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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』第53章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第五十三章 サン=ドニからの帰路

 既にお話しした通り、フィリップと別れたジルベールはまたも人込みに紛れていた。

 だが今回はもはや心を期待や喜びに踊らせることもないまま雑踏の中に飛び込んでいた。悲しみに傷ついた魂は、フィリップの親切なもてなしや暖かい援助の申し出でも和らげることは出来なかった。

 アンドレは自分がジルベールに対して残酷だったとは思いもしなかった。この若く心穏やかな娘は、自分と乳母子の間に苦しみであれ喜びであれ何らかの接点があろうとは心にも思っていなかった。小さな球体の上を通り過ぎながら、自分自身の喜びや悲しみに応じて、影や光を投げかけていたのだ。今回ジルベールを萎れさせたのは、軽蔑の影だった。アンドレとしては自分の心に従ったまでであって、蔑んだ態度を取ったとは思ってもいない。

 だが白旗状態のジルベールにしてみれば、軽蔑の視線と尊大な言葉をもろに心に受け止めてしまったのだ。血を流して絶望していながら慰めを見出すほどにはまだ達観していなかった。

 そういうわけだから、人込みに紛れた時にも馬や人に気を留めることはなかった。道に迷ったり押しつぶされたりする危険も顧みずがむしゃらに、手負いの猪のように群衆の中に突っ込んで道を作った。

 ぎゅうぎゅうづめの中を通り抜けると気分もだいぶ楽になり、ほっと一息ついた。周りを確認して、緑、静けさ、水があることに気づいた。

 自分が何処に向かっているのかもわからぬままセーヌ川まで走り、サン=ドニ島のほぼ正面にたどり着いた。肉体的には疲れていなかったが、精神的な苦しみからへとへとになり、草むらに倒れ込むと、頭を抱えて気違いのように声をあげ始めた。苦しみを表現するには、こうして獅子のように咆吼する方が、人間の叫びや言葉よりも相応しかったであろう。

 それまでは、自分でも気づかなかった分外の望みに、ぼんやりとした希望が密かな光を投げかけていたというのに、そんなおぼろな希望すら一撃で掻き消えてしまったのだろうか? 才能や知識や教育によってジルベールが社会の階層を幾つか上がったとしても、アンドレにとってはジルベールはジルベールのままであり、(アンドレ自身の言葉を借りれば)父親がちょっとでも気にするのが間違っているような物や人間であり、わざわざ目を留める手間を掛けたくもない物や人間なのだ。

 パリでジルベールを見かけ、徒歩でやって来たと聞かされ、無知と戦おうという決意を知れば、アンドレは感心してくれるだろうと思っていた。だが思いやりに満ちた励ましの言葉もないうえに、並々ならぬ苦労と気高い決心をしてみせても、タヴェルネの時と同じようにたかがジルベールには蔑み以外の何の関心も払ってはもらえなかった。

 そのうえ、思い切って教習本に目を通していたことを知ると、腹を立てそうになったではないか? 指の先で触れていようものなら、燃やされていたに違いない。

 心の弱い人々にとって、落胆や失望は一時的な痛手でしかない。くじけてもより強くより逞しく立ち直るだけだ。彼らは呻きや涙で苦しみを表現する。庖丁を前にした羊のように身を任せる。それどころか、殉教者気取りに死ぬほどの苦しみに揉まれて、愛がますます強くなることもある。穏やかにしていればいつか報いが訪れるのだと自分に言い聞かせる。道の善し悪しに関わらず、向かうべき目的地にこそ報いがある。道が悪ければ到着が遅くなりはするが、いずれ到着はするはずだ。

 だからそこには強い心、堅い意思、逞しい素質などない。心の弱い人々は、自分の血が流れているのを見ては癇癪を起こし、異常なほど感情を高ぶらせるため、人からは優しいとは思われずに憎らしいと思われることになる。彼らを非難してはいけない。彼らの胸中では愛と憎しみがあまりに近づき過ぎているため、互いの行き来に気づかないのだ。

 こうして苦しみに打ちのめされて転げ回っている間、ジルベールはアンドレを愛していたのだろうか、それとも憎んでいたのだろうか? どちらでもない。ジルベールは苦しんでいた。しかし長く耐えられるような能力は持ち合わせていなかったので、絶望から逃げ出すと、強く心に決めたことをこれからも続けていこうと決意した。

 ――アンドレは僕を愛していない。それは確かだ。でもアンドレが愛しているなんて期待するのがおかしかったんだし、期待しちゃいけなかったんだ。アンドレに期待できたのは、貧しさと闘う気力を持った貧乏人に暖かい関心を持って欲しいということだった。お兄さんはわかってくれたのに、アンドレにはそれがわからなかった。「君がいつかコルベールやヴォーバンのようにならないとも限らないだろう?」と言っていたっけ。そうなることが出来たら、僕のことを見直してもらえるし、栄誉を手に入れた報いにアンドレをくれるかもしれない。同じ地位に生まれていたなら、生まれながらの貴族としてアンドレをもらっていたかもしれないんだから。だけどアンドレにとっては! そうだよ! よくわかってる……コルベール、ヴォーバンか! いつまで経ってもジルベールはジルベールなんだ。アンドレは僕という人間を軽蔑しているんだし、それが無くなったりメッキされたり覆い隠されたりすることはないんだから……目的を達したとしても、同じ立場で生まれた場合ほど立派にはなれないんだろうな! ほんと頭がおかしいよ! 女、女か! 半端者ってやつだな。

 ――その美しい瞳、発達した額、知的な微笑み、王妃のようなたたずまいを自慢するがいいや! マドモワゼル・ド・タヴェルネ、その美しさで世界を統べることもできる女……とんでもない。田舎者がもったいぶって取り澄まして、貴族という肩書きで包まれているだけじゃないか。頭は空っぽで知性にも隙間風だらけ、学ぶための手だてはいくらでもあるのに、何一つ知らない若者たちとおんなじだ。そういうのには気をつけなければならないのに……ジルベールは犬だ、犬以下だ。マオンがどうしているかは知りたがったのに、ジルベールがどうしていようと知ったことじゃないんだ。

 ――アンドレは知らないけど、僕はあいつらより強いんだ。あいつらみたいな服を着れば、僕だって立派に見えるのに。意志の強さなら僕の方が上だし、その気になれば……。

 恐ろしい笑みを口元に浮かべ、内心の言葉を呑み込んだ。

 それからゆっくりと眉を寄せ、頭を垂れた。

 薄暗い魂にその時どんな考えが宿ったのだろうか? 青白かった顔は不眠のせいで黄ばみ、瞑想のせいで落ち窪んでいたが、どんな恐ろしいことを考えついてその顔を伏せたのだろうか? それが誰にわかろうか?

 アンリ四世の歌を口ずさみならが船で川を下っているのは船頭だろうか? 見物を終えてサン=ドニから帰って来るのは洗濯女だろうか? 遠くで道を曲がったのは、干してある下着の真ん中で草むらに寝転がって暇そうにしていたジルベールを追い剥ぎとでも勘違いしたのだろう。

 半時間ほど考え込んでから、ジルベールは冷静に心を決めて起き上がった。セーヌ川に降りて水をたっぷり一口飲み、辺りを確かめると、左手遠方にサン=ドニからやって来た人の群れが見えた。

 群衆の中を四輪の第一馬車が数台、並足で進んでいる。群衆に押されながら、サン=トワン大通りを進んでいた。

 王太子妃は輿入れを身内のお祝いにしたがっていた。それ故に身内は特権を行使した。これほど近くで王家の様子を目にして、パリっ子たちは従僕の座席によじ登り、危険も顧みず馬車の支え紐にしがみついた。

 ジルベールはアンドレの馬車を目敏く見つけた。扉口でフィリップが馬を駆る、というよりは足踏みさせている。

 ――よし。何処に行くのか突き止めなくちゃ。そのためには追いかけなくちゃいけない。

 ジルベールは追いかけた。

 王太子妃はラ・ミュエットで国王、王太子、ド・プロヴァンス伯、ダルトワ伯と内々の食事を取ることになっていた。ルイ十五世が礼儀作法をなおざりにさせていたことは言っておかねばなるまい。サン=ドニで王太子妃を迎え入れた国王は、招待客の名簿と鉛筆を手渡し、来て欲しくない招待客の名前を塗りつぶさせた。

 最後に書かれていたデュ・バリー夫人の名前まで進んだ時、王太子妃は自分の口唇が青ざめて震えるのを感じた。だが母である女帝の助言に従い何とか持ちこたえると、麗しく微笑んで名簿と鉛筆を国王に返し、家族の親密な集まりに初めから受け入れてもらえるとはとても幸せだと伝えた。

 こうしたことはジルベールには知るよしもなかったので、デュ・バリー夫人の一行と白馬に乗ったザモールに気がついたのはラ・ミュエットにやって来てからだった。

 幸いなことに辺りは暗くなっていた。ジルベールは茂みに飛び込み腹ばいになり、待った。

 王太子妃がデュ・バリー夫人をコンピエーニュの時よりいっそう感じよくもてなしているのを見て、国王は夜食の席で上機嫌だった。

 だが王太子は何やら憂えた様子で、頭痛を口実にして席に着かずに退出してしまった。

 夜食は十一時まで続いた。

 その間お付きの者たちは――自尊心の強いアンドレでも自分がお付きであることは認めざるを得なかったが――国王が用意させた音楽を聴きながら、別棟で夜食を取っていた。さらには別棟は非常に小さかったために、五十人の貴族たちは芝生に用意された食卓に着いて、王家のお仕着せを着た五十人の従僕に給仕されていた。

 ジルベールは相変わらず藪の中で、何一つ見落とすまいとしていた。クリシー=ラ=ガレンヌで買ったパンをポケットから取り出して夜食を取りながらも、出て来た人々をしっかり見張っていた。

 夜食を終えた王太子妃がバルコニーに姿を現した。招待客たちに別れを告げて来たところだ。国王が隣にやって来た。デュ・バリー夫人の如才なさは敵でさえ認めざるを得まい。夫人は部屋の奥に行って視界に入らないようにしていた。

 客たちは国王に挨拶するためバルコニーに足を運んだ。お供していた者たちのことは王太子妃殿下も既に知っていたが、知らない者たちの名前は国王が教えた。時折、優雅な言葉、うまい台詞が口唇から洩れ、声をかけられた人々を喜ばせた。

 遠くからこの茶番を見ていたジルベールが呟いた。

「僕もあいつらよりはましだな。世界中の金を積まれたってあんなことはするもんか」

 ド・タヴェルネ一家の番になった。ジルベールは片膝を立てた。

「ムッシュー・フィリップ」と王太子妃が言った。「休職を命じますので、お父上と妹君をパリに連れて行って下さい」

 夜のしじまの中で一心に耳と目を傾けていたジルベールは、その言葉を聞いて耳を震わせた。

 王太子妃が続けた。

「ド・タヴェルネ殿、まだ部屋の用意が出来ておりませんので、わたしがヴェルサイユに落ち着くまでは、お嬢様と一緒にパリにお向かい下さい。アンドレ、わたしのことを忘れないで下さいね」

 この敬意と思いやりの入り混じった言葉に、アンドレが白い面を伏せるのが見えた。

「そうか」とジルベールは呟いた。「僕も暮らしていたパリに戻るんだな」

 男爵が息子と娘と共に通り過ぎた。まだたくさんの人々がその後からやって来て、王太子妃から同じように言葉をかけられていたが、もうジルベールにはどうでもいいことだった。

 ジルベールは藪から抜け出し男爵の後を追った。ざわめきと喧噪の中、二百人の従僕が主人の後を追い、五十人の御者が従僕に答え、六十台の馬車が雷鳴のような音を立てて舗道を走っていた。

