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翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 115・116

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百十五章 ジルベールの物語

 それは確かにジルベールだった。アンドレ以上に青ざめ、悲しみに沈み、打ちひしがれていた。

 見知らぬ男の姿を見て、アンドレは急いで目を拭った。誇り高い娘なら泣いているのを恥じるものだ。落ち着きを取り戻し、絶望に震わせていた手足も大理石のように凜とさせた。

 ジルベールが落ち着きを取り戻すには、さらに時間がかかったし、顔には痛ましい表情がいつまでも貼りついていた。ド・タヴェルネ嬢は目を上げるとたちまち相手が誰なのかに気づき、態度や目つきにもはっきりとそれを表した。

「またジルベールなの」ジルベールと出くわすのは偶然だと思っているアンドレは、そのたびによそよそしい口振りを見せた。

 ジルベールは何も答えなかった。あまりにも胸が一杯だったのだ。

 アンドレの身体を震わせていた痛みが、ジルベールの身体をも激しく揺り動かしていた。

 そんなわけだから、この幽霊をへこましてやろうと思い、口を利いたのはアンドレの方だった。

「いったい何をしているの、ジルベールさん? どうしてそんな惨めな様子でわたくしを見つめているのかしら? 察するに悲しいことでもあったのでしょう。よかったら話してご覧にならない?」

「お知りになりたいんですか?」ジルベールは悄然としてたずねた。心遣いの下に皮肉が隠れているのには気づいていた。

「ええ」

「僕が悲しんでいるのは、お嬢様が苦しんでいるのを知ったからです」

「わたくしが苦しんでいるだなんて誰に聞いたの?」

「この目で見ました」

「苦しんでなんかいないわ、あなたの勘違いよ」アンドレは改めて顔にハンカチを押し当てた。

 一荒れ来そうだと感じたジルベールは、ここは下手に出て風向きを変えた方がいいと考えた。

「申し訳ありません、お嬢様。嘆いてらっしゃるのが聞こえたものですから」

「聞いていたの!? それは結構なことね……」

「お嬢様、偶然なんです」それが嘘だとわかっているだけに、ジルベールの口振りは重かった。

「偶然ですって! 偶然あなたがそばにいたなんて最悪だわ。でもそれより、わたくしが嘆いているのを聞いたからといって、どうしてあなたが悲しんでいるのかしら? 教えて頂戴」

「女性が泣いているのを見るのは耐えられませんから」ジルベールの言い方に、アンドレはかちんと来てしまったらしい。

「もしかしてジルベールさんはわたくしのことを女という目で見ていたのかしら? 誰の気を引こうとも思わないけれど、特にあなたの気を引くのだけは御免だわ」

「お嬢様」ジルベールは首を横に振った。「そんな風にひどいことを言わないで下さい。お嬢様が悲しんでいるのを見て、僕もひどく辛い気持になったんです。フィリップ様が行ってしまうと、これからはこの世に独りぼっちだと嘆いてらっしゃったじゃないですか。でも違います、そんなことはありません、僕がいますし、心臓はこれまでなかったほどにあなたのためを思って脈打っているんです。何度でも繰り返しますが、ド・タヴェルネ嬢はこの世に一人きりじゃありません。僕の頭がものを考え、僕の心が鼓動を打ち、僕が腕を伸ばしていられる限りは――」

 こうして話している間も、ジルベールは力と気高さと忠実さに溢れ――それでも心からの敬意を忘れずに、控えめな態度を表していた。

 だがジルベールが何をしようと、アンドレの機嫌を損ね、傷つけ、傷つけ返されてしまう運命だった。言わば敬意はすべて侮辱だと捉えられ、祈りはすべて挑発だと受け取られた。アンドレは立ち上がって遠慮なく厳しい言葉や態度をぶつけてやろうと思ったが、がたがたと震えて腰掛けから身体を起こすことも出来ない。もっとも――とアンドレは考えた。立ったところで、どこか遠くを見つめるだけのことだ。ジルベールが何を言おうと同じこと――。だからアンドレは腰を上げなかった。それどころか、はっきり言ってしまえば、うるさくなり始めた虫けらを足で踏みつぶしたい気持だった。

 そこでアンドレはこう答えた。

「言っておいたはずですけれどね、ジルベール、あなたといると、ひどく不快なの。その声を聞くと苛々するし、哲学者ぶった態度には背筋がぞっとするわ。そんなことを言われてもまだ話しかけて来るのはどうしてなのかしら?」

「お嬢様」ジルベールは青ざめてはいたが取り乱してはいなかった。「善良な女性が思いやりをかけられてどうして苛々なさるんですか。善良な男はならみんな対等なはずじゃありませんか。僕のことをそんな風に目の敵になさって、思いやりをかけてくれないのが残念ですが、僕は誰よりもあなたから思いやりを受ける権利があるんですよ」

 二度も繰り返された「思いやり」という言葉に、アンドレは目を丸くして蔑むようにジルベールを見つめた。

「思いやりですって? あなたがわたくしに? あなたのことを勘違いしていたわ、ジルベール。無礼な人だとばかり思っていたけれど、それ以下だったのね。あなたはただの気違いよ」

「無礼者でも気違いでもありません」冷静を装ってはいたものの、誇りはいたく傷ついていた。「自然界にとって僕らは同じ人間ですし、偶然によってあなたは僕に借りがあるんですから」

「また偶然?」アンドレが冷やかした。

「『神の摂理』と言ってもいいでしょう。一度もこの話をしたことはありませんでしたけれど。でもひどいことを言われたおかげで思い出しました」

「借りがあるですって? どういうことなの?」

「あなたが恩知らずだとは思いたくありません。神があなたを美しく創造して、美しさと引き替えにそれとは別に欠点をたっぷり詰め込んだだけなんですから」

「待って下さい。僕だってあなたに苛々させられることがあるけれど、そんな時はあなたに言われたいろいろなことを忘れるようにしているんです」

 アンドレがからからと笑い出した。ジルベールをむっとさせる笑い方だったが、動揺はしたものの、頭に血が上るのは我慢した。ジルベールは胸の前で腕を組み、頑固で反抗的な光を瞳に宿らせ、嘲るような笑いが終わるのまで耐えていた。

「お嬢様、一つだけ聞かせて下さい。お父上のことを尊敬なさってますか?」

「わたくしに質問しているように聞こえるのだけれど?」アンドレは見下ろすようにたずねた。

「その通りです。人柄がいいとか、品行方正だからというのではなく、あなたに生命を授けてくれたからという理由で、お父上を尊敬していますか? 父親という存在には、生憎とそれだけしか尊敬すべき点がないのですが、それでも尊敬すべきなのは事実です。生命を授けてくれたというたった一つの行為のために――」今度はジルベールの方が見下すような憐れみを見せた。「その贈り主を愛する義務があなたにはあるんです。だったらお嬢様、その原理に従えば、どうしてあなたは僕を侮辱するんですか? どうして僕を毛嫌いするんです? どうして僕を憎むんですか? それは確かにあなたに生命を授けてはいませんけれど、生命を救ったのは僕なのに」

「あなたが? あなたがわたくしの生命を救ったですって?」

「考えたこともなかったんですね。いや、きっと忘れてしまったんです。きっとそうだ。もう一年近くになるんだから。だったら教えてあげ――いや、思い出してもらわなくちゃ。ええその通りです。僕は自分の命も顧みず、お嬢様の生命を救ったんです」

「せめていつ何処でなのかは教えていただけるんでしょうね?」アンドレは真っ青になっていた。

「何万人もの人が暴れる馬や薙ぎ払われた剣から逃げて押しつぶされ、死者や怪我人の長い列がルイ十五世広場に残されていた日のことです」

「五月三十一日……」

「そうです」

 アンドレの顔に冷やかすような笑みが戻った。

「その日に、自分の命も顧みずにわたくしの生命を救ったと言うのね?」

「そう申し上げました」

「つまりあなたがド・バルサモ男爵だと? ごめんなさいね、知らなかったものだから」

「違う、僕はド・バルサモ男爵じゃない」ジルベールの目に火がつき、口唇が震えた。「僕は貧乏人の小伜、ジルベールだ。愚かにして不幸にも、気が狂いそうなほどあなたを愛してしまったんです。あなたのことを尋常でないほど、気違いのように、どうにもならないほどに愛していたからこそ、人混みの中から救い出したんです。僕はジルベールです。一瞬だけ見失っても、途方に暮れたあなたの叫び声に気づいたのは僕なんだ。あなたのそばに倒れて、二万もの人たちに腕をもがれそうになりながらも踏ん張って守っていたのは僕なんだ。石畳の上で押しつぶされそうになっていたあなたのところに駆け寄り、自分の身体をねじ込んで石の上にいるより楽にしてあげたのは僕なんだ。あの男――さっきあなたが名前を出したあの男が――群衆の中で指揮を執っているらしいと気づいて、力の限り全身の血を振り絞って心の奥底から、最後の力を腕に込めてあなたを持ち上げたのは僕なんだ。それであの男があなたに気づき、あなたを受け取り、あなたは救われたんです。信用のおける救い主にあなたを譲った僕に残されていたのは、ドレスの切れ端だけでした。僕はそれを口唇に押し当てました。それが潮時でした。あっという間に心臓やこめかみや脳みそに血が流れ込んで来たのです。僕は虐殺者や犠牲者の群れに波のように押し流され、飲み込まれてしまいました。その間にあなたは復活した天使のように、僕のいた深淵から天国へと上っていたんです」

 ジルベールはすっかりと、言わばありのままに、無邪気に、神々しいほどに、愛だけではなく決意のほども明らかにしていた。これにはアンドレも、軽蔑しているとはいっても驚かずにはいられなかった。それを見たジルベールは、この話に見出される真実と愛情にアンドレが抵抗できなかったのだと思おうとした。だがジルベールは憎しみに根ざした疑い深さを勘定に入れていなかった。ジルベールが勝ち誇って数え上げる根拠の数々を、アンドレは何一つ理解しようとはしなかった。

 初めは何も答えずにジルベールを見つめていたアンドレの、心には葛藤のようなものが生じていた。

 やがて冷え切った沈黙に耐えきれなくなったジルベールは、やむを得ず結論を述べるようなふりをして話を続けた。

「だからお嬢様、そんな風に僕を嫌わないで下さい。さっきも言いましたけれど、また繰り返します。そんなの理不尽なうえに、恩知らずですよ」

 だがこの言葉を聞いて顔を上げたアンドレの表情は冷たく、声はあまりにも残酷だった。

「ジルベールさん、ルソーさんのところで住み込んで勉強してどのくらいになるのかしら?」

「三か月です」とジルベールは馬鹿正直に答えた。「五月三十一日に胸を詰まらせて寝込んでいた間を除けば」

「勘違いしないで。あなたが寝込んでいたかどうかなんてたずねていません……胸を詰まらせた……そういうことがあなたの物語にさぞかし花を添えているんでしょうね……でもわたくしにはどうでもいいわ。わたくしが言いたかったのは、あなたが高名な物書きさんのところにご厄介になっているのがたった三か月だとしても、それをちゃんと身につけていれば、もっと先生の刊行したものに相応しい小説を初めから書くことが出来そうなものなのに、ということだけ」

 自分が口にした情熱的な言葉の数々に、アンドレが真剣な答えを返してくれるものだとばかり思って、冷静に話を聞いていたジルベールは、こんな風に残酷な皮肉を浴びせられて、無邪気な自尊心の山から転がり落ちた。

「小説だって!」ジルベールは憤慨した。「僕の話を小説だと思ってるんですか!」

「ええそうよ。小説って言ったんです。とにかく無理に読ませようとしなかったことには感謝しなくてはね。でも残念だけどお金を払うことは出来ないわ。そうしたくても出来ないでしょうし。小説はお金で買えるようなものじゃないですもの」

「それがあなたの答えですか?」ジルベールは口ごもった。心臓を鷲づかみにされ、目からは生気が消えていた。

「答えですらないわ」アンドレはジルベールを押しのけ、通り抜けようとした。

 なるほどニコルが近づいて来る。急に会話の邪魔をしないように、並木道の向こうからアンドレを呼んでいたのだが、木陰越しだったので、話相手がジルベールだとは気づかなかったのである。

 ところが近づいてみて相手が誰だか気づくと、唖然として立ちつくした。こんなことなら回り道をして、ジルベールがド・タヴェルネ嬢に何を言っていたのか盗み聞きしておくべきだった。

