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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 105-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百五章 肉体と魂(後半)

 施療院の前まで来たので、二人は中に入った。重苦しさを纏ったままのマラーの案内で、バルサモは手術室に入り込むことが出来た。そこには執刀医と助手たちがいた。

 先週馬車に轢かれて足を砕かれた青年が運び込まれて来たところだった。痛みで麻痺した足に施した一回目の緊急手術では充分でなかったのだ。痛みは急速に広がり、速やかに手術する必要がある。

 患者は苦痛に喘いで手術台に横たわったまま、煩悶の瞬間、それも恐らくは臨終の瞬間を熱心に観察している人々を、虎も舌なめずりするような恐怖を浮かべて見つめていた。医者たちが観察しようとしている生命という驚くべき現象の背後には、死という暗い現象が潜んでいるのだ。

 患者が期待していたのは、外科医や助手や看護士たちの慰めや微笑みや優しさだったのだろう。だがそこで目にしたものは、冷たい心と、鋼のような視線だけであった。

 勇気と自尊心を振り絞って、患者は口を閉じた。叫ぶ力を残しておけば、やがて痛みを和らげることも出来る。

 だが看護士の手がなだめるように肩にずしりと乗せられたのを感じ、助手の手がラオコーンの蛇のように絡みつき、外科医が「しっかり!」と声をかけたのを耳にすると、患者は我知らず沈黙を破り、呻くような声でたずねていた。

「かなり痛いんですよね?」

「そんなことはない。気を楽に」マラーが作り笑いを見せた。それは患者にはいたわるような笑みに見え、バルサモには皮肉に見えるような笑みだった。

 バルサモに意図が伝わったのを見て、マラーは近寄って囁きかけた。

「どうしようもありません。骨が粉々で、気の毒なくらいぼろぼろです。怪我が原因ではなく、痛みのあまり死んでしまうでしょう。それがこの患者に魂がもたらすものであるのですよ」

「ではどうして手術をするんだ? 穏やかに死なせてやればいいじゃないか」

「たとい絶望的でも、助けようとするのが医者の務めでありますから」

「かなり苦しむんだな?」

「ひどく」

「魂のせいでか?」

「肉体に未練を残した魂のせいです」

「ではどうして魂に手術をしないんだ? 魂を安らかにしてやれば、肉体だって救われるだろう」

「それこそまさに私がして来たことです……」患者を縛る作業を続けながら、マラーは答えた。

「魂を気遣って来たというのか?」

「ええ」

「どうやって?」

「言葉によって。魂や智性や感覚や、ギリシアの哲学者に『苦しみよ、汝は悪ではない!』と言わせたものに話しかけて来たのです。何と相応しい言葉ではありませんか。患者には『痛くないからね』と伝えました。そうしておけばこのように、魂はまったく苦しまずにいられるのです。これが現在までに知られている治療薬なんです。魂の問題に対しては、ただの欺瞞でしかありません! どうしてこの魂という厄介者は、肉体に縛りつけられているのでしょうか? 先ほど頭部を切り取った時に、肉体は何も言いませんでした。手術は難しいものでした。ですがどうしろと言うのです! 生命活動は止まり、感覚は失せ、あなたがた唯神論者に言わせれば、魂は抜け出してしまいました。だからこそ切り取られた頭部は何も言わなかったし、首のない胴体も何もしなかったのです。この肉体にはまだ魂が宿っていますから、これから恐ろしい悲鳴をあげることでしょう。耳を塞いだ方がよいのではありませんか。魂と肉体のこうした繋がりは、あなたの理論にとっては都合が悪いでしょう。魂と肉体を分けて考えられる日が来るまでは、あなたの理論は陽の目を見ずに終わるんです」