 ド・タヴェルネ男爵には宮廷馬車が用意されており、離れたところで待っていた。男爵とアンドレとフィリップが馬車に乗り込み、扉が閉められた。

「ありがとう」扉を閉めた従僕にフィリップが声をかけた。「御者と一緒に坐り給え」

「いったいどういうわけだな?」男爵がたずねた。

「可哀相に、朝から立ちっぱなしで疲れているに違いないからですよ」とフィリップは答えた。

 男爵は何かぶつぶつと呻いたが、ジルベールには聞き取れなかった。従僕は御者の隣に坐った。

 ジルベールが近づいて行った。

 馬車が動き出そうとした時、引き綱が外れているのに気づいた。

 御者が馬車を降り、しばらく馬車は動かなかった。

「遅くなったな」男爵が言った。

「もうへとへと」アンドレが呟いた。「せめて寝床を確保したいけど?」

「大丈夫だよ」フィリップが答えた。「ラ・ブリとニコルをソワッソンからパリにまっすぐ向かわせておいたんだ。友人宛てに手紙を持たせていたから、去年まで母と妹の住んでいた別棟を使わせてくれるはずだ。豪華ではないが小ぎれいなところだよ。姿を見せてはならず、ひたすら待つしかないけれど」

「ふん。タヴェルネと変わらんじゃないか」

「生憎ですがその通りです、父上」フィリップが憂鬱な笑みを浮かべた。

「草木はあるの?」アンドレがたずねた。

「ああ、とても綺麗だよ。だが恐らくあまり鑑賞してもいられまい。すぐに結婚式が始まって、お前も呼ばれるだろうからね」

「まったく、夢のようじゃな。出来るだけ長く覚めずにいたいものだ。フィリップ、御者に行き先は伝えておるな?」

 ジルベールはどきどきして聞き耳を立てた。

「はい、父上」とフィリップが答えた。

 それまでの会話はすっかり聞こえていたので、ジルベールとしては是非とも行き先を耳に入れたかった。

「追いかけるのくらい、たいしたことない。ここからパリまで一里しかないんだから」

 引き綱を結び直した御者が席に戻り、馬車が動き始めた。

 だが国王の馬は列に並んでのろのろ進む必要がなくなると、速度を上げた。それを見たジルベールは、ラ・ショセで無力に取り残されたことを思い出した。

 ジルベールは懸命に追いかけ、本来であれば従僕がいたはずの後ろの踏み台に手を伸ばした。ぜいぜいしながらしがみつき、腰を下ろして揺られていた。

 だがすぐに、自分がアンドレの馬車の後ろに乗っているということ、言いかえれば従僕の席に坐っているということに気づいた。

「冗談じゃない!」ジルベールはかたくなに呟いた。「最後まで努力しなかったなんて言わせるもんか。足はくたくたでも、腕はまだへっちゃらなんだ」

 そこで両手で踏み台をつかんで爪先を踏み台に置き、座席の下に潜り込むと、揺れはひどかったが、妥協するよりは腕の力で苦しい姿勢に耐えることを選んだ。

「行き先を知らなくちゃ。まずは行き先だ。ひどい夜を過ごすことになるけれど、明日になれば写譜をしながら自分の席でゆっくり出来る。それにまだお金もあるし、眠ろうと思えば二時間眠ることも出来るんだから」

 やがてパリはあまりに広いことを思い出した。男爵親子がフィリップの用意した家に入ってしまえば、パリを知らない人間では途方に暮れてしまうだろう

 幸いにも今は真夜中近く、夜が明けるのは三時半頃だった。

 こんなことを考えていると、中央に騎馬像の立っている広場を通り過ぎた。

 ――ふうん。あれがヴィクトワール広場だな。驚くと同時に嬉しくなった。

 馬車が向きを変えた。アンドレが窓に顔を押しつけた。

 フィリップが言った。

「先王の騎馬像だ。もうすぐだ」

 馬車が急な坂道を降り、ジルベールは車輪の下に転がり落ちそうになった。

「着いた」フィリップが言った。

 ジルベールは足を地面に降ろし、道の反対側に飛び込んで里程標の陰に隠れた。

 まずフィリップが馬車から飛び降り、呼び鈴を鳴らしてから、戻って来てアンドレに腕を貸した。

 男爵が最後に降りた。

「ふん! あの馬鹿者どもは、わしらにここで夜を過ごさせるつもりか?」

 その瞬間、ラ・ブリとニコルの声が響き渡り、扉が開けられた。

 三人は薄暗い中庭に姿を消し、扉が閉められた。

 馬車と従僕は国王の厩舎に戻って行った。

 三人が姿を消した家には特に目立つところはなかった。だが馬車が通りしな隣家を照らしたので、ジルベールにも読むことが出来た。

 アルムノンヴィル・ホテル。

 まだ通りの名前を知る必要がある。

 それは馬車が遠ざかって行ったのとは別の、一番近い通りの外れで見つかった。驚いたことに、そこにはいつも水を飲みに来ていた水飲み場があった。

 後にした通りに平行して戻っている通りに足を踏み入れると、パンを買ったパン屋があった。

 それでもまだ信じられなくて通りの角まで戻ると、遠くの街灯に照らされて、白石に刻まれた二つの文字を読むことが出来た。三日前、ムドンの森の植物採集からルソーと帰って来た時にも同じ文字を読んでいた。

『プラトリエール通り』

 ということは、アンドレとは百歩と離れていない。タヴェルネ城の柵の側にあった小部屋にいる時よりも近いのだ。

 そこでジルベールは戸口に戻った。掛け金を持ち上げる紐の端が内側に引っ込んでいなければよいのだが。

 ジルベールにとっては吉日だった。何本か糸が出ていたので、それをつまんで紐全体を引っぱり出すことが出来た。扉は開かれた。

 手探りで階段までたどり着き、音を立てぬよう一歩一歩上り、ようやく自室の南京錠に指を触れた。ルソーが気を利かせたので、錠は掛けられていない。

 十分後、気を揉んでくたくたになっていたジルベールは、翌日のことを待ちきれないまま眠りについていた。

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『ジョゼフ・バルサモ』 第52章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第五十二章 ロアン枢機卿猊下

 目の前で起こったことが信じがたく、懐疑と信仰を併せ持っていた王女は、目の前の男がもしや本当に意思も心も意のままに操れる魔術師なのではないかといぶかった。

 だがフェニックス伯はそれで終わりにしようとはしなかった。

「話は終わってはおりません。ロレンツァの口から聞かされた話でさえ、まだ物語の一部でしかないのです。ロレンツァ自身から残りも聞かない限り、お疑いは解けないのではありませんか」

 そう言ってロレンツァの方を振り返った。

「覚えているか、ロレンツァ、俺たちの旅したところを。一緒にミラノ、マジョール湖、オーバーラント山、リギ山、北のテヴェレとも言うべきライン川に行ったっけな?」

「覚えています」ロレンツァは相変わらず単調な声を出した。「ロレンツァはどの景色も目にしました」

「この男に連れて行かれたのではありませんか? 抗い難い力に囚われたのだとご自分で仰ったではありませんか?」王女がたずねた。

「事実から遠いまったく逆の話を聞いたばかりだというのに、何故そのようなことを信じるのですか、殿下? ああ、そうでした! もっとはっきりした物的証拠が欲しいと仰るのでしたら、ロレンツァの書いた手紙がございます。不本意ながらマインツに一人で置いておかねばならなかった時がありました。私の不在を嘆き、恋しさから書いた手紙をお読み下さい」

 伯爵は紙入れから手紙を取り出し、王女に手渡した。

 王女は手紙を読んだ。

『戻ってきて、アシャラ。あなたがいなくてさびしいの。ああ! いつになったら永遠にあなたのものになれるのかしら? ロレンツァ』

 王女は怒りを浮かべて立ち上がり、手紙を手にしたままロレンツァに近寄った。

 ロレンツァは近づいて来る王女を見るでもなく聞くでもなく黙っていた。伯爵以外には目にも耳にも入らないかのようだ。

「わかりました」と伯爵が割って入った。最後までロレンツァの通訳を買って出ようという腹のようだ。「殿下はお疑いだ。この手紙がロレンツァのものかどうかお知りになりたいのですな。では、本人に確かめてもらいましょう。ロレンツァ、答えなさい。この手紙を書いたのは誰だ?」

 伯爵が手紙を取り上げ、ロレンツァの手に押しつけると、すぐにロレンツァは手を胸に当てた。

「書いたのはロレンツァです」

「では内容も知っているな?」

「もちろんです」

「よし、手紙の内容を殿下に申し上げるんだ。そうすれば、お前が俺を愛していると言ったのも嘘ではないと信じていただけるだろう。申し上げてくれ、頼む」

 ロレンツァは心を凝らしているようだった。だが手紙を広げたり目を落としたりせずに、読み始めた。

「戻ってきて、アシャラ。あなたがいなくてさびしいの。ああ! いつになったら永遠にあなたのものになれるのかしら? ロレンツァ」

「それは信用できません」王女が言った。「あなたのことも信じられません。やることなすこと説明がつかず超自然的なところばかりではありませんか」

「この手紙でした」フェニックス伯は、マダム・ルイーズの言ったことなど耳に入らなかったかのように先を続けた。「この手紙に背中を押されて結婚を決意したのです。ロレンツァが愛してくれているように、私もロレンツァを愛していました。それまでの関係は間違っていました。私のように危険な生活を送っていれば、不幸が訪れるかもしれない。死んでしまうかもしれません。私が死んだ時には、すべての財産がロレンツァのものになるようにしておきたい。そこでストラスブールに着き次第、私たちは結婚しました」

