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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 127

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百二十七章 生命の霊薬

 ロレンツァの部屋に戻ったバルサモがどのような感情を持ったのかはご存じの通りである。

 そこでロレンツァを正気づかせ、無言でくすぶっている怒りをぶつけよう、怒りに囁かれるままに罰を与えてやろうと決意した時、天井が三度にわたって揺れた。帰宅を待ちかまえていたアルトタスが、話をしたいと知らせているのだ。

 だがバルサモは動かなかった。間違いではないのか、たまたまではないのかと念じていたのだが、焦れたように合図は繰り返された。そこで、以前にもあったようにアルトタスが降りて来るのではないか、ロレンツァが相克する霊力によって目覚めさせられ、政治上の秘密にも劣らぬ重要な新事実に気づくのではないか、と気を揉み始めた。そこでバルサモは、こういう言い方が許されるならば、新たな霊力の帯でロレンツァを包んでから、部屋を出てアルトタスの許へと向かった。

 ぎりぎりのところだった。屋根裏に通じている揚げ戸がずらされ、アルトタスが車椅子から離れて、出入り用に開けられた床の一部に屈み込んでいたのだ。

 バルサモがロレンツァの部屋から出て来たのをしゃがみ込んで見ていたアルトタスは、恐怖と嫌悪の入り混じった感情を表した。

 その白い顔に――まだ生きているらしきこの顔の一部に――怒りで朱が差した。骸骨のように細く節くれ立った指が、音を立てて震えた。奥まった目玉が眼窩の奥でぷるぷる揺れているようにも見え、バルサモでさえ聞いたことのないような激しい悪態がその口から撒き散らされた。

 バネを動かすために椅子から降りた姿は、まるで二本の腕だけで生きて動き回っている、細くくねった手脚を持つ蜘蛛のようだ。バルサモを除けば何人も入ることを許されないその部屋から、アルトタスは下の階に降りようとしているところだった。

 足の利かぬものぐさな老人が楽をするために利用していた車椅子から離れたり、世間並みの行動を取ろうとしたり、苦しい思いをして苦労してまで習慣を変えようしたりしたのは、それだけ昂奮していたからだ。そのせいで思索的な生活から離れて現実の生活に戻らざるを得なかったのだ。

 それを目撃したバルサモの驚きや如何。初めこそ呆気に取られたが、徐々に不安が兆し始めた。

「ふん、そちか! 師匠をほったらかしにしおって!」

 バルサモはいつものように出来るだけ心を静めて穏やかに話しかけた。

「ですが先生モナミ、先ほど呼ばれたばかりだと思いますが」

友人アミだと! 糞ったれめ! 確かに同輩相手のような口を利きよる。そちは友人だと思っておるのじゃろう。だが儂はな、友人どころか父親じゃぞ。そちを食わせ、育て、学ばせ、立派にしてやった父なのじゃぞ。友人だと? 嘘を言え! ほったらかして腹を空かせたまま殺そうとしおった癖に」

「先生、怒りに駆られて血を煮えくり返らせるから具合を損ねるのです」

「具合を損ねるだと! 笑わせおって! 儂が具合を損ねたことなど一度でもあったか? そちが惨めで汚らしい人間界に関わらせた時くらいじゃろう。具合を損ねるなどと! むしろ他人の具合を治す方だというのを忘れたのか?」

「とにかくこうして参りました。時間を無駄にするのはやめましょう」バルサモは冷静に答えた。

「そうじゃな。そちを呼んだのはほかでもない。時間、時間じゃよ。そちが急かしているその代物、人間一人一人に定められているとはいえ、終わりも果ても無かったらのう。だが儂の時間も流れておる。儂の時間も失われておる。他人と変わらず、一分ごとに永遠に消えてしまうのじゃよ。儂の時間くらいは永遠にあってもよいではないか!」

「とにかく先生」バルサモは自制し続けた。揚げ戸を床まで下げて傍らに降ろすと、バネを動かして部屋に戻らせた。「何のご用でしょうか? 腹を空かせていると仰いましたが、四十日間の断食の最中ではありませんでしたか?」

「さよう、そうじゃよ。若返りの準備には三十二日前から取りかかっておる」

「でしたら何が問題なのでしょうか? 雨水の入った水差しはまだそこに幾つかありますし、お一人で飲むには充分ではありませんか」

「さよう。だがな、儂のことを蚕だとでも思っておるのか? 同じ大仕事といっても、繭を作ったり成虫になったりするのとはわけが違うのだぞ。もう力もないというのに、儂一人だけで生命の霊薬を作れると思っておるのか? 横になったまま渇きを癒す水だけ飲んで衰弱しているような状態で、きちんと頭が回るとでも思っておるのか? 若返りという大仕事にはひどく神経を使うことぐらいは承知しておるじゃろうに。儂一人だけ残されても、友人の助けがなければどうにもならん」

「こうしてやって来ましたから安心して下さい」バルサモは醜い子供をあやすように、うんざりしながらアルトタスを椅子に坐らせた。「いったい何だと言うんです。さっきも言ったように、蒸留水はまだ三つ分も水差しに残っていますよ。五月にしっかりと集めておいたんですから。大麦と胡麻の乾パンもまだあるでしょう。三度するうちの二度目の刺絡も済ませましたし、あなたが処方した白い水薬も十日ごとに投与しているじゃありませんか」

「さよう。だが霊薬じゃ! 霊薬が完成しておらぬ。そちはいなかったのだから知らぬじゃろうな。そちの父御の頃の話じゃわい。そちよりよほど師匠思いであったぞ。五十年前には、一月前に霊薬が完成しておった。儂がアシャラ山に籠もっていると、ユダヤ人が金の袋と引き替えにキリスト教徒の乳呑み児を用意してくれたものじゃ。儂は儀典に則って血を抜き、最後の三滴を採取した。足りなかった成分が加えられ、こうして霊薬は完成した。このようにして、五十年前には見事に若返ることが出来たのだ。至福の霊薬を飲み下すと、身体が痙攣して髪も歯も抜け落ちた。だがすぐに新しいのが生えて来たわい。歯は完全とはいかなかったがの。それというのも喉の奥に霊薬を流し込むのに、ついつい金の管をあてがうのを怠ってしまっての。だが髪と爪は若さを取り戻すと同時に生え替わり、十五歳の頃のように力が漲って来た……だが儂は再び老い、最期の時が迫って来た。霊薬が用意できなければ、この壜に満たされなければ、心して調合に努めなければ、一世紀に及ぶ科学知識は儂と共に滅び、儂が手に入れた崇高なる科学は失われてしまうのじゃぞ! この科学さえあれば人類は儂と共に儂を通して神に近づくことも出来るというのに! よいか、儂がしくじったら、間違ったら、やり損じたら、アシャラよ、そちじゃ、原因はそちにある。覚えておくがいい、儂の怒りは凄まじいぞ。ただではおかぬ!」

 脅し文句を口にすると、生気の失せた瞳に鉛色の火花を浮かべ、小さくびくりと震えてから激しく咳き込み始めた。

 それを見たバルサモが必死になって介抱した。

 アルトタスの咳もようやく治まった。青白かった顔色はますます蒼白になり、今回の発作で体力を奪われ死に近づいているのが目に見えるようだった。

「先生、どうぞ何でも仰って下さい」

「儂は……」アルトタスはバルサモをじっと見つめた。

「はい……」

「儂の望みは……」

「何でも言って下さい、出来ることであれば何でも言う通りにします」

「出来ること……出来ることだと!」嘲りの声をあげた。「出来ぬことなどないのだぞ」

「そうなのでしょう。時間と科学さえあれば」

「科学は手にしておる。時間だ。儂を打ち負かそうとするのは時間なのだ。薬は上手く出来た。儂の力はほとんど無くなった。白い水薬のおかげで古い組織は半ば排出された。若さとはの、春先に木々が古い樹皮の下で樹液を溜め、古い木々を押しやるようなものじゃ。徴候ははっきりしておるから、アシャラよ、そちも気づくであろう。声は弱まり、視力は半分以下に落ち、理性が飛ぶことさえある。温度の変化にも何も感じなくなってしまった。だから大急ぎで霊薬を完成させなくてはならんのだ。再び五十年目が訪れるその日には、一刻の猶予もなく百歳から二十歳に若返らなくてはならん。霊薬に必要な材料はもう揃っているし、管も作り終えておる。申したであろう、ほかに足りないのは血が三滴だけなのだ」

