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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 110

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百十章 トリアノンの舞台裏

 旅の環境など気にはならない。だから当然、ルソーはスイス人、見習い店員、中産市民、僧侶と道中を共にしていた。

 到着したのは夕方の五時半頃だった。宮廷の人々は既にトリアノンに集まって、声の調子を確かめながら国王を待っていた。実際のところ作者のことなど問題にもされていなかった。

 なかにはジュネーヴのルソー氏が稽古をつけにやって来たのだとちゃんと知っている者もいた。だが相手がルソー氏であろうと、ラモー氏であろうとマルモンテル氏であろうと、サロンや自宅で目を楽しませるような珍しい動物であろうと、興味がないのは変わらなかった。

 ルソーを出迎えた取次は、ルソーが来たらすぐに知らせるようにとド・コワニー氏から命令されていた。

 ド・コワニー氏がいつものように礼儀正しく駆け寄って、心を込めてルソーを歓迎した。しかしひとたびルソーに目を向けるとぎょっとして、思わず確かめ直さずにはいられなかった。

 ルソーは埃まみれで、皺くちゃで、真っ青な顔に生えている世捨て人のような髭だけが目立っていた。未だかつてヴェルサイユの鏡に式典の主役がこのような姿を映したことなど一度もあるまい。

 ルソーはド・コワニー氏に見つめられて決まり悪そうにしていたが、舞台のある部屋に入ると、ますます気まずい思いを強くした。そこで目にしたきらびやかな衣装、ふんだんなレース、ダイヤモンドや青いリボンは、金ぴかに彩られた部屋の中で、あたかも巨大な籠に入れられた花束のようだった。

 ルソーは龍涎香の満ちた空気を吸い込んで居心地が悪くなった。庶民の感覚にとっては繊細な魔力に満ちていた。

 それでも足を進めて立ち向かわなくてはならない。幾つもの視線がこの場の汚点となっているルソーに注がれていた。

 ド・コワニー氏が先に立ってオーケストラ席に案内すると、そこには演奏者が待機していた。

 そこに来ると多少は気が楽になったので、自分の曲が演奏されているのを聴きながら、さっきまでの自分は危険の真っ直中におり、万事休して、理性という理性が手も足も出ない状態だったのだと、本気で考えた。

 王太子妃殿下は既にコレットの衣装を着て舞台に上がり、コランを待っていた。

 ド・コワニー氏がボックス席の中で衣装に着替えている。

 ここで国王が現れ、周りの人々が一斉に頭を下げた。

 ルイ十五世は笑みをたたえてかなり上機嫌に見える。

 王太子がその右側に、ド・プロヴァンス伯爵が左側の席に着いた。

 五十人ほどのごく身内の集まりが、国王の合図で着席した。

「まだ始めておらぬのか?」ルイ十五世がたずねた。

「羊飼いの男女がまだ着替えを終えておりませんから、待っておりますの」王太子妃が答えた。

「普段着でよかろう」

「駄目ですわ、陛下」王太子妃が舞台の上から答えた。「舞台上の効果をしっかり確認するために、照明の下で衣装を確かめたいんですもの」

「なるほどその通りだ。ではちょっと見て回ろう」

 ルイ十五世は立ち上がって回廊や舞台を見に向かった。それに、デュ・バリー夫人がまだ姿を見せないのも気がかりだった。

 国王がボックス席から立ち去ると、ルソーは憂鬱な気持で心臓を鷲づかみにされ、こんな広い部屋で自分は独りぼっちなのだと考えないわけにはいかなかった。

 危惧していたような歓待とはあまりにも対照的だった。

 歩く先で人垣が割れるのではないか、パリ市民にも増して引きも切らずに好奇心も露わにされるのではないか、質問や紹介責めにされやしないかと想像していたのだ。ところがルソーを気に留める人など一人もいない。

 髭もそれほど伸びているとは思わなかったし、襤褸切れであってもこの古い服装同様に目立たないはずだと感じていた。洗練されているという自負もまんざらではないと自画自賛していたのである。

 しかしながらその実は、贔屓目に見てもせいぜい楽団長並みだと考え直して、ひどく恥ずかしい思いをしていたのである。

 突然一人の廷臣が近づいて来て、ルソーさんではないですか、と声をかけた。

「ええ、そうです」

「王太子妃殿下がお話しになりたいそうです」

 ルソーは感激して立ち上がった。

 王太子妃はコレットの楽譜を手にして待っていた。

 幸せをすっかり失ってしまった

 ルソーに気づいて王太子妃が近づいて来る。

 ルソーは極めて慇懃に挨拶をしながらも、自分は大公女ではなくただのご婦人に挨拶をしているのだと言い聞かせた。

 王太子妃の方でも、欧州の貴族と交わすように淑やかに、粗野な哲学者と挨拶を交わした。

 コランに見捨てられてしまった……

 という三行目の抑揚について助言を求められて、ルソーは発声や歌い方にういてあらん限りの知識を動員して持論を披露したが、国王と侍従たちががやがや言いながら戻って来たために尻切れ蜻蛉に終わった。

 ルイ十五世は哲学者の講義を受けていた王太子妃のところを訪れた。

 国王がみすぼらしいなりの人物を見て最初に取った言動は、ド・コワニー氏が見せたものとまったく同じだった。ただしド・コワニー氏には相手がルソーであることがわかっていたが、ルイ十五世は知らなかった。

 そんなわけだから、王太子妃の讃辞と謝辞を一身に受けているこの自由人を、国王はしげしげと見つめた。

 何物を前にしても伏せることなどない国王の威厳に満ちた眼差しに見つめられて、ルソーの目に迷いと怯えが生じた。

 国王が観察を済ませるのを待ってから、王太子妃はルソーのそばに歩み寄った。

「わたしたちの作曲家を陛下に紹介させていただけますか?」

「そなたたちの作曲家だと?」国王は記憶を探る素振りを見せた。

 話が続いている間も、ルソーは焼けた薪の上にいるような居たたまれない気持だった。国王の眼差しは、王国でもっとも偉大な著述家の、伸びた髭や、薄汚い胸飾りや、埃や、乱れた鬘の上に、レンズを通した太陽光のように、ひりひりとした光を次々に突き立てていた。

 王太子妃はルソーが気の毒になった。

「ジャン=ジャック・ルソーさんです。わたしたちが陛下の御前で演じるオペラの作者ですわ」

 国王が顔を上げた。

「ほう!」国王の反応は素っ気なかった。「ルソーさん、どうぞよろしく」

 それから国王は、ルソーの身なりが如何にひどいかを本人に伝えようとでもするかのように、なおもじろじろと見つめ続けた。

 ルソーはフランス国王にどのように挨拶すればいいのか考え込んだ。何と言っても王国の宮殿にいるのは間違いないのだから、胡麻をするまでのことはなくとも、不作法にはならぬようにしなくてはいけない。

 しかしながらルソーがこうして理屈をこねている間にも、国王はまことに王族らしい鷹揚さでルソーに話しかけた。話の内容が相手にとって愉快なものか不愉快なものかに関わらず、そうした話し方をするのが王族というものだ。

 ルソーは答えることも出来ずに固まってしまった。専制君主のために用意して来た言葉もすっかり忘れてしまったのである。

「ルソー殿」国王はなおもルソーの身なりと鬘を見つめたまま話しかけた。「そなたがいつも素晴らしい音楽を作ってくれるおかげで、余はいつも快適な時間を過ごさせてもらっておる」

 そう言って、音感も抑揚もてんでなっていない声で歌い始めた。

村の好き者の
声に耳傾ければ、
ああ簡単に
別の恋も手に出来るのに!

「本当に素晴らしい!」歌い終えた国王が言った。

 ルソーが頭を下げた。

「どうしたら上手く歌えるかしら」王太子妃がたずねた。

 ルソーは王太子妃の方を振り返って恭しく助言しようとした。

 だが国王がふたたび声を出して、コランの歌を歌い出した。

暗い我が家には
不安が絶えない。
風も陽も冷気も、
加減を知らない。

 国王陛下は歌手としては下手くそだった。ルソーは国王が歌を覚えていることを半ば嬉しがり、ひどい歌に半ば傷ついて、玉葱を齧って半笑い半泣きしている猿のような顔になった。

 王太子妃はさすがに動じず平然としている。

 国王は何一つ気にせず歌を続けた。

コレット、我が羊飼い、
君が暮らしてくれるなら、
コランの侘び住まいでも
後悔など何もない。

 ルソーは顔が赤らむのを感じた。

「さて、ルソー殿」と国王が言った。「時々アルメニア風の恰好をしているというのは本当かね?」

 ルソーは一層赤くなり、王国のためにならぬことでも言おうとしたのか、喉の奥で言葉を詰まらせた。

 国王は返事を待たずに歌い出した。

嗚呼! 人にとって
愛とはとんとわからぬもの、
許されようと、許されまいと。

「確かプラトリエール街に住んでおったな?」

 ルソーはうなずいたが、それが限界だった……これほどまでに堪えたことはかつてなかった。

 国王が口ずさむ。

可愛い子、可愛い子……

「そなたはヴォルテールと仲が悪いそうだな、ルソー殿?」

 今度こそルソーはわずかに残っていた落ち着きを失い、すっかり取り乱してしまった。国王はそんなルソーを憐れんだ様子もなく、ひどい音楽狂ぶりをひけらかしたまま、歌いながらその場を後にした。

楡の木陰に踊りに行こう、
楽しむがいい、娘さんがた、

 アポロンがマルシュアスを殺したように、アポロンをも殺すほどの調べをオーケストラが伴奏した。

 ルソーは一人ぽつんと取り残された。王太子妃は衣装の最後の仕上げをするために立ち去っていた。

 ルソーはつまずきながら手探りで廊下に戻ったが、その真ん中で、ダイヤや花やレースで着飾った男女にぶつかった。その若い男が腕を若い女にぴったり絡めていたにもかかわらず、二人は廊下を占領していたのだ。

