アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
「ご迷惑をかけに来たんじゃないの」デュ・バリー夫人は老婦人がどれだけ取り澄ましていられるか見つめていた。「ただ、この件に陛下がどれだけこだわっていてどれだけ感謝していたかをわかっていただきたくて」
「この状態をご理解下さらないと」
「そうね。でも一つ言いたいことがあるの」
「仰って下さいまし。聞かせていただきます」
「つまりね、いろいろと考え合わせると、この事故の原因はあなたの気持にあるんじゃないかしら」
「ああ、それもありましょうねえ」老婦人が腰を深く折った。「あんなにご丁寧に歓迎して下さったんですもの、もう胸が一杯になってしまって」
「もう一つあるんじゃないかしら」
「もう一つ? さあ、わかりませんよ」
「まさか! 誰かに会ったでしょう……?」
「そんなことありましたでしょうか!」
「ええ、うちを出る時」
「誰にも会いませんでしたよ。お兄さまの馬車に乗っていましたしねえ」
「馬車に乗る前よ」
老婦人は記憶を探っているようなそぶりを見せた。
「玄関の階段を降りている時」
老婦人はさらに頭を捻っているようなふりをした。
「そうよ」デュ・バリー夫人が苛立ち混じりの微笑みを浮かべた。「うちを出る時に中庭で会った人」
「申し訳ありませんけれども、思い出せませんよ」
「若い女よ……もうわかったでしょう」
「目が悪いものですから、目の前にいるあなたのこともよく見えないんでございますよ。そうなんでございます」
――さあこの人は手強いわ。伯爵夫人は独り言ちた。――下手な小細工はやめましょう。真っ向勝負よ。
「そうでしたの! ご覧にならなかったというのであれば」と声に出して続けた。「あれが誰だかお教えしますわ」
「帰る間際にやって来た方のことですか?」
「そうよ。あれはあたくしの妹、マドモワゼル・デュ・バリーです」
「まあ、そうでしたか! 何分にも一度もお目にかかったことがないものでございますから……」
「そんなことはないわ」
「お目にかかったことが?」
「ええ、それどころか話し合ったことも」
「マドモワゼル・デュ・バリーと?」
「ええ、そうよ。ただしあの日はマドモワゼル・フラジョと名乗っていたけれど」
「ああ!」声には隠しようもないほどの辛辣さがこもっていた。「ああ、あの偽フラジョさんでしたか。私に会いに来て、連れ出した、あの方がお妹さんですか?」
「間違いないわ」
「あなたの差し金でございますか?」
「あたくしが頼んだの」
「私を騙すために?」
「まさか。あなたの役に立ちたいのと、あたくしの役に立ってもらうためよ」
老婦人は白髪混じりの太い眉を寄せた。
「来てもらっても私にはたいした得にもなりそうに思えませんけど」
「モープーさんに歓迎されることはなかったんじゃないかしら?」
「口先だけですよ」
「ただの口先よりは実のあるものを差し上げたつもりでしたのに」
「すべては天の思し召しと申しますよ」
「ねえベアルン夫人、真剣なお話なんです」
「お聞きいたしますとも」
「足を火傷なさいましたのね?」
「ご覧の通りでございます」
「火傷はひどいの?」
「重傷ですよ」
「おつらいのはわかりますし、ひどい怪我ですけど、命に別状はないでしょう? 頑張れば馬車でリュシエンヌに行くのにも耐えられますし、あたくしの部屋で陛下にお目にかかるほんのちょっとの間だけでも立っていられません?」
「無理ですよ。立ち上がることを考えただけでも気を失ってしまいそうです」
「じゃあ火傷はそんなにひどいの?」
「そうですよ、ひどい火傷です」
「処置や診断や手当はどなたから?」
「家を切り盛りしている女でしたら、火傷に効く薬くらい持ってますからね。自分で作った痛み止めを塗ったんですよ」
「お嫌でなければ、その特効薬を見せて下さらない?」
