アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
第百十五章 ジルベールの物語
それは確かにジルベールだった。アンドレ以上に青ざめ、悲しみに沈み、打ちひしがれていた。
見知らぬ男の姿を見て、アンドレは急いで目を拭った。誇り高い娘なら泣いているのを恥じるものだ。落ち着きを取り戻し、絶望に震わせていた手足も大理石のように凜とさせた。
ジルベールが落ち着きを取り戻すには、さらに時間がかかったし、顔には痛ましい表情がいつまでも貼りついていた。ド・タヴェルネ嬢は目を上げるとたちまち相手が誰なのかに気づき、態度や目つきにもはっきりとそれを表した。
「またジルベールなの」ジルベールと出くわすのは偶然だと思っているアンドレは、そのたびによそよそしい口振りを見せた。
ジルベールは何も答えなかった。あまりにも胸が一杯だったのだ。
アンドレの身体を震わせていた痛みが、ジルベールの身体をも激しく揺り動かしていた。
そんなわけだから、この幽霊をへこましてやろうと思い、口を利いたのはアンドレの方だった。
「いったい何をしているの、ジルベールさん? どうしてそんな惨めな様子でわたくしを見つめているのかしら? 察するに悲しいことでもあったのでしょう。よかったら話してご覧にならない?」
「お知りになりたいんですか?」ジルベールは悄然としてたずねた。心遣いの下に皮肉が隠れているのには気づいていた。
「ええ」
「僕が悲しんでいるのは、お嬢様が苦しんでいるのを知ったからです」
「わたくしが苦しんでいるだなんて誰に聞いたの?」
「この目で見ました」
「苦しんでなんかいないわ、あなたの勘違いよ」アンドレは改めて顔にハンカチを押し当てた。
一荒れ来そうだと感じたジルベールは、ここは下手に出て風向きを変えた方がいいと考えた。
「申し訳ありません、お嬢様。嘆いてらっしゃるのが聞こえたものですから」
「聞いていたの!? それは結構なことね……」
「お嬢様、偶然なんです」それが嘘だとわかっているだけに、ジルベールの口振りは重かった。
「偶然ですって! 偶然あなたがそばにいたなんて最悪だわ。でもそれより、わたくしが嘆いているのを聞いたからといって、どうしてあなたが悲しんでいるのかしら? 教えて頂戴」
「女性が泣いているのを見るのは耐えられませんから」ジルベールの言い方に、アンドレはかちんと来てしまったらしい。
「もしかしてジルベールさんはわたくしのことを女という目で見ていたのかしら? 誰の気を引こうとも思わないけれど、特にあなたの気を引くのだけは御免だわ」
「お嬢様」ジルベールは首を横に振った。「そんな風にひどいことを言わないで下さい。お嬢様が悲しんでいるのを見て、僕もひどく辛い気持になったんです。フィリップ様が行ってしまうと、これからはこの世に独りぼっちだと嘆いてらっしゃったじゃないですか。でも違います、そんなことはありません、僕がいますし、心臓はこれまでなかったほどにあなたのためを思って脈打っているんです。何度でも繰り返しますが、ド・タヴェルネ嬢はこの世に一人きりじゃありません。僕の頭がものを考え、僕の心が鼓動を打ち、僕が腕を伸ばしていられる限りは――」
こうして話している間も、ジルベールは力と気高さと忠実さに溢れ――それでも心からの敬意を忘れずに、控えめな態度を表していた。
だがジルベールが何をしようと、アンドレの機嫌を損ね、傷つけ、傷つけ返されてしまう運命だった。言わば敬意はすべて侮辱だと捉えられ、祈りはすべて挑発だと受け取られた。アンドレは立ち上がって遠慮なく厳しい言葉や態度をぶつけてやろうと思ったが、がたがたと震えて腰掛けから身体を起こすことも出来ない。もっとも――とアンドレは考えた。立ったところで、どこか遠くを見つめるだけのことだ。ジルベールが何を言おうと同じこと――。だからアンドレは腰を上げなかった。それどころか、はっきり言ってしまえば、うるさくなり始めた虫けらを足で踏みつぶしたい気持だった。
そこでアンドレはこう答えた。
