翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 40-2 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 ションは心も魂もヴェルサイユの住人であったので、宮殿を離れて新鮮な空気を吸いに森や牧場に向かうのが楽しくて仕方がなかった。手足を伸ばして、町から出るや、ほとんど人が変わってしまった。

「ねえ! ヴェルサイユはどうだった、哲学者ちゃん?」

「凄いとしか言いようが。でももうヴェルサイユを出たんですよね?」

「ええそう、うちに向かってるの」

「あなたのお宅と仰ったんですか?」ジルベールのぶすったれた声が和らいだ。

「そう言ったつもり。ジャンヌに会わせようと思って。気に入られるように頑張ってね。今はフランス中の大貴族がそうしようと夢中なんだから。ところでグランジュさん、この子の服を一揃い用意してくれないかしら」

 ジルベールは耳まで真っ赤になった。

「どのような服にいたしましょう? 普通のお仕着せで構いませんか?」

 ジルベールは座席の上で飛び上がった。

「お仕着せですって!」憎しみのこもった目つきを家令に向けた。

「違うってば。そうね……後で言うわ。義妹に話したいことがあるし。だけどついでにザモールの服も注文するのだけは忘れないで」

「わかりました」

「ザモールは知ってる?」この話に驚いているらしいジルベールに声をかけた。

「いえ、残念ですが」

「あなたの同僚みたいなもの。もうすぐリュシエンヌの領主になるの。仲良くしてあげて。何だかんだ言ってもいい子だから。肌の色は関係ないわ」

 ザモールの肌が何色なのかたずねようとしたが、好奇心についての忠告を思い出し、再び小言を食らうのはご免だと、質問を飲み込んだ。

「頑張ります」と言って、威厳をたたえた微笑みを浮かべるだけでやめておいた。

 リュシエンヌに到着した。哲学者君はすべてを目にしていた。植樹されたばかりの道路、緑なす丘、ローマ時代のような大水路、葉の茂った栗の木、そして本館に向かって流れるセーヌ両岸を伴走する素晴らしい平野と森の景色。

「じゃあここが」とジルベールは独語した。「フランス中のお金を費やした城館だ、とタヴェルネ男爵が言っていたところか!」

 犬が喜び勇み、使用人がいそいそと駆け寄ってションに挨拶をしたために、ジルベールの貴族哲学的断想は中断された。

「もう帰って来た?」

「まだお戻りになりませんが、お客様がお待ちでございます」

「どなた?」

「大法官様、警視総監様、デギヨン公爵です」

「そう。急いで中国の間を開けて来て。義妹にはほかの人より先に会っておきたいの。戻って来たらあたしが待っていると伝えて頂戴、わかった? ああ、シルヴィー!」ションは小箱と子犬を預かりに来た小間使いか何かに声をかけた。「小箱とミザプーはグランジュさんに渡してね。それからこの哲学者ちゃんはザモールのところに連れて行って頂戴」

 シルヴィー嬢は辺りを見回した。ションの言っているのがどんな動物なのか確かめようとしたのだろう。だがシルヴィー嬢の視線とションの視線がジルベールの上でかち合ったところで、この若者のことよ、とションが目配せした。

「こちらに」シルヴィーが言った。

 ジルベールがぽかんとしながら小間使いについて行くと、ションの方は鳥のように軽やかに脇の扉から姿を消した。

 ションの言葉が命令調ではなかったために、ジルベールはシルヴィーを小間使いというよりむしろ貴婦人のように考えた。第一、服装もニコルのものよりはアンドレのものに似ている。シルヴィーはジルベールの手を取ってにこやかに微笑んだ。というのも、ションの話しぶりから言って、新しい恋人とは行かぬまでも新しい遊び相手だろうと察したからだ。

 シルヴィー嬢は、飲み込みが早く、背の高い美しい娘だった。目は濃い青、白い肌にはうっすらとそばかすが浮かび、燃えるように美しい金髪をしていた。口元は瑞々しくほっそりとして、歯は白く、腕はふくよかで、そのことがジルベールに以前の艶事を思い出させた。ニコルが話していたあの蜜月のことが、甘苦しい震えと共に甦っていた。

 ご婦人というものはその種のことに聡い。シルヴィー嬢もすぐに感づいて笑みを洩らした。

「お名前をお聞かせ下さいますか、ムッシュー?」

「ジルベールと申します」我らが青年は柔らかな声で答えた。

「ではジルベールさま、ザモール閣下のところにご案内いたします」

「リュシエンヌの領主ですね?」

「領主です」

 ジルベールは腕を伸ばし、袖口で服を拭い、ハンカチで手をこすった。重要人物の前に出るのかと思うと、怯みそうになる。だが「ザモールはいい子よ」という言葉を思い出して、心を落ち着けた。

 既に伯爵夫人とも子爵とも親しい。これから領主とも親しくなるのだ。

 ――宮廷では誰とでもすぐに親しくなれると陰口を叩かれるのだろうか? この人たちは親切でいい人じゃないか。

 シルヴィーが控えの間の扉を開けた。そこは私室とも見まがうほどで、羽目板の鼈甲には金張りの銅が嵌められ、古代ローマの将軍ルクルスのアトリウムかとも思われただろう。無論ルクルス家の象眼は純金であったが。綿の詰まった大きな肘掛椅子の上で足を組み、チョコレートをかじっているのが、ご存じザモール閣下だった。もっとも、ジルベールはまだそれを知らない。

