翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 77-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「デギヨンか、確かに、ラ・シャロテ事件のとっかかりでした。なるほどたいした人物です。難しい仕事をやってのけた。賢い者ならああいう人間を引き入れなくてはなりますまい」

「甥御さんのことはあたくし、何も知らないんですけれど……」

「おや、ご存じありませんか?」

「ええ、一度も会ったことがないんですの」

「これはしたり! 確かに認証式からこっち、ブルターニュの奥に籠もりきりでしたからな。お会いした際には気をつけてやって下さい、太陽に目が眩んでしまうでしょうから」

「才能も家柄もある方が、あんな黒服たちの中で何をなさってますの?」

「改革しているのですよ、ほかにやることがありませんから。楽しみを見出すにしても、ブルターニュにはたいした楽しみがありません。あれこそ行動派です。あれほどの臣下はおりませんぞ、望みさえすれば陛下も取り上げて下さるでしょう。高等法院が傲慢な態度を取り続けるとしてもあれとは無関係です……。あれこそ真のリシュリューですよ、伯爵夫人。ですから、どうかお許しいただきたいのですが……」

「何をですか?」

「こちらに来た際にはあなたに紹介させて下さい」

「ではそのうちパリにいらっしゃるんですか?」

「さあ、どうでしょうな? ヴォルテールの言うように、まだなお栄光のためにブルターニュに残っているかもしれません。こちらに向かっている途中かもしれません。パリから二百里のところかもしれません。市門のところかもしれません」

 そう言ってリシュリュー元帥はデュ・バリー夫人の顔を窺い、最後の言葉がどのような効果を及ぼしたのか確かめた。

 だがデュ・バリー夫人はすぐに我に返り、

「話の続きに戻りましょうか」と言った。

「お好きなところから続けて下さい」

「何処までお話ししましたかしら?」

「陛下がド・ショワズール殿と一緒にトリアノンに籠もっているというところまでです」

「でしたら、そのショワズールを遠ざけるところから続けましょう」

「と言いますか、あなたが続けて下さい、伯爵夫人」

「あらそう? ショワズールには出て行ってもらいたいし、出て行ってもらわないとあたくしが危ないんです。あなたはこれっぽっちも助けて下さらないんでしょう?」

「ほ、ほう!」リシュリューは胸を反らせた。「そういう遣り口は、政治の世界では歩み寄りと呼んでおります」

「お好きなように捉えて下さって構いませんし、どのようにお呼び下さっても構いませんけど、明確に答えて下さいましね」

「そんな可愛い口から出るには、何とも嫌な副詞ですな」

「それが答えですの、公爵?」

「いやいや、そういう訳ではありません。答えの準備ですな」

「準備は出来まして?」

「しばしお待ちを」

「怖じ気づきましたの?」

「とんでもない」

「ではお話し下さい」

「寓話についてどう思われますか、伯爵夫人?」

「とっても古いものです」

「いやはや、太陽だって古いですし、ものを見るにはあれよりほかありませんからな」

「では寓話のお話をなさって下さい。でも曇りなくすっきりとお願いね」

「水晶のように曇りなく」

「ではお願いします」

「お聞き下さいますか?」

「どうぞ」

「ではご想像下さい……ご存じのように、寓話には想像がつきものですから」

「ふう! 面倒臭いわね」

「思ってもいないことを仰いますな、これまで真剣に耳を傾けたりなどなさらなかったでしょう」

「ごめんなさい。悪かったわ」

「リュシエンヌの庭を歩いていて、美味しそうなプラム、それもスモモレーヌ=クロードを見つけたと想像して下さい。あなたの大好物ですな、何せあなたに似て真っ赤に熟しておりますから」

「続きをどうぞ、ごますり屋さん」

「枝の先や樹上に実ったプラムを見つけたとしたら。あなたならどうなさいますか、伯爵夫人?」

「木を揺するわ」

「ところがうまくいかない。というのも先ほど仰ったように、この木は太くどっしりと根を張っているからです。結局揺らすことも出来ずに、いつの間にか樹皮でそのお手々を引っ掻いていたことに気づきました。そこであなたは、あなたと花にしか出来ないような可愛らしい仕種で首を傾げて、『もうがっかり! プラムが地面にあればよかったのに』と言って悔しがりました」

「ありそうなことね」

「確かにわしは反対いたしませんな」

「続けて。面白くなって来たわ」

「そこで振り返ったところ、友人のド・リシュリュー公爵が考え込みながら歩いて来るのが目に飛び込んで来ました」

「何を考えていましたの?」

「いい質問です! あなたのことを考えていました。あなたはさえずるような声で呼びかけました。『公爵! 公爵!』」

「そうよね」

「『あなたは逞しい男の方ですし、マオンを奪取なさいましたでしょ。このプラムの木をちょっと揺すって下さらないかしら。この憎ったらしいプラムが欲しいんです』。如何ですか、伯爵夫人?」

「本人そのものでした。あなたが声に出している間、あたくしはそれを囁いていましたもの。それで、何と答えましたの?」

「わしは答えました……」

「ええ」

「『ご冗談でしょう! それは確かにこれ以上のことなどわしは求めませんが、それにしたってご覧なさい。この木は随分とがっしりしているし、枝は随分とごつごつしております。あなたのより五十年も古ぼけているとはいえ、わしだって自分の手は可愛いですからな』」

