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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 第81章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第八十一章 陰謀、再び

 こうして国王がド・ショワズール氏を落ち着かせ、また時間を活用しようと狩りの時間までトリアノンを歩いている間、リュシエンヌは陰謀家たちの巣となっていた。デュ・バリー夫人の許に集まっていた陰謀家たちが恐れおののいて、火薬の匂いを嗅ぎつけた鳥のように慌ただしく羽ばたいていたのである。

 ジャンとド・リシュリュー元帥はしばらく不機嫌に見つめ合っていたが、真っ先に飛び立っていた。

 ほかにもいつもの寵臣たちが、ショワズールたちが失脚すると聞いて引き寄せられ、寵愛を取り戻したのを見て怯えていたが、大臣がいなくなると、木が以前のようにしっかりと釘付けされているか確かめようと、自動的にリュシエンヌに戻って行った。

 デュ・バリー夫人は、機略を用いて手に入れた見せかけの勝利に疲れて昼寝をしていたが、そこにリシュリューの四輪馬車が嵐のような音を立てて轟然と乗り入れて来た。

「デュ・バリー様はお寝みです」ザモールが片手間に応じた。

 ジャンは総督服の刺繍の辺りを蹴飛ばしてザモールを絨毯に突き転がした。

 ザモールが痛ましい悲鳴をあげた。

 ションが駆けつける。

「また小猿ちゃんをぶってるのね!」

「お前もぶち殺されたくなかったら」ジャンは目を爛々と輝かせた。「とっとと伯爵夫人を起こして来い」

 だが伯爵夫人を起こす必要はなかった。ザモールの悲鳴とジャンの怒鳴り声を耳にして、まずいことが起こったのだと悟り、化粧着を羽織って駆けつけて来たのだ。

「どうしたの?」伯爵夫人がぎょっとしてたずねた。ジャンは長椅子に身体を預けて怒りを鎮めようとしていたし、元帥は伯爵夫人の手に口づけするのも忘れていた。

「どうもこうもない。ショワズールのことに決まってるだろう」

「まさか?」

「そうさ、これまで以上だ。くたばっちまえ!」

「つまり何なのよ?」

「デュ・バリー伯爵の言う通りです」とリシュリューが引き継いだ。「ド・ショワズール公爵はこれまで以上にしっかりとした立場を手に入れました」

 伯爵夫人は胸から国王の封印状を取り出した。

「でもこれは?」と微笑みかけた。

「よくお読みになりましたか、伯爵夫人?」

「でも……もちろん読めますわ」

「果たしてそうでしょうか。わしにも読ませていただけませんか?」

「あらもちろんよ。読んで下さいな」

 公爵は書類を受け取り、丁寧に広げて読み始めた。

 『明日、余はド・ショワズール氏を免職する。そのことを間違いなく誓うこととする。ルイ』

「はっきりしてますでしょ?」

「はっきりしておりますな」元帥は渋面を作った。

「どういうことだ?」ジャンがたずねた。

「つまりあたくしたちが勝利を収めるのは明日ってこと。まだ終わっちゃいないの」

「明日? 国王は昨日それに署名したんだろう。だったら明日とは今日だ」

「失礼ですが伯爵夫人」と公爵が言った。「日付が書かれていない以上、『明日』とは、ド・ショワズール氏が失脚するのを見たいとあなたが思った日の翌日なら、どの日であってもおかしくありません。ラ・グランジュ=バトリエール街に酒場があって、わしの家から百パッススのところなのですが、そこに赤い文字で書かれた看板が出ております。『お支払いは明日』。『明日』とは『いつでも』という意味です」

「国王に騙されたのか」ジャンが憤慨した。

「嘘でしょう」伯爵夫人は呆然として呟いた。「嘘でしょう。そんな恥知らずな誤魔化し……」

「陛下はほくそ笑んでいらっしゃるでしょうな」リシュリューが言った。

「報いを受けることになるわ」伯爵夫人は怒りを滲ませた。

「そういうことなら伯爵夫人、国王に腹を立ててはなりませんぞ。詐欺だのインチキだのと非難してもなりません。陛下は約束を守ったのですから」

「馬鹿な!」ジャンが乱暴に肩を回した。

「約束ですって? それはショワズールを罷免することではありませんの」

「まさしくその通りです。陛下が公爵の労をねぎらうのをわしは聞いておりました。よいですか、この言葉には二つの意味がある。状況に応じて好きな方を選べばよい。あなたはあなたの望む方を選び、国王は国王の望む方を選んだのです。こう考えると、もはや『明日』のことは問題にもなりませんな。あなたによれば、今日、国王は約束を守らねばなりません。国王は約束を守りました。公爵に感謝の言葉をかけるのをこの耳で聞いて来たのですから」

「ふざけている場合ではないと思いますが」

「よもやわしがふざけているとお考えですか? ジャン伯爵に尋いてご覧なさい」

「ああ、その通りだ、冗談なんかじゃない。今朝ショワズールは国王から口づけとおべんちゃらと祝福を受けていたよ。今ごろは二人して仲良く腕を組んでトリアノンを散歩中だろうぜ」

「腕を組んでですって!」部屋に入って来ていたションが声をあげ、絶望したニオベの像よろしく白い腕を掲げて天を仰いだ。

「遊ばれていたって訳ね」伯爵夫人が評した。「ちゃんと確認しましょう……ション、狩りの用意は取り消して。とても行けないわ」

「そう来なくては!」ジャンが吼えた。

「お待ちなさい!」リシュリューが一喝した。「慌てなさるな、拗ねなさるな……伯爵夫人、失礼ながらご忠告申し上げましょう」

「是非お願いします。すっかり混乱してしまって。察して下さいまし。政治に関わる気はないまま首を突っ込む日が来てしまっても、自尊心があれば着の身着のまま飛び込まざるを得ませんもの……それでどういった――?」

「今拗ねるのは得策ではありませんぞ。あなたの立場は微妙なところにある。国王がこれからもショワズールを寵愛するなり、王太子妃の影響を受けるなり、あなたを虐げるようなことがあれば……」

「どうすれば?」

「今以上にお甘えなさい。難しいことは承知しております。それでも現状ではそれが必要なのです。その難しいことをやっていただかなくてはなりません!」

 伯爵夫人は考えた。

「つまるところ」と公爵は続けた。「もし国王がドイツの風紀を取り入れたとしたら!」

「謹厳居士になるというのか!」ジャンがぞっとして声をあげた。

「あり得ないでしょうか、伯爵夫人? 人は珍しいものに惹かれるものですからな」

「でも、そんなことは」伯爵夫人は疑わしそうな顔をした。「とても信じられません」

「わしはそれ以上に信じられないものを見てきました。悪魔も老いれば出家するという諺もあります……ですから拗ねてはなりませんぞ。絶対に拗ねてはなりません」

「でも息が詰まるほど腹が立つじゃない!」

「無論です、お察ししますぞ! しかしながら国王、いやいやド・ショワズール氏にはそれを感づかせてはなりません。わしらの前では息を詰まらせても、あの方たちには息を吸うところを見せておやりなさい」