 若い女性はレースを震わせ、大きな帽子をかぶり、扇子を持ち香水を漂わせ、星のように輝いていた。ルソーがぶつかったのはこの女性であった。

 若い男性は痩せて上品で感じがよく、イギリス製の胸飾りの上に青綬が押しつけられていた。気取りのない好ましい笑い声をあげたかと思うと、時にはひそひそと小声で耳打ちして女性を笑わせているのを見れば、二人がどれだけ理解し合っているかがわかろう。

 ルソーはこの美しく魅力的なご婦人がデュ・バリー伯爵夫人であることに気づいた。一目見た途端それだけに集中してしまう癖のせいで、連れの姿は目に入らなくなった。

 青綬の男性はほかならぬダルトワ伯であり、祖父の寵姫と心底楽しそうにじゃれ合っているところであった。

 デュ・バリー夫人はルソーの冴えない姿を目にして声をあげた。

「まあ!」

「どうしました?」ダルトワ伯も哲学者を見つめた。

 そうしながらも伯爵夫人に手を伸ばしてさり気なく道を開けていた。

「ルソーさんだわ!」

「ジュネーヴのルソーですか?」ダルトワ伯が休暇中の学生のような声でたずねた。

「ええ、殿下」

「初めまして、ルソー殿」ルソーが廊下を通り抜けようと盲進しているのを横目に、ダルトワ伯が声をかけた。「初めまして……これからあなたの音楽を聴きに行くところですよ」

「殿下……」ルソーは青綬に目を留めてもごもごと呟いた。

「ねえ、ほんと素敵な音楽じゃありません?」伯爵夫人が言った。「作者の狙いと心がぴったり一致してるんですもの!」

 ルソーは顔を上げて、伯爵夫人の燃えるような眼差しと目を合わせた。

「マダム……」ルソーはむっつりとした口を利いた。

「私がコランを演じますから、コレットを演じて下さいませんか、伯爵夫人」とダルトワ伯が言った。

「喜んで。でもあたくしは俳優じゃありませんもの、巨匠の音楽を汚すわけには参りませんわ」

 ルソーはなおこれでもかと言わんばかりに睨みつけていたが、伯爵夫人の声やお世辞や美しさに心を釣られそうになっていた。

 逃げ出したい。

「ルソー殿」ダルトワ伯が道をふさいで声をかけた。「コランの台詞を指導していただけませんか」

「コレットの台詞を指導していただくわけには参りませんわ」伯爵夫人が遠慮するふりをしたので、ルソーはすっかりしょげてしまった。

 しょげながらも、両の目で理由を問いつめていた。

「嫌われちゃったみたいね」伯爵夫人がダルトワ伯にうっとりするような声で話しかけた。

「まさか! あなたを嫌う者などいませんよ」

「だってご覧になってよ」

「ルソー殿は誠実な人柄と嬉しさのあまり、魅力的なご婦人に気兼ねしているんですよ」ダルトワ伯が言った。

 ルソーは今まさに息を引き取るのではないかと思われるような、大きな溜息をつくと、ダルトワ伯がつい壁際に作ってしまった隙間を通り抜けた。

 だがその晩のルソーはついていなかった。四歩も進まぬうちに、また新たな一組にぶつかったのである。

 今度は男性の二人連れだった。一人は年配で、一人は若い。若い方は青綬を身につけ、見たところ五十半ばらしき人物は赤い服を身につけ緊張して青ざめていた。

 この二人のところにも、ダルトワ伯の陽気な笑い声が届いていた。

「ああ、ルソー殿! まさか伯爵夫人からお逃げになるのですか。まったく、そんなこと誰にも予想できませんよ」

「ルソー?」と二人組が呟いた。

「捕まえてくれませんか、兄上」ダルトワ伯が笑いながら声をかけた。「捕まえて下さい、ド・ラ・ヴォーギヨン殿」

 それでルソーは、不運の星によって如何なる岩礁に乗り上げたのかを理解した。

 それはド・プロヴァンス伯爵とフランス王子の教育係であった!

 斯くしてド・プロヴァンス伯はルソーの行く手を遮り、

「今晩は」と、一言だけ智的な響きの声をかけた。

 ルソーは慌てて頭を下げ、もごもごと呟いた。

「これでは何処にも行けない!」

「お会い出来て何よりです」教師が出来の悪い生徒を見つけ出した時のような声を出した。

 ――まただ。とルソーは考えた。馬鹿らしいお世辞ばかりだ。どうしてこの人たちはつまらないことばかり言うのだろう!

「タキトゥスの翻訳を読ませてもらいましたよ」

 ――ああ、そうだった。とルソーは呟いた。この人は学者肌だったのだ。

「タキトゥスの翻訳が難しいのはご存じでしたね?」

「殿下、恐れながらそのことは序文に書いておきました」

「ああ、わかっていますよ。ラテン語は苦手だと仰ってましたね」

「その通りです、殿下」

「ではどうして翻訳しようと?」

「文体練習でございます」

「ははあ! 『imperatoria brevitate』を『重々しく簡潔な演説』と訳すのは間違っているのではありませんか」

 ルソーは不安になって記憶を探った。

「そうでしたよ」サルマシウスの中に間違いを見つけた老学者のような、落ち着き払った口振りだった。「確かにそんな風に訳していました。ピソが兵士に演説している場面です」

「するといったい?」

「つまりですね、『imperatoria brevitate』とは、将軍のように簡潔なこと……常日頃から命令を出し慣れているような話し方のことなんです命令的簡潔……という呼び方でよかったかな、ド・ラ・ヴォーギヨン殿?」

「間違いありません、殿下」教育係が答えた。

 ルソーが無言でいると、プロヴァンス王子はなおも言った。

「決定的な間違いですよ、ルソー殿……それにもう一箇所ありそうです」

 ルソーは青ざめた。

「カエキナについて書かれた場面です。『At in superiore Germania』……カエキナの人となりを説明するに当たって、タキトゥスは『Cito sermone』と言っています」

「よく覚えております」

「あなたは『雄弁』と訳していましたが……」

「確かにわたしは……」

「『Cito sermone』とは『端的に話す』、つまり『率直』という意味ではありませんか」

「『雄弁』と申し上げましたが」

「それなら『decoro sermone』や『ornato sermone』や『eleganti sermone』と書かれるべきではありませんか。『Cito』というのは絵的な表現です。オトが様々に振る舞うを描くのに相応しい。タキトゥスは『Delata voluptas, dissimulata luxuria cunctaque, ad imperii decorem composita.』と言っていますね」

「わたしはそれを、『絢爛と悪徳に身をやつし、帝国の栄光を取り戻さんとして人々を驚かさん』と訳しました」

「違います、違います。そもそもあなたは三つの短文を一つにしてしまっている。そのせいで『dissimulata luxuria』を誤って訳してしまい、さらには最後の部分を誤って解釈してしまっています。タキトゥスは皇帝オトが帝国の栄光を取り戻そうとしていたとは言っていません。もはや快楽に満足できず、豪奢な生活を匿い、オトがすべてに甘んじ、すべてを承知し、すべてを変えさせた……すべて、つまり快楽や悪徳さえも、帝国の栄光の一部なんです。複雑な意味合いの文章を、単純に捉えてしまっているんです。そうですね、ド・ラ・ヴォーギヨン殿?」

「間違いありません、殿下」

 ルソーはこの容赦ない攻撃に汗を垂らしてあえいでいた。

 プロヴァンス王子はルソーが一息つくのを待って、さらに続けた。

「あなたは哲学者の中でも優秀な方だ」

 ルソーは頭を下げた。

「ただし『エミール』だけは危険な書物です」

「危険、ですか、殿下?」

「誤った思想をブルジョワに広めるという意味でね」

「殿下、父親になれば誰もが、あの本のような状態になるのです。大貴族であれ、底辺の庶民であれ……父親というものは……つまり……」

「どうしたんです」出し抜けに意地悪な口を利いた。「『告白』は面白い本だった……それはそうと、子供は何人お持ちなんです?」

 ルソーは青ざめて震え出した。若き死刑執行人に怒りと戸惑いを込めた目を向けたが、それがド・プロヴァンス伯の戯れ心に火をつけた。

 それだけで充分だった。ド・プロヴァンス伯は答えを待たずに教育係を従えて立ち去った。後には自著に辛辣な論評を加えられて粉々になった人物が残された。

 一人残されたルソーがやがて眩暈から立ち直りかけた頃、オーケストラが導入部を演奏するのが聞こえて来た。

 ルソーはふらふらしながら音の鳴る方に向かい、席に着いた。

 ――わたしは馬鹿で愚かな臆病者だ! 残酷な学者気取りには、『殿下、哀れな老人を苦しめるのは若者のやることとは申せません』と言えばよかったのに。

 この台詞に一人満足していると、王太子妃とド・コワニー氏の二重唱が始まった。哲学者の気苦労は、音楽家の苦しみへと変わった。心を苛まれた後には、耳が責め苦を受け始めた。

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『ジョゼフ・バルサモ』 109

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百九章 ルソーの支度

 ド・コワニー氏が帰ると、今の訪問で頭がいっぱいになっていたルソーは、大きな溜息をついて椅子に坐り、ぐったりとして呟いた。

「何て面倒なんだ! 煩わしい人たちばかりだ!」

 戻って来たテレーズがそれを聞きつけて、ルソーの正面にやって来た。

「自惚れてるねえ!」

「わたしが?」ルソーは驚いて声をあげた。

「そうだよ、自惚れ屋の偽善者だよ!」

「わたしが?」

「だってそうさ……宮廷に行くのが嬉しくてしょうがないくせに、無関心なふりをして喜びを隠しているんだから」

「これは参った!」見事に言い当てられて、ばつが悪そうに肩をすくめた。

「まさか誤魔化せると思っていたんじゃないでしょうね? ここで穀潰しみたいにスピネットを掻き鳴らして作ったオペラを国王に聴いていただくのを、あなたが名誉に感じてないわけがないじゃありませんか」

