翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 第61章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十一章 情報収集

 様々なことが起こったこの充実した夜長を、神話に出てくる神々の乗る雲のように、サン=ドニからラ・ミュエット、ラ・ミュエットからコック=エロン街、コック=エロン街からプラトリエール街、プラトリエール街からサン=クロード街まで、我々は旅して来た。デュ・バリー夫人が国王の心を都合良く動かそうと腐心していたのも、この夜であった。

 デュ・バリー夫人はなかんずく、ショワズールを王太子妃の許でのさばらせるのが如何に危険か説いていた。

 国王は肩をすくめて答えた。王太子妃は子供だし、ショワズールは老人ではないか。危険などない。子供に駆け引きは出来ぬし、老人には気を引くことなど出来ぬ。

 国王は自分の言葉に満足し、説明を切り上げた。

 デュ・バリー夫人としてはそういう訳にはいかなかった。どうやら国王は上の空のようだ。

 ルイ十五世は浮気者であった。寵姫たちが嫉妬するのを見て楽しんでいた。無論、嫉妬が高じていつまでも喧嘩をしたりすねたりされるのは御免蒙る。

 デュ・バリー夫人は嫉妬していた。まずは自尊心から、そして恐れから。この地位を勝ち取るに当たってあまりにも気苦労が多く、今の地位が出自とはあまりにもかけ離れているため、ポンパドゥール夫人のようにほかの寵姫たちに目をつぶることが出来なかったし、国王陛下が退屈そうにしている時でさえそれが出来なかった。

 故に悋気を起こしたデュ・バリー夫人は、国王がどうして上の空なのか、納得のいく答えを求めた。

 国王は収まりのいい言葉を並べたが、何一つ本心ではない。

「嫁のことを考えていたのだ。王太子が幸せにしてやれるとは思えぬ」

「どうしてですの?」

「コンピエーニュでもサン=ドニでもラ・ミュエットでも、ルイはほかのご婦人にばかり目をやって、妃の方にはほとんど目をくれなかった」

「そうでしょうか。陛下ご自身のお言葉でなければ、とても信じられませんわ。だって王太子妃殿下は素敵な方じゃありませんか」

「痩せっぽっちだ」

「とてもお若くて!」

「ド・タヴェルネ嬢、あれは大公女と同年配ではないか」

「それが?」

「完璧な美人だった」

 伯爵夫人の目に光った輝きを見て、国王は口を滑らせたことに気づいた。

「あなただって」と国王は慌てて言い添えた。「そんなことを仰っていますが、あなただって十六の頃にはブーシェの描く羊飼い娘のようにふくよかだったはずだ」

 このお追従で多少は事態が改善されたものの、衝撃はそれよりも大きかった。

 デュ・バリー夫人は愛想笑いを浮かべて反撃した。

「つまりその方は美しいんですのね、ド・タヴェルネ嬢でしたかしら?」

「いや、余はよく知らぬのだ」

「あら! 褒めてらしたくせに、美しいかどうか知らないんですの?」

「つまり、痩せっぽっちではなかったのは確かだが」

「つまりじっくり眺めまわしていらしたのね」

「どうやら罠に嵌めようとなさっているらしいが、余が近眼であることはご存じだろう。ぼんやりと見えるだけで、細かいところなどとてもとても。王太子妃のいるところには、痩せっぽちの骸骨しか見えなかった」

「仰るようにド・タヴェルネ嬢もぼんやりとしか見えなかったんですのね。王太子妃が貴族的な美人で、ド・タヴェルネ嬢が大衆的な美人だとわかるんですもの」

「おやおや! それではジャンヌ、あなたは貴族的な美人ではないということになる。冗談だろう」

 伯爵夫人は呟いた。「褒められたといっても、こんなの別の人を褒めたのをごまかしただけじゃない」

 それから声を出して、「王太子妃殿下がそそるような侍女をお選びになるのなら喜ばしいことですわ。老女のお付きなんてぞっとしませんもの」

「言われるまでもない。余も昨日、王太子にそう言ったところだ。だが夫君には興味がないようだった」

「そもそも妃殿下はド・タヴェルネ嬢をお選びになるのかしら?」

「決めるそうだ」とルイ十五世が答えた。

「あら、ご存じですの?」

「噂ではそうなっていた」

「財産もないのに」

「その通りだが家格がある。タヴェルネ=メゾン=ルージュとは代々伝わる名門だよ」

「後ろ盾はどなた?」

「とんと知らぬな。だがそなたの言うように、一家は乞食同然の暮らしぶりと聞いている」

「でしたらショワズール殿じゃありませんわね。だったら年金でぶくぶくのはずですもの」

「ほらほら伯爵夫人、お願いだから政治の話は無しだ」

「ショワズール家があなたを破産させるというのは政治のお話ですの?」

「もちろんだ」

 国王は席を立った。

 一時間後、国王陛下はグラン・トリアノンに戻っていた。三十代のリシュリューが言っていそうなことをぶつぶつと繰り返しながらも、悋気に触れて上機嫌だった。

「まったく、女の嫉妬とは厄介なものだ!」

 国王がいなくなると、デュ・バリー夫人もすぐに立ち上がり、寝室に向かった。そこには新しい報せを聞きたくてうずうずしているションが待っていた。

「ねえ、ここ何日かびっくりするほど上手く行ってるじゃない。一昨日は王太子妃に紹介されて、昨日は一緒に食事を摂って」

「ほんと、すごいことね!」

「ちょっと! すごいこと? 今もあなたの朝の微笑みを求めて、リュシエンヌまで百台の馬車が並んでいることがわからないの?」

「残念なことだわ」

「どうして?」

「時間の無駄だもの。馬車も人もあたくしの微笑みなんて手に入れられないのに」

「どうしたの? 今日は嵐みたいね」

「ええ、そう。チョコレート、チョコレートを頂戴!」

 ションがベルを鳴らすと、ザモールが現れた。

「チョコレートを」

 ザモールは背中を丸めてのろのろ足を動かし、ゆっくりと向きを変えた。

「あたくしを飢え死にさせる気? 急がないと、百叩きよ」

「ザモールは急ぎません。ザモールは総督!」ザモールは厳かに答えた。

「そう、ザモールは総督さん!」伯爵夫人は金の握りのついた小型鞭をつかんだ。スパニエルとグリフォンを仲良くさせるために置かれていたものだ。「待ってなさい、わからせてあげるから!」

 ザモールはこれを見て、壁を揺るがし大声をあげて駆け出した。

「今日は意地悪なのね、ジャンヌ」とションが言った。

「いけない?」

「いいわ、わかった。そっとしておく」

「どうして?」

「何されるかわかったもんじゃないもの」

 寝室の扉が三度敲かれた。

「誰かしら?」伯爵夫人がはじかれたように振り向いた。

「どうやら歓迎できる報せみたいね!」ションが当てこすった。

「歓迎できない報せよりはいいだろう」肩を怒らせ扉を押したのはジャンだった。

「歓迎できない報せだとどうなってたの? だってその可能性はあるでしょう?」

「悪い報せなら俺は戻って来ないね」

「それで?」

「悪い報せだったとしたら、俺よりもお前の方が失うものが大きいってことだ」

「失礼ね!」

「ふん、失礼なのは、おべっかで繕っていないからだ……それより今朝のあいつはどうだった、ション?」

「話したくない。近寄りがたくって。そうそう、チョコレートがあるわ」

「いいよ、構うな。やあチョコレート殿」ジャンがお盆を取った。「元気にしてるか、チョコレート殿?」

 お盆を小卓の隅に置いてその前に腰かけた。

「まあいいさ、ション。お偉い人たちは何も取らんのだろうな」

「ひどい人たちね」ションがジャンに首を振って、一人で朝食を摂っても構わないと合図しているのを見て、伯爵夫人が言った。「気を悪くしたふりばっかりして、あたくしが苦しんでいることになんて気づいてもくれない」

「どうしたの?」ションが近寄って声をかけた。

「別に。あたくしがどんな事態に陥っているかなんて誰も考えてくれやしないんでしょ」

「何か困ってるの?」

 ジャンは一切かまわずパン切れにかぶりついていた。

「お金がないんじゃない?」

「それを言うならあたくしよりも国王の方よ」

「だったら千ルイ貸してくれないか。どうしても必要なんだ」とジャンが言った。

「その赤っ鼻を千回はじいてあげるわ」

「じゃあやっぱり国王がショワズールの味方を?」ションがたずねた。

「今さら何を! あの人たちは終身大臣みたいなものじゃないの」

「じゃあ王太子妃に惚れちゃったとか?」

「近いわね、惜しい。ねえ何なのあの人、チョコレートを詰め込むだけで、あたくしを助けるために指一本動かさないじゃない。あなたたちったら、苦しみのあまりあたくしを殺すつもりなの?」

