アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
第百十章 トリアノンの舞台裏
旅の環境など気にはならない。だから当然、ルソーはスイス人、見習い店員、中産市民、僧侶と道中を共にしていた。
到着したのは夕方の五時半頃だった。宮廷の人々は既にトリアノンに集まって、声の調子を確かめながら国王を待っていた。実際のところ作者のことなど問題にもされていなかった。
なかにはジュネーヴのルソー氏が稽古をつけにやって来たのだとちゃんと知っている者もいた。だが相手がルソー氏であろうと、ラモー氏であろうとマルモンテル氏であろうと、サロンや自宅で目を楽しませるような珍しい動物であろうと、興味がないのは変わらなかった。
ルソーを出迎えた取次は、ルソーが来たらすぐに知らせるようにとド・コワニー氏から命令されていた。
ド・コワニー氏がいつものように礼儀正しく駆け寄って、心を込めてルソーを歓迎した。しかしひとたびルソーに目を向けるとぎょっとして、思わず確かめ直さずにはいられなかった。
ルソーは埃まみれで、皺くちゃで、真っ青な顔に生えている世捨て人のような髭だけが目立っていた。未だかつてヴェルサイユの鏡に式典の主役がこのような姿を映したことなど一度もあるまい。
ルソーはド・コワニー氏に見つめられて決まり悪そうにしていたが、舞台のある部屋に入ると、ますます気まずい思いを強くした。そこで目にしたきらびやかな衣装、ふんだんなレース、ダイヤモンドや青いリボンは、金ぴかに彩られた部屋の中で、あたかも巨大な籠に入れられた花束のようだった。
ルソーは龍涎香の満ちた空気を吸い込んで居心地が悪くなった。庶民の感覚にとっては繊細な魔力に満ちていた。
それでも足を進めて立ち向かわなくてはならない。幾つもの視線がこの場の汚点となっているルソーに注がれていた。
ド・コワニー氏が先に立ってオーケストラ席に案内すると、そこには演奏者が待機していた。
そこに来ると多少は気が楽になったので、自分の曲が演奏されているのを聴きながら、さっきまでの自分は危険の真っ直中におり、万事休して、理性という理性が手も足も出ない状態だったのだと、本気で考えた。
王太子妃殿下は既にコレットの衣装を着て舞台に上がり、コランを待っていた。
ド・コワニー氏がボックス席の中で衣装に着替えている。
ここで国王が現れ、周りの人々が一斉に頭を下げた。
ルイ十五世は笑みをたたえてかなり上機嫌に見える。
王太子がその右側に、ド・プロヴァンス伯爵が左側の席に着いた。
五十人ほどのごく身内の集まりが、国王の合図で着席した。
「まだ始めておらぬのか?」ルイ十五世がたずねた。
「羊飼いの男女がまだ着替えを終えておりませんから、待っておりますの」王太子妃が答えた。
「普段着でよかろう」
「駄目ですわ、陛下」王太子妃が舞台の上から答えた。「舞台上の効果をしっかり確認するために、照明の下で衣装を確かめたいんですもの」
「なるほどその通りだ。ではちょっと見て回ろう」
ルイ十五世は立ち上がって回廊や舞台を見に向かった。それに、デュ・バリー夫人がまだ姿を見せないのも気がかりだった。
国王がボックス席から立ち去ると、ルソーは憂鬱な気持で心臓を鷲づかみにされ、こんな広い部屋で自分は独りぼっちなのだと考えないわけにはいかなかった。
危惧していたような歓待とはあまりにも対照的だった。
歩く先で人垣が割れるのではないか、パリ市民にも増して引きも切らずに好奇心も露わにされるのではないか、質問や紹介責めにされやしないかと想像していたのだ。ところがルソーを気に留める人など一人もいない。
髭もそれほど伸びているとは思わなかったし、襤褸切れであってもこの古い服装同様に目立たないはずだと感じていた。洗練されているという自負もまんざらではないと自画自賛していたのである。
しかしながらその実は、贔屓目に見てもせいぜい楽団長並みだと考え直して、ひどく恥ずかしい思いをしていたのである。
突然一人の廷臣が近づいて来て、ルソーさんではないですか、と声をかけた。
「ええ、そうです」
「王太子妃殿下がお話しになりたいそうです」
ルソーは感激して立ち上がった。
王太子妃はコレットの楽譜を手にして待っていた。
幸せをすっかり失ってしまった
ルソーに気づいて王太子妃が近づいて来る。
ルソーは極めて慇懃に挨拶をしながらも、自分は大公女ではなくただのご婦人に挨拶をしているのだと言い聞かせた。