「結婚したのですか?」

「その通りです」

「そんなはずはありません!」

「何故です?」伯爵が笑いを浮かべた。「フェニックス伯爵がロレンツァ・フェリチアーニを娶ったはずがないとは、どういうことでしょうか?」

「この方ご自身が、自分はあなたの妻ではないと仰ったのです」

 伯爵は王女には答えず、ロレンツァに向かってたずねた。

「俺たちがいつ結婚したか覚えているな?」

「はい、五月三日でした!」

「何処だった?」

「ストラスブールです」

「何処の教会だ?」

「サン=ジャン教会の大聖堂です」

「この結婚に異議があったか?」

「ありません。とても幸せでした」

「お前が暴力をふるわれたと殿下が信じてらっしゃるのはわかるな? お前が俺を嫌っていると言うんだ」

 こう言いながら伯爵はロレンツァの手を握った。

 ロレンツァの身体が歓喜に震えた。

「嫌ってるですって? そんなことはありません。愛しています。あなたは優しく、寛大で、逞しいのですから!」

「俺の妻になって以来、俺が夫の権利を濫用したことが一度でもあったか?」

 伯爵は王女の方を向いて、「お聞きですね?」とでも言いたげな顔をした。

 マダム・ルイーズは恐怖に囚われ、小部屋の壁にある黒天鵞絨の壁龕に設えられた象牙のキリスト像の足許まで後じさった。

「殿下がお知りになりたいのはこれですべてでしょうか?」伯爵がロレンツァの手を下ろした。

「お願いです」王女は声をあげた。「こちらに近づいてはなりません。ロレンツァも来てはなりません」

 この時、四輪馬車が門前に止まるのが聞こえた。

「よかった!」王女が声をあげた。「枢機卿です。これでようやく知りたいことがはっきりするでしょう」

 フェニックス伯爵が屈み込んで、ロレンツァに何事か囁いた。その落ち着きぶりを見ていると、どんな事態でも統べることが出来そうだった。

 すぐに扉が開き、ロアン枢機卿猊下の到着が知らされた。

 人の姿を見て落ち着きを取り戻した王女は、椅子に戻ってこう伝えた。

「お入り下さい」

 枢機卿が入室した。だが王女への挨拶もそこそこに、バルサモの存在に気づいて、驚きの声をあげた。

「おお、あなたでしたか!」

「この方をご存じなのですか?」王女はますます驚いてたずねた。

「もちろんです」枢機卿が答えた。

「では、この方が何者か教えていただけますか?」

「お安い御用です。この方は魔術師ですよ」

「魔術師?」王女が呟いた。

「恐れながら、殿下」と伯爵が言った。「猊下がすぐに、誰もが満足するようなご説明をして下さるものと思っております」

「殿下も何か予言されたのでしょうか? これほど動顛していらっしゃるとは」ロアン枢機卿がたずねた。

「婚姻証書です! 今すぐ証書を!」

 枢機卿はわけがわからず、驚いて王女を見つめた。

「こちらです」伯爵が枢機卿に証書を見せた。

「それは何です?」

「猊下、この署名が本物かどうか、この証書が有効かどうかが知りたいのです」

 枢機卿は王女が指さした書類を読んだ。

「この証書は正式な婚姻証書でありますし、この署名はサン=ジャン教会の主任司祭ルミー氏のものです。これがどうかしたのですか?」

「重大なことです。するとこの署名は……?」

「本物です。無理強いされたものでないとは断言できませんけれどね」

「無理強いされたというのですか? あり得ますね」

「ロレンツァの同意も無理強いですか?」伯爵は王女に向かってあからさまに皮肉をぶつけた。

「どんな方法があるのでしょうか、枢機卿猊下? どんな方法で署名を無理強い出来るのか、ご存じなら教えて下さい」

「この方の力、魔力を使えば出来るでしょう」

「魔術ですって! 枢機卿、あなたは本気で……?」

「この方は魔術師です。そう申し上げましたし、訂正するつもりもございません」

「ご冗談はおやめ下さい」

「冗談ではございません。その証拠に、これからあなたの目の前で伯爵と話をしたいと思っております」

「私も猊下にそうお願いしようと思っていたところです」と伯爵が言った。

「それは素晴らしいが、質問するのは私だということをお忘れなきよう」枢機卿は釘を刺した。

「猊下こそ、私が殿下の御前でさえ、聞かれたことにはどんな質問にも答えるつもりだということをお忘れなさらないことです。もっとも、そんなことを聞くとは思えませんが」

 枢機卿が微笑んだ。

「今の時代に魔術師の役を演じるのは至難の業でしょう。魔術を行っているあなたを見て来ましたが、立派にやり遂げていらっしゃる。しかし申し上げておきましょう、みんながみんな我慢強くはありますまいし、それに王太子妃殿下のように寛大ではありますまい」

「王太子妃殿下?」王女が口を挟んだ。

「そうです、殿下。王太子妃殿下に謁見する栄誉に預かりました」伯爵が答えた。

「どのようにその栄誉に報いたのです? 仰って下さい」

「残念ながら、望み通りには参りませんでした。人に対して個人的恨みなどありませんし、ご婦人に対してはなおのことなのですが」

「いったいわたくしの姪に何をなさったのです?」マダム・ルイーズがたずねた。

「妃殿下がお求めになった真実を申し上げてしまったのです」伯爵が答えた。

「そう、真実でした。妃殿下を気絶させるような真実でした」

「真実がああした結果をもたらすほど恐ろしいものだったからといって、それが私の落ち度でしょうか?」ここぞとばかりに伯爵は力強く声を轟かせた。「大公女に会いに行ったのは私でしょうか? 謁見を求めたのは私でしょうか? 否、むしろ私は避けようといたしました。嫌々ながら連れて行かれ、ご命令としてたずねられたのです」

「あなたが伝えた真実がそれほど恐ろしいものだったということですか?」王女がたずねた。

「未来のヴェールを引き裂いて、真実をお見せしたのです」

「未来ですか?」

「未来です。殿下はそうした未来に危険を感じ、修道院の回廊でその危険を避け、祭壇の足許で祈りと涙を用いてその危険と戦おうとなさったのではありませんでしたか」

「何を仰るのですか!」

「殿下が聖人のように予感なさった未来を、私が預言者のように黙示されたからといって、それにまた王太子妃殿下がたまたまその未来に怯えて気絶なさったからといって、それが私の落ち度でしょうか?」

「おわかりいただけましたか?」枢機卿がたずねた。

「冗談ではありません!」

「残念ながら妃殿下のご治世は、あらゆる君主制の中でも最も悲劇的で最悪のご治世だという託宣が出ております」と伯爵が言った。

「いい加減になさい!」

「殿下ご自身は、祈りによって恩寵を授かりましょう。ただしすべてを見ることは適いません。ことが起こった時には主の御腕に抱かれていらっしゃるでしょうから。お祈り下さい、マダム!」

 心に巣食う恐怖に応じるような予言の声に打たれて、王女は十字架像の足許にひざまずき、伯爵の言葉通り一心に祈り始めた。

 伯爵は窓の手前にいた枢機卿を振り返った。

「私たちの方ですが、枢機卿猊下、何かお望みでしたか?」

 枢機卿が伯爵に近づいた。

 四人の位置関係は以下の通りである。

 王女は十字架像の足許で祈りを捧げていた。ロレンツァは動きもせず物も言わず、見えているのかいないのか目を見開いて一点を見つめたまま、部屋の真ん中に立っていた。二人の男は窓辺に陣取り、伯爵は錠前に寄りかかり、枢機卿は窓掛の陰に半ば隠れていた。

「何をお望みですか?」伯爵は繰り返した。「お話し下ださい」

「あなたが何者なのか知りたい」

「既にご存じです」

「私が?」

「そうですとも。魔術師だと仰いませんでしたか?」

「これは参りました。しかしあちらではジョゼフ・バルサモと呼ばれ、ここではフェニックス伯爵と呼ばれていますね」

「ええ、それが何か? 名前を変えたに過ぎません」

「そうでしょうとも。ですがあなたのような立場の方が名前を変えると、サルチーヌ殿にどう思われるかおわかりでしょうか?」

 伯爵は微笑んだ。

「ロアンともあろう方が些細なことを! 猊下は言葉にこだわってらっしゃいますな! ラテン語で言うところの Verba et voces (言葉と声)です。私は誰にも咎められるような悪いことはしておりませんぞ」

「どうやら人をおからかいになっていらっしゃる」

「『なった』のではありません。元からです」

「でしたら、こちらも思いを晴らすといたしましょう」

「どうやって?」

「あなたをへこませることで」

「どうぞおやりなさい、猊下」

「こうすることで王太子妃殿下には喜んでいただけることでしょう」

「あなたが妃殿下とご一緒である以上は、まんざら無意味な言葉でもないのでしょうな」バルサモは動じなかった。

「では占星術師殿、私があなたを逮捕させたらどういたしますか?」

「それは大いなる間違いだと申し上げましょう、枢機卿猊下」

「そうですか!」枢機卿猊下はあからさまに蔑んでみせた。「いったい誰がそれを判断するのでしょうか?」

「あなたご自身です、猊下」

「ではすぐにでも指示を出すことにいたしましょう。そうすればこのジョゼフ・バルサモ男爵にしてフェニックス伯爵が本当は何者なのか、ヨーロッパの如何なる紋章地にも一切見つからない家系図の末裔であることがわかるでしょう」

「ところで、どうしてご友人のブルトゥイユ殿に問い合わせなかったのでしょうか?」バルサモがたずねた。

「ブルトゥイユ殿は友人ではありません」

「今は違うかもしれませんが、かつては友人でしたし、親友でさえあったのではありませんか。何通か手紙を書いたことがおありなのですから……」

「どんな手紙です?」枢機卿が歩み寄った。

「もっと近くに、枢機卿猊下。大きな声で話したくはありません。あなたの名誉を傷つけてしまいかねませんから」

 枢機卿はさらに近寄った。

「いったいどの手紙の話をしているのです?」

「よくご存じのはずです」

「いいから仰いなさい」

「ウィーンからパリに書いた手紙のことです。王太子のご成婚を危うくさせようと目論んだものです」

 枢機卿は思わず怯えを見せた。

「その手紙は……?」

「すっかり暗記しております」

「ブルトゥイユが裏切ったのか?」

「何故そう思われます?」

「ご成婚が決まった時に、手紙を返してくれるよう頼んだのだ」

「ブルトゥイユ殿は何と?」

「手紙は燃やしてしまったと」

「失くしてしまったとは仰ろうとなさらなかった」

「失くした?」

「そうです……失くしたからには、見つけられることもあるでしょう」

「つまりその手紙が、私がブルトゥイユに書いたものだったと?」

「そうです」

「燃やしてしまったと言ったのに……」

「そうですね」

「失くしていたのか……?」

「それを私が見つけました。幸運でした! ヴェルサイユの大理石の内庭を歩いていた折りでした」

「ブルトゥイユ殿に返そうとはしなかったのですか?」

「預かっておくことにしました」

「何故です?」

「何故なら魔術師の能力によって、私がこれほどお役に立ちたいと思っているのに、猊下の方では死ぬほど私を苦しませたがっているとわかっていたからです。もうおわかりでしょう。攻撃を受けるとわかっていながら丸腰のまま森を抜けたところ、装填された短銃を森の外れで見つけた場合……」

「その場合?」

「その場合、短銃に見向きもしないとしたら愚か者に違いありません」

 枢機卿は眩暈を起こして窓の縁に身体を預けた。

 だが表情の変化を伯爵にじろじろ見られていることに気づき、すぐに気を取り直した。

「まあいいでしょう。しかし、我が大公家がいかさま師の脅しに屈するようなことはないでしょう。この手紙が失くなって、それをあなたが見つけたというのなら、王太子妃殿下にお見せすべきではありませんか。この手紙が私の政治家生命に傷をつけることになっても、私は忠実な臣下であり大使であると主張するつもりです。それこそが真実であり、オーストリアと同盟を結んでも我が国の利益にとっては有害でしかないと伝えれば、我が国も私のことを守り情けをかけてくれるでしょう」

「もし誰かがそう主張したとして、その若く美しく礼儀正しく何一つ疑わない大使がロアンの名と大公の肩書きを持っているとすると、それはオーストリアとの同盟がフランスの利益にとって有害だと信じているからではなく、マリ=アントワネット大公女の方から優雅にもてなされたために、調子に乗った大使が自惚れも甚だしく大公女の慈しみにそれ以上の意味を見出したから……この慈しみに対して、忠実な臣下にして誠実な大使はどうお答えするおつもりなのでしょうか?」

「答えないでしょう。あなたが存在すると主張している感情には、何の根拠もありませんから」

「そうでしょうか? では王太子妃があなたに冷たいのはどうしてです?」

 枢機卿は躊躇った。

「もういいでしょう、大公殿」と伯爵が言った。「仲違いはやめませんか。私があなた以上に用心深くなければとっくにそうしているべきでしたが、仲良くしませんか」

「仲良く?」

「いけませんか? 仲良くすれば互いに協力し合えます」

「今までそう要求していたではありませんか?」

「そこが間違っていたところです。二日前からパリにいたのですから……」

「私が?」

「ええそうです。どうして隠そうとなさるのです? 私は魔術師ですぞ。あなたはソワッソンで大公女とお別れになり、ヴィレル=コトレとダマルタンを通って、つまり最短距離を取って馬車でパリに到着すると、パリのご友人に助けを求めに行かれましたが、拒否されてしまいました。何人かに拒否された後で、あなたはコンピエーニュに馬車を出し、絶望していたのです」

 枢機卿は完全に打ちのめされて、たずねた。

「あなたに打ち明けたとしたら、どんな助けをしてくれるというのです?」

きんを作り上げる人間に出来ることです」

「あなたが金を作れることに何の意味があるのです?」

「馬鹿なことを! 四十八時間以内に五十万フラン払わなければならないとしたら……五十万フランで間違いありませんね? どうなんです」

「そうだ、間違いない」

「錬金術師と仲良くすることに何の意味があるのかと仰いますか? 誰からも手に入れられなかった五十万フランを、手に入れられるではないですか」

「何処に行けば?」枢機卿がたずねた。

「マレー地区の、サン=クロード街」

「目印は?」

「青銅製のグリフォンの頭が、ノッカーになっております」

「いつ行けば?」

「明後日の夜六時頃お願いいたします。その後は……」

「その後は?」

「何度でもお好きな時にいらして下さい。ですがどうやら話はそろそろ終わりですな。王女の祈りが終わったようです」

 枢機卿は打ちひしがれていた。それ以上は抵抗する気にもなれず、王女に歩み寄った。

「マダム、フェニックス伯爵が正しかったと言わざるを得ません。伯爵がお持ちの証書は法的に非の打ち所がありませんし、聞かせていただいた説明にも満足いたしました」

 伯爵が一礼した。

「何かお命じになることはございますか、殿下?」

「最後に一言こちらのご婦人と話をさせて下さい」

 伯爵は同意の印に再びお辞儀をした。

「ここに匿って欲しいと頼んでおきながらこのサン=ドニ修道院から立ち去るのは、本当にあなたの意思なのですね?」

 すぐにバルサモがたずねた。「殿下がおたずねだ。ここサン=ドニ修道院に匿って欲しいと頼んでおきながら立ち去るのは、本当にお前自身の意思なのか? 答えるんだ、ロレンツァ」