「言っておいたはずですけれどね、ジルベール、あなたといると、ひどく不快なの。その声を聞くと苛々するし、哲学者ぶった態度には背筋がぞっとするわ。そんなことを言われてもまだ話しかけて来るのはどうしてなのかしら?」
「お嬢様」ジルベールは青ざめてはいたが取り乱してはいなかった。「善良な女性が思いやりをかけられてどうして苛々なさるんですか。善良な男はならみんな対等なはずじゃありませんか。僕のことをそんな風に目の敵になさって、思いやりをかけてくれないのが残念ですが、僕は誰よりもあなたから思いやりを受ける権利があるんですよ」
二度も繰り返された「思いやり」という言葉に、アンドレは目を丸くして蔑むようにジルベールを見つめた。
「思いやりですって? あなたがわたくしに? あなたのことを勘違いしていたわ、ジルベール。無礼な人だとばかり思っていたけれど、それ以下だったのね。あなたはただの気違いよ」
「無礼者でも気違いでもありません」冷静を装ってはいたものの、誇りはいたく傷ついていた。「自然界にとって僕らは同じ人間ですし、偶然によってあなたは僕に借りがあるんですから」
「また偶然?」アンドレが冷やかした。
「『神の摂理』と言ってもいいでしょう。一度もこの話をしたことはありませんでしたけれど。でもひどいことを言われたおかげで思い出しました」
「借りがあるですって? どういうことなの?」
「あなたが恩知らずだとは思いたくありません。神があなたを美しく創造して、美しさと引き替えにそれとは別に欠点をたっぷり詰め込んだだけなんですから」
「待って下さい。僕だってあなたに苛々させられることがあるけれど、そんな時はあなたに言われたいろいろなことを忘れるようにしているんです」
アンドレがからからと笑い出した。ジルベールをむっとさせる笑い方だったが、動揺はしたものの、頭に血が上るのは我慢した。ジルベールは胸の前で腕を組み、頑固で反抗的な光を瞳に宿らせ、嘲るような笑いが終わるのまで耐えていた。
「お嬢様、一つだけ聞かせて下さい。お父上のことを尊敬なさってますか?」
「わたくしに質問しているように聞こえるのだけれど?」アンドレは見下ろすようにたずねた。
「その通りです。人柄がいいとか、品行方正だからというのではなく、あなたに生命を授けてくれたからという理由で、お父上を尊敬していますか? 父親という存在には、生憎とそれだけしか尊敬すべき点がないのですが、それでも尊敬すべきなのは事実です。生命を授けてくれたというたった一つの行為のために――」今度はジルベールの方が見下すような憐れみを見せた。「その贈り主を愛する義務があなたにはあるんです。だったらお嬢様、その原理に従えば、どうしてあなたは僕を侮辱するんですか? どうして僕を毛嫌いするんです? どうして僕を憎むんですか? それは確かにあなたに生命を授けてはいませんけれど、生命を救ったのは僕なのに」
「あなたが? あなたがわたくしの生命を救ったですって?」
「考えたこともなかったんですね。いや、きっと忘れてしまったんです。きっとそうだ。もう一年近くになるんだから。だったら教えてあげ――いや、思い出してもらわなくちゃ。ええその通りです。僕は自分の命も顧みず、お嬢様の生命を救ったんです」
「せめていつ何処でなのかは教えていただけるんでしょうね?」アンドレは真っ青になっていた。
「何万人もの人が暴れる馬や薙ぎ払われた剣から逃げて押しつぶされ、死者や怪我人の長い列がルイ十五世広場に残されていた日のことです」
「五月三十一日……」
「そうです」
アンドレの顔に冷やかすような笑みが戻った。
「その日に、自分の命も顧みずにわたくしの生命を救ったと言うのね?」
「そう申し上げました」
「つまりあなたがド・バルサモ男爵だと? ごめんなさいね、知らなかったものだから」
