翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』第74章 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第七十四章 ジルベールを待ち受けていたもの

 一人残されたアンドレが椅子の上で身体を起こすと、ジルベールの全身に震えが走った。

 アンドレは立ち上がっていた。石膏のように白い手で、髪のピンを一つ一つ外し、薄い部屋着を肩から滑らせ、白く淑やかな首を露わにし、胸を脈打たせ、腕を頭上に反らせているために腰のくびれが強調され、白麻の下で震える美しい喉が際立っていた。

 ジルベールはひざまずき、息を切らし、陶然として、こめかみと心臓で血がどくどくと音を立てているのを感じていた。燃え上がった血潮が動脈を流れ、真っ赤な靄が視界を覆い、熱に浮かされたような無意味な呟きが耳元で唸っている。ジルベールはその瞬間、人間を狂気の淵に突き落とす恐ろしい錯乱に陥っていた。声をあげながら、アンドレの部屋の敷居を跨いでいた。

「ああ、何て綺麗なんだ! でもそれを鼻にかけるなよ、君には貸しがあるんだからな、君の命を救ったのは僕なんだ!」

 ここでアンドレは帯の結び目をほどくのに手間取った。苛々して足を踏み鳴らし、そんな簡単なことでも全力を使い果たしてしまったかのように、寝椅子にぐったりと坐り込んだ。そして半裸姿で呼び鈴の紐まで身体を伸ばし、じれったげに紐を揺らした。

 その音でジルベールは正気に返った。――ニコルはこの音が聞こえるように扉を開けっ放しにしておいたのだ。もうすぐニコルがやって来る。

 夢よさらば、幸福よさらば。これでもう心で燃え上がらせる空想と、胸の奥で温めている思い出しかなくなるんだ。

 ジルベールは外に駆け出そうとした。だが男爵が入って来た時に廊下の扉を引き寄せていた。ジルベールはそれに気づかずに、扉を開けるのにしばらくかかった。

 ニコルの部屋に入った時に、ニコルが戻って来た。庭の砂を踏む足音が聞こえる。やり過ごすのには暗がりに逃げ込む余裕しかなかった。ニコルは扉を閉めて玄関を通り、鳥のように軽やかに廊下に飛び込んだ。

 ジルベールは玄関まで行き、外に出ようとした。

 ところがニコルが走りながら声を出している。「あたしです、お嬢様! 扉を閉めまておきました!」ニコルはその言葉通り扉を閉め、錠を二重に回したばかりか、ついていないことに、鍵をポケットに仕舞い込んでいた。

 ジルベールは扉を開けようとしたが開く訳もなく、窓に活路を求めた。窓には鉄格子が嵌っていた。五分ほど模索した末にわかったのは、外に出るのは不可能だということだった。

 ジルベールは隅にうずくまり、ニコルに扉を開けてもらおうと固く決心した。

 ニコルはニコルで、もっともらしい言い訳をしていた。曰く温室の窓を閉めに出ていました、夜風がお嬢様のお花を傷めるといけませんものね。そうしてアンドレの服を脱がせて、寝台に寝かせた。

 ニコルの声は震えを帯びていたし、手はぶるぶると揺れ、お世話する間もいつになくそわそわし、手に取るように感情が洩れていた。だがアンドレは一人天上で考えに耽って地上を見ることはほとんどなく、見たとしても、下界の存在など小さな粒にしか見えなかった。

 つまるところアンドレは何も気づかなかった。

 ジルベールは退路を断たれてから苛立ちを募らせていた。今は自由になることしか考えていない。

 ニコルはお詫びの言葉を伝えてから、退出を許された。

 アンドレの布団を整え、明かりを小さくし、銀器に入れて雪花石膏アラバスターの灯火の上で温めておいた飲み物に砂糖を入れ、淑やかな声で就寝の挨拶をして、そっと部屋を出た。

 部屋を出るとガラス入りの扉を閉めた。

 そして心を落ち着かせようと鼻歌を歌いながら部屋を横切り、庭に通ずる扉に向かった。

 ジルベールにもニコルが何をするつもりなのかわかったが、誰なのか気づかれないように、扉が開いた瞬間を突いて逃げ出せないだろうかと、ふと思いついた。だがそうすると目撃されるのは見知らぬ人物ということになる。泥棒と間違われてニコルが助けを呼ぶから、綱までたどり着く時間はないだろうし、戻れたとしても空中を逃げているところを見られてしまう。隠れ家がばれて大騒ぎになるだろう。悪意のある人々、つまりはジルベールにとってタヴェルネ家の人々に、大騒ぎする恰好の口実を与えることは間違いない。

 ニコルのことを告げ口することは出来るし、ニコルを馘首にすることも出来るのは確かだ。でもそれに何の意味があるだろうか? ただ復讐を果たすだけで、何の得もない。ジルベールはそれほど心の弱い人間ではない。復讐を果たして喜びを感じるなんて。役に立たない復讐など、稚拙な行動でしかなかった。愚行である。

 そこでニコルが出口まで来た時、ジルベールは隠れていた暗がりから飛び出し、ガラス越しに射し込む月明かりの中に姿をさらした。

 ニコルは悲鳴をあげかけたが、ジルベールを別人と間違えて、ぎょっとして声をかけた。

「あなたなの? 向こう見ずね!」

「ああ、僕だよ」ジルベールが小声で答えた。「別人と間違えてそんな大きな声を出さないでもらえるかい」

 これでニコルにも相手が誰なのかわかった。

「ジルベール! 嘘でしょう?」

「頼むから大声を出さないでくれ」ジルベールは吐き捨てた。

「こんなところで何してるの?」ニコルが怒りをぶつけた。

「いいかい」ジルベールは落ち着き払っていた。「さっき僕のことを向こう見ずと言ったけれど、向こう見ずなのは君の方じゃないか」

「あらほんと? あなたがここで何をしているのかちゃんとわかってるんだから」

「何だって?」

「アンドレお嬢様に会いに来たんでしょう」

「アンドレお嬢様だって?」ジルベールはなおも落ち着いていた。

「ええ、惚れてるんですものね。ありがたいことに、向こうは何とも思ってないみたいだけど」

「そうかい」

「とにかく気をつけることね、ジルベール」ニコルが脅すような声を出した。

「気をつけろ?」

「ええ」

「何に?」

「告げ口されないように気をつけなさい」

「君が告げ口するというのか?」

「ええ、あたし。お払い箱にされないように気をつけなさい」

「やってみろよ」ジルベールは口を歪めて笑った。

「喧嘩を売る気?」

「望むところさ」

「じゃああたしがお嬢様とフィリップ様と男爵様に言ったら、ここであなたに会ったと言ったら、どうなると思う?」

「君が言った通りのことが起こるだろうね、ただし僕はお払い箱にされたりはせず――ありがたいことにとっくにお払い箱になってるから――獣のように追い立てられるんじゃないかな。とにかく、お払い箱になるのはニコルの方さ」

「あたしが?」

「ニコルだよ、間違いない――塀越しに石を投げてもらったニコルさ」

「気をつけなさい、ジルベール」ニコルが再びすごんで見せた。「ルイ十五世広場で、お嬢様のドレスの切れ端をあなたが握っているのが見られてるんだから」

「そうかい?」

「フィリップ様がお父上に仰ってたの。まだ何も気づいてないみたいだけど、一言助言があれば、すぐに気づくんじゃないかしら」

「誰が助言するっていうんだ?」

「あたしよ」

「気をつけろよ、ニコル。レースを広げるふりをして、塀越しに放り投げられた石を拾っていたことも気づかれるんだからね」

「そんなの嘘よ!」

 ニコルは声をあげて言い張った。

「だいたい、手紙を受け取るのは悪いことでも何でもないでしょ。お嬢様が着替えている最中にここに入り込むのも悪いことじゃないんだものね……どう言い訳するつもりかしら?」

「君のような賢明な女の子が庭木戸の下に鍵を滑り込ませるのだって悪いことではないって言うつもりさ」

 ニコルが震え上がった。

「僕のことはド・タヴェルネ男爵もフィリップさんもアンドレお嬢様も知っているからね、そんな人間が部屋に忍び込んだのは、昔のご主人様たち、それもアンドレお嬢様の容態が不安で気が気じゃなかったからだって言うつもりさ。あそこからアンドレを助け出そうとしたのは僕なんだからね、君が言ったように、手にドレスの切れ端を握っていたのがその証拠さ。ここに忍び込んだのは些細な罪だけれど、ご主人様の家に他人を忍び込ませたり、そいつと温室で一時間過ごした後でまた会いに行ったりするのは重大な罪だって言うつもりだ」