「狩りに行くべきかしら?」

「それが賢明かと」

「あなたはどうなさいますの、公爵閣下?」

「這ってでもついて行かねばなるまいとしたら、ついて行きますぞ」

「でしたらあたくしの馬車でどうぞ」同盟者の表情を確かめようと、伯爵夫人は水を向けた。

「伯爵夫人」公爵は忌々しさを押し隠して笑みを作った。「大変ありがたいことです……」

「お嫌ですの?」

「わしが? いやはや何とも!」

「お気をつけあそばし、危険を冒すことになりましてよ」

「わしは危険を冒したくはありませんな」

「お認めになりましたのね! とうとうお認めになったのね」デュ・バリー夫人が声をあげた。

「伯爵夫人! ド・ショワズール氏に叱られてしまいます!」

「ド・ショワズールさんとはそんなに仲がよかったんですの?」

「伯爵夫人! 王太子妃殿下に嫌われてしまいます」

「利害を分け合ったりせず、あたくしたちとは別々に戦いたいんですのね? まだ時間はあります。危険を冒したくないのなら、協力を取り消すことも出来ますわ」

「見損なっては困りますな」伯爵夫人の手に口づけすると、「認証式の日、ドレス、美容師、馬車を見つけなければなりませんでしたが、わしが躊躇っていたとお思いか? 今も躊躇うはずがありませんぞ。わしはあなたが思っているよりもずっと図太い人間です」

「では決まりね。二人で狩りに参りましょう。誰とも会ったり聞いたり話したりしない口実になりますもの」

「国王にも、ですか?」

「いいえ、あの方がきっと後悔するような甘い言葉を囁くつもり」

「結構! 面白い戦いになりそうですな」

「それでジャン、あなたはどうするの? クッションから出て来なさいよ。それじゃあ生きながら埋もれているのも同じじゃない」

「俺がどうするかって? 知りたいか?」

「もちろんよ、何かの役に立つかもしれないし」

「そうだな、俺は考えてるんだ……」

「どんなことを?」

「きっと今頃は、町中の小唄作りがありとあらゆる調べに乗せて俺たちのことを歌っているだろうし、『掌中新報ヌーヴェル・ザ・ラ・マン』は俺たちをパテのようにずたずたにしているだろうし、『武装文人ガズチエ・キラッセ』は武装の隙間をつけ狙っているだろうし、『観察者新聞ジュルナル・デ・オプセルヴァトゥール』は骨の髄まで観察しているだろうし、要するに明日になれば俺たちはショワズールにさえ憐れまれるような状態に陥ってるだろうってことをだ」

「それで結局、どうするつもりですかな……?」公爵がたずねた。

「結局のところ、パリに行って傷につける包帯少々と軟膏を山ほど買って来るつもりですよ。金をくれないか?」

「幾らくらい?」伯爵夫人がたずねた。

「そんなにはいらない。二、三百ルイだ」

「こんな風に」伯爵夫人はリシュリューを見遣った。「もう随分と戦いに出費しておりますわ」

「まだ戦端に着いたばかりですぞ。今日のところはばらまいても、明日には回収できるやもしれません」

 伯爵夫人は何とも言えないような仕種で肩をすくめて立ち上がり、洋箪笥シフォニエを開けて金庫から紙幣の束を取り出した。数えもせずにジャンに手渡すと、ジャンの方も数えもせずに受け取って、大きく溜息をついた。

 それから起き上がって伸びをすると、怠い身体をほぐすように腕をひねって、何歩か進んだ。

「こうして」公爵と伯爵夫人に聞こえるように声を出した。「この二人が狩りを楽しんでいる間、俺はパリに馬車を走らせ、二人が立派な狩人や可愛いご婦人を眺めている間、俺の方は三文文士の汚い面に見とれてるって訳だ。早い話が俺はただの飼い犬か」

「覚えておいて下さいまし」伯爵夫人が公爵に言った。「あたくしたちのために何かしようなんて思ってもいないんですから。お金の半分は不良仲間にくれてやり、残りは賭け事に使ってしまうんです。そうするつもりで吼えてるんですわ、いやらしいったらない! さっさと出かけて頂戴、ジャン、ぞっとするわ」

 ジャンは飴の小箱を三つ奪ってポケットに移し替え、目にダイヤモンドを嵌めた中国人形を棚から掠め取ると、伯爵夫人の悲鳴を尻目に澄ました顔で出て行った。

「たいした若者だ!」居候が悪童のことを褒めそやしながらも、密かにそいつに雷が落ちて欲しいと願っているような声を出した。「重宝しているのでしょうな……伯爵夫人?」

「仰る通り、まるごとあたくしに預けてくれますわ。あれで年に三、四十万リーヴル儲けてるんです」

 振り子時計が鳴った。

「十二時半です」と公爵が言った。「幸いお召しはほぼ済んでいるようですし、あなたが落ち目だと信じている取り巻きの前に姿を見せに行きませんか。すぐに馬車に乗りましょう。狩りがどのように行われるかはご存じでしょうな?」

「昨日、陛下とあたくしとで決めたことですから。マルリーの森を通って、途中であたくしを拾ってくれる手筈でした」

「そうですか! 恐らく国王は予定を変えたりはなさらなかったでしょう」

「でもあなたの計画はどうなりましたの? 今度はあなたの番じゃありませんでしたか」

「昨日すぐに甥に手紙を書きました。もっとも、わしの予感が正しければ、もう途中まで来ているはずです」

「デギヨンさんが?」

「明日になってもわしの手紙と行き会わなかったり、明日か遅くとも明後日になってもここにいないようなことがあれば、驚かざるを得ませんな」

「当てに出来そうですの?」

「あれには知恵があります」

「どちらにしても、あたくしたちはもう死に体です。厄介ごとを恐れていなければ、国王だってきっと折れていたはずです」

「厄介ごとを恐れているとすると……?」

「そうだとすると、残念だけどド・ショワズール氏を見捨てようとは絶対にしないんじゃないかしら」

「率直にお話しして構いませんか?」

「もちろんです」

「わしも見捨てるとは思えません。国王は昨日のような計略を幾らでも使えます。陛下は創意に富んだ方ですからな! ところが伯爵夫人、あなたの方では意地を張って寵愛を失うような危険は冒せますまい」