王太子妃の方でも、欧州の貴族と交わすように淑やかに、粗野な哲学者と挨拶を交わした。
コランに見捨てられてしまった……
という三行目の抑揚について助言を求められて、ルソーは発声や歌い方にういてあらん限りの知識を動員して持論を披露したが、国王と侍従たちががやがや言いながら戻って来たために尻切れ蜻蛉に終わった。
ルイ十五世は哲学者の講義を受けていた王太子妃のところを訪れた。
国王がみすぼらしいなりの人物を見て最初に取った言動は、ド・コワニー氏が見せたものとまったく同じだった。ただしド・コワニー氏には相手がルソーであることがわかっていたが、ルイ十五世は知らなかった。
そんなわけだから、王太子妃の讃辞と謝辞を一身に受けているこの自由人を、国王はしげしげと見つめた。
何物を前にしても伏せることなどない国王の威厳に満ちた眼差しに見つめられて、ルソーの目に迷いと怯えが生じた。
国王が観察を済ませるのを待ってから、王太子妃はルソーのそばに歩み寄った。
「わたしたちの作曲家を陛下に紹介させていただけますか?」
「そなたたちの作曲家だと?」国王は記憶を探る素振りを見せた。
話が続いている間も、ルソーは焼けた薪の上にいるような居たたまれない気持だった。国王の眼差しは、王国でもっとも偉大な著述家の、伸びた髭や、薄汚い胸飾りや、埃や、乱れた鬘の上に、レンズを通した太陽光のように、ひりひりとした光を次々に突き立てていた。
王太子妃はルソーが気の毒になった。
「ジャン=ジャック・ルソーさんです。わたしたちが陛下の御前で演じるオペラの作者ですわ」
国王が顔を上げた。
「ほう!」国王の反応は素っ気なかった。「ルソーさん、どうぞよろしく」
それから国王は、ルソーの身なりが如何にひどいかを本人に伝えようとでもするかのように、なおもじろじろと見つめ続けた。
ルソーはフランス国王にどのように挨拶すればいいのか考え込んだ。何と言っても王国の宮殿にいるのは間違いないのだから、胡麻をするまでのことはなくとも、不作法にはならぬようにしなくてはいけない。
しかしながらルソーがこうして理屈をこねている間にも、国王はまことに王族らしい鷹揚さでルソーに話しかけた。話の内容が相手にとって愉快なものか不愉快なものかに関わらず、そうした話し方をするのが王族というものだ。
ルソーは答えることも出来ずに固まってしまった。専制君主のために用意して来た言葉もすっかり忘れてしまったのである。
「ルソー殿」国王はなおもルソーの身なりと鬘を見つめたまま話しかけた。「そなたがいつも素晴らしい音楽を作ってくれるおかげで、余はいつも快適な時間を過ごさせてもらっておる」
そう言って、音感も抑揚もてんでなっていない声で歌い始めた。
村の好き者の
声に耳傾ければ、
ああ簡単に
別の恋も手に出来るのに!
「本当に素晴らしい!」歌い終えた国王が言った。
ルソーが頭を下げた。
「どうしたら上手く歌えるかしら」王太子妃がたずねた。
ルソーは王太子妃の方を振り返って恭しく助言しようとした。
だが国王がふたたび声を出して、コランの歌を歌い出した。
暗い我が家には
不安が絶えない。
風も陽も冷気も、
加減を知らない。
国王陛下は歌手としては下手くそだった。ルソーは国王が歌を覚えていることを半ば嬉しがり、ひどい歌に半ば傷ついて、玉葱を齧って半笑い半泣きしている猿のような顔になった。
王太子妃はさすがに動じず平然としている。
国王は何一つ気にせず歌を続けた。
コレット、我が羊飼い、
君が暮らしてくれるなら、
コランの侘び住まいでも
後悔など何もない。
ルソーは顔が赤らむのを感じた。
「さて、ルソー殿」と国王が言った。「時々アルメニア風の恰好をしているというのは本当かね?」
ルソーは一層赤くなり、王国のためにならぬことでも言おうとしたのか、喉の奥で言葉を詰まらせた。
国王は返事を待たずに歌い出した。
嗚呼! 人にとって
愛とはとんとわからぬもの、
許されようと、許されまいと。
「確かプラトリエール街に住んでおったな?」
ルソーはうなずいたが、それが限界だった……これほどまでに堪えたことはかつてなかった。
国王が口ずさむ。
可愛い子、可愛い子……
「そなたはヴォルテールと仲が悪いそうだな、ルソー殿?」
今度こそルソーはわずかに残っていた落ち着きを失い、すっかり取り乱してしまった。国王はそんなルソーを憐れんだ様子もなく、ひどい音楽狂ぶりをひけらかしたまま、歌いながらその場を後にした。
楡の木陰に踊りに行こう、
楽しむがいい、娘さんがた、
