翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 第69章 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十九章 生還

 数々の大惨事が次々に起こっている間も、ド・タヴェルネ男爵は奇跡的に危険を免れていた。

 当たるものすべてを破壊する圧倒的な力に対し、物理的に抵抗するのは不可能だったが、男爵は冷静に状況を読み、ラ・マドレーヌ街の方に流されてゆく人込みに包まれるように移動していた。

 人々は広場の欄干にぶつかり、家具倉庫ガルド=ムーブルの角に激突し、道の脇には怪我人や死者がどこまでも連なっていたが、多くの人が死んでいたにも関わらず、男爵は危険を遠ざけておくことに成功していた。

 間もなく男女の群れが路上や野外に飛び出し、喜びの声をあげた。

 その瞬間ド・タヴェルネ男爵も周りの人々と共に危険から脱していた。

 これまでに長々と筆を費やして極めて率直に男爵の性格をお伝えしていなければ、なかなか信じられることではないかもしれない。だがぞっとするような波に揉まれながらも、神よ赦し給え、男爵は自分のことしか考えていなかった。

 もともとそれほど優しい質ではないうえに、男爵は行動の人であったので、生命の危機に直面してカエサルの格言を実践に移したのである。為していることを為せ。

 だからド・タヴェルネ男爵が利己的エゴイストだったとは言わぬ。周りに気を遣わなかったとだけ言わせてもらおう。

 だが大通りに出て楽に動けるようになり、死から逃れて生に帰り着き、ようやく人心地がつくと、男爵は安堵の叫びに続いてもう一つ叫びをあげた。

 二つ目の叫びは初めのものより弱々しかったものの、それ以上に悲痛に満ちていた。

「わしの娘が! アンドレが!」

 身じろぎもせず、手を両脇に垂らし、虚ろな目で一点を見据えたまま、離ればなれになった経緯を思い出そうとした。

「お可哀相に!」女が何人か同情の声を囁いた。

 男爵を囲むように憐れみの輪が出来たが、声をかけようとする者はなかった。

 ド・タヴェルネ男爵は庶民的な感情を解さなかった。思いやりの輪に囲まれるのは居たたまれない。そこで何とか人込みを掻き分けると、見上げたことに、広場の方に足を踏み出した。

 だが足を踏み出したのは、人の心にはつきものの父親の愛情から出たとっさの行為だった。それと同時に理性が男爵に働きかけ、男爵はぴたりと足を止めた。

 ご希望とあらば、この論理の筋道をたどることにしよう。

 まず、ルイ十五世広場に戻ることは不可能だった。圧し合い、死者の山、それに広場から押し寄せる人波、それを掻き分けて進むのはシャフハウゼンのライン滝を遡るのと同じくらいに不可能なことだ。

 さらには、神の御手が男爵を人込みの中に戻したとしても、如何にして数万人のご婦人の中から一人の婦人を見つけるというのか? 死から奇跡的に逃れてなお、無駄と知りながらどうしてまたもや危険に飛び込まないのか?

 やがて希望が、真っ暗な夜の縁を黄金色に色づかせる光が訪れた。

 アンドレはフィリップのそばにいなかったのだろうか? その腕に抱かれ、一人前の男である兄に守られてはいなかったのだろうか?

 老いさらばえた男爵であれば、運び去られるのはこれ以上はないほど簡単なことだ。だがフィリップは、情熱的で逞しく生命力に満ち溢れている。鋼のような腕のフィリップ。妹のために尽くすフィリップなら。あり得ない。フィリップなら戦いに臨み、勝ちを収めたに違いない。

 男爵は利己主義者の例に洩れず、自分のことは棚に上げて、他人に求めるようにフィリップにもあらゆることを求めていた。利己主義者にとっては、強く優しく勇敢でない人間は利己的な人間であって、いわば宿敵であり競争相手であり敵対者である。恩恵を社会から享受できる権利を掠め取る競争相手である。

 そういう訳でド・タヴェルネ男爵は自分の推論に一安心し、フィリップは当然のことながら妹を守ったに違いないとまずは結論づけた。それに、父を助けようとして捜し出すのに少し手間取っているのだろう。だが恐らく、いや確実に、帰り道を見つけ、人込みに酔ったアンドレをコック=エロン街まで連れて行っているはずだ。

 そこで男爵はきびすを返し、カプチン修道会街を下って征服コンケート広場、別名ルイ大王ルイ=ル=グラン広場、即ち現在の勝利ヴィクトワール広場にたどり着いた。

 だが邸まであと少しのところまで来ると、歩哨のように門前に立って噂話に興じていたニコルが、声をあげた。

「フィリップ様とアンドレお嬢様はどうなされたんですか?」

 早くに逃げのびていた人々が恐ろしさのあまり誇張して伝えていたために、大惨事のことは既にパリ中に知れ渡っていたのだ。

「何だと!」男爵は狼狽えて叫んだ。「二人は戻っておらぬのか、ニコル?」

「とんでもありません、お二人とも見ておりません」

「回り道せざるを得んかったのじゃろう」見込みが外れるに従って、男爵はだんだんと震え出した。

 今やニコルやラ・ブリと共に、男爵も通りに留まって待ち続けた。ニコルは悲鳴をあげ、ラ・ブリは天を仰いだ。

「あっ、フィリップ様です」ニコルの声は言葉に表せぬほど怯えていた。フィリップは一人だった。

 確かにフィリップだ。闇の中から息を切らせて死に物狂いで走って来る。

「妹はいますか?」戸口をふさいでいる集団を目にして、遠くから声をかけた。

「何じゃと!」男爵は真っ青になって絶句した。

「アンドレ! アンドレ!」近づくに連れてフィリップが声をあげる。「アンドレは何処です?」

「見てないんです。ここにはいらっしゃいません、フィリップ様。ああ、お嬢様!」ニコルが泣きじゃくり始めた。

「それでお前は戻って来たのか?」読者にお見せした男爵の見通しの立て方を思えば、これほど不当な怒りもない。

 フィリップは答える代わりにそばに寄り、血塗れの顔と枯れ枝のようにぶら下がっている折れた腕を見せた。

「ああ、何てことだ!」老人は溜息をついた。「アンドレ! わしのアンドレや!」

 門に寄せてある石の腰掛けにがっくりと腰を下ろした。

「生死に関わらずきっと見つけ出しますから」フィリップは辛そうな声を絞り出した。

 疲れを知らぬフィリップは、来た道を戻った。走りながら、右腕で左腕を上着の中に仕舞い込んだ。人込みの中に戻るには、使えない腕など邪魔になる。斧があれば切り落としていたところだった。

 こうしてフィリップは、ルソー、ジルベール、そして外科医のいる悲劇の現場に舞い戻った。もっとも血に染まった外科医の姿は、助けをもたらす救世主というよりは虐殺を指揮した悪魔のようだ。

 フィリップは夜の残りをルイ十五世広場を彷徨って過ごした。

 ガルド=ムーブルの壁から離れられずにいると、そこでジルベールを見つけた。握り締めていた白いモスリンの切れ端をじっと見つめている。

 ついに黎明の光で東の空が白く色づき始めた頃、へとへとに疲れ果てたフィリップは、経験したことのない眩暈に襲われて死体のように血の気を失い、いつ死体の中に倒れ込んでもおかしくなかった。父が期待したように、アンドレはきっと家に戻っているか運ばれているのだと期待しながら、コック=エロン街への帰途をたどった。

 遠くから、門前に残して来た人たちが見えた。

 今もまだアンドレがいないことに気づいて足を止めた。

 男爵の方もフィリップに気づいた。

「どうじゃった?」

「では、妹はまだ帰っていないんですか?」

「残念ながら!」男爵とニコルとラ・ブリが同時に叫んだ。

「何も? 報せも、情報も、希望もないんですか?」

「何一つ!」

 フィリップは石の腰掛けに崩れ落ちた。男爵が獣じみた声をあげた。

 その時、通りの端に姿を見せた辻馬車が、ゆっくりと近づいて来て、邸の前で止まった。

 女が一人、気絶でもしているようにがくりと首を肩に垂らしているのが扉越しに見えた。フィリップはそれを目にするやぎょっとして飛び上がった。

 辻馬車の扉が開き、男が降り立った。腕にはぐったりとしたアンドレを抱えている。

「死んでいる!……死んで返されたのか」フィリップががっくりと膝を突いた。

「死んでいるじゃと!」男爵は上手く話せなかった。「本当に死んでいるのですか……?」

「そうは思いませんね」アンドレを抱えている男は静かにそう答えた。「ド・タヴェルネ嬢は気絶しているだけです」

「おお、魔術師殿! 魔術師殿!」男爵が叫んだ。

「ド・バルサモ男爵!」フィリップが囁いた。

「私ですとも、男爵殿。あの恐ろしい混乱の中でド・タヴェルネ嬢を見分けられたのは僥倖でした」

「いったいどちらで?」フィリップがたずねた。

「ガルド=ムーブルのそばです」

「そうでした」

 だがすぐに喜びの表情に疑念の影が差した。

「随分とお時間がかかったのですね?」

「お察し下さい」バルサモは平然として答えた。「妹御のお住まいを存じ上げなかったので、従者に命じて、国王の厩舎近くに住んでいる友人のサヴィニー(Savigny)侯爵夫人のところにお連れしていたのです。ご覧の忠士が力を貸してしてくれました……さあ、コントワ」

