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翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』17-1 「ニコルの二十五ルイ」 アレクサンドル・デュマ

第十七章 ニコルの二十五ルイ

 その頃、部屋に戻ったアンドレは、旅立ちの準備を急いでいた。ニコルにしても、今朝のできごと以来湧き起こっていた暗雲を吹き払い、懸命に手伝っていた。

 それをアンドレは横見して、許す許さぬもないとわかって莞爾《にこり》とした

「悪い子じゃないもの」と呟いた。「献身的で、義理堅くて。この世の生き物に欠点は付きもの。忘れましょう!」

 一方ニコルも、主人の顔色を見逃すような娘ではない。麗しく柔き主人の顔に、好ましげな表情《いろ》が大きくよぎったのに気づいていた。

 ――あたし馬鹿だった。ジルベールなんかのことで、お嬢様と仲違いするところだった。夢の都パリに連れて行ってくれるってのに。

 急な傾斜をあっちこっちと転げ回る二つの愛情が、出会うはもちろん、出会ったうえにぶつからぬ方がどうかしている。

 初めに口を開いたのはアンドレだった。

「レースを板紙の箱に入れてもらえる」

「どの箱でございますか?」

「知らないわ! なかったかしら?」

「ああ、お嬢様がくだすったんです。あたしの部屋に置いてあります」

 と、ニコルが箱を探しに駆け出したのは、アンドレに何もかも忘れて貰おうという思惑があったからにほかならない。

「でもその箱はあなたのだわ」戻ってきたニコルを見てアンドレは言った。「必要なら持っていてもいいのよ」

「あたしなんかよりお嬢様の方が必要なんじゃありませんか。それに何だかんだ言ってもお嬢様のもので……」

「これから新しい家庭を築こうという時には、家具が足りないものよ。だからそれはあなたのもの。今のあなたにはわたくしよりも必要なんですから」

 ニコルの顔が赤らんだ。

「婚礼衣装を仕舞う箱が要るでしょう」

「お嬢様!」ニコルはさも可笑しそうに首を横に振った。「あたしの婚礼衣装なんていくらでも仕舞えるし、そんなに場所も取りません」

「あらどうして? 結婚するのなら、幸せになりたいでしょう。それに裕福に」

「裕福にですか?」

「ええ。それなりに、ということだけれど」

「徴税人でも見つけてくれるおつもりですか?」

「まさか。そうではなく、持参金をつけてあげようと思うの」

「本当ですか?」

「お財布の中身は知っているでしょう?」

「はい、二十五ルイございます」

「そう! それはあなたのものよ、ニコル」

「二十五ルイがですか! でもそんな大金を!」ニコルが歓喜の声をあげた。

「心からそう言ってくれるのなら嬉しいわ」

「あたしに二十五ルイくださるのですか?」

「ええそうよ」

 ニコルは息を呑み、遂に感極まって涙を流し、アンドレの手に口づけを注いだ。

「旦那さんも喜んでくれるわよね?」とタヴェルネ嬢が言った。

「ええ、きっと喜んでくれます。あたしはそう思ってます」

 と言ってニコルは考えに耽った。ジルベールに拒絶されるとしたら貧しさへの不安からであろうが、今やニコルは金持ちであり、野心に燃える若者には理想的に思えるのではないだろうか。このお金の一部を今すぐにでもジルベールにあげよう。出来ることならお礼代わりに側にいてもらいたいし、落ちぶれるようなことにはなってもらいたくもない。ニコルの思いつきには随分と気前のいいところがあった。だが意地の悪い解釈をするならば、この気前よさの裏側には高慢の小さな種、侮辱した者に仕返ししたいという無意識の願望があるのは明らかであった。

 だが懐疑的な方にお答えしようとして、先を急ぎすぎた。今のニコルは――これは断言できるのだが――良心の方が悪意よりも遙かに上回っていた。

 アンドレはそんなニコルを見つめて溜息をついた。

「無邪気な子! 幸せになってほしいけれど」

 ニコルはこの言葉を耳にして身震いした。漠然とではあったが、絹とダイヤとレースと愛のエルドラドを、確信させる言葉だった。静かな生活こそが幸福なアンドレにとっては、考えたことさえないことばかりである。

 だがやがてニコルは地平線にたなびく赤銅色の雲から目をそらした。

 躊躇っている。

「でもお嬢様。あたしきっと幸せになります。ささやかな幸せですけど!」

「よく考えて」

「ええ、よく考えます」

「慌てないでね。あなたなりに幸せになるのはいいけれど、馬鹿な真似はしないことよ」

「わかってます、お嬢様。この際だから申しますけど、あたし馬鹿で屑同然のことしてしまって。でもお許し下さい、恋してる時って……」

「じゃあジルベールのこと、本当に愛しているのね?」

「はい、お嬢様。あたし……あたし、愛してました」

「本当なのね!」とアンドレは微笑みを浮かべた。「どんなところを好きになったのかしら? 今度会った時には、心震わすジルベールをよく見ておかなくては駄目ね」

 ニコルは疑念を拭い切れぬままアンドレを見つめた。こんなふうに話してはいるけれど、完全な見せかけ、或いは無邪気を装っているのではないだろうか?

 ――恐らくアンドレはジルベールを意識したことはないだろう。ニコルはそう独り言ちた。でも、と再び考え直す。ジルベールがアンドレを意識していたのは確かだ。

 思いつきを実行に移す前にあらゆる点をきちんと確かめておきたかった。

「ジルベールは一緒にパリには行かないんですか?」

「何のために?」

「でも……」

「ジルベールは召使いじゃないわ。パリの家を切り盛りすることも出来そうにないし。タヴェルネにいる遊民はね、庭木の枝や並木道の生垣でさえずる鳥のようなものよ。土地は貧しくとも食べていけるわ。でもパリではお金がかかりすぎる。遊民一人を好きにさせておく余裕なんてないの」

「でもあたしと結婚したら……」ニコルは口ごもった。

「ああ! 結婚した暁には、二人してタヴェルネで暮らすといいわ」アンドレの言葉は揺るぎなかった。「母があんなに愛していた家ですもの、しっかり番をしておいて頂戴」

 これにはニコルも仰天した。アンドレの言葉には些かなりとも含むところはなかった。ジルベールに対して下心も未練もないのだ。前夜、恩寵を賜っていたのとは別の人間に入れ替わっていた。わけがわからない。