 ジャンは文句の嵐には気にも留めずに二つ目のパンに手を伸ばし、バターを挟んで二つ目のカップを注いだ。

「ちょっと、国王が惚れてるっていうの?」ションが声をあげた。

 デュ・バリー夫人は「正解」という合図に首を振った。

「王太子妃に?」ションが手を合わせた。「大丈夫よ、近親相姦の気はないだろうし、安心していいわ。ほかの人じゃなくてよかったんじゃない」

「国王が惚れているのが王太子妃でなく、ほかの人だったらどうなるの?」

「ちょっと!」ションが青ざめた。「何言ってるの?」

「ええ、覚悟してね、思っている以上にまずいんだから」

「でもそうだとしたら、あたしたち終わりじゃない! それで苦しんでいたの、ジャンヌ? いったい相手は誰なの?」

「そこのお兄様に聞いてご覧なさい。チョコレートで真っ赤になってお腹をふくらませてるけど。きっと教えてくれると思う。知らないとしても、感づいているだろうから」

 ジャンが顔を上げた。

「俺のことか?」

「ええ、そうよ。ムッシュー・仕事熱心の便利屋さん。国王が心を奪われている人の名前を尋いてるの」

 ジャンは頬張ったままの口を閉じて何とか飲み下すと、三つの単語を口にした。

「マドモワゼル・ド・タヴェルネ」

「マドモワゼル・ド・タヴェルネ! 大変じゃない!」

「そんなこととっくにわかっているわよ、この人は」伯爵夫人は椅子に身体を預け、天を仰いだ。「わかっていて、食べてるのよね」

「信じられない!」ションもさすがに兄の側を離れ、伯爵夫人の側に移った。

「寝惚けてむくんだ目なんかして。引っこ抜いてやらないでいるのが不思議なくらいよ。起きたばっかりの寝起きってどういうことなの?」

「そうじゃない。眠ってないんだ」とジャンが言った。

「じゃあ何をしてたの?」

「夜も朝も駆けまわっていたさ」

「あたくしが言っていたのは……ねえ、もっと役に立ってくれる人はいないの? その子がどうなったか誰も教えてくれないじゃない、いったい何処にいるの?」

「あの娘がか?」

「ええ」

「パリだよ、まったく!」

「パリ?……パリの何処?」

「コック=エロン街」

「誰から聞いたの?」

「乗っていた馬車の御者。厩舎に潜り込んで聞き出した」

「教えてくれたのね?」

「タヴェルネ一家をコック=エロン街の屋敷まで運んで来たところだった。庭園の中にある、アルムノンヴィル・ホテルの隣の屋敷だ」

「まあジャン! これで仲直りね。でも詳しいことが知りたいの。どんな暮らしで、誰と会った? 何をしてる? 手紙は受け取った? すごく大事なことなのよ」

「すぐにわかるさ」

「何でよ?」

「何で? 俺はもう調べたんだ。今度はそっちが調べる番だろう」

「コック=エロン街?」ションが急いでたずねた。

「コック=エロン街だ」ジャンも落ち着いて繰り返した。

「わかった、コック=エロン街ね。部屋を借りなきゃ」

「いい考え!」伯爵夫人が声をあげた。「急がなきゃ、ジャン。家を借りるのよ。そこに誰か張り込ませましょう。そうすれば入ることも出ることも探り回ることも出来るわ。ほら早く、馬車を! コック=エロン街まで」

「駄目だな。コック=エロン街には借りられるような部屋はない」

「何で知ってるの?」

「確認したからに決まってるだろう! だがほかのところになら……」

「何処? 教えて」

「プラトリエール街」

「何それ、プラトリエール街?」

「プラトリエール街のことか?」

「ええ」

「裏手がコック=エロン街の庭に面している通りだよ」

「それじゃあ急ぎましょう! プラトリエール街の部屋を借りなきゃ」

「もう借りてある」

「何て人なの、ジャン! こっち来て、口づけして頂戴」

 ジャンは口をぬぐってデュ・バリー夫人の両頬に口づけした。それからたった今賜った名誉に答えて深々とお辞儀をした。

「ついてたよ!」

「誰にも見つかってないでしょうね?」

「プラトリエール街で誰に会うっていうんだ?」

「それで借りたのは……?」

「しょぼくれた家の小部屋だ」

「誰が使うのか聞かれたでしょう?」

「まあな」

「何て答えたの?」

「若い未亡人さ。そうだよな、ション?」

「そうね」

「凄い! じゃあその部屋に張り込むのはションなのね。ションが見張ってくれるんだ。さあ一刻も無駄には出来ない」

「それじゃあすぐに出かけるわ。馬を! 馬を!」ションが声を出した。

「馬を!」デュ・バリー夫人が眠りの森の美女の宮殿の目も覚ましてしまいそうな勢いでベルを鳴らした。

 ジャンと伯爵夫人にはアンドレのことをどう考えるべきかわかっていた。

 アンドレは一目だけで国王の目に留まった。つまりアンドレは危険だ。

 馬が繋がれる間、伯爵夫人はしゃべっていた。「あの子が本当に田舎娘なら、うぶな恋人もパリまで連れて来てるはずよ。その恋人を見つけて、さっさと結婚させちゃいましょう! 田舎者同士が結婚しちゃえば国王の熱も冷めるでしょう」

「むしろ逆だな」ジャンが言った。「やってみろよ。若い花嫁が愛情深い陛下の大好物だってことは、誰よりも知っているだろう。だが恋人のいる未婚娘なら陛下の心を一段と悩ませるんじゃないか? 馬車の用意が出来た」

 ションが立ち上がり、ジャンの手を握り、伯爵夫人に口づけをした。

「どうしてジャンは一緒に行かないの?」伯爵夫人がたずねた。

「どうしてってことはない。こっちはこっちで行く。プラトリエール街で待っていてくれ、ション。新しい住まいの来客第一号は俺だろうな」

 ションが出て行くと、ジャンは卓子に戻って三杯目のチョコレートを飲み干した。

 ションはまず自宅に戻り、有産市民ブルジョワらしい恰好に着替えた。自分の姿に満足すると、黒い絹の粗末なケープで貴族的な肩を隠し、駕籠を出させた。半時間後、ションはシルヴィー嬢と共に険しい階段を五階まで上っていた。

 五階には運よく子爵が手配できた部屋がある。

 三階の踊り場まで来たところでションが振り向いた。誰かが後からついて来ている。

 二階に住んでいる所有者の老婦人が、物音を聞いて顔を出し、若く綺麗な女性が二人も入って来たのを見て驚いていた。

 顔をしかめて笑顔の二人を見上げている。

「ちょいと奥さまがた、何をしにいらしたんです?」

「兄がこちらを借りたはずなんですが」ションが未亡人ふうを装って答えた。「ご存じありませんか? 家を間違えてしまったのかしら」

「いえいえ、五階で間違いありませんよ。お可哀相に、その年で未亡人だなんて!」

「ひどいわよね!」ションは天を仰いだ。

「でもプラトリエール街なら元気になれますよ。いい通りですからね。静かですし、お部屋は庭に面してますし」

「そういう部屋が欲しかったんです」

「でも廊下に出れば、行列が通ったり犬が芸をするのも見えますしね」

「まあ、きっと心が安まるでしょうね」ションは息を吐いて階段の続きを上った。

 ションが五階にたどり着いて扉を閉めるまで、老婦人はじっと見つめていた。

「正直そうな人だね」

 扉を閉めるやいなや、ションは庭に面した窓に駆け寄った。

 ジャンは間違っていなかった。窓のほぼ真下に、御者の言っていた館がある。

 やがて疑いは完全に吹き飛んだ。若い娘が刺繍を手に窓辺に腰かけた。それがアンドレだった。

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『ジョゼフ・バルサモ』60-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「空想か! さよう、湯気のような空想、水の流れのような空想、人が追い求めながらもいまだ見つけられず永遠に見つけることの叶わぬ空想じゃ。だが儂と共に世界中の塵をかき回し、文明を形作っている厚い層を一つ一つ剥がしてみよ。人間の層の中、王国の欠片の中、何世紀もの鉱脈の中に、刃物が入れられたように薄く刻まれたその中に、何が見える? あらゆる時代の人間たちが、より優れた相応しい完璧な名目のもとで、探し求めて来たものじゃ。いつから探しておるのじゃろうな? ホメロスの時代には人は二百歳まで生き、旧約聖書の族長の時代には八世紀もの寿命があった! だがより優れた相応しい完璧なものを見つけることはなかった。見つけていたなら、この老いた世界も朝の光のように瑞々しく無垢な薔薇色に変わっていたことじゃろう。ところが現実には、苦しみ、屍、ごみの山じゃ。苦しみが気持いいか? 屍が美しいか? ごみが望ましいか?」

 老人が乾いた咳を一つし終えたところで、バルサモは答えた。「生命の霊薬を見つけた者は誰もいないとご自分で仰ったではありませんか。これからも見つける者はないでしょう。懺悔なさるがいい」

「馬鹿め! 秘密を知った者はいなかった、だからこれからもおらぬだと? その伝で行くと、いまだかつて発見されたものなどなかろうに。それとも、発見とは新しいものを発明することだと思っとるのか? 否。忘れ去られたものを再び見出すことじゃ。では一度見つけられたものが忘れられるのは何故か? 人生はあまりに短い。見つけたものからあらゆる推論を引き出すことなど出来ぬ相談。生命の霊薬も、これまでに見つけられそうになったことは二十たびにのぼる。ステュクス川がホメロスの空想だと思っとるのか? かかとを打たれぬ限りは不死であるアキレウスが、お伽噺だと? 否。アキレウスはケイローンの弟子じゃった。そちが儂の生徒であるようにな。ケイローンとは最高と最悪を意味する。ケイローンとはケンタウロスの姿を借りた賢者であり、人間の叡智に加えて馬の力と速さに恵まれておった。そう、ケイローンもまた、不死の霊薬を見つける一歩手前まで行っておった。そちが拒んだ三滴の血が足りなかったのだ。三滴の血が足りぬばかりに、アキレウスはかかとに弱点を抱えておった。死は道を見つけ、入り込んだのじゃ。繰り返そう、万能にして最高にして最悪の人間であるケイローンも、アシャラに邪魔をされたアルトタスでしかない。神の呪詛によって引き離されながらも、全人類を救えるはずの作品が完成間近だと言うのにだぞ。さあ、言うべきことはあるか?」