「考えどころね」

「おわかりでしょう、伯爵夫人、ド・ショワズール氏は永遠に居坐りますぞ。追放するには、奇跡が起こるよりほかありません」

「ええ、奇跡がね」ジャンヌは繰り返した。

「生憎と、人間にはもはや奇跡を起こせません」

「いいえ」デュ・バリー夫人は即答した。「奇跡を起こせる人を一人知っているわ」

「奇跡を起こせる人間を知っているというのですか?」

「その通りよ」

「そんなことを仰ったことはありませんでしたが?」

「今思いついたんですもの」

「その偉人には我々を苦境から救うことは出来そうですかな?」

「何だって出来ると思うわ」

「ふむ!……して、いったいどのような奇跡を? 教えていただけますか、試しに判断してみましょう」

「公爵」デュ・バリー夫人はリシュリューに近づき、思わず声をひそめていた。「十年前にルイ十五世広場で、あたくしがフランス王妃になると告げたのはその方です」

「確かに奇跡的だ。その男なら、わしが宰相として死ぬと予言することも出来るでしょうな」

「違いまして?」

「わしはそのことを一瞬でも疑ってはおりませんぞ。その男の名は何と?」

「聞いてもご存じないと思いますわ」

「何処にいるのですか?」

「あたくしは知りません」

「住所を教わらなかったのですか?」

「そうなんです、褒美はあちらから取りに来るって」

「何を約束したのですかな?」

「望むものなら何でも」

「現れなかったのですか?」

「いいえ」

「伯爵夫人! 予言よりもよほど奇跡的ではありませんか。わしらに必要なのはその人物です」

「でもどうすれば?」

「名前は? 名前は何というのです?」

「二つあるんですの」

「順番に行きましょう。一つ目は?」

「ド・フェニックス伯爵」

「はて、認証式の日におたずねになった人物ではありませんか?」

「仰る通りです」

「あのプロイセン人ですか?」

「あのプロイセン人です」

「ふうむ! そうなるとどうも信用できませんな。わしの知っている魔術師は皆、「i」や「o」で終わる名を持っておりますぞ」

「ぴったりですわ、公爵。二つ目の名前は仰る通りに終わってますもの」

「その名は何と?」

「ジョゼフ・バルサモ(Joseph Balsamo)」

「だが見つけ出す手だてはないのでしょうな?」

「考えていたところです。それを知っている人を知っているような気がしますの」

「結構! だが急いで下され。もう十二時四十五分です」

「準備は出来てます。馬車を!」

 十分後、デュ・バリー夫人とド・リシュリュー公爵は隣り合わせになって狩りに向かっていた。

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『ジョゼフ・バルサモ』 第80章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第八十章 ル・プチ・トリアノン

 ルイ十四世がヴェルサイユを造り、あまりに大きいため不便を覚えた時のこと。衛兵で溢れた大広間や、廷臣で溢れた控えの間や、従僕や近習や会食者で溢れた廊下や中二階を目にした時のこと。ヴェルサイユは自分が望んでいた以上によく出来ているし、マンサール、ル・ブラン、ル・ノートルは人間の住居ではなく神の住まいを造ったのだと考えた。

 そこで時間をもてあましていた大王は、息抜きと骨休めのためにトリアノンを造らせた。だがアキレウスをも疲れさせたアキレウスの剣は、小さな後継者には重すぎた。

 ヴェルサイユの縮図であるトリアノンは、ルイ十五世にはそれでもまだ大き過ぎるように思えたので、建築家ガブリエルに造らせたのが、六十ピエ四方の離宮プチ・トリアノンである。

 左には、何の特徴も飾りもない長方形の建物があった。これは使用人と会食者の居住区である。長さ約十メートル、五十人の使用人がいた。今もまだ無傷のままの姿を見ることが出来る。一階、二階、屋根裏部屋から成る。一階は舗装された堀で囲まれ、建物との間には植え込みがあった。窓にはどれも鉄格子が嵌められており、これは二階も変わらない。トリアノンの中から見ると、修道院のように長い廊下をこの窓が照らしている。

 廊下には八、九個の扉があり、その一つ一つがそれぞれ部屋に通じていた。どの部屋にも、控えの間が一つ、小部屋キャビネが左右に一つずつ、一つないし二つの支度部屋があり、内庭に面していた。

 この階の下には台所がある。

 屋根裏には召使いの寝室が幾つか。

 これがプチ・トリアノンだ。

 それに加うると、城館から二十トワーズのところに教会があった。城館については細かい説明をする予定はない。この物語には無関係であるし、現在でもそう思われるように、夫婦だけしか住めないような城館だからである。

 何はともあれ地理的には以下の通りだ。城館はその大きな目で庭園と森を見下ろし、左側は使用人部屋に面している。使用人部屋からは鉄格子の嵌った窓や、廊下の窓や金網で覆われた台所の窓しか見えない。

 ルイ十五世の住まいであるグラン・トリアノンからは、菜園を通ってプチ・トリアノンに行くことが出来る。取りつけられた木の橋が、二つの離宮を繋いでいる。

 ラ・カンティニが設計し植樹したこの菜園と果樹園を通り抜けて、ルイ十五世はド・ショワズール氏をプチ・トリアノンに案内した。先ほどお話ししたあの難しい場面の後のことである。ルイ十五世は自分が王太子夫妻の新居に採り入れさせた改良点を、是非とも見てもらいたがった。ド・ショワズール氏は如才なく、あらゆる点に感心し、あらゆる点に感想を述べた。プチ・トリアノンが日に日に美しく住みやすくなっていると国王が話すのを、大臣は黙って聞いていたが、ここは陛下にとっての家庭なのですね、と言い添えた。

「王太子妃には」と国王は言った。「ドイツ娘の例に洩れず、まだ野暮ったいところがある。フランス語は上手いが、フランス人が聞けばかすかな訛りでオーストリア人だとばれやしないかと気にしておるのだ。トリアノンでなら、友人にしか聞かれずに済むし、話したい時にだけ話せばよい」

「成果は出ているようですね。気づいた限りでは」ド・ショワズールが言った。「妃殿下は申し分のない方で、直すところは一つもありませんよ」

 二人が道を歩いて行くと、王太子が芝生の上で太陽の高さを計っていた。

 ド・ショワズール氏は深々とお辞儀をしたが、王太子が一言も口を利かなかったので、こちらも王太子に話しかけたりはしなかった。

 国王は孫にも聞こえるような大きな声を出した。

「ルイは学者なのだ。科学に頭を悩まして妻を苦しませるのには困ったものだ」

「そんなことはありません」茂みから柔らかな女の声がした。

 書類とコンパスと鉛筆を抱え込んだ男と話をしていた王太子妃が走って来るのが見えた。

「こちらはミック氏(M. Mique)、わたしの建築家なんです」

「おやおや! あなたにも同じ病気が?」国王がたずねた。

「一族の病気ですもの」

「何を建てるおつもりかな?」

「この庭園に家具を入れるつもりです。これではあんまりつまらないんですもの」

「声が大きい。王太子にも聞こえるぞ」

「王太子殿下も同じ意見なんです」

「つまらないと?」

「そうではなく、楽しいことを見つけようと」

「何かお造りになりたいのですか、妃殿下?」ド・ショワズール氏がたずねた。

「この庭園に庭を造りたいんです、公爵閣下」

「ああ! ル・ノートルも可哀相に!」国王が言った。

「ル・ノートルは偉大な方です。だからこそ好まれているんです、でもわたしが好きなのは……」

「何がお好きなのかな?」

「自然です」

「それはまた哲学者のようだな」

「イギリス人のようなんです」

「それはいい! ショワズールの前でそんなことを言っては、宣戦布告も同然だ。六十四隻の大型船と、従兄のド・プララン氏が統べる五十隻のフリゲート艦を送り込まれますぞ」

「ロベール氏に自然庭園を設計させようと思ってるんです。そういった図面の設計にかけては右に出る人はいませんから」

「自然庭園とはどういったものを考えているのかね? 余が思ったのは、木々や花々や、通りすがりに摘めるような果物が、自然のままのものだが」

「百年でも散歩できそうなところなんです。真っ直ぐな並木道、王太子の仰るには四十五度に刈り込まれた茂み、芝生で囲まれた泉水がご覧になれますよ。芝生には遠近法や五の目の植え込みや段丘を組み合わせるつもりです」