アポロンがマルシュアスを殺したように、アポロンをも殺すほどの調べをオーケストラが伴奏した。
ルソーは一人ぽつんと取り残された。王太子妃は衣装の最後の仕上げをするために立ち去っていた。
ルソーはつまずきながら手探りで廊下に戻ったが、その真ん中で、ダイヤや花やレースで着飾った男女にぶつかった。その若い男が腕を若い女にぴったり絡めていたにもかかわらず、二人は廊下を占領していたのだ。
若い女性はレースを震わせ、大きな帽子をかぶり、扇子を持ち香水を漂わせ、星のように輝いていた。ルソーがぶつかったのはこの女性であった。
若い男性は痩せて上品で感じがよく、イギリス製の胸飾りの上に青綬が押しつけられていた。気取りのない好ましい笑い声をあげたかと思うと、時にはひそひそと小声で耳打ちして女性を笑わせているのを見れば、二人がどれだけ理解し合っているかがわかろう。
ルソーはこの美しく魅力的なご婦人がデュ・バリー伯爵夫人であることに気づいた。一目見た途端それだけに集中してしまう癖のせいで、連れの姿は目に入らなくなった。
青綬の男性はほかならぬダルトワ伯であり、祖父の寵姫と心底楽しそうにじゃれ合っているところであった。
デュ・バリー夫人はルソーの冴えない姿を目にして声をあげた。
「まあ!」
「どうしました?」ダルトワ伯も哲学者を見つめた。
そうしながらも伯爵夫人に手を伸ばしてさり気なく道を開けていた。
「ルソーさんだわ!」
「ジュネーヴのルソーですか?」ダルトワ伯が休暇中の学生のような声でたずねた。
「ええ、殿下」
「初めまして、ルソー殿」ルソーが廊下を通り抜けようと盲進しているのを横目に、ダルトワ伯が声をかけた。「初めまして……これからあなたの音楽を聴きに行くところですよ」
「殿下……」ルソーは青綬に目を留めてもごもごと呟いた。
「ねえ、ほんと素敵な音楽じゃありません?」伯爵夫人が言った。「作者の狙いと心がぴったり一致してるんですもの!」
ルソーは顔を上げて、伯爵夫人の燃えるような眼差しと目を合わせた。
「マダム……」ルソーはむっつりとした口を利いた。
「私がコランを演じますから、コレットを演じて下さいませんか、伯爵夫人」とダルトワ伯が言った。
「喜んで。でもあたくしは俳優じゃありませんもの、巨匠の音楽を汚すわけには参りませんわ」
ルソーはなおこれでもかと言わんばかりに睨みつけていたが、伯爵夫人の声やお世辞や美しさに心を釣られそうになっていた。
逃げ出したい。
「ルソー殿」ダルトワ伯が道をふさいで声をかけた。「コランの台詞を指導していただけませんか」
「コレットの台詞を指導していただくわけには参りませんわ」伯爵夫人が遠慮するふりをしたので、ルソーはすっかりしょげてしまった。
しょげながらも、両の目で理由を問いつめていた。
「嫌われちゃったみたいね」伯爵夫人がダルトワ伯にうっとりするような声で話しかけた。
「まさか! あなたを嫌う者などいませんよ」
「だってご覧になってよ」
「ルソー殿は誠実な人柄と嬉しさのあまり、魅力的なご婦人に気兼ねしているんですよ」ダルトワ伯が言った。
ルソーは今まさに息を引き取るのではないかと思われるような、大きな溜息をつくと、ダルトワ伯がつい壁際に作ってしまった隙間を通り抜けた。
だがその晩のルソーはついていなかった。四歩も進まぬうちに、また新たな一組にぶつかったのである。
今度は男性の二人連れだった。一人は年配で、一人は若い。若い方は青綬を身につけ、見たところ五十半ばらしき人物は赤い服を身につけ緊張して青ざめていた。
この二人のところにも、ダルトワ伯の陽気な笑い声が届いていた。
「ああ、ルソー殿! まさか伯爵夫人からお逃げになるのですか。まったく、そんなこと誰にも予想できませんよ」
「ルソー?」と二人組が呟いた。
「捕まえてくれませんか、兄上」ダルトワ伯が笑いながら声をかけた。「捕まえて下さい、ド・ラ・ヴォーギヨン殿」
それでルソーは、不運の星によって如何なる岩礁に乗り上げたのかを理解した。
それはド・プロヴァンス伯爵とフランス王子の教育係であった!
斯くしてド・プロヴァンス伯はルソーの行く手を遮り、
「今晩は」と、一言だけ智的な響きの声をかけた。
ルソーは慌てて頭を下げ、もごもごと呟いた。
「これでは何処にも行けない!」
「お会い出来て何よりです」教師が出来の悪い生徒を見つけ出した時のような声を出した。
――まただ。とルソーは考えた。馬鹿らしいお世辞ばかりだ。どうしてこの人たちはつまらないことばかり言うのだろう!
