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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 38-1 「認証式」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十八章 認証式

 偉大なものの常として、ヴェルサイユは今もそしてこれからも美しいままであろう。

 苔が壊れた石を蝕み、鉛や青銅や大理石の神々が水の涸れた泉水にばらばらに横たわり、木々の伐られた並木道がもつれたまま天に召されようとも、廃墟と化してなお、夢想家や詩人には目の覚めるような華やかな光景を与え続けることだろう。そして詩人たちは大バルコニーから、束の間の栄花を眺めた後で、尽きることのない地平線を眺めるのだ。

 だがヴェルサイユの輝きを見たいのならば、やはり活気と栄耀に彩られた時を選ぶべきだ。武器を持たぬ人々が、立派な兵士に止められながら、金の柵に向かって波のように打ちつけている時。天鵞絨張り、絹張り、繻子張りの、厳めしい紋章つきの馬車が、石畳に音を響かせ、威勢よく馬を駆足ギャロップで走らせている時。窓という窓が魔法の宮殿のように輝いて、ダイヤモンド、ルビー、サファイアが織りなすまばゆい世界を見せつける時――そこでは一人の男の一挙にこうべを垂れる――白い雛菊や赤い雛罌粟、青い矢車の入り混じった黄金の穂が、風にたわむように。確かにヴェルサイユは美しい。とりわけ門という門を通って、名士という名士に使いが送られた時。もったいぶった国王、君主、領主、官僚、学者たちが、豪華な絨毯や高価なモザイク張りの床を踏んでいる時。

 しかし何と言っても、式典のために盛大に飾り立てられた時だ。きらびやかな調度とこぼれるような照明が、ヴェルサイユに溢れる魔力を倍する時――どれだけ冷静な人物にも、これは人間の想像力と能力が生み出し得る驚異なのだという考えを抱かせるはずだ。

 例えば大使の接待、或いは貴族のため、そして認証式。マナーの造化ルイ十四世は、一人一人を離れた場所に遠ざけておき、華々しい王の生活の一端をかいま見せることで、彼らにそうした畏敬の念を植えつけることを望んでいた。とにもかくにも祭壇に戴いた神に参詣する権利を勝ち得た者たちには、やがて王宮も神殿にしか見えなくなる。

 こうしてヴェルサイユは、とうに堕してはいるがそれでも輝きを保ちながら、デュ・バリー夫人の認証式を前にして、予定通りに門という門を開き、灯という灯を灯し、華という華を誇示した。物見高い人々、貪欲な人々、貧しい人々(不思議なことに、こうした光景を前にして飢えや貧しさを忘れていた!)が、アルム広場やパリ通り一帯を彩っていた。宮殿の窓という窓から光が放たれ、シャンデリアが遠くからは金の砂塵に浮かぶ天体に見えた。

 国王は十時ちょうどに部屋から出た。いつも以上に豪華な衣装で、即ちレースはふんだんに、靴下と靴の留め金だけで百万はくだらない。

 嫉妬深い婦人連が前日に企んだ陰謀については、サルチーヌから聞かされていた。そのために顔には不安が浮かび、回廊には男しかいないのではないかとびくびくしていた。

 だがやがて不安は安心に変わった。謁見用に設えた王妃の間で、ちらほらとしたレースやいくつものダイヤモンドで飾られた髪粉の中に、ひとまず三王女の姿を見つけたのだ。次いで、前日に気焔をあげていたミルポワ元帥夫人。気づいてみれば、自宅から出ないと散々騒いでいた者たちが、真っ先に揃っていた。

 リシュリュー公爵が将軍のように駆けまわって一人一人に声をかけていた。

「やあ! ここでお会いするとは。不実な方ですな!」

 あるいは、

「抜け駆けすると思っておりましたよ!」

 さらにはまた、

「陰謀のことはどうなりましたかな?」

「あなたご自身はどうなんです、公爵?」とご婦人たちは答えた。

「わしは娘のデグモン伯爵夫人の代わりです。どうです、セプティマニー(Septimanie)がおらぬでしょう。あれだけはグラモン夫人、ゲメネー夫人と頑張っておりますから、これでわしがどうなるかも決まりました。明日には五度目の追放か、四度目のバスチーユ入りです。もう陰謀はこりごりですよ」

 国王が現れた。静まりかえった中で、十時の鐘、即ち式典の時刻を告げるのが聞こえた。国王陛下の周りには取り巻きが侍っている。五十人以上はいるだろうか、認証式に来るとは明言しなかった者たちであり、恐らくはそれ故にこそここにいるのだ。

