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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 33-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 国王がグラスを差し出し、伯爵夫人が細首のデカンタを手に取った。

 力を入れているために指は白く、爪は赤く染まっていた。

「ゆっくりと静かに注いでくれ」

「濁らせたくないからですの?」

「そなたの手を見ていたいからだ」

「陛下は見つけるのがお上手ね」伯爵夫人は微笑んだ。

 国王の機嫌も少しずつ直って来た。「うむ、確かにもう少しで見つけるところ……」

「世界を?」

「違う、違う。世界など手に余る。王国で充分だよ。ただ、一つの島、地上の一隅、美しい山、アルミーダのようなご婦人たちのいる宮殿、何もかも忘れてしまいたい時にはありとあらゆる怪物がその入口を固めてくれる」

 伯爵夫人は冷えたシャンパンのデカンタを国王に差し出した(これは、この時代に新たに工夫されたものである)。「レテ川で汲んだ水をどうぞ」

「忘れ川? 確かかね、伯爵夫人?」

「間違いありません。だってつい先日地獄に片足を突っ込んだジャンが持ち帰ったものですもの」

 国王はグラスを掲げた。「では、甦ったことを祝して。だが政治の話はよしてくれ」

「それじゃあもう話すことがなくなっちゃったわ。陛下がお話を聞かせて下さるんでしたら、面白そうですけど……」

「話はないが、詩を聞かせよう」

「詩ですって?」

「ああ、詩だが……何を驚いている?」

「陛下は詩がお嫌いでしたのに!」

「嫌いだよ。十万のうち、九万は余をネタにしておる」

「では陛下がお聞かせ下さるのは、九万の方ではなく、陛下のお眼鏡に適わなかった一万の方なのね?」

「違うな。余が聞かせるのは、そなたの詩だ」

「あたくし?」

「そなただ」

「作者は?」

「ヴォルテール」

「陛下がお預かりに……?」

「そんなことはない。伯爵夫人殿下宛てだった」

「でもどうやって?……手紙もないのに?」

「それどころか、素敵な手紙に入っていたよ」

「ああ、そういうこと。陛下は午前中、郵便局長(directeur des postes)とご一緒だったのね」

「その通り」

「読んで下さる?」

 ルイ十五世は紙片を広げて読み上げた。

 歓楽の女神よ、恩寵の慈母よ、
 黒き疑いを以て、醜き失態を以て
 パフォスの宴を汚さんとするは如何に?
 英雄の死を図るは如何に?
 オデュッセウスは祖国の要、
 そはアガメムノンの基なり。
 その走れる才気、溢れる才知に
 驕れるイリオンも膝を折れり。
 帝国に神々を侍らすがよい、
 美もて心を捕えしヴィーナスよ。
 麗しき狂乱に溺れて摘み取るがよい、
 快楽の薔薇を。
 だが我らの瞳には微笑みを、
 怒れる海神には平穏を授け給え。
 トロヤも恐れるオデュッセウスに、
 そなたは怒りをぶつけるのか
 何となれば、美に接する術はなし
 跪いて溜息をつくよりほか。

 伯爵夫人はこの詩を聞いて喜ぶというより気分を害したようだ。「やっぱりヴォルテールは陛下と仲直りしたいのね」

「だとしたら、大問題だな。あれがパリに戻って来たら騒ぎを起こす。親しくしているフリードリヒ二世のところに行くのだろう。我々はルソーだけでもう充分だ。それはともかく、この詩はそなたにやろう。よく考えるがいい」