「卓子の上のその壜ですとも」
――偽善者もいいところね! そこまでするなんて。やっぱり手強いわ。だけど最後までやり終えなくっちゃ。
「実はあたくしも怪我によく効くオイルを持ってますの。でも特定の火傷にしか効かないものですから」
「どんな火傷でしょう?」
「腫れ、水ぶくれ、赤剥け。あたくしは医者じゃないけど、誰だって一度や二度は火傷くらいしますものね」
「赤剥けでございますよ」
「それは痛そうね! オイルを塗って差し上げてもいいかしら?」
「お願いいたします。今お持ちですか?」
「今はないの。でも誰かを遣って……」
「本当にありがとうございます」
「火傷の具合をあたくしも確かめてみた方がいいと思うの」
老婦人が抗議した。
「とんでもありません! こんな状態お見せ出来ませんよ」
――お生憎さま。逃げられないわよ。
「そんなの気にしないで。怪我を見るのは慣れてるから」
「ですがあんまり不作法ですし……」
「助け合う時くらい、作法なんて忘れましょう」
と言っておもむろに、椅子に寝かせていた足に手を伸ばした。
デュ・バリー夫人が軽く触れただけで、老婦人は恐ろしい悲鳴をあげた。
――ふうん、お上手ね! 顔を歪めたベアルン夫人の苛立ちを目にし、伯爵夫人は呟いた。
「殺す気でございますか。何て恐ろしいことをなさるんです!」
老婦人の頬は青ざめ、目は虚ろで、倒れて気絶してしまいそうだった。
「構いませんよね?」
「なさって下さい」老婦人は消え入りそうな声で答えた。
デュ・バリー夫人は時間を無駄にはしなかった。足に巻かれた包帯のピンを外すと、大急ぎでほどき始めた。
意外なことに、老婦人は抵抗しなかった。
――湿布まで来たら騒ぎ出すつもりね。黙らせなきゃならないけど、でも足を見ることは出来る。
デュ・バリー夫人はそう呟いて、作業を続けた。
ベアルン夫人は呻きこそあげたものの、後はおとなしくしていた。
包帯をほどき終えると、デュ・バリー夫人の目に本物の火傷が飛び込んで来た。偽りではなかった。そこがベアルン夫人の外交術の終着点だった。鉛色をして血の滲んだ火傷が、雄辯に物語っていた。ベアルン夫人はションに気づいていたかもしれない。だがその時に、ポルキアやムキウス・スカエウォラのような崇高な道を選んだのだ。
デュ・バリー夫人は無言のまま敬服した。
顔を向けた老婦人は存分に勝利を味わっていた。野獣のような眼差しで足許に跪いている伯爵夫人を包み込んでいた。
デュ・バリー夫人は女らしい細やかな様子で湿布を元通りにし、怪我を傷めぬように優しく足をクッションに戻し、老婦人の側に腰を下ろした。
「思った以上に手強い方ね。初めからあなたのような方に相応しい質問をしなかったことをお詫びいたしますわ。そちらの条件を仰って」
老婦人の目がきらめいたが、それも一瞬のことだった。
「あなたのご希望を明言して下さいまし。お役に立てるかどうかはそれから判断いたします」
「ヴェルサイユの認証式にあなたに出てもらいたいの。今朝はひどい苦しみを味わわせてしまったけれど」
ベアルン夫人は眉一つ動かさなかった。
「それで?」
「それだけ。次はあなたの番よ」
ベアルン夫人は断固とした態度を見せ、対等に渡り合っていることをはっきりと示した。「私の望みは、訴訟中の二十万リーヴルが保証されることですよ」
「待って。訴訟に勝てば四十万リーヴルになるんじゃありませんの」
「違いますとも。サリュース家と係争中の二十万リーヴルは私のものだと思っておりますからね。あと半分の二十万リーヴルが、あなたとお知り合いになれたご利益ですよ」
「二十万リーヴル手に入れたとして、その後は?」
「可愛がっている息子が一人おります。我が家は代々剣で身を立てて参りました。ところが将校の才能を持って生まれながら、一兵卒にしかなれないとお考え下さいまし。来年には大佐の肩書きをもらって、すぐにでも中隊を指揮させなくちゃなりません」
