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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

探偵小説十戒(『短篇探偵小説傑作選』序文) ロナルド・ノックス 01

 今週は忙しくて『ジョゼフ・バルサモ』が一行も進まなかったので、代わりに以前途中まで訳していた「ノックスの十戒」前半部分を掲載しておきます。

 いまだにノックスの十戒のことを、ノックスが本気で書いたルールだと思っている人もいるらしいのが気にかかったため、誰が読んでもジョークだとわかるように『空想科学読本』『空想科学大全』の柳田理科雄風の文体で訳そうと試みたものの、あんまりうまくいかず、尻切れトンボになっていたものです。


ノックスの十戒

 探偵小説とはどのようなものか? 素人であれプロであれ探偵が主役の小説……というわけではどうやらないようだ。試しに小説を書いてみよう。主人公は職業探偵だ。奥さんとは仲が悪く、五十八章でほかの女と駆け落ちする。ふむふむ、かなり現代小説的な主人公じゃないか。しかし、これでは探偵小説にならないのである! 探偵小説の世界では、何よりも大事なのは謎を解くことである。それも謎の一つ一つは早い段階で読者に知らせなければならなないし、謎の内容はとびっきり面白くなくてはならないし、しかも最後には解決されなくてはならないのだ!

 そうだ、筆者は探偵小説と「扇情小説《スリラー》」は明確に区別している。扇情小説は厳密にはミステリではないのだ。扇情小説を読んで知的好奇心がうずいた人など聞いたことがないではないか。筆者がナイトクラブに出かけたとしよう。なんと! 碧眼の魅力的なご婦人がハンカチを落として気絶してしまったではないか! 筆者は紳士であるからもちろんハンカチを拾って差し上げるとしよう。おお、耳打ちされたぞ。なになに。「お願い、クロムウェル・ガーデン五六八には近づかないで。ダウン・ストリートの地下鉄駅で暴漢に襲われたら、頼むから思い出してちょうだい――ピンク・スポットの印を」――いやあ、すごい。扇情小説というのはどれもこれもこうした似たり寄ったりの幕開けなのである。こんなんでは知的好奇心など刺激されないっつうの。こんなのは謎ではない。ていうかどう考えても嘘じゃん。こんなことを筆者に言ってくれる人などいないだろうし、もし言われたとしたってわざわざクロムウェル・ガーデンまでは行きません。カンタンにわかることだが、この女性はペテン師だ。扇情小説の世界ではまず間違いなく、協力するよう悪人に脅されてやむなくペテンを働くヒジョーにいたいけな女性なのである。しかも黒幕は国際的犯罪集団であり、某国勢力にイギリスの国家機密を売り渡し、ヨーロッパの平和に終止符を打とうともくろんでいるのだ。ここから先は読む前からわかってしまう。多くの悪人は残虐だし、主役二人はアホウのように駆けっぱなしである。冒頭の問題は結末になっても解決されず、そのころには読者もすっかり忘れているという寸法だ。いや、もしかすると作者も忘れているんじゃないのか……。こんなの探偵小説じゃないわいっ!

 探偵小説の本質とは何なのだろうか? ひとまず一巻本について考えてみよう。短篇は……ゴホン。探偵小説とは、物語がスタートする前から筋書が始まっているものなのだ。いやなにも、序盤で登場人物を舞台に上げたり人物描写したりするなとは言いません。この点、フリーマン・ウィルス・クロフツ氏には苦言を呈したい。見ず知らずの人間の死体をしょっぱなから出されてもなあ……。物語が始まると同時に、読者の共感を呼ぶチャンスをみすみす逃すとは……。実はこれにはどんでん返しがある。本をおしまいまで読めば、なんとびっくり実は本当に見ず知らずの他人だったということがわかるのだ。なんじゃそりゃ、と思ったあなたは正しい。とはいうものの探偵小説であるのならば、遅くとも第三章までには、すでに為された犯罪、それもできれば殺人が、あとは捜査を待つばかりになってからいきなり幕を開けてほしいものである。本当の筋書はこの時点では終わっているというわけだ。もちろん、小さな事件ならそれからも起こっていいと筆者は思っている。しかし、名探偵が舞台に登場するころには、恐怖と暴力はとっくに役目を終えておいてもらいたい。犯罪者が罪を免れてしまいそうになったり、無実の人間が代わりに罪を着せられそうになったり、やはりそういうところにハラハラしたいではないか。ここまでくればおわかりいただけるだろう。探偵小説というものはほかのどんなフィクションとも違うんである。なにしろフツーの小説であれば、読者は「何が起こるのか?」にハラハラドキドキするものだ。こらこら、ポルノ小説のことは放っておきなさい。あれの勘所は「チョメチョメが起こるのか?」なんだから。しかし探偵小説の興味の中心は、「何が起きたのか?」にある。ホメロスもびっくりの倒逆法だ。