 伯爵夫人は紙片を受け取ると、付け木のように丸めて小皿の脇に無造作に置き捨てた。

 国王はただただそれを見つめていた。

「トカイ・ワインを如何?」ションが国王に推めた。

「オーストリア皇帝陛下の酒蔵のものです。安心してお飲み下さいな」伯爵夫人も続けた。

「何だと! 皇帝の酒蔵から……持ち出せるとしたら余しかおるまいが」

「陛下のソムリエも、ですわ」

「まさか! 誘惑したのか……?」

「いいえ。命令したんです」

「お見事。とんだ間抜けな国王だな」

「あら、そうね。でもフランスちゃんも……」

「フランスちゃんにも、心からそなたを愛するだけの器量はあるぞ」

「本当に、あなたがただのフランスちゃんならよかったのに」

「伯爵夫人、政治は抜きだ」

「珈琲は如何?」ションがたずねた。

「喜んで」

「いつも通り火に掛けます?」伯爵夫人がたずねた。

「嫌でなければ」

 伯爵夫人が立ち上がった。

「どうしたのだ?」

「あたくしがご用意いたします、閣下」

「そうか」夜食を満喫した国王は、椅子の上でゆったりと寛いだ。腹がふくれれば機嫌も良くなる。「どうやら一番いいのは、そなたに任せることだな」

 伯爵夫人は熱いモカの入った珈琲ポットを、金の調理台に運んだ。それから、金張りのカップとボヘミアの水差しを乗せた小皿を、国王の前に置いた。最後に、小皿の側に紙で出来た小さな付け木を置いた。

 国王はいつものように極めて注意深く、砂糖を量り、珈琲を見積もり、そっと蒸留酒を注ぐと、紙の付け木で火を付けた。これで中まで火が伝わる。

 後は調理台に放り入れれば、付け木は燃え尽きてしまう。

 五分後、至極満ち足りた気分で国王は珈琲を味わった。

 伯爵夫人は黙って見ていたが、最後の一口を飲み終えると声をあげた。

「ふふふ。陛下が火を付けるのに使ったのはヴォルテールの詩よ、ショワズールにはお気の毒さま」

「これはしたり」国王は苦笑した。「そなたは妖精ではない、悪魔だ」

 伯爵夫人が立ち上がった。

「陛下、領主殿が戻って来たらお会いになりますか?」

「うん? ゾマールか? それはまたどうして」

「陛下をマルリーにお連れするためですわ」

「そうだった」せっかくの満足感から気持を引き離さねばならなかった。「会いに行こう」

 デュ・バリー夫人が合図し、ションが立ち去った。

 国王はザモール探しに戻ったが、当初とはまったく違った気持だった。哲学者の言う如く、人のやる気の明暗は胃の状態によるのである。

 ところで、王たちの胃は概して、臣下の胃ほど具合が良くないのは事実であるが、肉体のほかの部分にも人並みに満足感や不満足感が伝わるからには、斯かる状態の王に相応しいほどには上機嫌に見えた。

 十歩ほど進んだところで、廊下からまた別の香りが漂って来た。

 青い繻子と生花の錦で飾られた寝室の扉が折りしも開き、妖しい光に照らされたアルコーヴが姿を見せた。妖婦の足取りは二時間も前からここを目指していたのだ。

「陛下。ザモールはまた姿を消してしまいました。あたくしたちは今も閉じ込められたままです。窓から逃げ出すほかありませんの……」

「ベッドのシーツでかね?」

 伯爵夫人は莞爾と微笑んだ。「陛下、正しい使い方をいたしません?」

 国王が笑って腕を広げると、伯爵夫人は薔薇を投げ捨て、花びらが絨毯に散った。

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『ジョゼフ・バルサモ』 33-1 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十三章 国王、楽しむ

 国王は力を見せつけたことに満足していた。認証式の悩みから解放してくれたとは言え、自分を散々待たせもした伯爵夫人を懲らしめてやったのだ。

 戸口に向かったところで、ションが再び戻って来た。

「おや! 従者を見なかったかね?」

「ええ、陛下。控えの間には誰もおりませんわ」

 そこで国王の方から戸口まで進み出た。

「誰かおらぬか!」

 答える者はない。反響すら聞こえぬ静寂にでも覆われているかのようだった。

 国王は部屋に戻り、「余が『危うく待つところだった!』【※ルイ14世の言葉。馬車が時間通りに来たときの負け惜しみ・皮肉。】と言った人間の曾孫だとは誰も信じぬだろうな」と言って窓を開けた。

