翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

エミリー・ディキンソン 0004

この大いなる海を
声も立てず渡るからには、
ほら、舵取りよ!
おまえは知っているのか
波も吠えず――
嵐も去った陸地を?

穏やかな西の海には
多くの船が足を休め――
碇を降ろしている――
あちらを目指せ、舵取りよ――
ほら陸が! 永遠が!
ようやくたどり着くのだ!

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『ジョゼフ・バルサモ』第46章-1 「ジャック氏の正体」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第四十六章 ジャック氏の正体

 ジルベールが意気込んで取りかかると、丁寧に写された音符で紙は埋められていった。ジャック氏はしばらく様子を見ていたが、やがてもう一つの机で、豆を包んでいたのと同じような印刷物の校正を始めた。

 こうして三時間が経ち、掛け時計が九時を打った時、テレーズが駆け込んで来た。

 ジャック氏が顔を上げた。

「ほら急いで! 部屋に来て下さい。大公がいらっしゃいましたよ。殿下たちの行列はいつになったら終わるんでしょうねえ? あの日のシャルトル公爵みたいに、昼食を一緒に取りたいだなんて気まぐれを起こしてくれなければいいんだけれど!」

「どちらの大公です?」ジャック氏が声を落とした。

「コンチ公閣下です」

 この名前を聞いてジルベールは、(当時生まれていたとすれば)ブリドワゾンならソの音符というより染、染みと呼んだであろうものを五線の上に落とした。

「大公、殿下!」とジルベールは呟いた。

 ジャック氏は笑みを浮かべてテレーズの後ろから部屋を出て扉を閉めた。

 ジルベールは辺りを見回し、一人になったことに気づいて狼狽えて顔を上げた。

「僕は何処にいるんだ? 大公に殿下がジャック氏の家に? シャルトル公やコンチ公閣下が写譜屋の家に?」

 ジルベールは扉に近づき聞き耳を立てた。心臓が割れるようだ。

 ジャック氏と大公は既に挨拶を交わし終えていた。大公が口を開いた。

「一緒に来てもらえないだろうか」

「どういったご用件でしょうか?」ジャック氏が答える。

「王太子妃に紹介したくてね。哲学の新時代の幕開けだよ」

「お申し出はありがたいのですが、お供することは適いません」

「しかし六年前はフォンテーヌブローでポンパドゥール夫人にご同行したではないか?」

「六年前は若かったのですから。今では足腰が立たないため、椅子から離れられなくなりました」

「人間嫌いのため、だな」

「だとすると、そのために時間を割こうと思うほど世間に関心を持つわけがないではありませんか?」

「うん。いや、サン=ドニや大典礼に連れて行くつもりはない。王太子妃殿下が明後日の夜に泊まるラ・ミュエットに来て欲しい」

「では妃殿下は明後日サン=ドニに?」

「お付きを連れてね。いや、二里などあっという間だ、大きな混乱は起きない。聞くところによると、大公女は大した音楽家らしい。グルックに教わっていたそうだ」

 ジルベールはそれ以上は聞いていなかった。「妃殿下は明後日サン=ドニに」とい言葉を聞いて、一つのことを考えていた。つまり、明後日にはここから二里のところにアンドレがいるのだ。

 そう思うと、強い光の当たった鏡を見たようにくらくらとした。

 二つの感情のうち、強い方がまさった。愛情が好奇心を退けた。この部屋には空気が足りない。不意にそう感じて窓を開けようと駆け寄ったが、窓には内側から南京錠が下りていた。恐らくジャック氏の書斎で起きていることを向かいの部屋から見られないようにするためだろう。

 ジルベールは椅子に戻った。

「盗み聞きなんかもうやめだ。ブルジョワの秘密なんて嗅ぎ回るもんか。大公が友人扱いしたうえに、未来のフランス王妃に紹介しようとした人か。王太子妃だって皇帝の娘で、アンドレが跪かんばかりにしていた人だ。

「だけど聴いていれば、アンドレのことがわかるかもしれない。

「駄目だ駄目だ。それじゃしもべと一緒じゃないか。ラ・ブリもよく戸口で耳を澄ませていただろう」

 ジルベールは勇気を振り絞って壁から離れた。手は震え、目は霞んでいた。

 何かで気を紛らせたい。とてもではないが写譜などはやっていられない。ジャック氏の机上にある本を手に取った。

「『告白』」題名を読んで意外な喜びに打たれた。「昨夜、貪るように何ページも読んだ本だ。

「著者肖像画付き。

「ルソー氏の肖像画か! どんな顔なんだろう。見てみよう」

 版画を覆っていた薄紙をめくるのももどかしく、現れた肖像画を目にしてジルベールは声をあげた。

 その瞬間、扉が開いて、ジャック氏が戻って来た。

 ジルベールはジャック氏の姿と手にしている肖像画を見比べた。身体が震えて両腕からは力が抜け、本を落として呟いていた。

「今、僕はジャン=ジャック・ルソーの家にいるんですね!」

「上手く写せたか見てみましょうか」微笑んだジャン=ジャックは、輝かしい人生で経験した幾百の勝利よりも、この思いがけない称讃を喜んでいるようだった。

 震えているジルベールの前を通り過ぎて、机に近づき紙を眺めた。

「音符はよく書けていますね。欄外を忘れていますよ、それから、一続きの音符をきちんと一本の線で結んでいませんね。おや、この小節には四分休符が足りません。それにほら、小節の線が曲がっています。二分音符も半円二つで書いて下さい。音符は厳密にくっついていなくとも構いません。音符の玉がどれも不格好ですし、旗もきちんとくっついていませんね……ええ、その通りです、あなたはジャン=ジャック・ルソーの家にいるのですよ」

「ああ! 馬鹿なことをいろいろとしゃべってしまって申し訳ありませんでした」ジルベールは両手を合わせて土下座しようとした。

「ではわからなかったのですね」ルソーは肩をすくめた。「大公がここに来ない限り、目の前にいるのが迫害された不幸なジュネーヴの哲学者だということに気づかなかったのでしょうか? 可哀相に、迫害を知らぬとは幸せなことです!」

「ええ! ええそうです。僕は幸せです、死ぬほど幸せなんです。でもそれはあなたに会えたからで、あなたと知り合えたからで、あなたの側にいるからなんです」

「ありがとう。ですが幸せだけがすべてではありませんよ。働かなくては。練習が終わったのでしたら、今度はこの輪舞曲を楽譜に写して下さい。短いのでそれほど難しくはありません。何よりきれいですから。それにしても、どうしてわかったのですか……?」