 バルサモは明らかに動揺していた。「俺には俺の、あなたにはあなたの作品がある。自分のことは自分でやろうじゃありませんか。罪を犯してまで手伝うつもりはありません」

「罪だと?」

「ええ、それも一つだけじゃない! どれ一つ取っても、輿論が声をあげるでしょう。その罪一つであなたは絞首台に吊されることになる。最高の人間だろうと最低の人間だろうと、絞首台の前ではあなたの科学など無力です」

 アルトタスは大理石の机に、干涸らびた手を叩きつけた。

「人道主義者のふりはよさぬか。最悪の奴らの真似などしおって。よかろう、法の話をしようではないか。そちのお仲間によって書かれた、野蛮で不条理な法の話じゃ。叡智のために流された血の一滴には憤慨するくせに、広場や市壁の下や戦場という名の原っぱで撒き散らされる体液には目を輝かせおる。利己的でくだらぬ法じゃな、今生きている人間のために未来の人間を犠牲にして、標語を叫んでおる。『今を生きよ! 明日はわからぬ!』。この法の話をしようではないか、どうじゃ?」

「先生のお話を聞かせて下さい」バルサモは目に見えて沈んでいた。

「鉛筆か羽根ペンはないか? 計算しなくてはならぬ」

「書くものはいりません、俺がやります。どうぞお聞かせ下さい」

「そちの陰謀の話じゃ。確か……内閣を倒し、高等法院を停止させ、身びいきな裁判官を立て、破産に仕向け、叛乱を促し、革命の火をつけ、君主制を倒し、護民制を立ち上がらせ、貴族制を突き落とすのだったか。

「革命は自由をもたらし、護民制が平等を。フランス人が自由と平等を手にすれば、そちの作品は完成というわけじゃな。違うか?」

「違いありません。不可能だと思うのですか?」

「不可能とは思わん。よいことを教えてやろう」

「何でしょうか?」

「よいか。フランスはイギリスとは違う。そちのやろうとしていることはイギリスの真似事に過ぎん。だがフランスは孤立した島ではない。内閣を倒し、高等法院を停止させ、身びいきな裁判官を立て、破産に仕向け、叛乱を促し、革命の火をつけ、君主制を倒し、護民制を立ち上がらせ、貴族制をひっくり返せば、周りの国が騒ぎに首を突っ込んで来るのだぞ。フランスはヨーロッパと地続きじゃ、肝臓がほかの内臓と繋がっておるようにな。ほかの国々に根を張り、ほかの国々の国民の中に繊維を張りめぐらしておる。ヨーロッパ大陸という本体から肝臓を引きはがそうとしてみい、二十年、三十年、四十年のうちに、身体はがたがたになってしまうじゃろう。だが儂は短く踏んで、二十年と見ておる。早過ぎるかの、賢明な哲学者殿よ?」

「早過ぎはしませんが、充分とも言えないでしょう」

「そうか、まあそれでよい。二十年の間、死ぬほどの戦争や抗争が絶え間なく続くのじゃ。年間二十万の死者が出る。ドイツ、イタリア、イスパニアで一斉に戦をするのだから多過ぎはせんじゃろう。一年で二十万人ということは、二十年で四百万人。平均して人間一人当たり十七リーヴルとして、計算してみよ……十七掛ける四……そちが目標を達成するには六千八百万ルーヴルの血が流れることになるのだぞ。儂が欲しいのは三滴じゃ。これでは儂らが野蛮な人食いとは言えまい? どうじゃ、何も言えまいに?」

「俺の答えはこうです。成功する自信があるのなら、血の三滴くら何でもないでしょうに」

「ほう? では六千八百万リーヴルが流されることに、そちは自信が持てるのか? 立て! 胸に手を置いて答えてみよ。『先生、四百万人の屍と引き替えに、俺は人類に平和を約束します』とな」

「先生」バルサモは返答を避けた。「お願いですから、ほかの方法を見つけて下さい」

「ほう、答えぬのか、答えぬのだな?」アルトタスは勝利の雄叫びをあげた。

「その方法では上手くいきません。先生は思い違いをなさっています」

「儂に忠告する気か。儂を否定し、儂に逆らうというのか」アルトタスは椅子を移動させた。白い眉の下で灰色の目が冷たく光った。

「そんなつもりはありません。でも俺もよく考えました。これまでの毎日、世間と触れ、人と諍い、君主たちと争って過ごして来ました。あなたのようにひっそり閉じこもって世間の出来事に無関心を決め込んだりはしなかった。科学者や引用学者の実体のない研究が拒まれようと認められようと先生は無関心でしたが、俺は違いました。要するに、どれだけ難しいかがわかっているから、それをお伝えしているんです。他意はありません」

「そちがその気であればどれだけ難しかろうと問題はなかろうが」

「信じられればよいのですが」

「では信じておらぬのか?」

「はい」

「儂を試しておるのか!」アルトタスが叫んだ。

「まさか。心に迷いが生じているのです」

「よかろう、では死を信じるか?」

「その存在、つまり死の存在は信じております」

 アルトタスは肩をすくめた。

「では死の存在、それは疑う余地がないのだな?」

「議論の余地がありません」

「そして果てもなく、抗えるものもなかろう?」老学者が恐ろしい笑みを浮かべてバルサモを震え上がらせた。

「そうです、抗えるものもなく、果てもない永遠のものです」

「そちは死体を見て、額に汗が浮かんだり胸に無念が兆したりするか?」

「むごいことには慣れているので汗は浮かびません。人生などちっぽけなものだと考えているので無念は兆しません。でも死体を前にしてこう呟くでしょう。『死よ! 死よ! お前は神のように力強く! 絶対的に遍く統治し! お前に勝るものなどない!』」

 アルトタスはバルサモの言葉を黙って聞いていた。ただ一つ苛立っている素振りに、指の間でメスをもてあそんでいる。痛ましく厳かな弟子の言葉が止むと、老人は辺りに目をやった。その鋭い目からは、どんなものであろうと秘密を隠しおおせるとは思えない。やがて部屋の隅に目を留めた。麦わらが敷かれた上に、黒い犬が震えている。バルサモに頼んで実験用に持って来させた三匹のうちの最後の一匹だ。

「あの犬を捕まえてこの机に乗せよ」

 アルトタスの言葉にバルサモは従い、黒犬を捕まえて大理石に乗せた。

 運命を予感したのだろうか、恐らく一度実験者の手に捕らえられたことがあるのだろうが、大理石に触れた途端に犬はぶるぶると震え、逃れようともがいて吠え始めた。

「さてはて! そちは生を信じておろうな? 死を信じておるのだから」

「確かに」

「この犬は随分と生きがいいと思うが、どうじゃ?」

「そうでしょうね。吠え、もがき、怯えていますから」

「醜いのう、黒犬は! 大事なことじゃぞ、今度からは白いのを手に入れて来い」

「そうします」

「さて、こやつの生きがいいという話じゃったな! 吠えろ、ちび」老人は陰気な薄笑いを浮かべた。「さあ吠えろ、生きのいいところをアシャラ殿に見せてやれ」

 指でどこかの筋を押さえ込むと、犬は吠えるどころか呻き始めた。

「よし、真空槽を出せ。それじゃ。その下に犬を……そこだ! そうそう、忘れとった。そちが信じているのはどんな死なのか聞いておらなんだな」

「仰る意味がわかりません。死は死です」

「その通り、まったくその通り。儂も同意見じゃ。さて、死は死であるのだからな、空気を抜け、アシャラ」

 バルサモがつまみをひねると、犬のいる真空槽から管を通って空気が抜け始めた。甲高い音と共に空気が抜けてゆく。初めのうちこそ戸惑っていた犬も、やがて出口を探し、空気を求め、頭を上げて懸命に喘ぎ始めたが、とうとう息が詰まって顔をむくませぴくりとも動かなくなった。

「これは卒中じゃな?」アルトタスがたずねた。「あまり苦しまず、理想的な死ではないか!」

「はい」

「確かに死んでおるな?」

「そのはずです」

「確信がないようだの、アシャラよ?」

「そんなことはありません」

「ふん、儂のやり方は知っておろう? 蘇生法を見つけたと思っておるのではないか、なあ? 問題は無傷の身体に空気と生命を行き渡らせることにあると思っとらんか? 穴の空いていない革袋のようなものじゃと?」

「そのようなことは思っておりません。この犬は死にました」

「まあよい、念には念を入れて二重に殺しておこう。真空槽を取れ、アシャラ」

 アシャラがガラス装置を持ち上げても、犬は動かなかった。瞼は閉じられ、心臓の鼓動は既に止まっていた。

「メスを持て。喉を傷つけぬようにして、脊柱を断つのだ」

「仰る通りにいたします」

「こやつがまだ死んでいなければ、それですっかり息の根は止まる」アルトタスは老人特有のねちっこい笑みを浮かべた。

 バルサモが刃を滑らせた。小脳付近の脊柱を二プスばかり切り裂くと、真っ赤な傷口がぱくりと開いた。

 犬、もはや犬の死骸は、やはり動かなかった。

「ほう、確かに死んでおる」アルトタスが言った。「筋繊維も筋肉も肉片も、刺激を与えてもぴくりとも震えぬ。死んでおる、確かに死んでおるな?」

「お望みであれば何度でも認めましょう」

「こやつは動かぬ。凍えきったまま永遠に動くことはない。死に打ち勝てるものはないと言うたな。この動物に生命を、いや生命の片鱗だけでも吹き込めるものなど存在せぬと」

「それが出来るのは神だけです!」

「うむ、だが神もそうするほど愚かではない。至高の叡智である神が殺したのであれば、つまり殺すことに意義や益があったということじゃ。名前は定かではないが、ある人殺しが言っておった。上手いことを言うたもんじゃ。運命は死を好む。