「はい、わたし自身の意思です」

「夫であるフェニックス伯爵について行くのが理由ですか?」

「俺について来たいからか?」

「はい、もちろんです!」

「でしたら」と王女が言った。「あなたの気持気持に逆らってまで引き留めたりはしません。ですがもし物事の自然秩序から外れたことがありましたら、自分の利益を計って自然の調和を乱す者には、主の罰が下ることでしょう……お行きなさい、フェニックス伯爵。お行きなさい、ロレンツァ・フェリチアーニ、もう引き留めません……そうそう、宝石をお返ししましょう」

「あれは貧しい者たちのものです」とフェニックス伯が言った。「あなたの手で施しをなされば、その憐れみに神もいっそうご満足なさることでしょう。私はジェリドだけで結構です」

「お帰りになる際にお求めになれます。行って下さい!」

 伯爵は王女にお辞儀をすると、ロレンツァに腕を差し出した。ロレンツァは腕に絡みつき、物も言わずに出て行った。

「ああ、枢機卿殿」王女は悲しげに頭を振った。「わたくしたちが吸っている空気には、不可解で悲劇的なものが漂っていますよ」

『ジョゼフ・バルサモ』 第51章「フェニックス伯」

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第五十一章 フェニックス伯

 二人の女性の間に深い沈黙が降りていた。一人が苦悶に満ち、一人が驚きに打たれていたことは、容易にご理解いただけよう。

 ようやく、マダム・ルイーズが初めに沈黙を破った。

「では、あなたはこの誘拐に何一つ手を貸していないのですね?」

「一切ありません」

「どのように修道院から連れ去られたのかわからないのですね?」

「私にはわかりません」

「そうは言うものの、修道院の戸締まりや防犯はしっかりしております。窓には格子が嵌っておりますし、塀を越えることも難しいでしょうし、受付口係は常に鍵を身につけております。それにこうした規律は、フランスよりもイタリアの方が厳しいものかと思いますが」

「院長様、あの時から何度記憶をさらっても何も見つからなかったと申し上げなくてはなりませんか?」

「誘拐についてただしてみたのでしょう?」

「確かにそうしました」

「どんな弁明が返って来ましたか?」

「私を愛しているからだと」

「あなたは何と答えたのです?」

「あなたのことが怖いと」

「それでは、男のことを愛してはいなかったのですか?」

「もちろんです!」

「間違いありませんね?」

「あの男に感じていたのは奇妙な感情でした。一緒にいると、自分がもはや自分ではなく、あの男になっていたのです。男が望めば、私もそれを望みました。男が命じれば、私はそれを実行しました。私の魂にはもはや力もなく、頭からは意思が失われていました。見つめられると制御され囚われてしまうのです。やがて、もはや私のものではない思考が心の奥まで入り込み、自分でも気づかなかった隠れた考えが引き出されるのを感じました。おわかりいただけますか、魔術に違いありません」

「超自然かどうかはともかく、不思議なことではありますね。その後、この男とどのように過ごしたのですか?」

「男はとても優しく、心からの愛情を示しました」

「堕落した人間ではないのですか?」

「そうは思えません。それどころか、話し方には伝道者のようなところがありました」

「さあ、あなたも男を愛しているとお認めになったらいかがです」

「そんなことはありません」ロレンツァは苦しげに吐き出した。「愛してはおりません」

「でしたら逃げるべきでした。当局に訴え、両親に訴えるべきでしたよ」

「常に見張られていたので、とても逃げることなど出来なかったのです」

「手紙を書いたりもしなかったのでしょう?」

「途中でいろいろなところに泊まりましたが、どれも男の家であるらしく、誰もが男の言いなりでした。紙とインクとペンを貸して欲しいと何度も頼みましたが、誰に頼んでも男からきつく言われているらしく、誰も答えてはくれませんでした」

「どのように旅をしていたのでしょうか?」

「初めは軽二輪馬車でしたが、ミランでは二輪馬車が見つからなかったため、移動式家屋のようなもので旅を続けました」

「でもいくら何でも、一人きりになる機会もあったのではありませんか?」

「ありました。そういう時には私のところにやって来て、『眠れ』と命ずるのです。すると私は眠りに落ち、男が戻ってくるまで目の覚めることはありませんでした」

 マダム・ルイーズは疑わしげに首を横に振った。

「真剣に逃げようとなさらなかったのではありませんか。そうでなければ、今ごろは逃げることに成功していたでしょう」

「そうだったかもしれません……でも心を囚われていたのだと思います!」

「愛の言葉によってですか、それとも愛の行為によってでしょうか?」

「愛を囁かれることはめったにありませんでした。夜に額に口づけされ、朝にもう一度口づけされるほかは、覚えている限り何もされませんでした」

「確かにおかしなことですね!」王女は呟いた。

 それでも懐疑的に口を開いた。

「失礼ですが、その男を愛していないのだと繰り返していただけますか」

「繰り返します」

「その男とあなたを結ぶ地上の糸などないと繰り返していただけますか」

「繰り返します」

「その男が主張したところで、何の権利もないのですね」

「一切ありません!」

「でもだとすると、どうやってここまでいらしたのですか? それがわかりません」

「嵐に乗じたんです。確かナンシーという町の辺りでした。あの男が私から離れて馬車の奥の間に住んでいた老人のところに行っている隙に、男の馬に乗って逃げ出したんです」

「イタリアに帰らずフランスを選んだのは何故でしょうか?」

「ローマに戻ることは出来ないと考えたんです。きっと男と共謀していたと思われるに決まっています。私が名誉を傷つけたと言って、両親は迎えてはくれないでしょう。

「パリに入ると、町中があなたの修道会入りに沸き立っていました。あなたの信仰心、貧しい人たちに対する思いやり、不幸な人たちに対する同情を褒め称える人ばかりでした。すぐに直感しました。私を受け入れてくれるほど寛大で、私を守ってくれるほど有力な人は、あなたを措いてほかにないと」

「わたくしの力を頼るということは、その男はかなりの力を持っているのですね?」

「ええ、その通りです!」

「いったい何者なのです? 今まではたずねるのを控えておりましたが、あなたを守るともなれば、誰を相手にしているのか知る必要もあります」

「それが、お知らせすることは出来ないんです。あの男が誰で何者なのか、私はまったく知りません。わかっているのは、国王でもあれほどの敬意を抱かれることは出来ず、啓示を与える人々から神もあれほどの崇拝を受けることはないということです」

「ですが名前は? 何と呼ばれていましたか?」

「それはもういろいろな名前で呼ばれていましたが、覚えているのは二つだけです。一つは、先ほど申し上げた老人が使っていた呼び名です。この老人はミランから旅に加わり、私が逃げ出す時にも馬車におりました。もう一つは、男自身が名乗っていた名前です」

「その老人は何と呼んでいたのですか?」

「アシャラ……これは異教徒の名前ではないでしょうか……?」

「男自身は何と名乗っていたのです?」

「ジョゼフ・バルサモ」

「その男は?」

「あの男ですか!……あらゆる人々と知り合いで、あらゆる物事に明るく、あらゆる時代の人間と交わり、あらゆる年代に生きているのです。ああ……冒涜をお許し下さい! アレクサンドロス、カエサル、シャルルマーニュ、まるで知り合いのことを話すように彼らのことを口にしていました。でも彼らはずっと昔に死んでいるのではありませんか。いえそれどころか、カイアファ、ピラトゥス、主イエス・キリストのことを、その目で主の殉教を目撃したかのように口にするのです」

「その男は騙りですよ」王女が言った。

「今仰った言葉が、フランス語でどういう意味なのか正確にはわかりません。私にわかっているのは、あの男が危険で恐ろしい人間で、あの男の前では誰もが跪き、負けを認め、膝を屈するということだけです。身を守るものがないと思うような時には、身を固めます。一人きりに見えるような時には、そこから人を立ち去らせるんです。それも武力も暴力も用いず、言葉と仕種を用いて……微笑んで」

「安心なさい。その男がどんな人間であろうと、守って差し上げます」

「あなたが守って下さるのでしょうか?」

「ええ、わたくしが。あなたがご自分から保護を断ち切らないのであれば。ただしもう信じてはいけませんよ。それに病んだ魂が生み出した幻覚をわたくしに信じさせようとするのもいけません。いずれにしましても、サン=ドニの壁はあなたを悪魔の力から守る城壁になれるでしょうし、あなたが恐れている力、人間の力からも守ってくれるでしょう。どうなさいますか?」

「これでよければ、ここにある宝石で持参金をお支払いしようと思います」

 ロレンツァは机の上に高価なブレスレット、指輪、見事なダイヤモンド、美しい耳飾りを置いた。恐らく二万エキュはくだらない。

「これはあなたのものなのですか?」

「私のものです。あの男がくれたものを、主にお返しいたします。例外が一つだけありますが」

「何でしょうか?」

「逃げるのに使ったジェリドというアラブ馬は、返すように言われたら返すつもりです」

「ではどんなことがあっても一緒に戻るつもりはないのですね?」

「私はあの男のものではありません」

「それはそうなのでしょう。ではサン=ドニに入って、スビアーコで中断されてしまった儀式の続きを行うのが望みなのですか?」

「ほかに望みなどありません、どうかお恵みをかけてください」

「さあ、落ち着いて下さい。今日からわたくしたちと生活を共にして、あなたの決意のほどをお示しなさい。模範的な生活を期待しておりますよ。恵みをかけるに相応しいと判断できれば、あなたはその日より主のものとなり、サン=ドニに留まることを妨げるものは何一つなく、修道院長が見守り続けるとお答えいたしましょう」

 ロレンツァは王女の足許に身を投げ出し、心から感謝の言葉を費やした。

 だが突然身体を起こして耳を澄ますと、真っ青になって震え出した。

「ああ、何で? どうして?」

「どうしました?」

「身体中が震えてるんです! おわかりになりませんか? 近くにいるんです!」

「誰のことです?」

「私を堕落させようと誓った男です」

「あの男ですか?」

「あの男です。私の手足が震えているのがおわかりになりませんか?」

「それはわかります」

「ああ!」胸を射抜かれたように呻いた。「こっちにやって来る!」

「勘違いではありませんか」

「違います、違います。ほら、意思に反して引き寄せられそうなんです。助けて下さい、離さないで下さい」

 マダム・ルイーズはロレンツァの腕をつかんだ。

「冷静になりなさい。あの男だとしても、ここにいれば安全です」

「ここにやって来るんです!」ロレンツァは怯えてぐったりとして、扉を見つめて腕を伸ばした。

「何を仰るのです! マダム・ルイーズ・ド・フランスの部屋に入って来るというのですか……? だとしたらその男は国王の命令を携えていることになりますよ」

「どうやって入って来るのかはわかりません」ロレンツァが仰け反った。「でもわかるんです。間違いありません、今は階段を上っています……もう十歩と離れていません……あそこです!」