 だから将来のリュシエンヌ領主の姿を目にして哲学者殿の顔に浮かんだのは、まことにけったいな表情であった。

「何だ?」ジルベールはその人物を冷たく見据えていた。黒ん坊を見るのは初めてだったのだ。「何だ? あれは何だ?」

 ザモールの方は頭を上げもせずに、相変わらず菓子をかじったまま、幸せそうに白目を回していた。

「ザモール閣下です」シルヴィーが答えた。

「あの人が?」ジルベールは唖然とした。

「そうですよ」シルヴィーはことの成り行きとは裏腹に笑って答えた。

「領主だって? この醜い猿がリュシエンヌの領主? からかってらっしゃるんでしょう?」

 この侮辱にザモールが身体を起こして白い歯を剥き出した。

「私は領主です、猿ではありません」

 ジルベールはザモールからシルヴィーに戸惑うような視線を移したが、堪えきれずに笑っているのを見て怒りを感じた。

 ザモールの方はインドの神像のように厳めしく泰然として、繻子の袋に黒い爪を戻してまたもぐもぐとやり出した。

 その時扉が開き、グランジュ氏が仕立屋を連れて入って来た。

 ジルベールを指さし、「この人の服です。説明した通りにサイズを測って下さい」

 ジルベールは無意識のうちに腕と肩をしゃちほこばらせ、シルヴィーとグランジュ氏は部屋の隅で話をしている。シルヴィーはグランジュ氏の言葉の一つ一つに声を立てて笑っていた。

「え、可愛い! スガナレルみたいなとんがり帽子なの?」

 ジルベールは続きを聞きもせず、出し抜けに仕立屋を押しやった。何があろうとこれ以上おままごとに付き合わされるのはご免だ。スガナレルとは何者か知らないが、名前といいシルヴィーの笑いといい、滑稽極まりない人物に決まっている。

「まあまあ」家令が仕立屋に言った。「乱暴はしないで。もう充分なのでは?」

「仰る通りです。それに、ゆとりを持たせれば破れませんしね。大きめに作ることにしましょう。」

 それからシルヴィー嬢、家令、仕立屋は部屋を出たため、ジルベールは黒ん坊と差し向かいで残された。相変わらず菓子をかじり、白目をぐりぐりと回している。

 田舎者の目にはあまりにも謎めいていた。タヴェルネにいる時以上に尊厳を踏みにじられたと悟った(と言おうか、悟ったと思っている)哲学者にとっては、あまりにも恐ろしく、あまりにも苦しかった。

 それでもどうにかザモールに話しかけてみた。きっとインドか何処かの王子なのだろう。クレビヨン・フィスの小説で読んだことがある。

 だがそのインドの王子は、答える代わりに鏡の前に行って自分の豪華な衣装を眺め始めた。まるで結婚式の花嫁だった。それから車輪付きの椅子に馬乗りになると、足で床を蹴り、控えの間を十周ほど回り出した。その速さを見れば、この独創的な遊びを究めるのにどれだけ練習を重ねたのか想像もつこうというものだ。

 突然ベルが鳴った。ザモールは椅子を放ったらかしにして扉の一つから駆け出して行った。

 ベルに対するその素早い反応を見て、ザモールは王子ではないのだとジルベールは得心した。

 ジルベールはザモールに続いてその扉から出て行くつもりだった。だがサロンに通じている廊下の端まで来ると、青や赤の紐が見え、図々しく横柄で出しゃばりな従僕たちが番をしていた。血管に震えが走り、額に汗が浮かぶのを感じながら、ジルベールは控えの間に戻った。

 こうして一時間が過ぎた。ザモールは戻って来ておらず、シルヴィー嬢は相変わらず姿を見せない。誰でもいいから人の顔が見たかった。よくわからないことを言って脅かしておいて仕上げに行った仕立屋の顔でもよかった。

 ちょうど一時間過ぎ、入って来る時に開けたのと同じ扉が開き、従僕が現れてこう言った。

「どうぞ!」

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ルナール日記 1905年2月13日

猫の影は虎のようだ。

『ジョゼフ・バルサモ』 40-1 「庇護者と被庇護者」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第四十章 庇護者と被庇護者

 ここらでジルベールの話に戻ろう。庇護者であるションが軽率な一言を発したことからわかる通り、逃げ出したのは確かだが、それっきりになっていた。

 フィリップ・ド・タヴェルネとデュ・バリー子爵がラ・ショセで決闘した際に庇護者の名前を知って以来、我らが哲学者君が庇護者に寄せる感嘆の念は急速に冷めていた。

 タヴェルネではよく生垣の中やトンネルの陰に隠れては、父と散歩するアンドレを執拗に追いかけていたから、男爵がデュ・バリー伯爵夫人について話すのも耳にしていた。意固地な信念を持った老タヴェルネのこと、そんな偏った憎しみがジルベールの心にも影響を及ぼしていた。父の口から聞かされるデュ・バリー夫人の悪口に、アンドレが反論しなかったことも大きい。それもそのはず、デュ・バリー夫人という名前はフランスでは軽蔑の的だったのである。斯かるが故に、ジルベールは男爵の主張をそっくり信じ込んでいたし、ニコルが「あたしがデュ・バリー夫人だったらなあ!」と叫ぶのを聞いてからはますますひどくなっていた。