 バルサモがぞっとしたような仕種を見せた。

「もうよいわ。子供は諦めた。もう探さんでいいぞ。好きなだけ恋人と乳繰り合っておればよい」

「ロレンツァは恋人ではありませんよ」

「ほっほっほっ、そうかそうか。世間だけでなく儂にもそう言い張るつもりか。汚れのない存在だ、と思わせたいのかもしらんが、そちも男じゃろう!」

「言っておきますが、ロレンツァは聖母のように清らかです。私はこの世の愛も欲望も快楽も、目的のためにすべて犠牲にして来たのですから。実を言えば、古い殻を破ろうと思っているんです。個人的に変わるだけじゃない、全世界を新しく作りかえて見せます」

「キ印め! こやつと来たら、そのうち蚤の変革や蟻の革命の話も始めかねんぞ。こっちは永遠の命や若さの話をしておるというのに」

「恐ろしい犯罪と引き替えにしないと手に入れられないうえに……」

「要は信じておらんのじゃろう、愚か者め!」

「そうじゃありません。それはともかく、子供を諦めると仰いましたが、どうするおつもりなのですか?」

「無垢な人間が手に入り次第じゃ。男でも女でも構わんが、やはり生娘に越したことはない。異性間の相性が原因で、そうなるらしい。急いで見つけて来てくれ、後一週間しかない」

「わかりました。検討して探してみましょう」

 アルトタスの目に、先ほどよりも恐ろしい炎が燃え上がった。。

「検討して探してみるだと! それがそちの答えか。まあわかっておったわ。驚きもせん。いったいいつから被造物が造物主にそんな口を利けるようになったのだ? 儂が力なく横になって頼んでおるのがわからぬのか。そちは当てにならぬほど愚鈍なのか? ウイかノンじゃよ、アシャラ、躊躇いや嘘があれば目に出ることを忘れるな。儂にはそちの心が読めるのだからな。きっと見定めて懲らしめてくれよう」

「先生、あまり怒ると身体に毒です」

「答えろ!」

「本当のことしか言えないんです。二人とも傷ついたり破滅したりせずに先生の望んだものを手に入れられるかどうか検討してみます。先生が必要としている生娘を売ってくれる人間を探してみます。ですが罪を犯すつもりはありません。今ここで言えるのはそれだけです」

「なかなか厄介じゃの」アルトタスは冷笑を浮かべた。

「事情はご説明いたしました」

 アルトタスはかなり無理をして、椅子の肘掛けに腕を置いて立ち上がった。

「ウイかノンじゃ!」

「先生、見つかればウイ、見つからなければノンです」

「儂を殺すつもりか。けちな生き物から血を三滴いただくのを惜しむばかりに、儂のような完璧な人間が永劫の深淵に沈むことになるのじゃぞ。もうよい、アシャラよ、そちにはもう何も言わん」老人は見るからにぞっとする笑みを浮かべた。「何一つ頼まん。待つことは待つとしよう。じゃがの、言うことが聞けぬというのなら、一人で何とかするまでだ。見殺しにするというのなら、自力で切り抜けてみせるわい。わかったか、のう? さっさと行け」

 バルサモは脅しには答えずに必要なものを調え、水と食べ物を手の届くところに置いた。その間、忠臣が主人に、孝行息子が父親に払うような細心の注意を払っていた。それからアルトタスが考えているのとは別のことに頭を悩ませながら、揚げ戸を降ろして下に向かった。心は遠くに行っていたので、アルトタスが皮肉な目つきで同じくらい遠くまで目で追っていることには気づきもしなかった。

 バルサモが眠り続けるロレンツァの許に戻ると、アルトタスが悪鬼のような笑いを浮かべた。

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ラージャグリハの鬼神のこと。

ラージャグリハの鬼神のこと。子どもに法衣をかけて首につなぐこと。食事の際に名を唱えて敬意を表すこと。

 これは覚者がラージャグリハの竹林園に住んでいたころの話である。町の山辺にサータという鬼神が居を構えており、ビンビサーラ大王、中宮、妃后、王臣、宰相、その他多くの人々を守護していたので、誰もが安心して暮らしていられた。恵みの雨を降らせて穀物を実らせ、どこに行こうとも花も果実も泉も池も枯れることがなかったので、飢えもなく、欲しいものを手に入れるのもたやすかった。ために僧侶や司祭、貧乏人や独り者、それに商人たちがこぞってマガダ国に集まって来た。鬼神サータはこうした人々もまた愛情を込めて守護していた。そのサータがついに親族のなかから妻を娶って一緒に暮らすことになった。同じころ、北方のガンダーラ国にもパンチャーラという鬼神がいた。サータ同様その国を守護していたので、マガダ地方に劣らず穏やかで過ごしやすい豊かな国であった。そのパンチャーラも同じように親族から妻を娶り一緒に暮らした。

 後日のことである。全国中の鬼神が一同に会した折り、この二人の鬼神もねんごろに言葉を交わし、親友となった。別れを告げて地元に帰ってからも、鬼神サータがマガダ国の果実を摘んでパンチャーラに送れば、北国からもサータに果実が送られて来るようにして、久しく交友を深めていた。

 ふたたび集会があり友情を確かめる機会のあったとき、サータがパンチャーラに言った。

「ほかでもない、我々が死んだあとも子孫同士が親しくして、疎遠にならぬようにしたいものだ」

「名案だ。心得た」とパンチャーラも言った。

 サータが続けて、「ではお腹にいる子どもを許嫁と為そう。両家に男女が産まれたときには、娶り娶わせる約束だ」

「異存ない」

 そうこうしているうちにいよいよサータの妻が身ごもり、月満ちて女児を産んだ。容姿端麗にして気高く、一目見たものはたちまち心を奪われた。鬼神たちが揃って歓喜祝福したため、人呼んで「歓喜」と名づけた。

 これを聞いたパンチャーラも大いに喜び、「鬼神サータは我が親友。あやつに女が産まれたからには、こちらに男が産まれれば、愛しい妻と為そう」と美しい産衣を贈るとともに、使いには以下のような親書を持たせた。

『女児が産まれたと聞いて非常に愉快だ。着物を送るから受け取ってもらえたら幸いだ』

 サータはこの手紙を受け取って、さっそく返礼を書いた。

 こういう事情があったので、パンチャーラはただひたすら男児の産まれるのを望んでいた。すると幾日も経たぬうちに妻が身ごもり、月満ちて男児を産んだので、すぐにあざなを決めて、パンチャーラの子ゆえにパンチーカと名づけることにした。

 パンチャーラに男児が産まれたと聞いて、鬼神サータにも思うところがあった。「親友に男児が産まれたとあっては、こうしてはいられぬ。きれいな産衣を贈って祝福せねば。必ずや我が娘の夫となる男子なのだからな」

 やがて手紙をしたためた。『子どもが生まれたと聞き、祝福と喜びのこもごも感じることかぎりない。つまらないものだが産衣を贈る。以て祝辞とさせてもらいたい。よければ受け取って、どうか気持を無駄にしないで欲しい』

 読み終わったパンチャーラがこれに返事を書いた。『家族ぐるみの交友を約していたが、とうとう願いが叶った。二人の成人を待って婚姻を結びたし』

 そのうち鬼神サータの妻がふたたび身ごもり、山という山が声をあげるさまはあたかも巨大な象が吠えているかと思われるほどであった。月満ちて赤子の産まれた際にもまた山が吠えたため、親類一同は話し合ってこう言った。