 突然、扉が開いた。奇妙な偶然に、王女は思わずぎくりとして尻込みした。

 修道女が立っていた。

「どなたです? 何のご用ですか?」

「院長様、修道院にお見えになった貴族の方が、殿下との謁見をご希望なさっていらっしゃいます」

「お名前は?」

「フェニックス伯爵です」

「あの男ですか?」王女がロレンツァにたずねた。「この名前をご存じですか?」

「その名前は知りません。でもあの男です、間違いありません」

「その方のご用件は?」王女が修道女にたずねた。

「プロイセン国王陛下よりフランス国王に遣わされた使節団の方で、王女殿下とのご会談を望んでいらっしゃいます」

 マダム・ルイーズはしばし考えてから、ロレンツァを振り返った。

「この小部屋にお入りなさい」

 ロレンツァが言う通りにすると、王女は修道女に言った。

「その方をお通しして下さい」

 修道女がお辞儀をして出て行った。

 王女は小部屋の扉がしっかり閉まっているのを確認すると、腰かけていた椅子に戻り、心穏やかならざる気持で、これから起こるであろう事件を待ち受けていた。

 間もなく修道女が戻って来た。後ろを歩いていたのが、既にお話ししたように、認証式の日にフェニックス伯の名で国王に知られていた男である。

 あの日と同じ、飾り気のないプロイセンの軍服姿だった。軍人用の鬘と黒いカラーをつけている。生命力にあふれた黒い目がマダム・ルイーズを前にして伏せられたものの、どれほど地位が高かろうとただの貴族でしかない人間がフランス王家の娘に示さなければならない敬意を示してみせただけであった。

 だがすぐに目は上げられた。あまりへりくだっていると思われてはたまらないとでも考えたのだろうか。

「殿下、謁見をお許し下さいましたことを感謝いたします。しかしながら、苦しんでいる者には分け隔てなく慈悲を賜る殿下のことですから、お許し下さるものと思っておりました」

「確かにそう努めております」恥知らずにも本来の目的を濫用して他人の厚意を求めて来た男に対し、謁見が終わった後には苦汁をなめさせてやらねばなるまいと思い、王女は威厳を以て答えた。

 伯爵は裏のある言葉に気づいた素振りも見せずに、一礼した。

「わたくしでお役に立てることがありますでしょうか?」マダム・ルイーズは皮肉を効かせたままたずねた。

「どんなことでもお助け下さいましょう」

「お話し下さい」

「さしたる理由もなく、殿下のお選びになった隠遁所にお邪魔したりはいたしません。私が多大な関心を寄せている者を保護なさっていると窺いました」

「その者の名は?」

「ロレンツァ・フェリチアーニ」

「あなたとのご関係は? 配偶者ですか、母親ですか、姉妹ですか?」

「私の妻です」

「妻ですか?」小部屋にも届くように声を大きくした。「ロレンツァ・フェリチアーニはフェニックス伯爵夫人なのですか?」

「仰る通り、ロレンツァ・フェリチアーニはフェニックス伯爵夫人です」伯爵は悠々として答えた。

「カルメル会修道の中にはフェニックス伯爵夫人はおりません」王女がすげなく答えた。

 だが伯爵は尻尾を巻いたりはしなかった。

「ロレンツァ・フェリチアーニとフェニックス伯爵夫人が一人の同じ人物だということを、もしやまだお疑いなのでしょうか?」

「そう、確かに仰る通りです。この点については確信が持てません」

「ロレンツァ・フェリチアーニを呼んでいただければ、疑いも晴れるのではありませんか。恐れながらそうしていただけるようお願い申し上げます。しかし私とロレンツァは深い愛情で結ばれておりますから、ロレンツァも私の許を離れたことを後悔しているものと思っております」

「そうお思いですか?」

「そう思っております。どんなに拙かろうともそこだけは自信があります」

 ――なるほど、と王女は考えた。ロレンツァは正しかった。この男は確かに危険人物だ。

 伯爵は平然と落ち着き払ったまま、宮廷の堅苦しい礼儀の殻に閉じこもっていた。

 ――嘘をついてみましょう。マダム・ルイーズは考えた。

「残念ですが、ここにいない方をお返しする訳には参りません。あなたがその方のことをひたむきに追いかけ、言葉どおりに愛しているのはわかりました。ですがその方を見つけようとなさるのでしたら、よそを当たってみるべきだと思いますよ」

 伯爵は部屋に入って以来、マダム・ルイーズの私室を含めてあらゆるものに素早い視線を送っていたが、その目が一瞬だけ止まった。ほんの刹那ではあったが一目で充分であった。部屋の薄暗い片隅にある机の上に、ロレンツァが持参金にしようとした宝石が置かれてあった。その宝石が暗がりで放つ光に、フェニックス伯は見覚えがあった。

「もし殿下が記憶を探っていただけたなら、どうかご容赦いただきたいのですが、先ほどまでこの部屋にロレンツァ・フェリチアーニがいたことを思い出していただけるのではないでしょうか。あそこの机にロレンツァの宝石が置いてあります。あれを殿下に差し上げた後で退出したのでしょう」

 フェニックス伯は、王女が小部屋に目を走らせたのを見逃さなかった。

「あの小部屋に退出したのですな」

 王女が赤面したのを見て、伯爵はなおも続けた。

「となると、部屋に入る許可を殿下がお命じ下さるのを待つだけです。ロレンツァはすぐに従ってくれることでしょう」

 王女は思い出した。ロレンツァが中から鍵を掛けた以上は、自分で出て来たいと思わない限りは無理に引っ張り出すことは出来ないのだ。

「ですが」この男の前では何も隠すことなど出来なかったというのに、無駄に嘘をついてしまったという悔しさを、もはや隠そうともしなかった。「ここに呼んだら、あの方はどうなさるでしょうね?」

「どうにもいたしません。私と一緒にいたいと殿下に申し上げるだけでしょう。妻なのですから」

 この最後の言葉を聞いて王女は気を取り直した。ロレンツァが断言したのを覚えていたのだ。

「妻というのは確かでしょうか?」

 その言葉には憤りが感じられた。

「殿下は私を信用して下さらないようですな」伯爵の声は落ち着いていた。「しかしフェニックス伯がロレンツァ・フェリチアーニを娶ったことも、娶っている以上は妻を引き渡してもらうことも、何も信じがたいことではありませんぞ」

「また妻ですか!」マダム・ルイーズは焦れったそうに声をあげた。「飽くまでロレンツァ・フェリチアーニは妻だと言い張るのですね?」

「そうです、殿下」伯爵の声に不自然なところは微塵もなかった。「飽くまでそう言い張ります。それが事実なのですから」

「婚姻を結んだのですか?」

「婚姻を結びました」

「ロレンツァと?」

「ロレンツァと」

「合法的にでしょうか?」

「その通りです。飽くまで疑ってかかろうとなさるのでしたら……」

「でしたら、何でしょうか?」

「司祭の署名が入った正規の婚姻証書をお見せいたしましょう」

 王女は身震いした。伯爵がこれほどまでに落ち着き払っているのを見ると、自信が揺らいだ。

 伯爵が紙入れを開け、四つに折り畳んだ紙を開いた。

「これが、私の話が真実であり、あの女を取り戻す権利があるという印です。署名が証拠になります……証書を読んで署名をお確かめになりますか?」

「署名ですって!」怒りはむしろ侮辱するような疑いに変わっていた。「ですがもしこの署名が……?」

「この署名はストラスブールのサン=ジャン教会の主任司祭のものです。ルイ司教ロアン枢機卿とお知り合いですから、猊下がここにいらしたなら……」

「枢機卿ならいらっしゃいます」王女は伯爵を燃えるように睨みつけた。「猊下はサン=ドニをお発ちになりませんでした。今は大聖堂の司教座参事会員のところにおいでです。これほど簡単な確認方法はありませんね」

「それは運がいい」伯爵は悠々と証書を紙入れに仕舞った。「確かめていただければ、殿下の間違ったお疑いも晴れることでしょう」

「これほどまでに厚かましいとは、怒りを覚えますよ」王女はけたたましく呼び鈴を鳴らした。

 フェニックス伯を案内して来た修道女が、再び駆けつけた。

「馬丁に馬を用意させて、この手紙をロアン枢機卿に届けさせて下さい。大聖堂の参議会室にいらっしゃいます。わたくしが待っているので、直ちに来るようにと」

 そう言って急いで何事かを書きつけ、修道女に手渡した後、そっと耳打ちした。

「回廊に憲兵隊の弓兵を配置させて下さい。わたくしの許可がなければ誰一人として出してはなりません。さあ行きなさい!」

 伯爵はマダム・ルイーズの心の動きに注目していたが、今こうしてマダム・ルイーズが最後まで戦おうと決意したのを確認した。王女が恐らくは勝ちを意識して手紙を書いている間、小部屋に近づき、扉に目を据え、腕を伸ばしてでたらめではないある法則に従って動かすと、小声で何やら呟いた。

 王女が振り返り、伯爵のやっていることを見つけた。

「そこで何をなさっているのです?」

「ロレンツァ・フェリチアーニに頼んでいるのですよ。自らここに来て、本人の言葉と意思によって、私がペテン師でもいかさま師でもないことを、殿下に証明して欲しいと。これは殿下がお求めになっているほかの証拠をないがしろにするものではありません」

「お待ちなさい!」

「ロレンツァ・フェリチアーニ」伯爵は王女の意向さえ完全に制御していた。「ロレンツァ・フェリチアーニ、この小部屋から出て、ここに来なさい!」

 だが扉は閉じたままだった。

「出て来なさい!」

 すると錠前の中で鍵が軋んだ。ロレンツァが出て来るのを、王女は生きた心地もせず見つめた。伯爵を見つめているロレンツァの目には、怒りの色も憎しみの色もなかった。

「どうしたのです?」マダム・ルイーズがたずねた。「どうして逃げてきた男の許に戻るのですか? ここにいれば安全だと申し上げたはずです」

「安全なのは私の家も変わりありません」伯爵が答えた。

 そしてロレンツァの方を向いた。

「ロレンツァ、私のところにいれば安心だな?」

「はい」とロレンツァが答えた。

 王女は驚愕のあまり、両手を合わせて椅子に倒れ込んだ。

「ロレンツァ」伯爵の声は穏やかだったが、そこには有無を言わせぬ響きも感じられた。「俺がお前に暴力をふるったと非難されている。答えてくれ、お前に暴力をふるったことなどあったか?」

「一度もありません」ロレンツァの声ははっきりとしていたが、否定を示すような身振りは伴っていなかった。

「では、誘拐されたという先ほどの話は何だったのですか?」王女がたずねた。

 ロレンツァは何も言わずに伯爵を見つめていた。まるでそれを表現するための生気も言葉も、伯爵から出て来でもするように。

「どうしてお前が修道院から出て行きたがっているのか、殿下がお知りになりたいそうだ、ロレンツァ。内陣で気絶した瞬間から、二輪馬車で目を覚ますまでに起こったことを、すべてお話しして差し上げなさい」

 ロレンツァはなおも沈黙していた。

「洗いざらい話しなさい、一つも省くことなく」

 ロレンツァの身体に震えが走った。

「覚えておりません」

「記憶を探りなさい、そうすれば思い出せる」

「はい」ロレンツァが単調な声で答えた。「思い出しました」

「話しなさい!」

「髪に鋏が触れた瞬間に気絶してしまったので、部屋に運ばれ寝台に寝かされました。夜になるまで母が付き添っていましたが、私が気を失ったままなので、町医者が呼ばれました。医者は脈を取り口許に鏡を当て、脈が止まって息をしていないことを確認すると、私が死んでいることを伝えました」

「何故そんなことを知っているのですか?」王女がたずねた。

「どうして気絶している間のことを知っているのか殿下がお知りになりたいそうだ」

「不思議なことですが、ものも見えたし耳も聞こえました。ただ、目を開けることや口を開くこと、身体を動かすことが出来ませんでした。昏睡状態だったのです」

「そう言えば、昏睡状態に陥って生きたまま埋葬されてしまった人の話をトロンシャンから聞いたことがあります」

「続けなさい、ロレンツァ」

「ショックを受けた母は、私の死を信じようとはしませんでした。夜の間も翌日になっても付き添いを続けると言い張りました。

「母はその言葉を実行に移しました。ですが三十六時間見守り続けても、私は動くこともせず息を吐くこともありませんでした。

「司祭が三度やって来て、そのたびに、既に魂が主のものとなった身体を地上に留めようとするのは主に対する反抗だと母に言い聞かせました。私が死んだ状況はあらゆる点で救済を示しており、主との永遠の誓いを交わす言葉を発した瞬間であることは疑いない。私の魂はまっすぐ天に召されたことは疑いない、と。