「きっと貴族のお嬢様方はみんなそうなるんでしょうね」とニコルが言った。「だからなんですね、アノンシアード修道院のお嬢様方が、ずいぶん辛い時でも少しも苦しそうじゃなかったのは!」

 どうやらニコルが躊躇っているのはわかった。華やかなパリの栄華と穏やかなタヴェルネの落魄に板挟みされて、どうやら心が宙ぶらりんになっていることもわかった。その証拠に、柔らかな声にも硬いところがある。

「ニコル、あなたがこれから決めることは、一生を決めることになるんですから、よく考えて。まだ考える時間はあるのよ。一時間では足りないかもしれないけれど、結論は出してくれるものと信じてます。召使いか夫か、わたくしかジルベールか。既婚者に世話を頼むつもりはありません。家庭の秘密など聞きたくはありませんから」

「一時間ですか、お嬢様! たった一時間!」

「一時間です」

「わかりました。そうですね、いくらあっても足りないんだからどうせ同じです」

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『ジョゼフ・バルサモ』16「タヴェルネ男爵が遂に未来の……」 アレクサンドル・デュマ

第十六章 タヴェルネ男爵が遂に未来の一端を見たと信ずること

 王太子妃殿下が失神したことに最初に気づいたのは、申し上げた通り、タヴェルネ男爵であった。王太子妃と魔術師の間で起こりつつある出来事に人一倍不安を覚え、目を離さずにいたからだ。妃殿下の悲鳴を耳にし、バルサモが茂みの外に姿を消すのを目にして、男爵は駆け寄った。

 王太子妃は一言目にデカンタを見せるよう頼み、二言目に魔術師をひどい目に遭わせぬよう伝えた。危ないところでこの命令は間に合った。制止の声が聞こえた時には、フィリップ・ド・タヴェルネは既に怒れる獅子のように後を追っていたところだった。

 と、侍女がお側に近づき、ドイツ語で何かたずねた。だが質問には何も答えず、バルサモには無礼なところなどなかったと繰り返すだけであった。――長旅と前夜の嵐で疲れが溜まり、気が高ぶって倒れてしまったのでしょう。

 事情がわからぬながら敢えて問いただすこともせずにやきもきしていたロアン枢機卿に、この言葉が翻訳して伝えられた。

 庭にいる者たちは半信半疑であった。王太子妃の答えには皆まるで納得がいかなかったが、揃って納得したような顔をしていた。そこでフィリップが進み出た。

「殿下。殿下のご命令を果たしに参りました。まことに残念なのですが、滞在予定の半時間が過ぎ、馬の用意も出来ております」

「わかりました」と天真爛漫な素振りを見せた。「けれど当初の予定を変更いたします。今ここを発つことは出来ません……少し睡眠を取れば、気分も良くなると思うのですが」

 男爵が青ざめた。アンドレが心配そうに父を見つめている。

「こんなねぐらは妃殿下にはとてもご満足いただけませんぞ」と男爵は口ごもった。

「ご安心なさい」王太子妃が絶え入りそうな声を出した。「横になれるだけで申し分ありません」

 アンドレが部屋を用意しにすぐに姿を消した。一番大きな部屋でもなければ、恐らくは一番豪華な部屋でもなかった。だがたとい貧しかろうとアンドレのような貴族的な娘の部屋とは、どんなご婦人の目も和らぐお洒落なものなのだ。

 誰もが王太子妃のもとに駆け寄ろうとした。だが物憂げな笑みを見せ、話す力も残っていないのか手振りで合図し、一人きりになりたいのだと伝えた。

 そこで皆は再び退いた。

 マリ=アントワネットは、服の裾が見えなくなるその瞬間まで彼らから目を離さずにいた。だが姿が見えなくなるや茫然として、真っ青な顔を両手にうずめた。

 フランスで出くわしたものは、確かに恐ろしい前兆ではなかったか! ストラスブールで過ごしたあの部屋、王妃になるため足を踏み入れた最初の地、その壁に掛けられたタペストリーには、幼児虐殺が描かれていたではないか。馬車近くの木を折った前夜の嵐もそうだ。それにあの予言。誰にも洩らすつもりのなかったはずの秘密を不思議にも暴露した後で、あの驚くべき人物が伝えた予言がある!

 十分ほど経ってアンドレが戻り、部屋の用意が出来たことを伝えに来た。王太子妃がアンドレまで拒んでいるとは思えなかったので、園亭の下までたどり着くことが出来た。

 アンドレはしばらくの間、王太子妃の前に立ったまま、声をかけようとはしなかった。それほどまでに、妃殿下の物思いは深く見えた。

 ついにマリ=アントワネットが顔を上げ、アンドレに微笑みかけて合図した。

「お部屋のご用意が出来ました。なにとぞ……」

 王太子妃が遮った。

「ありがとう、感謝します。すみませんが、ランゲルスハウゼン伯爵夫人を呼んで、わたしたちを部屋まで案内してくれませんか」

 アンドレが言う通りにすると、老侍女がいそいそと駆けつけた。

「腕を、ブリジット」王太子妃はドイツ語で話しかけた。「歩く力も出せそうにありません」

 伯爵夫人はその通りにし、アンドレがそれを手伝った。

「ドイツ語はわかりますか?」マリ=アントワネットがたずねた。

「はい、殿下」アンドレがドイツ語で答えた。「ほんの少しでございましたら」

「何て素晴らしいんでしょう!」王太子妃は喜びの声をあげた。「わたしの計画にぴったりです!」

 アンドレは敢えて計画とは何かたずねようとはしなかったが、知りたくてたまらなかった。

 王太子妃はランゲルスハウゼン夫人の腕につかまり、少しずつ前に進んだ。膝が震えているように見えた。

 茂みから出ると、ロアン枢機卿の声が聞こえた。

「馬鹿な! スタンヴィル殿。命令に背いて妃殿下に仰るつもりか?」

「致し方ありません」司令官の断固たる声が答えた。「きっとお許しいただけるものと思っております」

「だが私にはいまいち……」

「邪魔立ては無用です、ロアン殿」王太子妃がトンネルのような茂みの切れ目から現れた。「こちらへ、スタンヴィル殿」

 誰もがマリ=アントワネットの声に一礼し、フランスを治める筆頭大臣の義兄弟に道を開けた。

 ド・スタンヴィルは脇に目をやり、密談を求めるような目つきをした。マリ=アントワネットもそれに気づいたが、二人きりにするよう指示を出すよりも早く、誰もが席を外していた。