「あら!」伯爵夫人が声をあげた。「あたくし、わかっちゃった」

「では寓話を続けましょう。あなたは何と仰いましたか?」

「あたくしは言いました……」

「さえずるような声で?」

「いつものように、です」

「どうぞどうぞ」

「あたくしは言いました。『元帥閣下、興味のないふりはおやめになって。でも自分のものではないからといって、プラムに興味がないわけじゃありませんでしょ。あなたも欲しくありませんの? しっかりと木を揺すってプラムを落としてくれたなら、そうしたら……!』」

「そうしたら?」

「『そうしたら、一緒にいただきましょうよ』」

「お見事!」公爵は両手を叩いた。

「そうかしら?」

「そうですとも、誰もあなたほど上手くは寓話をまとめられますまい。我が角に誓って、亡父が申しておりましたように、丁寧にまとめられていますぞ!」

「では木を揺すって下さいますのね?」

「二本の手と三つの心臓で」

「それで、そのプラムはレーヌ=クロードでしたの?」

「そうだっとは言えませんな」

「では何でしょう?」

「その木の天辺にあったのは、どうやら大臣の地位のようです」

「じゃあ二人で大臣の地位を」

「いやいや、それはわしのものです。大臣のことはうらやみますな。木を揺すればほかにもたくさん落ちて来るでしょうから、目移りしてどうすればよいのかわからないくらいですぞ」

「それはもう決まったことですの?」

「わしがド・ショワズール殿に取って代わることが?」

「陛下がお望みなら」

「陛下はいつでもあなたと同じことをお望みなのでは?」

「そうでないことはよくわかってらっしゃるでしょう。陛下はショワズールを更迭なさりたくないんですもの」

「何の! 陛下は昔の相棒を懐かしんで下さいますとも」

「軍隊の?」

「さよう、軍隊のです。最大の危険が戦争とは限りませんからな」

「デギヨン公のことは頼まなくてもいいんですの?」

「構いません。自分のことくらいは自分で出来るでしょう」

「それにあなたも、ね。次はあたくしの番ですわ」

「何の話でしょうか?」

「お願いするのはあたくしの番です」

「ああ、なるほど」

「あたくしには何をしてくれますの?」

「お望みのことを」

「すべてが欲しいんです」

「もっともなご意見ですな」

「手に入りますか?」

「いい質問です! だがそれで満足ですか、ほかに頼み事はありませんか?」

「ほかにもまだあるんです」

「ではどうぞ」

「ド・タヴェルネ殿をご存じ?」

「四十年来の友人です」

「息子さんがいますでしょ?」

「それに娘さんが」

「そうなんです」

「それで?」

「それだけです」

「はて、それだけですか?」

「ええ、お願いするのは後に残しておいて、然るべき機会にお願いするつもりです」

「よい作戦です!」

「では決まりですわね?」

「わかりました」

「約束ですね?」

「むしろ誓いましょう」

「では木を倒して下さいまし」

「手だてはあります」

「どんな手だてでしょうか?」

「甥です」

「それから?」

「イエズス会です」

「そういうこと!」

「こんなこともあろうかと温めておいたささやかな計画がございます」

「教えてもらうわけには?」

「残念ですが伯爵夫人……」

「ええ、そうね。あなたの言う通りよ」

「おわかりでしょうが、秘密にしておくことが……」

「成功の鍵を握っている、と仰りたいんでしょう」

「これは一本取られましたな」

「それでね、あたくしの方からも木を揺すろうと思ってますの」

「それはいい! どんどん揺すって下さい。それでまずくなることなどないでしょう」

「あたくしにも手だてはあるんです」

「見込みはありますか?」

「そのために費やしたんですから」

「どのためでしょうか?」

「そのうちわかりますわ、むしろ……」

「何でしょう?」

「いいえ、それはおわかりありませんわ」

 魅力的な口を持つ伯爵夫人にしか出来ないような細やかな口振りでこの言葉を口に出すと、すぐさま伯爵夫人は我に返ったように、駆け引きに夢中になって波のように動かしていたスカートの襞を素早く降ろした。

 多少なりとも船の経験のあった公爵は、海の天気の変わりやすさには慣れていたので、豪快に笑うと伯爵夫人の手に口づけをして、これまで悟って来たように、謁見が終わったことを悟った。

「木を倒すのにはいつ取りかかりますか?」伯爵夫人がたずねた。

「明日。あなたはいつ揺するおつもりです?」

 庭に四輪馬車の轟音が聞こえ、ほぼ同時に国王万歳!の声があがった。

「あたくしは」伯爵夫人は窓の外に目をやった。「今すぐに取りかかります」

「結構ですな!」

「小階段を通って、庭で待っていて下さい。一時間後にお返事いたします」

 
 

 第77章「寓話」おしまい。

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『ジョゼフ・バルサモ』 77-1

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第七十七章 寓話

 ジャン・デュ・バリー子爵がチョコレートをがぶ飲みして伯爵夫人に嫌な顔をされたあのリュシエンヌの小部屋で、ド・リシュリュー元帥がデュ・バリー夫人と軽食を摂っていた。デュ・バリー夫人がザモールの耳をもてあそびながら、花模様の織り込まれた繻子の長椅子の上にゆっくりと無頓着に寝そべり 、様々な姿態を取るたびに、この老臣は(悲しいかな!)感嘆の声をあげていた。

