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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』第27章-1 「マダム・ルイーズ・ド・フランス」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 国王の長女【?】はルブランの大広間【=鏡の間?】で父を待っていた。そこはルイ十四世が一六八三年に、共和国の認可【?】を得るため訪れていたジェノヴァ総督と四議員を迎えた場所であった。

 この部屋の端、王が入室するのとは反対側に、二、三人の侍女が悲嘆に暮れたような顔をして控えていた。

 ルイ十五世が到着した頃には、人々が玄関に集まり始めていた。それというのもその朝に王女が決意を固めたという報せが、宮廷中に広まり始めていたのだ。

 マダム・ルイーズ・ド・フランスは、堂々たる体躯に王家の美しさを備えた王女であったが、人知れぬ悲しみからか、時折、真っさらな額に皺を寄せることもあった。マダム・ルイーズ・ド・フランスは、その何処までも謹厳な振舞から、宮廷中の尊敬を集めていた。国家権力に敬意を払うことなど、この五十年のフランスでは、下心があるか恐れを抱いてでもいない限り見られなかったことだ。

 それだけではない。主人たちが――専制君主たち、とはまだ声高に叫ばれてはいなかったが――国民の多くから愛想を尽かされていた当時にあって、王女は国民から愛されていた。謹厳ではあるけれど、刺々しくはなかった。はっきり話題に上ったこともないのに、誰からも優しい人だと思われていた。日々の善行からもそれがわかった。優しさなど見せず醜聞に励んでいるほかの宮廷人たちとは大違いだった。

 ルイ十五世はこの娘を恐れていた。一目置いているという一点において。時には誇りに思うことさえあった。要するに、憎まれ口や軽口を叩けるほどいつくしんでいるのはこの娘だけだった。ほかの三人の娘、つまりアデライード、ヴィクトワール、ソフィーのことは、「ぼろ」「ぞうきん」「からす」と呼んでいたのに、ルイーズ・ド・フランスのことは「マダム」と呼んでいた。

 サックス元帥がチュレンヌやコンデ公の魂を墓に携え、マリ・レクザンスカがマリア=テレジアの統率力を墓まで道連れにして以来、玉座を取り巻く何もかもがこぢんまりとみすぼらしくなってしまったという時に、マダム・ルイーズ一人はまこと王族的な、言いかえるなら英雄的とも言える精神を保ち、フランス王国の王冠に対する誇りを失っていなかった。もはや本物の真珠は王女一人、後はメッキや石ころだらけであった。

 だからといってルイ十五世がこの王女を愛している、と言っている訳ではない。ご存じの通りルイ十五世が愛しているのは自分だけであった。我々に言えることは、ほかの人間よりはお気に入りだった、ということだけである。

 国王が部屋に入ってみると、王女は一人部屋の真ん中で、血玉石と青金石で象眼された卓子にもたれていた。

 黒衣を纏い、美しい髪には髪粉もつけず二枚重ねのレースをかぶっていた。顔にはいつもほどの厳しさは見られず、むしろ悲しみが浮かんでいるようだった。何も見てはいない。時折、ヨーロッパの王たちの肖像画に侘びしげに目を走らせるだけだった。無論その筆頭にはフランス歴代の王たちが輝いている。

 黒衣は王女の普段着であった。王妃たちが家庭的だった時代と同じく、この時代の衣服にもまだ深いポケットは現れていない。マダム・ルイーズもその例に洩れず、整理箱や衣装棚の鍵を金の輪に束ねて腰【ベルト?】に提げていた。

 王はひどく考え込んでいた。この接見の結果を知ろうと、誰もが息を殺し、なかんづく誰もが目を注いで見守っているのを痛いほどに理解していたのだ。だがこの部屋(回廊?)は大変に長かったため、両端に陣取った観客たちも俳優たちに遠慮することが出来た。見ることは観客の権利であったが、聞かぬことは義務であった。

