この日、マリ=アントワネットの眼差しは女らしく、微笑みは女らしいうえに喜びに満ちていた。事情さえ叶えばその日は王太子妃には戻るまいと心に決めていた。穏やかな平穏が顔に溢れ、うっとりするような愛情が瞳に輝いていた。白絹の衣服を纏い、手袋をつけぬ腕で豪華なレースのケープを押さえていた。
地面に降り立つやすぐに振り向き、齢を数えた一人の侍女が車から降りるのに手を貸した。黒服に
「素晴らしい景色に、素晴らしい緑に、素敵なお家! こんな美味しい空気に囲まれ、木立の陰に匿ってもらえるなんて、さぞお幸せなのでしょうね!」
この時になってフィリップ・ド・タヴェルネが馳せ参じた。アンドレは長い髪を束ね、亜麻灰をした絹のドレスを身につけており、その腕を任せた男爵はといえば、過ぎにし栄華の残りかすである濃紺の衣装を身に纏っていた。無論バルサモの助言を受け、サン・ルイの大綬も忘れてはいない。
やって来た二人を見て、王太子妃は立ち止まった。
お付きの者たちが王太子妃を取り囲んだ。将校は馬の手綱を取り、廷臣は帽子を手に、腕を押し合いひそひそと囁き合った。
フィリップ・ド・タヴェルネが前に出たが、緊張と愁いで青ざめていた。
「殿下、畏れながらご紹介いたします。父のタヴェルネ=メゾン=ルージュ男爵と、妹のクレール=アンドレ・ド・タヴェルネでございます」
男爵が深々と頭を下げた。王族への挨拶を知る者のお辞儀であった。アンドレは慎ましく上品な魅力と、嘘偽りない畏敬の念を振りまいた。
マリ=アントワネットは二人の若者を見つめていた。フィリップから父の窮状を聞かされたことを思い出し、その苦労を慮っていた。
「殿下」男爵が重々しい声を出した。「タヴェルネ城にお越し下さり光栄に存じます。気品と美しさを兼ね備えた方をお迎えするにはあまりにしがない侘住まいでございます」
「フランスの老勇の住まいにいるのは存じております。戦を重ねた母マリア・テレジア帝から、この国には幾多の功績を挙げながら幾らの財産をも持たぬ者がたくさんいるのだと伺いました」
嫋やかな仕種で美しい手をアンドレに差し伸べると、アンドレは膝をついてその手に接吻をした。
だが男爵は人の数に驚いてしまい、これだけの人数が家に入るか椅子が足りるかで頭がいっぱいだった。
困惑から救ったのは王太子妃であった。
「皆さん」とお付きの者たちを振り返り、「わたしの気まぐれを無理に背負い込む必要などありませんし、王太子妃の特権を喜んで受け入れる必要もありません。ここでお待ち下さい。半時間のうちに戻ります。いらっしゃい、ランゲルスハウゼン」馬車から降りる時に手を貸した女性に、ドイツ語で声をかけると、「あなたも来て下さい」と黒服の貴族にも声をかけた。
洗練の塊が飾らぬ服を着たようなその人物は、年はわずかに三十ばかり、整った顔立ちに優雅な物腰をした男であった。男は王太子妃のために道を開けた。
マリ=アントワネットはアンドレを傍らに先に進み、妹の後から着いて来るようフィリップに合図した。
男爵はと言えば、畏れ多くも王太子妃から供を許された、どうやら高名であるらしい人物の側にいた。
「するとあなたがタヴェルネ=メゾン=ルージュ殿?」立派なイギリスの胸飾りを貴族らしく尊大に指ではじきながら、彼は男爵にたずねた。
「ムッシュー? それとも閣下とお呼びすればよいのでしょうかな?」男爵の態度も黒服の紳士にまったく引けを取らぬものであった。
「公で結構。あるいは猊下と。お好きな方を」
「おお! わかりました、猊下。わしがタヴェルネ=メゾン=ルージュ、本物ですぞ」相も変わらずからかい口調がついて回った。
