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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 49「王家の馬車」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第四十九章 王家の馬車

 遠くから聞こえていたどよめきも、近づくにつれてずっしりと重たい音に変わった。耳をそばだてたジルベールは、身体中が震え鳥肌立つのを感じた。

 歓声が聞こえる。「国王万歳!」

 黄金と緋糸で飾られた馬たちの群れが、いななきながら車道を疾駆した。銃士隊、近衛騎兵隊、スイス人衛兵隊である。

 次いで大きく豪華な四輪馬車が姿を現した。

 青い綬、かぶりものをした気高い頭が見えた。国王の冷たく鋭い眼差しに射すくめられて、誰もが頭を垂れて帽子を取っている。

 魅了されて、動くことも出来ずに陶酔しきって息を詰まらせ、ジルベールは帽子を脱ぐのも忘れていた。

 衝撃を受けて正気に返った。帽子が地面に転がり落ちている。

 びっくりして帽子を拾い、頭を上げると、先ほどの甥が軍人特有の皮肉な笑みを浮かべて睨んでいた。

「国王陛下に対して帽子を取らないのか?」

 ジルベールは青ざめて、埃をかぶった帽子を見つめた。

「国王を拝見するのは初めてだったので、礼儀を忘れていたのは事実です。だけど知らなかったんです……」

「知らなかったって?」兵士は眉を寄せた。

 ここから追い払われることは避けたかった。ここからならアンドレがよく見えるだろう。心に渦巻く愛情が、高慢な気持を打ち砕いた。

「申し訳ありません、田舎から出て来たばかりなんです」

「するとパリに教育を受けに来たんだな、坊主?」

「はい、そうです」ジルベールは怒りを押さえ込んだ。

「そうか、学ぶつもりがあるなら覚えておけ」と言って、伍長は帽子をかぶり直そうとしていたジルベールの手をつかんだ。「王太子妃にも国王と同じようにご挨拶するんだ。王子殿下にも王太子妃と同じようにだ。百合の花のついた馬車すべてにご挨拶し給え……百合の花はわかるな? それとも教えなきゃならんか?」

「大丈夫です。百合の花ならわかります」

「そいつは結構なことだ」と伍長がぼやいた。

 王家の馬車が通過した。

 馬車の列は長々と続いた。ジルベールは食い入るように見つめていた。放心しているように見えたほどだ。馬車は次々に修道院前に停車し、取り巻きの貴族たちが降りてきた。そのために、五分刻みで馬車の列は止まるはめになった。

 何度目かに馬車が止まった時、ジルベールは燃えさかる炎に心臓を貫かれた。気が遠くなって目の前が真っ白になり、激しい震えに襲われ、倒れたりしないよう枝につかまらなくてはならなかった。

 ジルベールの目の前、せいぜい十歩ほどのところ、伍長に言われた百合の花のついた馬車の中に、まばゆいばかりに光り輝くアンドレの姿が見えたのだ。真っ白な服に身を包み、まるで天使か幽霊のようだった。

 ジルベールは小さく声をあげ、心を捕らえていた感情をようやく押し殺すと、胸の鼓動を抑え込み目の焦点を太陽に合わせようと努めた。

 自制心は強かったので、どうやらうまくいった。

 ちょうどその頃アンドレは、馬車が止まった理由を確認しようと扉から顔を出し、青く澄んだ瞳で周りを眺めた。そこでジルベールを見つけ、目が合った。

 ジルベールを目にすれば、きっとアンドレは驚いて顔を引っ込め、隣に坐っている父に伝えるだろう。

 ジルベールの思っていた通り、アンドレは驚いて顔を引っ込め、ド・タヴェルネ男爵にジルベールのことを知らせた。男爵は赤綬をつけ、王家の馬車の中に厳かに収まっていた。

「ジルベールだと?」男爵は感電したように声をあげた。「ジルベールがここに? ではマオンの世話は誰がしとるんだ?」

 ジルベールはすべて耳にして、すぐさまアンドレ親子に向かって極めて丁寧な挨拶を送った。

 全力を傾けた挨拶だった。

「どうやら間違いないな!」男爵も我らが哲学者君の姿を認めた。「確かにあの抜け作に違いない」

 ジルベールがパリにいるとは思ってもみないことだったので、初めは娘の目を信じようとしなかったし、今も自分の目を信じたくはなかった。

 一方アンドレの顔には、ジルベールが抜かりなく観察していたところでは、初めに軽い驚きが浮かんだほかは如何なる動揺も現れなかった。

 男爵が顔を出し、ジルベールに近くに来るよう合図した。

 ジルベールは行こうとしたが、伍長に止められた。

「呼んでいる人がいるんです」

「何処にいる?」

「あの馬車です」

 伍長の目がジルベールの指の先をたどり、ド・タヴェルネ男爵の馬車の上で止まった。

「失礼だが」と男爵が言った。「その子と話がしたいのだ。一言で済む」

「一言と言わず三言でも四言でもどうぞ」と伍長が答えた。「それだけの時間はあります。門のところで演説を読んでいる人がいるので、三十分は余裕があるでしょう。ほら行き給え」