 王女が一歩か二歩前に進んで王の手を取り、恭しく口づけした。

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『ジョゼフ・バルサモ』26-2 「ペトー王の宮廷」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「王太子妃とジャン・デュ・バリーか。奇妙な取り合わせだ。よかろう、説明してくれぬか、ショワズール。隠し立ては無用だぞ。デュ・バリーに傷を負わせたのが妃だったとしてもだ」

「妃殿下ではございませんが」ショワズールは態度を変えなかった。「護衛の者がやったことでございます」

 王は再び顔を曇らせた。「その者を知っているのか?」

「私は存じ上げませんが、勲臣一人一人を胸に刻んでいる陛下ならご存じのはずです。父君の背負っているその名はフィリップスブルク、フォントノワ、マオンに響き渡っておりました。タヴェルネ=メゾン=ルージュです」

 王太子はその名を記憶に刻もうとでもしたのか、部屋の空気諸共この名も吸い込んだように見えた。

「メゾン=ルージュ? もちろん知っておる。それがどうしてジャンの奴と喧嘩なぞを? 余がジャンを寵しているからか……馬鹿げた妬み、不服申し立てのきっかけ、叛乱の趣すらあるのでは!」

「陛下、話をお聞き下さいますか?」

 この問題を切り抜けるには感情的な真似をするしかない。ルイ十五世はそれを承知していた。

「要するにこれは、余の平穏を乱す陰謀の始まり、余の家族を貶める嫌がらせではないか」

「王太子妃殿下をかばうおつもりから、この青年を非難なさるのでしょうか?」

 王太子が立ち上がって腕を組んだ。

「私はその男に感謝していますよ。二週間後には妻になる皇女の為に、命を賭けてくれたんですから」

「命を賭けた、か!」王が呟いた。「何の為に? それが知りたい。いったい何の為に?」

「ジャン・デュ・バリー子爵は旅を急ぐあまり、妃殿下が到着予定の宿駅で、馬を奪おうとしたのです。恐らくさらに先を急ぐ為に」

 国王が口唇を噛み、顔色を変えた。先ほど感じていたのと同じような不安が幽霊の如く迫り来るのを悟ったのである。

「そんなことはあるまい。余にはわかっている。そなたは良く知らぬのだ」ルイ十五世は時間を稼ごうと、ぼそぼそと洩らした。

「いえ陛下、良く知らぬはずはありません。名誉に賭けて、陛下に申し上げることは掛け値ない真実でございます。ジャン・デュ・バリー子爵は確かに、王太子妃殿下の為にご用意してあった馬を入手せんとして妃殿下を侮辱され、宿駅の主に乱暴を働いて力ずくで馬を連れ出そうとしていたところ、妃殿下に遣わされたフィリップ・ド・タヴェルネ殿が相手を立てた鄭重な警告を行った後……」

「うむ、うむ!」王がうめいた。

「相手を立てた鄭重な警告を行った後、でございます、陛下……」

「そう、私も保証しますよ」王太子が言った。

「そなたも知っているのか?」たまげてしまった。

「何もかも知ってます」

 ショワズールが感謝するように頭を下げた。

「殿下がお話しなさいますか? 恐らく私の言葉などより、殿下のお言葉の方が陛下も信頼なさるでしょうから」

「うん、そうしよう」ショワズール大臣としては、懸命に大公女をかばっていることに当然のこと某かの感謝を期待していたところだが、王太子はそんな素振りは一切見せずに話を続けた。「私も事情は知っているし、ここに来たのも陛下にそれを伝えるためです。デュ・バリー氏は馬の用意を妨げて妃殿下を侮辱しただけでなく、務めを果たしただけの聯隊員に対しても礼儀を欠いた行動を取って暴力に及んだのです」

