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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』14-2 アレクサンドル・デュマ

 この日、マリ=アントワネットの眼差しは女らしく、微笑みは女らしいうえに喜びに満ちていた。事情さえ叶えばその日は王太子妃には戻るまいと心に決めていた。穏やかな平穏が顔に溢れ、うっとりするような愛情が瞳に輝いていた。白絹の衣服を纏い、手袋をつけぬ腕で豪華なレースのケープを押さえていた。

 地面に降り立つやすぐに振り向き、齢を数えた一人の侍女が車から降りるのに手を貸した。黒服に青綬コルドン・ブリュの男が差し出す手を断り、自らの足で前に出ると、空気を吸い込み四方にぐるりと目を走らせ、手にした自由を隅から隅まで楽しもうとしているようでもあった。

「素晴らしい景色に、素晴らしい緑に、素敵なお家! こんな美味しい空気に囲まれ、木立の陰に匿ってもらえるなんて、さぞお幸せなのでしょうね!」

 この時になってフィリップ・ド・タヴェルネが馳せ参じた。アンドレは長い髪を束ね、亜麻灰をした絹のドレスを身につけており、その腕を任せた男爵はといえば、過ぎにし栄華の残りかすである濃紺の衣装を身に纏っていた。無論バルサモの助言を受け、サン・ルイの大綬も忘れてはいない。

 やって来た二人を見て、王太子妃は立ち止まった。

 お付きの者たちが王太子妃を取り囲んだ。将校は馬の手綱を取り、廷臣は帽子を手に、腕を押し合いひそひそと囁き合った。

 フィリップ・ド・タヴェルネが前に出たが、緊張と愁いで青ざめていた。

「殿下、畏れながらご紹介いたします。父のタヴェルネ=メゾン=ルージュ男爵と、妹のクレール=アンドレ・ド・タヴェルネでございます」

 男爵が深々と頭を下げた。王族への挨拶を知る者のお辞儀であった。アンドレは慎ましく上品な魅力と、嘘偽りない畏敬の念を振りまいた。

 マリ=アントワネットは二人の若者を見つめていた。フィリップから父の窮状を聞かされたことを思い出し、その苦労を慮っていた。

「殿下」男爵が重々しい声を出した。「タヴェルネ城にお越し下さり光栄に存じます。気品と美しさを兼ね備えた方をお迎えするにはあまりにしがない侘住まいでございます」

「フランスの老勇の住まいにいるのは存じております。戦を重ねた母マリア・テレジア帝から、この国には幾多の功績を挙げながら幾らの財産をも持たぬ者がたくさんいるのだと伺いました」

 嫋やかな仕種で美しい手をアンドレに差し伸べると、アンドレは膝をついてその手に接吻をした。

 だが男爵は人の数に驚いてしまい、これだけの人数が家に入るか椅子が足りるかで頭がいっぱいだった。

 困惑から救ったのは王太子妃であった。

「皆さん」とお付きの者たちを振り返り、「わたしの気まぐれを無理に背負い込む必要などありませんし、王太子妃の特権を喜んで受け入れる必要もありません。ここでお待ち下さい。半時間のうちに戻ります。いらっしゃい、ランゲルスハウゼン」馬車から降りる時に手を貸した女性に、ドイツ語で声をかけると、「あなたも来て下さい」と黒服の貴族にも声をかけた。

 洗練の塊が飾らぬ服を着たようなその人物は、年はわずかに三十ばかり、整った顔立ちに優雅な物腰をした男であった。男は王太子妃のために道を開けた。

 マリ=アントワネットはアンドレを傍らに先に進み、妹の後から着いて来るようフィリップに合図した。

 男爵はと言えば、畏れ多くも王太子妃から供を許された、どうやら高名であるらしい人物の側にいた。

「するとあなたがタヴェルネ=メゾン=ルージュ殿?」立派なイギリスの胸飾りを貴族らしく尊大に指ではじきながら、彼は男爵にたずねた。

「ムッシュー? それとも閣下とお呼びすればよいのでしょうかな?」男爵の態度も黒服の紳士にまったく引けを取らぬものであった。

「公で結構。あるいは猊下と。お好きな方を」

「おお! わかりました、猊下。わしがタヴェルネ=メゾン=ルージュ、本物ですぞ」相も変わらずからかい口調がついて回った。

 猊下は大貴族ならではの才覚で、目の前にいるのが単なる田舎貴族ではないことにあっさりと気づいていた。

「この邸は夏の別荘ですか?」

「夏と冬用です」不愉快な質問など早く切り上げたかったものの、その一つ一つに深々と頭を下げて答えていた。

 フィリップはと言えば、折にふれて不安げに父の方を振り返っていた。何せ城館がその貧しさを容赦なくさらけ出さんと、脅しをかけて皮肉りながら近づいて来るような感覚であった。