 移動中、ションはあまりにも忙しく、気にしなければいけないことがあまりにも多すぎた。そのせいで、身元を知ってジルベールの機嫌が変わったことに気づけなかった。ヴェルサイユに着いた時にも、子爵がフィリップから受けた刀傷の件を、都合よく運ぶにはどうしたらいいか、名誉となるように転がせないか、そんなことばかり考えていたのである。

 ジルベールの方は、首都――フランスの首都とは言えぬまでも、少なくともフランス君主制の首都――に入るや、素直な感動に心を満たされ、悪い感情などすっかり忘れてしまった。ヴェルサイユは粛々として冷たく、聳える木々のほとんどは枯れるか老いて朽ちかかっていた。ジルベールの心が、侘びしいような敬虔な気持に打たれた。人間の努力が作りあげ、自然の力が生み出したこの大作を前にして、心乱されぬ者などあるまい。

 絶えて覚えたことのない感動に生来の驕りもへし折られ、驚きと感嘆に打たれてジルベールは束の間おとなしく神妙にしていた。貧しさと劣等感に打ちのめされていた。金や綬をつけた貴族たちの傍らでこんなみすぼらしい身なりをし、スイス人衛兵の傍らでこんなにもちっぽけで、鋲を打ったこの靴でモザイク張りの床やぴかぴかに磨かれた大理石の廊下を歩かなければならないことに愕然とした思いを抱いていた。

 何かを為すには庇護者に頼らざるを得ないだろう。ジルベールがションにぴったりと身を寄せたのは、自分が連れだということを衛兵にしっかり見せるためだった。だがそれこそションにすがるような行為なのだとしばらくしてから気づいて、自分が許せなかった。

 この物語の前半でお話しした通り、デュ・バリー夫人がヴェルサイユで過ごしている美しい部屋は、かつてマダム・アデライードが過ごしていた部屋である。金、大理石、香水、絨毯を前にしてジルベールは恍惚としていた。肉体は本能のままに酔わされ、思想は気の向くままに圧倒されていた。こうして驚異の念に打ちのめされていたために、自分がいつの間にかサージ張りの小さな屋根裏部屋にいて、ブイヨンと羊肉の余りとクリーム菓子を与えられ、それを運んで来た下男に主人面して「動くな!」と言われて姿が見えなくなるまで手をつけられずにいることに気づいたのも、かなり時間が経ってからだった。

 それでもなお、目をみはるような光景の末端が、ジルベールを虜にしていた。屋根裏に入れられたと書きはしたが、その屋根裏の窓からは、大理石像の飾られた庭園が見渡せた。緑のヴェールに覆われた水流の上には、手をつけられぬままの自然が、海の波のようにうねる木々の梢の向こうには、色とりどりの平野や隣り合った山々の青い稜線が広がっているのが見えた。その時ジルベールの頭に浮かんでいたのは、廷臣としてでも従僕としてでもなく、生まれに左右されることも卑屈になることもなく、ヴェルサイユという〈王宮〉で過ごしているということだけであった。

 ジルベールがささやかな食事を――とは言っても食べ慣れていたものと比べれば格段に違う食事を――取り、腹ごなしに窓越しの考えに耽っている間、ご記憶の通りションがデュ・バリー夫人のところにやって来て、ベアルン夫人との先の会談を果たしたことを耳打ちし、ラ・ショセの宿駅で兄に災難が起こったことを声にしていた。起こった時にはひどい騒ぎになったものの、さらに深刻な事態――国王の無関心――を飲み込んでしまうことになっていた深淵の中へと、この災難も飲み込まれ消えてしまうことになるのは、既にご存じの通りである。

 自分の理解力や野心を越える存在を前にして、ジルベールはいつものように空想に耽っていた。降りてくるようにションから言われたのはそんな時である。ジルベールは帽子にブラシをかけ、目の隅で自分の古着と従僕の新品を見比べた。お仕着せだとわかっていながら結局はそれを身につけて降りて行ったものの、出会った人間や目にした事物とはとても比べられないことがわかって、恥ずかしさで真っ赤になっていた。

 ションもジルベールと同時に中庭に降りて来た。ただし、ションは大階段を、ジルベールは避難梯子のようなものを使って。

 一台の馬車が待っていた。それは丈の低い四人乗りの無蓋軽四輪馬車ファエトンであった。ルイ十四世がモンテスパン夫人やフォンタンジュ夫人、時には王妃を乗せることもあった、かの歴史的馬車と同型のものである。