「この子が授かった日にも産まれた時にも山という山が鳴動したではないか。しかもサータの子であるのだから、サーター山サーターギリと名づけよう」

 成人したころにとうとう父が身罷り、サーターギリが家長となった。

 すでに成人していた歓喜が言った。「弟よ、わらわはラージャグリハに出かけて、町中の子らを喰ろうてしまいたい」

「姉者、聞くところによると父上はこの町の王や住人たちを守護し、誰もが安心して悩みもなく暮らせるようにしていたそうではありませんか。今度はみどもがこれまでにも増して守護するつもりです。そこが守るべき区域なのですから。もし誰かが害を為そうものなら、黙ってはおれません。なぜそのような邪念を持ったのですか? そんな思いなどどうか捨てて下さい」

 だが前世に忌まわしい望みを持った報いが長く続いていたために、歓喜は同じことを繰り返しただけであった。

 姉の気持ちが動かしがたいことを知り、サーターギリは考えた。「みどもの力ではこの邪念を防ぐことは不可能。だが父上が在りし日に許嫁の約束を交わしていた。今こそその婚姻を結ぶべきか」

 そこで速やかに書をしたためて鬼神パンチャーラに送った。『我が姉歓喜も無事成人いたしまし候。かくなるうえは縁を結びたく思い候ゆえ、なにとぞ近いうちにお越し下されたく候』

 パンチャーラは手紙を受け取るとすぐに儀式を済ませ、ラージャグリハを訪れ、嫁を娶らせ故郷に戻った。

 歓喜は主家に入ってしばらく過ごすうつに、夫とも心を通わせ合うようになり、とうとうこんなことを打ち明けた。「のう、聞いてくれぬか。わらわはラージャグリハに暮らす住人どもの子らを一人残らず喰ろうてやりたいのじゃ」

「あそこにはそなたの家族が暮らしているではないか。余人が来て蛮行するのさえ捨ててはおけぬのに、そなたが残酷なことをしようとするのを黙って見ておられようか。そのような邪悪な考えを起こすでない。二度と口にするな」

 この悪念は前世に由来し、それが染みついていたので、歓喜は我慢することもならずに、怒りを抱いてしばらく黙り込んでいた。

 後日。歓喜は一人の子を産み、やがて引き続き同じように五百人の子を産んだ。末の子を名づけて「愛児」と呼んだ。

 やがて五百人の子らが力をつけるころになると、母はその威力を借りて禁忌を犯そうと考え始めた。夫であるパンチーカが何度も心を尽くして諫めたものの結局聞き入れられず、妻の心を知りながらも何も言わぬことにした。

 こうして歓喜はラージャグリハをくまなく闊歩し、住人の子らを次々に喰らっていった。ついに町には子どもがいなくなってしまったため、町の人々は団結して王に訴えた。

「臣らの子どもは一人残らず連れ去られてしまいましたが、いったい誰がこのような悪事を働いているのかわからぬため、悲しみ極まり思いを晴らそうとしても、どうすることもできません。閣下、どうかお慈悲をたまわり、調査していただけないでしょうか」

 王はただちに勅令を発し、町の各所や四方の町門に兵を配備させた。ところが兵士たちも連れ去られてしまい、日に日に頭数が減ってゆくだけで、どこに攫われたのかは誰にもわからなかった。身ごもった女たちも一人残らず攫われてどこか別の場所に連れ去られてしまった。さらにはラージャグリハのいたるところでさまざまな災禍が起こったため、国司も廷臣も次々に王に報告を入れ、現在この国の随所で大きな災害が発生していることを、詳細に説明した。

 王は話を聞いて不思議に思い、すぐに占者を呼んで事の起こりをただした。

「申し上げます。一連の災厄はすべて鬼神の仕業にございますので、急ぎ供物を用意して祭祀を執り行うのがよろしいかと存じ上げます」

 王は勅令を発し、鼓を打ってふれを出し、臣民に告げた。「主客を問わずこの国にいる者は飲食献花の供物を用意し、町中、城内、集落を浄め、さまざまに飾りつけ、鼓を打ち声をあげ鐘を鳴らし幡幢を立てよ」

 勅令を聞いたラージャグリハの住人たちは、心を込めて供物を捧げ花を供え、町を天国のように飾り、さまざまな場所で祭祀をおこなった。こうして最善を尽くしたものの災厄は去らず、人々は呻吟するもののどうするすべもなかった。

 このとき、ラージャグリハの守護神が夢に現れ人々に告げた。「汝らの子は一人残らず鬼神歓喜に取って喰われたと知れ。尊者のもとを訪れよ。汝らの苦悶も和らげてくださろう」

「神よ、子らはみな取って喰われたと申されるか。それではまるで悪鬼ではありませんか。なにゆえ歓喜などと呼ばれているのですか」

 ゆえに、これよりのちこの鬼神を青い悪魔ハーリティーと呼んだ。

 ラージャグリハの住人は神のお告げを聞いて覚者のもとを訪れ、地面に額ずき直訴した。

「鬼神ハーリティーと申すはラージャグリハの住人に対し長らく危害を加えております。こちらからはいっさい敵意を表してないと申しますのに、あちらが一方的に悪心を抱いて、我らの子を攫って喰ろうているのでございます。このうえはなにとぞお慈悲を賜り、彼奴めを調伏していただけませぬか」

 尊者は無言のまま答えなかったが、訴えを聞き入れてくれたことは誰の目にもわかったので、人々は足許にひれ伏し供物を捧げて退出した。

 明くる朝、覚者は衣をまとい鉢を手にしてラージャグリハに向かい、托鉢をおこなった。やがて托鉢を終えて自宅に戻り食事を済ませてから、鬼神ハーリティーの住まいを訪れた。鬼神は出かけており、幼い愛児が家にいるだけであった。そこで尊者は鉢を愛児にかぶせ、タターガタの法力を用いて愛児には兄たちが見えるが兄たちには愛児が見えないようにしてしまった。

 やがて鬼神が帰宅したが、末っ子の姿が見えぬ。大いに慌てて、考えられるところはすべて探した末に、ほかの子どもたちにも愛児はどこにいるのかとたずねた。ところが誰も見ていないという。

 鬼神は胸を叩いて号泣した。口唇は乾き、思いは乱れ、心をさいなむ痛みを胸に、ただちに都に出かけて、家並みという家並み、往来という往来、田畑、森林、池沼、天廟、神殿、旅籠、空家をくまなく探したが、愛児は見つからない。とうとう苦しみにこらえきれずに正気を失い、衣服を脱ぎ捨て大声で叫びながら「愛児はどこじゃ。どこにおじゃる」と繰り返した。

 とうとう町の外に飛び出し町はずれを駆け回り、村中を探し回ったが成果はない。陸といわず海といわずあらゆる場所に足を運んだが見つからぬ。髪を振り乱して姿を顕すや地面に転げまろび、肘と膝を突いていざり進んだ。そうしているうちにやがてジャンブードゥヴィーパにたどり着いたので、黒山という黒山、金山という金山、雪山という雪山、アナヴァタプタ池、ガンダマーダナ山を探したが愛児はいない。胸は苦しみに悶え空気さえ喉を通らなかった。そこで今度は東はヴィデーハ、西はゴーダーニヤ、北はクルまで探しに行ったが見つからない。いよいよサンジーヴァ、カーラスートラ、サンガータ、ラウラヴァ、マハーラウラヴァ、ターパナ、プラーターパナ、無間アヴィーチ、アッブダ、ニラッブダ、アタタ、ハハヴァ、フフヴァ、ウッパラ、パドマ、プンダリーカの十六地獄にまで探しに行ったがやはり見つからなかった。そこで次にスメール山に行き、一層目から始めて二層三層と登り、ヴァイシュラヴァナの神殿を越えて山頂まで行くと、チャイトララタ庭園を始めミシュラーカ、パールシャカ、ナンダーナ庭園を次々と訪れるものの、やはり見つからない。パーリジャータの木の下からシュダルマ堂の中まで進み、インドラ神のおわしますシュダルサナ城に入り込んでヴァイジャヤンタ殿に入ろうとした。