 ジルベールは胸を震わせ、『告白』を拾ってジャン=ジャックの肖像画を見せた。

「なるほど、そうでしたか。『エミール』の第一ページにあった肖像画は燃やされてしまいましたからね。もっとも、明るく照らすのであれば、太陽の光であれ焚書の光であれさして違いはありませんが」

「おわかりになりますか? まさかこんなこと、あなたのおそばで暮らせるなんてこと、夢にも思いませんでした。そうしたかった気持と比べたら野心だって些細なものでした」

「恐らくわたしの側で暮らすことにはならないでしょう」とジャン=ジャックが言った。「わたしは弟子を取りませんから。客人として遇するにも、もてなしたり、ましてや住み込みさせたり出来るほど豊かでないのはご覧になった通りです」

 震えるジルベールを見て、ジャン=ジャックは手を握った。

「ですが、がっかりすることはありませんよ。あなたと出会ってからいろいろと観察させてもらいました。あなたには悪いところもありますが良いところもたくさんあります。直感に反する意思と戦い、自惚れをこらえて下さい。哲学者を蝕む害虫ですから。では楽譜を写しながら時機を待っていて下さい」

「ああ、何が起きているのか考えるとくらくらします」

「しかし、ごく当たり前で自然なことしか起きてはいませんよ。当たり前のことこそが心根と知性を揺れ動かすのは事実ですがね。あなたは何処かから逃げていました。わたしはそれが何処なのか知りませんし、あなたが隠していることを根ほり葉ほりたずねたりもしませんでした。あなたは森を抜けて逃げていました。そして森の中で、植物を採集している男に出会った。その男はパンを持っており、あなたは持っていなかった。ですからその男は二人でパンを分けました。何処で休めばいいかもわからないあなたに、その男は寝床を貸しました。その男はルソーという名だった、それだけのことです。そしてその男はあなたにこう伝えるのです。

「哲学者の第一条、

「人間よ、自ら給して自ら足らん。

「そういうわけですから、この輪舞曲を写し終われば、今日の糧を手に入れていることでしょう。さあ写して下さい」

「ご親切ありがとうございます!」

「無謀な誓い弁護」G・K・チェスタトン

無謀な誓い弁護

 シルクハットとフロックコートを身につけた地位も名誉もある現代人が、部下や友人の前で厳かに誓いを立てようとしているところを想像してみてほしい。ホーランド・ウォークにある木々の葉っぱを三本おきに数えてみせようだの、毎週木曜日にはシティまで片足飛びしてみせようだの、ミルの『自由論』を丸ごと七十六回暗唱しようだの、ブラウンなる人物の所有する土地でタンポポを三百本集めようだの、三十一時間のあいだ右手で左耳をつかみっぱなしにしてのけようだの、乗合バスのてっぺんでおばの名前を年齢順に唱えようだの、常軌を逸したその手の約束をしようものなら、この人物は気が狂っているか、よく使われる言い回しで言えば“人生の芸術家”であることは論を俟たないであろう。だがこういった誓いも、中世やそれに類する時代に為された誓いと比べてさして異常なわけではない。当時こうした誓いを立てたのは狂信者だけではなかった。都市文明や国家文明の重要な担い手たち――王も判事も詩人も司祭も誓ったのである。ある人は二つの山を鎖で繋ぐことを誓い、その超常的愚行の記念碑として、そこには何年ものあいだその偉大な鎖が架けられていた、と言われている。あるいは目隠しをしてエルサレムにたどり着くつもりだと誓ったために、その途上で命尽きた人もいた。ごく理性的な観点から判断すれば、この二つの偉業が実は見かけより遙かに正常なことなのだと考えるのは容易ではない。よほどのことがないかぎり山とは動きも騒ぎもしない物体なのだから、犬のように夜中に鎖に繋いでおく必然性はないのだ。あるいは、聖都に最大級の敬意を表したいがために、どう考えてもたどり着くのが不可能な状態をわざわざ作り出してから旅立ったのだとは、すぐには理解しがたいことである。

 だがこのことについては、気をつけておくべき大事な点が一つある。現代においてこんなことをしでかす人物がいたならば、すでに述べたように誰もがそれを“頽廃デカダンス”の象徴と見なすであろう。だがこうしたことを行った人々はデカダン主義者ではなかったのである。おおむね健全だと見なされている時代のもっとも健全な階級におおむね属していた。しかしながら、根っから正気けんぜんな人々がこうした気違いじみた行動を取るからには、盲信的な考えに囚われて不安に襲われたのだとおっしゃる向きもあるだろう。しかしながら、それは理屈が通らない。何となれば、愛情だの欲情だのといった純粋に世俗的で官能的ですらある分野において、中世の王子たちもこうした気違いじみた約束や行動を取ったし、同じように奇怪な想像力や馬鹿げた自己犠牲を示していたからだ。ここに矛盾がある以上、このことを明らかにするためにも、誓いというものの性質を洗いざらい初めから考えてみる必要がある。誓いの性質を真剣かつ正確に考察してみれば、筆者がひどい誤りを犯していないかぎり、山と山を鎖で繋ごうと誓うのも完全に正気なことであり、あまつさえ分別があるという結論に達するだろうし、さらには少しでも狂気の気があるのならそうしないことこそいかにも正気ではないという結論に達するはずだ。

 誓いを立てる人は、別の時間や別の場所で自分自身と会う約束をしている。そこで脅威となるのが、自分自身が約束を守れそうにないことである。現代においてはこのような、自我に対する恐怖、つまり自我の弱さや脆さに対する恐怖が危険なほどにふくれあがり、紛れもなくあらゆる誓いを拒む原因になっている。現代人がホーランド・ウォークで三本おきに葉っぱを数えると誓ってみせるのを避けるのは、何もそうするのが馬鹿げているからではなく(もっと馬鹿なことをいくらでもしているのだから)、一本目の木の三百七十九葉目までたどり着かないうちにすっかり飽き飽きして、家に帰って紅茶を飲みたくなることが確実にわかっているからである。言いかえれば、平凡ではあるが恐ろしく意味深な言い方をするなら、そのころまでに自分が別人になってしまうことに不安を感じるのだ。すなわち、デカダンスの本質とは、恐ろしいお伽噺のようにこうして絶えず別人に変身することなのである。ジョン・パターソンが見るからに落ち着き払って、月曜日にはジェネラル・バーカーに、火曜日にはドクター・マクレガーに、水曜日にはサー・ウォルター・カーステアズに、木曜日にはサム・スラッグになることを待ち望むとしたら、さながら悪夢のようだろう。だがこの悪夢に、われわれは現代文化という名を与えたのだ。今は亡くなったある偉大なデカダン派の作家が、しばらく前に一つの詩を出版した。そのなかで詩人は、この変化の全容を力強くまとめ上げた。監獄の庭に立ち、絞首刑にされる男の気持をすっかり理解することができた、と宣言したのである。