 国王が真っ先に気づいたのは、グラモン夫人、ゲメネー夫人、デグモン夫人がこの壮麗な式典に欠けていることだった。

 ショワズールは冷静を装っていたが、努力も虚しく、取り繕っているのは一目でわかった。

「グラモン公爵夫人が見えませんね?」国王がたずねた。

「陛下、妹は気分がすぐれないため、代わってご挨拶申し上げるよう言づかって参りました」

「残念ですな!」

 そう言って国王はショワズールに背中を向けると、ゲメネー公に向き直った。

「ゲメネー公夫人はどちらに? ご一緒ではなかったのですか?」

「それが、具合がよくないのです。迎えに行ったところ、寝込んでおりました」

「ああ、それは残念です! おや、元帥ではありませんか。今晩は、公爵」

「陛下……」猫なで声を出すと、若者のような身のこなしでお辞儀をした。

「そなたは病気ではなかったか」国王はショワズールとゲメネーにも聞こえるようにして言った。

「陛下にお目に掛かる機会があればいつでも絶好調でございます」リシュリュー公爵が答えた。

「しかし」と国王はリシュリューの周りを見渡し、「ご息女のデグモン夫人がいないのには何か事情が?」

 公爵は人に聞かれているのをわかって、ひどく悲しそうな声を出した。

「娘は陛下の足許に跪く栄誉を奪われてしまいました。特に今夜は。何分にも具合が悪く……」

「それは残念だ! デグモン夫人が病気とは。フランス一健康であったのに! 返す返すも残念だ!」

 そう言って国王は、ショワズールやゲメネーの時のように、リシュリューの許を離れた。

 それから室内を一巡りし、固くなっているミルポワ夫人にはとりわけ丁寧に挨拶をした。

「裏切った甲斐がありましたな」と元帥が耳打ちした。「我々とは違い、明日はさぞかし晴れやかなお気持ちでしょうね!……それを思うと震えが来ますぞ」

 そう言って公爵は溜息をついた。

「ですけどあなた様もショワズール兄妹を裏切ったんじゃありませんこと? 何しろここにいらっしゃるってことは……あなただって誓いましたのに……」

「娘のセプティマニーの代わりですよ。可哀相に! 忠実なあまりに寵を失ってしまうとは」

「忠実なのは父親に、かしら?」元帥夫人がすかさず言い返した。

 皮肉と言ってもいいこの問いかけには、聞こえないふりをした。

「ところで、陛下は不安そうに見えませんかな?」

「それはそうでしょう」

「というと?」

「十時十五分ですから」

「おお、なるほど。なのに伯爵夫人はまだ来ない。さて、一つ申し上げてかまいませんか?」

「どうぞ」

「気がかりなことがあります」

「何でしょう?」

「伯爵夫人に何か障碍が起こったのではないでしょうか。あなたはご存じなのではありませんか?」

「どうしてです?」

「首まで陰謀に浸かっているようですから」

「まあ!」元帥夫人は打ち明け話でもするようにして答えた。「私もそのことが気がかりなんです」

「公爵夫人は恐ろしい敵ですな、パルティア人のように逃げながら矢を射るとは。とはいえ逃げたことには違いない。ご覧なさい、ショワズールは平静を装おうとしていますが、不安そうではありませんか。うまく居場所を確保して、陛下から目を離さずにいる。何か企んでいたのでしょう? 教えて下さらんか」

「私も知らないんです。でも仰る通りだと思います」

「狙いは何でしょうな?」

「遅延工作ですよ、諺にありますでしょう、『時を制する者はすべてを制す』。認証式を先延ばしにしてしまえば、明日、思いがけないことが起こるのかもしれません。きっと王太子妃は四日後ではなく明日にはコンピエーニュに到着するのではありませんか。きっと明日には決着をつけるつもりなのでしょう」

「元帥夫人、あなたのお話は実にもっともらしいではありませんか。伯爵夫人はまだ来ない!」

「陛下は苛立ってらっしゃいますね」

「窓辺に行くのはこれでもう三度目です。随分と気を揉んでいらっしゃる」

「もっとひどいことになるんじゃないかしら」

「というと?」

「ほら、十時二十分です」

「ふむ」

「これから一つ申し上げてかまいませんか」

「何でしょうかな?」

 元帥夫人は辺りを見回し、声をひそめた。

「伯爵夫人は来ないんじゃないかと思います」

「何てことだ! しかしそれでは、ひどい騒ぎになりますぞ」

「裁判沙汰ですよ、犯罪です……それも重大な……起訴理由ならいくらでもあるでしょうね。誘拐、傷害、或いは不敬罪も。どれもこれもショワズール兄妹が糸を引いたんです」

「彼らにしてはちょっと軽率ですな」

「しょうがありませんわ、取り憑かれているんですから」

「むきにならずに我々のようにしていれば有利なことがあります。少なくともものをはっきりと見ることが出来る」

「また陛下が窓のところに行かれましたわ」

 確かにルイ十五世は、顔を曇らせ、不安げに、苛立ちながら窓に近寄り、手をイスパニア錠に、額を冷たい窓ガラスに押しつけていた。

 その間も、嵐の前の葉擦れのように、廷臣たちの話すざわめきが聞こえていた。

 目という目が振り子時計と国王の間を行き来していた。

 振り子時計が十時半を告げた。鉄をはじくような澄んだ音が、震えながら広い部屋に沈んで行った。

 モープーが国王に近づいた。

「よい天気でございますね」おずおずと話しかけた。

「素晴らしい天気だ……何か知っているかね、モープー?」

「何のことでしょうか?」

「伯爵夫人が遅れていることだよ!」

「恐らくご病気に違いありません」

「グラモン夫人が病気、ゲメネー夫人が病気、デグモン夫人が病気なのも理解できる。だが伯爵夫人が病気などとは考えられぬ!」

「あまりに昂奮いたしますと、具合が悪くなることもございます。伯爵夫人は大変お喜びになっていましたから!」

「ああ、もう駄目だ」ルイ十五世は首を横に振った。「伯爵夫人はもう来ぬだろう!」

 声をひそめていたにもかかわらず、あまりに静まりかえっていたために、ほとんどの来賓の耳にその言葉は届いていた。

 だがそれに答えるには、心の中で答えるのにすら、時期尚早だったのである。馬車の轟音が穹窿の下に響き渡った。

 頭という頭が揺れ、目という目が問いを交わし合っていた。

 国王が窓から離れ、回廊を見渡そうとサロンの中央に陣取った。

「残念な報せでなければいいんですけど」元帥夫人が耳元に囁くと、リシュリュー公はかすかな笑みを押し殺した。

 ところが不意に、国王の顔に喜びがはじけ、目に輝きが湧き出た。

「デュ・バリー伯爵夫人です!」と取次が式部長官に告げた。

「ド・ベアルン伯爵夫人です!」

 この二つの名前を聞いて、それぞれにその意味は相反すれど、誰もが胸を突かれた。好奇心を抑えきれずに、廷臣たちが波のように国王の許に歩み寄った。

 ミルポワ夫人は、自分がルイ十五世の一番側にいることに気づいた。

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ルナール日記 1905年1月28日

眠っている猫、ちゃんと皮にボタンをかけている。

『ジョゼフ・バルサモ』 37-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「糞ッ! もう駄目だ!」ジャンが絶望の叫びをあげた。「畜生! 誰か殺してやらなくちゃ気が済まない。美容師がいないだと! くたばっちまえ! リュバンの腹をかっさばいてやる。七時半の鐘が鳴ったというのに、まだ来ない。ふざけやがって! くたばるがいい!」

 今夜の認証式には呼ばれていないジャンは、腹立ち紛れに髪を掻きむしった。

「それよりドレスよ!」ションが叫んだ。「美容師ならほかにも見つけられるかもしれない」

「どうかな? どんな美容師がだ? ああ最悪だ、糞ったれめ!」

 伯爵夫人は何も言わず、ショワズール兄妹も心を動かされるような溜息を、気づかれぬようそっと洩らした。

「ねえ、少し落ち着きましょう」ションが言った。「まず美容師を探すこと。それに仕立屋のところに戻れば、何かドレスになるようなものがあるかもしれないし」

「美容師がいない!」伯爵夫人が苦悶の呟きを洩らした。「ドレスがない! 馬車がない!」

「そうだ、馬車がない! 馬車も来ていないぞ。もうとっくに着いてなけりゃならないのに。これは陰謀だ。サルチーヌが職人たちを逮捕させた訳でもあるまい? モープーが縛り首にするとでも? グレーヴ広場で共犯者が火あぶりにされたとでも? 美容師を車責めにして、仕立屋をやっとこ責めにして、馬車屋の皮を剥いでやる」

