! 伜の案内で……そのお方は伜に案内されてくると言うのですか」

「その通り」

「すると伜をご存じでしたか」

「知りませんね」

「して、伜は今……?」

「一里弱といったところでしょう!」

「ここから?」

「ええ」

「よいですかな。倅はストラスブールに駐屯しとります。脱走の汚名でもかぶっているならともかく、そうでもない限り、誰一人連れて来ることなどできんのですわ」

「ですが人を連れて来るのは間違いない」バルサモはコップに目を凝らした。

「ではその御仁は男ですかな、女ですかな?」

「ご婦人ですよ。それも極めて高貴なご婦人です。おや! ご覧なさい、ちょっと変わったことがある」

「大事なことですか?」

「ええ、そうです」

「ではお聞かせ下さらんか」

「あの女中を何処かへやっておいた方がいい。あなたの言葉を借りれば、指に角を持つあばずれですか」

「何故そんなことを?」

「ニコル・ルゲの顔には、今からやって来るお方を思わせるところがあるからです」

「貴婦人と? 貴婦人とニコルが似ていると? 辻褄が合わぬことを仰る」

「いけませんか? クレオパトラによく似た奴隷を見たこともありますよ。その娘をローマに連れて行き、オクタヴィアヌスの勝利に利用しようという話もありました」

「ほほう! またそれですかな」

「では、私の話などではなく、お望みのことをなさるといい。おわかりでしょう。これは私とは無関係で、すべてあなたと関わりのある話なんですよ」

「だがニコルに似ているからといって、その方が気分を害されますかな?」

「あなたがフランス国王だとしましょう。そうでないことを祈るばかりですがね。あるいは王太子だとしますか。こちらはさらに御免こうむりたいが。さて、ある家を訪れたところ、召使いの中にあなたのご尊顔そっくりのまがいものを見つけたら、いい気分になりますか?」

「ふむ! なるほど、これは難問ですな。仰ったのはつまり……?」

「身分も高く地位もあるご婦人が、短いスカートを着て布きれを巻きつけたご自分の顔を目にした場合、いい気分にはならぬだろうということです」

「なるほど!」男爵は相変わらず笑みを浮かべたままだった。「その時が来たら考えましょう。だが何より嬉しいのは伜のことですぞ。フィリップめ、幸運とはこのように前触れなく訪れるのですな!」

 男爵の笑いが大きくなった。

「では――」バルサモの言葉は真剣だった。「予言には満足していただけましたか? それは何よりです。ですがあなたの代わりに……」

「わしの代わりに?」

「私が指示を出し、準備をした方が……」

「ほう?」

「ええ」

「ふむ、考えておきましょう」

「今お考えいただきたい」

「すると本気で仰っているのですかな?」

「これ以上に本気にはなれませんよ。何恥じることなく奇特な客人をおもてなししたいのなら、時間を無駄には出来ません」

 男爵は首を横に振った。

「お疑いだ、ということですか?」

「それはそうでしょうに。済まんがあなたの相手は筋金入りの疑り屋ですぞ……」

 こう言って男爵は娘の部屋の方を向き、この予言を聞かせようと声をかけた。

「アンドレ! アンドレ!」

 父の呼びかけに娘が何と答え、如何にしてバルサモの眼力によって窓に釘付けにされたかは、既に述べた通りである。

 やって来たニコルが驚いてラ・ブリを見ると、いろいろと合図を送って話を理解しようとしていた。

「信じろと言われてもどだい無理ですな。この目で見んことには……」

「ではお見せしなくてはなりませんな。あちらをご覧下さい」そう言って並木道の方に腕を伸ばすので、見ると向こうから騎手を乗せた馬が、足音を響かせまっしぐらに駆けてくる。

「何と! 確かにあそこに……」

「フィリップ様!」背伸びして目を凝らすニコルが声をあげた。

「若様!」ラ・ブリが喜びで声を鳴らした。

「お兄様だわ!」アンドレも窓から腕を差し出した。

「もしやあれはご子息では?」ずばりバルサモはたずねた。

「うむ、何とまあ! いや確かに伜ですわい」男爵は茫然と呟いた。

「手始めはこんなところです」

「まさか本当に魔術師なのですかな?」

 旅人の口唇に勝ち誇った笑みが浮かんだ。

 馬は見る見るうちに大きくなった。やがて流れる汗や、立ちのぼる蒸気、そして手前の並木を越えるのがはっきりと見え出した。走り続けているのは若い将校であった。中背で泥まみれ、駆けてきたせいで顔が上気している。ひらりと馬から飛び降りると、父をしっかと抱擁した。