 バルサモが合図すると、王家のお仕着せを着た男が馬車から現れた。

「この者は国王のお供をしておりましたので、ラ・ミュエットから家までお送りした際にお嬢様のことを覚えておりました。お嬢様が助かったのは美しさのおかげですな。私はこの者に辻馬車に乗ってもらい、ここにお連れする光栄を得ました。この者の名誉に誓って申し上げますが、ド・タヴェルネ嬢はあなたがたが思ってらっしゃるほど危険な状態ではありません」

 そう言って恭しく父とニコルの腕にアンドレを返した。

 男爵はここで初めて、目の端から涙がこぼれるのを感じた。内心でこのような感情を覚えていたことに驚きはしたが、皺だらけの頬に涙が流れるに任せた。フィリップは自由な方の手をバルサモに向かって伸ばした。

「ぼくの住まいもぼくの名前もご存じですね。感謝の気持に出来ることがあればどうか仰って下さい」

「当然のことをしたまでです。していただくことなどありませんよ」

 バルサモはお辞儀をして、家に招じ入れようとする男爵に返事をしようともせずに、立ち去ろうとして足を踏み出した。

 だがそこで振り返り、

「そうそう、サヴィニー侯爵夫人の正確な住所をお伝えするのを忘れておりました。フイヤン修道院のすぐそこ、サン=トノレ街の邸です。ド・タヴェルネ嬢がご挨拶をお考えかもしれませんから、それをお伝えしておきます」

 こうした弁明、こうした子細、こうした一つ一つの積み重ねに宿る思いやりに、フィリップはもちろん男爵さえ深い感動を覚えていた。

「あなたは娘の命の恩人です」男爵が言った。

「わかっております。誇りに思いますし、嬉しく思います」

 そして今度こそ、フィリップの差し出した心づけを拒んだコントワを従えて、バルサモは辻馬車に乗り込み、立ち去った。

 その瞬間、バルサモが去ることで失神を解かれたかのように、アンドレが目を開いた。

 だがまだしばらくは口も利けず、呆然として目を見開いていた。

「神様!」フィリップが囁いた。「まだ完全ではありません、白痴になってしまったのでしょうか?」

 アンドレはその言葉を理解したらしく、首を横に振った。だがそれでも相変わらず口は利けず、忘我の状態にあった。

 立ったまま、バルサモが消えた方角に腕を伸ばした。

「もうよい。もうすっかり済んだことだ。フィリップ、アンドレに力を貸してくれ」

 フィリップは自由な方の腕をアンドレに貸した。アンドレは反対側をニコルに抱えられて、夢遊病者のような足取りで邸に戻り、別館に到着した。

 そこでようやく言葉を取り戻した。

「フィリップ!……お父様!」

「わかるのか、ぼくらがわかるんだな!」フィリップが声をあげた。

「もちろんわかりますわ。でもいったい何が起こったのかしら?」

 アンドレは再び目を閉じたが、今度は気絶したのではなく、穏やかな眠りに就いたのだった。

 ニコルが一人部屋に残り、アンドレの服を脱がして寝台に横たえた。

 フィリップが部屋に戻ると、医者が待っていた。アンドレを心配する必要がなくなった時に、ラ・ブリが機転を利かせて呼びに走っていたのだ。

 医者はフィリップの腕を診察した。折れてはおらず脱臼だけで済んでいた。医師は巧みに力を込めて、外れていた肩を関節に嵌め直した。

 それが終わると、先ほどから気を揉んでいたフィリップは、医師をアンドレのところに連れて行った。

 医者はアンドレの脈を診て、呼吸を聞き、笑みを浮かべた。

「子供のようにぐっすりと眠っていらっしゃいます。眠らせておきましょう。ほかに出来ることはありません」

 男爵は息子と娘の無事を確認して、ぐっすりと眠っていた。

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『ジョゼフ・バルサモ』第68章

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第六十八章 死体の山

 嵐の後には静けさが訪れる。ぞっとするような、だが癒すような静けさが。

 午前二時頃。パリの頭上を流れる大きな白雲が、青白い月の下でくっきりとした姿を浮かび上がらせていた。でこぼこの地上では不幸なことに、逃げていた人々が溝に落ちて折り重なって死んでいる。

 薄い雲に遮られて時折り翳る月光に照らされて、土手端やぬかるみの中に、騒ぎの犠牲者たちの死体が見えた。強張った足、鉛色の顔、手を伸ばしているのは恐怖か祈りのためだろうか。

 ルイ十五世広場の中央では悪臭を放つ黄色い煙が櫓の残骸から洩れ、まるで戦場のような光景を見せていた。

 荒れ果てた惨劇の現場を人目を忍ぶようにしてちょろちょろと走っていた影たちが立ち止まり、辺りを見回し、小さくなって走り去った。鴉のように獲物に引き寄せられてやって来た、火事場泥棒である。追い剥ぎに失敗した者たちが、仲間から耳寄りな情報を得て、大慌てで死体から盗みを働きに来ていたのだ。それが銃剣を持った兵士たちが押っ取り刀で駆けつけて来たのを見て、しぶしぶながら泡を食って逃げ出した。だが死者の長い列の中で動き回っているのは泥棒と夜警だけではなかった。

 角灯を持った者たちだ。或いは野次馬だと思われるだろうか。

 それにしても、何と悲しげな野次馬だろう! 果たせるかな、それは帰らぬ縁者や友や恋人を心配する親戚や友人たちであった。遠方の地区から来た人々である。凶報は嵐のような嘆きを乗せてとうにパリ中に広まっていたため、不安のあまり取るものも取りあえず捜しに来たのだ。

 災害の跡を見るよりも辛い光景だった。

 最愛の人の死体に再会した人々の絶望から、何一つ見つけられずに、物も言わず震えている川にすがるような視線を彷徨わせる人々のやりきれない不審の念まで、青ざめた顔には様々な感情が交錯していた。

 死体の多くは既にパリ憲兵隊によって川に投げ込まれていた。過失の責めを負うべき憲兵隊は、恐るべき死者の数をごまかそうとしていたのだ。

 人々は救いのない光景の繰り返しにうんざりすると、セーヌ川の水で両足を濡らし、暗い流れに引き寄せられる不安に心を締めつけられたまま、角灯を手に、広場の横の通りを確かめに行った。そこにはたくさんの負傷者が助けを求めて、或いは惨劇の現場からただただ逃れたくて、這いずって来ていた。

 不幸にも死体の中に失った友を見つけた者たちは、不意を打たれて呆然とした後で叫びをあげた。惨劇の現場では新たにすすり泣きが生じ、別のすすり泣きに呼応した。

 ごく稀に、広場に物音が響く。角灯が落ちて壊れた。生者が死者に無我夢中で別れの口づけを注いだ。

 広大な墓地には、また別の物音も聞こえていた。

 落ちた拍子に手足を折り、剣で胸を傷つけられ、人に押しつぶされた怪我人たちが、祈るように喘ぎや呻きをあげていた。すわ知り合いかと駆け寄って来た人々が、他人だとわかると立ち去っていた。

 だが、広場の端、公園のそばでは、博愛と献身の念に打たれた人々が、救護班を組織している。若い外科医、周囲に散らばった道具を見る限りでは外科医のようだが、その若い外科医が怪我をした男女を運ばせていた。患者に包帯を巻きながら、結果に対する同情よりもむしろ原因に対する怒りの方を露わに口にしていた。

 がっしりとした二人の助手によって血塗れの舞台に上げられた外科医が、その行商人の助手たちに向かって絶えず叫んでいる。

「一般人が先だ。怪我もひどいし、身なりも地味だから、すぐにわかるはずだ!」

 包帯を巻き終えるたびにこんな言葉が機械的に繰り返されていたが、二度目の叫びに、灯りを手に死体の間をたずね回っていた真っ青な若者が顔を上げた。

 額に開いた大きな傷口から赤い血の滴をしたたらせている。片腕は服を二つのボタンで留めて吊ってある。汗まみれの顔からは必死の思いが伝わって来る。

 前述したように、医師の言葉を聞いて、この若者が顔を上げた。医師が半ば嬉しそうに眺めている傷ついた手足に、悲しそうな瞳を向けている。

「失礼ですが、どうして患者を選ぶのでしょうか?」

 外科医はこの質問に顔を上げて答えた。「私が診なければ、貧乏人を診る人などいないからだよ。金持ちなら引く手あまたではないか! 角灯を下げて道を確かめてみるがいい。金持ちや貴族の代わりに庶民が山と見つかる。神ご自身もうんざりしてしまうに違いない、こんな災難に遭っても、幸運なことに貴族や金持ちは普段通りの犠牲しか払わなかった。千人に一人いればいい方だ」

 若者は出血している額の高さまで灯りを上げた。

「ではみんなと同じく怪我をした貴族はぼくだけらしい。馬に蹴られて額が割れて、溝に落ちて左腕を折ってしまったんです。金持ちと貴族は追いかけ回されると言いましたね? でもご覧の通り、ぼくはまだ包帯をされてないんです」

「ご自身の邸があるでしょう、それに……ご自身の医者も。お戻りなさい、歩けるのだから」

「治療して欲しい訳ではないんです。妹を捜してるんです、十六歳の女の子ですが、庶民ではないけれど、きっと死んでしまいました。白い服を着て、首に十字を掛けています。ぼくらの邸や医者のことは忘れて、どうか教えて下さい。そういう女の子を見かけませんでしたか?」

 若い外科医は堰を切ったように話し出した。その激しさを見れば、こうした思いを長く胸にたぎらせていたのがわかろうというものだ。「私は思いやりにこの身を捧げて生きて来た。苦しんでいる人たちを立たせておいてでも貴族を死の床に横たえておくとしたら、私にとって女神にも等しい思いやりの気持に正真正銘従うことになるだろうがね。今日起きた不幸はすべてあなたがたが原因なんだ。あなたがたの悪習や横暴が原因なんだ。その結果を受け止めなさい。妹さんは見かけていません」

