翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 44-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「もうすぐですよ」この質問のせいで老人をさらに陰鬱にさせてしまったようだった。

 二人はフール通りのソワッソン邸の前を通り過ぎた。建物も玄関も通りに面していたが、その壮麗な庭園はグルネル通りやドゥー・ゼキュ通りにまで広がっていた。

 教会の前を通りかかった時、ジルベールはその美しさに打たれ、しばし立ち止まって見とれて。

「綺麗だなあ」

「サン=トゥスターシュ教会(Saint-Eustache)です」

 老人はそう言って見上げると、「もう八時ですか! 急ぎましょう、さあ早く」

 大股で歩き出した老人の後をジルベールも追った。

「言い忘れていましたが――」あまりにも無言が続いたためにジルベールが不安になりだした頃、老人が口を開いた。「わたしには妻がいます」

「えっ!」

「家内は正真正銘のパリっ子パリジェンヌなのですが、遅くなると口うるさいんです。それから、家内は初めて見る人間にはよそよそしいことも覚えておいて下さい」

「出て行けということですか?」ジルベールはこの言葉に縮み上がった。

「違います、違います。こちらから招待したんですから、どうぞいらっしゃい」

「ではお邪魔します」

「ここを右に、それからこちら、さあここです」

 ジルベールが目を上げると、翳りゆく陽射しの下で、その場所の角、食料品店の上に、「プラトリエール通り(Rue Plastrière)」と書かれてあるのが見えた。

 老人はなおも足取りをゆるめないどころか、家に近づけば近づくほど、それまでにも増して大きく動揺していた。見失うまいとしてジルベールは、通行人、行商人の荷物、四輪馬車や二輪馬車の轅にぶつかった。

 老人はジルベールのことをすっかり忘れてしまったようだった。せかせかと歩きながら、明らかに気がかりな考えに囚われていた。

 やがて老人は上部に鉄格子のついた入口の前で立ち止まった。

 穴から出ている紐を引くと、扉が開いた。

 老人は振り向いて、戸口でぐずぐずしていたジルベールを見た。

「早くいらっしゃい」

 そう言って扉を閉めた。

 すぐ先は暗がりになっており、ジルベールは一歩踏み出しただけで暗く急な階段にぶち当たった。歩き慣れている老人はとっくに何段も上にいた。

 ジルベールは老人に追いつき、老人に倣って階段を上り、立ち止まった。

 そこは擦り切れたマットの敷かれた踊り場で、目の前に二枚の扉があった。

 老人が呼び鈴の握りを引っ張ると、室内で甲高い音が鳴り響いた。スリッパの足音がのろのろと聞こえ、ガラスの付いた扉が開いた。

 五十代前半の女性が戸口に現れた。

 不意に二つの声が混じり合った。一つは老人のもの、もう一つは戸口から現れた女性のものだ。

 老人がおずおずと口を開いた。

「遅くなってしまって、テレーズ」

 女性がぶうぶうと文句を言った。

「夕飯くらい時間通りに取りましょうよ、ジャック!」

「この埋め合わせはするよ」老人はいたわしそうに口にすると、扉を閉めてジルベールの手からブリキの箱を預かった。

「荷物持ちとはね! 結構なことじゃないの。薬草を運ぶのに自分の手をわずらわすことも出来なくなったなんてねえ。ムッシュー・ジャックが荷物持ちを連れて歩くなんて! 立派になったもんだね!」