 鬼神たちとともに門を守っていたヴァジュラパーニ大神がこれを見咎め、城外へ追い出した。

 そこでいよいよ苦しみを深くしてヴァイシュラヴァナ神殿まで行くと、大石の上に身を投げて慟哭した。

「将軍様、わらわの末息子・愛児が何者かに攫われてしまい、いずことも行方が知れぬのじゃ。なにとぞ、なにとぞ導いてたもれ」

 ヴァイシュラヴァナ神は答えた。「女君よ、あまり悩んで正気を失うてはならぬ。ひとまず自宅のそばの休憩所に出向き、誰がいるのか確認せよ」

「将軍様、僧侶ガウタマがござりました」

「ならば急ぎ尊者に相談せよ。ふたたび愛児に会う手だても教えてもらえよう」

 この言葉を聞くや鬼神は歓喜し、死から甦ったような勢いで家に戻った。すると遠くからでも間違えようのない尊者の特徴が陽射しよりもきらびやかにまるで宝の山のように輝いているのが見えた。これを見るやたちまち尊敬と信仰の念が生じ、すでに我が子を見つけたような気持になって苦しみなどすっかり消えてしまった。ただちにおそばに寄って足許に額ずき、退いてかたわらに座して訴えかけた。

「尊者よ、末の子の愛児が長いこと見えのうなってしもうたのじゃ。どうかただただお慈悲を賜べて、また会わせてたもれ」

 覚者は鬼神ハーリティーにたずねた。「子どもは何人お持ちかな?」

「子なら五百人おる」

「ハーリティーよ、五百人もいれば一人くらい欠けても苦しむには当たるまい」

「尊者よ、今日愛児に会えのうては、わらわは血を吐いて息絶えてしまいそうじゃ」

「ハーリティーよ、五百人のうちの一人がいなくなってもそのように苦しんでいるのであろう。たった一人の子をそなたに攫われ食われてしまった苦しみがどれほどのものか考えてみなさい」

「幾層倍の苦しみでござろうな」

「愛するものを失くす苦しみを知っているなら、なにゆえ他人の子を喰らう」

「なにとぞ尊者よ、なにとぞ教えを施してたもれ」

「では今から戒を受け、ラージャグリハの住人が安心して暮らせるようになさい。さあらばここを出ずして愛児にも会えましょう」

「尊者よ、わらわはこれより町に出でて、教えと御言葉を守うてラージャグリハの住人どもが安心して暮らせるようにするつもりじゃ」

 その言葉を聞くや、覚者はハーリティーを愛児に会わせたのであった。

 こうしてハーリティーは尊者の教えを受け、町の人々も安心してつらいことなく暮らしたのだった。

 やがてハーリティーは覚者のところで洗礼および五戒(不殺生や不飲酒)を受け、たずねた。

「尊者よ、わらわと子らはこれから何を喰ろうてゆけばよい」

「案ずることはない。ジャンブードゥヴィーパにいる弟子たちが食事時になれば順を追って生飯サバを出す。その折り、末席に一膳用意してそなたと子らを呼ぶゆえ、腹を満たすまでもう少しだけ辛抱なさい。今も暮らしている住人や山海の鬼神たちがいて、腹を空かせていれば、一人一人に心を寄せて満足させなさい。加えて、一門の寺院や僧侶・尼僧の住まいを、昼夜問わず心を込めて守護し、身体を壊さず健やかでいられるよう努めなさい。今後とも我が教えの滅びぬうちは、言った通りのことをジャンブードゥヴィーパでなさい」

 この言葉を聞くや、ハーリティーと五百の子らと鬼神たちは、みな歓喜してひれ伏し、遵法を誓った。

 以上の話を覚者から聞いて、僧侶たちは不思議に思ってたずねた。

「ハーリティーが五百人の子を産み、人の精気を吸いたさにラージャグリハの子どもを喰らったのは、如何なる前世の業によるものでござりましょうか」

「では話して聞かせよう。この鬼神の行いも、町の住人の受難も、いずれも前世からの因縁によるものにほかならぬ。遠い昔、ラージャグリハに住んでいた牧人が妻を娶り、間もなく妻は身ごもった。当時は正式に悟りに至ったものもなく、独自に悟りを開いた独覚者がいただけであった。質素な生活を旨としてそれに応じた最低限の持ち物で満足していたので、人々が功徳を施そうにもほかに施す相手がなかった。

 あるときこの独覚者が人里を行脚してラージャグリハにたどり着いたところ、折りしも縁日が催されている最中で、五百人の男女が集まってお洒落や飲み食いや音楽に興じながら庭園に向かっていた。その道すがら、牧人の妻が牛乳壜を売りに歩いているところに出会ったので、口々に『お姉さん、一緒に踊って楽しもうよ』と誘った。妻は声をかけられてその気になり、一緒になって踊って大いに楽しんだ。それでとうとう具合を悪くして流産してしまった。人々はそのまま庭園に向かってしまったので、女は一人悲嘆に暮れて頬に手を突いて座り込みながらも、牛乳を売った代金でマンゴーを五百個購入した。そこに通りかかったのがあの独覚者であった。遠くからでも身なりたたずまいともに泰然として落ち着いているのを見て、たちまち敬意を覚えて足許にひれ伏し、瑞々しい果物を聖人に捧げたのであった。

 悟りを独自に開いた者は、教えを行動で示すことはできるが、口で伝えることはできない。どうにか牧人の妻に恵みをかけてやりたいと思い、神鳥ハンサが翼を広げるようにして虚空に舞い上がり、その法力を明らかにした。ただの人間が奇跡を目の当たりにしたときのつねで、妻は大木の倒れるごとくにたちまち独覚者に傾倒し、地面にひれ伏して手を合わせて願を掛けたのであった。

『口惜しや。どうかどうか、ただいままことの功徳を施しましたご利益に、後の世でもラージャグリハに生まれ変わらせていただき、この町の住人の子を残らず平らげられるようにしてくだされ』

 みなの衆よ、これがどういうことかわかるであろう。この牧人の妻がほかでもない、鬼神ハーリティーその人なのだ。前世さきのよで独覚者にマンゴー五百個を施してよこしまな願を立てたばかりに、現世でラージャグリハに生まれて鬼神となって五百の子を産み、人の精気を吸わんとして町中の子どもを貪り喰らったのだ。いつも教えている通り、悪いおこないには悪い報いが、雑多なおこないには雑多な報いが、良いおこないには良い報いがあるものと思いなさい。修行によって良いおこないを積み、悪いおこないや雑多なおこないを慎むことです……そうすれば報いはおのずから返ってくるであろう」

 これを聞いた僧侶たちは深く心に感じ入り、尊者の足許に額ずいていとまを告げて立ち去った。

 舞台は同じくラージャグリハ。ハーリティーはすでに覚者の教えと戒を受けていたので、ほかの鬼神たちからは嫌なこともされた。そこで子らを連れて僧侶たちに布施しに行ったところ、僧侶が托鉢をおこなっているのを見て、子らは人間の子どもの姿に変じてとことこと後をついていった。ラージャグリハの女どもがそれを見て愛おしさを覚え、近寄って抱き寄せるとたちまち掻き消えてしまった。