「ジルベール! ジルベール!」

「つまり貞節の話だけど――マドモワゼル・ニコルの貞節だぜ――そうだなあ! 僕が君の部屋にいたりするとまずいことになるんじゃないかな、それでいながら……」

「ジルベール!」

「僕がお嬢様に惚れているなんて言ってご覧よ。僕は君とつき合っていたって言うつもりだし、お嬢様だってそれを信じるだろうね。君は馬鹿だから、タヴェルネでお嬢様に、自分でそれを言っちゃうんだものなあ」

「ジルベール、お願い!」

「そうすれば君はお払い箱さ。お嬢様と一緒にトリアノンにも行けず王太子妃のおそばにもいられず、立派な領主や裕福な貴族とも浮き名を流せないよ、家に残された時にはどうせそんなことばかりするつもりなんだろうけど。そうはならずに恋人のド・ボージールと一緒になることになるだろうな、ただの指揮官代理、軍人とね。ははっ! 絵に描いたような転落じゃないか、ニコルの野心も儚く消えましたとさ。フランス人衛兵の恋人だものなあ!」

 ジルベールはけらけらと笑いながら歌い出した。

 ――あたしの彼は、近衛兵~!

「お願いだからジルベール、そんな風にあたしを見ないで。すごく意地悪く、暗闇の中で光ってる。お願いだからもう笑わないで、ぞっとするわ」

「だったら」とジルベールが威圧的な声を出した。「扉を開けるんだ、ニコル。これ以上は何も言うなよ」

 扉を開けたニコルは激しく震えており、肩や頭を老人のようにぷるぷると揺らしていた。

 ジルベールが先に家から出て、ニコルが出口まで案内しようとするのを見た。

「違う、そうじゃない。それは君がここに人を入れる時のやり方だろう。僕は僕なりのやり方で出て行くんだ。ド・ボージールに会いに温室に行けよ、やきもきしながら待ってるぜ。予定より十分長くいちゃついていればいい。おとなしくしてくれたお礼だよ」

「十分、どうして十分なの?」ニコルが震えながらたずねた。

「ここから出るのに十分かかるからさ。さあ、行った行った。タヴェルネの干し草の山で逢い引きした時に話したことがあっただろう、ロトの妻みたいに、振り返らずに進むんだ。さもなきゃ塩の柱に変わるよりもまずいことになるぞ。さあ行くんだ、浮気女め。もう何も言うことはない」

 ニコルは弱みを握られたジルベールから頭ごなしに大言され、為すすべもなく怯えて打ちのめされたまま、頭を垂れて温室に戻った。そこには確かに指揮官代理ボージールがじりじりしながら待っていた。

 ジルベールの方は見られていないことを確かめてから壁と綱のところに戻り、葡萄の株と垣根を足がかりに二階の鉛管までたどり着き、そこから屋根裏部屋まで素早くよじ登った。

 幸いなことに、登っている最中に人に気づかれることはなかった。隣人たちは既に眠っていたし、テレーズはまだ食卓だった。

 ニコルをへこませて来たことに昂奮してかっかしていたので、樋につまずくことなど気にも留めていなかった。それどころか運命の女神フォルトゥーナの如く鋭く研いだ剃刀の上さえ、たといその剃刀が一里あろうとも、歩けそうな気がしていた。

 アンドレはその向こう端にいる。

 ジルベールは天窓に戻ると窓を閉め、書き置きを引きちぎった。誰にも読まれてはいなかった。

 満ち足りた気持で寝台に横になった。

 半時間後、テレーズが予定通り扉越しに具合をたずねた。

 ジルベールは眠たくて仕方がないのを装って、あくび混じりに感謝を伝えた。早く一人になりたかった。暗闇と静寂の中で考えをまとめ、心と頭脳と身体全体を総動員して、この日の焼けつくような得も言われぬ思いを分析したかった。

 やがてジルベールの目からは、男爵もフィリップもニコルもボージールも姿を消した。記憶の底に見えるのは、もはやアンドレだけだった。半裸になって、腕を頭上に反らし、髪からピンを外しているアンドレの姿だけだった。

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『ジョゼフ・バルサモ』 第73章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第七十三章 兄と妹

 お話しした通り、ジルベールは耳を澄まし目を凝らした。

 長椅子に横たわってガラス扉の方に顔を向けているアンドレが見えた。つまりジルベールの真っ正面ということだ。扉は若干開いていた。

 大きな傘つきの小さな明かりが、机の上に置かれている。傍らに本が積まれているのを見たところでは、美しい病人に出来る気晴らしといったらそれくらいしかないのだろう。照らされていたのはド・タヴェルネ嬢の顔の先だけだった。

 だが時折、長椅子の枕にもたれかかるように仰け反った時には、レースの下の白く美しい容顔かんばせが光に晒された。

 フィリップは長椅子の足許に坐り、ジルベールには背を向けていた。今もまだ腕を吊っており、自由には動かないようだ。

 アンドレが起きあがったのも、フィリップが部屋から出たのも初めてであった。

 つまりこの若兄妹は、あの恐ろしい夜以来、顔を合わせていなかった。とは言え二人とも、相手が徐々によくなり快方に向かっているという話は聞いていた。

 ついさっき再会したばかりだったがすぐに話をし始めた。二人きりだと信じていたし、誰かが来れば扉のベルが鳴るからわかるはずだった。その扉はニコルが開けっ放しにしていたのだが。

 だが二人は当然のことながら扉が開けっ放しにされていることなど知るよしもなく、ベルが鳴るものと安心していた。

 ジルベールに見聞き出来たのはこういう事情による。開いた扉越しに、言葉の端々をもれなく拾うことが出来た。

「つまり」とフィリップが言った。ジルベールが化粧室の扉にかかったカーテンの陰に隠れた時のことである。「つまり、呼吸もかなり楽になったんだね?」

「ええ、だいぶ楽になりました。まだ呼吸するたびに軽い痛みはありますけれど」

「体力は?」

「まだまだですけれど、今日は二、三回、窓まで歩いて行くことが出来ました。空気も花も何て綺麗だったんでしょう! 空気と花があれば、死ねるものではありませんわ」

「だがそれでもまだ快復はしていないんだね?」

「ええ、だってあまりにもショックが大きくて! だから実を言うと」と微笑んで首を横に振った。「家具や壁にもたれて歩くのがやっとなんです。支えがないと足が曲がって倒れてしまいそうなんです」

「元気を出すんだ、アンドレ。美味しい空気と綺麗な花があると元気が出るって話をしたばかりじゃないか。一週間経てば王太子妃殿下をご訪問できるようになるさ。親切にも容態をおたずね下さったそうだよ」

「わたくしだって早く良くなりたいわ、フィリップ。だって王太子妃殿下はとても親切にして下さるんですもの」

 そう言ってアンドレは身体を横たえ、胸に手を置き目を閉じた。

 ジルベールは腕を伸ばして前に出た。

「苦しいか?」フィリップがアンドレの手を握った。

「ええ、痙攣ひきつけが起こるんです。それに血が頭に上ってこめかみが締めつけられることもありますし、眩暈がして心臓が止まりそうになることも」

「そうか!」フィリップは呆然となった。「そうだろうな。あれだけ恐ろしい目に遭って、奇跡的に助かったんだから」

「まさに奇跡的でした」

「そのことなんだが」ここからが大事な話だとばかりにアンドレに近寄って、「あの災害についてまだお前と話をしたことはなかっただろう?」

 アンドレは顔を赤らめ、不安そうな様子を見せた。

 フィリップはそれに気づかなかったか、或いは気づかないふりをした。

「でもわたくしが戻って来られた事情についてはお兄様も納得できたでしょう。お父様も満足していると仰っていたわ」

「確かにね、アンドレ、あの人は今回の事故をかなり気にかけていたよ。ぼくにはそう思える。だがそれでも、あの人の話には疑わしいとは言えないまでも、曖昧な、そう、曖昧なところが多すぎる」