「違う、僕はド・バルサモ男爵じゃない」ジルベールの目に火がつき、口唇が震えた。「僕は貧乏人の小伜、ジルベールだ。愚かにして不幸にも、気が狂いそうなほどあなたを愛してしまったんです。あなたのことを尋常でないほど、気違いのように、どうにもならないほどに愛していたからこそ、人混みの中から救い出したんです。僕はジルベールです。一瞬だけ見失っても、途方に暮れたあなたの叫び声に気づいたのは僕なんだ。あなたのそばに倒れて、二万もの人たちに腕をもがれそうになりながらも踏ん張って守っていたのは僕なんだ。石畳の上で押しつぶされそうになっていたあなたのところに駆け寄り、自分の身体をねじ込んで石の上にいるより楽にしてあげたのは僕なんだ。あの男――さっきあなたが名前を出したあの男が――群衆の中で指揮を執っているらしいと気づいて、力の限り全身の血を振り絞って心の奥底から、最後の力を腕に込めてあなたを持ち上げたのは僕なんだ。それであの男があなたに気づき、あなたを受け取り、あなたは救われたんです。信用のおける救い主にあなたを譲った僕に残されていたのは、ドレスの切れ端だけでした。僕はそれを口唇に押し当てました。それが潮時でした。あっという間に心臓やこめかみや脳みそに血が流れ込んで来たのです。僕は虐殺者や犠牲者の群れに波のように押し流され、飲み込まれてしまいました。その間にあなたは復活した天使のように、僕のいた深淵から天国へと上っていたんです」
ジルベールはすっかりと、言わばありのままに、無邪気に、神々しいほどに、愛だけではなく決意のほども明らかにしていた。これにはアンドレも、軽蔑しているとはいっても驚かずにはいられなかった。それを見たジルベールは、この話に見出される真実と愛情にアンドレが抵抗できなかったのだと思おうとした。だがジルベールは憎しみに根ざした疑い深さを勘定に入れていなかった。ジルベールが勝ち誇って数え上げる根拠の数々を、アンドレは何一つ理解しようとはしなかった。
初めは何も答えずにジルベールを見つめていたアンドレの、心には葛藤のようなものが生じていた。
やがて冷え切った沈黙に耐えきれなくなったジルベールは、やむを得ず結論を述べるようなふりをして話を続けた。
「だからお嬢様、そんな風に僕を嫌わないで下さい。さっきも言いましたけれど、また繰り返します。そんなの理不尽なうえに、恩知らずですよ」
だがこの言葉を聞いて顔を上げたアンドレの表情は冷たく、声はあまりにも残酷だった。
「ジルベールさん、ルソーさんのところで住み込んで勉強してどのくらいになるのかしら?」
「三か月です」とジルベールは馬鹿正直に答えた。「五月三十一日に胸を詰まらせて寝込んでいた間を除けば」
「勘違いしないで。あなたが寝込んでいたかどうかなんてたずねていません……胸を詰まらせた……そういうことがあなたの物語にさぞかし花を添えているんでしょうね……でもわたくしにはどうでもいいわ。わたくしが言いたかったのは、あなたが高名な物書きさんのところにご厄介になっているのがたった三か月だとしても、それをちゃんと身につけていれば、もっと先生の刊行したものに相応しい小説を初めから書くことが出来そうなものなのに、ということだけ」
自分が口にした情熱的な言葉の数々に、アンドレが真剣な答えを返してくれるものだとばかり思って、冷静に話を聞いていたジルベールは、こんな風に残酷な皮肉を浴びせられて、無邪気な自尊心の山から転がり落ちた。
「小説だって!」ジルベールは憤慨した。「僕の話を小説だと思ってるんですか!」
「ええそうよ。小説って言ったんです。とにかく無理に読ませようとしなかったことには感謝しなくてはね。でも残念だけどお金を払うことは出来ないわ。そうしたくても出来ないでしょうし。小説はお金で買えるようなものじゃないですもの」
「それがあなたの答えですか?」ジルベールは口ごもった。心臓を鷲づかみにされ、目からは生気が消えていた。
「答えですらないわ」アンドレはジルベールを押しのけ、通り抜けようとした。
なるほどニコルが近づいて来る。急に会話の邪魔をしないように、並木道の向こうからアンドレを呼んでいたのだが、木陰越しだったので、話相手がジルベールだとは気づかなかったのである。
ところが近づいてみて相手が誰だか気づくと、唖然として立ちつくした。こんなことなら回り道をして、ジルベールがド・タヴェルネ嬢に何を言っていたのか盗み聞きしておくべきだった。