「そんな日が来ないと思っているのか?」

「確かめてご覧になればいい。いい機会なのですから」

「その通りだな。いい機会だ。是非やってみよう」

「お試しになるのですか?」

「ああ」

「どういう事情で?」

「この若者を苦しませたくないのだ」

「確かにあなたは偉大な指導者ですが、父である神でも子である神でもない以上は、この若者を苦しみから逃れさせることが出来るとは思えません」

「苦しまなければ、快復すると考えるだろうな?」

「可能性はありますが、確実とは言えません」

 バルサモは何とも言い難い勝ち誇った目つきをマラーに送ると、若い患者の前に立ち、恐怖に悶える怯えた眼差しと向き合った。

「眠れ」口からだけではなく、目と意思とたぎる血潮と体中のうねりを込めて、バルサモは命じた。

 執刀医が患者の腿に触れ、助手たちに患部の具合を確かめさせていたところだった。

 だがバルサモが命じると、患者が身体を起こし、助手たちの腕の中で揺れると、頭を落とし目を閉じた。

「気絶してしまった」マラーが言った。

「そうではない」

「意識を失ったのがわからないのですか?」

「眠っているだけだ」

「眠っている?」

「そうだ」

 誰もがこの飛び入りの医者を狂人扱いして見つめた。

 マラーの口唇に疑わしげな微笑が浮かんだ。

「気絶している人間が会話を交わすことが出来るか?」バルサモがたずねた。

「出来ませんね」

「では何かたずねてみろ、答えが返って来るはずだ」

「もしもし!」

「そんな大声を出さずともよい。普通の声で話してみろ」

「あなたがしたことをちょっと聞かせてもらえますか」

「眠れと命じられたので、眠りました」と患者が答えた。

 驚いたことにその声はすっかり穏やかになっており、ほんのわずか前に聞いた声とは正反対だった。

 医者たちが顔を見合わせた。

「ほどいてやってくれ」

「無理だ」執刀医が答えた。「ちょっとでも動けば、手術は失敗してしまう」

「動いたりはしない」

「保証できますか?」

「俺と患者が保証する。本人に訊いてみればいい。自由にしても構わんな?」

「構いません」

「動かないと約束してくれるか?」

「動くなと言われれば、約束します」

「では、動くな」

「それだけ自信たっぷりだと、試してみようという気にもさせられるな」執刀医が呟いた。

「そうすればいい。恐れることはない」

「ほどいてやってくれ」

 執刀医の言葉に、助手たちが従った。

 バルサモが枕元に移動した。

「今この瞬間から、命令されない限り動いてはならん」

 墓石を飾る彫像も、この命令を聞いた患者ほどこちこちではなかっただろう。

「では手術を始めてくれ。患者も覚悟は出来ている」

 外科医はメスを握ったが、それを使おうとして躊躇った。

「切れ、切るのだ」バルサモの声には、霊感を受けた予言者の如き響きがあった。

 マラーも、患者も、そこにいた全員が圧倒されていた。外科医も例外ではなく、メスを患者に近づけた。

 肉が裂けたが、患者は一声もあげず、微動だにしない。

「出身地は?」バルサモがたずねた。

「ブルターニュです」患者は微笑んだ。

「故郷が好きか?」

「ええ、素晴らしいところです!」

 外科医はこの間も切開を続けていたので、そこから骨の姿が見え始めた。

「小さい頃に離れたのか?」

「十歳の時です」

 切開が終わり、外科医は骨に鋸を近づけた。

「バッツの浜子が仕事上がりに口ずさむ歌を歌ってくれないか。出だししか覚えてないんだ。

 灰汁の浮かんだおいらの塩に、というやつだ」

 鋸が挽かれた。

 だが患者はバルサモの頼みに微笑んで、抑揚をつけてゆっくりと歌い始めた。その恍惚とした表情は、まるで恋人か詩人のようだ。

 灰汁の浮かんだおいらの塩にぃ、
 空の色したおいらの海にぃ、
 煙る泥炭をおいらの窯にぃ。
 蜜に漬け込んだおいらの麦にぃ。
 おらが女房と、老けた親父にぃ、
 おいらの愛しい子供らにぃ。
 香る金雀枝エニシダに見守られて
 眠りについてるお袋の墓にぃ。
 幸あれ! 今日も終わった、
 おいらはこれから帰るとこ。
 仕事が終わって一騒ぎ、
 留守から帰って愛し合おう。

 足が手術台に落ちても、患者はまだ歌っていた。

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『ジョゼフ・バルサモ』 105(前半)

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百五章 肉体と魂(前半)

 代表者のそばに最後まで残っていたのは、外科医のマラーだった。

 マラーは真っ青な顔をして、おずおずと全能の演説者に近づいた。

親方マスター、私は間違いを犯したのでしょうか?」

「大きな間違いを、な。最悪なのは、間違ったと思っていないところだ」

「正直に言わせていただければ、間違いを犯したとは思っておりませんし、話したことも適切だったと思っておりますが」

「自惚れるな! 自惚れは身を滅ぼすぞ! 血管で暴れ狂う熱や、水中や空中に潜むペストとは戦おうとするくせに、心の奥深くに潜り込んだ自惚れは摘出が不可能になるまでのさばらせておくのが人間というものだ」

「そんな風に思われているとは残念です。すると私はただの雑魚に過ぎず、同志の一員とは認めてもらえないのでしょうか? 仕事の成果を共にする価値もなく、無智のそしりを受けずには一言も発言できないのですか? 信仰に疑いを持たれるような不真面目な会員なのでしょうか? そんな存在でしかないとしても、人類の大義のためにこの身を投げ打つつもりに変わりはありません」

「心の何処かでまだ善悪の葛藤が続いているからだ。いつか悪に流されてしまいそうで気が気でないから、俺がその欠点を正してやろう。上手く行けば、自惚れに襲われることは二度とあるまい。一時間で済む」

「たった一時間で?」マラーがたずねた。

「ああ。一時間借りてもいいな?」

「もちろんです」

「何処がいい?」

「忠実な僕である私が、あなたの決めた場所まで参ります」

「では、お前の家で」

「約束をお忘れなく。私はコルドリエ街の屋根裏に住んでいます。屋根裏です」マラーの声には自尊心を取り繕い困窮を誇示するようなところがあるのを、バルサモは聞き逃さなかった。「ところがあなたの方は……」

「俺の方は?」

「宮殿に住んでいるという噂です」

 バルサモは肩をすくめた。背の高い巨人が上から見下ろして、かんかんになっている小人の腹を読んでいるような仕種だった。

「まあいい。屋根裏にお邪魔しよう」

「日にちは?」

「明日」

「時刻は?」

「朝」

「夜明けには教室に行って、そこから病院に向かいます」

「それこそ望むところだ。お前が言ってくれなかったとしたら、俺の方から頼もうと思っていた」

「早朝ですよ。ほとんど眠れません」マラーが言った。

「俺は眠らん」バルサモが答えた。「では夜明け頃に」

「お待ちしています」

 そう答えたところで出口に着いたので、二人は別れを告げた。入って来る時には賑やかで人通りのあった出入口も、今は深閑として薄暗い。

 バルサモは左に向かい、あっという間に見えなくなった。

 マラーも同じように細長い足を右に向けた。

 バルサモは正確だった。翌朝六時には踊り場の扉を叩いていた。コルドリエ街にある古ぼけた家の最上階、扉が六つ並んだ長い廊下の真ん中だった。

 ご推察の通り、マラーは来賓を迎えるに当たって、恥ずかしくないように準備を整えていた。みすぼらしい胡桃材の寝台、木製の台に乗った整理箪笥は、掃除女が襤褸雑巾で綺麗に磨き上げていた。虫食いだらけの家具(を磨くの)にかかった苦労を偲ばれたい。

 マラー自身も積極的に手伝い、青い陶器の花瓶に生けてあった元気なく萎れた花に水をやった。目立つ装飾といえばそれくらいだ。

 脇に襤褸雑巾が挟まれているのは、花に取りかかったのが家具の掃除を手伝った後だという証拠である。

 扉に差してあった鍵を使ってバルサモがノックもせずに入って来たので、作業中のマラーは慌てふためいた。

 親方マスターに目撃されて顔を赤らめていては、真の禁欲主義者とは言えまい。

 マラーは証拠物件の雑巾をカーテンの陰にこっそり放り投げた。「見ての通り、家庭的な人間でしてね、この掃除女を手伝っていたところです。こんな家事仕事をしようと思うのも、言うなれば平民のものではないでしょうし、ましてや大貴族のものでは絶対にないでしょうからなんですが」