「どういうこと?」アンドレは乙女子らしく無邪気にたずねた。

「うん、はっきりしてる訳じゃないんだ」

「仰って」

「うん、例えばね、初めは気にしなかったんだが、いつの間にかとても不思議に思い始めたことが一つある」

「何ですの?」

「お前が助けられた時の様子を、聞かせてくれないか、アンドレ」

 アンドレは必死に思い出そうとしているようだった。

「ほとんど覚えてないわ、フィリップ、怖かったんですもの」

「大丈夫だよ、アンドレ。覚えていることだけ話してくれればいい」

「そうね、わたくしたち、ガルド=ムーブルから二十パッススくらいのところで離ればなれになってしまったでしょう? お兄様がチュイルリー公園の方に押し流されるのが見えたけれど、わたくしはロワイヤル街の方に押し流されていたんです。お兄様の姿が見えている間に、はぐれないようにどうにか腕を伸ばして、『フィリップ! フィリップ!』と呼んだけれど、竜巻に巻き込まれたように、すくい上げられ、柵のそばまで運ばれてしまいましたの。波にもまれて壁の方に引きずられて行くと、壁は今にも潰れそうでした。柵に押しつけられた人たちの悲鳴が聞こえました。もう少し経てば、ぐちゃぐちゃに押し潰されるのが自分の番なのは明らかです。後何秒の命なのか数えられるほどでした、それで半ば死んだように、半ば気が狂ったようになって、天を仰いで最後に祈りを捧げていると、男の目が光るのが見えたんです。男は群衆を見下ろして、まるで指揮しているかのようでした」

「それがジョゼフ・バルサモ男爵だったんだな?」

「ええ、タヴェルネで見たのと同じ人でした。不思議な恐ろしさでわたくしを打ちのめしたのと同じ人でした。超自然的なところを秘めているらしきあの人です。その目でわたくしの目を捕らえ、その声で耳を捕らえたあの人。肩に触れられただけでぞっとさせられたあの人だったんです」

「続けてくれ」フィリップは顔を曇らせ沈んだ声を出した。

「あの人は事故現場を見下ろして、人の苦しみなど自分には及ばないとでも思っているように見えました。その目が『助けてやる、俺にはそれが出来る』と言っているのがわかりました。それから信じられないことがいくつも起こり、疲労困憊して為すすべもなく、わたくしはとっくに死んだようになっていましたが、あの人の前まで運ばれるのがわかりました。まるで目にも見えず何者にも屈しない不思議な力に運ばれているようでした。腕に突き飛ばされでもしたように、もみくちゃの肉の渦から押し出されて、被害に遭った人たちが喘いでいるというのに、わたくしは空気を、生命を取り戻したんです。わかるでしょう、フィリップ」アンドレは昂奮していた。「間違いありません、あの男の目にはわたくしを迷わす魔力があるんです。

「わたくしはその手にすくい上げられ、助けられました」

「そうなのか!」ジルベールは独り言ちた。「あの人しか目に入っていなかったんだな。足許で死にかけていた僕のことは目に入らなかったんだ」

 ジルベールは額に流れる汗を拭った。

「それで、いったい何が起こったんだ?」フィリップがたずねた。

「それが、危険から脱したとほっとした瞬間でした。それまで気力を振り絞っていたからでしょうか、恐怖が限界を超えていたからでしょうか、わたくしは気を失ってしまったんです」

「それは何時頃?」

「お兄様と離ればなれになってから十分くらいでした」

「そうか、すると深夜零時頃だな。ではどうして三時になるまで戻って来なかったんだ? 気を悪くしないでくれよ、馬鹿げて聞こえるかもしれないが、ちゃんと理由があるんだ」

「ありがとう」アンドレはフィリップの手を握った。「三日前ならまだ答えられなかったと思うの。でも今日なら――これから話すことはおかしなことに聞こえるでしょうけれど――今日は、内なる声がとても強くて。意思がわたくしに働きかけて、思い出せと命じるものですから、とうとう思い出したんです」

「では聞かせてくれ、気になるんだ。あの人はお前を腕に抱き寄せたんだな?」

「腕に?」アンドレは赤面した。「よく思い出せません。わかっているのは、人波から引き寄せられたということだけです。でも手で触れられると、タヴェルネの時と同じような状態に陥って、触れられた途端にまたもや気絶を、と言いますか、眠りに就いていたんです。気絶する時にはひどい苦痛を感じるのだけれど、今回は眠気のように安らかな感覚しか感じませんでした」

「確かにお前の話はどれもこれもおかしな話に聞こえるな。こんなことを話したのがお前じゃなかったなら、絶対に信じなかっただろう。まあいい、話を続けてくれ」フィリップは声の乾きを気づかせまいとしていた。

 ジルベールはアンドレの言葉に夢中になっていた。少なくともこれまでのところではその言葉が真実であることを、ジルベール自身がよくわかっていた。

「意識を取り戻すと、豪華な家具の置かれた応接室にいました。小間使いとご婦人がそばにいたのですが、二人とも不安そうな素振りも見せませんでした。それどころかわたくしが目を覚ますと、優しそうににっこりと笑みを浮かべたんです」

「それは何時頃だい?」

「深夜過ぎの小半時の鐘が鳴っていました」

「そうか!」フィリップが大きく息を吐いた。「よし、続けてくれ」

「看病してくれた二人には感謝しましたが、お兄様が心配しているのはわかっていましたから、すぐに家まで送ってくれるよう頼んだんです。二人の話では、男爵は怪我人に助けを呼ぶため事故現場に戻ってしまったけれど、もうすぐ馬車で戻って来るので、男爵ご自身で家まで送ってくれるということでした。その言葉通り、二時頃に表に馬車の音が聞こえ、それと共に、あの男のそばにいると何度も感じて来た悪寒に今度もまた襲われました。わたくしはソファの上で眩暈を起こし、放心したようになってしまいました。扉が開きました。わたくしは茫然自失のまま助けてくれた男の姿を認め、再び意識を失いました。その後で下まで運ばれ、辻馬車でここに連れられて来たんです。わたくしが覚えているのはこれですべてです」

 フィリップは時間を計算し、アンドレはエキュリ=デュ=ルーヴル街からコック=エロン街までまっすぐ連れられて来たのだと判断した。同じようにルイ十五世広場からエキュリ=デュ=ルーヴル街までまっすぐ運ばれたはずだ。フィリップはアンドレの手を温かく握り締めた。声には安心と喜びが籠もっていた。

「ありがとう、アンドレ。すべて辻褄が合う。サヴィニー侯爵夫人を訪問して、ぼくの口からもお礼を伝えることにしよう。それはそうと、もう一つ気になっていることがあるんだ」

「何でしょう?」

「事故の現場で知り合いに会わなかったかい?」

「え? 会わなかったわ」

「例えばジルベールには?」

「そうね」アンドレは懸命に思い出そうとした。「そう言えば、離ればなれになった時に、そばにいたわ」

「僕に気づいてたんだ」ジルベールが呟いた。

「お前を捜している時に、あの坊やに再会したんだ」

「死体の中に?」目上の者が目下の者に示すような興味の色がありありと感じられた。

「いいや、怪我をしていただけだ。助けられて、よくなっているといいんだが」

「そうだといいわね、どんな状態だったの?」

「胸を押し潰されていた」

「そうさ、君の胸にね、アンドレ」ジルベールが呟いた。

「だが」とフィリップが続けた。「不思議なことがあったんだ。ジルベールのことを話すのもそれが理由なんだが、強張った手の中に、お前の服の切れ端が握られていたんだ」

「まあ、本当に不思議ね」

「最後まで会わなかったんだろう?」

「最後まで目にしていたのは、恐ろしい顔をしている人たちでした。恐怖や苦しみ、わがまま、愛情、憐れみ、吝嗇、皮肉。地獄で一年を過ごしたような気分です。あんな顔に囲まれて、地獄の亡者から検査を受けているようでした。あの子の顔もあったかもしれないけれど、まったく思い出せないの」

「だが、あの布の切れ端がお前の服の一部だったのは間違いない。ニコルにも確かめたんだ」

「いったいどういう事情を説明して、あの子にたずねたんです?」アンドレがたずねた。タヴェルネでジルベールについて小間使いと話した、あのおかしな話を思い出していたのだ。

