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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 第90章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第九十章 魔法が解ける

 ジャンはこの挑発的な暇乞いにかっとなり、男爵を追いかけ出しかけたが、肩をすくめて元帥に向き直った。

「ご自宅に招いたのですか?」

「外れだ。追い払ったのだ」

「何者かご存じなのですか?」

「まあ、そうだな……」

「もしやよくご存じですか?」

「あれはタヴェルネだ」

「国王の寝床に娘を送り込もうとしている御仁だ……」

「これこれ!」

「俺たちの地位を奪おうとしている御仁。そのためには何をしようと厭わない御仁……だがジャンが居合わせた、ジャンにはお見通しだ」

「まさか本気でそんなことを……?」

「想像できないでしょうね? 王太子派で……それに殺し屋がいる……」

「ほう」

「人の足を咬むのに長けた若者、ジャンの肩に剣をお見舞いした決闘好き……この哀れなジャンめの肩に、です」

「貴殿に? それは個人的な問題ではありませんかな?」リシュリューは驚いてみせた。

「まあそうですね! 替え馬事件の相手ですよ、ご存じでしょう?」

「ああ、しかし申し訳ないことにそのことは知らなかったが、頼みにはすべて断りを入れた。知っていたなら追い立てるのではなく追い払ったのだがな……とにかく落ち着きなさい。今やそのご立派な決闘好きもわしの掌中だ。向こうもそれに気づくだろうて」

「そうですね、あなたなら往来で人を襲う趣味をやめさせることも出来るでしょう……いやそれはそうと、まだお祝いを申し上げていませんでしたね」

「それがそうなのだ、すっかり済んだようだ」

「すべて済んだんですね……お祝いに抱擁しても構いませんか?」

「無論だとも」

「結局、障害はあったが、成功の前には障害など無に等しい。満足しているでしょうね?」

「ずばりお話ししても構わぬかな?……というのも、役に立てそうだと思うておってな」

「間違いありません……ただし大きな一撃だ……不平が渦巻くでしょうね」–

「わしは民衆から愛されてないと?」

「あなたが?……いやあなたには好感も反感もないでしょう……憎まれているのはあの人ですよ」

「あの人……?」リシュリューは首をひねった。「あの人とは……?」

「いいですか、高等法院が反対しようとしているのは、ルイ十四世がふるっていた鞭が再来することなんですよ。さんざ鞭打たれてますからね!」

「詳しく聞かせてくれぬか……」

「詳しく話すまでもない。高等法院が憎んでいるのは、迫害を引き起こした張本人です」

「貴殿が考えているのは……」

「確信していますよ、フランス中が確信していることだ……何にしたところで、あなたは見事にやってのけましたよ。こんな風に火中にあの人を送り込むなんてね」

「あの人とは?……いったい誰のことを? 気になって仕方がない。言っていることがさっぱりわかりませんぞ」

「甥御さんのデギヨン氏のことですよ」

「ふむ、つまり?」

「つまり、あの人を呼んだのは見事なお手並みだと言っているんです」

「ああ、結構! 結構!……あれがわしの助けになるだろうと?」

「俺たちみんなの助けになりそうです……ジャネットと上手くやっているのはご存じですか?」

「何と! まことかな?」

「すっかり打ち解けてお互いのことをわかり合ってますよ」

「そこまでわかるのかね?」

「簡単なことです。ジャネットがぐっすり寝込んでいますからね」

「ああ、なるほど……」

「九時になっても、十時や十一時になっても寝床から出て来そうにない」

「うむ。それで……」

「それで、今朝リュシエンヌで、六時頃デギヨンの輿が出ていくのが見えました」

「六時?」リシュリューはにんまりした。

「ええ」

「今朝早くに?」

「今朝早くに。謁見を許すには随分と早い時間だ。ジャネットが甥御さんに夢中だと考えていいんじゃないですか」

「いや、その通り」リシュリューは手を擦り合わせた。「六時か、ブラーヴォ、デギヨン!」

「会談は五時に始まったに違いない……夜中ですよ! たいしたもんだ……!」

「たいしたものだ……!」元帥も繰り返した。「まさしく奇跡ですぞ!」

「あなたがた三人はさしずめオレステスとピュラデスだな、そしてもう一人ピュラデスが」

 ここで元帥がさらに嬉しそうに手を擦り合わせたところで、デギヨンが応接室に入って来た。

 デギヨンはリシュリューに向かって「お気の毒に」というような挨拶をした。それだけで真実を悟るには充分だった。少なくともその要点を見抜くには充分であった。

 リシュリュー元帥は致命傷でも受けたように真っ青になった。宮廷には友人も親戚もいないこと、宮廷では一人一人が自分の立場を守っていることを、瞬時に理解したのだ。

「わしは大馬鹿ものじゃった……さて、デギヨン?」苦しげに大きな溜息をついた。

「何でしょう、元帥閣下?」

「高等法院には大打撃だということだ」リシュリューはジャンの言葉を丸々繰り返した。

 デギヨンが顔を赤らめた。

「ご存じでしたか?」

「子爵殿がすっかり教えてくれた。今朝お前が陽の昇る前にリュシエンヌを訪問したことも。お前が任命されたのは一族の誇りだ」

「本当に慚愧に耐えません」

「何の話です?」ジャンが腕組みをしてたずねた。

「お互いの話を知っておこう」リシュリューが口を挟んだ。「話を聞かせてくれ」

「それは構いませんが。私にはわかりません……残念ですが……何しろ……すぐに大臣だと認められる訳ではないのです。ええ、ええ……」

「ああ、空白期間があるということか」元帥は胸の奥に希望が舞い戻るのを感じた。希望こそは野心家や愛人にとって永遠の賓客である。

「空白期間、そうなんです」

「だがそれまでの間もそれなりに報われているはずだ……ヴェルサイユの指揮権が与えられてるんだから」ジャンがずばりと言った。

「何と!」リシュリューが新たな矢に刺し貫かれた。「指揮権があるのか」

「デュ・バリー氏は大げさに仰っているのでしょう」デギヨンが答えた。

「それにしても、いったい何処の指揮権を?」

「国王近衛軽騎兵隊です」

 リシュリューのしなびた頬から再び血の気が引くのがわかった。

「ああ、そうか」如何とも言い難い微笑みを浮かべると、「立派な人物にはどうということでもあるまい。だがな、絶世の美女であっても、持っているものしか与えることは出来ぬのだぞ。それが国王の愛人だったとしてもだ」

 今度はデギヨンが青ざめる番だった。

 ジャンは元帥の部屋にあるムリーリョの絵を眺めていた。

 リシュリューが甥の肩を叩いて言った。

「次の昇進が約束されているのは結構なことではないか。お祝いを言おう……心からのお祝いだ。運が良かっただけではない。如才ない交渉術の賜物だ……ではこれで。仕事があるのでな。おこぼれを忘れんでくれよ、大臣殿」

 デギヨンは一言だけ答えた。

「あなたは私で、私はあなたです、元帥閣下」

 デギヨンは叔父にお辞儀をして立ち去った。生まれながらの威厳も失わず、これほど難題が山積みの難しい立場にぶつかったことはないということも自覚していた。

「いいところがある」デギヨンが立ち去ると、リシュリューはいそいそとジャンに話しかけた。ジャンは甥と叔父の慇懃な応酬をどう捉えればいいのかよくわからずにいた。「デギヨンには素晴らしいところがある。無邪気なところだ。頭が切れて、人がいい。宮廷を知りつくしているくせに、おぼこ娘のようにお人好しだ」

「愛されているんですね」

「子羊のようにの」

「いやまったく。もしかするとご子息のド・フロンサック氏よりも……」

「いやその通りだ……その通りですな」

 リシュリューはすべて引っくるめてそう答えてから、肘掛け椅子の周りをどたどたと歩き回った。求めていたものが見つからなかったのだ。

「ああ、伯爵夫人! いつか必ずこの借りは……!」

「元帥閣下」ジャンがさり気なく割って入った。「古代ローマの束桿の団結を俺たち四人で甦らせようじゃありませんか。その結束が破られることのなかったのはご存じでしょう」