「おやおや!」老婆のようにしなを作った。「髪が乱れますぞ。ほらほら、鬢の毛がほつれておるし、ミュールも脱げました」

「ふふ! そんなの気になさらないで」ザモールの髪を気まぐれに引き抜き、すっかり横になると、真珠貝に乗ったウェヌスのように、さらに蠱惑的にさらに美しく見えた。

 ザモールはどんな姿態にも見向きもせず、怒りに顔を染めた。伯爵夫人はそれをなだめようと、ポケットに入れておいた砂糖菓子ドラジェをテーブルに置いた。

 だがザモールは口を尖らせ、自分のポケットをひっくり返して砂糖菓子を床にぶちまけた。

「あら、悪い子ね!」伯爵夫人は足を伸ばしていたので、爪先が黒ん坊の長靴下と触れそうになった。

「堪えて堪えて!」老元帥が声をあげた。「殺してしまいかねん」

「どうして気に食わないものを片っ端から殺してはいけないのかしら? 今日は残酷な気分なのに」

「ほ、ほう! ではわしも嫌われておりますかな?」

「あら、まさか。一番の友人ですもの、大好きですわ。でも実際あたくしって馬鹿みたいね」

「馬鹿みたいな気分にさせた原因は病気ですかな?」

「もううんざり。思ってもいないくせにおべっかを使うのはやめて下さいな」

「伯爵夫人! どうやらあなたは馬鹿なのではなく無知なのではありませんか」

「いいえ、あたくしは馬鹿でも無知なのでもありません、あたくしは……」

「さあ、仰って下さい」

「あたくしは怒っているんです、公爵閣下」

「ああ、なるほど」

「驚きまして?」

「いやいや、とんでもない。お怒りになるのももっともです」

「あなたのことで怒っていることがあるんですの」

「わしのことで怒っていることがあると?」

「ええ」

「それはいったいどのような点でしょうか? 歳は取りましたが、あなたに気に入られるためにはどんな努力も惜しみませんぞ」

「それはね、何の話なのかわかってもいないってことですの」

「そんなことはありますまい!」

「あたくしがどうして苛ついているかご存じ?」

「ええ、ザモールが中国製の噴水を壊したからでしょう」

 気づかないほどのかすかな微笑みがデュ・バリー夫人の口元に浮かんだ。だがザモールは告発されたことに気づいてしおらしく頭を垂れた。びんたや爪弾きの雲に覆われて空が翳っているのを見て取ったようだ。

「そうなんです」伯爵夫人はため息をついた。「公爵閣下の仰る通りですわ、あなたったら本当に駆け引き上手ですのね」

「よく言われます」ド・リシュリュー氏が控えめに応答した。

「あら、言われなくても見ればわかりますわ。きっとあたくしの悩みもたちどころに見抜いてしまわれるんじゃないかしら。たいしたものね!」

「仰る通りです。ですがそれだけではありませんぞ」

「あら!」

「まだほかにも見抜いていることがあります」

「ほんと?」

「はい」

「どんなこと?」

「昨日の晩、あなたは陛下をお待ちしていらっしゃいました」

「何処で?」

「ここです」

「いいわ、それで?」

「陛下はいらっしゃいませんでした」

 伯爵夫人は真っ赤になって肘を起こした。

「まあ!」

「しかしですな、わしはパリから到着したばかりなのです」

「証明できますの?」

「ヴェルサイユで起こったことがわかるわけはありませんが、しかし……」

「公爵閣下ったら、今日は思わせぶりばかりですのね。始めたからには終わらせて下さいな。さもなきゃ初めから何も言いっこなしです」

「あなたは楽に話せましょうが、わしの方は少しくらい休ませて下さい。何処まで話しましたかな?」

「ええと……『しかし』までです」

「ああ、そう、そうでした。しかしわしは、陛下がいらっしゃらなかったことだけではなく、どうしていらっしゃらなかったかも知っておるのです」

「あなたは魔術師なんじゃないかと、あたくし常々思っておりましたわ。でも証拠がありませんの」

「ふむ、ではその証拠をお見せいたしましょうか」

 伯爵夫人は思っていた以上に話に引き込まれ、ザモールの髪をかき回していた白く細い指を頭から離した。

「お願いします」

「総督がいても構わないのですか?」

「お行き、ザモール」伯爵夫人が命じると、黒ん坊は喜び勇んで寝室からホールまで飛び跳ねて行った。

「これでいい」リシュリューが呟いた。「しかしこれですっかり白状しなくてはなりませんな?」

「まあ、ザモールのお猿さんが邪魔でしたの?」

「本当のことを口にするには、何人なんぴとであろうと邪魔なものです」

「ええ、何人でもというのはわかります。でもザモールは人かしら?」

「盲でも聾でも唖でもないのですから、人でしょう。目と耳と口がある相手なら誰でも、つまりわしのすることを見ることが出来、わしの言うことを聞いたり繰り返したりすることが出来、わしのことを密告することが出来る者なら誰でも、人の名で呼ぶことにしております。そういうことにして、続けたいと思います」

「ええ続けて下さいな、お願い」

「喜んで、とは申しませんが、とにかく続けるつもりです。さて、陛下は昨日トリアノンをご訪問なさいました」

「プチの方? グランの方?」

「プチです。王太子妃殿下と腕を組んでらっしゃいました」

「まあ!」

「王太子妃殿下はご存じのように魅力的な方です……」

「そうね」

「こちらではお父さま、あちらではお祖父さまと甘えられては、お優しい陛下には抗うことも出来ませんから、散歩の後には夕食を摂り、夕食の後には軽く賭け事をなさっていました。という訳で……」

「という訳で――」焦れったさのあまり青ざめたデュ・バリー夫人がその言葉を引き取った。「という訳で、陛下はリュシエンヌにはいらっしゃらなかった、そう仰りたいのね?」