 ルソーは苛々とした目つきで妻を見た。

「何を言っているんだ。国王にお目通りするのは、わたしのような人間には名誉なことでも何でもないよ。国王が玉座にいるのは何のおかげだと思うんだい? 自然のきまぐれのおかげで、王妃から生まれただけじゃないか。一方わたしは国王を楽しませるためにそれと見込まれて御前に呼ばれたんだ。努力のおかげだよ、それと努力によって授かった後天的な才能のおかげだよ」

 テレーズは言われたまま黙っているような女ではなかった。

「あなたがこんな話し方をしているのをド・サルチーヌさんが聞いてくれることを願いますよ。ビセートルやシャラントンに病室を空けておいてくれるでしょうから」

「ド・サルチーヌ氏は別の暴君に雇われている暴君に過ぎないし、自らの才覚を除けば暴君から身を守る術はないからね。だがド・サルチーヌ氏がわたしを虐げるようなことがあれば……」

「ええ、何ですか?」

「ああ、いや」ルソーは溜息をついた。「わたしの敵たちは喜ぶだろうね。まったくだ!……」

「敵がいるのは誰のせいですか? あなたの意地が悪くって、世界中を敵に回しているからじゃありませんか。ド・ヴォルテールさんには味方がいますものね、うらやましいことですよ!」

「その通りだね」ルソーは天使のような微笑みを見せた。

「何ですか、まったく! ド・ヴォルテールさんは紳士でらっしゃいますからね。親友にプロイセンの国王がいますし、馬も持っているし、お金持ちですし、フェルネーにお屋敷もありますし……どれもこれもあの人の才能のおかげですよ……宮廷に伺ったって侮るような態度は取らないでお寛ぎになるでしょうに」

「するとわたしが宮廷で寛げないというんだね? あそこで使われるお金の出所も知らないし、国王が払われている敬意に欺かれているとでもいうんだね? お前と来たら、すっかり騙されてしまうんだね。侮るような態度をとるのは動じていないからだし、宮廷人の豪華なところに動じないのは、それが盗まれたものだと知っているからだとは思わないのかい」

「盗まれたですって!」テレーズは憤然とした。

「盗まれたんだよ! おまえや、わたしや、みんなからね。衣装に使われているようなお金はそっくり、パンを買えない貧乏人に分け与えるべきなんだ。そうしたことを感じているから、宮廷に行くのが嫌でしかないんだよ」

「みんながみんな幸せだとは言いませんよ。でもね、何だかんだ言って、国王は国王ですからね」

「国王には従っているよ。このうえ何を望むというんだい?」

「従っているのは怖いからでしょうよ。本当は行きたくないんだとか何も恐れてはいないんだとは言わないでもらいましょうか。さもなきゃ言って差し上げますけどね、あなたは偽善者ですし、本当は嬉しくてしょうがないんでしょうに」

「何も恐れてはいないよ」ルソーは胸を張って答えた。

「でしたらさっき言ったことを少しでも国王にお話しになればいいんですよ」

「そうするよ、気持が乗ればね」

「本当ですね?」

「ああ。わたしが尻込みしたことがあったかい?」

「よく言いいますよ、引っかかれるのが怖くて、猫に骨をやろうともしないくせに……衛兵や剣士に取り囲まれたらどうするつもりなんです?……あなたのことなら母親同然に知っていますからね……すぐにでも髭を剃って髪を整えておめかしなさるんじゃありませんか。足の手入れをして、小さく瞬きなさるんでしょう。その小さくて丸い目を普通に開いていては誤魔化せませんけれど、瞬きしていれば馬車の入口みたいに大きく見えますものね。絹靴下を用意して、鉄のボタンのついた茶色い上着をお召しになり、新しい鬘をつけて、辻馬車に乗って、ご婦人たちに崇拝されにいらっしゃるんでしょう……明日ですよ、明日になればうっとりと物思いに沈んで、また恋に落ちて、溜息をつきながら本でもお書きになって、コーヒーに涙を落とすんでしょうよ……あなたのことならちゃんとわかってますとも!……」

「わかっていないね。宮廷には仕方なく行くと言っているんだよ。要するにわたしが宮廷に行くのは、非難されるのが嫌だからで、立派な市民なら誰だって非難されるのは嫌がるだろう。それにわたしは、共和国市民の特権を認めないような人間ではないからね。だが宮廷の人たちにおもねったり、牛眼の間の貴族たちに触れんばかりにお近づきになったりすることに関しては、否!だ。そんなことは絶対にするものか。そんなことがあったら、好きなだけ嘲笑ってくれればいい」

「じゃあ盛装しないおつもりですか?」テレーズが馬鹿にしたようにたずねた。

「ああ」

「新しい鬘もつけないんですか?」

「ああ」

「小さな目を瞬きさせないんですか?」

「自由人として宮廷に行くつもりだよ。装うことも恐れることもしない。芝居を見に行くように宮廷に行くつもりだからね、俳優たちからどう思われようと関係のない話だ」

「でも髭くらいはきちんとしていって下さいよ。半ピエも伸びているじゃありませんか」

「自分の流儀を変えるつもりはないよ」

 テレーズがげらげらと笑い出したので、ルソーは耳を塞いで部屋を移った。

 テレーズの攻撃は終わっていなかった。打てる手ならほかに幾らでもある。

 洋服箪笥から礼服、新しい下着、ぴかぴかに磨き上げた靴を取り出すと、それをルソーの寝台と椅子の上に広げた。

 だがルソーはまるで見向きもしない。

 仕方なくテレーズは声をかけた。

「もうそろそろ着替えた方がいいんじゃありませんか……宮廷の衣装を着るには時間がかかりますからね……約束の時間までにヴェルサイユに行く暇がなくなってしまいますよ」

「言っただろう、テレーズ。これで充分だよ。毎日この恰好で同国人の前に出ているんだ。国王だってわたしと同じ一市民なんだからね」

「いいですか」テレーズは遠回しに会話を誘導しようとした。「意地を張って馬鹿な真似をしないでくださいな、ジャック……そこに着替えがありますから……剃刀も出しておきましたよ。今日は神経が触るというんでしたら、床屋を呼ばせましたけれど……」

「ありがとう。ブラシくらいはかけておくよ。それに靴は履くとも。突っかけで出かけるわけにはいかないからね」

「その気になってくれそうですね?」

 テレーズはその時々に応じて、機嫌を取ったり、説得したり、挑発したりと工夫していた。だがルソーはそんなものはお見通しで、罠があることも承知していた。譲歩した途端にテレーズが襲いかかってくるだろうことはわかっている。だから譲歩しようとはしなかったし、素のままの自分を引き立たせる立派な服装に目を向けたりはしなかった。

 テレーズはルソーを見つめていた。もう手だては一つしかない。ルソーはいつも決まって出がけに鏡を覗き込むのだ。もしド綺麗というものがあるならば、ルソーは度を越した綺麗好きなのである。

 だがルソーは気を緩めなかった。テレーズの祈るような目つきに気づいて、鏡に背を向けた。時間だ。ルソーの頭は国王にかける七面倒くさい言葉のことで一杯だった。

 もぐもぐと呟きながら靴の留め金を掛け、帽子を小脇に抱えて、杖を取り、テレーズが見ていない隙を利用して、礼服と上着の皺を手で伸ばした。

 戻って来たテレーズに手渡された手巾を、上着のポケットに突っ込んで、ルソーは踊り場まで見送られた。

「ジャック、馬鹿な真似はしないで下さいよ。ぞっとするようなところがあって、何だか贋金造りみたいだよ」

「行って来るよ」

「何だかごろつきみたいだよ、気をつけて下さいよ!」

「火の元に気をつけるんだよ。それからわたしの書いたものには触らないように」

「密偵みたいに見えますよ、本当に」テレーズはがっくりして言った。

 ルソーは答えずに、鼻歌を歌いながら階段を降りた。暗いのをいいことに袖で帽子を拭い、左手で胸飾りを擦り、即席とはいえ手際よく身だしなみを整えた。

 地上まで来るとプラトリエール街の泥が待ち受けていたが、爪先立ってやり過ごし、シャン=ゼリゼまで歩いて行った。そこには乗合馬車と呼ばれる正真正銘の馬車が停まっており、十二年前から経済的に苦しい旅人たちをパリからヴェルサイユまで運んで、もとい、ぐったりさせていた。

『ジョゼフ・バルサモ』 108

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百八章 人と著作

 マラーが忙しく時間を過ごし、意識と二重の生命に哲学的考察を凝らしている間、プラトリエール街に住むもう一人の哲学者もまた、昨晩の出来事を一つ一つ組み立て直し、自分が間違っていたのかどうかをじっくりと考えていた。腕を卓子に力なく乗せ、首を左に傾げて、ルソーは思いを巡らせていた。

 目の前に大きく開いてあるのは、政治と哲学に関する書物、『エミール』と『社会契約論』だ。

 時々思いついたように前に乗り出し、暗記している本のページをめくった。

「何てことだ!」信条の自由に関する『エミール』の記述を読んで、ルソーは声をあげた。「何と煽情的な文章なんだ。恐ろしい考え方だ! 世間からはこんな煽動者に思われていたのか?