 一人以上の生活を生活する人は
 一人が死なねばならぬ以上の死を死なねばならぬものだからね。

 こうしたことが最後にはどうなるかというと、現実の欠如という狂えるほどの恐怖がデカダン主義者を襲うのであり、それと比べれば肉体的苦痛そのものなどは瑞々しく溌剌さをたたえていることだろう。想像しうるかぎりこれ以上の地獄はないというほどの地獄を想像してみるならば、それは人間らしくいられる狭く汚い楽屋すらないままに永遠に劇を演じ続けることである。そしてこれがデカダン主義者や耽美主義者、自由恋愛主義者の状態なのだ。害のあるわけがないとわかっている危険に常に挑んでいること、縛られようがないとわかっている誓いを常に立てていること、負けるわけがないとわかっている敵に常に刃向かっていること――これがデカダンスの残虐な圧政であり、自由と呼ばれるものである。

 それはそれとして、誓いを立てた人間の話に戻ろう。どれほど気違いじみたものであろうと誓いを立てた人間は、ある偉大な瞬間の偉大さを健全かつ自然なままに表現したのだ。たとえば二つの山を鎖で繋ぐと誓ったのは、何かの偉大な救いや愛や野心の象徴だったのかもしれない。決意の瞬間がどれほど短かろうと、それはどんな偉大な瞬間にも劣らず永遠の瞬間であったし、そのことについて『青銅よりも永遠なるいしぶみを我は打ち立てり』と口にしたいという気持だけが、心を満たすはずの感情であった。もちろん現代の耽美主義者なら、心を動かされるような機会にたやすく出くわすであろうし、二つの山を鎖で繋ぐと誓うことだろう。だが同じくして、地球と月を繋ぐことも軽々と同じように誓うはずだ。自分の言ったことが口から出任せだということも、実は重要なことなど露ほども口にしていないことも自覚しているがゆえに意識も萎え、無謀なことをしているという実感もともなわず、誓うことによって興奮を感じることもまったくないのである。どれほど気違いじみたことがあるといって、平生変わらず落ち着き払ってこれから王を暗殺しに行くとかベン=ネヴィス山に寺院を建立しに行くとかいう報せを、母なり叔母なりが受け取るような暮らしぶりに勝るものがあり得ようか?

 誓いを拒むという叛乱は、今日においてはとうとう結婚の誓いという典型的な誓いを拒むまでに至った。結婚上この点を拒む者たちの言い分は非常に面白い。どうせ貞節を守るのなら、恋人同士によってしっかりと課せられた束縛などではなく、悪魔によって謎めかして人類に課せられた束縛の方が理想的だ、と考えている節があるのだ。そうして一つの言い回しがひねり出された。黒と白のごとく相反する二つの単語でできた言い回し――『自由-恋愛』――これではまるで、恋人に一度でも自由があった、いや一度でも自由であり得たみたいではないか。束縛こそ愛というものの本質であり、婚礼の際の決まりごとなぞは、相手に敬意を表するために凡人の言うことにうなずいているに過ぎないのだ。現代の賢人たちは、悪趣味にほくそ笑んで、最大限の自由と責任からの解放を恋人に与える。だが昔の教会が敬意を払っていたように敬意を払ったりはしない。人が天に誓った言葉を、もっとも崇高な瞬間として記録したりはしないのである。現代の賢人たちはあらゆる自由を与える。ただし自由を売る自由だけは別だ。そしてただそれのみが、人の欲しているものなのである。

 バーナード・ショウ氏の名戯曲『The Philanderer(女たらし)』のなかで、この種の状態が鮮やかに戯画化されている。チャータリスは常に自由恋愛者であろうと努めている男であり、つまり言いかえるならば既婚の独身者とか白人の黒ん坊たらんと努めているような男である。さまようのをやめる勇気を抱くときにだけ抱くことのできるある種の高揚感を求めて、飢えたようにさまよっている。昔の人はもっと分別があった――例えばシェイクスピアの主人公たちの時代である。シェイクスピア作品の人々が独身でいる場合、それはつまり独身・自由・責任からの解放・変化し続ける幸運といった、揺るぎない恩恵を謳歌しているのだ。だが彼らは、他人の眉の動き次第で幸せになるか不幸になるかが決まるような状況に置かれている場合に、自由の話を続けるほど間が抜けてはいなかった。詩人のサックリングは、自由を讃える祝歌のなかで、愛を負債に喩えている。

そして愛にも負債にも縛られず
この世のすべてに縛られぬ者。
かれは黄金時代のように生きる、
あらゆるものがあふれていた時代のように。
かれは煙管を喫み、酒を飲み、
男をも女をも恐れはしない。

 これぞまさしく、可能なかぎり合理的で人間らしい状態である。だが男も女も恐れないという馬鹿げたこけおどしが、恋人たちといったいどんな関係があるというのだろうか? 最果ての星まで飛べる宇宙エンジンも、ひっくり返せば楽器にも凶器にもなり得るということを彼らは知っている。いくつもの哲学を受け継いで来た、サックリングのものよりも古い歌を彼らは聞いている。「日のごとくに輝やき、月のごとくにうる美はしく、畏るべきこと旗をあげたる軍旅つはもののごとき、窓の外にいます者はたれぞや?」

 すでに述べた通り、私見によれば現代人の喜びや楽しみを萎えさせているのは、まさしくこうした裏口であり、退路を確保しようという感覚である。そのための対価を支払うことなく楽しみを手に入れようとする頑固者や気違いはどこにでもいる。かくして、政治の場では現代の好戦的愛国主義者たちは事務的に唱える。『我々に征服者の喜びを与えてくれ。ただし兵士の苦しみは要らぬ。ソファに腰を落ち着けたままの勇者でいさせてくれ』と。かくして、宗教や道徳の場ではデカダンな神秘主義者たち曰く、『我々に清純の芳香を与えたまえ。ただし自制の悲しみはないままに。処女ヴァージン男根プリアプスに代わる代わる讃美歌を歌わせたまえ』と。かくして、恋愛の場では自由恋愛者が曰く、『互いに身も心も捧げる輝かしさを与えてくれ。ただし互いに罪を犯す恐れはないままに。無限に自殺できないかどうか確かめさせてくれ』と。

