翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 第94章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第九十四章 変身

 ニコルはもはや喜びで我を忘れていた。タヴェルネを離れてパリに向かうことに比べても、パリを離れてトリアノンに向かうのは、ニコルにとって遙かに大きな勝利だった。

 ド・リシュリュー氏の御者の隣に坐ったニコルが非常に魅力的だったため、新しい小間使いの評判は翌日にはヴェルサイユやパリ中の車庫や控えの間に知れ渡っていた。

 アノーヴル館に到着したので、ド・リシュリュー氏がニコルの手を取って自ら二階まで案内すると、そこにはラフテ氏が待ち受けており、夥しい手紙を書いて会計に当たっていた。

 元帥の仕事の中でも、戦争はとりわけ大きな地位を占めていたため、ラフテは少なくとも理論上は戦争の名人であり、ポリュビオスや騎士シュヴァリエド・フォラールが生きていたなら、ラフテが毎週書き上げている要塞や演習についての見積もりを受け取ることにたいへんな幸せを感じたことであろう。

 斯くしてラフテ氏が地中海における対イギリス戦の計画に取り組んでいる間に、元帥がやって来て声をかけた。

「すまんがラフテ、この子を見てくれ」

 ラフテは見つめた。

「結構なお嬢さんでございますね」そうしてさらに意味深に口唇を動かした。

「うむ、だが誰かに似ておらぬか?……ラフテよ、わしはその話をしておるのだ」

「本当だ! いや、まさか!」

「気づいたな?」

「驚きました。それにしてもこれは凶と出ますか吉と出ますか」

「いずれ凶であっても、転じればよい。見ての通り金髪をしておるだろう。だがそれもたいしたことではあるまい、違わぬか?」

「黒くするのは簡単なことでございます、閣下」ラフテは主人の考えをすくい上げることには慣れていたし、時には本人の代わりに一から十まで考えることさえあった。

「さあ化粧室に来なさい」元帥が声をかけた。「この男は名人だ、あなたをフランス一の並ぶ者なき美しい侍女にして差し上げよう」

 斯くして十分後、元帥の化粧品を用いて、ラフテはニコルの白みがかった金髪を漆黒に染め上げた。元帥は毎週鬘の下の白髪を黒く染めるのにその化粧品を使っていて、今でもまだ機会さえあれば知人の閨房で見せつけたいという気取りをなくしていないのだ。髪が終わると今度は濃い金の眉を、蝋燭の火で黒ずませたピンでなぞった。それから明るい顔に不思議な光を与え、鮮やかに澄んだ目には燃え立つようでいて時に翳りの見える火を注いだ。その姿はさながら呪文によって魔法使いの壺から呼び出された精霊のようだった。

「ほれ、見給え」リシュリューは呆然としているニコルに鏡を見せた。「自分がどれだけ魅力的かわかるであろう。先ほどまでのニコルは影も形もない。もはや凶を恐れるのではなく吉をその手につかむことになろう」

「閣下!」ニコルが声をあげた。

「うむ、そのためにはまず理解しあわねばならぬ」

 ニコルは顔を赤らめ目を伏せた。リシュリューも自分で何を言ったのかよくわかっているのだろうと、女狐は勘繰っていたのである。

 リシュリュー公爵はそれに気づいてすぐさま誤解を解いた。

「その椅子に坐り給え。ラフテ氏の隣だ。耳をかっぽじってよく聞き給え……ラフテ氏のことは気にするな、心配いらん。それどころか助言をくれるはずだ。わかったな?」

「わかりました、閣下」自惚れて勘違いしたことを恥じて口ごもった。

 ド・リシュリュー氏とラフテとニコルの会話は長い間続いていた。やがて公爵はニコルを家の小間使いと一緒に寝ませた。

 ラフテは軍事録に戻り、ド・リシュリュー氏は手紙をめくってデギヨンに対する地方の高等法院の陰謀とデュ・バリーの計画を確認してから床に戻った。

 翌日の朝、紋章のない馬車がニコルを乗せてトリアノンに向かった。馬車は柵のそばで荷物を降ろし、姿を消した。

 ニコルは顔を上げ、自由に胸をふくらませ、期待に目を輝かせて、目指す先を探して使用人棟の扉を叩きに向かった。

 朝の十時。アンドレはもう目を覚まして着替えを済ませ、父に手紙を書いて前夜の幸運を知らせようとしていた。ド・リシュリュー氏が使者を向かわせたのはご存じの通りである。

 読者諸兄は覚えておいでであろう。石段がプチ・トリアノンの庭から礼拝堂に続いており、その礼拝堂の踊り場には、二階(とはつまり)女中部屋に直通している階段があり、庭に面した長い廊下が並木道のように部屋を繋いでいることを。

 アンドレの部屋はこの廊下の左端にあった。部屋は充分に広く、厩舎の中庭から採光されて、手前には左右を二つの小部屋キャビネ挟まれた小さな寝室があった。

 輝かしい宮廷の列席者が使っている一般的な一間と比べれば足りないところがたくさんあるとはいえ、宮殿を満たしているざわめきから逃れてみれば、隠遁所のように住みやすく心地よい、魅力的な小部屋セリュルだった。ここにいれば侮辱や失望を喰らい尽くす日中の貪欲な魂から逃れることが出来た。ここにいれば静寂や孤独の中で、孤高の中で、慎ましく侘びしい魂を休ませることも出来た。

 ひとたびこの石段を跨ぎ、礼拝堂の階段を上ってしまえば、もはや優位も義務も体面もないのは事実だった。静かなことは修道院の如く、肉体的に自由なことは囚人生活の如きである。

 アンドレのように穏やかで誇り高い精神の持ち主は、そうしたあれこれから自分なりに値打ちを引き出していた。叶えられない野心や満たされずに疲れた思いを休ませに来たのではない。トリアノンの豪華な応接室にいるよりも、この狭苦しい四角い部屋の中にいた方が落ち着いていられた。トリアノンにいると舗石を踏みしめるたびに内気というより恐怖に近い気持を感じていた。

 居心地のよさを感じていたこの薄暗い一隅から、昼間の間は目を眩ませていたまばゆい景色を今は落ち着いて眺めていた。花々やチェンバロ、心の友であるドイツ語の本に囲まれて、悲しみをもたらし喜びを奪おうとする運命に挑んでいた。

「ここには――」夜になって仕事を上がると、大きな襞のついた化粧着を纏い、肺いっぱいならぬ魂いっぱいに息を吸い込んだ。「ここには、死ぬまで手にしていたいものが何でもある。いつの日にかもっと豊かになるつもりだけれど、絶対に貧乏には戻らない。孤独を慰める花や音楽や一ページを絶やすことはもう二度とない」

 アンドレは望む時には部屋で朝食を摂る許しを得ていた。アンドレにとっては願ってもない厚意だった。王太子妃から朗読や朝の散歩に呼ばれない限り、そうやって昼まで部屋で過ごすことが出来るのだ。天気のいい日には本を持って朝から出かけ、トリアノンからヴェルサイユまで続いている大きな森を一人で歩くのも自由だった。二時間あまり散歩をしたり空想に耽ったりした後で、朝食に戻った。貴族にも従僕にも兵士にもお仕着せにも会わないことも多かった。