「別に何も話してはいないよ。とにかく、あの布切れをジルベールが握っていたのは事実だ。どういう訳だろう?」

「簡単なことだわ」ジルベールの心臓が恐ろしいほどに脈打っているのと比べて、アンドレは落ち着き払っていた。「つまりあの男の目に引っ張り上げられた時、そばにいたのなら、わたくしにつかまっていれば一緒に助けてもらえるでしょう。溺れた人が泳いでいる人のベルトにしがみつくのと一緒よ」

「糞ッ!」こんな考え方をされて、ジルベールは悲しくなって蔑んだ。「僕があんなに尽くしたというのに、何て下劣な解釈をするんだろう! 貴族ときたら、僕らのことを別の人種だとしか思ってないんだな! ルソーさんは正しかった。僕らは貴族よりも優れている。僕らの心はより純粋で、僕らの腕はより力強いんだ」

 独り言をやめて二人の会話に戻ろうとした時、背後で物音がした。

「まずい! 玄関に誰かいる」

 足音が廊下を進み、化粧室に入るのが聞こえ、背後でカーテンが降りた。

「ニコルの馬鹿はここにおらぬのか?」ド・タヴェルネ男爵の声がして、服の裾をジルベールにかすめて、娘の部屋に入って来た。

「庭だと思います」アンドレが落ち着き払っていることからすると、第三者がいるとは疑りもしていないのだろう。「今晩は、お父様」

 フィリップは恭しく立ち上がった。男爵はそのままでいるように合図すると、二人のそばの椅子に腰を下ろした。

「ああ、お前たち、宮廷の立派な馬車ではなく一頭立てのおんぼろ乗合馬車では、コック=エロン街からヴェルサイユまでは大分かかるぞ。何を隠そうわしは王太子妃殿下にお会いして来たのだ」

「まあ! ではヴェルサイユにお出でになったんですか、お父様?」

「うむ、大公女がお前の不幸をお聞きになって、親切にもわしをお招き下さったのじゃ」

「アンドレは大分よくなって来ました」とフィリップが言った。

「わかっておる、妃殿下にもそうお伝えして来た。妃殿下はわしに約束して下さろうとしたぞ、お前の妹がすっかり快復したら、直ちにプチ・トリアノンに呼び寄せると。そこを住まいにお決めになって、趣味に合わせて模様替えしている真っ最中じゃ」

「あの、わたくしが、宮廷に?」アンドレがおずおずとたずねた。

「宮廷ではなかろう。王太子妃殿下はあちこち移り住むのは好まれぬし、王太子殿下も派手なのやうるさいのはお嫌いじゃ。トリアノンで水入らずお暮らしになるのだろう。だが王太子妃殿下のご性格からすると、この家族会議は親臨会議リ・ド・ジュスティスや三部会より良い結果をもたらさんとも限らん。大公女はしっかりしていらっしゃるし、王太子殿下は聡明な方だという評判じゃ」

「ああ、宮廷と変わらないんだぞ、それを忘れるなよ」フィリップが悲しげに声をかけた。

「宮廷!」昂奮と絶望が一気にジルベールに押し寄せた。「宮廷か、僕などたどり着けない頂点だ、飛び込むことも出来ない深淵じゃないか。アンドレが身を立てれば立てるほど、僕には手が届かなくなってしまう!」

「でもお父様」とアンドレが言った。「わたくしたちにはそこで暮らすことを許されるような財産も、そこに暮らすのに必要なだけの教育もありません。わたくしのような哀れな娘が、あれほどきらびやかな貴婦人の輪の中に入るなんて! 目も眩むような輝きを一度だけ垣間見たことがありますが、浅はかなところはありましたけれど才気がほとばしっていたんです! お兄様、あんなまばゆい光のただ中に混じるには、わたくしたち、無名過ぎますわ……」

 男爵が眉をひそめた。

「そのうえ愚かじゃ。何を不安がっておるのか知らんが、家族自らわしのものやわしに関わるものを貶めようとばかりしおって! 無名じゃと! 馬鹿者めが。無名? タヴェルネ=メゾン=ルージュが無名だと! お前が輝かんで誰が輝くというのだ、教えてくれんか?……財産……馬鹿らしい! 宮廷の財産がどれほどあるか知っておろう。王権という太陽がそれを汲み上げ、また花を咲かせるのだ。運命は回る。わしが破産したのは事実だが、いつか再び返り咲けばよいではないか。国王には使用人に払う金もないのか? 我が家の長男が聯隊を賜り、アンドレ、お前が持参金を賜り、わしが領地を賜ったり、ちょっとした正餐の席でナプキンの下に年金の契約書を見つけたりして、わしが恥じ入ると思うのか?……いや、いや、痴れ者であれば偏見も持とうが……わしにはそんなものはない……そもそもわしの財産が戻って来ただけなのだからな。気兼ねする必要などないのだ、アンドレ。まだ一つ言うべきことが残っておったな。お前は教育の話をしておったが、宮廷にはお前ほど教養の高い娘はおらぬことを覚えておけ。それだけではないぞ。貴族の娘が受ける教育に加えて、お前には司法官や財務官の娘が受ける実際的な教育も備わっておる。お前は音楽家だ。お前の描いている羊や牛のいる風景画は、ベルヘムも認めざるを得ぬだろう。そうそう、王太子妃殿下は羊も牛もベルヘムも大好きじゃぞ。お前には魅力がある。国王はお気づきになっていたぞ。それに話術もある。ダルトワ伯やド・プロヴァンス伯にはそれが役に立とう。お前は注目を浴びるだけでなく……崇拝されることだろう。よしよし」男爵は笑いながらおかしな抑揚をつけて手を擦り合わせた。フィリップはそんな父親を見たが、このような笑い声が人間の口から出ているとは信じられなかった。「崇拝か! まさにその通りじゃ」

 目を伏せたアンドレの手を、フィリップが握った。

「男爵は正しいよ。父上の言った通りじゃないか、アンドレ。ヴェルサイユに参上するのにお前ほど相応しい娘はいないよ」

「でも離ればなれになってしまいますわ」

「そんなことはない」と男爵が口を挟んだ。「ヴェルサイユは大きい」

「ええ、でもトリアノンは小さいのでしょう」意地を張った時のアンドレは、強情で扱いにくかった。

「トリアノンだってド・タヴェルネ男爵に部屋をあてがう程度の大きさあろう。わしのような人間は何処でだって暮らせるからの」意味ありげにつけ加えた。「暮らす術を心得ておるのじゃ」

 アンドレは父にせっつかれたことに不安を感じて、フィリップの方を向いた。

「アンドレ、恐らく宮廷に呼ばれた人たちと一緒ではないと思う。持参金を払って修道院に入れたりはせずに、王太子妃殿下はお前に目をかけて下さるおつもりだから、仕事を下さってそばに置いて下さるんじゃないかな。今はルイ十四世時代ほど作法にうるさくないしね。いろいろな仕事がまとめられたり分担されたりしている。きっと朗読係かお付きの侍女あたりだろう。一緒に絵をお描きになったり、常におそばに置いてくれたりして下さるんじゃないだろうか。人の目に触れないことだってあり得るぞ。だがおそばで寵愛を受けるのは間違いないんだ、そうなると多くの人から妬まれることになる。怖くないか?」

「怖いわ」

「もうよい」と男爵が言った。「たかだか一人か二人に妬まれくらいで暗くなってはおれん……早く良くなってくれ、アンドレ。ありがたいことに、この手でお前をトリアノンに連れて行けるのだぞ――王太子妃殿下がそう仰ったのだ」

「素敵ね、参ります、お父様」

「それはそうと、金はあるか、フィリップ?」

「お金がご入り用だというのでしたら、差し上げるには足りないと答えたでしょうが、反対にぼくに下さるというのでしたら、充分に持っていると答えるところです」

「まったくだな、この哲学者め」男爵はふんと笑い飛ばした。「アンドレ、お前も哲学者か? 何も欲しいものはないか? 何か必要なものは?」

「お父様に迷惑をかけたくありませんもの」

「ここはタヴェルネではない。国王が五百ルイお渡し下さった……。ほんの手付金だと陛下は仰ったぞ。身だしなみのことはどうなんだ、アンドレ」

「ありがとう、お父様」アンドレは顔をほころばせた。

「ほれほれ、ころころ変わりおって。さっきは何も欲しがらなかった癖に。今や中国の皇帝も破産させてしまいそうじゃ。だが気にするな、何でも言うとくれ。綺麗なドレスが似合うじゃろうな」