 通るわけがあるまい。傍観者、愛好家、耽美主義者には確かにいくつものスリリングな瞬間が訪れる。だが自らの旗印を賭けて戦う兵士だけが――自らの悟りを求めて断食する苦行僧だけが――自ら心を決める恋人だけが知っているスリルが一つある。そして誓いというものを本当に正気で健全たらしめるのが、人を高めるこうした克己心なのである。ある決意の瞬間の結果、あの奇妙な鎖が静かな星や雪のなかアルプス山脈に何世紀も吊り下がっていると知れば、恋人や詩人さえ魂の渇きを癒したに違いあるまい。われわれの周りはどこもかしこも、裏道や退路であふれかえった小さな罪の町である。だが、遅かれ早かれ確実に、炎が火柱となって船着場から立ちのぼり、臆病者の治世が終焉を迎え人が船を燃やしているのだと教えてくれることだろう。

『ジョゼフ・バルサモ』 第45章 「ジャック氏の屋根裏部屋」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第四十五章 ジャック氏の屋根裏部屋

 ジルベールが最初に上って来た階段からして既に狭く歩きづらいものだったが、ジャック氏の部屋がある四階から先はますます狭く歩きづらくなっていた。そういうわけでジャック氏とジルベールは、苦労して正真正銘の屋根裏にたどり着いた。今回は正しいのはテレーズだった。そこはまさしく物置であり、四つに仕切られたうちの三つは使われていなかった。

 正確に言うなら、ジルベールにあてがわれた場所すらも、人が住むのには使えない有り様だ。

 天井は天辺からそのまま傾斜し、床と鋭角をなしている。その途中にある天窓にはがたがたの枠にガラスが嵌っておらず、そこから光と空気が入って来る。光は乏しく、空気、それも冬の冷たい風はふんだんに。

 幸いなことに今は夏が近いが、暖かい季節が近づいているというのに、二人が物置に入った時にはジャック氏の持っている蝋燭が消えそうになった。

 ジャック氏の言っていた藁布団は確かに床に置いてあった。そもそもめぼしい家具はそれくらいなので、真っ先に目に飛び込んで来たのだ。古くなって縁の黄ばんだ印刷物がそこかしこに積み重ねられ、鼠に齧られた本の山に囲まれている。

 二本の紐が部屋を横切るようにして張られていたので、ジルベールは危うく首を引っかけそうになった。夜風に吹かれて、莢ごと乾燥させた莢隠元の入った紙袋や、香りを放つ草、女物の古着を含む洗濯物が音を立てている。

「みすぼらしいところですが、真っ暗にして眠ってしまえば、掘っ立て小屋も宮殿と変わりはありませんからね。子供のようにお眠りなさい。明日の朝になれば、ルーヴルで一夜を過ごしたような気分になれますよ。ただ、火にだけは注意して下さいね!」

「わかりました」ジルベールはつい今し方見聞きしたことに茫然としていた。

 ジャック氏は笑顔を見せて立ち去ってから、また戻って来た。

「明日にはお話をしましょう。働くのは嫌ではありませんよね?」

「それどころか、働くことだけが僕の望みです」

「それはよかった」

 そうしてジャック氏は改めて戸口に足を向けた。

「もちろん働く価値のある仕事に限りますけれど」ジルベールが注文を付けた。

「ほかには知りませんよ。それでは、また明日」

「おやすみなさい」

 ジャック氏が部屋を出て扉を閉めると、ジルベールは一人きりで屋根裏に残された。

 初めのうちこそ自分がパリにいることに昂奮していたが、やがて愕然とした。ここは確かにパリなのだろうか、タヴェルネの屋根裏と変わらないような部屋のあるこの街が。

 結局はジャック氏に施しを受けているのだと気づいたが、タヴェルネで施しするのを見ていたので、もはや驚いたりはせずに、むしろ感謝し始めていた。

 ジャック氏に注意された通り慎重に蝋燭を掲げながら、隅から隅まで歩き回った。テレーズの衣服のことはあまり気にしなかった。古い衣服を毛布代わりに拝借するつもりもない。

 ついには好奇心に勝てずに印刷物の山の前で立ち止まった。

 山は紐でくくられており、ジルベールは一切手を触れなかった。

 首を伸ばし、目を凝らして、紙の束から莢隠元の袋に移った。

 莢隠元の袋も印刷された丈夫そうな白い紙で出来ており、それがピンで留められている。

 急に動いたせいで頭が紐に触れてしまい、袋が一つ落ちてしまった。

 金庫を押し破りでもしたように真っ青になって慌てふためき、大急ぎで床に散らばった莢隠元を拾って袋に戻した。

 拾っているうちに何とはなしに紙に目が行き、何とはなしに書かれている文字を読んでいた。途端に文字から目が離せなくなった。莢隠元を放り出し、藁布団に腰を据えて読み始めた。その文章がジルベールの考えに、なかんずく性格にぴったり合致していたのだ。自分のために書かれた、いや自分が書いたような文章じゃないか。

「それに、お針子や小間使や店の売子娘などはわたしの興味をひかなかった。わたしの望みはお嬢さんだ。誰でもそれぞれ好みがある。わたしの好みはいつもそういうもので、この点ではホラチウスと意見がちがう。といっても、身分や階級の虚栄に心をひかれるわけではない。いつまでも若々しい顔色、美しい手、優雅な衣装、全身にただよっている繊細と清潔の感じ、着こなしやものの言い方に見える趣味、上品で形のいい着物、きゃしゃな靴、リボン、レース、手ぎわよくととのえた頭髪、そういったものにひかれるのだ。こういうところですぐれていたら、器量で劣っていても、わたしはかまわない。自分でもこんな好みを大そうおかしく思うのだが、どうしても心がそうきめてしまう。」

 ジルベールの身体は震え、額を汗が伝った。自分の考えていることをこれ以上に上手く表現し、直感をこれ以上に上手く定義し、嗜好をこれ以上に上手く分析するのは不可能だ。ただしアンドレだけは、このすべてを満たしながらもなお器量も良かった。アンドレはこのすべてを有しながらも、完全に美しかった。