「ヴェルサイユからの電報でございます」スタンヴィルは小声で、それまで軍帽の下に隠していた手紙を差し出した。

 王太子妃は手紙を受け取り表書きに目を落とした。

『ストラスブール司令官、スタンヴィル男爵閣下』

「わたし宛てではなくあなた宛てではありませんか。開封して読んで聞かせて下さい。もっとも、わたしの知りたいことが書かれていればですけど」

「ですがこの手紙は殿下宛てでございます。この角をご覧下さい。我が兄弟ショワズール殿と申し合わせたもので、ただ殿下一人に宛てた手紙だという印にございます」

「おやほんとう! 十字ですね。気づきませんでした。こちらへ」

 王太子妃は手紙を開き、次のような文章を読んだ。

 デュ・バリ夫人の謁見式(présentation)が決まりました。後は代母を見つけるだけです。我々としては見つからないことを今も諦めてはおりません。ですが謁見式を防ぐ最良の手段は、王太子妃殿下がお急ぎ下さることにほかなりません。妃殿下がヴェルサイユにお入りしてしまえば、このような大それたことを目論む者など一人もいないでしょう。

「そういうことですか!」王太子妃は何の感情も見せなかったし、興味を惹かれたようなそぶりも見せなかった。

「殿下はお寝みになるのでしょうか?」おずおずとアンドレがたずねた。

「ごめんなさい。気分は良くなりました。ご覧の通りもうすっかり元気になりました」

 伯爵夫人の手を押しのけると、何も起こりなどしていなかったかのように素早く力強く足を進めた。

「馬を! 出発します」

 ロアン枢機卿が驚いてスタンヴィル司令官を見つめ、態度が急変したのはいったいどういうことかと目顔で説明を求めた。

「王太子殿下がお待ちかねなのです」司令官は枢機卿の耳にそう囁いた。

 極めて巧みに吐き出された嘘に、これはてっきり本音を洩らしたものと思いロアンは満足した。

 アンドレの方は父のおかげでこうした天下人の気まぐれを尊重するのには慣れていた。そのためマリ=アントワネットの翻心にも驚きはしなかった。王太子妃が振り返って見た時も、アンドレの顔には優しく穏やかな表情しか見られなかった。

「感謝します。そなたのもてなしは嬉しかった」

 次に男爵に声をかけた。

「お知らせしておきましょう。ウィーンを発った時に心に決めたことがありました。フランスの地を踏んで最初に出会ったフランス人の方に、未来を与えようと。そのフランス人とは、ご子息でした……。もちろん、撤回の言葉をご子息が聞くことは決してないでしょう。それに……ご息女のお名前は?」

「アンドレでございます」

「アンドレ嬢のことを忘れるつもりはありません……」

「まあ、殿下!」

「そう、侍女になっていただこうと思っております。証を見せることも出来ますよ。如何です、男爵?」

「おお、殿下!」夢が実現した者の叫びであった。「その点の心配などございません。富よりも名誉を重んじる人間ですゆえ……ですが……素晴らしい未来が……」

「そなたのものです……ご子息は国王陛下を護衛し、ご息女は王太子妃に仕え、お父上は忠誠の言葉を子息に伝え、美徳の言葉を息女に伝える……まさに夢のような殿上人ではありませんか?」王太子妃が若者の方を向くと、フィリップはただただ跪き、口唇からは声にならない吐息を洩らすしか出来なかった。

「ですが……」真っ先に我に返った男爵が呟いた。

「わかりました。何かと用意がいるのでしょう?」

「さように存じます」

「構いません。ですが準備にはそれほど時間が掛からぬはずです」

 アンドレとフィリップの口元に悲しげな笑みが過り、男爵の口は苦しげに歪みながらもそこまでで踏みとどまったが、タヴェルネ家の自尊心は大いに傷つけられていた。

「誤解なさってはいけません。わたしに尽くそうというそなたたちの心持ちから判断したまでのこと。何なら、そう、四輪馬車を一台残しておきますから、後からいらっしゃい。司令官、手伝ってくれますね」

 司令官が前に進み出た。

「タヴェルネ殿に馬車を一台用意して差し上げなさい。アンドレ嬢をパリに連れて行きます。誰かに命じて馬車に同伴させ、身内同然の者たちなのだと伝えなさい」

「只今。ボージール(Beausire)、前へ」

 鋭く知的な目をした二十四、五の若者が、しっかりした足取りで列から離れると、帽子を手にして前に進み出た。

「タヴェルネ男爵の馬車の護衛を命じる。馬車に同乗し給え」

「再びわたしたちと合流するまでお願いいたします。必要があれば馬を替えても構いません」

 男爵と子供たちがひたすら感謝の意を表わした。

「急な出立ゆえ、迷惑を掛けたのではありませんか?」王太子妃がたずねた。

「殿下の仰せのままに」

「ではまた!」王太子妃が微笑んだ。「皆さん、車に!……フィリップ殿、馬に!」

 フィリップは父の手に口づけし、妹を抱きしめてから鞍に跨った。

 十五分後、王太子妃一行は前夜の雲のように慌ただしく、タヴェルネ邸の並木道からは姿を消していた。残っていたのは、門敷居の上に坐っていた若者だけだった。青白く悲しそうな顔をして、ご一行や早足の馬が埃を立てて路上を遠ざかってゆくのを、食い入るように見つめていた。