 乱暴に言い捨ててから、外科医は作業に戻った。馬車に両足を砕かれた不運な女性が運ばれて来たところだった。

「見るんだ」逃げ出していたフィリップに大声を浴びせた。「金持ちの足を砕こうとして祭りに馬車を突っ込ませるのが庶民だとでも?」

 フィリップはあのラ・ファイエットやラメットを生み出した、あの若い貴族階級に属していた。フィリップ自身もこの外科医の口から飛び出した箴言を何度となく口にしていた。それが跳ね返って懲罰のようにフィリップを襲った。

 心を砕かれ、救護班から離れて悲しい探索を続けた。やがて苦しみに耐えきれぬように、涙にむせた叫び声が聞こえて来た。

「アンドレ! アンドレ!」

 その時フィリップのそばをせかせかと通りかかる人がいた。とうに年老いた人で、灰色の布を纏い、ゆるゆるの絹靴下を履き、右手で杖を突いて、左手には蝋燭を油紙で囲んだ角灯を持っている。

 老人はフィリップが呻くのを聞いて、その苦しみを察した。

「可哀相に!」

 だが老人がここにやって来たのもフィリップと同じ理由からであるらしく、そのまま通り過ぎた。

 それが突然、これほどまでに苦しんでいる人の前を慰めようともせずに通り過ぎたのを咎められたかのように、

「失礼ですが、お邪魔して構いませんか。だが同じ苦しみに打たれている者同士、倒れないよう互いに支え合いませんと。或いは……あなたならわたしの役に立ってくれるかもしれない。蝋燭が消えかけているところを見ると、もう長いことお捜しのようだ。もしや広場でもっとも悲惨な場所をご存じではありませんか」

「ええ、知っております」

「そうですか! 実はわたしも人を捜しておりまして」

「ではまず溝をご覧なさい。そこで五十人以上が死んでいます」

「五十人ですか! 祭りの最中にそれほどの人が死んでしまったとは!」

「たくさんの人が死んでしまいました! 既に何千という顔を照らして来ましたが、まだ妹は見つかりません」

「妹さんですか?」

「あっちの方でした。ベンチのそばで見失ったんです。見失った場所は見つかりましたが、妹の手がかりは皆無でした。今は稜堡から始めて捜すのをやり直すところです」

「見物人はどちらに向かったのでしょうか?」

「新しい建物の方、ラ・マドレーヌ街の方です」

「では、あちらの方ですね?」

「そうだと思います。ですからまずはあちら側から捜してみたんです。でもあっちはひどく混乱していました。人の波があっちに向かったのは事実です。ですがどうしたらいいかわからずに狼狽した女性なら、逃げようとしてどちらに向かってもおかしくありませんから」

「失礼ですが、妹さんが流れに逆らえたとは思えません。わたしは通りの方から捜すつもりです。一緒にいらっしゃい。二人で協力すれば、見つかるかもしれませんよ」

「ところであなたはどなたをお捜しなのでしょうか? ご子息でしょうか?」フィリップはおずおずとたずねた。

「そういう訳ではありませんが、養子といってもいい子です」

「一人で来させたのですか?」

「ああ、もう青年ですから。十八か十九です。自分の意思で行きたがるのを止めることは出来ませんよ。もっとも、これほどの大惨事になるとは思いも寄りませんでした!……そちらの蝋燭が消えてしまいましたね」

「ああ、そうですね」

「一緒にいらっしゃい。これで照らして差し上げます」

「ご親切はありがたいのですが、ご迷惑ではありませんか」

「ご心配は無用です、こちらも捜さなくてはなりませんし。いつもはちゃんと戻って来る子なのですが」老人は通りに沿って進んだ。「ですが今夜は予感のようなものがあって。十一時まで待ったところで、妻が隣人から事故のことを聞きました。きっと戻って来ると信じて二時間待ちましたが、戻って来るのは見えません。何の連絡もないのに眠れる訳もないではありませんか」

「それでは、家の方に行きましょうか?」

「そうしましょう。仰ったように人込みはこちらに移動したはずですから、恐らくあちらに行ったのでしょう。あの子はそれに流されていったに違いありません。何せ風習はもちろん町の通りも知らない田舎者ですから。ルイ十五世広場に来たのも初めてのはずです」

「そうですか! ぼくの妹も地方から出て来たんです」

「これはひどい!」老人は死体の山から目をそらした。

「それでもあそこを捜さなくてはならないんです」フィリップは毅然として死体の山に角灯を近づけた。

「まともに見ることなど出来ません。わたしは凡人です、こんな悲惨な光景など怖くてとても耐えられません」

「ぼくだって怖い。でも今夜のことはいい試練でした。ここに十六、七の少年がいますよ。傷のないところを見ると、窒息したようです。お捜しの少年ですか?」

 老人は勇気を振り絞って角灯を近づけた。

「よかった、違います、別人でした。もっと若くて、髪が黒く、青白い顔なんです」

「今夜は誰もが青ざめてますよ」

「おや、家具倉庫の下まで来たんですね。あそこに争った跡がある。あの壁の血、あの鉄柵の布切れ、あの柵の穂先に浮かんでいる服の切れ端をご覧なさい。それに、もう歩く先もありません」

「この辺りです、きっとこの辺りだ、間違いない」フィリップがぼそぼそと繰り返した。

「胸を抉られるようだ!」

「あっ!」

「どうしました?」

「死体の下に白い布が! 妹は白い服を着ていたんです。灯りを貸して下さい、お願いです!」

 確かにフィリップは白い布切れを見つけ、それをつかんでいた。片手で灯りを持っていたために、そのまま手を離した。

「若い男の手に握られているのは、女物の服の切れ端です。アンドレの白いドレスとよく似ている……アンドレ! アンドレ!」

 フィリップが嗚咽を洩らした。

 老人も近づいた。

「あの子だ!」声をあげて腕を広げた。

 その悲鳴に、フィリップも注意を引かれた。

「ジルベール!」叫ぶのはフィリップの番だった。

「ジルベールをご存じなのですか?」

「ジルベールをお捜しだったのですか?」

 二人の声が重なった。

 老人はジルベールの手をつかんだ。冷え切っている。

 フィリップはジルベールの胴衣ジレを外し、シャツを脱がし、心臓に手を押し当てた。

「可哀相に!」

「何てことだ!」老人も溜息をついた。

「息をしている! 生きている!……生きています!」フィリップが叫んだ。

「本当ですか?」

「間違いありません、心臓が動いています」

「本当だ! 誰か助けを! 向こうに外科医がいたはずです」

「ぼくらでやりましょう。ついさっき助けを請いましたが、断られたんです」

「手当が必要だ!」老人が激昂した。「ジルベールを医者のところに連れて行くのを手伝って下さい」

「片手しか使えませんが、お手伝いしましょう」

「わたしだって年は取っても、力は出せるはずです。さあ行きましょう!」

 老人はジルベールの肩に手を掛けた。フィリップが右腕で両足を抱えて、二人はなおも人々に囲まれている外科医のところまで歩いて行った。

「どうか助けて下さい!」老人が叫んだ。

「一般人が先だ!」外科医は座右の銘を繰り返した。こうした返事をするたびに、周囲の人々から感嘆の呟きが洩れることになるのは本人もわかっているのだ。

「連れて来たのは庶民の男です」老人はかっとなって言ったが、若い外科医のかたくなさに心を打たれ始めていた。

「ではご婦人方の後で」と外科医が言った。「殿方はご婦人よりも痛みに強い」

「瀉血だけでいいんです」老人は言い募った。

「おや、またあなたか!」外科医は老人ではなくフィリップを目にして言った。

 フィリップが何も答えないのを見て、何か言わなくてはと老人は考えた。

「わたしは貴族ではありません。一般人です。ジャン=ジャック・ルソーと言います」

 医師は驚きの声をあげ、手で人を払った。

「場所を空けるんだ、自然人に場所を! 人類の解放者に場所を! ジュネーヴ市民に場所を!」

「ありがとう」ルソーは感謝を口にした。

「事故に遭われたのですか?」

「わたしではなく、この子なのです」

「ああ、あなたもですか。私と同じく、人類のために行動してらっしゃるのですね」

 ルソーは思いがけない上首尾に感動して、ほとんど聞き取れない言葉を呟くことしか出来なかった。

 フィリップは憧れの哲学者を目の当たりにして、離れたまま呆然としていた。

 ルソーは人の手を借りて、気絶したままのジルベールをテーブルの上に降ろした。

 この時になってルソーは外科医を観察した。ジルベールと同じくらいの年齢だが、その顔には若さと呼べるようなところはなかった。黄ばんだ顔には老人のように皺が寄り、たるんだ瞼が蛇のような目を覆い、口は癲癇の発作を起こしたように引きつっている。

 袖を肘までまくり、腕を血に染めて、ばらばらの身体に取り囲まれた姿は、痛ましい聖職に勤しんでいる医師というよりは、仕事に励んでいる死刑執行人のようだった。

 ルソーの名を聞いた途端、それまでの粗暴さが嘘のようになくなっていた。ジルベールの袖をまくり、腕を紐で縛り、静脈に傷をつけた。

 初めこそちょろちょろと流れていたが、すぐに若く澄んだ血が惜しむことなくほとばしり始めた。

「これで助かります。だがしっかりとした手当てが必要だ。胸を押しつぶされている」

「あなたにはお礼をしなくては。それに敬服いたしました。貧しい人たちのためにほかの人たちを排除したことにではなく、貧しい人たちに救いの手を差し伸べたことにですが。人類は皆兄弟なのですから」