 ジルベールは貪るように読み続けた。

 たった今引用した文章に続いて、若い男が若い娘二人と逢瀬を楽しんでいる。楽しげに声をあげて馬で練り歩くのを読んでいると、それが不安の現れのようで、娘たちがいっそう魅力的に思えた。娘の一人の後ろに跨って遠出をし、魅力を増した夜になってからの帰還。

 興味は尽きなかった。ジルベールは袋を広げ、胸をどきどきさせながら袋に印刷された文章を読み通した。ページを確かめ、続きがないか探し始めた。ページは途切れていたが、連続した七、八ページ分くらいの袋が新たに見つかった。ピンを外し、豆を床にぶちまけ、袋を集めて読み始めた。

 これはまた違う内容だった。今度のページには、無名の哀れな男の、貴婦人との愛が記されていた。その貴婦人は男の許に下った、いや男が貴婦人の許に上ったというべきか、とにかくその貴婦人は男を同じ身分のように扱い、愛人として迎え、わずかの間だけ存在するような、心に秘めた隠しごとや思春期の夢をすべて打ち明けた。その何もかもが、人生の向こう側で生じた、春の夜空を落ちてゆく輝く流星のようにしか見えない。

 若い男には名前がなかった。貴婦人はド・ヴァランス夫人という甘く愛らしい響きを持つ名前で呼ばれていた。

 ジルベールはこんなふうに過ごせる幸運を夢見ながら、一晩中読み耽った。次々と袋を剥ぐに従い、それが一続きになっていることに安堵して、昂奮が大きくなる。不意に、ぱちぱちと爆ぜるような音が聞こえた。蝋燭が銅の受け皿を伝って暖められ、溶けた油脂の中に沈み、嫌な匂いのする煙が屋根裏に立ち込めた。灯心が燃え尽き、ジルベールは暗闇に取り残された。

 あまりにも一瞬の出来事だったため、出来る手だては何もなかった。こんなふうに読むのを断ち切られては、泣きじゃくりたくなる。寝台の横に寄せ集められた莢隠元の上に紙の束を置き、藁布団に潜り込んだ。口惜しくて仕方なかったものの、やがて深い眠りに就いた。

 ジルベールは十八歳に相応しくぐっすりと眠っていた。そのため、前日ジャック氏が掛けていった南京錠が耳障りな音を立てる頃になって、ようやく目が覚めた。

 すっかり陽が昇っていた。目を開けると、ジャック氏がそっと部屋に入って来るのが見えた。

 ジルベールはすぐに、床に散らばった莢隠元とばらばらになっている袋に目をやった。

 ジャック氏の視線もとうに同じ方向に向けられていた。

 ジルベールは恥ずかしさで頬まで真っ赤になり、何を言えばいいのかわからずに、「おはようございます」と呟いた。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

「おかげさまで」

「ひょっとすると夢遊病でしたか?」

 夢遊病とは何なのか知らなかったが、豆と袋が離ればなれになっている理由についてたずねられているのはわかった。

「仰ることはわかります。ええ、やったのは僕です、素直に罪を認めます。でもきっと元通りに出来ますよね?」

「大丈夫ですよ。それよりも、蝋燭を使い切ってしまったのですか?」

「遅くまで起きていたものですから」

「何故です?」ジャック氏が疑るようにたずねた。

「読んでいたんです」

 ジャック氏はさらに疑るような眼差しで屋根裏を見回した。

「これなんです」ジルベールは一枚目の袋を拾い上げた。「偶然これに目が留まり、引き込まれてしまって……それはそうと、あなたはいろいろなことをご存じですから、これが何という本の一部なのかご存じではありませんか?」

 ジャック氏は袋をちらっと見て言った。

「知りませんね」

「これは小説ですよね、素晴らしい小説でした」

「小説、ですか?」

「違うんですか。だって小説のような愛が綴られていますよ。小説よりも素晴らしいですけど」

「ですが、このページの下に『告白』と書いてありますから、恐らく……」

「恐らく……?」

「実話かもしれませんよ」

「まさか! あり得ません。自分のことをこんなふうに語れる人なんていませんよ。こんなに率直に打ち明けて、こんなに公正に判断してるんですよ?」

「そんなことはないと思いますよ」老人はきっぱりと答えた。「むしろ著者は、神が人間にしたのと同じように、自分はそうしたことを晒け出す人間だということを、みんなに示したかったのではありませんか」

「著者をご存じなんですか?」

「ジャン=ジャック・ルソーですよ」

「ルソーですか!」ジルベールが大きな声を出した。

「ええ。新作のページがいくつか、ここにばらばらに散らばっているんです」

「ではこの、哀れで名もなく、大通りを歩き回って物乞いしているような若者が、ルソーなんですか? この若者が『エミール』を書き、『社会契約論』を著すようになるんですか?」

「そうですよ……いや、違います」老人は何とも言い難い憂いを見せた。「そう、別人です。『社会契約論』や『エミール』を書いたのは、世界、人生、栄光、神さえ落胆させるような人間です。もう一人の……ド・ヴァランス夫人のものだったもう一人のルソーは……夜明けと同じ扉を通って人生の扉をくぐった子供でした。喜びと希望に満ちた子供でした。二人のルソーの間には絶対に繋がることのない溝があるんですよ……三十年というのは恐ろしいものです!」

 老人は首を横に振って力なく腕を垂らし、物思いに沈んでいるようだった。

 ジルベールは先ほどから茫然としっぱなしだった。

「ということは、ガレー嬢(Galley)やド・グラフェンリード嬢(Graffenried)との逢瀬は事実なんですか? ルソーはド・ヴァランス夫人との激しい恋に苦しんだんですか? 愛した女性を手に入れたものの、天にも昇るような期待とは裏腹に悲しむことになったというのは、気の利いた嘘じゃないんですね?」

「いいですか。ルソーは決して嘘はつきません。ルソーの座右の銘を思い出して下さい。『Vitam impendere vero』」

「知ってます……でもラテン語がわからないので、これまでずっと意味は知りませんでした」

「『真理に命を捧ぐ』という意味です」

「では……ルソーのように惨めな境遇から出発した人間でも、美しい貴婦人に愛されることが出来るんですね! それが上に目を向けた貧乏人にどれだけの希望を与えることになるかおわかりですか?」