 だが玄関前も同じように無人だった。馬も、馬丁も、衛兵もない。夜の闇だけが、月に照らされて目にも心にもしめやかに厳かに広がっていた。月の光はシャトゥの森の梢上で波のようにたゆたい、セーヌ川から幾片もの煌めきを吸い上げていた。物言わぬ巨大な蛇をくねくねとたどって行けば、ブージヴァルからメゾンまで、即ち差し渡し延べ四、五里をたどることが出来る。

 そのただ中で、五月にしか鳴かぬ夜鶯が歌を歌っていた。こんな美しい調べは春の初めにしか相応しくないとでもいうように。訪れたとも去るともつかない初春にしか――。

 こんな花鳥風月もルイ十五世には無意味だった。夢想家でも詩人でも芸術家でもなく、極めて現実的な人間であった。

「ほらほら伯爵夫人」国王は口惜しそうに口にした。「頼むから指示を出してくれ。まったく! もう冗談は終わりだ!」

「陛下ったら」伯爵夫人は可愛くすねてみせた。大抵はこれで上手くいく。「ここで指示を出しているのはあたくしじゃありませんわ」

「そうは言っても余でもないぞ。ご覧の通りだ、誰も従わん」

「あたくしでも陛下でもありません」

「では誰が? そなたか、ション?」

「あたし?」ションは部屋の反対側で、伯爵夫人の向かいに腰かけていた。「人の言うことをきくのも大変だし、わざわざ大変な思いをして指示を出そうとも思わないし」

「では誰が主人なのだね?」

「まあ! 領主殿です」

「ザモールか?」

「ええ」

「確かにそうだな。人を呼んでくれ」

 伯爵夫人は気だるげに腕を伸ばし、真珠の玉のついた絹紐を鳴らした。

 あらゆる場合に備えて予め指示を出されて控えていた従僕が、姿を見せた。

「領主は?」国王がたずねた。

「領主様は、陛下のために番をなさっています」従僕は恭しく答えた。

「何処だ?」

「巡回していらっしゃいます」

「巡回?」

「将校四人もご一緒です」

「マルボルー氏みたい!」伯爵夫人が叫んだ。

 国王は笑いを抑えることが出来なかった。

「うむ、滑稽至極だ。だがとにかく車に馬を繋いでくれ」

「それが、ごろつきがねぐらにせぬよう、領主様は厩舎を閉めておいでです」

「馬丁は?」

「召使い部屋です」

「そこで何を?」

「眠っております」

「何だと! 眠っている?」

「ご命令でございます」

「誰の命令だ?」

「領主様でございます」

「だが門は?」

「門と仰いますと?」

「ここの城館の門だ」

「閉めております」

「結構。だが鍵は手に入れられよう」

「鍵は領主様が腰に提げていらっしゃいます」

「出来のいい城館だな。まったく! 何て命令だ!」

 国王がそれ以上たずねたりしないとわかると、従僕は立ち去った。

 伯爵夫人は椅子に腰掛け、美しい薔薇を咬んでいた。その口唇は珊瑚のようだ。

「ねえ陛下」浮かべた微笑みには張りがなく、とてもデュ・バリー夫人のものとは思われなかった。「ちょっと可哀相に感じて来ました。お手をどうぞ。何とかして差し上げます。ション、明かりを」

 ションが先頭に立った。万が一危険が生じた場合に備えてのことだ。

 廊下の角まで来た時、食欲をそそる匂いが王の鼻をくすぐり始めた。

「おや!」国王は立ち止まった。「何の匂いだろう、伯爵夫人?」

「もう! お夜食の匂いですわ。リュシエンヌで召し上がって下さるとばかり思ってたんですもの。こうして準備させていたんです」

 ルイ十五世はその美味しそうな匂いを何回か嗅ぎながら、数時間も前から胃が自己主張を始めていたことを、胸の内で考えていた。騒ぎ立ててみても、馬丁を起こすのに半時間、馬を繋ぐのに十五分、マルリーまで十分は必要だ。マルリーに準備させていた訳ではないのだから、軽い食事しか取れないだろう。とろけるような匂いをもう一度嗅ぐと、伯爵夫人を連れて食堂の前で立ち止まった。

