アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
第九十三章 ド・リシュリュー氏がニコルを見初める
ド・リシュリュー氏はコック=エロン街にあるド・タヴェルネ氏の小さな宿に真っ直ぐ向かっていた。
我々には「びっこの悪魔」を頼みに出来るという特権があって、閉め切った家の中にも易々と潜り込むことが出来る。だから男爵が暖炉の前で大きな薪乗せ台に足を乗せていることも、ド・リシュリュー氏よりも早くわかっている。台の下では熾がくすぶっており、ニコルを叱りながら時折り顎を撫でるものだから、ニコルが反抗的な態度でふてくされて口を尖らせている。
説教されなければおとなしく撫でられているものなのか、或いは撫でられずに説教だけ喰らうのなら問題ないものなのか、そればかりは何とも言えぬ。
主人と使用人の間で交わされていた話し合いは、重大な局面に差し掛かっていたところだった。男爵が曰うには、夜のある時間帯になるといつも決まって呼び鈴に答えず、庭や温室で何かに夢中になっており、その二箇所以外では仕事がお留守になっているのではないか。
それに対してニコルは、ありったけの媚びとしなを作ってきょろきょろしながら答えた。
「しょうがないじゃないですか!……ここは退屈なんですから。お嬢様と一緒にトリアノンに行けるって約束して下さったのに!」
ここでド・タヴェルネ氏が頬や顎を優しく撫でねばならんと考えたのは、どうやらニコルの気を逸らすためらしい。
ニコルの方は話を逸らさず、撫でる手を押しのけ、自らの不幸な境遇を嘆き出した。
「そうじゃありませんか! 四重の壁に囲まれて、誰ともおつきあい出来ないし、空気にだって触れられやしない。楽しいことも将来のことも目に浮かんでいたのに」
「何のことじゃ?」
「トリアノンのことですってば!」ニコルが答えた。「トリアノンに行けば、いろんなものが見れたし、豪華なものが見れたし、誰かに見とれたり見とれられたり出来たのに」
「いやはや、ニコルよ」
「あたしは女ですからね、それだけが望みなんです」
「何とまあ! この話し方を見てみろ」男爵はぶつぶつと洩らした。「生き生きと躍動しておる。わしが若くて金持ちならのう!」
溢れる若さと生命力と美しさに、貪るように見とれて目を離すことが出来なかった。
ニコルの方は上の空で、時折り焦れったそうにしている。
「ではおやすみなさいまし、旦那さま。あたしも寝室に退って構いませんか」
「あと一言」
ここでにわかに路地口の呼び鈴が鳴り、タヴェルネ男爵がびくりとし、ニコルが飛び上がった。
「いったい誰だ、夜中の十一時半にもなって。見て来なさい、ニコル」
ニコルは路地口の門に向かい、訪問者の名をたずね、扉を少しだけ開けた。
開いた扉の隙間を通って、中庭からやって来た人影が立ち去った。ほとんど音は立てなかったものの、元帥の――訪問者は元帥であった――元帥の耳や目をごまかせるほどではなかった。
ニコルが蝋燭を手ににこやかな顔で戻って来た。
「いやはや何とも!」元帥は満面の笑みを浮かべて、応接室について行った。「タヴェルネのとんちきと来たら、娘御のことしか話さなかったな」
リシュリュー公爵のような人物は、ものをしかと見るのに二度も見る必要はない。
逃げ出した人影から、リシュリューはニコルのことを考えた。ニコルは人影のことを考えている――。その美しい顔を見ただけで、人影が何をしに来たのかを見抜いた。否、もっと言えば侍女の蓮っ葉な目、白い歯、細い腰を見ただけで、その性格や感性を教えてもらう必要もなかったのである。
ニコルは胸をどきどきさせながら応接室の入口で声をあげた。
「ド・リシュリュー公爵閣下です!」
この名前はその晩の平穏を破らずにはおかなかった。少なくとも男爵は衝撃を受け、自分の耳が信じられぬまま、椅子から立ち上がって真っ直ぐと戸口に向かった。
だが扉にたどり着くまでもなく、廊下の薄明かりの中にド・リシュリュー氏の姿を認めた
「公爵……!」男爵は口ごもった。
「もちろんわしだよ……」リシュリューはこれ以上はないほど愛想の良い声を出した。「ほう、驚いておるね。あんな訪問の後だ。だが間違いないぞ……さあ、握手してくれ」
「喜んで」