 アンドレがニコルに声をかけた。それまでどれだけ高飛車に話していたのかをジルベールによくわからせようとでもするかのような、対照的に穏やかな声だった。

「どうしたの?」

「ド・タヴェルネ男爵様とド・リシュリュー公爵様がお嬢様にお会いしたいそうです」

「二人はどちらに?」

「お嬢様のお部屋です」

「いらっしゃい」

 アンドレは立ち去った。

 ニコルもそれに倣ったが、立ち去りながらもジルベールに皮肉な目つきを送ることを忘れなかった。ジルベールは、血の気が引くのも、気違いのように昂奮するのも、激しい怒りに駆られるのも我慢して、恩知らずが去ってゆく並木道の方に拳を突き上げ、歯軋りをして呟いた。

「何て血も涙もない女なんだ。あんたの命を救い、ありったけの愛を込めて、純心なあんたを傷つけるような気持を抑え込んでいたというのに。それというのも恋に狂った僕にとっては、あんたが天にいらっしゃる聖母マリアのような聖女だったからなのに……でもこうしてすぐそばで会ったからには、もうあんたもただの女、僕もただの男だ……いつかこの恨みを晴らしてやる、アンドレ・ド・タヴェルネ。これまでにこの手で二度あんたをつかまえたけれど、二度とも敬意を払ってやったんだ。アンドレ・ド・タヴェルネ、三度目は覚悟しておけ!……また会おう、アンドレ!」

 それからジルベールは、芝生を飛び越え立ち去った。それはさながら、手負いの狼が鋭い牙と飢えた瞳を光らせて巣に戻ろうとするかのようだった。

 
 

第百十六章 父と娘

 並木道の外れまで来ると、確かに元帥と父親が玄関口まで歩いて来てアンドレを待っているのが見えた。

 二人とも随分と機嫌がよさそうだ。腕を組んでいる二人の姿は、宮廷の誰も見たことがないほどに、オレステスとピュラデスそのものであった。

 アンドレの姿を目にして、二人の老人はさらに上機嫌になり、怒気と機敏な動きでさらに引き立てられた美しさに、二人して目を見張った。

 元帥がアンドレにしてみせた挨拶の仕方が、まるでド・ポンパドゥール夫人に見せるようなものだったので、タヴェルネ男爵はその違いを見逃さず、上機嫌だった。だが敬意とあからさまなお世辞の混じり合ったその挨拶に、アンドレは戸惑いを見せた。コヴィエルが一言のトルコ語の中にフランス語を散りばめる術を心得ていたように、百戦錬磨の宮廷人も一度の挨拶の中に細々こまごまとした事柄を散りばめる術を心得ていたのである。

 アンドレは元帥にだけではなく父親にも格式張ったお辞儀を返した。それから極めて優雅に二人を階上の部屋に招き入れた。

 元帥は部屋がすっきりしていることに驚いた。家具も調度も最低限しかない。花とわずかな白モスリンで、寂しげな部屋を宮殿ではなく寺院のように設えていた。

 元帥は大きく花柄が象られた青緑色の椅子に腰を下ろした。その上にある大きな磁器からは、アカシアや楓がアイリスやベンガル薔薇と混じり合り、芳しい香りのする房を垂らしている。

 男爵もそうした椅子の一つに坐った。アンドレは折り畳み椅子に坐り、チェンバロに腕を預けた。そこにも大きなザクセン磁器に花が生けられている。

「お嬢さん」と元帥が切り出した。「わしが来たのはほかでもない、陛下のお言葉を伝えに参ったのです。昨夜のリハーサルであなたが素晴らしい声と音楽の才能で聴衆を魅了したことをたいへん褒めていらっしゃった。あまり大っぴらにお褒めになって妬まれてもいけないので、あなたのおかげで陛下がお喜びになったことを伝える役をわしが言いつかったというわけです」

 真っ赤になったアンドレがあまりに可愛いので、元帥は自分の思いを口にしているような気持になっていた。

「あなたほどの智性と容貌に恵まれた方には、宮廷広しといえども会ったことがないと、国王は断言していらっしゃいましたぞ」

「心根にも恵まれておるのを忘れるな」タヴェルネが嬉しそうに口を挟んだ。「アンドレは世界一の娘じゃわい」

 男爵が泣き出すのではないかと思ったほどだった。父親らしい感情に苦心しているその姿を見て、元帥もいたく感動して声をあげていた。

「心根か! お嬢さんの心根に忍ばされている優しさを見抜くことが出来るのは貴殿しかおるまい。わしが二十五歳であったらのう、この命も財産もお嬢さんの足許に投げ出しておるところなのだが!」

 アンドレはまだ宮廷流のお世辞に対してあっさりと受け答えすることが出来なかったので、リシュリューは意味のない呟きしか聞くことが出来なかった。

「それでですな、国王は満足しているという印をお嬢さんにお渡ししたいとお考えになり、その役目をお父上の男爵にお言いつけになったのだが。陛下には何とお返事すればよいでしょうかな?」

「閣下」アンドレの頭の中には、臣下が国王に払うべき敬意のことしか存在しなかった。「陛下にはわたくしが感謝しているとお伝え下さい。お気に留めていただく価値もないわたくしのような者に時間を割いていただいただけでも大変な幸せでございます」

 躊躇いなく毅然としたこの答えに、リシュリューはめろめろになってしまった。

 アンドレの手を取って恭しく接吻し、貪るような目つきで眺めた。

「王家のもののような手、妖精のような足……智性、意思、無垢……男爵よ、見事な宝ではないか!……ここにいるのは少女ではなく、女王にほかならぬ……」

 この言葉を残して、リシュリューはいとまを告げた。アンドレの許に残されたタヴェルネは、自慢と期待にそっと胸をふくらませていた。

 古くさい理屈に縛られたこの傲慢な懐疑論者が、息も出来ないほどのぬかるの中から、寵愛の空気をじっくりと吸い込んでいるのを見れば、神はド・タヴェルネ氏の智性と心根も同じ泥でこね上げたのだと納得いただけよう。

 こうした変化に答えることが出来るのは、一人タヴェルネだけであろう。

「変わったのはわしではなく、時間だ」

 男爵はアンドレの傍らに坐ったまま、態度を決めかねていた。というのもアンドレは飽くまでも落ち着いており、その深い淵から覗く海のように深遠な目つきに気づいていたからだ。

「陛下がご満足の印をお父様にお預けになったとリシュリュー様は仰っていましたが?」

「うむ、陛下がお目を留めて下さるとは……想像したこともなかったわい。いやはや、結構なことじゃ!」

 前日の夜に元帥から受け取った宝石箱を、ポケットからゆっくりと取り出した。飴袋や玩具を子供が目敏く見つけて手を出すより前に、父親がポケットから取り出すような手つきだった。

「これじゃ」

「まあ! 宝石……」

「気に入ったか?」

 それは高価な真珠の一組だった。十二の大粒のダイヤが真珠の列を繋いでいた。ダイヤの留め金、イヤリング、ダイヤの髪留め。贈り物の中身は、少なく見積もっても三万エキュはしよう。

「お父様!」

「何じゃ?」

「こんな美しいもの……国王はお考え違いをなさってます。こんなものを身につけても、かえって恥ずかしいだけですわ。こんな立派なダイヤに釣り合う服装をわたくしが持っているとでもいうのですか?」

「好きなだけ嘆くがよい!」タヴェルネがちくりと言った。

「お父様にはおわかりいただけないんです……この宝石を身につけられないことがどれだけ残念か……だってこんなに美しいんですもの」

「宝石をくださるくらいの方じゃぞ、ドレスくらい用意して下さるじゃろうが……」

「でもお父様……そんなご親切には……」

「それほどのご親切に預かる働きをしたというのはわしの思い上がりだと申すのか?」

「ごめんなさい、でもそう思います」アンドレは頭を下げたものの、確信があるわけではなかった。

 意見し終えると宝石箱を閉じた。

「このダイヤを身につけるつもりはありません」

「何故じゃ?」タヴェルネが気を揉み出した。

「だってお父様。お父様やお兄様には入り用のものが山ほどありますのに、二人が苦労なさっていることを考えれば、こんな贅沢なもの目が潰れてしまいますわ」

 タヴェルネは笑顔で手を握った。

「そんなことはもう気にせんでいい。国王はわしにもよくして下さったのじゃ。わしらを気に入って下さっている。陛下がくださった装身具をつけずに御前に出るようなことは、どんな忠臣にも貴婦人にも出来まいに」

「仰る通りにいたします」

「うむ。だが進んでそうしなくては……宝石が気に入らぬのか?」

「ダイヤモンドのことはわかりません」

「真珠だけでも五万リーヴルはするのじゃぞ」

 アンドレは手を合わせた。

「お父様、陛下がこんな贈り物をくださるなんておかしいわ。よく考えて下さい」

「何が言いたいのかわからぬな」タヴェルネは素っ気なく言った。

「わたくしがこの宝石をつけていたら、みんな訝しむに違いありません」

「何故じゃ?」タヴェルネはなおも素っ気なく、高圧的な冷たい目つきで娘を見下ろした。

「わたくしが気まずそうにしているからです」

「そなたは気まずさを感じていると言うておるが、わしにはそれがわからぬとは不思議なこともあるものじゃのう。たといすっかり埋もれて誰にも気づかれぬままになっていたとしても、若い女子おなごらには悪を知り悪を見つけ出してもらいたいものじゃ! うぶでおぼこな女子には、わしのような老兵が顔を赤らめるような生き方をして欲しいものじゃ!」

 アンドレは真珠のように美しい両手で困惑を隠した。

「ああ、お兄様!」とアンドレは呟いた。「どうしてそんなに遠くに行ってしまったの?」

 タヴェルネにはこの呟きが聞こえたであろうか? 持ち前の鋭い洞察力で見抜いたであろうか? それは誰にもわかるまい。しかしながら男爵はすぐに声の調子を変えて、アンドレの手を握った。

「のう、アンドレよ。お前にとって父親は家族ではないのか?」

 翳りに覆われていたアンドレの美しい顔に、穏やかな笑みが広がった。

「わしがここにおるのは、お前を愛しているからだし、助言を与えているからではないのか? 兄の運命やわしの運命が好転したのはお前のおかげじゃ、そのことに誇りを感じてはおらぬのか?」

「失礼しました」

 男爵は愛情を一心に込めた眼差しを娘に注いだ。

「よいか、さっきド・リシュリュー殿が言ったように、お前はタヴェルネ家の女王になるであろう……国王陛下はお前に目をかけて下さった……王太子妃殿下もな」男爵はずばり断言した。「こうした高貴な方々をおそばでお喜ばせして、わしらの未来を築いてくれ……王太子妃にとってかけがえのない存在に……国王にとって……かけがえのない存在になってくれ!……お前の才能や美しさに敵うものなどおらぬ。強欲や野心のない、健やかな心を持っておる……シャルル六世の最期を慰めたあの娘のことを覚えておるか? その名はフランスで祝福されることとなった……フランスの王権に栄誉を取り戻したアニェス・ソレルを覚えておるか? フランス中がその思い出を崇めておる……アンドレよ、栄光ある君主の老後の支えとなってくれ……陛下はお前を実の娘のように可愛がって下さる、お前はその美しさと勇気と誠実さの力でフランスを統治するのだ」

 アンドレが目を丸くしたが、男爵は考える隙を与えなかった。

「玉座を汚す堕落した女どもも、お前に一瞥されれば一掃されよう。お前の存在が宮廷を変えるのだ。王国の貴族が美風、礼儀、慎みを取り戻せるかどうかはお前の影響力に懸かっている。お前はこの国にとって太陽となり、わしらの名にとって栄冠となることが出来る、いや、ならねばならんのじゃ」

「でも、どうすればよいのでしょうか?」アンドレは呆然としていた。

「アンドレよ、人に徳の大切さを教えるには、美徳を愛してもらうことだと、常々言っておったではないか。判決文のように不快で陰気で単調な美徳では、どれだけ美徳に近づきたがっている者たちでも逃げ出してしまうわい。美徳に加えてありとあらゆる媚びで釣ることじゃ。背徳さえも厭うでないぞ。お前のように賢くしっかりした娘なら簡単じゃろう。お前が美しくしておれば、宮廷はお前の話で持ちきりじゃ。国王に気に入られておれば、誰もお前を袖には出来ん。本心を抑えて控えめにしておれば――国王相手にはその限りではないが――確実に手に入るはずの権力をあっという間に手に入れられよう」