「貴族や金持ちもですか?」外科医はたるんだ瞼の下から鋭い目つきを飛ばした。

「貴族も金持ちも、苦しんでいる時は一緒です」ルソーが答えた。

「私はヌーシャテル(Neuchâtel)から近いボードリー(Baudry)の生まれです。あなたと同じスイス人ですから、少なからず民主主義者のつもりです」

「同国人でしたか! スイス人ですか。よければお名前を聞かせてもらえませんか?」

「まだ無名の人間に過ぎません。いつかはあなたのように人類の幸福に人生を捧げられたらと思っていますが、今は勉強中の身です。ジャン=ポール・マラーと言います」

「ありがとう、マラーさん。ですが権利について人々を啓蒙しながら、復讐に駆り立ててはいけません。一度復讐してしまえば、あなた自身が復讐に怯えることになるでしょうから」

 マラーはぞっとするような笑みを見せた。

「生きてその日を迎えられたら、その日をこの目で見ることが出来たなら……」

 ルソーはこの言葉に含まれた響きを感じ、遠い雷鳴にぎょっとした旅人のようにぎょっとして、ジルベールの腕をつかんで立ち去ろうとした。

「誰か二人、ルソー氏を手伝って差し上げなさい」と外科医が言った。

「俺たちに任せとけ!」幾つもの声が答えた。

 ルソーはその中から二人選ばざるを得ず、逞しい使い走りにジルベールを抱えてもらった。

 立ち去り際に、フィリップのそばを通りかかった。

「これをどうぞ。もうわたしには角灯は必要ありませんから」

「ありがとうございます」

 フィリップは角灯を受け取り、ルソーがプラトリエール街の方へ戻ってゆくのを見届けると、再びアンドレの捜索に戻った。

「可哀相に!」ルソーは振り返って、人込みの中に紛れるフィリップを見ていた。

 墓場にこだまする外科医の叫び声を聞きながら、ルソーはぶるぶると震えて歩き続けた。

「一般人だ! 一般人だけだ! 貴族や金持ちなどくたばってしまえ!」

『ジョゼフ・バルサモ』第67章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十七章 花火

 アンドレと兄がベンチに腰かけるとすぐに、最初の花火が雲間を蛇行し、群衆から大きな歓声があがり、その後は誰の目も広場の中央に注がれていた。

 最初の花火はルッジェーリの評判に恥じない素晴らしいものだった。神殿の飾りが次第に灯り、やがて火のファサードが姿を見せた。拍手が鳴り渡った。拍手はやがて熱狂的な喝采に変わった。イルカの口と大河の水瓶から炎が吹き出し、色鮮やかな炎の滝となって交わったのだ。

 アンドレは無類の絶景に心を奪われ、炎の宮殿の前で歓喜している七十万の魂の一つとなって、感動を隠そうともしなかった。

 そのすぐ側で、子供を掲げている荷担ぎの大きな肩に隠れて、ジルベールがいた。アンドレを見つめているのはそれがアンドレだからであり、花火を見つめているのはアンドレが花火を見つめていたからだ。

 ジルベールが見ていたのはアンドレの横顔だ。花火が次々と美しい容顔かんばせを照らすのを見て、ジルベールは打ち震えていた。歓声すべてがこの目の先にある素晴らしい存在に、崇拝している至高の女性に向けられたものだと感じていた。

 アンドレはパリも人込みも華やかな祭りも見たことがなかった。心を取り囲む新鮮な出来事の数々に、目が眩むのを感じていた。

 突然、鮮やかな光がはじけ、川に向かって斜めに飛んで行った。音を立てて爆発したその色とりどりの火にアンドレは見とれていた。

「見て、フィリップ、綺麗ね!」

「まずいな!」フィリップはそれには答えず、不安げな声を洩らした。「あの花火はおかしな方向に飛んでいる。道を逸れて、放物線を描かずに、水平に飛んでいるじゃないか」

 群衆のざわめきを感じて不安を口にした直後だった。大花火と予備の花火を置いてある稜堡から、炎の渦がほとばしった。雷鳴を束にしたような爆音が、あらゆる感覚を侵して広場に轟き渡り、間近にいた見物人たちは、散弾でも含まれているような炎に不意に顔を炙られて逃げ出した。

「あらもう終わり、早すぎるわ!」

「違う、トリの大花火じゃない。事故があったんだ。今は静かだが、じきに大波のように騒ぎ出すぞ。行こう、アンドレ。馬車に戻るんだ」

「まだ見ていても構わないでしょう? こんなに綺麗なのに!」

「駄目だ、早く来い。まずいことになる。逸れた花火が稜堡に燃え移ったんだ。あっちはもう大変なことになっている。声が聞こえるだろう? あれは歓声なんかじゃなく、悲鳴だ。急いで馬車に……お願いです、どいて下さい!」

 フィリップはアンドレの腰に手を回し、馬車の方に引っ張って行った。騒ぎを聞いた父親も、はっきりしたことはわからないなりに異変を確信し、不安を感じて馬車から顔を出し、子供らの姿を捜した。

 時既に遅く、フィリップの懸念は実現していた。一万五千の花火を組み合わせた大花火が破裂し、四方八方に飛び散り、闘牛場の牛を挑発しようとして放たれる火矢のように見物人を追いかけている。

 驚き、怯えた見物人たちが、何も考えずに逃げ出した。十万人が後戻りしたために後ろが詰まり、その波がさらに後ろに押し寄せる。花火櫓に火がつき、泣き叫ぶ子供たちを母親が咳き込みながら抱え上げた。警邏隊はあちこち殴りつけ、暴力を用いて人々を黙らせ秩序を回復しようとしていた。様々な要因が重なって、フィリップの言っていた大波が竜巻のように広場の片隅に襲いかかった。フィリップは馬車に戻ることも出来ずに、為すすべもなく波に攫われた。一人一人の力が恐怖と苦痛によって何十倍にも膨れ上がり、一つの大きな力となって何百倍にもなって筆舌に尽くしがたい大波となっていた。

 フィリップがアンドレを引きずっていた時、ジルベールも同じ波に巻き込まれていた。だが二十パッススほど進んだところで、ラ・マドレーヌ街を左に曲がって逃げる集団に引き込まれて、大声で喚きながらアンドレから離されて行った。

 アンドレはフィリップの腕にしがみつき、昂奮した二頭の馬に牽かれた馬車を避けようとする群衆に取り囲まれていた。威嚇するような猛スピードで馬車が近づいて来る。馬の目から炎が出て、鼻から泡を吹いているように見えた。フィリップは超人的な力を振り絞って身動きを取ろうとした。どうすることも出来ないまま、後ろの人垣が割れ、猛り狂った二頭の馬の顔が見えた。チュイルリーの入口を守る騎馬像のように、馬が前脚を掲げた。フィリップはアンドレの腕を放して道から押しやり、馬を馴らす奴隷のように手前側の轡に飛びついた。馬が棒立ちになった。フィリップが倒れて見えなくなるのを見たアンドレが、悲鳴をあげて腕を伸ばしたが、周りに押しやられ、こづき回され、風に吹かれた羽根のようにふらふらと流された挙げ句に、自分よりも強い抵抗の力にはどうすることも出来なかった。

 鬨の声や馬のいななきよりも凄まじい耳を聾するような悲鳴、舗道や死体を踏み砕く車輪の音、燃え上がる櫓の鉛色の火、かっとなった兵士が抜いたサーベルの不吉な輝き、血塗れの混乱を見渡して橙色の光に照らされながら虐殺を指揮する銅像、それはアンドレの理性を奪い、あらゆる力を消し去るには充分すぎるほど充分すぎた。もっとも、巨人ティターンの怪力をもってしても、このような戦いの前では無力であっただろう。あらゆるものに対してたった一人で、ましてや死に挑むのであっては。

 アンドレは引き裂くような悲鳴をあげた。兵士が群衆を剣で殴って道を開けた。

 剣がアンドレの頭上できらめく。

 波をかぶっていよいよ末期を迎えた遭難者のように、「神様!」と叫んでばったりと倒れた。

 倒れた時には意識がなかった。

 だが直前の叫びを聞いていた人物が、それに気づいて声を拾った。アンドレから離されていたジルベールが、人込みを懸命に掻き分けて近づいて来た。アンドレを飲み込んだ波に飛び込むと、再び浮かび上がって、図らずもアンドレを怖がらせた剣に飛びつき、群衆を殴っていた兵士の喉を締めつけて押し倒した。兵士の側に、白い服を着た女性が横たわっていた。ジルベールはそれを巨人のように抱え上げた。

 その形、その魅力、恐らくはその死体を胸に感じながら、ジルベールの顔が誇りに染まった。崇高な場面、気高い力と勇気! アンドレを背負ったまま人の流れに飛び込んだ。逃げる途中で壁までも突き破りかねない奔流であった。奔流はジルベールとアンドレを支えながら運んで行った。数分の間、ジルベールは歩いた、というよりこうして流された。不意に、障害物で遮られたように奔流が止まった。ジルベールの足が地面に届いた。そこでようやくアンドレの重さを実感し、障害物を確かめようと頭を上げると、すぐ側に家具倉庫があった。この石の塊が肉の塊をばらばらにしたのだ。

 一時的に足止めをくらっている間、ジルベールはアンドレに見とれていた。死者のように深い眠りに就いていた。心臓はもはや脈打たず、目は閉じられ、顔は萎れた薔薇のように紫がかっている。

