翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』36-1 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十六章 リシュリュー元帥の第五の陰謀

 国王はいつも通りマルリーを管理(?)しに戻った。

 ルイ十四世は取り巻きに囲まれていても力を誇示する機会を求めていたが、十四世ほど作法には縛られないルイ十五世は、その輪の中で新しいものを貪欲に求めていた。なかんずく様々な顔を見ることに、それも笑っている顔を見ることに、このうえない気晴らしを見出していた。

 先ほどお話しした会見と同じ晩、ベアルン夫人が今回は約束を守りデュ・バリー夫人の部屋に腰を下ろしていた二時間後、国王は青の間でカードをしていた。

 左には d'Ayen 公爵夫人、右にはゲメネー公妃がいる。

 国王は見るからに落ち着かなかった。そのせいで八百ルイ負け、負けたおかげで身を入れだした。ルイ十五世はアンリ四世の後裔に相応しく、勝利をこよなく愛していた。九時になると席を立って前大法官の息子マルゼルブ(Malesherbes)と窓辺で話しに行くと、モープーが反対側の窓辺でショワズールと話しながら不安そうに二人を目で追っていた。

 国王がいなくなると暖炉の側に輪(人だかり)が出来ていた。庭の散歩から戻って来たマダムたちアデライード、ソフィー、ヴィクトワールが、侍女と侍従を付き従えてそこに腰を下ろした。

 国王の周りには――マルゼルブが謹厳なことは知られていたから、大事な話の最中なのだろうと見え――国王の周りには陸海軍の長、大貴族、領主、判事たちが集まっていたが、礼儀をわきまえて遠巻きに待機していた。暖炉前で独り立ちしていた小宮廷では、前哨戦とも言うべき小競り合いを端緒にして、かなりかまびすしいおしゃべりが始まっていた。

 主立った顔ぶれは、三王女のほかに、グラモン夫人、ゲネメー夫人、ショワズール夫人、ミルポワ夫人、ポラストロン夫人。

 折りしも司教が教区の贖罪師をやめさせたという話を、マダム・アデライードがしていたところだった。話の内容をここでは繰り返さない。あまりに、それも王女の話として下品に過ぎる。だがこうして書き綴ろうとしている時代には、まだ女神ウェスタ【ギリシア神話の家庭の神・処女神】の加護の元になかったことは、周知の通りである。

「まあ!」マダム・ヴィクトワールが口を開いた。「でもその司教って、ほんの一月前にここに坐ってた方じゃありませんか」

「陛下のところで会っていたなら、さらにひどいことになっていましたでしょう」グラモン夫人が言った。「そんな人たちが陛下に謁見していたら、これまで会ったこともないくせに、それからも会いたがっていたんじゃないかしら」

 公爵夫人の最初の一言から、とりわけその口調から、夫人が話したがっていること、どんな話題であれ会話の主導権を得ようとしていることをその場の誰もが感じ取った。

「ありがたいことに、言うは易し行うは難しではありませんかな、公爵夫人?」会話に加わったのは、小柄な老人だった。七十四歳だったがまだ五十にしか見えず、身体つきは颯爽として声も若々しく、足も目もしっかりとして、肌は白く手は小ぎれいだった。

「あら、リシュリュー公爵さま。マオンの戦場のように梯子を使って、会話に乗り込んでらっしゃるおつもり? どうせ私たちはたかが擲弾兵というわけね」グラモン公夫人が言った。

「たかが? ああ、それは言い過ぎだ、わしを困らせんでくれ」

「それで、私が言ったのは嘘だと仰いますか?」

「いつの話かね?」

「さっきの話です」

「して、何と仰っただろうか?」

「国王の扉を力ずくで開こうとしてはなりません……」

「寝室の緞帳を力ずくで開こうとしてはならないように。そのご意見にはいつでも賛成いたしますぞ」

 この言葉を聞いて何人かのご婦人が扇で口元を隠した。過去には公爵の機知も衰えたりと陰口を叩く者たちもいたが、これはいい出来だった。

 グラモン公爵夫人は真っ赤になった。その皮肉は特に夫人に向けられたものだったのだ。

「皆さん、公爵にこんなことを仰られては、お話を続けることも出来ません。もう続きは聞けないんですから、せめて別のお話をしてくれるよう元帥にせがんで下さいな」

「確か、わしの友人の悪口を邪魔してしまったんでしたな? ではじっくり拝聴するとしよう」

 公爵夫人を中心にした人垣がぎゅっと小さくなった。

 グラモン夫人は窓の方に目を遣り、王がまだそこにいるか確かめようとした。国王はまだそこにいた。だがマルゼルブと話しながらも、国王はこちらを見ていた。国王の目とグラモン夫人の目がぶつかった。

 国王の目に浮かんだように見えた表情に怯んだものの、公爵夫人はもう歩き出しており、途中で止まるつもりはなかった。

 グラモン夫人は、主に三王女に向かって話し始めた。「この間あるご婦人が――名前はどうでもいいですけど――私たちに面会を求めて来たことがありましたでしょう? 羨む気持すら失うような栄光に彩られている、主に選ばれし私たちに」

「面会を求めるとは、何処に?」

「もちろんヴェルサイユ、マルリー、フォンテーヌブローです」

「わかった、わかった、わかった」

「その女は晩餐でしか私たちを見たことがありませんでした。それも柵の後ろで陛下と来賓の食事を見物する人たちに混じってです。もちろん、守衛の杖に追われながら」

 リシュリューが突然セーヴル製の箱から煙草を取り出した。

「無論、ヴェルサイユ、マルリー、フォンテーヌブローに面会に来るためには、誰かの紹介が必要だ」

「そうなんです。そのご婦人はそれを頼みに来たんです」

「お許しは出たのだろうね、国王は優しい方だ」

「生憎、国王のお許しだけではなく、人に紹介してくれる人間が必要ですから」

「ええ、そう」ゲメネー夫人も続けた。「例えば代母のような人が」

「でも誰も代母にはなりません」ミルポワ夫人も続いた。「ベル・ブルボネーズがいい証拠。探したって見つかりません」

 そう言って口ずさみ始めた。

 ラ・ベル・ブルボネーズは
 気分があまりすぐれません。

「ああ、元帥夫人、どうか公爵夫人に話の続きをさせて下さい」リシュリュー公が言った。

「そうよ、そうよ」マダム・ヴィクトワール。「気を引いておいて、ほったらかしなんて」

「とんでもない。最後までお話しさせていただくわ。代母がいないので探したそうです。福音書にも『求めよ、さらば与えられん』とありますし。探したら見つかったんです。どんな代母のことやら! 無邪気な田舎のお人好しを鳩小屋から引っぱり出して、仕込んで、なだめすかして、着飾らせたってお話です」

「ぞっとするお話じゃございません?」とゲメネー夫人が言った。

「でも仕込まれた途端に、きっと階段から真っ逆さま」

「というと……?」リシュリューがたずねた。

 足がぽっきり。
 ああ!ああ!ああ!