「最後のご忠告がよくわかりません」

「わしに任せておけ。理解せんでもいいから実行することじゃ。お前のように賢く優しい女にはその方がいい。それはそうと、第一の点を実行するには、先立つものがいるじゃろう。この百ルイを使え。国王がわしらに目を掛けて下さったのだからな、その地位に相応しい身なりを整えるのじゃぞ」

 タヴェルネは娘に百ルイを渡し、その手に口づけしてから立ち去った。

 来た時と同じ並木道を大急ぎで戻ったので、アムールの森の奥でニコルが貴族と囁き交わしているのには気づかなかった。

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『ジョゼフ・バルサモ』 113・114

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百十三章 ルイ十五世の小夜食

 国王陛下は取り巻きの廷臣たちと一緒に小広間にいた。君主の虚ろな眼差しが他人に向けられるくらいなら夜食を摂り損ねることを選ぶような者たちである。

 だが今夜のルイ十五世は取り巻きを眺めるだけでは満足できぬようであるらしい。夜食は摂らぬ、いや、摂るにしても一人で摂ると言って取り巻きたちを追い払った。そうやって国王から退出するように告げられたうえに、リハーサル後に催されている祝宴に欠席して王太子殿下の不興を買うことを恐れて、慌てて鳩の群れのようにけたたましく飛び立ち、目に入った人物の方に向かって、陛下の部屋はあなたの為に空けておいたといつでも言えるように、駆け出した。

 こうして人々が慌ただしく立ち去っている間も、ルイ十五世は別のことを考えていた。取り巻きたちの一喜一憂もほかの場合であれば楽しめたであろう。国王は非常にからかい好きで、仮に国王に友人というものがあったとして、たとい相手が一番の親友であってもその心や身体に一つでも欠陥があれば見逃しはしないほどなのだが、今回ばかりはそんな国王の心にも何の感情も湧かなかった。

 確かに、目下ルイ十五世は気を取られていた。一台の四輪馬車がトリアノンの通用門の前に停まったのだ。御者はいつでも馬に鞭をくれられるように準備して、どうやら主人が金の車体に乗れば重みで判断できるように待機しているらしい。

 明かりに照らされたこの四輪馬車はデュ・バリー夫人のものだった。ザモールが御者の隣に坐り、ブランコでも漕ぐように足を前後に動かしている。

 どうやらデュ・バリー夫人は、国王から伝言があるのではないかと見込んで回廊でぐずぐずしていたようだが、ようやくのことでデギヨン氏に腕を取られて姿を現した。怒りのせいか、少なくとも落胆のせいで、足早に歩いている。あまりに決然としていたために、落ち着きを失ってさえいない。

 ジャンが肩を落とし、帽子を腕に挟むともなく挟んでぺしゃんこにして、妹の後から姿を見せた。王太子殿下が招待するのを忘れていたため、ジャンは舞台を見ることが出来なかった。それでも従僕のように控えの間に入り込みんだジャンは、ヒッポリュトスもかくやと思うほどの物思いに沈み、銀糸と薔薇で縫い取りされた上着から胸飾りをはためかせ、本人の悲痛な思いに倣っているようなぼろぼろの袖口には目もくれていない。

 ジャンは青ざめて狼狽している妹を見て、事は重大だと確信した。実体のある相手を敵に回すのなら強気になれるが、幻相手ではそうはいかない。

 国王はカーテンの陰に隠れて、一人ずつ現れてはドミノ倒しのように伯爵夫人の馬車に飲み込まれて行くのを、窓から眺めていた。やがて扉が閉められ、従者が車の後ろに戻り、御者が手綱を振ると、馬が全速力で駆け出した。

「何てことだ!」国王が呟いた。「余に会おうとも、話をしようともせずに行ってしまうのか? 伯爵夫人は相当に怒っておるぞ!」

 それからはっきりと口に出して繰り返した。

「間違いない。伯爵夫人は怒っておる!」

 招待客のように部屋に潜り込んでいたリシュリューが、この最後の言葉を聞きつけた。

「怒っている? どうしてですかな? 陛下が楽しまれたのが気に食わないと? 言われてみればさようですな! 確かに伯爵夫人にとっては面白くないことでしょうな」

「公爵よ、余は楽しんでなどおらぬ。むしろ疲れておるから休みたいところだ。音楽だけでくたびれてしまった。伯爵夫人の話を聞くとしたら、リュシエンヌまで夜食に向かい、食べたるだけでなく飲んだりしなくてはなるまい。伯爵夫人の葡萄酒はきついのだ。いったいどんな葡萄を使っているのやら知らぬが、とにかくあれはこめかみに来る。だからここで寛いでいたいと思っておる」

「陛下のなさることに間違いはありますまい」と公爵は答えた。

「もっとも、伯爵夫人なら勝手に楽しむであろう! 余と食事を共にしてそれほど面白いのだろうか? 伯爵夫人がどう言おうと、そうは思えぬ」

「それについては陛下は間違っておいでです」

「いいや、公爵、そうではない。月日を数えてじっくりと考えよう」

「陛下、いずれにしましても陛下以上に素晴らしい伴侶を持てぬことを伯爵夫人はご存じで、だからこそお怒りなのですぞ」

「実際の話、余にはそなたの流儀がわからぬが、相変わらず二十歳の頃のように女性を扱っておるな。当時は選ぶのは男であった。だが余が生きている時代は……」

「何だと言うのです?」

「音頭を取るのは女だ」

 元帥は笑い出した。

「伯爵夫人が楽しんでいらっしゃったとお思いなら、我々も負けじと慰め合おうではありませんか」

「伯爵夫人が楽しんでいたとは言っておらぬ。楽しみを求めるようになってしまうと言っているのだ」

「そんなことはあり得ないと申し上げることは控えておきましょう」

 国王は動揺して立ち上がった。

「ここには誰がいる?」

「全員が控えております」

 国王はしばし考え込んだ。

「そなたの使用人はおらぬのか?」

「ラフテがおります」

「よかろう!」

「何をさせようというのですかな?」

「デュ・バリー夫人が実際にリュシエンヌに戻っているのかどうか確かめてもらいたい」

「私見では伯爵夫人はお出かけでございましょう」

「はっきり言えばその通りだ」

「すると陛下は、伯爵夫人が何処に向かわれたと仰りたいのですか?」

「知らぬ。伯爵夫人は嫉妬でわけがわからなくなっておるのだ」

「いやしかし、それはむしろ陛下の方ではございませんか?」

「何だと、どういうことだ?」

「嫉妬でわけがわからなくなっているのは……」

「公爵!」

「実際、誰にとっても嫉妬とは厄介なものでございます」

「余が嫉妬しているだと!」ルイ十五世はわざとらしく笑い声をあげた。「本気で言っておるのか?」

 実際のところリシュリューは本気ではなかった。それどころか、デュ・バリー夫人が実際にリュシエンヌにいるのかどうかを国王が確かめたがっているわけではなく、トリアノンに戻って来ないことを確信したがっているのだと考えた方が真実に近いということを認めるのもやぶさかではなかった。

「では了解いたしました。ラフテを確かめに遣らせましょう」

「そうしてくれ」

「ところで陛下は夜食前に何をなさるおつもりですかな?」

「何も。すぐに夜食を摂ろう。件の人物には知らせておいたな?」

「ええ、控えの間におります」

「何と言っておった?」

「大変な感謝をしておりました」

「娘の方は?」

「まだ娘御には話しておりません」

「公爵よ、デュ・バリー夫人は嫉妬深く、すぐにでも戻ってくるかもしれぬのだぞ」

「それはいけませんな。伯爵夫人がそんな無茶をなさるとは思えませぬが」

「こんな場合なら何でもしかねぬよ。憎しみに嫉妬が加わっているのだからなおのこと。伯爵夫人はそなたを憎悪しておる。そのことには気づいておったか?」

 リシュリューは頭を下げた。

「かかる名誉を承っていることは存じております」

「ド・タヴェルネ殿のことも憎悪しておる」

「恐れながらそれに加えさせていただきますと、老生や男爵以上に憎悪されている第三の人物がおりますぞ」

「何者だね?」

「アンドレ嬢でございます」

「ああ、それも当然であろうな」

「そうなりますと……」

「うむ。だがな、デュ・バリー夫人が今夜騒ぎを起こさぬように気をつけねばならぬことに変わりはない」

「それどころか、その配慮が不可欠だという根拠となりましょう」

「給仕長がおる。口を閉じろ! ラフテに指示を伝えよ。それから食堂で例の人物と会おうではないか」

 ルイ十五世は立ち上がって食堂に向かい、リシュリューは反対側の扉から部屋を出た。

 五分後、リシュリューは男爵と共に国王と再会した。

 国王がタヴェルネににこやかな挨拶を送った。

 男爵は頭の切れる人間であった。ある種の人々に特有のやり方で挨拶に答えると、それを見た国王や王族が相手のことを同じ世界の住人だと認めて、見る間に緊張を解いてくれるのである。

 三人は食卓に着き夜食を始めた。

 ルイ十五世はいい国王とは言えないが、魅力的な人物であった。国王がその気になった時には、一座は酒や噂や際どい話で盛り上がったものである。

 要するに国王はそうした陽気な側面から人生の多くを学んでいた。

 たらふく食べ、もっと飲めと勧め、音楽の話を始めた。

 リシュリューはその機会を逃さなかった。

「陛下、音楽が男同士を結びつけるとバレエ教師は言っておりますし、陛下もそうお考えのようですが、それは女の場合にも言えるでしょうな?」

「いやいや公爵よ、女の話はよそうではないか。トロヤ戦争の昔から今日に至るまで、女というものは音楽から正反対の影響を受けて来たのだ。とりわけそなたは、ご婦人たちとかたをつけるべきことが多すぎて、こうした話題が上るのを見るのも嫌であろう。なかでも一人、一触即発の険悪な仲の婦人がおるではないか」

「勘違いでなければ、伯爵夫人のことですな?」

「であろうな」

「恐らくご説明下さることと思いますが……」

「喜んで説明しよう。二言で済む」国王はからかうように答えた。

「お聞かせ下さい」

「よかろう! 伯爵夫人はそなたに余の知らぬ大臣職を打診したが、そなたは断ったそうではないか。それというのも伯爵夫人に人気がないからだと言って」

「老生が?」リシュリューは事の成り行きに狼狽えた。

「そういう噂だぞ」国王はいつものように無邪気を装って話を続けた。「誰から聞いたのかはもう覚えておらぬが……恐らく新聞であろう」

「左様ですか」国王がいつになく上機嫌な顔をしているのを見て、リシュリューは大胆になった。「正直に申し上げますと、今回ばかりは噂や新聞も、いつもほど馬鹿げてはいないようですな」

「何だと! そなたは本当に大臣の椅子を蹴ったと言うのか?」

 おわかりいただけることと思うが、リシュリューは微妙な立場に立っていた。公爵がどんなことでも断ったことのない人物である、ということを国王はよく知っていた。だがタヴェルネの方はリシュリューの言ったことをずっと信じ続けるに違いない。つまり公爵としては、国王の当てつけを如何に巧みに擦り抜けて返答し、男爵の口元に浮かんでいる嘘つきという非難をどうやって避けるか、という点が当座の問題であった。

「陛下、結果ではなく理由に目を向けようではありませんか。老生が大臣の椅子を蹴ったにしろ蹴らなかったにしろ、そのことは国家の秘密ですぞ。白日の下に晒されたまま放っておいてはなりますまい。しかしですな、大臣の職を持ちかけられたのだといたしますと、それを老生が断った理由こそ、本質的に重要なことではありませんかな」

「は、は! 公爵よ、噂によればその理由は国家機密などではなかったぞ」国王は笑って言った。

「無論です。とりわけ陛下にとっては秘密ではございますまい。失礼ながら、老生やここにいるド・タヴェルネ男爵にとって、陛下は現在お目にかかることの出来る存在の中でももっとも麗しい人間の主人でございます。ですから老生は国王に対して秘密などは持っておりません。心の内はすっかり陛下に打ち明けておりますぞ。フランスの国王には真実を伝える臣下の一人もいないと言われたくはありませんからな」