 ションが乗り込み、前部座席に腰を下ろした。大きな小箱と子犬も一緒だ。残り二つの座席にはジルベールと、グランジュ氏という家令が坐ることになった。

 ジルベールは上座に着こうとして、急いでションの後ろに席を取った。家令は文句も言わず、気にすら留めずに、小箱と犬の後ろに坐った。

『ジョゼフ・バルサモ』 第39章「コンピエーニュ」

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十九章 コンピエーニュ

 翌日、コンピエーニュは陶酔と熱狂のうちに目を覚ました。いやむしろ、一睡もしなかったと言うべきであろう。

 前日から国王親衛隊の前衛が、町で宿営に就いた。士官たちが持ち場を確認している間、有力者たちは台所番と協力して、来たるべき栄誉を迎え入れる準備をしていた。

 緑で覆われ、薔薇とリラで飾られ、ラテン語とフランス語とドイツ語で詩と文が書かれた凱旋門に、ピカルディの職員が日中までかかりきりだった。

 慣例に従い白い服を着た娘たち、黒い服を着た参事官たち、灰色の服を着たフランシスコ会修道士たち、もっとも豪華な服装をしていた聖職者、持ち場に就いたばかりで真新しい制服に身を包んだ駐屯部隊の兵士や士官たち、その誰もが、大公女到着の合図と共に歩き出す用意をしていた。

 前夜のうちに発っていた王太子は、夜十一時頃にはひそかに到着していた。弟二人も一緒だ。朝早くに馬に跨ったところは、一私人と言われても何ら違うところはなかった。十五歳のプロヴァンス伯と十三歳のダルトワ伯を引き連れて、王太子妃が現れるはずのリブクール方面の道に向かって、馬を走らせ出した。

 付言しておこう。この細やかな思いつきは若王子のものではない。傅育完ラヴァンギヨン(Lavanguyon)が、前夜ルイ十五世に呼び出され、これからの二十四時間必要となるであろう務めのすべてを生徒に教え込むよう命じられたのだ。

 そこでラヴァンギヨンは、君主制のさまざまな栄光を教え込む代わりに、ブルボン朝歴代の王たちの例しを話して聞かせた。アンリ四世、ルイ十三世、ルイ十四世、ルイ十五世は、未来の妻をその目で確かめることを望んだ。装身具もつけず、装いもままならぬ状態の妻を、路上で値踏みすることを選んだのである。

 疾駆する馬に乗って、半時間で三、四里を駆けた。出かける際には王太子は重苦しい面持ちで、弟二人は笑っていた。八時半には町に戻っていた。王太子は変わらず重苦しげだったが、プロヴァンス伯は不機嫌で、ダルトワ伯だけが早朝よりも機嫌が良かった。

 まったく同じものに対し、ベリー公は不安に駆られ、プロヴァンス伯は嫉妬に駆られ、ダルトワ伯は魔法をかけられていた。即ち王太子妃が美しいという事実に。

 それぞれの生真面目な性格、嫉妬深い性格、暢気な性格が、三人の顔にまざまざと浮かんでいた。

 コンピエーニュの市庁舎から十時の鐘が聞こえた時、クレーヴ村の鐘楼の上で、監視兵が白い旗を翻しているのが見えた。王太子妃が視界に入ったという報せだ。

 すぐに合図の鐘が鳴り、シャトー広場から放たれた砲声がそれに答えた。

 その合図だけを待っていたかのように、国王が八頭立ての四輪馬車でコンピエーニュに登場した。親衛武官が二重に取り囲み、後ろには臣下の馬車が無数に連なっている。

 国王を見たがる者たちと王太子妃を迎えに行きたがる者たちの群れを、近衛騎兵と竜騎兵が大急ぎで分けていた。一方にはまばゆさがあり、一方には関心があったのである。

 四頭立ての四輪馬車が一里ほどの距離を埋め尽くし、フランスでも有数の四百人の貴婦人と大貴族を運んでいた。馬丁に召使い、伝令に小姓が、この百台の馬車を護衛している。親衛隊の貴族は馬に跨って陣形を取り、馬が巻き上げる埃の中を、天鵞絨や黄金、羽毛や絹のようにきらきらと流れて行った。

 彼らはコンピエーニュで一休みしてから、並足で町を後にして目的地に向かった。マーニュの町にある路上に十字架が立てられているのだ。

 フランス中の若者が王太子を取り囲み、フランス中の老貴族が国王の周りに侍っていた。

 王太子妃の方は馬車を替えずに、時間を見計らいながら目的地に進んだ。

 二つの集団がついに合流した。

 馬車はあっという間に空っぽになった。いずれの貴族たちも降り立った。人が乗っているのは二台の馬車だけだった。一つには国王、もう一つには王太子妃。

 王太子妃の馬車の扉が開き、若き大公女が地面にふわりと飛び降りた。

 それから国王の馬車の方へ歩いて行った。

 ルイ十五世は嫁御を目にすると扉を開けていそいそと馬車から降りた。

 王太子妃は上手く間合いを取って歩いた。国王の足が地面に着いたと同時に、妃は跪いていた。

 国王は王女に口づけをして立ち上がらせると、優しく抱擁した。国王の眼差しに包まれて、王女は我知らず赤面していた。

「王太子です!」国王がマリ=アントワネットにベリー公を紹介した。王太子はまだ気づかれる前から、少なくとも公式に目を向けられる前から、妃の後ろに控えていた。

 王太子妃に優雅なお辞儀をされて、今度は王太子の方が赤くなった。

 王太子妃は二人の王子、三人の王女に淑やかに言葉を掛けた。

 紹介が進むにつれて、デュ・バリー夫人はじりじりしながら王女たちの後ろに立って待っていた。自分の番になったら? 無視されたら?