 優しく口づけしてから扉を開けて、アンドレの寝室を出た。

「ニコルの惚けなすは何処におる、明かりがないではないか!」

「呼び鈴をならしましょうか?」

「構わん。ラ・ブリがいる。何処ぞの椅子で眠りこけておろう。ではお寝み、お前たち」

 今度はフィリップが立ち上がった。

「おやすみなさい、お兄様。疲れてくたくただわ。あの事故に遭って以来こんなにしゃべったのは初めてだもの。おやすみなさい、フィリップ」

 フィリップは差し出された手に口づけしたが、そこには兄としての愛情だけではなく、日頃から抱いている敬意も混じっていた。フィリップは廊下に出ようとして、ジルベールの隠れている扉に軽くぶつかった。

「ニコルを呼ぼうか?」出て行きながらたずねた。

「いらないわ。一人で着替えるから。おやすみ、フィリップ」

『ジョゼフ・バルサモ』第72章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第七十二章 空中散歩

 ジルベールはこうして敵陣に乗り込む準備を始めていた。敵陣と呼ぶのも、ここをひそかにタヴェルネ家だと感じていたからで、戦場に赴かんとする名軍師のように、天窓から虎視眈々と窺っていると、この静かな家の敷地内で、哲学者の興味を惹くような出来事が起こった。

 石が塀を飛び越えて、家の壁の角に当たった。

 結果には必ず原因があることくらいは百も承知だったので、ジルベールはその結果を目にして原因を探し始めた。

 だが必死で窓から身を乗り出してみても、路上には石を投げた人物は見当たらない。

 ただし――その変化が、起こったばかりの出来事と関わっているのはたちどころにわかった――ただし、一階の鎧戸がそっと開かれ、その隙間から溌剌としたニコルの顔が覗いた。

 ニコルを目にして、ジルベールは慌てて頭を引っ込めたが、狡猾なニコルからは目を離さずにいた。

 ニコルは窓という窓を、それも館の窓を確かめてから、鎧戸の陰から出て庭に駆け出し、レースを干してあった果樹垣根エスパリエに近づいた。

 そのエスパリエの途上に、ジルベールが目を離さずにいたあの石が転がっていた。目下のところ重要な意味を持っているその石をニコルが蹴とばしたのが見えた。ニコルは石を蹴り続け、とうとうエスパリエの下の花壇の端までたどり着いた。

 そこでニコルは手を上げてレースを外したが、落とした一枚をゆっくり時間をかけて拾い上げ、そのついでに石をつかんだ。

 ジルベールには今なお何もかもさっぱりわからない。だがニコルが石を拾って、胡桃を拾った食いしん坊のように紙の殻を剥き出したのを見るに及んで、これは隕石にも匹敵する重大事なのだと悟った。

 それは紛れもなく手紙に違いなかった。石のそばに転がっているのをニコルが見つけたのだ。

 女狐ニコルは急いでそれを広げて貪るように読み、ポケットに仕舞った。もはやレースには何の注意を払う必要もない。レースは乾いていた。

 だが女を蔑視している利己的なジルベールは首を振った。まったくニコルと来たら生まれついての女狐だな、塀越しに手紙を受け取るような娘とはきっぱり縁を切ろう。ジルベールは倫理的かつ健全な政治的判断を下した。

 原因と結果について極めて論理的な判断を下したジルベールは、こうして論理的に考えながらも、どうやら自分に原因があった一つの結果を切り捨てた。

 ニコルは家に戻ってからまた出て来たが、今度は手はポケットの中だった。

 ニコルがポケットから鍵を取り出した。指の間で一瞬だけ稲光のように輝くのが見えた。だがニコルはすぐにその鍵を庭の出入口の下に滑り込ませた。そこは通常使う正門と同じ側の、塀の反対側にあって、庭師が出入りするようになっている。

「そうか! なるほどな。手紙に逢い引きか。時間を無駄にしない。新しい恋人が出来たのか?」

 ジルベールは眉をひそめた。自分に捨てられたせいで心に修復不能の穴がぽっかり空いているものとばかり思っていたのに、驚いたことに穴は完全に埋められているのがわかり、がっくりしたのだ。

「僕の計画の邪魔になりそうだな」ジルベールは不機嫌な理由をほかのせいにしようとした。「まあいいや」しばらくしてから呟いた。「ニコル嬢に僕の後釜が出来たんだ、おめでとうと言わせてもらおう」

 だがジルベールはある面ではぶれのない心の持ち主だった。即座にそろばんをはじいて、たった今知ったばかりのまだ誰にも知られていない事実を、いつかニコルに対して武器に出来るのではないかと考えた。何せニコルには否定できないほど詳しく秘密を把握しているうえに、向こうから疑われることはまずないだろうし、どんな小さな疑いであろうと具体的な形を取ることもあるまい。

 その時が来れば武器として利用しよう。ジルベールは心に決めた。

 そうこうしているうちに、待ちかねていた夜が訪れた。

 ジルベールはもはや何も恐れてはいなかった。気がかりだったのはルソーが前触れもなく帰宅することだけだ。ジルベールが屋根の上や階段の途中にいるのを見て驚かれたり、空っぽの部屋に気づかれるかもしれない。部屋を抜け出したことがわかれば、あのジュネーヴ人は烈火の如く怒るに違いない。矛先を逸らせればと考えて、哲学者宛の手紙を小卓の上に置いておいた。

 その手紙には以下の文章が書かれてあった。

「心からの親愛と尊敬を込めて

 あなたの忠告、或いは命令に背いて部屋を出たからといって、悪い印象を持たないで下さい。先日のような事故に巻き込まれない限り、すぐに戻って来ます。ああした事故やもっとひどい事態に遭う危険を冒してでも、二時間ほど部屋を出なくてはならないのです」

 ――戻ったら何て言おうか。でもこれでルソーさんも心配しないだろうし、怒りもしないはずだ。

 夕闇が降りた。初夏に特有のむっとする暑さに覆われた。空には雲がかかり、八時半になると、ジルベールの必死の目にも暗闇の奥を見分けることは出来なくなった。

 ようやくその時になって、息が苦しく、汗がどっと流れて額や胸にこぼれていることに気づいた。衰弱と体力減退の徴候だ。考え直せ。こんな状態で探検に赴くのはやめた方がいい。企てを成功させるためにはもちろん、身の安全のためにも、万全の体力と体調が必要だ。だがジルベールはこうした本能の囁きを無視した。

 道徳的意思の声が大きくなる。ジルベールが従ったのは、いつものようにその意思だった。

 時は来た。ジルベールは首に綱を巻きつけ、胸をばくばくさせながら天窓によじ登り、窓枠にしっかりとつかまった。樋に足をかけ、右の天窓に向かって進んだ。既に述べた通り、その天窓には階段があり、およそ二トワーズ離れていた。

 こうしてせいぜい八プスの鉛の管に足を踏み出した。一定の長さごとに鉄の器具で留められているその管が、柔らかい鉛のせいで足の下でたわんだ。両手で屋根瓦にしがみついていたが、バランスを保つ助けにはなれど、指が引っかからないので、いざ落ちそうになった時に身体を支えられるようなものではない。こうした状況のまま空中散歩を二分の間、いわば二永遠の間続けなくてはならない。

 だが怖がるつもりはなかった。それが恐れを知らぬこの青年の意思の力であった。細い線の上を上手く歩くには足許ではなく少し前方を見なくてはならないという曲芸師の話を思い出していた。遙か下のことなど考えずに、鷲のように、空を舞えるのだと思い込むのだ。