 こうしている間にも伯爵夫人は落ち着きを取り戻していたが、それは自分の置かれている立場に不安を感じるあまりのことであった。

「今度こそもう駄目よ。リュバンを手に入れたような人なら、パリ中の優れた美容師を囲い込んでおくだけのお金もあるもの。きっと髪を切り刻むような能なししか見つからないわ……。それにドレス! ドレスが!……それにあの新品の馬車。誰もが嫉妬に駆られるはずだったのに……!」

 ジャンは何も答えず、恐ろしい目つきで部屋中を当たり散らし、家具にぶつかればそのたびにぶち壊して、それでも破片が大きいと思えばさらに小さく砕いていた。

 閨房から控えの間、控えの間から中庭へと広がってゆくこの愁嘆場の真っ直中、従僕たちは相矛盾する命令の渦に困り果て、行ったり来たり、走ってはぶつかり合っていたところ、一人の若者が二輪馬車から降り立った。鮮やかな緑の仕着せ、繻子の上着、藤色のキュロット、白い絹靴下を身につけたその若者は、放っておかれていた門の敷居を跨ぎ、中庭を横切り、敷石を渡り、階段を上り、化粧室の扉を叩いた。

 ジャンは日本の壺を叩き落とした際にセーヴル焼きの酒器に服を引っかけてしまい、粉々に踏み砕いている最中だった。

 静かに、控えめに、おずおずと、扉が三度鳴るのが聞こえた。

 沈黙が訪れた。もしやとは思ったものの、そこに誰がいるのかたずねようとする者はいなかった。

「失礼ですが、デュ・バリー伯爵夫人にお目にかかれないでしょうか」

「お客様、こんな風に入って来られては困ります」どんどん中に入って行くのを止めようとして、門番が追いかけて来た。

「まあまあ。これ以上悪いことなど起こるもんか。伯爵夫人に何の用です?」

 ジャンはガザの門も引き抜けそうな勢いで扉を開けた。

 訪問者は飛び退いてそれをかわし、第三ポジションで着地した。

「失礼。デュ・バリー伯爵夫人のお役に立てないかと思いまして。認証式があるんですよね?」

「何の役にです?」

「私の仕事のことで」

「どんなお仕事を?」

「美容師です」

 そう言って二度目のお辞儀した。

「何だって!」ジャンが若者の首に飛びついた。「美容師だって。さあ入ってくれ、さあ入って!」

「どうぞこちらに」ションはどぎまぎしている若者に両手を回した。

「美容師ですって!」デュ・バリー夫人が天を仰いだ。「美容師! 天の使いだわ。リュバンから頼まれたのかしら?」

「誰かに頼まれた訳ではありません。新聞を読んで、今夜は伯爵夫人の認証式があると知り、『まだ美容師を見つけてないかもしれない。ありそうなことではないけれど、ないとは言い切れない』と思い、お邪魔いたしました」

「お名前は?」いくらか落ち着いて来た伯爵夫人がたずねた。

「レオナールと申します」

「レオナール? 聞いたことがないわ」

「今のところは。ですが奥さまがお任せいただければ、明日には名も知られましょう」

「ふん! 美容師といってもいろいろだからな」

「試している時間はないわ」ションが言った。

「試すとは?」若者は昂奮し、デュ・バリー夫人の周りをぐるぐる回った。「奥さまは髪型でみんなの目を釘付けにしなくてはならないのでしょう。私は奥さまを見初めて以来、一番美しく見えるはずの型をずっと考えて参りました」