「つまりこの犬がすっかり死んでおるのも、運命がこやつを好いたからじゃ」

 アルトタスはバルサモを突き刺すようににらんだ。バルサモはうんざりするような老人のたわごとに長々と耐えていたが、すべて引っくるめて答えの代わりに頭を垂れた。

「この犬が目を開いてそちを見たとしたらどう思う?」アルトタスはなおも続けた。

「ひどく驚くでしょうね」バルサモは笑いながら答えた。

「驚くだと? そいつはいい!」

 アルトタスは陰気な笑い声を狂ったようにあげると、布の緩衝剤で隔てられた金属器具を犬に近寄せた。布には酢水の化合液が染み込ませてある。二つの棒、言うなれば二つの電極が桶から飛び出ていた。

「開くならどっちの目がよい、アシャラ?」

「右目を」

 二本の棒が近づけられたが、絹の緩衝剤があるため触れ合うことはない。それが首の筋肉に押しつけられた。

 途端に犬の右目が開き、バルサモをじっと見つめた。バルサモはぎょっとして後じさった。

「次は口に移ろうかの?」

 バルサモは何も言えずに呆然としていた。

 アルトタスが別の場所に触れると、今度は目が閉じて口が開き、白く尖った牙が見えた。赤い歯茎が生きているように震えている。

 バルサモは恐怖と昂奮を抑えることが出来なかった。

「何だこれは?」

「わかったじゃろう? 死などは取るに足らん」アルトタスは勝ち誇っていた。「儂のようなもうすぐお迎えの来る老人も、避けられぬ道から逃れることが出来るのだからな」

 そして突然きいきいと神経質な笑い声をあげ始めた。

「気をつけるがいい、アシャラよ。この犬もそのうちそちを咬もうとし、そちを追いかけ回すようになるぞ!」

 まさしく犬は、首を切られているというのに、口を開けて目を震わせ、首をだらしなく垂らしたまま、四肢をがくがくと震わせて立ち上がった。

 バルサモの髪が逆立った。汗が額に流れた。後ずさって扉に貼りついたまま、逃げるべきか留まるべきか決めかねていた。

「これこれ、ちょいと教えを施してやっただけ、何も殺そうという訳ではないぞ」アルトタスは死骸と機械を押しやった。「これでわかったじゃろう」

 電極を外された死骸は、すぐに動くのを止め、元のように静かになった。

「これでも死を信じるのか、アシャラよ? もうすっかり納得したのではないか?」

「驚いた、本当に驚きました!」バルサモが戻って来た。

「儂の話も現実味を帯びて来たであろう。第一歩は為された。死を取り消すことが出来た以上は、生を延ばすことも出来よう?」

「でも俺にはまだわからない。そうやって取り戻した生は、紛い物の生ではないのですか」

「時間が経てば本物の生となろう。ローマの詩人を読んだことはないか? Cassidéeは死体に生命を取り戻したではないか」

「詩の中でなら、あります」

「ローマ人は詩人たちを予言者と呼んでおった、覚えておくがよい」

「ええ、ですが俺は……」

「まだあるのか?」

「すいません。完成した生命の霊薬をこの犬に与えたとしたら、犬は永遠に生きられるのでしょうか?」

「そのはずじゃ」

「ではあなたのような科学者の手に落ちて喉を切られたとしたら?」

「見事!」老人は嬉しそうに手を叩いた。「それを待っとった」

「待っていたのなら、どうか答えて下さい」

「望むところじゃ」

「霊薬を飲めば、頭の上に煙突が落ちたり、弾丸に貫かれたり、馬に腹を蹴破られるすることからも避けられるのですか?」

 刺客が狙う相手を値踏みして、一撃のうちに突き返してくるだけの実力はあると踏んだ、そんな目つきでアルトタスはバルサモを見つめた。

「否、否、否。まったくそちは論理的じゃの、アシャラよ。煙突、否。弾丸、否。馬の足蹴、否。家や銃や馬がある限り、それを避けることは出来ぬ」

「死者を甦らせることが出来るのは事実ではありませんか」

「一時的には出来るが恒久的には無理だの。そのためにはまず、魂が身体の何処に宿っておるのか突き止めなくてはならん。それにはしばらくかかるだろうて。だが傷を負った身体から魂が抜け出すのを防ぐことは出来るぞ」

「いったいどうやって?」

「傷を閉じればよい」

「傷つけられたのが動脈だったら?」

「問題ない」

「是非ともこの目で見たいものです」

「よかろう、見るがよい」

 バルサモが止めるよりも早く、老人は左腕の静脈に披針ランセットを突き刺した。

 血などほとんど干涸らびてしまった老人の身体にも、ゆっくりと血は流れていた。しばらくかかってどうにか傷口までたどり着いて口を広げ、やがてたらたらとあふれ出した。

「先生!」

「ん、何じゃ?」

「ひどい傷ではありませんか」

「そちが聖トマスのような疑い屋で、見たり触れたりしなければ信じられんというのだから、その目に見せ、その手に触れさせてやらねばなるまいに」

 アルトタスは手近に置いてあったガラス壜をつかみ、一滴二滴、傷口に振りかけた。

「見よ!」

 すると如何なる魔法の水であろうか、血は四散し、傷口は締まり、静脈はふさがり、血など何処かへ行ってしまったかのように、小さな刺し傷だけが滑らかな肌に残った。

 またもバルサモは呆然として老人を見つめた。

「これも儂が見つけたのじゃ。言うことはあるか、アシャラ?」

「先生! あなたは世界一の科学者です」

「死を完全に打ち負かすことは出来なくとも、痛手の大きい一撃をくれてやったとは思わんか? よいか、人間の身体にある骨は、すぐに折れてしまうほどもろいものじゃ。儂にならその骨を鋼より固く出来る。人間の身体に通っている血は、流れ出てしまえば生命も道連れにしてしまう。儂ならその血が身体から出るのを防ぐことが出来る。人間の身体は柔らかくすぐに傷ついてしまうが、儂になら中世の騎士のような不屈の肉体に変えて、剣や斧の刃など鈍らせてしまうことが出来る。そのためにはただ一人アルトタスに三百年の命が必要なのじゃ。よいな、だから儂の求めているものを手に入れてくれ。そうすれば千年は生きられるじゃろう。アシャラよ、そちに懸かっておる。儂は若さを、体力を、機知を取り戻したいのだ。そうすれば剣や弾丸、崩れる壁、野獣に咬まれることや飛びかかられることを恐れているかどうか、そちにもわかるじゃろう。儂に四分の一の若さがあればの。そうすればつまり、四人分の人生を使い切る前に、地上を刷新してみせようて。儂と新しい人類にとって理想の世界を作ってみせように。煙突も剣もなく、マスケット銃の弾丸も足蹴にする馬もない世界じゃ。その時こそ人類も気づくじゃろう。生きるには、傷つけ合い殺し合うよりも助け合い愛し合う方が相応しいことにの」

「その通りです、先生。せめてそうありたいものです」

「ほう! だったら子供を連れて来い」

「もう少し考えさせて下さい。先生ももう一度考えて下さい」

 アルトタスは蔑み切った目を向けた。

「出てゆけ! 後でたっぷり言い聞かせてやる。もっとも、人間の血はさして大事な成分でもない。ほかのもので代用できぬこともなかろう。何とか探して見つけ出してやる。そちなど要らぬ。出て行け!」

 バルサモは落とし戸を蹴って階下に降りると、物も言わずじっとして、あの男の才能に打ちのめされていた。不可能を可能にする魔術師も、不可能なものを信じざるを得なかった。

『ジョゼフ・バルサモ』 60-1

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十章 生命の霊薬

 一人残されたバルサモは、ロレンツァの部屋まで様子を窺いに行った。

 ロレンツァは変わらず穏やかに眠っている。

 バルサモは廊下側の小窓を開けて、うっとりしながらしばらくロレンツァに見とれていた。やがて小窓を元に戻すと、既にお伝えしたようにロレンツァの部屋と実験室を隔てている部屋を通って、窯の火を消しに急いだ。熱を煙突に逃がしている巨大な導管を開放し、バルコニーにある貯水槽の水を流した。

 それから黒いモロッコ側の紙入れに、枢機卿の受け取りを大切に仕舞い込んだ。

「ロアン家の言葉とは素晴らしいが、これは俺がいただいておこう。同胞たちには金を何に使っているのか知ってもらった方がいい」

 その言葉が終わらぬうちに、天井から乾いた音が三度聞こえ、バルサモは頭上を仰いだ。

「おや、アルトタスが呼んでいる」

 実験室に空気を入れて、すべてを元通りに直していると、さらに強い合図が聞こえた。

「苛立っているな。いい兆しだ」

 今度はバルサモが長い鉄棒を叩いて合図を送った。

 それから壁の鉄輪を外してバネをゆるめると、天井から落とし戸が外れて実験室の床まで降りてきた。バルサモはからくりの真ん中に立ち、別のバネを操作してゆっくりと上っていった。オペラの装置が神や女神を運び去るように、いとも容易くバルサモの身体も運び去られ、やがて門徒は師匠の部屋にたどり着いていた。