「わしら四人? ジャン殿、それをいったいどうお考えかな?」

「支配の妹、強権のデギヨン、顧問のあなた、監視の俺」

「お見事、お見事!」

「そうなればきっと妹に手を出しに来る! 男だろうと女だろうと戦う覚悟は出来ているぞ!」

「そいつは凄い!」リシュリューは頭に血が上っていた。

「いつでもかかって来るがいい!」ジャンは勝ち誇り、自分の考えにすっかり酔いしれていた。

「おお!」リシュリューが額を叩いた。

「どうしました? 何かありましたか?」

「何でもない。貴殿の考えたのは素晴らしい同盟だと思ったまで」

「そうでしょう?」

「わしは手も足も貴殿の話に乗っかりますぞ」

「ブラーヴォ!」

「タヴェルネは娘さんと一緒にトリアノンに住んでいるのかな?」

「いえ、パリにいます」

「あの娘は随分と美しいな」

「クレオパトラのように美しかろうと、或いは……妹のように美しかろうと、もう怖いものなんてありませんよ……俺たちが手を結んだんですから」

「タヴェルネはパリにいると申したな、もしやサン=トノレ街ではないか?」

「サン=トノレ街ではなく、コック=エロン街です。もしかすると、タヴェルネをやっつけられるような妙案でもあるんですか?」

「そう思っておる。一つ考えていることがあるのだ」

「さすがは比類なき才人だ。俺はもうそろそろ行きますよ。町でどんな噂が流れているのか確かめて来ます」

「では健闘を祈る、子爵……ところで、新しい大臣の話が出なかったが?」

「ああ、渡り鳥ですよ。テレー、ベルタン、ほかは知らない人でした……要するにデギヨンの代役ですよ、真の大臣は先延ばしです」

 ――恐らくは永遠に。元帥はそう思いながら、別れの印にジャンに愛想よく笑いかけた。

 ジャンが立ち去り、ラフテが戻って来た。すべてを耳にしていたので、何を為すべきかも心得ていた。懸念が現実のものとなってしまったのだ。主人のことならよくわかっていたので、一言も話しかけなかった。

 部屋付きの従者も呼ばずに自分で服を脱がし、寝床に連れてゆくと、老元帥はたちまち眠りに就いた。熱でがたがたと震えていたので寝る前に薬を飲ませておいた。

 ラフテはカーテンを閉めて退出した。控えの間では従者たちが熱心に聞き耳を立てている。ラフテは第一従者の腕をつかんだ。

「元帥閣下を看護なさい。寝込んでいます。今朝は不愉快なことがあったのだ。国王に背いたに違いない……」

「国王に背く?」従者はぎょっとしてたずねた。

「陛下は閣下に大臣就任を打診なさった。元帥閣下はそれがデュ・バリーの口利きによるものだとわかっていたので、お断りになったのだ! 立派なことではないか。パリっ子は閣下のために凱旋門を作るべきだ。だが衝撃が大きかったために、閣下は臥せってしまわれた。鄭重に看護なさい」

 この言葉が何処まで広がるかまでラフテは読んでいた。言いたいことを伝え終わるとラフテは部屋に戻った。

 十五分後、元帥の気高い振る舞いと献身的な愛国心はヴェルサイユ中に知れ渡っていた。秘書が作り上げた人気に抱かれて、元帥はぐっすりと眠っていた。

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『ジョゼフ・バルサモ』 第89章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第八十九章 ド・リシュリュー公爵の控えの間

 廷臣たちの例に洩れず、ド・リシュリュー氏もヴェルサイユとパリに邸を一つずつ、マルリーとリュシエンヌに家を一つずつ持っていた。有り体に言えば、住まいはどれも国王の住まいや保養先のそばにある。

 ルイ十四世は貴族たちや大小の入室特権者たちに、住まいを増やすたびに豪奢にすべしという責務を課していた。家の佇まいを進退に応じたものにするためである。

 という訳でド・リシュリュー氏は、ド・ショワズール氏とド・プララン氏が失職した時、ヴェルサイユの邸に滞在していた。デュ・バリー夫人に甥を引き合わせてリュシエンヌから戻った際、夜を過ごしたのもそこであった。

 リシュリューはマルリーの森で伯爵夫人といるところを目撃され、大臣が罷免されたヴェルサイユで会ったところを目撃され、リュシエンヌで秘密裡にしばらく会談を行っていたことを知られていた。それに加えてジャン・デュ・バリーがべらべらと吹聴していたのだから、ド・リシュリュー氏に敬意を払わざるを得ないと宮廷中が考えるようになるには、それで充分だった。

 もちろん老元帥の方でも、讃辞や追従やごますりの香りをたっぷり吸い込もうとしていた。目下の主役を前にして、誰もが見境なく興味に駆られていたのである。

 ところがド・リシュリュー氏はそんなことが起こるとは期待してはいなかったのである。その日の朝目を覚ました際には、耳に蝋を詰めてセイレーンの歌を防いだオデュッセウスのように、鼻に目張りをして香りを防ごうと固く心に決めていた。

 待ちかねている結果は、その翌日に明らかになるはずなのだ。案に違わず国王によって新大臣の任命が詔されたのは、翌日のことであった。

 故に目を覚ました元帥が、もとい馬車の轟音で目を覚まされた元帥がどれほど驚いたかは想像に難くない。従僕によれば、控えの間や応接室どころか邸の中庭にまで人が溢れていると云う。

「何と、何と! どうやらわしは時の人のようだな」

「まだ早朝でございます、元帥閣下」リシュリュー公爵が慌てて就寝帽を脱ぎだしたのを見て、従僕が声をかけた。

「これからはわしに時間などなくなる。覚えておけ」

「かしこまりました」

「来客には何と答えておいた?」

「閣下はまだお寝みだと」

「それだけか?」

「それだけです」

「馬鹿者。昨夜は遅かったとつけ加えるべきだ。いや、それより……そうだ、ラフテは何処にいる?」

「ラフテ殿はお寝みです」

「寝ているだと? さっさと起こして来い!」

「お待ちを、お待ちを」かくしゃくとした老人が戸口で笑顔を浮かべていた。「ラフテが参りました。お呼びですか?」

 その言葉を聞いて公爵の怒りがたちまちしぼんだ。

「おお、お前は眠っていないと言っておったところだ」

「眠っていたとしても驚くことではないと存じますが? まだ陽が昇ったばかりでございます」

「ところがラフテよ、わしは眠っていないではないか」

「それはまた別の話です。御前様は大臣なのですから……どうして眠れるというのでしょう」

「ほう、わしに意見をする気か」元帥は鏡の前で顔をしかめた。「不満なのか?」

「どうして私が? 御前様が疲れをこじらせてお臥せになっては、私が国を治めることになります。そんなのはちっとも面白くはございません」

「お前も年を取ったな、ラフテ」

「御前様より四つしか若くはございませんから。確かに年を取りました」

 元帥は焦れるように足を踏み鳴らした。

「控えの間を通って来たのか?」

「はい」

「誰がいた?」

「皆さまが」

「どんなことを話していた?」

「御前様にお願い申し上げたいことを口々に話しておいででした」

「もっともだ……わしの任命について、何か聞いたか?」

「仰っていたことは申し上げたくございません」

「ふむ……! 早速悪口か?」

「それも御前様を必要となさっている方々の口からでございます。御前様があの方々を必要となさった場合には、いったいどうなるのでございましょう?」

「例えばそ奴らは、お前がわしにおべっかを使っていると言うだろうな……」

「それにしても閣下。内閣と呼ばれる犂に御身を繋ぐのはどうしてでございますか? 幸せであることにも生きることにも飽きていらっしゃるものと思っておりましたが?」

「わしはあらゆるものを味わって来たが、内閣だけはまだなのだ」

「恐れ入りました! 砒素も味わったことはございますまい。どうしてチョコレートと一緒に試しに飲み干してご覧にならないのですか?」

「ラフテ、この怠け者めが。わしの秘書として、仕事が増えると覚悟しておくのだぞ。尻込みしているな……確かにお前はそう言った」

 元帥は念入りに服を着込んだ。

「軍人風に見えるようにしてくれ。それに軍事勲章を頼む」

「では陸軍大臣ということでしょうか?」ラフテがたずねた。

「その通りだ、どうやら陸軍大臣らしい」

「そうですか! ですが国王の任命がまだないのは異例のことではございませんか」

「そのうち来るだろう」

「公式の発表は今日ではございませんでしたか」

「年を重ねるとともに嫌な奴になって来たな、ラフテ! 形式主義者の厳密主義者め。そうとわかっておれば、アカデミーの入会演説など作らせなかったものを。あれですっかり小難しい人間になってしまいおった」