 三人目の王女マダム・ソフィーの紹介が終わると、誰もが息を呑んだように、ふっと間が空いた。

 国王は躊躇っているようだった。王太子妃は予め知らされていた新たな出来事を待っているようだった。

 国王は周りを見回し、伯爵夫人を見つけると、手を取った。

 すぐに人垣が引いて、国王は王太子妃と共に輪の中央にいることになった。

「デュ・バリー伯爵夫人、余の一番の友人です!」

「こんな素敵なご友人がいて陛下はお幸せでございます。情熱をかき立てられるのももっともだと存じます」

 誰もが驚きに打たれ、茫然として見つめ合った。王太子妃がオーストリア宮廷の指示に従い、恐らくはマリア=テレジア自身の言葉を繰り返しているのは、明らかだった。

 ここが自分の出番だ、とショワズールは直感した。そこで紹介に預かろうと前に出たが、国王は首を振って合図をした。太鼓が打ち鳴らされ、喇叭が吹き鳴らされ、大砲が轟いた。

 国王に手を取られて馬車に向かう王女が、ショワズールの前を通り過ぎた。口を聞くのは不可能だった。だが確かなことがある。手を動かすことも、頭を動かすことも、挨拶らしき身振りは何一つなかったということだ。

 王女が国王の馬車に乗り込むと、町の鐘がことのほか厳かに鳴るのが聞こえた。

 デュ・バリー夫人は嬉しそうに自分の馬車に戻った。

 国王が馬車に乗り、コンピエーニュの道に戻るまで、十分ほどの間があった。

 その間、敬意や昂奮で押し殺した声が、うなるように広がっていた。

 ジャン・デュ・バリーが義妹の馬車に近づいた。デュ・バリー夫人は微笑みを浮かべ、祝福の言葉を待っていた。

「ほら、ジャンヌ」子爵は、王太子妃のお付きの馬車の一つに向かって話しかけている騎士を指さした。「あの若い男が誰だかわかるか?」

「知らないわ。それより、陛下が紹介して下さった時、王太子妃が何と言ったと思う?」

「知るもんか。あの男はフィリップ・ド・タヴェルネなんだ」

「あなたを怪我させた人?」

「ああそうだ。それから、あいつが話しかけている別嬪がわかるか?」

「あの青白くてプライドの高そうな人?」

「ああ、国王が見ているだろう。王太子妃に名前をたずねている可能性が大だな」

「それで?」

「それで、だって? あれは奴の妹だ」

「ああ!」

「いいか、ジャンヌ。はっきりした理由がある訳じゃないが、兄がおれの敵であるように、妹はお前の敵になりそうな気がするんだ」

「冗談でしょう」

「いたって真面目さ。とにかくおれは奴の方を見張るつもりだ」

「じゃああたしは妹の方を」

「静かに! リシュリュー公だ」

 確かに、リシュリュー公が首を振りながら近づいて来た。

「ご機嫌如何?」伯爵夫人は飛び切りの笑顔でたずねた。「何だかご不満そうね」

「伯爵夫人、わしらは随分と重苦しく見えませんか? こうした喜ばしい状況の中では、陰気と言ってもいいくらいだと? かつて、同じくらい魅力的でお美しい王女様をお迎えしたことがありました。王太子のご母堂です。わしらは随分と騒いだものです。それもわしらが随分と若かったからなのでしょうか?」

「違いますぞ」公爵の後ろから声がした。「王権がそれほど老いてはいなかったからでしょう」

 この言葉を聞いて、誰もがおののきを感じた。公爵が振り返ると、優雅な物腰の老紳士が立っていた。厭世的な笑みを浮かべて、公爵の肩に手を置いている。

「おおまさか! タヴェルネ男爵ではないか。伯爵夫人、わしの旧友です。どうかお目をかけて下さいますよう。バロン・ド・タヴェルネ=メゾン=ルージュです」

「父親か!」ジャンと伯爵夫人は、お辞儀をしようと頭を下げながら、二人同時に呟いていた。

「馬車に! 馬車に!」親衛隊長が護衛に命じているのが聞こえた。

 老人二人は伯爵夫人と子爵に挨拶をしてから、久方ぶりの再会を喜んで、二人一緒に同じ馬車に向かって進んで行った。

「何てことだ! 一つ言ってもいいか? あの親父は息子娘と同じくらい気に入らんな」

「残念ね。ジルベールの小熊ちゃんに逃げられていなければ、何でも教えてもらえたでしょうに。男爵の家で育てられたんでしょう」

「ふん! また見つけるしかあるまい。今やれるのはそれくらいだ」

 馬車が動いたために会話はそこで途切れた。

 コンピエーニュの夜が明けた翌日、一つの時代の日没と新しい時代の日の出という二つの流れが、渾然一体となってパリを目指していた。大きく口を開いたその深淵は、やがて何もかもを貪り喰らうことになっていたのである。
 