 ジャック氏と呼ばれてたしなめらた老人は、じっと堪えて暖炉の上に植物を並べながら答えた。「ねえ、少し落ち着こう、テレーズ」

「せめてお金を払うなり追い返すなりしておくれ。ここにスパイはいらないよ」

 ジルベールは死んだように真っ青になって扉をくぐりかけたが、ジャック氏に止められた。

 ジャック氏がきっぱりと告げた。「この人は荷物持ちでも、ましてやスパイでもないんだ。わたしが連れてきた客人だよ」

 老婦人の手がだらりと下がった。

「お客さんですって! お客さんとは恐れ入ったよ!」

「さあテレーズ」老人の声に柔らかさが戻ったが、どことなく威圧的なところも感じられるようになっていた。「蝋燭を灯して。暑かったので喉が渇いた」

 老婦人は初めこそはっきりと聞こえるようにぶつぶつと呟いていたが、そのうち声は小さくなった。

 老婦人は火打ち石を手に取り、火口の詰まった箱の上で打ちつけた。すぐに火花が散り、箱中に火が燃え上がった。

 会話が続いている間も、その後に囁きと沈黙が訪れてからも、ジルベールはじっとしたまま口も利かず、扉の側で固まったまま、戸口を跨いだのを後悔し始めていた。

 ジルベールが困っていることにジャック氏が気づいた。

「どうぞお入り下さい、ジルベールさん」

 夫がやけに丁寧な口を利いている人物をよく見ようとして、老婦人はその若く陰気な人物を振り返った。そのため、銅製の燭台の上で燃え始めたばかりの乏しい蝋燭の光の中で、ジルベールは老婦人を見ることが出来た。

 皺の刻まれた赤らんだ、ところどころに悪意の滲んだ顔。目つきは快活というよりは激しく、激しいというよりは淫乱だった。品のない顔には表向き優しそうな表情が浮かんでいたが、その顔つきは声や応対を裏切っており、ジルベールは一目で激しい嫌悪を抱いた。

 老婦人の方でも、ジルベールの青白くて弱々しい顔や、用心深く押し黙っているところや、ぎこちない様子がまるで気に入らなかった。


 続く。

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エミリー・ディキンソン 1095

朝を夜に代える者にとりては、
夜こそ真夜中――なれ!

『ジョゼフ・バルサモ』 43-4・44-1

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「よかった」ジルベールはこの厭世家の冗談に傷つくどころか心が軽くなった。「僕が好きなのは言葉です。お世話になります、お礼の言いようもありません」

「それでは一緒にパリに来ることは決まりですね?」

「はい、そうしていただけるのなら」

「もちろんですよ、こちらからお願いしたんですから」

「絶対にしなくてはならないことはありますか?」

「何も……働くだけで結構です。それに、どれだけ働くかを決めるのはあなた自身です。あなたには若々しくする権利がある。幸せでいる権利や自由でいる権利……それに暇を見つけて何もしない権利だってあるのですから」

 老人は心ならずといった微笑みを浮かべてから、空を見上げた。

「ああ、若さ! 力! 自由!」そう言って溜息をついた。

 この言葉の間、線が細く整った顔立ちに何とも言えぬ翳りが広がっていた。

 やがて老人は立ち上がって杖に凭れた。

「それでは」とようやく明るさを取り戻して言った。「今後のことも決まったのですから、よければもう一箱分植物を集めませんか? ここに灰色紙がありますから、初めに集めた分を分類しておきましょう。それはそうと、もうお腹は空いていませんか? まだパンは残っていますよ」

「お昼に取っておきませんか」

「さくらんぼだけでも食べて下さい。かさばってしまいますから」

「そういうことでしたらいただきます。だけど箱は僕がお持ちします。そうすれば楽に歩けるでしょうし、僕はこういうのに慣れているせいで無理をさせてしまうかもしれませんから」

「しかしまあ、あなたは幸運の使者ですよ。あそこに見えるのは髪剃菜picris hieracioïdesじゃありませんか。朝からずっと探していたというのに。それに足許、気をつけて! 牛繁縷cerastium aquaticumです。駄目です、抜かないで! まだまだ勉強することがありますよ。一つには摘むには湿り過ぎていますし、それにまだそれほど大きくないでしょう。午後の三時に戻って来た頃にコウゾリナpicris hieracioïdesを摘みましょう。ウシハコベcerastiumの方は一週間後に摘みに来ましょう。それに、採取する前に友人の学者に見せてやりたいんです。その友人にはあなたのことをお願いするつもりなのですがね。それはそうと先ほどお話ししていた場所に案内してもらえますか。きれいな蓬莱羊歯アジアンタムがあったのは何処ですか」

 ジルベールは先に立って歩き出した。老人がそれを追い、二人は森の中へ姿を消した。


第四十四章 ジャック氏

 絶望の真っ直中にこうして支えを見つけてくれた幸運に喜びながら、ジルベールはずんずんと前を歩き、時折り老人を振り返った。この老人がつい先ほどほんの一言二言で、とても穏やかで素直な気持ちにさせてくれたのだ。

