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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』25-1 「振り子時計の間」 アレクサンドル・デュマ

第二十五章 振り子時計の間(La salle des Pendules)

 ヴェルサイユ宮の大広間、振り子時計の間と呼ばれる部屋の中に、一人の若者がいた。顔は薔薇色に、目は穏やか、歩く姿は不格好、腕を下げ、頭を垂れている。十六、七であろうか。

 胸の上には、紫天鵞絨の服に映えて、ダイヤモンドが輝いていた。一方、腰に垂れた青綬は、銀刺し白繻子の上着に留められた勲章でしわがよっていた。【※おそらくDuplessis作のルイ十六世の肖像画のような恰好】

 この顔を見て、ブルボン王家に特有の厳めしさと人のよさ、威厳と穏やかさを認めぬ者はおらぬだろう。さらには、読者にご紹介したこの若者こそ、ひときわ誇張されたブルボン王家の絵姿でもあった。とは言うものの、ルイ十四世とアンヌ・ドートリッシュ以来、こうした高貴な顔立ちはどうやら親から子へと退化しているらしく、件のご先祖様が授けたその顔立ちも、寸分違わず受け継がれたとは言えぬのは明らかだった。複製版画の末孫であるこの生来の芸術作品も、表情を詰め込みすぎの肖像画に変わってしまったことは否めない。素描画がいつしか戯画に変じてしまったことも認めざるを得まい。

 確かにルイ=オーギュスト、ベリー公、フランス王太子、後のルイ十六世は、ブルボン家特有の高い鷲鼻をしていた。額はやや平たく、ルイ十五世と比べると随分と後退していた。曾祖父から受け継いだ二重顎はかなり目立っており、当時はまだ痩せていたとはいえ、顎が顔の三分の一近くを占めていた。

 また、足取りは遅く覚束ない。身体のバランスはよいのに、足や肩の動きがどうにもぎこちない。ただ腕だけは、ことに指だけは、生き生きとしなやかに力強く、ほかの人間であれば額や口や目に現れるような特徴を有していた。

 王太子は振り子時計の間を無言で歩きまわっていたが、まさにこの部屋こそ、八年前、国内のイエズス会士を追放せよという高等法院の判決をルイ十五世がポンパドゥール夫人に手渡した場所であった。王太子はこの部屋をぶらつきながら考えに耽っていた。

 だがとうとう待つことにも飽いたらしく、いや考え事に耽るのに飽いたらしく、部屋に飾られた時計を一つ一つ眺めては、カール五世のように、動かしがたい誤差を規則正しい大時計に見つけて面白がった。おかしなことではあるが、人が手入れしているかどうかとは無関係に、機械そのものによる違いがはっきりと現れていた。

 やがて奥にある大時計の前で立ち止まった。その大時計は現在も同じ場所に置かれてあり、精巧な機械仕掛によって、日、月、年、月齢、惑星の運行も知ることが出来る。即ち、緩やかに生から死へと向かう、人間という名のより精妙な機械に関わるあらゆる移り変わりを。

 王太子は、つとに感心していたこの振り子時計を興味津々と調べ始めた。右から覗き込み、左から覗き込み、針のように鋭い歯を持つ某かの部品がさらに鋭い発条《ぜんまい》と噛み合っているのを確かめた。次に、横から正面に戻ると、歯のついた脱進機が秒針に合わせて滑るように動くのを目で追った。長い脚を使って波一つ立てず池や泉を滑る水すましのように滑らかだった。

 過ぎ去った時間の生き証人を見つめてからほどなくのことだ王太子は、随分と長い間待っていることを思い出した。ここで待っていると国王に伝えに行かせた時には、既に長い時間を潰していたのだ。

 見つめていた針が不意に止まった。

 と同時に、魔法にでもかけられたように、規則正しく動いていた銅製のからくりも動きを止めた。鋼の回転軸が宝石の隙間で一休みをし、直前まではひっきりなしに音を立てて動いていた機械に沈黙が訪れた。

 からくりは止まり、振り子時計は活動をやめていた。

 何か原子のような小さな砂粒でも歯車に詰まったのだろうか? それとも、一休みしているのはこの機械の守護神に過ぎず、果てしなく動き続けることに疲れ果ててしまったのだろうか?