 公爵夫人はミルポワ元帥夫人の歌に合わせて口ずさんだ。

「では代母の件は……?」とゲメネー夫人がたずねた。

「影もなし」

「これが神の摂理なのか!」リシュリュー元帥が両手を掲げて天を仰いだ。

「失礼ですけど」マダム・ヴィクトワールが口を挟んだ。「わたくしはその田舎っぺに同情いたしますわ」

「むしろ祝福して差し上げるべきですよ。二つの不幸のうち、被害の少ない方を選んだんですから」公爵夫人が答えた。

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『ジョゼフ・バルサモ』35-2 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「ご迷惑をかけに来たんじゃないの」デュ・バリー夫人は老婦人がどれだけ取り澄ましていられるか見つめていた。「ただ、この件に陛下がどれだけこだわっていてどれだけ感謝していたかをわかっていただきたくて」

「この状態をご理解下さらないと」

「そうね。でも一つ言いたいことがあるの」

「仰って下さいまし。聞かせていただきます」

「つまりね、いろいろと考え合わせると、この事故の原因はあなたの気持にあるんじゃないかしら」

「ああ、それもありましょうねえ」老婦人が腰を深く折った。「あんなにご丁寧に歓迎して下さったんですもの、もう胸が一杯になってしまって」

「もう一つあるんじゃないかしら」

「もう一つ? さあ、わかりませんよ」

「まさか! 誰かに会ったでしょう……?」

「そんなことありましたでしょうか!」

「ええ、うちを出る時」

「誰にも会いませんでしたよ。お兄さまの馬車に乗っていましたしねえ」

「馬車に乗る前よ」

 老婦人は記憶を探っているようなそぶりを見せた。

「玄関の階段を降りている時」

 老婦人はさらに頭を捻っているようなふりをした。

「そうよ」デュ・バリー夫人が苛立ち混じりの微笑みを浮かべた。「うちを出る時に中庭で会った人」

「申し訳ありませんけれども、思い出せませんよ」

「若い女よ……もうわかったでしょう」

「目が悪いものですから、目の前にいるあなたのこともよく見えないんでございますよ。そうなんでございます」

 ――さあこの人は手強いわ。伯爵夫人は独り言ちた。――下手な小細工はやめましょう。真っ向勝負よ。

「そうでしたの! ご覧にならなかったというのであれば」と声に出して続けた。「あれが誰だかお教えしますわ」

「帰る間際にやって来た方のことですか?」

「そうよ。あれはあたくしの妹、マドモワゼル・デュ・バリーです」

「まあ、そうでしたか! 何分にも一度もお目にかかったことがないものでございますから……」

「そんなことはないわ」

「お目にかかったことが?」

「ええ、それどころか話し合ったことも」

「マドモワゼル・デュ・バリーと?」

「ええ、そうよ。ただしあの日はマドモワゼル・フラジョと名乗っていたけれど」

「ああ!」声には隠しようもないほどの辛辣さがこもっていた。「ああ、あの偽フラジョさんでしたか。私に会いに来て、連れ出した、あの方がお妹さんですか?」

「間違いないわ」

「あなたの差し金でございますか?」

「あたくしが頼んだの」

「私を騙すために?」

「まさか。あなたの役に立ちたいのと、あたくしの役に立ってもらうためよ」

 老婦人は白髪混じりの太い眉を寄せた。

「来てもらっても私にはたいした得にもなりそうに思えませんけど」

「モープーさんに歓迎されることはなかったんじゃないかしら?」

「口先だけですよ」

「ただの口先よりは実のあるものを差し上げたつもりでしたのに」

「すべては天の思し召しと申しますよ」

「ねえベアルン夫人、真剣なお話なんです」

「お聞きいたしますとも」

「足を火傷なさいましたのね?」

「ご覧の通りでございます」

「火傷はひどいの?」

「重傷ですよ」

「おつらいのはわかりますし、ひどい怪我ですけど、命に別状はないでしょう? 頑張れば馬車でリュシエンヌに行くのにも耐えられますし、あたくしの部屋で陛下にお目にかかるほんのちょっとの間だけでも立っていられません?」

