アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
「ルソーはラテン語が出来るのでしょう?」
「ひどいものですよ」
「でも新聞で読んだのですが、タキトゥスという昔の作家を翻訳していますよね」
「思い上がりですよ! どんな人間も自惚れることがあるものですが、ルソーもあらゆることに取り組みたいと思い上がったんです。ですが本人も第一巻(翻訳したのはそれだけでしたが)の序文で言っています、ラテン語は苦手だし、タキトゥスは手強い相手なのですぐにうんざりしてしまう、と。いえいえ、あなたには悪いが、ルソーも万能ではありません。虎の威を借る狐とよく言うでしょう。どんな小さな川でも嵐になれば溢れて、湖のように見えるものです。ですが船を進めようとしてご覧なさい、すぐに座礁してしまいますよ」
「つまりあなたに言わせると、ルソーはうわべだけの人間だと?」
「そうです。恐らく他人よりはちょっとばかりうわべが厚く見えるだけですよ」
「うわべでもそのくらいになれれば上出来なのではありませんか」
「当てつけでしょうか?」先ほどジルベールを落ち着かせたのと同じように穏やかだった。
「とんでもありません! あなたのお話はとても楽しく、ご不快にさせるつもりなんてありません」
「ですが、わたしの話の何処が良かったのですか? パンとさくらんぼのお礼にお世辞を言っているわけではないのでしょうし」
「その通りです。お世辞なんか絶対に言うもんですか。偉ぶりもせず、親切に、子供扱いせず一人の若者として話してくれたのはあなたが初めてでした。ルソーについては意見が食い違っていますけれど、ご親切に隠された気高さに心が打たれました。あなたとお話ししていると、自分がまるで満ち足りた部屋の中にいるみたいです。鎧戸は閉まっていて、真っ暗なのに満ち足りているのはわかるんです。あなたがその気になれば話の中に光を射し入れて、僕の目を眩ませるんです」
「ですがあなたの方だって、その周到な話しぶりを聞けば、ご自身で仰るほど教養がないとは信じられませんよ」
「こんなのは初めてのことで、こんな言葉遣いが出来たことに自分でも驚いています。何となくしか意味はわからないし、一度耳にしたことがあったので使ってみただけなんです。本で読んだことはありますが、意味なんてわからなかった」
「そんなに読んだのですか?」
「何冊も。でもまた読み返すつもりです」
老人は目を見張った。
「手に入る本はすべて読んでしまいましたから。いえ、良い本だろうと悪い本だろうとただただ貪っていたんです。どの本を読めばいいのか教えてくれる人なんていませんでしたから。何を忘れて何を覚えればいいのかなんて、誰も教えてくれませんでした!……ごめんなさい、あなたのお話が面白かったからといって、僕の話もそうだなんて思ってはいけませんね。植物採集をしていらっしゃったのに、お邪魔してしまいました」
ジルベールは立ち去ろうとする素振りを見せたが、本音では引き留めて欲しがっていた。老人は小さな灰色の瞳でジルベールを射抜き、心の底まで見透かしているようだった。
「そんなことはありませんよ。もう箱は一杯ですし、苔はもう要りません。この辺りには美しい蓬莱羊歯が生えていると聞いたのですが」
「待って下さい。羊歯ならさっき岩の上で見たような気がします」
「遠くでしょうか?」
「いえ、五十パッススくらいのところです」
「ですがどうしてそれが蓬莱羊歯だとわかるのですか?」
「僕は森の生まれです。それに、僕がお世話になっていた家のお嬢様は植物学の趣味もありました。標本の下にはお嬢様自身の手で植物の名前が書いてありました。僕はよくその植物と名前を眺めていたので、さっき見たのが、標本には岩苔と書かれてあったアジアンタムのことではないかと思ったんです」
「では植物学に興味がおありなのですか?」
「興味があるかですって? ニコルから話を聞いた時――ニコルというのはアンドレ嬢の小間使いなのですが――お嬢様がタヴェルネの近くで何かの植物を探していたけれど見つからなかった、という話を聞いた時、その植物の形を教えて欲しいとニコルに頼んだんです。するとアンドレは、頼んだのが僕だとは知らずに簡単な絵を描いてくれることもありました。ニコルはそれをすぐに持って来てくれたので、僕は野原、牧場、森を駆けずり回って、その植物を探しました。見つかったら鋤で引っこ抜いて、夜中に芝生の真ん中に植え直しておきました。そうしたらある朝、散歩中にアンドレが声をあげて喜んだんです。『何て不思議なのかしら! ずっと探していた植物があんなところに』」
老人は今まで以上にジルベールをじっと見つめた。ジルベールも自分の言ったことに気づいて真っ赤になって目を伏せたりしなければ、老人の目に宿っているのが興味だけではなく溢れる愛情であることがわかったはずだ。
「そうですか! 植物学の勉強を続けなさい。きっと医者への近道になるはずです。主は無駄なものなど何一つお作りになりませんでしたから、どんな植物もいずれ科学書で解説されるようになるでしょう。まずは薬草の違いを覚えて下さい、それから一つ一つ薬効を覚えるんです」
「パリには学校があるんですよね?」
「無料の学校だってありますよ。例えば外科学校は当世の恩恵の一つです」
「そこの講義を受けます」
「簡単なことです。きっとご両親もあなたの気持を知れば生活費は出してくれますよ」
「両親はいません。でも大丈夫です。自分で働きますから」
「そうですね。それにルソーの作品を読んだのでしたら、どんな人間も――君主の息子であろうと――手に職をつけるべきだというのはおわかりでしょうし」