 第39章完。

『ジョゼフ・バルサモ』 38-2「認証式」

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「まあ、お綺麗!」元帥夫人は礼拝しようとでもするように両手を合わせた。

 国王が振り返り、元帥夫人に微笑みかけた。

「あれは女性ではない」リシュリュー公が言った。「妖精だ」

 国王は微笑みを旧臣の許に送った。

 確かに、これほどまでに美しい伯爵夫人は見たことがなかったし、これほど甘美な表情を見せ、これほど心を高ぶらせ、これほど慎ましやかな目つき、これほど気高い姿、これほど洗練された足取りで、王妃の間――とは言っても、申し上げた通り、今は認証式の間――を感嘆に渦巻かせたことはなかった。

 魅力的な美しさ、豪華だがけばけばしくはなく、何よりもうっとりするような髪飾りに彩られたデュ・バリー夫人が、ベアルン夫人に先導されて歩いて来た。ベアルン夫人はひどい痛みにもかかわらず、足を引きずりもせず、眉をひそめもしなかった。だが頬紅が干涸らびた欠片となって剥がれ落ちるほどの苦しみに、顔からは血の気が引き、火傷した足をほんの少し動かすだけで筋の一本一本が軋みをあげて震えるほどだった。

 誰もがこの不思議な組み合わせに目を注いでいた。

 老婦人は若い頃に着ていたような襟の開いた服を着て、高さ一ピエの髪飾りをかぶり、落ち窪んだ大きな目を尾白鷲のように輝かせ、絢爛たる装いに骸骨のような足取りをしていて、まるで現代に手を伸ばした昔日の肖像画のようだった。

 干涸らびて冷やかな「威厳」が艶やかで慎ましやかな「美」を先導しているのを見て、多くの来賓は感嘆に、なかんずく驚きに打たれた。

 これはまた好対照だわい、と国王は感じた。ベアルン夫人が伯爵夫人の若さ、瑞々しさ、明るさを、これまでにないほど引き立てていた。

 こうしたわけなので、伯爵夫人が作法に従い膝を折り王の手に口づけをした時、ルイ十五世は夫人の腕をつかみ、二週間も前から苦しんでいた褒美にと、一言だけ声をかけて立ち上がらせた。

「なぜ跪くのです? 笑って下さい!……跪くのはむしろ余の方です」

 国王は儀礼通りに腕を広げた。だが抱擁の真似ではなく、今回は実際に抱擁を行った。

「あなたは素晴らしい代子をお持ちですよ」とベアルン夫人に声をかけた。「もちろん、伯爵夫人も立派な代母をお持ちだ。また宮廷でお目にかかれるとよいですね」

 老婦人は深々とお辞儀をした。

「娘たちに挨拶を」と国王はデュ・バリー夫人に囁いた。「ちゃんとお辞儀の出来るところを見せておやりなさい。娘たちもきっと心を尽くしてくれるでしょう」

 二人の婦人は、歩むに従い広く空けられる道を通って前に進んだ。だがそれを見つめる人々の目の光は激しい炎に満ちていた。

 三王女は近づいて来るデュ・バリー夫人を見て、バネのように立ち上がって待ちかまえている。

 ルイ十五世はじっと見つめていた。〈マダム〉たちに目を注ぎ、礼儀正しくしろと訴えていた。

 作法の教えるところより深々と頭を下げたデュ・バリー夫人に、心を動かされたようにしてマダムたちはお辞儀を返した。デュ・バリー夫人の見事な手際に王女たちも心を打たれ、国王同様に心から抱擁を与えているのを見て、国王も満足げだった。

 こうして、伯爵夫人の立身は勝利に終わった。ぐずぐずしている者や手際の良くない者たちは、祭りの女王に挨拶するのに一時間は待たなければならなかった。

 祭りの主役は驕りもせず腹も立てず不平も言わず、どんなおべっかも受け入れ、あらゆる不実をも忘れてしまったようだった。懐の広い人間を演じていた訳ではない。心は喜びに満ちあふれ、憎しみの入り込む余地などなかった。

 リシュリューはだてにマオンの勝者ではなかった。上手く立ち回る術を心得ていた。当たり前の廷臣たちが挨拶の終わるまでその場に留まり、言祝ぐべきか貶すべきかで謁見の結果を待っている間、リシュリュー元帥はとうに伯爵夫人の椅子の後ろに陣取っていた。それはあたかも騎兵の先駆けが、旋回点で縦列展開の用意をするため百トワーズ地点に突っ立っているかの如きであった。リシュリュー公は人波に押しつぶされることなくデュ・バリー夫人の傍らに位置することが出来た。ミルポワ夫人としてもリシュリュー公が戦争で勝ち得て来た幸運を承知していたため、公爵のやり方を真似て伯爵夫人の側にある腰掛けに少しずつ近づいていた。