「みっともないのではないか?」

「自然のままではありません」

「これが自然を愛するお嬢さんか!」国王は面白がるというよりは嬉しそうだった。「余のトリアノンから何を造り上げるつもりなのか拝聴するとしよう」

「川、滝、橋、洞穴、岩山、森、谷、家、山、牧場です」

「人形のために?」

「お戯れを! わたしたちが目指すような国王のためです」王太子妃は曾祖父の頬を染めた赤らみには気づかなかったし、自分自身の悲痛な運命を予言していたことにも気づかなかった。

「ではすべて変えてしまうのか。それで何を造るのだ?」

「元からあるものは残しておきます」

「それはよかった。そんな森や川にはインディアンやエスキモーやグリーンランド人のようなご友人は泊められないからな。自然のままに生きてしまう。ルソーなら自然児と呼ぶところだろう……好きなようになさい、そなたは百科全書派から大喝采を浴びるだろうな」

「そんな住処では使用人たちは凍えてしまいます」

「では、すべて壊してしまったら、何処に住まわせるのだ? 宮殿ではなかろう。宮殿はそなたたち夫婦二人だけで一杯だからな」

「使用人のための建物は確保しております」

 王太子妃はそう言って、筆者が先ほどご説明した廊下の窓を指さした。

「あそこに見えるのは誰だろう?」国王は庇代わりに手を額にかざした。

「ご婦人ですね」ド・ショワズール氏も言った。

「わたしのところで働いてもらっているお嬢さんです」王太子妃が答えた。

「ド・タヴェルネ嬢だ」ショワズールが目敏く気づいた。

「ほう! そなたはタヴェルネ一家を招いているのかね?」

「ド・タヴェルネ嬢だけです」

「可愛い娘だ……何をさせているのかな?……」

「朗読係です」

「それはよい」国王は鉄格子のついた窓から目を離さずに言った。人から見られていることも忘れて、病み上がりで顔色の悪いド・タヴェルネ嬢に見入っていたのだ。

「真っ青ですね!」ド・ショワズール氏が言った。

「五月三十一日に、もう少しで圧死するところだったんです」

「まことか? お気の毒に! ビニョンの奴は失脚しても文句は言えぬな」国王が言った。

「もう快復したのですか?」ド・ショワズール氏が慌ててたずねた。

「おかげさまで、公爵閣下」

「おや! 逃げてしまった」

「陛下のお姿をお認めになったのかと。内気な子ですから」

「もう長いのかね?」

「昨日からです。わたしが住むことになったので、来てもらったんです」

「可愛い娘があんな薄暗いところに」ルイ十五世は言った。「ガブリエルの奴は粗忽者だな。木が育てば使用人棟を遮ってしまい、暗くなってしまうことに思い至らぬとは」

「とんでもありません。悪くない住まいなんですよ」

「そんなはずはあるまい」

「お確かめになりますか?」王太子妃は我が家の名誉にこだわった。

「いいだろう。そなたは来るか、ショワズール?」

「もう二時になります。高等法院の会議が二時半にありますから、私はもうそろそろヴェルサイユに戻らなくては……」

「そうか、行って黒服たちをかき回して来てくれ。王太子妃、そなたの小さなお家を見せてくれるかな。余は内装にはうるさいぞ」

「いらっしゃい、ミックさん」王太子妃は建築家に声をかけた。「何でもご存じの陛下のご意見を窺う貴重な機会ですよ」

 国王が先に立ち、王太子妃がそれに続いた。

 二人は中庭の通り道を素通りし、礼拝堂の石段を上った。

 礼拝堂の扉は左にある。一方、右側にある質素な階段を進めば居室群にたどり着く。

「ここには誰が?」ルイ十五世がたずねた。

「まだどなたも住んでおりません」

「手前の部屋の扉に鍵がついておる」

「そうでした、ド・タヴェルネ嬢が今日家具を入れて移って来るんです」

「ここに?」国王は扉を指さした。

「はい、陛下」

「中にいるのか? では入るのはよそう」

「今は出ております。台所前の中庭の軒下にいるのが見えましたから」

「では試しに部屋をいくつか見て回ろう」

「御意に」

 王太子妃は国王を寝室に案内した。その先には控えの間が一つと部屋キャビネが二つある。

 既に並べられていた家具や、本、チェンバロに、国王の目が留まった。とりわけド・タヴェルネ嬢が日本の壺に差しておいた大きく綺麗な花束が目についた。

「これは見事な花だ! 庭を変えると言っていたが……いったい誰がこれほどの花を朗読係に贈ったのだ? 残しておくべきではないかな?」

「本当に、綺麗な花束ですね」

「庭師がド・タヴェルネ嬢を気に掛けておるのか……庭師を務めているのは誰だろう?」

「存じません。ド・ジュシュー氏が紹介して下さいましたので」

 国王は興味深げに室内を見回し、再び外を眺め、中庭を覗いてから、部屋を出た。

 陛下は庭園を通り抜けてグラン・トリアノンに戻った。昼食後に三時から六時まで狩りをするため、四輪馬車の前で随身たちが控えていた。

 王太子は相変わらず太陽を測定していた。

手紙番号 173(詩番号0005)

 スー、――進むか留まるか――選択肢は一つしかないの――このごろ意見が食い違ってばかり、これがきっと最後になります。

 わたしがひとりぼっちになるから置いておけないなんて心配はしなくていいから。心に描いて愛していたものを捨て去ることなんかよくあるし――ときにはお墓に、ときには死よりもずっと悲惨な忘却に――そんなふうに心から血を流してばかりいるから、血が出ても気にならないし、それ以前の痛みにまた一つ痛みをつけ加えて、一日の終わりに口にするだけ――泡がはじけた!って。

 子どもでしかなかったころにこんな事態が起こったとしたらひどく悲しいだろうし、家族のそばでよちよち歩きしていたころならきっと泣いていたに違いないし、棺桶に収まったとしても、目は乾き、心は干涸らびた燃えかすになり、燃え尽きた方がましなくらいだと思う。

 スー、――わたしはこれまで生きてきました。

 永遠に変わらない天国の象徴をかつて夢見たことがあります。たとえそれを奪われても、わたしは一人で留まるつもりだし、あの最期の日が訪れても、あなたを愛するイエス・キリストも、わたしのことは知らないと言うでしょう――我が子を見捨てたりしないような、もっと暗い精霊がいるんです。

 わたしに分け与えてくれた人などほとんどいません。わたしの方から愛しても、その心酔のあまりに、みんなわたしからは距離を置くから――わたしは終わったことをつぶやくだけ。波は広大な青のなかに溶け、今日、人が沈んだことを、わたし以外は誰も知らない。二人でこれまで楽しく歩いて来たけれど――多分これがわたしたちの分岐点――歌いながら通り過ぎなさいスー、遠くの丘までわたしは歩き続けるから。