「何と! いやまさか!」さしもの疑り者も気持が揺らいだらしい。「まさかこんなことが!」

 老人の顔に浮かんだ疑いの名残を見て、フィリップは。「そのまさかです。ぼくですよ! 本当にぼくなんです!」

「確かにお前じゃ。いやいやそれは間違いない! だがいったいどうしたんじゃ?」

「父上、我が家が大変な名誉に預かったのです」

 老人が顔を上げた。

「大変な方がタヴェルネをご訪問下さいます。一時間もしないうちに、オーストリア女大公にしてフランス王太子妃、マリ・アントワネット・ジョゼファ殿下がいらっしゃるのです」

 男爵は揶揄や皮肉を表わした時のように、今度は卑下する意味で力なく腕を広げ、バルサモを振り返った。

「これは申し訳ない」

「男爵殿」とバルサモは一揖した。「ここで私は失礼しましょう。久しぶりにご子息と会いなさったのですから、積もる話もあるでしょうしね」

 そうしてバルサモはアンドレに頭を下げた。兄の帰宅に喜び勇んで、急いで会いに駆け降りてきたのだ。バルサモはニコルとラ・ブリに合図をしてその場を離れたが、それは二人にも理解できたらしく、バルサモに続いて並木の下に姿を消した。

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「ジョゼフ・バルサモ」012-1「日中」 アレクサンドル・デュマ

第十二章 日中

 旅人は早起きをして馬車に向かい、アルトタスの無事を確かめに行っていた。

 城館中が寝静まっていたが、ジルベールだけはles barreaux d'une chambreの影で入口に潜み、興味に駆られてバルサモの振舞を追い、足取りをたどっていた。

 だがバルサモはアルトタスのいる小部屋の扉を閉めて立ち去ってしまい、ジルベールが並木道に足を踏み入れる頃には随分と遠くまで行っていた。

 事実、バルサモは木叢の方に戻りながら、陰鬱だと思っていた風景も日の下で見ればこうも変わるのかと驚いていた。

 白と赤の、つまり石と煉瓦造りの小塔は、無花果シカモア金鎖キングサリの茂みに覆われ、むせかえるばかりの房が屋根にしなだれ王冠のように別棟に絡みついている。

 花壇の手前には、こんもりと芝生に縁取られ接骨木ニワトコの垣で囲われた三十パッススの泉水があり、並木道に聳える西洋栃マロニエ山鳴ヤマナラシに虐げられた花に、心地よい安らぎを与えていた。

 両別棟の脇から延びたその先では、鬱蒼とした林を根城にする鳥たちが朝の演奏会を催すのが聞こえ、話を戻せば別棟の脇からは楓や篠懸プラタナスや菩提樹の広い並木道が延びている。バルサモが左に進むと、やがて二十パッススほど先に薔薇や梅花空木バイカウツギの茂みがあり、前夜の暴風雨で濡れた草花が香しい匂いを放っていた。水蝋樹イボタノキの生垣の下からは忍冬スイカズラ耶悉茗ジャスミンが顔を出し、アイリスに混じって苺も見える長い並木道が、花をつけた木苺や西洋山査子で混み合う茂みの中へと消えていた。

 こうしてバルサモは領地の終わりにたどり着いた。そこには燧石造りの城の廃墟が、今も厳かに立っていた。巨大な石積みの中央だけを残して半分方は崩れていたが、植物文様のように這い回る木蔦や蔦の、即ち母なる自然が産み落としたこの野生の破壊児のおかげで、廃墟そのものにも生命が漲っていることがわかるのである。

 こうして見ると、この七、八アルパンに過ぎぬタヴェルネ領は、威厳にも気品にも欠けていた。邸は花や蔦や岩を思いついたように飾り立てた洞窟のようではあったが、剥き出しの外見には、夜を岩屋で過ごそうとする旅人を怯ませ追い返すだけの凄みがあった。

 一時間ばかり廃墟を彷徨ってから本邸の方へ戻ってみると、小柄な身体を花柄のインド更紗の部屋着に包んだ男爵が、階段脇の通用口から姿を現わし、庭を見回り薔薇を剪定したり蝸牛を除けたりしていた。