「つまりあなたは恋をしていて、ご自身の境遇とルソーの境遇の間に共通点を見つけたんですね?」

 ジルベールは真っ赤になって、質問には答えなかった。

「いるのはド・ヴァランス夫人のような女性ばかりじゃありません。尊大で横柄で理解不能で。そんな人たちを愛するなんて馬鹿げてます」

「でもいいですか。似たようなことはルソーも何度も経験したんですよ」

「それはそうですよ。でもルソーですから。僕だったら、心に火の粉が燃え上がって胸の奥をくすぐられるのを感じたとしても……」

「だとしても?」

「だとしても、生まれながらの貴婦人が僕を構ってくれるとは思えません。無一文で、将来の見通しも立たないというのに、上に目を向けてもまぶしくて目が眩むだけですし。ああ、ルソーとお話し出来たらなあ!」

「そうしたらどうしますか?」

「ド・ヴァランス夫人とルソーが互いに歩み寄らなかったとしたらどうなっていたのか、尋きたいんです。『あなたは愛情を手に入れて悲しむことになりましたが、もし夫人があなたを拒んでいたとしたら、もしあなたが……そこまでして……夫人をものにしなかったとしたら……?』」

 ジルベールは躊躇った。

「何処までして、ですか?」老人がたずねた。

「罪を犯してまで、です!」

 ジャック氏が身震いした。

「もう妻が起きている頃です」ジャック氏は話を終わらせた。「階下に行きましょう。もっとも、労働者にとっては早過ぎるということはありませんからね。さあ、いらっしゃい」

「そうですね。ごめんなさい。でもいろいろなお話や本や考え方に我を忘れて夢中になってしまったものですから」

「つまりあなたは恋をしているのですよ」

 ジルベールは何も答えず、莢隠元を集めてピンで袋を元に戻し始めた。ジャック氏はそれを見ていた。

「贅沢な寝床ではありませんでしたが、そうは言ってもこうして必要なものは手にしたのですし、もっと早起きしていたなら、この窓から草木の香りが漂って来たはずです。悪臭に満ちた大都市の中では一服の清涼剤ですよ。あそこにはジュシエンヌ通りの公園があって、菩提樹や金鎖キングサリが花を咲かせているんです。朝にその香りを吸い込むのは、哀れな囚人にとって、その日のすべてに勝る幸せではありませんか?」

「多分そうなんでしょうね。でも慣れのせいでまったく気にしたことがありませんでした」

「まだ田舎を忘れて懐かしく思うほどには時間が経っていないということですか。おや、すべて元通りにし終えましたね。では働く時間です」

 戸口を示してジルベールを外に出し、ジャック氏は南京錠を掛けた。

 そうして前夜テレーズが書斎と呼んだ部屋に、まっすぐジルベールを連れて行った。

 ガラスの下の蝶、黒い木枠に囲まれた植物や鉱物、胡桃製の本棚に収められた書物、細長い机には緑と黒の擦り切れた毛糸の敷物が敷かれており、その上にきれいに並べられた手書きの原稿、黒い馬尾毛ばすで覆われた桜製の肘掛け椅子が四脚、これが部屋の中身だった。そのどれもがつやつやと磨かれ、清潔に整えられていたが、見た目にも感覚的にも冷たく、ペルシア・カーテン越しに和らげられた光が弱々しくくすんでいるせいで、華やかさはもちろん安心感すらこの冷たい灰と黒い炉辺からは遠のいているように感じられた。

 薔薇材で出来た小型チェンバロが四本の脚でまっすぐと立ち、暖炉の上には「Dolt, à l'Arsenal」と銘のある掛け時計。生命を感じられるのはこの二つだけだった。外を馬車が通るたびに弦に震えが走り、振り子はその墓所の中に何かが潜んででもいるように澄んだ音を立てた。

 こうした部屋に、ジルベールは敬虔な気持で足を踏み入れた。家具が豪華なことに気づいた。タヴェルネの城館のものに似ていたからだ。なかでも磨かれたタイルに深い感銘を受けた。

「お坐り下さい」ジャック氏が指し示したところには、窓際にもう一つ小卓が置かれていた。「どんな仕事を見つけて来たのか、これからお伝えしましょう」

 ジルベールは慌てて腰を下ろした。

「これがわかりますか?」

 ジャック氏はそう言って、等間隔の線が引かれた紙をジルベールに見せた。

「ええ、五線紙ですよね」

「そうです、わたしはこの紙を一枚しっかり埋めて、つまり楽譜をそっくり複写して、十スーもらいました。これはわたし自身で決めた金額です。どうです、楽譜の複写を覚えられそうですか?」

「はい、大丈夫です」

「ですが、黒い点に一本や二本や三本の線が走り書きされているのを見て、目が回りませんか?」

「そうなんです。一目見ただけでは何だかよくわかりません。でも精一杯頑張って音符の見分けが付くようにしますから。例えばこれはファですよね」

「どれですか?」

「これです。一番上の線上のやつです」

「では下の二本の線の間にあるのは?」

「それもファです」

「その上の、二番目の線上にある音符は?」

「ソです」

「するとあなたは楽譜を読めるのですか?」

「音符の名前は知っていますが、それがどんな音なのかまではさっぱりなんです」

「では二分音符、四分音符、八分音符、十六分音符、三十二分音符はわかりますか?」

「ええ、知っています!」

「ではこの記号は?」

「四分休符です」

「ではこれは?」

「シャープです」

「これは?」

「フラット」

「凄いじゃありませんか!」どうやらいつもの癖らしく、ジャック氏の目が疑わしげに曇り始めた。「何も知らないと言いながら、こうして音楽のことも植物のこともお話しになって、先ほどは愛についても話しかけていましたね」

 ジルベールは真っ赤になった。「ああ、どうか笑わないで下さい」

「笑うどころか、感心しているんですよ。音楽という芸術を習うのは、大抵はほかのことを学んだ後ですからね。それなのにあなたは教育を受けたこともないと言うし、何一つ学んだこともないと言うんですから」