 リシュリューが言い過ぎやしないかと、びくびくしながらタヴェルネは口唇を咬み、国王の顔色を窺いながら慎重に表情を作っていた。

「では真実について話そうか」国王が言った。

「この国には大臣が従わなくてはならない権力が二つございます。一つ目は陛下のご意思。二つ目は陛下がお選びになったもっとも近しい友人のご意思でございます。一つ目の力に抵抗することなどあり得ず、逃れようとすることさえ叶いますまい。二つ目の力はさらに侵すべからざるものでございまして、と言うのも陛下にお仕えしている者の義務感に訴えるからでございます。これは『信用』と呼ばれておりますが、大臣はそれに従うために、国王の寵臣なり寵姫なりにおいたわしい気持を抱かなくてはなりません」

 ルイ十五世が笑い出した。

「随分と面白い箴言だな。そなたの口から出て来るのが面白いわ。だがな、喇叭を二つ持ってポン=ヌフまでそれを叫びに行ってみるがいい」

「ああ、哲学者たちが武器を取ろうとしているのは存じておりますぞ。ですがあやつらの叫びが陛下や老生に関わりがあるとは思いませぬ。肝心なのは、王国を代表する二つのご意思が満たされることでございます。ところで、恐れながら申し上げますと、ある方のご意思は老生の不運、つまり老生の死と関わっておりまして、つまるところデュ・バリー夫人のご意思には同意することが出来ぬのです」

 ルイ十五世は黙り込んでしまった。

「ふと思ったのですが」リシュリューが先を続けた。「先日、宮廷を見回しておりますと、それはもう気高いお嬢さんや輝かしいご婦人方をお見かけいたしました。老生がフランス国王だったなら、一人を選ぶのは不可能だったことでしょう」

 ルイ十五世がタヴェルネを見た。男爵は密かに話題になっていることを悟って、恐れと希望で心臓をばくばくさせ、財産を積んでいる船を港まで押しやろうとでもするように、元帥の言葉を目つきで促し息を吹きかけていた。

「そなたはどう思うかね、男爵?」と国王がたずねた。

 タヴェルネは胸をふくらませて答えた。「公爵は先ほどから素晴らしいことを陛下に仰っているように思われます」

「では美しい娘たちのことについても同意見なのだな?」

「無論です。何分にもフランス宮廷には極めて美しい方ばかりおいでだとお見受けします」

「つまり公爵に同意するのだな?」

「はい、陛下」

「公爵と同じように、宮廷の美女たちの中から一人を選べと申すのか?」

「言わせていただけますならば元帥に賛成でございますし、恐れながら陛下とも同意見だと信じております」

 しばし沈黙が降り、国王は満足げにタヴェルネを見つめた。

「諸君、余が三十歳であれば、間違いなくそなたたちと同意見であっただろう。容易く納得してしまったことであろうな。だがそうしたことを鵜呑みにするには少し年を取ってしまった」

「鵜呑みにするとはどういうことか説明していただけますかな」

「信じるということだよ、公爵。もうそういったことを信じることは出来そうにない」

「そういったこと、と仰いますと?」

「この年で恋心を掻き立てられることだ」

「陛下! たった今この時まで、陛下は王国一洗練された方だとばかり思っておりました。しかしまことに遺憾ながら老生が間違っていたようです」

「どういうことかね?」国王は笑った。

「老成はメトセラのような老いぼれだということですわ。九十四年の生まれですから、陛下より十六も上ですからな」

 これは公爵らしくよく出来たお追従だった。ルイ十五世はこの年でありながら部下の若者を殺してきた公爵について、かねがね感心していた。こうした見本を目の当たりにすれば、同じ年齢になった時のことを考えても希望が持てる。

「よかろう。だがそうすると、女からもてるという自信はもうそなたにはないのであろうな?」

「もしそうだとすれば、今朝言ったことは嘘だったのかと、後で二人のご婦人と喧嘩しなくてはなりますまいな」

「よし公爵。いずれわかる。いずれわかるとも、ド・タヴェルネ殿。若返ったのは確かだが……」

「まことにその通り。気高い血筋こそよく効く特効薬でございます。それに陛下のように立派なお心の持ち主は、変化によって力を得ることはあっても失うことはございませんから」

「しかしだな」ルイ十五世は思い出したらしく、「余の曾祖父が年を重ねた頃には、もう若い頃のようにはご婦人に言い寄っていなかったぞ」

「よいですか。先王に対する老生の敬意を陛下はご存じのはずですぞ。バスチーユに二度も入れられましたが、老年のルイ十四世と老年のルイ十五世とでは比べものにならないと申し上げるのはやぶさかではありません。いやはや! 教会の長兄の肩書きを授けられたキリスト教の信仰篤き国王陛下が、人間性を失いかねないほどまで禁欲にこだわるというのですか?」

「そなたの言う通りだと認めざるを得ぬな。ここには医者も聴聞僧もいないのだから」

「先王陛下は度を過ごした信仰心や数限りない禁欲で、年上だったド・マントノン夫人を驚かせることもしばしばでございました。繰り返しますが陛下、二人の国王陛下についてお話ししながら、一人一人を比べることが出来ましょうか?」

 その晩の国王は機嫌が良かった。リシュリューの言葉によって、若返りの泉から水を飲んだような気分になっていた。

 ここだ、とリシュリューは判断して、タヴェルネの膝を自分の膝で小突いた。

「陛下、愚生の娘に下さった素晴らしい贈り物について感謝の言葉をお伝えすることをお許し下され」

「感謝などいらぬよ、男爵。ド・タヴェルネ嬢のことを気に入ったまでだ。淑やかで品が良い。余の娘たちも使用人をもっとしつけてくれればよいのだが。無論アンドレ嬢は……そういう名前でよかったな?」

「はい、陛下」国王が娘の洗礼名を知っていたことに、タヴェルネは大喜びした。

「よい名前だ! 無論アンドレ嬢はいつでもリストの一番上にいる。だが余のところはいろいろと立て込んでおってな。黙って待っていてくれぬか、男爵、そなたの娘御は余がしっかり庇護してやるつもりだ。持参金もあまりないのであろうな?」

「仰せの通りでございます」

「わかった、結婚の面倒も見てつかわす」

 タヴェルネは深々とお辞儀をした。

「そういたしますと陛下がご親切にもご夫君を見つけて下さいませんか。何しろお恥ずかしい話ですが、愚生と来たら貧乏、いや無一文同然でありまして……」

「うむ、うむ、その点も任せておけ。だがアンドレ嬢はまだ若い。慌てることでもあるまい」

「娘が結婚を恐れているのだからなおのことでございます」

「何ともな!」ルイ十五世は手を擦り合わせてリシュリューを見た。「まあよい、いずれにせよ、困ったことがあったら余を頼り給え、ド・タヴェルネ殿」

 ルイ十五世は立ち上がって公爵に言葉をかけた。

「元帥!」

 公爵が国王のそばに寄った。

「娘御は気に入っておるか?」

「何の話でございますか?」

「宝石箱だ」

「恐れながら小声でお話し下さいませんと父親に聞こえてしまいます。それに老生がこれから申し上げることは聞かれてはなりません」

「くだらぬ!」

「陛下」

「わかった、申してみよ」

「では。娘御が結婚を恐れているというのは本当のことです。しかしながら一つだけ確信していることがございまして、それは娘御が陛下を恐れてはいないということです」

 親しげな発言に散りばめられたあけすけな言葉遣いを、国王は気に入ったらしい。恭しく壁際まで下がっていたタヴェルネのところまで、元帥は小走りで戻った。

 二人は庭から外に出た。

 素晴らしい夜だった。従僕二人が前を歩き、片手に松明を掲げ、片手で花のついた枝を引きずっている。今もまだトリアノンの窓の明かりが見える。王太子妃の招待客たちの酔っ払った人いきれで、窓には水滴が滲んでいた。

 楽団はメヌエットを演奏している。夜食後のダンスが、まだ続いているのだ。

 リラや西洋肝木の茂みにしゃがみ込んだジルベールが、曇ったタペストリー越しに演じられる影絵を見つめていた。

 きらびやかなダンスの列を陶然として眺めていたため、天が地上に落ちても気にも留めなかっただろう。

 だがリシュリューとタヴェルネがこの夜鳥の隠れている茂みの前を通りかかり、声が聞こえると、それもある言葉を耳にして、ジルベールは顔を上げた。

 それはとりわけジルベールにとって重要で意味のある言葉だった。

 元帥が友人に腕を押しつけるようにして耳に口を寄せて囁いていた。

「いろいろと考え合わせると、貴殿には話しづらいのだが、娘御を修道院に送るのは出来るだけ急がねばなるまい」

「それはまた何故じゃ?」男爵がたずねた。

「わしの見るところ、国王がド・タヴェルネ嬢にぞっこんだからだ」

 ジルベールはこの言葉を聞いて、肩や顔に降りかかっているふわりとした西洋肝木より白くなった。

 
 

第百十四章 予感

 翌日、トリアノンの大時計が正午を告げた直後、まだ部屋にいるアンドレのところにニコルが大声を出してやって来た。

「お嬢様、お嬢様、フィリップ様がお見えです」

 という声が階段の下から聞こえる。

 アンドレは驚くと同時に大喜びでモスリンの部屋着をかき合わせ、兄を迎えに飛び出した。嘘ではなかった。トリアノンの中庭で馬から降りたばかりのフィリップが、いつ頃なら妹と話すことが出来るのかを使用人たちにたずねていた。

 そこでアンドレは自分で扉を開け、フィリップと顔を合わせた。お節介焼きのニコルが中庭まで報せに行き、階段まで連れて来たのだ。

 アンドレは兄の首にかじりついた。それから二人はアンドレの部屋に戻り、後ろからニコルがついて行った。

 だがその時になって、フィリップがいつもより深刻な顔をしていることに、アンドレは気づいた。笑顔にさえ悲しみが滲んでおり、極めて整然と軍服を身につけ、畳んだ外套を左脇に挟んでいる。

「どうなさったの、フィリップ?」アンドレははっとしてたずねた。心遣いの出来る人間には、何かを見抜くのにも一目で充分だった。

「聞いてくれ。今朝、聯隊に合流せよという命令を受け取ったんだ」

「では行ってしまいますのね?」

「行かなくてはならない」

「ああ!」アンドレの悲鳴には、持てる限りの勇気と少なからぬ気力が込められていた。

 フィリップが発つのはごく当然のことだったから、アンドレもあらかじめ覚悟はしていたのだろうが、実際に報せを聞いてみるとあまりに落胆が大きく、思わずフィリップの腕にしがみいていた。

「アンドレ!」フィリップが驚いてたずねた。「そこまで悲しいのか? 旅立ちなんて軍人生活では一番ありふれた出来事なんだぞ」

「ええ、わかってます。それで、どちらに行かれますの?」

「駐屯地はランスだよ。たいした距離じゃない。そうは言っても、どうやらそこからストラスブールに戻ることになりそうだけどね」

「そんな! それで、いつ発ちますの?」

「直ちに出発せよという命令だった」

「ではお別れを言いにいらしたんですのね?」

「ああ、そうだよ」

「お別れだなんて!」

「何か言いたいことがあるんじゃないのか、アンドレ?」アンドレの悲しみ方が尋常ではないのでフィリップは不安になり、もしかするとほかに理由があるのではないかといぶかった。

 この言葉がニコルに向けられていることはアンドレにもわかった。ニコルもびっくりして眺めるほど、アンドレは悲嘆に暮れていたのだ。

 何にせよ将校が駐屯地に向かうことが、これほどの涙を誘うような大惨事だとは思えない。

 だからフィリップが感じていることもニコルが驚いていることも、アンドレは同時に悟った。ケープをつかんで肩に掛け、兄を階段の方に連れて行った。

「庭園の柵のところまでいらして下さい、フィリップ。並木道からお見送りいたしますわ。仰る通り、お話ししたいことがあります」

 これはニコルに対する退出命令でもあった。ニコルは壁伝いに退がってアンドレの部屋に引っ込み、アンドレとフィリップは階段を降りた。

 アンドレは礼拝堂に隣接する階段を降り、現在でも庭に通じている通路を抜けて外に出た。だがすぐにフィリップから不安そうな目つきで問いかけられたにもかかわらず、腕にぶら下がって肩に頭をもたれさせたまま、一言も口を利かなかった。