 老学者の住むこの新居は、高さ八、九ピエ、直径十六ピエはあろうか。井戸のように上からの光で照らされ、四面はしっかりと塞がれていた。

 おわかりいただけるだろうが、車内の住居と比べればこの部屋も宮殿だ。

 老人は車椅子に坐り、蹄鉄状の大理石製机の真ん中で、あらゆるものに囲まれていた。言いかえるならばごちゃ混ぜになった植物、ガラス壜、工具、書物、器具、不可思議な文字の記された紙の山に囲まれていた。

 作業に気を取られるあまり、バルサモが現れても顔を上げようとはしない。

 ガラス窓の天辺に結わえられたアストラル・ランプが、禿げた頭頂部に光を落としてぴかぴかと光っていた。

 指の間で白いガラス壜を何度も確かめ、透明かどうかを確認していた。その様子はさながら市場に行った主婦が買った卵を光にかざして確かめているかのようだった。

 バルサモは無言でそれを見つめていたが、すぐに声をかけた。

「何かありましたか?」

「おおアシャラ! 儂が喜んどるのがわからんか。見つけたぞ、ついに見つけたぞ……!」

「何をです?」

「探し求めていたものをじゃよ!」

「金でしょうか?」

「ああ……確かに金もそうじゃな! ではほかには!」

「ダイヤモンドでしょうか?」

「おかしなことばかり言うて。金にダイヤは確かに素晴らしい発見だが、もっと嬉しいものがあるじゃろうて。儂は誓ってそれを見つけたのだぞ!」

「では、あなたが見つけたのは、霊薬エリクサーなのですか?」

「まさしく霊薬。いわば生命! 永遠の生命じゃ」

 バルサモは悲しげに呻いた。これまで散々そんな気違いじみた研究を目の当たりにしてきたのだ。「まだそんな夢みたいなことを考えているのですか?」

 だがアルトタスは聞く耳持たず、ガラス壜を愛おしそうに眺めまわしている。

「ついに処方が見つかったのだぞ。アリスタイオスの霊薬を二十グラム、水銀の香草を十五グラム、金の沈殿物を十五グラム、レバノン杉のエキスを二十五グラム」

「アリスタイオスの霊薬のほかは、以前と変わらないようですが?」

「うむ、だが大事なものが欠けておった。ほかの材料と結びつけるもの、それなくしてはほかの材料もないようなものじゃ」

「ではそれを見つけたのですね?」

「見つけた」

「手に入れることは?」

「愚問じゃ!」

「それはいったい?」

「壜の中で混ぜ合わされた材料に加えて、最後に三滴、未成年の生血が要るのだ」

 バルサモはぞっとして震えた。「何処で手にいれるつもりなのです?」

「そちが見つけてくれる」

「俺が?」

「そちじゃ」

「馬鹿を言わないで下さい、先生」

「何故じゃ?」老人は平然としたままたずねた。栓がゆるいせいで壜の表面に垂れていた水滴を愛おしそうに舌でなめ回している。「言うてみろ?」

「生血を三滴手に入れるために子供を手に入れろというのですか?」

「うむ」

「ですがそのためには子供を殺さねばなりませんが?」

「うむ、殺さねばなるまいな。美しければ美しいほどよい」

「あり得ない」バルサモは肩をすくめた。「殺すために子供を手に入れる人などいません」

「ほう?」老人はむごいほどけろりとしていた。「では何のために手に入れるのだ?」

「育てるためです」

「これは驚いた! では世界は変わったのか? 三年前は火薬四包と酒半壜と引き替えに、好きなだけ子供を連れて来てくれたではないか」

「それはコンゴの話です」

「確かにコンゴじゃったな。黒かろうと構わんよ。連れて来られたのは確か、愛くるしくて縮れ毛でやんちゃな子供らだった」

「お見事です! ですが残念ながら、ここはコンゴではありません」

「コンゴではない? すると儂らは何処にいるのだ?」

「パリです」

「パリか。ではマルセイユで乗船すれば、六週間でコンゴまで行けるな」

「それは行けるでしょうが、我々はフランスから離れる訳にはいきません」

「フランスから離れる訳にはいかぬだと! 何故じゃ?」

「やることがあるからです」

「そちがフランスで何かやると申すのか?」

「ええ、しかも大事なことです」

 アルトタス老人は長々と悲痛な笑い声を立てた。

「フランスでやることがある、か。そうじゃな、忘れておった。そちは結社を組織しておったのだったな?」

「はい、先生」

「陰謀を企んでおったな?」

「はい、先生」

「それがそちの言う『やること』か」

 老人はまたも狂ったように嘲るように笑い出した。

 バルサモは来たるべき嵐に対して力を積み上げておきながら、それが近づくのを感じても沈黙を守っていた。

「それで何処まで進んでおる? 言うてみい!」老人は苦労して椅子の上で身体をひねり、灰色の目を生徒に向けた。

 光のような視線に射抜かれたのをバルサモは感じた。

「何処までと仰るのですか?」

「そうじゃ」

「初めの一石を投じて、水を濁らせました」

「どの泥をかきまぜよった?」

「最善を。哲学の泥です」

「ほ、ほう! どうやらそちの理想郷、空虚な夢、蒙霧を危険にさらすつもりらしいの。儂のように神々そのものを作ろうとはせんで、神が存在するかしないかを議論しておるうつけどもか。いったいどの哲学者とつるんでおる? どうじゃ」

「この時代には既にもっとも偉大な詩人にしてもっとも偉大な無神論者がおいでです。近いうちに、半ば亡命していた場所からフランスに戻って来るはずです。ポ=ド=フェール街のイエズス会の古い修道院に支部ロッジを用意しておきましたから、そこで会員メーソンになってもらおうと思っています」

「そやつの名は?」

「ヴォルテール」

「知らんな。ほかには?」

「社会思想の偉大な先導者、『社会契約論』の著者と近いうちに会う手筈になっています」

「名は?」

「ルソー」

「知らぬ」

「先生はアルフォンソ十世、ライモンドゥス・ルルス、ピエール・ド・トレド、大アルベルトゥスしか知らないのでしょう」

「彼らこそ生をまっとうしたと言える唯一無二の者たちじゃぞ。大いなる謎が存在するかしないかを突き止めることにその生涯を捧げた者たちじゃ」

「生き方には二通りあるのです、先生」

「一つしか知らぬな。存在すること。じゃが哲学者の話に戻ろう。何という名であったかな?」

「ヴォルテール、ルソー」

「よし、覚えておこう。して、この二人がいればどうなると……?」

「現在を掌握し、未来を覆します」

「ほ、ほう! この国にいるのはうつけどもか? 思想に導かれるとはの」

「むしろ聡明だからこそ、思想によってさらなる感化を受けているのです。それに、哲学者より強力な力添えも揃っています」

「ほう?」

「倦怠です……フランスに君主制が栄えて千六百年。国民は君主制に飽いています」

「じゃから君主制を覆そうというのか?」

「まさしく」

「信じておるのか?」

「出来るはずです」

「そちが煽っておる訳か」

「全力で」

「馬鹿者が!」

「何故です?」

「君主制を転覆させる見返りは何じゃ?」

「俺には何もありませんが、全人類には幸福が」

「よかろう、儂は今日は機嫌がいい。喜んでそちに付き合ってやろう。まず説明してみよ。如何にして幸福を達成するのだ? それから幸福とは何じゃ?」

「如何に達成するか、ですか?」

「うむ。万人の幸福、あるいは君主制の転覆。いずれにしてもそちには同じことらしいが。言うてみよ」

「いいでしょう! 今の内閣が君主制にとっては最後の砦です。頭も回り腕も立ち、おまけに勇敢だ。ガタの来た君主制を後二十年は延命させられるでしょう。それを倒すには助けが要ります」

「誰の助けだ? 哲学者どもか?」

「違います。哲学者はむしろ支える側です」

「何ッ! 哲学者どもは君主制を支える内閣を支えておるのか? 君主制の敵ではなかったのか? まったく、哲学者どもときたら馬鹿にもほどがあるぞ!」

「内閣そのものが哲学者なのです」

「ああ、そういうことか。この内閣の内から支配しておるのだな。儂は間違っておった。馬鹿ではなく、利己主義者どもだ」

「哲学者の正体はこの際どうでもいいでしょう」バルサモは焦れ始めていた。「俺にはわかりません。わかっているのは、この内閣を辞めさせれば、次の内閣にはひどい糾弾が待っているということです」

「ふむ!」

「内閣はまずは哲学者と、次に高等法院と対立するでしょう。哲学者が声をあげ、高等法院が声をあげれば、内閣は哲学者を迫害し、高等法院を停止するに違いありません。そうすれば精神と物質は密かに手を結び、頑固で粘り強く抵抗を組織し、すべてを攻撃し、絶えず穴を掘り、爆薬を仕掛け、揺さぶりをかけることになるはずです。やがて高等法院に代わって裁判官が任命されるでしょうが、王権によって任命されたこの裁判官は、王権のためにあらゆる便宜を図ることでしょう。そうすれば道義に基づき、汚職、横領、不正に対して非難の声があがるに違いありません。国民が立ち上がれば、ついに王権は、知的階級である哲学者、有産階級ブルジョワである高等法院、庶民階級である国民から、反抗されたことになります。それはいわばアルキメデスが探していた梃子のようなもの、世界を動かす梃子なのです」

「立ち上がらせたものはいずれまた元に戻さねばなるまい」

「ええ。ですが元に戻す頃には王権もばらばらになっているでしょう」

「王権がばらばらにされた暁には、そちの馬鹿げた空想や大げさな言葉も喜んで受け入れよう。ばらばらにされて穴だらけになった王権の残骸からは、いったい何が出て来るのだ?」