 バルサモはこれを見て急いで駆けつけた。

「おはようございます」男爵の窮状をこの目で確認しただけに、感謝の気持にも力が入る。「何と申しますか、ご主人がいらっしゃるまで勝手に出歩くのは控えるべきだったのでしょうが、窓の外を覗いた途端にタヴェルネの景色に打たれましてね。この素晴らしいお庭や堂々たる廃墟を是非この目で確かめずにはいられませんでした」

 男爵も丁寧な挨拶を返すと言った。「確かにあの廃墟は素晴らしいですからな。いやいやこの土地で素晴らしいものと言えばあれくらいですぞ」

「城館があるではないですか?」

「おお、確かにわしのもの、いやわしのご先祖様のものですがな。メゾン=ルージュと呼ばれとりまして、長いことタヴェルネの名と共に預かって来ました。男爵位はまさにメゾン=ルージュのものでしてな。じゃが過ぎた話はよしませんかな」

 バルサモは同意の印にうなずいた。

「わしとしては、お詫び申し上げたい。お話しした通り、我が家は貧しいのですわ」

「ご冗談を」

「ほんの犬小屋です。鼠が居着き始めたのも、事の起こりはほかの城から逃げ出した狐や蜥蜴や蛇ですわ。いやはや。あなたが魔術師か何かなら、杖の一振りでメゾン=ルージュの古城も元通り、城を取り巻く牧場や森の二千アルパンも忘れずにお願いしたいものですな。しかしご安心くだされ、そんなことは忘れましょう。何しろ文句も言わずにあのボロ寝台で眠って下さったのですから」

「とんでもない」

「ご謙遜無用。あの寝台がオンボロなのは百も承知。何せ伜のですからな」

「いいですか男爵殿。私にとってはあの通り素晴らしい寝台でした。お心遣いには感謝しておりますし、このお礼は心より尽くすつもりです」

 老人はからかうような笑みをたたえて切り返すのを忘れなかった。

「なるほど!」ラ・ブリが見事なザクセンの大皿に水の入った器を乗せて運んできたのを指して、「いい機会ですな。主がカナの婚礼で為された奇跡をわしにもやってもらいませんかな。この水をワインに、せめてブルゴーニュ、或いはシャンベルタンに変えていただきましょう。目下のところはそれが最大の贈り物ですぞ」

 バルサモが微笑んだのを見て、降参の笑みだと男爵は捉え、コップを取るとひと息に飲み干した。

「結構ですな。水より優れたものはない。なにせ神の御心を被造物のもとに運んだのは水なのですから。何ものも邪魔立ては出来ません。石を穿ち、恐らくはダイヤをも溶かすとわかる日も遠くはないでしょう」

「ほほう! わしもそのうち溶かされるでしょうかな。乾杯といきましょう。水さえあればわしのワインも一流級ですな。ほら、まだ残っておりますぞ。そこがマラスキーノとは違いますな」

「私にも一つ水をいただけたなら、お役に立てるかと思いますが」

「是非ともお聞きしたい。まだお時間はありますな?」

「もちろんですよ。真水を持ってくるようお願いしてもらえますか」

「ラ・ブリ、聞こえたな?」

 いつも通りにラ・ブリが立ち去った。

「ふむ。はてさて、あなたが毎朝お飲みになる水には、わしの知らぬ特性なり秘密なりが隠されておるのですかな? 散文言葉のジュールダン氏のように、何も知らぬままン十年と錬金術にはげむべきでしたかな?」

「あなたのことは存じませぬが」とバルサモは重々しく答えた。「自分の修めたもののことなら心得ております」

 と答えておいて、疾風の如く務めを果たしたラ・ブリに向き直った。

「すまんな」

 コップを手に取り目の高さまで持ち上げて太陽にかざすと、光に照らされ真珠が浮かび、まばゆいばかりに紫やダイヤの縞が走った。

「水の入ったコップとは、こんなに美しいのですな? ふうむ!」

「無論です。とりわけ今日は美しい」

 こう言うとバルサモの顔つきがぐっと変わった。我知らず男爵は目で追っていたし、ラ・ブリはといえば驚きのあまり皿を差し出したままである。

『ジョゼフ・バルサモ』011-4 アレクサンドル・デュマ

「わかりました! 相手は……ジルベールです」

 ニコルの予想とは裏腹に、アンドレは表情一つ変えなかった。

「ジルベール、あのジルベール、乳母の子の?」

「そうでございます」

「そうだったの! あの子と結婚したいのね?」

「はいお嬢様」

「向こうも愛してるのね?」

 ここが正念場だ。

「いつもそう言ってくれます」

「なら結婚なさいな」アンドレは至って落ち着いていた。「何の障碍もないのじゃないかしら。お前のご両親はもういないし、ジルベールはみなしごだし。決めるのは自分たちでしょう」