 ジルベールだ。

 その間、アンドレと共に二人きり残されていた男爵は、今なお言葉を失ったままだった。

 タヴェルネ邸の応接室で演じられたのは、奇妙な光景であった。

 アンドレは両手を合わせ、思いがけない不思議な大事件に思いを馳せていた。静かな日常に突如として舞い込んできた出来事に、夢でも見ているようだった。

 男爵は長く曲がって飛び出ている灰色の眉毛を抜き、胸飾りをぐちゃぐちゃにしていた。

 扉に凭れたニコルが、主人たちを見つめていた。

 ラ・ブリは腕を垂らし口を開けたまま、ニコルを見ていた。

 初めに我に返ったのは男爵だった。

「ちんぴらめ!」とラ・ブリに向かって叫んだ。「銅像みたいに突っ立っとるが、あの紳士、メゾン・デュ・ロワの代理官殿が外でお待ちじゃぞ」

 ラ・ブリはぴょこんと飛び上がり、左足を右足に突っかけて躓きながら姿を消した。

 すぐにラ・ブリは戻ってきた。

「旦那さま、あちらでございました」

「何をしてらっしゃった?」

「馬に吾亦紅を食ませていらっしゃいました」

「邪魔してはならんぞ。して、馬車は?」

「並木道にございます」

「馬は繋がっておるか?」

「四頭とも。それは見事な馬でございました! 庭の柘榴を食んでおります」

「王家の馬なら好きなものを食べねばなるまい。ところで、魔術師殿は?」

「魔術師殿は、消えてしまいました」

「あんな用意をしておきながら、信じられんわい。また戻って来るか、代わりに誰か寄こしてくれるじゃろう」

「私はそうは思いません。馬車で出て行くのを見たとジルベールが申しております」

「ジルベールが?」と男爵は考え込んだ。

「はい、旦那さま」

「あの怠け者めが、すべて見ておったか。荷造りをせい」

「すべて終わっております」

「何じゃと?」

「はい。王太子妃殿下のご命令と同時に、旦那さまのお部屋に向かい、お洋服や下着を荷造りいたしました」

「いったいどうした気まぐれだ、抜け作め?」

「旦那さま! そうお命じになるだろうと予め愚考いたしたまででございます」

「痴れ者めが! ならばアンドレを手伝うがいい」

「大丈夫ですよ。わたくしにはニコルがいますから」

 男爵はまたも考えに耽り始めた。

「ぼんくらの浅知恵じゃな。今の話にはあり得んことが一つあるわい」

「何でございましょう?」

「お前には考えもつかんじゃろう。何も考えておらんからだ」

「仰って下さい」

「妃殿下がボージール殿に何もお命じにならずにお発ちになったり、魔術師殿がジルベールに一言も伝えずにいなくなったりするものか」

 この時、庭から小さな笛の音が聞こえた。

「旦那さま」とラ・ブリが言った。

「何だ!」

「お呼びの合図です」

「誰がじゃ?」

「あの方でございます」

「指揮官代理殿か?」

「はい。それから、ジルベールも何か言いたそうにうろうろしております」

「ではさっさと行くがいい」

 ラ・ブリは常の如く素早くその言葉に従った。

「お父様」とアンドレが男爵に近寄った。「お父様が何をお悩みなのかはよくわかります。お父様、わたくしには三十ルイ金貨と、マリ・レクザンスカ王妃がお母様に賜ったダイヤつきの腕時計があります」

「うむ、わかっておる。だが大事に仕舞っておけ。昇殿には立派な衣裳がいる……それまでにわしが金の算段をする。待て、ラ・ブリが来た!」

「旦那さま」入って来るなりラ・ブリが声をあげた。片手に一通の手紙を、もう片方の手に金貨を何枚か持っている。「旦那さま、妃殿下が賜れたのです、十ルイです! 十ルイございます!」

「それでその手紙は何だ、頓馬め?」

「そうでした! この手紙は旦那さま宛てでございます。魔術師殿からです」

「魔術師殿か。して、お前は誰から受け取ったのだ?」

「ジルベールでございます」

「言った通りではないか、惚け茄子めが。ほれ、さっさとよこすがいい!」

 男爵はラ・ブリから手紙を引ったくり、大急ぎで開いて中身を読んだ。

 男爵閣下。貴殿の家にある皿に御手を触れた以上、皿は貴殿のものです。出来れば聖遺物のように保管して、時には感謝をしていただければ幸いです。ジョゼフ・バルサモ

「ラ・ブリ!」考えたのは一瞬だけであった。

「はい?」

「バル・ル・デュックに良い金細工師はおらぬのか?」

「ございますとも! アンドレ様の銀杯を修理した方でございます」

「良かろう。アンドレ、妃殿下がお飲みになったコップを別にして、残りの食器は馬車に運ばせてくれ。それからこの唐変木、酒蔵に急いで、残っているワインを指揮官代理殿に振る舞って差し上げろ

「一本しかございません」とラ・ブリは辛そうに答えた。

「それで用は足りるじゃろう」

 ラ・ブリが立ち去った。

「よし、アンドレ」と男爵は娘の両手を取って言った。「心配はせんでいい。宮廷に行こうではないか。あそこには空いている肩書や権利がごまんとある。腐るほどの修道院、大佐のいない連隊、眠ったままの年金。宮廷とは太陽に照らされた美しい場所じゃ。お前も太陽から離れてはならんぞ。人前に出られる美しさだわい。さあ行け」

 アンドレは男爵の方を見てから立ち去った。

 ニコルがその後を追った。

「おい! 糞ラ・ブリめ」タヴェルネ男爵が最後に部屋を出た。「指揮官殿のお世話はちゃんとしているだろうな、おい?」

「もちろんでございます」酒蔵の奥からラ・ブリが答えた。

「わしはな」と自室に急ぎながら男爵は続けた。「わしは書類を整理しておく……一刻もせんうちに、こんな家からはおさらばしてるはずじゃ。アンドレ、聞こえるか!……遂にタヴェルネは救われた、しかも最高の手段でだ。あの魔術師殿は素晴らしいお人じゃわい!……いや実際の話、奇跡も魔法も信じる気になった……ほら急がんか、ラ・ブリの阿呆め」