 普通小説とはお疲れ気味の歴史家がでっちあげたんではないか――そう仰るのもごもっともだろう。(歴史家なんて得てしてそんなものだが)過去の事実を説明することができないことに気づいたり、(歴史家なんてまずそんなことはしないものだが)できないことを白状しようとしたりして、机の前に座ったまんまで、自分の思い通りに動くキャラクターを作って文学らしきものを書きあげたのである。何しろ自分の頭のなかにしか存在しないのだから、こんなに楽なことはない。では探偵小説を初めに書いた作家は何だったのかといえば、科学者だったと考えていいのではないだろうか。解釈を許さない職業上の謎や、新たな解釈が必要な問題に新たな展望が開けたりすることに匙を投げた科学者が、思い切った行動に出たのだ。なんと、自分の解決できる問題を自分で作ってしまったのである。何といってもほかでもない当の本人が書きあげたんだから、解決できて当然だ。普通小説は人間の総合的な部分を刺激し、探偵小説は分析的な部分を刺激する。普通小説はプロットのさまざまな条件からその終わりまでを時間軸に沿って描き、探偵小説は終わりから条件まで時間を遡って描くのである。

 犯罪が起こったとおりにカメラの前で演じられ、フィルムを逆回転させてお手軽ミステリのできあがり!……こんなものインチキにすらならないじゃないか。お気の毒さまというほかない。それにしたってこれだけ専門化された芸術様式ともなれば、やはり専門的なルールがあらねばなるまい。探偵作家たるもの、ほかの作家とは違い、この自由化時代だというのにルールを破ることはまかりならんのである。現代の作家は韻も格もない詩を書いてみたり、プロットのない小説や意味のない散文にチャレンジしたりしているというのに……。自由でいいなあ、いや自由すぎてダメじゃん、という気もする。しかしいずれにしてもこの分野にそんな自由を持ち込むことはご法度だ。ガートルード・スタインみたいにわけのわかんない探偵小説を書いちゃいけません。なぜか? 探偵小説とは作者と読者二人のプレイヤーが対戦するゲームなのだ。途中まで読んだだけで、作者の目くらましに負けず犯人を正しく指摘したり犯行方法を解き明かしたりできれば、読者の勝ちだ。ひゃっほう! 最後の章になってもまんまと犯人を宙ぶらりんにして犯行方法を目くらましすることができれば、今度は作者の勝ちだ。ただしこれには条件があって、与えられたヒントによって謎を解き明かすにはどうしたらよかったのか――というのを読者に説明できなければならない。

 アクロスティックやクロスワードにも言えることだが、手がかりが『フェア』でなくては栄えある勝利は手にできない。つまりどういうことかというと、探偵小説にはルールがある、と筆者がいうとき、詩にはルールがあるというような意味ではなく、クリケットにはルールがあるというような意味なのだ――イギリス人ならクリケットやろ!というわけである。では『アンフェア』な探偵小説を書いてしまったらどうなるかのか? 趣味が悪いと烙印を押されるだけではない。なんとファウルを取られてレフェリーに退場を命じられてしまうのだ! 筆者は前々から主要なルールだけは書き留めておいたので、若干の註釈をつけてそれをここに書き写そうと思っている。あるいは評論家の方々からは、それはいつの時代の話なのだ?とつっこまれたり、もっと大事なことがあるだろうとお叱りを受けることもあるだろうが、探偵小説を愛するみなさんなら、ここに挙げたような法則がなくちゃ面白くないじゃん、ということはわかっていただけよう。面白くないじゃん――などと書いてしまったが、作家全員が一〇〇パーセントそうしているわけではないし、なにしろ本書[※訳者註。この「十戒」が序文として掲載されたアンソロジーを指す]に収録した作品のなかにも、明らかにルール違反をしているものがある。名作かどうかはご覧じろ。