「ですが閣下、私どもは政府の人間なのですから、型通りに参りましょう……奇妙でございませんか」

「何のことだ?」

「ド・ラ・ヴォードレー伯爵が道でお話し下さったのですが、内閣はまだ発表されていないそうです」

 リシュリューは微笑んだ。

「ド・ラ・ヴォードレーは正しい。するとお前はもう外に出たのだな?」

「仕方ございません。馬車の音があまりにうるさくて目が覚めてしまいましたから、服を着て軍事勲章を着けて、町に出かけて参りました」

「ほう! わしを笑いものにしようという訳か?」

「閣下、とんでもございません! つまり……」

「つまり……何だ?」

「そのまま歩いていると、人に出会ったのです」

「誰だろう?」

「アベ・テレーの秘書でございます」

「ほう?」

「それが、陸軍大臣には自分の主人が任命されたと申しておりました」

「そうか、そうか!」リシュリューは微笑みを絶やずにいた。

「どうお考えになりますか?」

「テレー氏が陸軍大臣だとすると、わしはそうではない。テレー氏でなければ、わしが大臣だ、ということだろう」

 ラフテは自分の感覚に則って行動していた。大胆で疲れも満足も知らず、主人に劣らず頭が切れたし、主人にも増して守りが堅かった。それというのも平民であり雇い人であることを自覚していたからであり、鎧に空いたその二つの穴のおかげで四十年に渡って権謀術数、知力、機智を鍛え上げて来られたのである。そこでリシュリューが微塵も疑っていないのを見て、もはや何一つ恐れることはないと感じた。

「閣下、お急ぎ下さい、あまり待たせてはなりません。そういうことがつまずきになるのございます」

「準備は出来ておる。だが改めて、誰がいるのだね?」

「名簿をご覧下さい」

 ラフテは長い名簿を手渡した。リシュリューはそこに第一級の貴族、僧侶、財政家の名前があるのを見て、ほくそ笑んだ。

「人気者になれればよいがな、ラフテよ?」

「私どもがいるのは奇跡の時代でございます」

「おや、タヴェルネがいる!」名簿を読み続けていた元帥が声をあげた。「ここに何をしに来たのであろう?」

「私にはわかりかねます、元帥閣下。どうかお出でになって下さい」

 ほとんど強制的に、ラフテはリシュリューを大応接室に連れ出した。

 リシュリューはさぞや満足だったに違いない。元帥が受けた歓迎は、野心を持った親王をも満足させるほどのものだった。

 だがこの時代と社会に特有の極めて複雑で隙のない巧妙な作法の前では、生憎と偶然は当てに出来ない。リシュリューは濃い煙に巻かれるばかりであった。

 作法と敬意に則り、礼儀として、リシュリューの前では内閣という言葉を口にする者はいなかった。大胆な者たちもお世辞の言葉を口にするところでやめてしまい、それも口の端に滑らせるだけなので、リシュリューはほとんど返事もすることが出来なかった。

 人々にとって今回の夜明けの訪問は、例えばお祝いの挨拶のような、日常茶飯事に過ぎなかった。

 人々の間で共通の理解となっているこうしたとらえどころのない機微は、この時代には珍しいことではない。

 廷臣たちは会話の端々で願いや希望や約束などを表現しようと努めていた。

 ヴェルサイユにもっと近づきたいと願っている人がいたとする。ド・リシュリュー氏のような評判の高い人物とその話をすることで喜びを得る。

 ド・ショワズール氏が昇進させてくれるのを三度も忘れたと言い張る人がいたとする。ド・リシュリュー氏の記憶に頼り、国王の記憶を醒ましてもらうことで、もはや国王の善意を邪魔するものは何もなくなる。

 このように、幾百もの望みに飢えているにもかかわらず、そのどれもが巧妙に隠され、元帥の耳にもたらされ喜ばせることになる。

 人が徐々に減って行った。元帥閣下が重要な仕事に取りかかってくれるのを願いながら。

 一人だけ応接室に残っている人物がいた。

 ほかの人々のように近づきもせず、そこに留まったまま、名乗りさえしなかった。

 人波が晴れると、その人物が口元に笑みを浮かべて公爵に近づいた。

「おお、ド・タヴェルネ殿! いやありがたい!」

「お祝いを申したくて待っておりました。正真正銘、心からのお祝いです」

「そうでしたか! それで、いったい何のお祝いですか?」ド・タヴェルネの控えめな態度を見て、リシュリューも慎重な謎めかした態度を取る必要を感じた。

「何をまた。このたびのご栄達のお祝いに決まっておりましょう」

「どうかお静かに。その話はよしましょう……まだ決まった訳ではなく、噂に過ぎません」

「どうですか。みんなわしの意見に賛成すると思いますぞ。応接室が人で埋まっていたではないですか」

「それが本当に理由がわからぬのです」

「わしは知っておりますよ」

「何ですか? 教えて下され」

「わしの一言です」

「というと?」

「昨日トリアノンで、わしは国王に拝謁する名誉をいただきました。陛下はわしの子供たちの話をされた後で、こう仰いました。『そなたはド・リシュリュー氏の知り合いであったな。祝いの言葉を贈ってやるがよい』」

「陛下がそう仰ったと?」リシュリューは有頂天になった。そのお言葉こそ、ラフテが危惧を抱き遅れを嘆いていた任命状にほかならないような気分だった。

「そんな訳で、わしは真実の見当をつけました」タヴェルネが話を続けた。「ヴェルサイユ中が忙しくしているのを見れば、難しいことではありませんからな。そこで陛下のお言葉に従い、祝いの言葉を申し上げに駆けつけた次第です。個人的な感情に従い、昔の友情に駆られてやって来た次第です」

 リシュリュー公爵はすっかりその気になっていた。これは如何に気高い心の持ち主であっても免れ得ない生まれついての疵というものである。タヴェルネのことを、寵愛の列に遅れた底辺の請願者くらいにしか考えなかった。庇護するのも無駄なこと、ましてや知り合いであっても何の役にも立たない哀れな人間に過ぎない。二十年も経ってから、闇から這い出て他人の繁栄で暖を取りにやって来たのを非難される人間に過ぎない。

「ちゃんとわかっておる」リシュリュー元帥は鹿爪らしく答えた。「頼みたいことがあるのだろう」

「おお! その通り」

「ああ!」リシュリューは長椅子に座り込んだ。いや、正確には倒れ込んだ。

「子供が二人いると言うたが――」タヴェルネ男爵は巧みに話を続けた。旧友が冷淡なことに気づき、もっと進んで核心に入らなければならないと感じたのだ。「とても可愛がっておる娘がおる。身も心も美しいお手本のような子でしてな。王太子妃殿下が特別にお目をかけて下さったゆえ、今は妃殿下のところに仕えております。娘のアンドレの話ではないのです。あの子の道は開けた。運命は波に乗っておる。娘にお会いになったことはありましたかな? これまで何処かでご紹介したり、お聞かせしたりしたことがあったでしょうか?」

「ふう……知らぬ」リシュリューは素っ気なかった。「多分な」

「構いません。とにかく娘はお仕えしております。わしには何も欲しいものはない。国王はわしに暮らしていけるだけの年金を賜りました。隠居するならメゾン=ルージュというのが何よりの望みだったが、実のところ、メゾン=ルージュを再建できるだけの小金も手に入ると睨んでおりましてな。閣下の信用と、わしの娘の信用があれば……」

(待て待て!)リシュリューが呟いた。自分自身の重大事を考えるのに精一杯で、途中までしか聞いてはいなかったのだが、「わしの娘の信用」という言葉を聞いてやにわに我に返った。(娘御か……美しい娘ならあの伯爵夫人が嫉妬するぞ。さしずめ懐中の蠍。それを王太子妃が翼で温めているのなら、リュシエンヌの人間を刺すためだ……まあよい、つれない態度は取るまい。お礼は伯爵夫人がしてくれる。わしを大臣にしてくれたのだ、欲しい時に欲しいものが欠けているかどうか確かめてくれるだろう)。それから声を出して「続きを頼む」と、ぶっきらぼうにド・タヴェルネ男爵を促した。