春のあいだは鳥がいて
わたしのために歌い――
春に呼ばれて訪れる。
やがて夏が近づき――
やがて薔薇が顔を見せると、
駒鳥は行ってしまった。

でも泣き言は言わない
なぜなら知っているから
飛んで行ってしまっても――
海の向こうで
新しいメロディを覚えて
戻って来てくれることを。

確かなのはよりしっかりした手
より正しい地をつかんでいるのは
わたしの両手――
そして今は離れているけれど、
わたしは疑う心に言い聞かせる
それはあなたの両手。

穏やかさの増す輝きのなかで、
黄金色の増す光のなかで
わたしは理解した
かすかな疑いと恐れと、
かすかな違和感が
ここからなくなったのを。

それからは泣き言は言わない、
なぜなら知っているから
わたしの鳥は飛び去っても
遠くの木の上で
輝くメロディを覚えて
戻って来ることを。

               E――。

『ジョゼフ・バルサモ』 第79章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第七十九章 国王ルイ十五世が大臣と仕事をしていた次第

 翌日、ヴェルサイユに噂が広まっていた。誰もが会えば必ず秘密めかした仕種をして意味深に握手をするかと思えば、十字を切ったり天を仰いだりして、悲しみや驚きを表した。

 ド・リシュリュー氏は多くの支持者と共に、トリアノンの国王の控えの間にいた。十時頃のことである。

 きらびやかに着飾ったジャン子爵が、老元帥と話をしていた。その顔を喜びに溢れていると見なせるならば、楽しげに話をしていたと言っていい。

 十一時頃、国王が執務の間に向かったが、誰にも話しかけずに通り過ぎた。かなりの急ぎ足であった。

 十一時十五分、書類入れを抱えたド・ショワズール氏が馬車から降りて回廊を渡った。

 通り過ぎた時には人々がざわめき、背中を向けて互いに話に興じているふりをして、大臣に挨拶するのを避けた。

 ショワズール公爵はこうした態度には目もくれなかった。部屋に入ると、国王がチョコレートを手に書類をめくっていた。

「ご機嫌よう、公爵」国王が親しげに挨拶した。「今朝はいい調子だな?」

「ド・ショワズールの調子はよくとも、大臣の具合はよくありません。陛下がまだ何も仰いませんので、こちらからお願いしに参った次第です。辞職を受理していただけますか。この申し出をお許しいただけるとありがたく存じます。それが陛下から頂戴できる最後のご親切ですから」

「何だと、辞職? 何を言うのだ?」

「陛下は昨日、デュ・バリー夫人に言われるがまま、私を罷免する書類に署名なさいました。この報せはとうにパリやヴェルサイユにすっかり広がっております。悪は為されました。しかしながら、お許しなく陛下の任務から離れるつもりはございません。公式に任命された以上は、罷免される時も公式文書が必要なものと考えております」

「まったく」国王は笑い出した。ド・ショワズール氏の峻厳な態度に、恐れすら抱いていたのだ。「何とも頭の切れる形式主義者だな。そんなことを信じておったのか?」

「ですが陛下」と大臣は驚いた顔をした。「陛下は署名なさいました……」

「いったい何のことだ?」

「デュ・バリー夫人が持っている令状のことです」

「ああ! 公爵、そなたは平和に憧れたことがないのか? 幸せ者め!……ド・ショワズール夫人が出来た人だというのは事実なのだな」

 公爵はこの当てこすりに眉をひそめた。

「家庭の問題だとお考えのことを国の問題に重ねるには、陛下は些か揺るぎなく恵まれたお方です」

「ショワズール、そのことを話しておかねばなるまい。馬鹿げたことだ。そういうところが随分と恐れられていることには気づいておろう?」

「憎まれている、と言うべきでしょう」

「好きなようにせい。とにかく、伯爵夫人の気まぐれには選択肢がなかった。自分をバスチーユ送りにするか、そなたの職を解くか、だ」

「つまり?」

「つまり、今朝ヴェルサイユで起こった眺めが見られなくなるのは非常に残念だった、と思わぬかね。余は昨日から、伝令が道を走るのを眺めたり、いろいろな人間が落胆したり縮こまったりしているのを眺めて楽しんだよ……昨日からペチコート三世がフランス王妃だ。楽しみは終わってしまった」

「結局のところどうなるのでしょう?」

「結局のところ」ルイ十五世は真面目な口振りに戻った。「何も変わらぬだろう。余が負けたように見えても絶対に負けてはおらぬことはわかっておるな。女どもには時折り蜂蜜入りの菓子を放って頬張らせておけばよい。ケルベロスと同じだ。だが我々は冷静に騒ぐことなく、いつも変わらず共に歩んでおる。今は釈明の段階なのだ、だからこのことには肝に銘じておけ。幾つもの噂が飛び交い、そなたを逮捕するという令状が幾つあろうと……ヴェルサイユに来るのを控えることはない……余の意見が変わらぬ限り、これからもそなたとは友人だ」

 国王が手を差し出すと、大臣は感謝もわだかまりもなく、手の上に身を屈めた。

「では、よければ取りかかろうではないか、公爵」

「ご命令のままに」ショワズールは書類入れを開いた。

「よし、まずは花火の件について教えてくれ」

「ひどい惨事でした」

「誰の落ち度だ?」

「パリ市長のビニョン氏です」

「民衆は怒りの声をあげておろうな?」

「無論です」

「では恐らく、ビニョン氏を罷免せねばなるまいな」

「高等法院ではメンバーが一人、乱闘に巻き込まれて危うく死にかけたので、事件に強い関心を持っておりました。ですがセギエ(Séguier)次席検事が、惨事は不可避のものだったことを証明しようと、巧みに弁舌をふるいました。熱弁は拍手喝采で迎えられ、現在は収まっております」

「それはよかった! 高等法院に移ろう……しかし非難は免れまい」

「ド・ラ・シャロテ氏に反対し、デギヨン公を支持しないからといって、私は非難されておりますよ。ですが非難するのはどんな者たちでしょうか? 陛下の令状のことを大喜びで言いふらしたのと同じ連中です。考えてみて下さい、デギヨン公がブルターニュで越権行為をし、イエズス会の追放が現実のものとなり、ド・ラ・シャロテ氏が正しく、陛下ご自身がこの検事総長ド・ラ・シャロテ氏の潔白を公式文書で承認したとしたら。しかしながら国王に前言撤回させることなど出来ません。相手が大臣ならよいでしょうが、国民相手にそのようなことは!」

「そうなって来ると、高等法院は強気に出るぞ」

「当然ですね。弾劾され、投獄され、傷つけられ、無罪を宣告されて、強気にならぬはずがないではありませんか! ラ・シャロテ事件を起こしたことでデギヨン公を非難したりはしませんでしたが、あの事件で間違いを犯したことを許すつもりはありませぬ」

「公爵、公爵! もうよい、悪は為されたのだ。出来ることは……どうやってあの思い上がりどもを抑えるかだ……」

「大法官が謀を止め、デギヨン公の後ろ盾がなくなれば、高等法院の怒りも収まるでしょう」

「だがそれでは余の負けだ!」

「では陛下はデギヨン公にお任せですか……私ではなく?」

 これは手強い、と国王は感じた。

「知っておろう、家臣たちに嫌な思いをさせるのは嫌いなのだ。たといその家臣が間違っていたとしても……だがこの事件のことはそっとしておかぬか。余も心を痛めておる。時が解決してくれるだろう……外国の話をしよう……戦争をすべきだという噂だが?」