 こうしてジルベールは羊歯のあるところまで老人を案内した。確かに素晴らしい蓬莱羊歯アジアンタムだった。それを採取し終わると、二人はまた別の植物を探し始めた。

 ジルベールは自分で思っている以上に植物に詳しかった。森で育ったために、森の植物のことなら友達も同然だった。ただし知っていたのは俗称だけだ。ジルベールが名前を挙げるたびに、老人が学名を教えてくれたので、同じ科の植物を見つければそれを懸命に繰り返した。二、三回ギリシア語やラテン語の名前を間違えた。そのたびに老人が一音一音ばらばらにし、音節と原語との関係を教えてくれたので、ジルベールは植物名だけではなく、プリニウスやリンネやド・ジュシューが名づけたギリシア語やラテン語の意味まで覚えることが出来た。

 その合間合間にジルベールは話をした。

「残念だなあ! こうして一日中あなたと植物を探して六スー稼げればいいのに。絶対に休んだりはしませんし、それに六スーだっていらないのに。朝くれたパン一切れで一日持ちますし。タヴェルネの水と同じくらい美味しい水も飲んで来たばかりですし。昨晩は木陰で休みましたけど、屋根裏よりもよほどぐっすりと眠れました」

 老人は微笑んだ。

「やがて冬が来れば、植物は枯れ、泉は凍り、今は木の葉をそよがせている風も裸の木々の間を吹きすさぶことでしょう。そうなればねぐらに服に火が要りますからね、一日六スーあれば部屋、薪、洋服を捻出できたでしょうに」

 ジルベールは溜息をつき、新たに植物を摘み、新たに質問をした。

 二人はこうしてオルネー、プレシ=ピケ、クラマール・スー・ムドン(Clamart sous Meudon)の森で充実した一日を過ごした。

 ジルベールはこうしていつしか打ち解けていた。老人の方もうまく質問を問いかけていた。それでもジルベールは、疑り深く、慎重で、臆病だったため、自分のことについては出来るだけ口をつぐんでいた。

 シャティヨン(Châtillon)で老人はパンと牛乳を買い、半分はジルベールの手に押し込んだ。それから二人はその日のうちに到着できるようにパリに足を向けた。

 パリにいるというそのことを考えるだけで、ジルベールの胸は高鳴った。ヴァンヴ(Vanves)の丘から、サント=ジュヌヴィエーヴ、廃兵院アンヴァリッド、ノートル=ダム、そして家並みが広大な海となってモンマルトルやベルヴィルやメニルモンタンの傍らにぱらぱらと波のように打ちつけているのを目にした時には、その高ぶりを隠そうともしなかった。

「ああ、パリだ、パリだ!」

「そう、パリ、家屋の山、諸悪の深淵です。壁に染み込んでいる苦しみが外に洩れ出すことがあれば、その石材の上に涙が滲み血が染まるのが見えることでしょう」

 ジルベールは昂奮を抑え込んだ。もっとも、昂奮はそのうち次第に治まったのだが。

 二人はアンフェールの市門を通った。パリの周縁は臭くて汚れていた。病院に運ばれて来た病人たちが担架に乗せられて通り過ぎた。裸同然の子供たちが泥水の中で犬や牛や豚とじゃれていた。

 ジルベールは顔を曇らせた。

「ひどいものでしょう? ですがこんな光景すらそのうち見られなくなりますよ。豚や牛がいるのはまだ恵まれていますし、子供がいるのはまだ救われているのです。泥水だけは何処に行っても見かけますがね」

 ジルベールはパリの暗い部分を目にする覚悟は出来ていた。だから老人の話にも嫌な顔はしなかった。

 一方初めのうちこそ饒舌だった老人は、町の中心に近づくにつれて、徐々に口数が少なくなっていた。どうやら随分と気になることがあるらしく、ジルベールも遠慮して、柵の向こうに見える公園のことやセーヌ川に架かっている橋について聞くことが出来なかった。ちなみにこの公園はリュクサンブールであり、橋とはポン=ヌフであった。