 木陰にも暖かさが忍び込み始める頃になると、アンドレは部屋の窓と廊下の扉の両方から涼しい空気を入れた。インド更紗で覆われた小さな長椅子、同じく四脚の椅子、丸い天蓋のついた清潔な寝台には同じくインド更紗のカーテンが垂れ、暖炉には陶磁の花瓶が二個、銅の脚のついた四角い卓子。これが小さな宇宙を形作るすべてであり、アンドレの希望と願いを閉じ込めた空間である。

 先ほど申し上げたようにアンドレがこの部屋に坐って父に手紙を書いていると、廊下の扉が控えめに叩かれた。

 顔を上げて開いた扉を見て、アンドレは驚きの声をあげた。喜びにあふれたニコルの顔が小さな控えの間から覗いていた。

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「ジョゼフ・バルサモ」 92・93-2

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第九十三章 ド・リシュリュー氏がニコルを見初める

 ド・リシュリュー氏はコック=エロン街にあるド・タヴェルネ氏の小さな宿に真っ直ぐ向かっていた。

 我々には「びっこの悪魔」を頼みに出来るという特権があって、閉め切った家の中にも易々と潜り込むことが出来る。だから男爵が暖炉の前で大きな薪乗せ台に足を乗せていることも、ド・リシュリュー氏よりも早くわかっている。台の下では熾がくすぶっており、ニコルを叱りながら時折り顎を撫でるものだから、ニコルが反抗的な態度でふてくされて口を尖らせている。

 説教されなければおとなしく撫でられているものなのか、或いは撫でられずに説教だけ喰らうのなら問題ないものなのか、そればかりは何とも言えぬ。

 主人と使用人の間で交わされていた話し合いは、重大な局面に差し掛かっていたところだった。男爵が曰うには、夜のある時間帯になるといつも決まって呼び鈴に答えず、庭や温室で何かに夢中になっており、その二箇所以外では仕事がお留守になっているのではないか。

 それに対してニコルは、ありったけの媚びとしなを作ってきょろきょろしながら答えた。

「しょうがないじゃないですか!……ここは退屈なんですから。お嬢様と一緒にトリアノンに行けるって約束して下さったのに!」

 ここでド・タヴェルネ氏が頬や顎を優しく撫でねばならんと考えたのは、どうやらニコルの気を逸らすためらしい。

 ニコルの方は話を逸らさず、撫でる手を押しのけ、自らの不幸な境遇を嘆き出した。

「そうじゃありませんか! 四重の壁に囲まれて、誰ともおつきあい出来ないし、空気にだって触れられやしない。楽しいことも将来のことも目に浮かんでいたのに」

「何のことじゃ?」

「トリアノンのことですってば!」ニコルが答えた。「トリアノンに行けば、いろんなものが見れたし、豪華なものが見れたし、誰かに見とれたり見とれられたり出来たのに」

「いやはや、ニコルよ」

「あたしは女ですからね、それだけが望みなんです」

「何とまあ! この話し方を見てみろ」男爵はぶつぶつと洩らした。「生き生きと躍動しておる。わしが若くて金持ちならのう!」

 溢れる若さと生命力と美しさに、貪るように見とれて目を離すことが出来なかった。

 ニコルの方は上の空で、時折り焦れったそうにしている。

「ではおやすみなさいまし、旦那さま。あたしも寝室に退って構いませんか」

「あと一言」

 ここでにわかに路地口の呼び鈴が鳴り、タヴェルネ男爵がびくりとし、ニコルが飛び上がった。

「いったい誰だ、夜中の十一時半にもなって。見て来なさい、ニコル」

 ニコルは路地口の門に向かい、訪問者の名をたずね、扉を少しだけ開けた。

 開いた扉の隙間を通って、中庭からやって来た人影が立ち去った。ほとんど音は立てなかったものの、元帥の――訪問者は元帥であった――元帥の耳や目をごまかせるほどではなかった。

 ニコルが蝋燭を手ににこやかな顔で戻って来た。

「いやはや何とも!」元帥は満面の笑みを浮かべて、応接室について行った。「タヴェルネのとんちきと来たら、娘御のことしか話さなかったな」

 リシュリュー公爵のような人物は、ものをしかと見るのに二度も見る必要はない。

 逃げ出した人影から、リシュリューはニコルのことを考えた。ニコルは人影のことを考えている――。その美しい顔を見ただけで、人影が何をしに来たのかを見抜いた。否、もっと言えば侍女の蓮っ葉な目、白い歯、細い腰を見ただけで、その性格や感性を教えてもらう必要もなかったのである。

 ニコルは胸をどきどきさせながら応接室の入口で声をあげた。

「ド・リシュリュー公爵閣下です!」

 この名前はその晩の平穏を破らずにはおかなかった。少なくとも男爵は衝撃を受け、自分の耳が信じられぬまま、椅子から立ち上がって真っ直ぐと戸口に向かった。

 だが扉にたどり着くまでもなく、廊下の薄明かりの中にド・リシュリュー氏の姿を認めた

「公爵……!」男爵は口ごもった。

「もちろんわしだよ……」リシュリューはこれ以上はないほど愛想の良い声を出した。「ほう、驚いておるね。あんな訪問の後だ。だが間違いないぞ……さあ、握手してくれ」

「喜んで」

「頭が鈍ったようだな」老元帥は椅子に掛けやすいように、杖と帽子をニコルに手渡した。「殻に閉じこもって、耄碌しおって……世間のことなど何も知らぬのだろう」

「何の、公爵殿」タヴェルネは胸をふくらませた。「先日のもてなしを考えれば、その意味は間違いようがありませんでしたぞ」

「先日の貴殿はまるで生徒のようで、わしは学者だったな。わしらにはお仕置き用のへらしかなかった。それをわしが使い渋ったと言いたいのであろう。貴殿が馬鹿なことを口にすれば、わしも言い返してしまいかねん。先日から今日までのことは水に流そうではないか。今晩わしがここに何をしに来たかご存じかな?」

「まったくわからぬ」

「貴殿が一昨日わしに頼みに来た中隊を届けに来たのだ。国王が貴殿の息子に賜ったのだぞ……よいか、微妙な違いがわかるであろうな。一昨日のわしは大臣も同然だった。そんなわしにものを頼むことは不当なことじゃった。今日のわしは職を拒んだ今まで通りのただのリシュリューだ。ものを頼まないことこそ不合理じゃろう。わしは頼み、手に入れ、持って来たのだ」

「まことか……して、これはあなたからの好意という……?」

「友人として当然の義務に過ぎぬ……大臣であれば拒まざるを得ん。リシュリューであれば申請して与えられる」

「おお、公爵殿! ありがたい。あなたこそ真の友人ではないか?」

「くだらぬ!」

「それにしても国王が……こんなご厚意を与えてくれたのは国王なのだな……」

「国王は自分がやったことすらわかっておらぬよ。或いはわしが間違っておれば、存分にわかっていらっしゃるだろうが」

「それはどういう?」

「陛下にはどうやら今のところデュ・バリー夫人の機嫌を損ねている何らかの理由があるらしい。貴殿が受けたご厚意は多くのところわしの影響よりもその理由に拠っている、ということだな」