「無理ですよ。立ち上がることを考えただけでも気を失ってしまいそうです」

「じゃあ火傷はそんなにひどいの?」

「そうですよ、ひどい火傷です」

「処置や診断や手当はどなたから?」

「家を切り盛りしている女でしたら、火傷に効く薬くらい持ってますからね。自分で作った痛み止めを塗ったんですよ」

「お嫌でなければ、その特効薬を見せて下さらない?」

「卓子の上のその壜ですとも」

 ――偽善者もいいところね! そこまでするなんて。やっぱり手強いわ。だけど最後までやり終えなくっちゃ。

「実はあたくしも怪我によく効くオイルを持ってますの。でも特定の火傷にしか効かないものですから」

「どんな火傷でしょう?」

「腫れ、水ぶくれ、赤剥け。あたくしは医者じゃないけど、誰だって一度や二度は火傷くらいしますものね」

「赤剥けでございますよ」

「それは痛そうね! オイルを塗って差し上げてもいいかしら?」

「お願いいたします。今お持ちですか?」

「今はないの。でも誰かを遣って……」

「本当にありがとうございます」

「火傷の具合をあたくしも確かめてみた方がいいと思うの」

 老婦人が抗議した。

「とんでもありません! こんな状態お見せ出来ませんよ」

 ――お生憎さま。逃げられないわよ。

「そんなの気にしないで。怪我を見るのは慣れてるから」

「ですがあんまり不作法ですし……」

「助け合う時くらい、作法なんて忘れましょう」

 と言っておもむろに、椅子に寝かせていた足に手を伸ばした。

 デュ・バリー夫人が軽く触れただけで、老婦人は恐ろしい悲鳴をあげた。

 ――ふうん、お上手ね! 顔を歪めたベアルン夫人の苛立ちを目にし、伯爵夫人は呟いた。

「殺す気でございますか。何て恐ろしいことをなさるんです!」

 老婦人の頬は青ざめ、目は虚ろで、倒れて気絶してしまいそうだった。

「構いませんよね?」

「なさって下さい」老婦人は消え入りそうな声で答えた。

 デュ・バリー夫人は時間を無駄にはしなかった。足に巻かれた包帯のピンを外すと、大急ぎでほどき始めた。

 意外なことに、老婦人は抵抗しなかった。

 ――湿布まで来たら騒ぎ出すつもりね。黙らせなきゃならないけど、でも足を見ることは出来る。

 デュ・バリー夫人はそう呟いて、作業を続けた。

 ベアルン夫人は呻きこそあげたものの、後はおとなしくしていた。

 包帯をほどき終えると、デュ・バリー夫人の目に本物の火傷が飛び込んで来た。偽りではなかった。そこがベアルン夫人の外交術の終着点だった。鉛色をして血の滲んだ火傷が、雄辯に物語っていた。ベアルン夫人はションに気づいていたかもしれない。だがその時に、ポルキアやムキウス・スカエウォラのような崇高な道を選んだのだ。

 デュ・バリー夫人は無言のまま敬服した。

 顔を向けた老婦人は存分に勝利を味わっていた。野獣のような眼差しで足許に跪いている伯爵夫人を包み込んでいた。

 デュ・バリー夫人は女らしい細やかな様子で湿布を元通りにし、怪我を傷めぬように優しく足をクッションに戻し、老婦人の側に腰を下ろした。

「思った以上に手強い方ね。初めからあなたのような方に相応しい質問をしなかったことをお詫びいたしますわ。そちらの条件を仰って」

 老婦人の目がきらめいたが、それも一瞬のことだった。

「あなたのご希望を明言して下さいまし。お役に立てるかどうかはそれから判断いたします」

「ヴェルサイユの認証式にあなたに出てもらいたいの。今朝はひどい苦しみを味わわせてしまったけれど」

 ベアルン夫人は眉一つ動かさなかった。

「それで?」

「それだけ。次はあなたの番よ」

 ベアルン夫人は断固とした態度を見せ、対等に渡り合っていることをはっきりと示した。「私の望みは、訴訟中の二十万リーヴルが保証されることですよ」

「待って。訴訟に勝てば四十万リーヴルになるんじゃありませんの」

「違いますとも。サリュース家と係争中の二十万リーヴルは私のものだと思っておりますからね。あと半分の二十万リーヴルが、あなたとお知り合いになれたご利益ですよ」

「二十万リーヴル手に入れたとして、その後は?」

「可愛がっている息子が一人おります。我が家は代々剣で身を立てて参りました。ところが将校の才能を持って生まれながら、一兵卒にしかなれないとお考え下さいまし。来年には大佐の肩書きをもらって、すぐにでも中隊を指揮させなくちゃなりません」

「聯隊のお金は誰に出していただくの?」

「国王陛下ですよ。二十万リーヴルを聯隊に当ててしまえば、明日になったら今と同じく貧乏に逆戻りですからね」

「最低でも六十万リーヴルはかかるわよ」

「二十万分の聯隊だと考えれば、四十万は余計でございましょう」

「まあいいわ。それで構わないなら」

「それから、トゥレーヌの葡萄畑を返していただけるようお願いするつもりです。十一年前、運河にするとか言って技師たちに奪われた四アルパン分でございます」

「お金は払ってもらえたんでしょう」

「ええ、でも専門家の言い値でした。その二倍の価値はあると踏んでおりましたのに」

「わかったわ。もう一度払ってもらえるわよ。これでお終い?」

「もう一つ。ご推察の通り私にはお金がありません。フラジョ先生に九千リーヴルばかし借りがあるんでございます」

「九千リーヴル」

「どうしても必要だったんです。フラジョ先生は素晴らしい助言をして下さいますし」

「ええ、そうね。九千リーヴルはあたしが払っておくわ。こちらからかなり歩み寄ったと思ってくれてたらいいのだけれど」

「もちろんですよ! ですが私の方だって最善を尽くしたつもりですよ」

「火傷なさったことをどれほど残念に思っているか、わかっていただけたらね」デュ・バリー夫人が笑みを浮かべた。

「残念なものですか。災難でしたけど、あなたのためを思えば前と変わらずお役に立てるよう力が湧いて来ますとも」

「じゃあ話をまとめましょうか」

「お待ち下さい」

「忘れていたことでも?」

「たいしたことじゃありませんが」

「聞かせて頂戴」

「国王陛下の御前に伺うとは思ってもいなかったものですから。ヴェルサイユや栄華なんてものからは随分と長いこと離れていたので、ドレスがないんでございますよ」

「用意はしておいたわ。昨日、あなたが帰った後で、認証式用の服を作らせたの。立て込んだりしないように、あたしのとは違う仕立屋に頼んでおいたから。明日の昼には出来るはずよ」

「ダイヤモンドもございませんし」

「あたくしが言っておいたから、ベーメルとバサンジュが明日届けてくれるわ。二十一万リーヴルの装身具。明後日には二十万リーヴルで買い戻してくれる手筈になっているの。保証金はあなたのものよ」