 王は首を横に振った。

「まだ何とも言えぬ」

「私には断言出来ます」王太子がしめやかに口を開いた。「デュ・バリー氏が剣を取ったのです」

「先に、ということかね?」引き分けに持ち込む機会が出来たことに喜んで、王はたずねた。

 王太子が顔を赤らめショワズールを見遣ると、王太子が困っているのを見て慌てて助けに入った。

「つまり陛下、一人は妃殿下を侮辱し、一人は妃殿下を守るために剣を交したのでございます」

「うむ、先に手を出したのはどちらだね 余はジャンを知っている。子羊のようにおとなしいぞ」

「飽くまで私の判断ですが、先に手を出したのは間違いを犯していた方ですよ」王太子は控えめに断じた。

「何とも言えぬな。先に手を出したのは間違いを犯していた……だが将校が無礼な態度を取ったのだとしたら?」

「無礼ですと!」ショワズールが声をあげた。「妃殿下の馬を持ち去ろうとしていた人間を止めることが無礼だなどと、まさかそんなことが?」

 王太子は無言だったが、顔が青ざめた。ルイ十五世は二人の強硬な態度を見て取った。

「興奮していたのではないかと言いたかったのだ」国王は言い直した。

「それに――」相手が譲歩したと見るや、ショワズールが前に出た。「忠臣が間違いを犯したりはしないことを陛下はよくご存じのはずです」

「それより、そなたはどうやって事情を知ったのだ?」目はショワズールから逸らさぬままに、国王が王太子にたずねた。不意に声をかけられた王太子はひどく慌ててしまい、動揺を隠そうと努めたものの、狼狽えているのは誰の目にも明らかだった。

「手紙が届いたのです」

「誰からだね?」

「妃殿下に関わりがあり、侮辱などもってのほかと感じている者からでしょう」

「ああ、また秘密の手紙に悪だくみか。また余を困らせようと企んでいるのだな。ポンパドゥール夫人の時と同じだ」

「違います、違います」ショワズールが口を挟んだ。「そんなややこしいことではなく、第二級不敬罪に過ぎません。然るべき罰を犯人に下せば済む話でございます」

 この罰という言葉に、伯爵夫人が柳眉を逆立てションが色をなして食ってかかるのが、目に見えるようだった。家庭の平和が飛び去ってしまう。それはルイ十五世が生涯を通して求めながら果たせないものであった。爪を立て、目を涙で真っ赤に腫らし、内紛が始まるのが目に見えた。

「罰か! まだ当事者から話も聞いていないし、どちらの言い分が正しいのか判断もしようがないではないか! クーデターやら封印状でもあるまいし! そなたはそんな提案をして、余をどんな厄介ごとに引きずり込むつもりなのだ?」

「ですが陛下、初めが肝心です。妃殿下を侮辱した者に制裁を加えておかなければ、これから先、いったいどうなるでしょうか……?」

「中傷が飛び交いますよ」王太子が後を引き取った。

「制裁に中傷だと? では我々を取り巻く中傷にいちいち制裁を加えるがいい。余は封印状に署名して一生を終えねばなるまい! ありがたいことに、もう飽きるほど署名はしてしまったよ!」

「必要なことです、陛下」ショワズールが言った。

「私からもお願いいたします、陛下……」王太子も重ねて言った。

「怪我をしたことでとうに罰せられているとは思わぬのか?」

「そうは思いません。タヴェルネ殿を傷つける可能性もあったのでございますから」

「だとしたら、そなたの望みはいったい何なのだ?」

「子爵の首を」

「だが、アンリ二世を殺したモンゴムリーにもそれほどひどいことはしなかったではないか」

「モンゴムリー伯は偶然から国王を殺してしまいましたが、ジャン・デュ・バリー殿は侮辱しようとして王太子妃殿下を侮辱したのでございます」

「ではそなたも――」と、ルイ十五世は王太子に問いかけた。「ジャンの首が望みなのか?」

「いいえ、私は死刑には反対ですから」そう言ってから控えめにつけ加えた。「ですから、私のお願いは追放刑に留めるつもりです」

 王は身震いした。

「旅籠の喧嘩に追放だと? ルイ、博愛主義のわりには厳しいではないか。そなたはやはり、博愛主義者である以前に数学者なのだ。そして数学者とは……」

「続きを承っても構いませんか?」

「数学者はものごとすべてを数字で考えたがるものだ」

「陛下、私はデュ・バリー殿個人を恨んでいるのではありません」

「では誰を?」

「妃殿下の襲撃者を」

「夫の鑑ではないか!」王が皮肉った。「ありがたいことに、そう簡単には騙されぬぞ。非難されているのが誰かもわかっているし、余にどう思わせたくて大げさに騒ぎ立てているのかもわかっている」