 女たちは僧侶にたずねた。「今のはどなたの子どもでしょう?」

「ハーリティーの子です」と僧侶は答えた。

「すると今のが残酷な憎き鬼神の子どもでしたか」

「あの者はもう残酷な心を捨てました。そのためほかの鬼神に恨まれてしまい、こうしてここに来てわたくしどもに施与しているのです」

「鬼神の女ですら邪心を捨てて子を連れて布施したんだもの、あたしらだって子を布施しなくては」と女は考えた。

 そこでとうとう子どもを連れて僧侶たちのところに布施しに行ったが断られてしまった。

「お坊さま、残酷な鬼神の子どもはちゃんと預かりなさったのに、あたしらの子どもを拒むのはどうしてでござりましょう?」

 僧侶たちはこれをきっかけに覚者にたずねた。

「引き取りなさい」というのが覚者の答えだった。

 僧侶たちはお言葉にしたがったものの、手綱を締めていなかったので、子どもたちは好き勝手にどこにでも遊びに行く。

 そこで僧侶たちが覚者に相談したところ、「一人の男子を施与されたなら、一人の僧侶が預かって、法衣の一部をその子の頭に結びつけて番をなさい。何人もの子どもを施与されたなら、僧階ごとに預かって、同じようにして番をなさい。疑ってはなりません」と言われた。

 やがて父母たちが財産を手に戻って来て、それと引き替えに子を連れ戻した。僧侶たちは受け取らなかったが、覚者は「受け取りなさい」と助言した。

 後日、子らが愛着に引かれて僧侶たちに着物を布施した。恩に報いたかったのだ。僧侶たちは気持を汲むだけに留めて受け取らなかっが、覚者は今度も「受け取りなさい」と助言した。

 尊者のお言葉どおり、子どもたちの代価は受け取るのが正しいものと思え。

 そこで今度は六人の僧侶が父母に対価をそっくり要求した。すると覚者は「対価を要求してはならぬ」と戒めた。「本人が自発的に施与するものを受け取って満足なさい」と。

 ところは変わらず。鬼神ハーリティーが子らを連れ出し僧侶たちに布施していたことはすでに述べた。子らは夜中に腹を空かせては泣きじゃくったまま朝を迎えていた。そこで僧侶たちはこれをきっかけに覚者にたずねた。

「朝課の折りに食事を与え、母の名を唱えて敬意を表しなさい」と覚者は答えた。

 またあるときにはとんでもない時間に空腹を訴えることもあった。

「与えてやりなさい」と覚者は言った。

 またあるときには、僧侶の托鉢用の椀に残った食べ物を欲しがった。

「与えてやりなさい」と覚者は言った。

 不浄なものを食べたがるときもあった。

「与えてやりなさい」と覚者は言った。

 
 

※『根本説一切有部毘奈耶』雑事より、鬼子母神の部分です。

『ジョゼフ・バルサモ』 125・126

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百二十五章 お喋り

 ド・サルチーヌ氏はしばらく衝撃から立ち直れなかった。まるで拳銃の中を覗き込もうとでもしているように銃口を見つめ、額にひんやりとした鉄の筒の感触すら覚えていた。

 ついにド・サルチーヌ氏が口を開いた。

「残念ながらこちらに分がありますよ。相手がどんな人間かわかっていながら、当たり前の悪党にするような用心をしていないのですから」

「ははッ! 苛立ってますね。悪党呼ばわりとはご挨拶だ。だが自分がどれだけ不当なことをしているのかおわかりではないらしい。私は手助けをしに来たんですよ」

 ド・サルチーヌ氏が身じろぎした。

「手助けです」バルサモは続けた。「あなたはそこを誤解している。私を陰謀家呼ばわりするんですからね。陰謀家どころか、むしろ陰謀を密告しに来たというのに」

 だがバルサモがいくら話そうとも、今のところド・サルチーヌ氏の注意を引くには至らなかった。普段であれば食いつきそうな「陰謀」という言葉にも、耳がぴくりと動いたただけであった。

「私が何者かご存じなのであれば、フランスでどんな任務に就いているのかもおわかりのはずだ。フリードリヒ大王陛下から遣わされた、いわばプロイセン国王陛下の私的大使のようなものです。そして大使とは聞き込み屋のようなものでしてね。聞き込み屋たる者、およそ起こっていることで知らぬことはなく、なかでも詳しいのが穀物の独占なんです」

 バルサモは最後の一言を何気なく口にしたのかもしれないが、それはほかの何よりも効果的だった。事実ド・サルチーヌ氏はその言葉を聞いて反応を示したのだ。

 ド・サルチーヌ氏がゆっくりと顔を上げた。

「穀物がどうしたと仰いましたか?」会話を始めた時のバルサモのように揺らぎがなかった。「今度はこちらが教えていただきたい」

「もちろんです。つまりですな」

「お願いします」

「ですが申し上げるまでもないでしょう……有能な投機家たちが、国民のために飢饉に備えて穀物倉庫を造るべきだとフランス国王陛下に働きかけて来た結果、倉庫が建てられました。建てている間は誰もが、大きくした方がよいと考えていました。それで石も石材も惜しみなく用いられましたから、随分と大きな倉庫が出来上がりました」

「ええ、それで?」

「それで、倉庫に中身を詰め込まなくてはならなくなりました。空っぽの倉庫など意味がありませんからね。そこで倉庫が満杯にされました」

「つまり?」ド・サルチーヌ氏には、バルサモの言わんとしていることが今以てよく見えない。

「つまり、大きな倉庫を満杯にするには、山ほどの小麦を入れなくてはならない。違いますか?」

「でしょうな」

「そこでです。小麦の流通が絶たれれば、国民は飢えてしまう。わかりませんか? 流通が絶たれるというのは、凶作も同然なんですよ。倉庫に穀物を千袋保管すれば、市場からは千袋消える。この千を十倍にしてご覧なさい、それだけで小麦はたちまち高騰してしまいます」

 ド・サルチーヌ氏が苛立たしげに咳をした。

 バルサモは話をやめて、咳が治まるのをじっと待った。

 落ち着くと、バルサモは話を続けた。「高騰すれば投機家さんたちは大儲けだ。火を見るよりも明らかではありませんか?」

「明らかですな。しかしどうも、陰謀や犯罪の犯人が陛下だということを告発せよと言われているように聞こえますが」

「その通りです。わかっていただけたようだ」

「何と厚かましい。実際のところ陛下があなたの告発をどう受け取られるか、非常に興味がありますな。あなたがいらっしゃる前にこの小箱の書類に目を通しながら考えていたことがあるのですが、どうやらその時と同じ結論になってしまいそうだ。お気をつけなさい、いずれの結論もバスチーユ行きですからな」

「ああ、まだわかってはいただけないようだ」

「というと?」

「勘違いなさっている、誤解されているということですよ。どうやら私のことを馬鹿だと思ってらっしゃるようだ! 国王を非難しに来たとでも思っているんですか? 大使である私が? 聞き込み屋が?……あなたの仰っていることこそ頓珍漢というものですよ。どうか最後までお聞きなさい」

 ド・サルチーヌ氏がうなずいた。

「フランス国民に対するこうした陰謀を暴いたのは……貴重な時間を割いていただいて申し訳ありませんがね、しかし一刻も無駄に出来ないことはわかっていただけたでしょう――さて、フランス国民に対する斯かる陰謀を暴いたのは経済学者たちです。彼らは極めて熱心かつ細心に、この不正行為に観察の目を注いだ結果、事を演じているのは国王だけではないことをついに発見したんです。陛下が市場ごとの穀物相場を記した正確な帳簿を持っていることもわかっています。相場が上がって十万エキュほどの利益が出れば、陛下が揉み手をして喜ぶこともわかっています。だがもちろん、国王のそばには、取引に有利な立場の人間、地位――というのはつまり、役人の地位ですが――その地位を利用して買い付け、着荷、換金を監督する人間、つまり国王の仲介をしている人間がいることもわかっています。ですから虫眼鏡越しににらめっこしている経済学者という連中もですね、国王を非難するつもりなどないんですよ。彼らも阿呆ではありませんからな。そうではなく、国王のために不正を働いている人間を、役人を、代理人を非難しているんです」

 ド・サルチーヌ氏はずれかけた鬘を直そうとしたが、上手くいかなかった。

「では本題に入りましょう」とバルサモは続けた。「警察の長であるあなたは、私がド・フェニックス伯爵であるということを知っており、私は私であなたがド・サルチーヌ氏であることを知っています」

