アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
取次・随身は出ていったが、すぐに戻って来た。その後ろから、我々には既に馴染みのジャン・デュ・バリーが、足を伸ばし腕を吊って入って来た。
型通りの挨拶が済むと、未だ決心のつかない伯爵夫人は震えながら立ち上がり、いとまごいをしようとした。それを見て大法官は会釈をし、会見が終わったことを伝えた。
「失礼、閣下」と子爵が言った。「それにマダム、お邪魔してすみません。どうかこのまま……。閣下には一言申し上げるだけですから」
「でもお邪魔でしょう?」伯爵夫人は口ごもった。
「とんでもない。一言申し上げるだけですから。十分だけ閣下に貴重な時間を割いていただきたいのです。訴えを聞いてもらえませんか」
「訴えですか?」大法官が尋き返した。
「殺人です、閣下。見過ごす訳には行きません。誹謗され、諷刺され、中傷されても、生き延びることは出来る。だが喉を掻き切られる訳にはいかない。死んでしまいます」
「詳しく話してもらえますか」大法官は恐ろしそうな素振りをした。
「すぐにそうするつもりですが、マダムのお話を邪魔してしまいましたね」
「ベアルン伯爵夫人です」大法官がデュ・バリー子爵に老婦人を紹介した。
子爵と夫人は腰を引き、宮廷でするような仰々しいお辞儀をした。
「あなたがお先に、子爵」
「女性に対する不敬罪を犯す訳にはいきません」
「まあまあ、私が譲れないのはお金で、あなたが譲れないのは名誉って訳ですか。でも急いでらっしゃるんでしょう」
「伯爵夫人、それではご親切に甘えさせてもらいます」
そう言ってデュ・バリー子爵は大法官に用件を話して聞かせた。
「証人が要りますね」しばらくしてからモープーが口を開いた。
「ああ! 揺るぎない真実にしか動かされたくないという訳ですね。わかりました。見つけて来ましょう、証人を……」
ここで伯爵夫人が口を挟んだ。「閣下、一人はとっくに見つかってますよ」
「どなたです?」子爵とモープーが同時にたずねた。
「私です」
「あなたが?」大法官がたずねた。
「ねえ子爵、事件が起こったのはラ・ショセじゃありませんか?」
「その通りです」
「宿駅のことでしょう?」
「ええ」
「やっぱり! 私が証人ですよ。犯行現場を通りかかったんです。二時間後のことでした」
「本当ですか?」大法官がたずねた。
「ああ、ありがたい!」子爵が声をあげた。
伯爵夫人が畳みかける。「その証拠に、町中が事件で持ちきりでしたよ」
「待って下さい。今回の事件に関わってくれるおつもりでしたら、十中八九、ショワズールが妨害を仕掛けて来るはずです」
大法官も同意した。「伯爵夫人は訴訟を抱えているが、勝つのがかなり難しいこうした状況下では、妨害も容易いだろう」
「閣下、閣下」老婦人は頭を抱えた。「谷から谷へ転がり落ちているみたいじゃありませんか」
「子爵の腕をお借りなさい」大法官はぼそりと言った。「腕を貸してくれるでしょう」
「ご覧の通り一本だけですがね」デュ・バリー子爵がにやりとした。「だが強くて長い二本の腕の持ち主が一人、腕を貸してくれますよ」
「ああ! 子爵、それは確かなことでしょうか?」
「もちろんですよ! 持ちつ持たれつ。あなたのことは引き受けますから、僕のことは引き受けて下さい。構いませんか?」
「引き受けたとしたら……まあ、何て運がいいんでしょう!」
「そういうことです。すぐに妹に会わせて差し上げますよ。馬車に乗っていただけますか……」
「理由もないし、用意もないのに? とてもそんなことは」
「理由ならあるじゃありませんか」大法官がザモール宛ての書状を手に握らせた。
「大法官閣下、あなたこそ守護神です。子爵殿、あなたこそフランス貴族の華ですとも」
「お役に立てて何よりです」そう言った子爵に行き先を示されて、伯爵夫人は鳥のように飛んで行った。