「母はそれでも、月曜から火曜まで徹夜して付き添わせて欲しいと言いつのりました。

「火曜日の朝になっても、私は意識を失った状態のままでした。

「母は諦めて引き下がりました。修道女たちが大声で泣き喚いていました。大蝋燭が礼拝堂に灯されました。規則に従い、一昼夜そこに安置されることになっていたのです。

「母が出て行くと、死体安置係が部屋にやって来ました。私は誓いを終えておりませんでしたので、白い装束を着せられ、額に白薔薇の冠を巻きつけられ、胸の上で腕を十字に組まれ、声がしました。

「『棺を!』

「棺が部屋に運び込まれました。身体中に震えが走りました。申し上げたように、閉じた瞼越しに、目が開いている時のように何もかもが見えたからです。

「私は持ち上げられ、棺に入れられました。

「それからイタリアの作法に則って顔には何もかけず、礼拝堂に運ばれ、内陣の中央に降ろされました。周りには大蝋燭が灯り、足許には聖水盤が置かれていました。

「一日中、スビアーコの農民が礼拝堂にやって来て、私のために祈り、身体に聖水を掛けていきました。

「夜になり、弔問者が途絶えると、小扉を除いて礼拝堂の扉は閉められ、看護係の修道女が側に残っているだけになりました。

「ところが、恐ろしい考えに眠りを掻き乱されたのです。明日になれば、埋葬が行われるに違いありません。何処かから助けが来ない限り、生きたまま埋められてしまうことでしょう。

「一つ一つ時を打つのが聞こえました。九時の鐘が鳴り、それから十時、十一時。

「鐘が打たれるたびに心臓でぐわんぐわんと音を立てました。何て恐ろしいことでしょう! 私は自分の弔鐘を聞いていたのです。

「何とか眠りを破って棺に結わえられている針金を断とうとしました。主はそれをご覧になったのです。憐れみをかけて下さったのですから。

「真夜中の鐘が鳴りました。

「一つ目が鳴った時、アシャラが近づいて来る時と同じような震えが身体中に起こりました。心臓がびくりとし、この人が礼拝堂の戸口にいるのが見えました」

「その時に感じたのは恐怖だったか?」フェニックス伯がたずねた。

「違います。幸せ、嬉しさ、狂喜でした。あれほど恐れていた死から助けに来てくれたのだということがわかっていましたから。この人はゆっくりと棺に歩み寄り、私を見つめて悲しげに微笑んで言いました。

「『起き上がって歩きなさい』

「身体を縛りつけていた針金がやがて断ち切れました。その力強い声を聞いて私は起き上がり、棺から足を踏み出しました。

「『生きているのは嬉しいか?』

「『はい』

「『よかろう、ではついて来い』

「私の側で務めを果たしておりました看護係は何人もの修道女の側で務めを果たして来た、葬儀に慣れた人でしたので、椅子の上で眠っておりました。私は看護係を起こさぬように横を通り抜けますと、再び死から救ってくれた人について行きました。

「中庭に着きました。もう見ることはないと思っていた星空が見えます。死んでいる者には感じることの出来ないひんやりとした夜の空気も、生きている者には何と心地よかったことでしょう。

「『いいか、修道院を離れる前に、神と俺のどちらかを選べ。修道女になるか? 俺について来るか?』

「『あなたについて行きます』と私は答えました。

「『では来るんだ』と繰り返します。

「受付口の扉は閉まっていました。

「『鍵は何処にある?』

「『受付口係の小物入れです』

「『小物入れは何処だ?』

「『椅子の上です、寝台の横の』

「『音を立てず忍び込み、この扉の鍵を持って来るんだ』

「私は言う通りにしました。小屋の扉は中から閉められてはいませんでしたので、中に入ってまっすぐ椅子に向かいました。小物入れを探って鍵の束を見つけましたので、受付口の鍵を選んで持って行きました。

「五分後、受付口の扉は開き、私たちは路上にいました。

「私たちは腕を取ってスビアーコの町外れまで走りました。町外れの家から百パッススほど離れたところに、馬の繋がれた軽二輪馬車が待っていました。私たちが乗り込むと、馬車は駆足で走り出しました」

「つまり如何なる暴力もふるわれなかったし、如何なる脅しも受け取らなかったというのですか? 自発的にこの男について行ったというのでしょうか?」

 ロレンツァは黙ったままだった。

「殿下がおたずねだ、ロレンツァ。脅しや暴力を受けて、無理矢理俺について来たのか?」

「違います」

「ではどういう理由でついて行ったのです?」

「答えろ、どうして俺について来た?」

「あなたを愛しているからです」とロレンツァが答えた。

 フェニックス伯爵が王女に向かい、勝ち誇ったような笑いを浮かべた。

『ジョゼフ・バルサモ』 50-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「私はローマ人です。両親とローマに住んでいました。父は古くからの貴族でしたが、ローマ貴族の例に洩れず貧しい人でした。それから母と兄がいました。聞くところによると、フランスでは私たちのような一家に息子と娘がいる場合、息子の剣を買うために娘を犠牲にするそうですね。私たちの家では、息子を聖職者にさせるために娘を犠牲にしました。兄に教育を受けさせる必要があったため、私は教育を受けることも出来ず、兄は母の言いなりに枢機卿を目指して勉強に勤しんでいました」

「それからどうなりました?」

「それから、両親は兄を援助するために犠牲に出来ることならすべて犠牲にしたのです。私はスビアーコのカルメル会修道院に行かされることになりました」

「それに対してあなたは何と?」

「何も。小さな頃から、将来はそうせざるを得ないと教えられてきましたから。私には何の力も意思もありませんでした。意見など求められずに命令されて、それに従うほかなかったんです」

「しかし……」

「私たちには、私たちローマの娘には、祈ることと従うことしか出来ませんでした。地獄に落とされた人々が見たこともない天国に憧れるように、私たちは世界に憧れていたのです。もっとも、抵抗しようと考えれば罰を受けることは見せつけられていましたし、そうする気持も起こりませんでした。友人たちにもみんな兄弟がいましたから、家族のために犠牲を払っていました。私には不満を洩らす理由などないのでしょう。しきたりを破ることなど誰も望んではいませんでした。別れ別れになる日が近づいて来ると、母は少しだけ強く抱いてくれました。

「とうとう修練期がやって来て、父は修道院に支払う五百ローマン=エキュの持参金を集め、私たちはスビアーコに旅立ちました。

「ローマからスビアーコまでは八、九里の距離でした。ところが歩きづらい山道だったため、九時間かかってようやく三里しか進めませんでした。でもひどい旅にもかかわらず、私には嬉しかったんです。こうした幸せも最後だと思って微笑みかけながら、道ばたの木々や藪や石、枯れた草花にさえこっそりと別れを告げて歩いていました。その修道院に草花や石ころや藪や木々があるとは限りませんものね!

「私がそうやって空想に耽りながら、小さな森やひびだらけの岩場を通り過ぎていた時でした。突然馬車が止まり、父が声をあげるのが聞こえました。父が拳銃をつかもうとしました。私の目も心も天から地上にすっかり引き戻されました。私たちは山賊に捕まっていたのです」

「ひどい体験でしたね」マダム・ルイーズはこの物語に徐々に興味を惹かれていた。

「話を続けましょうか? 私はそれほど怖くはありませんでした。馬車を止めたのはお金が目的に決まっていますし、修道院に払うための持参金がありましたから。持参金がなければ、父がまたお金を作るまでの間は修道院入りを遅らせられるはずでした。五百エキュかき集めるのにどれだけの苦労と時間がかかったのか知っていましたから。

「ところがお金を分捕った山賊は、私たちの馬車を解放するどころか、私に向かって襲いかかって来たのです。私を守るために父が必死で抵抗し、母が涙を流して哀願するのを見て、経験したこともないような恐ろしい危険に襲われているのだと悟り、普通なら助けを呼ぶところでしたが、私は慈悲を請うて叫んでいました。助けを呼んでも無駄なことはわかっていましたし、そんな寂しい場所では誰にも聞こえないことはわかっていましたから。

「事実山賊たちは私の叫びも母の涙も父の抵抗も気に留めず、後ろ手に縛り上げた私をおぞましい目つきで眺め回しているのが、恐怖のあまり神経の張り詰めていた私にはわかりました。山賊たちはポケットから骰子ダイスを取り出し、手巾の上で賭けを始めました。

「私はますますぞっとしました。汚らしい敷物の上には、賭け物など一つもなかったんです。

「手から手に骰子が回されている間中、私は震えていました。賭けられているのは私だとわかったからです。

「突然、山賊の一人が勝ち鬨をあげて立ち上がり、仲間が悪態をついて歯軋りしているのを尻目にこちらに駆け寄り、私を抱き寄せ口唇を押しつけました。

「真っ赤に焼けた鉄を押しつけられたとしても、あれほど苦悶に満ちた声は出せなかったでしょう。

「『やめて!』と私は叫びました。

「母は地面をのたうち、父は気を失いました。

「もう祈ることしか出来ませんでした。賭けに負けた山賊の誰かが怒りに駆られてナイフを握って殺してくれたらどんなにありがたかったか。

「私はナイフの一突きを待ちました、願いました、祈りました。

「その時、馬に乗った男が小径に現れたんです。

「男が見張りに何か囁くと、見張りは合図して道を開けました。

「背丈は人並みで、貫禄のある顔つきをして、意志の強そうな目つきをした男です。落ち着き払って馬を並足で進めていました。

「私の前まで来ると、男は馬を止めました。

「腕をつかんでいた山賊は私を連れて行きかけていましたが、男が鞭の柄を鳴らすとすぐに振り返りました。

「山賊は腕から私をずり落としました。

「『ここに来い』と男が言いました。

「山賊は躊躇っていましたが、男が腕を曲げて胸の上で二本の指を広げると、それが絶対服従の合図だったのでしょうか、山賊は男に近づいて行きました。

「男は山賊の耳元に口を寄せ、小声で囁きました。

「『Mac』

「その一言だけでした。間違いありません。これから自分に突き立てられる短刀を見るように目を凝らしていましたし、自分の生死を決める言葉を聞くように耳をそばだてていましたから。

「『Benac』と山賊が答えました。

「それから獅子のように服従して吼えると、私のところまで戻って、手首を縛っていた紐をほどき、父と母の腕もほどきに行きました。

「既に山分けされていたお金も、一人一人が石の上に戻しています。一エキュも欠けずに五百エキュありました。

「そうしている間にも父と母の腕も自由になりました。

「『よし、行け……』男が山賊たちに命じました。

「山賊たちはその言葉に従い、一人残らず森の中に戻って行きました。

「『ロレンツァ・フェリチアーニ』男は人間とは思えないような目つきで私を包んでいました。『先に進むがいい。お前は自由だ』

「私たちはその男のことを知らないのに、男の方では私の名を知っていたのです。父と母は礼を言って、馬車に戻りました。私も後に従いましたが、足はなかなか進みませんでした。というのも、助けてくれた男の不思議な魅力に抗えなかったのです。