「暗く澱んだ情熱の持ち主たちがわたしの詭弁を濫用して、レトリックのばらまかれた小径に迷っても驚くまい。わたしは社会を攪乱していたのだ……」

 愕然として立ち上がり、狭い部屋をぐるぐると歩き回った。

「作家を弾圧する権力者のことをこれまで批判して来たが、狂った野蛮人はわたしの方であり、向こうは常に正しかったのだ。

「わたしはただの危険人物なのか? 民衆を照らそうと思って言葉を投げかけていたのに、少なくともそういう建前で言葉を投げかけていたというのに、わたしの言葉は世界を焼き払う松明でしかなかったのか。

「社会的な不平等問題について土壌を耕し、博愛の種を遍く広めようとし、教育についての構想を育んで来たというのに、手に入るのが、社会の良識をひっくり返すようなひどい自惚れや、人口を減らすような内戦や、文明を千年も後退させるような野蛮な習慣でしかないとは……わたしはとんでもない犯罪者だ!」

 ルソーは『サヴォワの助任司祭』を読み返した。

「確かにそうだ。『幸福のために一致団結しよう……』と書いている! 『他人が悪徳に与える力をわたしたちは美徳に与えよう』とも書いているじゃないか」

 ルソーはかつてないほどの絶望に震えた。

「わたしの過ちのせいで、同胞ブラザーたちが顔を合わせ、いつか地下集会の最中に警察に踏み込まれるのではないか。裏切りがあった場合には互いに喰らい合うと誓った人々の群れが捕らえられれば、他人よりも図太いと感じている人間はポケットからわたしの著作を取り出して言うのだろう。

「『何の文句があるのかね? 我々はルソー氏の支持者であり、哲学の講義を受けていただけだ』

「これにはヴォルテールも笑うだろうな! あの太鼓持ちにはこんな大騒ぎに潜り込んでいる恐れなどないのだから」

 ヴォルテールに笑われると考えただけで、このジュネーヴの哲学者に激しい怒りが湧き起こった。

「要するにわたしは悪巧みしてばかりの、いまだに子供なのだ。そのうえ、よい策士とは言えまい?」

 そんなことをしている内に、テレーズがいつの間にか朝食を運んで来た。

 ルソーが『孤独な散歩者の夢想』の断章を読んでいるのを見て、テレーズは声をあげた。

「おやまあ!」読んでいる最中の本の上にホット・ミルクを乱暴に置いた。「うちの自惚れ屋さんと来たら、鏡に自分の姿を映しているよ。自分の本を読んで、自分に感心しているんだからねえ!」

「ああ、テレーズ。放っておいてくれないか。冗談を言う気分じゃないんだ」

「まあ、ご立派ですこと」テレーズは鼻で笑った。「物書きってのは虚栄心と欠点だらけのくせして、あたしたち女にはそれを許さないんですからね。あたしが鏡を覗こうとしたら、ぶうぶう文句を言ってあばずれだとか言うくせに」

 テレーズはこんな調子でルソーを惨めな男扱いし続けた。生まれてこのかた惨めなことがまだ足りないとでも言いたげに。

 ルソーはパンを浸さずに牛乳を飲んだ。

 じっくりと考え込んでいる。

「ええ、じっくり考えればいいんですよ。ふざけたことばかり集めてまた本をお書きになればいいんです……」

 ルソーが震え出した。

「あなたは女の中に理想を夢見ているんですよ。どうせ若い娘さんが読もうともしないような本や、執行人の手で燃やされるような冒涜的な本ばかりお書きになるんでしょう」

 ルソーはがたがたと震えていた。テレーズに痛いところを突かれたのだ。

「いや、もう人に悪い影響を与えるようなものは書かないよ……それどころか、正直な人たちが喜んで読むような本を書こうと思っている……」

「おやまあ!」テレーズがコップを下げた。「無理ですよ。嫌らしいことしか頭にないんですから……いつかまた、わけのわからない文章を読むのを聞かされたり、理想の女の話を聞かされたりするんですよ……この変態の魔法使い!」

 この魔法使いという言葉は、テレーズの語彙の中ではもっとも卑しい罵りだった。この言葉を聞くたび、ルソーは決まって震え上がった。

「それだよ、それ。きっと満足してもらえると思う……わたしが書こうと思っているのは、世界を変えても誰一人苦しまないように変える方法を見つけたということだよ。この着想を推し進めるつもりなんだ。革命ではない! 神よ! テレーズ、革命ではないんだ!」

「そのうち確認できるでしょうよ。おや! 誰か来ましたよ」

 テレーズは若者を控え室で待たせておいて、すぐに戻って来た。

 部屋に戻ると、ルソーは既に筆を取っていた。

「その嫌らしいものをさっさと片づけて下さいな。お会いしたいそうですよ」

「どなただい?」

「貴族の方ですよ」

「名乗らなかったのかい?」

「まったくねえ! あたしが見知らぬ人を家に入れると思ってるんですか?」

「誰なんだい?」

「ド・コワニー様です」

「ド・コワニーだって! 王太子殿下の侍従のかい?」

「そうじゃないですか。感じのいい人でしたよ」

「今行くよ、テレーズ」

 ルソーは慌てて鏡を覗き、服の埃をはたき、履き古してぼろぼろの、一つしかない古いつっかけを拭いて、食堂に向かうと、そこには侍従が待っていた。

 坐ってはいなかった。ルソーが紙に貼り付けて、黒い枠で囲っていた植物を不思議そうに眺めている。

 ガラス戸の音を耳にして振り返り、礼儀正しく挨拶をした。

「ルソー殿ですか?」

「ええ、そうです」ぶっきらぼうな口調にも、相手の際立った魅力と気取りのない優雅さに対する感嘆が滲んでいた。

 事実ド・コワニー氏は感じのいい魅力に溢れたフランス貴族であった。この時代の服装は氏のために考案されたと言っても過言ではあるまい。見事なほどほっそりとした足回りを際立たせ、豊かな肩や厚い胸の魅力を露わにし、落ち着いた顔に優雅な雰囲気を与え、象牙のように白く整った手を輝かせていた。

 ルソーはこの観察結果に大いに満足した。如何なる場合であろうと美を讃美する芸術家であったのだ。

「失礼ですが、どういったご用件でしょうか?」

「恐れながら、ド・コワニー伯爵と申します。王太子妃殿下のお申しつけにより参上いたしました」

 ルソーは顔を火照らせてお辞儀をした。テレーズは食堂の隅でポケットに手を突っ込んだまま、好ましい目つきでフランス大公女の使いに見とれていた。

「妃殿下がわたしに……どういうことでしょうか? いや、それよりもどうか椅子にお掛け下さい」

 ルソー自身も腰を下ろし、ド・コワニー氏もそれに倣って藁椅子に腰掛けた。

「こういう事情なのです。陛下が先日トリアノンで正餐をお召し上がりになった折り、あなたの音楽に好感をお示しになり、幾つかの節を口ずさんでいらっしゃいました。陛下のお気に召すものをお探ししていた王太子妃殿下は、トリアノンの舞台であなたのオペラを上演すれば国王もお喜びになるのではないかとお考えになり……」

 ルソーが深々と頭を下げた。

「それでこうして王太子妃殿下のお申しつけにより、お願いに参ったという……」

「ああ、待って下さい」ルソーが遮った。「わたしの許可など必要ありませんよ。あれに含まれている曲やアリアは、上演する劇場のものです。お願いするなら俳優ですが、俳優たちもわたしと同じく反対などすまいと思いますよ。大喜びで陛下や殿上人の御前で歌い演じることでしょう」

「正確に申しますと、ここに参ったのはそのためではありません。王太子妃殿下は国王陛下に滅多にないような娯楽を提供なさりたがっておいでです。陛下はあなたのオペラはすべてご覧になっていらっしゃいますし」

 ルソーはまたも深々と頭を下げた。

「好んで口ずさんでいらっしゃいます」

 ルソーが口元を引き締めた。

「大変光栄なことです」と呟いた。

「それでなのですが、宮廷の貴婦人の方々は優れた音楽家であり歌も大変お上手で、貴族の方々も如才なく音楽をたしなんでいらっしゃるので、妃殿下はあなたのオペラのいずれかをお選びになったうえで、貴族の男女に演じてもらい、主役は殿下ご夫妻が務めたいとお考えなのです」

 ルソーは腰掛けから飛び上がった。

「身に余る光栄です。どうか感謝の言葉を妃殿下にお伝え下さい」

「いやいや、まだ話は終わっておりません」ド・コワニー氏が微笑んだ。

「そうでしたか!」

「集まった劇団が何処よりも豪華なのは間違いありませんが、如何せん経験がほとんどありません。指導者の判断や助言が不可欠なのです。王家専用席のやんごとなき観客や、高貴な俳優に相応しい舞台になることでしょう」

 ルソーが立ち上がって頭を下げた。これはお世辞に気をよくしたもので、ド・コワニー氏に対して恭しくお辞儀をした。

「そのために妃殿下は、あなたにトリアノンに来ていただいて、稽古をつけて欲しいと仰っております」

「え……よもや妃殿下がそんなことを……わたしがトリアノンに?」

「どうでしょうか……?」ごくさり気なくド・コワニー氏がたずねた。

「あなたは見識も智性もお持ちで、誰よりも頭の切れる方だとお見受けします。どうか率直にお答え下さい。哲学者ルソー、追放者ルソー、人間嫌いルソーが宮廷に伺ったら、笑いものにされるのではないのですか?」

「愚かな者たちが嘲笑や中傷であなたを責め立てたからといって、王国第一と目される紳士でもあり著述家でもある方が眠りを妨げられる理由がわかりません」ド・コワニー氏は淡々と答えた。「そうした弱いところをお持ちなのでしたら、しっかりとお隠しになって下さい。人々の笑いを誘うのはその弱さにほかなりません。口さがない人々も口には気をつけざるを得ないことは、あなたもお認めになるでしょう。何しろことは王太子妃殿下、つまり将来のフランス王家の後継者であられる方の楽しみや希望に関わることなのですから」

「そうですね」ルソーが言った。「確かにそうです」

「建前上遠慮なさっているのですか?」ド・コワニー氏が微笑んだ。「国王に厳しかった以上、自分に甘くするわけにはいかないと? ああ、ルソーさん、あなたは人類を啓蒙して来ました。ですが人類を憎んでいるわけではないのでしょう?……それに無論、皇室出身のご婦人でしたら話が別なのではありませんか」