 きっと死んでいるんだ。今度はジルベールが叫びをあげる番だった。まずは衣装に、それから手に口づけをした。やがて何の反応もないことにつられて、冷たい顔や動かない瞼の下の両目のふくらみに口唇を押しつけた。真っ赤になって泣きじゃくり、咆吼して、アンドレの胸に魂を送り込もうとした。口づけで大理石も温められるだろうに、死体には何の効果もないのは何故なのだろう。

 その瞬間ジルベールは、手の下で心臓が脈打っているのに気づいた。

「助かったんだ!」ジルベールは真っ黒で血塗れの群衆が逃げるのを見ていた。罵り、叫び、溜息、末期の言葉が聞こえた。「生きている! ぼくが助けたんだ!」

 生憎なことに、壁にもたれて橋の方を見ていたために、右方がおろそかになっていた。長いこと群衆に阻まれていた馬車の数々が、ようやく足止めを解かれ、動き出していた。御者と馬が大きな眩暈に囚われたように足を早めたために、馬車の前では二万人もの人々が逃げまどい、手足を失い、怪我をして、折り重なっていた。

 近くの壁で押しつぶされた犠牲者を見て、人々は本能的に壁に沿って逃げ出した。

 家具倉庫の近くで遭難から救われたと信じていた人々を、この群衆が襲った。何度となく押し寄せる新しい波と死体に溺れながら、ジルベールは柵で出来た空間を見つけてそこに身体を押し当てた。

 逃げる人々の重みが壁を軋ませた。

 ジルベールは苦しくなって場所を明け渡しそうになった。だが渾身の力を振り絞ってアンドレの身体を抱え、胸に頭を押しつけた。その姿はまるで抱きかかえた少女を窒息させようとしているようにも見えた。

「さようなら!」口づけというよりむしろ服を咬むようにして、ジルベールは囁いた。「さようなら!」

 それから目を上げ、最後にもう一度祈りを捧げようとした。

 不思議な光景が目に飛び込んで来た。

 それは里程標の上に立ち、壁に固定された鉄輪を右手でつかみながら、逃げまどう人々を左手でまとめようとしているように見えた。それは足許を荒海が通り過ぎるのを見下ろしながら、ある時は言葉を放ち、ある時は腕を動かしている一人の男だった。その言葉を耳にし、その動きを目にして、人込みの中ではぐれた人々が足を止め、懸命にもがき、男のところに行こうと躍起になっていた。一方、とうにたどり着いていた者たちは、新たにやって来た人々の中に知り合いを認め、人込みから抜け出すのを手助けして、持ち上げたり支えたり引っ張ったりしていた。こうして身を尽くしている人々の中心にいる人物は、水を分ける橋脚のように先ほどから何とか人波を分け、逃げまどう人々を牽制していた。

 地下から湧いて出たように、奇妙な言葉を囀り、おかしな動きを繰り返してもがいていた者たちが、一人また一人と男の許に馳せ参じている。

 ジルベールは最後の力を振り絞った。あれが救済なのだ。平和と権力なのだ。花火が消える前の最後の輝きを見せ、男の顔を照らした。ジルベールは驚きの声をあげた。

「ぼくは死んでもいい。でもアンドレだけは! この人なら助けられる」

 自らのことなどいとわず、アンドレを両手で抱え上げた。

「ド・バルサモ男爵! アンドレ・ド・タヴェルネを救って下さい!」

 その声がバルサモに届いた。聖書の声のように群衆の奥深くから聞こえていた。荒々しい波の上に白い物体が掲げられた。取り巻きの者たちが邪魔するものを薙ぎ払った。ジルベールの細腕に支えられていたアンドレを抱え上げ、牽制を解かれた群衆に押されながら、振り返りもせずに運び去った。

 ジルベールは最後に一言伝えようとした。アンドレの代わりに助けを請うた後で、自分のことも頼みたかったのだろうが、アンドレの垂れ下がった腕に口唇を押しつけ、地獄から奪い返したエウリュディケの服を一切れ、力を込めて引きちぎるのが精一杯だった。

 この世のものとも思われぬ口づけと最後の別れを済ませてしまうと、もはや死んでもいいような気持だった。それ以上は抗おうともせずに目を閉じて、死んだようになって死者の山の上に倒れ込んだ。

「忘れ薬」キャサリン・ウェルズ

「忘れ薬」キャサリン・ウェルズ

 薬剤師は店のカウンターの後ろに立ち、陶器の壜のなかで泡立っている濃紺の液体を見つめていた。革の取っ手に縛りつけた火ばさみでその壜を挟み、火鉢に当てている。長い白髪の髭は黒天鵞絨の長衣ガウンに落ちかかり、その毛皮つきの長衣は仕事中の事故でぼろぼろに傷んでいた。この小さな部屋には火鉢のほかに光るものといえば今でもローマで売られている型の銅ランプの明かりだけで、カウンターの後ろに並ぶ棚に詰まった瀬戸物の蓋が薄闇のなかでちろちろと照り返していた。紋章の図案とゴシック文字で青く彩られた瀬戸物には、表向きの商売道具が入れられていた。両隅には扉つきの戸棚があり、それがその場所にある木製品のすべてだった。風変わりな彫刻の施された扉は不気味に黒ずんでいた。戸棚の一つは大きく口を開けて鍵穴から鍵束をぶら下げたままで、乱雑な棚に詰め込まれた秘密の一端を覗かせていた。エジプトの古墳から盗んできた緑がかったガラスの薬壜、ギリシアの陶器の壺、赤みがかった何かの入ったガラス壜、三つの髑髏とどこかの骨、鮫の皮、乾燥させた薬草の束、古い革装の本が数冊。薬剤師の傍らのカウンターには、ずっしりとした真鍮の留め金と角金で装幀された大きな二折本フォリオが開いてある。それはひどく黒くて難解な文字の記された写本であった。その横には天秤と錘、すりこぎとすり鉢、インク入れと羽根ペンがある。頭上には剥製の鰐がぶら下がっており、薬剤師がうつむいた頭をあちこち動かすたびに、剥き出しになった長い牙が輝いたり隠れたりした。

 暗くなってから一時間経ち、夜のあいだは邪魔も入らずに安心して作業ができる。そうでなければ複雑で難しい毒薬の調合を始めてはいなかっただろう。閣下に贈呈する指輪用に依頼されていたのだ。だから舗道を歩く足音が、柵を閉じシャッターを閉めたドアの前で止まったときには、驚きもしたし戸惑った。そのうえ控えめではあったがしつこく入店を求める声が聞こえてきた。

 薬剤師は慌ててカウンターの下に坩堝を放り込み、戸棚を閉め、小物入れに鍵束を不器用に突っ込むと、口のなかでぶつぶつ言いながら表通りの戸口に向かい、覗き穴の木蓋を開けた。

 頭巾をかぶった背の高い女性の頭が格子にかぶさるようにして、「入れてくださらない、メッセール・アーニョロ」とささやいた。ささやきからも尊大な響きは抜けきっていない。

 薬剤師は閂をはずしながらもまだぶつぶつ言っていたが、訪問者が誰だかわかって気持は高ぶっていた。それはレディ・エミリアだった。若く美しく高貴で情熱的なうえに、人も羨む宝物を手にしていたのだ。薬剤師はこれまでそれを目にしようとあらゆる手段や説得を試みたが果たせなかった。何ものにも増して喉から手が出るほど欲しかった。それは優れた処方箋を書き留めた祖母の覚え書きであった。レディ・エミリアの祖母は激しい気性に莫大な知識を兼ね備えており(当時の貴婦人としても驚くほど毒薬に関する知識があった)ため、チョコレート・パーティに招かれた知己たちは戦々兢々としたものだった。だから孫娘が恐れられるのも約束されたことだった。親はなく財産はあったが、それでも結婚しようとする向こう見ずな男は一人もいなかった。

 開いたドアを若々しくまたぐと、ずんぐりした婆や一人と頑強な従者二人もあとに続いた。レディ・エミリアに仕えるには頑強であるに越したことはない。小さな薬屋が立て込んだが、レディ・エミリアは老婦人を戸口のスツールに座らせ、薬剤師とスペイン語で話すことでプライバシーを手に入れた。

 どうやらただ噂話をしに来たようにしか思えないが、風変わりな依頼を切り出しかねている顧客の振る舞いには慣れていたので、薬剤師は辛抱強く待ち続けた。ようやく青磁の壺の中身に話題が変わると、魔術や媚薬の話が始まった。興奮で頬を染めた黒髪の訪問者がいったい何を考えているのかといぶかりながら、薬剤師は受け答えをしていた。

「うちの馬鹿なメイドがね、カーニヴァル・ウィークに媚薬を買ったけど、ちっとも効きやしなかったの。町でごみをつかまされたのね」

「思い人はお腹を壊したことでしょうな」薬剤師はくすくすと声を立てた。

「そんなものありますの?」さりげなさを装ってはいたが、声には鋭さがにじみ出ていた。

 老薬剤師は肩をすくめた。「そうですな」答えは素っ気なかったが、目はレディ・エミリアから離れなかった。「そんな伝説やお伽噺ならありましょうが」

 レディ・エミリアはうるさそうに手を振った。「あるのがわかっているのなら、ごまかすのはおやめになって。あなたは博識な方ですもの、秘薬をお持ちでしょう。あれは?」

「あれとは?」

「ああいった――ああいった惚れ薬は?」

 老人はうやうやしく頭を下げた。「そんなものがあるのなら、あなたに売ったりはいたしません。醜いお客様に使うために取っておきますよ」

 レディ・エミリアはうるさそうに首を振った。「お世辞は間に合ってるわ、メッセール・アーニョロ。ただの――好奇心よ。変わったものに惹かれるの。もしそんなものがあるのなら……払いははずみましょう」