一、犯人は物語の序盤で言及されている人物でなければならない! ただし、読者が犯人の考えていることを追うことができてはならない。それまで知りもしなかった謎めいた人物が突如としてどこからともなく姿を現したとしよう。なぜかこういうやつは船から現れることが多いのだが、まだ登場していない人物を冒頭から疑うなんて芸当はできるわけがない。これではせっかくのプレイも台無しである……。ルールの後半を上手く説明するのはちょっと難しい。なかでもクリスティ氏の名作のいくつかは手ごわい。結局は犯人であることが明らかになる登場人物に対して、煙に巻くような態度を仄めかすのはイカン!と言えばいいだろうか?

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『ジョゼフ・バルサモ』23-1 「デュ・バリー伯爵夫人の小起床の儀」

第二十三章 デュ・バリー伯爵夫人の小起床式

 さて、ここらで読者にお許し願って、ションとジャン子爵がシャロン(Châlons)の道に馬車を走らせている間に、もう一人の一族の元へとご案内しよう。

 以前は王女マダム・アデライードが暮らしていたヴェルサイユの一室に、ルイ十五世陛下は一年ほど前から寵姫になったデュ・バリー伯爵夫人をあてがっていた。この政変が宮廷にどんな影響を及ぼすものか、ずっと前から気づいていないわけでもないのだが。

 この寵姫、気ままで物に頓着せず、愛嬌があって何とも無邪気、ひどい気まぐれだったものだから、静謐だった宮殿を賑やかな場所に変えてしまった。何はなくとも陽気に振る舞わないと耐えられない世界の住人なのである。

 部屋の持ち主がふるう権力に関心をお持ちであれば、恐らくこの限られた部屋からは祝いの指示や宴の合図ばかりが聞こえたはずだ。

 だが案ずるに、この宮殿の一部であるきらびやかな階段について特筆すべきは、驚くべき数の人波である。それこそ朝の九時から、着飾った訪問客がその階段を上り、慎ましやかに控えの間に坐すのである。控えの間には珍しい品々が並べられていたが、聖地に招かれた選ばれし者たちが崇め奉る偶像ほど不思議なものではない。

 ラ・ショセ界隈で起こった出来事を先ほどお話ししたばかりだが、その翌日の朝の九時頃、つまり聖時(heure consacrée)のことである。ジャンヌ・ド・ヴォベルニエ(Jeanne de Vaubernier)が刺繍入りのモスリンの部屋着に身を包み、軽やかなレース越しに妙なる足と石膏のような腕を覗かせて、ベッドから出た。ジャンヌ・ド・ヴォベルニエ即ちランジュ嬢であり、ついには後見役ジャン・デュ・バリー氏のおかげをもってデュ・バリー伯爵夫人と相成った。ヴィーナスに似たところは一つもないが、ヴィーナスよりも美しい――事実よりも虚構を好む者ならばそう言うであろう。

 見事にカールした栗毛の髪、青く血管の透けた白繻子の肌、沈んだかと思えば輝いたりを繰り返す瞳、真紅の筆で描かれたような小さな口、開けば必ず二列の真珠が顔を見せた。頬、顎、指に浮かぶえくぼやくぼみ。ミロのヴィーナスに生き写しの喉、蛇のようにしなやかで、ほどよい肉付き。これが小起床の謁見準備をしていたデュ・バリー夫人である。ルイ十五世陛下は、食卓の下のパン屑を無駄にする勿れなる古人の格言に倣って、夜のお勤めもあるというのに朝の謁見も欠かさなかった。【※マタイ15:27、マルコ7:28?『然(しか)り、主(しゅ)よ、小狗(こいぬ)も主人(あるじ)の食卓(しょくたく)よりおつる食屑(たべくず)を食(くら)ふなり』、『然(しか)り、主(しゅ)よ、食卓(しょくたく)の下(した)の小狗(こいぬ)も子供(こども)の食屑(たべくず)を食(くら)ふなり』】