「陛下、大げさではございません。民衆はあまりの無礼に心から憤っているのです」ショワズールが言った。

「民衆だと! そなたは自分を、いや、余をとんでもないことに巻き込んでおるな。民衆に耳を傾けろと? 中傷、諷刺、小唄の作者や陰謀家が口を揃えて、王様は盗まれ騙され裏切られていると言っているのに? くだらん。勝手に言わせて笑っておけばいい。余に倣え、耳を閉じよ。そのうち疲れてしまえば、民衆も叫ぶのをやめるだろう……。ははあ、そなたは不満そうな素振りをしておるな。ルイはすねたような顔をしておる。まことに不思議なものだな! 半端者のためになら出来ることも余のためには出来ぬし、生きたいように生きることも許さずに、余が好きと言えば嫌いと言い、嫌いと言えば好きと言う。余はまともかうつけか? 余は君主や否や?」

 王太子がナイフをつかみ、振り子時計に戻った。

 ショワズールは先ほど同様に頭を垂れた。

「そうか、答えはなしか。何でもよいから何か答えぬか! そなたたちは余を苦しめて死なせたいのか? さえずったかと思えばだんまりを決め込み、憤ったかと思えばびくつきおって」

「私はデュ・バリー殿に憤っているのではありません」王太子が笑顔で答えた。

「私も子爵にびくついているわけではございません」ショワズールはつっけんどんだった。

「揃いも揃ってひねくれおって!」国王は立腹を装い声をあげたが、胸に湧いていたのは悔しさであった。「そなたたちは余をヨーロッパ中の笑いものにしたいのか? プロイセン王から馬鹿にされればよいと思っておるのか? あの忌々しいヴォルテールのペトー王の宮廷よろしく、揃いも揃って王様になるつもりなのか? とんでもない! そうはさせぬぞ。そうは問屋が卸さぬ。余は自分なりに名誉をわきまえておるし、自分なりにそれを守るつもりだ」

「陛下――」王太子の声は飽くまで穏やかだったが、妥協の構えは見えなかった。「恐れながら申し上げますが、問題になっているのは陛下の名誉ではなく、王太子妃の尊厳が侮辱されたのです」

「殿下の仰る通りでございます。陛下から一言仰っていただければ、繰り返す者はおらぬでしょう」

「誰が繰り返すというのだ? まだ何も起こってはいないというのに。ジャンは愚かだが、悪意があったわけではない」

「愚かなことだったといたしますと、タヴェルネ殿に謝罪することになるのでは」

「その話はもうよい! この目で見たわけではないのだ。ジャンには謝罪する自由もあるし、謝罪しない自由もある」

「事件を成り行きに任せますと、騒ぎになりましょう」ショワズールが口を添えた。「それを前もって陛下にお知らせ出来るのはありがたいことでございます」

「結構だな! ではそうしてみるがよい。余は耳を塞いでおこうか。そなたたちのたわごとはもうたくさんだ」

「では陛下は――」ショワズールはぴしゃりと言い放った。「デュ・バリー殿が正しいとお認めになったと考えていいのでしょうか?」

「余が認めたと? インクほども真っ黒な事件の渦中にいる人間のことを、正しいと認めたというのか? どうも余を怒らせたいらしいな。気をつけるがいい、公爵……ルイ、そなた自身のためにも、よく覚えておけ……余の言ったことは、後はそなたたちで考えてくれ。余はもう疲れた。限界だ。もう構わぬ。ご機嫌よう諸君、余は娘たちのところに寄ってからマルリーに避難するとしよう。あそこなら少しは落ち着けるだろう。そなたたちがついてこなければの話だがね」