「残念ながらその通りです」

「そういうこと……。陛下が愛しているものは全部あちらにあるってことじゃない」

「そんなことはありますまい! あなただって自分のお言葉を一言だって信じてはいらっしゃらないでしょうに。せいぜいのところ、お気に入りのものが全部、というところでしょうな」

「なお悪いじゃない。夕食、お喋り、賭け事、どれも陛下には必要なことですもの。それで、どなたと遊んでらしったのかしら?」

「ド・ショワズール殿」

 伯爵夫人が苛立ったような仕種をした。

「この話はしたくありませんでしか?」リシュリューがたずねた。

「逆よ、どうか話して下さい」

「聡明なだけでなく勇敢でいらっしゃいますな。ではイスパニア人の言うように、牡牛の角に取りかかるとしましょうか」

「そんな言い方、マダム・ド・ショワズールはお気に召さないんじゃありません?」

「そんなことはありませんな。ド・ショワズール殿は、とその名を呼ばざるを得ませんが、切り札を持っていましたし、そのうえ運も才覚も……」

「勝ちましたの?」

「いいえ、負けました。陛下がピケで千ルイ勝ちました。陛下はかなり自惚れておりました、随分と悪い手でしたから」

「ああ、ショワズールったら! ド・グラモン夫人もいらっしゃったんでしょ?」

「何と言いますか、旅立たれる途中でした」

「公爵夫人が?」

「はい、愚かなことをなさったと思います」

「というと?」

「誰にも構われないと気づいて拗ねてしまい、誰にも追い出されないのに気づいて自分からおん出てしまいました」

「何処に?」

「田舎に」

「何か企んでるのよ」

「おやおや! 何をして欲しいというのです? とにかく、旅立つ途中でごく自然に王太子妃に挨拶を求めたので、妃殿下はごく自然に公爵夫人を愛しまれました。そう言うわけで公爵夫人はトリアノンにいらしたのです」

「グランの方?」

「でしょうな、プチにはまだ家具が入っていませんから」

「そんなふうにショワズール兄妹に取り巻かれてるのなら、王太子妃がどの一派に口づけするつもりなのかよくわかるわね」

「いやいや、伯爵夫人、早とちりはなさいますな。いずれにしても明日、公爵夫人は出発いたします」

「つまり陛下はあたくしのいないところで楽しんでたのよ!」伯爵夫人の憤りからは怯えも拭われてはいなかった。

「なるほどそうですな。信じがたいことですが、そういうことです。それで、あなたならどう結論づけますか?」

「あなたが情報通だということです、公爵」

「それだけですか?」

「まさか」

「では仰って下さい」

「力ずくでも国王をショワズール兄妹の魔の手から引き離さなくては、あたくしたちの破滅だと、改めて結論づけました」

「何と!」

「ご安心なさいませ、公爵」と伯爵夫人が続けた。「あたくしたち、と言ったのは、あたくしの家族のことですから」

「それに友人も。こんな表現を使うことをお許し下さい。要するに……」

「要するに、あなたはご友人だと考えて構いませんのね?」

「そう申し上げたつもりです」

「それじゃ充分ではありませんわ」

「証明したつもりです」

「それならいいわ。手を貸して下さるんですね?」

「力の限り。ですが……」

「でも、何でしょうか?」

「事は困難を極めるということは、はっきり申し上げておきます」

「ではショワズール一族を根絶やしには出来ないんですね?」

「何にせよ逞しく根を下ろしていますからな」

「そうお思いなんですね?」

「そう考えております」

「ではラ・フォンテーヌがどう言おうと、この樫の木は風にも嵐にも負けないということですね」

「あの方はたいした才人ですから」

「百科全書派みたいな口の利き方をなさいますのね」

「わしがアカデミーの会員ではないとでも?」

「あら、どっぷり浸っている訳じゃありませんもの」

「確かにそうですな。わしよりむしろわしの秘書の方が相応しい。とは言うものの、やはり意見を変えるつもりはありませんぞ」

「ド・ショワズールが天才だってことですの?」

「さようです」

「でもそれなら、その才能を何処で発揮してますの?」

「こういうことです。高等法院やイギリスに関する問題を扱って来ましたから、もはや国王にとってなくてはならぬ存在なのです」

「でも高等法院を陛下にけしかけてるじゃないの!」

「そこが抜け目ないところです」

「イギリスを戦争に仕向けてるじゃない!」

「平和になっては飯の食い上げですからな」

「そんなの才能じゃありませんわ、公爵」

「では何でしょうか?」

「大変な裏切りです」

「大変な裏切りを成功させるのは、やはり才能ではありませんかな。わしには才能という言葉では追いつかないように思えます」

「でもそういう意味でなら、ド・ショワズール殿と同じくらい才能のある人を知っていますわ」

「はて?」

「少なくとも高等法院に対して」

「それは一大事ですな」

「何しろ高等法院の叛乱の原因なんですから」

「どうもよくわかりませんが」

「わかりませんの?」

「ええ、まったく」

「あなたのご親戚ですのに」

「わしの親戚に天才がいるだろうと? 大叔父の枢機卿のことを仰りたいのですか?」

「いいえ、甥御さんのデギヨン公爵のことですわ」

『ジョゼフ・バルサモ』 第76章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第七十六章 哲学者取り

 三人が苦労して丘の頂まで登ると、素朴な木造の小屋が建っていた。柱は節くれ立ち、切り妻は尖り、窓は木蔦や牡丹蔓で覆われ、紛れもないイギリス様式(というかイギリスの庭師)が採用されており、自然を真似するどころか自然を発明し、その創作建築や創作植物に何らかの独創性を加えていた。