 寵姫はしばらく前から目を覚ましていた。八時にはベルを鳴らし、呼ばれた侍女がまずは厚い緞帳を、次いで薄めの帳を開けて、少しずつ部屋に明かりを入れた。喜びに溢れたその日の陽射しが招じ入れられ、数々の神話的遺産の記憶をたどりながら、この美しいニンフを包み込んだ。ただしこのニンフ、神々に愛でられしダフネの如くに身を翻したりはせず、時には人々に愛でられし者をこちらから迎えに出向くほどの人間臭さ。斯かるが故に、金縁真珠で飾られた手鏡に微笑みかけた柘榴石の如き瞳には、既にむくみも躊躇いもなかった。先ほど途中まで説明していたしなやかな体躯が、甘い夢に震え寝んでいたベッドから滑り抜けると、そこは白貂の絨毯。シンデレラも斯くやとばかりの足が、室内履《スリッパ》を持つ手とご対面。その室内履と来ては、片方だけでもジャンヌの故郷の木樵には一財産という代物だった。

 この魅力溢れるご婦人が起き上がり、ますます生き生きとして来たところに、マリーヌのショールが肩に掛けられた。続いて、室内履からちらりと覗いたぽってりした足に、きめ細やかな薔薇色の絹靴下が着けられたが、肌の艶とて絹に劣っているわけではない。

「ションから便りはなかった?」とまず侍女にたずねた。

「ございません」

「ジャン子爵からも?」

「ございませんでした」

「ビシは受け取ったかしら?」

「今朝、送られたところでございます」

「手紙もなし?」

「手紙もございません」

「ああ、こうやって待つのって退屈なものね」伯爵夫人は可愛らしい口を尖らした。「百里の距離を一瞬にしてやり取りすることって永遠に出来ないのかしら? ああ、もう! 今朝あたしに会う人は気の毒ね! 控えの間は結構混んでいた?」

「おたずねなさるまでも?」

「ねえ聞いて、ドレ。王太子妃がやって来れば、あたしは見捨てられたっておかしくないでしょ? 太陽と比べれば、ちっちゃな星に過ぎないんだもの。どなたがいらっしったの?」

