アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
第百五章 肉体と魂(後半)
施療院の前まで来たので、二人は中に入った。重苦しさを纏ったままのマラーの案内で、バルサモは手術室に入り込むことが出来た。そこには執刀医と助手たちがいた。
先週馬車に轢かれて足を砕かれた青年が運び込まれて来たところだった。痛みで麻痺した足に施した一回目の緊急手術では充分でなかったのだ。痛みは急速に広がり、速やかに手術する必要がある。
患者は苦痛に喘いで手術台に横たわったまま、煩悶の瞬間、それも恐らくは臨終の瞬間を熱心に観察している人々を、虎も舌なめずりするような恐怖を浮かべて見つめていた。医者たちが観察しようとしている生命という驚くべき現象の背後には、死という暗い現象が潜んでいるのだ。
患者が期待していたのは、外科医や助手や看護士たちの慰めや微笑みや優しさだったのだろう。だがそこで目にしたものは、冷たい心と、鋼のような視線だけであった。
勇気と自尊心を振り絞って、患者は口を閉じた。叫ぶ力を残しておけば、やがて痛みを和らげることも出来る。
だが看護士の手がなだめるように肩にずしりと乗せられたのを感じ、助手の手がラオコーンの蛇のように絡みつき、外科医が「しっかり!」と声をかけたのを耳にすると、患者は我知らず沈黙を破り、呻くような声でたずねていた。
「かなり痛いんですよね?」
「そんなことはない。気を楽に」マラーが作り笑いを見せた。それは患者にはいたわるような笑みに見え、バルサモには皮肉に見えるような笑みだった。
バルサモに意図が伝わったのを見て、マラーは近寄って囁きかけた。
「どうしようもありません。骨が粉々で、気の毒なくらいぼろぼろです。怪我が原因ではなく、痛みのあまり死んでしまうでしょう。それがこの患者に魂がもたらすものであるのですよ」
「ではどうして手術をするんだ? 穏やかに死なせてやればいいじゃないか」
「たとい絶望的でも、助けようとするのが医者の務めでありますから」
「かなり苦しむんだな?」
「ひどく」
「魂のせいでか?」
「肉体に未練を残した魂のせいです」
「ではどうして魂に手術をしないんだ? 魂を安らかにしてやれば、肉体だって救われるだろう」
「それこそまさに私がして来たことです……」患者を縛る作業を続けながら、マラーは答えた。
「魂を気遣って来たというのか?」
「ええ」
「どうやって?」
「言葉によって。魂や智性や感覚や、ギリシアの哲学者に『苦しみよ、汝は悪ではない!』と言わせたものに話しかけて来たのです。何と相応しい言葉ではありませんか。患者には『痛くないからね』と伝えました。そうしておけばこのように、魂はまったく苦しまずにいられるのです。これが現在までに知られている治療薬なんです。魂の問題に対しては、ただの欺瞞でしかありません! どうしてこの魂という厄介者は、肉体に縛りつけられているのでしょうか? 先ほど頭部を切り取った時に、肉体は何も言いませんでした。手術は難しいものでした。ですがどうしろと言うのです! 生命活動は止まり、感覚は失せ、あなたがた唯神論者に言わせれば、魂は抜け出してしまいました。だからこそ切り取られた頭部は何も言わなかったし、首のない胴体も何もしなかったのです。この肉体にはまだ魂が宿っていますから、これから恐ろしい悲鳴をあげることでしょう。耳を塞いだ方がよいのではありませんか。魂と肉体のこうした繋がりは、あなたの理論にとっては都合が悪いでしょう。魂と肉体を分けて考えられる日が来るまでは、あなたの理論は陽の目を見ずに終わるんです」
「そんな日が来ないと思っているのか?」
「確かめてご覧になればいい。いい機会なのですから」
「その通りだな。いい機会だ。是非やってみよう」
「お試しになるのですか?」
「ああ」