 薬剤師はひそかに喜んだ。明らかにこれを欲しがっているし、同じように何かを欲しがっている。「それが奥さま」ため息をついて頭を振ると、大きな眼鏡の角縁越しにレディ・エミリアを見つめた。「秘薬と引き替えにたっぷりお支払いくださる方ならたくさんいらっしゃるでしょうな。一介の薬剤師も裕福に……」

 レディ・エミリアがカウンターに拳を叩きつけた。ビーカーががちゃがちゃと音を立て、真鍮の錘が天秤の上でがたがたと鳴った。「メッセール・アーニョロ」細く黒い眉を寄せてずばりと切り出した。「見かけより賢い方なのはわかっています。秘薬をお持ちだと聞きました。好奇心を満足させてくれれば、たっぷりお支払いする用意はできています。あなたには包み隠さず正直になりますから、あたたもわたしには礼を尽くしてください」

 薬剤師の目が光った。「たっぷり払ってくださるのでしょうか?」

「糸目はつけません」

「それで、どなたに飲ませるおつもりでしょうか?」

 レディ・エミリアは口元を強張らせた。「いやよ! 教える気はありません」

 薬剤師は諦めたように首を振った。「たいへん残念ですが――」

 レディ・エミリアが声を荒げた。

 薬剤師は肩をすくめた。「わたしはしがない老人にすぎません。秘伝など知るよしもない。どうやって秘伝を学ぶというのです? 奥さまにあられましては、お婆さまの手で著された秘伝をお持ちのはずです。わたしから秘伝を手に入れるまでもないでしょう」

 奥さまは口唇を噛み、無表情な戸棚の正面をにらみつけていた。しばらく考え込んでから、苦々しげに口を開いた。「取引しましょう。半年間、本を貸して差し上げるから、差し当たってわたしの欲しいものをくださらない?」

 薬剤師は相手が折れたことに驚愕して、むしろ戸惑ってしまった。「惚れ薬はありません」おずおずと口に出した。

「嘘だと言って」声には苦悩がにじんでいた。

「嘘ではございません」目の先にぶら下がっている貴重な本を前に、悔しさをにじませた。「以前は持っておりましたし、ほかにも珍しいものがいくつかございました。ですが今はもうどれもなくなってしまいました」

「なくなった?」

「最後に残ったわずかな量を、シニョール・マッテオにお売りいたしました。それはおきれいなドイツ人のご新婦のためにお求めになりましたが、本当にわずかしかございませんでしたので、冷淡でつれない奥さまになられたそうでございます」

 レディ・エミリアは目に見えてがっかりしていた。「もうないとはどういうこと? もう作れませんの?」

 薬剤師は首を振った。「二十年以上も前のことです。ある晩、そこの戸口に男が座り込んでいるのを見つけました。髭を生やし腰は曲がり色は浅黒く、東洋人のような奇妙な衣服を着ていました。どうやらかなり衰弱していましたので、わたしは水を与えて介抱してやりました。今も昔も変わったものには興味を覚える質でしたので、一晩宿を貸してやることにしましたが、男が話している言葉はわたしにはまったくわかりませんでした。今になってみれば、あれはアラビア語だったのではないかと思います。翌日になると男は熱を出して、ここで息を引き取りました。ですが息を引き取る前に、荷物をもらってくれと訴えているのはどうにか理解できました。荷物のなかにはかなり古そうに見える小壜がいくつか入っており、壜にはアラビア語の書かれた紙片が結びつけられていました。わたしはアラビア語を学び、書かれてあることを読みました」

 薬剤師は言葉を切った。レディ・エミリアが身を乗り出してきた。「教えて」かき口説くような口調だった。

「惚れ薬、と――」

「信じられるものですか!」その激しい叫び声に、隅に腰かけていた婆やがびくりとし、若く頑強な従者が不安そうにおののいた。「あなたのことは馬鹿ではないと思っているの、メッセール・アーニョロ。きっと製法の秘密を見つけ出したに違いないわ」

 薬剤師は眼鏡をいじくり、ゆっくりと首を振った。「ずいぶんと努力いたしました」申し訳なさそうに言って本を見つめた。これでもうこの貴重な本は手から擦り抜けてしまうだろう。

 レディ・エミリアは腰を下ろし薬剤師を見つめ、悔しそうに拳を噛んだ。「いいわ」ついにそう言うと、「あなたの助けはもう結構。ほかを当たります」とつぶやいて、背中に垂れていた頭巾を黒髪と金襴のコワフの上に引き上げた。

「ちょっ、ちょっ、ちょっ!」薬剤師が舌を鳴らした。「メッセール・メッサジェリオのところには惚れ薬はありませんぞ。たいそうな名前のついた丸薬を売ってもらえましょうが、それを飲んだ殿方はずきんとした痛みを感じるはずです。ただしハートに、ではありません――断じて違います。ですがわたしは――」とほのめかすようにして、「わたしは正直な年寄りでございます」

「どうやら正直すぎるようね」素っ気なく答えて椅子から立ち上がった。「結局、あなたでは役に立つことはできません」

 振り返ったレディ・エミリアの目に、悔やし涙が光っているのが見えた。それを見て薬剤師の心が動いた。「ほかにも薬はございまして」薬剤師の声は自信なげだった。「それはまだ持っております」

 レディ・エミリアが薬剤師を見つめた。「薬って?」

「忘れ薬です」薬剤師はひどく穏やかな声を出した。

 涙がまぶたからあふれ、銀錦のドレスに流れ落ちた。腹立ちまぎれにそれをぬぐった。「そうする前にまだやってみたいことがあるの」

 薬剤師はうやうやしく見つめ返した。「ではいよいよのときはお待ちしております。不幸なご婦人方に三度お売りしたことがございました。三人ともすっかり忘れてしまい、二度と思い出すことはなく、わたしのことすら忘れてしまいました」

「どんなふうに――忘れるの?」

「とある薬草の葉に相手の方の名前を記し、その葉を薬に浸しておくと、やがて溶けてしまいます。それをお飲みになれば、その殿方なりご婦人なりはあなたにとって初めから存在しなかったも同然になりましょう」

 力なく聞いていたレディ・エミリアだったが、不意に火にくべられた枯葉のように身も心も燃え上がらせた。「それをいただくわ!」興奮に駆られて老人の肩をわしづかみにした。「最善とは言えないけれど、次善には違いないもの! 急いで! 本はあなたのものよ! いくらでも貸して差し上げます」若さに任せて戸棚に向かって急き立てたので、老人の頭がドアにぶつかりそうになった。

「奥さま!」羽目板に縫い留められた薬剤師がぜいぜいと喘ぎ、その場で死んでしまうのではないかと思うような咳の発作を起こした。

「天よどうかお願いです!」レディ・エミリアは息を呑んで後ずさり、薬剤師を見つめた。「この人が死んでしまったら……!」

 だが薬剤師は死んではいなかった。薬剤師が息を詰まらせ、咳き込み、唾を飛ばし、喘ぎ、息をつき、涙をぬぐって呼吸を整えたころには、レディ・エミリアも落ち着きを取り戻していた。それでもなお目はぎらぎらと輝き、胸は大きく波打っていた。

「それではご用意いたしましょう、奥さま」薬剤師はかすれ声でそう言って、最後に涙を一拭きした。毅然として椅子に着くと、おまけの咳を一つしてから鵞ペンを取り出した。「お書きする殿方のお名前をお聞かせ願えますか?」

「殿方じゃないわ、馬鹿ね」レディ・エミリアは吐き捨てると、他人に聞かれることを恐れて身体を寄せてささやいた。「書いてほしい名前は、テレサ・ザ・ゴールデン」

 薬剤師は顔を上げて眉を寄せた。「ご婦人の名前ですか?」腑に落ちない。

 レディ・エミリアが得意げにうなずいた。「あの人に飲ませれば、相手の女を忘れてしまうでしょう?」

「仰る通りです」薬剤師はうなずき、好奇心を抑えきれずにまじまじと見つめてしまった。

 レディ・エミリアは拳を作って嬉しそうに微笑んだ。「じゃああとはこっちの魔術を使うだけ」

 薬剤師はその暗く輝く美しさを目にして、年老いた心をかすかに震わせた。

「明日の朝にはご用意できます」

「本と交換よ」にっこりと微笑んで請け合い、マントをまとった。

 薬剤師は深々と腰を屈めた。「いつでもご用を承らせていただきます。かぐわしい香りの新しい香水に、口唇に塗る蜂蜜の滴もございます。もしご用命がありましたら……」

 麻色の髪をした若い方の小姓が、明かりをつけた。

「この子に黒い髪染めをもらえないかしら」驚いている小姓にうるさそうに合図して、イタリア語で手短に申しつけた。

「黄色い髪は好きになれなくて」つぶやくように言うと、マントを羽織ってドアから出ていった。
 

 二か月後、薬剤師は涼を求めて店内の日陰に腰を下ろし、レディ・エミリアの祖母のものだった本を膝に乗せていた。暑い午後の日差しが開いたドアの敷居に降り注ぎ、敷石の上に黄金色の日だまりをたたえている。青や緑に輝く蜥蜴が敷石のあいだから時折り現れては、日向に這いつくばり、息をするたびに小さな脇腹を震わせていたが、通行人が影を落とすたびにたちまち色鮮やかな線となって、もといた穴に舞い戻っていた。