 イギリス人は青い薔薇を作り上げた。その並々ならぬ野心は受け取った発想とは正反対のものばかりであった。そのうちには黒い百合も作り上げることだろう。

 その四阿は一台のテーブルと六脚の椅子が収まるほどの大きさで、敷地内には煉瓦が敷かれていた。煉瓦は筵で覆われている。壁には川べりから選別された小石やジュラ紀層の貝殻でモザイクが施されている。ブージヴァルとポール=マルリーの川辺を歩いていても、海胆や帆立や虹色の法螺貝などは見られず、アルフルールやディエップやサン=タドレス礁まで足を運ばなくてはならない。

 天井には浮き彫りが施されていた。奇妙な見た目の松かさや切り株が、不気味で醜い牧神か獣の姿に象られており、頭上から来訪者をつけ狙っているようにも見える。さらには紫や赤や青のガラスを通して、色つきの窓越しにヴェジネの野原や森が、八月の太陽の燃えるような息吹に染められた積乱雲のように色づいたかと思えば、十二月の寒気に晒されたように冷たくくすんで見えた。好みに応じて好きな窓を選んで好きな景色を見ればよい。

 ジルベールはこの景色に感銘を受け、リュシエンヌの丘の上から目の前に広がる肥沃な盆地やそれを貫いて蛇行するセーヌの流れを、四角い窓越しに見つめていた。

 ところがほかにも興味深い点が、少なくともド・ジュシュー氏には興味深いと思われたのは、四阿の真ん中にあるごつごつしたテーブルに美味そうな朝食が用意されていたことだ。

 マルリーのクリーム、リュシエンヌの杏にプラム、ナンテールのクレピネットやソーセージが磁器の上で湯気を立てているが、それを運んで来る召使いの姿は見なかった。葡萄の葉に覆われた籠には瑞々しい苺の山、つやつやした新鮮なチーズのそばにある黒パンや麦パンには、舌の肥えた都会人の口もとろけそうだ。ルソーは思わず感嘆の声をあげた。稀代の哲学者ではあったが味に関してはうぶなルソーも、ささやかな好みに似合わず食欲をそそられたのだ。

「これは凄い!」ルソーはド・ジュシュー氏に話しかけた。「パンに果物、欲しかったものばかりですよ。それに植物採集や探索に当たっては、藪を掻き分けたり穴を掘ったりしながらパンを食べたりプラムを齧ったりしなくてはならないからね。プレシ=ピケで食べたご飯を覚えているかい、ジルベール?」

「ええ、覚えてます。あの時のパンとさくらんぼはとても美味しくいただきました」

「まったくですね」

「ちょっと待ってくれ」とド・ジュシュー氏が口を挟んだ。「私のことを贅沢だと咎めているのなら、お門違いですよ。これほど慎ましやかな食事は……」

「それほど卑下することはありませんよ、ルクッルス」

「私が用意したとでも? とんでもない!」

「ではどなたの食卓にお邪魔したんでしょうね?」ルソーの微笑みには、遠慮と機嫌のよさが二つとも浮かんでいた。「……お化けでしょうか?」

「さもなきゃ妖精かな!」ド・ジュシュー氏は立ち上がり、途方に暮れて四阿の扉を見つめた。

「妖精ですか!」ルソーは面白がっていた。「それではおもてなしに感謝いたしましょう。お腹が減りました。いただきましょう、ジルベール」

 ルソーは黒パンを大きく自分に切り分けてから、パンとナイフをジルベールに手渡した。

 それからパンにかぶりつくと、大皿からプラムを一房つまみ上げた。

 ジルベールは躊躇っていた。

「お食べなさい!」とルソーが勧めた。「遠慮していると妖精たちが気を悪くしますし、きっとあなたに宴会を台無しにされたと思いますよ」

「それともあたなの機嫌を損ねてしまったのかしら」四阿の入口で涼しげな声がして、腕をつないだ若く美しい女性が二人、姿を見せた。口元に微笑みを浮かべ、仰々しい挨拶は無用とド・ジュシュー氏に合図していた。

「伯爵夫人! どうしてこちらに? 光栄に存じます!」ド・ジュシュー氏が目を見張った。

「今日は、植物学者さん」と片方のご婦人が極めて優雅に優しく声をかけた。

「ルソー氏をご紹介いたします」ド・ジュシュー氏が、黒パンをつかんでいる哲学者の手を取った。

 ジルベールもこの二人を知っていた。だから目を見開いて死人のように真っ青になり、今すぐにでも逃げ出したいと思いながら窓の外を見つめていた。

「今日は、哲学者ちゃん」もう一人のご婦人が縮こまっているジルベールに声をかけ、薄桃色をした三本の指で頬をちょこんと撫でた。

 ルソーはそれを見て、怒りで喉が詰まりかけたに違いない。自分の生徒が二人の女神と互いに知り合いだったとは。

 ジルベールは気が遠くなりそうになった。

「伯爵夫人とお会いしたことはなかったね?」ジュシューがルソーに確かめた。

「ええ、初めてお目に掛かるはずです」ルソーは呆然として答えた。

「デュ・バリー夫人です」

 ルソーは真っ赤に焼けた鉄板に乗せられたように飛び上がった。

「デュ・バリー夫人ですか!」

「初めまして」夫人は淑やかに挨拶した。「著名な思想家の方をこうして我が家にお招き出来たうえに、こんな間近でお目にかかれるなんて光栄でございますわ」

「デュ・バリー夫人!」とルソーは繰り返した。驚きが侮辱に当たることにも気づかずに……「ではこの四阿は伯爵夫人のものなのですか? 昼食をご用意下さったのは伯爵夫人なのですか?」