「いざ戦争となれば、この戦争には大義名分と必然性がついて来るでしょうな」

「イギリスと……馬鹿な!」

「まさかイギリスを恐れておいでですか?」

「ううむ! 海上では……」

「陛下はどっしりとお構えなさいませ。海軍大臣である従兄のド・プララン公爵におたずねになれば、大型船が六十四隻あることがわかるはずです。建造中のものは含まれません。一年であと十二隻は造れるだけの材料もあります……第一級のフリゲート艦が五十隻、海戦に備えて配置についております。地上戦になればさらにこちらに有利です、フォントノワのことはご記憶でしょう」

「承知した。だがイギリスと戦う理由は何だ? そなたほど知恵の回らぬアベ・デュボワは、イギリスとの交戦を避けていたぞ」

「そのことでしたら、アベ・デュボワは一月に六十万リーヴルをイギリスから受け取っていたと考えております」

「何と!」

「証拠もございますよ」

「もうよい。それにしても、戦争の大義は何処にある?」

「イギリスはインドを狙っています。陛下の部下には、断固たる命令を出して来ねばなりませんでした。衝突が起これば、イギリスが抗議する恰好の口実となりましょう。抗議を受け入れては絶対になりません。以前の政府が金銭のやり取りによって面目を保っていたように、現在の政府は武力によって面目を保たなくてはなりません」

「まあ待て! インドのことが誰にわかる? あんなに遠いではないか!」

 公爵は口唇を咬んだ。

大義casus belliは我々にあります」

「またか! いったい何のことだ?」

「イスパニアはマルビナスとフォークランド諸島の領有権を主張しております……エグモント港を占領していたイギリスを、イスパニアは武力によって見事に追い払いました。怒りに駆られたイギリスが、要求を呑まなければ最後の手段に訴えるとイスパニアに迫っております」

「うむ、だがイスパニアに非があったとしたら、様子を見るべきではないか」

「陛下、それでは家族同盟は? この条約に署名させることにこだわったのは何故でしょうか? ヨーロッパのブルボン家を固く結び合わせ、イギリスの企てに対し防波堤を築くためではなかったのですか?」

 国王は目を伏せた。

「心配は無用です。頼もしい陸軍も、果敢な海軍も、資金もございます。国民を黙らせておくことも出来ます。この戦争は、陛下の治世にとって輝かしい大義となりましょうし、私の拡大計画にとって釈明と口実になるでしょう」

「では国内の平和は? そこら中で戦争は起こせぬ」

「国内は静かなものでございます」公爵は気づかぬふりをして答えた。

「そうではない。そうではないことはわかっておるだろうに。そなたは余を慕い、よく仕えてくれる。余を慕っていると話す人間はほかにもおるが、そなたの流儀とは似ても似つかぬ。やり方を一つにまとめようではないか。そうしてくれれば、余は快く過ごせるのだ」

「陛下が快適に過ごされるかどうかは、私とは関係ございますまい」

「ほらその話し方だ。よかろう、今日は余と昼食を摂らぬか」

「ヴェルサイユで、でしょうか?」

「いや、リュシエンヌでだ」

「そうでしたか! まことに残念ですが、家族の者が昨日の噂に怯えておりまして、私が失脚したというのですよ。心を痛めている者たちを放っておくわけには参りませんので」

「余の話に気分を害したりはせぬな? 可哀相な侯爵夫人の時代から、我々三人は幸せに過ごして来たことを思い出してくれ」

 公爵は顔を伏せ、目を曇らせ、押し殺したような溜息をついた。

「ド・ポンパドゥール夫人は陛下のご威光に大変こだわった方でした。高度な政治的思想を持ってらっしゃいました。実を言うと、才能溢れるあの方とは気が合いました。あの方が練った計画に、よく一緒に取り組んだものでございます。そうですね、私たちは理解し合っていたのです」

「だが、あれが政治に首を突っ込んだことが、そもそも非難されていたのだぞ」

「それは事実です」

「だが現実には、あれは子羊のようにおとなしい人だ。誹謗文や諷刺歌の作者が相手であっても、封印状に署名させたことなど一度もなかった。要するに、他人の軒を貸したといって非難されたのだ。人は成功を妬むものだ……どうだ、リュシエンヌで仲直りせぬか?」

「陛下、デュ・バリー伯爵夫人に伝えていただけますか。伯爵夫人は陛下の愛を受けるに相応しい魅力的なご婦人です。ですが……」

「また『だが』か、公爵……」

「ですが」とド・ショワズールは続けた。「私は確信しております。陛下がフランスのことをお考えなら、現在必要なのは魅力的な寵姫ではなく有能な大臣であると」

「その話はもうよい。これからも良き友人でいよう。それよりド・グラモン夫人をなだめておいてくれ、これ以上伯爵夫人に陰謀を企むことのないようにな。女が絡むとごちゃごちゃになってしまう」

「ド・グラモン夫人は、陛下に気に入られたがっております。それが間違いの元なのでしょう」

「伯爵夫人に嫌がらせをしても、余に嫌われるだけではないか」

「ですからド・グラモン夫人は出て行きます。もはや会うことはないでしょう。これで敵が一人減りますね」

「余の言いたいのはそういうことではない。先走り過ぎだ。それにしても頭が痛いな、今朝はルイ十四世とコルベールのように働いたではないか。今朝の我々は、哲学者たちの言うように、偉大な世紀だったな。それはそうと、そなたは哲学者なのか?」

「私は陛下の僕でございます」ド・ショワズール氏は答えた。

「面白いことを言う。そなたは得難い人物だな。腕を貸してくれ、眩暈がする」

 公爵は慌てて腕を差し出した。

 回廊にいる廷臣たちが今にも二重扉を開けようとして、この輝かしい状況を目にしようとしていることを、ショワズールは見越していた。これほど苦しんだ後で、敵たちを苦しめてやれることに、喜びを覚えた。

 期待通りに取次が扉を開け、国王の退出を回廊に告げた。

 ルイ十五世はド・ショワズール氏と話をしたまま、笑顔を浮かべ、腕に身体を預けて、廷臣たちには目もくれずに回廊を通り抜けた。ジャン・デュ・バリーが真っ青な顔をして、ド・リシュリュー氏が真っ赤になっていることにも、目をくれようとしなかった。

 だがド・ショワズール氏はこの微妙な違いに気づいた。足を真っ直ぐ動かし、首筋を伸ばし、目を輝かせて、廷臣たちの前を通りすぎた。朝はばらばらだった廷臣たちが、今は対照的に寄り集まっている。

「ここで待っていてくれ」回廊の端で国王が言った。「トリアノンに連れて行こう。余の言ったことを忘れるなよ」

「胸に留めておきました」この言葉を聞いて敵たちの心が掻き立てられることをよくわかっていた。

 国王が居室に戻った。

 ド・リシュリュー氏が列から離れ、痩せた両手で大臣の手を握り締めた。

「ショワズールという人はそう簡単にはくたばるまいと久しく思っておりましたぞ」

「光栄です」何処でやめておくべきかは心得ていた。

「それにしても馬鹿げた噂がありますな?」元帥は諦めなかった。

「噂を聞いて陛下もお笑いでしたよ」

「令状の話を聞きましたが……」

「国王による目くらましでしょう」と、これは落ち着きのないジャンに向かって口にした言葉だった。

「お見事ですな!」ド・ショワズール公爵の姿が見えなくなるや、元帥は伯爵に話しかけた。

 階段を降りて来た国王に呼ばれて、公爵はいそいそと後を追っていた。

「ははあ! いやいや、わしらは遊ばれましたな」公爵がジャンに声をかけた。

「何処に行くのでしょう?」

「プチ・トリアノンで、わしらを肴に過ごすのでしょうな」

「畜生!」ジャンが呟いた。「いや失礼、元帥閣下」

「今度はわしの番ですな。わしのやり方が伯爵夫人よりも優れているかどうか確かめましょうではありませんか」

『ジョゼフ・バルサモ』 第78章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第七十八章 ルイ十五世陛下の代用寵姫