 国王がそう言って戸口に向かったところ、扉が開いて取次が姿を見せた。

「陛下、ルイーズ王女殿下がおいとまのご挨拶をするため、お部屋でお待ちしていらっしゃいます」

「いとまの挨拶だと?」ルイ十五世は仰天した。「何処に行くつもりなのだ?」

「宮殿を離れる許可を陛下からいただいたとおっしゃっていましたが」

「また事件か! 今度やらかしたのはお祈り娘か。余は世界一不幸な人間に違いあるまい!」

 そうして国王は走り去った。

「置き去りにされてしまいましたな」公爵は王太子にたずねた「殿下はどうなさいますか?」

「おっ、鳴っている!」振り子時計が元通り動き出した音を耳にして、本気なのかふりなのか、王太子は喜びの声をあげた。

 大臣は眉を寄せ、後ずさるようにして部屋を出た。振り子時計の間に残ったのは王太子一人だった。

『ジョゼフ・バルサモ』25-3及び26-1 アレクサンドル・デュマ

「陛下の仰ることももっともですが、私だって思いつきでものを言っているわけじゃありません。あるいは言い方が悪かったのかもしれません。手配が至らなかったのではなく、上手く回っていなかったのではないでしょうか?」

 国王はこの言葉に顔を上げ、王太子の顔を見つめた。言葉の裏に何か潜んでいるのだとピンと来たのだ。

「馬が三万、馬車が三十、貨車が六十、二聯隊を勤務に就かせた……さて先生、王太子妃がこれほどのお供付きでフランスに入国するのを、今までに一度でも見たことがあるかね?」

「確かに、すべてが王族扱いですし、陛下がすべて心得てらっしゃるのはわかります。ですがこの馬や馬車などが妃殿下一行のために特別に手配したものだということを、しっかりと伝えたのですか?」

 国王は三たびルイを見つめた。仄かな疑いの気持が胸を刺したところだった。うっすらとした光が記憶を照らし、それと同時に、王太子の言葉にはどことなく、先ほど起こった不愉快な出来事と似たところがあるぞ、という思いが頭をよぎった。

「何という質問だ! 無論のこと、すべて妃のために手配しておる。だから、すぐにも到着することは請け合おう。しかし何故そんなふうに余を見ているのだ?」きつい調子の口振りは、王太子を脅しているようにも見えた。「機械のゼンマイだけでは飽き足りず、もしや余の顔も調べるつもりかね?」

 王太子は口を開こうとしていたのだが、この悪言を聞いてぷいと口を閉ざした。

「さあどうだね。もう文句もあるまい」王は力強くたずねた。「よいな?……そなたの妃はやって来るし、手配には申し分がなく、そなたには自分の金もある。充分ではないか。もはや心に懸かることもないであろう? 余の振り子時計を元通りにしてくれぬか」

 王太子は微動だにしなかった。

「どうだね、そなたを宮殿の時計係に取り立てたいものだな。無論、俸給付きだぞ」ルイ十五世から笑いがこぼれた。

 王太子は国王の眼差しを避けるようにうつむくと、椅子に置いてあったナイフと歯車を手に取った。

 その間にルイ十五世はそっと扉に向かっていた。

「手配が至らないなどと言って、いったい何が言いたかったのだろう?」王太子を見つめて王は首をひねった。「まあよい、ここも逃げ出すに限る。何やら不機嫌だからな」

 なるほど普段は温厚な王太子が、床を踏み鳴らしていた。

「一雨来そうだな」ルイ十五世はほくそ笑んだ。「やはり逃げるに越したことはない」

 ところが扉を開けてみると、戸口にはショワズールがいて、深々と頭を下げていた。

 
 
 