「そう考えておるのですか?」

「確信しておるし、わしもそれに手を貸しておる。わしが大臣の職を蹴った原因は、このあばずれだというのはご存じかな?」

「噂では。じゃが正直に言って……」

「信じてはいなかったという訳か。よいよい、思い切って話してしまえ」

「では思い切って、正直に言っていたなら……」

「気兼ねなくわしと付き合っていたと言いたいのか?」

「少なくとも、偏見を持たずにあなたと付き合って参りましたぞ」

「わしは年を取った、今では自分の利益のためにしか若い女を愛せぬ……それよりまだ話がある……貴殿のご子息のことに戻ろう。立派な青年ではないか」

「デュ・バリーのところと一悶着ありましてな。わしがお伺いして失態を犯した時にお宅にいた若者ですが」

「わかっておるよ、何しろわしは大臣ではないのだからな」

「それはいい!」

「まあな」

「大臣の職を蹴ったのは、もしや伜のためということは?」

「わしがそう言っていたとしても、信じぬであろう。そんなことは一切ない。貴殿のご子息を陥れようとしたのを始めとして、デュ・バリーの要求があらゆる方面で桁外れなものになっていたから、断ったまでのこと」

「ではその者どもとは不和になったのですかな?」

「そうでもあり、そうでもない。向こうはわしを恐れており、わしは向こうを軽蔑しておる。お互い様と言ったところであろう」

「勇敢だが軽率でもありますな」

「そうかね?」

「伯爵夫人には信用がある」

「いやはや!」リシュリューが吐き出した。

「いったいどうお考えですかな!」

「弱い立場を自覚しておる人間、必要とあらばその現場を爆破させるために然るべき場所に工兵を配置することに異存はない人間、そんな人間の言葉と思ってもらって結構」

「本心がわかりましたぞ。あなたがわしの伜のために行動するのは、デュ・バリーを苦しめるためですな」

「そのためも大いにある。貴殿の洞察力は衰えておらぬな。ご子息を榴弾として用いて、照らすつもり……いや、ところで男爵、貴殿には娘御もなかったかな?」

「如何にも」

「若かったな?」

「十六になる」

「美しい子じゃな?」

「女神のように」

「トリアノンに住んでおる」

「ではご存じでしたか?」

「夜食を一緒に過ごした。わしはあの子のことで国王と一時間お話しいたしたぞ」

「国王と?」タヴェルネが頬を赤く染めた。

「国王ご本人とだ」

「国王が娘のことを、アンドレ・ド・タヴェルネのことをお話ししたと?」

「さよう、国王の目は釘付けであったぞ」

「何と! まことか?」

「その話をしても構わぬかな?」

「わしに?……もちろんじゃ……国王がわしの娘に目を留めて下さったとは……だが……」

「だが、何だ?」

「国王は……」

「生活が乱れていらっしゃる。と言いたいのかな?」

「陛下のことを悪く申し上げるつもりはない。お好きなように生活する権利をお持ちなのだからな」

「では何に驚いたというのだ? アンドレ嬢の美しさには瑕がある、それ故に国王は見とれていない、とでも主張するのか?」

 タヴェルネは何も答えずに、肩をすくめて物思いに耽った。それをリシュリューが穿鑿するようにじろじろとねめつけた。

「まったく! 貴殿の言いたいことくらいは予想がつく。心の中で考えずに声に出したらどうだ」老元帥は椅子を男爵に近づけた。「国王が悪習に染まっておると言いたいのだろう……ポルシェロンで噂されているように、悪い連中とつきあいがあると。だから良家の娘にも淑やかな立ち居振る舞いにも清らかな愛にも目を向けたりはせず、どんなに素晴らしい気品や魅力にも気づかぬと……目を向けるのは淫らな目的、ふしだらな誘い、お針子目当てに限られると言いたいのだろう」

「やはりあなたはたいした人だ」

「何故かね?」

「すっかり見抜かれてしまいおったからな」タヴェルネが答えた。

「だがいいかね、男爵。頃合いだとは思わぬのか。わしら貴族に、わしらフランス国王の盟友に、あの娼婦の汚らわしい手に口づけさせることなど、もうそろそろわしらの主人にも無理な相談だと。わしらにはわしらの環境を取り戻す頃合いだと。シャトールーは侯爵夫人であり公爵夫人にもなれる器であったが、そこから転がり落ちて徴税人の娘であり妻であるポンパドゥールになり、ポンパドゥールの後には実にジャヌトンジャンヌちゃん呼ばわりされているデュ・バリーだ。デュ・バリーから台所のマリトルヌおかめや田圃のゴトンさせ子にまで落ちぶれぬとも限らぬ。兜に王冠を掲げているわしらがそんな小娘どもに頭を下げねばならぬなどとは、とんでもない辱めではないか」

「むう! 確かに仰る通り」タヴェルネは呻いた。「それにこうした新しい風潮によって宮廷が空っぽになってしまったのは明らかなこと」

「王妃がそうなればご婦人たちもそうなる。ご婦人連がそうなれば廷臣たちもそうなる。国王がお針子に目をつければ、庶民が玉座に上ることになる。パリのお針子ジャンヌ・ヴォベルニエが実演した通りだ」

「それはそうだがしかし……」

「わからぬか、男爵」元帥が遮った。「いつかフランスを統治したいと考えている聡明な婦人にとって、素晴らしい役どころがあるのだということに……」

「そうなのでしょうな」タヴェルネの心臓がどくんと鳴った。「だが生憎とその地位はふさがっておる」

「娼婦の悪徳を持つことなく、度胸、計算、展望を持っているご婦人にとって――地位をどこまでも高く押し上げようとして君主制が存在しなくなったとしてもそのことを考え続けるようなご婦人にとって――。貴殿の娘御は聡明かね、男爵?」

「申し分ない。とりわけ良識に優れておる」

「それに非常に美しい!」

「そうであろう?」

「あの惑わすような一連の美しさには男どもが夢中になるし、あの清らかさや純粋な魅力には女たちでさえ敬意を抱くであろう……ああした宝は大事にせねばならんぞ」

「随分と熱心にお話しに……」

「はは! 言うなればわしは惚れ込んでおる、六十四という年も忘れて明日にも結婚したいくらいだ。だがきちんと世話されているのだろうな? 少なくとも美しい花に相応しい手厚い待遇を受けておるのだろうな?……よいか男爵、今夜の娘御は部屋に一人で残されておったのだぞ。侍女も侍従もなく、いたのは角灯を持った王太子の従僕だけじゃ。これでは召使いと変わらんではないか」

「何を仰りたいのですかな、公爵。ご存じであろうに、わしには金がないのじゃ」

「金があろうとなかろうと、せめて小間使いは必要であろう」

 タヴェルネは嘆息した。

「よくわかっておる。必要なことくらいは、いや必要になることくらいは」

「何だと、一人もおらぬのか?」

 男爵は無言のままだった。

「あの美人は何なのだ?」リシュリューは先を続けた。「さっきそこにおったではないか? 美人で見た目もよかったぞ」

「うむ、じゃが……」

「だが、何だというのだ」

「あれをトリアノンに行かせる訳にはいかぬ」

「何故だ? わしにはむしろ小間使いにぴったりだと思うがの。申し分のない侍女になるぞ」

「では顔を見んかったのじゃな?」

「顔? 顔しか見とらんぞ」

「見たのであれば、驚くほどそっくりなことに気づかなかったか……!」

「誰と?」

「誰と……うむ、そうだ!……ここに来い、ニコル」

 ニコルが進み出た。マルトンはしための例に洩れず盗み聴きしていたのである。

 公爵はニコルの両手をつかんで膝で足を挟んだ。大貴族にして放蕩者のこうした無礼な視線にも、ニコルはこれっぽっちも気後れもひるみもしなかった。

「うむ……うむ、瓜二つだ、間違いない」

「誰に似ているかわかった以上は、我が家の好機をこんな危険にさらす訳にはいかぬこともわかるであろう。絹靴下も繕えないニコル嬢がフランス一著名な貴婦人に似ていてはまずかろう?」