アンドレがニコルに声をかけた。それまでどれだけ高飛車に話していたのかをジルベールによくわからせようとでもするかのような、対照的に穏やかな声だった。
「どうしたの?」
「ド・タヴェルネ男爵様とド・リシュリュー公爵様がお嬢様にお会いしたいそうです」
「二人はどちらに?」
「お嬢様のお部屋です」
「いらっしゃい」
アンドレは立ち去った。
ニコルもそれに倣ったが、立ち去りながらもジルベールに皮肉な目つきを送ることを忘れなかった。ジルベールは、血の気が引くのも、気違いのように昂奮するのも、激しい怒りに駆られるのも我慢して、恩知らずが去ってゆく並木道の方に拳を突き上げ、歯軋りをして呟いた。
「何て血も涙もない女なんだ。あんたの命を救い、ありったけの愛を込めて、純心なあんたを傷つけるような気持を抑え込んでいたというのに。それというのも恋に狂った僕にとっては、あんたが天にいらっしゃる聖母マリアのような聖女だったからなのに……でもこうしてすぐそばで会ったからには、もうあんたもただの女、僕もただの男だ……いつかこの恨みを晴らしてやる、アンドレ・ド・タヴェルネ。これまでにこの手で二度あんたをつかまえたけれど、二度とも敬意を払ってやったんだ。アンドレ・ド・タヴェルネ、三度目は覚悟しておけ!……また会おう、アンドレ!」
それからジルベールは、芝生を飛び越え立ち去った。それはさながら、手負いの狼が鋭い牙と飢えた瞳を光らせて巣に戻ろうとするかのようだった。
第百十六章 父と娘
並木道の外れまで来ると、確かに元帥と父親が玄関口まで歩いて来てアンドレを待っているのが見えた。
二人とも随分と機嫌がよさそうだ。腕を組んでいる二人の姿は、宮廷の誰も見たことがないほどに、オレステスとピュラデスそのものであった。
アンドレの姿を目にして、二人の老人はさらに上機嫌になり、怒気と機敏な動きでさらに引き立てられた美しさに、二人して目を見張った。
元帥がアンドレにしてみせた挨拶の仕方が、まるでド・ポンパドゥール夫人に見せるようなものだったので、タヴェルネ男爵はその違いを見逃さず、上機嫌だった。だが敬意とあからさまなお世辞の混じり合ったその挨拶に、アンドレは戸惑いを見せた。コヴィエルが一言のトルコ語の中にフランス語を散りばめる術を心得ていたように、百戦錬磨の宮廷人も一度の挨拶の中に
アンドレは元帥にだけではなく父親にも格式張ったお辞儀を返した。それから極めて優雅に二人を階上の部屋に招き入れた。
元帥は部屋がすっきりしていることに驚いた。家具も調度も最低限しかない。花とわずかな白モスリンで、寂しげな部屋を宮殿ではなく寺院のように設えていた。
元帥は大きく花柄が象られた青緑色の椅子に腰を下ろした。その上にある大きな磁器からは、アカシアや楓がアイリスやベンガル薔薇と混じり合り、芳しい香りのする房を垂らしている。
男爵もそうした椅子の一つに坐った。アンドレは折り畳み椅子に坐り、チェンバロに腕を預けた。そこにも大きなザクセン磁器に花が生けられている。
「お嬢さん」と元帥が切り出した。「わしが来たのはほかでもない、陛下のお言葉を伝えに参ったのです。昨夜のリハーサルであなたが素晴らしい声と音楽の才能で聴衆を魅了したことをたいへん褒めていらっしゃった。あまり大っぴらにお褒めになって妬まれてもいけないので、あなたのおかげで陛下がお喜びになったことを伝える役をわしが言いつかったというわけです」
真っ赤になったアンドレがあまりに可愛いので、元帥は自分の思いを口にしているような気持になっていた。
「あなたほどの智性と容貌に恵まれた方には、宮廷広しといえども会ったことがないと、国王は断言していらっしゃいましたぞ」
「心根にも恵まれておるのを忘れるな」タヴェルネが嬉しそうに口を挟んだ。「アンドレは世界一の娘じゃわい」
男爵が泣き出すのではないかと思ったほどだった。父親らしい感情に苦心しているその姿を見て、元帥もいたく感動して声をあげていた。
「心根か! お嬢さんの心根に忍ばされている優しさを見抜くことが出来るのは貴殿しかおるまい。わしが二十五歳であったらのう、この命も財産もお嬢さんの足許に投げ出しておるところなのだが!」