 グループごとにお喋りが始まり、デュ・バリー夫人の人となりがふるいに掛けられた。

 王の愛情とマダムたちの歓待と代母の支えに励まされて、伯爵夫人は王の周りに侍る貴族たちを力強く見渡し、自分の立場を確認してから婦人たちの中に敵を探した。

 人影が視界を遮った。

「まあ、公爵さま。あなたにお会いするためにここに来なくてはならなかったんですよ」

「何ですと?」

「ええ、だって八日の間、ヴェルサイユでもパリでもリュシエンヌでもお目に掛かれなかったじゃありませんか」

「今晩ここでお目に掛かれると心得ておりましたもので」

「こうなるとわかってらしたのね?」

「確かに」

「まあ! 本当に、何て方かしら! それを知っていながら教えてくれないなんて。あたくしはちっとも知らなかったのに」

「どういうことですかな? ご自分がここにいらっしゃることがご自身にはわからなかったというのですか?」

「ええそう。道で役人に捕まったイソップみたいだったわ。『何処に行く?』と役人がたずねた。『わかりません』とイソップは答えた。『ほう? では牢屋に行くことになるぞ』『おわかりいただけましたか。何処に行くのかわたしにはわからなかったことが』。それと同じで、気持だけはヴェルサイユに向かっていましたのに、行けるかどうかはっきり断言は出来ずにいたんです。そういうわけですから、あなたが会いに来て手伝って下さっていたなら……なのに……今ごろ会いにいらっしゃるんですものね?」

 リシュリューは当てこすりにも慌てた様子はなく、「ここにおいでになれるかはっきりしなかったとは、どうした訳でしょうか」

「申し上げましたわ。罠に嵌められてしまったんですもの」

 伯爵夫人にねめつけられたものの、公爵は平然と見つめ返した。

「罠ですと? どういうことです、伯爵夫人?」

「まず、美容師が攫われました」

「美容師が?」

「ええ」

「何故知らせて下さらなかったのです。そうすれば――いや失礼、声を落としましょう――デグモン夫人が手に入れた真珠や宝石を届けて差し上げましたし、かつら師や王室美容師の中でも最高の美容師、レオナールを遣わしたでしょうに」

「レオナールですって!」デュ・バリー夫人が声をあげた。

「さようです。セプティマニーの髪を整えている若者で、アルパゴンが金を隠したように秘蔵しているのですが、とはいえ残念だったとは申せませんな。何しろ素晴らしい髪ですぞ、見とれてしまいます。それにしても不思議なものですな、デグモン夫人が昨日ブーシェに頼んだデッサンにそっくりだ。あれも具合が悪くなければ、こういう髪型にしようと考えていたようですが。セプティマニーも可哀相に!」

 伯爵夫人は震えながらもさらに強く公爵を見つめた。だが公爵は微笑みを浮かべたまま動じなかった。

「失礼、お話の途中でしたな。罠と仰いましたか?」

「そうです。美容師を攫った後は、あたくしのドレスを盗んで行ったんです」

「ふうむ! それはひどい。しかし何だかんだ言っても、盗まれたドレスなしで問題なかったのですな。見たところ見事なドレスをお召しのようだ……それは花を縫いつけた中国製の絹ではありませんか? 何ですな! わしに一言、困っていると伝えてくれさえしたら――今後はそうしていただかなくてはなりませんが、そうしてくれれば娘が認証式用に作らせていたドレスをお送りいたしましたものを。それと同じような、否、まったく同じと言っていいでしょう」

 デュ・バリー夫人はリシュリュー公の両手を握った。苦境から引っ張り上げてくれた魔法使いが何者なのかわかりかけて来たのだ。

「あたくしがどんな馬車に乗ってここまで来たのかご存じですか?」

「知りませんが、ご自分の馬車なのではありませんか」

「あたくしの馬車は奪われてしまったんです。ドレスや美容師と同じように」

「では大がかりな策略でしたか? ここへはどんな馬車で?」

「その前に、デグモン夫人の馬車の特徴を教えていただけません?」

「そうですな、確か、今夜のことを考えて、白繻子の内張りをした馬車を注文しておりました。ところが紋章を描く時間がありませんでした」

「やっぱり。薔薇なら紋章よりも早く描けるもの。リシュリュー家とデグモン家の紋章は複雑だから。公爵、あなたって素晴らしい方ですわ」

 デュ・バリー夫人は、暖かく薫る顔つきのリシュリュー公に両手を差し出した。

 リシュリュー公は口づけを浴びせられながら、デュ・バリー夫人の手が震えていることに気づいた。

「どうしました?」周りを気にしながらたずねた。

「公爵……」伯爵夫人の目に戸惑いが浮かんでいた。

「さあどうしたんです?」

「ゲメネー殿の側にいるのは、どなたですか?」

「プロイセンの軍服の方ですかな?」

「ええ」

「褐色の肌、黒い瞳、力強い顔つきの人ですな? プロイセンの国王陛下が認証式を祝福するために遣わした将校ですよ」

「どうか笑わないで下さい。あの方は三、四年前にフランスに来たことがあります。あたくしは二度と会うことが出来ませんでした。いろいろなところを探したのに。あの方を存じ上げているんです」