「何ですって!」ニコルは元帥の手から抜け出してド・タヴェルネ氏に刺々しく言い返した。「絹靴下も破れてるようなあたしが、著名な貴婦人に生き写しってのは本当なんですか?……著名なご婦人が、あたしみたいな撫で肩や、きらきらした目や、ふっくらした足や、むっちりした腕を持っているっていうんですか? だったら男爵様、そんな風に思ってらっしゃるんなら、あたしはただの写しって訳ですね!」ニコルは怒りの言葉で結んだ。

 ニコルは昂奮して真っ赤になっていたが、そのせいで恐ろしく美しくなっていた。

 公爵は改めて美しい両手を手に取り、膝で押さえ込み、愛おしそうに希望を込めてニコルを見つめた。

「男爵、確かにニコルは宮廷に並ぶ者がない。わしはそう考えておる。この子にどことなく似ている貴婦人の方には、自尊心を仕舞っておいてもらうとしよう……あなたは実に見事な色合いの金髪をしておるな、ニコル嬢。それに皇帝一族のような眉と鼻をしておる。いいかな、十五分だけ化粧室に坐っていれば、そうした欠点も(男爵殿はそう思っているのだ。その欠点も)消えてしまう――ニコル、どうだ、トリアノンに行きたいかね?」

「えっ!」貪欲さに満ちた魂が、この一言に集約されていた。

「ではトリアノンに行こうではないか。トリアノンに行って、財産を手に入れよう。他人の財産を何一つ損ねることもない。男爵、最後に一つだけ」

「聴こうではないか、公爵」

「ではいいかね、ニコル、わしらに話をさせてくれぬか」リシュリューが言った。

 ニコルが立ち去ると、公爵が男爵に近づいた。

「そなたの娘御に小間使いを送ってやれ、とわしが急かせば、国王を喜ばせることになるのだぞ。陛下は惨めなのがお好きでない。美しい顔立ちの子らなら嫌な思いをされぬ。まあ要するにそういうことだ」

「ではニコルをトリアノンに遣れば、国王がお喜びになると言うのだな」男爵は牧神のような笑いを見せた。

「では貴殿の許しも出たことだし、わしが連れて行こう。四輪馬車が使える」

「だがの、王太子妃殿下と似ているというのが……そのことを考えなくてはならぬぞ」

「そのことなら考えてあるわい。そうした類似点はラフテが十五分で消してみせる。そのことは保証する……では娘御に手紙を書いてくれ。小間使いを持つことが如何に重要か、そしてその小間使いがニコルであることが如何に重要かを伝えねばなるまい」

「ニコルだというのが重要だと思っておいでか?」

「そう考えておる」

「ニコル以外の誰でもなく?」

「それを書き足すくらいたいした手間もかかるまい。名誉にかけて、わしはそう考えておる」

「ではすぐに書くとしよう」

 男爵はすぐに手紙を書き上げ、リシュリューに渡した。

「それで、作法などの教育は?」

「ニコルに教えるのはわしが引き受けた。あの子は頭は悪くあるまい?」

 男爵はにやりとした。

「では任せてもらったと……そういうことだな?」リシュリューがたずねた。

「はてさて! それはあなたの問題ですぞ。あなたがそうしろと仰るなら、お任せしましょう。出来ることならご随意にして下され」

「お嬢さん、では行こう」公爵が立ち上がって急かした。

 ニコルには一言で充分だった。男爵に断りを入れもせず、五分で古着を詰めると、飛ぶように軽やかに、御者のところまで駆けつけた。

 そこでリシュリューは旧友に別れを告げ、男爵の方はフィリップ・ド・タヴェルネに用意してくれた肩書きについてお礼の言葉を繰り返した。

 アンドレのことには一言も触れなかった。言葉などでは追いつかなかった。

「ジョゼフ・バルサモ」 92・93-1

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第九十二章 王妃の髪

 国王はド・タヴェルネ嬢に腕をつかまれたまま踊り場におなりになった。そこですぐに時間をかけて慇懃に挨拶をしたので、リシュリューにもそれを観察するだけの時間があった。その気品には惚れ惚れするほどで、お声を掛けられた幸運なご婦人は何者なのかといぶかった。

 それがわかるのにも長くはかからなかった。ルイ十五世は王太子妃の腕を取った。王太子妃はすべて目にして、アンドレにもとうに気づいていた。

「簡単な夕食をお願いしに来たのだがね、庭を渡っている途中でド・タヴェルネ嬢にお会いしたのだ。そこでご一緒させてもらった」

「ド・タヴェルネ嬢だと!」リシュリューはこの不意打ちに呆気に取られて呟いた。「いやはや、運がいいことだわい!」

「遅れたからといってアンドレ嬢を叱ったりはいたしませんし、むしろ陛下を連れて来て下さったことに感謝したいくらいですわ」王太子妃が淑やかに返答した。

 アンドレは花の真ん中に飾られたさくらんぼのように真っ赤になって、何も言えずにうつむいてしまった。

 ――とにもかくにも確かに美しい娘だ。リシュリューは内心で呟いた。――ド・タヴェルネのあんぽんたんが言ったことは、あながち大げさでもなかったのだな。

 国王は王太子の挨拶に応じてから、既に席に着いていた。曾祖父から受け継いだ食欲のままに、王太子夫妻が魔法のように瞬く間に用意させた料理に手をつけた。

 だがそうして食事を続けながらも、戸口に背中を向けたまま、何かを、否、誰かを探しているようだった。

 なるほどド・タヴェルネ嬢は如何なる特権にも浴していなかったし、王太子妃のおそば仕えに決まっている訳でもなかったので、国王の挨拶に深々とお辞儀して答えた後は、食堂には入らずに王太子妃の寝室に退っていたのである。これまでにも何度か、床に入った後で朗読させていたことがあったのだ。

 国王の目が探しているのが美しい同行者であることに、王太子妃は気づいた。

「ド・コワニー殿」王太子妃殿は、国王の後ろに控えていた若い衛兵に声をかけた。「ド・タヴェルネ嬢をここに呼んで来て下さい。ド・ノアイユ夫人がお許し下さいますから。今夜は無礼講で参りましょう」

