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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 31-2 

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「いや、まだ手はある」ジャンが言った。

「ほかにも?」

「ええ」

「ご迷惑をかけないような?」

「凄いじゃない、お兄様! 詩人になったらどう? ボーマルシェだってこれほど手だてを思いつきはしないわよ」

 老婦人はその手だてとやらを聞きたくてたまらなかった。

「からかうのはよせ。ダロワーニ夫人とは懇意だったな?」

「そんなこと!……知ってるでしょ」

「代母の役を出来なかったら気を悪くするかな?」

「多分ね」

「代母役を担うには家格が足りないと陛下が口にしたことはわざわざ伝えなくてもいい。ただ、いい子だから機転を利かせて、別の言い方をするんだ」

「要するに何を?」

「協力を惜しまず財産を作る機会をベアルン伯爵夫人に譲るということをだ」

 伯爵夫人は身震いした。今度の攻撃は単刀直入だった。曖昧な返答を許さない。

 それでもやがて答えは見つかった。

「その方をご不快にさせたくはありませんよ。人間には敬意が必要でございますから」

 デュ・バリー夫人はむっとするような素振りを見せたが、兄になだめられた。

「聞いて下さい、マダム。何かしろと言っている訳ではありません。間もなく始まる訴訟がある。それに勝ちたいのは当然のことです。ところが負けそうなので絶望してらっしゃった。僕はその絶望の真っ直中に出くわして、心の底からお気の毒に思ったんです。それで自分には無関係なこの訴訟に興味を持ちました。既に首まで嵌っていたあなたを見て、どうにか事態を好転させたいと思ったのですが。間違っていました、もうこの話はやめます」

 そう言ってジャンは立ち上がった。

「そんな!」この悲痛な叫びは、デュ・バリー兄妹にも伝わった。それまでは無関心だった訴訟に、二人とも関心を寄せ始めた。「そんなことはありませんよ、ええそうです、ご親切にどれほど感謝していることか!」

「おわかりだと思いますが」ジャンは見事なまでに無関心を演じていた。「誰に紹介してもらっても構わないんですよ。ダロワーニ夫人にでも、ポラストロン夫人にでも、ベアルン夫人にでも」

「でもそうでしょうけど」

「ただですね、陛下のご親切を興味本位に利用し、僕らを前にした途端に妥協してしまうような卑しい人には我慢ならないんです。それしきのことで陛下のご威光は揺るぎないと分かってはいるのですが」

「ふうん! ありそうなことね」デュ・バリー夫人が合いの手を入れた。

「一方、自分から名乗り出たわけでもなく、僕らもあなたのことは殆ど知りませんが、大変な気品を備えていらっしゃるし、あらゆる点から見てあなたこそこの状況をものにすべきだと思うんです」

 恐らく老婦人は、子爵に讃えられたその善意に逆らって抗おうとしたのだろう。だがデュ・バリー夫人がその暇を与えなかった。

「確かに、そうすれば陛下はお喜びになるわ。そんなご婦人を拒むことは絶対にないでしょうね」

「陛下はお拒みにならないと仰るのですか?」

「むしろ陛下の方からあなたの望みを掘り返しますよ。ご自分の耳で、陛下が副大法官にこう仰るのを聞けるでしょう。『ベアルン夫人のために何かしてやりたいと思うが、いいかね、モープー?』。でも、そうはいかないと思ってらっしゃるようですね。わかりました」と言って子爵が頭を下げた。「どうか僕の誠意をわかっていただけませんか」

「まあそんな。私には感謝の気持しかありませんよ!」

「何の疑いもないんですね!」

「でも……」

「何です?」

「でも、きっとダロワーニ夫人が許して下さいませんよ」

「それでは最初の話に戻るだけです。どっちみちあなたは機会を得て、陛下は感謝することになるでしょうね」

「でもダロワーニ夫人が引き受けたとしたら――」ベアルン夫人は最悪の結果を覚悟し、事態を見極めようとしていた。「その恩恵を取り上げることなんて出来ないでしょう……」

「陛下はご親切を惜しんだりなさらないわ」デュ・バリー夫人が言った。

「ふん! サリュース家には災難だな。知ったこっちゃないが」

「私がお役目を申し出たとしても――」もともと気になっていたところに斯かる喜劇が演じられたせいもあり、ベアルン夫人もだんだんと思いを固め始めた。「訴訟に勝つとは思えませんよ。今日までは誰が見たって負けていたのに、明日には勝っているなんてとても無理ですもの」

「そんなのは陛下のお気持ち次第です」またもや老婦人が躊躇っているのを見て、子爵は急いで言葉を継いだ。

「待ってよ。ベアルン夫人の言う通り。あたしも同感ね」

「何だって?」子爵は目を見開いた。

「つまりね、予定通りに訴訟が進んだとしても、ベアルン夫人のように由緒ある家柄の方には結構なんじゃないってこと。陛下のご厚意やご親切の障碍にはならないわ。何しろ高等法院とは今みたいな状況だから、もしかすると陛下も裁判の流れを変えたくないかもしれないけど、その時は賠償してくれるんじゃない?」

「そうだな」子爵もすぐに同意した。「その通りだ!」

「でもですよ」ベアルン夫人が辛そうに口を聞いた。「二十万リーヴルもの負債を、どうやって賠償して下さるんでしょうか?」

「まずはそうね、国王からのご下賜金が十万リーヴル、とかかしら?」

 デュ・バリー兄妹は食い入るようにかもを見つめていた。

「私には息子がいます」

「あら素敵! 王国にまた一人、陛下に忠実な臣下が増えるんですよ」

「息子にも何かしていただけると思いますか?」

「僕が答えましょう。最低でも近衛の副官は見込めます」とジャンが言った。

「ほかにもご親戚はいらっしゃいますの?」デュ・バリー夫人がたずねる。

「甥が一人」

「そうですか。甥御さんにも何か考えておきますよ」

「それはあたなに任せるわ。いくらでも思いつくみたいだし」デュ・バリー夫人も笑いながら同意した。

「よし。陛下がホラティウスの教訓に従いあなたのために手を尽くし、解決を図って下さるなんて、賢明ななさりようではありませんか?」

「思っても見ないほど寛大ななさりようですとも。それに伯爵夫人にもお礼を申し上げます。寛大な計らいもみんなあなたのおかげでございますから」

「それじゃあ」デュ・バリー夫人がたずねた。「この話を真剣に考えて下さるのね?」

「ええ、真剣に考えます」こう約束したベアルン夫人の顔は真っ青だった。

「じゃあ陛下にあなたのことをお話ししても構わないわね?」

「ありがたく存じます」ベアルン夫人は一つ溜息をついた。

「すぐに実行するわ。遅くとも今晩にはね」と言ってデュ・バリー夫人は腰を上げた。「これで手に入れられたかしら、あなたの友情を」

「ご友情などとはもったいないことでございます」老婦人はお辞儀をして答えた。「本当のことを申しますと、夢でも見ているようでございますよ」

「ではまとめましょうか」すべて無事に終わらせるためには、夫人に気が変わってもらっては困る。「まずは報償金十万リーヴルが、訴訟費用、旅賃、弁護士費用などに……」

「ええ」

「息子さんである伯爵には副官の地位を」

「きっと素晴らしい経歴の第一歩ですよ」

「甥御さんにも何かを、でしたね?」

「何かですか」

「何か見つけてもらうと申し上げた通りです。僕に任せて下さい」

「ところで今度はいつお会い出来るのでしょうか、伯爵夫人?」

「明日の朝、四輪馬車を迎えに行かせて、陛下のいるリュシエンヌまでお連れします。明日の十時にはお約束を果たしますわ。陛下にはお知らせしておくので、すぐにお会い出来ますよ」