 国王ルイ十五世はそれほど落ち着いた人物ではなかったので、毎日欠かさず政治を話をする訳にはいかなかった。

 国王にとって政治の話はひどく退屈だったので、機嫌の悪い日には、その話題と共にだんまりを決め込んだ。

「ふん! 機械も余も飽きもせず毎日よう働いているな!」

 機会さえあれば周りもそれに乗じていたが、機嫌のいいときには主導権を奪われていた国王も、その主導権を取り戻さないことは滅多になかった。

 デュ・バリー夫人は国王のことならよくわかっていたので、海を知り尽くした漁師のように、荒れ模様の日には決して船を出そうとはしなかった。

 という訳でこのたび国王がリュシエンヌに会いに来たのは、これ以上ないほど機嫌のいい時であった。前日に間違いをしでかしてしまったので、文句を言われることは承知していた。この日の国王は絶好の獲物であった。

 しかしながら、無邪気に待ち伏せされている獲物でも、本能的に危険を察知するものだ。だが狩人の方にそれをねじ伏せるだけの腕があれば、この本能も裏をかかれる。

 国王を罠に掛けたがっている伯爵夫人が、如何にして獲物を捕らえたかをお見せしよう。

 既にお伝えしたと記憶しているが、伯爵夫人はブーシェが羊飼いに着せたような色っぽい部屋着を纏っていた。

 ただしこちらには頬紅がない。ルイ十五世は頬紅が大嫌いだった。

 国王陛下の来臨が知らされると、伯爵夫人は頬紅壺に飛びつき、懸命に頬にこすりつけ出した。

 国王が控えの間からこれを見つけた。

「何とまあ、化粧をしているな!」と言いながら部屋に入って来た。

「まあ、ようこそ、陛下」国王から首筋に口づけをされても、伯爵夫人は鏡の前から動かずに手を動かし続けた。

「別の人を待っていたのかな?」

「どうしてそう思いますの、陛下?」

「そうでなければ、どうして顔を塗りたくっているのかね?」

「ところが陛下、それどころか、陛下にお目に掛からずに今日一日が終わることはないと信じておりました」

「そなたも言いますね!」

「そうお思いですか?」

「うむ、真剣な顔をして。音楽を聴いている時のリシュリューと同じだ」

「そうなんです、真剣にお話しすることがありますの」

「ああ結構。わかっておる」

「そうですか?」

「文句があるのでしょう!」

「あたくしに? まさか……どうしてですの?」

「昨日、会いに来なかったからです」

「まあ陛下! あたくしに陛下を独り占めする権利があるとは思いませんでしょう」

「ジャネット、怒らんでくれ」

「怒ってなどいませんわ」

「はっきり言おう、そなたのことを思わぬ時などないのだ」

「そうですか!」

「昨夜は永遠のように感じられたよ」

「陛下、繰り返しますが、あたくしはそんなこと申しておりません。陛下が何処で楽しく夜をお過ごしになりましたって、誰も気にはしませんわ」

「家族で過ごしておったのだ」

「そんなことをたずねている訳でもありませんわ」

「どういうことです?」

「あたくしから申し上げるのは失礼ですもの」

「はてさて! そのことに怒っているのでないとしたら、いったい何に怒っておいでです? 腹を割って話しませんか」

「怒ってなどおりません」

「だが気に食わないことがあるのでしょう……」

「気に食わないことがあるのは確かです」

「何が気に入らないのだ?」

「代役であることがです」

「あなたが?」

「あたくしが、です! デュ・バリー伯爵夫人、可愛いジョリー・ジャンヌ、別嬪シャルマント・ジャネット、魔性のセデュイサント・ジャヌトン。お好きなようにお呼び下さい。そうです、あたくしは代役なんです」

「しかし、何の代役なのです?」

「マダム・ド・ショワズールとマダム・ド・グラモンが陛下を必要としなくなった時の、恋人役です」

「伯爵夫人……」

「残念ですけれど、洗いざらい申し上げますわ。ド・グラモン夫人が陛下の寝室の入口でよく陛下を待ち受けていることは誰でも知っております。あたくしは高貴な公爵夫人とは正反対。きっと出口で待ち詫びていても、捕まるのはショワズール殿かグラモン夫人……残念ですけれど!」

「伯爵夫人!」

「何ですの! あたくしなんてどうせ身分の低い女。ブレーズのお妾、ラ・ベル・ブルボネーズですもの」

「伯爵夫人、ショワズール兄妹は仕返しするつもりなんです」

「構いません、あたくしのやったことに仕返しされるんですから」

「そなたにひどい言葉をぶつけるだろう」

「その通りでしょうね」

「ああ!」

「一ついい案があって、実行しようと思ってますの」

「それは……?」国王は不安そうにたずねた。

「呆れるくらい簡単なことですわ」

 国王は肩をすくめた。

「信じてらっしゃいませんのね?」

「当然だ」

「難しく考えることはありません。あたくしのことをほかの方々と一緒くたになさってるんですわ」

「そうかな?」

「そうですとも。ド・シャトールー夫人は女神になりたがりました。ド・ポンパドゥール夫人は女王になりたがりました。ほかの方々は富を、権力を求め、寵愛の重さで貴婦人たちを貶めようとしました。でもあたくしにはそんな欠点はありませんわ」

「その通りだ」

「それどころか、美点ばかりです」

「それもまた確かなことだ」

「思ってもいないことを仰るのね」

「伯爵夫人! 余ほどそなたのことを評価している者はおりませんよ」

「そういうことにしておきますわ。これから申し上げることを聞いてもお気持ちを曲げないで下さいましね」

「どうぞ仰いなさい」

「第一に、あたくしには財産がありますし、誰かを必要ともしていません」

「それを残念に思わせたいのかな」

「第二に、ご婦人たちを満足させるような自惚れも持ち合わせてはいませんし、叶わぬ願いに焦がれてもおりません。何よりもまず、恋人のことをいつも愛していたいんです。恋人がマスケット銃兵であろうと、国王であろうと。愛がなくなればその日から、どんなものにも愛情を覚えることはないでしょう」