「貧乏で綺麗好きな若者の仕事に過ぎん」バルサモは吐き捨てた。「すぐに用意は出来るか? 俺の時間は貴重なのだ」

「今、服を着ます……グリヴェットさん、服を……この人が管理人です。従僕であり料理女であり会計係でもあり、月に一エキュで働いてもらってます」

「倹約はいいことだ。貧にして富たり、富めば鈍せず」

「帽子とステッキを」とマラーが言った。

「これがそうだろう。ステッキも帽子のそばにあった」

「これは恐縮です」

「用意はいいか?」

「出来ました。時計を、グリヴェットさん」

 グリヴェットはきょろきょろとしたものの、反応はない。

「時計はいらんだろう。教室と病院に行くだけだ。探していても遅くなる」

「しかしですね、非常に気に入っている時計なんです。高かったのを、倹約してようやく買ったものなのですから」

「出かけている間にグリヴェットさんが探しておいてくれるだろう」バルサモが笑いかけた。「ちゃんと探しておいてくれたら、戻って来る頃には見つかっている」

「そうですよ」とグリヴェットが言った。「見つかりますとも。余所で落としたんなら別ですけどね。ここで物なんか失くなるものですか」

「そういうわけだ。出かけるぞ」

 マラーはそれ以上は意地を張らず、ぶつぶつ言いながらも従った。

 外に出たところでバルサモがたずねた。

「まずは何処だ?」

「教室に行っても構いませんか。昨夜急な髄膜炎で亡くなった人がいるそうなので、解剖して脳を観察したいんです。ほかの人たちに取られたくはありませんから」

「では教室に行こう、マラー君」

「それがここからわずかしか離れていないうえに、教室と病院は隣り合わせなものですから、ちょっと出入りするだけなんです。ですから入口で待っていて下さっても構いません」

「いや、一緒に行きたいね。被験者について意見を聞きたい」

「健やかだった頃のですか?」

「いいや、死体になってからだ」

「そうですか」マラーは破顔した。「助言して差し上げられると思いますよ。私はこの分野の専門家ですし、解剖には自信がありますからね」

「自惚れ、自惚れ、また自惚れか!」バルサモが呟いた。

「何ですって?」

「見に行こうと言ったのだ。さあ入るぞ」

 マラーが初めに狭い通路に足を踏み入れた。その先に、オートフィーユ街の端にある階段教室がある。

 バルサモも躊躇うことなく後を追うと、細長い部屋に出た。大理石の台上に、二体の死体が安置されていた。女のものと男のものだ。

 女はまだ若い。男は年老いて禿げていた。粗末な死装束にくるまれて、顔の部分だけが覗いている。

 恐らくこの世では会ったこともない二人が、こうして冷たい寝台に並べられているのだ。とこしえの世界に旅立った二人の魂は、隣に自分と同じような死体がいるのを見て驚いているに違いない。

 マラーが慣れた手つきで粗末な布を持ち上げて脇によけた。「死」たるもの、外科医のメスの前では平等なのである。

 どちらの遺体も裸だった。

「死体を見て気分が悪くなったりはしませんか?」マラーが(また)かまをかけた。

「悲しい気分になる」

「慣れとは恐ろしいものですね。毎日のようにこうした光景を見ているので、悲しくも気分が悪くもなりません。私たちは現場の人間ですからね、死体と共に暮らしながら、それによって日常に支障を来すこともありません」

「医者というものの悲しい特権だな」

「そもそも、人はどうして悲しくなるのでしょう? どうして気分が悪くなるのでしょうか? 一つ目の場合は、理性があるから。二つ目の場合は、習慣のせいです」

「説明してくれ。俺にはよくわからん。まずは理性の方から」

「そうですね。どうして人は動かない肉体を恐れるのでしょうか? 大理石や花崗岩ではなく肉体で出来た彫刻にどうして怯えるのでしょうか?」

「死体には何もないから、ではないか?」

「ええ、何もありません」

「そう思うんだな?」

「絶対に確かです」

「では生者の肉体には?」

「生命活動が」マラーは自信たっぷりに答えた。

「魂、とは呼ばぬのか」

「メスで身体をさばいて来ましたが、そんなものは見たことがありません」

「死体しか確かめたことがないからではないのか」

「まさか! 生きている患者を手術したことだって何度もあります」

「死体と同じく何も見つからなかったのか?」

「痛みのことなら見つかりましたが、痛みを魂と呼ぶのですか?」

「では信じてはいないのだな?」

「何をです?」

「魂を」

「信じています。出来ることなら、生命活動と呼ばれるものから自由でいたいですから」

「それならいい。言いたかったのは、魂を信じろということだ。信じているのなら構わん」

「ちょっと待って下さい。はったりはやめていただけませんか」マラーは蝮のような笑いを見せた。「私たちは現場の人間であり、唯物論者ですからね」

「この死体は二つとも随分と冷たい。女の方は美しいな」バルサモが言うともなく口にした。

「そうですね」

「美しい魂がこの美しい肉体に宿っていたのではないか」

「創造主に手違いがあったようですね。美しい鞘に、醜い刀身。この死体はサン=ラザールでお勤めを終えたいかがわしい女のものでした。施療院で脳炎で死んだのです。恥ずべき経歴が長々と連なっているような女です。この女を司っていた生命活動のことを魂と呼ぶのは、同じ材料で出来ているほかの魂に失礼ですよ」

「治療の必要な魂だったのなら、然るべき医者がいなかったから道を過ったのではないのか。魂の医者が――」

「あなたの言い分はそうなのでしょう。しかしですね、肉体の医者しかいないんですよ」マラーは痛々しい笑みを見せた。「あなたが口になさっているのは、モリエールが喜劇でよく使っているような台詞ですよ。あなただって笑っていらっしゃるじゃありませんか」