「ありがとうございます。もう何も言うことはございません」

「喜んでもらえたみたい」

「そうでした、息子の肩書きは?」

「陛下ご自身で下さるわ」

「聯隊の召集資金も保証して下さるのでしょうか?」

「それも込みよ」

「わかりました。後は葡萄畑の問題だけですよ」

「四アルパンでおいくらだったと……?」

「アルパン当たり六千リーヴルです。それは素晴らしい土地だったんですよ」

「支払われている一万二千リーヴルと併せて、きっかり二万四千リーヴルになるよう、一万二千リーヴルの債務を返済するようお約束するわ」

「文箱はこちらですよ」と指さした。

「あなたが取っていただけないかしら」

「私が?」

「ええ」

「でもどうして?」

「これから口述する手紙を陛下に書いていただきたいの。持ちつ持たれつよ」

「そういうことですか」

「じゃあ書いて下さるわね」

 老婦人は机を引き寄せ、紙とペンを取った。

 デュ・バリー夫人が口述を始めた。

 『前略、親しい友人であるデュ・バリー伯爵夫人の代母に立候補したという申し出を陛下にお許しいただけたことを知った幸運によりまして……』

 老婦人が口を開いてペンを舐めた。

「ペンがよくないのよ。変えた方がいいわ」

「構いませんよ、慣れてますから」

「そう?」

「ええ」

 デュ・バリー夫人は続けた。

 『明日ヴェルサイユで紹介いただく際、もしお許し下さいますなら、お目をかけて下さいました陛下にぶしつけながらお願いがございます。私といたしましては或いは陛下に喜んでいただけるのではないかと考えております。と申しますのも、高貴なるお血筋でいらっしゃる王孫殿下たちの軍隊のために血を流した将校たちの一族に嫁いだ者でございます』

「署名をお願い」

 老婦人は署名した。

 『アナスタシー=ユーフェミー=ロドルフ、ベアルン伯爵夫人』

 老婦人の筆跡は力強かった。半プス大の文字が紙の上に横たわっており、綴りの間違いは貴族として恥ずかしからぬ程度に散見されるだけだった

 老婦人は署名を記すと、書き終えたたばかりの手紙を手で押さえたまま、デュ・バリー夫人にインクと紙とペンを手渡した。デュ・バリー夫人はまっすぐ尖った小さな字で、二万一千リーヴル、葡萄畑の補償金として一万二千リーヴル、フラジョ弁護士の報酬として支払う九千リーヴルの債務返済を確約した。

 それから宝石職人べーメルとバサンジュに言伝を書き、ルイーズと呼ばれているダイヤモンドとエメラルドの装身具を持ち主に返して欲しいと伝えた。ルイーズと呼ばれているのは、王太子の叔母である王女のものだったからであり、王女はそれを慈善のために売ったのだった。

 これが終わると、代母と代子は手紙を交換した。

「これで友情の証を見せて下さるわね」

「精一杯いたしますよ」

「あたくしのところにいらしてくれたら、トロンシャンに三日で治してもらえるわ。いらっしゃいな。それにあのオイルがどれだけ素晴らしいか試していただけるもの」

「馬車にお乗り下さいまし。ご一緒する前にやらなくてはいけないことが二、三ございますので」

「断られたってこと?」

「とんでもありません。承諾いたしましたよ。ただ、今はちょっと。修道院で一時の鐘が鳴りました。三時まで待っていただけますか。きっかり五時にはリュシエンヌに伺います」

「三時に兄を迎えに寄こしても構わない?」

「もちろんでございます」

「じゃあ、それまでお大事に」

「心配ございません。仰ったように私は貴族ですから、死ぬようなことがあっても、明日のヴェルサイユには伺いますよ」

「じゃあ後で、代母さん!」

「では後ほど、代子さま!」

 こうして二人は別れ、老婦人は足をクッションに置き、書類を手にして、そのまま横になっていた。デュ・バリー夫人の気持は来た時よりも弾んではいたが、老婦人に対してもっと強気に攻められなかったことに幾分か心を痛めていた。ベアルン夫人は、フランス王と渡り合うのを楽しんでいたではないか。

 広間の前を通りかかると、ジャンが見えた。長々と居座っているのを怪しまれないためだろう、二本目の壜を空けていたところだった。

 妹に気づくと椅子から飛び上がって駆け寄った。

「どうだった?」

「サクス元帥がフォントノワの戦場に現れた陛下にこう言ったでしょう。『陛下、勝利がどれだけ高くつき、痛ましいものか、この光景からお学び下さい』」

「つまり勝ったということか?」

「こういう言葉もあるわ。今度は古代の言葉。『もう一度勝ったなら、我々は滅びてしまうだろう』」

「代母は確保したんだな?」

「ええ。百万近くかかったけれど!」

「何だと!」ジャン子爵の顔が恐ろしく歪んだ。

「仕方ないでしょう! 取るか失うかだったんだから」

「それにしたってふざけてる!」

「それはそうだけど。そんなに怒るものでもないわ。あたしが上手くやらなかったら、何も手に入らなかったかもしれないし、お金が二倍かかったかもしれないんだから」

「畜生、何てアマだ!」

「ローマ人ね」

「ギリシア人だろう」

「どっちでもいいわよ! そのギリシア人だかローマ人だかを三時間後に迎えに行って、リュシエンヌまで連れて来る準備をして頂戴。手元に閉じ込めておかないと安心出来そうもないわ」

「俺はここにいよう」

「あたしの方は準備に大わらわね」

 伯爵夫人は馬車に駆け込んだ。

「リュシエンヌに! 明後日には、マルリーに!って言ってるはずよ」

「いずれにせよ――」ジャンは馬車を目で追っていた。「俺たちはフランスに随分と金をかけたもんだな!……デュ・バリー家にとっちゃいいごますりだ」

『ジョゼフ・バルサモ』 35-1 「代母と代子」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十五章 代母と代子

 気の毒な伯爵夫人……国王が使った呼び名を我々も使うことにしよう。目下のところその通りであるからだ。その気の毒な伯爵夫人は、不安に駆られてパリへの道を急いでいた。

 ジャンの手紙の第二段落に怯えていたションは、苦痛や不安を見せぬようリュシエンヌの私室に籠り、大通りでジルベールを拾おうなんて思いついたことを悔やんでいた。

 セーヌからロケットまでパリを囲んでいる、川まで達する下水道の上を飛ばし、ダンタン橋に着くと、四輪馬車が待っていた。

 馬車の中ではジャン子爵と代理人が熱心に話し込んでいたようだ。

 ジャンは伯爵夫人に気づくや、代理人を残して地面に飛び降り、馬車を急停止させようと御者に合図を送った。

「急げ。俺の馬車に乗るんだ。サン=ジェルマン=デ=プレまで行くんだ」

「ベアルン夫人にかつがれたって訳?」デュ・バリー夫人が馬車を乗り換えている間に、予めジャンから合図されていた代理人も同じようにした。

「多分ね。多分そうだ。仇に恩。いや、恩を仇で返された」

「何が起こったの?」

「簡単なことさ。俺はパリに残ってた。疑り深いんでね。そしたら案の定だ。夜九時になって『時の声』の周りを歩きまわっていたが、人通りもなく訪問客もない。何事もなく、順調だった。だから戻って眠ってもよさそうだと判断して、眠ったんだ。