 既に男爵は諦めて、訪れる者一人ない玄関に手を向けていたが、そこで王太子妃がくるりと振り向いた。

「ごめんなさい、中に入らなくても構いませんか。こんな素敵な木陰など見たことがないんですもの。お部屋はもううんざり。十五日前から招かれるのは部屋の中ばかり。外の空気と、それに木陰と花の香りが恋しいんですの」

 そうしてからアンドレに声をかけた。

「ミルクを一杯、木陰に運んで来てもらえますね?」

「殿下」男爵の顔が真っ青になった。「よもやそんな惨めなお食事をご所望に?」

「お気に入りなんです。それと新鮮な卵を。新鮮な卵とミルクが、シェーンブルンでのご馳走でした」

 ここで突然、喜びと誇りでお仕着せもはちきれんばかりのラ・ブリが、ナプキンを手に登場した。ラ・ブリの目の前にある耶悉茗の園亭こそ、先ほどから王太子妃が気になっていたらしい木陰である。

「ご用意は出来ております」落ち着きと敬意を同時に表すという、殆ど不可能なことをやってのけた。

「まあ! 魔法使いの家に来てしまったのかしら!」王太子妃はころころと笑った。

 歩くというよりやがて小走りに、馥郁たる園亭に向かっていた。

 男爵は不安のあまりに礼儀も忘れ、黒服の紳士をよそに王太子妃の後から駆け寄った。

 フィリップとアンドレは、驚きと不安を綯い交ぜにそれを見つめていたが、勝っていたのは明らかに不安の方だった。

 王太子妃は緑のアーチにたどり着くと、驚きの声をあげた。

 男爵も後から追いつき、満ち足りた溜息を吐いた。

 アンドレは腕を宙に彷徨わせた――いったいどういうこと?

 王太子妃はこうした一部始終を目の端で捉えていた。たとい心に虫の知らせを受け取ってはいなかったとて、謎を理解するに足る頭はあった。

 牡丹蔓クレマチスに耶悉茗、忍冬の花、節のある茎から無数の小茎が枝分かれしているその下に、楕円のテーブルが設えられ、その上にはダマスク織のテーブル掛けが、テーブル掛けの上には彫刻の施された銀器が、まばゆいばかりに輝いている。

 十客の食器が十人の会食者を待っていた。

 凝ってはいるが不思議な取り合わせの軽食に、取りも直さず王太子妃の目が引きつけられた。

 砂糖漬けの異国の果物に、国中のジャム、アレッポのビスケット、マルタのオレンジ、大振りのレモンにシトロン、その何もかもが大きな器に盛られていた。さらには最上級、名産地のワインが、紅玉色や黄玉色の輝きを放ち、ペルシア製のデカンタ四客に収まっていた。

 王太子妃の請うたミルクは銀の水差しに満たされていた。

 王太子妃はタヴェルネ家の者を見回したが、色を失い驚きを浮かべているだけであった。

 お付きの者たちはわけも分からず、また分かろうともせぬまま、ただただ感嘆し喜びを表わした。

「では待っていて下すったの?」王太子妃がタヴェルネ男爵にたずねた。

「何と?」男爵は口ごもった。

「そうじゃありません? とても十分ではこのような準備はできませんもの。わたしが伺ってからせいぜい十分ですから」

 こうして言葉を結ぶと、何か言いたげにラ・ブリに目をやった。――そのうえ召使いが一人しかいないんですもの。

「殿下、確かに殿下をお待ちしておりました。正確に申しますと、ご来訪を存じておったのです」

 王太子妃はフィリップの方を見た。

「では手紙を書いたのですか?」

「そのようなことは」

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『ジョゼフ・バルサモ』14-1「マリ=アントワネット」 アレクサンドル・デュマ