 二人分の食事が卓子の上で燦然と照らされ絢爛に装われていた。

「これは凄い! いい料理人がいるね」

「今日のはほんの小手調べ。陛下のお褒めに与るような素晴らしい料理を、これまで何度も作ってたんですから。ヴァテルみたいに、喉を掻き切ってしまいかねないくらい【※Vatel。ルイ十四世時代の料理人。祝宴に魚が間に合わなかった絶望で自殺した。】」

「それほどに?」

「特に雉の卵のオムレツ、これにはかなりの……」

「雉の卵のオムレツ? 余の大好物だ!」

「それは残念でした!」

「いやいや、伯爵夫人! 料理人をがっかりさせてはいかん」と国王は笑顔で言った。「夜食を取っている間に、ザモールも巡回から戻るだろう」

「じゃあ、それで決まりね」伯爵夫人は初戦を獲った喜びを隠すことが出来なかった。「どうぞこちらへ、陛下」

「だが給仕する人間がおらぬぞ」従僕を探したが見つからない。

「あら! あたくしが淹れたコーヒーじゃ美味しくありません?」

「そんなことはない。そなたが淹れてくれれば同じくらい旨かろう」

「よかった! じゃあこちらへ」

「食事は二人分だけかね? ションは食べぬのか?」

「陛下のご指示もないのにそんなことは出来ませんもの……」

「では命令だ!」国王手ずから棚から食器を取り出した。「さあション、向かいに坐りなさい」

「まあ陛下……」

「ああそうだ。控えめで従順な家来のふりなどして、偽善者めが! さあ伯爵夫人、余の側に、隣に。横顔も魅力的ではないか!」

「今日まで気づかなかったんですの?」

「何を言うか。いつも正面から見ていたからな。いやしかしそなたの料理人は大綬ものだ。このスープの旨いこと!」

「じゃあ前の料理人を馘首にしたのは正しかった?」

「正しい判断だ」

「でしたら、陛下もお試しになって。損はしませんもの」

「何の話だね」

「あたくしんところのショワズールを馘首したんだから、陛下のところのショワズールも馘首なさって下さらない?」

「政治の話は抜きだ。そのマディラ・ワインをもらおう」

『ジョゼフ・バルサモ』 32-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 夜が訪れた。

 部屋が暗いのは苦手なので、明かりを付けた。

 だがそれ以上に一人が苦手だった。

「十五分後には馬を。そうだ、後十五分やろう。それ以上は待てぬ」

 ルイ十五世は暖炉の前にある長椅子に寝そべり、十五分つまり九百秒が過ぎるのをやむなく待つことにした。

 青い象に乗った薔薇色のトルコ王妃の描かれている柱時計が、百分の四打った頃、国王は眠りに落ちていた。

 ご推察の通り、馬車の準備が出来たと報せに来た従僕は、国王が眠っているのを見て、起こしてしまわぬよう気を遣った。その結果、国王が目覚めた時には目の前にデュ・バリー夫人がいて、ほとんど眠っていないような様子で、大きな瞳で国王を見つめていた。扉の陰ではザモールが命令を待っている。