 そう言って自信に満ちた手つきをしたために、伯爵夫人の心は揺れ始め、ションとジャンの胸にも期待が舞い戻って来た。

「本当なのね!」伯爵夫人は若者の落ち着きぶりに目を見張った。腰に手を当てた様など、大リュバンそのものではないだろうか。

「ですがその前に、ドレスを拝見しなくてはなりません。髪飾りと釣り合いを取らなくてはなりませんので」

「そうよ、ドレスだわ!」デュ・バリー夫人は恐ろしい現実に引き戻された。「ドレスが……!」

 ジャンが額を叩いた。

「まったくだ! 想像してみてくれ、とんでもない陰謀さ。みんな盗まれたんだ! ドレスも、仕立屋も、何もかも!……ション! ああション!」

 ジャンは髪を引き抜くのに疲れて、嘆き始めた。

「戻ってみたらどう、ション?」伯爵夫人がたずねた。

「無駄よ。だってここに来るために家を出たんでしょう?」

「駄目ね!」伯爵夫人は椅子にひっくり返った。「ドレスがないんじゃ、美容師も役に立たないじゃない?」

 この時、またも扉のベルが鳴った。先ほどのように侵入されるのを恐れて、門番は扉を閉めたうえに、閂を掛けていた。

「誰か来たみたい」デュ・バリー夫人が言った。

 ションが窓に駆け寄った。

「箱だわ!」

「箱? うちに?」

「ええ……ううん……でも……門番に手渡した」

「行って、ジャン、急いで」

 ジャンは従僕たちを追い越して階段に急行すると、門番の手から箱を奪い取った。

 ションは窓越しにそれを見ていた。

 ジャンは箱の蓋を開け、手を突っ込むと、歓喜の雄叫びをあげた。

 箱の中には中国繻子のドレスが入っていた。花の縁取りに、高価なレースも一揃いついている。

「ドレスだわ! ドレスよ!」ションが手を叩いて声をあげた。

「ドレスですって!」先刻までは苦しみのあまり気を失いそうだったデュ・バリー夫人は、今度は喜びのあまり気を失いそうになった。

「誰からだ、おい?」ジャンが門番を質した。

「ご婦人でございます」

「どんなご婦人だ?」

「私の知らない方でした」

「どこの人だ?」

「その方は門から箱を手渡して『伯爵夫人に!』と叫ぶと、乗ってきた二輪馬車にお戻りになり、全速力で走り去ってしまいました」

「まあいい! 大事なのはドレスがあるってことだ!」

「早く来なさいよ、ジャン!」ションが叫んだ。「死ぬほど待ち焦がれてるじゃない」

「さあ手にとって確かめるんだ。じっくり見とれるがいいさ。これが天の贈り物だ」

「でもサイズが合わないわ、合うわけないじゃない、あたしに合わせて作ったわけじゃないんだもの。ああ口惜しい! こんなに素敵なのに」

 ションが急いでサイズを測った。

「縦も横もぴったりよ」

「素晴らしくいい生地だぞ!」

「信じられない!」

「怖いくらいね!」伯爵夫人が言った。

「だがこれでわかったな。手強い敵がいるにしても、同じくらい力強い味方がいる」

「人じゃないわ」ションが言った。「だって陰謀のことをどうやって知ったの? きっと妖精か何かよ」

「たとい悪魔だとしてもいいわ。グラモン夫人たちと渡り合う手助けをしてくれてるんだから! あの人たちの方がよっぽど悪魔じゃないの!」

「ところで……」ジャンが言った。

「なあに?」

「こちらの紳士に頭を任せちまった方がいいと思うな」

「何でそう言い切れるのよ?」

「おいおい! ドレスを届けてくれた人が知らせたに決まってるだろう」

「私にですか?」レオナールは心底驚いていた。

「新聞の話は出任せだ、そうだろう?」

「間違いなく本当の話です」

「説明して頂戴」伯爵夫人が言った。

「奥さま、ポケットに新聞がございます。包み紙にしようと保っておいたのです」

 若者は言葉通りに上着の隠しから、認証式の記事の載った新聞を取り出した。

「さあ始めましょう」ションが言った。「八時の鐘が鳴ったわ」

「ああ、時間はございます」美容師が言った。「式場までは一時間ですね」

「ええ、馬車があったらの話だけど」伯爵夫人が言った。

「そうだ! 畜生! フランシャンの野郎がまだ来てないぞ!」

「報せを受け取らなかった? 美容師もドレスも馬車も手に入らないって!」

「ねえ」ションが怖気立った。「フランシャンも約束を守らないってこと?」

「そんなことはない。あそこだ」

「それで馬車は?」伯爵夫人がたずねた。

「きっと家の前に停まっているさ。そのうち門番が扉を開けに行くとも。いったいどうしたんだ?」

 というのも、この言葉と相前後して、怯えきったフランシャン親方が部屋に飛び込んで来たのである。

「ああ、子爵! 奥さまの馬車をお届けする途中、トラヴェルシエール通りの角で、四人の男が馬車を止めて小僧を殴りつけ、全速力でサン=ニケーズ通りに逃げてしまったのです……!」

「言った通りだ」デュ・バリー子爵は椅子に坐ったまま、馬車屋が入ってくるのを機嫌良く眺めていた。

「襲撃じゃないの! どうにかしなくちゃ!」ションが叫んだ。

「どうにかする! どうしてだ?」

「馬車を探しに行かなきゃ。ここには疲れている馬と汚い馬車しかないのよ。こんなポンコツでジャンヌをヴェルサイユに行かせる訳にはいかないわ」

「いいこと?」デュ・バリー夫人が昂奮をなだめた。「ひよこに餌をくれた人、美容師を用意してドレスを送ってくれた人が、馬車がないままにさせておく訳がないでしょう」

「ねえ! あれは馬車の音じゃない?」ションが言った。

「停まったな」

「でも入って来ない」伯爵夫人が言った。

「入って来ない、それだ!」

 ジャンが窓に飛びつき、開けた。

「急げ! 遅れちまうぞ。いいか! 俺たちには少なくとも恩人がいるのを忘れるなよ」

 下男、馬丁、使者は急ぎに急いだが、既にだいぶ遅れていた。白繻子が張られ、鹿毛の馬が二頭繋がれた馬車が、門の前に停まっていた。

 だが御者も従者も影も見えない。使い走りが轡を握っているだけだ。

 馬車の持ち主はその使い走りに六リーヴルを与え、噴水広場の方に姿を消してしまったと云う。

 扉を確かめた。だが紋章の代わりに、一輪の薔薇があっさりと書かれているだけであった。

 いろいろな出来事のせいで時間がなかった。

 ジャンは馬車を中庭に入れさせ、門を閉めて鍵を掛けた。化粧室に戻ると美容師が手並みを披露しようと準備をしていた。

 ジャンがレオナールの腕をつかんだ。「失礼だが、恩人の名を教えなかったり、こんなに感謝しても知らせないのなら……」

「いいですか」若者は落ち着いていた。「そんなに強く腕をつかまれては、伯爵夫人の髪を整えたくても手が痺れてしまいます。それに急がなくては、もう八時半になりました」

「放して頂戴、ジャン!」伯爵夫人が声を出した。

 ジャンは椅子に倒れ込んだ。

「奇跡よ! ドレスはぴったりだわ……ほんのちょっと長いだけだけど、十分で直せるもの」ションが言った。

「馬車はどう……? 立派な馬車?」伯爵夫人がたずねた。

「見事なもんだ……中に入ってみたよ。白繻子の内張に、薔薇の香り」ジャンが答えた。

「じゃあ問題ないわね!」デュ・バリー夫人は小さな手を叩いて喜んだ。「さあレオナール、上手く出来たらあなたも明日から有名人よ」

 レオナールは二言とは言わせなかった。デュ・バリー夫人の髪に手を掛け、櫛を入れるや、その才能を披露し始めた。

 素早さ、センス、正確さ、心と身体を見事に一致させ、この重大な仕事をこなしていた。

 最後の仕上げをし、強度を確かめ、手を洗う水を求めた。ションが君主にでも仕えるように喜んで水を持ってくると、控えめに礼を言って、退出の意向を示した。

「いや、待て待て! おれは好き嫌いにかかわらずしつこいんだ。もうそろそろ、あなたが誰なのか教えてくれてもいいでしょう」

「とっくにご存じですよ。駆け出しの若者で、レオナールと申します」

「駆け出し? ご冗談を! 名人級の腕前だ」

「あたくしの美容師にならない?」伯爵夫人は手鏡に見入っていた。「催しごとのたびに髪を整えてくれるごとに、五十ルイお支払いするわ。ション、第一回目の今回は百ルイ差し上げて。五十ルイはご祝儀よ」