「今朝、夜が明けて目が覚めてから、パトリスを起こして路標のところで見張りに就かせた。

「九時だ、いいか、予定より一時間早く、馬車で夫人を訪問した。パトリスに聞くと、怪しいものは見なかったと言う。それで安心して階段を上った。

「玄関で女中が俺を止めて、伯爵夫人は今日は外にお出でになれません、八日間かかるでしょうと抜かしやがった。

「不慮の事態は覚悟していたが、こんなのは予想しちゃいなかった。

「『外に出られないだと? 何があった?』

「『お具合が良くないのでございます』

「『具合が悪い? 馬鹿な! 昨日はいたって元気だったぞ』

「『ええ、それが奥さまはいつもチョコレートをお作りになるのですが、今朝は火に掛けていたところ、足にこぼしてしまいまして、火傷を負ってしまったんでございます。悲鳴を聞いて慌てて駆けつけましたところ、奥さまは気も失わんばかりでございまして、私がベッドにお連れいたしました。今はお寝みになっているはずです』

「俺はそのレースのように青ざめて、声をあげたよ。

「『嘘だ!』

「『嘘ではありません、デュ・バリー様』梁も突き刺すような刺々しい声だった。『嘘ではございませんよ。もう痛いやら苦しいやら』

「声のした方に飛び出して無理に扉を押し開けると、そこには老婦人が実際に寝込んでいた。

「『ああ、伯爵夫人……!』

「それだけしか言えなかった。はらわたが煮えくりかえっていたから、喜んであの婆を絞め殺せたね。

「『これなんです』床に置いてある糞忌々しい湯沸かしを指して、『何もかもこのポットのせいなんでございますよ』

「俺はそのポットに飛びかかった。

「これでもうチョコレートは作れまい。それは確かだ。

「『何てひどい!』哀れっぽい声を出しやがる。『お妹さんを引き立てるのはダロワーニ夫人なんでしょうよ。そうなんでしょう! 書いてありました! 東洋人たちの言った通りだわ』」

「ああ、ジャン! がっかりさせないで」デュ・バリー夫人が声をあげた。

「俺はがっかりなんてしないぜ。お前が会いに行ってくれ。そのために呼んだんだからな」

「でもどうして?」

「おいおい! お前になら、俺に出来ないことも出来るだろう。女なんだから、目の前で服を脱いでもらえばいい。化けの皮が剥がれたら、息子はこれからずっと田舎貴族のままだと言ってやれ。サリュース家の金にも一スーだって手は付けられないってな。俺はオレステスみたいに怒り狂った。それ以上の迫真の演技でカミラのように呪ってくれ」

「冗談でしょう!」

「好きでやってるわけじゃない」

「で、何処にいるの、我らが巫女は?」

「わかってるだろう。『時の声』亭だ。サン=ジェルマン=デ=プレの大きな黒い家で、鉄の看板に大きな雄鶏が描かれている。鉄が軋むと、鶏が鳴く」

「ひどいことになりそう」

「俺もそう思う。だが危険を冒す必要があるとも思う。俺もついて行こうか?」

「気をつけて頂戴。全部ぶち壊さないでね」

「代理人も同じことを言ってたよ、ここで相談していたんだが。ちなみに、家の中で人を殴れば罰金と牢獄行き。外で殴れば……」

「お咎めなし。ようくご存じでしょ」

 ジャンが口を歪めた。

「ふん! 払いが遅れるほど利子が貯まるってもんだ。今度あの男を見つけた日には……」

「今はあの女の話よ、ジャン」

「もう話すことはない。出かけてくれ!」

 ジャンは道を空け、馬車を通した。

「何処で待機してるの?」

「その旅籠で。イスパニア産のワインでも飲んで、助けが要りそうになったら駆けつける」

「馬車を出して!」伯爵夫人が叫んだ。

「サン=ジェルマン=デ=プレの『時の声』亭までだ」子爵が続けた。

 馬車は勢いよくシャン=ゼリゼーに躍り込んだ。

 十五分後、修道院教会《アバシャル》通りとマルシェ=サント=マルグリットの近くで馬車は止まった。

 その場所でデュ・バリー夫人は馬車から降りた。何せ相手は狡猾な老婦人、どうせ見張っているのに違いなく、馬車の音で気づかれたくはない。窓掛の陰にでも身を翻し、デュ・バリー夫人の訪れるのを見て悠々と逃げ出してしまうかもしれない。