「当たりだ、ここは伯爵夫人姉妹のものです」荒れ模様を前にしてジュシューが決まり悪そうに答えた。

「それにこちらは、ジルベールをご存じだ!」

「ええ、たっぷりと」あっけらかんとしたションの答えには、貴族らしい気まぐれなところも哲学者らしい皮肉なところもなかった。

 ルソーの目がぎらぎらと輝いているのを見ると、ジルベールは穴があったら入りたかった。

「たっぷりとですか……!」ルソーが繰り返した。「ジルベールはこの方をたっぷりとご存じだったのに、わたしはそれを知らなかったのか? するとつまり、わたしは裏切られていたのか? からかわれていたのか?」

 ションと伯爵夫人は笑顔のまま見つめ合った。

 ド・ジュシュー氏は四十ルイはするマリーヌのレースを引きちぎった。

 ジルベールは手を合わせた。黙っているようションに頼み込むつもりだったのかもしれないし、もっと穏やかに口を利いてくれるようルソーにお願いするつもりだったのかもしれない。だが現実には正反対に、ルソーが黙り込み、ションが口を開いた。

「そうなんです、ジルベールとあたくしはもう昔なじみで。あたくしのところに泊まっていたんです。ね、そうよね……? リュシエンヌやヴェルサイユのジャムのことをもう忘れちゃったの?」

 その言葉が最後の一撃だった。ルソーの腕がバネのように伸びて、身体の両側にだらりと下がった。

「わかりました、そういうことなんですね?」ルソーにはジルベールを真っ直ぐ見ることが出来なかった。

「ルソーさん……」ジルベールがもごもごと呟いた。

「あのね、これじゃあ手で撫でただけで泣かれちゃったみたいじゃない。いいわ、どうやらあなたは恩知らずみたいだし」

「そんな……!」ジルベールが訴えた。

「坊や」とデュ・バリー夫人が声をかけた。「リュシエンヌにお戻りなさいな。ジャムとザモールが待ってます。おかしな逃げ方をしたとはいえ、温かく歓迎するわ」

「大変ありがたいのですが」ジルベールは素っ気なかった。「気に入らなかったから離れたのです」

「どうして差し出された好意を拒むのです?」ルソーが追い打ちを掛けた。「……あなたは贅沢の味を知っている、元の鞘に収まるしかないでしょう」

「でも僕はあなたに誓ったんです……」

「もうやめて下さい! ころころと態度を変える人間は嫌いなんです」

「でもあなたが聞いて下さらないから」

「当たり前です」

「だけど、僕はリュシエンヌから逃げて来たんです、そこに閉じ込められていたんです」

「罠だ! 人の悪意など嫌というほど知っている」

「だってあなたといる方がよかったから、あなたを大家として、保護者として、教師として認めたからです」

「偽善だ」

「でもルソーさん、贅沢する気があるのなら、お二人の申し出を受け入れているはずじゃないですか」

「一度は騙されても、二度目はありませんよ。あなたは自由です。何処へなりとも行っておしまいなさい!」

「何処に行けばいいというんです?」ジルベールは苦痛に身をよじらせた。それはつまり、あの窓からの眺めとアンドレの顔、愛するすべてを永久に失うことを意味するからだ。それにまた、裏切りの汚名を着せられることは自尊心が許さなかった。さらには若者にありがちな怠惰や欲望を抑え込んでこれまでずっと闘い、克服して来たというのに、それが理解されていないのだ。

「何処に?……当然、伯爵夫人のところでしょう。これほど美しく素晴らしい方なんですから」

「そんな!」ジルベールは両手で頭を抱えた。

「心配はいらない」ド・ジュシュー氏が声をかけた。ご婦人たちに対してルソーがひどい拒否反応を起こしたのを見て、ド・ジュシュー氏も世間の人並みにざっくりと傷ついていた。「心配はいらないとも、きっと大事にしてもらえるし、失くしたものがあってもきっと取り戻そうとしてもらえるから」

「そらご覧なさい」ルソーは冷たかった。「研究者でもあり自然の友人でもあるド・ジュシュー氏も味方してくれますよ」微笑もうとして顔をしかめた。「富と援助を約束されたのでしたら、どうか期待なさい、ド・ジュシューさんは顔が広いですからね!」

 とうとう感情を抑え切れなくなったルソーは、オロスマーネでもあるまいに、貴婦人たちに、そしてド・ジュシュー氏に矢継ぎ早に挨拶を済ませると、ジルベールには見向きもせずに憤然として四阿から立ち去った。

「哲学者ってほんと分からず屋!」ションがそれを見て冷静に評した。ルソーは小径を降りるというより駆け降りていた。

「望むものを頼むといい」今もまだ顔を覆っているジルベールに向かい、ド・ジュシュー氏が声をかけた。

「何でも言って頂戴」伯爵夫人が見捨てられた生徒に向かって微笑みかけた。

 ジルベールが顔を上げ、汗と涙で髪を額に貼りつかせながらも、はっきりと答えた。

「でしたら仕事をくれませんか。トリアノンで庭師見習いとして働きたいんです」

 ションは伯爵夫人と顔を見合わせ、勝ち誇った目をして足をちょこんと蹴っ飛ばした。万事心得たと伯爵夫人はうなずいた。

「出来そう? ド・ジュシューさん。是非お願いしたいの」

「伯爵夫人がお望みである以上は問題ありません」

 ジルベールは深々とお辞儀をして胸に手を当てた。さっきまでは悲しみに沈んでいたのに、今は喜びに満ちあふれていた。

『ジョゼフ・バルサモ』 第75章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第七十五章 植物採集家たち

