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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 第65章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十五章 王太子殿下の婚礼の夜

 王太子は婚礼の間、いやその手前にある控えの間の扉を開けた。

 大公女は白い化粧着を身にまとい、金箔の寝台の上で王太子を待っていた。華奢でほっそりとした身体はほとんど沈んでいない。奇妙なことだが、表情を読むことが出来たならば、その顔を覆っている憂いを通して、新婦の甘い期待ではなく、乙女の恐怖に気づいたはずだ。神経が高ぶって不安を感じるかと思えば、それを抑えるだけの勇気が高じたりしていた。

 寝台の側にはド・ノアイユ夫人が坐っている。

 退出を促そうとする合図を侍女からされても、貴婦人たちはしっかりと居坐っていた。

 作法に忠実な侍女は、平然として王太子のお着きを待っていた。

 だが今回ばかりはあらゆる作法がまずい状況に嵌ってしまったらしく、婚礼の間に王太子を手引きしなくてはならない人々が、ルイ十五世の計画に従って殿下が新しい廊下からやって来ることを知らずに、別のところにある控えの間で待っていた。

 王太子が入った部屋には何もなく、寝室に通ずる扉がわずかに開いていたため、その部屋で起こっていたことを見聞きすることが出来た。

 王太子はそこに留まったまま、ひそかに眺めて耳をそばだたせた。

 王太子妃の声が聞こえる。震えがちではあったが美しく澄んだ声だった。

「王太子殿下は何処からいらっしゃるのかしら?」

「この扉からでございます」とド・ノアイユ公爵夫人が答えた。

 ド・ノアイユ夫人が指さしたのは、王太子がいるのとは反対側の扉だった。

「その窓から何か聞こえませんか? 海鳴りかしら?」

「あれは花火を待つ見物客が、照明の下を歩きまわっている音でございます」

「照明?」王太子妃が悲しげに微笑んだ。「今夜ばかりは無駄ではありませんね。天はお嘆きですもの。見ましたか?」

 その時、待つのに飽きた王太子が扉をそっと押して、隙間から顔を覗かせ、入ってもいいかどうかたずねた。

 すぐには王太子だとわからずに、ド・ノアイユ夫人が悲鳴をあげた。

 何度も心を揺るがされ神経を高ぶらせていた王太子妃は、ド・ノアイユ夫人の腕をつかんだ。

「私ですよ、怖がらないで」と王太子が言った。

「ですが何故その扉から?」ド・ノアイユ夫人がたずねた。

「何故なら」と、今度は国王ルイ十五世が臆することなく扉の隙間から顔を出した。「もっともらしいド・ラ・ヴォーギヨンは、ラテン語、数学、地理には詳しくとも、ほかのことには疎いからだ」

 不意に国王が現れたため、王太子妃は寝台から滑り降りて化粧着のまま立ち上がった。ローマ人のストーラのように首から足許まですっぽりと覆われている。

「確かに痩せている」とルイ十五世は呟いた。「ド・ショワズールの奴が大公女の山から選んで見せたのがこの姫か!」

「陛下」とド・ノアイユ夫人が言った。「陛下もお気づきかと存じますが、私共といたしましては、作法をきちんと守って参りました。違えたのは王太子殿下の方でございます」

「こちらが作法を破っておる。確かに非礼を働いたのは余の方だ。だが状況が状況ゆえ、大目に見てもらいたい」

「お言葉の真意がわかりませぬが?」

「我らはおいとましようではないか。そのことで話がある。さあ、子供たちは寝る時間だ」

 王太子妃は寝台から一歩後ずさり、またも怯えてド・ノアイユ夫人の腕をつかんだ。

「お願いです、恥ずかしくて死んでしまいそうです」

「王太子妃殿下、どうか庶民のおかみさんのようにお寝み下さいませ」

「おやおや、エチケット夫人のあなたがそんなことを?」

「フランスのしきたりに背くことは重々承知しております。ですが大公女をご覧下さい……」

 それもそのはず、マリ=アントワネットは顔を真っ青にして、倒れまいとして椅子の背にしがみついていた。顔に冷たい汗がしたたり、歯の鳴るかすかな音が聞こえなければ「恐怖」の女神像かと思われるほどだ。

「こんなに王太子妃を困らせるつもりではなかったのだが」とルイ十五世が言った。ルイ十四世が作法の熱烈な信者だったのと同じくらいに、ルイ十五世は作法を嫌っていた。「では行こうか、公爵夫人。なんなら扉には錠がついているから、もっと面白くなるだろう」

 王太子は祖父の言葉を聞いて赤面した。

 王太子妃にも聞こえてはいたが、言われたことがよくわからなかった。

 ルイ十五世は王太子妃に口づけし、ド・ノアイユ公爵夫人を連れて、からかうように笑いながら、部屋を後にした。陽気な笑いについていけない人々にとっては随分と嫌な笑いだった。

 ほかの同席者も別の扉から出て行った。

 二人の若者だけが残された。

 しばし沈黙が訪れる。

 だがやがて若き王子がマリ=アントワネットに近づいた。心臓が激しく脈打ち、胸とこめかみと手の動脈に、若さと愛情に猛った血潮が流れ込んだ。

 だが祖父が扉の陰から臆面もなく婚礼の床にまで視線を潜り込ませているのに気づいて、ひどく内気で生来不器用な王太子はいっそう震え上がった。

「マダム」大公女を見つめながらたずねた。「大丈夫ですか? 随分と顔色が悪いし、震えているようですが」

「殿下、包み隠さず申しますと、どういう訳か心が乱れております。激しい嵐があったに違いありません。わたしを脅かす恐ろしい嵐が」

「では私たちが嵐に脅かされているとお思いなのですか」

「ええ、間違いありません。身体中が震えておりますもの」

 なるほど大公女の身体は電気を帯びたように震えているらしかった。

 その時、予感を裏打ちするかのように、海に海を重ね山をかすめて吹く一陣の暴風が、嵐の前触れのように、宮殿を怒号と恐怖と軋みで満たした。

 枝からむしり取られた葉、幹からもぎ取られた枝、土台から引き剥がされた彫像、庭に散らばった十万人の目撃者から生じる長く大きなどよめき、回廊や廊下を走り抜ける果てしない悲痛な呻き、そうした諸々のものが、未だかつて人間の耳を震わせたことのないような野蛮で悲痛な調べを奏でている。

 呻きの後にはガラガラと鳴る不吉な音が続いた。粉々に割れた窓ガラスが階段や庇の大理石に落ちているのだ。それは宙に舞い、キーキーと不様で気に障る音を立てながら落ちて行った。