「お送りいたしましょう」ジャンが腕を差し出した。

「とんでもございません。どうかそのままで」

 ジャンは引き下がらなかった。

「せめて階段の上まで」

「是非にと仰るのでしたら……」

 そう言ってベアルン夫人は子爵の腕を取った。

「ザモール!」

 デュ・バリー夫人が呼ぶと、ザモールが駆けつけた。

「玄関までご案内差し上げて。それから兄の車を回すように」

 ザモールは閃光のように立ち去った。

「本当にお世話になりました」ベアルン夫人が口を開いた。

 二人は別れのお辞儀を交わした。

 階段の上まで来ると、ジャン子爵は腕を放し妹の許に戻った。ベアルン夫人は大階段を厳かに降りていった。

 先頭を歩いているのはザモール。その後から、二人の従僕が明かりを手に続き、それからベアルン夫人、三人目の従僕がやや寸足らずな裾を持って従った。

 デュ・バリー姉妹は窓越しに、ベアルン夫人が馬車に着くまで見守っていた。細心の注意と一方ならぬ苦労の末にやっと見つけ出した代母なのだ。

 ベアルン夫人が玄関の石段を降り切った時のことだった。馬輿が中庭に乗り入れられ、若い婦人が扉から声を張り上げた。

「おや、ションさま!」ザモールがぶ厚い口唇を開いた。「お晩でございます」

 ベアルン夫人が空中で足を止めた。到着を告げた声に聞き覚えがあったのだ。フラジョ氏の偽娘ではないか。

 デュ・バリー夫人は大急ぎで窓を開け、妹に向かって賢明に合図したが、気づかれずに終わった。

「ジルベールのお馬鹿ちゃんはここ?」ションは伯爵夫人に気づかぬまま従僕に声をかけた。

「いいえ、一度も見かけておりません」

 ションが目を上げ、ジャンの合図に気づいたのはその時だった。

 伸ばした腕の先に目をやると、ベアルン夫人がいた。

 ションは悲鳴をあげて帽子コワフを引き下げ、玄関に転がり込んだ。

 老婦人は気づいた様子を微塵も見せずに馬車に乗り込み、御者に行き先を告げた。

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『ジョゼフ・バルサモ』 第31章-1 「ザモールの委任状」

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 取次・随身は出ていったが、すぐに戻って来た。その後ろから、我々には既に馴染みのジャン・デュ・バリーが、足を伸ばし腕を吊って入って来た。

 型通りの挨拶が済むと、未だ決心のつかない伯爵夫人は震えながら立ち上がり、いとまごいをしようとした。それを見て大法官は会釈をし、会見が終わったことを伝えた。

「失礼、閣下」と子爵が言った。「それにマダム、お邪魔してすみません。どうかこのまま……。閣下には一言申し上げるだけですから」

「でもお邪魔でしょう?」伯爵夫人は口ごもった。

「とんでもない。一言申し上げるだけですから。十分だけ閣下に貴重な時間を割いていただきたいのです。訴えを聞いてもらえませんか」

「訴えですか?」大法官が尋き返した。

「殺人です、閣下。見過ごす訳には行きません。誹謗され、諷刺され、中傷されても、生き延びることは出来る。だが喉を掻き切られる訳にはいかない。死んでしまいます」

「詳しく話してもらえますか」大法官は恐ろしそうな素振りをした。

「すぐにそうするつもりですが、マダムのお話を邪魔してしまいましたね」

「ベアルン伯爵夫人です」大法官がデュ・バリー子爵に老婦人を紹介した。

 子爵と夫人は腰を引き、宮廷でするような仰々しいお辞儀をした。

「あなたがお先に、子爵」

「女性に対する不敬罪を犯す訳にはいきません」

「まあまあ、私が譲れないのはお金で、あなたが譲れないのは名誉って訳ですか。でも急いでらっしゃるんでしょう」

「伯爵夫人、それではご親切に甘えさせてもらいます」

 そう言ってデュ・バリー子爵は大法官に用件を話して聞かせた。

「証人が要りますね」しばらくしてからモープーが口を開いた。

「ああ! 揺るぎない真実にしか動かされたくないという訳ですね。わかりました。見つけて来ましょう、証人を……」

 ここで伯爵夫人が口を挟んだ。「閣下、一人はとっくに見つかってますよ」

「どなたです?」子爵とモープーが同時にたずねた。

「私です」

「あなたが?」大法官がたずねた。

「ねえ子爵、事件が起こったのはラ・ショセじゃありませんか?」

「その通りです」

「宿駅のことでしょう?」

「ええ」

「やっぱり! 私が証人ですよ。犯行現場を通りかかったんです。二時間後のことでした」

「本当ですか?」大法官がたずねた。

「ああ、ありがたい!」子爵が声をあげた。

 伯爵夫人が畳みかける。「その証拠に、町中が事件で持ちきりでしたよ」

「待って下さい。今回の事件に関わってくれるおつもりでしたら、十中八九、ショワズールが妨害を仕掛けて来るはずです」

 大法官も同意した。「伯爵夫人は訴訟を抱えているが、勝つのがかなり難しいこうした状況下では、妨害も容易いだろう」

「閣下、閣下」老婦人は頭を抱えた。「谷から谷へ転がり落ちているみたいじゃありませんか」

「子爵の腕をお借りなさい」大法官はぼそりと言った。「腕を貸してくれるでしょう」

「ご覧の通り一本だけですがね」デュ・バリー子爵がにやりとした。「だが強くて長い二本の腕の持ち主が一人、腕を貸してくれますよ」

「ああ! 子爵、それは確かなことでしょうか?」

「もちろんですよ! 持ちつ持たれつ。あなたのことは引き受けますから、僕のことは引き受けて下さい。構いませんか?」

「引き受けたとしたら……まあ、何て運がいいんでしょう!」

「そういうことです。すぐに妹に会わせて差し上げますよ。馬車に乗っていただけますか……」

「理由もないし、用意もないのに? とてもそんなことは」

「理由ならあるじゃありませんか」大法官がザモール宛ての書状を手に握らせた。

「大法官閣下、あなたこそ守護神です。子爵殿、あなたこそフランス貴族の華ですとも」

「お役に立てて何よりです」そう言った子爵に行き先を示されて、伯爵夫人は鳥のように飛んで行った。

「妹様々だ」ジャンがモープーに囁いた。「わが従兄弟様々です。おれの演技はどうでした?」

「申し分なかった。だが私の演技のことも話しておいてもらえるかな。それから気をつけ給え、あの老婦人はなかなか聡い」

 そうこうしているうちに、伯爵夫人がこちらを向いている。

 二人は腰を折って仰々しくお辞儀をした。

 従僕付きの豪華な四輪馬車が玄関先で待機しており、伯爵夫人は意気揚々と乗り込んで腰を下ろした。ジャンの合図と共に馬車が動き出した。

 デュ・バリー夫人の部屋から国王が立ち去った後。国王が廷臣に口にした如くに、短時間の不愉快な会見の後。伯爵夫人はションと兄と三人きりで部屋に残されていた。傷の状態を確認されて軽傷であることがばれないように、兄が真っ先に姿を消した。

 家族会議の結果、デュ・バリー夫人は国王に告げたようにリュシエンヌには向かわず、パリに発っていた。パリのヴァロワ通りには小さな家があり、ひっきりなしに飛び回っているデュ・バリー家の人間が、事件にせき立てられたり面白いことがあったりした時の、仮住まいとして利用されていたのである。

 デュ・バリー夫人は自室に腰掛け、本を手に取り待っていた。

 その間、子爵が策を弄していたのである。

 だがこの寵姫は、パリを走らせるに当たって、馬車の窓から時折顔を覗かせずにはいられなかった。人に姿を見せることは美しいご婦人の本能である。それも美しさを自覚しているからだ。それ故に伯爵夫人は姿を見せた。その結果、夫人がパリにいるという噂はぱっと広まり、二時から六時までの間に二十人ばかりが夫人の許を訪れたのである。これは伯爵夫人にとっては天の助けだった。一人きりで取り残されていたら、退屈のあまり死んでしまっただろう。こうした気晴らしが出来たおかげで、陰口、寸評、無駄話のうちに時間は過ぎた。