 そこで伯爵夫人は従僕を連れて二人だけで修道院教会通りまで走った。建物が三軒しかなく、目指す旅籠は真ん中にあった。

 大きく開いた門から、入るというより躍り込んだ。

 誰にも見られなかった。だが木で出来た階段の手前で女将と出くわした。

「ベアルン夫人は?」

「ベアルン夫人は具合が悪いんで、お会いになれませんよ」

「ええ、そのことで、お加減を伺いに参りましたの」

 そう言って鳥のように軽やかに、あっという間に階段の上までたどり着いた。

「奥さま、奥さま、誰かが押しかけて来ました!」女将が声をあげた。

「どなたです?」部屋の奥から老婦人がたずねた。

「あたしよ」伯爵夫人がこの場にぴったりの表情を浮かべて戸口に現れた。即ち、礼儀正しく微笑み、いたわしそうに眉を寄せていたのである。

「伯爵夫人でしたか!」老婦人は真っ青になって震え出した。

「ええ、そうよ。さっき耳にして、お見舞いを申し上げに参りました。事故のことを聞かせて下さらない」

「ですけどこんな汚いところに腰を下ろしていただく訳にも参りませんからねえ」

「トゥレーヌにお城を持っているような方を旅籠に泊めたことはお詫びいたします」

 そう言って伯爵夫人は腰を下ろした。すぐには帰らないことはベアルン夫人にもわかった。

「かなりお悪そうですね?」デュ・バリー夫人がたずねた。

「そりゃもう」

「右足ですの? まあ! でもどうして足を火傷なんかなさったんですか?」

「簡単なことですよ。取っ手を持つ手を滑らせてしまいまして、ちょっと熱湯をこぼして足にかけてしまったんでございます」

「ひどい話ね!」

 老婦人は溜息をついた。

「ええ、ひどい話です。でもどうしようもないじゃございませんか! 災難はまとめてやって来るものなんですよ」

「今朝は国王陛下がお待ち下さってるのよ?」

「ますます口惜しくて仕方ありませんよ」

「あなたに会い損ねたら陛下もいいお顔をなさらないわ」

「何分にも火傷がひどうございますから、ただただお詫び申し上げるだけでございます」

『ジョゼフ・バルサモ』 34-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「署名なぞ糞食らえだ。それに署名をもらいに来る奴らときたら! 大臣や書類入れや用紙など発明したのは何処のどいつだ?」

 悪態を吐き終わった途端、伯爵夫人が出ていったのとは反対側の扉から大臣と書類入れが入って来た。

 国王は最前よりもさらに大きな溜息をついた。

「ああ、そなたか、サルチーヌ。時間に正確だな!」

 国王の口調からは、果たして褒めているのか貶しているのかを推しはかるのは難しかった。

 サルチーヌ氏は書類入れを開き、中から文書を取り出そうとした。

 その時、馬車の車輪が並木道の砂を鳴らすのが聞こえた。

「待ってくれ、サルチーヌ」

 国王は窓に走り寄った。

「何だ? 伯爵夫人が出て行ったのか?」

「ご本人ですね」

「だが、ベアルン伯爵夫人を待っていたのでは?」

「待っていられず、迎えにおゆきになったのではないでしょうか」

「しかし今朝ここに来る予定なのだから……」

「陛下、恐らくいらっしゃることはないでしょう」

「ほう、何か知っているのか、サルチーヌ?」

「すべて知っているわけではありません。それでご満足していただけるでしょうか」

「何が起こったのだ? それを言い給え」

「老伯爵夫人にでしょうか?」

「そうだ」

「どんな時にも起こり得ること。障碍が立ちふさがったのです」

「そうは言ってもやって来るのだろう?」

「それが陛下、昨夜ならともかく今朝はどうでしょうか」

「伯爵夫人も気の毒に!」そうは言いながらも、目に喜びの光がきらめくのを防ぐことは出来なかった。

「ああ。四国同盟や家族協定など、認証式の問題に比べれば些細なことでした」

「気の毒に!」と繰り返して首を振った。「あれの望みは叶わぬのだな」

「遺憾ですが。陛下もさぞやご立腹でございましょう」

「あれにもわかっておるのだろう」

「伯爵夫人にはなお悪いことに、王太子妃殿下の到着前に認証式が行われなければ、二度と行われない可能性がございます」

「可能性どころか、サルチーヌ、そなたの言う通りだよ。嫁御は厳格で敬虔な淑女という噂だ。気の毒に!」

「認証式が行われぬのをデュ・バリー夫人がお嘆きになるのはもっともですが、陛下にとっては心配の種がなくなることにもなりましょう」

「そう思うか?」

「間違いありません。妬み屋、毒舌家、諷刺家、ごますり屋、お喋りどももそれほど現れぬでしょうし。デュ・バリー夫人が愛妾になられた場合、警察活動にはさらに十万フランかかります」

「そうだな! 気の毒に! それでもあれは認証式を望んでおる」

「陛下がお命じになれば、伯爵夫人の望みも叶いましょうに」

「どういうことだ、サルチーヌ? 正直に言って、こんなことに口を挟むことが出来るとでも? デュ・バリー夫人をそっとしておけという命令に署名出来るとでも? 伯爵夫人の気まぐれを満足させるためにクーデターでも起こせというのか?」

「とんでもありません! 私が言ったのはただ陛下の『気の毒に!』のようなものです」

「そうは言うものの、まだ希望がない訳でもない。いろいろな可能性を考えてみ給え。ベアルン夫人が意見を変えないとも限らぬ。王太子妃が遅れぬとも限らぬ。王太子妃がコンピエーニュに着くまでまだ四日ある。四日あれば、何か出来るだろう。ところで、今朝は仕事があったのではないかね?」

「そうでした! 署名を三つだけお願いします」

 警視総監は書類入れから一つ目の文書を取り出した。

「待て! 封印状か?」

「はい、陛下」

「誰宛てだ?」

「ご覧になって下さい」

「ルソー氏宛てだ。このルソーとは何だ? 何をしたのだ?」

「何を? 『社会契約論』です」

「ああ! ジャン=ジャック宛てか? では投獄するつもりかね?」

「そんなことをすれば大騒ぎになります」

「いったいどうしたいというのだ?」

「いずれにせよ投獄するつもりはありません」

「それではこの文書は無意味ではないか?」

「保険でございます」

「何にしても、哲学者どもなど大嫌いだ!」

「それはもっともなことでございます」

「だが非難されはせぬか。第一、パリで暮らすことを許されたのではなかったか」

「許しはしましたが、人前に姿を見せないという条件付きです」

「で、姿を見せたと?」

「それしかしておりません」

「あのアルメニアの恰好で?」

「ああ、いいえ、あの服は脱がせました」

「言う通りにしたかね?」

「ええ、迫害だと喚いていましたが」

「では今はどんな恰好をしているのだ?」

「ごく普通の恰好でございます」

「ではさして大事ではあるまい」

「陛下、自由に出歩くのを禁じられた人間が、毎日何処に出かけるのかお分かりになりますか?」

「リュクサンブール元帥のところ、ダランベール氏のところ、デピネー夫人のところかね?」

「カフェ・ド・ラ・レジャンスです! 向きになったように毎晩チェスを指して、負けてばかりいます。我々としても家に押し寄せた群衆を見張るために、毎晩一旅団の人員を割かざるを得ません」