 しかしこうして歩きながらも、老人の心が不安に占められているように思えたので、ジルベールは思い切って口を開いた。

「お住まいはまだ遠いのでしょうか?」
 

 続く。

『ジョゼフ・バルサモ』43-3

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「ルソーはラテン語が出来るのでしょう?」

「ひどいものですよ」

「でも新聞で読んだのですが、タキトゥスという昔の作家を翻訳していますよね」

「思い上がりですよ! どんな人間も自惚れることがあるものですが、ルソーもあらゆることに取り組みたいと思い上がったんです。ですが本人も第一巻(翻訳したのはそれだけでしたが)の序文で言っています、ラテン語は苦手だし、タキトゥスは手強い相手なのですぐにうんざりしてしまう、と。いえいえ、あなたには悪いが、ルソーも万能ではありません。虎の威を借る狐とよく言うでしょう。どんな小さな川でも嵐になれば溢れて、湖のように見えるものです。ですが船を進めようとしてご覧なさい、すぐに座礁してしまいますよ」

「つまりあなたに言わせると、ルソーはうわべだけの人間だと?」

「そうです。恐らく他人よりはちょっとばかりうわべが厚く見えるだけですよ」

「うわべでもそのくらいになれれば上出来なのではありませんか」

「当てつけでしょうか?」先ほどジルベールを落ち着かせたのと同じように穏やかだった。

「とんでもありません! あなたのお話はとても楽しく、ご不快にさせるつもりなんてありません」

「ですが、わたしの話の何処が良かったのですか? パンとさくらんぼのお礼にお世辞を言っているわけではないのでしょうし」

「その通りです。お世辞なんか絶対に言うもんですか。偉ぶりもせず、親切に、子供扱いせず一人の若者として話してくれたのはあなたが初めてでした。ルソーについては意見が食い違っていますけれど、ご親切に隠された気高さに心が打たれました。あなたとお話ししていると、自分がまるで満ち足りた部屋の中にいるみたいです。鎧戸は閉まっていて、真っ暗なのに満ち足りているのはわかるんです。あなたがその気になれば話の中に光を射し入れて、僕の目を眩ませるんです」

「ですがあなたの方だって、その周到な話しぶりを聞けば、ご自身で仰るほど教養がないとは信じられませんよ」

「こんなのは初めてのことで、こんな言葉遣いが出来たことに自分でも驚いています。何となくしか意味はわからないし、一度耳にしたことがあったので使ってみただけなんです。本で読んだことはありますが、意味なんてわからなかった」

「そんなに読んだのですか?」

「何冊も。でもまた読み返すつもりです」

 老人は目を見張った。

「手に入る本はすべて読んでしまいましたから。いえ、良い本だろうと悪い本だろうとただただ貪っていたんです。どの本を読めばいいのか教えてくれる人なんていませんでしたから。何を忘れて何を覚えればいいのかなんて、誰も教えてくれませんでした!……ごめんなさい、あなたのお話が面白かったからといって、僕の話もそうだなんて思ってはいけませんね。植物採集をしていらっしゃったのに、お邪魔してしまいました」

 ジルベールは立ち去ろうとする素振りを見せたが、本音では引き留めて欲しがっていた。老人は小さな灰色の瞳でジルベールを射抜き、心の底まで見透かしているようだった。

「そんなことはありませんよ。もう箱は一杯ですし、苔はもう要りません。この辺りには美しい蓬莱羊歯アジアンタムが生えていると聞いたのですが」

「待って下さい。羊歯それならさっき岩の上で見たような気がします」

「遠くでしょうか?」

「いえ、五十パッススくらいのところです」

「ですがどうしてそれが蓬莱羊歯アジアンタムだとわかるのですか?」

「僕は森の生まれです。それに、僕がお世話になっていた家のお嬢様は植物学の趣味もありました。標本の下にはお嬢様自身の手で植物の名前が書いてありました。僕はよくその植物と名前を眺めていたので、さっき見たのが、標本には岩苔と書かれてあったアジアンタムのことではないかと思ったんです」