 ド・コワニー氏が立ち去り、すぐにアンドレが連れて来られた。なぜ特別なはからいがされたのかまったく理解できずに、アンドレはぶるぶると震えながら入って来た。

「そこにお坐りなさいな、公爵夫人の隣です」

 アンドレはおずおずと段上に上った。混乱のあまり、侍女である公爵夫人から一ピエしかないところに坐るという思い切った行動に出た。

 当然のように侍女から恐ろしい目で睨まれて、ライデン瓶で触れられたように、少なくとも四ピエは後じさった。

 ルイ十五世がそれを見てにこやかな笑みを浮かべた。

 ――ははあ、そうか。とド・リシュリュー公爵は考えた。わしが首を突っ込むまでもない、すべてはひとりでに進んでおるのか。

 だから国王が振り返って元帥の目を見たときには、その眼差しを受け止める準備は出来ていた。

「ご機嫌よう、元帥閣下。ド・ノアイユ公爵夫人とは上手くやっておるかね?」

「いつ会っても公爵夫人には不調法者扱いされてしまいます」

「シャントルーの路上でもそうだったのではないか?」

「わしが? とんでもない。陛下が我が家にお示し下さったご厚意を喜ぶあまりに、それどころでは」

 これは国王には不意打ちだった。人を皮肉る用意は出来ていたが、皮肉られるとは考えていなかった。

「余が何をしたというのかな?」

「陛下はデギヨン公爵に近衛軽騎兵聯隊の指揮権をお与えになりました」

「ああ、そうだったな」

「そのためには陛下のお力と手腕が必要だったはずです。それもクーデター並みの」

 食事が終わった。国王は一呼吸置いてから席を立った。

 この会話には困惑されられたが、リシュリューは言葉をゆるめないことにした。そこで国王がド・ノアイユ夫人、王太子妃、ド・タヴェルネ嬢とおしゃべりを始めると、リシュリューは如才なさを発揮して、自分の思い通りの話題にまんまと誘導した。

「ことが上手く運んだ時には大胆になるものです」

「自分が大胆だと言いたいのか?」

「これまでわしに賜ったご寵愛に加えて、新たに陛下のご寵愛をいただきたいのです。陛下の良き友であり、古くからの忠臣であり、近衛聯隊にご子息がおる者がおります。そのご子息には才能はあるのですが、如何せん家が貧しい。大公女から聯隊長である大尉のお許しを賜ったものの、隊員がおらぬのです」

「その大公女とは余の嫁御のことか?」国王が王太子妃の方に顔を向けた。

「そうです、陛下。その若者の父の名はド・タヴェルネ男爵と申します」

「お父様……!」アンドレが思わず声をあげた。「フィリップ……! ではフィリップのために中隊を?」

 礼を失したことに気づき、アンドレは恥ずかしさで真っ赤になって後ろに退って手を合わせた。

 国王は振り返って恥じらい動揺するアンドレに見とれていたが、すぐにリシュリューに目を戻した。その好意的な眼差しを見れば、リシュリューの提案に喜んでいたのがわかる。いい機会を与えてくれたと考えているのだ。

「確かに素晴らしい方なんです」王太子妃が言った。「それにわたし、裕福にして差し上げると約束いたしました。大公の方々ったらお気の毒に! 神様と来たら、せっかく意思を授けても、記憶や理性を取り上げてしまうんですもの。あの方が貧しいですとか、肩章を与えるだけでは足りずに、中隊も与えなければならないですとか、そんなこと考えなくともいいんじゃありませんの?」

「おや、妃殿下はその若者をご存じなのかな?」

「ええ、知っております」王太子妃は即答した。その仕種にアンドレは、何もなく質素ではあったが幸せな少女時代を送った自宅を思い出した。「知っておりますから、フィリップ・ド・タヴェルネ殿に聯隊長の地位を与えればすべて解決するものと思っておりました。フィリップ、というお名前でしたね?」

「はい、殿下」

 国王は気高く率直な顔ぶれを眺めた。それからリシュリューに目を向けると、何やら高貴な隣人に染められたらしき寛容な輝きに照らされていた。

「公爵め、余はリュシエンヌと一悶着せねばならんぞ」国王は独り言ちた。

 それからすぐにアンドレに向かって、

「今の話で喜んでくれるといいのだが」と声をかけた。

「陛下、是非ともお願いいたします!」

「では認可した。その貧しい若者に立派な中隊を選んでやり給え、公爵。まだ支払いが済んでいなかったり空きがなかったりしたなら、余が資金を作ってやろう」

 この寛大な行為に、会席者全員がいい気分を味わった。国王はアンドレの天使のような微笑みを手に入れられたし、リシュリューはその美しい口から感謝の言葉を受け取った。若い頃のリシュリューであれば、そこからさらに貪欲にさらにしがみついて求めたことだろう。

 客が次々に到着した。その中にはド・ロアン枢機卿もいる。王太子妃がトリアノンに腰を落ち着けて以来、せっせと取り入っていたのである。

 だが国王がその晩の間、丁寧な態度を取ったり好意的な言葉をかけたりしたのはリシュリューに対してだけであった。王太子妃に暇乞いをして自身のトリアノンに戻る時にはリシュリューを連れ出しさえした。老元帥は歓喜に身を震わせて国王に従った。

 こうして国王陛下がリシュリュー公爵と二人の将校と共に、宮殿に通ずる薄暗い並木道を戻っている頃、アンドレは王太子妃から退がるように言われていた。

「パリにこの朗報を知らせなくちゃならないでしょう。退って結構よ」

 アンドレは角灯を持った従僕の後に従い、トリアノンと使用人棟を隔てている百パッススほどの広場を横切った。

 その手前を、茂みから茂みに葉陰に飛び込み、アンドレの動きに合わせて目を光らせている影があった。ジルベールだ。

 アンドレが玄関前に到着し、石段を登り始めると、従僕はトリアノンの控えの間に引き返した。

 それを見計らってジルベールは玄関に忍び込んで、厩舎の中庭に入り込み、梯子のような螺旋階段を伝って屋根裏部屋まで上ると、その正面に、角部屋であるアンドレの部屋の窓があった。

 アンドレが同じ階に部屋のあるド・ノアイユ夫人の小間使いを手伝いに呼んでいるのが見えた。ところが小間使いは部屋に入ると窓のカーテンを閉め、ジルベールの期待とその対象との間に厚いヴェールを降ろしてしまった。

 その頃には本邸に残っているのはド・ロアン氏だけで、王太子妃に対してますますたっぷりとおべっかを使っていたが、王太子妃はそれを冷たくあしらっていた。

 ぶしつけ過ぎたかと枢機卿もそろそろ思い始めた頃、王太子が戻って来るのを見てますますその思いを強くした。そこで殿下にもわかるように深々と恭しく挨拶をして暇乞いをした。

 四輪馬車に乗り込もうとしていると、王太子妃の小間使いが近づいて来て馬車に身体を突っ込んだ。

「これを」

 柔らかい紙包みを手渡された枢機卿は、その感触にぞくっとした。

「これを」枢機卿も慌てて答えると、小間使いに中身の詰まった財布を手渡した。中身を空ければかなりの心付けになるだろう。

 枢機卿は時間を無駄にせず、パリに向かうよう御者に命じてから、市門に向かうよう改めて指示した。

 道中、薄暗い馬車の中で、枢機卿は恋人のようにうっとりとその紙包みに触れて口づけをした。

 市門に着くと、「サン=クロード街に」と命じた。

 それから間もなく、枢機卿は謎めいた中庭を通り過ぎ、再び無言の案内人フリッツのいる応接室を訪れていた。

 十五分待たねばならなかったが、ついにバルサモが姿を見せ、まさかこんな時間に人が来るとは思っていなかったのだと、遅れた詫びを伝えた。

 なるほど夜の十一時近い。

「仰る通りですね。お邪魔したことをお詫びいたします。でもいつか私に仰ったことを思い出していただかないと。ある秘密についてお約束したはずではありませんか……?」

「その日お話ししたのはある方の髪のことでした」バルサモが遮った。お人好しの枢機卿が手に持っている紙包みには既に目を留めていた。

「間違いない」

「髪をお持ちになったのですか、猊下? 結構です」

「ここにあります。終わった後でまた返していただけるのでしょうか?」

「火が必要にならない限りは……必要な場合には……」

「そうでしょうね」枢機卿が言った。「ですがその時はまた別のを手に入れます。答えは出ますか?」

「今日中にですか?」

「待ちきれないのはおわかりでしょう?」

「やってみないことには」

 バルサモは髪を手に取り大急ぎでロレンツァの部屋に上がった。

 ――これで王室の秘密も俺のものだ。神が隠しているこの世の秘密も俺のものだ。

 壁の向こうから、隠し扉を開くより早く、ロレンツァを眠らせた。だからロレンツァは暖かい抱擁でバルサモを迎え入れた。

 バルサモは泣く泣く腕を振りほどいた。どんなことがこの哀れなバルサモ男爵を苦しませるのかをお伝えすることは難しい。ある時には覚醒しているロレンツァの非難、ある時には眠りに就いているロレンツァの愛撫。