「妹様々だ」ジャンがモープーに囁いた。「わが従兄弟様々です。おれの演技はどうでした?」
「申し分なかった。だが私の演技のことも話しておいてもらえるかな。それから気をつけ給え、あの老婦人はなかなか聡い」
そうこうしているうちに、伯爵夫人がこちらを向いている。
二人は腰を折って仰々しくお辞儀をした。
従僕付きの豪華な四輪馬車が玄関先で待機しており、伯爵夫人は意気揚々と乗り込んで腰を下ろした。ジャンの合図と共に馬車が動き出した。
デュ・バリー夫人の部屋から国王が立ち去った後。国王が廷臣に口にした如くに、短時間の不愉快な会見の後。伯爵夫人はションと兄と三人きりで部屋に残されていた。傷の状態を確認されて軽傷であることがばれないように、兄が真っ先に姿を消した。
家族会議の結果、デュ・バリー夫人は国王に告げたようにリュシエンヌには向かわず、パリに発っていた。パリのヴァロワ通りには小さな家があり、ひっきりなしに飛び回っているデュ・バリー家の人間が、事件にせき立てられたり面白いことがあったりした時の、仮住まいとして利用されていたのである。
デュ・バリー夫人は自室に腰掛け、本を手に取り待っていた。
その間、子爵が策を弄していたのである。
だがこの寵姫は、パリを走らせるに当たって、馬車の窓から時折顔を覗かせずにはいられなかった。人に姿を見せることは美しいご婦人の本能である。それも美しさを自覚しているからだ。それ故に伯爵夫人は姿を見せた。その結果、夫人がパリにいるという噂はぱっと広まり、二時から六時までの間に二十人ばかりが夫人の許を訪れたのである。これは伯爵夫人にとっては天の助けだった。一人きりで取り残されていたら、退屈のあまり死んでしまっただろう。こうした気晴らしが出来たおかげで、陰口、寸評、無駄話のうちに時間は過ぎた。
子爵がサン=トゥスタッシュ(Saint-Eustache)教会の前を通り過ぎた時、大きな文字盤が七時半を指しているのが見えた。妹の許へとベアルン伯爵夫人を連れている途上のことだ。
馬車の中では、こんな僥倖につけ込んでよいものかと、伯爵夫人が躊躇いを表していた。
子爵の方では、いわば保護領の高官役を引き受けて、奇妙な偶然からベアルン夫人にデュ・バリー夫人を引き合わせるに至ったことをしきりに感嘆していた。
ベアルン夫人の方では副大法官への礼儀と世辞を忘れなかった。
こうして二人がうわべを繕っている間も、馬は遅々として進まず、デュ・バリー邸に着いたのはようやく八時になろうとしている頃だった。
「では伯爵夫人」子爵は老婦人を待合室に案内した。「デュ・バリー夫人に報せて来ますから」
「でもやっぱり、ご迷惑をお掛けすることは出来ませんよ」
ジャンは、玄関の窓口で待機していたザモールに近づき、小声で指示を出した。
「あらまあ可愛い黒ん坊じゃありませんか。あれが妹さんの?」
「そうです。お気に入りの一人です」と子爵が答えた。
「いいのをお持ちだとお伝えしなきゃ」
とその時、待合室の扉が開いて従僕が姿を見せ、デュ・バリー夫人が謁見に使っている大広間にベアルン夫人を招き入れた。
ベアルン夫人が嘆息して豪華な隠れ家を眺めまわしている間に、ジャン・デュ・バリー子爵は妹のところに向かっていた
「あの人?」デュ・バリー伯爵夫人がたずねた。
「正真正銘」
「何も気づいていないの?」
「まったく」
「で、副ちゃんは……?」
「問題ない。すっかり協力してくれた」
「じゃああんまり長いことこうしていない方がいいわね。何にも気づいていないんだから」
「そうだな。どうも勘が良さそうなところもあるし。ションは?」
「知ってるでしょ、ヴェルサイユ」
「くれぐれも姿を隠しておいてくれよ」
「よく言っておいたわ」
「よし、出番だ、お姫様」
デュ・バリー夫人は扉を開けて閨房から出た。