 先ほどお話しした出来事は、金曜の晩に起こったことである。ルソーが楽しみにしていたリュシエンヌの森での散策は、その翌々日の予定であった。

 アンドレがトリアノンに行くと知って以来、何もかもがどうでもよくなってしまい、ジルベールは天窓の框にもたれて日がな一日を過ごしていた。その日は一日中アンドレの部屋の窓は開いたままで、一度か二度、弱々しく青ざめたアンドレが空気を吸いに窓辺に寄るのを見ては、アンドレを永遠にここに縛りつけておく術を見つけ、一生この屋根裏部屋に留まって一日に二度その姿を見ることが出来れば、ほかには天に望むことなどないように思われた。

 ついに念願の日曜日がやって来た。ルソーは前日から準備をしていた。靴を念入りに磨き、暖かくて身軽な灰色の服を洋服箪笥から引っぱり出し、そんな作業には布の上着で充分に用が足りるじゃないかと、テレーズをうんざりさせていた。だがルソーはそれを無視して、好きなように準備を続けた。自分の着る服だけではなく、ジルベールの服を選ぶに際しても細心の注意を払ったうえに、傷一つない絹靴下と新品の靴という贈り物まで揃えていた。

 標本の点検も終えたばかりだ。これから活躍するはずの苔の標本も忘れずに用意していた。

 ルソーは子供のようにわくわくした気持を抑えきれず、何度も何度も窓に貼りつき、走っているのがド・ジュシュー氏の四輪馬車ではないかと確かめた。ついにぴかぴかの車体、豪華な馬具をつけた馬、髪粉をつけた逞しい御者が門の前に止まるのが見えた。ルソーはすぐさまテレーズのところに飛んで行った。

「あれだ! あれだ!」

 それからジルベールに、

「ほら、ジルベール、急いで! 馬車が待ってますよ」

「あんたと来たら!」テレーズがちくりと言った。「そんなに馬車に乗りたいのなら、どうして馬車を買うためにヴォルテールみたいに働かないんだい?」

「馬鹿らしい!」ルソーは反論した。

「才能ならヴォルテールさんに負けないくらいあるんだっていつもいつも言ってる癖にさ」

「そんなことは言ってないじゃないか!」ルソーが腹を立てた。「わたしは……一言も言っていないよ!」

 天敵の名前を出されるといつものことだが、すっかりしょげかえってしまった。

 幸いにもここでド・ジュシュー氏が現れた。

 髪をなでつけ、髪粉をつけ、春のように爽やかな姿である。亜麻色をした畝織りのインド繻子の外套に、明るい藤色の上着、きめ細かな白い絹靴下にぴかぴかの金の留め金という出で立ちだった。

 部屋中に満ちた香りを、感激を隠そうともせずにテレーズが吸い込んだ。

「なんて素敵なんだ!」ルソーはテレーズに優しい眼差しを向けてから、自分自身の質素な装いと植物採集用のかさばる荷物を、ド・ジュシュー氏のお洒落な装いと引き比べた。

「いやいや、暑くなると思ったものでね」

「それに森はじめじめしていますよ! そのような絹靴下では、沼に入れば……」

「何、行くところを選べばいい」

「では今日は水辺の苔は諦めるのですか?」

「そんなことは気にせずとも結構だよ」

「舞踏会にご婦人を誘いに行くように見えますよ」

「自然の女神に絹靴下を披露したっていいでしょう?」ド・ジュシュー氏は困惑したようにたずねた。「自然の女神は爽やかな恰好をするほどのご婦人ではないとでも?」

 ルソーはそれ以上は何も言わなかった。ド・ジュシュー氏に自然を引き合いに出されては、畏れ多くて言い返せるものではないとよくわかっていた。

 禁欲的なジルベールですらド・ジュシュー氏に羨望の眼差しを注いでいた。お洒落によって生来の魅力を倍増させていた若者たちを見て以来、お洒落というのもちょっとしたものだと悟っていたので、思わず呟いていた。繻子や白麻バチストやレースがあれば自分の若さも引き立つだろうし、こんな服ではなくド・ジュシュー氏のような恰好をしてアンドレと会えば、きっとアンドレだって目を見張るに違いないのに。

 二頭の素晴らしいデンマーク馬が全速力で駆け出した。一時間後、植物採集者たちはブージヴァルに降り立ち、シャテニエール(Châtaigniers)の道を左に横切った。

 今日こんにちも非常に美しいこの散歩道であるが、当時も同じように美しかった。というのも三人がこれから踏破しようとしている丘の一部は、ルイ十四世治下にはもう森であったので、国王がマルリーを気に入ってからこっち手入れが怠たられたことはなかったのである。

 粗い木肌、巨大な枝、奇怪な形をした栗の木(châtaigniers)が、時には節くれ立った幹にぐるりと巻きついた蛇のように、時には肉屋の解体台にひっくり返って黒い血を吐き出した牡牛のような姿を見せているほか、苔のびっしり生えた林檎の木や、六月に入って若葉から青葉へと変わった巨大な胡桃の木が見える。その寂しさ、その風変わりな地面の起伏が、老木の木陰の下から延びて、くすんだ青空に鮮やかな境界線を描いている。力強く優雅で陰鬱な自然を目の当たりにして、ルソーは得も言われぬ気持に襲われていた。