 子爵がサン=トゥスタッシュ(Saint-Eustache)教会の前を通り過ぎた時、大きな文字盤が七時半を指しているのが見えた。妹の許へとベアルン伯爵夫人を連れている途上のことだ。

 馬車の中では、こんな僥倖につけ込んでよいものかと、伯爵夫人が躊躇いを表していた。

 子爵の方では、いわば保護領の高官役を引き受けて、奇妙な偶然からベアルン夫人にデュ・バリー夫人を引き合わせるに至ったことをしきりに感嘆していた。

 ベアルン夫人の方では副大法官への礼儀と世辞を忘れなかった。

 こうして二人がうわべを繕っている間も、馬は遅々として進まず、デュ・バリー邸に着いたのはようやく八時になろうとしている頃だった。

「では伯爵夫人」子爵は老婦人を待合室に案内した。「デュ・バリー夫人に報せて来ますから」

「でもやっぱり、ご迷惑をお掛けすることは出来ませんよ」

 ジャンは、玄関の窓口で待機していたザモールに近づき、小声で指示を出した。

「あらまあ可愛い黒ん坊じゃありませんか。あれが妹さんの?」

「そうです。お気に入りの一人です」と子爵が答えた。

「いいのをお持ちだとお伝えしなきゃ」

 とその時、待合室の扉が開いて従僕が姿を見せ、デュ・バリー夫人が謁見に使っている大広間にベアルン夫人を招き入れた。

 ベアルン夫人が嘆息して豪華な隠れ家を眺めまわしている間に、ジャン・デュ・バリー子爵は妹のところに向かっていた

「あの人?」デュ・バリー伯爵夫人がたずねた。

「正真正銘」

「何も気づいていないの?」

「まったく」

「で、副ちゃんは……?」

「問題ない。すっかり協力してくれた」

「じゃああんまり長いことこうしていない方がいいわね。何にも気づいていないんだから」

「そうだな。どうも勘が良さそうなところもあるし。ションは?」

「知ってるでしょ、ヴェルサイユ」

「くれぐれも姿を隠しておいてくれよ」

「よく言っておいたわ」

「よし、出番だ、お姫様」

 デュ・バリー夫人は扉を開けて閨房から出た。

 これまでお話しして来た出来事の起こった当時は、このような場合には仰々しい挨拶をするものであった。而して二人の女優は相手に気に入られんと細心の注意を払って挨拶を交わしたのである。

 口を切ったのはデュ・バリー夫人であった。

「先ほど兄にはお礼を申しました。お客様をお連れして下さったんですもの。今度はあなたにお礼を申し上げる番です。あたくしのお願いに同意して下さったんですもの」

 これにはベアルン夫人が大喜びをした。「私の方こそ、こんな風にもてなして下さって、感謝の言葉もございませんよ」

 今度はデュ・バリー夫人が恭しくお辞儀をした。「お役に立てることがあるようでしたら、あなたのような立派なご婦人のために尽力するのは務め」

 こうして一通り三段のお辞儀が終わると、デュ・バリー夫人はベアルン夫人に椅子を勧め、自分も椅子に腰を下ろした。

第三十一章 ザモールの委任状

「それでは」デュ・バリー夫人がベアルン夫人に声をかけた。「お話し下さい。お聞きしますから」

「失礼」立ったままのジャンが口を挟んだ。「頼み事の邪魔をするつもりはないんだが。ベアルン夫人にはお話があるんだ。大法官から言づかっていることがあってね」

 ベアルン夫人はジャンに感謝の眼差しを注ぎ、副大法官の署名入り証書を伯爵夫人に差し出した。それにはリュシエンヌを王家の城館にすること、ザモールを領主に任命することが記されていた。

「じゃああなたに感謝しなくちゃいけませんね」証書に目を通してから伯爵夫人が言った。「機会さえあれば、今度はこちらがあなたのお役に……」

「でしたら、簡単なことでございます!」老婦人の勢いに、二人とも北叟笑んだ。

「どういうことかしら? お聞かせ下さい」

「よくぞ仰って下さいました。私の家名はまったくの無名ですが……」

「何ですって、ベアルンが?」

「訴訟の話をお聞きになったんですね? 我が家の財産が失われてしまうんですよ」

「確かサリュース家と抗争中でしたね?」

「ええその通りでございます」

「そう。そのことなら知ってるわ。陛下がいつかの晩、モープー殿に仰ってたから」

「陛下が! 陛下が私の訴訟の話を?」

「ええ、そう」

「何と仰ってたんでしょう?」

「お気の毒に!」デュ・バリー夫人は首を振った。

「じゃあ、負けるんですね?」老婦人の声は苦悶に歪んでいた。

「本当のことは口にしたくありません」

「陛下がそう仰ったんですね!」

「陛下ははっきりとは仰いませんでした。慎重で賢明な方ですから。財産はもはやサリュース家のものになったようなものだと考えていらっしゃるようでしたわ」

「ああ神様! 陛下が事件のことを知ってらしたら……譲渡された債務が償却(返済)済みだったのが問題だと知ってらしたら……! ええそうなんです、償還(返済)してるんです。二十万フランは返してたんですよ。もちろん契約書はありませんけど、蓋然的証拠ならありますから。私自身が高等法院で弁護することがあったら、演繹によって明らかに……」

「演繹ですか?」伯爵夫人には話の内容がさっぱりわからなかったが、ベアルン夫人が弁護に並々ならぬ意識を傾けているらしいのはわかった。

「ええそうです、演繹です」

「演繹的証拠なら採用されるな」ジャン子爵が言った。

「そうお思いになりますか?」

「そう思いますね」子爵は極めて重々しく答えた。

「それじゃあ、演繹によって証明しますよ。二十万リーヴルの債務に貯まった利子を合わせれば、百万以上にはなっているはずですから。証明してみせますとも。この債務は、一四〇〇年にギー・ガストン四世ベアルン伯爵が返済し終わっていたはずなんです。一四一七年にベアルン伯爵が死の床についた時、手には遺書がありました。『我は死の床にありて、もはや人に縛られることなく、神の御前に赴きし覚悟のみ……』」

「え?」伯爵夫人が声をあげた。

「おわかりでしょうとも。人に縛られることがないんでしたら、サリュース家には返済していたってことですよ。そうじゃなきゃ、『もはや縛られることなく』なんて書かずに『二十万リーヴルに縛られて』と書いていたはずですからね」

「恐らくそうでしょうね」とジャン。

「でも、ほかに証拠はありませんの?」

「ガストン四世の言葉だけです。でも立派な方だと言われていた人ですよ」

「なのにあなたは債務と戦ってるんですね」

「ええ存じております。訴訟がもつれるのもその点なんでございますよ」

 そこは訴訟が丸く収まると言うべきであったが、ベアルン夫人は自分なりの立場でものを見ていたのである。

「では、サリュース家には返済し終わっているとお考えなんですね」ジャンがたずねた。

「ええそう考えております!」

 デュ・バリー夫人が満足げに兄を見遣った。「どう? これで局面は変わるかしら?」

「かなり」

「向こうにとってもそうね。ガストン四世の遺言は明白だもの。『もはや人に縛られることなし』」

「明白なうえに理に適っている。もはや人に縛られることはない。つまり、縛られていた義務は果たしたというわけだ」

「つまり、義務は果たしたと」デュ・バリー夫人が繰り返した。

「ああ、あなたが判事でしたらよかったのに!」老婦人が声をあげた。

「昔ならこういう場合は法廷に持ち込んだりせず、神の裁きに委ねていたところです」ジャンも言いつのった。「僕自身は訴訟の利点を信じてますから、今もまだ同じ方法が使われていたなら、闘士としてあなたのために戦って見せますよ」

「まあそんな!」

「そういうわけです。もっとも、先祖のデュ・バリ=モアがやったことの受け売りに過ぎませんがね。若く美しいエディス・ド・スカルボローのため闘技場で戦い、嘘をついたと敵の口を割らせた時に、スチュアート王家と同盟を結ぶ名誉を授かったんです。だが生憎なことに」と薄笑いして、「今はもうそんな時代じゃない。権利を申し立てても、法律屋の判断に任せるしかないってわけです。『もはや人に縛られることなし』、こんなに明らかな文章すら理解出来ない奴らなのに」