「いいや。間違っているな。俺がどうして笑っているのかもわかっちゃいない。それはそうと結論は、この死体は空っぽだということでいいんだな?」

「何の反応もありません」マラーは女の頭を少し持ち上げてから、ぴくりともしない死体をぞんざいに大理石の上に戻した。

「いいだろう。では病院に向かおう」

「待って下さい、その前に、頭を胴体から切り離してみたいのです。興味深い疾患の大本おおもとなのですから。構いませんか?」

「好きにしろ」

 マラーは道具入れからメスを取り出し、血の染みがついた大きな木槌を傍らに用意しておいた。

 それから熟練した手つきで円状に切開を始め、胴体の肉と首の筋肉を切り離した。骨に到達すると脊椎の接合部にメスを滑らせ、乾いた音を立てて力強く木槌を打ち下ろした。

 頭部が台に転がり、(台から)床に落ちたので、濡れた手で拾い上げなくてはならなかった。

 マラーを喜ばせるのが嫌で、バルサモはそっぽを向いた。

 それをマラーは、バルサモの弱みをつかんだのだと信じ込んだ。「近いうちに、生に忙しい博愛主義者たちも死のことを考えるようになって、一瞬にして胴体から頭を切り離すことの出来る装置を思いついてくれるでしょう。ほかの処刑方法ではそうは行きません。車責め、四つ裂き、縛り首などは野蛮人の拷問であって、文明人のやることではありません。フランスのような文明国でおこなわれるべきなのは、刑罰であって復讐ではありません。車責めや縛り首や四つ裂きをおこなうような社会は、死によって犯罪者に罰を与える以前に、激痛によって復讐をしていると捉えることも出来るでしょう。それはやりすぎだと思うのです」

「それには同意しよう。だがいったいどういった道具を考えているんだ?」

「それ自体が法律のような、何物にも動じない冷徹な装置であります。死刑執行人は目の前の光景に動揺して、しくじることもあるでしょう。シャレー伯爵やモンマス公爵の時がそうでした。例えば刃を動かす木製の腕を持った装置なら、そういったことはありません」

「後頭部のつけ根と僧帽筋の間を雷のような速さで刃が通過するというのなら、死も一瞬のことで、痛みも一時のことだというのか?」

「死が一瞬で訪れるのは間違いありません。動きを司っている神経が一撃で断ち切られるでしょうから。痛みも一時のことに過ぎません。感覚の大本である脳と生命の源である心臓が断ち切られるのですから」

「だが同志よ、斬首刑はドイツに存在するぞ」

「それはそうですが、あれは剣を用いたものですから。私が申し上げたのは、人の手は震えることがあるということです」

「似たような装置ならイタリアに存在するぞ。木製の本体で刃が動くのだ。マンナーヤと呼ばれている」

「そうなんですか?」

「そうだ。死刑執行人によって首を斬られた犯罪者たちが、首のないまま椅子から立ち上がり、十歩ほど進んでつまずいて転ぶのを俺は見て来た。マンナーヤの下に頭が転がったのを、幾つも拾い集めたんだ。さっき台の下に頭が転がったのを、お前が髪をつかんで拾ったようにな。耳元で洗礼名を呼びかけてやると、再び目が開き、目玉がぎょろりと動いた。永遠への旅路の最中に地上から呼びかけているのが誰なのか確かめようとでもしているようだったぞ」

「ただの神経反応じゃありませんか」

「神経は感覚器官ではないのか?」

「それで、そこからどういった結論を引き出したというんです?」

「罰として殺す装置を作ろうとするよりも、殺さずに罰する方法を探るべきだ。そうすれば社会はさらによくなり、さらに開かれることだろう。俺たちの社会にはそうした方法を見つけることが出来ると信じている」

「また理想論だ! 理想論ばかりだ!」

「今回ばかりはお前が正しいのかもしれんな。いずれ時が明らかにしてくれるだろう……病院の話だったな?……では行こうか!」

「行きましょう!」

 マラーはポケットから出した手巾に女の頭部をくるみ、しっかりと四つ角を縛った。

「これで同僚たちを待ち受けているのは残り物だけです」マラーはほくそ笑んだ。

 二人は施療院に向かった。夢想家と実践家は並んで歩いた。

「頭部を切断している間、随分と冷静で手際がよかったな。生きている人間を扱っている方が、死体を扱う時よりも落ち着いているのか? 苦しんでいるのを目の当たりにする方が、反応のない肉体を扱うよりも、心を動かされるのではないか? 死んでいる人間よりも生きている人間に同情を感じるのではないか?」

「いいえ。それでは動揺してしまう死刑執行人と同じ過ちを犯すことになりますから。腿を切るのに失敗すれば、不器用に首を切るように、人を殺してしまうことだってあるんです。優秀な外科医は心ではなく手で手術をおこないます。それはもちろん心の中では、一瞬の痛みと引き替えに、何年もの命と健康を与えるのだということはちゃんとわきまえていますけれど。そこは医学のよいところでしょう!」

「そうだな。だが生きている人間を相手にして、魂に出くわしたことがあるんじゃないのか?」

「ええ、魂というのが生命活動や感覚のことだというのであれば、その通り、出くわしたことがあります。厄介というほかありません。私のメスより多くの病人を殺してしまうのですから」

『ジョゼフ・バルサモ』 104 その二(最後まで)

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百四章 報告会(後半)

「十年前から憎しみと欲望をこの計画と結びつけ、計画を実行し、数か月で完了させた。どんな手段を使ったのかは話しても詮無いことだ。俺が持っている秘密の力の一つであり、永遠に人の目から隠しておき、結果以外は明らかにしない方が、力は効果的に使えるからな。俺はショワズールを失脚させ、追放し、その後ろに後悔と落胆と嘆きと怒りの尻尾を長々とくっつけてやった。

「そして今、努力は実を結んだ。フランス中がショワズールを必要として、復帰を求めて立ち上がった。神が父親を召された時に、遺児が天を仰ぐように。

「高等法院は唯一の手札を切った。仕事の放棄だ。こうして機能は停止した。健康的な身体の中で、最善に保っておくべき重要な器官が麻痺しては、それは死を意味する。高等法院は社会という身体の一部だ。胃が人間の身体の一部であるようにな。高等法院が機能していない以上は、国の内臓たる国民も働きようがない。必然的に給料が支払われない。するとかね、つまり血が足りなくなる。

「そうなれば立ち上がろうという者も出てくるだろう。だが誰が国民に応戦するというのだ? 軍隊ではない。軍隊は国民の娘子、農夫のパンを食い、葡萄園の酒を飲んでいるのだから。残っているのは親衛隊、特権部隊、近衛兵、スイス人衛兵、マスケット銃兵、わずか五、六千人に過ぎない! 国民が巨人のように立ち上がろうという時に、こんな小人の寄せ集めに何が出来るというのだ?」