 ところが不意に胸を詰まらせ、顔を死ぬほど真っ青にして、嗚咽を口元まで這い上らせ、止まらぬ涙で目を曇らせた。

「ああ、アンドレ。お願いだから、何があったんだ?」

「頼れる人はお兄様しかいませんのに。昨日から放り込まれたこの世界に独りぼっちにさせておいて、どうして泣くのかだなんておたずねになるんですか! わからないの、フィリップ? 生まれた時に母を失くしただけではなく、こんなことを言うと罰が当たるけれど、父を持ったこともないのに。心に感じた悲しい思いも、胸に仕舞った秘密も、お兄様だけにしか打ち明けたことはないんです。小さかった頃のわたくしに微笑んでくれたのはどなたでした? 抱きしめてくれたのは? あやしてくれたのは? お兄様でした。大きくなってから守ってくれたのはどなたでした? お兄様です。主に命をいただいた者たちがこの世に放り込まれたのは苦しむためだけではないのだと信じさせてくれたのはどなたでした? お兄様です、フィリップ、みんなお兄様だったんです。だからこうしてこの世に生を受けてから、お兄様よりほか誰も愛したことはなかったし、お兄様以外の誰からも愛されませんでした。ねえフィリップ!」アンドレは辛そうに先を続けた。「そうして顔を背けてらっしゃるけれど、お兄様の考えていることはわかりますわ。わたくしは若いし、綺麗だし、未来や恋愛に見切りをつけるのは間違っているとお考えなのでしょう。でもね、お兄様だってちゃんとわかってらっしゃるんでしょう? 誰かが目を掛けて下さるほどは綺麗でも若くもないってことは――。

「確かに王太子妃殿下は親切にして下さいますわ。それは確かです。少なくともわたくしの目には完璧な方に見えますし、女神のような方だと思っています。でもそれはあの方のことを雲の上の存在だとわきまえて、愛情ではなく敬意を抱いているからです。それでもフィリップ、愛情という感覚がわたくしの心には必要なんです。いつまでも胸に秘めて押し殺していると、心臓が破れてしまいます――父が……ああ、お父様! もう何も申し上げることはありませんわ、フィリップ。お父様は保護者でも家族でもありませんでしたし、いつも恐ろしい目つきで見つめてばかりでした。わたくし怖いの、フィリップ。お父様が怖いんです。お兄様が行ってしまうとわかってからはなおさら。何が怖いのかなんてわたくしにもわかりません。逃げる鳥の群れや唸る家畜の群れだって、嵐が近づいて来れば、嵐を怖がるんじゃないかしら?

「それは本能だって仰るかもしれないけれど、永遠不滅の人間の魂にも災いを察知する本能があることは否定できないのではありません? いつからか、何もかもがわたくしたちに都合よく働いていることには気づいていました。お兄様は大尉になりましたし、わたくしは王太子妃の内向きのお世話をさせていただいていますもの。それにお父様は昨夜、国王と夜食を共になさいましたの。フィリップ、気が狂ったと思われるかもしれませんけど、何でも言いますわ、タヴェルネで貧乏に身を委ねて閉じ籠もっていた頃と比べても、今起こっているありとあらゆることが不安で仕方ないんです」

「でもね、アンドレ」フィリップは悲しげに呟いた。「おまえはタヴェルネでも一人だった。ぼくはあそこにもいなかったし、おまえを慰めたりは出来なかった」

「そんなことない。それは確かに一人だったけれど、いつも小さな頃の思い出と一緒でしたもの。あそこで生まれ、息をして、母を失くしたあの家が、言ってみれば生まれて以来の守り神だったのね。あそこにあった何もかもが優しく、愛おしく、親しげに思えたんです。あそこでならお兄様が旅立つのを落ち着いて見ていられたし、戻って来るのを大喜びでお迎えしていました。でも出かけていても戻って来ても、心をすべてお兄様に預けていたわけではなかったんです。時々とはいえお兄様がいたあの家や庭や花、あの場所が好きでした。でも今はお兄様がすべてなんです、フィリップ。お兄様がいなくなってしまっては、何もかもなくしてしまいます」

「だがアンドレ、今はぼくなんかよりずっと頼れる保護者がいるじゃないか」

「そうかもしれませんけれど」

「それに素晴らしい未来が待っている」

「そんなことは誰にも……」

「どうして悲観的なんだ?」

「わたくしにもわかりません」

「そんなんじゃ、神様に失礼だぞ」

「そんなことはありません。主には感謝を忘れず、いつも朝にはお祈りを捧げていますもの。でもひざまずいて感謝の言葉をお祈りするたびに、代わりにこんな声が聞こえるような気がするんです。『気をつけよ、娘よ、気をつけるのだ!』」

「気をつけるようなことがあるのか? 教えてくれ。身の危険を感じているというのなら、おまえの言うことを信じるよ。悪い予感がするのか? 立ち向かうなり避けるなりするにはどうすればいいんだ?」

「わからないの、フィリップ。わかるのはただ、お兄様が行ってしまうと知った瞬間から、わたくしの人生なんて一本の糸で吊られているだけで、何の輝きもなくなってしまったも同然だということだけ。はっきりと言えば、眠っている間に断崖絶壁の上に連れ出されて、無理矢理に目を覚まされたような気持なんです。目を覚まさずにはいられないんです。目の前に崖があるのに、むしろそこに吸い寄せられてしまい、わたくしを支えてくれるお兄様ももういないので、そのまま崖の下に姿を消してばらばらになってしまいそうなんです」

「いいかいアンドレ」声の調子からアンドレが心から怯えているのがわかり、フィリップは思わず胸を締めつけられた。「おまえの優しさには感謝しているけれど、それはちょっと大げさだな。家族がいなくなるのは確かだけれど、ほんの一時じゃないか。何かあっても戻れないほど遠くに行くわけじゃない。それにおまえは自分の空想を怖がっているだけだよ」

 アンドレが立ち止まった。

「でしたらお兄様。男であるお兄様が――わたくしよりもずっと強いお兄様が――今こうしてわたくしと同じくらい悲しんでいるのはどうして? どうか説明して下さい」

「別に難しいことじゃない」口を閉じて再び歩き出していたアンドレをフィリップが止めた。「ぼくらは魂と血で繋がっているだけではなく、魂と心で繋がっている兄妹なんだ。だからパリに来てからは気持を通じ合わせて過ごすことが、ぼくには当たり前になっていた。でもその鎖を断ち切って――いやそうじゃない、人に鎖を断ち切られて、その衝撃が心にまで届いているんだ。だから悲しいけれど、ほんの一時のことに過ぎないじゃないか。ねえアンドレ、離ればなれになってからが目に浮かぶようだよ。悪いことなんか起こるものか。数か月から一年くらいの間、会えないだけだ。ぼくは甘んじて受け入れる。『さよならと』は言わないよ、『また会おう』だ」

 こうして慰められても、アンドレはすすり泣くことしか出来なかった。

「アンドレ」フィリップにはアンドレがここまで悲しがる理由が理解できなかった。「何か隠しているんじゃないのか。お願いだからすっかり話してくれ」

 フィリップはアンドレの腕をつかんで胸に引き寄せ、瞳を覗き込んだ。

「わたくしが? 何もありません。お兄様にはすっかりお話ししましたもの、わたくしのことならお兄様は何でも知ってらっしゃるわ」

「だったらアンドレ、お願いだからそんなに悲しがらずに元気を出してくれ」

「そうね。馬鹿だったわ。わたくしが精神的に強くないことは、誰よりもご存じでしょう、フィリップ。いつもいつも、怖がったり、夢見たり、溜息をついてばかり。でもこんな辛い空想に、愛しいお兄様を巻き込むことなんて出来やしません。いつも元気づけてくれて、怯える必要なんかないと言って下さるのに。お兄様は正しいわ。間違ってません、この場所がわたくしにとって申し分ないことばかりなのは事実です。ごめんなさい、フィリップ。涙を拭くわね、もう泣かずに笑顔になります。『さよなら』なんて言わずに、『また会いましょう』とご挨拶するわ」

 アンドレは兄を優しく抱き寄せた。隠しておいた涙の最後の一粒が、潤んでいた瞼から真珠のようにこぼれて、フィリップの飾緒に落ちた。

 フィリップは兄としてまた父として万感の愛おしさを込めてアンドレを見つめた。

「アンドレ、愛しているよ。元気をなくすんじゃないぞ。ぼくは出発するけれど、毎週手紙を書くからね。おまえも毎週届けてくれるね」

「もちろんよ、フィリップ、ありがとう。それだけが楽しみ。でもお父様にはもうお知らせしたの?」

「何をだい?」

「お兄様が出発すること」

「知らせるどころか、この朝に大臣の指令を届けてくれたのは父上本人なんだ。ド・タヴェルネ男爵はおまえとは違う。どうやらぼくがいなくても平気らしいよ。ぼくの出発を喜んでいたけれど、確かに考えてみると、父上が正しいんだ。ここにいては、どれだけ好機が訪れても前に進めないだろうからね」

「出発すると知ってお父様はお喜びになったというの!」アンドレが呟いた。「間違いないの、フィリップ?」

「父上にはおまえがいるからね」フィリップは巧みに答えを避けた。「おまえがいれば安心なんだ」

「本気でそう思ってらっしゃるの、フィリップ? わたくしにはわからないわ」

「今日ぼくが発った後でトリアノンに行くことを伝えてくれと頼まれたんだ。父上もおまえを愛しているんだ。ただし父上なりの愛し方で、だけれど」

「まだ何かあるの? 焦っているように見えるけれど」

「さっき鐘が鳴っただろう。何時だったかわかるかい?」

「十二時四十五分よ」

「それが焦っている理由さ。一時になれば行かなくちゃならない。あの柵のところに馬を繋いでいるんだ。つまり……」

 アンドレは落ち着いた表情のまま、兄の手を握った。

「つまり……」その声はあまりにぎこちなく、うわべすら繕うことが出来なかった。「つまり、お別れなんですね、お兄様……」

 フィリップはもう一度だけアンドレを抱きしめた。

「また会おう。約束を忘れないでくれ」

「約束?」

「週に一度は手紙を」

「こちらこそ約束よ!」

 これだけのことを口にするのにもひどく辛そうで、ほとんど声にならなかった。

 フィリップは最後に一つ敬礼をしてから立ち去って行った。

 アンドレはそれを目で追い、溜息を洩らすまいと息を止めていた。

 フィリップが馬に乗り、柵の向こう側から別れを告げてから走り去った。

 アンドレは立ちつくしたまま、兄の姿が見えなくなるまでじっと動かずにいた。

 とうとう見えなくなると、くるりと向きを変えて、手負いの鹿のように木陰に駆け込み、腰掛けを見つけるやそこにたどり着いて倒れ込むのがやっとだった。血の気も失せ、力という力が抜け、何も見えなかった。

 やがて胸の奥底から、いつ果てるともなく絞り出すような嗚咽を洩らした。

「ああ神様! どうしてこの世に一人きりになさるんですか?」

 両手に顔をうずめ、白い指の隙間から涙をぼたぼたとこぼし始めると、もう止めることは出来なかった。

 この時、熊垂クマシデの後ろから小さな物音がした。溜息が聞こえたような気がして、ぎょっとして振り返ると、惨憺たる様子の人影がアンドレの前に立ちつくしていた。

 ジルベールだ。

『ジョゼフ・バルサモ』 112

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百十二章 宝石箱

 ド・タヴェルネ氏は長くは待たされなかった。リシュリューは国王付きの従僕に化粧台の上に置かれていたものについてたずねてから、すぐにそれを持って外に出て来た。絹で包まれているものが何であるのか、ぱっと見ただけでは男爵にはわからない。

 だが元帥は友人の不安を取り除こうと、回廊の隅に引っ張って行った。

「男爵――」二人きりであることを確認すると、すぐに公爵は切り出した。「時にはわしの友情を疑うこともあったであろうな?」

「仲直りしてからはそんなわけがなかろう」

「では貴殿と子供二人の運命について疑いを持ちはしなかったかね?」

「その点はその通りじゃな」

「そこだ。貴殿は間違っておる。貴殿と子供たちの運命は、眩暈を起こしそうなほど素早く培われておるのじゃぞ」

「ふふん!」タヴェルネは真実を察していたものの、神に身を委ねぬ人間のこと、もちろん悪魔にも油断を怠らなかった。「どうやったらそんなに早く培えるというのじゃ?」

「もう既にフィリップ殿は大尉におなりではないか。しかも聯隊の費用は国王が出して下さっておる」

「むう! 確かに……あなたに借りが出来たのう」

「何のそれしき。やがてド・タヴェルネ嬢は侯爵夫人になるものと考えておる」

「まさか! わしの娘が、どうやって……?」

「よいか、タヴェルネ。国王は風流なお方だ。美しさ、淑やかさ、貞淑さ、そういったものに陛下は心をお惹かれになるが……ド・タヴェルネ嬢にはそれがすべて完璧に備わっているではないか……だからこそ国王はド・タヴェルネ嬢に心をお惹かれなのだ」