「どういう事情で?」
「この若者を苦しませたくないのだ」
「確かにあなたは偉大な指導者ですが、父である神でも子である神でもない以上は、この若者を苦しみから逃れさせることが出来るとは思えません」
「苦しまなければ、快復すると考えるだろうな?」
「可能性はありますが、確実とは言えません」
バルサモは何とも言い難い勝ち誇った目つきをマラーに送ると、若い患者の前に立ち、恐怖に悶える怯えた眼差しと向き合った。
「眠れ」口からだけではなく、目と意思とたぎる血潮と体中のうねりを込めて、バルサモは命じた。
執刀医が患者の腿に触れ、助手たちに患部の具合を確かめさせていたところだった。
だがバルサモが命じると、患者が身体を起こし、助手たちの腕の中で揺れると、頭を落とし目を閉じた。
「気絶してしまった」マラーが言った。
「そうではない」
「意識を失ったのがわからないのですか?」
「眠っているだけだ」
「眠っている?」
「そうだ」
誰もがこの飛び入りの医者を狂人扱いして見つめた。
マラーの口唇に疑わしげな微笑が浮かんだ。
「気絶している人間が会話を交わすことが出来るか?」バルサモがたずねた。
「出来ませんね」
「では何かたずねてみろ、答えが返って来るはずだ」
「もしもし!」
「そんな大声を出さずともよい。普通の声で話してみろ」
「あなたがしたことをちょっと聞かせてもらえますか」
「眠れと命じられたので、眠りました」と患者が答えた。
驚いたことにその声はすっかり穏やかになっており、ほんのわずか前に聞いた声とは正反対だった。
医者たちが顔を見合わせた。
「ほどいてやってくれ」
「無理だ」執刀医が答えた。「ちょっとでも動けば、手術は失敗してしまう」
「動いたりはしない」
「保証できますか?」
「俺と患者が保証する。本人に訊いてみればいい。自由にしても構わんな?」
「構いません」
「動かないと約束してくれるか?」
「動くなと言われれば、約束します」
「では、動くな」
「それだけ自信たっぷりだと、試してみようという気にもさせられるな」執刀医が呟いた。
「そうすればいい。恐れることはない」
「ほどいてやってくれ」
執刀医の言葉に、助手たちが従った。
バルサモが枕元に移動した。
「今この瞬間から、命令されない限り動いてはならん」
墓石を飾る彫像も、この命令を聞いた患者ほどこちこちではなかっただろう。
「では手術を始めてくれ。患者も覚悟は出来ている」
外科医はメスを握ったが、それを使おうとして躊躇った。
「切れ、切るのだ」バルサモの声には、霊感を受けた予言者の如き響きがあった。
マラーも、患者も、そこにいた全員が圧倒されていた。外科医も例外ではなく、メスを患者に近づけた。
肉が裂けたが、患者は一声もあげず、微動だにしない。
「出身地は?」バルサモがたずねた。
「ブルターニュです」患者は微笑んだ。
「故郷が好きか?」
「ええ、素晴らしいところです!」
外科医はこの間も切開を続けていたので、そこから骨の姿が見え始めた。
「小さい頃に離れたのか?」
「十歳の時です」
切開が終わり、外科医は骨に鋸を近づけた。
「バッツの浜子が仕事上がりに口ずさむ歌を歌ってくれないか。出だししか覚えてないんだ。
灰汁の浮かんだおいらの塩に、というやつだ」
鋸が挽かれた。
だが患者はバルサモの頼みに微笑んで、抑揚をつけてゆっくりと歌い始めた。その恍惚とした表情は、まるで恋人か詩人のようだ。
灰汁の浮かんだおいらの塩にぃ、
空の色したおいらの海にぃ、
煙る泥炭をおいらの窯にぃ。
蜜に漬け込んだおいらの麦にぃ。
おらが女房と、老けた親父にぃ、
おいらの愛しい子供らにぃ。
香る
眠りについてるお袋の墓にぃ。
幸あれ! 今日も終わった、
おいらはこれから帰るとこ。
仕事が終わって一騒ぎ、
留守から帰って愛し合おう。
足が手術台に落ちても、患者はまだ歌っていた。