「ねえお兄様、この文章が書かれたのは三百年前でしょう」デュ・バリー夫人が恐ろしい一言を口にした。「裁判でいう時効というのを考慮に入れなくちゃならないんじゃない?」

「たいしたことじゃない。陛下の前でも今のように話してくれたら……」

「陛下も納得してくれますよね? きっとそうですよ」

「そう思いますよ」

「そうですとも。でもどうやったら陛下にお話を聞いていただけるんでしょう?」

「リュシエンヌに来ていただかなくちゃなりませんね。陛下もよくいらして下さいますから……」

「まあそうだな。だがそれでは偶然に左右される」

「ご存じでしょ」デュ・バリー夫人が可愛らしく微笑んだ。「あたくしはしょっちゅう偶然に頼ってるんだから。文句なんて一つもありません」

「だが偶然に頼っていたら、八日、十五日、いや三週間経っても陛下と会えないかもしれない」

「そうね」

「ところが訴訟は月曜か火曜に判決が出るんだ」

「火曜でございますよ」

「で、今は金曜の晩だ」

 デュ・バリー夫人は天を仰ぎ見た。「じゃあもう時間がないじゃない」

「どうする?」と言ったジャンも、夢にでも耽っているようだった。

「ヴェルサイユで謁見する訳には?」ベアルン夫人がおずおずと提案した。

「とても許可されないでしょう」

「つてでどうにかならないのでしょうか?」

「あたくしのつてじゃあどうにもなりません。陛下は公務がお嫌いですし、今は一つのことだけで頭がいっぱいなんですもの」

「高等法院のことでしょうか?」

「違うわ。あたくしの謁見式のことです」

「!」

「ご存じでしょう。ショワズールの妨害や、プラランの陰謀や、グラモン夫人の口利きはありましたけど、陛下は謁見式をして下さることになったんです」

「いえそんな。存じ上げませんでした」

「そうなのか! いや、決まったことなんです」ジャンが言った。

「いつ行われるんでございましょう?」

「近いうちに」

「そこで……王太子妃殿下の到着前に式を行うのが陛下のご希望なんです。そうすればコンピエーニュの祝宴に妹を連れて行けますからね」

「そういうことですか。では謁見式は無事に行われるんですね」老伯爵夫人はおずおずとたずねた。

「もちろんです。ダロワーニ男爵夫人(la baronne d'Aloigny)……ダロワーニ夫人はご存じですか?」

「存じません。ああ! もう一人も知り合いなんておりませんよ。宮廷を離れて二十年になるんですから」

「そうでしたか! ダロワーニ男爵夫人が、代母を務めてくれるんです。陛下がいろいろと融通なさった訳です。夫は侍従に。息子はいずれは代官という約束で軍隊に。男爵領は伯爵領になりました。金庫にあった債務は、市の株券と交換されました。謁見式の晩には、即金で二万エキュが支払われます。という訳で男爵夫人は必死なんですよ」

「ようくわかりますよ」ベアルン伯爵夫人は優雅に微笑んだ。

「いや、そうか!」

「どうしたの?」デュ・バリー夫人がたずねた。

「まずったな!」ジャンは椅子から飛び上がっていた。「せめて八日前に副大法官のところでお会いしていたら」

「だったら?」

「だったら、ダロワーニ男爵夫人とはまだ何の約束もしていなかったってことだ」

「ねえ、スフィンクスみたいな謎かけはやめて頂戴。全然わからないわ」

「わからないか?」

「ええ」

「伯爵夫人はおわかりですよね」

「それが考えてはいるんですが……」

「一週間前には代母は決まっていなかった」

「そうね」

「そうなんだ!……伯爵夫人、話について来られますか?」

「大丈夫ですよ」

「(一週間前なら、)伯爵夫人が手を貸してくれていたはずなんだ。ダロワーニ男爵夫人の代わりにベアルン伯爵夫人が陛下からいろいろ賜っていたはずなんですよ」

 老伯爵夫人は目を見開いた。

「そんな!」

「ご存じですか。陛下がどれほどのご厚意を男爵家にお与えになったか。求める必要はなかった。向こうからやって来たんです。ダロワーニ夫人がジャンヌの代母を引き受けると聞いてすぐでした。『それはよかった。見るからに威張りくさったあばずれ共にはうんざりだ……伯爵夫人、そのご婦人を紹介してくれるだろうね? 訴訟を抱えてないか? 未払い金は? 破産は?……』」

 ベアルン夫人の目がますます大きくなった。

「『だが、一つ気に食わんな』」

「陛下のお気に障るところがあったんですか?」

「ええ、一つだけ。『一つだけ気に食わん。デュ・バリー夫人の謁見式には、由緒のある家名が欲しかった』そう仰って、ヴァン・ダイクの筆になるチャールズ一世の肖像画をご覧になっていました」

「ああ、わかりましたよ。先ほどお話し下さったデュ・バリ=モアとスチュアート家の同盟のことを陛下は仰ったんですね」

「そういうことです」

「でも結局は」ベアルン夫人の声には、とても言い表せない感情がこもっていた。「ダロワーニ家にお任せするんですね。そんな話、私のところには届きませんでしたからねえ」

「でも名門よ。証拠――というか、証拠みたいなものはあったし」

「ああ糞!」不意にジャンが椅子に手を掛け立ち上がった。

「ちょっと、どうしたの?」義兄の身悶えを前にして、笑いを堪えるのが精一杯だった。

「傷が痛むんじゃありませんか?」とベアルン夫人が気遣った。

「違います」ジャンはゆっくりと椅子に戻った。「違うんです。閃いたことがあって」

「どんなことなの?」デュ・バリー夫人は笑っていた。「ひきつりかけてたじゃない」

「いい考えなんですね!」ベアルン夫人がたずねた。

「最高に!」

「聞かせて頂戴」

「ただ、一つだけ拙い点がある」

「それは?」

「実行するのが難しい」

「まずは聞かせて頂戴」

「それに、ある人をがっかりさせることになる」

「気にすることないわ。続けて」

「つまりだ、チャールズ一世の肖像画を見て陛下が考えていたことを、ダロワーニ夫人に伝えたとしたら……」

「それはちょっとひどい仕打ちじゃない?」

「確かにね」

「じゃあこの話はもうやめましょう」

 老婦人が溜息をついた。

「困ったな」子爵は呟くように口走った。「事態は勝手に進んじまっている。家名も知性もお持ちのご婦人がダロワーニ男爵夫人の代わりに現れたっていうのに。ベアルン夫人は訴訟に勝ち、息子さんは王の代官になり、訴訟のせいで何度もパリに足を運んだ際の莫大な馬車賃だって補償されていたはずなんだ。こんな機会は一生に一度しかないだろうに!」

「まあ、嫌ですよ!」不意打ちを食らったベアルン夫人は声をあげずにはいられなかった。

 確かに、夫人と同じ境遇の者ならば、同じように声をあげたであろうし、同じように椅子にへばりついていたであろう。

「ほら見なさい」デュ・バリー夫人が気の毒そうな声を出した。「伯爵夫人を悲しませちゃったじゃない。謁見式が済むまでは陛下に何もお願い出来ないって説明するだけでもよかったんじゃないの?」