「おや、あなたですか、伯爵夫人」国王は横になったまま身体だけを起こした。

「もちろん。それもずっと前からいましたのに」

「はて、ずっと前というのは……」

「もう! 一時間は経ってますわ。こんなに熟睡なさってるんだもの!」

「これはしたり。そなたはおらぬし、あまりに退屈だったのだ。それに夜にあまり眠っておらぬ。もう帰るところだったのだぞ?」

「存じてます。陛下の馬が繋いでありましたもの」

 国王は振り子時計に目を向けた。

「まさか、十時半だと! 余は三時間近くも眠っていたのか」

「リュシエンヌじゃ眠れないって仰りたいみたい」

「その通りだ。だがあれは何だ?」国王はザモールを認めて声を挙げた。

「リュシエンヌの領主です」

「まだ違うぞ」と国王は笑い出した。「任命される前から制服を着ておるのか。すっかり余の言葉を当てにしているらしい」

「陛下のお言葉は神聖ですけど、それを当てにする権利くらいは誰にでもありますもの。でもザモールは陛下のお言葉よりいいもの、ううん、お言葉ほどではないものを手に入れたんです。委任状です」

「何だと?」

「副大法官が送ってくれましたの。ほら。もう就任に必要な手続きは宣誓だけ。早く誓いを済ませて、任せてあげて下さいな」

「来給え、領主殿」

 ザモールが進み出た。襟には刺繍、大尉の肩章をつけ、短いキュロット、絹靴下、細長い剣を佩いている。大きな三角帽を腕に抱え、足取りは硬くぎこちない。

「しかし誓い方はわかるのだな?」

「もちろんよ。やってご覧になって」

「前へ」国王はこの黒人形をしげしげと眺めた。

「跪きなさい」伯爵夫人が命じた。

「誓いを述べよ」

 ザモールは胸に手を置き、もう片方の手を国王の手に重ねた。

「我が主人及び夫人に対する忠誠と崇敬を誓います。拝命いたしましたこの城館を命尽きるまで守ることを誓います。攻撃を受けた暁には降伏する前にジャムを最後の一壜まで残らず空にすることを誓います」

 ザモールがあまりに鹿爪らしい口を聞くものだから、国王は笑い出した。

「誓いと引き替えに」その場に相応しい厳めしさをすぐに取り戻し、「宮殿の空、地、火、水に棲まうものの名に於いて、そなたに領主権、上級及び下級裁判権を授ける」

「ありがとうございます、ご主人さま」そう言ってザモールは立ち上がった。

「よし。では、その立派な服を台所に、我々をそっとしておいてくれ。さあ行け!」

 ザモールは立ち去った。

 ザモールが扉から出たところに、別の扉からションが入って来た。

「おおそなたか、ション。よく来た」

 国王はションを引き寄せ口づけした。

「さあション、真実を話してくれるね」

「あら、お気をつけ遊ばせ。間の悪い。真実ねえ! あんなことは初めての経験だったかも。真実がお知りになりたいのなら、ジャンヌにお聞きになって。嘘をつけないひとですから」