「どういうことかな?」警視総監は戸惑いを見せた。「確かに私はド・サルチーヌだが。たいした問題ですな!」

「ああ、しかしわかっていただかないと! このド・サルチーヌ氏こそが帳簿や不正や換金を掌中にしている人間なんです。国王がそれを把握しているかどうかはともかく、本来ならば二千七百万のフランス人の胃を満たす義務があるというのに、それと引き替えに不正行為を働いているんです。考えてもご覧なさい、こんなことが明らかになったらどうなるか! 国民からはいい感情を持たれないでしょうね。国王はそれほど優しくはありませんよ。飢えた国民があなたの首を求めて声をあげれば、共犯だとしたら口裏を合わせていると疑われないために、共犯ではないとしたら正義をおこなうために、即座に絞首台に吊してしまうに違いありません。アンゲラン・ド・マリニーのことはご存じでしょう?」

「詳しくは知りませんが」ド・サルチーヌ氏は真っ青になっていた。「私のような地位の人間に絞首台の話をするとは、随分と悪趣味なお方ですな」

「こんな話をするのも、あの気の毒なアンゲランをまた目にしているような気がするからですよ。ノルマンディの旧家に生まれた立派な貴族で、フランスの侍従にしてルーヴルの長官であり、財政と建築を任されていました。ロングヴィルの伯爵で、ダルビーのあなたの領地より大きな伯爵領の持ち主でした。本人が造ったモンフォーコンの絞首台に吊されるのを、この目で見ましたよ。繰り返し本人に訴えていたのも間違いではなかった。『アンゲラン、アンゲラン、気をつけろ! そんなに財政を刈り込んでは、シャルル・ド・ヴァロワが許さないぞ』とね。生憎と聞く耳持たなかったため、死んでしまいましたが。イエス・キリストを磔にしたポンティウス・ピラトゥスから、街灯を整え恋唄を禁止したあなたの前任者であるベルタン・ド・ベル=イル氏、ド・ブルデイユ伯爵、ブラントーム領主に至るまで、幾人もの警察長官を見て来ましたよ!」

 ド・サルチーヌ氏は立ち上がり、渦巻く動揺を隠そうとした。

「非難したいのなら非難してもらって結構。あなたのように何の関わりもない人間の言葉など痛くもかゆくもない」

「用心なさい! 何の関わりもないように見える人間があらゆることに関わっているというのもよくある話ですよ。小麦独占の一切合切を哲学者であるフリードリヒ陛下に書き送った場合のことをお考えなさい。そしてフリードリヒ陛下が手ずから註釈をつけた手紙をアルエット・ド・ヴォルテール氏に大急ぎで綴った場合のことを。ヴォルテール氏は恐らくあなたもご存じの筆で『四十エキュの男』のような喜劇をものすることでしょう。優秀な数学者のダランベール氏は、あなたがくすねた小麦だけで三、四十年にわたって一億人の人間を養えると算出することでしょう。エルヴェシウスは穀物の価値を換算して、六リーヴル=エキュ貨なら積み上げれば月まで行けるし、紙幣なら並べればサン=ペテルスブールまで届くことを証明することでしょう。その計算結果が明らかになれば、ラ・アルプには困った芝居を思いつかせ、ディドロには『一家の父』との会話を思いつかせ、ジュネーヴのジャン=ジャック・ルソーにはその台詞の鋭い部分に註釈をつけることを思いつかせるでしょう。あの人はそうしようと思った時には容赦なく咬みつく人間ですよ。カロン・ド・ボーマルシェ氏には回想録の執筆を思い立たせるでしょう。ずたずたに踏みつけられないといいですがね。グリム氏にはちょっとした手紙を、ドルバック氏には大量の警句を、ド・マルモンテル氏にはささやかな寓話を思いつかせることでしょう。下手に禁止しようとしたら殺されてしまいますよ。それがラ・レジャンスのカフェやパレ=ロワイヤル、オーディノ劇場やニコレ氏主催の国王舞踊団のところで話題に上っているところをお考えなさい。ねえ、ダルビー伯爵、あなたは警視総監だ。アンゲラン・ド・マリニーより遙かにまずい。あなたは話を聞こうとしませんでしたがね、アンゲランは絞首台の上で叫んでいましたよ。そうです、無実を訴えていたんです。あれは本心からのものだった、心からの言葉でした。あの声を聞いた私はそう信じていますよ」

 その言葉を聞いたド・サルチーヌ氏は、これ以上は作法に構っていられなくなったらしく、鬘を取って汗まみれの頭をぬぐった。

「結構。考えを改めるつもりはない。私を破滅させられるのならすればいい。お互い証拠は握っているんだ。手札の秘密は大事に取っておき給え、私はこの小箱を預かるとしよう」

「おやおや、それも大間違いですよ。あなたほどの方が負けるのを目の当たりに出来るとは驚きましたね。この小箱は……」

「この小箱は?」

「あなたが預かることは出来ませんよ」

「ああ!」ド・サルチーヌ氏は自嘲するように笑った。「その通りだ。ド・フェニックス伯爵が武装した連中から金を巻き上げる胡麻の蠅だということを忘れるところだった。しかし今は拳銃が見えませんな、どうやらポケットに戻したようだ。では失礼しますよ、大使殿」

「何を今さら! 拳銃なんてどうでもいじゃありませんか、ド・サルチーヌさん。まさか取っ組み合って力ずくで小箱を奪うつもりだとは思ってらっしゃらないでしょう。そんなことをすれば階段まで行ったところで、呼び鈴の音を聞き、泥棒だと叫ぶ声を聞くことになる。小箱があなたのものにならないと言ったのはですね、あなたが自らの意思で進んで返してくれるだろうと思ったまでです」

「進んで?」ド・サルチーヌ氏は、壊してしまいそうなほどの勢いで、問題の小箱に手を置いた。

「ええ、進んで」

「冗談じゃない! この命と引き替えでなければ、この小箱は渡せませんな。私の命とです! これまでに危険な目には山ほど遭って来た。血の最後の一滴がなくなるまで、陛下のために尽くすつもりです。殺せるものなら殺せばいい。ただし物音がすれば人が駆けつけて来るだろうし、あなたに罪を認めさせるくらいの声ならまだ出せる自信がある。小箱を返すだと!」ド・サルチーヌ氏は棘のある笑いを見せた。「地獄からせっつかれたってお断りだ!」

「地底の力を借りるまでもない。いま中庭の門を叩いている人の力だけで充分ですよ」

 確かにドン、ドン、ドンと門を叩く音が響いていた。

「馬車ですね」とバルサモが続けた。「中庭に入って来たようだ」

「いらしたのはあなたのご友人のようですな」

「仰る通り私の友人です」

「そのご友人に小箱を返すことになるとでも?」

「ああ、ご名答、ド・サルチーヌ殿、そうして下さい」

 警視総監が馬鹿にしたような仕種をしかけたところで、従僕が慌てて扉を開けて、デュ・バリー伯爵夫人が面会を求めていることを告げた。

 ド・サルチーヌ氏はぞっとして、唖然とした顔でバルサモを見つめた。バルサモは必死になって薄ら笑いを堪えていた。

 ここに従僕の後ろから、一人の女性が香水を漂わせていそいそと入って来た。自分には入室するのに許可など必要ないと信じているのだ。スカートの襞が扉にぶつかりかすかな衣擦れを立てた。