 風は鎧戸の錠も奪い取ってしまい、締まりを解かれた鎧戸が城壁に打ちつけられて、巨大な夜鳥の翼のように羽ばたいていた。

 窓の開いた場所では例外なく、風に襲われて明かりが消えた。

 王太子が窓に近づき、恐らくは改めて鎧戸を閉じようとした。だが王太子妃がそれを止めた。

「お願いです、その窓を開けないで下さい。蝋燭が消えたら怖くて死んでしまいます」

 王太子は動きを止めた。

 閉じたばかりのカーテン越しに、庭の木々がぎしぎしと梢を揺らしているのが影になって見えた。まるで目に見えない巨人が闇の中で幹を揺らしているようだ。

 明かりという明かりが消えた。

 と、攻撃を仕掛ける軍隊のように、黒い雲の大群が空に渦巻いているのが見えた。

 王太子は窓の錠に手を押しつけたまま、青ざめて立ち尽くしていた。王太子妃は椅子に坐り込んで溜息をついた。

「怖いのですか?」王太子がたずねた。

「ええ。でもあなたがいれば安心できます。それにしてもひどい嵐ね! 明かりがすっかり消えてしまった」

「南南西の風ですね。風がさらに強くなる印です。そうなったらどうやって花火を打ち上げるのだろう」

「誰のために打ち上げるというんですの? こんな天気の中で庭に居残る人などおりませんわ」

「ああ、あなたはフランス人というものをご存じない。花火が大好きなんです。綺麗ですよ。花火師から予定は聞いております。ほら! やはりそうです、一発目が打ち上げられました」

 なるほど蛇のような尾を引いて、前触れの花火が空に上っていた。それに合わせて負けじと嵐も光を燃やしたかの如く、天が裂けたように稲光が一閃し、花火の間を擦り抜け、その青い火花で花火の赤い火花を彩った。

「いけません」と大公女が言った。「主と競うだなんて不遜なことは」

 前触れの花火が真っ赤に燃えていたのはわずかの間だった。花火師が慌てて最初の一組に火をつけると、それは喝采をもって迎えられた。

 だが天と地の間に争いがあったかのように、即ち大公女の言葉通り人間が神に不敬を働いたかのように、機嫌を損ねた嵐はその広々たるどよめきで見物人のどよめきを掻き消すと共に、空の滝口を開き、激しい雨が雲の上から叩きつけるように落ちて来た。

 風が明かりを消したように、雨が花火を消した。

「残念だ! 花火がないとは!」

 マリ=アントワネットが痛ましげに答えた。「わたしがフランスに来てからないものなどなかったでしょうか?」

「どうしたんです?」

「ヴェルサイユをご覧になりました?」

「それはまあ。ヴェルサイユが気に入りませんでしたか?」

「それはヴェルサイユがルイ十四世が残した通りの状態であれば、心にも適いましょう。でも今のヴェルサイユはどうでしょう? 何処も彼処も死と荒廃だらけ。だから嵐もお祝いに協力してくれたんです。荒れた宮殿を嵐が隠してくれたのは結構なことじゃありません? 草の生い茂った並木道や、泥だらけのイモリや、水の涸れた泉や腕のもげた彫像を、夜の闇が隠してくれるのは好都合ではありませんか? 南風よ吹けばいい。嵐よ唸れ。厚い雲を積み上げて、フランスが皇帝の娘に施したおかしな歓迎をありとあらゆる目から隠してしまえばいいんです。皇帝の娘が未来の王の手に手を合わせたその日に!」

 王太子は目に見えてまごついていた。この非難にどう答えてよいのかわからなかったのだ。とりわけ熱に浮かされたような憂いには性が合わず、今度は王太子が深い溜息をつく番だった。

「きついことを言ってしまいました。でも思い上がりからこんなことを言っているとは思わないで下さい。絶対にそんなことはありません。これまでにいろいろ拝見させていただきましたけれど、陽気で木陰があって花が咲き乱れていたのはトリアノンだけだったのに。それなのに嵐が情け容赦なく木々の葉を吹き飛ばし、水面を揺らすのです。あの素敵なお家が気に入っていたのに。嵐は嫌いです、若さを脅かすようで。なのにこの暴風雨のせいでさらに廃墟が増えますのね!」

 先ほどよりも強い突風が宮殿を揺るがした。大公女はぎょっとして立ち上がった。

「おお主よ! 危険はないと言って下さい! どうか教えて下さい、危険があるなら……怖くて死んでしまいそうです!」

「危険は一切ありませんよ。ヴェルサイユは平たく建てられているので雷は落ちません。落ちるとすれば尖塔のある教会か、ぎざぎざに突き出した小塔でしょうね。電流は尖ったところに引き寄せられやすく、平たいものには寄りつきにくいのはご存じでしょう?」

「まあ、知りませんでした!」

 王太子ルイはびくびくと冷え切った大公女の手を取った。

 その瞬間、青白い稲光が鉛色と薄紫の光を部屋に満たした。マリ=アントワネットは声をあげて王太子を押しやった。

「どうしたんです?」

「ごめんなさい。青白い稲妻に照らされて、死んだように血塗れに見えたものですから、幽霊でも見たのかと思ったんです」

「それは硫黄火が反射しているんです、説明して差し上げ……」

 恐ろしい雷鳴が轟いてこだまがごろごろと尾を引き、高まったかと思うとやがて遠ざかって行った。雷鳴によって説明を中断させられた王太子は、しばらくしてから口を開いた。

「気をしっかり持って下さい。怖がらないで。身体が震えるのは自然なことです。震えるからといって驚く必要はありません。ただし凪と震えは代わりばんこに訪れるものです。凪は震えに掻き乱され、震えは凪に冷まされる。要するにたかが嵐ですよ、よくある自然現象に過ぎません。怯える理由などないではありませんか」

「孤独を怖がったりはしませんわ。でもよりにもよって婚礼の日に嵐になるなんて、わたしがフランスに来てからずっとつきまとっている恐ろしい予兆だとは思わないのですか?」

「何を仰っているのです?」王太子は説明できない恐怖に思わずぎょっとしていた。「予兆ですか?」

「ええそうです、恐ろしく残酷な予兆です!」

「それを教えて下さい。私はこれでも、冷静でしっかり者だと言われています。あなたを脅かしている予兆と戦って勝利を収められるとは光栄です」

「わたしがフランスに足を踏み入れた最初の夜のことです。ストラスブールでわたしが休んだ大きな部屋には、夜だったので明かりが灯っていました。その明かりに照らされて、壁に血が流れているのが見えたのです。それでもわたしは勇気を振り絞って壁に近づき、その赤い色をもっとしっかり確かめようとしました。壁には幼児虐殺を描いたタピストリーが掛けられていました。悲しい目をした絶望が、怒れる目をした殺意が、斧や剣のきらめきが、母の涙や叫びが、末期の溜息が、その壁の至るところを縦横無尽に駆け巡り予言しているようでした。見れば見るほど実感が伴って来るようでした。恐ろしさに震えて、わたしは眠ることが出来ませんでした……どうか教えて下さい、これは悲劇の予兆ではないのでしょうか?」

「太古の女性にとってはそうかもしれませんが、現代の大公女にとってはそうではありませんよ」

「現代は災いに満ちているのではありませんか。母が申しておりました、頭上で燃える天は硫黄と炎と苦しみに満ちていると。だから怯えておりますの。だからどのような虫の知らせも警告だと思ってしまうのです」

「いいですか、我々の坐る玉座を脅かす危険など何一つありませんよ。私たち王族は雲の上で暮らしているのです。雷は足の下、地面に落ちたとすれば、それを落としたのは私たちですよ」