これまでお話しして来た出来事の起こった当時は、このような場合には仰々しい挨拶をするものであった。而して二人の女優は相手に気に入られんと細心の注意を払って挨拶を交わしたのである。
口を切ったのはデュ・バリー夫人であった。
「先ほど兄にはお礼を申しました。お客様をお連れして下さったんですもの。今度はあなたにお礼を申し上げる番です。あたくしのお願いに同意して下さったんですもの」
これにはベアルン夫人が大喜びをした。「私の方こそ、こんな風にもてなして下さって、感謝の言葉もございませんよ」
今度はデュ・バリー夫人が恭しくお辞儀をした。「お役に立てることがあるようでしたら、あなたのような立派なご婦人のために尽力するのは務め」
こうして一通り三段のお辞儀が終わると、デュ・バリー夫人はベアルン夫人に椅子を勧め、自分も椅子に腰を下ろした。
第三十一章 ザモールの委任状
「それでは」デュ・バリー夫人がベアルン夫人に声をかけた。「お話し下さい。お聞きしますから」
「失礼」立ったままのジャンが口を挟んだ。「頼み事の邪魔をするつもりはないんだが。ベアルン夫人にはお話があるんだ。大法官から言づかっていることがあってね」
ベアルン夫人はジャンに感謝の眼差しを注ぎ、副大法官の署名入り証書を伯爵夫人に差し出した。それにはリュシエンヌを王家の城館にすること、ザモールを領主に任命することが記されていた。
「じゃああなたに感謝しなくちゃいけませんね」証書に目を通してから伯爵夫人が言った。「機会さえあれば、今度はこちらがあなたのお役に……」
「でしたら、簡単なことでございます!」老婦人の勢いに、二人とも北叟笑んだ。
「どういうことかしら? お聞かせ下さい」
「よくぞ仰って下さいました。私の家名はまったくの無名ですが……」
「何ですって、ベアルンが?」
「訴訟の話をお聞きになったんですね? 我が家の財産が失われてしまうんですよ」
「確かサリュース家と抗争中でしたね?」
「ええその通りでございます」
「そう。そのことなら知ってるわ。陛下がいつかの晩、モープー殿に仰ってたから」
「陛下が! 陛下が私の訴訟の話を?」
「ええ、そう」
「何と仰ってたんでしょう?」
「お気の毒に!」デュ・バリー夫人は首を振った。
「じゃあ、負けるんですね?」老婦人の声は苦悶に歪んでいた。
「本当のことは口にしたくありません」
「陛下がそう仰ったんですね!」
「陛下ははっきりとは仰いませんでした。慎重で賢明な方ですから。財産はもはやサリュース家のものになったようなものだと考えていらっしゃるようでしたわ」
「ああ神様! 陛下が事件のことを知ってらしたら……譲渡された債務が償却(返済)済みだったのが問題だと知ってらしたら……! ええそうなんです、償還(返済)してるんです。二十万フランは返してたんですよ。もちろん契約書はありませんけど、蓋然的証拠ならありますから。私自身が高等法院で弁護することがあったら、演繹によって明らかに……」
「演繹ですか?」伯爵夫人には話の内容がさっぱりわからなかったが、ベアルン夫人が弁護に並々ならぬ意識を傾けているらしいのはわかった。
「ええそうです、演繹です」
「演繹的証拠なら採用されるな」ジャン子爵が言った。
「そうお思いになりますか?」
「そう思いますね」子爵は極めて重々しく答えた。
「それじゃあ、演繹によって証明しますよ。二十万リーヴルの債務に貯まった利子を合わせれば、百万以上にはなっているはずですから。証明してみせますとも。この債務は、一四〇〇年にギー・ガストン四世ベアルン伯爵が返済し終わっていたはずなんです。一四一七年にベアルン伯爵が死の床についた時、手には遺書がありました。『我は死の床にありて、もはや人に縛られることなく、神の御前に赴きし覚悟のみ……』」
「え?」伯爵夫人が声をあげた。
「おわかりでしょうとも。人に縛られることがないんでしたら、サリュース家には返済していたってことですよ。そうじゃなきゃ、『もはや縛られることなく』なんて書かずに『二十万リーヴルに縛られて』と書いていたはずですからね」