「そうかね?」

「今のはションのお世辞。今までは今までですし、それに今晩からは伯爵夫人らしく嘘をつこうと決めているんです。口にすべきじゃない真実については」

「ははあ、どうやらションは何か隠しているようだな」

「まさか、とんでもありません」

「いったいどれだけの公爵、侯爵、子爵に会いに行くことになるだろうな?」

「そんなことにはなりません」伯爵夫人が答えた。

「ションはどう思うね?」

「二人ともそんなことにはならないと思ってますわ、陛下」

「その点については警察に報告書を作らせねばなるまい」

「警察とはサルチーヌの? あたくしたちの?」

「サルチーヌの方だ」

「どれだけ出してやるつもりですの?」

「知りたいことを教えてくれるのであれば、値切るつもりはない」

「ではあたくしの方の警察をお取りになって。報告書もこっちを。お役に立ちますから……絶対に」

「自分を売るつもりかね?」

「お金で秘密が買えるんじゃあ仕方ありませんでしょう?」

「まあよい。報告書を見よう。だが嘘はなしだ」

「まあ馬鹿にして」

「率直に話してくれと言いたかったのだ」

「わかりました! お金のご用意を。報告書はここです」

「ここにある」国王は懐中で金貨をじゃらじゃらと鳴らした。

「ではまず、デュ・バリー夫人は午後二時頃パリで目撃されています」と伯爵夫人が読み上げた。

「余が知りたいのはその後だ」

「ヴァロワ街に」

「否定はせぬ」

「六時頃、ザモールが戻って来ました」

「あり得ぬことではない。だがデュ・バリー夫人はヴァロワ街に何をしに行ったのだね?」

「自宅に行ったんです」

「それはわかる。だが何のために自宅に?」

「代母に会うために」

「代母か!」思わず顔をしかめていた。「では洗礼をしてもらうのか?」

「ええ、ヴェルサイユの大洗礼盤で」

「いや、それは違う。洗礼などされなくとも素晴らしい女性だぞ!」

「どうしてです? 諺はご存じでしょう、『人は自分にないものを欲しがる』」

「代母を見つけようとしたらどうなる?」

「見つかりました」

 国王は驚いて肩をすくめた。

「この展開には満足してますの。陛下がグラモン、ゲメネー、そのほか奥さま方の失敗を見たがらないってことがわかりましたから」

「どういうことだ?」

「この方々と組んでいらっしゃるんでしょう!」

「余が?……伯爵夫人、一ついいかね。王たるものは王としか手を組まぬ」

「わかってます。でも陛下の仰る王様はみんなショワズールのお友達じゃありませんの」

「代母の話に戻ろう」

「あたくしも賛成です」

「では無事に一人でっちあげたという訳か?」

「でっちあげなんかじゃありません。しかも上仕立て。ベアルン伯爵夫人と言って、君主だった一族の方ですわ。そういうこと。これならスチュアート家とお近づきの方の名誉を傷つけることもないと思うんですけど」

「ベアルン伯爵夫人?」と王が驚きの声をあげた。「一人だけ知っている。ヴェルダンか何処かに住んでいたはずだ」

「当たり! 大急ぎで飛んでいらっしゃったんですから」

「そなたに手を貸すというのか?」

「それも両の手を!」

「いつ?」

「明日の午前十一時に、内々で謁見を許しました。その時もしご無礼でなければ、日取りのことで陛下にお願いを申しますの。なるべく早めの日に決めて下さいな。構いませんでしょ?」

 国王は笑いに囚われたが、わざとらしいものだった。

「まあ大丈夫だろう」伯爵夫人の手に口づけした。

 が、ふと「明日の十一時だと?」

「ええ、昼食の時間に」

「いや、無理だ」

「無理ですって?」

「ここで昼食は取らぬ。今夜戻るからだ」

「いったい何が?」デュ・バリー夫人は心臓がぎゅっと凍りつくのを感じた。「行ってしまいますの?」

「やむを得ぬのだ。緊急の用件でサルチーヌと約束していたのでね」

「お好きなように。でも夜食はご一緒出来ますでしょ」

「ああ、夜食なら……うむ、腹も減っている。夜食を取ろうか」

「用意させて、ション」と言って、恐らく予め決めてあったのだろう、二人にだけわかる合図を送った。

 ションが立ち去った。

 国王は鏡に映った合図を見て、意味はわからぬながらも何らかの企みがあるのは悟った。

「いやはや! 駄目だ駄目だ。夜食も取れぬ……今すぐにでも出なくては。しなくちゃならん署名がある。今日は土曜日だった」

「仕方ありませんわ! では馬を用意させましょう」

「ああ、頼む」

「ション!」

 ションが戻って来た。

「陛下の馬を!」

「了解」ションは微笑み、再び立ち去った。

 やがて玄関で叫ぶ声が聞こえた。

「陛下の馬を!」

『ジョゼフ・バルサモ』32-1 「国王、退屈す」 アレクサンドル・デュマ

第三十二章 国王、退屈す

 マルリーに発っていた国王は、かねて伝えていた通り、午後三時頃になると命令を出し、リュシエンヌに向かわせた。

 王からの書き付けを受け取ったデュ・バリー夫人も急いでヴェルサイユを発ち、出来たばかりの素敵な住居で待っているはずであった。国王は既に何度か訪問を重ねていたが、夜を過ごしたことは一度としてなかった。国王がいみじくも弁明した通り、リュシエンヌは王城ではないのである。