「来るんだ、抜け作め!」そう言われて、ジルベールは普段通りに歩こうとした。「タヴェルネにいるはずのおんしをサン=ドニで見かけるとはどういう偶然だ?」

 ジルベールはもう一度アンドレと男爵に挨拶をしてから答えた。

「偶然ではありません。僕がここに来たのは、自分の意思です」

「意思だと? おんしに意思があるとは驚きだわい」

「どうしてです? 自由人が意思を持つのは当然のことです」

「自由人だと? すると自分が自由だと思っておるのか?」

「もちろんです。誰にも自由を束縛されていませんでしたから」

「いやはや何とも」ド・タヴェルネ男爵はジルベールの厚かましさに目を回した。「ところでどうやってパリまで来たのだ?……どんな手だてで?」

「歩いて来ました」ジルベールはぴしゃりと答えた。

「歩いてですって?」アンドレが同情するような顔を見せた。

「それで、パリで何をするつもりじゃね? それが聞きたい」

「まず教育を受けて、それから財産を作るつもりです」

「教育だと?」

「もちろんです」

「財産?」

「出来れば」

「だがそれまではどうするつもりかの? 物乞いでもするのか?」

「物乞いですって!」ジルベールは蔑みも露わにした。

「ではかっぱらいかね?」

「失礼ですが」ジルベールの尊大で自尊心に満ちた口調に、ド・タヴェルネ嬢は注意を引かれた。「僕がこれまであなたから物を盗んだことがありましたか?」

「では怠け者にはどんな仕事が務まるのかな?」

「僕に相応しい仕事ですとも。根気強くなければ務まらない仕事ですからね。楽譜を写しているんです」

 アンドレが顔を向けた。

「楽譜を写しているの?」

「はいそうです」

「楽譜が読めるのかしら?」アンドレの言葉には軽蔑が滲んでいた。「嘘つきね――そう言われているも同然だった。

「音符は知っていますから、写譜するにはそれで問題ありません」

「何処で音符なぞ覚えおった?」

「ええ、ほんと」アンドレも微笑んだ。

「男爵閣下、僕は本当に音楽が好きなものですから、毎日お嬢様が一、二時間チェンバロに向かっているのを、物陰から聴いておりました」

「ぐうたらめが!」

「まず曲を覚えました。それからその曲の載っている教則本を、少しずつ勉強して、読めるようになりました」

「教則本ですって!」アンドレが怒りの叫びをあげた。「あなた、わたくしの教則本をいじっていたの?」

「違うんです、そんなことは絶対にしてません。チェンバロのそこここに開いた状態で置いてあったので、触ってはいません。覗き込んで読んでいただけですから。目で見ただけではページは汚れませんよね」

「見ているがいい。この阿呆はそのうちハイドンのようにピアノが弾けると言いだすぞ」

「弾けるようになっていたと思います。鍵盤に指を置こうとしさえすれば」

 アンドレはジルベールの嬉々とした顔を眺めずにはいられなかった。殉教という感覚に酔いしれているとしか思えない。

 だが男爵には娘のような冷静さも分別もなかった。この若造が正しかったこと、マオンと一緒にタヴェルネに残して来たという残酷な間違いのことを考えると怒りが燃え上がった。

 明らかな間違いを犯したからといって、目下の者に許しを請うのは難しい。そういうわけだから、アンドレが落ち着くに従い、父親の方はますますかっかとしていた。

「この悪党めが! タヴェルネから逃げ出してぶらつきおって。言い訳があるならその二枚舌を使って言ってみるがいい! わしが抜かったばかりに、王都の敷石を詐欺師や浮浪者に踏まれるとは我慢がならん……」

 アンドレが父の気を静めようとした。あまり言ってはこちらの分が悪くなると思ったのだ。

 だが男爵は娘の手を払いのけた。

「サルチーヌ殿に伝えておこう。せいぜいビセートル行きを覚悟しておくがいい!」

 ジルベールは一歩退がって帽子をかぶった。怒りで青ざめている。

「いいですか。僕はパリにいる間、あなたの言うサルチーヌ殿を待たせておくような方のお世話になっていたんですよ!」

「ふん! ビセートルからは逃げられても、鞭打ちからは逃れられんぞ。アンドレ、アンドレ、兄を呼んでくれ。近くにおるはずだ」

 アンドレは身を乗り出し、ジルベールに有無を言わせず告げた。

「ジルベール、行きなさい!」

「フィリップ、フィリップ!」男爵が呼んでいる。

「行きなさい」アンドレは繰り返したが、ジルベールは魅入られたように物も言わず微動だにしなかった。

 男爵に呼ばれて騎士が一人、馬車の戸口に駆け寄った。大尉の制服を身につけたフィリップ・ド・タヴェルネである。明るくきらびやかに輝いていた。

「おや、ジルベール!」ジルベールに気づいてにこやかに声をかけた。「こんなところで会うとはなあ! ご機嫌よう、ジルベール……何かご用でしょうか、父上」

「おはようございます、フィリップさん」ジルベールも挨拶を返した。

「用というのはほかでもない」怒りで真っ青になった男爵がわめいた。「剣の鞘でこの抜け作を懲らしめてやれ!」

「何があったんですか?」怒りを燃え立たせる男爵と極めて落ち着き払ったジルベールを見比べて、フィリップはたずねた。

「こやつはな、こやつは……! ええいフィリップ、犬のようにぶってやればいいんじゃ」

 フィリップは妹の方を見た。

「何があったんだ、アンドレ? 侮辱されたのか?」

「僕がアンドレを侮辱!?」ジルベールが叫んだ。

「いいえ、何も、フィリップ。何もなかったわ。父が癇癪を起こしただけ。ジルベールさんはもううちの人間ではないのだから、行きたい場所に行く権利があるの。父はそれを理解したくなかったから、ここで出会って怒りに駆られてしまっただけ」

「それだけなのか?」フィリップがたずねた。

「それだけよ。お父様がわざわざこんな一顧だにするまでもないことのためにお怒りになるのがわからない。馬車はまだ進まないのかしら」

 男爵は何も言わなかった。娘の冷静沈着ぶりになだめられた恰好だ。

 ジルベールはこの蔑みの言葉にがっくりとうなだれた。憎しみにも似た稲妻が心を貫いた。フィリップの剣で滅茶苦茶にぶたれた方がましだった。鞭で血の滲むまでぶたれても構わなかった。

 気が遠くなりそうだ。

 だが幸運にもちょうど演説が終わり、馬車が再び動き出した。

 男爵の馬車が前の馬車を追って少しずつ遠ざかっていった。アンドレも夢のように消えてしまった。

 一人取り残されたジルベールは、いつ慟哭してもおかしくなかった。どうやら苦しみの重みに耐えられそうにもない。

 その時、肩に手を置かれた。

 振り向いてみるとフィリップがいた。聯隊士に馬を預けて地面に降り立ち、顔には満面の笑みが戻っていた。

「さあ、何があったんだ、ジルベールめ。それにパリには何をしに?」

 気取らない暖かい言葉に、ジルベールは心を打たれた。

「ああ!」頑迷な禁欲主義者も溜息を洩らした。「タヴェルネで何が出来たでしょうか? 教えて下さい。タヴェルネにいたならきっと、絶望と無知と飢えで死んでいたことでしょう」