「私たちを守り続けようとでもするように、男はそのままの場所で動かずにおりました。

「私は見えなくなるまで男を見つめていたのですが、男の姿が見えなくなってようやく、胸を締めつけるような威圧感が消え去りました。

「二時間後、私たちはスビアーコに到着しました」

「その男は何者だったのですか?」ロレンツァの語った物語があまりにあっけなかったため、王女がたずねた。

「続きを聞いていただけますか。まだすべては終わってはいなかったのです!」

「お聞きいたしましょう」

 ロレンツァは話を続けた。

「道中、父と母と私は、あの突然現れた不思議な救い主の話ばかりしていました。天の遣いのように謎めいていて力強かったと。

「父は私ほど無邪気ではありませんでしたので、ローマ辺りに散らばっている何処かの盗賊団の長なのではないかと疑っていました。同じ組織に属している盗賊団を折にふれて視察に来るまとめ役で、褒美を取らすも罰するも分け前を取らすも自由な絶対権力を付与されているのではないかということでした。

「でも父には人生経験でこそ勝てませんが、私は直感に従い、感謝の念に包まれていたので、あの男が盗賊だとは思いませんでした。いえ、思えなかったのです。

「そこで私は毎晩マリア様に捧げていた祈りの中で、あの見知らぬ救い主に聖母のご加護がありますことを願って祈りました。

「その日から、私は修道院に入ることになりました。持参金は取り戻したのですから、修道院入りを妨げるものはありませんでした。悲しかったし、すっかり諦めていました。敬虔なイタリア人の頭には、染み一つない汚れなき身体のままでいよと主が望まれたのだと感じられたからです。主を措いてははずせない純潔の冠を汚そうとして悪魔が遣わした盗賊たちを、追い払ってくれたのですから。そこで私は修道院長や父母の心尽くしに熱い気持ちで飛び込んでいました。修練期を免除するための教皇宛て請願書を差し出されたので、私はそれに署名しました。それを読んだ教皇聖下が世俗を疎んで孤独を選ぼうとするひたむきな魂を感じてくれるようにと、父が心を尽くして書いたものでした。聖下は請願をすべてお認めになり、一年、人によっては二年の修道期間を、ご厚意により一か月にして下さいました。

「この報せを聞いても、苦しみも喜びも感じませんでした。もはやこの世では死んでいて、動かぬ影だけの残された死体に向かって行われているようでした。

「世俗の魂が捕らえに来るのを避けるために、二週間の謹慎を申し渡されました。二週間後の朝、ほかの修道女と共に礼拝堂に行くように命じられました。

「イタリアでは修道院の礼拝堂は公教会のものでした。主とお会い出来る場所で主を独占することが司祭に許されているとは、よもや教皇も思われないでしょう。

「私は内陣に入り、椅子に坐りました。内陣の柵を仕切っている緑の布の間です。もっとも、仕切っているのは形だけのことでしたが。身廊と内陣の境目には充分な空間がありましたから。

「地上に与えられたとでも言うべきその空間から、額ずいた人々の中にただ一人立ったままでいる人間が見えました。その人は私を見ていた、いいえ目で貪っていました。その時、以前に感じたことのあるのと同じ不安を感じたのです。兄が紙や薄板や厚板越しさえ磁石で針を引きつけるのを見たことがありましたが、ちょうどそれと同じように超人的な力に操られるかのようでした。

「ああ! この魅力に抗う術もないままに打ち負かされて引き寄せられ、主に祈るように手を合わせて、口と心の両方でこう呟いていたのです。

「『ありがとうございます!』

「修道女たちが驚いて見つめましたが、私の行動も言葉も理解出来なかったので、手と目と声の先を目で追い、椅子から背伸びして身廊を見つめていました。私も見つめたまま震えていました。

「男は消えていたんです。

「修道女たちからいろいろたずねられましたが、赤らんだり青ざめたりして口ごもるしかありませんでした。

「それ以来です」ロレンツァが絶望に駆られて叫んだ。「それ以来、私は悪魔の力に取り憑かれているんです!」

「そうは仰いましても、人知を越えたところなど見受けられませんよ」と王女は微笑んだ。「どうか落ち着いて続きをお話し下さい」

「私と同じことを感じていないからわからないのです」

「何を感じたのですか?」

「呪縛です。心も魂も理性も、悪魔に取り憑かれてしまいました」

「その悪魔とはもしや恋愛感情ではないのですか」

「愛情であればこんなふうに苦しんだり、心を痛めつけたり、木々を揺する嵐のように肉体を揺らしたり、悪い考えを心に植えつけることはないでしょう?」

「悪い考えとは何ですか」

「聴聞僧に告白すべきだったんですよね?」

「そうでしょうね」

「でも、私に取り憑いている悪魔は、秘密を漏らすなと囁きかけたんです。修道女は修道院に入った際に愛の記憶を世俗に捨てて来たはずですが、主の御名を唱えながらも心に別の名を抱いている人たちも大勢いました。指導僧なら似たような告白を山ほど聞いているはずです。でも私は信心深く内気で無垢だったので、あのスビアーコの旅の日まで、兄以外の男とは一言も口を利いたことがなかったんです。その時まで、他人と二目と目を交わしたことはありませんでした。そんな私が空想してしまいそうになったんです。髪を下ろす前に誰もがかつての恋人と分かっていた逢瀬を、私もその男と分かつことが出来たら、と」

「確かに悪い考えですね」とマダム・ルイーズが言った。「ですが取り憑いている女性にそんな考えを吹き込むだけでしたら、随分と害のない悪魔ですよ。続きをお話し下さい」

「翌日、面会に来た人がいたので降りてゆくと、ローマのフラッティーナ通りに住んでいた女友達がいて、随分と懐かしんでくれました。毎晩一緒におしゃべりしたり歌ったりした仲だったんです。

「その人の後ろ、戸口の辺りに、ヴェールをかぶった男が下男のように控えていました。見向きもされませんでしたが、私の方ではその男を見つめていました。一言も話しかけられなかったけれど、誰なのかはわかりました。あの見知らぬ救い主だったのです。

「何度も感じた不安がまたも心に湧き起こりました。その男に力ずくで征服されたのがわかりました。逃げだそうと抗うこともせずに、男のものになっていました。ヴェールの陰から打ち寄せる不思議な波が、私を惑わせていたのです。口を開くことなく私にしか聞こえない音を用いて、美しい言葉で話しかけていたのです。

「私は持てる力のすべてをふりしぼって、フラッティーナ通りの友人に向かい、一緒にいる男は誰なのかとたずねました。

「知らないという返事でした。夫と来る予定だったのですが、出発直前にその男と帰って来た夫からこう告げられたそうです。

「『スビアーコに連れて行けなくなった。この人に連れて行ってもらいなさい』

「私との再会を待ち切れなかったため、それ以上とやかく言わずにその男と旅をして来たのだと言っていました。

「友人は敬虔な人でしたから、面会室の隅に奇蹟をもたらすと評判の聖母像があるのを見て、帰る前に祈りを捧げずにはいられず、聖母像の前に行って跪いていました。

「その間、男が音も立てず部屋に入りゆっくりと近づいて来ると、ヴェールを割って、私の目を射抜くような強い光を二つの目から放ちました。

「私は話しかけられるのを待っていました。男の言葉を聞きたくて、胸が波のように高くうねっていました。ところが男は柵越しに私の頭上に手を伸ばしただけでした。その瞬間、得も言われぬ恍惚とした感覚に襲われたのです。無限の寂しさに押しつぶされたように目を閉じて、私たちは微笑みを交わしました。そうしているうちに、目的は私に力を及ぼすことだけだったのでしょうか、男は立ち去りました。男が遠ざかるにつれて、徐々に感覚が戻って来ましたが、それでも不思議な幻覚の影響力から逃れることは出来ませんでした。フラッティーナ通りの友人が祈りを終えて立ち上がり、いとまを告げて私を抱き寄せ立ち去った時にも、それは続いていたのです。

「その夜、服を脱いでいると、頭巾の下からたった三行だけの手紙が出て来ました。

「『ローマでは修道女を愛する者は死罪です。あなたに生を捧げる者に、あなたは死を与えるのでしょうか?』

「その日から私は完全に取り憑かれてしまったのです。主を欺き、その男のことしか考えられないことを告白いたしませんでした」

 ロレンツァは自分の口にしたことに怯え、話を止めて、穏やかで知的な王女の顔つきを確かめた。

「そういったことはすべて悪魔の仕業ではありません」マダム・ルイーズ・ド・フランスは毅然として答えた。「不適切な情熱というものです。それに申し上げました通り、後悔の形を取っているのでなければ、世俗の物事をここまで持ち込んではなりません」

「後悔、ですか?」ロレンツァが声をあげた。「涙を流して祈っているのをご覧になりませんでしたか? この男の恐ろしい力から救って欲しいと跪いていたのをご覧になりませんでしたか? それなのに、後悔しているかとたずねるのですか? 後悔という言葉では足りません。私が持っているのは悔悛の気持です」

「ですが、今になっても……」

「お待ち下さい、最後まで聞いて下さい。そのうえで寛大な裁きをお願いいたします」

「寛大と優しさがわたくしに求められているものです。苦しみに向き合うのがわたくしの仕事ですから」

「ありがとうございます! あなたこそ、探し求めていた慰めの天使です。

「私たちは週に三日、礼拝堂で弥撒をあげていましたが、いつもあの男がいました。私は何とか堪えようとしたんです。気分が悪いと言い聞かせました。弥撒に参加しないと決断しました。弱い人間です! 時間が来ると礼拝堂に向かっていたんです。人知を越えた力が意思に働きかけているようでした。あの男が来ていなければ、安らかな気持でいられたでしょう。でも男が近づいて来るのが、私にはわかりました。はっきり口にすることも出来ました。百歩向こう、門を跨いだところ、教会の中、見なくともわかります。男がいつもの場所にたどり着いた瞬間、いつもにも増して敬虔な祈りを捧げようと祈祷書を見つめていようとしたにもかかわらず、私は男の姿を追って祈祷書から目をそらしていました。

「弥撒が長々と続いていたとしても、私にはそれ以上は読むことも祈ることも出来ませんでした。頭も意思も魂も目に注がれ、目はあの男に向けられていました。そのことをわかりながら、主と戦っていたんです。

「初めは見ているのが怖かったのですが、やがてその男が欲しくなり、ついに男の許に駆けつけたいという思いに駆られました。夢でも見ているように、夜の路上で見かけたり、窓辺を通りかかるのを感じているような気分でした。

「こんなことが周りに気づかれないはずがありませんでした。そのことを聞いた修道院長が母に伝えたのです。誓いをあげる日の三日前、世俗に残して来たたった三人の肉親が部屋に入るのが見えました。父、母、兄です。

「もう一度抱擁を交わしに来たのだと言っていましたが、そうでないことはわかりました。一人残った母が私に問いただしたのです。こんな状況では、悪魔に取り憑かれているのもすぐにばれたはずです。すべてを打ち明けるべきだったのに、かたくなにすべてを拒んだのですから。

「晴れて修道女になる日がやって来ました。私は主にすべてを捧げることに対し、期待と恐れの入り混じった奇妙な感情と戦っていました。悪魔が力を試すとしたら、この厳かな瞬間に違いないと感じていたのです」

「その男は一度しか手紙を寄こさなかったのですか?」と王女がたずねた。

「一度だけでした」

「当時、話しかけたりはしなかったのですね?」

「頭の中で話しかけた以外は、一度も」

「手紙を書いたことは?」

「一度もありません!」

「続きを聞かせて下さい。修道女になる日が来たのですね」

「殿下に申し上げましたように、その日、ついに苦しみから解放されるはずでした。誠実であろうとする魂にとって、不思議な穏やかさと、想像を絶するほどの責め苦が混じり合った苦しみでした。いつも思いがけずからかうような形を取って現れるのだという思いに囚われて、そんな思いと戦っている最中を選ぶようにして現れる力に、抵抗できないまま圧倒され始めるのでした。ですからこの厳かな時間こそ、心から待ち望んでいた瞬間でした。主のものになれば、主が守って下さるでしょう。あの男が盗賊から守ってくれたように。盗賊に襲われた時には、主は男を通してしか守っては下さらなかったことを、忘れていたのです。