「タキトゥスの翻訳を読ませてもらいましたよ」
――ああ、そうだった。とルソーは呟いた。この人は学者肌だったのだ。
「タキトゥスの翻訳が難しいのはご存じでしたね?」
「殿下、恐れながらそのことは序文に書いておきました」
「ああ、わかっていますよ。ラテン語は苦手だと仰ってましたね」
「その通りです、殿下」
「ではどうして翻訳しようと?」
「文体練習でございます」
「ははあ! 『imperatoria brevitate』を『重々しく簡潔な演説』と訳すのは間違っているのではありませんか」
ルソーは不安になって記憶を探った。
「そうでしたよ」サルマシウスの中に間違いを見つけた老学者のような、落ち着き払った口振りだった。「確かにそんな風に訳していました。ピソが兵士に演説している場面です」
「するといったい?」
「つまりですね、『imperatoria brevitate』とは、将軍のように簡潔なこと……常日頃から命令を出し慣れているような話し方のことなんです命令的簡潔……という呼び方でよかったかな、ド・ラ・ヴォーギヨン殿?」
「間違いありません、殿下」教育係が答えた。
ルソーが無言でいると、プロヴァンス王子はなおも言った。
「決定的な間違いですよ、ルソー殿……それにもう一箇所ありそうです」
ルソーは青ざめた。
「カエキナについて書かれた場面です。『At in superiore Germania』……カエキナの人となりを説明するに当たって、タキトゥスは『Cito sermone』と言っています」
「よく覚えております」
「あなたは『雄弁』と訳していましたが……」
「確かにわたしは……」
「『Cito sermone』とは『端的に話す』、つまり『率直』という意味ではありませんか」
「『雄弁』と申し上げましたが」
「それなら『decoro sermone』や『ornato sermone』や『eleganti sermone』と書かれるべきではありませんか。『Cito』というのは絵的な表現です。オトが様々に振る舞うを描くのに相応しい。タキトゥスは『Delata voluptas, dissimulata luxuria cunctaque, ad imperii decorem composita.』と言っていますね」
「わたしはそれを、『絢爛と悪徳に身をやつし、帝国の栄光を取り戻さんとして人々を驚かさん』と訳しました」
「違います、違います。そもそもあなたは三つの短文を一つにしてしまっている。そのせいで『dissimulata luxuria』を誤って訳してしまい、さらには最後の部分を誤って解釈してしまっています。タキトゥスは皇帝オトが帝国の栄光を取り戻そうとしていたとは言っていません。もはや快楽に満足できず、豪奢な生活を匿い、オトがすべてに甘んじ、すべてを承知し、すべてを変えさせた……すべて、つまり快楽や悪徳さえも、帝国の栄光の一部なんです。複雑な意味合いの文章を、単純に捉えてしまっているんです。そうですね、ド・ラ・ヴォーギヨン殿?」
「間違いありません、殿下」
ルソーはこの容赦ない攻撃に汗を垂らしてあえいでいた。
プロヴァンス王子はルソーが一息つくのを待って、さらに続けた。
「あなたは哲学者の中でも優秀な方だ」
ルソーは頭を下げた。
「ただし『エミール』だけは危険な書物です」
「危険、ですか、殿下?」
「誤った思想をブルジョワに広めるという意味でね」
「殿下、父親になれば誰もが、あの本のような状態になるのです。大貴族であれ、底辺の庶民であれ……父親というものは……つまり……」
「どうしたんです」出し抜けに意地悪な口を利いた。「『告白』は面白い本だった……それはそうと、子供は何人お持ちなんです?」
ルソーは青ざめて震え出した。若き死刑執行人に怒りと戸惑いを込めた目を向けたが、それがド・プロヴァンス伯の戯れ心に火をつけた。
それだけで充分だった。ド・プロヴァンス伯は答えを待たずに教育係を従えて立ち去った。後には自著に辛辣な論評を加えられて粉々になった人物が残された。
一人残されたルソーがやがて眩暈から立ち直りかけた頃、オーケストラが導入部を演奏するのが聞こえて来た。
ルソーはふらふらしながら音の鳴る方に向かい、席に着いた。
――わたしは馬鹿で愚かな臆病者だ! 残酷な学者気取りには、『殿下、哀れな老人を苦しめるのは若者のやることとは申せません』と言えばよかったのに。
この台詞に一人満足していると、王太子妃とド・コワニー氏の二重唱が始まった。哲学者の気苦労は、音楽家の苦しみへと変わった。心を苛まれた後には、耳が責め苦を受け始めた。