「奥さま、申し上げました通り、これで私の名も知られるでしょう」

「でもあなたはあたしの専属に……」

「百ルイはお納め下さい。私は自由でいたいのです。今日あなたの髪を整えることが出来たのも、自由だったおかげです。自由とは、あらゆる人間にとって一番大事なものですから」

「哲学者みたいな美容師だな!」ジャンが天を仰いだ。「神よ、我々は何処に行くのです? さあレオナール、あんたと喧嘩はしたくない。百ルイ受け取ってくれ。心配ない、あんたの秘密と自由は守るから……よし馬車だ、伯爵夫人!」

 この言葉はベアルン伯爵夫人に向けられたものだった。聖遺物のように厳かに着飾ったベアルン夫人が入って来た。使う直前になって棚から引っぱり出して来たような有り様だった。

「よし、いいか。四人で階段の下まで静かに運ぶんだ。ちょっとでも苦しそうな声を出させてみろ、お前らをぶん殴ってやるからな」

 ジャンがこうして慎重かつ重要な作業を取り仕切り、ションがそれを手伝っている間、デュ・バリー夫人はレオナールの姿を探した。

 レオナールは消えていた。

「何処を通って行ったのかしら?」デュ・バリー夫人は相次ぐ災難からまだ立ち直っていなかった。

「何処を通って行っただって? 床から? 天井から? そんなことが出来るのは魔法使いだけだぞ。いいか伯爵夫人、髪が鳥の巣に変わらないように、ドレスが蜘蛛の巣に変わらないように、鼠が牽く南瓜の馬車でヴェルサイユに着いたりしないように、気をつけようじゃないか!」

 最後の一言を口にしながら、ジャン子爵が馬車に乗り込んだ。そこには既にベアルン伯爵夫人と幸せな代子が腰かけていた。

『ジョゼフ・バルサモ』 37-1 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十七章 美容師もなし、ドレスもなし、馬車もなし

 デュ・バリー夫人が認証式の大広間に向かうのには、ヴェルサイユの部屋から出るのは都合が悪かった。

 第一に、ヴェルサイユにはこうした晴れの日に相応しい物があまりにも足りなかった。

 何よりも、結局のところいつもとはまったく違っていたのである。選ばれし者たちが、ヴェルサイユの宿やパリの自宅から、重々しい音を立てて到着していた。

 デュ・バリー夫人は出発点にパリの自宅を選んだ。

 朝の十一時にはヴァロワ通りに到着しており、ベアルン夫人も一緒だった。微笑みで縛ることが出来ない時には鍵を掛けて閉じ込めておいた。医学と化学の粋を集めて火傷は今も冷やされていた。

 前日からジャン・デュ・バリー、ション、ドレの三人は働き通しだった。その仕事ぶりを見ないことには、金の威力や人の能力について考えるのも難しかろう。

 一人は美容師を確保し、もう一人は仕立屋を急かした。ジャンは馬車担当だったが、仕立屋と美容師にも手を尽くした。伯爵夫人は花、ダイヤ、レースに没頭し、宝石箱の中に埋もれながら、次々ともたらされるヴェルサイユからの報せによって、王妃の間に明かりを入れるという命令が出されたこと、何一つ変わった点はないことを知った。

 四時頃、ジャン・デュ・バリーが戻って来た。青ざめて慌ててはいたが、上機嫌である。

「どう?」伯爵夫人がたずねた。

「どうだって! 準備万端だ」

「美容師は?」

「美容師のところでドレを見つけた。話はついた。五十ルイの手形を押し込んでやったんだ。六時ちょうどにここに夕食にやってくるから、おれたちはそこでのんびりしてればいい」

「ドレスは?」

「凄いのが出来るぞ。ションがしっかり監督していたからな。二十六人のお針子が真珠とリボンと飾りを縫っているところだ。そうやって一幅ごとに丁寧に仕上げているから、ほかの奴らだったら八日は取られただろうな」

「嘘でしょう、一幅ごとだなんて?」

「本当さ。生地は十三幅ある。一幅につき二人がかりだ。右と左に分かれてレースと宝石を縫いつけているから、最後の最後にならないと一つにならない。後二時間の辛抱だ。夕方六時にはドレスが手に入る」

「間違いないのね?」

「昨日のうちに技師と縫い目を計算しておいた。一幅当たり一万箇所だ。お針子一人につき五千だな。あれだけ厚い生地だと、一目縫うのに五秒はかかる。一分で十二、一時間で七百二十、十時間で七千二百。休憩も必要だし、縫い間違いもあるだろうから、二千二百は計算外としても、まだたっぷり四時間の余裕がある」

「それで馬車は?」

「ああ、馬車か! おれに任せとけって言っただろう。倉庫の中で五十度で塗装を乾かしているところだ。あの素晴らしさと比べちゃあ、王太子妃のお迎え馬車もかすみたいなもんさ。四つの扉の真ん中には紋章が描かれているし、おれが塗らせた方の二枚にはデュ・バリー家の標語『前進あるのみ!』があり、その脇で二羽の白鳩が矢で射られたハートを温めている。その周りを弓、矢筒、松明が取り囲んでいる。フランシャンのところには、あれを見に行列が出来ているぞ。八時ちょうどにはここに届く予定だ」

 この時、ションとドレが戻って来た。二人はジャンの言葉を裏づけた。

「ありがとう、みんな勇敢な右腕たちね」伯爵夫人が言った。

「隈が出来てるぞ。少し眠ったらどうだ。そうすれば元通りになる」

「眠る? ええ、そうね! 今夜は眠れそう。それに尽きるわね」

 こうして伯爵夫人邸で準備が進められている間も、認証式の噂が町を駆け巡っていた。無聊を慰めている者であろうと、無関心を装っている者であろうと、噂の嫌いなパリっ子などいない。十八世紀の野次馬ほど、宮廷人やその陰謀に詳しい人間はあるまい。いかなる祝宴にも潜り込むことは出来なかったし、ちんぷんかんぷんな馬車の羽目板や徹夜で走る急使の変わった服装を除けば、何も見たことはなかったのだが。そんなわけだから、貴族の誰それ氏がパリ中の有名人であるのも珍しいことではなかった。単純なことだ。劇場でも、遊歩道でも、宮廷人は主役を演じていた。つまりリシュリュー氏はイタリア劇を見ている間も、そしてデュ・バリー夫人は王妃のように豪華な馬車に乗っている間も、今日の喜劇役者や人気女優と同じように、人目を意識していたのである。