 ようやくのことで首にかじりついていたロレンツァの腕から抜け出した。

「さあロレンツァ」バルサモは紙包みを手渡した。「この髪が誰のものだかわかるか?」

 ロレンツァはそれを手に取って胸に押し当て、次いで額に押し当てた。目は開いているものの、眠っている間は胸と額でものを見ているのだ。

「ああ! 高貴な方の頭からくすねられたものです」

「そうなんだな?……幸せな人間のものか? 答えろ!」

「多分そうです」

「よく探すんだ、ロレンツァ」

「はい、多分そうです。その方の人生にはまだ影が見えません」

「だが結婚している……」

「あら!」ロレンツァがにっこりと微笑んだ。

「どうした? 言いたいことがあるのか?」

「その方は結婚しています、でも……」

「でも、何だ?」

「でも……」

 ロレンツァが再び微笑んだ。

「私だって結婚しています」

「だろうな」

「でも……」

 バルサモはぎょっとしてロレンツァを見つめた。催眠状態にもかかわらず、はにかんだような赤らみが顔に広がっている。

「でも、何だ? さっさと言うんだ」

 ロレンツァがまたもやバルサモの首に手を回し、胸に顔をうずめた。

「でも、私は処女です」

「その女、その大公女、その王妃も、結婚しているにもかかわらず、そうだと……?」バルサモが声をあげた。

「その女、その大公女、その王妃も、私と同じく純潔で処女です。いえ、私以上です。私と違って愛していないのですから」

「そうか! 感謝する、ロレンツァ。知りたいことはすべてわかった」

 バルサモはロレンツァを抱きしめ、髪をポケットに大切に仕舞うと、ロレンツァの黒髪の先を切り取って蝋燭で燃やし、王太子妃の髪をくるんでいた紙切れでその灰を包んだ。

 それから階下に戻りながら、ロレンツァを覚醒させた。

 枢機卿はじりじりとしながら疑わしげに待ちわびていた。

「どうでした、伯爵殿?」

「そうですね、猊下……」

「お告げは……?」

「お告げは猊下の期待通りのことを告げましたよ」

「そういうお告げがあったのですね?」枢機卿は歓喜した。

「とにかく、お望みのように解釈して下さい、猊下。お告げによれば、その方は夫を愛していないそうだ」

「そうですか!」ド・ロアン氏は熱狂した。

「髪の毛ですが、その精髄から啓示を得るために燃やさざるを得ませんでした。灰はここにあります。お返ししようと思い、細心の注意を払って集めておきました。一粒百万フランのつもりで扱いましたよ」

「ありがとう、感謝いたします。お礼のしようもありません」

「その話はよしましょう。ただ一つ忠告がございます。その灰をワインに混ぜて飲んではなりません。そんなことをする恋人たちもたまにいるようですが。過度な思い入れは危険です。女の気持ちが離れても、あなたの愛が治まらなくなりかねません」

「気をつけよう」枢機卿は肝を潰した。「では、伯爵殿。失礼します」

 二十分後、枢機卿猊下の四輪馬車はプチ=シャン街の角でド・リシュリュー氏の馬車とすれ違った。家の工事で出来た大きな穴にもう少しで落ちるところだった。

 二人の貴族は互いの顔を認めた。

「おや、大公!」リシュリューが笑みを浮かべた。

「おや、公爵!」ルイ・ド・ロアン氏は口に指を当てた。

 二人は反対方向に向かった。

地球が丸くない100の証拠 017/100

17.人類が暮らすには地表が必要であり、その一般的性質から言って、地表は水平でなくてはならない。全知の創造神が自らの創造物に何が必要かを把握していることは間違いないのだから、全能の神である以上は必要条件を完璧に満たしたことは明らかだ。これが地球が球体ではない神学的な証拠である。

 
※先週は地震の影響で「ジョゼフ・バルサモ」は一回おやすみしました。

『ジョゼフ・バルサモ』 第91章

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第91章 王太子殿下の小膳式(Le petit couvert de M. le dauphin)

 同日、ド・タヴェルネ嬢は三時に自室を出て王太子妃の部屋に向かった。正餐の前に朗読をするのが習わしだった。

 初め妃殿下の朗読係だった司祭はお役御免になっていた。今では高度な政治的駆け引きに携わり、しばらく前から外交問題にその政治能力を遺憾なく発揮している。

 そういう訳でド・タヴェルネ嬢は念入りに着飾って持ち場に向かった。トリアノンにいる人々の例に洩れず、困ったことに不意に引っ越しを命じられたので、何の準備もなかったし、食器もなく、家具も入れていなかった。仕方がないのでド・ノアイユ夫人の小間使いに着替えを手伝ってもらった。この貴婦人はその厳しさから、王太子妃にエチケット夫人と呼ばれている。

 アンドレは雀蜂のように腰を絞り、そこからふわりと広がっている青い絹のドレスを身につけていた。前が大きく開いているので、そこから三重の丸襞飾りの刺繍されたモスリンの下着が見えている。短い袖にも花綵模様で重ねられたモスリンの刺繍が施されていて、それが肩まで続いている。肩掛けには田園風の刺繍が施され、アンドレの首筋を控えめに覆っていた。美しい髪はドレスと同じ青いリボンで結い上げているだけだった。頬をかすめて首や肩に落ちかかっているふっさりとした巻き毛は、当時用いられていた羽根や冠毛やレースなど及びもつかぬほど、頬紅などつけたことのない艶もなく澄み切った誇り高く慎ましやかな相貌を引き立てていた。

 アンドレは歩きながら、見たこともないほどほっそりと整った指を白い絹手袋に滑り込ませた。すべすべとした青繻子で編まれたミュールのヒールの先が、庭の砂に跡を残した。

 トリアノンの館まで来ると、建築家と庭師と一緒に歩き回っていた王太子妃の姿を見つけた。一方、階上からは王太子がお気に入りの箱につける安全錠を作るために旋盤を動かしている音が聞こえていた。

 アンドレは王太子妃のところに向かおうと花壇を渡った。夜には丁寧に蓋をかぶされていた季節を先取りした花々が、弱々しい顔を上げて、花よりも弱々しい陽射しを浴びようとしていた。既に日暮れが近づいていた。この季節には六時には日が落ちてしまうので、庭師の弟子たちが寒がりの植物にガラス容器をかぶせるのに忙しくしていた。