「自由が」

「ほう! ではフランス人は自由を手に入れるのか?」

「いつの日にか必ずやそうなるでしょう」

「誰もが自由に?」

「誰もが、です」

「するとフランスに三千万の自由な人間が暮らすことになるのか?」

「はい」

「その三千万人の中には、他人よりも頭のいい人間はおらんようじゃな。自分一人の自由を増やすために、ある朝ひょいと二千九百九十九万九千九百九十九人の自由を奪うような輩はおらぬのか? メディナで飼っていた犬のことを思い出すがいい。ほかの奴らの餌を独り占めしておったであろうが」

「わかっています。ですがある日、ほかの犬たちが協力して成敗したではありませんか」

「あれは犬じゃったからだ。人間もそうなるとは限らん」

「では人間の知性は犬より劣ると仰るのですか、先生?」

「ふん! 前例はある」

「どのような例が?」

「古くは皇帝アウグストゥス、新しくはオリヴァー・クロムウェルが、ローマの菓子やイギリスの菓子にがぶがぶと食らいつきおったが、奪われた者たちからはたいした反論も抵抗もなかったのではあるまいか」

「そういう人間が現れたとしても、人は死ぬべき定め。そういう人間もやがて死にます。ですが死ぬまでの間に、迫害した者たちにさえ善行を施したと言えるのではないでしょうか。何といっても貴族制の在り方を変えたのですから。何かに頼らざるを得ない以上は、もっとも強いものを、つまり国民を選んだのです。平等を成し遂げるに当たり、低いところに合わせずに、高いところに合わせたのです。平等とは柵ではなく、柵を作る者の水準に応じた高さではありませんか。ですから国民の水準が上がれば、それまで知りもしなかった知識にもぶつかることになりましょう。革命はフランス人に自由をもたらします。先の皇帝アウグストゥスやオリヴァー・クロムウェルの護民制が平等をもたらしたように」

 アルトタスが椅子の上で身じろぎした。

「これほどの馬鹿も珍しい! 二十年を費やして子供を育て、知っていることを教えるがいい。その子供が三十歳になれば、そちに言いに来るじゃろうて。『人間は平等になるんだよ!……』」

「間違いなく、人間は平等になるでしょう。法の前では平等に」

「死の前ではな、脳たりんめ。法の中の法である死の前では、三十歳で死のうと百歳で死のうと平等という訳か? 平等? 確かに平等じゃろうて、人間が死を克服できぬ限りはな。馬鹿め! 馬鹿の極みじゃ!」

 アルトタスはさらに遠慮なく仰け反って笑い出した。その間バルサモはがっくりとうつむいたまま坐っていた。

 アルトタスが憐れむようにバルサモを見つめた。

「つまり粗末なパンをかじる労働者も、乳母の乳を吸う乳呑み児も、乳漿をすすり見えぬ目で涙を流す惚け老人も、儂と平等という訳か?……哀れな詭弁家め。では一つ考えてみてくれぬか。人間が不死であったなら、人は平等ではなくなるのかな。つまるところ不死であるならそれは神であり、人と神とは対等ではあるまい」

「不死?」バルサモが呟いた。「不死? 空想だ!」


 途中まで。

『ジョゼフ・バルサモ』 59

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第五十九章 黄金

 ド・ロアン枢機卿とバルサモは大階段に平行して走る小階段を通り抜け、二階の応接間に向かった。円天井の下でバルサモが扉を開くと薄暗い廊下が現れ、枢機卿は心を決めて足を踏み入れた。

 バルサモが扉を閉じた。

 扉が再び閉まる音に、枢機卿は期待を込めて振り返った。

「猊下、到着いたしました」とバルサモが言った。「これが最後の扉です。もはや我々に残されているのは、これを前で開けるか、後ろで閉めるかしかありません。ただし奇妙な音を立てても驚かれなきよう。鉄で出来ておりますので」

 枢機卿は最初の扉の立てる音にぎくりとしていたので、予め教えてくれたことに感謝した。この蝶番や錠前の軋りを聞けば、枢機卿ほど繊細ではない神経の持ち主であっても不愉快に身を震わせたであろう。

 枢機卿は三歩進んで部屋に入った。

 天井に梁が剥き出しになった大きな仕事部屋に、巨大な明かりとシェード、幾多の本、化学と物理の器具が無数にある。これがこの新しい住まいの第一印象であった。

 枢機卿はしばらくすると苦しげに息をしていた。

「どういうことでしょうか? ここは息が詰まりそうだ、マスター。汗が止まりません。あれは何の音です?」

「シェイクスピアなら『これが原因だ』と言うでしょうな」バルサモは石綿のカーテンを引き、煉瓦の窯を見せた。その中央には、闇に潜む獅子の目のように二つの穴が輝いていた。

 窯が設えてあるのは二つ目の部屋の中央だった。初めの部屋の二倍はある。それまでは石綿のカーテンに遮られて見えなかったのだ。

「ううむ!」枢機卿は後じさった。「何やら恐ろしく思われますが」

「ただの窯です、猊下」

「そうなのでしょうな。しかしシェイクスピアを引いたあなたに倣って、私はモリエールを引くことにいたしましょう。窯また窯。ここはひどい空気ですね。この匂いには我慢なりません。いったい何を焼いているのです?」

「猊下がお求めになったものです」

「というと?」

「猊下は私の技術の一端を受け入れて下さったものだと思っております。私は明日の晩まで仕事に取りかかる予定はありませんでした。明後日にならないとお越しにならないはずでしたから。しかしお考えを改めてサン=クロード街にいらっしゃると知り、窯に火を入れ薬剤を調合いたしました。ですから窯がたぎれば、十分後には黄金を手にしていらっしゃいます。換気窓を開けても構いませんか、空気を送りたいので」

「では、この窯にかけてある坩堝は……?」

「十分経てばヴェネツィアのゼッキーノ金貨やトスカーナのフローリン金貨よりも純度の高い黄金が手に入ります」

「驚いた! しかしながら、見ることは出来ないのですか?」

「出来ないことはありませんが、然るべき準備が必要です」

「どうするのです?」

「目のところにガラスの嵌った石綿の仮面をおつけ下さい。これがなければ激しい火で目が焼けてしまいます」

「そうか、気をつけよう。自分の目が可愛いからね。約束の十万エキュと引き替えにするつもりはない」

「仰せの通りです、猊下。素晴らしい目をお持ちでらっしゃる」

 自分の長所にこだわりのある枢機卿は、お世辞を聞いて悪い気はしなかった。

「ではこれから黄金が見られるのだな」と言って仮面をつけた。

「そのはずです」

「十万エキュ分の?」

「二百リーヴル、百マルク、間違いありません、猊下。恐らくもう少しあるはずですが。多めに調合いたしましたので」

「魔術師殿は本当に気前がいい」枢機卿は喜びに胸を高鳴らせた。

「猊下ほどではございません。もったいないお言葉です。では猊下、坩堝の蓋を開きますので、少し離れていただけますか」

 バルサモは短めの石綿を身につけ、逞しい腕で火ばさみをつかみ、真っ赤に焼けた蓋を持ち上げた。似たような形をした四つの坩堝の中身が露わにされると、二つには朱のように赤い混合物が、残り二つには白く変じてはいるがうっすらと赤みの残った物質が入っていた。

「ではこれが金なのか!」大声を出してしまうと目の前で成し遂げられつつある奇蹟をぶち壊してしまうのではないか――それを恐れているかのような囁き声だった。

「そうです、猊下。この四つの坩堝は時間ごとに差をつけてあり、こちらは十二時間煮込み、こちらは十一時間煮込んであります。調合剤は――この秘密は科学上の友人だから打ち明けるのですが――沸騰する瞬間まで混ぜてはいけません。ご覧いただけるように、この白くなっているのが最初の坩堝です。ちょうど材料を移し替える時間です。下がっていただけますか、猊下」

 枢機卿の行動は、隊長の命令に従う兵士のように素早かった。バルサモは坩堝を挟んだせいで熱くなっていた火ばさみを捨て、車輪つきの鉄床のようなものを窯に近づけた。そこには同じ大きさをした鉄製の筒型鋳型が八つ嵌められていた。

「魔術師殿、これは?」

「これはあなたの金塊を注ぎ込むための鋳型です」

「それはそれは!」

 枢機卿の目がひときわ大きくなった。

 バルサモは防災のために床に白い麻くずをまいた。鉄床と窯の間に身体を置くと、大きな本を開き、杖を握って呪文を唱え、坩堝を挟むために曲がった鋏のついた巨大なやっとこを握った。

「一級品の金になりそうです、猊下」

「そうですか! その坩堝を運ぶおつもりですか?」

「五十リーヴルありますが、なに鋳造工の中にも私ほど力と技を持った人間はめったにおりません。心配なさいませぬよう」

「しかし、もし坩堝が割れたら……」

「そういうこともありました。あれは一三九九年、ニコラ・フラメルと実験をしていた時のことでした。サン=ジャック=ラ=ブシェリ教会にほど近い、エクリヴァン街の家でのことです。フラメルはそこで命を落としかけ、私は金より貴重な物質を二十七マルク失いました」

「何を仰っているのですか、マスター?」

「真実をです」

「一三九九年に、賢者の石を生成しようとしていたのですか?」

「そうです」

「ニコラ・フラメルと?」

「ニコラ・フラメルと。その五、六十年前、ポーラ村でペトルス・ボヌスと作業している際に、同時に秘密を見つけ出したのです。坩堝の蓋がしばらく開けっ放しになっていたために、蒸気にやられて私の右目は十年ほど見えなくなりました」

