アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
第九十章 魔法が解ける
ジャンはこの挑発的な暇乞いにかっとなり、男爵を追いかけ出しかけたが、肩をすくめて元帥に向き直った。
「ご自宅に招いたのですか?」
「外れだ。追い払ったのだ」
「何者かご存じなのですか?」
「まあ、そうだな……」
「もしやよくご存じですか?」
「あれはタヴェルネだ」
「国王の寝床に娘を送り込もうとしている御仁だ……」
「これこれ!」
「俺たちの地位を奪おうとしている御仁。そのためには何をしようと厭わない御仁……だがジャンが居合わせた、ジャンにはお見通しだ」
「まさか本気でそんなことを……?」
「想像できないでしょうね? 王太子派で……それに殺し屋がいる……」
「ほう」
「人の足を咬むのに長けた若者、ジャンの肩に剣をお見舞いした決闘好き……この哀れなジャンめの肩に、です」
「貴殿に? それは個人的な問題ではありませんかな?」リシュリューは驚いてみせた。
「まあそうですね! 替え馬事件の相手ですよ、ご存じでしょう?」
「ああ、しかし申し訳ないことにそのことは知らなかったが、頼みにはすべて断りを入れた。知っていたなら追い立てるのではなく追い払ったのだがな……とにかく落ち着きなさい。今やそのご立派な決闘好きもわしの掌中だ。向こうもそれに気づくだろうて」
「そうですね、あなたなら往来で人を襲う趣味をやめさせることも出来るでしょう……いやそれはそうと、まだお祝いを申し上げていませんでしたね」
「それがそうなのだ、すっかり済んだようだ」
「すべて済んだんですね……お祝いに抱擁しても構いませんか?」
「無論だとも」
「結局、障害はあったが、成功の前には障害など無に等しい。満足しているでしょうね?」
「ずばりお話ししても構わぬかな?……というのも、役に立てそうだと思うておってな」
「間違いありません……ただし大きな一撃だ……不平が渦巻くでしょうね」–
「わしは民衆から愛されてないと?」
「あなたが?……いやあなたには好感も反感もないでしょう……憎まれているのはあの人ですよ」
「あの人……?」リシュリューは首をひねった。「あの人とは……?」
「いいですか、高等法院が反対しようとしているのは、ルイ十四世がふるっていた鞭が再来することなんですよ。さんざ鞭打たれてますからね!」
「詳しく聞かせてくれぬか……」
「詳しく話すまでもない。高等法院が憎んでいるのは、迫害を引き起こした張本人です」
「貴殿が考えているのは……」
「確信していますよ、フランス中が確信していることだ……何にしたところで、あなたは見事にやってのけましたよ。こんな風に火中にあの人を送り込むなんてね」
「あの人とは?……いったい誰のことを? 気になって仕方がない。言っていることがさっぱりわかりませんぞ」
「甥御さんのデギヨン氏のことですよ」
「ふむ、つまり?」
「つまり、あの人を呼んだのは見事なお手並みだと言っているんです」
「ああ、結構! 結構!……あれがわしの助けになるだろうと?」
「俺たちみんなの助けになりそうです……ジャネットと上手くやっているのはご存じですか?」
「何と! まことかな?」
「すっかり打ち解けてお互いのことをわかり合ってますよ」
「そこまでわかるのかね?」
「簡単なことです。ジャネットがぐっすり寝込んでいますからね」
「ああ、なるほど……」
「九時になっても、十時や十一時になっても寝床から出て来そうにない」
「うむ。それで……」
「それで、今朝リュシエンヌで、六時頃デギヨンの輿が出ていくのが見えました」
「六時?」リシュリューはにんまりした。
「ええ」
「今朝早くに?」
「今朝早くに。謁見を許すには随分と早い時間だ。ジャネットが甥御さんに夢中だと考えていいんじゃないですか」
「いや、その通り」リシュリューは手を擦り合わせた。「六時か、ブラーヴォ、デギヨン!」
「会談は五時に始まったに違いない……夜中ですよ! たいしたもんだ……!」
「たいしたものだ……!」元帥も繰り返した。「まさしく奇跡ですぞ!」
「あなたがた三人はさしずめオレステスとピュラデスだな、そしてもう一人ピュラデスが」
ここで元帥がさらに嬉しそうに手を擦り合わせたところで、デギヨンが応接室に入って来た。
デギヨンはリシュリューに向かって「お気の毒に」というような挨拶をした。それだけで真実を悟るには充分だった。少なくともその要点を見抜くには充分であった。
リシュリュー元帥は致命傷でも受けたように真っ青になった。宮廷には友人も親戚もいないこと、宮廷では一人一人が自分の立場を守っていることを、瞬時に理解したのだ。
「わしは大馬鹿ものじゃった……さて、デギヨン?」苦しげに大きな溜息をついた。
「何でしょう、元帥閣下?」
「高等法院には大打撃だということだ」リシュリューはジャンの言葉を丸々繰り返した。
デギヨンが顔を赤らめた。
「ご存じでしたか?」
「子爵殿がすっかり教えてくれた。今朝お前が陽の昇る前にリュシエンヌを訪問したことも。お前が任命されたのは一族の誇りだ」
「本当に慚愧に耐えません」
「何の話です?」ジャンが腕組みをしてたずねた。
「お互いの話を知っておこう」リシュリューが口を挟んだ。「話を聞かせてくれ」
「それは構いませんが。私にはわかりません……残念ですが……何しろ……すぐに大臣だと認められる訳ではないのです。ええ、ええ……」