 熊垂クマシデとベンガル薔薇で縁取られた並木道を曲がったところ、ちょうど芝生との境目の辺りで、アンドレは不意に庭師の一人に気づいた。その庭師はアンドレを見て鋤から身体を起こし、到底庶民とは思えぬような極めて洗練された挨拶を寄こした。

 アンドレはその庭師を見て、ジルベールだと気づいた。こんな仕事をしているにもかかわらずその手は白いままで、それを見ればド・タヴェルネ氏もがっかりしたことだろう。

 アンドレは思わず赤面した。ここにジルベールがいることが運命の不思議な悪戯に思えたのだ。

 ジルベールがさらに挨拶を寄こすので、アンドレは挨拶を返してそのまま歩き続けた。

 だがアンドレはあまりにも公明正大で勇敢すぎた。心の動きに抗うことは出来なかったし、気がかりな疑問をそのままにしておくことも出来なかった。

 アンドレが引き返すと、真っ青になって暗い目つきで後を追っていたジルベールが、途端に生き返って飛んで来た。

「ここにいらしたの、ジルベール?」アンドレは冷たい声を出した。

「そうなんです、お嬢様」

「どうした偶然かしら?」

「お嬢様、人はしっかりと生きねばなりませんし、それも正直に生きねばなりません」

「運がいいってことはわかってるの?」

「大変です、お嬢様」

「何ですって?」

「お嬢様がお考えのように、大変に運がいいと言ったんです」

「誰に入れてもらったのかしら?」

「ド・ジュシューさんに。お世話になっているんです」

「何ですって! ド・ジュシューさんと知り合いなの?」アンドレが声をあげた。

「最初にお世話になった方の友人だったんです。僕の主人のルソーさんのことですが」

「せいぜい頑張って頂戴!」アンドレは立ち去ろうとした。

「大分よくなったようですね……?」ジルベールの声は震えていた。胸の震えが声にまで伝わって消え入りそうになっているのが見抜かれてしまいそうだ。

「大分よく? どういうこと?」アンドレの声は冷たかった。

「でも……事故のことは……?」

「ああ、そうね……ありがとう、ジルベール。大分よくなったわ。もう大丈夫」

「よかった! 死にそうだったのに」ジルベールは激しく昂奮していた。「ひどく危険な状態だったんですから」

 頃合いね、とアンドレは感じた。王家の庭で働いているこの庭師との話をここらで切り上げるべきだ。

「それじゃあね、ジルベール」

「薔薇をお受け取り下さいませんか?」ジルベールはぶるぶると震えて汗まみれだった。

「くれると言ったって、あなたのものでもないのに」

 ジルベールは唖然として何も言い返せなかった。ジルベールがうなだれるのを見て、アンドレは優越感の入り混じった喜びを感じていた。やがてジルベールが顔を上げ、一番立派な薔薇の木から枝ごと花ををもぎ取り、落ち着き払って堂々と花びらを毟り出したのを見て、アンドレの気が咎めた。

 アンドレはあまりに公正で善良であるがゆえに、田舎者が礼儀作法を破ったことを咎め立てて訳もなく傷つけたことにも気づかずにはいられなかった。誇り高い人間が、自分が間違いを犯してしまったことに気づいたならどうするか。言い訳や謝罪が口元まで出かかったものの、それ以上は何も言わずに元のように歩き続けたのである。

 一言も発しないのはジルベールも同じだった。薔薇の枝を捨てて鋤を手にしたものの、自尊心が高いうえに腹黒いところのある人間だ。身を屈めて作業に取りかかったのは確かだが、そうしながらもアンドレが歩いてゆくのを目で追い続けた。並木道の外れまで行くと、とうとうアンドレが振り返った。アンドレは女であった。

 ジルベールは女の弱さにほくそ笑み、この戦いに勝利したことを胸に呟いた。

 ――アンドレは僕ほど強くない。僕なら勝てる。今は美しさや家名や財産がますます大きくなることに思い上がり、僕が愛していることに気づいて傲慢な態度を取っていても、見とれて震えている庭師に好意を抱かざるを得ないんだ。糞ッ! 震えるなんて男らしくないじゃないか。畜生、アンドレといると臆病になってしまう、いつか見返してやるぞ! だが今日のところはやるべきことも出来たし、敵を圧倒することも出来た……もっと弱くてもおかしくなかったんだ、僕には愛しているという弱みがあるんだからな。それが思っていたより何倍も強くいられた。

 暴れ出す喜びを抑え切れぬままにこの言葉を繰り返し、ぷるぷると震える手を知的な額に当てて黒髪をかき上げると、力一杯に鋤を花壇に打ち込んだ。糸杉や櫟の垣根を飛び越える子山羊のように、花にかぶせた容器の列を、風のように軽やかに飛び越えた。恐ろしい速さで走りながら何にもぶつかることなく斜めに突っ切ると、道なりに歩いていたアンドレが曲がるだろうと思われる地点で待ち受けることにした。

 案の定、アンドレが歩いているのが目に飛び込んで来た。物思いに沈んでいるというよりはしょげているようにして美しい目を伏せ、汗ばんだ手をそれとわからぬほど揺らしているためドレスが震えていた。鬱蒼とした熊垂クマシデの後ろに隠れていると、独り言でも呟いているように溜息を二度つくのが聞こえた。ついにアンドレが木立のすぐそばを通り過ぎたので、ジルベールは手を伸ばして触れることも出来そうだった。おかしな熱に浮かされて、今にも実行してしまいそうになる。

 だがジルベールは憎しみにも似た思いに突き動かされて眉間に皺を寄せ、胸に握り拳を押しつけた。

 ――また臆病風に吹かれたのか!

 それから小さく声に出し、

「綺麗なんだから仕方ない!」

 しばらくはそのまま見つめていられるはずだった。並木道は長く、アンドレの歩みはちょこちょこと緩やかだったからだ。ところがこの並木道には脇道があり、誰かがひょっこり姿を現す可能性もあった。そしてジルベールには間の悪いことに、実際に邪魔者が現れたのである。左手にある一本目の脇道、言いかえるならジルベールが隠れていた茂みのほぼ正面から。

 この邪魔者はすたすたと規則正しく歩いていた。頭を上げ、帽子を右腕に抱え、左手に剣を持っている。天鵞絨の礼服の上から、黒貂の毛皮で裏張りされた外套を纏い、形の良いふくらはぎと名家の人間らしく盛り上がった足の甲をすっくと動かしている。

 すたすたと歩いていたこの殿様、アンドレを目にして心が浮き立ったらしく、近道をして歩みを早め、一直線にアンドレを目指し出した。

 ジルベールはその姿を見て思わず小さく声をあげ、漆の陰で怯えたツグミのように逃げ出した。

 邪魔者の作戦は成功した。いつもやっていることなのだろう、三分前にはかなりの距離があったにもかかわらず、三分も経たずにアンドレに先んじていた。

 足音が聞こえたので、アンドレは脇によけて先に通そうとした。通り過ぎしなにアンドレは横を見た。

 殿様の方でもアンドレをまじまじと見つめていた。もっとよく見ようと立ち止まりさえして、振り返った。

「お嬢さん、そんなに急いでどちらまで行かれるのですか?」うっとりするような声でたずねた。

 その声の響きにアンドレは顔を上げ、三十歩ほど後ろで二人の衛兵がゆっくりと歩いているのを見た。声の主が貂の外套を纏い、青綬を着けているのを見た。この思いがけない出会いと雅やかな呼びかけに、アンドレは真っ青になって震え出した。