「僕は『エミール』は読んでないんです。その箴言は『エミール』に書かれているんですよね?」
「ええ」
「タヴェルネ男爵が今の箴言を馬鹿にして、我が子を指物師にせずに残念だわいと言っていたのを耳にしたことがあるんです」
「ご子息は何になったのですか?」
「将校に」
老人は微笑みを浮かべた。
「貴族はみんなそうです。子供に生きる手だてを教えずに、死ぬための手だてを教えるんですから。ですから革命が起きて追放されれば、他人に物乞いをしたり剣を売ったりするほかない。ひどいことです。ですがあなたは貴族の息子ではないのですから、出来る仕事があるのでしょう?」
「初めに言ったように、僕は何も知らないんです。それに、実は、身体を激しく動かすきつい仕事はひどく苦手で……」
「すると、あなたは怠け者でしたか――」
「違います! 怠け者なんかじゃありません。力仕事ではなく、本を下さい、薄暗い部屋を下さい。そうすれば、僕が選んだ仕事に昼も夜も全力を尽くしているかどうかわかるはずです」
老人はジルベールの白く柔らかい手を見つめた。
「好き嫌い、勘。選り好みがいい結果を生むこともあります。ですがそれにはちゃんとした道筋が必要です。どうです、中学校は出ていなくとも、せめて小学校に行ったことは?」
ジルベールは首を振った。
「読み書きは出来るのでしょう?」
「母が死ぬ前に読みを教えてくれてました。僕の華奢な身体を見て、母はいつも言っていました。『労働者にはなれそうもないね。僧侶か学者になるといい』と。勉強を嫌がると、『読みを覚えなさい、ジルベール。木を伐ったり鋤を持ったり石を磨いたりはしないことだ』と言われました。だから学んだんです。生憎、母が死んだ時にはやっと読めるくらいでしたけれど」
「では書取は誰から教わったのですか?」
「独学です」
「独学?」
「ええ、棒を削って、砂を濾して表面を均して。二年間、複製でもするように一冊の本を書き写しました。ほかの字体があることも知らないまま、ようやく真似ることが出来るようになりました。それが三年前、アンドレが修道院に入ってしまったんです。数日ぶりに、配達夫が父親宛のアンドレの手紙を僕に言伝てた時でした。そこでようやく、活字体とは別の字体があることを知りました。タヴェルネ男爵が封を破って封筒を捨てたので、僕はその封筒を拾って大事に仕舞っておいて、次に配達夫がやって来た時に宛先を読んでもらったんです。それにはこう書かれてありました。『ムッシュー・ド・タヴェルネ=メゾン=ルージュ男爵宛、男爵居城、ピエールフィット経由』。
「その文字の一つ一つと、対応する活字体を照らし合わせて、三つを除けばどのアルファベットも二本の線で出来ていることに気づいたんです。そこでアンドレの書いた文字を書き写しました。一週間後には、この宛名を一万回は書いたでしょうか、書取を身につけました。ある程度は書けるようになりましたし、どちらかというと悪い方ではないと思います。だから。だから僕の望みはそれほど大それたものではないはずです。だって文字は書けるし、手に入った本はすべて読んでいるし、読んだことはすべて繰り返し考える努力はしています。僕の筆が必要な人や、僕の目が必要な盲人や、僕の口が必要な唖者が見つからないとも限らないでしょう?」
「忘れてやいませんか、主人を持つことになるんですよ、主人嫌いのあなたが。書記や朗読係だって第二身分の召使いなんです」
「そうですね……」ジルベールは青ざめて呟いた。「でもそのくらい。絶対に上を目指すんです。パリの舗石を運びます、必要なら水を運びます。成功しようと途中で死のうと、どっちにしたってそれまでには目的を達成するんだ」
「まあ、まあ。見たところどうやら熱意と勇気はあるようですね」
「とても親切にしていただきましたが、でもあなただって、お仕事に就いていらっしゃるんでしょう? 財政家のような服を着ていらっしゃいますが」
老人は穏やかで翳のある微笑みを見せた。
「確かにある職業に就いています。人は何かをやらなくてはなりませんからね。ですが財政とは何の関係もありません。財政家は植物なんて採りませんよ」
「お仕事で集めていたのですか?」
「そのようなものです」
「貧しいのでしょうか?」
「ええ」
「与えるのは貧しき者たちと言うじゃありませんか! 苦しいからこそ智恵を授かったのも事実ですし、ためになる助言がルイ金貨より貴重なのも事実です。だからどうか助言を与えて下さい」
「与えるのは助言だけでは足りないのではないでしょうか」
ジルベールは笑みを浮かべた。
「そうでしょうか」
「生活費にどのくらい必要だと思いますか?」
「たいしてかからないでしょう」
「パリのことをまったく知らないようですね」
「昨日リュシエンヌの高台から見たのが初めてです」
「では大都市で暮らすのにどれだけお金がかかるか知らないのですね?」
「だいたいどのくらいでしょうか……? 比率を教えて下さい」
「いいでしょう。例えば地方で一スーかかるとしたら、パリでは三スーかかります」
「そうですか……じゃあ働いた後に休む場所のことを考えたら、一日当たり六スー必要なんですね」
「さあ、だからわたしは人間が好きなんです。一緒にパリにいらっしゃい。暮らしていけるだけの仕事もお世話してあげますよ」
「いいんですか!」ジルベールは喜びに酔いしれた。すぐに改めて確認した。「実際に働くようになれば、それは施されているのとは違いますよね?」
「もちろんですよ。安心なさい、わたしは人に施しを与えるほど裕福ではありませんから。手当たり次第に施しを与えるほど頭がおかしくもありませんしね」
続く。