アンドレはまだ宮廷流のお世辞に対してあっさりと受け答えすることが出来なかったので、リシュリューは意味のない呟きしか聞くことが出来なかった。
「それでですな、国王は満足しているという印をお嬢さんにお渡ししたいとお考えになり、その役目をお父上の男爵にお言いつけになったのだが。陛下には何とお返事すればよいでしょうかな?」
「閣下」アンドレの頭の中には、臣下が国王に払うべき敬意のことしか存在しなかった。「陛下にはわたくしが感謝しているとお伝え下さい。お気に留めていただく価値もないわたくしのような者に時間を割いていただいただけでも大変な幸せでございます」
躊躇いなく毅然としたこの答えに、リシュリューはめろめろになってしまった。
アンドレの手を取って恭しく接吻し、貪るような目つきで眺めた。
「王家のもののような手、妖精のような足……智性、意思、無垢……男爵よ、見事な宝ではないか!……ここにいるのは少女ではなく、女王にほかならぬ……」
この言葉を残して、リシュリューはいとまを告げた。アンドレの許に残されたタヴェルネは、自慢と期待にそっと胸をふくらませていた。
古くさい理屈に縛られたこの傲慢な懐疑論者が、息も出来ないほどのぬかるの中から、寵愛の空気をじっくりと吸い込んでいるのを見れば、神はド・タヴェルネ氏の智性と心根も同じ泥でこね上げたのだと納得いただけよう。
こうした変化に答えることが出来るのは、一人タヴェルネだけであろう。
「変わったのはわしではなく、時間だ」
男爵はアンドレの傍らに坐ったまま、態度を決めかねていた。というのもアンドレは飽くまでも落ち着いており、その深い淵から覗く海のように深遠な目つきに気づいていたからだ。
「陛下がご満足の印をお父様にお預けになったとリシュリュー様は仰っていましたが?」
「うむ、陛下がお目を留めて下さるとは……想像したこともなかったわい。いやはや、結構なことじゃ!」
前日の夜に元帥から受け取った宝石箱を、ポケットからゆっくりと取り出した。飴袋や玩具を子供が目敏く見つけて手を出すより前に、父親がポケットから取り出すような手つきだった。
「これじゃ」
「まあ! 宝石……」
「気に入ったか?」
それは高価な真珠の一組だった。十二の大粒のダイヤが真珠の列を繋いでいた。ダイヤの留め金、イヤリング、ダイヤの髪留め。贈り物の中身は、少なく見積もっても三万エキュはしよう。
「お父様!」
「何じゃ?」
「こんな美しいもの……国王はお考え違いをなさってます。こんなものを身につけても、かえって恥ずかしいだけですわ。こんな立派なダイヤに釣り合う服装をわたくしが持っているとでもいうのですか?」
「好きなだけ嘆くがよい!」タヴェルネがちくりと言った。
「お父様にはおわかりいただけないんです……この宝石を身につけられないことがどれだけ残念か……だってこんなに美しいんですもの」
「宝石をくださるくらいの方じゃぞ、ドレスくらい用意して下さるじゃろうが……」
「でもお父様……そんなご親切には……」
「それほどのご親切に預かる働きをしたというのはわしの思い上がりだと申すのか?」
「ごめんなさい、でもそう思います」アンドレは頭を下げたものの、確信があるわけではなかった。
意見し終えると宝石箱を閉じた。
「このダイヤを身につけるつもりはありません」
「何故じゃ?」タヴェルネが気を揉み出した。
「だってお父様。お父様やお兄様には入り用のものが山ほどありますのに、二人が苦労なさっていることを考えれば、こんな贅沢なもの目が潰れてしまいますわ」
タヴェルネは笑顔で手を握った。
「そんなことはもう気にせんでいい。国王はわしにもよくして下さったのじゃ。わしらを気に入って下さっている。陛下がくださった装身具をつけずに御前に出るようなことは、どんな忠臣にも貴婦人にも出来まいに」
「仰る通りにいたします」
「うむ。だが進んでそうしなくては……宝石が気に入らぬのか?」
「ダイヤモンドのことはわかりません」
「真珠だけでも五万リーヴルはするのじゃぞ」