「なんの、もうすぐ終わる」元帥から内心で笑われてもよしとしていた。望みのものを手に入れられさえすればよい。「だからフィリップのことも心配しておりません。立派な名前を持っているのだから。ただしその名前を磨く機会がとんとありはせん。誰かが手を貸してくれなければ……フィリップは勇敢で思慮深い人間ですぞ、やや思慮深すぎるくらいだ。だがそれも貧しい境遇の為せる業。急に手綱を引かれた馬が頭を下げるようなものです」

「わしはどうすればよいのですかな?」元帥は目に見えてうんざりしている素振りを見せた。

「是非とも必要なのです」タヴェルネ男爵は斟酌しなかった。「フィリップに中隊を持たせてやるには、閣下のような高い地位の方が……王太子妃殿下がストラスブールに入国した際、大尉に任命して下さいました。確かにその通りではあるのですが、恵まれた騎兵連隊の中から立派な中隊を手に入れるには、後十万リーヴルだけ足りぬ……どうにかしてはもらえまいか」

「ご子息というのは、王太子妃殿下のためにご尽力した若者では?」

「大変な働きでした! 妃殿下のために替え馬を取り返したのです。デュ・バリーが奪おうとしていたところでした」

(そうか!)リシュリューが独り言ちた。(好都合ではないか……伯爵夫人の敵にはもっと手強い者たちがいることを考えれば……このタヴェルネこそぴったりだ! この男なら軍隊の肩書きのために、はっきりとした除け者の肩書きをつかんでくれるだろう……)

「お返事は?」元帥が沈黙を守っているのを見て、タヴェルネ男爵が苛立ち始めた。

「無理なことばかりです、タヴェルネ殿」話は終わりだという合図に立ち上がった。

「無理ですと? そんな殺生な、それが古くからの友人の言うことですか?」

「どうしろと?……友人同士だからといって、うん……不当や不正を働いたり、みだりに友情を持ち出していい理由にはならぬでしょうに。二十年も会いに来なかったのはわしが無役だったからで、会いに来るのは大臣になった途端ですか」

「ド・リシュリュー殿、不当なのはあなたの方だ」

「ちょっ、ちょっ、控えの間に引きずり出したくはありません。かけがえのない友なのですから……」

「せめて理由を。断る理由でもあるのですか?」

「理由?」タヴェルネ男爵が疑いを抱いたのかと、リシュリューは肝を冷やした。「理由ですと?」

「さよう、わしには敵がおりますから……」

 リシュリュー公爵にはそれに答えることも出来たが、そんなことをすればデュ・バリー夫人に感謝するつもりで献身していたのがばれてしまうし、寵姫のおかげで大臣になったと打ち明けるようなものだ。打ち明けたりすれば権威が失われてしまう。そこで慌てて言い繕った。

「貴殿には敵などおるまい。敵がおるのはわしの方だ。何の審査もなくこんな縁故で直ちに肩書きを許してしまっては、ショワズールを後追いしていると人から言われる口実を作るだけだ。わしなりのやり方で問題に筋道をつけたいのだ。二十年来、改革と進歩を懐で温めておった。それがとうとう孵化するのだ! 贔屓はフランスを駄目にする。わしは才能を重視するつもりだ。哲学者たちの著作こそ松明だ。その光が必ずやわしの目を明るく開かせてくれるだろう。過去というあらゆる闇は晴れた。国の幸せのためにはいい機会だった……そういう訳だからご子息の役職については吟味させてもらいたい。初めて市民の肩書きが生まれた時とはそういうものだった。己の信念に殉じるつもりだ。ひどい出血も伴うだろうが、三十万人のためを思えばたかが一人の人間の苦しみに過ぎぬ。ご子息フィリップ・ド・タヴェルネ殿が贔屓に値する人間であるのなら、父親にコネがあるからでもなく、家名のおかげでもなく、才能のある人間だからということになるだろう。わしはそんな風に仕事をするつもりだ」

「まるで哲学者の演説ですな」老男爵は怒りのあまり爪を噛んだ。この会談にどれだけ譲歩し、幾分なりとも怯えていたか、その重圧を思うと忌々しさに拍車が掛かった。

「哲学者、結構。よい言葉です」

「幸運を撒き散らす人間、ですかな?」

「こまった嘆願者ですな」リシュリューは冷ややかな笑みを浮かべた。

「わしのような身分の人間は、国王にしか嘆願しませぬぞ!」

「あなたのような身分の人間でしたら、秘書のラフテが控えの間で一日に千人くらい見ていますぞ」リシュリューが答えた。「礼儀もわきまえぬような何処とも知らぬ片田舎から、調子を合わせているだけのかりそめの友人たちと出て来ております」

「わしはメゾン=ルージュのことしか知りませんからな。十字軍以来の貴族です。調子の合わせ方ならヴィニュローのヴァイオリン弾きの方が知っておりましょう!」

 頭の回転なら元帥の方が上だった。

 窓越しに男爵を放り出すことも出来たが、肩をすくめて答えるに留めた。

「十字軍とは時代遅れだ。一七二〇年の高等法院で為された侮辱に関する陳情止まりで、それに答えた貴族の陳情を読んだこともないのでしょうな。図書室に行ってラフテに読ませてもらいなさい」

 こうして巧みに言い返して男爵をへこましたところで、扉を開けてどたどたと入って来た人物がいる。

「公爵閣下はおいでですか?」

 喜びで目を見開き、歓迎するように腕を輪にしているこの顔を紅潮させた人物こそ、ほかでもないジャン・デュ・バリーだった。

 新たな局面が訪れたのを見て、タヴェルネ男爵は驚いたり悔しがったりしながらも引き下がった。

 ジャンはその動きを捉え、顔に見覚えがあったので振り返った。

「わかっております」男爵はおとなしく伝えた。「わしは失礼いたしましょう。大臣閣下と立派なご友人をお二人にして差し上げます」

 そう言って極めて堂々と立ち去った。

地球が丸くない100の証拠 011/100

11.羅針盤が北と南を同時に指し、そしてその北というのが磁石の向いた先であり、天頂に北極星を戴く地球上の地点のことであるなら、南「点」や南「極」というものは存在せず、地球の中心は北であり、広大な円周のすべてが南であることは確実である。これが地球が球体ではないことの証拠である。
 

 ※一読しただけではよくわからなかったのですが、どうやら下の図のようなことのようです。

地球は丸くない011-1

地球は丸くない011-2


 
 
地球は丸くない011-3

地球が丸くない100の証拠 010/100

10.羅針盤が北と南を同時に指すことは、2+2=4であるのと変わらぬくらい議論の余地のない事実である。だが半球の両極に「北」と「南」のある球体上に羅針盤が置かれているとするなら、そんなことがあり得ないのは、教科書には採用されないが容易く理解できる事実である。長々とした推論を重ねなくとも明らかなように、これが地球は球体ではないという証拠である。

『ジョゼフ・バルサモ』 第88章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第八十八章 国王の分け前

 一人残されたデギヨン公爵はしばらくまごついていた。叔父に言われたことはすっかり理解していたし、デュ・バリー夫人がそれを聴いていることもすっかり理解していた。頭の切れるデギヨンは、要するに問題はこうした状況の許で誠実な人間でいることであり、リシュリュー老公爵が協力させようとした勝負に一人で挑むことだ、ということもすっかり理解していた。

 国王のお成りによって、幸いにもデギヨン氏は言い訳せずに済んだ。本来であれば自らの潔癖のせいで言い訳せねばならぬ事態を招いていたところだ。

 元帥は欺かれたままで済ますような人間ではないし、自分のお金で他人の美徳を磨き立てさせておくような人間でもない。

 だが一人残されたデギヨンにはじっくり考える時間があった。

 ついに国王が到着した。国王の近習が控えの間の扉を開けると、ザモールが飴を貰おうと飛び出して行った。ルイ十五世は気分の鬱いでいる時にはいつも、馬鹿にしたようにザモールの鼻をはじいたり耳を引っ掻いたりするのがお決まりであった。

 国王は中国風の部屋キャビネに向かった。デュ・バリー夫人が叔父との会話を一言も洩らさず聴いていたのはデギヨンも承知するところであったので、デギヨンの方でも国王と伯爵夫人の会談に初めから耳を傾けた。