第十四章 マリ=アントワネット・ジョゼファ、オーストリア大公女

 バルサモの言うように、確かに時間がなかった。耳を聾する馬車、馬、人の音や声が、普段は静かな道に響き渡った。道の先はタヴェルネ邸だ。

 姿を現わしたのは三台の四輪馬車、金箔で飾られ神話に材を採った浮彫を施された一台も、華やかな外見とは裏腹に、ほかの二台に劣らず汚れまみれ泥だらけである。その三台が扉の側に停車すると、扉を開けたままジルベールは、そのあまりに厳かな偉容に心が高ぶり、目を見開いて熱に浮かされたように震えていた。

 二十人の騎士がいずれも若く輝かしく、先頭の馬車の傍らに居並ぶと、胸に大綬をつけた黒服の人物に手を取られて馬車から降り立った者がいる。それは十五、六の少女であり、髪粉はつけずに、あっさりとではあったが髪は額を見せて根元から結い上げられていた。

 マリ=アントワネット、即ちこの少女がフランスを訪れるや、話題になるのはその美しさであった。王権の一端を担うであろう王女たちには授けられることのなかった美しさである。曰く言い難いその瞳は、美しいといえば嘘になるが、あらゆる感情が秘められ、とりわけ優しさと驕りという相反する感情を宿していた。形の良い鼻に、美しい上口唇。だが下口唇は十七代にわたる皇帝の血を受け継ぎ、厚く突き出し、時に垂れているのがその愛らしい顔に似合うとすれば、立腹や憤懣を顔に出そうと思った時くらいのことであろう。顔色は健やか。薄い肌の下に血管が透けて見えた。胸、首、肩は一級品である。手は気品に満ちていた。まったく別の二つの顔を持っていた。感情が高ぶると、険しく高飛車で少なからずせわしなかった。気を緩めた時には、柔らかく程よく、穏やかと言ってよかった。かかるまで優雅なお辞儀をする女など知らぬ。かかるまで知的な挨拶をする王妃など知らぬ。十人分まとめて一度だけ頭を下げ、その一度の礼だけで、返礼も十人分だった。

『ジョゼフ・バルサモ』013-2「フィリップ・ド・タヴェルネ」 アレクサンドル・デュマ

「妃殿下が行ってしまわれたので、ぼくは営舎に戻って着替えをしました。確かに同情を寄せられるほどびしょ濡れで泥まみれでしたから」

「ひどい」アンドレが呟いた。

「その間、妃殿下は町の庁舎を訪れ、住民たちから祝福を述べられていました。祝辞も尽きたころ、食事の用意が出来たと報せがあり、妃殿下はテーブルにお着きになりました。

「友人の連隊長が、これが妃殿下をお迎えにあがるよう指示した者なのですが、王太子妃が辺りを見回し、晩餐に呼ばれた将校たちの列を探していると教えてくれたんです。

『見つかりません』何度か探すのを繰り返した後、殿下が仰いました。『今朝わたしを迎えに来てくれた若い将校が見つかりませんね。感謝を述べたいと伝えてくれなかったのかしら?』

 長官が進み出ました。

『妃殿下、タヴェルネ中尉(lieutenant)はやむなく戻って着替えをしております。そのうち妃殿下の御前に相応しい恰好で現れるはずでございます』

「ぼくが戻ったのはその直後でした。

「ものの五分と経たないうちに、妃殿下がぼくに目を留められました。

「側に来るよう合図を受け、ぼくはお側に近寄りました。

『中尉殿、わたしと一緒にパリに来るのはお嫌ですか?』

『とんでもありません! それどころか最高の幸せにございます。ですが本官はストラスブール駐屯地で兵役に就いております。それに……』

『それに……?』

『つまり、本官の望みは個人的なものに過ぎません』

『責任者はどなた?』

『軍司令官でございます』

『わかりました。上手く話してみましょう』

 退がるように合図され、ぼくは退出しました。

 その晩、妃殿下が司令官に近づいて行きました。

『閣下、わたし、叶えて欲しいわがままが一つあるんですの』

『仰って下さい。殿下のわがままとあらば本官にとっては命令でございますからな』

『叶えて欲しいわがままといいますか、むしろ、実行して欲しいお願いですの』

『これほど光栄なことはありませんな……どうぞ、殿下』

『よかった! 連れて行こうと思ってた人がいたんです。わたしがフランスの土を踏んでから初めて会ったフランス人の方ならどなたでも構いません。その方とそのご家族を幸せにしてあげたいの。もっとも、君主に人を幸せにする力があれば、ですけど』