「公爵」タヴェルネは威厳を繕ったが、元帥には滑稽にしか見えなかった。「その言葉をもっと詳しく説明してくれぬか。心を惹かれていらっしゃるとは?」

 リシュリューは気取ったことが嫌いなので、すげなく答えた。

「男爵よ、わしは言語学には詳しくないし、正字法にも詳しくない。心を惹かれる、とはわしにとって、非常に気に入っている状態を意味しておる……貴殿の子供たちの美しさや才能や貞淑さを国王が気に入っているのを知って、遺憾に思うというのなら、そう言ってくれればよい……わしは陛下のところに戻るとしよう」

 リシュリューは若々しい身のこなしできびすを返した。

「公爵、あなたはわしのことをわかっておらぬな」男爵がそれを呼び止めた。「まったく! 怒りっぽい御仁じゃ」

「ではどうして気に入らぬなどと口にする?」

「そんなことは言っておらん」

「国王のお喜びに説明を求めたではないか……馬鹿はすっこんでおれ!」

「繰り返すが公爵よ、わしはそんな口を利いておらん。このわしは間違いなく満足しておる」

「ほう! 貴殿は、か……すると不満があるのは誰じゃ?……娘御か?」

「むう!」

「のう、貴殿は娘御を自分のような野蛮人に育てあげたのか」

「一人で勝手に育ったんじゃよ。お察しの通り、あれに苦労させられたことはない。わしはタヴェルネのねぐらで過ごすだけじゃったからの……あれの美徳はひとりでに備わったものじゃ」

「田舎の人間は毟るべき毒草を知っているというが……要するに娘御は澄まし屋というわけか」

「違うな、白鳩じゃよ」

 リシュリューは顔をしかめた。

「いいか、貧乏な娘には良い夫を探すしか道はない。そうした不利な条件で幸運をつかむ機会は滅多にないからのう」

 タヴェルネは不安そうに公爵を見つめた。

「幸いにも、国王はデュ・バリー夫人に夢中じゃ。ほかの女子おなごに真剣な目をくれることはなかろう」

 タヴェルネの不安は苦悩に変わった。

「だから二人とも安心するがよい。わしから陛下に必要なことを申しておこう。陛下もことさら気にはなさるまい」

「いったい何の話じゃ?」タヴェルネは公爵の腕をつかんだ。

「アンドレ嬢への贈り物じゃよ、男爵」

「贈り物!……いったい?」タヴェルネは野心と期待に胸をふくらませた。

「たいしたものではない」リシュリューは「これじゃよ……取っておけ」

 絹を開いて宝石箱を取り出した。

「宝石箱?」

「どうということはない……数千リーヴルの首飾りだ。陛下は好きな歌が歌われるのを聞いて気分を良くされ、歌い手に受け取ってもらうことを所望されたのじゃ。当たり前のことに過ぎん。だが娘御が嫌がっているというのなら、もうこの話はせんでおこう」

「公爵よ、そのことを考えぬのは、国王への冒涜ではないのかの」

「恐らく冒涜になるであろうな。だがそもそも貞淑というものは、誰かや何かを傷つけずにはおられぬものではないのか?」

「ああ、公爵よ、よく考えてくれ、あの娘はそこまで常識外れではないぞ」

「つまり口を利いたのは貴殿であって娘御ではないということか?」

「もちろんだ。あれの言うことややることくらいわかっておる!」

「中国人は幸せだのう」と、リシュリューが言った。

「何故じゃ?」タヴェルネがぽかんとしてたずねた。

「国内に運河や川がたくさんあるからじゃ」

「公爵、話を変えるな。わしをがっかりさせんでくれ。どうか続きを話してくれ」

「もちろんだ。話を変えたりはしておらぬ」

「ではどうして中国人のことなど話す? 中国の川とわしの娘に何の関係があるというのじゃ?」

「それが大いにあるのだ。幸運なことに中国人になら、誰にも何も言われずに、貞淑が過ぎる娘を溺れさせることが出来よう」

「待て待て、あなたの言うことは正しいに違いないが、自分に娘がいた場合のことを考えてみなされ」

「馬鹿もん! 一人おるわい……あれが貞淑だと言えるものか……あんなふしだら娘!」

「つまり駄目な子ほど可愛い、というわけじゃの?」

「ふん! 八年も経てば我が子らの区別もつかぬわ」

「取りあえず聞くだけ聞いてくれ。国王があなたの娘に首飾りを贈り届けるようにわしに頼み、それを娘はあなたに訴えたとしたら?」

「いやはや! 譬え話などやめい……わしは宮廷で過ごし、貴殿は辺境で過ごして来た。重なるところなどあるわけがなかろう。貴殿にとっては貞淑なことでも、わしにとっては愚行でしかない。これからどうすればいいかわからずに、『これこれの場合にあなたならどうしますか?』と人に聞いて回ることほどぶざまなことはないぞ。だいたい譬えを間違っておる。わしが貴殿の娘御に首飾りを贈り届けるというのが事実無根ではないか」

「あなたが言ったのではないか……」

「そんなことは一言も言っとらん。国王がド・タヴェルネ嬢の声をお気に召したので宝石箱を御許に持って来るよう仰せつかった、と申したのだ。娘本人に手渡すように陛下から頼まれたとは一度も言っておらぬぞ」

「だがそうなると――」男爵はすっかりしょげ込んでしまった。「わしにはよくわからんわい。あなたの謎かけは一言も理解できん。手渡すためでないとしたら、どうして首飾りを預かっとるんじゃ? 届けるためでないとしたら、どうして引き受けたんじゃ?」

 リシュリューは蜘蛛でも見つけたように大きな声をあげた。

「おお、嫌じゃ嫌じゃ! この荒夷め! 屁っぴり虫めが!」

「誰のことじゃ?」

「もちろん貴殿じゃよ、我が友……何を驚いておるのじゃ、男爵殿」

「わしにはよく……」

「『よく』どころかまったくわかっておらんのだ。国王がご婦人に贈り物をなさったり、ド・リシュリュー氏にこの任務を託されるのなら、贈り物はもっと豪華だし、もっと手際よく任務を終えておる、覚えておけ……宝石箱を届けるのはわしではない。それはルベル殿の仕事じゃ。ルベル殿は知っておるな?」

「ではあなたは何をなさるんじゃ?」

「男爵よ」リシュリューはタヴェルネの肩を叩くという友好的な態度と共に、悪魔のような微笑みを見せた。「アンドレ嬢のように貞淑なご婦人と関わるとあらば、わしとて誰よりも誠実な男になる。貴殿の言葉を借りて白鳩に近寄るのなら、自分が鴉だとは思わんようにしておる。ご婦人の許に遣わされたのなら、父親に話をするようにしておる……わしは貴殿に話をしておるのだ、タヴェルネよ、貴殿に宝石箱を手渡すから、娘御に渡してやってくれ……構わぬな?……」

 リシュリューは宝石箱を手渡した。

「それとも断るか?」

 リシュリューは手を引っ込めた。

「待て待て!」男爵が声をあげた。「それならさっさと言ってくれ。この贈り物を手渡すように陛下から仰せつかったのはこのわしなのだと言ってくれ。それならもっともであるし、父親らしいことでもあるし、余計なものを取り除くことも出来よう」

「もしや何か裏があるのだと陛下をお疑いなのか?」リシュリューが気難しい顔をしてみせた。「よもやそんなことは言えまいに」

「無礼を許し給え! だが世間は……いや娘は……」

 リシュリューは肩をすくめた。

「受け取るのか、取らぬのか」

 タヴェルネは慌てて手を伸ばした。

「これであなたは誠実というわけじゃな?」そして先ほどのリシュリューと同じような笑みを返した。

「父親に仲介させることは誠実極まりないとは思わぬのか? 輝かんばかりの主君と魅力的な娘御の間を取り持って、貴殿の言葉を借りるならば、余計なものを取り除く役をじゃぞ。ジュネーヴのジャン=ジャック・ルソー氏が先ほどここらをうろついて、わしらを見定めておったな。あやつなら故ジョゼフにはわしよりも余計な不純物が混じっていると言うところだぞ」

 リシュリューはこれだけのことを冷静でいながら不自然なほど偉ぶって気取った様子で口にして、タヴェルネを黙らせ、納得して当然だと思わせようとした。

 すると男爵は友人の手を取って握り締めた。

「娘が贈り物を受け取ることが出来るのも、あなたのおかげじゃ」

「貞淑についてつまらぬ議論を交わしておったが、そもそも初めからこうした幸運の起こりについて話しておったのじゃぞ」

「済まぬな、公爵、心から感謝する」

「一言だけ言っておく。デュ・バリーの友人たちにはこの報せを知られるでないぞ。デュ・バリー夫人が国王の許を離れて逃げ出さぬとも限らん」

「国王はわしらに腹を立てなさるかのう?」

「それはわからぬが、伯爵夫人はいい顔をせんじゃろう。わしは失脚するであろうな……くれぐれも口を謹んでくれよ」

「心配いらぬわ。それよりもわしが感謝していることを国王にしっかりお伝えしてくれ」

「それに貴殿の娘御が感謝していることも、忘れずに伝えよう……だが良い報せは終わってはおらぬ……貴殿自身も国王に感謝せねばなるまい。陛下が今晩の夜食に貴殿を招待なされたのじゃ」

「わしを?」

「貴殿をじゃよ、タヴェルネ。わしらは家族同然であろう? 陛下はわしや貴殿と、娘御の貞淑についておしゃべりなさりたいそうじゃ。では失礼するぞ、タヴェルネ。あそこにデュ・バリーとデギヨンが見える。わしらが一緒にいるところは見られぬ方がよい」

 そう言って小姓のように身軽に回廊の奥に姿を消した。残されたタヴェルネは、宝石箱を手に、眠っている間にクリスマスの玩具を手渡されて目覚めたサクソン人の子供のように立っていた。

『ジョゼフ・バルサモ』 111

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百十一章 リハーサル

 ひとたびリハーサルが始まると、誰もが舞台に注目し、誰一人としてルソーのことなど構わなかったので、ルソーの方で周りを観察し始めた。貴族たちが村人の衣装を身につけて下手な歌を歌い、貴婦人たちが宮廷衣装に身を包みながら羊飼いのような婀娜を見せている。

 王太子妃が歌い出したところだったが、あまり上手い女優とは言えない。声も小さいのでほとんど聞こえない。国王は誰にも気まずい思いをさせないようにと、ボックス席の暗がりに引っ込んで貴婦人たちとおしゃべりを始めていた。

 王太子があまり王侯らしいとは言えぬオペラの台詞を囁いていた。

 ルソーは耳を塞ごうとしたが、耳に流れ込んで来る音を無視することは出来なかった。それでも、脇役を務める著名人の中に見目よい顔を一つ見つけたのが慰めだった。天により美しい顔を授けられたその村娘は、ひときわ美しい歌声を聞かせていた。

 ルソーは譜面台の上からその美しい姿に一心に見とれ、その声の織りなす旋律に耳を傾けた。

 このように夢中になっているルソーを見て、王太子妃が誤解してしまったのも致し方あるまい。ルソーの微笑みやぼうっとした眼差しを目にして、舞台の出来に満足しているものと思い込んだ。そこで王太子妃も女であったので、褒めてもらいたくて譜面台越しに声をかけた。