「では予言されたことは何も起こらないのですか」

「何を予言されたのです?」

「恐ろしいことです」

「予言されたのですか?」

「見せられたと言うべきでしょうか」

「見る?」

「ええ見たんです。あの映像は心に深く焼きついております。あのことを思い出して震えない日はありませんし、夢に見ない夜はありません」

「何を見たのか教えてもらう訳にはいきませんか? 沈黙を要求されているのですか?」

「いいえ、何も要求されてはおりませんわ」

「では教えて下さい」

「説明するのは難しいのですが。それは地上に建てられた死刑台のような建物でしたが、その死刑台には梯子の縦木のように二本の棒が取りつけられていて、その縦木の間に刃、庖丁、斧のようなものが渡してあるんです。おかしなことに、わたしの頭がその刃の下にあるのも見えました。刃が縦木の間を滑り、身体から切り離されたわたしの頭が地面に転がり落ちたのです。わたしが見たのはこういう場面でした」

「完全な幻覚ですよ。人に死を与える拷問器具のことならあらかた知っていますが、そんなものは存在しません。だからご安心なさい」

「この忌々しい映像がこびりついて離れないんです。でも出来るだけのことはしてみます」

「きっと出来ますとも」王太子は妻に近づいて言った。「今この瞬間から、愛に溢れた夫が側を離れずいつも見守っているのですから」

 マリ=アントワネットは目を閉じて椅子に身体を預けるがままにした。

 王太子がさらに近づいたため、息が頬に当たるのが感じられた。

 その時、王太子が入る際に使った扉がそっと開き、好奇に満ちたルイ十五世の眼差しが食い入るように部屋に注がれた。部屋は薄暗く、二本だけ残っていた蝋燭が金の燭台の上で揺れているばかりであった。

 老王は口を開いた。どうやら小声で孫を励ますつもりであったらしいが、そこで言葉では表せぬような轟音が宮殿内に響き渡り、今回は稲妻に加えてさらに爆音が聞こえた。と見る間に、緑に彩られた白い光の柱が窓の前に落ち、ガラスというガラスを砕き、露台の下の彫像を打ち砕いた。やがてそれは何もかもを引き裂いた後で天に帰り、流星のように見えなくなった。

 部屋に吹き込んだ突風で二本の蝋燭が消えた。怯えた王太子は、眩暈に襲われたようにふらふたと壁際まで後じさり、そのまま壁にへばりついていた。

 王太子妃は気を失なったようにして祈祷台の足段に倒れかけたまま、死んだようになってぐったりとしていた。

 ルイ十五世は大地が沈んでしまうのではないかとすっかり怯えて、ルベルを従えて誰もいない部屋に戻った。

 そうしている間にも、庭や道路や森に散らばり、濃い霧の中をあちこち追いかけていたヴェルサイユやパリの住人たちは、怯えた鳥の群れのように遠くに逃げていた。庭の花を踏みにじり、森の草葉を蹴散らし、畑のライ麦や小麦を踏み荒らし、家屋のスレートや彫刻飾りをぼろぼろにして、さらに被害を拡大させた。

 王太子妃は両手を額に押しつけ、泣きながら祈っていた。

 王太子は放心したように感情も見せずに、破れた窓から吹きつける雨を見つめていた。床に溜まった青い水たまりが、何時間も止むことのない稲光を映していた。

 だがこうした混沌も朝には治まっていた。一日の始まりを告げる光が赤い雲の上から顔を出し、やがて昨夜の嵐がもたらした被害を白日の下に晒すはずだ。

 ヴェルサイユはもはやすっかり変わっていた。

 地面には大量の水が染み込んでいる。木々は大量の火を吸い込んでいる。そこら中が泥だらけで、雷と呼ばれる燃えさかる蛇に絡みつかれた木々は倒れ、ねじれ、黒焦げになっている。

 ルイ十五世は眠ることが出来ぬほど怯えていたが、早朝には一時も離れずにいたルベルに着替えを手伝わせ、あの回廊に引き返した。本来であれば花や水晶や燭台に囲まれるべき絵画が、仄かな鉛色の光に照らされて、恥ずかしげもなく取り繕った顔をしていた。

 前夜から数えると三度目になるが、ルイ十五世が婚礼の間の扉を押すと、将来のフランス王妃が祈祷台の上に倒れているのを見て震え上がった。顔は青ざめ、瞳はルーベンスの「マグダラのマリア」のように紫がかっている。気を失ったために苦痛も止まり、夜明けが敬虔な白い化粧着を青く染めていた。

 部屋の奥、壁際の椅子の上に、絹靴下を履いた足を水たまりに投げ出して、フランス王太子が坐っていた。妻と同じく青ざめて、同じように悪夢のせいで額に汗を浮かべている。

 婚礼の床は国王が見た昨夜と変わらない。

 ルイ十五世は眉をひそめた。エゴによって冷え切りながら自堕落によって暖め直されかけていた頭を、感じることのなかった苦痛が焼きごてのように射抜いた。

 かぶりを振ると溜息をついて自分の部屋に戻った。夜の間よりも暗く恐ろしくなっているであろう部屋に。

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『ジョゼフ・バルサモ』 第64章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十四章 王太子殿下の婚礼の晩にフランス王家の教育係ド・ラ・ヴォーギヨン氏に起こったこと

 物語作者にとって物語の山場とは、旅行家にとっての高峰である。目の当たりにして辺りを見回し、挨拶をして通り過ぎるが、越えることはない。

 そういう訳だから、ヴェルサイユで催される王太子妃の婚礼を眺め、迂回し、挨拶を送ることにしよう。フランスの儀式は似たような先例に倣った変わらないものばかりである。

 そもそも我々の歴史は、ルイ十五世のヴェルサイユの輝かしさや、宮廷服・お仕着せ・祭服の様子にはない。その控えめな侍女が、フランス史の大通り沿いに寄り添う小径を通って、何かを見つけることだろう。

 五月晴れの日光の許で行われた儀式が終わったのはまた別の話である。著名な招待客たちが声もなく退出し、目にしたばかりのきらびやかな光景を話して聞かせたり論評したりしたのもまた別の話である。我々としては、我らが事件と登場人物に戻ろうではないか。歴史的に価値のある話に。

 国王は儀礼的なやり取り、それも正餐に飽きていた。随分と長かったし、ルイ十四世の王太子の婚礼正餐式と変わるところがなかったのだ。九時に部屋に戻ると人払いをし、残ったのは教育係のド・ラ・ヴォーギヨンだけであった。

 イエズス会の味方であるこの公爵、デュ・バリー夫人の協力のおかげもあって、ド・ベリー公が結婚したことで務めの一部を果たしたと考えていた。

 大変なのはこれからだ。まだド・プロヴァンス伯とダルトワ伯の教育を終える仕事が残されている。当時、十五歳と十三歳。ド・プロヴァンス伯は腹黒く反抗的。ダルトワ伯は軽薄で反抗的。そのうえ王太子は、お人好しなうえに貴重な生徒であり王太子、すなわち国王の跡継ぎたるフランスの第一人者であった。だからそうした性格に及ぼす影響力を妻が手にしてしまえば、ド・ラ・ヴォーギヨン氏は影響力を失うことによって大きなものを失うことになるはずだった。

 国王から残るように声をかけられて、陛下もこの喪失感を察して何らかの褒美で埋め合わせをするつもりだのだ、とド・ラ・ヴォーギヨン氏が考えてもおかしくはない。教育が終われば教育係が褒美を受け取るのはよくあることだからだ。