 国王陛下は重荷を背負ってでもいるように疲れて見えた。アトラスが十二時間に渡って両肩に天を背負い、一日を終えた後の方がまだ手足の自由が利いていたはずだ。

 ルイ十五世は寵姫から感謝と喝采とねぎらいを受けた。ド・ショワズール氏の罷免がどのような影響を及ぼしたのかを聞かされ、大いに楽しんだ。

 デュ・バリー夫人はここで危険に踏み込んだ。危険ではあったが、政治の話をするにはよい風向きだった。それに、四大世界の一つを揺り動かせるほど勇ましい気分だった。

「陛下、解体や取り壊しはお見事でしたわ。でも大事なのは再建することじゃありません?」

「もう済ませた」国王は素っ気なく答えた。

「内閣を組みましたの?」

「うむ」

「息つく暇もなくあっという間でしたのね?」

「能なしばかりだがね……いや、そなたは女だ! いつぞや言っていたように、料理人を馘首にする前に新しいのを捕まえておかぬのか?」

「内閣を作った話を聞かせて下さいまし」

 国王はゆったりとした長椅子から立ち上がった。坐るというよりも寝そべって、伯爵夫人の肩をクッション代わりにしていたところだった。

「勘繰られはせぬかね、ジャネット。何か心配事があって聞き出そうとしているのだとか、内閣の顔ぶれを見てくさすつもりだとか、組閣の腹案を余に吹き込もうとしているだとか思われかねぬぞ」

「でも……それほど見当違いでもありませんわ」

「まさか?……腹案があるのか?」

「陛下もお持ちでしょう!」

「それが余の仕事だからな。そなたの考えを聞かせてくれぬか……」

「あら、陛下のをお聞かせ下さいまし」

「いいだろう。参考までに」

「まず海軍担当はド・プラランさんでしたけど?」

「新任する。海を見たことのない好人物だ」

「仰って」

「我ながら名案だぞ。余の人気も上がるだろうし、二つの海で肖像に刻まれるのは間違いない」

「ですからどなたですの?」

「絶対に当てられぬだろうな」

「陛下の人気を上げるような方……駄目だわ、わかりません」

「高等法院の人間だよ……ブザンソンの院長だ」

「ボワネさん?」

「ご名答……それにしてもよく知っておるな!……あの連中を知っているのか?」

「しょうがないじゃありませんか、陛下が一日中高等法院の話をなさるんですもの。でもその方、櫂を見てもそれが何なのかわからないんじゃありませんの」

「それでいいのだ。ド・プラランは仕事に詳し過ぎたし、造船には金がかかり過ぎる」

「では大蔵省は?」

「うむ、財務総監はまた別だ。専門家を選んだ」

「財政家ですか?」

「いや……軍人だ。財政家には長いこと食い物にされていたからな」

「では陸軍大臣は?」

「驚くなかれ、財政家に決めてある。テレーは数字にはうるさいからね。ド・ショワズール氏の数字上の間違いを見つけ出してくれるだろう。実を言えば、陸軍には誰もが素晴らしいと噂する立派な人物を据えようと思っていたのだ。哲学者は大喜びしていただろうな」

「どなたですの? ヴォルテール?」

「惜しい……デュ・ミュイ殿だ……現代のカトーだよ」

「怖がらせないで下さいまし」

「もう済んだことだ……来てもらい、署名はもらってあったのだ。感謝していたぞ、我ながらどうした思いつきかわからぬが、心せよ、伯爵夫人、今夜リュシエンヌに呼んで食事とおしゃべりをしようと思わず伝えた時にはな」

「まあ恐ろしい!」

「デュ・ミュイも同じことを申しておった」

「そんなことを仰いましたの?」

「言い回しは違ったがね。とにかく情熱の限り国王に仕えることは約束したが、デュ・バリー夫人に仕えることは出来ぬと申しおった」

「立派な哲学者ですこと!」

「余の返事は言うまでもないな。手を伸ばし……任命状を取り返し、飽くまでにこやかなままびりびりに破いてやった。デュ・ミュイは姿を消したよ。それでもルイ十四世であればバスチーユの穴蔵で朽ちさせていたところだ。だが余はルイ十五世、余が高等法院に鞭を打つのではなく、高等法院が余に鞭を打つのだからな」

「どちらでも構いません」伯爵夫人は国王を口づけで覆った。「あなたは申し分のない方ですもの」

「みんながみんなそうは言うまい。テレーは憎まれておるしの」

「そうじゃない人なんているかしら?……それで、外務大臣は?」

「ベルタンだ、知っているだろう」

「存じません」

「では知らぬのか」

「でもとにかく、あたくしには一人として大臣に相応しい方には思えませんの」

「まあよい。そなたの腹案を教えてくれぬか」

「一人しか申せませんわ」

「教えてくれぬのかと思ったぞ」

「元帥です」

「どの元帥だね?」国王は顔をしかめた。

「ド・リシュリュー公爵です」

「あの老人か? あの臆病者のことか?」

「その臆病者のマオンの英雄のことです!」

「ふしだらな老人だ……」

「陛下、あなたの戦友です」

「女がみんな逃げ出しておった」

「だからどうだと言うんですの、しばらく前からそんなことなさってませんわ」

「リシュリューの名は出さんでくれ、あれは猪だ。あのマオンの英雄にはパリ中の賭博場を連れ回され……世間から囃されたものだ。ならん、ならん! リシュリューだと! その名前を聞いても気分が悪くなるだけだ」

「ではお嫌いですの?」

「誰のことだ?」

「リシュリュー一族のことです」

「憎んでおる」

「一族全員を?」

「全員だ。フロンサックが立派な貴族とはな。何度車責めの刑にしても飽きたらぬ」

「お任せしますわ。でも世間にはほかにもリシュリューはいますでしょう」

「ああ! デギヨンか」

「ええ」

 この言葉を聞いて閨房の中でデギヨンの耳がピンと立ったかどうかはご想像にお任せしよう。

「誰よりも憎むべき人間ではないか。フランス中の騒ぎをすべて余の腕に預けおって。だが余の方が立ち直れぬほど弱い人間なだけであって、あの大胆さは嫌いになれぬ」

「頭の切れる方ですわ」

「勇敢だし、王家の特権を守るのに熱心な人間だ。あれこそ真の貴族だ!」

「何度でも同意しますわ! 何かして差し上げて下さいな」

 国王は伯爵夫人を見つめて腕を組んだ。

「どうしてそんなことを申すのだ? フランス中がデギヨン公爵の追放や失職を望んでいる時だというのに」

 今度はデュ・バリー夫人が腕を組んだ。

「さっきリシュリューのことを臆病者とお呼びになりましたよね。そっくりそのままあなたにお返しいたします」

「おお、伯爵夫人……」

「あなたは誇り高い方ですわ、ド・ショワズール氏を罷免なさったのですから」

「だがあれは簡単なことではなかった」

「それでも実行なさったんです。それが今は結果を恐れて尻込みなさってる」

「余が尻込みしているというのか?」

「違いまして? ド・ショワズール公爵を罷免してどうなりました?」

「高等法院から尻を蹴られておる」

「何もかも言いなりになるおつもりですか? 足を片方ずつ順番に上げればいいんです。高等法院がショワズールを再任させたがっていた時には、ショワズールを罷免なさったんです。デギヨンを罷免させたがっているのだから、デギヨンを任命なさいまし」

「罷免はせぬ」

「では何倍にも改め何倍にも増やして任命なさって下さいな」

「あのごたごたを理由に大臣の職を与えよと言うのか?」

「地位と財産を賭けてあなたを守ったご褒美を差し上げて欲しいんです」

「これからの人生は、そなたの友人モープーと一緒に毎朝石を投げられることになるぞ」

「あなたを守って下さるのですから、あなたも応援して差し上げるものと思いますが」

「見返りはあるのだろうな」

「そういうことは自分から仰らずに、相手にしゃべらせておくものですわ」

「そうか! それにしてもデギヨンにこれほどご執心なのはどうした訳だね?」

「ご執心だなんて! あの方には会ったことも。今日会ったばかりで、話をしたのも初めてですわ」

「では別だ。信頼があるのだな。余にはないものだから、信念というものには常々敬意を払っておる」

「デギヨンに何もやりたくないというのでしたら、リシュリューや、デギヨンの名前に何か差し上げて下さい」

「リシュリューに! とんでもない、何もやらぬぞ!」

「リシュリューにやらぬというのでしたら、デギヨン氏に」

「何だと! こんな状況で大臣の地位を与えろと言うのか? 無理だ」

「事情はわかります……でも後でなら……才能も実行力もある人間だということをお考え下さいまし。テレー、デギヨン、モープーがいれば、三つの頭を持つケルベロスを手にしたも同然です。それにあなたの内閣は長く持たない洒落みたいなものですもの」