 時計が卒中を起こして急死してしまったのを見て、自分が何のためにここに来たのか、どのくらい待っていたのかも、頭から飛んでしまった。失念してしまったのはそれだけではない。とこしえの時間とは振り子が音を立てて刻むものではないことも、少しばかり機械が止まろうとも時代の行路に遅れたりはしないことも。この世の始まる遙か以前からこの世の終わったその後まで、万古不易の神の御手になる時計の上に、時は永遠に刻まれることも。

 そこで王太子は、守護神の眠る神殿のガラス扉を開けて、もっと近くで見てみようと頭を時計の中に突っ込んだ。

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『ジョゼフ・バルサモ』24-6(終)

「いや行こう。では失礼、伯爵夫人。余がどれだけ悲しくどれだけ困っているかお考え下さい」

「行っておしまいになるんですか! これからショワズールが来るという時に?」

「何をお望みです? 奴隷の長は国王なり。哲学者諸氏に聞かせたいものです。王とは如何なるものか。それもフランス国王とは如何なるものなのかを」

「陛下、行かないで下さい」

「いやいや。王太子を待たせるわけにはいかない。娘たちのことしか愛していないと前に言われてしまいましたからね」

「だけど、ショワズール殿に何を話せば?」

「ああ、余のところに来るよう伝えて下さい」

 何か言われる前に切り上げようと、怒りで震えている伯爵夫人の手に口づけするや、足早に姿を消した。月並みなごまかしや時間稼ぎで勝ちを収めるや、勝ち戦のまま逃げ出すのはいつものことである。

「またお逃げになるのね!」伯爵夫人は口惜しそうに手を叩いた。

 だが王はこの言葉すら聞いていなかった。とうに扉は閉められ、控えの間を通りながらこう言っていたのだ。

「入り給え、諸君。伯爵夫人のお許しが出た。だがジャンが事故に遭って悲しんでいることを忘れずに」

 廷臣たちは驚いて見つめ合った。子爵がどんな事故に遭ったのか知らなかったのだ。

 もしや死んだのでは。

 多くの者がその場に相応しい表情を作った。喜んでいる者ほど悲しげな顔をして、部屋に入っていった。


 
 これで第24章はお終いです。次は第25章「振り子時計の間」。

『ジョゼフ・バルサモ』24-5

「ああ、もう! これだけじゃどうにもならないのかしらね、サルチーヌさん」

「無論ですが、あなたのお考えが……」

「あたしの考え? あなたはかばってくれやしない。それだけよ。それどころか、あたしのことなんか見殺しなんでしょう!」夫人はかっとなって叫んだ。

「落ち着いて下さい。見殺しになんかさせませんし、かばってあげますとも。だから……」ルイ十五世がなだめた。

「だから?」

「だから、ジャンを襲った人間はそれなりのつけを払うことになりますよ」

「ええそうね。物を壊して、仲直りってわけね」

「罪を犯した人間から、つまりこのタヴェルネ氏からその機会を奪うのは公平【?】ではないでしょう?」

「そうかしら。公平だとしか思えませんけど。今あたしにしてくれていることも、劇場で兵士に殴られたサン=トノレ街の第一商人にだっておんなじことをなさるでしょう。他人と同じなんて真っ平です。目を掛けている者にも無関係の者にも同じ振舞をなさるというんでしたら、いっそ孤独と闇を選びますわ。暗殺される危険のない分、ましですから」