「そうだ、立ち上がろうではないか!」幾つもの声が唱和する。

「そうです、行動を起こすべきだ!」マラーも叫ぶ。

「若者よ、まだ話が残っている」バルサモは素っ気なかった。

「これは大衆の叛乱であり弱者の叛乱であると言えども、孤立した強者に数で勝る。結束力も統率力も経験もない者たちはあっさりと影響されて、怖いくらい簡単に勝利をものにすることも出来るだろう。だが俺は考えた。観察した――庶民的な服に身を包み、しつこさとがさつさを借用して、民衆のただ中に潜り込んだ。間近で観察できたおかげで、庶民のように振る舞うことも出来た。今では庶民のことならすっかりわかっている。もう見誤ることなど考えられん。民衆は強いが無知だ。短気だが根に持たない。一言で言えば、俺が望むような叛乱を起こすにはまだ向いていない。前例と現実を重ねて物事を見るだけの教養に欠けている。経験で培われた記憶に欠けているのだ。

「ドイツの祭りで見た勇敢な若者たちに似ている。マストの天辺によじ登り、代官がくくりつけておいたハムや銀杯を取ろうと先を争うのだ。血気に任せて走り出し、驚くほど素早く登り始めていた。だが天辺にたどり着いていざ賞品をつかもうと腕を伸ばす時になると、力が抜けて、野次が飛び交う中を下まで落ちてしまった。

「一回目に起こったことは、俺が話した通りだ。二回目になると、若者たちは体力と息継ぎを按配し始めた。だが時間を掛け過ぎると、慌ててやった時と同じように、もたもたしすぎて失敗してしまった。ついに三回目、早くもなく遅くもない加減を見つけて、今度こそやり遂げることに成功した。それが俺の考えている計画だ。目標を目指して絶えることなく挑戦を重ねれば、いつの日か必ずや成功を手にすることが出来る」

 バルサモが話すのをやめて反応を確かめてみると、聞いていた者たちの間には若者や青二才に特有の熱気が渦巻いていた。

「話してみるんだ」バルサモは、誰よりも昂奮しているマラーに言った。

「簡単に済ませましょう。民衆に何かさせておけば、絶望しない限りはおとなしくしているでしょう。何かさせるというのは、ジュネーヴ市民、ルソー氏の考えですね。大詩人ではありますが、おつむの弱い臆病者、プラトンが共和国から追い出すにも及ばない市民です。いつだって『待て!』ですか。都市からの解放あり、マイヨタンの暴動あり、七世紀が経っても待ち続けているではありませんか! 待っている間に何世代の人間が死んだか数えていただきたい。いっそ今後の合い言葉も『待て!』というお題目に変えたらどうですか。ルソー氏が話しているのは、大世紀におこなわれたような抵抗のことに過ぎません、侯爵夫人のそばや国王のお膝元で、モリエールが喜劇で、ボワローが諷刺詩で、ラ・フォンテーヌが寓話を用いておこなったような抵抗のことなんです。

「そんな惨めで弱々しい抵抗では、人類の大義は一歩も前に進まなかったことはご承知の通りです。子供たちはわけもわからぬまま蒙昧な理屈を繰り返し唱え、唱えるそばから眠りこけている始末です。あなたがたによれば、ラブレーも政治をおこなっていましたが、その政治には笑いはあっても矯正力はありませんでした。この三百年の間、一つでも悪習が改められたでしょうか? 詩人や詭弁家が溢れ返っただけです! 結果を、行動を! 我々は三百年前からフランスを医者の手に委ねて来ました。今こそ外科医がメスと鋸を手に手術に取りかかる時期なのです。社会は壊疽を起こしています。道具を手に壊疽を止めようではありませんか。或いは食卓を離れて、奴隷に薔薇の葉を吹き払わせた柔らかい絨毯に寝転ぶのを期待していてもおかしくはないでしょう。胃が満たされれば脳に心地よい蒸気が伝わり、気も楽になり幸せな気分になれるからです。ですが飢えや不幸や絶望に打ちひしがれていては、詩句や警句や寓話で満足することも気晴らしすることも出来はしません。苦しみの叫びをあげているのが聞こえませんか。この悲鳴が聞こえない人間は聾であり、悲鳴に答えない人間はろくでなしです。叛乱は鎮火されるとしても、千年にわたる教えや三世紀にわたるお手本で、智性を照らすことでしょう。王制を転覆することは出来なくとも、啓蒙の光で国王を照らすことは出来るでしょう。それで充分ではありませんか!」

 おもねるような呟きがあがった。

「敵がいるのは何処でしょうか?」マラーは続けた。「我々の頭上です。宮殿の門を守り、玉座に上る階段を固めています。玉座の上に戴いたパラス像を大切に守っていますが、トロヤ人でもそこまで気を遣ったり畏怖を覚えたりはしなかったでしょう。このパラス像こそ、敵に全能の力と富と驕りを、即ち王権を授けたものだからです。この王権を守っている者たちを一掃しない限り、王権に近づくことは出来ません。将軍を守っている軍隊を倒さない限り、将軍に近づくことは出来ないのです。山ほどの軍隊が破れて来たことは、歴史が証明しています。ダレイオスからジョン王まで、レグルスからデュ・ゲクランに至るまで、数多くの将軍が地にまみれて来たのです。

「護衛を倒し、偶像までたどり着こうではありませんか。まずは歩哨に斬りつけ、それから大将に斬りつけようではありませんか。廷臣、重臣、貴族たちに第一の刃を。国王にとどめの一撃を。特権階級の頭数を勘定していただきたい。たった二十万人です。鋭い槍を手に、フランスと名づけられた美しい庭を闊歩し、タルクィニウスがラティウムの芥子を払ったように二十万人の頭を薙ぎ払えば、それですべては終わるでしょう。そうなれば残された二つの勢力、つまり民衆と王権の一騎打ちです。後は王権という象徴が民衆という巨人と戦おうとするのを観戦していればいい。小人が巨像と倒そうとすれば、足許から取りかかるしかありません。木樵は樫の巨木を倒す時、根元から取りかかるのです。木樵たちよ! 斧を持ち、樫の木を根元から切り倒そうではありませんか、偉そうな顔をした老いた樫の木をすぐにでも砂地にまみれさせようではありませんか」

「そして倒れた木に小人のように押しつぶされるのか、愚か者どもめ!」バルサモが雷鳴の如き声を出した。「詩人に厳しい割りには、詩人よりも詩人らしく生き生きとした譬えを使うじゃないか! いいか、同志よ!」マラーに向かってなおも言葉を続けた。「そんな言葉は屋根裏ででっちあげた作り話から拾い上げた寝言に過ぎん」

 マラーは真っ赤になった。

「革命とはそういうものだと思っているのか? 俺は二百もの革命を見て来たから、教えてやろう。古代エジプトの革命もこの目で見たし、アッシリアの革命も見た、ギリシアの革命も、ローマの革命も、後期ローマ帝国の革命も見て来た。中世の革命も幾つも見て来た。東側の国民は西を、西側は東を、互いの言うことには耳も貸さずに殺し合っていた。羊飼いの王たちの時代から我々の時代に至るまでに、無数の革命があったに違いない。さっき奴隷状態に不満をぶつけていたな。だったら革命は何の役にも立たんぞ。何故だかわかるか? 革命を起こした者たちが揃って同じ眩暈を起こしていたからだ。早まったのだ。

「革命を司る神が焦っていると思うのか?

