アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
国王がグラスを差し出し、伯爵夫人が細首のデカンタを手に取った。
力を入れているために指は白く、爪は赤く染まっていた。
「ゆっくりと静かに注いでくれ」
「濁らせたくないからですの?」
「そなたの手を見ていたいからだ」
「陛下は見つけるのがお上手ね」伯爵夫人は微笑んだ。
国王の機嫌も少しずつ直って来た。「うむ、確かにもう少しで見つけるところ……」
「世界を?」
「違う、違う。世界など手に余る。王国で充分だよ。ただ、一つの島、地上の一隅、美しい山、アルミーダのようなご婦人たちのいる宮殿、何もかも忘れてしまいたい時にはありとあらゆる怪物がその入口を固めてくれる」
伯爵夫人は冷えたシャンパンのデカンタを国王に差し出した(これは、この時代に新たに工夫されたものである)。「レテ川で汲んだ水をどうぞ」
「忘れ川? 確かかね、伯爵夫人?」
「間違いありません。だってつい先日地獄に片足を突っ込んだジャンが持ち帰ったものですもの」
国王はグラスを掲げた。「では、甦ったことを祝して。だが政治の話はよしてくれ」
「それじゃあもう話すことがなくなっちゃったわ。陛下がお話を聞かせて下さるんでしたら、面白そうですけど……」
「話はないが、詩を聞かせよう」
「詩ですって?」
「ああ、詩だが……何を驚いている?」
「陛下は詩がお嫌いでしたのに!」
「嫌いだよ。十万のうち、九万は余をネタにしておる」
「では陛下がお聞かせ下さるのは、九万の方ではなく、陛下のお眼鏡に適わなかった一万の方なのね?」
「違うな。余が聞かせるのは、そなたの詩だ」
「あたくし?」
「そなただ」
「作者は?」
「ヴォルテール」
「陛下がお預かりに……?」
「そんなことはない。伯爵夫人殿下宛てだった」
「でもどうやって?……手紙もないのに?」
「それどころか、素敵な手紙に入っていたよ」
「ああ、そういうこと。陛下は午前中、郵便局長(directeur des postes)とご一緒だったのね」
「その通り」
「読んで下さる?」
ルイ十五世は紙片を広げて読み上げた。
歓楽の女神よ、恩寵の慈母よ、
黒き疑いを以て、醜き失態を以て
パフォスの宴を汚さんとするは如何に?
英雄の死を図るは如何に?
オデュッセウスは祖国の要、
そはアガメムノンの基なり。
その走れる才気、溢れる才知に
驕れるイリオンも膝を折れり。
帝国に神々を侍らすがよい、
美もて心を捕えしヴィーナスよ。
麗しき狂乱に溺れて摘み取るがよい、
快楽の薔薇を。
だが我らの瞳には微笑みを、
怒れる海神には平穏を授け給え。
トロヤも恐れるオデュッセウスに、
そなたは怒りをぶつけるのか
何となれば、美に接する術はなし
跪いて溜息をつくよりほか。
伯爵夫人はこの詩を聞いて喜ぶというより気分を害したようだ。「やっぱりヴォルテールは陛下と仲直りしたいのね」
「だとしたら、大問題だな。あれがパリに戻って来たら騒ぎを起こす。親しくしているフリードリヒ二世のところに行くのだろう。我々はルソーだけでもう充分だ。それはともかく、この詩はそなたにやろう。よく考えるがいい」
伯爵夫人は紙片を受け取ると、付け木のように丸めて小皿の脇に無造作に置き捨てた。
国王はただただそれを見つめていた。
「トカイ・ワインを如何?」ションが国王に推めた。
「オーストリア皇帝陛下の酒蔵のものです。安心してお飲み下さいな」伯爵夫人も続けた。
「何だと! 皇帝の酒蔵から……持ち出せるとしたら余しかおるまいが」
「陛下のソムリエも、ですわ」
「まさか! 誘惑したのか……?」
「いいえ。命令したんです」
「お見事。とんだ間抜けな国王だな」
「あら、そうね。でもフランスちゃんも……」
「フランスちゃんにも、心からそなたを愛するだけの器量はあるぞ」
「本当に、あなたがただのフランスちゃんならよかったのに」
「伯爵夫人、政治は抜きだ」
「珈琲は如何?」ションがたずねた。
「喜んで」
「いつも通り火に掛けます?」伯爵夫人がたずねた。
「嫌でなければ」
伯爵夫人が立ち上がった。
「どうしたのだ?」
「あたくしがご用意いたします、閣下」
「そうか」夜食を満喫した国王は、椅子の上でゆったりと寛いだ。腹がふくれれば機嫌も良くなる。「どうやら一番いいのは、そなたに任せることだな」
伯爵夫人は熱いモカの入った珈琲ポットを、金の調理台に運んだ。それから、金張りのカップとボヘミアの水差しを乗せた小皿を、国王の前に置いた。最後に、小皿の側に紙で出来た小さな付け木を置いた。
国王はいつものように極めて注意深く、砂糖を量り、珈琲を見積もり、そっと蒸留酒を注ぐと、紙の付け木で火を付けた。これで中まで火が伝わる。
後は調理台に放り入れれば、付け木は燃え尽きてしまう。
五分後、至極満ち足りた気分で国王は珈琲を味わった。
伯爵夫人は黙って見ていたが、最後の一口を飲み終えると声をあげた。
「ふふふ。陛下が火を付けるのに使ったのはヴォルテールの詩よ、ショワズールにはお気の毒さま」
「これはしたり」国王は苦笑した。「そなたは妖精ではない、悪魔だ」
伯爵夫人が立ち上がった。
「陛下、領主殿が戻って来たらお会いになりますか?」
「うん? ゾマールか? それはまたどうして」
「陛下をマルリーにお連れするためですわ」
「そうだった」せっかくの満足感から気持を引き離さねばならなかった。「会いに行こう」
デュ・バリー夫人が合図し、ションが立ち去った。
国王はザモール探しに戻ったが、当初とはまったく違った気持だった。哲学者の言う如く、人のやる気の明暗は胃の状態によるのである。
ところで、王たちの胃は概して、臣下の胃ほど具合が良くないのは事実であるが、肉体のほかの部分にも人並みに満足感や不満足感が伝わるからには、斯かる状態の王に相応しいほどには上機嫌に見えた。
十歩ほど進んだところで、廊下からまた別の香りが漂って来た。
青い繻子と生花の錦で飾られた寝室の扉が折りしも開き、妖しい光に照らされたアルコーヴが姿を見せた。妖婦の足取りは二時間も前からここを目指していたのだ。
「陛下。ザモールはまた姿を消してしまいました。あたくしたちは今も閉じ込められたままです。窓から逃げ出すほかありませんの……」
「ベッドのシーツでかね?」
伯爵夫人は莞爾と微笑んだ。「陛下、正しい使い方をいたしません?」
国王が笑って腕を広げると、伯爵夫人は薔薇を投げ捨て、花びらが絨毯に散った。