「そうかもしれませんが」とニコルは口ごもった。予想と異なる展開に戸惑っている。「そのう、よいのですか……?」

「当たり前でしょう。二人ともまだ若いのが気にかかるけど」

「二人して年を取っていきますから」

「二人とも財産がないんでしょう」

「働きます」

「何をして働くの? あの人、何も出来ないじゃないの」

 この一言にいよいよニコルはかちんと来た。隠しておくのも嫌になった。

「お嬢様がジルベールを悪く言ってたと伝えても構わないんですか?」

「何を今さら! その通りに言ったまでです。あれは怠け者でしょう」

「暇さえあれば本を読んでますし、何かと言えば知識を得てばかりですよ」

「横着なだけよ」

「お嬢様に尽くしてるじゃないですか」

「何をしてくれたのかしら?」

「ようくご存じのはずです。夜食に鳥を撃つよう命じたのはお嬢様なんですから」

「わたくしが?」

「鳥を探しに何十里も歩くこともあるんですよ」

「悪いけどそんなこと気にしたこともなかったわ」

「鳥のことですか?」ニコルが鼻で笑った。

 いつもと同じ精神状態であれば、アンドレはこの冗談に笑ったであろうし、小間使いの皮肉に漲っていた悪意にも気づかなかっただろう。だがアンドレの神経は、弾き過ぎた楽器の弦のようにぶるぶると震えていた。その震えは意思や身体の動きよりも素早かった。ほんのわずかの動きも抑えるのは難しかった。現代の我々であれば、これを苛立ちと表現したであろう。言語学の成果による優れた表現である。酸っぱい果物を口に入れたりざらざらしたものに触れたりしたときに起こるあの不愉快な震えを連想されたし。

「その皮肉はどういう意味?」アンドレはようやく目を覚まし、初めのうちは怠さから衰えていた洞察力も、苛立ちと共に甦った。

「皮肉ではありません。皮肉は貴婦人のご専門ですから。あたしは田舎娘、言葉どおりの意味しかありません」

「どういうことなの? 仰いなさい!」

「お嬢様はジルベールを馬鹿にしています。あんなにお嬢様のことを考えているのに。そういうことです」

「召使いとしての義務を果たしているだけじゃありませんか。ほかには?」

「でもジルベールは召使いじゃありません。お給金を貰ってませんから」

「昔使っていた小作人の息子ね。食事も出して、部屋も与えて。代わりに何かしてくれた? 残念だけどあの人は泥棒よ。だけど何が言いたいの? どうしてそこまでして非難からかばいたいのかわからないわ」

「あら! お嬢様がジルベールを非難してるわけじゃないことくらい存じておりますよ」ニコルは棘のある笑みを見せた。

「またわからないことを言いだしたわね」

「お嬢様がわかろうとなさらないからです」

「いい加減にして頂戴。今すぐ言いたいことを説明なさい」

「あたしの言いたいことなんて、お嬢様の方がようくご存じでらっしゃいます」

「いいえ、知らないわ。見当もつかない。謎々を解く暇などなかったもの。結婚の了解を得に来たのではなかったの?」

「そうなんです。ジルベールがあたしを愛しているからといって、妬んだりしないで欲しいんです」

「ジルベールがあなたを愛してようといまいと、わたくしに何の関係があるのかしら? 本当にもうたくさんよ」

 ニコルは蹴爪を立てた若鶏のように、小さな足を蹴り上げた。溜まりに溜まった怒りがついに爆発したのだ。

「てことは、とっくに同じことをジルベールに仰ったんでしょうね」

「わたくしがジルベールに? もう勘弁して頂戴。馬鹿げてるわ」

「たった今とか今後とかはともかく、ちょっと前ならわかりません」

 アンドレが歩み寄ると、ニコルは軽蔑しきった目つきを浴びせた。

「一時間も前からふざけたことばかり繰り返してます。早く済ませなさい。いいですね」

「でも……」ニコルの気持がぐらついた。

「わたくしがジルベールと親しくしていたと?」

「ええ、そうです」

 ずっと心を占めてはいたがとても信じ難い考えが、アンドレの胸に浮かび上がった。

「まさかこの子、嫉妬してるのかしら。ちょっとごめんなさい!」笑い声がさんざめいた。「安心して、ルゲ。ジルベールのことなんて考えたこともないわ。目の色が何色なのかもわからないのだから」