「デギヨン殿、スービーズ公爵、サルチーヌ殿、モープー院長です」

「リシュリュー公閣下は?」

「まだお見えではないようです」

「今日も昨日も! 言ったでしょう、ドレ。外聞を憚っているのよ。アノーヴル邸に伝令を送って、臥せってらっしゃるのかどうか確かめて頂戴」

「かしこまりました。一斉にお会いになりますか、それともお一人ずつ内謁を?」

「内謁を。サルチーヌ殿にお話があるの。お一人だけ入れて頂戴」

『ジョゼフ・バルサモ』22-2

「こっちとしては、せっかくのお言葉だが車を出すつもりだと申し上げよう!」子爵は馬車から飛び降りると同時に剣を抜いた。

「いずれわかりますよ」フィリップも剣を構えて刃を合わせた。「いいですね?」

「中尉」フィリップには六人の部下がついていたが、伍長がたずねた。「中尉、我々は……?」

「じっとしていろ。これは個人的な問題だ。では子爵、いつでもどうぞ」

 ションが鋭い叫びをあげた。馬車が井戸のように深ければ、というのがジルベールの願いだった。――もっとしっかり隠れることができるのに。

 ジャンが先に動いた。ジャンはまれに見る剣の使い手だった。剣術では肉体的な能力よりもむしろ読みが物を言う。

 だが明らかに、怒りのせいで力を出し切れていなかった。一方フィリップは剣《エペ》を小剣《フルーレ》のように扱い、まるで道場で練習しているような動きを見せていた。

 子爵は身体を引き、前に出、右に飛び、左に飛び、声をあげて、連隊の軍事教官のような突きを入れた。

 一方フィリップは歯を引き締め、目を見開き、像のように動かず騒がず、すべてを観、すべてを読んでいた。

 誰もが無言で見つめていた。ションも同様だ。

 二、三分が経ち、ジャンのフェイント、掛け声、引きはことごとく無駄に終わったが、相手の動きを見極めていたフィリップもまた一度も突きを入れることはなかった。

 不意に、ジャン子爵が後ろに飛び退き声をあげた。

 と同時に血が袖口を染め、指の間からぽたぽたと滴が流れた。

 フィリップの反撃の一打が子爵の前腕を捕えたのだ。

「傷を負いましたね、子爵」

「ふん、そんなことわかっている!」ジャンの顔からは血の気が失せ、剣を落とした。

 フィリップがそれを拾って手渡した。

「さあ、もう馬鹿な真似はやめましょう」

「くだらん! 馬鹿な真似をしたというのなら報いは受けたよ」子爵が唸った。「来てくれ、ションション」呼びかけられた妹は、馬車から飛び降り兄を助けに駆け寄った。

「お許し下さい」フィリップが言った。「ですがこれは本官の過失ではありませんし、衝動に駆られてご婦人の前で剣を抜いてしまったことは後悔しております」

 そして深いお辞儀をしてその場を離れた。

「馬を外して、元の場所に戻して下さい」と宿駅の主に伝えた。

 ジャンが拳を突き上げたが、フィリップは肩をすくめた。

「おや、間の悪い!」主が声をあげた。「三頭戻って来ましたよ。クルタン! クルタン! この方の輿に急いで繋いでくれ」

「ですが……」御者が言った。

「さあさあ待ったはなしだ。お客様はお急ぎだ」

 それでもジャンがなおも毒づいたため、主が声をかけた。

「旦那さま、お嘆きなさらんことです。こうして馬が届いたんですから」

「結構なことだ!」ジャンはうめいた。「半時間前に届いていればよかったんだ」

 傷ついた腕で足を叩いた。その腕にも今はションのハンカチが巻きついている。

 その間フィリップは、自分の馬に跨り、何事もなかったかのように指示を与えていた。

「出発しましょう」ションが兄デュ・バリーを輿の方に引っ張った。

「アラブ馬はどうなる? 畜生! 悪魔に食われちまえ! 今日はとことん厄日だな」

 そう言ってジャンは輿に戻った。

「ほらほら!」ジルベールを見て言った。「これじゃあ足を伸ばすことも出来ないじゃないか」

「お邪魔でしたらお詫びいたします」

「ほらジャンったら。哲学者ちゃんは放っておいてあげて」

「何のために座席に収まってるんだ、まったく!」

 ジルベールは赤面した。

「座席に収まってはいてもぼくは従僕ではありません」

「ほざいたな!」

「降ろして下さい。ぼくは降りますから」

「ああ、糞ったれめ、降りるがいい!」

「駄目よ、駄目! あたしの正面にいらっしゃい」ションが腕を伸ばして引き留めた。「ここなら兄の邪魔にはならないわ」

 そう言っておいてから子爵の耳に口を寄せた。

「この子はあなたに怪我させた男を知ってるのよ」

 歓喜の光が子爵の目によぎった。

「そいつはいい。だったらここに置いておこう。あの士官の名は?」

「フィリップ・ド・タヴェルネ」

 と、ちょうどその時、若き中尉が馬車に近づいて来た。

「おや、そこにいましたか」ジャンが声をかけた。「今でこそ悠々と構えていらっしゃるでしょうが、運命は巡るものですからね」

「あなたに幸運が訪れた暁には、それもわかるでしょう」フィリップは動じることなく答えた。