「頭が鈍ったようだな」老元帥は椅子に掛けやすいように、杖と帽子をニコルに手渡した。「殻に閉じこもって、耄碌しおって……世間のことなど何も知らぬのだろう」
「何の、公爵殿」タヴェルネは胸をふくらませた。「先日のもてなしを考えれば、その意味は間違いようがありませんでしたぞ」
「先日の貴殿はまるで生徒のようで、わしは学者だったな。わしらにはお仕置き用のへらしかなかった。それをわしが使い渋ったと言いたいのであろう。貴殿が馬鹿なことを口にすれば、わしも言い返してしまいかねん。先日から今日までのことは水に流そうではないか。今晩わしがここに何をしに来たかご存じかな?」
「まったくわからぬ」
「貴殿が一昨日わしに頼みに来た中隊を届けに来たのだ。国王が貴殿の息子に賜ったのだぞ……よいか、微妙な違いがわかるであろうな。一昨日のわしは大臣も同然だった。そんなわしにものを頼むことは不当なことじゃった。今日のわしは職を拒んだ今まで通りのただのリシュリューだ。ものを頼まないことこそ不合理じゃろう。わしは頼み、手に入れ、持って来たのだ」
「まことか……して、これはあなたからの好意という……?」
「友人として当然の義務に過ぎぬ……大臣であれば拒まざるを得ん。リシュリューであれば申請して与えられる」
「おお、公爵殿! ありがたい。あなたこそ真の友人ではないか?」
「くだらぬ!」
「それにしても国王が……こんなご厚意を与えてくれたのは国王なのだな……」
「国王は自分がやったことすらわかっておらぬよ。或いはわしが間違っておれば、存分にわかっていらっしゃるだろうが」
「それはどういう?」
「陛下にはどうやら今のところデュ・バリー夫人の機嫌を損ねている何らかの理由があるらしい。貴殿が受けたご厚意は多くのところわしの影響よりもその理由に拠っている、ということだな」
「そう考えておるのですか?」
「確信しておるし、わしもそれに手を貸しておる。わしが大臣の職を蹴った原因は、このあばずれだというのはご存じかな?」
「噂では。じゃが正直に言って……」
「信じてはいなかったという訳か。よいよい、思い切って話してしまえ」
「では思い切って、正直に言っていたなら……」
「気兼ねなくわしと付き合っていたと言いたいのか?」
「少なくとも、偏見を持たずにあなたと付き合って参りましたぞ」
「わしは年を取った、今では自分の利益のためにしか若い女を愛せぬ……それよりまだ話がある……貴殿のご子息のことに戻ろう。立派な青年ではないか」
「デュ・バリーのところと一悶着ありましてな。わしがお伺いして失態を犯した時にお宅にいた若者ですが」
「わかっておるよ、何しろわしは大臣ではないのだからな」
「それはいい!」
「まあな」
「大臣の職を蹴ったのは、もしや伜のためということは?」
「わしがそう言っていたとしても、信じぬであろう。そんなことは一切ない。貴殿のご子息を陥れようとしたのを始めとして、デュ・バリーの要求があらゆる方面で桁外れなものになっていたから、断ったまでのこと」
「ではその者どもとは不和になったのですかな?」
「そうでもあり、そうでもない。向こうはわしを恐れており、わしは向こうを軽蔑しておる。お互い様と言ったところであろう」
「勇敢だが軽率でもありますな」
「そうかね?」
「伯爵夫人には信用がある」
「いやはや!」リシュリューが吐き出した。
「いったいどうお考えですかな!」
「弱い立場を自覚しておる人間、必要とあらばその現場を爆破させるために然るべき場所に工兵を配置することに異存はない人間、そんな人間の言葉と思ってもらって結構」
「本心がわかりましたぞ。あなたがわしの伜のために行動するのは、デュ・バリーを苦しめるためですな」
「そのためも大いにある。貴殿の洞察力は衰えておらぬな。ご子息を榴弾として用いて、照らすつもり……いや、ところで男爵、貴殿には娘御もなかったかな?」
「如何にも」
「若かったな?」
「十六になる」
「美しい子じゃな?」
「女神のように」
「トリアノンに住んでおる」
「ではご存じでしたか?」
「夜食を一緒に過ごした。わしはあの子のことで国王と一時間お話しいたしたぞ」
「国王と?」タヴェルネが頬を赤く染めた。
「国王ご本人とだ」
「国王が娘のことを、アンドレ・ド・タヴェルネのことをお話ししたと?」
「さよう、国王の目は釘付けであったぞ」
「何と! まことか?」