「そうか、パリっ子は思ったより間抜けなのだな。好きなようにさせておけ、サルチーヌ。そうしている間は、あの者たちも貧困を叫んだりはせぬ」

「わかりました。ですがロンドンにいた時のような演説をしようとした日には……?」

「そうだな、公に罪を働いたのであれば、封印状の必要もあるまい」

 国王はルソーの逮捕には直接関わりたくないのだ。それを悟った警視総監は、それ以上には強辯しようとしなかった。

「それでは陛下、別の哲学者の話がございます」

「まだあるのか?」国王はうんざりしていた。「もう哲学者とは縁を切ろうではないか?」

「何を仰いますか! 向こうの方で縁を切ってくれぬのではありませんか」

「それで話とは?」

「ヴォルテールのことです」

「ヴォルテールもフランスに戻ったのか?」

「そうではありません。或いはそうしてくれた方がありがたいのですが。そうすれば監視はしておけますから」

「何をしたのだ?」

「本人は何もしていません。やったのは支持者たちです。彼の像を建てるというのは見過ごせません」

「騎馬像を?」

「そうではありませんが、ヴォルテールが有名な攻城塔だということを申し上げているのです」

 ルイ十五世は肩をすくめた。

「あれほどの攻城者ポリオルケテスは見たことがありません。あらゆるところに通じています。陛下の王国の第一人者たちも、まるで闇業者のように彼の本を流通させているくらいです。先日は八箱差し押さえました。いずれもショワズール殿宛てでした」

「それは面白い」

「陛下、君主にだけ許されていることが彼のために行われているのだということを、今一度お考え下さい。民衆たちは像を建てることを決めたのです」

「君主の像を建てるのを決めるのは民衆ではないよ、サルチーヌ。君主自身が決めるのだ。ところでその傑作の作者は誰だね?」

「彫刻家のピガールです。型を取るためにフェルネーまで出向いていました。そうしている間にも予約申込みが殺到しております。既に六千エキュに達しましたが、いいですか、予約出来るのは文学者だけなのです。みんなお布施を持って行くんです。あれはお参りですよ。ルソー氏も二ルイ納めました」

「ふむ! どうせよと言うのだ? 余は文学者ではない。無関係ではないか」

「こんな出過ぎた真似を中止させようと陛下に伺いに参ったのですが」

「慌てるな、サルチーヌ。銅像の代わりに黄金像が建つだけだ。放っておけ。いやはや、銅像はさぞかし実物以上に醜いのだろうな!」

「では事態をこのまま泳がせておくのがお望みですか?」

「話し合おうではないか、サルチーヌ。望んでいるのは言葉ではない。一切を止めさせたいのはもちろんだ。だがそなたの望みは何だ? 不可能なことではないか。神が海に『此を越ゆべからず』と命じたように、国王が哲学者の心に口を挟める時代などとっくに去った。叫んでも無駄だ、打っても届かぬ、我々が無力なことを見せるだけだ。見方を変えよう、サルチーヌ、見ぬふりをするのだ」

 サルチーヌは溜息をついた。

「陛下、この者たちを罰さぬまでも、せめて銅像は壊しませんか。これはすぐにでも訴訟を起こすべき著作の一覧です。玉座を脅かすものもあれば、祭壇を襲うものも。これは謀叛であり、涜神でございます」

 ルイ十五世は表を取り上げ、気乗りしない声で読み上げた。

「『神聖なる伝染 あるいは迷信の自然誌』、『自然の体系 あるいは物理的世界と精神的世界の法則』、『神と人間』、『イエス・キリストの奇跡に関する論文』、『聖地に向かう Perduicloso に対するラグーザのカプチン会修道士の助言』……」

 国王は半ばまで読まずに紙を捨てた。いつもなら落ち着いている顔に、不思議な悲しみと落胆の色が浮かんでいた。

 しばらくの間、まるで心神喪失状態で、夢見たようにぼうっとしていた。

「これは世間が立ち上がるだろうな」国王は呟いた。「別の方法がいくらでもある」

 サルチーヌが国王を見た。この飲み込みの速さこそ、国王が大臣たちに求めているものだった。大臣が優秀なら、国王は考えたり動いたりしなくてもよい。

「平穏ですか?」今度はサルチーヌが口を開いた。「陛下は平穏をお望みなのですね?」

 国王は大きくうなずいた。

「ああ、そうだ! ほかに何がある。哲学者、百科全書派、魔術師、光明会徒、詩人、経済学者、三文文士、何処からともなく湧き出して、うごめき、書き記し、鳴き喚き、人を腐し、何かを企み、説教をし、叫んでいる奴らだぞ。奴らのために戴冠したり、像を造ったり、神殿を建てたりする者たちも、余のことはそっとしておいてくれる」

 サルチーヌは立ち上がり、一礼すると、口の中で呟きながら退出した。

「この国の貨幣に『主よ王を守り給へドミネ・サルヴム・ファク・レゲムと書かれてあって何よりだ」

 一人残された国王は、ペンを取り王太子宛てに書いた。

『王太子妃の到着を急がせろと言っていたな。そなたを喜ばせてやろう。

 ノワヨンで車を停めるなと命令を出しておいた。だから火曜の朝にはコンピエーニュに着くだろう。

 余もちょうど十時に、つまり王太子妃の十五分前には行くつもりだ』

「これで認証式のくだらぬごたごたも片がつく。ヴォルテールやルソー、過去や未来の哲学者たちよりしんどかったわい。こうなれば後は気の毒な伯爵夫人と王太子夫妻の問題だ。その通り。悲しみ、憎しみ、復讐なぞ、一つ丈夫な若者の心臓にでも押しつけてしまおう。若者は苦悩を覚えるもの。そうやって大きくなるのだ」

 こうして難題を退けたことに満足し、パリ中の話題となっている認証式を進めようと止めようと咎められる者など誰もいないことを確信すると、国王は馬車に乗り込み、廷臣が待っているマルリーに向かった。

『ジョゼフ・バルサモ』 34-1 「ヴォルテールとルソー」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十四章 ヴォルテールとルソー