猊下は大貴族ならではの才覚で、目の前にいるのが単なる田舎貴族ではないことにあっさりと気づいていた。
「この邸は夏の別荘ですか?」
「夏と冬用です」不愉快な質問など早く切り上げたかったものの、その一つ一つに深々と頭を下げて答えていた。
フィリップはと言えば、折にふれて不安げに父の方を振り返っていた。何せ城館がその貧しさを容赦なくさらけ出さんと、脅しをかけて皮肉りながら近づいて来るような感覚であった。
既に男爵は諦めて、訪れる者一人ない玄関に手を向けていたが、そこで王太子妃がくるりと振り向いた。
「ごめんなさい、中に入らなくても構いませんか。こんな素敵な木陰など見たことがないんですもの。お部屋はもううんざり。十五日前から招かれるのは部屋の中ばかり。外の空気と、それに木陰と花の香りが恋しいんですの」
そうしてからアンドレに声をかけた。
「ミルクを一杯、木陰に運んで来てもらえますね?」
「殿下」男爵の顔が真っ青になった。「よもやそんな惨めなお食事をご所望に?」
「お気に入りなんです。それと新鮮な卵を。新鮮な卵とミルクが、シェーンブルンでのご馳走でした」
ここで突然、喜びと誇りでお仕着せもはちきれんばかりのラ・ブリが、ナプキンを手に登場した。ラ・ブリの目の前にある耶悉茗の園亭こそ、先ほどから王太子妃が気になっていたらしい木陰である。
「ご用意は出来ております」落ち着きと敬意を同時に表すという、殆ど不可能なことをやってのけた。
「まあ! 魔法使いの家に来てしまったのかしら!」王太子妃はころころと笑った。
歩くというよりやがて小走りに、馥郁たる園亭に向かっていた。
男爵は不安のあまりに礼儀も忘れ、黒服の紳士をよそに王太子妃の後から駆け寄った。
フィリップとアンドレは、驚きと不安を綯い交ぜにそれを見つめていたが、勝っていたのは明らかに不安の方だった。
王太子妃は緑のアーチにたどり着くと、驚きの声をあげた。
男爵も後から追いつき、満ち足りた溜息を吐いた。
アンドレは腕を宙に彷徨わせた――いったいどういうこと?
王太子妃はこうした一部始終を目の端で捉えていた。たとい心に虫の知らせを受け取ってはいなかったとて、謎を理解するに足る頭はあった。
十客の食器が十人の会食者を待っていた。
凝ってはいるが不思議な取り合わせの軽食に、取りも直さず王太子妃の目が引きつけられた。
砂糖漬けの異国の果物に、国中のジャム、アレッポのビスケット、マルタのオレンジ、大振りのレモンにシトロン、その何もかもが大きな器に盛られていた。さらには最上級、名産地のワインが、紅玉色や黄玉色の輝きを放ち、ペルシア製のデカンタ四客に収まっていた。
王太子妃の請うたミルクは銀の水差しに満たされていた。
王太子妃はタヴェルネ家の者を見回したが、色を失い驚きを浮かべているだけであった。
お付きの者たちはわけも分からず、また分かろうともせぬまま、ただただ感嘆し喜びを表わした。
「では待っていて下すったの?」王太子妃がタヴェルネ男爵にたずねた。
「何と?」男爵は口ごもった。
「そうじゃありません? とても十分ではこのような準備はできませんもの。わたしが伺ってからせいぜい十分ですから」
こうして言葉を結ぶと、何か言いたげにラ・ブリに目をやった。――そのうえ召使いが一人しかいないんですもの。
「殿下、確かに殿下をお待ちしておりました。正確に申しますと、ご来訪を存じておったのです」
王太子妃はフィリップの方を見た。
「では手紙を書いたのですか?」
「そのようなことは」