「いけないところはありました?」

 ルソーはぽかんとしたまま答えない。

「とちっちゃったのね、何にも言って下さらないなんて。お願いですから、ルソーさん」

 ルソーはかの美女から目を離すことが出来ずにいたが、相手の方はまじまじと見られていることに気づいていない。

「あら!」ルソーの視線の先を追った王太子妃が声をあげた。「とちったのはド・タヴェルネ嬢だったんですか!……」

 アンドレは人々から見つめられて真っ赤になった。

「ああ、いや違います!」ルソーが声をあげた。「お嬢さんではありません。お嬢さんの歌声は天使のようでした」

 デュ・バリー夫人がルソーに向かって槍より鋭い目つきを放った。

 反対にド・タヴェルネ男爵は心底から喜び、にこやかな微笑みをルソーに送った。

「あの娘がお上手だってことにお気づきになりまして?」デュ・バリー夫人が、ルソーの言葉に目に見えて驚いていた国王にたずねた。

「気づかなかったな……」ルイ十五世は答えた。「合唱コーラスであったから……音楽家でなくては気づくまい」

 ルソーは楽団オーケストラの中で忙しく動き回り、コーラス部分を歌わせていた。

コランは恋人のもとに。
ようこそお帰りなさいまし。

 テストを終えて振り返ると、ド・ジュシュー氏がにこやかに挨拶しているのが見えた。

 宮廷人によって自尊心をいたく傷つけられたルソーにとって、宮廷を取り仕切っている現場をほかならぬ宮廷人に目撃されるというのは、並々ならぬ喜びであった。

 ルソーは仰々しい挨拶を返すと、改めてアンドレを見つめた。褒められたことによってさらに美しさが増している。リハーサルが続くにつれ、デュ・バリー夫人の機嫌が悪くなった。ルイ十五世が睦言を聞かずに舞台に見とれているのを、二度も気づいてしまったのだ。

 やきもち焼きからしてみれば、舞台とは即ちアンドレのことだ。それでも王太子妃が多くの讃辞を受けて、嬉しそうな顔を見せることの妨げにはならなかった。

 ド・リシュリュー公爵は年齢を感じさせぬほど軽やかに王太子妃の周りを飛び回り、劇場の奥に笑いの輪を作ることに成功した。その中心には王太子妃がいるわけだから、デュ・バリー一派は憤然として気が気ではない。

「ド・タヴェルネ嬢はいい声をしているようですな」リシュリュー公が大きな声で言った。

「素敵な声でしょう」王太子妃が答える。「押しつけがましいところもなくて。コレットをやらせたいくらいなんですけれど。でもわたしもコレットを演じるのが楽しみだったので、誰にもやらせるつもりはないんです」

「いやいや、さすがに殿下ほど上手くはありますまい」とリシュリューが答え……

「お嬢さんの歌は絶品です」ルソーが断言した。

「絶品ですわね」王太子妃も言った。「こう申しては何ですけれど、指導してもらいたいくらい。わたしと違って踊りもお上手なんです」

 こうした会話が如何なる結果をもたらしたであろうか。国王、デュ・バリー夫人、野次馬、噂好き、策士、嫉妬屋たちは、恥や苦痛で傷を負いながらも、大喜びで収穫を手に入れていた。アンドレ本人を除いては、無関心な者などいなかった。

 ルソーに褒められてその気になった王太子妃は、アンドレに恋歌を歌わせることにした。

幸せをすっかり失ってしまった、
コランに見捨てられてしまった。

 国王が上機嫌でリズムに合わせて頭を動かしているものだから、デュ・バリー夫人の火照りも、湿気った絵画のようにぱらぱらと剥がれ落ちてしまった。

 女以上に執念深いリシュリューはそれを見て、してやったりと溜飲を下げた。それからタヴェルネ男爵のところに歩み寄り、二人して銅像のように立ち会わせている様は、あたかも「偽善」と「収賄」が一つの計画について目配せを交わしたかのようであった。

 二人が喜べば喜ぶほどデュ・バリー夫人の顔色はますます曇り出した。とうとうそれも限界に達し、夫人はかっとなって立ち上がった。これは異例の行動であった。何しろ国王はまだ坐ったままだったのだから。

 取り巻きの廷臣たちは嵐の予感を感じ取り、蟻のように逃げ場を求めて、慌てて安全な場所に避難した。そういうわけで王太子妃は今まで以上に友人たちに取り囲まれ、デュ・バリー夫人はいっそう身体を押しつけられた。

 今や人々の関心はリハーサル本来の道筋から外れて、別の事柄に移っていた。多くの観客が考えていたのはもはやコレットとコランではなく、じきにデュ・バリー夫人が歌う羽目になりそうだということであった。

幸せをすっかり失ってしまった、
コランに見捨てられてしまった。

「ご息女は素晴らしい成功を収めたとお思いだろうな?」リシュリューがタヴェルネに囁いた。

 男爵を廊下まで引っ張って行くとガラス戸を押して、部屋を覗こうとしてガラス窓にぶら下がっていた野次馬を振り落とした。

「とんま奴が!」ド・リシュリュー氏が吐き捨てた。扉を開けた勢いで皺になった袖を払いながら、さらには野次馬の服装が使用人風であることを目敏く見つけたのだ。

 それは確かに、花籠を抱えた使用人であった。ガラス窓の陰から背伸びしてまんまと室内を覗き込み、芝居をすっかり目に収めていた。

 廊下に押し戻されて危うくひっくり返りそうになったが、自分ではなく籠をひっくり返してしまった。

「むう! このとんまは知り合いじゃ」タヴェルネが不機嫌な目つきで睨んだ。

「何者かね?」

「ここで何をしておる?」

 読者諸氏は先刻ご承知の通り、それはまさしくジルベールであった。

「ご覧の通り、見学していました」ジルベールは毅然として答えた。

「仕事を放っぽり出してか」リシュリューがなじった。

「仕事は済ませました」ジルベールは公爵に恭しく答えたが、タヴェルネに目を向けようともしなかった。

「何処に行ってもこの怠け者と会わねばならんのか!」タヴェルネが嘆いた。

「まあまあ、皆さん」と、穏やかな声で取りなされた。「ジルベールは仕事熱心な庭師ですよ」

 タヴェルネが振り向くと、ド・ジュシュー氏がジルベールの頬を撫でていた。

 タヴェルネはかんかんになって立ち去ろうとした。

「使用人どもが!」

「待て待て!」リシュリューがそれを止めた。「あそこにいるのは確かにニコルじゃぞ……ご覧なされ……ほれ、あの扉の隅……淫婦じゃのう! ここぞとばかりに流し目をくれておる」

 確かにニコルだ。トリアノンの使用人たちの後ろで顔を上げ、驚きと感嘆で目を丸くしていた。その目にはあらゆるものが何倍にもなって映っていそうなほどだった。

 ジルベールはそれを気にしながらも、同時に見て見ぬふりをした。

「ほれほれ」公爵がタヴェルネに声をかけた。「陛下が貴殿と話をなさりたがっておいでではないかな……きょろきょろなさっているぞ」

 二人はその場を離れ、国王のボックス席の方に向かった。

 デュ・バリー夫人はデギヨン氏と一緒に立っていた。デギヨンは伯父の一挙手一投足たりとも見逃さずにいる。

 一人残されたルソーはアンドレに見とれていた。こういう言い方を許していただけるなら、ルソーは恋に落ちている真っ最中だった。

 ジルベールが花を換えていたボックス席に、高貴な俳優たちが服を着替えに戻った。

 ド・リシュリュー氏が国王に会いに行ったため廊下に一人残されたタヴェルネは、待っている間にぞっとしたり昂奮したりを交互に繰り返していた。ようやく公爵が戻って来て人差し指を口唇に当てた。

 タヴェルネは喜びで青ざめて友人を出迎えると、国王の座席まで案内してもらった。

 そこでは一部の人しか聞けないようなことも耳に入って来る。

 デュ・バリー夫人が国王に話しかけていた。

「お夜食には陛下が来ていただけると思っていいのかしら?」

 国王が答えた。

「すまぬが疲れておる」

 ちょうどそこに王太子が現れて、伯爵夫人が目に入らなかったのか、危うく足を踏みそうになった。

「陛下、トリアノンで夜食をご一緒していただけますか?」

「いや、伯爵夫人にも言っていたところだが、余は疲れておる。若い者たちに囲まれていると頭がくらくらしてしまうからな……夜食は一人で摂るつもりだ」

 王太子はお辞儀して立ち去った。デュ・バリー夫人も深々とお辞儀をして、怒りに震えながら退去した。

 国王がリシュリューに合図を送った。

「公爵、そなたに関することで話しておきたいことがある」

「陛下……」

「余は納得しておらぬ……ぜひ説明してもらいたい……よいな……余は一人で夜食を摂るから、控えておれ」

 それからタヴェルネを見つめ、

「こちらの貴族とはお知り合いかね、公爵?」

「ド・タヴェルネ殿ですか? もちろん知っております」

「ああ! あの歌の上手いお嬢さんの父上か」

「はい、陛下」

「耳を貸せ」

 国王は顔を突き出してリシュリューに耳打ちした。

 タヴェルネは動揺を気取られないように、掌に爪を食い込ませた。

 やがてリシュリューがタヴェルネに歩み寄り、囁いた。

「さり気なくついて来なさい」

「何処まで?」タヴェルネも囁き返す。

「いいから来ることじゃ」

 公爵に続いてしばらく歩くと、国王の部屋に到着した。

 公爵が中に入り、タヴェルネは控えの間で待たされた。

W・F・ハーヴィー「真夜中亭」

真夜中亭ミッドナイト・ハウス

 測量地図でちょくちょくその名前を目にするたび、いったいどんな家なのかつねづね不思議に思っていた。

 自分だったら、水の涸れた深い谷底にある松林のなかに建てていただろう。あるいは緩やかに満ち引きする川沿いの沼沢地を選んでいただろうか。そして毒々しいほどの常緑樹で埋まった庭にはポプラがささやいているのだ。

 大聖堂のある街の、物寂しげな小径にあるのもいい。打ち捨てられた教会のせせこましい墓地の一画を見下ろせる場所だ。尖塔と鐘楼に囲まれているため、そこで眠る人たちは、騒々しい鐘の報せで真夜中に目を覚ますことになる。

 だが冷たい現実の『真夜中亭ミッドナイト・ハウス』は――頭のなかだけで徒歩旅行の計画を練っているあいだに、地図上で目にしていた真夜中亭の現実は――どの空想とも違っていた。目にしたのは古い馬車道にある宿屋に過ぎなかった。馬車道が丘のてっぺんからてっぺんまで矢のように真っ直ぐと荒野を貫いているところを見ると、おそらくローマ街道だろう。

 人というのは名前に合った生き方をするものなので、土地についても同じことを期待する人もいるが、うまくいかない。ポグソンという家からは決して詩人は生まれないだろう。法律家、新聞記者、衛生技師としてどれだけ名声を得ようとも、詩人は生まれない。だが先週通り過ぎたモンクトン=イン=ザ=フォレストには、何もない原っぱの真ん中に鉄道連絡駅があるきりで、かつて名の知れた小修道院があって地名の由来となったということを示すような石もなかった。

 だからどうせがっかりするだろうとは思っていたものの、宿屋から二十マイル以内にでも寄る機会があれば真夜中亭で夜を過ごそうと、どういうわけか決心していたのである。

 その日以上に絶好の日などなかっただろう。それは十一月末の暖かい日で――あまりに暖かかったので、最後の五マイルは荒野をてくてくと歩いていた。昼から誰にも会っていない。地平線の彼方で番人が、立入禁止だから出て行けと合図していたのだが、何のことだかわからなかった。日も暮れかけてきたので道路に戻ると、盆地の下に真夜中亭が見下ろせた。

 これ以上に物寂しい景色を描き出すのも難しかろう――左右には何も生えていない丘がどんよりとした鉛色の空まで聳えている。ふもとにはヒースが、今年の春の野焼きで焦げて黒くなり、鮮やかな緑の継ぎ接ぎがところどころを寸断して沼があることを教えている。

 それは石造りの建物で、屋根を覆っているどっしりとした板石は苔むし、コの字型の家屋に囲まれている場所は、明らかに農家の庭として使われていたようだ。

 生活の印はどこにもない。窓の半数は閉まっており、午後の薄明かりは急速に翳り出しているというのに、道路に面した入口近くのバーには明かり一つ見えなかった。

 ノックしたが答えはない。待っているのにもいらいらし始めたので、家の裏手に回ったが、そこで出くわしたのはコリーが吠える乱暴な挨拶だけだった。狂ったように鎖を引っ張り、犬小屋として使われている空き樽に繋がれていた。何はともあれこの騒ぎは、家から女性を引っぱり出すのには充分だったようだ。夜中に泊めてほしいという頼みを女性は上の空で聞いた挙げ句、驚いたことにそれを断った。