「親切なお言葉、痛み入ります。ですがわたしの立場をお考え下さい……隠退して一人きりの……つまらない人間です」

 テレーズが顔をしかめた。

「つまらない人間ねえ……気難しいったらありゃしないんだから」

「わたしが何をしようと、国王陛下や王女殿下の目からすれば、わたしの顔や物腰にいつまでも不愉快な痕跡を見つけるのに違いありません。喜びと満足しか求めてない方たちなのですから。そんなところでわたしは何を言い、何をすればいいのでしょう?……」

「ご自分を信じられないようですね。ですがそうすると、『新エロイーズ』や『告白』を書いた方には、話をするにしても行動するにしても、我々と同じだけの才能しかないと仰るのですか?」

「はっきり申し上げますが、無理です……」

「王家の辞書には『無理』という言葉などありません」

「それがわたしが家に閉じこもっている理由ですよ」

「どうか、妃殿下に喜んでいただくという任務が無謀なものではなかったと証明させて下さい。耐え難い無念の思いを忍んで恥ずべき敗者としてヴェルサイユに戻らなくてはならないようなことをさせないで下さい。そんなことがあれば、居たたまれなさのあまり、すぐにでも亡命するしかありません。どうかルソーさん、あなたの著作に多大な感銘を受けた人間のために、寛大な心をお見せ下さい。たとい国王に頼まれても心を閉ざすのだとしても、どうか今回は寛大な心を」

「あなたのお気持には心を打たれました。あなたの言葉には抗い難い説得力が、あなたの声には人を感動させる不思議な力がある」

「承知していただけましたか?」

「いえ、それは……やはり駄目です。こんな健康状態では、旅には耐えられません」

「旅? 何を仰るのですか! 馬車で一時間十五分ですよ」

「あなたや、元気な馬とってはね」

「しかし宮廷中の馬を自由に使えるのです。それに妃殿下から言づかっておりますが、トリアノンにお部屋をご用意しております。夜分遅くにパリに帰らせることは望まれていらっしゃいません。それに王太子殿下はあなたのご本をすべて暗記していらっしゃり、自分の宮殿にルソー氏の過ごした部屋があるのだと触れ回りたいと洩らしていらっしゃいました」

 テレーズが感嘆の声をあげた。ルソーにではなく、王太子に、であったが。

 ルソーはこの厚意にいよいよ抗えなかった。

「これは折れざるを得ませんね。これほどの攻撃を受けたことはありませんでしたよ」

「心をつかむことは出来ますが」ド・コワニー氏は答えた。「あなたの智性を乗っ取ることは出来ますまい」

「では参りましょう。殿下のお申しつけを受けたいと思います」

「ありがとうございます。個人的に感謝の気持をお伝えいたします。妃殿下のお気持については差し控えさせて下さい。ご自身の口からお伝えしたいことを先回りしてお伝えしてしまっては、ご機嫌を損ねてしまわれるでしょうから。それに口説きたいほど若く美しい女性に感謝するのはむしろ男の方ではありませんか」

「まったくですね」ルソーも微笑んだ。「しかし老人にも若い娘さんと同じ特権があるんですよ。どちらも人から頭を下げられるんです」

「それでは時間を仰っていただけますか。馬車を迎えに寄こします。と申しますか、手ずからお迎えにあがらせていただきます」

「いやいや、お構いなく。トリアノンには参りますよ。ですが、わたしの好きなように行かせてもらえませんか。もう世話を焼いていただかなくても結構ですよ。ちゃんと参りますから、お時間を教えて下さい」

「ご案内を務めさせてはいただけないのですか。確かにそれに相応しいほどの人間ではありませんし、あなたほどのお名前でしたらそれだけで前触れの効果もあるには違いありません」

「そういうわけではないんです。あなたは宮廷の人間ではありませんか。わたしが何処にも属さない人間であるように……あなた個人のお申し出を断るのではなく、気兼ねなくいたいだけなんです。散歩にでも行くようにお伺いしたいんです。要はこれが……ぎりぎりの妥協点です」

「わかりました。どんなことであれお気に召すよう努力いたします。稽古は今晩六時に始まります」

「そうですか。では六時十五分前に、トリアノンに参ります」

「失礼ですが手段は?」

「それはこちらの問題です。わたしの馬車はこれですよ」

 ルソーは足を上げた。まだまだ引き締まっており、誇示するように靴を履いていた。

「五里ですよ!」ド・コワニー氏は唖然とした。「へとへとになって、夜には身体が動かなくならないようお気をつけ下さい!」

「その場合にも馬車と馬がありますから。同胞の馬車、庶民の馬車、空気や太陽や水と同じく、わたしのものでありまた誰のものでもある、十五スーしかかからない馬車ですよ」

「まさか! 乗合馬車ですか! ぞっとさせないで下さい」

「あなたには座席が固すぎると感じるかもしれませんが、わたしには浮気者の寝床のような坐り心地に感じられるのです。羽毛か花びらでも入っているのかと思うほどですよ。ではまた夕方に」

 ド・コワニー氏はこうして追い払われたと感じながら部屋を出た。感謝の言葉、少なからぬ簡潔な指示、仕事を引き受けてくれたことへの返礼をたっぷりと述べた後で、暗い階段を降りた。それをルソーは踊り場から、テレーズは階段の途中で見送っていた。

 ド・コワニー氏は通りに待たせておいた馬車に乗り込み、わずかに微笑みながらヴェルサイユへの道を戻った。

 テレーズが不機嫌に扉を閉めたのを見て、嵐になりそうな予感をルソーは感じた。

『ジョゼフ・バルサモ』 107

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百七章 マラー宅の管理人

 扉が開き、クリヴェットさんが入って来た。

 これまでこのご婦人に詳しく筆を割いて来なかったが、それというのもよほどのことがない限り画家が描くのを避けるような類の人物だったからだ。それが今やこの物語の真っ直中に顔を出し、これまで読者の目に披露して来た巨大な絵巻にその姿を刻むこととなった。この絵巻というものには、筆者の霊感と思惑が一致さえすれば、乞食から王様まで、怪物キャリバンから妖精アリエルまで、妖精から神までをも登場させることが出来るのだ。

 それでは、舞台裏を離れて表舞台に姿を見せたグリヴェットさんについて筆を取ってみようと思う。

 ひょろひょろと痩せこけた、三十二、三の、肌の黄ばんだ女性で、青い目はぞっとするような黒い隈に縁取られている。肉体的にも精神的にも劣悪で逼迫したひどい暮らしと年のせいだ。神はこの者たちを美しく造り給いて、宙と天と地に在るよろずの生き物のそうである如く、見事なまでに健やかに育て給うたであろう。その者が人生の多くを痛めつけられて来なかったなら、言わば足枷で足を、飢えで胃を、食糧がまったく無いにも等しいような命取りの食糧で胃を傷めて来なかったならば。

 だから、マラーのところの管理人は美しい女であったことであろう。もし十五歳のみぎりより風も陽も当たらぬあばら屋で暮らしていなければ。もし生来の輝きがこの窯の熱さや氷の冷たさで絶えずじわじわと炙られていなければ。細く長い指にはお針子仕事で出来た糸の跡がついており、水仕事のせいであかぎれてぶよぶよとなり、炊事で使う火に当たって固くなっていた。だがそれにもかかわらず、その手の形を見れば、即ち消そうとしても消えないその神々しい肉付きの跡を見れば、王家の手にも紛えたはずだ。それが箒を握って出来たマメではなく笏を握った出来たマメであったならば。

 以上のことからわかる通り、この哀れな人物の肉体は筆者がお話ししたことの外面に過ぎない。

 このご婦人の内部では精神が肉体をしのいでいたので、精神は肉体よりも打たれ強く、燈のように燃え続けていた。言わば、それは透き通るような光で肉体を照らし、時にはぼやけて曇った目に、智性・美・若さ・愛・つまり生来人間に備わっているあらゆる魅力の輝きが灯るのも見えたのである。

 バルサモはしばらくこの女を、もといこの非凡な存在を見つめていた。見つめられた管理人の方は、はなからバルサモの探るような目つきにぎょっとしている。

 とにかく中に入って手紙を手渡そうと、老婦人のような穏やかな声をかけた。辛苦に引導を渡された女は三十歳で老いるものなのだ。

「マラーさん、あなたが仰ってた手紙ですよ」

「別に手紙を待っていたわけじゃない。あなたに会いたかったんです」マラーが答えた。

「おやまあ、ここに参上いたしましたよ、マラー閣下」

 グリヴェットさんは深々とお辞儀をした。

「ご用件は?」

「時計のことですよ。おおかた予想はしていたでしょう」

「時計がどうなったかなんて知りっこありませんよ。昨日は一日中その暖炉の鉤にぶら下がっていたんですからね」

「そんなはずはない。昨日は一日中ポケットの中だったんだ。ただし夕方六時に出かける時には、人混みの多いところに行く予定だったから、盗まれるのが嫌で燭台の下に置いておきましたがね」

「燭台の下に置いたんでしたら、今もそこにございますでしょう」

 管理人は自らの言葉を疑いもせず、マラーが時計を隠したという暖炉上の二客の燭台を親切ごかしに持ち上げに向かった。

「ほら、燭台はちゃんとあるじゃございませんか。さて時計は? あら、本当に見当たりませんね。ちゃんとここに置いたんですか、マラーさん?」

「もちろん、そう言ったからには……」

「ちゃんと捜して下さいな」

「とっくに捜しましたよ」マラーは眉をひそめた。

「じゃあ落としてしまったんでしょうねえ」

「昨日、この燭台の下に、時計を置いた。そう言ったはずです」

「じゃあどなたかいらしたんじゃないですか。誰彼なしにお連れして来るんですから!」

「言い訳は結構!」苛立ちを募らせ、マラーが声をあげた。「昨日から誰もここには来ていないのはご存じのはずですがね。あの時計も、最後のステッキの銀の握りや、あの銀のスプーンや、六枚刃のナイフがたどったのと同じ道をたどったんですよ! 盗まれたんです、グリヴェットさん、盗まれたんですよ。散々我慢して来ましたが、これには我慢できません。いい加減にしてもらいましょう!」