「ペトルス・ボヌス?」

「あの『新しき價たかき眞珠(Margarita pretiosa)』の作者です。ご存じではありませんか」

「知っている。一三三〇年に刊行されたはずだ」

「間違いございません」

「ペトルス・ボヌスやフラメルと知り合いだったというのですか?」

「ペトルス・ボヌスの生徒であり、フラメルの師匠でした」

 もしや悪魔の化身ではないのか、隣にいるのは悪魔の手先ではないのかと、怯えた枢機卿が考え込んでいる間に、バルサモは長いはさみのついたやっとこを燃えさかる火の中に突っ込んだ。

 素早く確かな手際だった。坩堝の先端から四プス下を挟んで数プスだけ持ち上げ、しっかり挟み込んでいるのを確かめた。力の限り筋肉を強張らせ、燃えさかる窯から恐ろしい坩堝を取り出した。すぐにやっとこのはさみが真っ赤になる。赤く焼けた粘土の表面に、おぞましい雲間を貫く稲光のように、白い溝が走っているのが見える。坩堝の縁が赤銅色に変じ、窯の薄闇の中からまだ赤く光っている円錐の底が姿を見せた。そしてついに、どろりとした紫の液体が浮かび、金色の襞がうねる薄闇から、金属が流れ出た。坩堝の樋からしゅうしゅうと音を立て、坩堝の黒い鋳型に煮えたぎってほとばしると、その先に金の塊が現れた。まるで不純物が存在していたことに身体を震わせて怒り狂っているようだった。

「二つ目です」バルサモは二つ目の鋳型に移った。

 二つ目になっても力も技も衰えなかった。

 バルサモの額に汗が滴る。枢機卿は暗がりで十字を切った。

 それは確かに野性的で荘厳な恐怖を描いた一幅の絵だった。金属の放つ狂えるような反射に照らされたバルサモは、ミケランジェロやダンテが地獄の窯に突き落とした罪人たちのように見えた。

 そこには名づけ得ぬ高ぶりがあった。

 この間、バルサモは息もつかずに時間だけが進んでゆく。

「少し無駄になりそうです」二つ目の鋳型を満たしたバルサモはそう評した。「火にかけるのが百分の一分長過ぎました」

「百分の一分!」枢機卿は愕然とした様子を隠そうともしなかった。

「錬金術に於いては馬鹿にならない時間です」バルサモはあっけらかんと答えた。「しかしともかく猊下、坩堝は二つ空になり、鋳型は二つ埋まり、これで純金百リーヴルになります」

 一つ目の鋳型をやっとこでつかみ、水に沈めると、水は長いこと渦を巻いて湯気を立てていた。やがて中から、両端の潰れた三角砂糖のような形をした、純金の塊が引き出された。

「残りの坩堝二つは後一時間ほど待たねばなりません。その間、お坐りになりますか、それとも外の空気をお吸いになりますか?」

「それは金の塊なのでしょうね?」枢機卿はバルサモの問いかけを聞いていなかった。

 バルサモは笑みを浮かべた。枢機卿のことはすっかり掌中に収めていた。

「もしやお疑いですか?」

「それはつまり、科学には何度も欺かれて来たので……」

「すべて打ち明けて下さらなくとも結構。騙されているのではないか、初めから騙りが目的だったのではないかとお思いですね。騙すつもりなら私の目論見など何の価値もないでしょう。私が何を狙っているにせよこの部屋から出ることもならず、最寄りの金箔工のところに行かれれば驚いているあなたにも落胆されるのがわかっていながら見送ることになるのですから。さあ、どうか恥をかかせないで下さい。騙す気があればもっと上手くやりますし、もっと上を狙います。それに猊下は金の確かめ方をご存じですか?」

「試金石ですね」

「ご自身で確かめたこともおありでしょう? イスパニアの金貨は金の純度が高いため賭けには重宝されていますが、贋物も多く出回っておりますから」

「確かにその通りだ」

「では猊下、ここに石と酸がございます」

「いや、もう納得しました」

「どうか確信していただきたいのです。これが金であるばかりでなく、混じりけなしの純金であることがおわかりいただけるはずです」

 疑いを表に出すのは嫌だったが、しかし納得していないことは明らかだった。

 バルサモ自ら試金し、その結果を枢機卿に伝えた。

「二十八カラット。残りの坩堝を出しましょう」

 十分後、二百リーヴルの金が四つの金塊となって、熱の伝わった麻屑の上に広げられていた。

「確か四輪馬車でいらっしゃいましたね? 私が見たのは四輪馬車でしたが」

「そうだ」

「では馬車を戸口まで寄こして下さい。従僕が馬車まで金塊をお運びいたします」

「十万エキュか!」枢機卿は仮面を外して呟いた。足許に並んだ金塊をじかに確かめるつもりにも見えた。

「これで猊下はこの金が何処から現れたかお話しすることが出来ますな? ご覧になったのですから」

「そう、そうだ。証言できますよ」

「その必要はありません」バルサモは急いで答えた。「フランスでは科学者は煙たがられますので。どうか一言も洩らしませぬように。生み出したのが金ではなく理論でしたら、何も申さぬのですが」

「何か私に出来ることは?」華奢な腕で五十リーヴルの金塊を何とか持ち上げた。

 バルサモは枢機卿をじっと見つめ、何も答えずに笑い出した。

「おかしなことなど言いましたか?」枢機卿がたずねた。

「お力を貸していただけるというわけですな?」

「まあそうだが」

「貸した力を返して下さるにはちと都合が良過ぎませぬか?」

 枢機卿の顔が曇った。

「恩を着せるおつもりですか。私としては謝意を尽くすつもりでおりますが、気持以上に気持を見せなくてはならないとわかっておれば、力を借りたりはしなかったものを。パリには高利貸しなど山とおります。抵当で半分、もう半分は私の署名があれば、二日後には十万エキュ用意できましょう。この司教の指輪だけで四万リーヴルは下るまいに」

 枢機卿が女のように白い手を差し出すと、薬指には榛の実ほどもあるダイヤモンドが輝いていた。

 バルサモは深々と腰を折った。「猊下、私に侮辱する気があったなどとはよもや思われないでしょうな?」

 それから独り言つように呟いた。

「おかしな話だが、大公という人間は、真実を知るといつもこうなる」

「どういうことです?」

「ああ! いや、お力を貸して下さると仰いましたな! おたずねいたします、猊下が貸して下さるお力とはどのような性質のものでしょうか?」

「まずは宮廷の信用です」

「猊下、猊下。信用が儚いものであることは猊下ご自身が百も承知ではありませんか。ショワズール閣下の信用もいただきたかったものですが、閣下は後二週間もすれば大臣をお辞めになるでしょう……信用でしたら、私を信用していただけませんか。この良質の金をご覧下さい。必要な時には昼夜を問わずお申しつけ下されば、ご依頼にお応えいたしましょう。金があれば、すべて手に入るのではありませんか?」

「いや、すべてではない」枢機卿は呟いたが、もはや庇護者の立場に立ち返ろうとはせず、庇護される立場に甘んじていた。

「そうでした! 忘れていましたが、猊下には金のほかにも欲しいものがございましたな。世界中のどんな財宝よりも貴重な宝物が。ですがそれはもはや科学ではなく、魔術の領分です。猊下、一言仰って下されば、錬金術師はいつでも魔術師になる用意は出来ておりますぞ」

「ありがたいが、もう欲しいものはありません。何も望みません」枢機卿は悲しげに答えた。

 バルサモが歩み寄った。

「猊下、若く情熱的で美しく豊かな、ロアンという家名を持っているお方が、魔術師に向かってそのようなお返事をなさるはずがありません」

「何を根拠にそのようなことを?」

「魔術師は心を読むことが出来ます。本当はその逆ですね?」

「望みは何もないし、何も欲しません」枢機卿は怯えるように答えた。

「私には正反対に思われますな。猊下ご自身が認めようとなさらないのは、それが国王としての望みだとわかっているからではありませんか」

 枢機卿は怯えきっていた。「王女殿下のところでも似たような当てこすりを仰っていましたね」

「仰せの通りです、猊下」

「でしたらあなたは間違っていたし、今もまた間違っている」

「お忘れですか? 猊下が今考えていることが私にはわかるし、サン=ドニの修道女会から馬車を出したことも、市門を越え、大通りを通り、この家から五十パッススほど離れた木陰に馬車を停めたことも、私ははっきりと見ているのですぞ」

「では説明して欲しい。あなたは何を責めているのだ?」

「猊下、あなたの一族には大きく危険な愛がつきものでした。流れを断ってはなりません。これは定めなのです」

「何を仰っているのかわかりません」枢機卿はもごもごと答えた。

「いやいや、わかっているはずです。その揺れる琴線に触れることも出来るくらいです。なぜ無駄なことを? 私はこれまで、戦わなくてはならないものには真っ向勝負を挑んで来ました。あなたの琴線は激しく揺れている、間違いありません」

 枢機卿は顔を上げた。自信に満ちたバルサモの澄んだ目を確かめたのは、最後のあがきだった。

 勝ち誇ったように笑っているバルサモを見て、枢機卿は目を伏せた。

「そうです猊下、私から目を逸らすのは賢明な行動です。私にはあなたの心がはっきりと見通せるのですからな。あなたの心はものの形をそのまま映し取る鏡のようなものなのですから」