「『樫を切り倒せ!』だと? その後のことなど考えてはいまい? 切り倒すのは一秒で済むが、地面に倒れた樫の木を端から端まで馬で駆けても三十秒かかるんだぞ。それに切り倒した人間には、倒れる木を避ける間もない。巨大な枝の下敷きになって怪我でもするか死んでしまうことだろう。それが望みなのか? そんなことは許さん。俺は神のように、二十歳にも三十歳にも四十歳にもなれる。俺は神のように永遠の存在だ。俺は神のように我慢強い。自分の運命も、お前たちの運命も、世界の運命をも、この手につかんでいる。俺が開こうとしない限りは、どれほどの真理が轟こうともこの手を開かせることは出来ん。そうだ、この手に握っているのは雷だ。神が全能の右手に擁しているように、これからも俺は手放さぬ。

「諸君、気高すぎるのはもうやめだ、地面に降ろそうではないか。

「諸君、一言断言しておく。時はまだ至らぬ。今上陛下は人々から崇められていた大王ルイ十四世の最後のきらめきだ。光が褪せかけているとはいえ、諸君の恨みの炎を蹴散らすだけの輝きをまだ充分に持っている。

「この男は王であり、王として死ぬだろう。王家は傲慢だが一系だ。顔や仕種や声から、その生まれを容易く読み取れる。この男はこれからも王でいることだろう。我々が立ち上がれば、チャールズ一世に起こったことがこの男にも起こるだろう。死刑執行人たちは王の前に額ずき、不幸な廷臣たちはカペル卿のように、主君の首を落とした斧に口づけすることだろう。

「知っての通りイギリスは早まった。チャールズ一世が死刑台の上で死んだのは間違いない。だが息子のチャールズ二世は玉座で死んだ。

「しばし待て、待つのだ、諸君。いつか絶好の機会が訪れる。

「百合を握りつぶしたいのはわかる。『百合を踏みつぶせLilia pedibus destrue』が我々の合い言葉だからな。だが一本の根を残して、聖ルイが咲かせた花に、再び返り咲くという希望を与えるわけにはいかない。王権を打ち壊したいのだろう? 王権を永久に打ち壊すためには、名実共に弱らせなくてはなるまい。王権を打ち壊したいのだろう? 聖域ではなくなるのを待てばいい。神殿ではなく売店になるのを待てばいい。そうすれば不可侵な王権、言いかえるなら数世紀にわたり神と国民によって許されて来た正当な譲位権は消え去り、永久に消滅するのだ! いいか! 我々つまらない人間と、あの神々に近い奴らとの間には、壊すことも越えることも出来ない壁があった。民衆が敢えて越えようとはして来なかった境界が、灯台のように照らす『正当性』という名の境界線があった。今日までは沈みかけの王権を守って来たが、その言葉も謎めいた運命の一吹きで消し飛んでしまうだろう。

「帝国の血を混ぜて王家を長らえさせようと、王太子妃がフランスに呼ばれ、一年前にフランス王座の後継者と婚姻を結んだが……もっと近くに来るんだ、諸君。俺の言葉をほかの奴らには聞かせたくない」

「いったい?」六人の代表たちが怪訝な顔をした。

「いいか、王太子妃は今も生娘のままなのだ!」

 世界中の王が逃げ出しそうな不吉な呟きには、憎々しげな喜びとしてやったりの優越感も滲んでいた。触れ合わんばかりに六つの頭を寄せ合わせていた小さな輪から、瘴気のように呟きが洩れ出す間も、六人は壇上から見下ろすバルサモの頭を見上げていた。

「こうなると二つの可能性が生じる。どちらも我々の利害には同じくらい好都合だ。

「一つは、王太子妃がこのまま妊娠しないことだ。そうすれば王家は絶える。そうすれば将来的に我々は戦いも困難も障碍も避けることが出来る。この王家は死神に目をつけられているからな、そういうことが起こるに違いない。三人の王が跡を継ぐたびに、フランスには同じことが起こって来たんだ。美男王フィリップの息子たちがそうだった。喧嘩王ルイ、長身王フィリップ、シャルル四世は三人が三人とも王位に就いた後で、跡継ぎを残さずに死んだ。アンリ二世の三王子にも同じことが起こった。フランソワ二世、シャルル九世、アンリ三世は、三人とも王位に就いた後に跡継ぎを残さず死んだ。王太子、ド・プロヴァンス伯、ダルトワ伯の三人も、同じように三人とも子供を残さず死ぬだろう。それが運命というものだ。

「カペー王家最後の王シャルル四世の後には、先王たちの傍系ヴァロワ家のフィリップ六世が迎えられた。ヴァロワ王家最後の王アンリ三世の後には、先の王家の傍系ブルボン家のアンリ四世が迎えられた。同じように、直系の最後の王として運命の書に名前を刻まれたダルトワ伯の後には、王家や継承順に関わらず、クロムウェルやオレンジ公ウィリアムのような余所者が迎えられることだろう。