「陛下!」深々と身を屈めた。

「お嬢さん……」ルイ十五世が近づいた。「余は目が悪い。お名前をお聞きしても構わぬかな」

「マドモワゼル・ド・タヴェルネと申します」畏まって震えながら、やっと聞こえるほどの声で囁いた。

「ああ、そうだった! トリアノンを歩いているとは運がいい」

「王太子妃殿下がお待ちしているので、これから参るところでございます」アンドレの震えはますますひどくなる。

「それでは連れて行って差し上げよう。余も田舎の隣人として、娘を訪れるところなのだ。腕を取ってくれぬか。何と言っても同じ道を行くのだから」

 アンドレは視界に雲がかかり、血が心臓まで逆流するのを感じた。この世の最高君主である国王の手を取るという行為は、田舎娘にとってあまりにも光栄なことであり、信じられないほどの思いがけぬ名誉であり、宮廷中に妬まれるようなはからいであり、まるで夢のように感じられたのだ。

 ひどくおっかなびっくりなお辞儀を深々とされては、国王の方でも同じように挨拶せざるを得ない。ルイ十五世がルイ十四世のことを思い出すのは、決まって儀式と礼儀の問題の時だった。もっともそうした礼儀作法のしきたりはさらに昔に遡り、アンリ四世時代のものなのだが。

 とにかく国王はアンドレに手を差し出した。アンドレが燃えるようになっている指先を国王の手袋に置くと、二人はトリアノンの館に向かって歩き続けた。王太子妃は建築家と庭師頭と一緒にそこにいると伝えられていたのだ。

 ルイ十五世は歩くのが好きではなかったのだが、それがアンドレをプチ・トリアノンに連れて行くために長い道のりを歩いている。後ろからついてくる二人の士官にとっては、これは国王の手落ちであり、うんざりするような行為であった。というのも二人は薄着をしているのに、外は肌寒くなっていたからだ。

 どうやら間に合わなかったらしい。いるはずの王太子妃は見つからなかった。マリ=アントワネットは立ち去った後だった。王太子に六時から七時の間に夕食を摂る習慣があったため、待たせるのを嫌ったのだ。

 そういう訳で妃殿下は時間通りに到着した。王太子も時間には正確であり、少しでも早く食堂に行こうと、応接室の戸口で待っていた。それを見ると王太子妃はマントを小間使いに手渡し、王太子の腕をにこやかにつかんで食堂まで連れて行った。

 食事が二人のために用意されていた。銘々が食卓の真ん中に坐り、上座は空けておかれた。国王が不意に訪れることがあって以来、食卓が招待客で溢れていたとしても、誰も坐らないようにしていたのである。

 上座には錠のかけられた国王の食事が大きく場所を取っていたが、王太子は国王を待ったりはせずに食事に取りかかった。

 王太子妃の椅子の後ろには――従者が通れるだけの空間があり――低い段上にはド・ノアイユ夫人が背筋を伸ばして険しい顔で腰掛けに坐っている。それでも夕食に際して浮かべるべきにこやかな顔を忘れてはいなかった。

 ド・ノアイユ夫人のそばには、王太子夫妻の夕食に臨席する権利を許された貴婦人たちがいる。

 週に三度、ド・ノアイユ夫人は王太子夫妻と同じ食卓で夕食を摂っていた。だが摂らない日には夕食に臨席しないようにしていた。これが七日のうち四日席を外されることに対する抵抗手段であった。

 王太子妃からエチケット夫人の名を頂戴したド・ノアイユ公爵夫人の正面には、ド・リシュリュー公爵が似たような段上に陣取っている。

 公爵も礼儀作法にはうるさい人間だったが、それを目には触れさせずに、たいていはこよなく洗練された態度の下に、ある時にはかすかな嘲笑の下に隠すことにしていた。

 これがお部屋付きの第一貴族と王太子妃殿下の第一侍女の違いである。その結果ド・ノアイユ夫人はしょっちゅう会話を途切れさせ、ド・リシュリュー氏はしょっちゅう会話を盛り上げていた。

 ド・リシュリュー元帥はヨーロッパ中の宮廷を旅して来たし、その先々で生まれながらの洗練された態度を披露して来たために、見事なまでに如才なく作法に則って、外国の王子と食事を共にしたりデュ・バリー夫人の小膳式に臨席したりした際には、知っているいろいろな逸話を話して聞かせることが出来た。

 その晩の王太子妃は食欲旺盛で、王太子も食べるのに忙しいことにリシュリューは気づいた。これでは話をしても気に留められないだろうし、ド・ノアイユ夫人に早々と煉獄のような時を味わわせるだけだろう。

 リシュリューが始めた哲学と演劇の話は、古くさい公爵夫人には二重に嫌悪感を抱かせるような話だった。

 まずは「フェルネーの哲学者」の最新の哲学的警句を話題にした。その頃には『アンリアード』の著者はそう呼ばれていたのである。公爵夫人が苛立っているのを見て話題を変え、部屋付きの貴族として、王立劇団員のご婦人たちに多少なりとも下手な演技をさせるのに大騒ぎしたことを、一切合切話して聞かせた。

 王太子妃は芸術を、とりわけ演劇を愛していた。ロークール嬢が身につけていたクリュタイムネーストラーの衣装が完璧だったことには気づいていたので、ド・リシュリュー氏の話を聞き流すどころか大喜びで耳を傾けた。

 哀れな侍女は不作法も顧みず段上で身体を揺らし、音を立てて鼻をかみ、髪粉が撒き散らされるのも気にせずご立派な頭を振った。そのたびにモン・ブランの山頂を覆っている雪が北風に吹かれるように、頭を覆っている髪粉が舞った。

 だが王太子妃を面白がらせるだけでは完璧とは言えず、王太子のことも喜ばせなくてはならない。そこでリシュリューは演劇の話題を引っ込めた。フランス王位継承者は演劇にはまるで興味を示さなかったので、人間哲学について話をすることにした。イギリス人についてなら、ルソーがエドワード・ボムストンという人物に鮮やかに投影したような情熱を持っていたからだ。

 一方のド・ノアイユ夫人は哲学者と同じくらいイギリス人が嫌いだった。

 新しい思想などうんざりだ。うんざりすれば自分らしくしていることが難しくなる。冷静沈着を自任するド・ノアイユ夫人も、仮面に吠えかかる犬のように新しい思想には悲鳴をあげていた。

 リシュリューがこうした役を演じるのには二つの目的があった。一つにはエチケット夫人を苦しめて王太子妃を喜ばせること、また一つには几帳面なことが好きな王太子が道徳的な金言や数学の公式を嬉しそうに拾い集めるのを、至るところで見つけることであった。

 要するに見事にご機嫌を取っていたのである。その間もそこにいるはずだがいない人物を目の隅で探し回っていた。その時、階段のふもとであがった声が、よく響く穹窿にまで届いた。やがて踊り場で別の声が、そしてまた階段で別の声がその言葉を繰り返した。

「国王陛下です!」

 この魔法の言葉に、ド・ノアイユ夫人は椅子から突き出したバネのように立ち上がった。リシュリューは普段通りにゆっくりと腰を上げた。王太子は慌てて口を拭い、席を立って顔を戸口に向けた。

 王太子妃は階段に向かった。出来るだけ早く国王を我が家に迎えるという栄誉に浴すために。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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