 ルイ十五世は悲しげに答えた。「伯爵夫人。目が覚めた時、余はたいへん気分よく幸せで満ち足りていた。その素晴らしい朝が台無しだ」

「素晴らしいですって! じゃああたしも素敵な朝を過ごしてたとでも? 家族が殺されそうになったというのに?」

 周囲で蠢いているらしい嵐を感じ、国王は内心では恐れを覚えたものの、殺されるという言葉に微笑む余裕は失わなかった。

 伯爵夫人は怒りを爆発させた。

「そう? そんなふうに同情なさるのね?」

「まあまあ、そう怒らずに」

「怒らずにはいられません」

「それは良くない。あなたには笑顔が似合うのに。怒っていては台無しです」

「それで? 可愛ければ苦しまなくて済むというのなら、いくらでも可愛くしますけど?」

「落ち着いて下さい」

「嫌です。お選び下さい。あたしか、それともショワズールか」

「無理な事を仰る。二人とも大事な人間だ」

「ではあたしが引き下がります」

「あなたが?」

「ええ、向こうの好きにさせてあげます。あたしは口惜しくて死んじまいますわ。でもショワズール殿は満足なさるでしょうし、それであなたも気が晴れますでしょ」

「いいですか、伯爵夫人。ショワズールはあなたのことを少しも憎んではいない。好感を抱いていますよ。要するに紳士なのだ」この最後の言葉がサルチーヌによく聞こえるように注意しながら、王は答えた。

「紳士ですって! 馬鹿にしないで。紳士が人を殺そうとしますか?」

「まだ決まったわけではないでしょう」

「それに――」と、サルチーヌが勇気を出して口を挟んだ。「剣士たちが喧嘩するのはよくあることですし、得てして激しくなるものでございます」

「サルチーヌ、あなたもですか!」

 総監はこの「お前もか!」の意味を悟り、伯爵夫人の怒りに恐れをなした。

 不吉な沈黙が訪れた。

 この沈鬱な雰囲気を打ち破ったのは王だった。「ション、そなたのせいですよ」

 ションは申し訳のように目を伏せた。

「伯爵夫人が心痛の余り無礼にも取り乱したのだとしたら、お詫びいたします」

「姉妹思いだな」王は呟いた。「伯爵夫人、どうか許しておくれ」

「ああ、陛下! もちろんでございます……ただ、あたしリュシアンヌに参ります。それからブローニュに」

「シュル=メールの方ですか?」

「ええ、臣下が国王を怖がらせるような国にはいたくありません」

「伯爵夫人!」この侮辱にルイ十五世が声をあげた。

「まだこれからも陛下を尊敬申し上げたいので、発つことをお許し下さい」

 伯爵夫人は立ち上がりながら、国王の反応を横目で探った。

 ルイ十五世は疲れたように溜息をついた。溜息の意味は明らかだった。

 ――もうこれにはうんざりだ。

 ションは溜息の意味を悟った。これ以上喧嘩の話を進めるのは利口ではない。

 伯爵夫人の服に触れて思いとどまらせ、王のもとに向かった。

「陛下、伯爵夫人は子爵を思う気持がちょっと強すぎたんです……過ちを犯したのはあたしなんですから、償いもあたしがいたします……一臣下として申し上げますが、兄に対して公正なる裁きをお願いいたします。あたしは誰も告発いたしません。賢明なる国王陛下なら見定めて下さいますでしょう」

「余も同じことを考えていました。裁き。それも公正なる裁きです。罪を犯していないのなら非難されず、罪を犯したのなら罰せられるのです」

 しゃべっている間も伯爵夫人を見つめていた。出来ることなら、惨めに終わってしまった健やかな朝を、一時なりとも取り戻したいと思いながら。

 伯爵夫人は心立ての優しい人だった。この部屋を離れたところでは、国王はもてあました心を悩ませ心を痛めているのかと思うと、申し訳なく感じた。

 既に戸口に歩き出していたために、振り返るような形になった。

「ほかのお話をしますか?」愛らしく白旗を振った。「でもあたしが疑問を持っている限りは、疑いは消えませんわ」

「あなたの疑いは尊重しますとも」国王は断言した。「それに少しでも確信に変わればぴんと来るのでしょう。だがもっと簡単な方法がありはしませんか」

「といいますと?」

「ここにショワズールを呼べばよい」

「まあ、来るわけがないのはご存じのくせに! あの方は愛妾の部屋に入ることなんて拒みむでしょう。妹の方は別ね。あの人はそれが望みですものね」

 王が笑い出した。

 それに力を得て伯爵夫人は続けた。「ショワズール殿は王太子殿下を真似てらっしゃるのね。誰だって評判を落としたくはありませんから」

「王太子は信心深いのですよ」

「ショワズール殿は偽善者ね」

「ありがたいことにここでショワズール殿に会えますよ。今から呼びましょう。国の仕事だと言えば来ざるを得まい。すべてを目撃したションの目の前で、説明してもらおうじゃありませんか。裁判でいうところの対質と行こうか、どうだね、サルチーヌ? ショワズールを呼びにやってくれ」