「その話をしても構わぬかな?」
「わしに?……もちろんじゃ……国王がわしの娘に目を留めて下さったとは……だが……」
「だが、何だ?」
「国王は……」
「生活が乱れていらっしゃる。と言いたいのかな?」
「陛下のことを悪く申し上げるつもりはない。お好きなように生活する権利をお持ちなのだからな」
「では何に驚いたというのだ? アンドレ嬢の美しさには瑕がある、それ故に国王は見とれていない、とでも主張するのか?」
タヴェルネは何も答えずに、肩をすくめて物思いに耽った。それをリシュリューが穿鑿するようにじろじろとねめつけた。
「まったく! 貴殿の言いたいことくらいは予想がつく。心の中で考えずに声に出したらどうだ」老元帥は椅子を男爵に近づけた。「国王が悪習に染まっておると言いたいのだろう……ポルシェロンで噂されているように、悪い連中とつきあいがあると。だから良家の娘にも淑やかな立ち居振る舞いにも清らかな愛にも目を向けたりはせず、どんなに素晴らしい気品や魅力にも気づかぬと……目を向けるのは淫らな目的、ふしだらな誘い、お針子目当てに限られると言いたいのだろう」
「やはりあなたはたいした人だ」
「何故かね?」
「すっかり見抜かれてしまいおったからな」タヴェルネが答えた。
「だがいいかね、男爵。頃合いだとは思わぬのか。わしら貴族に、わしらフランス国王の盟友に、あの娼婦の汚らわしい手に口づけさせることなど、もうそろそろわしらの主人にも無理な相談だと。わしらにはわしらの環境を取り戻す頃合いだと。シャトールーは侯爵夫人であり公爵夫人にもなれる器であったが、そこから転がり落ちて徴税人の娘であり妻であるポンパドゥールになり、ポンパドゥールの後には実にジャヌトン呼ばわりされているデュ・バリーだ。デュ・バリーから台所のマリトルヌや田圃のゴトンにまで落ちぶれぬとも限らぬ。兜に王冠を掲げているわしらがそんな小娘どもに頭を下げねばならぬなどとは、とんでもない辱めではないか」
「むう! 確かに仰る通り」タヴェルネは呻いた。「それにこうした新しい風潮によって宮廷が空っぽになってしまったのは明らかなこと」
「王妃がそうなればご婦人たちもそうなる。ご婦人連がそうなれば廷臣たちもそうなる。国王がお針子に目をつければ、庶民が玉座に上ることになる。パリのお針子ジャンヌ・ヴォベルニエが実演した通りだ」
「それはそうだがしかし……」
「わからぬか、男爵」元帥が遮った。「いつかフランスを統治したいと考えている聡明な婦人にとって、素晴らしい役どころがあるのだということに……」
「そうなのでしょうな」タヴェルネの心臓がどくんと鳴った。「だが生憎とその地位はふさがっておる」
「娼婦の悪徳を持つことなく、度胸、計算、展望を持っているご婦人にとって――地位をどこまでも高く押し上げようとして君主制が存在しなくなったとしてもそのことを考え続けるようなご婦人にとって――。貴殿の娘御は聡明かね、男爵?」
「申し分ない。とりわけ良識に優れておる」
「それに非常に美しい!」
「そうであろう?」
「あの惑わすような一連の美しさには男どもが夢中になるし、あの清らかさや純粋な魅力には女たちでさえ敬意を抱くであろう……ああした宝は大事にせねばならんぞ」
「随分と熱心にお話しに……」
「はは! 言うなればわしは惚れ込んでおる、六十四という年も忘れて明日にも結婚したいくらいだ。だがきちんと世話されているのだろうな? 少なくとも美しい花に相応しい手厚い待遇を受けておるのだろうな?……よいか男爵、今夜の娘御は部屋に一人で残されておったのだぞ。侍女も侍従もなく、いたのは角灯を持った王太子の従僕だけじゃ。これでは召使いと変わらんではないか」
「何を仰りたいのですかな、公爵。ご存じであろうに、わしには金がないのじゃ」
「金があろうとなかろうと、せめて小間使いは必要であろう」
タヴェルネは嘆息した。
「よくわかっておる。必要なことくらいは、いや必要になることくらいは」
「何だと、一人もおらぬのか?」
男爵は無言のままだった。
「あの美人は何なのだ?」リシュリューは先を続けた。「さっきそこにおったではないか? 美人で見た目もよかったぞ」
「うむ、じゃが……」
「だが、何だというのだ」
「あれをトリアノンに行かせる訳にはいかぬ」