 フィリップはおののいた。裏のない性格だったため、アンドレと同じく、見捨てられたこの若者の痛ましい境遇に衝撃を受けたのだ。

「ではパリで身を立てるつもりなのか? お金も後ろ盾も援助もないというのに」

「僕はそのつもりです。働く気があるなら飢え死にすることもないでしょう。何もする気のない人たちもいるところですから」

 フィリップはこの返答におののいた。ジルベールのことを、取るに足らない馴染みとして考えたことしかなかったのだ。

「だが食べなくてはならないだろう?」

「パンを買います。自分で稼がず批判しかして来なかった人間には、それ以上は必要ありません」

「タヴェルネの待遇にそんなことは言うまいね? 君の父上も母上も素晴らしい使用人だったし、君も随分と役に立ってくれたじゃないか」

「僕は自分の務めを果たしただけです」

「いいか、ジルベール。ぼくは君のことが気に入っていたし、ほかの人たちとは違う見方をして来たつもりだ。正しいのか間違っているのかはそのうちわかるだろうがね、君が人嫌いなのは繊細だからだし、粗野なのは自尊心の現れではないのか」

「ああ!」ジルベールは息をついた。

「君には上手くやってもらいたいんだ」

「ありがとうございます」

「君と同様ぼくも若いし、ぼくなりに不幸だった。君のことがわかるのは、だからだろうな。運命はある日ぼくに微笑んだ。今度は君に微笑むまでの間、援助させてくれ」

「本当に、本当にありがとうございます」

「予定はあるのかい? そんなに人嫌いでは、誰かに雇われることも出来まい」

 ジルベールは蔑んだように笑って首を振った。

「教育を受けるつもりです」

「だが教育を受けるには教師がいる。教師を雇うにはお金がいる」

「働いて稼ぎます」

「稼ぐだって!」フィリップは笑い出した。「いったいどれだけ稼ぐつもりだい?」

「今は一日二十五スーですが、そのうち三十や四十スー稼げるようになると思います」

「それでは食べるだけで精一杯だろう」

 ジルベールは微笑んだ。

「ぼくが援助するのはまずいのだろうね」

「あなたがですか?」

「ああ、ぼくの援助だ。受け入れるのは恥なのかい?」

 ジルベールは答えなかった。

「人間はこの世で助け合うものだ」メゾン=ルージュ(フィリップ)は続けた。「人間同士みんな兄弟じゃなかったのか?」

 ジルベールは顔を上げて、知的な眼差しでフィリップを見つめた。

「驚いたのかい?」

「いいえ、それは哲学者の言葉ですから。ただ、あなたのような立場の人からそんな言葉を聞いたことはなかったので」

「そうだろうな。だがこの言葉はぼくら世代の言葉でもある。王太子ご自身もこの箴言を共有しているのだ。さあ、ぼくに対して意地を張る必要はない。貸したものは後で返してくれればいい。君がいつかコルベールやヴォーバンのようにならないとも限らないだろう?」

「あるいはトロンシャンに」とジルベールが言った。

「あるいはね。これが財布だ、取り給え」

「ありがとうございます」フィリップが腹を割ったことに感動して、頑固なジルベールも思わずそう言った。「ただ、僕は何もいりません。でも……でも、受け取ったも同然な気持で感謝していることは、お伝えしておきます」

 そうして、茫然としているフィリップに挨拶をするや、人込みに紛れ、見えなくなった。

 若き大尉はしばらくの間、自分の目や耳が信じられないかのようにして立ちつくしていた。だが、ジルベールが戻って来ないとわかると、馬に跨り持ち場に戻った。

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『ジョゼフ・バルサモ』 48「パリ市民」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第四十八章 パリ市民

 修道女たちが旅の女に伝えていた通り、皇帝の娘をどのように迎えるかを決定するために参事会が催されていた。

 マダム・ルイーズ殿下はこうしてサン=ドニの最高管理者として初仕事を行っていた。

 教会財産は底を突きかけていた。先の修道院長が辞めるに当たって、私物であったレースを大量に持ち帰っていたし、聖遺物箱や聖体顕示台にしても、名家出身の修道院長たちが世俗的な環境で主の務めに身を捧げるに当たって、(自らが属す)共同体に貸し与えているものだった。

 王太子妃がサン=ドニに立ち寄るという報せを聞いて、マダム・ルイーズはヴェルサイユに特使を送っていた。同夜、タペストリー、レース、オーナメントを積んだ荷馬車が到着した。

 六十万リーヴル分に相当する。

 そのため、この式典が如何に絢爛豪華かが喧伝されると、パリっ子たちの興奮と好奇心は頂点に達した。メルシエが述べていたように、少人数であれば笑って済ませられるが、大勢が集まれば決まって頭痛と嘆きの種になるのがパリっ子である。

 斯くして、王太子妃の旅程が知れ渡ると、夜明けと共に十人、百人、千人のパリっ子たちが家から出て集まっているのが見られた。

 サン=ドニに宿営していたフランス近衛兵、スイス人衛兵、聯隊員たちは、武器を手にして隊列を作り、人波の洪水を抑えようとしたが、既に聖堂の正面は恐ろしい渦巻きに取り囲まれ、大門の彫刻によじ登る人もいた。至るところに顔が見える。門の庇の上には子供が、窓からは男も女も顔を出し、さらには遅れてやって来た野次馬たちもいれば、ジルベールのように人混みの中で拘束されるよりは自由を好む者たちもいて――そうした野次馬たちは、木に登り枝を渡る蟻のように、サン=ドニからラ・ミュエットまで王太子妃の通り道にずらずらと列を成していた。

 今なお華やかな随員(供回り)や従僕(お仕着せ)は少なからず従っているものの、コンピエーニュと比べると廷臣の数は減じていた。よほどの大貴族でもない限り、道々用意されている替え馬を使って、国王の後について通常の二倍も三倍も走ることは不可能だったからだ。