第二十六章 ペトー王の宮廷

 出口に立ちふさがるようにして舞台に登場した、この思いがけない人物を見て、ルイ十五世は一歩退いた。

 ――おやおや、すっかり忘れていた。好都合かもしらんな。全部ひっかぶってくれるかもしれぬ……。「おお、そなたか! ちょうど呼びに遣っていたのだが、そのことは伝わっているな?」

「ええ、陛下」大臣は冷やかに答えた。「陛下の許に参ろうと着替えをしておりましたところ、命令が届きましたので」

「うむ、大事な話があったのでね」ルイ十五世は眉を寄せた。出来ることなら大臣を威圧しておきたい。

 生憎なことに、ショワズール氏は国内でも有数の、脅しの通じぬ人間だった。

「私の方にも、大変重要な話がございます」

 と一礼すると同時に、時計に埋もれかけた王太子と目を交わした。

 王は不意に黙り込んだ。

 ――なるほど、そちらもか! このように包囲されては、逃げようがないな。

 先制攻撃を与えようと、急いで口を開いた。「ジャン子爵が殺されそうになったのは知っておろう」

「正確に申しますと、前腕に刀傷を負ったのです。私が申し上げに来たのもそのことです」

「うむ、そうだろう。噂が立つのは避けたいからな」

「口さがない噂は覚悟はしておりました」

「するとそなたはこの事件について知っているのか?」王は意味ありげに問いかけた。

「何もかも知っております」

「そうか、そのことは先だって聞いておった」

 ショワズールはなおも平然としていた。

 王太子は銅のナットを締めるのに忙しかったが、それでもうつむいたまま耳をそばだて、片言隻句なりとも聞き逃すまいとしていた。

「これから事件のあらましを話してやろう」

「陛下は詳しい事情をご存じなのですか?」

「その点であれば……」

「私どもは謹聴いたします」

「私どもとは?」

「つまり、王太子殿下と私でございます」

「王太子だと?」へりくだった様子のショワズールから、熱中しているルイ・オーギュストへと目を移した。「王太子がこの喧嘩とどう関わるのだ?」

「関係がございます」ショワズールは王太子にお辞儀をした。「王太子妃殿下が原因なのですから」

「妃殿下が原因だと?」国王は身震いした。

「ご存じありませんでしたか? ではあまり詳しい話をお聞きではないのでしょう」

『ジョゼフ・バルサモ』25-2

 だが確かめるには大きな振り子が邪魔だった。

 そこで銅口から指を巧みに滑らせ、振り子を外した。

 それも空振りだった。あらゆる場所をくまなく調べた以上は、時計が止まった原因は目に見えないところにあるのだ。

 とすれば、時計係がネジを巻くのを忘れたために、自然に止まってしまったのではないだろうか。王太子は台座に引っかけてある鍵を取り、慣れた手つきでゼンマイを巻き始めた。ところが三巻きしか出来ない。どうやら原因不明の不具合があるのは間違いない。巻きはしたものの、それ以上ゼンマイは動かなかった。