「何故だ? わしにはむしろ小間使いにぴったりだと思うがの。申し分のない侍女になるぞ」
「では顔を見んかったのじゃな?」
「顔? 顔しか見とらんぞ」
「見たのであれば、驚くほどそっくりなことに気づかなかったか……!」
「誰と?」
「誰と……うむ、そうだ!……ここに来い、ニコル」
ニコルが進み出た。マルトンの例に洩れず盗み聴きしていたのである。
公爵はニコルの両手をつかんで膝で足を挟んだ。大貴族にして放蕩者のこうした無礼な視線にも、ニコルはこれっぽっちも気後れもひるみもしなかった。
「うむ……うむ、瓜二つだ、間違いない」
「誰に似ているかわかった以上は、我が家の好機をこんな危険にさらす訳にはいかぬこともわかるであろう。絹靴下も繕えないニコル嬢がフランス一著名な貴婦人に似ていてはまずかろう?」
「何ですって!」ニコルは元帥の手から抜け出してド・タヴェルネ氏に刺々しく言い返した。「絹靴下も破れてるようなあたしが、著名な貴婦人に生き写しってのは本当なんですか?……著名なご婦人が、あたしみたいな撫で肩や、きらきらした目や、ふっくらした足や、むっちりした腕を持っているっていうんですか? だったら男爵様、そんな風に思ってらっしゃるんなら、あたしはただの写しって訳ですね!」ニコルは怒りの言葉で結んだ。
ニコルは昂奮して真っ赤になっていたが、そのせいで恐ろしく美しくなっていた。
公爵は改めて美しい両手を手に取り、膝で押さえ込み、愛おしそうに希望を込めてニコルを見つめた。
「男爵、確かにニコルは宮廷に並ぶ者がない。わしはそう考えておる。この子にどことなく似ている貴婦人の方には、自尊心を仕舞っておいてもらうとしよう……あなたは実に見事な色合いの金髪をしておるな、ニコル嬢。それに皇帝一族のような眉と鼻をしておる。いいかな、十五分だけ化粧室に坐っていれば、そうした欠点も(男爵殿はそう思っているのだ。その欠点も)消えてしまう――ニコル、どうだ、トリアノンに行きたいかね?」
「えっ!」貪欲さに満ちた魂が、この一言に集約されていた。
「ではトリアノンに行こうではないか。トリアノンに行って、財産を手に入れよう。他人の財産を何一つ損ねることもない。男爵、最後に一つだけ」
「聴こうではないか、公爵」
「ではいいかね、ニコル、わしらに話をさせてくれぬか」リシュリューが言った。
ニコルが立ち去ると、公爵が男爵に近づいた。
「そなたの娘御に小間使いを送ってやれ、とわしが急かせば、国王を喜ばせることになるのだぞ。陛下は惨めなのがお好きでない。美しい顔立ちの子らなら嫌な思いをされぬ。まあ要するにそういうことだ」
「ではニコルをトリアノンに遣れば、国王がお喜びになると言うのだな」男爵は牧神のような笑いを見せた。
「では貴殿の許しも出たことだし、わしが連れて行こう。四輪馬車が使える」
「だがの、王太子妃殿下と似ているというのが……そのことを考えなくてはならぬぞ」
「そのことなら考えてあるわい。そうした類似点はラフテが十五分で消してみせる。そのことは保証する……では娘御に手紙を書いてくれ。小間使いを持つことが如何に重要か、そしてその小間使いがニコルであることが如何に重要かを伝えねばなるまい」
「ニコルだというのが重要だと思っておいでか?」
「そう考えておる」
「ニコル以外の誰でもなく?」
「それを書き足すくらいたいした手間もかかるまい。名誉にかけて、わしはそう考えておる」
「ではすぐに書くとしよう」
男爵はすぐに手紙を書き上げ、リシュリューに渡した。
「それで、作法などの教育は?」
「ニコルに教えるのはわしが引き受けた。あの子は頭は悪くあるまい?」
男爵はにやりとした。
「では任せてもらったと……そういうことだな?」リシュリューがたずねた。
「はてさて! それはあなたの問題ですぞ。あなたがそうしろと仰るなら、お任せしましょう。出来ることならご随意にして下され」
「お嬢さん、では行こう」公爵が立ち上がって急かした。
ニコルには一言で充分だった。男爵に断りを入れもせず、五分で古着を詰めると、飛ぶように軽やかに、御者のところまで駆けつけた。
そこでリシュリューは旧友に別れを告げ、男爵の方はフィリップ・ド・タヴェルネに用意してくれた肩書きについてお礼の言葉を繰り返した。
アンドレのことには一言も触れなかった。言葉などでは追いつかなかった。