「それは本当のことですから」

「そうは言っても、一番上の線上にある黒丸がファだというのをひとりでに思いついたわけではないでしょう?」

「それは……」ジルベールはうつむいて力ない声を出した。「以前いた家には、その……チェンバロを弾くお嬢さんがいたので」

「そうでしたか。植物学に関心を持っていた方ですね?」

「そうです。とても上手でした」

「そうですか」

「ええ。そういうわけで、僕は音楽が大好きなものですから」

「音符をご存じなのは、それだけ(が理由)ではないでしょう?」

「ルソーが言っています。原因を探ることなしに結果を受け入れるのは未完成の人間だと」

「ええ、ですがこうも言っていますよ。そうやって完成することで、人間は喜びや純粋さや天分をなくしてしまうと」【※エミール?】

「なくしてしまうのと同じ喜びを教育の中に見出せば、何の問題もないじゃありませんか!」

 ジャック氏は溜息をついてジルベールを見つめた。

「おやおや、植物学者で音楽家であるだけでなく、論理学者でもあったのですか」

「残念ですが、僕は植物学者でも音楽家でも論理学者でもありません。音符の区別と記号の区別は付きますが、それだけです」

「ではドレミを歌えますか?」

「まるっきりわかりません」

「まあよいでしょう。試しに写譜してもらえますか? 五線紙はここにあります。ただしあまり無駄にしないよう気をつけて下さいね、高いものですから。いえそれより、白紙を使って、それに線を引いて試してもらった方がいいですね」

「わかりました。仰る通りにします。でも失礼ながら、これは僕の一生を費やす仕事ではなさそうです。だってわかりもしない楽譜を写すよりは、代書人になる方がよさそうですから」

「まあまあ、口を開く前によく考えることです」

「僕がですか?」

「そうですとも。代書人が仕事に就いてたつきを得るのは夜中ですか?」

「ああ、いますね」

「いいですか、よくお聞きなさい。慣れた者なら夜の二、三時間で五、六ページも写すことが出来ます。努力すれば簡単に丸い音符やきれいな線を書けるようになりますし、読むのに慣れれば原本を見る回数も減りますから。六ページで三フラン。それで人一人生活できます。異論はありませんね、それとも六スーしかいりませんか? 夜中に二時間働けば、外科や薬学や植物学の学校で講義を受けられるんですよ」

「ああ、そういうことでしたか! 心からお礼を申し上げます」

 ジルベールはジャック氏が用意した白い用紙に飛びついた。

エミリー・ディキンソン 0002

どんなときでもうららかな
空もどこかにあるし、
たとえそこが暗闇でも、
光はどこかにある。
枯れた森など忘れて、オースティン、
寂しい野原など忘れて――
ここは、いつまでも緑のままの
小さな森。
ここは、霜の降りたことのない
明るい庭。
色褪せぬ花に囲まれて
蜜蜂の羽音が聞こえます。
どうか、お兄さん、
わたしの庭にいらしてください!

『ジョゼフ・バルサモ』 44-4

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「そうなると、あたしたちがどれだけ頑張ろうと無理な相談だね。後はあなたの部屋かあたしの部屋しか……」

「どうだろう、テレーズ、忘れてやしないかい」

「忘れてるですって?」

「ああ。屋根裏部屋がなかったかな?」

「物置のことですか?」

「物置じゃない、部屋だよ。屋根裏ではあるけれど、いい部屋だ。パリでも珍しい素晴らしい庭園が見下ろせたはずだね」

「気になさらないで下さい、物置でも僕には充分です」

「駄目、駄目。あそこは洗濯物を広げているんですから」

「この方は迷惑は掛けないよ。そうでしょう? 洗濯物を傷めないよう気をつけてくれますね? 何せ貧しいものですから、駄目にされると大変な痛手なんですよ」

「安心して下さい」

 ジャック氏が立ち上がってテレーズに近寄った。

「この方を堕落させたくないんだよ。パリは危険な場所だからね、ここなら目が届くだろう」

「教育を施すんですか。だったらあの人は寄宿料を払ってくれるかしらね?」

「違うよ、だがお金の心配はしなくてもいい。明日からは自分で食事を取ることになっているからね。ただ住まいについては、どうせ屋根裏はほとんど使っていないのだから、思いやりを見せようじゃないか」

「さすがに同類は違いますね!」テレーズが肩をすくめて呟いた。

「すみません」言い合いはもう勘弁して欲しかった。徐々に本音がこぼれて来たし、もてなされても気まずい思いをするだけだ。「僕はこれまで誰にも迷惑をかけては来なかったし、とても親切にしてくれたあなたに対して、ここで初めてご迷惑をかけるつもりもありません。だからもう失礼いたします。さっき橋の側を通りかかった時、木陰にベンチがあるのを見かけました。そこでならぐっすり眠れそうですから」

「宿無しだといって夜警に捕らえられたいんですか」ジャック氏が言った。

「その通りじゃないですか」テレーズが食器を片づけながら小声で呟いた。

「お待ちなさい、確か上に藁布団があったはずです。ベンチよりはましでしょう。ベンチで我慢できるのでしたら……」

「大丈夫です。いつも寝るのは藁布団でした」

 それから小さな嘘をつけ加えた。

「毛布は暑過ぎるので」

 ジャック氏が微笑んだ。

「確かに藁は涼しいですからね。その蝋燭を持ってついて来て下さい」

 テレーズはもはやジャック氏の方を見もしなかった。ため息をついてすっかり諦めているようだ。

 ジルベールはぎこちなく立ち上がり、ジャック氏について行った。

 控え室を通ると、貯水槽が見えた。

「もしかして、パリでは水は貴重なのでしょうか?」

「そんなことはありませんよ。貴重だとしたら、水とパンを求められても拒むことなど出来はしないでしょう」

「そうですよね。タヴェルネでは水はいくらでもあったので、貧しくても身だしなみだけは贅沢できたんです」

「どうぞお飲み下さい」ジャック氏は陶器の壺を指さした。

 そうして先に立って歩きながらも、この年頃の青年に貴族じみたこだわりがあることに驚いていた。


 第44章おしまい。第45章に続く。

ルナール日記 1905年2月13日

からすというのは冬に凍った赤キャベツのようだ

『ジョゼフ・バルサモ』 44-3

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「そりゃあ暑いし喉も渇いているでしょうね。木陰で一日を過ごせば、たいそう疲れたでしょうとも。それで時たましゃがんで植物を摘むのが仕事とはね! この人も植物採集かい。そんなのは暇な人の仕事ですよ」

「この人はね」とジャック氏は少しずつしっかりとした声を出していた。「親切で正直な青年だよ。一日中一緒に過ごしてくれたんだ。だからテレーズも友人のようにもてなしてくれると信じている」

「二人分しかないよ」テレーズがもごもごとこぼした。「三人分はない」

「わたしもお客さんもあまり食べないから」

「ええ、はいはい。あまり食べないのはわかってますよ。あまり食べない人たち二人に食べさせるだけのパンも家にはないんですよ。三階下まで買いに行く気はありませんし。第一、こんな時間じゃパン屋は閉まっていますからね」