 薬剤師は日陰に座っていたが、暑く重たい夏の空気のせいもあり、だんだんと眠気が襲ってきた。本の中身は当てはずれだった。花の香りの抽出法、洗顔法、軟膏に練り薬、ミルク酒に強壮剤、こうしたことがすべてきっちりとした筆跡で書かれていたが、いずれ受け継がれることになる一族の女性向けの品目ばかりであって、薬剤師の興味を惹くようなものはほとんどなかった。ほかの部分は判読しがたい筆跡や暗号で書かれており、散々骨を折ってみたものの、薬剤師には何の手がかりも見つけることはできなかった。

 影が戸口に落ち、止まった。薬剤師が顔を上げると、レディ・エミリアが一人きりでドアから入って来た。

 薬剤師はレディ・エミリアと目を合わせた。顔が青白くやつれ、目を赤くして翳りを宿しているのに気づいた。薬剤師の知っているレディ・エミリアはいつも自信に満ちて胸を張っていたものだが、今は見たこともない様子でドアにもたれかかっている。

「メッセール・アーニョロ」口にした声はかすれていた。

 薬剤師は立ち上がって日陰に座らせた。

 レディ・エミリアはしばらく無言で座っていたが、やがて口を開いた。「何も聞いてないの?」

 薬剤師は真剣な顔で見つめ、「いいえ、王女様」と答えた。「殿下の結婚式がどれだけ素晴らしかったか、奥さまがどれだけ華やかだったか、王子殿下がどれだけ気高く立派だったか、話ではうかがっております」

 レディ・エミリアは腰を下ろしたまま、ぼんやりと壁を見つめ、膝の上で指をもてあそんでいた。

「王女殿下の結婚式がことのほか素晴らしかったという噂でもちきりでございましたので」と、薬剤師は慎重に話を続けた。「世間ではテレサ・ザ・ゴールデンの痛ましい急死に驚く暇もございませんでした」

 レディ・エミリアは薬剤師から逃げるようにして震えた。口唇から小さな呻きが洩れた。

 その惨めにやつれた顔を見て、以前には気づかなかった事実を悟り始めた。

「殿下はわたしの薬を信用なさらなかったのですね?」

 レディ・エミリアの顔が震えた。「二重に保険を掛けたかっただけなの」声には以前のような激しさがにじんでいた。

 薬剤師はゆっくりとうなずいた。「殿下はふたたびここにはいらっしゃいませんでした。メッセール・メッサジェリオの毒薬は洗練されているとは言い難い……あの方は長いこと苦しんで亡くなったのでしょう?」

 王女の顔が苦痛に震えた。「ひどかったわ」

 老いた薬剤師はため息をついた。

 王女は力なくうなだれて座っていた。あまりに静かなので、蜥蜴がふたたび日の当たっている石畳に這い出してきた。やがて王女は自責の念を振り払うかのように、背筋を伸ばした。

「メッセール・アーニョロ。もう少しだけあなたのお薬をくださらない」

「わかりました。同じお名前を浸しております……今度はあなたのために」

「今度もあの人に飲ませるの」

「ですが王女様!」薬剤師はプライドを傷つけられ、反論した。「容量は適切でした。間違うはずがございません」

 王女はうなだれた顔を両手で覆った。

「容量は適切でした」薬剤師は繰り返した。

 王女が顔を上げて、静かに告げた。「あの人はすべて飲んだわけじゃないの」

 薬剤師は続きを待った。

「あの人は忘れ薬を」ひどく乾いた声だった。「冗談めかして笑いながら取り上げて、飲もうとしたの。あの人が飲んでいるのを見て、わたしは念のため確かめた――あの女の顔を――あの歪んだ顔を……ああ神さま! あの顔を忘れることはできるのでしょうか?」

 薬剤師はしばらくそれを見つめていたが、やがて口を開いた。「それからどうしました?」

「わたしも忘れなくてはならなかった。あの人の手から飲み残しのカップをもぎ取って、残りを飲み干しました」

「おお! そうなさったのですか?」

 王女は拳を握り締めたまま無言で座っている。

「殿下は幸せに貪欲すぎでございます」

「もう一度あの人に飲ませなくては」王女の口から乾いた声が振り絞られた。

 薬剤師は考え込んだ。「それでは、あの方は完全には忘れていらっしゃらないのですね?」

 王女は苦しげに目を閉じ、かぶりを振った。

「また少し分けていただかなくては」と繰り返した。

 薬剤師は申し訳なさそうな顔をして、決定的な言葉を先延ばしにしていたが、「あの薬を二度飲むことはできません、殿下」とようやく口を開いた。

「何の冗談?」

 薬剤師は首を振った。「二度飲んだ人間は」と恐る恐る口にした。「白痴になって何もかも忘れてしまうのです」

 王女は恐怖に目を見開いた。その瞳は虚ろで、目の前の薬剤師すら映ってはいないようだった。それはまるで、その顔に運命を見ているような……

 やがて重荷でも背負っているように苦労して、開いているドアに向かった。

 薬剤師はあとを追った。

「お幸せでございましょうね、王女様?」

 王女は力なくスカーフを肩にかけた。

「あの人はいつでも何かを探しているような顔をしているの」と言って、立ちつくした。それから力を振り絞り、立ち去った。


 

 ※夏のあいだに怪奇幻想ものを一篇訳すつもりが、九月になってしまいました。。。キャサリン・ウェルズ「忘れ薬」をお届けいたします。

『ジョゼフ・バルサモ』第66章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第六十六章 アンドレ・ド・タヴェルネ

 続く五月三十日、即ちあの恐ろしい夜の翌々日、マリ=アントワネットによって予言と警告が伝えられたあの夜の翌々日、その日のパリでは将来の国王の結婚式典が祝われていた。そこで住人たちは花火が打ち上げられる予定のルイ十五世広場に向かった。パリジャンはこの物々しい儀式のおまけを馬鹿にしながらも、見過ごしにも出来ないのだ。

 適切な場所が選ばれていた。六十万人の見物人がゆったりと回覧することが出来る。ルイ十五世の騎馬像の周りを囲むようにして、広場に来た観客全員が花火を見られるように、地面から十ピエほどの高さに土台を組んである。

 いつもの如く仲間ごとに連れ立ってやって来たパリジャンたちは、花火を真っ先に見るのに好都合な場所を取ろうと、たっぷり時間をかけて吟味していた。

 子供たちは樹上に、真面目ぶった男たちは里程標に、女たちは手すりや堀や、流しの投機家たちが間に合わせに設えた演台に上っていた。祭りの日にはその上で、思いの向くまま日の向くままに山を張っているのを見ることが出来る。

 午後七時頃、一番乗りの見物人たちに加えて、警邏隊が到着した。

 治安の任に当たっているのはフランス近衛聯隊ではなかった。聯隊長ド・ビロン公元帥から申請のあった一千エキュの特別手当を市当局が受理しようとはしなかったのだ。

 この聯隊は人々から恐れられてもいたし愛されてもいた。この部隊の一人一人がカエサルや義賊マンドラン扱いされていた。フランス近衛聯隊は、戦場では恐ろしく、任務の遂行に当たっては冷酷に、平時や任務外には盗賊の悪評を着せられていた。勤務中における恐れも疲れも知らぬ見事な行動力には、ご婦人連が顔を輝かせ夫君が嫌な顔をした。だが禁足を解かれて町に混じった時には、前日には慕われていた人々から恐れられ、翌日には守るはずの人々を苦しめていた。

 こうしたごろつきや博徒に対する積年の恨みを口実に、フランス近衛聯隊に一千エキュを与えぬことを決めた市としては、同類の集まりの対策には同類で充分だというもっともらしい理屈の許に、ブルジョワ警備隊だけを送り込んだ。

 非番のフランス近衛兵が先ほどお伝えした集団に混じり、任務中は厳格だったように今は猥雑に、番小屋の市民として騒ぎを引き起こしていた。銃床や足や肘で押さえ込んだり、或いは聯隊長であるカエサル・ビロンがその夜の兵士に聯隊を召集する権利を持っていたなら、あまつさえ逮捕していたに違いない。

 ただで菓子や菓子パンパン・デピスを食べる婦人やブルジョワや商人たちが喚いたり呻いたりして、騒ぎ出していた。六十万人の野次馬がこの場所に集まって来れば、騒ぎはもちろんもっと本格的なものになるだろう。夜八時頃にはルイ十五世広場の上にテニールスの複製画のような場面が、ただしフランス人らしく気取った顔をして賑わっていた。

 小僧どもの後から、せっかちな人間や浮浪者たちが場所を取ったりよじ登ったりした。ブルジョワや庶民の後から、貴族や財産家の馬車が到着した。

 道順など一切なかった。馬車は思い思いにラ・マドレーヌ街やサン=トノレ街に入り込み、新しい建物にたどり着いた。公邸の窓や露台からは花火がよく見えるので、そこに招待されていたのだ。

 招待されていない人々は広場の角で馬車を捨て、歩いて従僕について行き、群衆の中に潜り込んだ。既に人はみっちり集まっていたが、見つける術を心得ている者にとっては隙間とはいつでも空いているものなのだ。

 どういう感覚を持っているのか、野次馬たちがでこぼこな地面を夜中にすたすたと歩く術を心得ているのには舌を巻く。ロワイヤル街と名づけられるはずだった道は、幅こそ広いもののまだ未完成で、深い溝があちこち掘られ、その脇には残骸や掘った土の山が出来ていた。この小さな築山の一つ一つに人が群がり、人の波間に聳える高波のようになっていた。