「見間違いではありませんか。あの方はフェニックス伯という外国人で、つい二、三日前に来たばかりですぞ」

「あんなふうにあたくしを見ているじゃありませんか!」

「みんなあなたを見ておりますよ。非常にお美しいですから!」

「お辞儀をしたわ、お辞儀をしたでしょう?」

「誰だってお辞儀はしますとも、伯爵夫人。とっくにし終わったのなら別ですが」

 だが伯爵夫人は異常な昂奮に駆られていたために、公爵の言葉も耳には入らなかった。目は魂を抜かれたように釘付けになり、心ならずもリシュリュー公から離れ、その人物の方へと一歩二歩と踏み出していた。

 伯爵夫人から目を離さずにいた国王がこれに気づいた。どうやらおとなしくしているのに飽きたのだな、かなりのあいだ作法を守って離れていたのだからと思い、祝福の言葉をかけようと近づいた。

 ところが伯爵夫人は気がかりで頭がいっぱいで、ほかのことは考えられなかった。

「陛下、ゲメネー殿に背中を向けているプロイセンの将校はどなたでしょう?」

「あそこに見える人かな?」ルイ十五世がたずねた。

「そうです」

「力強い顔つきをして、金の襟からがっしりした首が覗いている人だね?」

「ええ、その通りです」

「プロイセン王の信任状を持っている人だよ……王のような哲学者だ。今夜、招待しておいたのだ。プロイセンの哲学者に、代理を通してペチコート三世の勝利を祝ってもらおうと思ってね」

「名前は何と仰いますの?」

「確か……」国王はしばし考えて、「ああ、そうだ。フェニックス伯だ」

「あの人だわ!」デュ・バリー夫人が呟いた。「あの人だ、間違いない!」

 まだほかにも質問があるかとしばらく待っていたが、デュ・バリー夫人が黙り込んだままなのがわかった。

「ご婦人方」国王は声を高めた。「明日、王太子妃がコンピエーニュに到着する。正午に妃殿下をお迎えすることになる。招待されているご婦人は一人残らず出席して欲しい。もちろん病気の方は別だ。出かけるには体力もいるだろう。王太子妃は容態が悪化するのを望んではおらぬ」

 国王は話している間中、厳しい目つきでショワズール、ゲメネー、リシュリューを睨んでいた。

 国王の周りに恐ろしい沈黙が訪れた。王の言葉の意味はわかりすぎるほどわかった。それは失脚を意味していた。

「陛下」側から離れなかったデュ・バリー夫人が声をかけた。「どうかデグモン伯爵夫人にはお慈悲をお掛け下さい」

「それはまた何故かね?」

「あの方はリシュリュー公爵のご息女で、リシュリュー公爵はあたくしの一番大切な友人ですから」

「リシュリューが?」

「その通りです」

「そなたが望むのであれば」国王はリシュリュー元帥に歩み寄った。

 リシュリューは伯爵夫人の口唇の動きを見逃さなかった。さすがに聞こえはしなかったものの、口にしたことに察しをつけることは出来た。

「さて公爵、デグモン夫人は明日には快復しそうなのでは?」

「もちろんですとも。陛下が望まれれば、今晩にも快復いたしましょう」

 リシュリューは敬意と感謝を一緒くたにさせたように、深々とお辞儀をした。

 国王は伯爵夫人の耳元に口を近づけ、小声で囁いた。

「陛下――」伯爵夫人の答えには、敬意に加えて可愛らしい微笑みのおまけまでついていた。「あたくしは陛下の忠実な臣下でございます」

 国王は一同に手で挨拶をしてから、部屋に退がった。

 国王がサロンの外に足を踏み出した途端、伯爵夫人の目はあの人物のところにまたも吸い寄せられていた。かつて味わったこともないほどに怯え、ひどい不安を刻みつけられていた。

 件の男は国王が通り過ぎる際には皆に倣って頭を下げた。だが頭を下げながらも、男の顔には尊大な、脅しとも取れるような奇妙な表情が残されていた。やがて国王の姿が見えなくなると、男は人混みを掻き分け、デュ・バリー夫人から二歩ほど離れたところまで来て立ち止まった。

 伯爵夫人の方でも好奇心に打ち勝てず、一歩前に出た。この結果、男は頭を下げ、誰にも聞かれぬように小声で話すことが出来るようになった。

「お会いしたことがありましたね?」

「ええ、あなたはルイ十五世広場であたくしに予言をなさいました」

 すると男は澄んだ鋭い瞳を向けた。

「残念ながら、嘘を申してしまいました。あの時の予言では、あなたはフランスの王妃になるはずでしたね?」

「とんでもない、予言は成就いたしましたわ。いずれにしても成就したようなものです。あたくしの方は約束を守る用意は出来ています。さあ、望みを仰って下さい」

「場所がまずい。それに、望みを叶えるには時が至っておりません」

「時が至った場合に備えて、望みを叶える用意はしておきましょう」

「いつの時でも、どんな場所でも、どんな時間でも、あなたにお会いすることは出来るのでしょうね?」

「お約束いたします」

「ありがとうございます」

「ところで、何というお名前でお取り次ぎなさいますの? フェニックス伯でしょうか?」

「いいえ、ジョゼフ・バルサモという名で」

「ジョゼフ・バルサモ……」伯爵夫人が繰り返している間に、男は人混みの中に消えていた。「ジョゼフ・バルサモ! いいでしょう! 覚えておくわ」

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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