「伯爵夫人でしたか!」ド・サルチーヌ氏は怯えたように、開いたままの小箱を握り締めて胸に押し当てた。

「ご機嫌よう、サルチーヌ」伯爵夫人が朗らかに微笑みかけた。

 それからバルサモにも「ご機嫌よう、伯爵殿」と声をかけた。

 するとバルサモは、差し出された白い手に親しげに顔を寄せ、国王の口唇が何度も触れいるであろうその場所に口づけした。

 こうしている間を利用してバルサモは伯爵夫人に一言二言ぼそぼそと話しかけていた。低い声なのでド・サルチーヌ氏には聞こえない。

「あら本当! あたくしの小箱ですわ」

「あなたの小箱ですと!」ド・サルチーヌ氏が口ごもった。

「ええ、あたくしの。あら、開けてしまったのね、そこまでしなくても!」

「ですが伯爵夫人……」

「やっぱり凄いわ。そう思っていたんですの……小箱が盗まれた時に、考えたんです。『サルチーヌのところに行けば、見つかるに違いないわ』って。あなたが見つけて下さったのね。感謝しますわ」

「ご覧のように、中まで開けていますよ」バルサモが言った。

「ええほんと。まさかそんなこと考えるなんて、ひどいじゃありませんの、サルチーヌ」

「失礼ながら確認いたしますが、強いられているわけではないのですね?」警視総監が念を押した。

「強いるだって!」バルサモが言った。「それは私に対する当てこすりですか?」

「自分が何を知っているかぐらいは承知していますからね」ド・サルチーヌ氏が答えた。

「あたくしは何も知りませんわ」デュ・バリー夫人がバルサモに囁いた。「何があったんですの、伯爵殿? 約束なさったじゃありませんか。頼みがあったらいつでも仰るようにって。男じゃないけど二言はありません。せっかくここにあたくしがいるんですから、どうぞ何なりと仰って下さいまし」"

「伯爵夫人」バルサモはサルチーヌにも聞こえるように言った。「数日前にこの小箱と中身をお預け下さったのを覚えておいでですか?」

「もちろんですわ」デュ・バリー夫人はバルサモの眼差しに目顔で答えた。

「もちろん、ですと!」ド・サルチーヌ氏が声をあげた。「もちろんと仰ったのですか?」

「もちろんと仰ったんですよ。伯爵夫人はあなたにも聞こえるようにはっきり口に出されたと思いますがね」

「箱には陰謀と思われるものが幾つも入っていたんですぞ!」

「ああ、ド・サルチーヌ殿。あなたがその言葉をお嫌いなのはわかっていますよ。ですから繰り返さずとも結構。伯爵夫人が小箱の返却をご所望なのですから、お返しすればいいんです」

「返却をご希望ですか?」ド・サルチーヌ氏は怒りで震えていた。

「ええお願い、警視総監殿」

「ですがせめておわかりいただきたいのですが……」

 バルサモが伯爵夫人に目配せした。

「わからないことはわからないままにしておきたいの。小箱を返して下さる? わざわざ無駄足を踏ませないで頂戴な」

「神の御名に誓って、陛下のご利益に誓って……」

 バルサモが苛々とした素振りを見せた。

「小箱をこちらに!」伯爵夫人がきっぱりと口にした。「ウイかノンです。ノンと言うつもりならようく考えてからになさいまし」

「仰せのままに」ド・サルチーヌ氏が折れた。

 ド・サルチーヌ氏は伯爵夫人に小箱を手渡した。机の上に散らばっていた書類は、既にバルサモによって小箱に仕舞われていた。

 デュ・バリー夫人がバルサモに向かってにっこりと微笑みかけた。

「伯爵殿、この小箱を馬車まで運んで下さらないかしら? それに控えの間にはぞっとするような顔つきをした人たちが並んでいるでしょう、一人で通りたくないので腕を貸して下いません? ご機嫌よう、サルチーヌ」

 バルサモが伯爵夫人と戸口に向かっていると、ド・サルチーヌ氏が呼び鈴に駆け寄るのが見えた。

 バルサモは目顔でそれを制し、「伯爵夫人、ド・サルチーヌ殿に仰っていただけませんか。小箱を返してくれと頼んだことを根に持っているんですよ。警察が動いたせいで私に何か起こりでもしたら、あなたがどれだけ悲しむか、それに総監がどれだけの不興を買うことになるかを教えて差し上げてもらえませんか」

 伯爵夫人がバルサモに微笑んだ。

「今のをお聞きになりましたでしょう、サルチーヌさん? 嘘じゃありませんわ。伯爵殿はあたくしの素晴らしい友人ですもの、何か困らせるようなことでもあれば、あなたのことは許しませんよ。さようなら、サルチーヌ」

 そして今度こそ、小箱を持ったバルサモに手を預けて、デュ・バリー夫人は執務室から立ち去った。

 ド・サルチーヌ氏は二人が出て行くのを黙って見守っていた。怒りを爆発させるのではないかというバルサモの読みは外れた。

「まあいい!」ド・サルチーヌ氏は呟いた。「小箱はお前のものだ。だが女は私がいただく!」

 腹いせに、千切れそうなほどの勢いで呼び鈴を鳴らした。

 
 

第百二十六章 バルサモが魔術師だとド・サルチーヌ氏が信じ始めた次第

 慌ただしい呼び鈴の響きを聞いて、取次が駆け込んで来た。

「あの女は?」ド・サルチーヌ氏がたずねた。

「どの女でしょうか?」

「ここで気を失った女だ。お前に頼んでおいたはずだ」

「あの女でしたらすっかり元気になりました」

「よかった。連れて来なさい」

「どちらに伺えばよいのでしょうか?」

「あの部屋に決まっている」

「あそこにはもうおりません、閣下」

「いない? では何処にいるんだ?」

「存じ上げません」

「出て行ったのか?」

「はい」

「一人で?」

「はい」

「だが一人では立てなかったはずだ」

「気絶してからしばらくはそうでした。ですがド・フェニックス様が執務室に案内されてから五分後に、精油も気付け薬も嗅がせていないのに目を覚ましたのです。目を開けて立ち上がると、嬉しそうに息を吸い込みました」

「それから?」

「それから戸口に向かいました。引き留めるようには命じられておりませんでしたので、そのまま立ち去らせました」

「立ち去らせた? 間抜けどもが! まとめてビセートルに放り込んでやりたいくらいだ! 急げ、大急ぎでを刑事長を呼べ」

 取次は命令に従って大急ぎで出て行った。

「あいつは魔術師だ……私が国王陛下の警察長なら、あいつは悪魔の警察長だ」

 ド・サルチーヌ氏にはわけがわからなくとも、読者の方々には見当がついておいでだろう。拳銃の場面の直後、警視総監が我に返るまでの一瞬の隙を利用して、バルサモは四方位を確認し、その一つにロレンツァがいることを見抜いたのだ。そして目を覚まして部屋を出て、来たのと同じ道をたどってサン=クロード街に戻るように命じたのである。

 バルサモがそれを心に念じると、二人の間に磁力の流れが生じ、それを感じたロレンツァが命令に従って目を覚まし、誰にも引き留められずに退出したのだ。

 その晩ド・サルチーヌ氏は床に入ってからも血を吐きそうなほど苦しんだ。混乱が大きすぎてただでは耐えられそうになかった。後十五分そんなことが続けば卒中で死んでいたと医者なら言うことだろう。

 一方、バルサモは伯爵夫人を馬車まで見送り、いとまを告げようとした。だが伯爵夫人は目の前で繰り広げられた奇妙な出来事の意味を知らぬままに、或いは知ろうとせぬままにしておくような女ではなかった。

 同乗を促されたバルサモは、ジェリドを馬丁に預けて隣に坐った。

「あたくしが誠実な人間かどうか、それに人を友人扱いしたのが口先だけからなのか心の底からなのかくらいは、おわかりになりますでしょう。リュシエンヌに戻るところだったんですのよ、国王が明日の朝いらっしゃると伺ったものですから。それでもあなたのお手紙を受け取って、あなたのために取るものも取りあえず駆けつけて来たんです。ド・サルチーヌさんに目の前で陰謀だとか陰謀家だとか言われてぞっといたしましたわ。でもまずはあなたの目配せを確認して、ご希望に添うように行動したんです」