 時折、この波に別の波が押し寄せて笑いさざめく人込みの中に倒れ込んだ。まだそこまで混んではいなかったので、倒れても危険がなかったし、倒れてもまた起き上がることが出来た。

 八時半頃、それまでは思い思いの方向に向けられていた眼差しが、同じ方向に向けられ、花火の土台に注がれ始めた。それに伴い、休みなく動いていた肘も、現れてはまた現れる侵入者から場所を守ろうとして、本腰を入れて動き始めた。

 ルッジェーリが設計した花火は、花火師トールがヴェルサイユで打ち上げた花火と比較される定めにあった。前々夜の嵐のおかげで競争が容易になってはいたが。ヴェルサイユでは王家の恩恵をあまり受けられなかったことは、パリ中の知るところであった。花火に宛てられたのは五万リーヴル。初日の花火は雨に消され、五月三十日の晩は良い天気であったので、パリジャンたちは始める前からヴェルサイユの隣人たちに対する勝利を確信して浮かれていた。

 第一、パリで期待されていたのはトールの新しい評判ではなく古くからのルッジェーリの人気であった。

 そのうえルッジェーリの設計には同業者と比べて不安定なところや不確かなところが少なく、極めて洗練された花火造りの意図が際立っていた。この時代の女王である寓意が、それをもっとも優雅な建築学的様式と組み合わせていた。その形はヒュメナイオスの古神殿を象っており、これはフランスでは栄光の神殿と共に若さの象徴であった。巨大な円柱が支柱となり、周りを囲っている欄干の角にはイルカが口を開き、後は火花を吐き出す合図を待つだけとなっていた。水瓶の上に厳かに聳えているイルカの正面には、ロワール、ローヌ、セーヌ、ラインの大河があった。誰が何と言おうと、さらにはドイツの現代歌を信じるならばドイツ人の気持にも反して、断固としてフランスのものであるこの四つの川が、円柱が燃え上がると同時に、水の代わりに青・白・緑・赤の火を吐き出すことになる。

 同時に燃え上がるはずの花火のほかの部分には、大きな花瓶をヒュメナイオス神殿の屋上に設える必要があった。

 さらに神殿の上にはほかにもいろいろなものを設置しなくてはならない。光り輝く三角錐の先端には丸い地球が付けられ、これはひっそりと燃えた後で色とりどりの火花を出して雷のように破裂するはずだ。

 トリの大花火ブーケについては、パリジャンが花火を評価するには大花火を措いてほかにないというほど重要で必要不可欠なものだが、ルッジェーリはこれを本体とは切り離していた。川の側、彫像の後ろ、予備の部品を保管している稜堡の中に設置されており、土台の上、花火束の足許に設置され、そのため見晴らしをさらに三、四トワーズ高くすることに成功していた。

 パリではこうした細かいことに注意が払われていた。二週間前からパリジャンはルッジェーリと助手たちを感嘆の念を持って見守っていた。薄暗い足場を影のように動き回り、立ち止まっては独特の仕種で導火線を結んだり火薬を確かめたりしていた。

 それ故に角灯が花火細工の屋上に運ばれて、明かりが近づくのがわかると、群衆の間に歓声が湧き起こり、最前列の怖いもの知らずたちが後じさったために、大きなうねりが末端にまで行き渡った。

 馬車は続々と到着し、場所をふさぎ始めていた。馬は最後列の見物人の肩に頭をもたせかけ、見物人は危険な隣人に不安を感じ始めていた。見物人はなおも増え続け、やがて馬車の後ろに人だかりが出来たために、馬車はぎっしり詰まった人込みに取り囲まれて、戻りたくても戻れなくなっていた。割り込んで来るパリジャンの厚かましさに匹敵するのは、割り込まれた際の辛抱強さくらいであろうが、そうして厚かましくもフランス近衛兵、労働者、従僕たちが、岩に乗り上げたように屋上席に上るのが見えた。

 大通りの明かりが遠くから人込みの頭上に赤い光を投げかけると、ルジョワ警備隊の銃剣が稲光のようにきらめき、刈り入れの終わった畑に残された穂のようにまばらに見えていた。

 新しい建物の横、現在のホテル・クリヨンとガルド=ムーブル・ド・ラ・クローヌの横には、招待客の馬車が三列に並んでいた。その間を通り抜けることには何の注意も払われていなかった。一方は大通りからチュイルリーまで、他方では大通りからシャン=ゼリゼ街まで、三つに折り畳まれた蛇のように曲がりくねっている。

 馬車のせいで正門に近づくことが出来ずにいる招待客が、長い馬車の三重の列の間を、ステュクスの縁を彷徨う亡者のように彷徨っていた。騒ぎに疲れ、人込みを恐れ、中でも繻子の靴を履いた着飾ったご婦人たちは、埃だらけの舗道で人波にぶつかってはそのお上品ぶりをからかわれていた。馬車の車輪や馬の脚の隙間に抜け道を探し、擦り抜けられると思えば目的地まで擦り抜けた。こんな時の目的地ほど怨めしいのは、嵐の中で目指す港くらいではなかろうか。

 一台の馬車が九時頃になって到着した。言いかえるなら花火の始まる予定時刻のほんの数分前に、門までの道を掻き分けようとしていた。だがその目論見は、しばらく前からのせめぎ合いの末に、今では無理とは言えぬまでも無謀なことになっていた。四列目が形を取り始めたことで、最初の三列も改めて間を詰め、人込みに苛立った悍馬がちょっとしたことであちこち駆け出し、喧噪や人込みに紛れてはいたものの既に事故を幾つか引き起こしていたのだ。

 人込みを掻き分けたこの馬車のバネにつかまって、一人の若者が歩いていた。この若者が移動の便宜を独り占めしているらしいと見て取った人々が、我も我もと奪いかかろうとするのを押しのけている。

 馬車が止まると若者は急いで脇に移動したが、バネから手を離そうとはしなかった。こうしておけば馬車の扉越しに盛り上がっている会話を聞き取ることが出来た。

 白い服を着て生花の髪飾りをつけた女性が、扉から顔を出した。すぐに怒鳴り声が聞こえた。

「こらアンドレ、田舎じみた真似はするな、そんな風に顔を出すんじゃない! 通りすがりの与太者にいつ口づけされるかわからないというのに。この馬車が人込みの中にいるとは思わないのか? 川の中にいるようなものだ。ここは水の中、汚れた水だ。濡れないようにしなくてはならない」

 若い娘の頭が馬車の中に引っ込んだ。

「ここからは何も見えませんもの。馬が向きを変えてくれたなら、扉越しに見えるでしょうし、窓辺にいるのとほとんど変わらないでしょうに」

「向きを変えてくれ」と男爵が御者に声をかけた。

「無理な相談です、男爵閣下。十人ほど轢いてしまいます」

「そんなもの轢いてしまえ」

「お父様!」

「父上!」フィリップが声をあげた。

「俺たちを轢き殺したがっているのはこの男爵か?」脅すような声が幾つか挙がった。

「わしじゃとも」ド・タヴェルネが身を乗り出して、胸の赤綬を誇示してみせた。

 その当時にはまだ大綬や、それに赤綬にも敬意が払われていた。人々は不平を口にしながらも、その勢いは落ちていた。

「待って下さい、父上。ぼくが降りて、通り抜けられるかどうか確かめて来ます」フィリップが言った。

「気をつけて、お兄様。殺されてしまうわ。馬のいななきが聞こえるでしょう?」

「ほとんど遠吠えじゃな」男爵が言った。「わしらも降りよう。邪魔すると言うてくれ、フィリップ、道を開けてくれと」

「パリは変わったんです、父上。主人風を吹かせられたのは昔のこと。今はそれでは上手く行きません。尊厳を貶められたくはないでしょう?」

「だがこの馬鹿どももわしが誰だか知れば……」

「父上」とフィリップが微笑んだ。「あなたが王太子だったとしても、動こうとはしないと思いますよ。特に今は、もうすぐ花火が始まるんですから」

「ではわたくしたちは何も見られないのね」アンドレがへそを曲げた。

「お前のせいだ、支度に二時間以上もかけるからじゃ」

「お兄様、腕を借して下さる? 人波の中に降ろして欲しいんです」

「ああいいとも、お嬢様」アンドレの美しさにつられて何人かが声をかけた。「太ってる訳でもなし、あんたの分くらいの場所は作れるよ」

「いいかい、アンドレ?」フィリップがたずねた。

「お願いします」とアンドレが答えた。

 馬車の踏み台をふわりと飛び越えた。

「よかろう。だがわしは花火に興味がない。ここに残っておるぞ」

「わかりました。ぼくらも遠くには行きませんから」

 群衆も昂奮に駆られていなければ慎み深く、美という至高の女王の前では常に敬意を表すものである。人々はアンドレと兄に道を開け、家族と石に腰かけていたブルジョワが、妻と娘の間にアンドレの席を空けた。

 アンドレは足許に坐ったフィリップの肩に片手を置いた。

 後を追って来たジルベールは二人のすぐ側に場所を取り、アンドレをじっと見つめていた。

「坐り心地はいいかい?」フィリップがたずねた。

「ええ、とっても」

「美人は得だね」子爵は微笑んだ。

「ああ、美人! まったくその通りだ!」ジルベールが呟いた。

 アンドレにもこの言葉は聞こえていた。だが人込みの誰かが口にしたのだろうと思い、気にも留めなかった。インドの神でも、哀れなパリアが足許に捧げた貢ぎ物にはもう少し注意を払っただろう。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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