「残念だね、三か月は持つはずだ」

「では三か月後に、言質を取りましたわ」

「待ってくれ、伯爵夫人!」

「もう決まったことです。差し当たり……贈り物が要るんですけれど」

「何もない」

「近衛軽騎兵聯隊をお持ちじゃありませんの。デギヨン氏は将校ですもの、剣客というやつでしょう。近衛聯隊をお与えになったら?」

「よい、わかった、そうしよう」

「ありがとうございます!」伯爵夫人は喜びを爆発させた。

 ルイ十五世の頬中に口づけを浴びせる音がデギヨン氏にも聞こえた。

「ここらで夜食にせぬか、伯爵夫人」

「それが、ここには何もありませんの。政治の話で大変でしたから……みんな議論やおしゃべりに忙しくて、料理には手が回りませんでした」

「ではマルリーに連れて行こう」

「無理です。頭が割れそうなんですもの」

「頭痛がするのか?」

「ひどい痛みです」

「では横になりなさい」

「そうするつもりでした」

「では、これで……」

「また後ほど」

「まるでド・ショワズール氏だね。追い出されてしまった」

「見送りに、お祝いに、餞別の言葉があるのにですか」伯爵夫人はゆっくりと国王を戸口まで見送ると、ついに部屋の外に連れ出し、笑って一段一段振り返りながら階段を進んだ。

 伯爵夫人が柱の上から燭台を取り上げた。

「伯爵夫人」階段を上っている国王が声をかけた。

「何ですか?」

「元帥が死なぬとよいのだが」

「どうして死ぬなどと?」

「大臣の椅子が引っ込んだからさ」

「ひどい方ね!」伯爵夫人は先に立って歩きながら、けたけたと声をあげた。

 国王陛下は憎らしい公爵に最後に皮肉を言えたことに満足して邸を出た。

 伯爵夫人が閨房に戻ると、デギヨンが戸口にひざまずき、手を合わせて感謝の眼差しを向けていた。

 伯爵夫人は顔を赤らめた。

「しくじってしまいましたわ。可哀相に元帥は……」

「存じております。聞こえていましたから……ありがとうございます!」

「感謝してもらうだけのことはしたと思いますが」伯爵夫人は莞爾と微笑み、「でもどうかお立ちになって下さい。頭が切れるだけでなく記憶も優れてらっしゃると思ってしまいますわ」

「そうかもしれません。叔父が申したように、私はあなたのために尽くす人間でしかありませんから」

「それに国王のために。明日は陛下に敬意を表することになりますわ。お願いですからどうかお立ちになって」

 伯爵夫人が手を預けると、デギヨン公は恭しく口づけした。

 伯爵夫人は動揺を抑えられなかった。それ以上は一言も口を利かなかったところを見ると、そのようだ。

 デギヨン氏も無言のまま、動揺していた。ついにデュ・バリー夫人が顔を上げた。

「元帥もお気の毒に。負けを」

 デギヨン氏はそれを退出の合図と受け止め、頭を下げた。

「これから元帥のところに向かうつもりです」

「あら、悪い報せは出来るだけ後で知らせるものですわ。元帥のところに行くよりも、あたくしと夜食をご一緒いたしませんか」

 デギヨン公爵は若さと愛の芳香が燃え上がり、心臓の血が若返るのを感じた。

「あなたは女性ではなく……」

天使ランジュ、でしょう?」伯爵夫人は燃えるような口唇を耳に近づけた。ほとんど触れんばかりにして声を潜ませ、卓子に公爵を引き寄せた……

 その夜、デギヨン氏は自分がこよなく幸せだと感じていたに違いない。何故なら叔父から大臣の職を掠め、国王の分け前をいただいたのだから。

『ジョゼフ・バルサモ』第87章 「デギヨン公爵」

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第八十七章 デギヨン公爵

 パリやシャントルーの路上で待っていたのが顔をしかめて目を腫らした人間であったように、リュシエンヌにもたらされたのは、顔をほころばせた魅力的な笑顔であった。

 今やリュシエンヌの玉座についているのは一介の人間ではない。宮廷人や詩人の言うようなあらゆる人間の内でもっとも美しく可憐な人間ではなく、フランスを統治しているのは紛れもない神であった。

 そういう訳だからド・ショワズール氏が罷免されたその日、朝は大臣の四輪馬車を追っていたお供の者たちが、夕方になっても路上を埋め尽くしていた。さらには高官や賄賂や贔屓を愛する者たちが大きな列を成しているのが見えた。

 だがデュ・バリー夫人には独自の捜査機関がある。ジャンはショワズール兄妹に向かって最後の花を投げようとしていた人々の名前を、有力者は別にしてだが手に入れ、伯爵夫人に伝えた。名前を告げられた者たちは一掃され、輿論に立ち向かう勇気を持っていた者たちが、その日の女神のいたわるような微笑みとこのうえない眼差しを賜った。

 馬車の行列と人混みの後には、個人的な接見が待っていた。この日の隠れた主人公であるリシュリューは、来訪者や請願者が押し寄せるのを尻目に、閨房の奥に引っ込んだ。

 人が喜び合ったように、神は喜びを知っていた。握手に次ぐ握手、押し殺した笑い声を洩らし、昂奮から足を踏み鳴らす、それがリュシエンヌの住人たちの日常になったかのようであった。

「忌憚なく申しますと、ド・バルサモ伯爵でもド・フェニックス伯爵でもどちらでも構いませんけれど、あの人こそ当代の第一人者じゃありませんの。いまだに魔法使いを火あぶりにするなんて残念でなりません」伯爵夫人が言った。

「まさしく、たいした人物です」リシュリューが答えた。

「おまけにちょっといい男で。ぐっと来るじゃありませんの……」

「妬けますなあ」リシュリューはからからと笑ったものの、急いで真面目な話に舵を切った。「……ド・フェニックス伯爵なら恐るべき警察大臣になれるでしょうな」

「そのことは考えてみましたけれど、無理ですわ」

「何故です?」

「同僚がいるところが考えられませんもの」

「はて?」

「すべてお見通しで、手の内のカードを見透かせるんですから……」

 リシュリューは頬紅の下で顔を赤らめた。

「伯爵夫人、わしが同僚なら、永遠に手の届くところに置いておきたいし、カードの中身を知らせてもらいたいところですな。ハートのジャックがクイーンの膝許やキングの足許に額ずいているのがいつでも確認できるのですから」

「あなたほど抜け目のない方はちょっといませんわね。でもそれより大臣のポストのことなんですけれど……甥御さんに事前に知らせていたはずだと記憶してましたけど……?」

「デギヨンですか? 到着いたしましたぞ。それもローマの占い師なら吉祥だと判ずるような状況で。ド・ショワズール氏の馬車が出るところに居合わせたのです」

「まさに吉祥ね。それで、ここにはいらっしゃるの?」

「デギヨン殿がこんな時期にリュシエンヌにいるのを見られては、どんな噂が立つとも限りません。わしから連絡が行くまでは、村でじっとしていろと頼んでおきました」

「ではすぐに知らせて下さいな。ここにいるのはあたくしたちだけみたいなものですもの」

「喜んで。それにしても話が合いますな」

「ほんとうに……ところで……大蔵陸軍卿の方がお好きかしら? それとも海軍の方が?」

「陸軍の方がよいですな。その方がお役に立てるでしょうから」

「仰る通りね。その旨を陛下にお伝えしておくわ。お嫌ではありませんよね?」

「何をです?」

「陛下がお選びになる同僚のことです」

「わしは気難しい人間ではありませんぞ。だがそれより甥を呼んでも構わぬでしょうな、何せ謁見の栄誉をお許し下さるのですから」

 リシュリューは窓に近寄った。日没の残光が中庭を照らしている。窓際に控えていた従僕に合図を送ると、すぐに駆け出して行った。

 そうしているうちに、伯爵夫人の部屋に明かりが灯された。

 従僕が出ていってから十分後、馬車が第一中庭に乗り入れられた。伯爵夫人が窓に目をさっと向けた。

 リシュリューはそれを見逃さなかった。デギヨン氏にとって、ひいては自分自身にとっていい兆候だ。

 ――伯爵夫人は叔父を気に入ってくれておる。甥にも好意を持っておる。わしらはここで支配者になれそうだ。

 そんな物思いに耽っていると、戸口で小さく物音がして、腹心の従者がデギヨン公爵の訪いを告げた。

 洗練された魅力的な貴族にして、身なりは豪華なだけでなく無論上品でもあった。デギヨン氏は若々しい盛りをとうに過ぎていたが、目つきと意思の力によって、老いてなお若さを保っている類の人間であった。