「お静かに、ド・フェニックス伯爵。どうか口を閉じて下さい」枢機卿はすっかり毒気を抜かれていた。

「そう、仰る通りですな、静かにしましょう。まだそのような愛を大っぴらにする時機ではありません」

「まだ、ですか?」

「まだ、です」

「ではこの愛はやがて――?」

「いけませんか?」

「では教えていただけるのですか? 私が信じて来たように、そして今も信じているように、さらには正反対の兆しが現れるまでこれからも信じてゆくように、この愛が常軌を逸している訳ではないとしたら――」

「そんなにおたずねなさいますな、猊下。猊下の思っていらっしゃる方に触れるか、その方の持っている物に触れないと、私としても何も申し上げることが出来ません」

「何が必要なのです?」

「例えばその方の金の巻き毛、どれだけ小さくとも構いません」

「確かに凄い人だ! 仰る通り、本を読むように心を読むのですね」

「ほう! 大叔父でいらっしゃるルイ・ド・ロアン殿も同じことを仰いましたよ。バスチーユの段上でお別れをした時のことです。死刑台を勇敢に上って行かれました」

「言ったとはつまり……あなたは凄い人だと?」

「それに、私が心を読むと。プレオー殿の裏切りを予言したのですが、信じようとなさらず、結局裏切られてしまいました」

「それが私とどのような関係が?」枢機卿は我知らず青ざめていた。

「常に慎重たれ、ということを忘れぬためです、猊下。髪を手に入れるためには王冠の下に鋏を入れねばならぬのですから」

「何処にあろうと手に入れてみせましょう」

「結構です。差し当たってはこちらの金をどうぞ、猊下。もはや本物かどうかお疑いではありますまいね」

「羽根ペンと紙をいただけますか」

「何のためです?」

「ご親切にも貸して下さる十万エキュの受け取りを書くためです」

「馬鹿な! 受け取りですか、何のために?」

「よいですか、伯爵。私はよく借金をしますが、ただでもらったりは絶対にしないのですよ」

「ではご随意に」

 枢機卿は卓上の羽根ペンを取り、大きく読みにくい字体で受け取りを書いた。その綴りは今日であれば聖具係の家政婦を困らせたことだろう。

「よいですか?」と言ってバルサモに差し出した。

「結構です」バルサモは受け取りに目を通しもせずにポケットに仕舞った。

「確認しないのですか?」

「猊下のお言葉があります。ロアン家の言葉より信頼できる担保がございましょうか」

「ド・フェニックス伯爵」身分に見合った軽い会釈をすると、「あなたは素晴らしい方だ。たといあなたに借りがなくとも、是非ともご一緒したいものです」

 今度はバルサモが一礼し、ベルを鳴らすと、それを聞いてフリッツが現れた。

 伯爵はフリッツにドイツ語で指示を与えた。

 フリッツは屈み込むと、八個のオレンジを運ぶ子供のように、多少まごつきながらもよたよたしたりぐずぐずしたりせずに、麻屑に並べられた八つの金塊を運び去った。

「たいしたヘラクレスだ!」と枢機卿が口にした。

「確かに大力の持ち主ですが、猊下、あれは私のところで働くようになってから、研究仲間のアルトタスが作り上げた霊薬を毎朝欠かさず三滴飲ませているのです。今はその効果が現れ始めたところですから、一年後には、片手で百マルク(約3kg)は持ち上げられます」

「凄い! 信じられぬ! 何もかも話してしまいたい誘惑に勝てそうもない」

「どうぞお話し下さい、猊下」バルサモは笑い出した。「ただしお忘れなきよう。私がグレーヴ広場で高等法院に火あぶりされそうになった時には、猊下自ら火を消しに来てくれるお約束ですぞ」

 バルサモは高名の訪問者を正門まで送り、恭しくいとまを告げた。

「従僕のフリッツ殿が見えないが?」

「馬車まで金を運ばせております」

「何処に停めてあるか知らぬのでは?」

「大通りを曲がって右から四番目の木の下です。それをドイツ語で伝えておきました」

 枢機卿は天を仰ぎ、暗闇に姿を消した。

 バルサモはフリッツが戻るのを待ってから、扉をすべて閉めて家に戻った。

『ジョゼフ・バルサモ』 第58章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第五十八章 訪問

 ロレンツァは間違っていなかった。馬車はサン=ドニの市門を抜け、同じ名前の周縁部に沿って進み、門と家の角で曲がると大通りに出た。

 馬車の中には透視した通りにストラスブール座司教ルイ・ド・ロアン猊下がいる。気持ちがはやり、約束より早くねぐらにいる魔術師を捕まえようとしていた。

 見知らぬ街路の暗闇や、ぬかるみや危険をものともせずに数々の情事に向かう枢機卿に慣れていたため、まだしも人気や明かりのあるサン=ドニやサン=マタンの大通りを過ぎてバスチーユのさびれた暗い大通りに向かわなくてはならなくなっても、御者が物怖じしすることはなかった。

 大通りがサン=クロード街と交わるところで馬車を停め、指示通りにしばらく先の木陰に隠しておくことにした。

 平服姿のド・ロアン枢機卿はサン=クロード街に足を踏み入れ、扉を三度叩こうと邸に向かった。フェニックス伯爵の説明通りなのですぐにわかった。

 フリッツの足音が中庭に響いて、扉が開いた。

「こちらはフェニックス伯爵のお住まいかな?」

「はい、閣下」とフリッツが答えた。

「ご在宅か?」

「はい、閣下」

「では取り次いでくれ」

「ド・ロアン枢機卿猊下、でございますね?」

 枢機卿は愕然とした。身体を見回し周りを探し、衣服や付き人から身許が割れたのではないか確かめた。だが一人きりだったし、僧服は着用していない。

「なぜ名前を?」

「先ほど主人から、猊下をお待ちしているとお聞きしたばかりでございます」

「いや、だが明日か明後日では?」

「いいえ、猊下、今晩でございます」

「今晩私を待っていると?」

「はい、猊下」

「そうか、では取り次いでくれ」枢機卿はフリッツの手に大型デュブルルイ金貨を握らせた。

「では、こちらにおいで下さい」

 枢機卿は同意の印に首を振った。

 フリッツが玄関ホールの扉までいそいそと歩みを進めた。青銅の大燭台の先で十二本の蝋燭が燃えている。

 枢機卿が茫然として夢見心地で後を追った。

「待ってくれ」応接室の戸口で枢機卿は立ち止まった。「どうやら手違いがあったようだ。だとすると伯爵を患わしたくはない。私の来ることを知らないのに、待っている訳がないからね」

「ストラスブール座司教ド・ロアン枢機卿猊下で間違いございませんね?」フリッツがたずねた。

「そう、私だ」

「でしたら、伯爵がお待ちしているのは確かに猊下でございます」

 残り二台の燭台の蝋燭に次々と火をつけると、フリッツは一礼して立ち去った。

 枢機卿が妙な気持に囚われて応接室の見事な家具の数々や壁に掛けられた巨匠の絵画八幅を見ているうちに、五分が経過した。

 扉が開き、ド・フェニックス伯爵が戸口に現れた。

「ようこそ、猊下」とだけ言った。

「私を待っていたということでしたが」枢機卿はこの挨拶には答えずにたずねた。「今晩私を待っていたそうですね? そんな訳がない」

「失礼ですが猊下、お待ちしておりました。猊下をお迎えするには相応しくないこんな有り様を見て私の言葉をお疑いなのでしょうが、ほんの数日前にパリに着いて居を構えたばかりなので。なにとぞご容赦願えますか」

「待っていた? 私が来ることを誰かから聞いていたのですか?」

「あなたご自身からです、猊下」

「どうやって?」

「サン=ドニ市門で馬車をお停めになりませんでしたか?」

「確かに停めたが」

「指示を伝えるために、従僕を馬車の戸口まで呼びませんでしたか」

「そうだ」

「こう仰ったのではありませんか? 『マレー地区のサン=クロード街まで、サン=ドニ周縁と大通り沿いに』。それを聞いた従僕は御者に向かって繰り返しました」

「間違いない。しかし、それを見ていたのですか? 聞いていたのでしょうか?」

「見ておりましたし、聞いておりました」

「ではあそこにいたのか」

「いいえ、猊下、あそこにはおりませんでした」

「では何処に?」

「ここにおりました」

「ここにいながら見たり聞いたりしたというのですか?」

「はい、猊下」

「いやはや!」

「私が魔術師だということをお忘れです」

「ああ、そうだった。忘れていた……あなたのことは何とお呼びすべきでしょうか? バルサモ男爵? それともド・フェニックス伯爵?」

「家の中では名前はありません。マスターと名乗っております」

「錬金術師の肩書きですね。ではマスター、私を待っていたのですか?」

「待っておりました」

「実験室に火を熾して?」

「実験室には常に火を熾しております、猊下」

「伺っても構いませんか?」

「猊下をご案内する喜びに勝るものはありません」

「では伺いましょう。ただし一つ条件があります」

「何でしょうか?」

「お願いだから悪魔に引き合わせるのはやめて欲しい。ルシファー陛下が恐ろしいのだ」

「猊下!」

「こういう場合、悪魔に雇うのは除名されたごろつき近衛兵や軍隊の剣術指南で、サタンの役をありのままに演じるために、蝋燭を消した後で人の鼻をつまんだりはじいたりするのだろう」

「猊下」とバルサモは微笑んだ。「私のところの悪魔は、貴人の方々とお近づきになれる名誉をゆめゆめおろそかにいたしませんし、口を閉じていなければ鞘を払う、さすればここから出てゆくかもっと賢く振る舞うかせざるを得ぬだろうというコンデ公のお言葉を覚えております」

「そうか、それで安心した。実験室に伺いましょう」

「ついてきていただけますか?」

「行きましょう」

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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