「恐らくそうでしょうね」とジャン。
「でも、ほかに証拠はありませんの?」
「ガストン四世の言葉だけです。でも立派な方だと言われていた人ですよ」
「なのにあなたは債務と戦ってるんですね」
「ええ存じております。訴訟がもつれるのもその点なんでございますよ」
そこは訴訟が丸く収まると言うべきであったが、ベアルン夫人は自分なりの立場でものを見ていたのである。
「では、サリュース家には返済し終わっているとお考えなんですね」ジャンがたずねた。
「ええそう考えております!」
デュ・バリー夫人が満足げに兄を見遣った。「どう? これで局面は変わるかしら?」
「かなり」
「向こうにとってもそうね。ガストン四世の遺言は明白だもの。『もはや人に縛られることなし』」
「明白なうえに理に適っている。もはや人に縛られることはない。つまり、縛られていた義務は果たしたというわけだ」
「つまり、義務は果たしたと」デュ・バリー夫人が繰り返した。
「ああ、あなたが判事でしたらよかったのに!」老婦人が声をあげた。
「昔ならこういう場合は法廷に持ち込んだりせず、神の裁きに委ねていたところです」ジャンも言いつのった。「僕自身は訴訟の利点を信じてますから、今もまだ同じ方法が使われていたなら、闘士としてあなたのために戦って見せますよ」
「まあそんな!」
「そういうわけです。もっとも、先祖のデュ・バリ=モアがやったことの受け売りに過ぎませんがね。若く美しいエディス・ド・スカルボローのため闘技場で戦い、嘘をついたと敵の口を割らせた時に、スチュアート王家と同盟を結ぶ名誉を授かったんです。だが生憎なことに」と薄笑いして、「今はもうそんな時代じゃない。権利を申し立てても、法律屋の判断に任せるしかないってわけです。『もはや人に縛られることなし』、こんなに明らかな文章すら理解出来ない奴らなのに」
「ねえお兄様、この文章が書かれたのは三百年前でしょう」デュ・バリー夫人が恐ろしい一言を口にした。「裁判でいう時効というのを考慮に入れなくちゃならないんじゃない?」
「たいしたことじゃない。陛下の前でも今のように話してくれたら……」
「陛下も納得してくれますよね? きっとそうですよ」
「そう思いますよ」
「そうですとも。でもどうやったら陛下にお話を聞いていただけるんでしょう?」
「リュシエンヌに来ていただかなくちゃなりませんね。陛下もよくいらして下さいますから……」
「まあそうだな。だがそれでは偶然に左右される」
「ご存じでしょ」デュ・バリー夫人が可愛らしく微笑んだ。「あたくしはしょっちゅう偶然に頼ってるんだから。文句なんて一つもありません」
「だが偶然に頼っていたら、八日、十五日、いや三週間経っても陛下と会えないかもしれない」
「そうね」
「ところが訴訟は月曜か火曜に判決が出るんだ」
「火曜でございますよ」
「で、今は金曜の晩だ」
デュ・バリー夫人は天を仰ぎ見た。「じゃあもう時間がないじゃない」
「どうする?」と言ったジャンも、夢にでも耽っているようだった。
「ヴェルサイユで謁見する訳には?」ベアルン夫人がおずおずと提案した。
「とても許可されないでしょう」
「つてでどうにかならないのでしょうか?」
「あたくしのつてじゃあどうにもなりません。陛下は公務がお嫌いですし、今は一つのことだけで頭がいっぱいなんですもの」
「高等法院のことでしょうか?」
「違うわ。あたくしの謁見式のことです」
「!」
「ご存じでしょう。ショワズールの妨害や、プラランの陰謀や、グラモン夫人の口利きはありましたけど、陛下は謁見式をして下さることになったんです」
「いえそんな。存じ上げませんでした」
「そうなのか! いや、決まったことなんです」ジャンが言った。
「いつ行われるんでございましょう?」
「近いうちに」