「ああ、空白期間があるということか」元帥は胸の奥に希望が舞い戻るのを感じた。希望こそは野心家や愛人にとって永遠の賓客である。
「空白期間、そうなんです」
「だがそれまでの間もそれなりに報われているはずだ……ヴェルサイユの指揮権が与えられてるんだから」ジャンがずばりと言った。
「何と!」リシュリューが新たな矢に刺し貫かれた。「指揮権があるのか」
「デュ・バリー氏は大げさに仰っているのでしょう」デギヨンが答えた。
「それにしても、いったい何処の指揮権を?」
「国王近衛軽騎兵隊です」
リシュリューのしなびた頬から再び血の気が引くのがわかった。
「ああ、そうか」如何とも言い難い微笑みを浮かべると、「立派な人物にはどうということでもあるまい。だがな、絶世の美女であっても、持っているものしか与えることは出来ぬのだぞ。それが国王の愛人だったとしてもだ」
今度はデギヨンが青ざめる番だった。
ジャンは元帥の部屋にあるムリーリョの絵を眺めていた。
リシュリューが甥の肩を叩いて言った。
「次の昇進が約束されているのは結構なことではないか。お祝いを言おう……心からのお祝いだ。運が良かっただけではない。如才ない交渉術の賜物だ……ではこれで。仕事があるのでな。おこぼれを忘れんでくれよ、大臣殿」
デギヨンは一言だけ答えた。
「あなたは私で、私はあなたです、元帥閣下」
デギヨンは叔父にお辞儀をして立ち去った。生まれながらの威厳も失わず、これほど難題が山積みの難しい立場にぶつかったことはないということも自覚していた。
「いいところがある」デギヨンが立ち去ると、リシュリューはいそいそとジャンに話しかけた。ジャンは甥と叔父の慇懃な応酬をどう捉えればいいのかよくわからずにいた。「デギヨンには素晴らしいところがある。無邪気なところだ。頭が切れて、人がいい。宮廷を知りつくしているくせに、おぼこ娘のようにお人好しだ」
「愛されているんですね」
「子羊のようにの」
「いやまったく。もしかするとご子息のド・フロンサック氏よりも……」
「いやその通りだ……その通りですな」
リシュリューはすべて引っくるめてそう答えてから、肘掛け椅子の周りをどたどたと歩き回った。求めていたものが見つからなかったのだ。
「ああ、伯爵夫人! いつか必ずこの借りは……!」
「元帥閣下」ジャンがさり気なく割って入った。「古代ローマの束桿の団結を俺たち四人で甦らせようじゃありませんか。その結束が破られることのなかったのはご存じでしょう」
「わしら四人? ジャン殿、それをいったいどうお考えかな?」
「支配の妹、強権のデギヨン、顧問のあなた、監視の俺」
「お見事、お見事!」
「そうなればきっと妹に手を出しに来る! 男だろうと女だろうと戦う覚悟は出来ているぞ!」
「そいつは凄い!」リシュリューは頭に血が上っていた。
「いつでもかかって来るがいい!」ジャンは勝ち誇り、自分の考えにすっかり酔いしれていた。
「おお!」リシュリューが額を叩いた。
「どうしました? 何かありましたか?」
「何でもない。貴殿の考えたのは素晴らしい同盟だと思ったまで」
「そうでしょう?」
「わしは手も足も貴殿の話に乗っかりますぞ」
「ブラーヴォ!」
「タヴェルネは娘さんと一緒にトリアノンに住んでいるのかな?」
「いえ、パリにいます」
「あの娘は随分と美しいな」
「クレオパトラのように美しかろうと、或いは……妹のように美しかろうと、もう怖いものなんてありませんよ……俺たちが手を結んだんですから」
「タヴェルネはパリにいると申したな、もしやサン=トノレ街ではないか?」
「サン=トノレ街ではなく、コック=エロン街です。もしかすると、タヴェルネをやっつけられるような妙案でもあるんですか?」
「そう思っておる。一つ考えていることがあるのだ」
「さすがは比類なき才人だ。俺はもうそろそろ行きますよ。町でどんな噂が流れているのか確かめて来ます」
「では健闘を祈る、子爵……ところで、新しい大臣の話が出なかったが?」
「ああ、渡り鳥ですよ。テレー、ベルタン、ほかは知らない人でした……要するにデギヨンの代役ですよ、真の大臣は先延ばしです」
――恐らくは永遠に。元帥はそう思いながら、別れの印にジャンに愛想よく笑いかけた。
ジャンが立ち去り、ラフテが戻って来た。すべてを耳にしていたので、何を為すべきかも心得ていた。懸念が現実のものとなってしまったのだ。主人のことならよくわかっていたので、一言も話しかけなかった。
部屋付きの従者も呼ばずに自分で服を脱がし、寝床に連れてゆくと、老元帥はたちまち眠りに就いた。熱でがたがたと震えていたので寝る前に薬を飲ませておいた。
ラフテはカーテンを閉めて退出した。控えの間では従者たちが熱心に聞き耳を立てている。ラフテは第一従者の腕をつかんだ。
「元帥閣下を看護なさい。寝込んでいます。今朝は不愉快なことがあったのだ。国王に背いたに違いない……」
「国王に背く?」従者はぎょっとしてたずねた。
「陛下は閣下に大臣就任を打診なさった。元帥閣下はそれがデュ・バリーの口利きによるものだとわかっていたので、お断りになったのだ! 立派なことではないか。パリっ子は閣下のために凱旋門を作るべきだ。だが衝撃が大きかったために、閣下は臥せってしまわれた。鄭重に看護なさい」
この言葉が何処まで広がるかまでラフテは読んでいた。言いたいことを伝え終わるとラフテは部屋に戻った。
十五分後、元帥の気高い振る舞いと献身的な愛国心はヴェルサイユ中に知れ渡っていた。秘書が作り上げた人気に抱かれて、元帥はぐっすりと眠っていた。