「おやマラーさん、もしかしてあたしを責めてるんですか?」

「あなたには私の持ち物を監督しておく義務がある」

「鍵の一つも持ってませんよ」

「だって管理人じゃありませんか」

「月に一エキュで二人分のお仕事をしろと仰るんですか」

「仕事が拙いことを問題にしているんじゃありませんよ。ものが盗まれることを問題にしているんです」

「あたしは正直な人間ですよ!」

「一時間以内に時計が見つからなければ、その正直な人間を警察に引き渡します」

「警察に?」

「ええ」

「あたしみたいな正直者を警察に?」

「正直者、正直者ねえ……」

「ええそうですとも。それについちゃ何にも言うことはありませんよ」

「わかりました、もう結構です、グリヴェットさん」

「わかってますよ! 留守の間にあたしが何かしたんじゃないかとお疑いなんでしょう」

「杖の握りが消えた時から疑っていました」

「じゃあ今度はあたしにも一つ言わせてもらいましょうか」

「何についてです?」

「お留守の間に相談していたことについてですよ」

「相談? 誰に?」

「ご近所の方々にです」

「それはまたどうして?」

「お疑いの件でですよ」

「疑いを口にしたことは一度もなかったが」

「察しはついていましたからね」

「それで? 近所の人たちは何と言っていたんですか。それを聞きたいですね」

「あなたがあたしを疑ったり、誰かに疑いの目を向けたりするようなことをするんでしたら、徹底的におこなうべきだと言われましたよ」

「つまり?」

「つまり、時計が盗まれたという証拠ですよ」

「時計は盗まれたんです。そこにあったものが今はなくなっているんですから」

「ええ、もちろんあたしが盗んだんでしょうよ。でも裁判には証拠が要るんですよ。言葉だけじゃ誰にも信じてもらえませんからね、マラーさん。あなたもあたしたちと同じなんですからね」

 バルサモはいつものように冷静にこの場面を眺めていた。マラーの確信は些かも揺らいではいないように見えたが、声からは勢いが削がれているのがわかる。

「いいですか」管理人はなおも続けた。「あたしを信用なさらないって言うんでしたらね、謝罪なさらないって言うんでしたらね、警察を呼びに行くのはあたしの方ですよ。地主の方もついさっきそう仰ってましたからね」

 マラーは口唇を咬んだ。脅しではないことはわかっていた。地主というのは引退した裕福な老商人で、四階の部屋に住んでおり、近所の噂によれば、かつて妻の料理女だった管理人のことを数十年前から非常に可愛がっているらしい。

 一方のマラーにはいかがわしいつきあいがあった。マラーは清廉潔白とは言えない若者であった。マラーには隠しごとがあった。マラーは警官から疑われていた。警察と関わり合うのは避けたかったし、ド・サルチーヌ氏の手に捕らえられるのは問題だ。マラーのような若者の書いたものを読んだり、そうした文書の作者をヴァンセンヌ、バスチーユ、シャラントン、ビセートルという名の瞑想小屋に放り込むのをこよなく愛しているような人物なのだから。

 それ故にマラーの声は小さくなった。だがマラーの声が小さくなるにつれ、管理人の声は大きくなっていた。いつしか被告人から告発者に立場は変わり、神経質で癇癪持ちな性向が気流に乗った炎のように燃え上がった。

 脅し、呪詛、叫び、涙、ありとあらゆる攻撃が、暴風雨さながらに繰り出された。

 もうそろそろ仲裁すべき頃合いだと感じたバルサモは、部屋の真ん中に立って凄んでいる管理人に近づいた。恐ろしい目つきで睨みつけながら、二本の指を管理人に突き出した。そして口ではなく目を、念を、あらゆる意思を用いて、マラーには聞こえない言葉を発した。

 すぐにグリヴェットさんは口を閉じて、ふらふらと揺れながら後じさりした。目を見開き、磁気の霊力に押し寄せられて、物も言わずに寝台に倒れ込んだ。

 やがて目を閉じ、また開いた。だが焦点は合っていない。言葉は引き攣り、身体はぴくりともせず、手だけが瘧にかかったように震えている。

「病院の時と同じだ!」マラーが声をあげた。

「そうだな」

「では眠っているのですか?」

「静かに!」

 バルサモはマラーに話しかけた。

「今こそ疑いは去り、躊躇いは消えるはずだ。この女が持って来た手紙を拾ってくれ。倒れた時にそこに落ちたんだ」

 マラーは言う通りにした。

「それで?」

「まあ待て」

 マラーの手から手紙を受け取った。

「差出人を知っているか?」バルサモは催眠状態の管理人に手紙を見せた。

「いいえ、知りません」

 バルサモは封の切られていない手紙を管理人に近づけた。

「マラー氏に読み上げてやってくれ。手紙の内容を是非とも知りたいそうだ」

「出来るわけがありませんよ」マラーが言った。

「そうだな。だがお前には読めるだろう?」

「それはそうです」

「よし、では読んでくれ。お前の心に文章が刻み込まれると、それを追ってこの女が読み上げる」

 マラーは手紙を開封して読み始めた。するとグリヴェットさんは立ち上がり、バルサモの全能の力に囚われて震えながら、マラーが目で追っている文章を繰り返した。

 ――親愛なるヒポクラテス殿

 アペレスは最初の肖像画を仕上げたところだよ。五十フランで売れた。今日はこの五十フランでサン=ジャック街の食堂に食べに行かないか?

 もちろん軽く飲めるところだ。

   L・ダヴィッド

 一字一句間違いはなかった。

 マラーは手紙を落とした。

「さあ。これでグリヴェットさんにも魂があり、眠っている間も魂は起きているのはわかっただろう」

「不思議な魂ですね。肉体が読めないものを読むことが出来るなんて」

「魂には何でも出来る。魂はあるがままに写し取ることが出来るからだ。試しにこの女が目覚めたら、つまり肉体がその覆いで魂を包み込んだら、この手紙を読ませてみろ。お前にもわかるだろう」

 マラーは何も言わなかった。自身の持つ唯物観が必死で反撃を試みるが、答えは見つからなかった。

「では一番の問題である、時計の在処に移ろうか。グリヴェットさん、マラー氏の時計を盗んだのはお前か?」

 管理人は激しく否定した。

「何にも知りません」

「知っているはずだ。答えなさい」

 改めてさらに強く念を送った。

「マラー氏の時計を盗んだのは誰だ? 言え」

「グリヴェットさんはマラー氏の時計を盗んでいません。どうしてマラー氏は時計を盗んだのがグリヴェットさんだと思っているのですか?」

「時計を盗んでいないというのなら、誰が盗んだんだ。答えよ」

「知りません」

「意識は最後の砦なんですよ」マラーが評した。

「もうほとんど信じかけているんだろう。もうすぐ確信に変わるはずだ」

 バルサモは管理人に命じた。

「言うんだ」

「まあまあ、無理なことを求めないで下さい」マラーが取りなした。

「聞こえたな。俺は教えてくれと言ったんだ」

 するとこの絶対的な命令を聞いて、管理人は狂人のように腕をよじらせ始めた。癲癇のような震えが身体中に走り出した。口から恐怖と怯えの声を出し、後ろにひっくり返ると、痙攣ひきつけでも起こしたように身体を強張らせ、寝台に崩れ落ちた。

「嫌です、嫌です! 死んでしまった方がましです!」

 バルサモは怒りに燃えて目から炎をほとばしらせた。「死んでもらう時には死んでもらうが、今は話してもらわんとな。それだけ黙りを決めて強情を張られれば、俺たちにとっては証拠も同然なんだが、疑り深い奴らにはもっと確実な証拠が必要なんだ。さあ話せ。時計を盗んだのは誰だ?」

 神経の高ぶりが限度を越えた。管理人は全力でバルサモの意思に歯向かった。不明瞭な叫びをあげ、口の端から赤い泡を吹き出した。

「癲癇を起こしてしまいます」マラーが言った。

「恐れるな。嘘つきの悪魔が女を支配し、出て行こうとしないだけだ」

 バルサモは持てるだけの霊力を管理人の顔に放った。

「話せ。話すんだ。時計を盗んだのは誰だ?」

「グリヴェットさんです」かろうじて聞き取れるだけの声が洩れた。

「いつ盗んだんだ?」

「昨日の晩です」

「時計は何処にあった?」

「燭台の下です」

「時計をどうした?」

「サン=ジャック街に持って行きました」

「サン=ジャック街の何処だ?」

「二十九番地です」

「何階だ?」

「六階です」

「住んでいるのは誰だ?」

「靴屋の見習いです」

「名前は?」

「シモン」

「何者だ?」

 管理人は口を閉ざした。

「何者だ?」バルサモは繰り返した。

 沈黙が続く。

 バルサモが霊力を溜めた手をかざすと、この攻撃を受けた管理人は、ようやくのことで弱々しく呟いた。

「愛人です」

 マラーが驚きの声をあげた。

「静かに! 意識に話をさせるんだ」

 バルサモはぶるぶると震えている汗まみれの女になおも話しかけた。

「グリヴェットさんに盗みをそそのかしたのは誰だ?」

「誰でもありません。たまたま燭台を持ち上げたんです。時計が見えたので、悪魔が囁いたのです」

「金に困っていたのか?」

「違います。時計は売りませんでしたから」

「では只でやったんだな?」

「そうです」

「シモンに?」

 管理人は歯を食いしばった。

「シモンに」

 管理人は両手で顔を覆って溢れる涙を受け止めた。

 バルサモがマラーを見ると、口をぽかんと開け、髪を振り乱し、目を見開いて、この恐ろしい光景を見つめていた。

「どうだ。魂と肉体の相克を見た感想は。難攻不落かと思われた砦にいても、意識は打ち破られただろう? 神はこの世に何一つ忘れることはなかったし、あらゆるものがあらゆるものの内にあるのもわかっただろう? もはや意識を否定すまいな。もはや魂を否定するな。もはや知らぬことを否定するな。なかでも信じることを否定するな、それこそ最高の力だ。野心を持っているのなら、学ぶことだ、マラーよ。言葉を控えて考えることに努めろ。目上の人間を軽んじるのはよせ。さらば、俺の言葉によって広い地平が開けたはずだ。その土地をくまなく探せ。幾つもの宝が埋まっている。さらば。心に巣食う懐疑の悪魔を打ち負かすことが出来れば、きっと運は開ける。俺がこの女に巣食う嘘つきの悪魔を打ち負かしたようにな」