 たとい政治的な不安を抱いているにせよ、額には深い溝は刻まれてない。政治家や詩人が偉大な思想を温めているような、さり気ない皺が広がっているだけだった。真っ直ぐに上げた顔には、鋭さと憂いが浮かんでいた。それはあたかも何万人もの憎しみにのしかかられているのを自覚していながらも、それに負ける訳がないことを証明しようとしているかのようであった。

 デギヨン氏はひどく美しい手をしていた。レースの中に紛れていても遜色がないほど白く細やかな手をしていた。当時は形の良い足が高く評価されていた。デギヨン公爵の足は気品溢れる筋肉と貴族的な形状の見本であった。公爵には詩人のかぐわしさ、貴族の気高さ、銃士のしなやかさがあった。伯爵夫人にとってそれは理想が三つ重ねられたようなものだった。一つの理想の中に、本能的に惹かれざるを得ないような三つのタイプを見出したのだ。

 驚くべき奇遇によって、もとい状況判断に基づいてデギヨン氏が立てた戦術によって、世間から厳しい目を向けられているこの二人の男女は、有利な状況でこれまで顔を合わせたこことはなかった。

 事実三年前からデギヨン氏はブルターニュで忙しくしているか自室にいるかのどちらかだった。好不都合にかかわらずそのうち難しい事態が生ずることを見越して、宮廷にはほとんど顔を出さなかった。好都合なことが起こった場合、領民に贈り物をするなら見知らぬ者からの方がよい。不都合なことが起こったなら、ほとんど跡を残さず姿を消し、そのうちまた新たな顔をして深淵から抜け出た方がよい。

 さらにはこうした計算の内には、もう一つ大きな理由が働いていた。それは物語じみた心の動きではあったが、にもかかわらず何よりも大きな理由であった。

 デュ・バリー夫人は伯爵夫人になって夜毎フランスの王冠に口づけするようになる前には、笑顔に溢れた惚れ惚れするような美しい女性であった。愛されていたし、幸せだった。恐れを覚えて以来、もはや幸せに期待をかけることはなくなったが。

 若く豊かで力も美も備えた男たちから、ジャンヌ・ヴォベルニエは口説かれていた。三流詩人たちが、ランジュと天使アンジュという言葉で韻を踏んでいた。デギヨン公爵はかつてその先頭に立っていた。だが、公爵が性急ではなかったためか、或いはランジュ嬢の尻が誹謗されるほど軽くはなかったためか、或いは結局、どちらの顔も潰さぬとすれば、国王の寵愛が結ばれかけていた二つの心を引き離したためか、とにかくデギヨン氏は詩や折句や花束や香水を鞘に収めていたし、ランジュ嬢はプチ・シャン街の扉を閉めていた。デギヨン公は溜息で押しつぶされそうになりながらブルターニュに向かい、ランジュ嬢はヴェルサイユのド・ゴネス男爵に、即ちフランス国王に溜息のすべてを送っていた。

 こういう次第で、デギヨンが急にいなくなってもデュ・バリー夫人は初めの内ほとんど気にしなかった。過去を恐れていたせいもある。だがやがて、かつての崇拝者が沈黙を守っているのを見て、不思議がり、次いで驚愕し、男を評価するのに好都合だと気づいてからは、デギヨンのことを頭の切れる男だと評価した。

 伯爵夫人にとってこれは大変な讃辞だった。だがそれだけに留まらない。機会さえあれば優しい男だと評価を下したことだろう。

 ランジュ嬢には過去を恐れるだけの理由があったと言わざるを得ない。かつて恋人だった銃士が、ランジュ嬢の愛情や言葉を取り戻したがって、ある日ヴェルサイユにまでやって来た。かつての睦言は今や王国の気高さによって早々と息の根を止められ、それでもなお、ド・マントノン夫人の口から控えめな噂が流れて来るのは避けられなかった。

 これまで見て来たように、リシュリュー元帥はデュ・バリー夫人との会話を通して、甥とランジュ嬢との関係には一切触れなかった。難しい問題を口にするのに慣れている老公爵のような人間が口を閉ざしているの見て、伯爵夫人はひどく驚いていたし、もっと言うなら不安に駆られていると言わざるを得なかった。

 そういう訳だから、伯爵夫人はどう振る舞うべきかわからず、苛々しながらデギヨン氏を待っていた。一方の元帥は控えめというよりは知らんぷりを決め込んでいたと言うべきだろうか。

 デギヨン公爵が姿を見せた。

 王妃に対するのでも廷臣の妻に対するのでもない恭しい挨拶を、怯まず悠々とやってのけたので、その微妙な違いに気づいた伯爵夫人はすっかり魅了され、極めて申し分ない気持にされた。

 続いてデギヨン氏が叔父の手を取ると、叔父は伯爵夫人に近づいて麗しい声を出した。

「こちらがデギヨン公爵です。わしの甥ではなく、あなたのために尽くす人間です。これほど誠実な人間をご紹介できることを光栄に思います」

 伯爵夫人はその言葉を聞いてデギヨン公を見つめた。女を見つめるように、つまり何者も逃れることの出来ないような目つきで見つめた。恭しく下げられた二つの顔しか見えていなかった。挨拶を済ませて穏やかに上げられた二つの顔しか見えていなかった。

「あなたが公爵殿を可愛がってらっしゃるのはわかってますわ、元帥閣下。あなたはあたくしの友人です。ですから公爵閣下、叔父さまに敬意を表して、叔父さまがあたくしにして下さるように尽くして下さることをお願いいたします」

「言われるまでもなくそうして参りました」デギヨン公爵はそう言って再びお辞儀をした。

「ブルターニュでは随分と苦労なさったんでしょう?」

「ええ、しかもまだ終わっておりません」

「そうではないかと思ってました。でもこちらにいらっしゃるド・リシュリュー閣下が手を貸して下さいますわ」

 デギヨンは驚いたようにリシュリューを見つめた。

「あら、まだお二人でお話しする暇がなかったのね。当たり前ね、旅から戻ったばかりなんですもの。お話ししたいことは山ほどおありでしょうね、お先に失礼しますわ、元帥閣下。公爵殿、ここがあなたのお部屋です」

 伯爵夫人はその言葉を残して立ち去った。

 だが伯爵夫人には計画があった。遠くには行かずに、閨房の後ろにある大きな部屋キャビネに向かった。そこは国王がリュシエンヌに来た際に、煩わしいことがあるとよく腰を据えている場所だった。国王はこの部屋がことのほかお気に入りだった。隣の部屋(シャンブル)で行われている会話をすっかり聞いてしまえるからだ。

 だからデュ・バリー夫人はリシュリュー公と甥の会話をすっかり盗み聞き出来るものと信じていた。甥について最終的な判断を下すつもりだった。

 だがリシュリュー公は騙されなかった。王室や内閣の秘密なら大部分を把握していたのである。人が話をしている時には耳を傾けるのが公爵の戦術であり、人が話を聞いている時には口を利くのが計略であった。

 そこでデュ・バリー夫人がデギヨンに配慮を見せた際、その鉱脈を最後まで突き進もうと決意した。寵姫が不在を装っているのを利用して、秘密という小さな幸運と陰謀という大きく厄介な力を差し出してやろうと決意した。女なら、それも宮廷の女とあらば、この二つの餌には抵抗できぬだろう。