 という訳で感動屋のド・ラ・ヴォーギヨン公はことさら感動屋になっていた。正餐の間中ハンカチで目頭を押さえ、生徒を失う悲しみに暮れていた。デザートが済むと泣きじゃくっていたが、一人になったことに気づいてようやく落ち着いて来たところだった。

 それが国王に呼ばれたためにまたもやポケットからハンカチを取り出し、目には涙が浮かび出した。

「ここへ、ラ・ヴォーギヨン」長椅子で寛いでいた国王が言った。「話をしようではないか」

「陛下の仰せのままに」

「さあ坐りなさい。疲れているのだろう」

「坐っても?」

「ああ、無礼講だ」

 ルイ十五世は腰掛けを指した。教育係の顔にまっすぐ光が当たり、国王の顔は影になるような場所に置かれていた。

「どうだね、これで教育も終わりだ」

「はい、陛下」

 ラ・ヴォーギヨンは溜息をついた。

「素晴らしい教育だったぞ」

「陛下のお力でございます」

「そなたがよくやってくれた」

「陛下のお力添えの賜物です」

「王太子はヨーロッパ王家でも指折りの学者ではないか?」

「さように存じます」

「立派な歴史家だ」

「大変なものでございます」

「地理も申し分なかろう?」

「王太子殿下は専門家の助けを借りずにお一人で地図をお作りになれます」

「完璧に出来るのか?」

「ああ、陛下! お褒めに与るのはほかの者でございます。地図作りを教えたのは私ではございません」

「構わぬ。身についているかどうかが問題なのだ」

「それは素晴らしいものです」

「では時計いじりは?……随分と器用ではないか!」

「人並み外れていらっしゃいます」

「六か月前から余の時計がどれもこれも、元に戻れずぐるぐる回る馬車の車輪のように次々に回っておる。王太子しかいじっておらぬのだ」

「それは力学の問題でございます。打ち明けて申しますと、私にはまったく歯が立ちません」

「うむ、だが数学に、航海術は?」

「例えば私がいつも殿下にお勧めしていたのは科学でございます」

「かなり得意なのであろう。ある晩、ド・ラ・ペイルーズと太綱や支檣索、縦帆の話をしておった」

「航海用語ばかりでございますね……ええ、陛下」

「ジャン・バールのような話しぶりだった」

「得意なのは事実でございます」

「だがそれもこれもそなたのおかげだ……」

「身に余るお言葉でございます。私の役目など、王太子殿下が身につけられた貴重な知識の中では、取るに足らないものでしかございません」

「王太子は良き王、良き為政者、良き父になるものと、余が心から信じておるのは事実だ……。ところで」と国王は最後の言葉を強調して繰り返した。「王太子は良き父になるであろうか?」

「ああ、陛下」ド・ラ・ヴォーギヨンは一笑に付した。「王太子殿下の心にはあらゆる美徳の種が根づいていて、ほかのもの同様に表に現れないだけだと思っております」

「わかっておらぬな。余は王太子が良き父になるかどうかたずねておるのだ

「陛下、私もよくわかりません。いったいどういう意味でおたずねになっているのでしょうか?」

「どういう意味で、と申すのか……聖書を読んだことがない訳ではあるまい?」

「無論、読んでおります」

「族長はわかるであろうな?」

「わかります」

「王太子は良き族長になるであろうか?」

 まるでヘブライ語で話しかけられたような顔をして、ド・ラ・ヴォーギヨンは国王を見つめた。手の中で帽子をもてあそんだ。

「陛下、偉大な王こそ殿下の目指すべきものでございます」

「待ってくれ、やはりすれ違っているようだ」

「陛下、ですが私も精一杯やっております」

「いや、もっと単刀直入に言おう。そなたは我が子のように王太子のことを知っておるな?」

「もちろんでございます」

「あれの好みも?」

「はい」

「あれの情熱も?」

「情熱については別の話でございます。殿下が情熱をお持ちであれば私がすっかり引き出していたところですが、幸いにも心を痛めずに済みました。殿下には情熱はございません」

「幸いと申すのか?」

「幸運ではございませんか?」

「つまり情熱を持たぬというのだな?」

「さようでございます」

「まったく?」

「まったく、と申し上げます」

「そうか、余が恐れていたのはそのことだ。王太子は良き王になろう、良き為政者にはなろう、だが良き族長になることはなかろう」

「しかし陛下、王太子殿下に家父長制を学ばせよとは、陛下は一言も仰いませんでした」

「それが間違っていた。いつか結婚するのだということを考えるべきだったのだ。だが情熱がないというのに、そなたは王太子を叱らなかったのか?」

「と言いますと?」

「いずれ情熱を持つことが出来ないとはまったく思わなかったのかと尋いておるのだ」

「恐れてはおりました」

「何だと、恐れていた?」

「陛下、どうかお責めになりませぬよう」

「ド・ラ・ヴォーギヨン」苛立ち始めた国王が声をあげた。「はっきりと尋こう、情熱があろうとなかろうと構わぬ、ド・ベリー公は良き夫になれるのか? 父としての資格はこの際放っておく、族長についても問わぬ」

「それは申し上げることの叶わぬことです」

「言えぬことだと?」

「はい、陛下。私にはわかりかねることでございますゆえ」

「わからぬと申すのか!」ルイ十五世が唖然としてあげた叫びに、ド・ラ・ヴォーギヨンの頭の上で鬘が揺れた。

「ド・ベリー公は子供らしく無心にものを学びながら陛下の屋根の下でお育ちになりました」

「その子が今は学ぶのではなく結婚するのだ」

「私は殿下の教育係でしたが……」

「だからこそだ、あれは知らなくてはならぬことを学ばねばならぬ」

 ルイ十五世は肘掛に身体を預けて肩をすくめた。

「薄々わかっておった」と言って溜息をついた。

「ああ、陛下……」

「そなたはフランスの歴史を知っておるな、ド・ラ・ヴォーギヨン?」

「そのつもりでおりましたし、これからもそのつもりです。陛下に禁止を申し渡されない限り」

「では余に起こったことを知っているはずだ。婚礼の夜のことだ」

「生憎と存じませぬ」

「何だと! では何も知らぬのか?」

「差し支えなければ私が知らずにいたその点をお聞かせ願えますか?」

「よいか、残り二人の孫に教えを施してほしいことがある」

「かしこまりました」

「余も王太子と同じように祖父の屋根の下で育てられた。ド・ヴィルロワ(de Villeroy)は実直な男であったが、そなたと同じくあまりにも実直すぎた。ああ、叔父の摂政公のもとでもっと自由にさせてもらっておれば! だがそなたの言うように、無心・無邪気にものを学んでいると、無心・無邪気を学ぶことは眼中に入らなかった。それでも余は結婚したし、国王の結婚とは万人にとっての大事なのだ」

「わかって来た気がします」

「それはありがたい。では続けるぞ。枢機卿が余の族長としての素質を調べさせたところ、皆無であった。フランス王国が女の手に委ねられてしまうのではないかと心配されるほど、その点に関しては余は無邪気であったのだ。幸いなことに枢機卿はその点についてド・リシュリュー殿に相談した。微妙な問題であったが、ド・リシュリュー殿はそうした件の大家だった。ド・リシュリュー殿には素晴らしい考えがあった。ルモールかルムールかよく覚えておらぬが、素晴らしい絵を描くご婦人がいて、そのご婦人に一続きの景色を描かせたのだ。わかるか?」