 身分の低い者たちはコンピエーニュに留まっているか、パリに戻って馬を休ませるために駅馬に乗っていた。

 だが、家で一日休むと、親方も庶民も再び外に出てサン=ドニに向かい、一度見ているというのにまた王太子妃と野次馬を見に行った。

 当時、廷臣のほかに供回りがいなかったのだろうか。例えば高等法院、金融業者、大商人、貴婦人にオペラ歌手。パリの男女を詰め込んで走り、混み合っているためにとろとろと徒歩よりも遅いような乗合馬車のほかに、サン=ドニ行きの貸し馬や貸し馬車はなかったのだろうか。否。

 それ故に新聞やビラが王太子妃の到着予定を知らせた日の朝、大勢の軍隊がサン=ドニに向かい、カルメル会修道院の目の前にひしめき、既に特等席が埋まっていれば王太子妃一行の通り道にまで溢れている、そんな状態を想像してもらうのも容易かろう。

 この人混みの中ではパリ市民さえ脅威を覚えていたのだから、ジルベールにとってはなおのことだった。ちっぽけで孤独で優柔不断で土地に不案内であるうえに、自尊心が強くてものをたずねることも出来ないのだ。ジルベールはパリに来て以来、生粋のパリっ子だと思われようとしていた。それまで百人を超える群衆を見たこともなかったというのに!

 初めのうちは通行人をちらほら見かけるだけだったが、やがてラ・シャペル辺りから人が増え始め、サン=ドニに着いてみると石畳から生えたわけでもあるまいに、畑に並んだ麦穂のように人が密集していた。

 ジルベールはしばらく前から何も見えなくなり、人込みの中で迷子になっていた。何処に向かっているのかもわからずに、人の流れについて行った。だが何処に向かっているのか知る必要があった。子供たちが木に登っている。自分も服を脱いで木に登りたい気持を抑えながらも、ジルベールは木の下に近づいた。同じように何も見えずに困っている人々が、人の向かっている木々のふもとに向かって歩いていた。うまいことを考えた人々が樹上の子供たちにたずね、そのうちの一人の答えから、修道院と衛兵たちの間に空間(空き・余地)があることがわかった。

 ジルベールはこのやり取りに力を得て、四輪馬車が見えるかと今度は自分がたずねてみた。

 馬車はまだ見えないが、四分の一里先の路上に砂埃が見えるという返事だった。これこそジルベールの知りたかったことだ。馬車はまだ到着してない。問題なのは、馬車がどちらの方角からやって来るかを知ることだけだった。

 パリで誰とも親しく口を聞かずに人込みを通り抜けようと思うのなら、英国人になるか聾になるか唖になることだ。

 ジルベールが人混みから抜け出そうと後ろにさがったところ、溝の後ろで一市民の家族が昼食を食べていた。

 娘は背が高く金髪で、青い瞳をして、おずおずとしている。

 母は丸々と太った小柄で陽気な女で、白い歯と若々しい顔をしている。

 父は特別な日の日曜にしか箪笥から引っ張り出さないような毛織物の服にくるまって、妻や娘よりも不安そうにしていた。確かにその二人ならどんな時でも難局を切り抜けることが出来ただろう。

 伯母は背が高く、痩せてがりがりで、気難しげだった。

 女中は始終笑っている。

 この女中が大きな籠に入った昼食一揃いを運んでいた。さぞ重かろうに、いつでも交代すると主人から声をかけられ、始終くすくすと笑いさえずっていた。

 つまり、召使いも家族の一員なのだ。ジルベールと飼い犬は同類だった。時に撲たれ、やがて捨てられた。

 ジルベールにとってこんな光景はあまりに新鮮で、視界の端から目を逸らせなかった。生まれてからずっとタヴェルネに閉じ込められていたために、領主と下僕しか知らなかった。市民(中産階級)のことなど知らなかったのだ。

 この善良な人々は、日々の生活の中で、プラトンでもソクラテスでもなく、それどころかビアスの哲学を取り入れている。

 出来るだけのことは自分たちで行い、それを出来るだけ最大限に活用していた。

 父親が旨そうな仔牛のローストを切り分けていた。パリの小市民には大出費である。こんがりと焼けて旨そうに脂の乗った食欲をそそる肉が、皿に盛りつけられていた。前夜のうちに母親が、翌日のことを考えながら人参、玉葱、脂身の中に埋めておいたのだ。女中がその皿をパン屋に持って行くと、パン焼きの傍らいくつか皿を置く余裕も確保されており、薪の余熱で一緒にこんがり焼き上がっていたという寸法である。

 ジルベールは隣の楡のふもとに場所を見つけ、格子柄の手巾で草の汚れを拭った。

 帽子を脱ぎ、手巾を草むらに置いてその上に腰を下ろした。

 ジルベールは隣人たちには注意を払わなかったが、隣人たちの方では話題にするのも当然のことだった。

「分別のありそうな男の子だね」と母親が言った。

 若い娘が顔を赤らめた。

 両親にとっては大変嬉しいことに、若い男の話題になると決まって顔を赤くするのだ。

「分別のありそうな男の子だね」と母親は言った。

 実際、パリ市民が真っ先に注目するのは、道徳的な善し悪しであった。

 父親が振り返った。

「可愛い男の子じゃないか」

 娘はいっそう赤くなった。

「随分と疲れているみたいですね」と女中が言った。「何にも持っていないのに」

「怠け者ですね!」伯母が言った。

「失礼ですけど」と母親がジルベールに声をかけた。パリっ子のところでしかお目にかかれないような、親しみのある声だった。「王様の四輪馬車はまだ遠いのかしらね?」

 振り返ったジルベールは、自分が話しかけられているのだと気づき、立ち上がってお辞儀をした。

「礼儀正しい男の子だこと」と母親が言った。

 娘は真っ赤になった。

「詳しくは知りません。ただ、四分の一里くらいのところに砂埃が見えたそうです」

「よかったら一緒にどうですか……」

 父親が声をかけ、地面に広げられた昼食を勧めた。

 ジルベールは近づいた。腹が減っていた。食べ物の匂いが誘惑しているようだった。だがポケットの中に二十五、六スーあることを思い出し、その三分の一を使えば、差し出されているのと同じくらい美味しそうな食事を取ることが出来ると考えた。それに初対面の人に甘えたくはない。