「そこで……王太子妃殿下の到着前に式を行うのが陛下のご希望なんです。そうすればコンピエーニュの祝宴に妹を連れて行けますからね」
「そういうことですか。では謁見式は無事に行われるんですね」老伯爵夫人はおずおずとたずねた。
「もちろんです。ダロワーニ男爵夫人(la baronne d'Aloigny)……ダロワーニ夫人はご存じですか?」
「存じません。ああ! もう一人も知り合いなんておりませんよ。宮廷を離れて二十年になるんですから」
「そうでしたか! ダロワーニ男爵夫人が、代母を務めてくれるんです。陛下がいろいろと融通なさった訳です。夫は侍従に。息子はいずれは代官という約束で軍隊に。男爵領は伯爵領になりました。金庫にあった債務は、市の株券と交換されました。謁見式の晩には、即金で二万エキュが支払われます。という訳で男爵夫人は必死なんですよ」
「ようくわかりますよ」ベアルン伯爵夫人は優雅に微笑んだ。
「いや、そうか!」
「どうしたの?」デュ・バリー夫人がたずねた。
「まずったな!」ジャンは椅子から飛び上がっていた。「せめて八日前に副大法官のところでお会いしていたら」
「だったら?」
「だったら、ダロワーニ男爵夫人とはまだ何の約束もしていなかったってことだ」
「ねえ、スフィンクスみたいな謎かけはやめて頂戴。全然わからないわ」
「わからないか?」
「ええ」
「伯爵夫人はおわかりですよね」
「それが考えてはいるんですが……」
「一週間前には代母は決まっていなかった」
「そうね」
「そうなんだ!……伯爵夫人、話について来られますか?」
「大丈夫ですよ」
「(一週間前なら、)伯爵夫人が手を貸してくれていたはずなんだ。ダロワーニ男爵夫人の代わりにベアルン伯爵夫人が陛下からいろいろ賜っていたはずなんですよ」
老伯爵夫人は目を見開いた。
「そんな!」
「ご存じですか。陛下がどれほどのご厚意を男爵家にお与えになったか。求める必要はなかった。向こうからやって来たんです。ダロワーニ夫人がジャンヌの代母を引き受けると聞いてすぐでした。『それはよかった。見るからに威張りくさったあばずれ共にはうんざりだ……伯爵夫人、そのご婦人を紹介してくれるだろうね? 訴訟を抱えてないか? 未払い金は? 破産は?……』」
ベアルン夫人の目がますます大きくなった。
「『だが、一つ気に食わんな』」
「陛下のお気に障るところがあったんですか?」
「ええ、一つだけ。『一つだけ気に食わん。デュ・バリー夫人の謁見式には、由緒のある家名が欲しかった』そう仰って、ヴァン・ダイクの筆になるチャールズ一世の肖像画をご覧になっていました」
「ああ、わかりましたよ。先ほどお話し下さったデュ・バリ=モアとスチュアート家の同盟のことを陛下は仰ったんですね」
「そういうことです」
「でも結局は」ベアルン夫人の声には、とても言い表せない感情がこもっていた。「ダロワーニ家にお任せするんですね。そんな話、私のところには届きませんでしたからねえ」
「でも名門よ。証拠――というか、証拠みたいなものはあったし」
「ああ糞!」不意にジャンが椅子に手を掛け立ち上がった。
「ちょっと、どうしたの?」義兄の身悶えを前にして、笑いを堪えるのが精一杯だった。
「傷が痛むんじゃありませんか?」とベアルン夫人が気遣った。
「違います」ジャンはゆっくりと椅子に戻った。「違うんです。閃いたことがあって」
「どんなことなの?」デュ・バリー夫人は笑っていた。「ひきつりかけてたじゃない」
「いい考えなんですね!」ベアルン夫人がたずねた。
「最高に!」
「聞かせて頂戴」
「ただ、一つだけ拙い点がある」
「それは?」
「実行するのが難しい」
「まずは聞かせて頂戴」
「それに、ある人をがっかりさせることになる」
「気にすることないわ。続けて」
「つまりだ、チャールズ一世の肖像画を見て陛下が考えていたことを、ダロワーニ夫人に伝えたとしたら……」
「それはちょっとひどい仕打ちじゃない?」