「そのうちに、儀式が始まりました。教会堂に入った私は、青ざめて不安に憂えてはいましたが、いつもほど動揺してはいませんでした。父、母、兄、フラッティーナ通りの友人、ほかにもたくさんの友人たちの姿が見えました。私の美しさを聞きつけて、隣村の住人も駆けつけていました。美しい殉教を、と言った方が主のお気に召すでしょうか。弥撒が始まりました。

「急いで誓いと祈りを済ませました。教会堂にはあの男がいなかったからです。男がいないと、意思を自分で自由にできることに気づきました。既に司祭が私の許に近づき、キリストの十字架像をおしるしになりました。既に私は唯一絶対の救世主の方へと腕を伸ばしかけていました。その時です。いつものように手足に震えが走り、あの男がやって来たことがわかりました。胸を締めつけるような衝撃を受け、あの男が教会堂に足を踏み入れたのがわかりました。何とかキリスト像から目を離すまいとしましたが、やがて抗いがたい力に吸い寄せられて、祭壇の向かいに目を向けていました。

「男は説教壇の近くに立ち、今までになく刺すような目つきで私を見つめていました。

「その瞬間、私は男に囚われていました。弥撒も、儀式も、祈りも、勝てませんでした。

「儀式に従い何か聞かれているような気がしましたが、答えることはありませんでした。誰かに腕をつかまれ、置物を揺さぶったようにぐらぐらと揺れていたのは覚えています。目の前に掲げられた鋏に日光が反射しました。それでも私は何一つ反応しませんでした。次の瞬間、首筋に金属の冷たい感触を覚え、髪の間で金属の軋む音が聞こえました。

「その瞬間、身体中の力が抜け、身体から抜け出た魂が男の許へ向かうのを感じて、私は敷石の上に横たわっていました。不思議なことに、気絶するというよりは、眠るような感じでした。大きな呟きが聞こえたかと思うと、何も聞こえなくなり、口も利けず、何も感じなくなりました。恐ろしいどよめきが起き、儀式は中断されました」

 王女は思いやるように手を合わせた。

「どうでしょうか?」ロレンツァがたずねた。「こんな恐ろしい出来事ですから、主と人間の敵が関わっているのは明らかではないでしょうか?」

「早まってはなりません」王女は、優しくいたわるような声で答えた。「生まれついての弱さのせいでしかないものを、奇蹟なのだと信じようとしてはいませんか。その男を見て気を失った。それだけのことです。続きをお話し下さい」

「どうか、どうかそんな言い方はなさらないで。せめて判断するのは、話を聞き終えてからにして下さい。奇蹟などないと仰るのですか? でもでしたら、私は気絶してから十分、十五分、一時間で意識を取り戻していたのではありませんか? 修道女たちに囲まれて、勇気と信仰を取り戻していたのではないでしょうか?」

「そうでしょうね。まさか、すると、そうはならなかったのですね?」

「お聞き下さい」ロレンツァは早口で囁いた。「意識を取り戻すと、夜になっていました。しばらく激しく動いたようなぐったりした気分でした。てっきり教会堂の穹窿の下か、僧房の垂れ幕の下にいるとばかり思って、頭を上げました。目に映ったのは岩山、木々、雲でした。それなのに、顔には暖かい息がかかっていたものですから、看護係の修道女がいたわってくれているのだと思い、お礼を口にしようとしたところ……私の頭は男の胸に預けられており、その男こそあの恐ろしい男だったんです。自分が生きているのか知りたくて、或いは目が覚めているのかわからなくなって、自分の身体を見回し手で触れて確かめてみました。途端に叫びをあげていました。私は白い服を身につけ、頭には白薔薇の冠をいただいていたのです。花嫁のように。それとも死者のように」

 王女が悲鳴をあげ、ロレンツァは両手で顔を覆った。

 ロレンツァは泣きながら話を続けた。「翌日になってから、どれだけ時間が経っているのか確認しました。その日は水曜日でした。つまり私は三日間も意識を失っていたことになります。その三日の間に何が起こったのか、自分ではまったくわからなかったのです」

『ジョゼフ・バルサモ』 50-1

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第五十章 悪魔憑き(La possédée)

 馬車の喧噪が響き渡り、鐘の音が次々と鳴り響き、太鼓が上機嫌に轟き渡り、あらゆるものが華やかさに満ちていたにもかかわらず、世俗の華やかさの余波もすっかり失われ、マダム・ルイーズの魂には何の影響も与えず、部屋の壁の隙間に絶え入る流れのように消えていった。

 国王は父として王として、即ち命令とも懇願ともつかぬ笑いを見せて、娘を世俗に連れ戻そうと無駄な努力を重ねた後で、出立した。王太子妃は叔母の紛れもない気高さに一目で感動し、取り巻きを引き連れて退散した。二人が立ち去るとカルメル会の修道院長は窓掛を降ろさせ、花を持ち去らせ、レースを外させた。

 修道院中がいまだ感動に包まれていたが、世俗に向かって一時的に開かれた重い扉が、重たげな音を立てて世俗と陸の孤島とを再び閉ざしても、修道院長だけは眉をひそめなかった。

 しばらくしてから会計係を呼んだ。

「この二日間は混乱していましたが、貧しい人々にはいつも通り施しを与えていましたか?」

「はい、院長様」

「病人たちのところを普段のように見舞っていましたか?」

「はい、院長様」

「兵隊たちには気持ちよく帰ってもらいましたか?」

「院長様が用意させておいたパンとワインを全員が受け取りました」

「ではこの家には何の問題もありませんね?」

「ございません」

 マダム・ルイーズは窓辺に近寄り、宵間近の湿った翼《よく》の庭から立ちのぼる香しい冷気を静かに吸い込んだ。

 会計係は修道院長から命令かお許しの出されるのを恭しく待っていた。

 目下マダム・ルイーズが何を考えているのかは神のみぞ知る。窓辺まで伸びていた茎の長い薔薇と、中庭の壁を覆っていた耶悉茗《ジャスミン》をむしっていた。

 不意に、共同門の辺りを揺るがす荒々しい馬の蹄の音が聞こえ、修道院長はびくりとした。

「まだサン=ドニに残っていた貴族がいらしたのですか?」マダム・ルイーズがたずねた。

「ロアン枢機卿猊下がいらっしゃいます」

「馬をここに置いているのですか?」

「いいえ、夜の間は参事会室に入れることになっております」

「ではあの音はなんでしょうか?」

「客人の馬が立てている音でございます」

「客人ですか?」マダム・ルイーズは記憶を探った。

「昨晩殿下に庇護をお求めになったイタリアの女性です」

「ああ、そうでした。今何処に?」

「部屋か教会堂でしょう」

「昨日から何をしていたかわかりますか?」

「昨日から、パンのほかは何も摂らずに、一晩中礼拝堂で祈っておりました」

「恐らく重罪人なのでしょう」修道院長は眉をひそめた。

「私にはわかりません。誰とも話をしないのです」

「どんな方ですか?」

「お美しく、顔には優しさと誇り高さが同居しておりました」

「今朝の儀式の間は何処にいましたか?」

「お部屋の窓辺にいるのを見かけました。窓掛の陰に身を隠すようにして、不安そうな目で一人一人を見つめておりました。その中に敵がいるのを恐れてでもいるようでした」

「わたくしがこれまで生きて、また治めてきた世俗には、そういう女の方がおりました。入ってもらいなさい」

 会計係は立ち去ろうとして足を踏み出した。

「ああ、その方のお名前は?」王女がたずねた。

「ロレンツァ・フェリチアーニ」

「知らない方ね」マダム・ルイーズはぼそりと呟いた。「構いません。お招きして下さい」

 修道院長は百年ものの椅子に腰を下ろした。木楢で出来たその椅子はアンリ二世時代に作られたもので、ここ九代の修道院長が腰を下ろして来た。

 その恐ろしい法廷の前で、教会と世俗の間に挟まれた哀れな修道女たちが恐れおののいて来たのだ。

 しばらくすると会計係が、長いヴェールをかぶった客人を連れて入って来た。

 マダム・ルイーズは一族に特有の鋭い目を持っていた。部屋に入って来たロレンツァ・フェリチアーニをその目で見据えた。ところがこの女性があまりに謙虚で淑やかで崇高な美を持っていることに気づき、さらにはつい先ほどまで涙で濡れていた黒い目には何の汚《けが》れも見られないことに気づいた。こうした性質を目にして、初めこそ反感を抱いていたマダム・ルイーズも、好意的で親身な気持を抱き始めた。

「こちらへ来てお話し下さい」と王女が言った。

 若い女性は震えながら近づき、跪こうとした。

 王女がそれを遮った。

「ロレンツァ・フェリチアーニと仰るのですね?」

「はい、院長様」

「秘密を告白なさりにいらしたのですか?」

「是が非でも告白したいのです!」

「でもどうして告解の場で助けを求めないのですか? わたくしには慰めの言葉をかけることしか出来ませんよ。司祭なら慰めと許しを与えてくれます」

 マダム・ルイーズはこの最後の言葉を躊躇いがちに口にした。

「必要なのは慰めだけです」とロレンツァが答えた。「それに、私の話というのは、女性の方にしか申し上げられない話なんです」

「では異常な話なのでしょうか?」

「とても異常なこと。でも我慢してお聞き下さい。何度も申しますが、あなたにしかお話し出来ないことなんです。あなたは絶大な権力をお持ちです、私を守ってくれるには神の力にも等しい力が必要なんです」

「守ると言いましたか? では誰かに追われているのですか? 誰かに襲われたのですか?」

「そうです! 追われているんです」ロレンツァは筆舌に尽くしがたい恐怖の叫びをあげた。

「よくお考え下さい。この家は修道院であって要塞ではありません。人の心を騒がせる(脅かす)ものは何一つ入り込みませんし、入ったとしても消えてしまいます。それに他人のお役に立てるようなものは何一つ見つけることが出来ません。ここは正義の家でも武力や弾圧の家でもなく、神の家に過ぎないのです」

「神の家! 私が求めているのは神の家にほかなりません。神の家でなら、安心して過ごすことが出来ますもの」

「ですが神は報復をお認めになりません。追っ手に対してわたくしたちにどうしろと仰るのですか? 司法官にお話し下さい」

「私が恐れている者に対して、司法官では何も出来ません」

「何者なのです?」修道院長は我知らず胸の内に恐怖を覚えた。

 ロレンツァは謎めいた昂奮に駆られて王女に近づいた。

「何者かと仰るのですか? きっと人をたぶらかす悪魔の一人に違いありません。長であるサタンから人智を越える力を授かった悪魔です」

「何を仰っているのですか?」目の前の女は果たして正気なのかと、目を注いだ。

「それに私ほど不幸な人間はいないでしょう!」ロレンツァは、彫像をかたどったような美しい腕をねじって叫んだ。「あの人の行く手には私がいる定めなんです! それに私は……」

「どうか続きを」

「私は悪魔憑きなんです!」と囁いた。

「悪魔憑き? 良識はお持ちでしょう、よもや……?」

「狂っていると言いたいのですか? いいえ、私は正気です。でもあなたに見捨てられれば、きっと狂ってしまうでしょう」

「悪魔憑きとは!」王女が繰り返した。

「どうにもならないのです!」

「そうは言いましても、失礼ですが、神の恩寵を受けた方々と変わらないように見えます。お金にも困っているようには見えませんし、お美しく、筋道の通った話し方をなさるし、顔にも悪魔憑きと呼ばれる恐ろしい病気の跡はまったく見つかりませんよ」

「私の人生には、私が経験して来た出来事には、自分自身からも隠しておきたい忌まわしい秘密があるのです」

「説明して下さいませんか。わたくしに真っ先に悩みを相談するべきでしょうか? ご両親やご友人は?」

「両親ですって!」苦痛に喘ぐようにして十字を切った。「いつかまた会えることがあるというのですか? それに友人たち?」苦しそうに付け加えた。「私に友人がいるというのですか?」

「では順を追ってお話しすることにしましょう」マダム・ルイーズの方から話の道筋をつけようと努めた。「ご両親はどんな方で、どうして離ればなれになったのですか?」

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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