『君主は地上における神の代理人でございます。初めて殿下にお目見えする光栄に預かったのは、何者にござりましょう?』

『タヴェルネ=メゾン=ルージュ殿。わたしの来たことを知らせた若い中尉です』

『それはうらやましい。ですがその幸運を邪魔だてするつもりはございません。中尉は命令によって留まっておりますが、その命令は取り消しましょう。誓いによって縛られておりますが、その誓いも破棄いたしましょう。中尉は妃殿下と共に出立できますぞ』

「その言葉通り、妃殿下の馬車がストラスブールを発つその日、ぼくは馬に乗って随行するよう命じられたのです。それ以来、ぼくは馬車の戸口に寄り添っておりました」

「ほほう!」男爵は先ほどと同じような笑みを浮かべた。「ふむ! 不思議なことだが、あり得んでもない!」

「何か、父上?」青年は無邪気にたずねた。

「いや、大丈夫。気にせんでくれ。はっはっ!」

「でもお兄様、ここまで聞いていても、どうして王太子妃殿下がタヴェルネをご訪問下さるのか、まだわたくしにはわからないわ」

「今話すよ。昨夜十一時頃、ナンシーに到着したんだ。明かりを掲げて町を通っていると、妃殿下から声を掛けられたんです。

『タヴェルネ殿、もっと供の者たちを急がせて下さい』

 ぼくは合図をして、妃殿下のご希望を伝えました。

『明日は早いうちに発ちましょう』さらに妃殿下が仰います。

『遠くまで馬車を走らせるおつもりですか?』

『そうではありませんが、途中で寄りたいところがあるのです』

 それを耳にした途端、予感のようなものが心臓を震わせました。

『途中で、でございますか?』

『ええ』

 ぼくは無言のままでした。

『何処に寄りたいのかおわかりになりません?』と妃殿下は微笑まれました。

『はい、殿下』

『わたしはタヴェルネに寄ろうと思っておりますの』

『何故そのようなことを?』ぼくは叫んでしまいました。

『お父君と妹君にお目に掛かりたいのです』

『父と妹のことを!……何故、殿下はご存じなのです……?』

『人から聞きました。わたしたちが通って来た道から二百パッススのところにお住まいがあるそうではありませんか。追ってタヴェルネに寄るよう指示して下さい』

 汗が額に浮かび、ぼくは慌てて妃殿下に辯じました。震えていたのは言うまでもありません。

『殿下、父上の邸は、とても殿下のような方をお迎えできるような場所ではございません』

『どうしてです?』

『わたくしどもは貧しいのでございます』

『もてなしてくれるのなら、真心と最低限のもののほかは何も要りません。タヴェルネが貧しいというのであれば、わたしがオーストリア大公女・フランス王太子妃であることは束の間忘れて、一人の友人としてコップ一杯のミルクを振る舞って下されば充分です』

『殿下!』ぼくは面を伏せて答えました。

 それだけです。畏れ多くてそれ以上のことは言えませんでした。

 予定を忘れてはくれまいか、路上の冷気と共にこの思いつきも霧散してはくれまいかと願っていましたが、そんなことは起こりませんでした。ポン・タ・ムソンの宿駅で、タヴェルネは近いかと妃殿下にたずねられ、ぼくは渋々、後三里だけだと答えました」

「愚か者奴が!」男爵が吠えた。

「その通りです! 妃殿下はぼくの悩みなどお見通しのようでした。『案じることはありません。長々と厄介をかけたりはしませんから。でもわたしが辛い目に遭うと脅かすのなら、それで貸し借りなしじゃありませんの? だってストラスブールで迎えに来て下さった時は、あなたを辛い目に遭わせてしまったんですから』このようなありがたいお言葉に、どう抗えと? 教えて下さい、父上!」