「旦那さま、何分にも手探りでございますから。城館の蝋燭が尽きてしまったのでございます」

「潮時だったか。そんな気がするわい」と男爵が言った。

『ジョゼフ・バルサモ』15-2「魔術」続き アレクサンドル・デュマ

「内閲を得るにしては月並みな手口じゃありませんの?」王太子妃がバルサモに向き直った。

「お手柔らかに願えますか。私などは、殿下をお照らしになる神の道具に過ぎません。呪うのなら運命を。すべてをもたらしたのも運命、因果応報にございます。私はただその巡り合わせをお知らせするだけ。私が躊躇ったからといって責めるのもおやめ下さい。凶事をお伝えするほかない不孝から免れられるものなら免れとうございます」

「では、不幸が待ち受けていると?」バルサモの恭しい言葉や慇懃な態度に、王太子妃も態度を和らげた。

「はい、殿下。それもただならぬ不幸が」

「すべて仰いなさい」

「善処いたします」

「よいのですね?」

「おたずね下さい」

「では初めに、わたしの家族は幸せになれますの?」

「どちらのです? お出になった方か、それともお向かいになる方でしょうか?」

「あら。実の家族です。母マリア=テレジア、兄ヨーゼフ、姉カロリーナ」

「殿下の不幸はご家族にまでは及びません」

「ではその不幸はわたし一人に降りかかるのですね?」

「殿下と新しいご家族に」

「もっと詳しく教えてはもらえませんの?」

「かしこまりました」

「王家には三人の王子がいますね?」

「確かに」

「ベリー公【後のルイ十六世】、プロヴァンス伯、アルトワ伯」

「お見事です」

「三人の星回りは?」

「三人とも代をお治めになります」

「ではわたしには子供が出来ないのですね?」

「お子様には恵まれるでしょう」

「ならば、世継ぎが生まれないのですか?」

「お子様の中にはご世継ぎもいらっしゃいます」

「では先立たれると?」

「お気の毒ですがお一人は薨去なさり、お一人はご存命です」

「夫からは愛してもらえるのですか?」

「ご寵愛なされます」

「存分に?」

「たいそうに」

「では夫にも愛され家族にも支えられているというのに、いったいどんな不幸が待ち受けているというのです?」

「どちらもいずれなくなります」

「民衆の愛と支えが残っていましょう」

「民衆の愛と支えとは!……穏やかな海に過ぎませんが……殿下は嵐の海をご覧になったことはございますか……?」

「善行を積み、嵐の起こるのを防ぎましょう。起こってしまったなら、嵐と共に立ち上がるまでです」

「波が高まるにつれ、波のえぐる淵も深まるもの」

「神が見守って下さいます」

「神がご自身で罰を与えた者の首を守ることはありません」

「何を言っているのです? わたしが王妃にはならないと?」

「むしろそうであってくれれば!」

 王太子妃は冷笑を浮かべるだけであった。

「お聞き下さい、殿下。そしてお忘れなきよう」

「聞いております」

「フランスで最初にお寝みになった部屋のタペストリーを覚えておいでですか?」

「覚えています」王太子妃は身震いした。

「その絵の意味するものは?」

「虐殺……幼児の虐殺でした」【「幼児の虐殺(massacre des Innocents)」とは、救世主の誕生を恐れたヘロデ王による幼児虐殺を言う。ただしツヴァイク『マリー・アントワネット』によれば飾られていたタペストリーの図柄は、イアソンに裏切られたメディアによるグラウケたち殺害というギリシア神話の一場面であったという】

「虐殺者達の顔が頭から離れないのではありませんか?」

「実はそうですの」

「結構! 嵐の最中のことで、何か覚えてはいませんか?」

「雷鳴が左手で轟き、木が倒れて馬車が潰されそうになりました」

「それが凶兆です」

「逃れようはないのですね?」

「ほかに考えようはございません」

 王太子妃は首を垂れ、しばし無言で考え込むと顔を上げた。

「夫はどのように崩ずるのです?」

「首をなくして」

「プロヴァンス伯は?」

「足をなくして【ルイ十八世は持病がが悪化したため晩年は車椅子生活だった】」

「アルトワ伯は?」

「王宮をなくして」

「わたしは?」

 バルサモは首を振った。

「言いなさい。言うのです!」

「断じてお伝えすることは出来ません」

「わたしが言えと言っているのです!」マリ=アントワネットは身を震わせて叫んだ。

「お許しを」

「仰いなさい!」

「出来ませぬ」

「仰いなさい」マリ=アントワネットが脅すように繰り返した。「さもなくば、何もかも馬鹿げた茶番に過ぎなかったと白状してしまいなさい。気をつけることです。マリア=テレジアの娘をこんな風に誑かすなど。女を……三百万の人間の命をこの手に預かる女を誑かすなど」