「それでも余に愛情を覚えていて欲しいものだ」

「話はまだ終わってはいませんわ」

「続きを聞こう」

「陛下に申し上げなくてはなりませんけれど、あたくしは若く可愛く、後十年は美しさを保てますし、陛下の寵姫ではなくなった日からは、世界一幸せな女であるだけでなく、世界一名誉な女になると思いますの。お笑いになるのね。陛下が考えてもいないことを申し上げなくてはならないのは残念ですわ。陛下にはほかにも寵姫がいらしたけれど、何人も寵姫を持ったせいで国民の怒りを買い、みんな捨ててしまわれたでしょ。陛下は国民から祝福されましたけれど、以前のように卑しい身分に戻った寵姫は国民から恨まれました。でもあたくしは、陛下からお払い箱にされるのを待つつもりはありませんの。自分から辞めて、辞めたことをみんなに報せるつもりです。貧しい人々に十万リーヴル与えて、修道院で一週間過ごして懺悔するつもりです。ひと月もしないうちに、あたくしの肖像画がマグダラのマリアと対になって教会中に飾られることになるでしょう」

「まさか伯爵夫人、真面目な話ではありますまいね」

「ご覧下されば真面目かどうかわかりますでしょう。これまでの人生でこれほど真面目だったことなどありません」

「そなたがこんなけちくさいことを、ジャンヌ? 腹をくくれと申しておるのか?」

「違いますわ。腹をおくくりになるよう迫るのでしたら、ただ『どちらかお選びになって下さい』と申し上げるだけですもの」

「だが?……」

「でもあたくしはこう申し上げるだけです。『お元気で、陛下!』と」

 国王は青ざめたが、今度は腹を立てていた。

「失念しているのなら、お気をつけなさい……」

「何ですの?」

「バスチーユに入れることも出来るのですぞ」

「あたくしを?」

「さよう、そなたを、バスチーユに。修道院の何倍も気の滅入る場所です」

「どうか陛下!」と伯爵夫人は手を合わせた。「寛大なおはからいをして下さいましたら……」

「寛大とは何のことです?」

「あたくしをバスチーユに入れて下さることです」

「何だと!」

「あたくしはそれで満足できます」

「まことか?」

「もちろんです。ド・ラ・シャロテやド・ヴォルテールのようにみんなから親しまれることに、あたくし密かに憧れているんですもの。そうなると足りないのはバスチーユじゃありません? ちょこっとバスチーユに行くだけで、あたくしは世界一幸せな女なんです。あたくしや貴族や王女殿下や陛下ご自身について回想録を書くのにちょうどいい機会ですし、最愛王ルイの素晴らしい点を遠い子孫に伝えることにもなりますもの。封印状をご用意下さいましな、陛下。ペンとインクはこちらにございます」

 伯爵夫人は丸テーブルの上に置いてあったペンとインク壺を国王の方に押しやった。

 挑まれた国王の方は、しばし考え込んでから、立ち上がった。

「いいでしょう、さようなら、マダム」

「馬を!」伯爵夫人が声をあげた。「さようなら、陛下」

 国王が扉に向かった。

「ション!」と伯爵夫人が呼んだ。

 ションが現れた。

「鞄と使用人と駅馬車を。急いで」

「駅馬車! 何があったの?」ションは唖然としている。

「急いで出かけないと、バスチーユに入れられちゃうの。時間がないわ。急いで、ション、早く」

 この非難にルイ十五世は心を打たれた。伯爵夫人のところに戻ると手を握った。

「伯爵夫人、きつい言い方を許して下さい」

「実を言いますと、陛下が絞首台をちらつかせて脅さなかったことに驚いておりますの」

「何を馬鹿なことを!」

「違いまして?……盗人は吊されるんじゃありませんでした?」

「盗人?」

「ド・グラモン夫人の地位を盗もうとしているんですもの」

「伯爵夫人!」

「それがあたくしの罪ですわ」

「いいかね、ずるはなしだ。余を怒らせないでくれ」

「では?」

 国王は両手を伸ばした。

「二人とも間違っていた。さあ、余も許すからそなたも許してくれ」

「本気で和解をお求めですの?」

「誓って本気だ」

「退っていいわ、ション」

「何の指示も出さなくていいのね?」

「逆よ、さっきの指示をすべて出しておいて」

「伯爵夫人……」

「でも次の命令を待たせておいて」

「了解!」

 ションが立ち去った。

「ではあたくしをお望みですのね?」伯爵夫人が国王にたずねた。

「ほかの何よりも」

「ご自身のお言葉をようくお考えなさいませ」

 国王は考えはしたものの、後には引けなかった。それに、勝利を手にした夫人が何処まで要求するのかを確かめたかった。

「お話しなさい」

「今すぐ申し上げます。お気をつけ遊ばせ、陛下!……あたくしは何もお願いせずにに出て行くところだったんですから」

「よくわかっておる」

「でも出て行かないとなったら、お願いがありますの」

「何だね? それが知りたい」

「陛下はようくご存じですわ」

「知らぬ」

「知ってるくせに。だって嫌な顔をなさってますもの」

「ショワズールの更迭か?」

「大正解」

「無理だ、伯爵夫人」

「では馬を……」

「いやはや、頑固な方だ……」

「あたくしをバスチーユ送りにする封印状に署名なさるか、大臣罷免の封印状に署名なさるか、どちらかです」

「間を取ればよい」

「お気遣いありがとうございました。どうやら心おきなく出て行けますわ」

「伯爵夫人、そなたは女だ」

「ありがたいことです」

「気の強い女がへそを曲げたように政治を語るでない。余にはショワズールを罷免する理由がない」

「ちゃんとわかってましてよ、高等法院の先頭に立って、叛乱を支えていることくらい」

「言い訳を用意しておろう」

「言い訳というのは弱者の理屈です」

「伯爵夫人、ド・ショワズール殿は正直な人間だし、正直な人間など滅多にいないのだ」

「正直者が陛下を黒服に売り、そうして王国の金を貪られるのですか」

「極論を申すな」

「控えめに申したのです」

「何ともはや!」ルイ十五世は口惜しがった。

「でもあたくしも馬鹿ですわね。高等法院やショワズールや政府なんてあたくしには縁のない話ですし、陛下や代わりの愛人なんてあたくしには縁のない話ですのに」

「またか!」

「変わる訳がございません」

「伯爵夫人、二時間考えさせてくれ」

「十分です。あたくしは部屋におりますので、お返事を扉の下から差し込んで下さいまし。紙はそこに、ペンはそこに、インクはそこにございます。十分してお返事がない場合や、満足できるお返事のなかった場合は、お別れです、陛下! あたくしのことはご心配なさらずに、すぐに出て行きますから。さもなければ……」

「何だね?」

「差し釘を引けば、閂が落ちますわ」

 内心の動揺を抑えようとしたルイ十五世から、その手に口づけをされた伯爵夫人は、退き際に矢を放つパルティア人の如く、去り際に挑発的な笑顔を残して出て行った。

 国王は敢えて止めようともせず、伯爵夫人は隣室に姿を消した。

 五分後、折り畳まれた紙が、絹の扉留めと絨毯の毛足の隙間に差し込まれた。

 伯爵夫人はその内容をひと息に読むと、ド・リシュリュー氏宛てに何事かを急いで書きつけた。リシュリューは長いこと突っ立っているのを人に見られることを恐れて、庇下沿いに庭を歩き回っていた。

 元帥は紙を広げて読むと、七十五歳とは思えぬ駆け足で中庭の四輪馬車までたどり着いた。

「ヴェルサイユだ、大急ぎで!」

 窓からド・リシュリュー氏に落とされた紙にはこんなことが書かれたいた。

 ――あたくしは木を揺らし、大臣は落ちました。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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