 リシュリュー公はデギヨン公を坐らせて話しかけた。

「わかるな、わしはここで一廉の地位を得ておる」

「ええ、わかります」

「あの方の寵愛を得ることが出来た。ここでは王妃扱いされてらっしゃるし、事実上王妃じゃな」

 デギヨンが頭を下げた。

「よいか、道の真ん中でこんなことを言うわけにはいかぬが、実はデュ・バリー夫人はわしに大臣の椅子を約束してくれた」

「まあ当然でしょうね」

「当然かどうかはわからぬが、そうなった。遅ればせながらではあるが。大臣になった暁には、お前のために世話してやるつもりだ、デギヨン」

「ありがとうございます。持つべきものは親戚だ、一度ならず助かってます」

「公爵と貴族の肩書きを剥奪されなければ、特に何もありませんね。高等法院の連中は、その剥奪を要求していますが」

「何処かに支持者はいないのか?」

「私の支持者ですか? 一人も」

「ではこういう状況にならなければ、破滅していたのではないか?」

「ぺしゃんこでしたね」

「ううむ! それにしても哲学者のような話し方を……要するに、わしがきつい言い方をするのはそのせいなのだぞ、デギヨンよ。叔父としてではなく大臣として話しているのだ」

「叔父上、あなたのご親切には感謝の気持で一杯ですよ」

「わしがお前を大急ぎで呼び寄せたのは、ここで立派な役を演じさせたいからだということくらいわかるだろう……ド・ショワズール氏が十年間演じて来た役のことを、少しでも考えたことはあるのか?」

「ええ、確かに立派な人でしたね」

「立派だと! ド・ポンパドゥール夫人と協力して国王を操り、イエズス会士を追放させた頃は、確かに立派だった。だが悲しいかな、ポンパドゥールの百倍も素晴らしいデュ・バリー夫人と愚かにも仲違いして、二十四時間後には追放されてしまったのは、お粗末と言うほかない……何も言うことはないのか」

「聞いていますよ、何を仰りたいのか考えていたのです」

「ショワズールの最初の役どころは、いいとは思わんかね?」

「それはそうです。居心地がいいでしょうね」

「要するに、わしが演じようと決めたのはその役なのだ」

 デギヨンはぎょっとして叔父を見つめた。

「正気ですか?」

「当たり前だ。何故いかん?」

「デュ・バリー夫人の愛人になるおつもりですか?」

「いやはや、先走りおって。まあしかし、わしの言うことは理解しておるようだな。確かにショワズールは幸運だった。国王を操り、寵姫を操っていた。ド・ポンパドゥール夫人を愛しているという噂もあった……それはそうと、何故いかん?……いや、その通り。わしは魅力的な愛人にはなれん。その薄ら笑いで言いたいことはわかる。その若々しい目で、わしの皺の寄った額、曲がった膝、干涸らびた手を見るがいい。昔は綺麗だったのだが。ショワズールの話に戻るが、『わしが演じる』ではなく、『わしらが演じる』と言うべきだったな」

「叔父上!」

「わしに愛人の資格がないことくらいはわかっておる。だが話しておこう……構わん。本人に知られることはないのだから。わしは誰よりもあの方を愛していたはずだ……だが……」

 デギヨンが眉を寄せた。

「だが、素晴らしい計画を考えたのだ。わしの年で不可能であるのなら、この役を二つに分ければよい」

「おお!」

「わしの身内の誰かがデュ・バリー夫人を愛する……素晴らしいことだ……完璧な女性を」

 リシュリューは声を大きくした。

「フロンサックは無理として、白痴、馬鹿、臆病者、悪戯小僧、百姓……さあ何になりたい?」

「気が狂ったのですか?」

「気が狂った? 助言している人間の足許からもうはやいなくなったらしいな! 喜びにとろけ、感謝に燃えてはおらぬのか! 伯爵夫人のもてなし方を見ても、心を奪われぬのか?……恋に落ちぬのか?……よかろう、アルキビアデス以来この世にリシュリューは一人しかおらなんだ、今後は一人もいなくなるのだろう……ようわかった」

「叔父上」デギヨン公爵が、たとい見せかけにせよ、動揺してみせた。見せかけだとするならば見事な出来栄えだったが、急な申し出だったことを鑑みれば演技ではなかったのかもしれない。「あなたが仰った役割から何をどう利用しようとしているのかすっかりわかりましたよ。あなたはド・ショワズール氏の権威を笠に着て支配し、私は愛人になってその権威を支えるという訳ですね。いいでしょう、フランス一の智恵者らしい計画だ。ただしそのことに関して一つだけ覚えておいて下さい」

「どういうことだ……?」リシュリューが顔を曇らせた。「デュ・バリー夫人を愛さぬということか? そうなのか?……馬鹿者が! 底抜けの馬鹿めが! 何てことだ! そうなのか?」

「そういうことではありませんよ」言葉の一つとしておろそかにされるべきではないと承知している口振りだった。「デュ・バリー夫人にはお会いしたばかりですが、あれほど美しく魅力的なご婦人はいないでしょう。むしろ狂おしいほど愛してしまうでしょうし、愛し過ぎてしまいそうです。問題はそこではありません」

「では何が問題なのだ?」

「問題は、デュ・バリー夫人が愛してくれそうにないことですよ。こうした同盟の第一条件は愛ですからね。こんなきらびやかな宮廷の中で、ありとあらゆる美点に満ちた若者たちの中から、私のことを高く買ってくれるとお思いですか? 何の取り柄もなく、もはや若くもなく悲しみに打ちひしがれ、来たるべき死を覚悟して目を伏せているような人間を? 叔父上、まだ若く輝いていた頃にデュ・バリー夫人に出会っていたなら、ご婦人たちが若さの魅力のすべてを私に見出し愛してくれた頃なら、伯爵夫人も記憶に留めておいてくれたでしょう。そうであればどれほどよかったか。だが無理ですね……過去も、現在も、未来も。叔父上、そんな空想は捨てなければなりません。うっとりするほど輝く伯爵夫人に引き合わせて、私の心を突き刺したに過ぎないんですよ」

 モレが羨み、ルカンが見習うような【いずれも18世紀の俳優】、情熱的な長台詞が辯ぜられている間、リシュリューは口唇を咬んで呟いていた。

 ――こやつは伯爵夫人が聴いていることに気づいておるのか? たいした奴だ! 名人芸だな。だとすると、用心せねば!

 リシュリューは正しかった。伯爵夫人は耳を澄まし、デギヨンの言葉の一つ一つを心に染み渡らせていた。告白の呪文をしっかりと味わいながら飲み干し、きめ細やかな風味を楽しんだ。内なる自分に問い合わせてみても、かつての恋人の思い出を裏切りはしなかった。或いはまだ心を残している肖像に影を落とすのを恐れてのことだったかもしれない。

「では、断るのか?」リシュリューがたずねた。

「その点については仰る通りです。生憎ですが不可能に思えますから」

「せめて試してみぬか?」

「どのように?」

「わしらとここにいれば……伯爵夫人に毎日会える。気を引いてみればよい!」

「手前勝手な目的のためにですか?……お断りだ!……そんなえげつない思いで気を引くくらいなら、世界の果てまで逃げ出した方がましですね。私にも恥というものがある」

 リシュリューがまた顎を掻いた。

「賽は投げられたのだ。それともデギヨンは馬鹿なのか」

 ここで突然、中庭に音がして、声が張り上げられるのが聞こえた。「国王陛下です!」

「これはしたり! 国王とここで顔を合わせる訳にはいかぬ。わしは退散するとしよう」

「では私は?」

「それはまた別だ。会わなくてはならぬ。このまま……ここに……間違っても引いてはならぬぞ」

 そう言ってリシュリューは階段を通って姿を消した。

「では明日!」

地球が丸くない100の証拠 008/100

8.もし地球が球体であるのなら、航海士が海に持っていくのに小さな球体模型ほど最適のものはあるまい――何となればもっとも忠実であるのだから。しかしそのようなものは知られていない。そんな玩具を水先案内に用いては、水夫は船を難破させてしまうことだろう! これが地球が球体ではない証拠である。

 
   ※チェスタトン『有象無象を弁護する』を読んでいると、『Terra Firma: The Earth Not a Planet』(動かぬ大地。地球は惑星ではない)という本が引用されていました。天動説の本です。面白そうだったので探して読んでみると、チェスタトンが引用した部分はそもそも『A hundred proofs the Earth is not a Globe』という本からの引用だったことが判明。

 というわけで、わりと面白かった部分を訳してみました。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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