 ところがジルベールはむっつりと黙り込んで、一つのことしか考えていなかった。

 ――アンドレは家を出てトリアノンに行くんだ。

 丘の頂まで歩いて登ると、リュシエンヌの四角い城館が聳えているのが見えた。

 逃げ出して来た城館を見て、ジルベールの物思いも中断させられた。あまり愉快な思い出ではないが、恐れはまったく感じなかった。実際、前を歩く二人を後ろから眺め、自分が保護されているのを強く感じていた。だからジルベールは、船が乗り上げた砂州を入り江から見つめる遭難者のように、リュシエンヌを眺めていた。

 ルソーは小さな鋤を持って地面に注意を向け始めた。ド・ジュシュー氏もそれに倣った。ただし、ルソーは植物を探していたのだが、ド・ジュシュー氏は絹靴下を泥で汚さないようするためだった。

「素晴らしい日陰鬘ヒカゲノカズラだ!」ルソーが言った。

「見事だ。だがあれはやめましょう」ド・ジュシュー氏が答えた。

「ああ! 桜草アナガリス・テネラ! あれなら摘めそうです」

「よければどうぞ」

「いやしかし、わたしたちは植物採集をしに来たのではないのですか?」

「そうです、そうですが……あっちの方がよくはないかな」

「そう仰るのでしたら……行きましょう」

「今何時ですか?」ド・ジュシュー氏がたずねた。「着替えるのに忙しくて、時計を忘れてしまった」

 ルソーはポケットから大きな金時計を取り出した。

「九時ですね」

「少し休みませんか? 如何です?」

「足が疲れたのでしょう。そんなお洒落な靴と絹靴下を履いていては植物採集なんて出来ませんよ」

「お腹が空いただけですよ」

「わかりました、では朝食にしましょう……村までは四半里あります」

「どうか勘辨して下さい」

「勘辨とは? では馬車で朝食を摂るんですか?」

「あの茂みをご覧なさい」ド・ジュシュー氏は遠くの方を指さした。

 ルソーは背伸びして手をひさしのようにかざした。

「何も見えませんが」

「あの民家風の屋根が見えないんですか?」

「ええ」

「風見鶏に、白と赤の藁葺きの垣根がある、山小屋風の家ですが」

「ああ、出来たばかりの小屋のようですね」

「あれは四阿だね」

「そうでしょうか?」

「そうですとも、あそこでささやかな朝食を摂るとしよう」

「まあいいでしょう。お腹が減りましたか、ジルベール?」

 ジルベールはこの話に関心も示さず、機械的にヒースの花を摘んでいた。

「お任せします」

「では行こうじゃないか。もっとも、道すがら草花を摘まんという法はない」

「この子ときたら、あなたよりよほど熱心ですよ。モンモランシーの森で一緒に草花を摘んだことがありましたが、二人しかいなくとも、この子は上手に見つけ、上手に摘み取り、上手に解説していました」

「まあまあ、この子は若い。まだこれからだ」

「あなたは違うと? 趣味で植物を採っているんですか」

「まあ怒らないで。ほら、あそこに一花オオバコがある。あんな素晴らしいものはモンモランシーでは手に入らなかったのでは?」

「おお、本当だ」ルソーは破顔した。「トゥルヌフォールを参考に探していたのですが、なかなか見つけられないでいたんですよ。いやいや、これは見事ですね」

「綺麗な四阿だなあ」後ろから前に出ていたジルベールが声をあげた。

「ジルベールが腹を減らしているね」ド・ジュシュー氏が茶々を入れた。

「ごめんなさい。急がずにご用意して下さい」

「食後に植物採集にいそしむことほど消化に悪いことはありませんよ、それに瞼も重くなるし、身体も怠くなります。採集にはしばらくしてから取りかかりましょう」とルソーが言った。「ところであの四阿は何と呼ばれているのですか?」

鼠取りラ・スリシエール」ド・ジュシュー氏はド・サルチーヌ氏から聞いた名前を思い出した。

「おかしな名前ですね!」

「しかし田舎では珍しくもない」

「この土地、この森、それにこの美しい木陰は、どなたのものなんですか?」

「どうなんだろうね」

「あそこまで食べに行くと言うからには、持ち主をご存じなのでしょう?」疑いを兆してルソーの耳がぴんと立った。

「まったく知らないんだ……いや、ここのことならよく知っています。何処の密猟監視人も私のことなら藪の中で何遍も目撃しているし、兎や山鴫の煮込みをご馳走してくれたんだから、持ち主も歓迎してくれてるんでしょう。何処の領主も我が家のように使わせてくれるが、この四阿がド・ミルポワ夫人のものなのか、デグモン夫人のものなのか、ほかの誰かのものなのかは、よく知らないんです……ええ、それ以上のことは何も。だが大事なのは、あなたも同意してくれるものと思いますが、あそこに行けばパンや果物やパテがありそうだということではありませんか」

 ド・ジュシュー氏のあっけらかんとした口調に、ルソーの頭に積み上げられていた不安が雲散霧消した。ルソーは足を動かし手を擦り、まずはド・ジュシュー氏が苔むした小径に足を踏み入れた。曲がりくねった小径は栗の木の下を、四阿まで続いている。

 その後ろから、なおも草花に気を取られつつルソーが続いた。

 ジルベールはまた一番後ろからついて行きながら、アンドレのことや、トリアノンに行かれてしまったらどうやって会えばいいのかを夢想していた。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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