 何度かニコルに会いに行く際、既にこのことは実践済みだった。あのニコルも、今や屋根や煙突ではなく扉の鍵を使うまでに大胆になっていた。

 あの頃のジルベールはこうしてタヴェルネの製粉所の水門を越え、剥き出しになった古い倉庫の屋根の梁を越えていたのだ。

 そういう訳だからわずかたりとも怖じ気づくことなく、ジルベールは目的地にたどり着いた。たどり着いてしまえば後は堂々と階段に降りるだけだ。

 だが踊り場のところで足を止めた。中から声が聞こえている。テレーズとご近所さんたちが、ルソーの才能や著作の素晴らしさ、楽曲の美しさについて話に興じていた。

 ご近所たちは『新エロイーズ』を読んでいて、卑猥な本だったとずけずけ口にしている。それに応えてテレーズは、あんたたちはあの素晴らしい本の哲学的深みがわかってないんだよ、と言い返した。

 ご近所たちはそれについては沈黙を守った。そうした話題に無知をさらけ出すこともあるまい。

 このご大層なおしゃべりは踊り場から踊り場へと移って行ったが、その火よりもさらに熱い火を使って晩ご飯が作られていた。

 だからジルベールは理屈をこねるのを聞き、肉の焼ける音を聞いた。

 そんな中で自分の名前が呼ばれるのを聞き、ぎょっとして身震いした。

「ご飯が終わったら、あの子が欲しいものがないか屋根裏まで見に行かなくちゃね」

 「あの子」は屋根裏訪問の予定を聞いて、喜んだりはせずにむしろ恐れおののいた。幸いなことに、テレーズが一人で夕食を摂るのならじっくり酒と語らうはずだ。焼き肉は美味そうだし、夕食が終わるのは……十時だ。今は八時四十五分ちょっと前だ。それに、夕食が終わったら終わったでテレーズはいろいろなことを考えていただろうから、「あの子」のことは忘れてしまうかもしれない。

 だががっかりしたことに、調理していた肉の一つが焦げたために機会を逃してしまった。料理人が大声で助けを呼ぶのを聞いて、おしゃべりが止んだ。

 みんなは事件の現場へと一目散に駆け出した。

 ジルベールはこの小事件を利用して、妖精のように階段に滑り込んだ。

 二階で手頃な鉛管を見つけ、そこに綱を結びつけると、窓に乗り出し素早く降り始めた。

 まだ鉛管と地面の間にぶら下がっている間に、庭に足音が聞こえて来た。

 結び目まで戻って、こんな間の悪い奴はいったい誰なのかを、確かめるだけの余裕はあった。

 男が一人。

 男は小扉のそばまで歩いて来たので、それがニコルの待ち望んでいた瞬間なのは疑いない。

 ジルベールは危険な滑降の途中でじっとして、この闖入者をまじまじと見つめた。

 あの歩き方、三角帽の下から覗いている横顔、利き耳の端にかかるようにした三角帽のかぶり方を見て、あれはボージールだ、ニコルがタヴェルネで出会った指揮官代理だと気づいた。

 すぐにニコルが扉を開けっ放しにして庭に飛び出して来た。温室を目指す鶺鴒セキレイのように素早く軽やかに、ボージールが近づいて来る方向目指して飛び出して行った。

 落ち合った二人に些かの躊躇いもないのを見れば、こうした逢い引きが初めのことでないのは明らかだ。

 ――まずは下まで降りなくちゃ。ニコルが今こうして恋人と逢っているのなら、しばらくはこうしているだろう。つまりアンドレは一人きりか! 一人きり……。

 確かに一階には何の物音も聞こえないし、かすかな明かりも見えない。

 ジルベールは無事に地面に立たったが、庭をまっすぐ横切りたくはなかった。塀沿いに茂みに隠れ、頭を低くして庭を横切り、ニコルが開けっ放しにしておいた扉にそれとも知らずにたどり着いた。

 門の上まで這い育っている大きなアリストロキアの陰に隠れて、大きなホールである手前の部屋が想像通り完全に空っぽなのを確認した。

 ホールには二枚の扉があって、一枚は閉じていたが、もう一つは開いていた。開いているのはニコルの寝室だろうと見当をつけた。

 ジルベールはその部屋に忍び込み、暗闇の中で何かにぶつかったりしないよう手を伸ばして進んだ。

 だが廊下の端まで来ると、ガラス窓の嵌められた扉が隣の部屋の明かりに浮かび上がった。ガラスの向こうにはモスリンのカーテンがたなびいている。

 廊下に出ると、明かりのついた部屋からかすかな声が聞こえた。

 アンドレの声だ。ジルベールの血という血が逆流した。

 別の声がそれに答えている。フィリップの声だ。妹の具合をたずねているのだ。

 ジルベールは用心しながら歩を進め、何かの胸像が乗せられている円柱の陰に隠れた。これは当時、奥行きのある二重扉の装飾として作られていたものである。

 こうして安全に見聞き出来るようになると、幸せのあまり心が喜びにとろけた。恐ろしさのあまり心臓がただの点のように縮こまった。

 ジルベールは耳を澄まし、目を凝らした。

『ジョゼフ・バルサモ』第71章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第七十一章 快復

 こうしてジルベールの具合もすっかりよくなったとルソーが納得し、それもこれもド・ジュシューという偉いお医者さんの診察のおかげだとテレーズが奥さん連中に触れ回っているうちに、ジルベールはすっかり危険を脱していた。意地を張ったりいつも夢見たりしていたせいでジルベールはこれまでにも危険な目に遭って来たが、こうして全般的に信頼されている間に人生最大の危険に遭ったのだ。

 ルソーは論理的推論に支えられた疑念を心中に抱かないほどお人好しではなかった。

 ジルベールが恋に落ちていることは知っていたし、面と向かって健康上の言いつけに背いたのを見つけて驚いていたので、ジルベールを自由にさせ過ぎると同じような過ちを犯すに違いないと判断した。

 そこでルソーは良き父として、屋根裏の南京錠をこれまで以上にしっかりと掛けた。窓から出る道はひそかに残されていたものの、扉を通ることは事実上禁じられたのである。

 この心遣いによって屋根裏を牢獄に変えられて、ジルベールがどれほどの怒りを覚え如何なる企てを考えたのかは、言葉には尽くし難い。

 ある種の人々にとって、圧力とは実りの母である。

 ジルベールはアンドレのことしか考えていなかった。遠くからであろうと、快復状況をじっと見守る喜びのことしか考えられなかった。

 だがアンドレは別館の窓に姿を見せなかった。ニコル一人がお盆で煎じ薬を運んでいたり、頭をはっきりさせるつもりなのか、ド・タヴェルネ男爵が庭を歩き回って苛々しながら嗅ぎ煙草を嗅いでいたりするのが見えたが、どれだけ部屋の奥や厚い壁を見渡そうとも、見えたのはそれだけであった。

 それでも細々としたところが見えたことで幾分か落ち着くことが出来た。それはつまり、臥せってはいるが死んではいないということだからだ。

「あそこか」とジルベールは独り言ちた。「あの扉の向こうか衝立の向こうに、僕の愛している人が息をして息を吐いて苦しんでいるんだ。その姿を見れば額には汗が流れ、手足が震えるあの人が。僕の存在を支えるあの人が。あの人を通して僕は二人のために呼吸をしているんだ」

 そうしてジルベールは天窓から身を乗り出した。覗いていたションに言わせれば、一時間のうち二十回は落ちてもおかしくないような乗り出し方だった。ジルベールは目を働かせて、仕切り壁や床の大きさ、別館の奥行きを測り、頭の中に正確な図面を引いた。あそこにはド・タヴェルネ男爵が寝ているに違いない。あそこは配膳室か台所で、あそこはフィリップが使っている私室で、あそこはニコルのいる小部屋、そしてあそこがアンドレの寝室だ。その聖域の扉の前でなら一日をひざまずいて過ごす代わりに生命を投げ打ってもいい。

 ジルベールに倣えばその「聖域」は、一階にある大きな部屋で、玄関の間に通じており、ガラスの嵌った壁が食い込んでいる。ジルベールの計算によればその壁の向こうはニコルの寝室のはずだ。

「ああ!」ジルベールは嫉妬で気も狂わんばかりだった。「あの庭に足を踏み入れてこの窓を見上げる人たちや、階段にいる人たちは、何て幸せなんだろう! 何も知らずに花壇の土を踏みしめる人たちは何て幸せなんだろう! きっと夜になればアンドレの繰り言や吐息が聞こえるんだろうな」

 願望から実行までには遙かな隔たりがあった。それでも豊かな想像力にはその隔たりを狭める力があった。想像力にはそのための手段がある。不可能も実現できる。大河に橋を架け、高峰に梯子を掛ける術を心得ていた。