アンドレは手を合わせた。
「お父様、陛下がこんな贈り物をくださるなんておかしいわ。よく考えて下さい」
「何が言いたいのかわからぬな」タヴェルネは素っ気なく言った。
「わたくしがこの宝石をつけていたら、みんな訝しむに違いありません」
「何故じゃ?」タヴェルネはなおも素っ気なく、高圧的な冷たい目つきで娘を見下ろした。
「わたくしが気まずそうにしているからです」
「そなたは気まずさを感じていると言うておるが、わしにはそれがわからぬとは不思議なこともあるものじゃのう。たといすっかり埋もれて誰にも気づかれぬままになっていたとしても、若い
アンドレは真珠のように美しい両手で困惑を隠した。
「ああ、お兄様!」とアンドレは呟いた。「どうしてそんなに遠くに行ってしまったの?」
タヴェルネにはこの呟きが聞こえたであろうか? 持ち前の鋭い洞察力で見抜いたであろうか? それは誰にもわかるまい。しかしながら男爵はすぐに声の調子を変えて、アンドレの手を握った。
「のう、アンドレよ。お前にとって父親は家族ではないのか?」
翳りに覆われていたアンドレの美しい顔に、穏やかな笑みが広がった。
「わしがここにおるのは、お前を愛しているからだし、助言を与えているからではないのか? 兄の運命やわしの運命が好転したのはお前のおかげじゃ、そのことに誇りを感じてはおらぬのか?」
「失礼しました」
男爵は愛情を一心に込めた眼差しを娘に注いだ。
「よいか、さっきド・リシュリュー殿が言ったように、お前はタヴェルネ家の女王になるであろう……国王陛下はお前に目をかけて下さった……王太子妃殿下もな」男爵はずばり断言した。「こうした高貴な方々をおそばでお喜ばせして、わしらの未来を築いてくれ……王太子妃にとってかけがえのない存在に……国王にとって……かけがえのない存在になってくれ!……お前の才能や美しさに敵うものなどおらぬ。強欲や野心のない、健やかな心を持っておる……シャルル六世の最期を慰めたあの娘のことを覚えておるか? その名はフランスで祝福されることとなった……フランスの王権に栄誉を取り戻したアニェス・ソレルを覚えておるか? フランス中がその思い出を崇めておる……アンドレよ、栄光ある君主の老後の支えとなってくれ……陛下はお前を実の娘のように可愛がって下さる、お前はその美しさと勇気と誠実さの力でフランスを統治するのだ」
アンドレが目を丸くしたが、男爵は考える隙を与えなかった。
「玉座を汚す堕落した女どもも、お前に一瞥されれば一掃されよう。お前の存在が宮廷を変えるのだ。王国の貴族が美風、礼儀、慎みを取り戻せるかどうかはお前の影響力に懸かっている。お前はこの国にとって太陽となり、わしらの名にとって栄冠となることが出来る、いや、ならねばならんのじゃ」
「でも、どうすればよいのでしょうか?」アンドレは呆然としていた。
「アンドレよ、人に徳の大切さを教えるには、美徳を愛してもらうことだと、常々言っておったではないか。判決文のように不快で陰気で単調な美徳では、どれだけ美徳に近づきたがっている者たちでも逃げ出してしまうわい。美徳に加えてありとあらゆる媚びで釣ることじゃ。背徳さえも厭うでないぞ。お前のように賢くしっかりした娘なら簡単じゃろう。お前が美しくしておれば、宮廷はお前の話で持ちきりじゃ。国王に気に入られておれば、誰もお前を袖には出来ん。本心を抑えて控えめにしておれば――国王相手にはその限りではないが――確実に手に入るはずの権力をあっという間に手に入れられよう」
「最後のご忠告がよくわかりません」
「わしに任せておけ。理解せんでもいいから実行することじゃ。お前のように賢く優しい女にはその方がいい。それはそうと、第一の点を実行するには、先立つものがいるじゃろう。この百ルイを使え。国王がわしらに目を掛けて下さったのだからな、その地位に相応しい身なりを整えるのじゃぞ」
タヴェルネは娘に百ルイを渡し、その手に口づけしてから立ち去った。
来た時と同じ並木道を大急ぎで戻ったので、アムールの森の奥でニコルが貴族と囁き交わしているのには気づかなかった。