 王太子はポケットから鼈甲柄のナイフを取り出し、刃先で歯車を叩いた。刹那、機械は軋みをあげると、止まってしまった。

 ここに来て時計の不調は深刻なものに変わった。

 王太子ルイはナイフの先で部品を外し、卓上にネジを慎重に広げていった。

 なおも心を奪われたように、複雑な機構箇所の分解に移り、さらに精妙な部品に取りかかった。

 と見る間に快哉を叫んだ。ゼンマイを止めているネジがゆるみ、駆動輪が止まっているのを見つけたのだ。

 そこで王太子はネジを締め始めた。

 やがて左手で歯車、右手にナイフを持ち、再び機械に頭を突っ込んだ。

 こうして夢中になって機械仕掛けをいじっている最中、扉が開き声があがった。

「国王陛下です!」

 だがルイには手の下でチクタクと鳴る美しい音しか聞こえていなかった。名医の手で甦った心臓の鼓動の如き音である。

 国王は辺りを見回したが、王太子を見つけるのに時間がかかった。というのも見えたのは一つ両足だけで、上半身は時計で隠れ、頭は時計の中に埋もれていたのだ。

 国王は笑顔を浮かべて歩み寄り、孫息子の肩を叩いた。

「そこで何をしているのだね?」

 ルイは慌てて身体を引っこ抜いたが、それでも、修理しようとしていた時計を壊してしまわぬよう細心の注意を払うことは忘れなかった。

「陛下もご覧の通り」作業中のところを見つかって真っ赤になりながら王太子は答えた。「お待ちしている間、暇つぶしをしていたところです」

「ああ、時計を壊してかね。何て暇つぶしだ!」

「あべこべですよ、直していたんです。大歯車が動かなくなっていましたから。ご覧の通りこのネジのせいでした。ネジを締め直したので、もう動き出しました」

「だがそんなところで調べていたら目が悪くなってしまうぞ。余であれば、この世の黄金をすべてやると言われても、そんな巣箱には頭を入れぬがの」

「心配はいりません。ちゃんとわかっていますから。十四歳の誕生日に陛下から賜った時計、分解するのも組み立てるのも手入れするのも、この私がやっているんです」

「それはそうと、時計のことは置いておこう。余に話があったのではないかね?」

「私が?」王太子は赤くなった。

「違うかな。ここで待っていると使いを寄こしたではないか」

「その通りです」王太子は目を伏せた。

「よかろう! 何が望みだ? 言いなさい。何も言うことがないのなら、余はマルリーに出かけるが」

 ルイ十五世はいつもの癖でとうに立ち去ろうとしていた。

 王太子がナイフと部品を椅子に置いた。夢中になっていた作業を中止した以上は、これこそが重大な話があるという証拠にほかならなかった。

「お金かね?」国王はぴしゃりとたずねた。「それなら待っていなさい。あとで届けよう」

 ルイ十五世は扉に向かってさらに一歩踏み出した。

「違うんです。まだ年金が千エキュあります」

「倹約家だな。ラ・ヴォーギヨンは倹約しろとよく言っていたが。あの男には余に欠けている美徳が備わっていたのだろうな」

 王太子は勇気を奮い起こした。

「陛下、妃殿下はまだ遠いのですか?」

「それは余よりもそなたの方がよく知っておろう」

「私が?」王太子はまごついてみせた。

「さよう。昨日、報告書を聞かせてもらったところ、月曜日にはナンシーを超えたと言っておった。今頃は巴里から四十五里ほどであろう」

「随分とゆっくりだとはお思いになりませんか?」

「そんなことはあるまい。むしろ早いのではないかな。ご婦人であること、それに祝宴やもてなしを受けていることを考えれば。いろいろ考え合わせれば、二日で十里がいいところだ」

「それでは遅すぎます」王太子がこわごわと口にした。

 これほどまでに待ちこがれているのかと思うと、ルイ十五世は驚きを深め、まったく疑いもしなかった。

「ほほう!」からかうような笑みを浮かべ、「随分と急いておるな?」

 王太子はかつてないほど真っ赤になった。

「そうではないんです」と呟いた。「陛下が想像なさるようなことではありません」

「そうか。そうであって欲しかったのだがな。そなたは十七歳だ。可愛い皇女だと聞くぞ。待ちきれなくとも仕方あるまい。心配せずともそなたの妃はやって来る」

「途中の儀式をちょっとくらい端折ることは出来ないのですか?」

「無理だ。立ち寄っておかねばならぬ町があったのだが、既にいくつか素通りしている」

「それではきりがありません。一つ思っていることがあるのですが」王太子はこわごわと洩らした。

「何だね? 言い給え!」

「手配が至らなかったのではないでしょうか」

「何の手配だね!?」

「旅の手配です」

「馬鹿げたことを! 各駅には三万頭の馬、三十輛の馬車、六十輛の貨車を送っているし、どれだけの運搬車があるのかわからぬくらいだ。運搬車、貨車、馬車、馬が揃っておれば、パリからストラスブールまでは充分だろう。これだけ揃っていて、なぜ手配が至らぬと思うのだ?」

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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