「ありがとうございます。でももういただいて来たので」

「なるほど。懸命なことだ、しかしそこからでは何も見えんでしょう」

「それを言うなら」とジルベールは笑いかけた。「あなたたちだって僕と同じ場所にいるんですから、何も見えないでしょう?」

「ああ、それはまた話が違う。甥が近衛聯隊で伍長をしておってね」

 娘が真っ青になった。

「今朝は持ち場の『青孔雀』の前に立っているはずなんだ」

「失礼ですが、『青孔雀』というのは?」

「カルメル会修道院の真向かいだ。聯隊の後ろに場所を取ってくれることになっていてね。そこに坐っていれば、四輪馬車から降りるところがばっちり見えるはずなんだ」

 今度はジルベールが真っ赤になる番だった。この親切な(善良な)人たちと食事を共にしようとは思わなかったが、一緒について行きたくてたまらなかった。

 だが己の人生哲学、否、ルソーも心配(不安視)していた誇り高さのために、小さく溜息をつかざるを得なかった。

「人を恋しがるのは女のやることだ。でも僕は男だろう! 力があるんじゃないのか?」

「あそこにいなければ」と母親が、まるでジルベールの心を読んだかのように口を挟んだ。「空っぽの四輪馬車しか見られないんですよ。見に来た挙げ句に見られるのが空っぽの馬車だなんて! わざわざそのためだけにサン=ドニくんだりまで来ることはないじゃありませんか」

「でもみんな同じように考えているのではありませんか」

「それはそうですけど、みんながみんな案内してくれる近衛兵の甥っ子がいるわけじゃありませんからね」

「ああ、その通りですね」とジルベールが言った。

 この「その通りですね」という言葉に落胆が滲んでいることを、目敏いパリっ子は素早く見抜いた。

「だがね」妻の気持に敏感な父親が言葉を継いだ。「よかったら一緒に来るといい」

「でも……お邪魔(ご迷惑)ではありませんか」

「まさかそんな(とんでもない)!」と母親が言った。「あそこまで行くのを手伝って下さいましな。手伝ってくれる人が一人しかおりませんからね。これで二人になりますもの」

 どんな説得もこの言葉ほどジルベールの心を動かすものはなかっただろう。人の役に立つことや報いることを考えたり、人から助けを求められて役に立てたり出来れば、誇りも守られるし、やましさを感じることもない。

 ジルベールは好意を受けることにした。

「手助けしてくれる人にちょっと会いに行きましょうか」と伯母が言った。

 この厚意はジルベールにとって、まさしく天からの贈り物だった。というのも、階級、財産、権力、とりわけ祝祭時の場所取り(それも誰もが出来るだけ広い場所を確保する状態)において、ジルベールよりも相応しい三万もの人々がひしめき合っているのを突破することなど、どう頑張っても出来ようか。

 もっとも、我らが哲学者君が理論家ではなく実際家であったならば、社会の力学を勉強するまたとない機会だったはずだ。

 四頭立ての四輪馬車が人込みの中を砲弾のように突っ走った。見物人も先駆けが来ると道を開ける。羽根つき帽子をかぶり派手な色のタイツを履き太い杖を持ったその先駆けも、しばしば興奮した二頭の犬に追い越されていた。

 二頭立ての四輪馬車が衛兵の耳に合い言葉のようなものを伝え、修道院に隣接する円形広場に乗り入れようとした。

 騎手は並足で見物人を見下ろしながら、何度も押されぶつかり不満を呟いた末にようやく目的地にたどり着いた。

 歩行者はもみくちゃにされた挙げ句に、押し寄せられた波のようにたゆたい、周りから押し上げられて足も地に着かないような状態で、母なる大地に戻ろうとアンタイオスのようにもがき、人込みから逃れようと見回し、逃げ道を見つけて家族を引っ張って行った。この家族というのが大抵は女たちである。というのも、あらゆる人々の中でもパリ市民だけは、いつでも何処でもあらゆる場面で女たちを平気で連れ出し、口先だけではない敬意を払わせていたからだ。

 男たちの上に、もとい女たちの上に、人込みから出た澱のような男がいる。髭を生やし、帽子の残骸をかぶり、腕は剥き出しで、キュロットは紐で留められていた。倦むことなく肘や肩や足で人を押しのけ、軋むような笑いを立て、リリパット国の小麦畑を歩くガリバーのように容易く人込みを掻き分けていた。

 四頭の馬を持つ領主でも、四輪馬車に乗った高等法院議員でも、騎士でもパリ市民でも庶民でもないジルベールは、人込みの中で押しつぶされてぼろぼろになっていても当然だっただろう。だが庇護を受けていると、随分と力強く感じられた。

 ジルベールは母親に腕を差し出した。

「厚かましい!」伯母が声をあげた。

 一家は歩き出した。父親は姉と娘の間。後ろから女中が籠を提げてついて来る。

「皆さん、失礼します……」母親が笑顔を振りまいた。「すみません、失礼します……」

 道が割れ、母親とジルベールの通り道が出来ると、その跡に残りの家族が滑り込んだ。

 歩きに歩いて、昼食を取っていた場所から修道院まで五百トワーズの距離を踏破し、手強い近衛兵が人垣を作っているところにまでたどり着いた。あらゆる希望がここに懸かっているのだ。

 娘の顔色は少しずつ元に戻っていた。

 父親がジルベールに肩をすくめた。二十歩ほど向こうで髭をひねくり回している妻の甥が見えた。

 父親が帽子を激しく振って合図をすると、それに気づいた甥がやって来て、場所を少し空けてくれるよう同僚に頼んだため、隊列の一部が空けられた。

 こうして出来た隙間にすぐさまジルベールと母親、父親、姉に娘、最後に女中が滑り込んだ。女中は通りしな振り返ってひどい声をあげて睨んでいたが、雇い主たちはその理由をたずねることさえ忘れていた。

 道を渡り切り、とうとう目的地にたどり着いた。ジルベールと父親は互いに礼を述べ、母親は引き留めようとしたが、伯母は追い出したがった。彼らは別れ、二度と会うことはないだろう。