「では植物学に興味がおありなのですか?」

「興味があるかですって? ニコルから話を聞いた時――ニコルというのはアンドレ嬢の小間使いなのですが――お嬢様がタヴェルネの近くで何かの植物を探していたけれど見つからなかった、という話を聞いた時、その植物の形を教えて欲しいとニコルに頼んだんです。するとアンドレは、頼んだのが僕だとは知らずに簡単な絵を描いてくれることもありました。ニコルはそれをすぐに持って来てくれたので、僕は野原、牧場、森を駆けずり回って、その植物を探しました。見つかったら鋤で引っこ抜いて、夜中に芝生の真ん中に植え直しておきました。そうしたらある朝、散歩中にアンドレが声をあげて喜んだんです。『何て不思議なのかしら! ずっと探していた植物があんなところに』」

 老人は今まで以上にジルベールをじっと見つめた。ジルベールも自分の言ったことに気づいて真っ赤になって目を伏せたりしなければ、老人の目に宿っているのが興味だけではなく溢れる愛情であることがわかったはずだ。

「そうですか! 植物学の勉強を続けなさい。きっと医者への近道になるはずです。主は無駄なものなど何一つお作りになりませんでしたから、どんな植物もいずれ科学書で解説されるようになるでしょう。まずは薬草の違いを覚えて下さい、それから一つ一つ薬効を覚えるんです」

「パリには学校があるんですよね?」

「無料の学校だってありますよ。例えば外科学校は当世の恩恵の一つです」

「そこの講義を受けます」

「簡単なことです。きっとご両親もあなたの気持を知れば生活費は出してくれますよ」

「両親はいません。でも大丈夫です。自分で働きますから」

「そうですね。それにルソーの作品を読んだのでしたら、どんな人間も――君主の息子であろうと――手に職をつけるべきだというのはおわかりでしょうし」

「僕は『エミール』は読んでないんです。その箴言は『エミール』に書かれているんですよね?」

「ええ」

「タヴェルネ男爵が今の箴言を馬鹿にして、我が子を指物師にせずに残念だわいと言っていたのを耳にしたことがあるんです」

「ご子息は何になったのですか?」

「将校に」

 老人は微笑みを浮かべた。

「貴族はみんなそうです。子供に生きる手だてを教えずに、死ぬための手だてを教えるんですから。ですから革命が起きて追放されれば、他人に物乞いをしたり剣を売ったりするほかない。ひどいことです。ですがあなたは貴族の息子ではないのですから、出来る仕事があるのでしょう?」

「初めに言ったように、僕は何も知らないんです。それに、実は、身体を激しく動かすきつい仕事はひどく苦手で……」

「すると、あなたは怠け者でしたか――」

「違います! 怠け者なんかじゃありません。力仕事ではなく、本を下さい、薄暗い部屋を下さい。そうすれば、僕が選んだ仕事に昼も夜も全力を尽くしているかどうかわかるはずです」

 老人はジルベールの白く柔らかい手を見つめた。

「好き嫌い、勘。選り好みがいい結果を生むこともあります。ですがそれにはちゃんとした道筋が必要です。どうです、中学校コレージュは出ていなくとも、せめて小学校エコールに行ったことは?」

 ジルベールは首を振った。

「読み書きは出来るのでしょう?」

「母が死ぬ前に読みを教えてくれてました。僕の華奢な身体を見て、母はいつも言っていました。『労働者にはなれそうもないね。僧侶か学者になるといい』と。勉強を嫌がると、『読みを覚えなさい、ジルベール。木を伐ったり鋤を持ったり石を磨いたりはしないことだ』と言われました。だから学んだんです。生憎、母が死んだ時にはやっと読めるくらいでしたけれど」

「では書取は誰から教わったのですか?」

「独学です」

「独学?」

「ええ、棒を削って、砂を濾して表面を均して。二年間、複製でもするように一冊の本を書き写しました。ほかの字体があることも知らないまま、ようやく真似ることが出来るようになりました。それが三年前、アンドレが修道院に入ってしまったんです。数日ぶりに、配達夫が父親宛のアンドレの手紙を僕に言伝てた時でした。そこでようやく、活字体とは別の字体があることを知りました。タヴェルネ男爵が封を破って封筒を捨てたので、僕はその封筒を拾って大事に仕舞っておいて、次に配達夫がやって来た時に宛先を読んでもらったんです。それにはこう書かれてありました。『ムッシュー・ド・タヴェルネ=メゾン=ルージュ男爵宛、男爵居城、ピエールフィット経由』。