「わかりませぬ」

「何と言えばよいのか、素朴な風景だ」

「ではテニエの絵のような画風でしょうか」

「違う、もっとその、原始的なのだ」

「原始的?」

「あるがままの……ようやくぴったりの言葉が見つかった。これでわかったか?」

「まさか!」ド・ラ・ヴォーギヨンは真っ赤になって叫んだ。「陛下にお見せしたのですか……?」

「余が何か見せられたと何故わかる?」

「ですが陛下がご覧になるためには……」

「陛下は見なければならなかった。それで充分だ」

「では?」

「それで、余は見た」

「そして……?」

「人はみな物真似師……余も真似たのだ」

「確かにその方法は妙案ですし、確実で見事なものですが、若い人間には危険ではありませんか」

 国王はド・ラ・ヴォーギヨンを見つめた。笑みを浮かべたのがこれほど知的な口でもなければ破廉恥と言われかねない笑みを浮かべていた。

「今は危険は放っておいて、やらねばならぬことに戻ろう」

「はあ」

「わかるか?」

「わかりません。教えていただけるとありがたいのですが」

「こういうことだ。王太子を捜しに行くと、王太子は貴族たちから最後の挨拶を受け、王太子妃は貴婦人たちから最後の挨拶を受けているはずだ」

「はい、陛下」

「そなたは蝋燭を持って王太子だけを連れ出すのだ」

「はい、陛下」

「そなたの生徒に伝えるのだ」国王は「そなたの生徒」という二語を強調した。「部屋は新しい廊下の端にあると」

「鍵を持っている人間がおりません」

「余が預かっておる。今日の日が来るのを見越しておった。鍵はここだ」

 ド・ラ・ヴォーギヨンは震えながら鍵を受け取った。

「そなたには言っておこう。その回廊には二十幅の絵を並べさせておいた」

「おお、陛下」

「うむ。そなたは生徒を抱きしめ、廊下の扉を開けてやり、手に蝋燭を持たせて、幸運を祈り、二十分かけて部屋の扉に到達せよと伝えてくれ。絵一つにつき一分だ」

「ああ、わかりました」

「それでいい。ではご機嫌よう、ド・ラ・ヴォーギヨン」

「もうご用はございませんか?」

「余にはよくわからぬ。そもそも、たとい余がいなくともそなたは家族のために立派にやってくれたはずだ」

 教育係の前で扉が閉じられた。

 国王は私用の呼び鈴を鳴らした。

 ルベルが現れた。

「コーヒーを。ところでルベル……」

「はい?」

「コーヒーを持って来たら、ド・ラ・ヴォーギヨン氏の後を追ってくれ。王太子に挨拶をしに行っておる」

「かしこまりました、陛下」

「慌てるな。これからその理由を話すところだ」

「もっともでございます。ですが陛下に対する忠誠のあまり……」

「わかっておる。ではド・ラ・ヴォーギヨンのところに行ってくれ」

「はい、陛下」

「ひどく緊張して物思いに沈んでおるから、王太子に同情を寄せているとも限らん」

「同情されていた場合、私は何をすればよいのでしょうか?」

「何もする必要はない。ただその旨を伝えに来てくれ」

 ルベルが持って来たコーヒーを、国王はじっくりと味わい始めた。

 やがて従僕は立ち去った。

 十五分後、ルベルが戻って来た。

「どうだった?」

「ド・ラ・ヴォーギヨン様は新しい廊下においでで、殿下の腕をつかんでらっしゃいました」

「うむ、それで?」

「ド・ラ・ヴォーギヨン様がポケットから取り出した鍵で殿下が扉をお開けになり、廊下に足をお入れになりました」

「それから?」

「それからド・ラ・ヴォーギヨン様は、殿下に蝋燭を手渡し、小声で耳打ちされていましたが、私に聞こえぬほど小さくはありませんでした。

「『殿下、婚礼の間はこの回廊の端にございます。お渡ししたのはその部屋の鍵でございます。その部屋に行かれるまでに二十分かけるよう、国王陛下はお望みでいらっしゃいます』

「『二十分? だがせいぜい二十秒しかかからないだろうに!』

「『殿下、ここで私の仕事は終わりです。もはや教えられることはございませんが、最後に一つ申し上げることがございます。この回廊の左右の壁をしっかりとご覧下さい。そこに二十分かけるだけの理由があるとお答えしておきます』」

「なるほどな」

「それからド・ラ・ヴォーギヨン様は深々とお辞儀をいたしました。廊下の中まで射抜くような強く熱い視線はいつもの通りでございます。そうして殿下を扉にお通しになりました」

「王太子は中に入ったのだな?」

「それが陛下、回廊の中に光があるとご想像下さい。それが少なくとも十五分ほど動き回っておりました」

「いいぞ! 光は消えた」国王はしばらく窓ガラスを見つめていた。「余の場合も二十分与えられていたが、余は確か五分後には妻のところに行っておった。ラシーヌの息子は『やはり祖父の孫』と評されたが、王太子もそう評されるべきだ」

『ジョゼフ・バルサモ』 第63章 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十三章 戦略

 午前三時に帰宅したド・サルチーヌ氏はへとへとに疲れてはいたが、非常に満足もしていた。国王とデュ・バリー夫人と交わした夜の会合が原因である。

 王太子妃の到着で沸き立った熱狂的な民衆は、陛下に向かって何度も「国王万歳!」と叫んでいた。例のメスの病以来、当時は最愛王と呼ばれたルイ十五世の健康のため、万歳の声は小さくなっていた。あの時は教会の中や巡礼のうちにフランスのすべてが見えたものである。

 一方デュ・バリー夫人は人前では独特の罵られ方をされない方が珍しかったのだが、予想とは裏腹に最前列に陣取った人々から暖かいもてなしを受けていた。国王はそれに満足してド・サルチーヌに小さく微笑み、警視総監はそれを感謝と受け取った。

 そういう訳だからド・サルチーヌとしては、正午に起きればよいと考えていた。こんなことはしばらくないことだった。立ち上がると、この余暇のような時間を利用して、夜の間の報告を聞きながら新しい鬘を一、二ダース試していたところ、六番目の鬘を試し、三つ目の報告に進んだところで、ジャン・デュ・バリー子爵の到着が告げられた。