 ジルベールがいるのは間違いなく特等席だった。そこでジルベールは菩提樹の陰に向かうと、石に上って一番下の枝にもたれて、そのまま待ち続けた。

 それからおよそ三十分後、太鼓が鳴り、大砲が轟き、大聖堂の鐘がまず一つ厳かに大気を震わせた。

『ジョゼフ・バルサモ』 47「魔術師の妻」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第四十七章 魔術師の妻

 ジルベールが充実した一日を過ごし、冷たい水に浸したパンを屋根裏でちびちびと口に入れ、庭園の空気を胸一杯に吸い込んでいた頃のこと。やや異国風ではあるが洗練された服装をし、長いヴェールで顔を覆った一人の女性が、サン=ドニの道路を見事なアラブ馬で疾走していた。今はまだ人気もないが、明日には多くの人々でにぎわいを見せることになるはずだ。女はサン=ドニ修道院の前で馬から下りると、回転式受付窓の格子を細い指で叩いた。手綱をつかまれている馬が、苛立つように前脚で砂を掻いている。

 村の住人が物珍しげに足を止めた。初めに風変わりな外見に目を奪われ、やがてしつこく戸を叩いている点を気にしだした。

「何かご用がおありですか?」と一人がたずねた。

「見ての通りです」イタリア訛りが強い。「中に入りたいの」

「ではいけない。この小窓は一日一回しか開かない。開く時間は過ぎてしまった」

「修道院長とお話しするにはどうすれば?」戸を叩きながら女はたずねた。

「壁の端の戸を叩くか、大門のベルを鳴らすといい」

 また一人近づいて来た。

「今の修道院長はマダム・ルイーズ・ド・フランス殿下なのはご存じかな?」

「ありがとう、知っています」

「見事な馬だ!」竜騎兵が声をあげた。「年を取っていなければ、五百ルイはする。俺の馬が百ピストールするのと同じくらい、確かなことだ。おわかりですか?」

 この言葉を聞いて集まっていた人々にざわめきが広がった。

 ここで聖堂の参事会員が、竜騎兵とは違って馬を気にも留めず乗り手だけを見つめ、女のところまで歩み寄ると、関係者だけが知っているやり方で小窓の扉を開けた。

「お入りなさい。馬も連れて行くといい」

 好奇に満ちた群衆ののしかかるような視線から早く逃れたくて、女は言われた通りに馬を連れて扉の奥に消えた。

 広い中庭で一人になると、馬具を震わせ蹄で地面を蹴っている馬を、手綱を引いてなだめた。すると小窓の受付係の修道女が小部屋から現れ、修道院から駆け寄って来た。

「どういったご用件でしょうか? どのようにお入りになったのですか?」

「親切な参事会員が扉を開けてくれました。私の用事は、その……可能であれば、修道院長とお話しさせて下さお」

「マダムは今夜はお会いになれません」

「修道院長には、助けを求めに来た修道女なら誰にでも、どんな時間にでも会う義務があると聞きましたが」

「通常でしたらそうすることも出来ますが、殿下は一昨日いらっしゃったばかりで、今夜参事会を開く予定なのです」

「マダム! 遠くから、ローマからやって来たんです。馬で六十里を走って来たばかりで、これが限界なんです」

「何をお望みだというのです!」受入口係の声は冷たかった。

「修道女様、私は修道院長に重大なことをお知らせに来ました」

「明日おいで下さい」

「出来ません……一日をパリで過ごして、既にその日も……それに、宿屋に泊まることも出来ません」

「何故です?」

「持ち合わせがありません」

 受入口係は唖然として女をじろじろと眺めた。宝石を身に纏い、見事な馬に乗っているというのに、泊まる金もないと言い張るのだろうか。

「今の言葉は忘れて下さい、服装のことも。お金がないと言ったのは言葉の綾です。きっとつけで泊めてくれると思います。でも私がここに求めているのは、宿ではなく避難所なんです」

「失礼ですが修道院はサン=ドニだけではありません。どの修道院にも修道院長はいらっしゃいます」

「ええ、よくわかっています。でもそこらの修道院長にお伝えするわけには参りません」

「いくら頑張っても懸命なご判断とは申せません。マダム・ルイーズ・ド・フランスは世俗のことにはもう関心がございません」

「構いません! 私が話をしたがっているということをお伝え下さい」

「参事会があると申し上げました」

「参事会の後で」

「参事会は始まったばかりです」

「では中で祈りながら待っています」

「まことに申し訳ございませんが」

「何?」

「お待ちいただくわけには参りません」

「待っていてはいけないと?」

「はい」

「間違っていたのでしょうか! ここは神の家ではなかったの?」女の目と声にこもった力強さに、修道女はそれ以上抵抗することが出来なかった。

「そういうことでしたら、お話ししてみましょう」

「殿下にお伝え下さい。私はローマから来ました。マイヤンス(Mayence)とストラスブールで眠るために休んだだけで、馬に乗って手綱を握るのに必要なだけの食事しか取っていません」

「お伝えしましょう」

 修道女は立ち去った。

 すぐに平修道女が現れた。

 受入口係はその後ろにいる。

「どうでした?」女は答えを待ちきれず、促すようにたずねた。

「殿下の仰いますには」と平修道女が答えた。「今晩謁見に応じることは出来ませんが、修道院の軒はお貸しいたします、一刻を争う助けを求めていらっしゃるようですから。長い旅を終えたばかりで疲れていらっしゃるのでしたら、すぐにお休みになることです」