 それ故に、いざ着いてみると、偉そうに領主ぶったザモールが鸚哥の羽を抜いてもてあそび、鸚哥は鸚哥で咬みつこうと反撃しているのを見て、驚いてしまった。

 この二者は宿敵なのだ。ショワズールとデュ・バリー夫人のように。

 国王は小部屋に入って供の者を帰した。

 王国一好奇心が強いくせに、普段から臣下にも従僕にもものをたずねたりはしなかった。だがザモールは従僕でもなかった。尾巻猿や鸚哥と同列の存在だった。

 それ故、王はザモールにたずねた。

「伯爵夫人は庭かね?」

「いいえ、ご主人さま」ザモールが答えた。

 リュシエンヌではデュ・バリー夫人の思いつきで「陛下」という尊称が用いられず、代わりにこの「ご主人さま」が用いられていた。

「では鯉のところかね?」

 莫大な費用を掛けて山に湖を掘らせ、水路から水を引き、ヴェルサイユにいる中でも立派な鯉を運ばせたのだ。

「いいえ、ご主人さま」またもザモールはそう答えた。

「では何処に?」

「パリに」

「パリだと!……伯爵夫人はリュシエンヌに来ておらぬのか?」

「はい、ご主人さま。ただしザモールに後を任されました」

「して、何のために?」

「陛下をお待ちするためです」

「ははん! 余の出迎えをそなたに任せたというのか? それは面白い、ザモールのもてなしか! これはありがたい、伯爵夫人め」

 国王は口惜しそうに立ち上がった。

「いいえ!」黒ん坊が答えた。「ザモールがもてなすことはありません」

「何故だね?」

「ザモールは出かけますから」

「何処に?」

「パリに」

「では余は一人取り残されるのか。いよいよ結構。だがパリに何の用があるのかね?」

「バリー奥さまのところに行き、陛下がリュシエンヌにいると伝えに」

「ははあ、すると今の科白も伯爵夫人から仰せつかったのだな?」

「はい、ご主人さま」

「では、それまで何をしていればよいか、言づかってはおらぬか?」

「お前は寝てるだろうと仰いました」

 ――となると、と王は考えた。伯爵夫人はじきにやって来るし、何かまた驚かせるようなことがあるのだろう。

 国王は声に出して命じた。

「ではすぐに出かけて、伯爵夫人を連れて来なさい……いや、だがそなたはどうやってパリに行くつもりなのだ?」

「赤い鞍敷をつけた、大きな白馬に乗って」

「その馬でパリまでどのくらいかかる?」

「存じません。でも速く、速く、速く、駆けます。ザモールは速く駆けるのが好きです」

「そうかね。ザモールが速く駆けるのが好きとはありがたい」

 国王はザモールの出立を見送りに窓に向かった。

 背の高い従僕がザモールを馬に乗せた。危険に対して子供のように無頓着なこの黒ん坊は、大きな馬に跨り駆足《ギャロップ》で走り出した。

 一人残された国王は、何処か新しく見るところはないかを従僕にたずねた。

「ございます。ブーシェさまが伯爵夫人のお部屋に絵をお描きです」

「ほう! ブーシェか……あのブーシェがここに」王は満足げにうなずいた。「して、何処に?」

「四阿のお部屋でございます。ご案内いたしましょうか?」

「いや、結構。やはり鯉を見に行く方が良い。ナイフをくれ」

「ナイフ、でございますか?」

「うむ、それにパンを一つ」

 やがて従僕は、日本製の陶磁器に大きな丸パンを乗せて戻って来た。パンには長く鋭いナイフが刺さっている。

 国王はついてくるよう合図して、意気揚々と池に向かった。

 鯉に餌をやるのは王家の習慣だった。大王は一日たりとも欠かしたことがなかった。

 ルイ十五世は眺めのいい場所にある苔の上に腰を下ろした。

 まずは緑に囲まれた湖をぐるりと見渡した。向こうには丘に挟まれた村がある。西側の丘はヴィルジール(Virgile)の苔岩のように垂直に聳えており、そのせいで藁で葺かれた家々が、まるで箱に羊歯を詰め込んだ玩具のように見えた。