「おや、お礼に来たのか! だがわからんぞ? 女とは気まぐれなものだ! 子爵を応接室にお通ししろ」

 朝からくたびれ切っていたジャンは、椅子に身体を投げ出した。まもなくやって来た警視総監は、面倒な話ではなさそうだと確信した。

 第一ジャンは嬉しそうに見える。

 二人は手を握った。

「こんな朝早くに何のご用です?」

 ジャンは手なずけようとしている人々の自尊心をくすぐることには何よりも慣れていた。「一つには、昨日の祝宴でのお手並みに感謝を述べるつもりで参りました」

「おお、ありがとうございます。それは公式なものでしょうか?」

「リュシエンヌとしては公式なものです」

「それは何よりです。あそここそ太陽が昇る場所ではありませんか?」

「太陽は折々沈むものですから」

 デュ・バリー子爵は豪快に笑い出した。こうすれば人のいい印象を与える。

「感謝を述べに来たのはもちろんですが、それに加えてお願いもあって参りました」

「出来ることであればすぐにでも」

「ああ、難しいことではありません。パリで見失ったものを、また見つけ出せる可能性はありますか?」

「価値のないものだろうとあるものだろうと、可能です」

「たいした価値はないな」ジャンはかぶりを振った。

「何をお捜しでしょうか?」

「十八くらいのガキなんだ」

 ド・サルチーヌは書類に手を伸ばし、鉛筆で覚書をつけた。

「十八歳。お名前は?」

「ジルベール」

「お仕事は?」

「ほとんど何も出来ないはずだ」

「生まれは?」

「ロレーヌ」

「どちらにお住まいでしたか?」

「ド・タヴェルネ家の使用人だ」

「主人一家とご一緒に?」

「いや、飢え死にしかけているところを、ションが道で拾ったんだ。馬車に乗せてリュシエンヌまで連れて来たが、そこで……」

「そこで?」

「あいつはこっちの厚意を踏みにじりやがった」

「盗みを働いたのですか?」

「そうは言ってない」

「つまり……」

「よくわからんが逃げ出してしまったんです」

「それで、また見つけ出したいと?」

「ええ」

「いそうな場所にお心当たりは?」

「プラトリエール街の角の水飲み場で今日見かけた。通りの何処かに住んでいると考えて間違いないだろう。必要ならその家まで教えられると思うが……」

「家をご存じなのでしたら、そこでつかまえればいいだけの話ではありませんか。つかまえた後はどうなさりたいのですか? シャラントンの精神病院にぶちこみますか、それともビセートル?」

「いや、そういう訳では」

「ご希望があれば何でもどうぞ。ご遠慮なさらずに」

「違うんだ、あいつは妹のお気に入りでね、側に置いて面倒を見たがってるんだ。なかなか聡明な奴でね。荒立てずに連れて来られたなら、それにこしたことはない」

「やってみましょう。居場所を探るためにプラトリエール街で聞き込みなどはしてないでしょうね?」

「まさか。目立つつもりはないし、状況を悪化させるつもりもない。あいつは俺を見ると、悪魔にさらわれたように逃げ出したんだ。居場所を知られたと知ったら、引っ越されてしまう」

「もっともです。プラトリエール街と仰いましたな? 通りの奥ですか、真ん中ですか、手前ですか?」

「三分の一辺りだ」

「ご安心下さい、一人優秀なのを遣りますから」

「優秀だとしても、口が軽いのでは」

「私どものところは口が堅い者ばかりです」

「一筋縄ではいかない奴なんだ」

「ああ、そういうことでしたか。もっと早くその点に思いいたらなかったことをお許し下さい。私自身で事に当たることをお望みですか……確かに、もっともなことです……その方がよいでしょう……あなたは気づいていないようですが、この件には厄介な点が幾つかありそうですから」

 総監が同じ立場に立ちたがっているのを確信しながら、ジャンは有利な立場を手放そうとせず、それどころかこう言った。

「あなた自身にやってもらいたいのも、その厄介な点に理由があるんです」

 ド・サルチーヌ氏は呼び鈴を鳴らして従者を呼んだ。

「馬の用意を」

「馬車があります」とジャンが言った。

「ありがたいが、自分のを使いたい。紋章がなく、辻馬車と四輪馬車の間くらいでね。毎月塗り替えさせているので気づかれることはまずない。それはそうと、馬の用意が出来るまで、九つの鬘が頭に合うか確かめさせてもらいますぞ」

「お好きなように」

 ド・サルチーヌ氏は鬘師を呼んだ。客に紛れもない鬘を提供してきた芸術家である。ありとあらゆる形、ありとあらゆる色、ありとあらゆる大きさの鬘があった。法官の鬘、弁護士の鬘、収税人の鬘、騎士の鬘。ド・サルチーヌ氏は捜査のために日に三、四回服を替える時があり、目的に適った恰好をするようにことさら気を遣っていた。

 二十四番目の鬘を試している最中に、馬車の用意が出来たと告げられた。

「その家をご存じですか?」ド・サルチーヌ氏がジャンにたずねた。

「ここから見えますよ」

「入り口は調べてみましたか?」

「真っ先に考えたことです」

「どうなっていました?」

「並木道です」

「通りの三分の一辺りにある家の並木道ですか?」

「ええ、隠し扉がついていました」

「隠し扉ですか!? お尋ねの青年が何階に暮らしているかご存じですか?」

「屋根裏です。それよりご自身の目でお確かめ下さい。水飲み場が見えました」

「速度を落としてくれ」とド・サルチーヌ氏が命じた。

 御者が速度を落とし、ド・サルチーヌ氏は窓を上げた。

「あの汚い家です」

「ああ、なるほど!」ド・サルチーヌ氏が手を叩いた。「恐れていた通りでした」

「えっ、恐れていたことがあるんですか?」

「ええ」

「いったい何を?」

「あなたも運が悪い」

「説明して下さい」

「いいでしょう、尋ね人が住んでいるあの家、あれはジュネーヴのルソー氏の家なのです」

「あのルソー本人が?」

「はい」

「それで、それがどうしたんです?」

「それがどうしたですって? ああ、要するにあなたは警視総監でもないし、哲学者と関わったこともないんです」

「そうか、ルソーのところにジルベールが。あり得ることだろうか……?」

「その青年が哲学者だとは聞いておりませんが?」

「いや、そうなんだ」

「でしたら、類は友を呼ぶと言いますから」

「ではルソーのところにいると考えてみよう」

「ええ、そう考えてみましょう」

「するとどういうことに?」

「その青年を取り戻すことは出来ないでしょう」

「何故です?」

「何故なら、ルソー氏は恐ろしく手強い人間ですから」

「どうしてバスチーユに放り込まないんです?」

「いつか国王にそう申し上げたことがありますが、勇気ある行動をお選びにはなりませんでした」

「陛下が逮捕を命じようとはしなかった?」

「はい、逮捕の責任を私に委ねようとされたようですが、私が陛下より勇敢なはずもございません」

「それはまあ」

「申し上げた通りです。哲学者に噛みつかれる前に、よくお考え下さい。ルソー氏の家から人を拐かすなど、とんでもない。とんでもありません」

「確かに随分と弱気なようですね。国王は国王ではなく、あなたは警視総監ではないのですか?」

「確かにあなたはたいした人です。あなた方ブルジョワと来たら。『国王は国王ではない』という言葉を文字通り信じていらっしゃる。いいですか、子爵。私としてはルソー氏の許からジルベール氏を連れ出すよりも、デュ・バリー夫人の許からあなたを追い出すことを選びますぞ」

「それはどうも! 結構なごひいき痛み入ります」

「あまり大声を出さぬことです。作家という連中がどれだけ感じやすいか、あなたはわかってない。ただのかすり傷を負っただけで、車責めの刑に処されたように悲鳴を挙げる連中です」

「だが幽霊を相手にしている訳じゃない。ルソー氏がジルベールを住まわせていることは間違いないのでしょうね? この五階建ての家はルソーのものなんですか、住んでいるのはルソーだけなんですか?」