「馬はどうなるの?」

「世話をさせますので、ご安心下さい」

「羊のようにおとなしくて、ジェリドと呼べばついて来ますから。どうかお願いします、大事な馬なんです」

「国王陛下の馬のように扱わせましょう」

「ありがとう」

「では、お部屋にご案内して下さい」平修道女が受入口係に言った。

「部屋ではなく、教会堂にお願いします。今の私に必要なのは、眠りではなく祈りです」

「礼拝堂はあちらです」修道女が指さした先には、教会堂に通ずる扉があった。

「修道院長にはお目にかかれますか?」

「明日」

「明日の朝?」

「いいえ、明日の朝はまだお会い出来ません」

「なぜ?」

「明日の朝はお出迎えがございますので」

「私以上に急いでいて不幸な人がいるというの?」

「王太子妃殿下が二時間お立ち寄り下さるのです。修道院にとってまたとない栄誉、哀れな修道女にとってまたとない誇りでございます。どうかご理解を……」

「そういうこと……」

「この場所が王家のご訪問に相応しいところであって欲しいと、修道院長は願っていらっしゃるのです」

「でも――」と震えながら辺りに目を走らせた。「修道院長に会えるまでの間、ここは安全なのかしら?」

「ご安心下さい。ここは犯罪者にとっても安全な隠れ家です、ましてや……」

「逃亡者にとっても。そうね。ここには誰も入ることが出来ないと考えて構わないんですね?」

「許可証がなければ何人も入ることは出来ません」

「では許可証を手に入れたら……あの人にはそのくらいの力がある。時にぞっとするほどの力が」

「あの人とは?」

「何でもないわ、何でもない」

「可哀相に気が触れているのだ」修道女は呟いた。

「教会堂に! お願い教会堂に!」修道女の見解を釈明するかのように、女は繰り返した。

「こちらです。ご案内いたします」

「追いかけられているんです。急いで、早く、教会堂に!」

「ご安心を。サン=ドニの城壁はしっかりしております」受入口係の修道女は憐れむように微笑んだ。「ですから、どうか信じて下さいまし。あなたのように疲れている方は、私の言うことを聞いて、教会の床に膝をこすりつけたりしないで寝台で休むことをお勧めいたします」

「いいえ、やっぱり祈ることにします。主が追っ手を遠ざけてくれることを祈って」女は声をあげて、修道女が指さした扉の中に姿を消した。その後ろで扉が閉まった。

 その修道女は修道女らしく好奇心が強かったため、正面入口から迂回してそろそろと前に進むと、女が床に顔を伏せて祈りながら泣きじゃくっているのが見えた。

『ジョゼフ・バルサモ』 46-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「それにねぐらもあなたのものです。ただし、夜中に本を読むのは止して下さい。蝋燭を使うのであればご自分で用意することです、さもないとテレーズに叱られますよ。それはさておき、お腹は空いていませんか?」

「いえ、結構です!」ジルベールは息を呑んだ。

「朝食べる分くらいなら昨日の夜食が残っていますから、遠慮はなさらずに。これからも友人でいられるのなら、招待した時は別として、わたしと食事をするのはこれが最後ですよ」

 ジルベールが合図しかけたが、ルソーは頭を振ってそれを遮った。

「プラトリエール通り(rue Plâtrière)には労働者のための食堂があるんです。話を通しておきますから、安い値段で食べることが出来ますよ。今日のところは、では食事にしましょうか」

 ジルベールは何も言わずにルソーに従った。恭順したのは人生で初めてのことだった。従ったのがほかの人間よりも優れた人間であるのは確かだったが。

 ジルベールは数口食べると卓子を離れて仕事に戻った。先ほどの言葉に嘘はなかった。衝撃のあまり胃が縮こまってしまい、何も受けつけなかったのだ。一日中ずっと譜面から目を上げず、午後八時頃、紙を三枚反故にしてからようやく四ページの輪舞曲をきれいに写し終えることが出来た。

「お世辞を言うつもりはありません」とルソーは言った。「出来はまだまだですが、読みやすいですね。これなら十スーになりますよ、これをどうぞ」

 ジルベールはお辞儀して十スー受け取った。

「戸棚にパンが入ってますよ、ジルベールさん」とテレーズが言った。ジルベールの慎み、優しさ、勤勉さに好印象を抱いたのだろう。

「ありがとうございます。お心遣いは決して忘れません」

「ほら、これですよ」テレーズがパンを手渡した。

 ジルベールは断ろうとした。だがジャン=ジャックの眉が鋭い目の上でひそめられ、薄い唇がひきつり始めたのを見て、断れば傷つけることになるのだと気がついた。

「ありがとうございます、遠慮なくいただきます」

 そう言って小部屋から退出した。手にはジャン=ジャックからもらったばかりの六スー銀貨と四スー銅貨が握られていた。

 ジルベールは屋根裏に入りながら思った。「結局、僕は僕の主人なのだろうか。いや、まだかな。こうして善意でパンをもらったのだから」

 腹が減ってはいたが、パンには手をつけずに天窓の窓敷居の上に置いた。

 眠れば空腹も紛れようと思い、蝋燭を吹き消して藁布団を広げた。

 翌日――ジルベールは一晩中ほとんど眠れなかったのだが――翌日、朝日が顔を出した頃には目を覚ましていた。そう言えば、窓に面した庭のことをルソーが話していたっけ。天窓から身を乗り出すと、話通り美しい庭の木々が目に飛び込んで来た。木々の向こうには庭の所有者の家が聳えており、家の入口はジュシエンヌ通りに面していた。

 若木や花々で彩られた庭の一隅に、鎧戸の閉じた小さな建物が立っている。

 初めのうちは、鎧戸が閉まっているのは時刻のせいだと思った。住人がまだ目を覚ましていないのだろう。だが木々の葉が鎧戸にぴったりくっついているのを見ると、少なくとも冬から人が住んでいないらしい。

 そこで母屋の手前にある美しい菩提樹に目を戻した。

 空腹が募って、前夜テレーズがくれたパン切れに何回か目を走らせた。だがそのたびに、食べたい気持を抑え、パンには手をつけなかった。

 五時の鐘が鳴った。門が開く頃だろう。顔を洗い、ブラシを掛け、髪をとかし――ジャン=ジャックが屋根裏に用意してくれたおかげで、ささやかな洗面所には日用品が揃っていたため――ジルベールは顔を洗い、ブラシを掛け、髪をとかし、パンを手に下に降りた。

 ルソーは今朝は起こしに来なかった。恐らく疑いが募ったためと、ジルベールの習慣をよく確かめるためであろう、昨夜は扉を閉めずにいて、降りてきたのを耳にして様子を窺った。

 ジルベールがパンを抱えて出て行くのが見えた。

 乞食が近づいて来たのを見て、ジルベールはパンを与えると、自分は開店したばかりのパン屋に入ってパンを一切れ購入した。

 ――今度は弁当屋に向かうのだな、とルソーは考えた。――そこでなけなしの十スーを使うのだろう。

 ルソーは間違っていた。ジルベールは歩きながらパンを食べ、街角の水汲み場で立ち止まり、水を飲んだ。パンの残りを口に入れ、また水を飲み、口をすすぎ、手を洗うと、来た道を引き返した。