 見知った顔ほど興味が湧く。パリ中の人間がデュ・バリー夫人を知っていた。裕福で若く美しい婦人たちがしたがるように、デュ・バリー夫人は劇場、遊歩道、店舗に姿を見せることに熱心だったからだ。さらには肖像画、諷刺画、ザモールを通して知っていた。故に認証式のいきさつは、宮廷だけではなくパリにも広まっていた。その日のパレ=ロワイヤル広場にはいつも以上の人だかりが出来ていたが、哲学には申し訳ないことに、それはカフェ・ド・ラ・レジャンスでチェスを指すルソー氏を見るためではなく、噂に聞いた見事な馬車と見事なドレスに彩られた寵姫を見るためであった。ジャン・デュ・バリーの「おれたちはフランスに随分と金をかけている」という言葉には重みがある。パリの様子からも明らかなように、大金のかかった光景をフランスが満喫しようとするのは至極単純なことであった。

 デュ・バリー夫人は国民のことをよく理解していた。フランス人はもはやマリ・レクザンスカの頃とは違う。驚かされるのが好きなのだ。気立ての良いデュ・バリー夫人は、出したお金に見合った光景にしようと労をいとわなかった。義兄に言われた通りに眠る代わりに、五時から六時まで牛乳浴をし、六時には小間使いに世話をさせながら、美容師が来るのを待っていた。

 今日ではよく知られている時代について、お伝えすべき特別な事実はない。同時代と言ってもいいくらいだろうし、ほとんどの読者もご承知のことだ。だが今この場で、デュ・バリー夫人の髪を整えるのには大変な手間と時間と技術がかかるのだということを説明するのは的外れなことでもあるまい。

 完全なる建築物を思い描いて欲しい。若王ルイ十六世の宮廷では頭の上が銃眼だらけになっていたが、あの城塞の原型である。この時代にはあらゆるものが前触れとなる運命だったのだろうか。貴族や貴族もどきたちの足許の地面を穿っていた社会的情熱を反映して、頭の上に誇示しないと、貴族の女たちには特権を享受する時間がほとんどないことを、浮ついた流行が告げていたのだろうか。さらに不吉ではあるがやはり正確な予言によって、首を保護する時間もあまり残されていないことを知り、大げさなまでに飾り立て、何もない頭の上に出来るだけ高く聳えさせたのだろうか。

 こうした見事な髪を編むには、絹のクッションで持ち上げ、鯨鬚の鋳型に巻きつけ、宝石や真珠や花で飾りつけ、目に輝きを与え顔に与える雪をまぶす。仕上げに薄紅、螺鈿、ルビー、オパール、ダイヤモンド、あらゆる色の花をバランスよく整えるためには、大芸術家であると同時に、忍耐も必要だった。

 それ故、あらゆる職人の中でも整髪師だけは彫刻家のように剣を携えていた。

 これがジャン・デュ・バリーが宮廷美容師に五十ルイ差し出したことの理由であり、さらには大リュバンが――当時の宮廷美容師の名はリュバンといったのだが――そのリュバンが時間通りに来てくれぬのではないか、こっちが望んでいるほど巧みには仕上げてくれないのではないか、という不安の理由である。

 やがてその不安は的中した。六時の鐘が鳴っても、美容師は現れなかった。六時半、六時四十五分。心臓が破れるほどに脈を打つ。ただ一つ頼みの綱は、リュバンほどの才能の持ち主であれば、人を待たせるのも当然だということだ。

 だが無惨、七時の鐘が鳴った。用意した夕食も冷めてしまうだろう。不快な思いをさせることにはなるまいか。そこで密使を遣ってスープが出来ていることを報せに行った。

 従者が戻ってきたのは、十五分の後。

 同じような状況で待ち続けた人間だけが、十五分が何秒であるのかを知っている。

 従僕はリュバン夫人本人と口を聞いていた。夫人の曰く、夫は先ほど家を出た、もう着いている頃だろう。そうでなくとも向かっている途中なのは間違いあるまい。

「そうか、馬車に何かあったんだな。もう少し待とう」

「でもまだ妥協は出来ないわ。服を途中まで着ておいても髪は整えられる。認証式は十時なんだもの。まだ三時間あるし、ヴェルサイユには一時間で着けるでしょう。待っている間にドレスを見せて頂戴、ション、気晴らしになるわ。ねえ、ションは? ドレスだってば!」

「ドレスはまだ届いておりません」ドレが言った。「お妹さまは十五分前にお出かけになり、ご自身でお求めにいらっしゃいました」

「馬車の音が聞こえたぞ。きっと待ち人来たれり、だ」

 子爵は間違っていた。汗まみれの二頭の馬が牽いていたのは、戻って来たションの馬車だった。

「ドレスは?」ションがまだ玄関にいるうちに、伯爵夫人はたずねた。

「来てないの?」ションが驚いてたずねた。

「来てないわよ」

「そう。遅くはならないと思う」ほっとして続けた。「あたしが行った時には、仕立屋はもう辻馬車で出た後だったから。ドレス運びと着付けのためにお針子二人も一緒だって」

「家はバック通りだったな。その辻馬車は随分とのんびり馬を走らせてるじゃないか」

「ええ、そうね」そうは言ったものの、ションはある不安を抑えることが出来なかった。

「ねえ、馬車はこっちから取りに行かせたら?」デュ・バリー夫人が言った。「そうすれば馬車だけは待たなくてもいいもの」

「もっともだな、ジャンヌ」

 ジャン・デュ・バリーは扉を開けた。

「フランシャンのところに馬車を取りに行ってくれ。馬九頭も連れて行って、すべて繋いでおくんだ」

 御者と馬が出発した。

 馬車の音がサン=トノレ通りの方に小さくなった頃、ザモールが手紙を持って来た。

「バリー奥さまにお手紙です」

「誰から?」

「男です」

「男? どんな男なの?」

「馬に乗った男です」

「どうしてお前に渡したのかしら?」

「ザモールが玄関にいたからです」

「質問は後だ、まずは読もうじゃないか」ジャンが堪えきれずに喚いた。

「そうね」

「凶報じゃなければいいんだが」

「まさか。陛下に届けて欲しい請願書か何かでしょう」

「請願書の折り方ではないぞ」

「死ぬほど怖がってるのね」伯爵夫人は微笑み、封印を切った。

 一行目を読んだ途端に恐ろしい悲鳴をあげ、死んだようになって椅子に倒れ込んだ。

「美容師も、ドレスも、馬車もないですって!」

 ションが伯爵夫人に駆け寄り、ジャンが手紙を奪い取った。

 まっすぐで小さな文字は、間違いなく女の手になるものだ。

『マダム、お気をつけ下さい。今夜は美容師もドレスも馬車も手に入らないでしょう。
 この助言が間に合うといいのですが。
 恩に着せるつもりはありませんので、名前は申しません。お知りになりたい時はご想像下さい』