「ええ、まったくだ。そのうちわかりますよ、フィリップ・ド・タヴェルネ !」不意打ちで名指しして、どんな反応を見せるのか試みたのだ。

 結果はというと、フィリップは驚いて顔を上げ、そこにはかすかな懸念がよぎっていた。だがすぐに元通りになり、至って恭しく帽子を取った。

「良い旅を、ジャン・デュ・バリー殿」

 馬車はすぐに駆け出した。

「くたばっちまえ!」そう言って子爵は顔をしかめた。「どうもおれの傷はひどいようだな、ション?」

「次の宿駅でお医者さんを呼びましょう。この子には何か食べさせておけばいいわ」ションが答えた。

「ああ、そうだな。何も食べていなかった。おれは苦しくて飯どころじゃない。今は喉がからからだ」

「オー・ド・ラ・コートを一杯飲む?」

「ああ、頼む」

「失礼ですが、一つ申し上げてよければ……」ジルベールが口を挟んだ。

「構わん」

「あなたのような症状に一番良くないのがリキュールなんです」

「そうなのか?」子爵はションの顔を見た。「すると、この哲学者君は医者なのか?」

「医者ではなく、まだ医者の卵です。でも軍人向けの論文で読んだのですが、負傷兵に絶対にしてはならないことが、リキュール、ワイン、コーヒーを与えることでした」

「ほう! 実際に読んだのか。ではもう何も言うまい」

「一つだけ構いませんか。ハンカチを貸していただけたなら、泉水に浸して腕に巻いて差し上げます。そうすればだいぶ楽になるはずです」

「そうして頂戴。お願い、停めて頂戴」ションが御者に向かって声をあげた。

 御者が車を停め、ジルベールは子爵のハンカチを小川に浸した。

「あの坊主がいると、話をするには都合が悪いな!」デュ・バリー子爵が言った。

「方言で話しましょう」

「ハンカチ諸共ここに置き去りにして車を出すよう御者に言ってやりたいね」

「駄目よ。あの子は役に立つわ」

「何の役に?」

「王妃がらみで。ついさっきも、決闘相手の名前を教えてくれたばかりじゃない」

「それもそうだな、そばに置いておくか」

 ちょうどその時、冷たい水に浸したハンカチを持ってジルベールが戻って来た。

 腕に布を巻きつけたところ、ジルベールの言った通り随分と楽になった。

「なるほどな。だいぶ楽になった。話をしようじゃないか」

 ジルベールは目を閉じて耳を傾けた。ところがその備えは裏切られることとなった。ションは兄の提案に、パリっ子の耳にはちんぷんかんぷんの鮮やかな方言で答えたのだ。くぐもった子音の唸りが音楽的な母音の上で転がされたために、かろうじてプロヴァンス方言だということがわかるぐらいであった。

 ジルベールがどれだけ感情を抑えようとしても、落胆の仕種をションの目から隠すことは出来なかった。ションは慰めるように優しく微笑みかけた。

 微笑みの意味は明らかだった。ジルベールは大事にされている。自分のような虫けらが、王の恩寵を授けられた子爵にそんな態度を取らせているというのだ。

 アンドレがこの馬車にいるぼくを見ていたらなあ!

 ジルベールの自惚れがふくれあがった。

 ニコルのことは考えもしなかった。

 兄と妹は方言で会話を続けていた。

「これはこれは!」子爵が突然声をあげ、扉に身体を押しつけて後ろを見た。

「何?」ションがたずねた。

「アラブ馬のご登場だ!」

「アラブ馬って?」

「おれが買おうとしていた馬だよ」

「あら、乗っているのはご婦人よ。何て凄いのかしら!」

「どっちの話だ……? 女か馬か?」

「ご婦人よ」

「だったら声をかけてみてくれ、ション。おれよりもお前の方が安心するだろう。あの馬になら千ピストールやってもいい」

「ご婦人になら?」ションが笑ってたずねた。

「破産しちまうよ……いいから声をかけてくれ!」

「マダム! マダム!」ションが叫んだ。

 瞳は大きく黒く、白い外套を纏い、長い羽根のついた灰色の帽子に額が隠れていた。ションが呼びかけたにもかかわらず、その若い婦人は道の脇を矢のように擦り抜け、声を出していた。

「Avanti《進め》! ジェリド! Avanti《進んで》!」

「イタリア人か」子爵が言った。「たいした別嬪じゃないか! こんな怪我をしていなけりゃ、馬車から飛び降りて追いかけてくんだがな」

「今の人のことは知っています」ジルベールが口を開いた。

「何だと! この坊主は地方年鑑か? 誰も彼もを知ってるじゃないか!」

「何ていう人なの?」ションがたずねた。

「ロレンツァという人です」

「どんな人?」

「魔術師の奥さんです」

「魔術師って?」

「ジョゼフ・バルサモ男爵です」

 兄と妹は見つめ合った。どうやらこんな会話を繰り広げていたようだ。

「この子を拾ったのは正解だったでしょ?」

「まったくだ」

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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