「ルソー氏には財産がありませんから、パリに家は持っておりません。恐らくほかにも二十人ほど借り手がいるのではないでしょうか。何にしても、行動する際にはこういう心がけをお忘れなく。不運に見舞われそうな時にはそのことをよく考えて下さい。幸運な際には考える必要はありません。どんな場合でも九十九の不運に対して、幸運は一つしかないのです。しかし話が逸れましたな。こういう事態を見越して、覚書を持って参りました」

「覚書とは?」

「ルソー氏に関する覚書です。ルソー氏が行き先も知られずに行動できるとお思いでしたか?」

「なるほど。そうすると極めて危険な人物なのですね?」

「そういう訳ではありませんが、注意はしております。ああした気違いはいつ何時腕や足を折るとも限りませんし、そうなれば折ったのは私たちだと言われるでしょうから」

「一度くらい首をひねればいいんだ」

「どうかそうなりませんように!」

「言わせてもらえばまったく理解できませんね」

「世間の連中はあの実直なジュネーヴ人に時々石を投げます。ですが連中はそれを独り占めしておいて、我々が石を投げようものなら、それがどんな小さな飛礫であっても、今度は石を投げられるのは我々なのです」

「そういう事情とは知らずに失礼しました」

「ですから用心に用心を重ねるにしくはありません。取りあえずは私たちに残された唯一の可能性を確かめておきましょう。ルソー氏のところにはいないという可能性です。あなたは馬車に隠れて下さい」

 ジャンが言う通りにすると、ド・サルチーヌ氏は御者に命じて馬車を少し進ませた。

 それから紙入れを開いて紙を何枚か取り出した。

「その青年がルソー氏のところにいるとすれば、何日からでしょうか?」

「十六日からです」

「『十七。ルソー氏は朝の六時にムードンの森で植物採集をしているところを目撃される。一人。』」

「一人ですか?」

「続けますよ。『同日、午後二時、再び植物採集、若い男が一緒。』」

「へえ!」

「若い男が一緒」とド・サルチーヌ氏は繰り返した。「おわかりですか?」

「そいつだ、畜生!」

「間違いありませんか? 『みすぼらしい若者である。』」

「あいつだ」

「『がつがつしている。』」

「あいつだ」

「『二人はそれぞれ植物を摘み、ブリキの箱に漬けた。』」

「あの野郎!」

「まだございます。『その晩、ルソー氏は若者を連れて帰った。深夜、若者は家から出てこなかった。』」

「なるほど」

「『十八。若者は家から立ち去らず。ルソー氏のところに腰を落ち着けたと見られる。』」

「まだ希望はあるさ」

「まったく楽天家ですな! いいでしょう、その希望とやらをお聞かせ願えますか」

「その家に親戚がいるのかもしれない」

「なるほど! 吉報に違いありません。むしろ凶報だと思いますがね。よし、止めろ!」

 ド・サルチーヌ氏が馬車を降りた。少し離れたところに灰色の服を着た目立たない恰好の男がいた。

 男はド・サルチーヌ氏を見ると帽子を取り、また戻した。目には敬意と忠誠心が燃えていたものの、その挨拶には仰々しいところは微塵もなかった。

 ド・サルチーヌ氏が合図をすると男が近づき、耳を垂れて幾つか命令を受けると、ルソー家の並木道に姿を消した。

 警視総監は馬車に戻った。

 五分後、灰色服の男が再び姿を見せて馬車に近づいて来た。

「俺は右を向いてますよ」とデュ・バリー子爵が言った。「そうすれば姿を見られない」

 ド・サルチーヌ氏は微笑み、報告を聞いてから部下を帰した。

「どうでした?」

「そうですね、恐れていた通り、運は向いていませんでした。ジルベールが泊まっているのはルソー家です。どうか諦めて下さい」

「諦める?」

「はい。気まぐれ一つのためにパリ中の哲学者を呼び寄せたくはないでしょう?」

「そうか、ジャンヌが何と言うかな?」

「というと、ジルベールがお気に入りなのですか?」ド・サルチーヌ氏がたずねた。

「もちろんです」

「でしたら、後は穏やかな手段を用いるべきです。ルソー氏を説得して下さい。そうすればジルベールを攫わずとも、向こうから引き渡してくれるでしょう」

「熊を飼い慣らす方がましですね」

「恐らくあなたが考えているほど難しくはありませんよ。諦めないことです。可愛い方には弱い人ですから。伯爵夫人のお顔は大変お美しいし、マドモワゼル・ションも悪くありません。伯爵夫人には犠牲を払うおつもりはありますか?」

「幾らでも払うつもりです」

「ルソーの恋人になるお覚悟は?」

「それが不可欠とあらば」

「役に立つはずと考えております。ですが当の二人を引き合わせるには橋渡し役が要ります。ルソーの知り合いをご存じではありませんか?」

「ド・コンチ公」

「いけません。ルソー氏は貴族を信用していないのです。一般人や学者、詩人がいい」

「そんな知り合いはいませんね」

「伯爵夫人のところでド・ジュシュー氏にお会いしたことがありましたが?」

「植物学者の?」

「そうです」

「そうか、そうですね。伯爵夫人がトリアノンで花壇をいじらせていました」

「それはあなたの方で。ジュシューは私の友人です」

「すると、上手く行きそうですね?」

「と言っていいでしょう」

「ではジルベールはこっちのものだと?」

 ド・サルチーヌ氏はしばし考えた。

「そう思い始めて来ました。暴力沙汰にも怒鳴り合いにもならずに、おとなしくしているジルベールを引き渡してくれるでしょう」

「そう思いますか?」

「大丈夫ですよ」

「どうすればいいんです?」

「たいしたことではありません。ムードンかマルリーに空いている土地をお持ちではありませんか?」

「それならいくらでも。リュシエンヌとブージヴァルの間に十箇所はありますよ」

「結構! そこに建てさせましょう……何と言いますか……哲学者取りを」

「何ですって? 何と仰いました?」

「哲学者取りと申し上げたのです」

「面白い! どんな建物になるんですか?」

「計画をお話ししますから、どうか落ち着いて下さい。もう移動しましょう、ここでは目立ちます。御者、ホテルに行ってくれ」

『ジョゼフ・バルサモ』 第62章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十二章 プラトリエール街の部屋