 既にお話ししたように、リュシエンヌの寝室は、造りといい調度といい素晴らしいものだった。

 東向きのその部屋は、金張りの鎧戸と繻子の窓掛でしっかりと覆われ、陽射しがご機嫌取りのように大小様々な隙間から潜り込むまでは、完全に光を遮っている。

 夏には、何処とも知れぬ通気口から、幾千もの扇であおいだような柔らかな風が空気を揺らした。

 国王が青の間から出てきたのは十時のことだった。

 今回は供の者たちも九時から庭で待機していた。

 ザモールが腕を組んで命令を出している。あるいは出しているふりをしている。

 国王は窓から顔を出し、出発の用意を眺めた。

「どういうことだね、伯爵夫人? 朝食は取らぬのか? 国王を空きっ腹で帰らせたと言われるぞ」

「とんでもない! でもてっきりマルリーにはサルチーヌ殿とご一緒するのかと思ってましたけど」

「まさか! ここに会いに来るようサルチーヌに伝えられるとでも? こんな近くに」

「自慢する訳じゃありませんけど」伯爵夫人が微笑んだ。「そう思ったのは陛下が最初ではありませんの」

「それに、朝は仕事をするにはもったいない。朝食にしよう」

「でも署名はしていただかなくては」

「ベアルン夫人の件かな?」

「ええ、そうすれば日にちもはっきり出来ますし」

「日にちだと?」

「それに時間も」

「何の時間だ?」

「認証式の日時です」

「いやもっともだ、認証式か。日取りはそなた自身で決めるがよい」

「出来るだけ早い内に」

「もう準備は済んでいるのか?」

「ええ」

「三段の礼のやり方も覚えたのかね?」

「ちゃんと出来ますわ。一年間も練習したんですもの」

「ドレスは?」

「二十五時間あれば用意出来ます」

「代母は?」

「一時間後にここに」

「ふむ、では取引だ」

「何の?」

「ジャン子爵とタヴェルネ男爵の事件は今後一切口にせんで欲しい」

「泣き寝入りしろと?」

「まあそういうことだ」

「わかりました! もうそのことは口にいたしません……日取りは?」

「明後日」

「時間は?」

「通例通り夜十時に」

「決まりね?」

「決まりだ」

「王のお言葉ね?」

「貴族の言葉だ」

「お手をどうぞ」

 デュ・バリー夫人が美しい手を伸ばすと、国王はそれに手を重ねた。

 この朝、リュシエンヌ中が国王の満足感に浸されていた。しばらく前から譲歩しようと考えていたある点では譲歩したものの、別のある点では譲らなかったのだ。大成功だった。ピレネーかオーヴェルニュで湯治するという条件でジャンに十万リーヴルを与えれば、ショワズールの目には追放だと映るだろう。貧しい者たちにはルイ金貨を、鯉には菓子を、ブーシェの絵には讃辞を与えた。

 前の晩に夜食を堪能したというのに、朝食を食べる気も満々だった。

 そうこうしている内に十一時が鳴ったところだ。伯爵夫人は国王の世話をしながら、なかなか進まない柱時計をちらちらと脇見していた。

 国王はとうとう自ら、ベアルン夫人が来たなら食堂に招いてもよいと口にした。

 珈琲の用意が出来、味わい、飲み干しても、ベアルン夫人は来なかった。

 十一時十五分、馬が駆ける音が響き渡った。

 デュ・バリー夫人は急いで立ち上がり、窓に駆け寄った。

 ジャン・デュ・バリーからの使いが、汗まみれの馬から飛び降りていた。

 伯爵夫人は恐れおののいた。だが、国王に気分よくいてもらうためには、わずかなりとも不安を表に見せるべきではない。夫人は席に戻った。

 間もなく、手紙を手にションが入って来た。

 尻込みは出来ない。読むほかない。

「それは? 恋文かね、ション?」国王がたずねた。

「そんなとこです」

「誰から」

「子爵からです」

「間違いないね?」

「お確かめになって」

 筆跡には見覚えがあった。手紙はラ・ショセ事件のことかもしれない。

「よかろう」国王は手紙を返した。「もういいよ」

 伯爵夫人は気が気ではなかった。

「あたくし宛てですの?」

「その通りだ」

「構いませんか……?」

「もちろんだ! 読んでいる間はションがコルボー先生【※ラ・フォンテーヌの「カラスとキツネ」】を聞かせてくれるだろう」

 国王はションを引き寄せ、ジャン=ジャックが書き残した通りの王国一調子っぱずれな声で歌い出した。

 召使いを失った。
 運もすっかり失った。

【※ジャン=ジャック・ルソーの歌劇「村の占い師(Le Devin du Village)」より】

 伯爵夫人は窓際に戻って読み始めた。

『あの糞婆は当てにするな。夕べ足を火傷したと抜かして、部屋に引き籠もっている。よりにもよって昨日のあのタイミングで帰ってきたションに感謝しようじゃないか。それだけのことはしてくれた。婆さんがションに気づいたんだ。とんだ喜劇だよ。

 すべての元凶のジルベールのガキがいなくなった。幸運な奴め。そうでなきゃ首をねじ切っていたところだ。だが今度会った時には、どれだけしおらしくしていようとも見逃してやるものか。

 結論を言う。急いでパリに来てくれ。さもなきゃ俺たちは昔に逆戻りだ。ジャン』

「どうしたのだ?」急に青ざめた伯爵夫人に驚いて、国王が声をかけた。

「何でもありません。義兄が容態を知らせてくれただけ」

「よくなって来ているのだろう?」

「よくなっていますわ。ありがとうございます、陛下。それより、庭に馬車が到着したみたいですけど」

「代母の伯爵夫人ではないかね?」

「違うわ、サルチーヌ殿ね」

「では?」デュ・バリー夫人が戸口に行ったのを見て、国王がたずねた。

「では、陛下はあちらにどうぞ。あたくしはお化粧に参ります」

「するとベアルン夫人は?」

「いらっしゃったら陛下にご連絡差し上げます」伯爵夫人は手紙を丸めて部屋着のポケットの奥に突っ込んだ。

「では余は追い出されるのかな?」国王は嘆息した。

「陛下、今日は日曜日です。ご署名を!……」

 伯爵夫人が瑞々しい頬を差し出したので、国王は右と左に盛大に口づけした。それが終わると夫人は部屋を後にした。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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