 バルサモは口を閉じたままだった。

「わかりました。それ以上のことは知らないのですね」王太子妃は馬鹿にするように肩をすくめた。「それとも、想像力が尽きたと言うべきかしら」

「私は何もかも知っております。殿下がどうしてもと望まれるのなら……」

「その通り。望んでいるのです」

 バルサモは再びデカンタを金の器に乗せた。そうしておいて、岩を使って洞窟を模してある暗がりにその器を持っていくと、大公女の手を取ってそこまで連れて行った。

「覚悟は出来ていらっしゃいますな?」バルサモは、突然の行動に怯えている王太子妃にたずねた。

「ええ」

「では跪いて下さい、殿下。これから目にする恐ろしい結末を免れるため、神に祈らねばなりません」

 王太子妃は諾々と従い、両膝の力を抜いた。

 バルサモが丸い水晶の器に棒で触れると、その中央に何やらはっきりしない恐ろしげな影が浮かび上がったものとおぼしい。

 王太子妃は立ち上がろうとしてよろめき、そのままくずおれ、恐ろしい叫びをあげて気を失った。

 男爵が駆けつけたが、王太子妃の意識はなかった。

 意識を取り戻したのはしばらく経ってからであった。

 王太子妃は記憶を探ろうとでもするように、額に手を遣った。

 それから不意に叫んだ。

「デカンタ!」声は言い表せぬほどの恐怖に染まっていた。「デカンタを!」

 男爵がデカンタを差し出したところ、水は澄み切って曇り一つなかった。

 バルサモは姿を消していた。

『ジョゼフ・バルサモ』15-1 「魔術」 アレクサンドル・デュマ

第十五章 魔術

 バルサモは恭しくお辞儀をした。だがすぐに知性と表情豊かな顔を上げ、無礼にはならぬよう王太子妃にじっと目を注ぎ、問いただされるのを静かに待っていた。

「そなたがタヴェルネ殿のお話ししていた方なのであれば」マリ=アントワネットが言った。「前へ。どのような魔法を使うのか見てみたい」

 バルサモが一歩前に進み、再び一拝した。

「予言に従事していたそうですね」王太子妃がバルサモを見る目つきには、恐らく思った以上の好奇心が浮かんでいた。妃はミルクを一口すすった。

「従事しているわけではございませんが、予言はいたしました」

「わたしたちを照らしているのは信仰の光ではありませんか。カトリックの神秘を措いて、ほかに神秘や謎の入り込む余地などありません」

「確かにそれは敬虔なものです」バルサモは黙祷を捧げた。「ですがこちらのロアン枢機卿が仰ったように、枢機卿たる者には、敬意を払うべき絶対的な謎や神秘など存在しないようですな」

 枢機卿は身震いした。誰にも名告ってはいないし、誰からも呼ばれてはいないのに、この男は名を知っていた!

 マリ=アントワネットはこれには気づかなかったらしく、話を続けた。

「では少なくとも、議論する余地のない絶対的なものだとはお認めになりますのね」

「殿下」バルサモの口調からは敬意こそ失われていなかったが、有無を言わせぬところもあった。「そのうえ信仰には不確かなものなどございません」

「曖昧な言い回しですね、魔術師殿。わたしの心はもうすっかりフランス人ですが、頭はまだ追いついていません。ですから言葉のニュアンスがよくわからないのです。確かにそのうちド・ビエーヴル殿が教えて下さるとは聞きました。でもそれまでは、お話ししたいことがわたしにもわかるように、出来るだけ易しい言葉を使って下さるようお願いしないといけませんの」

「失礼ですが」バルサモはぞっとするような笑みを浮かべ首を振った。「曖昧であることをお許し願いたい。妃殿下に未来をお知らせするのは心苦しくてなりません。何分、お望みの未来とは違っておりましょうから」

「聞き捨てなりませんね! 未来を占って欲しいと頼んでもらいたくて、そんな思わせぶりを言うのですか」

「むしろ神はそのようなことをお許しになりません」バルサモは冷やかに答えた。

「勿論ですとも」王太子妃は笑って答えた。「だから困るというわけですの?」

 だが王太子妃の笑いに廷臣たちの笑いがこだますることはなかった。目下注目の的である怪人の威力に誰もが当てられていたのだ。

「さあ、正直に仰いな」王太子妃が言った。

 バルサモは無言のまま一礼した。

「でもわたしの来ることをタヴェルネ殿に予言したのはそなたなのでしょう?」マリ=アントワネットの仕種には苛立ちが見えていた。

「仰る通りでございます」

「具体的には、男爵?」他人の意見を聞きたくて堪らなくなったのだろう。奇妙な会話を始めたのをどうやら悔やんではいたものの、打ち切る気もなかった。

「それが殿下、驚くほど簡単でして、水の入ったコップを覗き込んだだけでございました」

「本当ですか?」再びバルサモにたずねた。

「確かです」

「魔術書をそんなところに? それでは罪にはなりませんね。はっきり答えることも出来るんじゃありませんの!」

 枢機卿が微笑んだ。

 男爵が一歩前に出た。

「妃殿下にはビエーヴル殿から学ぶことなど一切ございませんぞ」

「まあ! おからかいになって。いっそもっと言って下さらない? 気の利かないことを言ったつもりだったのに。バルサモ殿の話に戻りましょう」

 マリ=アントワネットは、抗い難い力に引きつけられるように、意に反してバルサモの方を向いた。ちょうど我々が不幸の現場に引きつけられるのに似ていた。

「コップの中に男爵の未来を見ることが出来るのなら、デカンタの中にわたしの未来を読み取ることは出来ませんの?」

「造作のないことでございます」

「では何故先ほどは拒んだのです?」

「未来とは不確かなもの。しかも見えたのが雲のようなものとあらば……」

 バルサモは言いよどんだ。

「どうしました?」

「さよう! 以前に申し上げたように、妃殿下のお心を痛ませるのには耐えられませぬ」

「以前に会ったことがありましたか? 何処でお会いしたのでしょう?」

「お会いした時節には妃殿下はまだ幼く、故国のご尊母のお側にいらっしゃいました」

「母に会ったと?」

「輝かしく勇ましい女王様でございましたな」

「皇帝、です」

「女王と申したのは私の気持と見解によるもの、ですが……」

「母の地位を当てこするおつもりですか!」王太子妃の眉が上がった。

「どんなに優れた心にも弱点はございます。とりわけ子どもの幸せに関わることとあっては」

「マリア=テレジアにはたった一つの弱点もないことは、歴史が教えてくれるでしょう」

「マリア=テレジア皇帝陛下と妃殿下と私しか知らぬことは、歴史も知る術がないでしょう」

「わたしたち三人だけの秘密があると?」王太子妃は冷やかにたずねた。

「さよう、私たち三人の」バルサモは飽くまで穏やかだった。

「秘密とは?」

「口にしてしまっては、もはや秘密ではありません」

「構いません。いいから仰いなさい」

「妃殿下がお望みなのですな?」

「その通りです」

 バルサモは一礼した。

「シェーンブルン宮殿には、磁器の間と呼ばれる、高価な陶磁器を収める部屋がございました」

「ええ」

「そこはマリア=テレジア陛下が私室としてお使いでした」

「ええ」

「内密の手紙を書くのは決まってその部屋でしたな」

「ええ」

「撞球の間、ルイ十五世陛下がフランツ一世陛下に賜った部屋の上でした」

「ここまでの話に間違いはありません。でもみんなそのくらいは知っておりません?」

「お気が早い。ある日の朝七時頃、陛下はまだお寝みになっていらっしゃいましたが、妃殿下は殿下専用の扉から部屋にお入りになりました。何せ皇帝陛下は、妃殿下が大のお気に入りでございましたから」