「確かにね」
「じゃあこの話はもうやめましょう」
老婦人が溜息をついた。
「困ったな」子爵は呟くように口走った。「事態は勝手に進んじまっている。家名も知性もお持ちのご婦人がダロワーニ男爵夫人の代わりに現れたっていうのに。ベアルン夫人は訴訟に勝ち、息子さんは王の代官になり、訴訟のせいで何度もパリに足を運んだ際の莫大な馬車賃だって補償されていたはずなんだ。こんな機会は一生に一度しかないだろうに!」
「まあ、嫌ですよ!」不意打ちを食らったベアルン夫人は声をあげずにはいられなかった。
確かに、夫人と同じ境遇の者ならば、同じように声をあげたであろうし、同じように椅子にへばりついていたであろう。
「ほら見なさい」デュ・バリー夫人が気の毒そうな声を出した。「伯爵夫人を悲しませちゃったじゃない。謁見式が済むまでは陛下に何もお願い出来ないって説明するだけでもよかったんじゃないの?」
「ああ、訴訟を延期出来ればいいんですけどねえ!」
「たった一週間なのに」
「ええ、一週間ですよ。一週間後には謁見式をなさるんですから」
「ええ、でも陛下は来週にはコンピエーニュなの。祝宴の真っ直中ね。王太子妃が到着するはずだから」
「そういうことだ。そういうこと。だが……」
「何?」
「待てよ。また閃いた」
「何です。何でございますか?」
「多分……うん……いや……そう、そう、そうだ!」
ベアルン夫人は不安げにジャンの一言を繰り返した。
「『そう』と仰いましたか?」
「これはいい考えだ」
「教えて頂戴」
「聞いてくれ」
「聞いてるわ」
「謁見式のことはまだ内密だったな?」
「多分ね。ただベアルン伯爵夫人は……」
「まあ! ご安心下さいまし!」
「謁見式はまだ内密のことだ。代母が見つかったことは誰も知らないんだ」
「そうかもね。陛下は爆弾みたいに報せをぶちまけるのがお好きだから」
「今回はそれがよかった」
「そうなんでしょうか?」ベアルン夫人がたずねた。
「それでよかったんですよ!」
耳をそばだて目を見開いている二人のところに、ジャンが椅子を近づけた。
「つまりね、ベアルン伯爵夫人も、謁見式が行われることや代母が見つかったことは知らないんだ」
「そうでございますね。お聞きしなければ知らなかったと思いますよ」
「僕らが会ったことは誰も知りません。つまりあなたは何も知らない。陛下に謁見を申し込んで下さい」
「でも陛下には断られると仰いませんでしたか」
「陛下に謁見を申し込んで下さい。代母になると申し出るんです。一人見つかったことをあなたは知らないんですからね。だから謁見を申込み、代母になると申し出て下さい。あなたのような家柄のご婦人から申し出があれば、陛下も心を動かされるはずです。陛下はあなたを迎え入れ、感謝し、願いがあれば何でも叶えると仰るでしょう。そこであなたは訴訟のことを切り出し、先ほどの演繹をお話し下さい。納得なさった陛下が事件の後押しをなさり、負けるはずだったあなたの訴訟も、勝つことになるでしょう」
デュ・バリー夫人はベアルン夫人をじっと見つめていた。老婦人はどうやら落とし穴がないか探っているらしい。
「まあ! 私みたいなものが、陛下に向かってどうすれば……?」
「こういう場合は善意を見せるだけで充分ですよ」ジャンが答えた。
「でも善意だけというのは……」老婦人はなおも躊躇っていた。
「悪くない考えだけど」デュ・バリー夫人は微笑んだ。「でもきっと、訴訟に勝つためとはいえ、こんなペテンじみたことには気が進まないんじゃないかしら?」
「ペテンじみたことだって? まさか! 誰もペテンだってわかるもんか」
「伯爵夫人の仰る通りでございます」ベアルン夫人はそれとなく話題を逸らそうとした。「ご親切を賜るにしても、ご迷惑をかけたくはありませんから」
「ほんと、ありがたいことね」デュ・バリー夫人の言葉に潜んだ軽い皮肉に、ベアルン夫人も気づかざるを得なかった。