 立ち去り際にバルサモが残したこの言葉を聞いて、マラーの頬は屈辱で真っ赤になっていた。

 別れを告げることさえ頭に浮かばなかった。

 だがようやく我に返ると、グリヴェットさんがまだ眠っていることに気がついた。

 この眠りにはぞっとする。たといド・サルチーヌ氏にどう解釈されようと、死体が寝転がっている方がましだった。

 弛緩した身体、白目を剥いた目、荒い呼吸を見ると、怖くなった。

 生ける死体が起き上がって、近づいて手をつかんだ時には、恐怖が頂点に達した。

「一緒に来て下さい、マラーさん」

「何処まで?」

「サン=ジャック街に」

「何故です?」

「来て下さい。あなたを連れて行くように命じられているんです」

 椅子に倒れ込んでいたマラーが立ち上がった。

 するとグリヴェットさんは眠ったまま扉を開け、鳥や猫の如く飛ぶように階段を降りた。

 グリヴェットさんが転んで頭を割るんじゃないかと冷や冷やしながら、マラーも後を追った。

 階段の下まで来ると、戸口を越えて通りを横切り、マラーを一軒の家まで案内して屋根裏を指さした。

 管理人が扉を敲いた。マラーの心臓が激しく打ちつけ、その音が聞こえそうなくらいだった。

 屋根裏には一人の男がいた。扉を開けたのは二十代後半から三十歳くらいの労働者だ。以前に管理人室で見たことがある。

 グリヴェットさんの後ろにマラーがいるのを見て、男は後じさった。

 だが催眠状態の管理人はまっすぐに寝床に向かい、粗末な長枕の下に手を突っ込み、時計を引っぱり出してマラーに手渡した。靴屋のシモンは恐怖で青ざめ、口を利こうともせぬまま、気が狂ったに違いない女の一挙手一投足に困惑した眼差しを向けていた。

 時計を返そうとマラーの手に触れた途端、管理人は深い息をついて呟いた。

「眠りが解けます」

 その言葉通り、滑車から滑り落ちた縄のようにすべての神経が緩み、目には生命の火が舞い戻った。マラーと向かい合って手をつかみ、時計という動かせない犯罪の証拠を持っていることに気づくと、気を失って屋根裏の床にひっくり返った。

「意識など本当に存在するのだろうか?」部屋から出たマラーの心には疑いが、目には夢想が浮かんでいた。

『ジョゼフ・バルサモ』 106

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百六章 魂と肉体

 誰もが驚きの目で患者を見つめ、感嘆の目で医者を見つめていた。

 二人とも気が狂ったのではないかと思った者もいたくらいだ。

 マラーがそうした気持をバルサモの耳に伝えた。

「恐怖のあまり正気を失ってしまったのですよ。だから痛がっていないだけです」

「そうは思わんな。正気を失ったどころか、尋いたらちゃんと答えてくれるだろうぜ。死ぬのだとしたらいつ死ぬのか、死なないのだとしたら快復するのはいつ頃のことなのか」

 マラーの感じたことは全員の気持を代辯していた。即ち、気が狂っているのは患者ではなくバルサモの方だ、と。

 そうしている間にも、外科医は血が溢れている動脈を縛っていた。

 バルサモはポケットからガラス壜を取り出し、綿紗ガーゼの上に数滴の液体を垂らすと、その綿紗を動脈に当てるよう執刀医に伝えた。

 執刀医は不思議がりながらも言われた通りにした。

 当時有数の臨床医であり、心から科学を愛する人間であったため、謎をそのままにしておくことなど出来なかったし、彼にとって偶然とはすべてを疑ってかかった後の妥協案でしかなかったのである。

 綿紗を動脈に押し当てると、動脈が震えて泡立ち、血はぽつりぽつりと流れるだけになった。

 そのおかげで血管を縛るのも極めて簡単だった。

 今度こそ、勝利を手に入れたのはバルサモであった。いったい何処で学んだのか、何処の出なのかを、誰もが口々にたずねた。

「俺はゲッティンゲン大学のドイツ人医師だ。ご覧いただいた事実はしばらく前に発見していた。だが同業者諸君、俺はこの発見をまだ秘密にしておきたいのだ。何しろ薪が嫌なんでね。パリ高等法院の奴らは、魔女に火あぶりを命じる味が忘れられなくて、何度でも同じような判決を下すだろうからな」

 執刀医は先ほどからぼうっとしたままだった。

 マラーも呆然として考え込んでいた。

 だが最初に口を開いたのはマラーだった。

「手術の結果について患者にたずねたなら、確実に答えるはずだ、と先ほど仰いましたね。将来的にどういう結果がもたらされるかはまだわからないというのに」

「そのことなら何度でも繰り返そう」

「いいでしょう」

「患者の名前は?」

「アヴァールです」

 バルサモはまだ歌の結びを繰り返していた患者に向かってたずねた。

「このアヴァールの様子から、どんなことがわかる?」

「アヴァールの様子から何がわかるか、ですか? 以前はブルターニュにいましたが、戻って来て、今は施療院にいます」

「その通りだ。施療院に入って、アヴァールを見て、わかる事実を教えてくれ」

「あっ、怪我人です。かなりの重傷で、足が切断されています」

「確かだな?」

「はい」

「手術は成功したか?」

「成功しました。ですが……」

 患者の顔色が曇った。

「だが、何だ?」

「ですが、高熱という恐ろしい試練が待ち受けています」

「いつ?」

「今晩七時です」

 医者たちが顔を見合わせた。

「熱を出してどうなる?」

「熱を出してひどく苦しみますが、最初の発作は乗り切ります」

「間違いないな?」

「ええ、間違いありません」

「その後で助かるのか?」

「残念ながら、違います」患者はため息をついた。

「熱がぶり返すんだな?」

「そうです! 考えられないほどの高熱が。哀れなアヴァール、可哀相に、妻も子供もあるのに!」

 患者の目に涙が浮かんだ。

「すると妻は寡婦になり、子供たちは孤児になるんだな?」

「待って下さい!」

 患者は手を合わせた。

「いえ、違います」

 患者の顔が敬虔な輝きに満たされた。

「妻と子供の熱心な祈りが報われ、アヴァールに神の恩寵がもたらされます」

「では快復するのか?」

「ええ」

「お聞きの通りだ、諸君。患者は快復する」

「何日かかるのか尋いて下さい」マラーが言った。

「何日かかるかだと?」

「ええ。快復の段階と期間を本人から教えてもらえるのでしょう」

「それをたずねるに如くはないな」

「ではおたずね下さい」

「アヴァールが全快するにはどれくらいかかりそうだ?」

「ええ……全快には長い時間がかかります。待って下さい。一か月、六週間、二か月。ここに入ったのが五日前でした。出て行くのは、入ってから二か月と二週間後です」

「全快して出て行くんだな?」

「はい」

「ですが、働くことが出来ない以上、妻と子を養うことも出来ないではありませんか」とマラーが指摘した。

「ああ、慈悲深い神は必要なものを賜ります」

「どのように?」マラーがたずねた。「今日は何でも学ぶつもりですから、是非とも学ばせてもらいましょう」

「神は枕元に憐れみ深い人間をお遣わしになり、『哀れなアヴァールに不自由をさせるつもりはない』と囁かれました」

 医者たちが顔を見合わせ、バルサモがニヤリと笑った。

「我々が不思議な光景に立ち会ったのは間違いない」執刀医は患者の手を取り、心音を確かめ、額に手を当てた。「この男は夢を見ているのだ」

「そう思いますか?」

 バルサモは威厳に満ちた猛々しい眼差しを患者に向けた。

「起きろ、アヴァール!」

 若者はぎこちなく瞼を開き、驚いて医者たちを見つめた。みんな先ほどまでの威圧感が嘘のように、すっかりおとなしくなっている。

「何だ、まだ手術は始まっていないんですか? これから痛めつけようというんですね?」患者は辛そうな声を出した。

 バルサモが慌てて声をかけた。昂奮させるのはまずい。だが慌てる必要もなかった。

 ほかに口を開いた者はいなかった。それほど驚きが大きかったのだ。

「まあ落ち着いて聞いてくれ。執刀医の先生が足の手術をおこない、すべては上手く行った。気力が衰えていたんだろうな。最初のメスを入れる前に、意識を失っていたんだ」

「それは却ってありがたい」ブルターニュ人の患者は喜んだ。「何も感じなかったんですから。むしろ眠っている間は健やかで体力も戻った気がしますよ。運がよかったな! 足を切られずに済むんですから」

 だが次の瞬間、患者は自分の身体に目をやり、血塗れの手術台と切断された足を見つけた。

 悲鳴をあげて、今度こそ本当に意識を失った。

「声をかけてくれ」バルサモは落ち着いてマラーに命じた。「返事があるか確かめるんだ」

 それから執刀医を部屋の隅に引っ張って行った。そうしている間にも、看護士たちが若い患者を寝台に戻している。

「先生、患者の言ったことはお聞きになりましたね?」

「ああ、快癒するようですね」

「それだけではありません。神が慈悲をかけて下さり、妻と子供を養うのに必要なものを用意すると言っていましたよ」

「つまり?」

「要するに、患者が真実を口にしていたのは、この点もほかの点と変わりないということなんです。あなたには、患者と神の間の慈悲を仲立ちする仲介人になってもらいたいのです。ここに二万リーヴル相当のダイヤモンドがあります。患者が直ったら、これを売って、お金を手渡してもらいたい。何しろ、教え子のマラー氏がいみじくも言っていたように、魂が肉体に及ぼす影響には並々ならぬものがありますから、やがてアヴァールが快復したら、本人の未来も子供たちの未来も安心だと、しっかりと伝えてもらいたいのです」