「それで?」

「妃殿下は机に向かわれました。思い出していただきたいのですが、これが五年前のことでございます」

「続けなさい」

「妃殿下が机に向かわれますと、陛下が前夜書いたばかりの手紙が広げてあったのです」

「そうですか?」

「そうでした! 妃殿下は手紙をお読みになりました」

 王太子妃の顔がわずかに赤く染まった。

「お読みになって、どこか気になる表現があったのでしょう、ペンを取ってお手ずから……」

 王太子妃はやきもきしていた。バルサモが続けた。

「三語に線を引きました」

「その三語とは?」王太子妃がすかさずたずねた。

「手紙の冒頭でございましたな」

「文字のあった場所を聞いているのではありません。単語の意味を聞いているのです」

「はて、受取人に対する親愛の情と言えるでしょうか。これが先ほど申し上げた弱点。少なくともある状況下ではご尊母も非難を免れますまい」

「その三語を覚えているのですか?」

「覚えております」

「繰り返せますか?」

「一語も違わず」

「では繰り返しなさい」

「口に出せと?」

「そうです」

親愛なる貴女マ・シェル・アミ

 マリ=アントワネットは青ざめて唇を噛んだ。

「受取人の名前も口にした方が?」

「なりません。紙に書きなさい」

 バルサモは懐から金の留め金のついた手帳を取り出し、金飾り付きの鉛筆で文字を書きつけ破り取ると、一揖して王太子妃に差し出した。

 マリ=アントワネットは紙片を受取りそれを読んだ。

 手紙の宛先はルイ十五世の愛妾、ポンパドゥール侯爵夫人

 王太子妃は顔を上げた。癖のない言葉、端正な人を引きつける声、へりくだって挨拶をしながらも人を見下したようなこの男に、あっけに取られていた。

「すべて間違いありません。どうやって突き止めたのか見当も付きませんが、包み隠さず繰り返しましょう。間違いありません」

「では。退がっても構いませんな。種も仕掛けもないことはおわかりいただけたかと存じます」

「なりません」気を悪くして王太子妃は答えた。「知れば知るほど予言の内容が気になります。そなたが話してくれたのは過去のことばかり。わたしの知りたいのは未来ですの」

 熱に浮かされたように言葉を口にしながら、周りの人間には聞かれぬように儚い努力をしていた。

「お安い御用。ですが今一度お考えを。お許し下さい」

「二度とは繰り返しません。わたしの望みでありそなたの為すべきことは、既に一度伝えました」

「せめてお伺いを立ててはなりませんか」頼み込むような口調だった。「預言を妃殿下にお伝えしてもよいものやら」

「瑞兆でも凶兆でもよいから聞かせてはもらえませんの?」マリ=アントワネットの声には苛立ちが増していた。「瑞兆なら信じません。ごますりかもしれませんから。凶兆なら警告だと受け止めて吟味するつもりです。いずれにせよ、聞かせてくれればそれでよいのです。さあどうぞ」

 話を終える頃には、口答えも時間稼ぎも許さぬ勢いであった。

 バルサモは首の細く短い丸型のデカンタを手に取り、それを金の器に乗せた。

 斯くして陽射しに照らされ、内壁の真珠母と中央の金剛に乱反射して金色に輝く水が、占い師の集中力にどうやら一役買っているらしい。

 口を聞くものはいない。

 バルサモが水晶壜を持ち上げ、目を凝らして眺めてから、首を振ってテーブルの上に戻した。

「どうしました?」王太子妃がたずねた。

「口には出来ません」

 王太子妃の顔にははっきりとこう書いてあった。――安心なさいな。口をつぐみたい人間の口を開く方法なら知っているもの。

「言うことなんて何もないからじゃありませんの?」

「妃殿下には申し上げられぬことゆえ」バルサモの声は王太子妃の命令さえ頑として拒んでいた。

「でしたら、口にせずに伝えて下さいな」

「ならば障碍はないどころか、正反対でございます」

 王太子妃は嘲るような笑みを浮かべた。

 バルサモは悩んでいるようだった。枢機卿が面と向かって笑い出し、男爵がぶつぶつ言いながら前に出た。

「結構、結構。魔術師殿は力を出し切ってしまわれた。時間切れですわ。しかしながら、東洋のお伽噺のように、ここにある金のコップを葡萄の葉に変えることくらいはまだ披露して下さるはずでございます」

「わたしに見せるために飾り立てられた品々よりは、ただの葡萄の葉の方が面白そうね」

「殿下」いよいよ青ざめてバルサモが答えた。「私が辞退したことをどうかお忘れなきよう」

「こちらからお願いしているのを見抜くくらい、難しくはないでしょうに」

「畏れながら、殿下」アンドレが小声で口を挟んだ。「男爵はよかれと思ってのことでございます」

「ではわたしも、男爵は誤っていると申し上げておきましょう」王太子妃はバルサモとアンドレにしか聞こえぬようにして即答した。「ご老人を虚仮にして名を成そうなど無理な話。紳士からいただいた錫のコップの中身は飲み干せても、山師の差し出す金のコップの中身をフランス王太子妃に飲ませることなどできませんよ」

 バルサモは蝮か何かに咬まれたように震え、背筋をぐっと伸ばした。

「殿下」という声も震えていた。「是が非でもお知りになりたいと仰せである以上、殿下の運命をお知らせする用意は出来ております」

 バルサモが強く激しい口調で何かを唱えた。居合わせた者たちは血管に冷たいものが流れるのを感じた。

 大公女の顔色が目に見えて変わった。

「Gieb ihm kein gehoer, meine tochter(聞いてはなりませぬ、お嬢様)」老婦人がドイツ語でマリ=アントワネットに話しかけた。

「Lass sie hoeren, sie hat weissen gewollen, und so soll sie wissen(聞かせてやれ、殿下が知ることを望み、そして知ったのだ)」バルサモもドイツ語で言い返した。