「抗えるものですか」アンドレが言った。「お話を聞く限りでは、妃殿下ならきっと花やミルクにもお言葉通り満足して下さるわ」

「うむ。じゃが背中の痛い椅子や目に障る壁には満足して下さらんじゃろう。困った思いつきだわい! これからのフランスは、こうやって女の気まぐれで動いてゆくらしいの。まったくひどい! これがおかしな治世の始まりじゃな!」

「父上! ぼくらに名誉を賜る妃殿下のことも同じように思われるのですか?」

「むしろ名誉を損じはせぬか! 今タヴェルネのことを考えておる者が一人でもおるか? 一人もおらん。家名はメゾン=ルージュの瓦礫に埋もれて眠っておるが、返り咲く暁には然るべき手段でと思っておったし、いずれその時が来るものと思っておった。ところが今や生憎なことに、一人の娘っ子の思いつきのせいで、再興の運びもくすんで汚れてみすぼらしく惨めなものになるじゃろうと思えて来た。話の種を求めて餌にありつこうと、今や新聞がこぞって妃殿下のタヴェルネ来訪をくだらん記事にしようとしておるわい。糞ッ! 手はあるぞ!」

 父の言葉の激しさに、若い二人は震え上がった。

「聞かせてもらえますか?」フィリップがたずねた。

「つまりな」と男爵はもごもごと口を動かした。「自分のことならよくわかっておる。メディナの伯爵(comte de Médina)が王妃を抱くため邸宅に火を付けたように、わしも妃殿下の来訪を阻止するためにこのあばら屋を燃やせばいいんじゃ。どうぞ来てもらうがいい」

 最後の言葉を聞いて、二人は不安げに顔を見合わせた。

「どうぞ来てもらうがいい」男爵は繰り返した。

「間もなくいらっしゃいますとも」フィリップも言い返した。「ピエールフィットの森から近道を取ってご一行に幾らかは先んじましたが、もうそれほど遠くはないでしょう」

「では急がねばなるまい」

 そう言って二十歳の若者のようにはしこく応接室を出て台所に駆けつけると、竈から燃えている燠を抜き取り、干し藁と飼い葉と豆の詰まった納屋に駆けつけた。男爵が飼い葉の山に近づいたとき、バルサモが音もなく背後から現れてその腕をつかんだ。

「いったい何をなさるおつもりです?」老人の手から火種を奪い取った。「オーストリア大公女はブルボン大元帥ではありませんよ。いてもらっては不名誉だからいっそ燃やしてしまえというのとはわけが違う」

 動きを止めた老人の顔は真っ青に震えており、もはやあの笑みは浮かんでいなかった。名誉を守るため、少なくとも自分の決めたやり方を貫き、隠れもない赤貧をせめてもの貧しさに変えようとするために、気力をすべて出し尽くしてしまったのだ。

「お急ぎなさい」バルサモが続けた。「部屋着を脱いで相応しい恰好に着替える時間しかありません。フィリップスブルクで存じ上げていた頃のタヴェルネ男爵は、サン・ルイの最高受勲者でした。あれほどの勲章をつければ、どんなものでも豪華で格調高い服に早変わりしないわけがない」

「しかしですな、結局のところ、あなたにだって見せたくなかったものを王太子妃殿下は見にいらっしゃるのですぞ。わしがどれだけ惨めかを」

「落ち着くことです。丁重なおもてなしをすれば、お邸が新しいか古いか、貧しいか豊かかなど気がつきませんよ。お出迎えの用意を。貴族としての務めです。妃殿下をお慕いする人間がご来訪を阻むために城館を燃やしたりしては、大勢いる妃殿下の敵が何をするか、考えてご覧なさい。怒りの種を予め用意してやるのは止しましょう。ものには順序というものがある」