「ではわたしが行くよ」眉をひそめてジャック氏が言った。「扉を開けてくれないか、テレーズ」

「だけど……」

「そうすると言っているんだ」

「わかりましたよ!」テレーズは口答えしたものの、反論するたびに強くなっているジャック氏の口調に押されていた。「あなたの気まぐれに付き合ってられませんよ……あるもので足りると思いますから。ご飯にしましょう」

「わたしの隣にお坐りなさい」ジャック氏はジルベールを隣室の食卓まで案内した。卓子の上には食器が二人分、巻かれたナプキンが二人分並べられており、一つは赤い紐、一つは白い紐で縛られていて、どちらが誰の席なのかがわかるようになっていた。

 小さく四角いこの部屋には、白い模様のついた水色の壁紙が貼られていた。大きな地図が二枚、壁に飾られている。ほかには椅子が六脚(桜木製と藁椅子)、前述の食卓、繕った靴下の詰まった洋箪笥。

 ジルベールが席に着くと、テレーズがその前に小皿を置き、使い古されたナイフやフォークを添えた。最後に、よく磨かれた錫のコップを用意した。

「階下には行かないのかい?」ジャック氏がテレーズにたずねた。

「必要ありませんからね」ぶっきらぼうな調子からは、やり込められたことをいまだ根に持っているのがわかる。「戸棚の中にまだ半切れありましたから。一リーヴル半はありますから、それで満足してもらわなくっちゃね」

 テレーズはそう言いながらポタージュを卓子に置いた。

 初めにジャック氏によそい、次がジルベールだった。テレーズは鍋から直接口にした。

 三人とも食欲旺盛だった。ジルベールは二人が家計のことで言い合っているのを聞いてすっかり怖じ気づいてしまい、懸命に食い気を抑えていた。それでも皿を空にするのは一番早かった。

 早くも空っぽになってしまった皿に、テレーズが怒ったような視線を投げた。

「今日は誰か訪ねて来たかい?」テレーズの気持を逸らそうと、ジャック氏がたずねた。

「ええ、いつものように国中からね。お約束していたんでしょう、マダム・ド・ブフレには四作品、マダム・デスカルに二曲、マダム・ド・パンチエーヴルには伴奏付四重奏曲。ご本人もいらっしゃれば、使いの方もいらっしゃいました。だけどどうですか! あなたは植物採集の真っ最中。人間、趣味と仕事を同時には出来ませんからね、ご婦人方は楽譜を持たずにお帰りになりましたよ」

 ジャック氏が何も言わないことに驚いて、てっきり腹を立てているのだろうとジルベールは思っていた。だが今回問題になったのは自分のことだけだったからだろうか、ジャック氏は表情を変えなかった。

 スープの次に出されたのは一切れの牛肉の煮物で、それが包丁で擦り傷だらけの陶製の皿に載せられている。

 テレーズが睨んでいるのでジャック氏は控えめにジルベールに肉を取り分け、自分にも同じだけ取り分けてから、皿をテレーズに回した。

 テレーズはパンを一切れジルベールに分け与えた。

 それがあまりに小さかったため、ジャック氏は赤面した。テレーズがジャック氏の分と自分の分を取り分けるのを待ってから、ジャック氏はパンを手に取った。

「ご自分で切り分けなさい、お好きなだけ構いませんよ。お腹の空いている人に合わせるべきですからね」

 その後には、バターと塩胡椒で味を付けた莢隠元が出て来た。

「青々としているでしょう。これは保存食なんですよ、こうして美味しいままでいただけるんです」

 そう言ってジルベールに皿を回した。

「ありがとうございます。たっぷりいただいたのでもうお腹は一杯です」

「お客さんは保存食がお気に召さないようだね」テレーズの声には棘があった。「おおかた新鮮な隠元の方がよかったんでしょうけど、取れたてなんて手が出ませんからね」

「違うんです。とても美味しそうだし、いただきたいのはやまやまなんですが、今まで一皿以上食べたことがないものですから」

「水はお飲みになりますか?」ジャック氏が壜を差し出した。

「いつでもいただきます」

 ジャック氏の方は自分のコップに生のワインを注いだ。

「ところでテレーズ」と卓子に壜を戻し、「この方の寝床を用意してやってくれないかな。随分と疲れているだろうから」

 テレーズはフォークを落とし、あっけに取られて夫を見つめた。

「寝床? 気でも違ったんですか! 寝床を貸しに連れて来たっていうんですか! だったらあなたの寝台に寝かせればいいでしょう? どうやらすっかりいかれちまったみたいね。これから宿屋でも始めるつもりなんですか? だったらあたしは当てにしないでおくれ。料理女と女中でもお探し下さい。あなたの世話だけで目一杯ですよ、他人の世話まではとてもとても」

「テレーズ」ジャック氏が重々しく強い口調で答えた。「テレーズ、どうか聞いてくれ。一晩だけだよ。この方はパリに来たのは初めてでね。わたしが案内して来たんだ。旅籠で寝かせたくはないんだ、お前の言うようにわたしの寝台で寝かせることになってもいい」

 きっぱりと言い返してから、返事を待った。

 テレーズは顔の動きを確かめてでもいるように、話中の夫をじっと見つめていたが、今は争いを避けるべきだと判断したらしく、突然戦術を変えた。

 ジルベールを敵に回すのは得策ではない。ジルベールの味方に付くことにした。意に背く同盟なのは間違いない。

「お客さんが一緒に帰って来たのは確かなんだし、あなたもお客さんのことをよく知っているようだから、ここで休ませてあげた方がよさそうですね。何とか書斎に寝台を用意しますよ、紙の束の横にでも」

「それはいけない」ジャック氏が慌てて口を入れた。「書斎は寝るような場所ではないからね。紙に火が付いてしまうかもしれない」

「参ったね!」とテレーズはぼやいてから、「だったら、控え室の戸棚の前はどう?」

「それもいけない」


 続く。

エミリー・ディキンソン 0067

成功を何よりも甘美だと考えるのは
決して成功することのない人たち。
神酒を味わうことのできるのは
痛いほどに必要としている人たち。

今ではもう、緋色に染まって
旗を奪った軍隊の誰一人として
勝利とは何かを
はっきりと定義することはできない

打ち負かされ――死に瀕して――
閉ざされた耳に
遠くから凱歌が
容赦なくはっきりと轟くときほどには!

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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