 さらに遠くには、サン=ジェルマンの切妻、巨大な階段、どこまでも広がる緑の台地。さらに遠くまで見遣れば、サノワとコルメイユの青い丘。そして、薔薇色と灰色にうっすらと色づいた空が、銅で作られた穹窿のようにそれらすべてを閉じ込めていた。

 崩れそうな空模様に木々の葉は黒く翳り、牧場の穏やかな緑と対照をなしていた。油のようにぬたりとした水面に時折ふっと穴が空き、紺碧の水底から銀色に輝く鯉が身を躍らせて、水面に長い脚を擦らせて飛ぶ羽虫を捕まえていた。

 大きな波紋が広がり、白と黒の混じった輪を作っていた。

 魚が物も言わず湖畔にも口を突き出しているのが見える。人も網も待ち受けていないのを承知していて、垂れた三つ葉をついばみ、草間を飛び回る灰色蜥蜴や緑蛙を(見えているのかも怪しい)無表情なぎょろ目で見てやろうとやって来たのだ。

 国王は時間の潰し方を心得ていた。景色をくまなく見渡し、村の家の数を数え遠くの村の数を数えた後で、傍らに置かれた皿からパンをつかみ、大きめに切り取った。

 ナイフがパンを削る音を耳にした鯉たちが、聞き慣れた食事の合図とばかりに、国王からよく見える場所まで近づいて来て、餌をねだり始めた。鯉たちは餌をくれる従僕の誰にでも同じように振る舞うのだが、国王としては無論のこと自分のために来てくれたのだと思っていた。

 一つまた一つと投げ与えたパン切れが、一旦沈んでから再び水面に浮かび上がり、しばらくは堪えて(?)いたが、やがて見る間に水に溶けてばらばらになり、すぐに見えなくなった。

 まことに面白い光景であった。見えない口につつかれたパン切れが、消えてなくなるまで水面で踊っている。

 半時間後、およそ百片ほども根気よくパンを切り取った国王陛下は、もはや一切れも浮かんでいないのを見て満足を感じていた。

 だがそれでも退屈だった国王は、ブーシェのことを思い出した。鯉に比べれば気晴らしとして魅力が落ちるのは否めないが、こんな田舎では、手に入るものを手に入れるしかあるまい。

 斯くしてルイ十五世は四阿に向かった。ブーシェは国王がいることを知らされていた。そのため絵を描きながら、否、絵を描くふりをしながら、国王を目で追っていた。国王が四阿の方にやって来るのを目にすると、大喜びで胸飾《ジャボ》を直しカフスを引き出し梯子に登った。リュシエンヌに国王がいるとは知らなかったふりをしろと言われていたのだ。床に足音が聞こえると、ふくよかなキューピッドに筆をつけ始めた。キューピッドは羊飼いの娘から薔薇を盗んでいるところで、娘は青いサテンのコルセットを身につけ、麦わら帽子をかぶっていた。ブーシェの手は震え、胸が高鳴っていた。

 ルイ十五世は戸口で立ち止まった。

「やあ、ブーシェ殿、何てテレビン油臭いんだ!」

 そう言って素通りしてしまった。

 いくら国王が芸術にうといとはいえ、ブーシェとしてはもう少し前向きな言葉を期待していたために、危うく梯子から転がり落ちるところであった。

 梯子から降りると、涙を浮かべて立ち去った。いつものようにパレットを擦りも筆を洗いもせずに。

 ルイ十五世陛下は時計を取り出した。七時だ。

 国王は城館に戻り、猿をからかい、鸚哥に口真似をさせ、次から次へと棚から陶磁器を引っぱり出した。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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