 アンドレにとっては無礼というより狂気の沙汰ではあってが、すべて水に流すつもりだった。

 ニコルの思いは違った。侮辱されたと思っているのはニコルの方で、許しなど望んではいなかった。

「そうでしょうね。夜中では見ようがありませんから」

「どういうこと?」わかりかけて来たが、まだ信じられない。

「ジルベールと会うのは昨日のようにいつも夜中だったんでしょう。だったら顔の細かいところははっきりわかりませんよね」

「いいですか。今すぐに説明なさい!」アンドレの顔は青ざめていた。

「そうしろと仰るなら」じっくり行くのは止めだ。「昨夜、見たんです……」

「お待ちなさい。階下で誰か呼んでいます」

 確かに花壇から声が聞こえる。

「アンドレ! アンドレ!」

「お父様ですよ。昨晩のお客様もご一緒です」

「行って、お断わりして来て頂戴。具合が悪くて、身体も怠いので。戻って来たら、このおかしな議論を然るべく終わらせましょう」

「アンドレ!」再び男爵が声をかけた。「バルサモ殿がお前に朝の挨拶をしたいと仰っておる」

「行きなさい」アンドレは女王のように扉を指し示した。

 ニコルは指示に従った。アンドレに命じられた人間なら誰でもするように、口答えもなく、眉一つ動かさず。

 だがニコルが出てゆくと、アンドレに不思議な変化が訪れた。姿を見せまいという決意は固かったのだが、目に見えぬ超越的な力にでも触れられたものか、ニコルの開けた窓の方へと引き寄せられて行った。

 見るとバルサモはアンドレに目を据えたまま深くお辞儀をした。

 身体が震えてしまい、バランスを崩さぬよう鎧戸にしがみついた。

「おはようございます」アンドレも挨拶を返した。

 とその時、言伝を預かっていたニコルが到着し、お嬢様の気まぐれにはついていけないとばかりに大きく口を開けて呆れていた。

 途端にアンドレの身体中から力が抜け、椅子に崩れ落ちた。

 バルサモはそれをじっと見つめていた。

「ジョゼフ・バルサモ」011-3 アレクサンドル・デュマ

「あたし、結婚するつもりでした」

「え?……そんなこと考えてたの? まだ十七でしょう?」

「お嬢様はまだ十六でございます」

「それが?」

「それが!? お嬢様はまだ十六ですけど、ご結婚を夢見たりなさらないんですか?」

「いったい何が言いたいの?」

 ニコルは口を開いて罵声を浴びせようとしたが、アンドレが議論を切り上げるだろうことはよくわかっていたし、まだ殆ど話は進んでいないのだ。そこで作戦を変更した。

「ええとですね、あたしにはお嬢様が何を考えているのかはわかりません。ただの田舎娘ですから、いつも自然なんです」

「おかしな言葉ね」

「どこがです? 好きになったり好かれたりするのが不自然ですか?」

「それならわかるわ。それで?」

「好きな人がいるんです」

「その人もお前のこと好きなの?」

「そのはずです」

 疑いが大きくない以上、こうした場合には肯定しておくに限ると思い、ニコルは言い直した。

「というか、そうなんです」

「わかったわ。タヴェルネでそんなことしてたのね」

「将来のことを考えなくてはなりません。お嬢様は貴族でらっしゃいますし、お父様の財産もおありになるかと存じます。あたしは二親ともいませんし、今のところ無一文なんです」

 話を聞いてみればしごく単純なことに思えたので、ニコルの口調に棘が感じられたことも徐々に忘れてしまい、持って生まれた優しさが甦って来た。

「それで、相手は誰なの?」

「お嬢様もご存じの人ですよ」と、ニコルは美しい双眸でアンドレの瞳を睨みつけた。

「わたくしが?」

「間違いなく」

「誰かしら? 焦らさないで」

「お嬢様のご機嫌を損ねないかと思いまして」

「わたくしの?」

「ええ」

「ということは素性の良くない人なのかしら?」

「そういうわけでは」

「だったら思い切って仰い。よく働く使用人のことを知りたいと思うのは主人の務めです。そしてお前はよく働いてくれてるわ」

「ありがたいお言葉です」

「だったら早く仰い。それから服の紐を留めて頂戴」

 ニコルはここぞとばかりに心を凝らした。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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