 忙しくてお客さんの相手ができない、という返事だった。こんな答えは予期していなかった。宿屋に寝床があるのはわかっている。猟場を借りる人たちが少なくとも一年に一回は使っているはずだったし、これからまた見知らぬ道を十マイルも歩くつもりはさらさらない。この問題にけりをつけたのは、頬に落ちた雨粒だった。女性はしぶしぶこちらの言い分を認め、ようやくなかに入れてくれた。食堂に案内して火を入れると、ハム・エッグなら三十分で用意できるというありがたい言葉が飛び出した。

 案内された部屋はかなり大きく、天井近くまで化粧板が張られていたが、木材本来の美しさは最近になって茶緑色に塗られているせいで台無しにされていた。

 窓は例のごとくぴったりと閉められている。かび臭い匂いからすると、ほとんど使われていないようだ。狩りの写真が五、六枚、壁に掛けられている。暖炉の上にはイサクの死を描いた安っぽいドイツ版画があった。食器棚サイドボードのガラスケースには、青鷺が一羽とまだらブラックバードが二羽、出来そこないの剥製にされて陳列されていた。そのぞっとするようなヴィクトリア様式の家具の上では、ヨーク公夫妻の誇張された肖像画が二幅、にこやかに家長を見下ろしている。

 全体としてその部屋は陽気とは言えなかったので、馬素織りのソファの上に『イースト・リン』の一冊を見つけたときにはほっとした。たいていの宿屋には本が置いてあるものだ。初めの十四章には、路傍の旅館で一人寂しく幾晩も過ごしたことが描かれていた。

 六時ちょっと前に女性が食事を運んでテーブルに並べに来た。わたしは炉辺の陰にあった椅子から、それをこっそり観察した。女性はゆっくりと動いている。よほど単純な動作でも不思議なほど慎重におこなっているものだから、心が半ばよそに行って、以前には当たり前だったものに新しいところが見つかりでもしたのかと思うほどだ。表情からは考えていることは窺えない。わかるのは、顔立ちが力強く鋭いということだけだ。

 食事をテーブルに並べ終えると、言葉を口にすることもなく、すぐに部屋から出て行ってしまった。わたしはいつになく寂しさを感じて、せいぜいのところハム・エッグを平らげて、『イースト・リン』の十五章目に取りかかることにした。

 食事は思っていたよりだいぶ美味しかった。だが食事が片づけられたあとで、暖炉まで椅子を引っ張りパイプを詰めていても、どういうわけか気持が明るくならなかった。

「この家がとっくに祟られているんでなければ、そろそろ祟られる頃合いというところかな」そんなふうに独り言ちて、一連の幽霊譚を思い出してみたが、この場所に相応しいと思えるものは見つからなかった。

 九時半過ぎ、遅くもなく早くもないころ、女性が蝋燭を持ってふたたび姿を見せ、ぶっきらぼうに寝室まで案内するのをついて行った。階段のてっぺんから左に伸びている廊下の、突き当たりの戸口で立ち止まると、「窓を開けておやすみなさるんでしたら、楔で留めた方がいいですよ。ばたばたすると、よく苦情が来るものですから」という話だった。わたしは礼を述べて就寝の挨拶をした。

 部屋の四分の一はある緋色の天蓋つきの四柱式寝台からは、一目見てあまりいい感じを受けなかったものの、少なくともおぞましい感じは受けなかった。衣装戸棚ワードローブはなく、その代わりに扉が一つあったのだが、壁と同じ材質の紙が張られていたので、初めに見たときは壁と見分けがつかなかった。なかはクローゼットになっており、ハンガーだけがずらりとぶらさがっていて、一つきりの窓から明かりが差し込んでいる。

 どちらの扉にも鍵がなく、枕元にある赤いビロード製の呼び鈴の紐はワイヤーに結びつけられてはおらず、天井の梁に打ち込まれた釘からぶら下がっているだけだった。

 外に泊まるときにはドアにしっかりと錠を降ろすのが癖だった。夢遊病者にぞっとさせられて以来、二十年前からおこなっている用心の一つだ。

 今回はそうすることはできないので、どっしりした箪笥を通路側のドアまで引きずり、夜中に風が吹いて開かないように、室内の扉の前には水差しを置いておいた。そのあとで折り畳みナイフを窓の楔にしてからベッドに入ったが、まだ寝つけずにいた。外の時計が正時を告げるのが二度、半時の報せが二度聞こえたが、そんな遅くだというのに、家からはまだ人の起きている気配がしていた。遠くで石の通路に足音が響いている。一度だけ陶器の割れる音も聞こえた――声は一切しない。日没以来ずっとつきまとっていた重苦しさを感じながら、いつしか眠りに落ちていた。(

 実際の話その日はあまりにも歩きづめだったため、疲労に身を委ねることもできず、何も感じずにまどろむこともできなかった。代わりに夢のなかでまたもや荒野を歩き、旅行案内片手に幻の谷をあてどなく求めていた。

 ようやくたどり着いた池には、茶色い泥水が溜まっていた。岸には大きな連絡船が停まっており、男や女や子どもたちが何人も乗っている。満員になるのを待って、船が出た。水面にはさざ波一つないというのに、大きな帆はいっぱいに風をはらんでいた。誰かが声をあげて、まだ人がいる、と言って指さす方を見ると、岸辺で老人が狂ったように腕を振り回していた。話し合いがおこなわれた。引き返すにはもう遅すぎると言う人もいれば、休む場所もない荒野に置いてけぼりにしては凍え死んでしまうと言う人もいた。だが結局は、早く幻の谷を見たい人たちばかりだったので、舵取りは針路を変えなかった。すると置き去りにされた途端に、老人の顔つきが変わった。にこやかな仮面は剥がれ落ち、現れたのは悪意そのものの顔でしかなかった。それを見て子どもたちは泣きながら母親のもとへと駆けて行った。

 船の上では老人の名前がささやき交わされていた。曰く、あれはこれまでにも何度も船に乗り込もうとしていた人間だ。曰く、何か恐ろしい目的があってそれを遂行していたかもしれない。逃げおおせたことを祝って奇妙な歌が始まり、流れる川のせせらぎのように大きくなるかと思えば小さくなったりを繰り返していた。

 窓に雨が当たる音で目が覚めた。外を流れる小川がいつの間にか水位を増して水音を響かせていたが、子守唄のように落ち着いた調べだったので、すぐにふたたび眠りに落ちていた。

 また夢を見た。夢のなかで今度は大きな同盟市の市民になっていた。市壁から遙かな地平線まで広がっている肥沃な平野が、軍隊に一掃され、荒らされていた。太陽が沈みかけたころ、飢えかけた人々が西の門に押し寄せ、入れてくれと訴えていた。それは農夫の集団だった。軍隊に取り囲まれ、余分な食糧などない市からも冷たく壁を閉ざされて、進退きわまっていた。正門の右手にある小門の辺りに仲間たちと立っていると、一人の男が近寄って来たのに目を惹かれた。それは若盛りの大男で、木のように聳え、牡牛も抱えられそうな力に満ちていた。男は代表者のところまで近づき、なかに入れてくれるように訴えた。「十二か月にわたって休みなく旅をして来たんです。あなたがたの味方になって戦えたらいいと思って」 最後の一撃が決め手だった。ここには彼のような男が不足していたのだ。「入ってくれ。歓迎しよう」ついに番兵の長がそう言った。すでに胸元から鍵を取り出し、小門の錠をはずしているとき、わたしは声をあげた。男の顔に気づいたのだ。それは船に乗り込もうとしていた老人の顔だった。「回し者だ! 門を閉じてくれ! 窓を閉めないと、よじ登ってくるぞ!」

 自分の声で飛び起きた。まだ耳に残っている。何はともあれどこかの窓を閉めなくてはいけない。それは部屋続きのクローゼットの窓だった。風が雨とともに入り込み、窓枠がゆるんでいた。もう空気は湿気っておらず、雲が晴れて月の上を流れていた。首を伸ばして冷たい夜の空気を肺一杯に吸い込んだ。そうすると、路上に四角い光が映っているのに気がついた。建物の反対端にある上階の窓の光だ。ときどき光の枠のなかを影が横切る。宿の人間がどういうわけか徹夜をしているらしい。

 すぐにベッドには戻らずに、さんざ苦労して椅子を窓際まで引きずり、枕と毛布二枚を連れにたっぷり三十分ねばっているあいだじゅう、犬の吠える声が聞こえていた。それは月を寝かせないためだけにしてはあまりに陰鬱な、何もかもにうんざりしたような嘆きだった。不意に吠え声がうなり声に変わり、遠くから蹄の音が聞こえるのに気づいた。さらには人影がブラインドにふたたび姿を現して窓を引き上げると、そこから険しい顔つきをした女将さんが暗闇を覗き込んだ。

 どうやら人が来るのを待っていたらしい。一分後に馬が、かなりの勢いで走って来て、白い息を吐いて玄関の前に停まった。馬上の人物はそのまま降りずにいる。

「馬はまかせてください」と女性が窓からささやき同然の声をかけた。「馬小屋にちゃんとさせておきますから。真っ直ぐ上に来てください。右から三番目の部屋です」

 男は重い鞄らしきものを手に、馬を離れて階段を上まで進んだ。踊り場でつまづいて、小さく毒づくのが聞こえた。そのとき時計が三時を打った。いったいいかなる悪事が真夜中亭ミッドナイト・ハウスで起ころうとしているのだろうかと、だんだんと気になり始めた。

 そのときから明け方にかけて起こったことは漠然としか覚えていない。眠ろうとは試みたものの、意識を失い始めた途端に取り憑いた恐ろしい悪夢から自由になろうとする努力の方が大きかった。わかったのは家の外に邪悪な悪鬼がいて、その醜く恐ろしい悪鬼が家に入ろうとしていたということだ。そして誰もその真の性質に気づいてはいないらしく、みすみす目的を達せさせてしまったらしい。それがぞっとするような夢の背景だ。はっきりと覚えているのは一つだけ、尾を引くような叫び声だった。現実であって、いい加減な空想ではない。それが夜のどこかから現れ、無へと消えて行った。

 九時過ぎに目が覚めると、頭が割れるように痛い。慣れぬベッドや宿屋を試すようなことはもうすまい。

 食堂に降りると自分以外にも人がいた。背の高い中年の男が、穏やかな夜を過ごしたとは言い難いようななりで、食卓に着いていた。朝食を食べ終えて、わたしと入れ替わりに立ち上がって出て行くところだった。よい一日を、と一言だけ言って、部屋を出て行った。わたしは急いで食事を済ませ、相変わらず無表情な女性に勘定を払って、リュックを背負って道なりに歩き出した。この女性のほかには住人を一人も見かけていない。一、二マイルほど歩いて険しい坂道のてっぺん付近までたどり着き、三叉路のいずれに行こうか迷ってきょろきょろしていたところ、あの人物が近づいて来るのが見えた。

 馬が追いついて来るのを待って、道をたずねた。

「ところで、あの宿屋のことを何かご存じではありませんか? あんなに薄気味悪い家で泊まったことはありませんでした。幽霊屋敷なのでは?」

「そうは思いませんがね。幽霊など出ないのにどうして幽霊屋敷だなどと?」

 答えた声にどことなく威厳が感じられたので、もっと近くで確かめてみたくなった。男はわたしの考えを読み取ったらしく、「ええ、医者をやってます」と答えた。「ほんとうの話、休む暇もありませんよ。鄙びた田舎の医者仕事など気にならんでしょう? 昨晩のような仕事に興味をお持ちだとは思いませんが」

「何があったのか知らないんですよ。ただ想像を言わせてもらえるなら、極悪人か誰かが昨夜あの宿屋で息を引き取ったんじゃありませんか」

 医者は声をあげて笑った。「見当外れもいいところですよ。実を言いますともう一つの方の魂をこの世まで案内する手助けをしていたんです。結果的には赤ん坊は三十分とは生きていませんでしたが、必ずしも母親にとって残念なわけではなかったと考えるべきでしょうな。田舎ではみんなおしゃべりですからね。ほかにすることがありませんから。お互いのことなら何でも知っています。確かにもっとよい状況でこの世に生まれて来る可能性だってあったわけです。しかし何だかんだ言っても、出生率の低下を食い止めることができるのなら、さして文句も言いますまい。去年はどのくらいだったと思います? とんでもなく低かったんですよ、正確な数字は覚えていませんがね。つねづね統計に気をつけているんです。たいていのことに説明がつけられますからね」

 わたしにはそうだとは言い切れなかった。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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