「じゃああたしは尾巻猿を呼ぼうかしら。ドレ、尾巻猿! 尾巻猿を!」

 化粧室に控えていた小間使いにかけられたこの言葉、控えの間にもしっかり聞こえていた。というのも、扉を開けて使いの者をショワズールの許に送り出した時、喉を鳴らすようなしゃがれ声が聞こえて来たからだ。

「伯爵夫人の尾巻猿とは、私のことですね。今行きます、さあお待たせしました」

 こうして絢爛豪華な服装をした傴僂が颯爽と現れた。

「Tresmes 公!」伯爵夫人は苛立って声をあげた。「でもあたしが呼んだのはあなたじゃありませんの」

「尾巻猿をお呼びになったではありませんか」言いながら公爵は、国王、伯爵夫人、サルチーヌの三人にお辞儀をした。「廷臣の中で私ほど醜い猿はおりませんぞ。ですから駆けつけたのです」

 そう言って公爵は尖った歯を剥き出して笑って見せた。これには伯爵夫人も笑わずにはいられなかった。

「ここにいて構いませんか?」それが生涯かけて望んでいた恩寵だとでも言わんばかりであった。

「陛下におたずねなさいな。ここの主なんですから」

 公爵は頼み込むように王の方を向いた。

「ここにいなさい、公爵」気晴らしが増えることを喜んで、王は答えた。

 その時、取次の者が扉を開けた。

「おや」飽いたように王がたずねた。「もうショワズールが?」

「いいえ、陛下。王太子殿下がお話しになりたいそうです」

 王太子は自分側だと思っていた伯爵夫人は躍り上がったが、抜かりのないションの方は眉をひそめた。

「そうか。王太子は何処に?」国王が苛立たしげにたずねた。

「陛下のお部屋に。お戻りになるのを待っていらっしゃいます」

「落ち着く暇などあるわけがないであろう」と叱りつけた。

 だが王太子と接見すれば一時的にでもショワズールとまみえることを避けられると気づき、考え直した。

『ジョゼフ・バルサモ』24-4

「殺されそうになっただけです」

「ひどいことだ!」王は他人への同情心は少ししか持ち合わせていなかったが、同情を表す術は知っていた。「人殺しか! だがこれは問題ではないかね、サルチーヌ」

 サルチーヌは国王ほど心配そうには見えなかったが、内心は国王以上に動揺していた。デュ・バリー姉妹に近づき、不安げにたずねた。

「いったいそのような惨禍が本当に起こったのでしょうか?」

「生憎ですが、起こったんです」ションは涙ぐんでいた。

「人殺しですか!……それはどのような状況で?」

「待ち伏せされていたんです」

「待ち伏せか!……いやしかしサルチーヌ、これはそなたの仕事ではないか」

「お話し下さい、マダム。ですが恨みの余りに事実を誇張しませぬようお願いいたします。より正確なことがわかればより適正な判断が出来るでしょうし、細かく冷静に検討してみれば些細なことだったというのもよくあることです」