 異国の言葉を解すものは殆どおらず、ますます事態は謎めいて来ていた。

 王太子妃は老婦人の忠告をはねつけた。「もう始まってしまいました。ここで止めるよう命じては、わたしが恐れていると思われます」

 この言葉を耳にしたバルサモの口元に、人知れず黒い笑みが浮かんだ。

「思った通り」バルサモが呟いた。「から元気だな」

「さあ仰いなさい」

「ではやはり口にすることをお望みなのですな?」

「一度決めたことを翻したりはしません」

「では殿下にだけ」

「よいでしょう。わたしは何処までも追いかけるつもりです。皆の者、退がりなさい」

 それとわかるよう合図して命令を全員に伝えると、誰もが従った。

「ジョゼフ・バルサモ」14-3 アレクサンドル・デュマ

「この邸を訪れることは誰も知りません。ことによれば自分でも知りませんでしたもの。わたしが引き起こしてしまう面倒ごとをここで引き起こしてしまわぬよう、自分の気持を自分にも隠していましたから。昨夜ご子息に伝えるまでは、一言も口にはしておりません。一時間前にはご子息はまだ側におりましたし、余裕は数分しかなかったはずです」

「正確にはたった十五分でございました」

「では知らせたのは妖精かしら。もしやご息女の名付け親?」王太子妃は微笑んでアンドレを見た。

「殿下」男爵は王太子妃のために椅子を引いた。「このような吉報をもたらしてくれたのは妖精ではありません。それは……」

「それは?」男爵が躊躇っているのを見て、そう繰り返した。

「それがその、魔術師なのです!」

「魔術師! どのようにして予知したのですか?」

「存じません。魔術には関わっておりませんので。どうにかこうにか殿下をおもてなし出来ますのも、つまりは魔術師のおかげでございます」

「では手を付けることはなりませんね。目の前のお食事は魔法で出したものなんですもの。それに猊下は」と黒服の貴族を振り向いた。「そのストラスブールのパテを切るのにお忙しいようですが、口に入れることはなりません。それに」と今度は養育係を振り返り、「そのキプロスのワインは我慢なさい。わたしと同じことをするのです」

 こう言い終えるや王太子妃は、球のように丸く首の細いデカンタから金器になみなみと水を注いだ。

「でもきっと」怯えるようにアンドレが口を開いた。「妃殿下は正しいのですわ」

 前夜の出来事など知りようもないフィリップは、驚きに震えながら、父と妹を代わる代わる見つめ、二人の言わんとすることを目つきから見抜こうとした。

「教義には反しますもの」王太子妃が言った。「枢機卿猊下は罪を犯すことになりませんの?」

「我ら枢機卿は、天が大食に怒りをぶつけると信じるには世間ずれしておりますし、ご馳走を振る舞ってくれる親切な魔法使いを火あぶりにするには人が良過ぎます」

「真面目な話ですぞ、猊下」男爵が言った。「誓って申し上げますが、これをすべてやったのは魔法使い、正真正銘の魔術師が、一時間前に妃殿下と伜の訪問を予言したのです」

「一時間前?」王太子妃がたずねた。

「それ以上ではありますまい」

「ではたった一時間で、このテーブルを設え、世界中に注文して果物を集め、トカイとコンスタンシアとキプロスとマラガからワインを送らせたというのですか? ではその魔術師よりあなたの方がよほど魔術師ではありませんの?」

「とんでもない。やったのはあの方、これもあの方ですわ」

「まさか! これもその方が?」

「これをご覧下され。このように用意万端整ったテーブルを地面から取り出す芸当など、ほかの誰にも出来ません」

「間違いありませんね?」

「誓って本当のことでございます」

「馬鹿な!」小皿をさげた枢機卿の声には紛れもない真剣味が備わっていた。「ご冗談でしょうな」

「猊下、滅相もございません」

「お宅にいるのは魔術師、それも本物の魔術師だと?」

「本物かどうかですと! この金製の食器を造ったのがあの方であっても驚きもしませんな」

「賢者の石か!」枢機卿の目が貪婪なまでに輝いた。

「まあ! さすが一生を石に捧げた枢機卿殿ね」

「実を申しますと、神秘的なことほど面白いことはありませんし、不可能なことほど興味を駆られることはないのですよ」

「では痛いところを突いたということ? 歴史上の偉人たちは謎を抱えていますものね。特に外交に長けている人は。実は枢機卿殿、わたしも魔法が使えますの。不可能なことや神秘的なことは叶わずとも……信じられないことくらいは当てられることもあるのですから」

 恐らくは枢機卿にだけはわかる謎かけであったのだろう、目に見えて狼狽を表わした。なるほど確かに、話をしているうち、穏やかな王太子妃の目にも、内なる嵐が呼んだ稲妻によって火がついていた。

 だがどうやらそれは稲光のみに終わり、雷鳴は轟かず、王太子妃は穏やかに先を続けた。

「それではタヴェルネ殿、宴を申し分ないものにするためにも、魔術師をご紹介下さい。どちらにおいでですの? どんな箱に仕舞っておしまいに?」

「殿下、むしろ箱に仕舞われたのは、わしと邸の方です」

「気を持たせますのね。ますますお会いしたくなりました」

 マリ=アントワネットの口振りからは感じの良さが消えてはいなかったが、とはいえ有無を言わせぬものがあった。王太子妃に給仕しようと息子と娘を従え立ったままだった男爵は、すっかり飲み込みラ・ブリに合図した。ラ・ブリは給仕もせずに著名な賓客に見とれており、この眼福を溜まりに溜まった二十年分の給金代わりにでもしているようだった。

 ラ・ブリが顔を上げた。

「ジョゼフ・バルサモ男爵をお呼びしてくれ」男爵が命じた。「王太子妃殿下がご会見を望んでいらっしゃる」

 ラ・ブリが立ち去った。

「ジョゼフ・バルサモ! 随分と変わったお名前ね?」

「ジョゼフ・バルサモ!」枢機卿も茫然として繰り返した。「確か聞き覚えがある」

 間を埋める者もないままに五分が過ぎた。

 不意にアンドレがおののいた。葉陰を歩む足音に、誰よりも早く気づいたのだ。

 枝が押し広げられ、ジョゼフ・バルサモがマリ=アントワネットの真正面に現れた。

 

**14章おしまい。**

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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