「その文字の一つ一つと、対応する活字体を照らし合わせて、三つを除けばどのアルファベットも二本の線で出来ていることに気づいたんです。そこでアンドレの書いた文字を書き写しました。一週間後には、この宛名を一万回は書いたでしょうか、書取を身につけました。ある程度は書けるようになりましたし、どちらかというと悪い方ではないと思います。だから。だから僕の望みはそれほど大それたものではないはずです。だって文字は書けるし、手に入った本はすべて読んでいるし、読んだことはすべて繰り返し考える努力はしています。僕の筆が必要な人や、僕の目が必要な盲人や、僕の口が必要な唖者が見つからないとも限らないでしょう?」

「忘れてやいませんか、主人を持つことになるんですよ、主人嫌いのあなたが。書記や朗読係だって第二身分の召使いなんです」

「そうですね……」ジルベールは青ざめて呟いた。「でもそのくらい。絶対に上を目指すんです。パリの舗石を運びます、必要なら水を運びます。成功しようと途中で死のうと、どっちにしたってそれまでには目的を達成するんだ」

「まあ、まあ。見たところどうやら熱意と勇気はあるようですね」

「とても親切にしていただきましたが、でもあなただって、お仕事に就いていらっしゃるんでしょう? 財政家のような服を着ていらっしゃいますが」

 老人は穏やかで翳のある微笑みを見せた。

「確かにある職業に就いています。人は何かをやらなくてはなりませんからね。ですが財政とは何の関係もありません。財政家は植物なんて採りませんよ」

「お仕事で集めていたのですか?」

「そのようなものです」

「貧しいのでしょうか?」

「ええ」

「与えるのは貧しき者たちと言うじゃありませんか! 苦しいからこそ智恵を授かったのも事実ですし、ためになる助言がルイ金貨より貴重なのも事実です。だからどうか助言を与えて下さい」

「与えるのは助言だけでは足りないのではないでしょうか」

 ジルベールは笑みを浮かべた。

「そうでしょうか」

「生活費にどのくらい必要だと思いますか?」

「たいしてかからないでしょう」

「パリのことをまったく知らないようですね」

「昨日リュシエンヌの高台から見たのが初めてです」

「では大都市で暮らすのにどれだけお金がかかるか知らないのですね?」

「だいたいどのくらいでしょうか……? 比率を教えて下さい」

「いいでしょう。例えば地方で一スーかかるとしたら、パリでは三スーかかります」

「そうですか……じゃあ働いた後に休む場所のことを考えたら、一日当たり六スー必要なんですね」

「さあ、だからわたしは人間が好きなんです。一緒にパリにいらっしゃい。暮らしていけるだけの仕事もお世話してあげますよ」

「いいんですか!」ジルベールは喜びに酔いしれた。すぐに改めて確認した。「実際に働くようになれば、それは施されているのとは違いますよね?」

「もちろんですよ。安心なさい、わたしは人に施しを与えるほど裕福ではありませんから。手当たり次第に施しを与えるほど頭がおかしくもありませんしね」


 続く。

『ジョゼフ・バルサモ』43-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「通りかかればみんなが振り返るのでしょうね? 尊敬されていて、人類の保護者として指を指されるんでしょう?」

「そんなことはありません。両親にけしかれられた子供たちに後ろから石を投げられていました」

「何ですって!」ジルベールは愕然とした。「それでも裕福ではあるのでしょう?」

「今朝のあなたと同じように感じることも多いようですよ。『何処で朝食を食べよう?』」

「でも、貧しくたってみんなから尊敬されて慕われているんでしょう?」

「毎晩床につく時には明日のこともわからない状態です。バスチーユで目を覚まさずに済むのかどうか」

「そうなんですか! さぞかしみんなを憎んでいるのでしょうね?」

「愛しても憎んでもいません。嫌気が差しただけです」

「自分を迫害する人たちを憎まないなんて、信じられません!」

「ルソーはいつも自由でした。ルソーは自分一人で生きていけるほどには強かったし、強さと自由は人を穏やかで善良にさせます。奴隷状態と弱さだけが人を辛辣にさせるのですよ」