 ジルベールは初めの数日間、願望に耽ってばかりいた。

 やがてこれほどまでに妬ましい幸せな人間が、ジルベール自身と同じく庭の土を踏みしめるための足や扉を開けるための腕を授かっている普通の人間なのかと、つらつら考えた。ついには、この禁制の家にこっそり忍び込んだり、鎧戸に耳を押しつけて洩れ来る音を聞いたり出来たらどれほど幸福だろうかと思い描き始めた。

 願望ではち切れそうになり、いつ実行に移してもおかしくなかった。

 さらには見る見るうちに力が戻り、若さが宿り満ちた。三日後には、発熱のせいもあって、これまで感じたことのないほどの力強さを感じていた。

 ルソーに閉じ込められていては、ド・タヴェルネ嬢の部屋に扉から忍び込むという難題を解けないことはわかっていた。

 コック=エロン街に通ずる扉は開いているのだ。プラトリエール街に閉じ込められていては、如何なる通りにも出ることが出来ないのだから、如何なる扉を開きに行く必要もない。

 窓には何もされていない。

 屋根裏の窓は四十八ピエの高さにあった。

 酔っぱらいか気違いでもない限り、そこから降りる危険を冒す者などいまい。

「それにしても扉というのはうまく出来ているものだな」ジルベールは拳を咬んだ。「哲学者ルソー氏に閉じ込められてしまった!」

 南京錠をもぎ取ればいい! 簡単なことだ。だがもてなしてくれた家に戻りたい気持が勝った。

 リュシエンヌから逃げればいい、プラトリエール街から逃げればいい、タヴェルネから逃げて来たように。いつもいつも逃げてばかりいればその先には、忘恩や軽率のそしりを免れずにただ一人の女性を見ることはもはや出来なくなる道が待っている。

「いや、ルソーさんは何もわかるもんか」

 ジルベールは天窓に屈み込んだ。

「自由人に備わっているこの手足を使って、屋根瓦につかまり、軒を伝って行こう。随分と狭いのは確かだけれど、まっすぐだから、一歩一歩最短距離を取れば、たどり着けたならここと同じような天窓にたどり着ける。

「だけどあの天窓は階段のところにある。

「たどり着けなければ庭に落ちて音を立てるから、別館から人が出て来てぼくを抱き起こし、誰なのか気づくに違いない。清く気高くロマンティックに死ぬんだ。同情されるんだろうなあ。何てドラマティックなんだろう!

「たどり着くことが出来たなら、あらゆる点から見て出来るに決まってるんだけど、とにかくたどり着いたら階段から天窓に駆け込もう。裸足で二階まで降りれば、そこにも庭向きの窓があって、地上十五ピエくらいだ。そこから飛び降りて……

「ああ! もっと力があって、もっとしなやかだったらなあ!

果樹垣根エスパリエがあるからそれを利用して……

「でもあのエスパリエは金網に穴が空いているから壊れてしまいそうだ。転がり落ちたら、気高くロマンティックに死ぬどころか、石膏で真っ白になって傷だらけでみっともなく、梨泥棒のように見えるんだろうな。考えたくもないや! ド・タヴェルネ男爵のことだから、管理人に僕を鞭打たせたり、ラ・ブリに耳を引きずり回させたりするかも。

「冗談じゃない! ここには紐がたくさんある。藁から束が出来るというルソーさんの定義に従えば、縒り合わせれば綱になるぞ。

「一晩の間だけ、この紐をテレーズさんに借りよう。結び目を作っておいて、二階の窓にたどり着いたら、露台にでも何でも支えになるものに綱を引っかけて、庭に滑り降りればいい」

 ジルベールは樋を確かめ、紐を外して長さを見繕い、高さを見積もり、力と決意を自覚した。

 紐を編んで頑丈な綱にしなくてはならない。強さを確かめるため侘び住まいの梁に吊してみた。幸いなことに力を込めても一度しか血を吐かなかったため、夜の遠征に出向くことを決意した。

 ジャック氏とテレーズを首尾よく欺くために、病気を装い二時まで寝床に潜り込んでいたが、昼食を終えるとルソーは散歩に出てしまい、夜まで戻って来ないはずだ。

 眠たくて仕方がないので翌朝まで目を覚ましそうにないと、ジルベールはルソーに伝えた。

 ちょうど外で夕食を食べる予定だったので、ジルベールが元気そうで何よりだったというのが、ルソーの返答だった。

 それぞれに伝えたいことを伝えて二人は別れた。

 ルソーが出て行くと、ジルベールは再び紐を外して今度こそ懸命に縒り始めた。

 なおも樋や屋根を探っていたが、やがて夜まで庭を見張り始めた。

『ジョゼフ・バルサモ』 第70章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第七十章 ド・ジュシュー氏

 さてド・サルチーヌ氏が部下を送り込んだあのプラトリエール街の家に戻ると、五月三十一日の朝、テレーズの部屋の寝台マットレスに伸びているジルベールをご覧いただけよう。テレーズとルソーは隣人たちと共に、今もなおパリ中を震え上がらせているあの大惨事の痛ましい証人を見つめていた。

 青ざめて血にまみれたジルベールは、目を開いていた。意識を取り戻すと身体を起こして辺りをきょろきょろと見回した。まだルイ十五世広場にいるものと勘違いしているようだ。

 初めは不安に、次いで喜びに顔が染まった。だがすぐに悲しみの影がまたも喜びを消し去った。

「大丈夫ですか?」ルソーがいたわるように手を握ってたずねた。

「誰が助けてくれたんです? この世に僕のことを気に掛けてくれる人がいたなんて!」

「あなたを助けたのは、あなたがまだ生きていたからですよ。あなたのことを気に掛けてくれたのは、あらゆる人間のことを気に掛けて下さるお方ですとも」

「どっちにしても無謀だよ」テレーズがぶつくさ言った。「あんなにごった返したところに行くなんて」

「まったくだ、無謀にもほどがある!」隣人たちが声を揃えた。

「まあまあ、皆さん」とルソーが割って入った。「危険があるとは言えないのなら無謀とは言えませんし、花火を見に行くのは危険とは言えませんよ。そこで危険に遭ったとしたら、無謀ではなく不運なんです。こうして話している我々だって、同じことをしたかも知れないんですから」

 ジルベールは顔を巡らし、ルソーの部屋にいることに気づいて口を開こうとした。

 だが口や鼻に血を通わせようとするので精一杯だった。ジルベールは気を失った。

 ルイ十五世広場の医師から予め助言されていたので、ルソーはまったく動じなかった。こうなることを予期していたので、何も掛けずに寝台マットレスの上に寝かせておいたのだ。

「もういいでしょう」とテレーズに言った。「この子を寝かせてもらえますか」

「何処にです?」

「もちろんここだ、わたしの寝台だよ」

 ジルベールはそれを耳にして、ひどい衰弱のせいですぐには答えられなかったものの、苦労して目を開いた。

「いいえ」と言うのも精一杯だった。「ここじゃなく、上に!」

「自分の部屋に戻りたいのですか?」

「ええ、お願いです」

 口ではなくむしろ目を使って、苦しくてもなお忘れずに浮かんで来た願いを伝えた。その願いは心の中で理性にさえ打ち勝ったようだ。

 ルソーは敏感すぎるほどの感受性を持った人間だったので、どうやら理解したらしく、こう答えた。

「わかりました、上へ運びましょう。どうやらわたしたちに迷惑を掛けたくないようだ」ルソーに言われてテレーズも否やはなかった。

 こうして、ジルベールは要求通りすぐに屋根裏部屋に運ばれることになった。

 移動はつつがなく行われた。

 昼頃になって、ルソーは習慣となっている植物採集の時間を割いて、弟子の枕元で過ごすことにした。幾らか持ち直したジルベールが、惨事の詳細を消え入りそうな小声で話してくれた。

 花火を見に行った理由は口にされなかった。好奇心からルイ十五世広場に足を運んだのだと言う。

 魔術師ならぬルソーにはそれ以上は疑うべくもなかった。

 だから驚いた顔は見せずに、いくつか質問をしただけで満足し、たっぷりと養生するよう釘を刺すに留めた。手の中にあったのをフィリップがつかんだあの布の切れ端についても一切触れなかった。