 偽の未亡人ションがしばらくアンドレを見張っていると、ジャン子爵が書生のようにどたどたと階段を上って戸口に現れた。

「どうだ?」

「あなたは? こっちはびっくりよ」

「どういうことだ?」

「ここにいればすっかり見届けられるってこと。声が聞こえないのは残念だけど」

「ふん、注文が多いな。それより新情報だ」

「何?」

「凄い!」

「で?」

「恐ろしい!」

「大声で殺す気?」

「哲学者は……」

「今度は何? 哲学者?」

「『学者というものはどんなことが起こってもそれに応ずるだけの準備ができている』と言っているが、さすがの俺もこんな準備はできていなかった」

「お願いだからちゃんと話してよ。この子のせい? それなら隣の部屋に行ってもらえる、シルヴィー?」

「その必要はない、むしろ大歓迎だ。ここにおいで、シルヴィー」

 子爵に指で顎を撫でられた時には、シルヴィー嬢は眉をひそめていた。これから語られる話はどうせ聞けないだろうと察していたからだ。

「この子はここにいさせるから、早く話して」

「そもそも俺は話をするためにここに来たんだ」

「何も言わないのなら……口を閉じて、見張りを続けさせて。その方がよっぽどまし」

「まあ落ち着こうや。さっき言ったように、水飲み場を通りかかったんだが」

「そんなこと一言も言わなかったけどね」

「ああ、邪魔したいのか?」

「まさか」

「水飲み場の前を通り過ぎて、このひどい部屋にちっとはましな家具でも買おうとしていたんだが、その時、水がはねて腕にかかったんだ」

「面白いお話ですこと」

「慌てるな。俺が見たのは……目にしたのは……当ててみろよ……まず当たらんだろうな」

「だったら続けてよ」

「水飲み場の栓にパンを詰めている奴がいたんだ。そのせいで水が滲み出てはねていたって訳だ」

「面白すぎてびっくりするわ」ションは肩をすくめてみせた。

「まあ聞け。水がかかって俺が怒鳴り散らしたもんだから、パンを浸していた奴が振り返った。そいつは……」

「誰だったの?」

「哲学者だった。もとい我らが哲学者殿だ」

「それってジルベール?」

「ご本人様だ。帽子もかぶらず、上着の前も留めず、靴下を引きずり、靴には留め金もなく、早い話がだらしない恰好だった」

「ジルベール!……何か言ってた?」

「お互い気づいたんで、俺が前に出たところ、あいつは後ずさりやがった。俺が腕を伸ばすとあいつは足を踏み出し、馬車と水運び屋の間を猟犬のように逃げ出しちまった」

「見失っちゃったの?」

「だろうさ! 俺も一緒になって駆け出したとは思わないだろう?」

「まあそうね。そんなことするわけないし。でもそうか、見失っちゃったんだ」

「残念ですね!」シルヴィー嬢から溜息が洩れた。

「まったくだ。奴にはたっぷりお仕置きしてやらなきゃならん。首根っこを引っつかまえていれば、目にもの見せてくれたんだが。だが向こうもそれはわかっていたんだろうな、とっとと逃げ出しちまった。だがまあいいさ、パリにいることはわかったんだ。警察と仲良くさえしてれば、パリってところは、人を見つけるのは簡単な町だ」

「早く見つけなきゃ」

「見つけたら飯は抜きだな」

「閉じ込めておきましょう」とシルヴィー嬢が言った。「ただし今度は絶対間違いのないところにしなくては」

「その間違いのないところには、シルヴィーがパンと水を運んでくれるんだろうな?」

「笑い事じゃないでしょ」ションがたしなめた。「あの子は宿場馬の件を目撃しているんだから。あなたに対して含むところがあるのなら、びくびくしてても不思議じゃないわ」

「ここの階段を上っている最中も考えていたんだ。ド・サルチーヌ殿に会いに行って、見つけたことを伝えようと思っている。帽子をかぶらず、靴下を引きずり、靴紐も結ばず、パンを水で浸しているようなだらしない恰好で目撃されたのであれば、その人物は近くに住んでいる、だから必ず見つけ出すと言ってくれそうな気がするんだ」

「お金もないのにこんなところで何してるっていうの?」

「お使いだろう」

「まさか! あの自尊心の強い哲学かぶれが? ないない!」

「古いパンの皮を犬に分けてくれるような、信心深いお婆さんか親戚の人でも見つけたのではないでしょうか?」シルヴィーが言った。

「取りあえずその話は終わり! シルヴィーはこの箪笥に下着を仕舞って。お兄さん、あなたは見張り場所に!」

 二人は用心深く窓に近づいた。

 アンドレは刺繍を止めて、肘掛椅子の上で足を伸ばしてくつろいだ姿勢を取ると、傍らの椅子に置かれた本に手を伸ばした。本を開いて読み始めたが、読み始めるとぴくりともしなくなったところを見ると、刺繍よりも熱中しているようだ。

「勉強好きだこと!」ションが口を開いた。「何を読んでいるのかしら?」

「必需品」子爵はポケットから出した遠眼鏡を伸ばしてアンドレに向け、窓の角に押し当てて固定させた。

 ションはじりじりしながらその様子を見ていた。

「ねえ、どうなの? 本当に綺麗なの?」

「見事だ、完璧だ。あの腕、あの手! あの瞳! 聖アントニウスも惑わされて地獄に落とされそうな口唇。あの足! 天使の足だ! それにあのくるぶし……絹靴下を履いたあのくるぶし!」

「だったらいっそ好きになっちゃえば。ひどいことになりそうね」ションがちくりと言った。

「ふん、そうか?……それほど悪い状況でもないだろうさ、向こうも俺を好きになるかもしれん。そうすりゃ、伯爵夫人も安心だろうよ」

「その遠眼鏡を寄こしてよ、よければおしゃべりはお終い……あら、ほんと綺麗ね、恋人がいないわけないわ……あら読書してる訳じゃないみたいよ……本が手から……離れて……落ちた、ほら……読書中って訳じゃないって言ったでしょ、考え事してるのね」

「眠ってるんじゃないのか」

「目は開いてるもの。本当に綺麗な目ね!」

「どのみち恋人がいるのなら、ここからそいつを見物できるだろうぜ」

「そうね、昼間だったら。でも夜中にやって来たら……?」

「そうか! うっかりしていた。真っ先に思いついていなけりゃならんのに……俺もお人好しだってことだ」

「ええ、検事みたいなお人好し」

「ふん! こうして気づいたからには、そのうち何か思いつくだろう」

「でもこの遠眼鏡は凄いわね! 本が読めちゃいそう」

「読んで題名を教えてくれよ。そこから何かわかるかもしれん」

 ションは興味を惹かれて前に乗り出したが、途中で慌てて身体を引っ込めた。

「どうしたんだ?」子爵がたずねた。

 ションが子爵の腕をつかむ。

「ようく見て頂戴。あの天窓から身体を突き出している人。左よ。気づかれないようにしてね!」

「ひゅう!」デュ・バリー子爵は沈んだ声をあげた。「パンを浸していたお坊っちゃまか、何てこった!」

「飛び降りる気じゃない」

「そうじゃない。軒にしがみついている」

「でも何をあんなに夢中になって見ているのかしら?」

「見張りかな」

 子爵が額をぺんと叩いた。

「わかった」

「何?」

「あの娘を見張ってるんだ!」

「マドモワゼル・ド・タヴェルネ?」

「ああ、あれが屋根裏の恋人って訳だ! 娘がパリに来たんで後を追って来た。コック=エロン街に泊まったんで、俺たちから逃げてプラトリエール街にしけ込んだ。男は女を見つめ、女は物思いに耽っている」

「十中八九正解ね。よそ見をしないあの目つき、あの目の中の鉛色の光を見てよ。あれぞ恋に狂った恋人だわ」

「よし、もうわざわざ彼女を見張る必要はないな、彼氏が代わりにやってくれる」

「自分のために、ね」

「いいや、俺たちのためさ。じゃあちょっといいか、サルチーヌのところに行って来る。運が巡って来たぞ。だが気をつけろ、ション。哲学者殿に気づかれるなよ。逃げ足は知っているだろう」

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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