『ジョゼフ・バルサモ』37-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 公爵夫人は不意に黙り込んだ。またも国王と目が合ったのだ。

「ところで、誰の話だったのかな、公爵夫人?」リシュリュー元帥は、どうやら問題の人物が誰なのか探ろうとしているようだ。

「名前は聞いてませんわ」

「それは残念だ」

「でも見当はついてます。閣下もお考え遊ばせ」

「代母を頼まれたご婦人連が、そのかみのフランス貴族のように勇敢で道義に厚い方々でしたなら、足を折るという気高い発想を思いついたその田舎婦人のところに駆けつけているところですのに」ゲメネー夫人が苦い顔をした。

「なるほど、その通りですな。しかしそのご婦人は我々を危険から救ってくれたのだ、是非とも名前を突き止めなくては。何しろ、もはや恐れるものなどないのだから。違いますか、公爵夫人?」

「ええ、何一つ。その代母候補も足に包帯を巻かれて、一歩も動けずベッドで休んでいますから」

「でもね、ほかの代母を見つけようとしたら?……諦めるような人じゃないでしょう」ゲメネー夫人がたずねた。

「大丈夫。見つかりっこありませんから、代母なんて」

「したり! まあそうでしょうな」リシュリュー元帥はちびちびと飴をかじっていた。人が言うには、この飴こそが若さの秘密であるらしい。

 この時、国王が近づいて来たため、皆が口を閉じた。

 やがてよく知られた国王の声が、はっきりと部屋に響き渡った。

「では失礼、メダム。ご機嫌よう、メッシュー」

 一同はすぐに立ち上がり、それが大きな波となった。

 王は戸口に向かったが、扉から出しなに振り返った。

「ところで、明日はヴェルサイユで認証式がある」

 この言葉に、誰もが雷に打たれたようだった。

 国王が目を遣ると、貴婦人方は青ざめた顔を見合わせていた。

 やがて国王はそれ以上は何も言わずに立ち去った。

 国王がお供の侍従を引き連れて敷居を跨ぐや、後に残った王女たちは大騒ぎになった。

「認証式ですって!」グラモン公妃が土気色になって口ごもった。「陛下は何を仰りたかったんでしょう?」

 リシュリュー元帥が、親しい仲でも許されないような笑いを浮かべた。「認証式というと、もしやあなたの認証式では?」

「そんな! あり得ません!」グラモン夫人は気が抜けたように答えた。

「するとどうやら今日は足が治ったようだ」

 ショワズールが妹に近づき、腕を小突いて注意を引こうとしたが、あまりに大きな打撃を受けた公妃には何も聞こえてはいなかった。

「ああ憎たらしい!」

「ええ、憎たらしい人ね!」ゲメネー夫人も同意した。

 すべきことは何もないと見て、ショワズールは立ち去った。

「ああマダム!」グラモン公妃が三王女に泣きついた。「もうほかに頼れる人はいません。マダムのように高貴な方々が、禁中奥深くにいながら、小間使いにも関わらせたくない身分の人間と交わるのを余儀なくされることに耐えられますか?」

 だが王女たちは答える代わりに顔を伏せた。

「どうかお願いいたします!」

「決めるのは王様ですから」とマダム・アデライードが溜息をついた。

「その通り」リシュリュー公爵も言った。

「でもそれではフランス宮廷中が不面目に晒されることになります! ご家族の名誉が心配ではないのでしょうか!」

「皆さん」ショワズールが口を挟んだ。「話が陰謀めいて来たので、サルチーヌ氏と共にここらで失礼させていただきます。あなたはどうなさいます、公爵?」とリシュリュー元帥に話しかけた。

「いや、結構! 陰謀には目がないのでな、ここに残るとしよう」

 ショワズールはサルチーヌを従えて席を外した。

 三王女の許には、グラモン夫人、ゲメネー夫人、デヤン夫人、ミルポワ夫人、ポラストロン夫人、ほか十人ほどの婦人だけが残り、認証式についてかまびすしい議論を始めた。

 残された男はリシュリューのみ。

 婦人たちはギリシア軍の中にトロヤ人を見つけたような不安そうな目つきでリシュリューを見つめていた。

「わしのことは娘のデグモン夫人の代わりだと思っていただこう。さあ続けて」

「皆さん」とグラモン夫人が始めた。「こうした恥ずべき行いを防ぐ手だてが一つあるので、それを実行しようと考えております」

「どんな手だてです?」婦人たちが一斉にたずねた。

「先ほど『決めるのは王様です』と仰いましたね」

「そしてわしは『その通り』と答えた」

「確かに、ここで何かを決めるのは王様です。でも私たちの家でなら、決めるのは私たちです。今晩御者に『ヴェルサイユに』と言わずに『シャントルーに』と告げるのを、誰にも邪魔は出来ないでしょう?」

「それは確かだが、そんな抵抗してどうなると?」リシュリューがたずねた。

「皆さんよく考えたうえで、あなたに倣おうとなさるでしょうね、公爵夫人」とゲメネー夫人。

「公爵夫人を倣わない理由などありませんし」ミルポワ元帥夫人。

「ああ、どうか!」公爵夫人が再び王女たちに泣きついた。「フランス王女自ら宮廷にお手本をお示し下さい!」

「王様は立腹なさるわ」マダム・ソフィーが指摘した。

「そんなことはありません!」グラモン公妃は憎々しげに答えた。「それどころか、素晴らしい考え、またとない才覚だと感謝なさるでしょう。王様は誰にも乱暴はなさいません」