「ああ、訴訟を延期出来ればいいんですけどねえ!」

「たった一週間なのに」

「ええ、一週間ですよ。一週間後には謁見式をなさるんですから」

「ええ、でも陛下は来週にはコンピエーニュなの。祝宴の真っ直中ね。王太子妃が到着するはずだから」

「そういうことだ。そういうこと。だが……」

「何?」

「待てよ。また閃いた」

「何です。何でございますか?」

「多分……うん……いや……そう、そう、そうだ!」

 ベアルン夫人は不安げにジャンの一言を繰り返した。

「『そう』と仰いましたか?」

「これはいい考えだ」

「教えて頂戴」

「聞いてくれ」

「聞いてるわ」

「謁見式のことはまだ内密だったな?」

「多分ね。ただベアルン伯爵夫人は……」

「まあ! ご安心下さいまし!」

「謁見式はまだ内密のことだ。代母が見つかったことは誰も知らないんだ」

「そうかもね。陛下は爆弾みたいに報せをぶちまけるのがお好きだから」

「今回はそれがよかった」

「そうなんでしょうか?」ベアルン夫人がたずねた。

「それでよかったんですよ!」

 耳をそばだて目を見開いている二人のところに、ジャンが椅子を近づけた。

「つまりね、ベアルン伯爵夫人も、謁見式が行われることや代母が見つかったことは知らないんだ」

「そうでございますね。お聞きしなければ知らなかったと思いますよ」

「僕らが会ったことは誰も知りません。つまりあなたは何も知らない。陛下に謁見を申し込んで下さい」

「でも陛下には断られると仰いませんでしたか」

「陛下に謁見を申し込んで下さい。代母になると申し出るんです。一人見つかったことをあなたは知らないんですからね。だから謁見を申込み、代母になると申し出て下さい。あなたのような家柄のご婦人から申し出があれば、陛下も心を動かされるはずです。陛下はあなたを迎え入れ、感謝し、願いがあれば何でも叶えると仰るでしょう。そこであなたは訴訟のことを切り出し、先ほどの演繹をお話し下さい。納得なさった陛下が事件の後押しをなさり、負けるはずだったあなたの訴訟も、勝つことになるでしょう」

 デュ・バリー夫人はベアルン夫人をじっと見つめていた。老婦人はどうやら落とし穴がないか探っているらしい。

「まあ! 私みたいなものが、陛下に向かってどうすれば……?」

「こういう場合は善意を見せるだけで充分ですよ」ジャンが答えた。

「でも善意だけというのは……」老婦人はなおも躊躇っていた。

「悪くない考えだけど」デュ・バリー夫人は微笑んだ。「でもきっと、訴訟に勝つためとはいえ、こんなペテンじみたことには気が進まないんじゃないかしら?」

「ペテンじみたことだって? まさか! 誰もペテンだってわかるもんか」

「伯爵夫人の仰る通りでございます」ベアルン夫人はそれとなく話題を逸らそうとした。「ご親切を賜るにしても、ご迷惑をかけたくはありませんから」

「ほんと、ありがたいことね」デュ・バリー夫人の言葉に潜んだ軽い皮肉に、ベアルン夫人も気づかざるを得なかった。

『ジョゼフ・バルサモ』30-2 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 ベアルン夫人は改めて礼をしたものの、はたと押し黙ってしまった。それというのもいい加減で挨拶をやめて、用件を切り出さなくてはならなかったからだ。

 モープー氏は顎を撫でて待っていた。

「閣下、畏れながら重大な訴訟についてお話しすることをお許しいただけますか。私の全財産がかかっておりますのです」

 モープー氏は軽く頭を動かした――話しなさい。

「実は閣下、私の全財産、と言いますか息子の全財産のことで、目下サリュース家に訴訟を起こしていることはご存じかと思います」

 副大法官はなおも顎を撫でていた。

「ですけど閣下が公正なことは良く存じ上げておりますから、私の訴訟相手にご好意を――いえ、ご親交を結んでいらっしゃるのはわかっていながら、話を聞いていただきに伺うことを一瞬でも躊躇ったりはしませんでした」

 モープー氏は、公正というお世辞を聞いて微笑みを禁じ得なかった。五十年前にデュボワ(Dubois。枢機卿の Guillaume Dubois のことか?)が使徒の如き美徳だと褒めそやされたことがあったが、公正とはそれに相応しい言葉ではなかろうか。

「伯爵夫人、サリュース家の友人だというのは認めます。だがひとたび公印を手にすれば友情は脇に置いている。そのことはあなたにも認めてもらわなければ。正義の長に相応しからんとして、個人的なことには断じて関心を払ってはいません」

「ああ閣下! 祝福あれ!」

「だから、一法律家として訴訟に当たりましょう」

「ありがとうございます。さすがでございますね」

「確か、訴訟はもう間もなくでしたね?」

「来週なんです」

「では、どうしろと?」

「書類を調べていただきたいのです」

「もう済ませました」

「ではどう思われました?」伯爵夫人は身震いした。

「あなたの訴訟のことかな?」

「ええ」

「疑問の余地はありませんね」

「え? 勝訴がですか?」

「いいえ、敗訴がです」

「訴訟に負けると仰るんですか?」

「まず間違いありません。だから助言いたしましょう」

「何でしょう?」伯爵夫人は望みの綱にしがみついた。

「払わなくてはならないお金があるようなら、訴訟が裁かれ、判決が下され時には……」

「ええ」

「ええ、現金を用意しておくことです」

「でもそれじゃあ破産してしまいますよ!」

「いいですか伯爵夫人、そういった事情には立ち入ることは出来ません」

「でも閣下、正義にも情けもございませんか」

「それが理由ですよ、正義が目隠しされているのは【※正義の女神は目隠しをして表される】」

「でも、それでも閣下は助言を下さいますよね」

「どうぞ。何が望みです?」

「示談に持ち込んだり、もうちょっと軽い判決をもらうことは出来ないんですか?」

「法官に知り合いはないのですね?」

「おりません」

「それはお気の毒に! サリュース家は高等法院の四分の三とつきあいがありますよ」

 伯爵夫人がぶるぶると震えた。

「いいですか」副大法官は話を続けた。「そんなことはたいした問題ではありません。法官とは個人的な事情に左右されてはならぬのです」

 これもまた事実である。大法官が公正であり、あのデュボワが使徒の如き美徳を有していたのと同じことだ。伯爵夫人は気を失いそうになった。

「だが如何に公明正大とはいえ、他人のことよりは友人のことを考えるものです。当然といえば至極当然。あなたが訴訟に負けるのも致し方ないとも言えるでしょうし、極めて不愉快な結果になる可能性もあるでしょう」

「でも閣下のお話を聞いていると、ぞっと致しますね」

「個人的な見解は差し控えます。他人にとやかくは言えませんし、それに私自身が裁く訳ではありませんから。ですからお話しも出来るのですが」

「閣下、一つ思いましたんですけどね」

 副大法官はその小さな灰色の瞳で、老婦人を見つめた。

「サリュース家はパリで暮らしてますし、高等法院の方々とおつきあいがあるし、要するに無敵じゃありませんか」

「何せあの方たちにも権利はありますから」

「閣下のように完璧な方の口からそのような言葉を聞くと、ひどく気が滅入りますよ」

「申し上げたことに嘘偽りはありませんが」モープーは善人を装って答えた。「でもだからこそ、私の言葉をお役に立てて貰いたい」

 伯爵夫人はぞくりと震えた。副大法官の言葉の内に、いや少なくとも思いの内に、仄暗いものを見たような気がしたのだ。とは言え、曇りが晴れればその向こうには善意が見えたことだろう。

「それに、あなたのお名前はフランスでも有数のお名前ですから、かなり強力な武器になるのではありませんか」

「誰か敗訴を防いでくれる人はおりませんか、閣下?」

「私には無理です」

「ああ、閣下、閣下!」伯爵夫人は激しく首を振った。「何もかもどうなってしまうんでしょう!」

「こうお考えではありませんか」モープーは笑みを浮かべていた。「我々が生きていた古き時代には、何もかもうまくいっていた、と」

「ええ、そう感じてますよ。あの頃のことを思い出すとわくわくします。高等法院の一弁護士だったあなたは、立派な演説を行っていましたね。私も当時はまだ若くて、熱烈な拍手を送っていましたっけ。ああ、興奮? 演説? 美徳? ああ、大法官さん、あの頃には、謀り事も依怙贔屓もありませんでした。あの頃なら、きっと訴訟にも勝っていましたとも」