「何てことだ」とルソーは呟いた。――わたしはディオゲネスよりも運がいい。人間を見つけたようだ。

 階段を上るジルベールの足音が聞こえ、ルソーは慌てて扉を開けに行った。

 一日が仕事に追われて過ぎた。ジルベールは単調な写譜作業を、気合いを入れ、頭を働かせ、極めて熱心に片づけていった。わからない部分は見当を付けた。鉄の意志に突き動かされ、手は躊躇なく、間違えることもなく記号を描いた。努力の甲斐あって夕方頃には七ページまで進んでいた。無骨ではあったがよく出来ている。

 ルソーが判事や哲学者のように仕事ぶりを確認した。判事のように音符の形や線の出来、休符や丸の間隔をあげつらった。だが昨夜よりも格段に上手くなっているのは目に見えていたので、ルソーはジルベールに二十五スー渡した。

 ルソーは哲学者のように人間の意思の力を讃えた。恐らく十二時間休みなく働いていたのだ。この十八歳の若者は、しなやかで弾力のある身体や、情熱的な意思を持っている。そうだ、ルソーにはすぐにわかった。この若者の胸には激しい情熱が燃えている。だがそれが野心なのか愛なのかはわからない。

 ジルベールは手の中にあるお金の重さを確かめた。二十四スー貨と一スー貨。一スー貨を上着のポケットに入れた。中にはまだ前夜のお金も残っていたはずだ。右手には二十四スー貨を嬉しそうに握り締めていた。

「考えたのですが、あなたは僕の主人です。あなたのところで仕事を見つけたうえに、只で宿まで貸してくれているんですから。だから、何をするのかを伝えずに行動したら、きっと気を悪くなさるでしょうね」

 ルソーが怯んだような目つきをした。

「いったい何をするつもりなのです? 明日は働かずにほかのことをするつもりなのですか?」

「はい、許していただけたなら、明日は自由に行動したいんです」

「理由を聞いても構いませんか? さぼるわけではありませんよね?」

「僕は」とジルベールが言った。「サン=ドニに行きたいんです」

「サン=ドニですか?」

「はい。王太子妃が明日サン=ドニにいらっしゃるので」

「ああ、なるほど。明日、サン=ドニで王太子妃の歓迎会がありますね」

「それです」

「あなたがそんなに物見高いとは思いませんでした。きらびやかな絶対権力など軽蔑しているように見えたのですが」

「それは……」

「わたしをご覧なさい、あなたはたびたびわたしのことを手本にしているようなことを口にしていたでしょう。昨日、大公がここに来てわたしを宮廷に招きました。国王の馬車が通り過ぎるのをあなたのように近衛兵の肩越しに爪先立って眺めるためではなく、王子(大公)の御前に出たり、王女(大公女)の微笑みを見るためです。サン=サクルマン教会のためにしたように国王の馬車は武器を向けられるでしょうが、それはともかく。わかりますか、この哀れな市民が、大貴族の招待を断ったんですよ!」

 ジルベールはうなずいた。

「なぜ断ったのだと思います?」ルソーは激昂していた。「人間が二心を持つことは許されないからです、王権の濫用を記したこの手が、国王の寵愛を求めに行くわけにはいかないからです。わずかな安心感がかろうじて人々に叛乱を思い留まらせているというのに、祝宴がその安心感を奪い去ってしまうから、だからわたしは祝宴をすべて欠席することで抗議しているのです」

「あなたの哲学に高潔なところがあるのは以前からわかっていました。そのことは信じて下さい」

「そうなのでしょうね。ですが身を以て示していただかないと、こんなふうに言うのは失礼でしょうが……」

「ごめんなさい、僕は哲学者ではないんです」

「ではせめて、何をしにサン=ドニに行くのか教えてもらえますか」

「僕は口が堅いつもりです」

 この言葉にルソーは打ちのめされた。強情の裏には秘密が隠されているのだと悟り、感銘を受けたようにジルベールを見つめた。

「わかりました。理由があるのですね。そちらを尊重しましょう」

「そうです、理由があるんです。お祭りを見たがるような好奇心とは無関係なんです」

「それならいいでしょう、いえ、残念なことかもしれません。あなたの目の奥は何処までも深く、若さゆえの純心さも穏やかさも見つからないのですから」

「申し上げたように」とジルベールは悲しげに答えた。「僕は不幸でした。不幸な人間には若さなどなかったんです。そういうわけですから、明日一日は空けてもらえないでしょうか?」

「いいでしょう」

「ありがとうございます」

「それでは、あなたが目の前を過ぎてゆく素晴らしい光景を眺めている間に、わたしは植物を調べて自然の素晴らしさを確かめることにしますよ」

「さくらんぼの房をガレー嬢の胸に放り投げた後で、もう一度会いに行く日には、地面の草など放ったらかしだったのではないでしょうか?」

「結構です。確かにあなたは若い。サン=ドニにお行きなさい」

 ジルベールが上機嫌で出て行き、扉を閉めた。

「野心ではなく、愛でしたか!」ルソーは呟いた。

エミリー・ディキンソン 0005

わたしは春の鳥を飼っている
わたしのために歌い――
春に呼び寄せられる鳥を。
やがて夏が近づき――
やがて薔薇が顔を見せると、
駒鳥は行ってしまった。

それでも泣き言は言わない
なぜなら知っているから
飛んで行ってしまっても――
海の向こうで
新しいメロディを覚えて
戻って来てくれることを。

動かぬのは、より安心な手
より本当の陸地に捕われているのは
わたしの両手――
そして今は離れているけれど、
わたしは疑いの心に言い聞かせる
それはあたなの両手

穏やかさの増す輝きのなかで、
黄金色の増す光のなかで
わたしは理解した
かすかな疑いと恐れと、
かすかな違和感が
ここからなくなったのを。

それからは泣き言は言わない、
なぜなら知っているから
わたしの鳥は飛び去っても
遠くの木の上で
輝くメロディを覚えて
戻って来ることを。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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