「誰かから聞いたわけじゃないの」ションが声を強めた。「あたしはこの目で事件を見てたんだから」

「よかろう! 見たことを話してくれぬか」王が水を向けた。

「一人の男が兄に襲いかかったんです。手にした剣をふるって兄に重傷を負わせました」

「一人だけでしたか?」サルチーヌがたずねた。

「とんでもありません。ほかに六人の男がいました」

「災難だな!」国王は伯爵夫人から目を離さずに、夫人の嘆き具合に応じて自分の出方を決めようとした。「喧嘩の押し売りか!」

 伯爵夫人の顔を見つめたが、面白がっている様子はない。

「傷を負ったのですね?」そこで気遣うような口調に変えた。

「ですが原因は何なのですか?」話を逸らそうとするションに食らいつき、警視総監はなおも真実を見定めようとたずねた。

「たいしたことじゃありません。宿駅の馬のことでいざこざがあったんですわ。今朝には戻る約束をしていたものですから、あたしのために急いでくれたんです」

「これで決まりだろう、サルチーヌ?」

「間違いないとは思いますが、まだ聞きたいことがございます。襲撃者の名前はわかりますか? 肩書きや身分は?」

「身分ですか? 軍人です。王太子付き近衛将校だったと思いますけど。名前は確か、バヴェルネ、ファヴェルネ、タヴェルネ、そう、タヴェルネ」

「明日にはバスチーユ入りでございます」

「あら、駄目よ!」伯爵夫人が言った。「せっかくこれまで政治的に沈黙を守って来たのに!」

「駄目とはどういうことだね?」王がたずねた。「何故、犯罪者を投獄してはならぬのだ? 余が軍人を嫌っているのは知っているだろうに」

「陛下」伯爵夫人の言葉は揺るぎなかった。「申し上げておきますけど、デュ・バリー子爵を襲った人間には何も起こりませんわ」

「これはまた異な事を。どういうことか説明してくれぬか」

「簡単なことです。かばう人がいますから」

「いったい何者が?」

「そそのかした人間ですわ」

「我々の意に反してかばう人間がいるというのか? 伯爵夫人、それは大問題ではないか」

「マダム」どうやらひと嵐来るぞと悟り、サルチーヌは話を逸らそうとして口ごもった。

「ええそう。陛下の意に反して、です。それで充分じゃありませんの。あなたは君主じゃありませんか」

 サルチーヌの予想通りになったが、王は動じなかった。

「そうか。どうやら政治問題の話になりそうだし、ただの決闘におかしな理由を見つけることになりそうですね」

「あら、あたしはもう用済みってわけね。殺人未遂もいつの間にかただの決闘になってるし。もう出所はわかってらっしゃるのね」

「なるほどそう来ましたか」ルイ十五世は泉の蛇口をひねった。鳥が歌い、魚が泳ぎ、役人が現れ始めた。

「誰の差し金かご存じないの?」夫人は足許に寝そべっているザモールの耳をいじくった。

「もちろんです」

「疑わしい人も?」

「誓いますよ。あなたはどうなのです?」

「あたし? あたしは知ってます。陛下にも申し上げるつもりですけど、新しい情報なんて何一つありません。そのことは誓えますわ」

「伯爵夫人、いいですか」ルイ十五世は威厳を取り戻そうとした。「王に向かって事実と反することを言うつもりですか?」

「陛下、確かにあたしは少しかっとなっているかもしれません。ですけど、ショワズール殿が兄を殺すのをおとなしく見ているとお思いでしたら……」

「ああ、ショワズールでしたか!」国王は大声をあげた。意外な名前だったわけでもあるまいに。何しろ十分来、会話の中にその名が出ては来ぬかと冷や冷やしていたのだ。

「ショワズールがあたしの一番の敵だっていうことから、陛下はどうしても目を逸らそうとなさるんですね。あたしは目を逸らしたりしません。だって向こうの方で憎悪を隠そうともしないんですもの」