 既に一度諦めの印を見せていた男爵は、言われるままに我が子二人のもとに向かった。二人は姿の見えない父を心配してあちこちを探していた。

 バルサモはというと、取り組んでいた仕事をやり終えたかのように、音もなく立ち去った。

『ジョゼフ・バルサモ』013-1「フィリップ・ド・タヴェルネ」 アレクサンドル・デュマ

 フィリップ・ド・タヴェルネ、シュヴァリエ・ド・メゾン=ルージュは、妹とはちっとも似ていなかった。とはいえ女らしい美女の兄に相応しく、男らしい美丈夫であった。事実、自信に満ちた穏やかな瞳、けちのつけようのない横顔、美しい手、女らしい足にバランスの良い体躯など、どこから見ても申し分のない騎手である。

 気高き者【自尊心の高い者】なら騒ぎ立てるような生活に苦しんでいる矜恃持ちの例に洩れず、フィリップは悲しげではあったが悲観的ではなかった。恐らくはこの悲しげな見かけのおかげで随分と優しそうに見えたものの、ひとたび悲しげな見た目を剥いでしまえばそこにいるのは、生まれながらに傲然、尊大、超然たる人物であったはずだ。権利上では富貴な者たちと暮らしているはずが、事実上は貧しい者たちと暮らす必要に迫られていたために、神に与えられた厳しく横柄で気難しい本性も和らいでいたのである。いつ何時とも、獅子のように広い心にも軽蔑が潜んでいるのだ。

 フィリップが父を抱きしめかけたところに、歓喜のあまり催眠術から醒めたアンドレがやって来て、青年の首に飛びついたことは既に述べた。

 そうしている間にもすすり泣きが聞こえてきたことから、無邪気な魂にとってこの再会がいかに大切なものだったかがわかろう。

 フィリップはアンドレの手と父の手を取り、水入らずで過ごそうと応接室に向かった。

「お疑いですね、父上。驚いているね、アンドレ」二人を両脇に座らせると、フィリップが言った。「ところがこれ以上ないほど真実なのです。あと少しすれば、王太子妃殿下がぼくらの侘住まいにいらっしゃいます」

「いかなることがあっても止めねばならんぞ!」男爵が声をあげた。「そんなことがあろうものなら、わしらは未来永劫に浮かばれん! 王太子妃殿下がフランス貴族の見本をご覧になるおつもりなら、お気の毒様じゃな。だが先も言うたが、何の間違いでこの家をお選びになったのだ?」

「それが何もかも成り行きなのです」

「成り行きですって! 聞かせて下さらない?」

「ええ、成り行きです。主は我らが救世主にして父である。それを忘れ給う者たちでさえも主を讃え給うことを思い出すような出来事でした」

 男爵は口を引き結んだ。人類や物事を審判し給う至高の存在がわざわざ自分に目を向け首を突っ込むとは思えなかったのだ。

 得意げなフィリップを見れば疑いなど湧くはずもなく、アンドレは兄の手を握り、もたらされた報せと込み上げる幸せに感謝を込めて囁いた。

「お兄様!」

「お兄様、か」男爵が繰り返した。「この出来事を喜んでいるようじゃな」

「だってお父様、フィリップがこんなに嬉しそうなのに!」

「フィリップは興奮しやすい質じゃからな。だがわしは幸か不幸かものを考える質でな」と言ってタヴェルネ男爵は応接室の家具に一瞥をくれた。「どんなことでもそこまで気楽には思えぬ」

「これから話すぼくの体験談を聞けば、すぐにお気持ちが変わりますよ」

「では聞かせてもらおうか」老人はぶつぶつと呟いた。

「ええお願い、フィリップ」アンドレも言った。

「もちろんです! 知っての通りぼくはストラスブールに駐屯していました。ご存じのようにストラスブールとは、王太子妃殿下が入国をなされた場所なんです」

「こんな侘住まいにおっては、ものを知っとるわけがなかろう?」

「それでお兄様、ストラスブールで王太子妃殿下は……?」

「ああ。ぼくらは朝から斜堤の上で待っていました。土砂降りの雨のせいで服はびしょびしょだった。王太子妃殿下が何時に到着するのか正確に知っている者は一人もいません。連隊長【駐屯長?長官major】に命じられてぼくが偵察に向かいました。一里ほど進んで道を曲がった途端、先頭の騎士たちと顔を合わせたんです。言葉を交わしていると、妃殿下が馬車から顔をお出しになり、ぼくのことを誰何しました。