「それどころか」リシュリュー公爵がまたもやグラモン夫人の押しかけを当てこすった。「夜中に寝室で乱暴され、奪われたのは王様の方だったとか」

 この言葉の威力たるや、貴婦人たちの中に、爆弾が破裂したような動揺をもたらした。

 ようやく落ち着きが戻ると、その場の昂奮に後押しされるようにして、マダム・ヴィクトワールが口を開いた。

「私たちが伯爵夫人を追い返した時に、王様が何も仰らなかったことは間違いありません。でも公式の場の話となると……」

「ええそうだと思います」グラモン夫人は言いつのった。「欠席したのがマダムたちだけでしたら、恐らくそうでしょう。でも私たち全員が参加しなかったとしたら」

「全員ですって!」婦人たちが声をあげた。

「間違いなく全員だ」老元帥が答えた。

「ではあなたも陰謀に参加なさるの?」マダム・アデライードがたずねた。

「仰る通りです。である以上は一言申し上げたい」

「お話し下さい、公爵」グラモン夫人が言った。

「順番に始めましょう。『全員で!』と叫ぶだけがすべてではない。『こうしよう!』と言った人間が、いざとなると正反対のことをしたりするものです。今し方申し上げたようにわしも陰謀に加担する以上は、切り捨てられたくはありませんからな。前王や摂政時代には謀のたびにそうされたものでしたが」

 グラモン公妃が皮肉った。「まさか何処にいるのかお忘れじゃありませんよね? アマゾンの国で大将を気取ってらっしゃるんですから!」

「お叱りを受けてしまいましたが、失礼ながらその地位を得る権利はあるものと思っております。あなたの方がデュ・バリー夫人を――いや、つい名前を言ってしまったが、聞こえなかったでしょうな? あなたの方がわしよりデュ・バリー夫人を嫌っているというのに、わしの方があなたより際どい立場にいるのですから」

「際どい立場ですか?」ミルポワ元帥夫人がたずねた。

「さよう、非常に際どい。わしは八日間ヴェルサイユを訪れておりません。昨日は伯爵夫人からアノーヴル邸に、具合が悪いのかと使いがあり、ラフテには、身体は悪くないが前日から戻っていないのだと答えさせてしまいました。だが権利など放棄しましょう、だいそれた望みもありません、大将の地位はお譲りしますよ、何ならここで。我々の心を動かした火付け役だ、あなたなら指揮杖で心に革命を起こせるでしょう」

「マダムたちがいらっしゃいますわ」公爵夫人は謙虚に答えた。

「あら、私たちは脇役で結構」マダム・アデライードが言った。「ルイーズに会いにサン=ドニに行くことにします。引き留められて戻っては来られないでしょうから、何か言う必要はありません」

「それで文句をつけるのは、よほどの根性悪でしょう」リシュリュー公爵が評した。

「私はシャントルーで干し草の用意を」とグラモン公妃。

「結構! 立派な口実です!」リシュリュー公が言った。

「子供が病気なので、世話をするため部屋から出られません」ゲメネー夫人はそう言った。

「今夜は頭がぼうっとしているので、明日トロンシャンに瀉血してもらわなくてはならないかもしれません」これはポラストロン夫人だ。

「私がヴェルサイユに行かないのは、行かないから行かないんです。自由意思が理由ですよ!」ミルポワ元帥夫人は厳かにそう言った。

「結構、結構。どれももっともらしいではありませんか。しかし誓う必要がある」

「誓うですって?」

「さよう、共謀には誓いがつきものです。カティリナの陰謀以来セラマレの陰謀――これにはわしも関わっておりましたが――そのセラマレの陰謀に至るまで、誓いが欠かされたことはありません。どちらの陰謀も失敗に終わってしまいましたが、しきたりに敬意を表して、誓いを立てましょう! 重大なことですぞ」

 婦人たちに向かって手を突き出し、厳かに誓った。

「誓います」

 婦人たちも誓いを繰り返したが、王女マダム王女たちだけはそっと立ち去った。

「さあお終いです。共謀の誓いを立てたからには、もうやることはない」

「ふふ! 広間に一人きりだとわかったら真っ赤になって怒るでしょうね!」グラモン夫人が言った。

「ふむ! 国王はわしらをしばらく追放するでしょうな」

「あら! 私たちが追放されたら、宮廷はどうなります……? デンマーク王陛下がいらっしゃったら、いったい何をご覧に入れるつもり? 王太子妃殿下がいらっしゃったら、いったい誰に紹介なさるというのかしら?」ゲメネー夫人が言い返した。

「宮廷中を追放する訳にはいかないんですから、誰かが貧乏くじを引くことになるのでしょうね」

「よくわかっておりますとも」リシュリューが答えた。「いつもいつも貧乏くじを引く幸運に恵まれて来ましたからな。もう四度も引いて来た。これが五回目の陰謀という訳です」

「そんなことは考えないで下さいまし」グラモン夫人が言った。「見捨てられるのは私ですから」

「或いはショワズール殿ですかな。お気をつけなさい!」

「ショワズールも私と一緒。失脚には耐えられても、侮辱には耐えられません」

「公爵も、公爵夫人も、ショワズール氏も、追放されたりはなさいませんわ」ミルポワ元帥夫人が言った。「あるとすれば私でしょう。伯爵夫人のことを侯爵夫人よりすげなく扱えば、陛下はお許しにならないでしょうから】」

「相違ない。寵姫ファヴォリットお気に入りファヴォリットと呼ばれたあなただ。残念だが元帥夫人! 揃って追放されようではありませんか!」

「追放される時はみんな一緒です」ゲメネー夫人が立ち上がった。「既に決まった取り決めを覆すようなことはありません」

「誓った約束を、ですぞ」

「それに、万が一の備えもしてありますから!」グラモン夫人が言った。

「あなたが?」とリシュリュー公爵。

「ええ。明日の十時にヴェルサイユにいるためには、三つのものが必要です」

「というと?」

「美容師、ドレス、四輪馬車」

「なるほど」

「どうでしょう?」

「なるほど! 伯爵夫人が十時にヴェルサイユにいなければ、国王は苛立って客を帰してしまう。王太子妃の到着も近いことから、認証式は無期延期になる」

 この新たな展開に拍手喝采が起こった。だがひときわ大きな拍手喝采を送りながら、リシュリュー氏とミルポワ夫人が目を交わしていた。

 二人の古参宮廷人の頭の中に、同じ考えが生じていたのだ。

 十一時、共謀者たちは、見事な月に照らされたヴェルサイユとサン=ジェルマンの路上に姿を消した。

 ところがリシュリューだけは馬丁の馬に乗っていた。四輪馬車がヴェルサイユの路上をこれ見よがしに走っている間、近道を通って全速力でパリに向かっていた。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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