「摂政公が目を閉じている間に政治を操ろうとしたファラリス夫人がいたし、何かと齧り取ろうとして何処にでも潜り込んでいたラ・スーリ(二十日鼠)もいましたがね」

「閣下、ファラリス夫人は立派な貴婦人でしたし、ラ・スーリも素敵なお嬢さんでしたよ!」

「誰もあの人たちを拒むことは出来なかった」

「あの方たちに拒む術がなかったのかもしれませんよ」

「いや参った! 伯爵夫人」大法官が笑い出したので、老婦人はいよいよ吃驚した。それほどまでに気兼ねない自然な様子だったのだ。「昔を懐かしむのにかこつけて、政府の悪口を言わせようとは人が悪い」

「ですけど閣下、嘆かずにはいられませんよ。財産をなくして、永久に家を失ってしまうんですから」

「もうあの頃ではないんです。今は今の崇拝対象を追いかけなさい」

「でも閣下、あの人たちは手ぶらで崇拝しに来る人なんか相手にしませんよ」

「どうしてわかります?」

「え?」

「ええ。多分、試してみたわけじゃないのでしょう?」

「ああ閣下、ご親切に。お友だちみたいに話して下すって」

「同い年ではありませんか」

「どうして私は二十歳じゃないんでしょうねえ、閣下。それにあなたが今も一介の弁護士だったら! そうしたら私を弁護してくれたでしょうし、サリュース家があなたと対峙する(?)こともなかったでしょうに」

「残念だが私たちはもう二十歳ではありません」副大法官は無礼にならぬように溜息をついた。「ですから二十歳の人間に任せましょう。あなたご自身、人の上に立つお年なんですから……そうか! 宮廷にお知り合いはいないんですね?」

「隠居した老貴族が何人かいますけど、古い友人のことは恥じていることでしょうよ。こんなに貧しくなってしまったんですもの。ねえ閣下、私もヴェルサイユに参上することは許されてるんですから、その気になれば行くことは出来るんですよ。でもそんなことをしても無駄じゃありませんか? 二十万リーヴル取り戻しでもすれば、また人も寄って来るでしょうけど。どうか奇跡を起こして下さい、閣下」

 大法官は最後の一言には気づかぬふりをした。

「私なら旧友のことは忘れますよ。向こうでも忘れているのだから。私なら支持者を欲しがっている若者たちのところに行きますがね。マダムたちとはお近づきでは?」

「私なんか忘れられてますよ」

「では無理ですね。王太子とは?」

「全然」

「もっとも、ほかのことを考えたくても、大公女のことで頭がいっぱいでしょうがね。それでは寵臣たちに移りましょうか」

「もうお名前すら存じ上げませんよ」

「デギヨン氏のことは?」

「お調子者だとかひどい話を聞いてますけどね。他人に戦わせておいて小屋に隠れていたとか……まったく!」

「いけませんな! 噂など話半分にも信じてはなりません。次に行きましょうか」

「ええ、続けて下さい、閣下」

「だがどうして? いや……うん……大丈夫……」

「仰って下さいよ」

「どうして伯爵夫人ご本人にお話しなさらないのです?」

「デュ・バリー夫人に?」老婦人は扇を広げた。

「何せ親切な方ですから」

「そうですねえ!」

「それに本当に世話好きな方で」

「私くらい古い家柄でしたら、きっと喜んでもらえますね」

「さあ、どうでしょうか。格式の方を求めてらっしゃるようですが」

「そうなんですか?」既に抵抗の意思は揺らいでいた。

「お知り合いですか?」

「まさか。存じ上げません」

「それは……あの人なら信頼出来ると思ったのですが」

「ええ、そりゃそうですとも。でもお会いしたこともないんです」

「妹のションにも?」

「ええ」

「ビシにも?」

「ええ」

「兄のジャンにも?」

「ええ」

「黒んぼのザモールにも?」

「黒んぼですって?」

「そうです、黒んぼも頭数に入ってます」

「ぞっとする肖像画がポン=ヌフで売られていましたけど、あの服を着たパグそっくりの?」

「その通り」

「黒ん坊と知り合いかと仰るんですか!」誇りを傷つけられた伯爵夫人が叫んだ。「黒んぼと知り合いだといいことでもあるんですか?」

「すると、土地を守りたくはないのですね」

「どうしてです?」

「ザモールを軽蔑しているようですから」

「でもそのザモールに何が出来るというんですか?」

「勝訴に導くことが出来るくらいですがね」

「そのアフリカ人が? 訴訟に勝たせてくれるんですか? いったいどういうことですか」

「あなたを訴訟に勝たせたいと夫人に口添えするんです。結果はお分かりでしょう……。ザモールは夫人にお願いし、夫人は国王にお願いする」

「ではフランスを動かしているのはザモールなんですか?」

「然り!」モープーがうなずいた。「私なら……そう、王太子妃のご不興を蒙る方を選びますな、ザモールの機嫌を損ねるよりは」

「信じられません!」ベアルン夫人が声をあげた。「閣下のような真面目な方のお話でなければ……」

「いやいや、誰に尋いても同じことを言いますよ。マルリーやリュシエンヌに行かれたら、ザモールの口にお菓子を放ったり耳飾りを贈ったりするのを忘れていないかどうか、公爵や貴族におたずねになってご覧なさい。あなたとこうして話しているのは誰なのか、フランスの大法官か何かではないかと仰いますか? いやはや! あなたがいらっしゃった時、私が何をしていたとお思いです? 領主(gouverneur)の書類を作成していたのです」

「領主ですか?」

「ええ、ザモール氏はリュシエンヌの領主に任命されたのです」

「それはベアルン伯爵が二十年お勤めした褒美にいただいた肩書きと同じじゃありませんか?」

「ブロワ城の領主でしたな。その通りです」

「馬鹿にするにもほどがあるじゃありませんか! それでは君主制は終わってしまったんですか?」

「弱っているのは事実です。だが瀕死の病人からは、搾れるだけ搾り取るものです」

「そうでしょうけどね。それには病人に近づかなくちゃなりませんよ」

「デュ・バリー夫人に歓迎されるためにはどうすればいいかご存じですか?」

「どうすればいいんです?」

「黒んぼ宛てにこの書状を運んでいただかなくてはなりません……きっと歓迎されることでしょう!」

「そうなんですか?」伯爵夫人はがっくりとした。

「間違いありません。だが……」

「だが……?」ベアルン夫人が繰り返した。

「だが夫人に近しいお知り合いがいないのですね?」

「でも閣下は?」

「私ですか!……」

「ええ」

「私はちょっとまずいでしょう」

「まあそうでしょうねえ」老婦人は哀れにも様々な葛藤に押しつぶされていた。「もう運にも見放されたんでしょうね。閣下にはお会いすることすら諦めていたのに、こんな風に歓迎していただいたのは初めてでした。でも、まだ足りないんですから。覚悟を決めてデュ・バリー夫人にお願いするだけじゃあなく、この私ベアルンがデュ・バリー夫人にお会いするため、黒ん坊の使いっ走りをする覚悟までしているのに。道で出会っても侮辱しなかったでしょうに、その怪物にさえ会うことが出来ないなんて……」

 モープーは考え込むように顎を撫でていたが、その時不意に取次・随身が来客を告げた。

「ジャン・デュ・バリー子爵です!」

 この言葉に、大法官は手を叩いて唖然とし、伯爵夫人は椅子に倒れ込んで脈も呼吸も止まってしまった。

「天運に見捨てられたですと! 伯爵夫人、それどころか、天はあなたのために戦っていましたよ」

 そう言うと大法官は随身に向かって指示を出した。伯爵夫人が我に返る暇すらなかった。

「お通ししろ」

『ジョゼフ・バルサモ』 30-1「ル・ヴィス」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十章 副《ル・ヴィス》

 モープーの邸に向かいながら、老伯爵夫人は手足をぶるぶると震わせていた。

 それでも、道々考えているうちに落ち着きを取り戻していた。いろいろと考え合わせれば、こんな遅い時間にモープーが会ってくれるとは思えないし、また来ることを門衛に伝えておけば済むことではないか。