「呼び止められたような気がしましたが、ぼくは一刻も早く良い報せを伝えようと、すでに駆足《ギャロップ》で走り出していました。六時間も歩哨に就いていた疲れも魔法のように消え去っていました」

「それで、王太子妃殿下は?」アンドレがたずねた。

「おまえと同じくらい若く、どんな天使にも負けぬほど美しかった」

「待っとくれんか?」男爵が躊躇いがちにさえぎった。

「何ですか?」

「王太子妃殿下は、知り合いの誰かに似てらっしゃらんか?」

「ぼくの知っている人ですか?」

「うむ」

「妃殿下に似ている者などいるはずがありませんよ」青年は熱っぽく答えた。

「考えてみてくれ」

 フィリップは考えた。

「心当たりはありません」

「そのな……例えばニコルはどうじゃ?」

「ニコル? 驚いたな! 確かに共通するところもありますね。でも遙かに及びませんよ! でもそんな情報をいったい何処から仕入れたんです?」

「さる魔術師からじゃよ」

「魔術師?」フィリップは驚きの声をあげた。

「うむ。お前が帰ってくることも言い当てた」

「旅の方のことですか?」アンドレが自信なげにたずねた。

「その旅人というのは、ぼくが帰って来た時に一緒にいた人ですか? ぼくが近づくと目立たぬように立ち去りましたが」

「その通りじゃ。だが話を続けてくれ、フィリップ。最後までな」

「おもてなしの用意をした方が良くはありません?」

 と言ったアンドレを、男爵が手で止めた。

「用意をすれば一層間抜けに見えるだけじゃ。続けてくれ、フィリップ」

「そうしましょう。というわけでぼくはストラスブールに戻り、報せを伝えたところ、報せを受けたド・スタンヴィル司令官(le gouverneur)がすぐに駆けつけました。報せを聞いた司令官が斜堤に到着した頃、太鼓が鳴り響き、行列が見え始めたのでぼくらはケールの城門まで駆け出したんです。隣には司令官がいました」

「ド・スタンヴィル殿。待ってくれぬか、確か聞き覚えが……」

「大臣ド・ショワズール殿の義理のご兄弟に当たります」

「そうじゃった。続けてくれ」

「妃殿下はお若いため、恐らく若い者の方が気安かったのでしょう。司令官の言葉を聞き流して、ぼくに目をお留めになったのです。畏れ多くて前には出られませんでした。

『迎えに来てくれた方じゃありません?』妃殿下がぼくを見てたずねました。

『さようでございます』とスタンヴィル殿が答えました。

『これへ』

 ぼくはお側に進み出ました。

『お名前は?』妃殿下はきれいな声をしていました。

『シュヴァリエ・タヴェルネ=メゾン=ルージュ』ぼくの声は震えていました。

『書きつけておいてちょうだい』と妃殿下が老婆に告げました。後で知りましたが、それは養育係のランゲルスハウゼン(Langershausen)伯爵夫人で、言葉どおりにぼくの名前を手帳に書きつけたのです。

 それからぼくの方を見て、

『こんなひどい天気ですのに! わたしのためにそんなひどい目に遭ったのかと思うと、ほんとうに心苦しいことです』」

「何て素敵な方なのかしら! それに何て素晴らしいお言葉!」アンドレが手を合わせて声をあげた。

「ぼくもお言葉の一つ一つを覚えている」フィリップは感に堪えぬようであった。「その言葉を紡ぎ出すお顔も、何もかも全部だ!」

「素晴らしいことじゃ!」男爵は呟いて、何とも言えぬ笑みを浮かべた。そこに浮かんでいたのは父親としての誇らしさと同時に、女性はもちろん王妃に対してすら抱いている偏見であった。「では続けてくれ」

「お兄様は何と答えたの?」

「何も言わなかった。地面に頭をこすりつけていると、妃殿下が通り過ぎたんだ」

「何だと! 何も言わなかったじゃと?」

「声が出なかったのです。どんな力も胸から出てきてくれず、胸は激しく鳴るばかりでした」

「わしがお前くらいの歳にレクザンスカ皇太子妃に紹介されて、言うことが何もないなぞあるまいに!」

「父上は聡明な方ですから」と答えてフィリップは頭を垂れた。

 アンドレがぎゅっと兄の手を握った。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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