「これが一つ目の可能性だ。

「二つ目は、王太子妃が妊娠した場合だ。この場合、俺たちを落とし穴に嵌めるつもりで、敵さん方は自ら穴に飛び込む羽目になる。王太子妃が妊娠して母親になれば、これでフランスの王権は盤石だと宮廷中が大喜びするだろうが、どっこい喜ぶのは我々の方だ。こっちが重大な秘密を手にしている以上、どんな威信も権力も努力も何の役にも立たん。こんな罪深い秘密の前では、未来の王妃が妊娠したところで不幸が待ち受けているだけだ。生まれた子供を玉座に就けようとしても、幾らでも正当性を問うことが出来る。妊娠しようとも、幾らでも不義を訴えられる。だから天から幸福を授かったように見えてもメッキに過ぎず、不妊こそ神からの贈り物だったのかもしれん。俺が賛成票を投じないのはこういう理由があるからだ。俺が待つのはこういう理由だ。こういう理由があるからこそ、今国民感情を掻き立てても意味がないと考え、来たるべき時期に効果的に利用しようと考えているのだ。

「これで今年やるべきことがわかったな。基点は着々と広がっている。成功するには目と脳を持った人間の才能と勇気が必要なのだと心してくれ。さらには腕に該当する根気と努力が。さらには、心に代わる信頼と献身が必要なのだ。

「なかでも服従は絶対なのだということを肝に銘じてくれ。規則に従わなくてはならない時が来れば、代表自ら結社の規則に身を捧げるつもりだ。

「では最愛の同志たちよ、吉報であれ凶報であれ、ほかに何もなければ、これでお開きにしたいと思う。

「今晩は偉大な著述家が来てくれた。同志の一人が血気にはやって小心な著述家を怯えさせなければ、我々の一員となってくれていたことだろう。とにかく、この偉大な著述家は我々よりも正しかった。これだけの同志がいながら、部外者が正しかったというのは、実に嘆かわしい。誰一人として規則をよく知りもしなければ目的をまったくわかってもいないのだ。

「ルソーは自著に書かれた詭弁で、我ら結社の真理に勝利を収めた。あれこそが根っからの病巣にほかならない。説得によって矯正できそうにもなければ、やっとこと火でくり抜いているところだ。同志の一人が自尊心をふくらませてしまったのは残念なことだった。議論で我々をやり込めたわけだが、こんなことは二度と考えようとしないものと信じている。さもなければ懲罰という手段に頼らなくてはなるまい。

「諸君、今こそ仁愛と説伏によって信仰を広めるのだ。さり気なく耳打ちするだけでよい、無理強いはするな。言うことを聞かないからといって、尋問官が楔を使って拷問するように、木槌や斧を使って心に入り込んではならん。正しいと思われなくては信頼はされぬし、ほかの何よりも正しいと思われなくては自分たちが正しいとは思ってもらえないことを忘れるな。覚えておけよ、知識と技術と信仰がなければ、正しいも正しくないもない。要するに、人を率いて国を支配するために神から特別な印をつけられた者たちとは違うのだ。

「諸君、会議は以上だ」

 この言葉と共にバルサモは帽子をかぶって外套を纏った。

 会員たちも順番に、疑いが起きないように、一人ずつ無言で、その場を後にした。

『ジョゼフ・バルサモ』 104 その一(途中まで)

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百四章 報告会(途中まで)

 何回かに分けて出席者たちが去ると、支部内には七人の会員が残された。七人の支部長たちである。

 高みに至って奥義を伝授されたことを示す合図が交わされた。

 真っ先に気を遣ったのはすべての扉を閉めることだった。すべての扉が閉められると、代表者がL・P・Dという謎めいた文字の刻まれた指輪を掲げた。

 この代表者こそが団体の重要な連絡系統を受け持っており、スイス、ロシア、アメリカ、スウェーデン、イスパニア、イタリアの六人の支部長と連絡を取っていた。

 同胞たちから受け取った機密書類を手にしているのは、一般会員よりは上だがよりは下に属する高位会員に知らせるためだ。

 この代表者こそ、ご存じバルサモであった。

 この重要書類の中には、差し迫った意見も含まれていた。スイスのスウェーデンボリが書いたものである。

 ――南から目を離すな、同志たちよ! 熱波に温め直された裏切り者が、お前たちを殺すだろう。

 ――パリから目を離すな、同志たちよ! そこが裏切り者の住処だ。組織の秘密を手の内にして、憎しみを温めている。

 ――密かに囁く密告の声を聞いた。恐ろしい復讐も霊視したが、それはまだ遠い話だ。それまでは目を離すな、同志たちよ! 用心せよ! どれだけ念入りに立てた計画であっても、何も知らぬ裏切り者のたった一言で水泡に帰してしまう。

 同志たちは無言のまま驚いて顔を見合わせた。荒々しい霊能者の言葉と予知には何度も驚かされて来たので、バルサモを頂点に戴いたこの集まりにも、少なからぬ影が落ちた。

 バルサモ自身もスウェーデンボリの予知能力には信頼を置いていたので、それを読み終えた後には、重苦しくただならぬ印象をぬぐえなかった。

「同志たちよ、霊感を授かった予言者の言うことだ、よもや間違えることはあるまい。忠告に従い用心してくれ。これでわかってもらえたと思うが、戦いは始まっている。俺たちは滞りなく敵を骨抜きにしよう、そんな愚かな奴らに負けるわけにはいかない。向こうも準備はしているだろうからそれは忘れるな、忠誠を金で買われた奴らだぞ。この世でなら強力な武器にもなろうが、地上の生を終えた後のことまでは見えていない奴らだ。同志たちよ、金で買われた裏切り者たちと戦おうではないか」

「取り越し苦労ではありませんか」という声が聞こえた。「我々は日々、力をつけているし、秀才と豪腕によって率いられています」

 バルサモはその社交辞令に会釈を返した。

「その点は認めますが、代表が仰った通り、裏切りは至るところに忍び込んでいます」答えたのはほかでもない、外科医のマラーであった。若いながらも高位に進み、評議委員会に初めて出席を許されていた。「お考え下さい、餌が二倍になれば、捕まる獲物はさらに大きくなりはしませんか。ド・サルチーヌ氏は財布をちらつかせて無名の同志たちの情報を買えるでしょうが、これが大臣なら大金や地位をちらつかせて幹部の情報を買えるでしょう。しかし無名の同志は何も知りません。