 果たして七時くらいであろうか、まだ明るかったものの、貴族たちの間には四時に夕食を摂る習慣が広まっていたので、夕食から翌朝までは何も受けつけてもらえないのが普通だった。

 ベアルン夫人は是非とも副大法官に面会したかったのだが、どうせ会えないだろうと思うと気が楽になった。しばしば理屈抜きで納得してしまうのが、矛盾多き人間というものである。

 というわけで、訪れた伯爵夫人も、門衛に追っ払われるものだと考えていた。頑固な門衛を懐柔しようと三リーヴル=エキュを準備して、審問予定の目録に自分の名前が載っているのを確かめさせようとしていた。

 邸の前まで来ると、どうやら随身から指示を受けているらしい守衛の姿が目に入った。二人の会話を邪魔せぬよう、目立たぬようにして待っていたのだが、人が乗っている貸馬車を目にした随身が席を外した。

 そこで門衛が四輪馬車に近づき、請願者に名前をたずねた。

「あら何故です? どうせ閣下にお会い出来ないのはわかってますよ!」

「事情はどうあれ、お名前をお聞かせ願えますか」

「ベアルン伯爵夫人といいます」

「閣下はご在宅です」

「何ですって?」ベアルン夫人は耳を疑った。

「閣下はご在宅だと申し上げたのです」

「でも、会っては下さらないんでしょう?」

「お会いになるそうです」

 ベアルン夫人は半信半疑のまま馬車から降りた。門衛が紐を引き、ベルを二度鳴らした。随身が段上に現れると、門衛は中に入るよう伯爵夫人をうながした。

「閣下とのお話しをご希望ですね、マダム?」随身がたずねた。

「ご厚意を願いますが、期待はしておりませんよ」

「どうかこちらにおいで下さい、伯爵夫人」

 この法官はあまり評判が良くないけれど――随身の後ろを歩きながら伯爵夫人は考えた。でも、いいところがあるじゃないの。時間を気にせず会ってくれるんだから。大法官!……おかしなこと。

 こうして歩きながらも、モープーが務めに励んで特権を手に入れたのだとすると、それだけに気難しく不機嫌な人間に会うことになるのだと考えて、身体が震えていた。モープー氏は、大きな鬘に埋もれ、黒天鵞絨の法服に身を包み、扉の開いた部屋で仕事をしていた。

 伯爵夫人は部屋に入り、素早く辺りに一瞥をくれた。だが自分しかいないことに気づいて吃驚した。伯爵夫人と、痩せて黄ばんだ多忙な大法官を除けば、鏡に映っている者は一人もいなかったのである。

 随身がベアルン伯爵夫人の名を告げた。

 モープー氏はぎくしゃくと立ち上がってそのまま暖炉にもたれかかった。

 ベアルン夫人は作法通りに三段の礼を行った。

 堅苦しい礼を済ませると簡単な挨拶をした。地位や名誉を求めに来たのではないこと……多忙な大臣がわざわざ時間を空けてくれるとは思っていないこと……。

 それに答えてモープー氏が言うには、国王の臣下及び大臣としては、時間を無駄にする訳にはいかない。だが緊急の用件であれば話はまた別である。だから、例外に値するとあらば、いつでも喜んで時間を割いている、と。

『ジョゼフ・バルサモ』29-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「じゃあお嬢さんに行きがけに言伝を頼んだりはしなかったんですか?」伯爵夫人は考えをまとめようとした。「審問日が決まったと頼んだりもしなかったんですか?」

「ええ」

 伯爵夫人は飛び上がり、両手で膝を打った。

「お上がり下さい、伯爵夫人。落ち着きますよ」

 そう言いながら合図をしたので、マルグリットが麦酒を二杯、盆に載せて運んできた。だが老婦人にとっては喉が渇いているどころではなく、盆とコップを乱暴に押しやった。家の中を取り仕切っているのは自分だと考えていたマルグリットは、これにはいたく傷ついた。

 伯爵夫人は眼鏡越しにフラジョを見つめた。「さあさあ、どういうことですか、詳しく話そうじゃありませんか」

「是非そうさせて下さい。そのままでいいよマルグリット。そのうちお飲みになるかもしれない。ではお話しいたしましょう」

「ええ、あなたさえよければそうしましょうか。今日のあなたは変ですからね、フラジョさん。暑さで頭がおかしくなったのかと思いましたよ」

「まあまあ落ち着いて行きませんか」弁護士は両足を上手く使って伯爵夫人から椅子ごと離れた。「じっくり話し合いましょう」

「ええ、ようござんすよ。お嬢さんはいないと聞こえましたけどね?」

「そうなんですよ。ご期待に添えぬのはまことに残念ですが、第一……」

「第一?」伯爵夫人は繰り返した。

「第一、どうせ授かるなら男の子が欲しいところです。その方が先が楽しみ、いや、このご時世ではその方が悪いようにはならんでしょう」

 ベアルン夫人は不安のあまり両手を合わせた。

「どういうことです! 妹でも姪でも従姉妹でもいい。私をパリまで呼び出したりはしなかったと言うんですか?」

「考えもしませんでしたよ。パリは滞在費も馬鹿にならないのはわかっていますからね」

「じゃあ私の訴訟は?」

「召喚された時にはお知らせする用意はしております」

「召喚された時には、と言ったんですか?」

「ええ」

「じゃあまだ召喚されてないんですね?」

「私の知る限りでは」

「訴訟の順番は来てないんですね?」

「まだです」

「次の番だというわけでもなく?」

「違いますよ! もちろん違います!」

「それじゃあ――」老婦人は声をあげて立ち上がった。「私は騙されたんですか。手ひどくからかわれたってことですか」

 フラジョ氏は鬘を直して呟いた。

「そういうことになるかもしれませんね」

「フラジョさん……!」

 弁護士は飛び上がって、待機していたマルグリットに助けを求めた。

「フラジョさん、私はこんな屈辱には耐えられません。警視総監に訴えて、面と向かって侮辱したあの馬鹿娘を見つけ出してもらいます」

「しかしそれは! 雲をつかむような話ですよ」

 伯爵夫人は怒りに駆られて先を続けた。「見つけてしまえば、訴訟するまでです」

「また訴訟ですか!」弁護士が肩を落とした。

 この言葉を聞いて、我を忘れていた老婦人も、憑物が落ちたようにげっそりとした。

「はあ……そのうち何とかなるでしょうよ!」

「でもどんなことを言われたんです?」

「あなたに頼まれてやって来たんだと」

「狡賢い奴だ!」

「あなたに頼まれて、訴訟の順番が来たことを知らせに来たんだそうです。時間がないと。大急ぎで行かないと遅れてしまうと言うんですよ」

「はあ……」今度はフラジョ氏の番だった。「召喚などまだまだ先の話ですよ」

「忘れられてるんじゃないんですかね?」

「奇跡でもない限りは、忘れられ、埋もれ、沈んだままですよ。しかも奇跡なんてめったに起こるものじゃありませんから……」

「そうでしょうね」伯爵夫人は溜息をついて呟いた。

 フラジョ氏も太い溜息でそれに答えた。

「それでフラジョさん、一つ言っても構いませんか?」

「どうぞ仰って下さい」

「私はもう先が長くありません」

「そんなことはないでしょう!」

「ああ神様! もう限界です」

「伯爵夫人、力を出して下さい!」

「でもこれからどうすればいいんです?」

「申し上げますよ。地所に戻って、これからは誰が現れても私の言葉がなければ信じないようにすればいいんです」

「確かに戻らなくてはならないでしょうね!」

「そうするのが一番です」

「でもねえ、フラジョさん。もうこの世では会うことはないと思いますよ」

「何てことを!」

「でもひどく残酷な敵がいるものですねえ?」

「恐らくサリュース家の仕業でしょう」

「それにしたって浅ましいやりようじゃありませんか」

「ええ拙いやり方です」

「ああ、正義を! 正義を! フラジョさん、これはカクスの洞窟ですよ」

「どうしてです? 正義はもはや機能せず、高等法院は妨害され、モープーは院長の代わりに大法官になりたがっているんですから」

「フラジョさん、飲み物をもらえませんか」

「マルグリット!」

 マルグリットが戻って来た。話が落ち着いたのを見て、部屋から出ていたのである。

 戻って来たマルグリットは、一度は運び去っていた盆とグラスを手にしていた。ベアルン夫人は弁護士とグラスを合わせてから、ゆっくりと麦酒を喉に流し込んだ。そして悲しげにお辞儀をし、さらに悲しげに別れの挨拶をしてから玄関に向かった。