「だから自由に憧れていたんです」ジルベールは胸を張った。「今お話し下さったようなことは見当がついていましたから」

「人は牢獄の中でも自由です。明日ルソーがバスチーユに入れられたとして――いつかはそうなるでしょうが――それでもスイスの山にいた時とまったく変わらず自由に書いたり思索したりするでしょう。わたしだって人間の自由とは欲することを行うことにあるとは思ったことはありませんし、欲しないことを行うよう無理強いさせないことにあると思っています」

「つまり、ルソーがそう書いているのですか?」

「そのはずですよ」

「『社会契約論』ではありませんよね?」

「ええ、『孤独な散歩者の夢想』という新作です」

「失礼ですが、僕らはある点で見解が一致するのではないでしょうか」

「というと?」

「二人ともルソーを敬愛しているという点です」

「こうして錯覚の時代に生きているあなたは、どうお考えなんです?」

「物事については誤っているかもしれませんが、人間についてはそんなことはありません」

「ああ! いずれわかるでしょうが、誤まっているのはまさしく人間についてなんですよ。ことによればルソーはほかの人々よりはいくらか正しいかもしれません。でもいいですか、彼には欠点があります。大きな欠点が」

 ジルベールは納得していないように首を振った。だがそんな不作法な態度を見せられながらも、老人は同じように丁寧に応じ続けた。

「出発点に戻りましょう。先ほどあなたに、ヴェルサイユで主の方と喧嘩でもしたのかとたずねましたね」

 ジルベールもいくらか落ち着いて答えた。「主人などいない、と僕は答えました。さらにつけ加えるなら、大きな力を手にするかどうか決めたのは僕自身でしたし、ほかの人たちが羨むような条件を拒んで来たんです」

「条件ですか?」

「ええ、暇をもてあましている大貴族を楽しませるという条件でした。だけど僕はまだ若いのだし、学ぶことも上を目指すことも出来るのだから、貴重な若盛りを無駄にしたり人間の尊厳を自ら危うくするようなことはしてはならないと思ったんです」

「仰る通りです」と老人は深くうなずいた。「ですが上を目指すに当たってはっきりとした計画があるのですか?」

「僕は、医者になりたいと思っています」

「慎ましやかで犠牲を伴う真の科学と、メッキで塗りたくられた恥知らずなペテンを見わけることが出来る、立派な良い仕事です。真実を愛するのなら、医者におなりなさい。輝きを愛するのなら、医者をおやりなさい」

「でも学ぶには大金が必要ではないでしょうか?」

「お金は必要ですが、大金というのは言い過ぎでしょう」

「確かにジャン=ジャック・ルソーは何も費やさずに学んだそうですね」

「何も費やさずに……ですか!」老人は悲しげに微笑んだ。「神が人間に与え給うた大切なものを『何も』と言うのですか。純心、健康、睡眠。あのジュネーヴの哲学者はそれだけのものを費やして、ほんの僅かなことを学んだだけでした」

「ほんの僅かなですって!」ジルベールは露骨に嫌な顔をした。

「そうですよ。人にたずねてみて、ルソーのことを何と言うか聞いてご覧なさい」

「まずは偉大な音楽家でしょう」

「ルイ十五世が情熱的に『尽くしてくれるひとを失った』と歌ったからといって、『村の占い師』が良いオペラだとは限りません」

「偉大な植物学者です。『植物学についての手紙』をご覧下さい。僕は部分的にしか手に入れてませんが、あなたならご存じでしょう、こうして森で植物を集めてらっしゃるんですから」

「植物学者扱いされながら、実際には……」

「最後まで言って下さい」

「実際には、単なる植物屋でしかないのもよくある話です」

「ではあなたはどうなんですか……? 植物屋ですか、植物学者ですか?」

「ああ! 草や花と呼ばれる神の驚異を前にした、しがない無知な植物屋です」


 続く

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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