「何人かの名前は知っているでしょうが、それは何の役にも立ちません。我々の組織は素晴らしいものですが、極めて貴族的なところがあります。下の者たちは何も知らないし何も出来ない。かき集められたところでくだらないことしか言わないし言わせられないでしょう。ですが一人一人の時間とお金は組織を確かなものにするのに欠かせません。なるほど石工には石と漆喰を運ぶことしか出来ないでしょう。ですが石と漆喰がなければどうやって家を建てるんです? 私に言わせれば、石工も薄給でこそありますが、図面を引いて建物を造り命を吹き込む建築家と同じ大事な人間です。私に言わせれば、石工も建築家も平等なんです。だってそうではありませんか、石工も人間であり、人間である以上、哲学者の目には誰もが平等に映っているのですから。それにまた、他人と同じく不幸にも運命にも耐えているうえに、その他人にも増して、石の落ちてくる危険や足場の崩れる危険に晒されているのですから」

「待ってくれ、同志よ」バルサモが口を挟んだ。「危急に考えるべき問題からずれてはいないか。熱心なあまり、論点を広げすぎだ。今は組織の是非を論じている場合ではなく、組織を無傷のまま維持することが大事なのだ。それでも議論しようというのなら、俺の答えは『否』だ。動きを伝えられた道具とそれを司る才能は同じではない。石工は建築家と同じではない。脳みそは腕と同じではない」

「ド・サルチーヌ氏が下っ端の同志を逮捕したとしても、あなたや私のようにバスチーユで腐らせはしないとでも?」マラーはかっとなってたずねた。

「言っていることはもっともだが、その場合に痛手を受けるのは個人であって組織ではない。我々の許では組織が何よりも優先される。指導者が捕まれば陰謀は頓挫する。将軍がいなければ軍隊は戦に敗れる。だから同志たちよ、指導者たちの安全に目を光らせてくれ!」

「わかりました。ですが幹部の方でも我々に気を配っていただきたい」

「無論それが務めだ」

「では幹部の失敗は二倍にして罰せられるべきでは」

「繰り返しになるが、同志よ、組織の仕組みからずれているぞ。会員を縛っている誓いは一つであり、何人なんぴとも同じ罰の許にいるのを、忘れたのか?」

「幹部は決まって罰を免れるものですから」

「それは幹部の意思ではないな。幹部の一人である、予言者スウェーデンボリの手紙を最後まで聞いてくれ」

 ――災いは幹部の一人からもたらされる。それも組織の頂点近くにいる人物から。正確には本人からではないにしろ、過失の責めを負わぬわけにはいかぬだろう。火と水の混じる恐れを忘れるな。火は光をもたらし、水はすべてを洗い流す。

 ――用心せよ、同志たちよ! あらゆること、あらゆる者から目を離すな!

「でしたら、」とマラーが言った。バルサモの演説とスウェーデンボリの手紙に、利用できそうな内容を読み取ったのだ。「我々を縛っている誓いを繰り返そうではありませんか。誓いを厳格に守ることを誓おうではありませんか。裏切ることになるのが何者であれ、裏切ることになる原因が何であれ」

 バルサモは一瞬だけ考え込んでから、椅子から立ち上がり、ゆったりとした荘厳で恐ろしい声で、あの神聖な文句を口にした。

 ――十字架に架けられし御子の名に於いて、父と母と兄弟姉妹はらから、妻、二親、友、恋人、王、恩師、服従と感謝と奉仕を誓うことになるすべての者と結んでいる世俗の絆を、断ち切ることを誓おう。

 ――組織の規約を受け入れてより後は、これまでに見しこと行いしこと読みしこと聞きしこと学びしこと考えしことを新たな主君に伝えんこと、及び目に映らざりしことを求め探らんこと、これを誓おう。

 ――毒薬と刀剣と火器を敬わん。真理と自由の敵どもを死や狂気に追いやり世界を浄めるための手段なりせば。

 ――沈黙の掟に従おう。懲罰に値する時には、落雷に打たれた如くに死を迎え入れ、言い訳一つせずに短刀の一閃を受け入れよう。その一撃は何処にいようとも避けることは出来ぬ。

 暗がりに集まっていた七人は、立ち上がって素顔を晒して、この誓いをそっくり繰り返した。

 誓いの言葉が終わると、バルサモが話を続けた。

「これで我々は安全だ。もう話が逸らすのはよそうではないか。委員会に報告すべき今年の重要事案がある。

「フランスで起こっていることの詳細は、聡明で熱心な諸君には興味があることだろう。

「始めるぞ。

「フランスは欧州の中心に位置する。身体で言えば心臓のようなものだ。生きていると同時に生かしている。組織全体の不調の原因を見つけようとするなら、心臓の異常に原因を求めねばなるまい。

「それゆえ俺はフランスにやって来た。医者が心臓を探るように、パリの様子を探りに来たのだ。俺は聴診し、触診し、自ら確かめた。俺がやって来たのは一年前のことだが、その頃にはもう君主制は疲弊しきっていた。今では悪習に息の根を止められている。俺はその致命傷に早く結果を出してもらいたかったから、そのために後押ししてやった。

「道の上には障碍があった。一人の男だ。君主ではないが、国王の次にこの国で力のある男だった。

「他人の懐に入り込む才能があった。自惚れが強いのは確かだが、それを結果に結びつけることが出来た。国民を信用させ、時には自分たちが国の一部だとすら思わせて、国民の閉塞感をゆるめる術を心得ていた。困窮する国民の相談役となることもあったので、旗を掲げればいつでも大勢が集まって来た。国民の心だった。

「フランスの天敵であるイギリスを憎んでいた。労働者階級の天敵である寵姫を憎んでいた。だからもし、この男が簒奪者であったなら、我々の仲間だったなら、我々と同じ道を歩んでいたのなら、目的を同じくしていたのなら、俺はこの男を大事に扱っただろうし、そのまま権力に就かせておいただろうし、身内として出来るだけの手段を用いて支えてやっただろう。虫食いだらけの王権に漆喰を塗り直そうとはせずに、来たるべき日に我々と共に王権を転覆させていたかもしれない。だがこの男は貴族階級出身であり、望んでもいなかった高い地位と壊そうとしなかった君主制に対する尊敬に纏われて生まれて来た。国王を軽蔑しながらも王権を尊重していた。それどころか、俺たちが狙っていた王権に対し、自ら楯となった。この生ける防波堤が国王の特権を犯す攻撃に逆らったことに、高等法院も国民も賛同して、小さな抵抗を守り、いつか時が来れば強力な後押しをする決意を固めたのだ。

「俺は状況を把握し、ド・ショワズール氏の失脚を謀った。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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