 フラジョ氏も鬘を手にそれを追った。

 ベアルン夫人は踊り場で、手すり用の綱を探っていたところだった。その時、誰かの手が夫人の手に置かれ、誰かの頭が胸にぶつかった。

 手と頭は法律事務所の見習いのものだった。急な階段を大急ぎで駆け上っていたのである。

 老伯爵夫人はぶつぶつと文句を言いながら、スカートを直して階段を降りた。その頃には見習いは踊り場に達しており、扉を押して司法見習い特有の大声を張り上げた。

「フラジョ先生、ベアルン事件の件です!」

 そう言って一枚の書類を差し出した。

 その名前を聞いて伯爵夫人は階段を駆け戻ると、見習いを押しのけてフラジョ氏に飛びかかり、書類をもぎ取った。伯爵夫人のこうした行動のため、フラジョ氏は部屋に釘付けにされてしまった。見習いはと言えば、キスを二つしたお返しに、マルグリットからびんたを二発食らっていた、というか、びんたする仕種だけを食らっていたと言うべきか。

「何ですかねえ! いったいどんなお沙汰があったんでしょうね、フラジョさん?」

「私にもさっぱりです。ですが書類を返していただけたら、読んで差し上げますよ」

「それもそうですね。ほらほら、さあ早く読んで下さい」

 弁護士は署名を読んだ。

「検事のギルドゥ(Guildou)氏だ」

「おやまあ!」

 フラジョ氏はいよいよ訳が分からなくなっていた。「火曜日までに弁護の準備をしておくよう書いてある。いよいよ訴訟が行われるそうです」

「訴訟が!」伯爵夫人が飛び上がった。「訴訟が行われるんですか! でも気をつけましょう。今度も悪戯じゃないでしょうね。もう立ち直れませんよ」

 フラジョはこの報せにすっかり肝を潰していた。「伯爵夫人、悪戯だとしたら、やったのはギルドゥ氏以外にありませんが、これが人生初の悪戯ということになりますよ」

「でも、この手紙は間違いなく本人のものなんですか?」

「ギルドゥと署名がありますよ、ほら」

「ほんとだ!……今朝から召喚され、火曜日に弁論。おや? するとフラジョさん、あのご婦人は詐欺師ではなかったんでしょうかねえ?」

「どうやらそのようですね」

「でもあなたのお使いではなかったのだから……あなたのお使いでないのは確かなんですよね?」

「もちろん確かですよ!」

「じゃあ誰のお使いだったんでしょう?」

「ええ、誰なんでしょう?」

「どのみち誰かのお使いだった訳ですしねえ」

「お手上げですよ」

「私だってそうですよ。ああ、もうちょっと読ませてもらえませんか、フラジョさん。召喚、弁護、そう書いてありますよねえ。モープー院長の前で弁護」

「何ですって! そんなことが?」

「ええそうですとも」

「弱ったな!」

「どうしてです?」

「モープー院長は、サリュース家の友人なんですよ」

「そうなんですか?」

「間違いありません」

「それではもうどうにもならないんですね。何て運が悪いんでしょう」

「ですが、言っても詮ないことです。いずれにせよ会わなくてはならないんですから」

「あまり歓迎されないんでしょうねえ」

「そうでしょうね」

「フラジョさん、どんなことを言って弁護してくれるんですか?」

「真実ですよ」

「先生! 気力をなくすだけでは飽きたらず、私の気力まで奪うおつもりですか」

「モープー殿の前では、いいことなんて起こりませんよ」

「随分と弱気じゃありませんか。あなただってキケロの子孫でしょう?」

「キケロだって、カエサルではなくウェッレスの前で弁護していたら、リガリウスの訴訟に負けていましたよ」フラジョ氏は、夫人から受けた讃辞に答えて謙虚にならざるを得なかった。

「じゃあ会いに行かない方がいいんですか?」

「そんな型破りなことは認められませんよ。残念ですがこういうのは会わなくてはいけない決まりなんです」

「そんな話し方はやめて下さい、フラジョさん。持ち場から逃げ出した兵士みたいじゃありませんか。訴訟を引き受けるのが怖いんだと思われますよ」

「伯爵夫人、本件などよりよほど勝つ見込みの高かった訴訟にも、何件か負けたことがあるんですよ」

 伯爵夫人は溜息をついたが、それでも気力を奮い立たせた。

「出来るところまでやってみようじゃありませんか」この会談の滑稽な様相とは裏腹に、威厳すら漂わせていた。「理はこちらにあるのだから、悪巧みを前にして尻尾を巻いて逃げ出したとは言われませんよ。訴訟には負けるでしょうけど、悪党どもに向かって、もはや宮廷でも珍しいほど淑女然として臨んであげますとも。フラジョさん、副大法官のところまで連れていってもらえませんか?」

 フラジョ氏の方にも威厳が戻って来た。「伯爵夫人、我々は誓ったんです。我々パリの高等法院の反対派は、デギヨン公爵の件で高等法院を去った者たちとは、もう裁判以外ではつきあわないことにしたんです。団結は力なり。モープー殿がこの訴訟に逃げを打つというのなら我々は断固抗議しなくてはなりませんし、向こうが切り札を見せるまではこっちも引くつもりはありません」

「どうやら私の訴訟は上手く行かないようですね」伯爵夫人は溜息をついた。「判事と弁護士は仲違いして、原告と判事も仲違いして……こうなると、我慢するしかありませんねえ」

「主がついていますよ」フラジョ弁護士は、古代ローマ人のトーガのように、部屋着を左腕に撥ね上げた。

「何てまあ頼りない」ベアルン夫人は独り言ちた。「弁護士がついているというのに、枕を前にした時の方が、高等法院を前にする時よりも見込みがありそうだよ」

 それから今度ははっきりと口に出し、笑顔の下に何とか不安を隠し込んだ。

「それじゃ、フラジョさん。訴訟のことはよろしく頼みますよ。何が起こるかなんて誰にもわからないんですから」

「ああ、伯爵夫人。心配はしておりません。上手く行きますよ、一つ匂わせてやるつもりですしね」

「何をです?」

「エルサレムの腐敗のことをです。呪われた町を引き合いに出し、そこに天の火の降らんことを唱えます。誤解する人などいないでしょうし、エルサレムというのがヴェルサイユのことであるのはお分かりでしょう」

「フラジョさん、あなたの身に差し障りのあるようなことはしないで下さいね。と言いますか、訴訟に差し障りのあることはやめて下さい!」

「ああ、訴訟はモープーのせいで負けてしまいますよ。ですから、同時代の人間たちの目の前で勝たなければ意味がないんです。正しいことを認めてもらえないのなら、騒ぎ立てるまでです!」

「フラジョさん……」

「ここは賢くなりましょう……攻撃あるのみです!」

「悪魔にでも攻撃されちまえばいいんですよ!」伯爵夫人がぶうぶうと文句を垂れた。「三百代言と来たら、どうやって賢さの皮をかぶるかってことしか考えてないんだから。さあモープーさんのところに行きましょうか。あの人は賢しらじゃありませんからね、ことによると、あなたよりも上手くやってくれそうですよ」

 そう言って老伯爵夫人はフラジョ氏の許を離れ、プチ=リヨン=サン=ソヴール街を後にした。実に丸二日かけて、希望と絶望の梯子を上から下まで行き来したのであった。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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