「ですが……」外科医は差し出された指輪に手を伸ばすのを躊躇った。「もし快復しなかったら?」

「快復は確実です!」

「だが受け取りをお渡ししなくては」

「先生……!」

「こんな高価な指輪をお預かりするのなら、それだけは譲れません」

「ではご自由に」

「あなたのお名前は?」

「ド・フェニックス伯爵」

 外科医が隣室に向かうと、マラーがまだ愕然として戸惑ってはいたものの、それでも目の前の事実と折り合いをつけようとしながら、バルサモに近づいて来た。

 五分後、戻ってきた外科医が手に持っていた紙をバルサモに手渡した。

 次のような文面の受け取りである。

「私はド・フェニックス伯爵より、二万リーヴル相当と本人より申告されしダイヤモンドを、アヴァールなる名の患者が施療院より退院する日に、手渡さんがために、受け取ったことを証明す。

 医学博士ギヨタン、一七七一年九月十五日」

 バルサモは一礼すると、受け取りを手に、マラーを連れて外に出ようとした。

「頭を忘れているぞ」若き外科医がぼんやりしているのを見て、バルサモが声をかけた。

「ああ、そうでした」

 マラーは不吉な荷物を回収した。

 通りに出ると、二人とも物も言わずに足早に歩き続けた。コルドリエ街に着くと、急な階段を二人して上り、屋根裏に向かった。

 管理人小屋――それは小屋の名前に相応しい穴蔵だったが、その前まで来ると、時計を失くしたことを忘れていなかったマラーは、立ち止まってグリヴェットさんにたずねた。

 十七、八歳のひょろひょろと痩せっぽちの少年が、がらがら声でそれに答えた。

「母ちゃんは出かけてます。先生が戻って来たら、この手紙を渡してくれって言ってました」

「いや、自分で持って来るように言ってくれないか」

「わかりました、先生」

 マラーとバルサモは先に進んだ。

「驚きました!」マラーはバルサモに椅子を勧め、自らは脚立に身体を預けた。「恐ろしい秘密をご存じだったんですね」

「他人より早く、自然や神の秘密に分け入っていたに過ぎんよ」

「科学によって人間が全能であることが証明されるとは! 人間であることを誇りに思うべきです!」

「そうだな。だが先生、つけ加えることがあるだろう」

「もちろん、あなたを誇りに思っております、親方マスター

「そうは言っても、俺は魂の医者でしかない」バルサモはニヤリと笑って答えた。

「それは通りませんよ。物理的な方法で血を止めたのはあなたなんですから」

「患者が苦しまなかったのは俺が最善の選択をしたからに過ぎん。お前の方は、患者の気が狂ったのだと断言していたな」

「一瞬だけ気が狂っていたのは確かです」

「狂気とは何だ? 魂が何処かに行ってしまうことではないのか?」

「或いは精神が」

「それはどうでもいい。『魂』というのは俺の言いたい言葉を言い表すのに都合がいいだけだ。探しているものが見つかってしまえば、それがどう呼ばれようと構わん」

「それには同意できませんね。探していたものが見つかり、後はそれを表現する言葉を探すだけだと仰いますが、探しているのは言葉とものの両方だとしか思えません」

「そのことは後で話そう。狂気とは一時的に精神が何処かに行ってしまう状態のことだと言ったな?」

「その通りです」

「自発的にではなく。そうだな?」

「そうです……私はビセートルで狂人を見たことがあります。鉄製の柵を齧りながら、『おい料理人、この雉の肉は柔らかいが、ちゃんと火が通ってないぞ』と叫んでいました」

「しかしだな、狂気とは精神をよぎる雲のようなものであり、雲が晴れれば精神も初めの明るさを取り戻すことは認めるだろう?」

「そうなることは滅多にありません」

「だがさっきの患者は狂気の眠りから覚めて、完璧に理性を取り戻したではないか」

「確かにそれを目にしましたが、自分の見たものがまったく理解できないのです。あれは極めて稀な症例であり、ヘブライ人が奇跡と呼んだ出来事なのでしょう」

「それは違う。あれは魂の一時的な不在、つまり物質と精神が二重に断絶したに過ぎん。物質とは不活性なもので、いずれ塵に還る塵だ。魂とは肉体という角灯に一時的に閉じ込められた神聖な火花であり、天の娘。いずれ肉体が朽ちれば天に還るものだ」

「ではあなたは一時的に肉体から魂を引き出したと言われるのですか?」

「そういうことだ。俺は魂に向かって、囚われている惨めな場所から離れるように命じてやった。苦しみと痛みの淵から魂を引き出してやり、自由と純粋の世界に旅立たせてやった。だとしたら外科医に残されているのは何だろうな? 死んだ女からその頭部を切り離した際に、お前のメスに残されているものは、ただの不活性な肉体、物質、粘土に過ぎんのではないか」

「ではいったい何者の名において魂を操っていたというのですか?」

「一吹きであらゆる魂を創造した者の名において。世界中の魂、全人類の魂を創造した、神の名において」

「ではあなたは自由意思を否定するのでしょうか?」

「俺が? おいおい、ではさっきまで俺は何をしていたんだ? 一方では自由意思を見せてやり、一方では魂が一時的に不在であることを見せてやったじゃないか。ひどい苦しみに冒されて死にかけている患者がいた。あの男は気丈な魂の持ち主だったから、手術に立ち向かい、挑み、耐え、そしてなお苦しんでいた。これは自由意思のためだ。だが俺が男に近づいた。神の遣いにして、予言者、使徒であるこの俺が、同胞を哀れに思い、主から授かった力を使って、苦しんでいる肉体から魂を取り出したのだ。そうすることによって、目も見えず不活性で無感覚な肉体は、魂にとっては純粋な世界の高みから見下ろす光景に過ぎなくなった。アヴァールの言ったことを聞かなかったのか? アヴァールは自分を『哀れなアヴァール』と呼んだではないか! 『私』とは言わなかった。あれはつまり、魂が既に肉体から離れ、天に近いところにいたのだ」

「ですがそうなると、人間には何もなくなってしまうではありませんか。独裁者に向かって、『お前には私の肉体を自由にすることは出来ても、私の魂を自由にすることは出来ぬ』とすら言えなくなってしまいます」

「まったくお前は事実から詭弁をひねり出す奴だな。それが欠点だと言ったではないか。神が肉体に魂を貸与したことは事実だが、魂が肉体に宿っている間は二つは一つであり、魂が肉体に影響を与え、物質が精神を支配しているのも、また事実だ。神は俺たちにはわからない考えに基づいて、肉体が王であることも魂が女王であることも禁じてはいないのだ。だが乞食に生命を与える息吹が、王を死なせる息吹とまったく同様に純粋であるのもまた事実だ。それがお前ら平等教徒の唱えたがっている教義なんだろう。二つの霊的精髄の間の平等を証明してみるがいい。幾らでも証明できるだろう。この世にはそのために利用できる神聖なものが幾つもあるんだからな。聖書、伝統、科学、信仰。二つの物質が平等かどうかなどはどうでもいい! 肉体の平等など神の前でごまかせはしないんだ。ついさっきあの患者は、つまり何も知らぬ大衆の落とし子は、自分の容態について、医者たちの誰も言おうと出来なかったことを口にしただろう。何故だかわかるか? それは魂が一時的に肉体のくびきから解放され、地上を滑空し、俺たちの無智を覆っていた神秘を上から見下ろしていたからだ」

 マラーは卓上に置いた死者の首をいじりながら、答えを見つけ出そうとしていた。

「そうですね。そこには何か超自然的なものがあるのでしょう」ようやく言えたのはそれだけだった。

「自然であって、超自然などではない。魂が生来持っている機能を超自然と呼ぶのはよせ。至って自然なこの機能は、機知のものに過ぎん」

「あなたには神秘でも何でもないのでしょうが、多くの人間にとっては未知のものなのです。ペルー人には未知の馬も、イスパニア人には馴染みがあって、よく調教されていたのですから」

「『知っている』と口にするのは自惚れになろう。俺はもっと謙虚に『信じている』と表現しよう」

「つまり、何を信じているのです?」

「俺が信じているのは、あらゆるものの中でもっとも優れてもっとも強力な原理、つまり進歩という原理を信じている。神はほかならぬ幸福や徳を目的として創造したのだと信じている。だがこの世にはあまりにも多くの命があるから、進歩はのろい。聖書によれば、印刷術によって過去を反射し未来を照らす巨大な灯台が出現した時には、俺たちの星は誕生から六十世紀を数えていたそうじゃないか。印刷術のおかげで、無智や忘却とは無縁になった。印刷術とはこの世界の記憶だ。グーテンベルクが印刷術を発明してくれたおかげで、俺は再び信じることが出来るようになったんだ」

「どうやら将来的には心を読めるようにもなりそうですね?」マラーが冷やかすようにたずねた。

「出来ない理由はない」

「すると、多くの人々があれほど覗きたいと願って来た、あの小さな穴を人間の胸に開けたりなさるんでしょうね?」

「それには及ばん。肉体から魂を切り離せばいい。後は魂という純粋にして無垢な神の娘が、それまで動かしていた人間の包みがどれだけ卑しいかをたっぷりと教えてくれる」

「物理的な秘密も明らかになると?」

「いけないか?」

「例えばですが、私の時計を盗ったのが誰かわかるのですか?」

「これはまた科学をえらい水準に引き下げてくれたな。まあいい! 神の偉大さは砂粒でも山でも同じように証明できるし、蚤でも象でも同じことだ。いいだろう。時計を盗った奴を教えてやる」

 ここで扉を叩く音がした。管理人が言われた通りに手紙を持って来たのだ。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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