「人を憎むのと殺すのでは大違いですよ」

「ショワズールにとっては、すべてが繋がってますもの」

「ああ、いい子だから。また政治の話に舞い戻ってしまった」

『ジョゼフ・バルサモ』24-3

「そうでしたか! 一つお願いがあります」

「何ですの?」

「あの人たちのことは放っておくように、あなたの方もそのままに。優勢なのはあなたなんですから」

「お気の毒な外務大臣! お気の毒な海軍大臣!」

「伯爵夫人、お互い政治の話はやめましょう」

「結構よ。でもあたし一人でやる分には止められませんわ」

「ははあ、お望みとあらば」

 伯爵夫人は果物籠に手を伸ばし、甘橙《オレンジ》を二つ手に取ると、代わる代わる放り上げた。

「飛んでけ、プララン! 飛んでけ、ショワズール!」

「ふむ! 何をやっているのです?」

「陛下からいただいた権利を行使しているのですわ。大臣の首を飛ばしているんです」

 この時、ドレ(Dorée)がやって来て、伯爵夫人に耳打ちした。

「ええ、もちろんよ!」

「どうしました?」王がたずねた。

「ションが戻ったんです。陛下にお目通りを願っております」

「入りなさい! そういえば四、五日前から、何かわからぬが何か足りないような気がしていたのだ」

「ありがとうございます、陛下」ションが入室し、伯爵夫人に耳打ちした。

「終わったわ」

 伯爵夫人が喜びの声を洩らした。

「おやおや、何があったのです?」ルイ十五世がたずねた。

「何も。また会えたのが嬉しいだけですわ」

「それは余も同感だ。おはよう、ション」

「陛下、伯爵夫人と少しお話ししても構いませんか?」

「ああ話し給え。その間、あなたが何処にいたのかサルチーヌにたずねることにしよう」

「陛下」サルチーヌは質問を避けようとした。「少しお時間をいただきたいのですが」

「何のためだね?」

「大変重要なお話がございます」

「そうか! 時間が余りないのだよ」ルイ十五世はまず欠伸をしてから答えた。

「二言で済みますので」

「何についての話だね……?」

「千里眼、神秘家、奇跡売りについてでございます」

「ああ、山師のことか。芸人の勅許状を与えてやりなさい。それほど怖がらずともよいだろう」

「陛下、敢えて申し上げますが、事態は陛下のお考え以上に深刻なのです。フリーメーソンは着々と新しい支部《ロッジ》を増やしております。陛下、あれはもはや一協会などではなく、一宗派《セクト》です。君主制の敵が続々と加入しています。観念学派、百科全書派、哲学者。随分と仰々しくヴォルテールを迎え入れることでしょう」

「彼は死んだよ」

「ヴォルテールが? とんでもありません。そんな間抜けではないでしょう」

「告白した」

「作戦ですよ」

「修道服を着ている」

「罰当たりではありませんか! 誰も彼もが煽動し、ものを書き、言葉を費やし、金を出し、協力し、陰謀を企み、脅しをかけているのです。口の軽い会員から聞き出したところでは、奴らは指導者を待っているところだといいます」

「よかろう! サルチーヌ、その指導者がのこのこ現れたなら、バスチーユに放り込んでやれ、それで解決だ」

「あの者たちには財産があります」

「そなたには何がある? 王国の警察では足りぬのか」

「陛下はイエズス会士を追放なさいました。今度は哲学者を追放なさる必要がありましょう」

「またペン職人の話か」

「ペンは短刀《ナイフ》で削るもの。ダミアンのことをお忘れなきよう」

 ルイ十五世は青ざめた。

「陛下がお嫌いになっている哲学者たちは……」

「何だ?」

「申し上げます。あの者たちは君主制を廃止しようとしています」

「それには何年が必要だね?」

 警視総監は驚いた目つきをした。

「私には知りようがありません。十五年か、二十年か、三十年でしょうか」

「そうか。十五年後にはもう余はいないだろう。この話は世継ぎにしてくれ」

 王はデュ・バリー夫人に振り返った。

 それを待っていたとばかりに、夫人は大きな溜息をついた。「何てこと! どういうことなの、ション?」

「どうしたんだね? 二人とも葬式みたいな顔をして」

「仕方ありませんわ」

「何があったのか話してくれたまえ」

「兄のことです!」

「ジャンったら!」

「切断しなきゃいけないかしら?」

「そうでなきゃいいけど」

「何を切断するのです?」ルイ十五世がたずねた。

「腕ですわ」

「子爵の腕を切断する! いったいどうして?」

「重傷なんです」

「腕に重傷を負ったのですか?」

「ええ、その通りです」

「いったいどんな喧嘩が、どこの浴場、どこの賭場で……!」

「違うんです、陛下。大通りでした」

「だがいったい何が?」

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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