「聯隊のお金は誰に出していただくの?」
「国王陛下ですよ。二十万リーヴルを聯隊に当ててしまえば、明日になったら今と同じく貧乏に逆戻りですからね」
「最低でも六十万リーヴルはかかるわよ」
「二十万分の聯隊だと考えれば、四十万は余計でございましょう」
「まあいいわ。それで構わないなら」
「それから、トゥレーヌの葡萄畑を返していただけるようお願いするつもりです。十一年前、運河にするとか言って技師たちに奪われた四アルパン分でございます」
「お金は払ってもらえたんでしょう」
「ええ、でも専門家の言い値でした。その二倍の価値はあると踏んでおりましたのに」
「わかったわ。もう一度払ってもらえるわよ。これでお終い?」
「もう一つ。ご推察の通り私にはお金がありません。フラジョ先生に九千リーヴルばかし借りがあるんでございます」
「九千リーヴル」
「どうしても必要だったんです。フラジョ先生は素晴らしい助言をして下さいますし」
「ええ、そうね。九千リーヴルはあたしが払っておくわ。こちらからかなり歩み寄ったと思ってくれてたらいいのだけれど」
「もちろんですよ! ですが私の方だって最善を尽くしたつもりですよ」
「火傷なさったことをどれほど残念に思っているか、わかっていただけたらね」デュ・バリー夫人が笑みを浮かべた。
「残念なものですか。災難でしたけど、あなたのためを思えば前と変わらずお役に立てるよう力が湧いて来ますとも」
「じゃあ話をまとめましょうか」
「お待ち下さい」
「忘れていたことでも?」
「たいしたことじゃありませんが」
「聞かせて頂戴」
「国王陛下の御前に伺うとは思ってもいなかったものですから。ヴェルサイユや栄華なんてものからは随分と長いこと離れていたので、ドレスがないんでございますよ」
「用意はしておいたわ。昨日、あなたが帰った後で、認証式用の服を作らせたの。立て込んだりしないように、あたしのとは違う仕立屋に頼んでおいたから。明日の昼には出来るはずよ」
「ダイヤモンドもございませんし」
「あたくしが言っておいたから、ベーメルとバサンジュが明日届けてくれるわ。二十一万リーヴルの装身具。明後日には二十万リーヴルで買い戻してくれる手筈になっているの。保証金はあなたのものよ」
「ありがとうございます。もう何も言うことはございません」
「喜んでもらえたみたい」
「そうでした、息子の肩書きは?」
「陛下ご自身で下さるわ」
「聯隊の召集資金も保証して下さるのでしょうか?」
「それも込みよ」
「わかりました。後は葡萄畑の問題だけですよ」
「四アルパンでおいくらだったと……?」
「アルパン当たり六千リーヴルです。それは素晴らしい土地だったんですよ」
「支払われている一万二千リーヴルと併せて、きっかり二万四千リーヴルになるよう、一万二千リーヴルの債務を返済するようお約束するわ」
「文箱はこちらですよ」と指さした。
「あなたが取っていただけないかしら」
「私が?」
「ええ」
「でもどうして?」
「これから口述する手紙を陛下に書いていただきたいの。持ちつ持たれつよ」
「そういうことですか」
「じゃあ書いて下さるわね」
老婦人は机を引き寄せ、紙とペンを取った。
デュ・バリー夫人が口述を始めた。
『前略、親しい友人であるデュ・バリー伯爵夫人の代母に立候補したという申し出を陛下にお許しいただけたことを知った幸運によりまして……』
老婦人が口を開いてペンを舐めた。
「ペンがよくないのよ。変えた方がいいわ」
「構いませんよ、慣れてますから」
「そう?」
「ええ」
デュ・バリー夫人は続けた。
『明日ヴェルサイユで紹介いただく際、もしお許し下さいますなら、お目をかけて下さいました陛下にぶしつけながらお願いがございます。私といたしましては或いは陛下に喜んでいただけるのではないかと考えております。と申しますのも、高貴なるお血筋でいらっしゃる王孫殿下たちの軍隊のために血を流した将校たちの一族に嫁いだ者でございます』