 それでもやはり、二人が関心を持っていることやはっきりした事実とは繋がりのある話だったので、気を緩めることはなかった。互いにすっかり夢中になっていると、突然テレーズの足音が踊り場に響き渡った。

「ジャック! ジャック!」

「おや、どうしたんだろう?」

「今度は僕に大公のお客様かな」ジルベールが力なく微笑んだ。

「ジャック!」テレーズが声をかけながら上がって来る。

「はいはい、何の用です?」

 テレーズが姿を見せた。

「ド・ジュシューさんが下に見えてますよ。昨夜あそこであなたを見かけたと聞いて、怪我をしたのかどうか聞きいらしたんです」

「何ていい人だろう! 好むと好まざるとに関わらず、自然と仲良く、つまりあらゆる善の源と仲良くしている人たちはみんなそうです! どうか安静に、ジルベール、すぐ戻ります」

「ええ、ありがとうございます」ジルベールが答えると、ルソーは出て行った。

 だがルソーが出て行くとすぐに、ジルベールは何とか立ち上がって、アンドレの部屋の窓が見える天窓までじりじりと進んだ。

 体力もなく頭もほとんど働かない人間には、椅子に上るのも窓枠によじ登るのも、屋根に身を乗り出すのも、一苦労だった。それでもどうにか実行したものの、すぐに眩暈がして手が震え、口唇から血を流してタイル張りの床に倒れた。

 その時、屋根裏部屋の扉が再び開いて、ジャン=ジャックが溢れるほどの敬意を払っていたド・ジュシュー氏を連れて入って来た。

「気をつけて下さい、頭を下げて……そこに段差があります。残念ながらここは宮殿ではありませんから」とルソーが言った。

「気にせんで下さい、私にだって目や足はありますから」植物学者が答えた。

「お客様をお連れしましたよ、ジルベール」ルソーは寝台に目をやり……「何処に行ったんだ? 起きたんだな、馬鹿なことを!」

 窓が開いているのを見て、腹を立てて叱りつけてやろうとした。

 ジルベールは何とか起き上がって消え入りそうな声を出した。

「空気が吸いたかったんです」

 目に見えて苦痛のぶり返している顔を見れば、怒りようもなかった。

「確かにここはひどく暑いね」ド・ジョシュー氏が口を挟んだ。「脈を計ってみましょうか、私は医者でもある」

「それはありがたい。あなたは身体だけでなく魂の医者でもあるんですから」とルソーが言った。

「身に余る光栄です……」ジルベールは弱々しく呟き、粗末な寝台から目を逸らせようとした。

「ド・ジュシュー氏が是非とも会いしたいと言ってくれてね」ルソーが言った。「わたしも喜んで賛成したんだ。どうですか、胸の状態は?」

 熟練した解剖学者は骨を触り、注意深く聴診して空洞を確かめた。

「内臓は問題ない。だがいったい誰がこんな力で胸を押し潰したのかな?」

「死神です!」

 ルソーは驚いてジルベールを見つめた。

「あなたは重傷なんですよ。それでも薬と空気と静養を取ればすっかり良くなります」

「静養はしません……そんなこと出来ません」ジルベールはルソーを見つめた。

「どういうことかな?」ド・ジュシュー氏がたずねた。

「ジルベールは働き者なんですよ」ルソーが答えた。

「なるほど。しかしここ何日かは働けないよ」

「生きるためです!」ジルベールが言い募った。「人は毎日を生きるため、毎日働かなくては」

「食べ物をあまり摂ってはいけないし、煎じ薬は高いものではないよ」

「それほど高くないとしても」とジルベールは言った。「施しを受けるつもりはありません」

「馬鹿なことを言うもんじゃありません」ルソーがたしなめた。「いい加減にしなさい。いいですか、自分で何かを決めるのはこの方の指示を聞いてからにしなさい。あなたがどう思おうとこの方が直してくれるんです。信じられますか」と、今度はド・ジュシュー氏に向かって話しかけた。「医者を呼ばないでくれと頼まれたんですよ」

「それはまたどうして?」

「わたしにお金を払わせたくないんだ、誇り高い子だから」

「だが」とド・ジュシュー氏はいっそうの興味を持って、表情豊かで線が細いジルベールの顔をまじまじと見つめた。「どれほど誇り高くとも、出来ることしか出来ないよ……窓に行こうとして途中で倒れていたのに、働くことが出来ると思いますか?」

「そうですね」ジルベールは呟いた。「身体が弱っているのはわかってます」

「ではお休みなさい、それも心を休めることだ……あなたが厄介になっているのはあらゆる人々から敬意を払われている人だが、気を遣わずに済むのは客人の特権だからね」

 ルソーはこの大貴族の巧みな讃辞に気をよくして、手を取って握り締めた。

「それに」とド・ジュシュー氏は言い添えた。「国王や王子たちから温かい気遣いをしてもらえまるよ」

「僕が!」とジルベールは声をあげた。

「昨夜の犠牲者だからね……王太子殿下は報せを聞いて、ひどくお嘆きになった。王太子妃殿下はマルリーに行くのをやめて、トリアノンにお留まりになった。そこにいた方が不運な人々を手助け出来るからね」

「本当ですか?」ルソーがたずねた。

「もちろんだ。王太子殿下がド・サルチーヌ殿に書いた手紙の話しか出来ないがね」

「どんな手紙なんです?」

「なかなか結構な手紙だった。王太子殿下は月に二千エキュの年金をお受け取りになっているが、今朝はそれが届かなかったので、驚いてあちこち駆けまわって出納係に何度もおたずねになった。お金を運ばせていた出納係を直ちにパリに遣って、ド・サルチーヌ宛てに味のある二行詩をお届けになった。それをド・サルチーヌ殿から見せてもらったんだ」

「すると今日はド・サルチーヌ氏と会っていたんですか?」ルソーの声には不安というより不審が滲んでいた。

「実はそこから来たんだ」と答えたド・ジュシュー氏は少しまごついていた。「種子のことで尋きたいことがあったものでね。それに――」さらに急いでつけ加えた。「王太子妃殿下がヴェルサイユに留まって、宮廷の病人や怪我人のお世話をするというから」

「宮廷の病人や怪我人?」ルソーが繰り返した。

「そうだ。被害に遭ったのはジルベール君だけじゃない。今回ばかりは惨事に高い代償を払わされたのは庶民だけじゃない。怪我人の中には貴族もたくさんいるそうだよ」

 ジルベールはやきもきしながら耳をそばだてていた。著名な植物学者の口から、いつ何時アンドレの名前が出て来るとも限らない。

 ド・ジュシュー氏が立ち上がった。

「ではこれで話は終わりですか?」ルソーがたずねた。

「我々の科学にはこれ以上この患者に出来ることはないよ。空気とほどよい運動。それはそうと……森のことを……忘れていた……」

「何のことです?」

「今度の日曜日に、マルリーの森で植物学の調査をするつもりなんだが、高名な同業者である君に、一緒に来てはもらえないだろうか?」

「無名の崇拝者と言って下さい」

「そうかね? まあ怪我人に運動させるよい機会だ……この子も連れて来たまえ」

「遠いのですか?」

「すぐそこだ。それに馬車でブージヴァルまで行くから、乗せて行こう……プランセス通り経由でリュシエンヌまで向かい、そこからマルリーに行くとしよう。植物学者がよく立ち寄るんだ。怪我人のために椅子を忘れずに……私たちが植物採集している間に、この子も元気になるだろう……」

「そこまでしていただくなんて!」ルソーが感嘆した。

「そんなんじゃないんだ。個人的な関心だよ。知っての通りわたしには苔について研究したいことがあってね。あの辺りには疎いから、案内して欲しいんだ」

「喜んで!」ルソーは思わず嬉しさを顔に出した。

「そこで軽い食事を取ろう。木陰で、花に囲まれて。いいね?」

「いいですとも……では日曜日にピクニックを。自分が十五歳になったみたいだ。今から楽しみで仕方がありません」ルソーは子供のようにはしゃいでいた。

「では君はそれまで足を休ませておくんだぞ」

 ジルベールはド・ジュシュー氏には聞き取れないような声で感謝を呟いた。二人の植物学者はジルベールに考え事を、とりわけ恐れを植えつけていた。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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