「署名をお願い」
老婦人は署名した。
『アナスタシー=ユーフェミー=ロドルフ、ベアルン伯爵夫人』
老婦人の筆跡は力強かった。半プス大の文字が紙の上に横たわっており、綴りの間違いは貴族として恥ずかしからぬ程度に散見されるだけだった
老婦人は署名を記すと、書き終えたたばかりの手紙を手で押さえたまま、デュ・バリー夫人にインクと紙とペンを手渡した。デュ・バリー夫人はまっすぐ尖った小さな字で、二万一千リーヴル、葡萄畑の補償金として一万二千リーヴル、フラジョ弁護士の報酬として支払う九千リーヴルの債務返済を確約した。
それから宝石職人べーメルとバサンジュに言伝を書き、ルイーズと呼ばれているダイヤモンドとエメラルドの装身具を持ち主に返して欲しいと伝えた。ルイーズと呼ばれているのは、王太子の叔母である王女のものだったからであり、王女はそれを慈善のために売ったのだった。
これが終わると、代母と代子は手紙を交換した。
「これで友情の証を見せて下さるわね」
「精一杯いたしますよ」
「あたくしのところにいらしてくれたら、トロンシャンに三日で治してもらえるわ。いらっしゃいな。それにあのオイルがどれだけ素晴らしいか試していただけるもの」
「馬車にお乗り下さいまし。ご一緒する前にやらなくてはいけないことが二、三ございますので」
「断られたってこと?」
「とんでもありません。承諾いたしましたよ。ただ、今はちょっと。修道院で一時の鐘が鳴りました。三時まで待っていただけますか。きっかり五時にはリュシエンヌに伺います」
「三時に兄を迎えに寄こしても構わない?」
「もちろんでございます」
「じゃあ、それまでお大事に」
「心配ございません。仰ったように私は貴族ですから、死ぬようなことがあっても、明日のヴェルサイユには伺いますよ」
「じゃあ後で、代母さん!」
「では後ほど、代子さま!」
こうして二人は別れ、老婦人は足をクッションに置き、書類を手にして、そのまま横になっていた。デュ・バリー夫人の気持は来た時よりも弾んではいたが、老婦人に対してもっと強気に攻められなかったことに幾分か心を痛めていた。ベアルン夫人は、フランス王と渡り合うのを楽しんでいたではないか。
広間の前を通りかかると、ジャンが見えた。長々と居座っているのを怪しまれないためだろう、二本目の壜を空けていたところだった。
妹に気づくと椅子から飛び上がって駆け寄った。
「どうだった?」
「サクス元帥がフォントノワの戦場に現れた陛下にこう言ったでしょう。『陛下、勝利がどれだけ高くつき、痛ましいものか、この光景からお学び下さい』」
「つまり勝ったということか?」
「こういう言葉もあるわ。今度は古代の言葉。『もう一度勝ったなら、我々は滅びてしまうだろう』」
「代母は確保したんだな?」
「ええ。百万近くかかったけれど!」
「何だと!」ジャン子爵の顔が恐ろしく歪んだ。
「仕方ないでしょう! 取るか失うかだったんだから」
「それにしたってふざけてる!」
「それはそうだけど。そんなに怒るものでもないわ。あたしが上手くやらなかったら、何も手に入らなかったかもしれないし、お金が二倍かかったかもしれないんだから」
「畜生、何てアマだ!」
「ローマ人ね」
「ギリシア人だろう」
「どっちでもいいわよ! そのギリシア人だかローマ人だかを三時間後に迎えに行って、リュシエンヌまで連れて来る準備をして頂戴。手元に閉じ込めておかないと安心出来そうもないわ」
「俺はここにいよう」
「あたしの方は準備に大わらわね」
伯爵夫人は馬車に駆け込んだ。
「リュシエンヌに! 明後日には、マルリーに!って言ってるはずよ」
「いずれにせよ――」ジャンは馬車を目で追っていた。「俺たちはフランスに随分と金をかけたもんだな!……デュ・バリー家にとっちゃいいごますりだ」