「あなたのためにたいしたことも出来なかったのに、お釣りが来るほどのことをして下さって恐縮の至りです。だが私にとっては天の助けでした。このたびのご恩は忘れません。お礼はいつか必ず。ド・サルチーヌ氏の言葉を真に受けてはいけませんぞ。私は犯罪人でも陰謀家でもありません。私を裏切った人物がいましてね、警視総監はその人の手からあの小箱を受け取ったのですが、中身は化学上の秘伝なんですよ。あなたには是非とも伝授したいものですな。そのまばゆい美しさ、若さを永遠に保っていただきたいと考えておりますから。それはそうと、ド・サルチーヌ氏はあの数字の羅列を見て、大法官府の助けを借りたのですが、その役人は間違いを指摘されたくないばかりに、自己流で数字を解読したのでしょう。以前に申し上げました通り、この種の技術というのは、中世に脅かされた脅威からまだ脱していないのですよ。あなたのように若く知的な考え方の持ち主を除けば、好意的に捉えては下さいません。今回の苦境から救っていただいたお礼は、いつか必ずさせていただきます」

「ですけど、あたくしが助けに来なかったらどうなっていましたの?」

「見せしめの意味で、フリードリヒ大王陛下のお嫌いなヴァンセンヌかバスチーユに入れられるところでした。一吹きで岩をも溶かす業を使えば、無論すぐに出ることは出来ますが、それだと小箱が取り戻せません。先ほど申し上げたように、中に仕舞ってある不可解な数字には、科学上の偶然によって永遠の闇から掬い上げられた秘密が詰まっているのです」

「嬉しいと同時にほっとしましたわ。つまり若返りの媚薬をいただけますのね?」

「はい」

「いついただけますの?」

「お気が早い。二十年後にお申しつけ下さい。子供に戻りたいわけではないでしょう?」

「ほんとに素敵な方ね。最後に一つだけいいかしら。そうしたら許してあげます、どうやらお急ぎみたいだから」

「お聞きしましょう」

「あなたを裏切った人がいるって仰ったじゃない。男かしら、女かしら?」

「女です」

「まあ伯爵殿ったら。恋愛がらみなのね!」

「まあそういうわけです。嫉妬に火がついてとうとう憎しみまで抱き、ご覧になったような結果と相成ってしまいました。私を殺せないことはわかっていたから、刺し殺そうとはせずに、監獄に入れるなり破滅させるなりしようとしたんですよ」

「破滅させるですって?」

「本人はそのつもりだったようですね」

「もう停めましょうか」伯爵夫人が笑い出した。「殺せないから裏切るだなんて、血管に水銀でも流れているのかしら? 死なないのはそのせい? ここで降りますか、それともご自宅までお送りしましょうか?」

「そこまでご迷惑を掛けることは出来ません。私にはジェリドがおりますから」

「あの風よりも速いという馬のこと?」

「きっとお気に召すはずです」

「確かに素晴らしい馬ね」

「あなた以外の人には乗らせないという条件で、よければお譲りいたしましょうか」

「ありがたいけど、やめとくわ。馬には乗らないし、乗ってもおっかなびっくりなんですもの。気持だけはいただいておくわ。じゃあ十年後に、媚薬を忘れないで下さいまし」

「二十年後と申し上げましたが」

「だって諺にもあるでしょう。『明日の百より……』って。ですから五年後にいただけるのでしたらなおのこと……何が起こるかなんて誰にもわかりませんもの」

「ではご所望の折りに。あなたのためなら何でもいたしますよ」

「最後に一つだけ」

「どうぞ」

「この話をするのはあなたを心から信用しているということにほかなりません」

 バルサモは既に馬車から降りていたが、苛立ちを抑えて伯爵夫人に近づいた。

「噂では、国王はタヴェルネ嬢に気があるそうね」

「まさかそんなことが?」

「聞くところによるとぞっこんだそうじゃない。ちゃんと仰って下さらなきゃ駄目よ。本当のことだとしたら、遠慮はいらないわ。どうか友人として、真実を仰って」

「いくらでも申し上げます。アンドレ嬢が国王の寵姫になることは断じてありません」

「どうして?」

「私がそれを望まないからです」

「ふうん!」デュ・バリー夫人は疑わしげだった。

「お疑いですか?」

「何の保証もないじゃありませんの?」

「科学をお疑いになってはなりません。ウイと言った時には信じて下さったではありませんか。ノンと言った時にもお信じ下さい」

「つまりあなたには……?」

 伯爵夫人は言葉を止めて微笑んだ。

「どうぞ最後まで仰って下さい」

「つまりあなたには、国王のお心を翻させたり、気まぐれに抗ったりする手段がおありのね?」

 バルサモの口にも笑みが浮かんだ。

「私には人を好きになる気持を生み出すことが出来ます」

「ええ、わかります」

「わかるだけではなく、信じて下さい」

「信じます」

「ありがとうございます。反感を生み出すことも出来るし、必要とあらば、不可能を生み出すことも出来るのです。ですから安心して下さい、私が目を光らせておりますから」

 バルサモはこうした言葉を錯乱したように切れ切れに発していた。バルサモがどれだけ急いでロレンツァに会いたがっているのか、その燃えるような思いを知っていれば、デュ・バリー夫人もそれを予知能力ゆえの昂奮だと誤解せずに済んだはずだ。

「よかった。やっぱりあなたはただの予言者ではなく、あたくしの守護天使でしたわ。伯爵殿、いいこと、あたくしもあなたを守るから、あなたもあたくしを守って下さいな。同盟を結びましょう!」

「同盟成立です」バルサモが答えた。

 そして再び伯爵夫人の手に口づけした。

 それからシャン=ゼリゼーに停められていた馬車の扉を閉め、馬に乗ると、喜びにいなないた馬を駆って夜の闇に姿を消した。

「リュシエンヌへ!」元気を取り戻したデュ・バリー夫人が命じた。

 バルサモの方は口笛を鳴らし、軽く膝を締めて、急いでジェリドを走らせた。

 五分後には、サン=クロード街の前に到着し、フリッツを見つめた。

「首尾は?」と不安げにたずねる。

「問題ありません」目の色を読み取って答えた。

「戻っているんだな?」

「上にいらっしゃいます」

「どの部屋だ?」

「毛皮の部屋です」

「様子は?」

「疲れ切った様子でした。待ち受けていたところ、随分と遠くから全速力で走って来たようでしたから、迎えに出る間もありませんでした」

「だろうな!」

「ぎょっといたしました。奥様は嵐のようにこちらに駆け込むと、息を整える間もなく階段を上がりましたが、部屋に入ろうとしたところで急に黒い獅子皮に倒れ込みました。そちらにいらっしゃるはずです」

 バルサモが急いで階段を上ると、そこには確かにロレンツァがいた。発作に襲われ為すすべもなく痙攣に悶えている。かなり前から霊気に捕らえられ、激しい動きに身を委ねていたのだ。山に押しつぶされたような苦しみに呻きをあげ、両手でそれを押しのけようともがいていた。

 バルサモはそれを見るや怒りに駆られ、ロレンツァを抱えて部屋に運び入れ、隠し扉を閉めた。

『ジョゼフ・バルサモ』 124

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百二十四章 小箱

 一人になったド・サルチーヌ氏は、物の価値をわかっている人間らしく小箱をためつすがめつした。

 それから手を伸ばして、ロレンツァが落とした鍵束を拾った。

 一つずつ試してみたが、どれも合わない。

 そこで抽斗からほかに三つか四つ鍵束を取り出した。

 これらの鍵束にはありとあらゆる種類の鍵があった。家具の鍵や小箱の鍵ももちろんある。ごく普通の鍵から極小の鍵まで、ド・サルチーヌ氏なら世に知られたあらゆる鍵の見本を持っていそうだ。

 二十、五十、百……幾つも小箱に試してみたが、鍵が回ることすらなかった。この錠は見せかけなのではないか、ということはこの鍵束も玩具でしかない。

 そこで抽斗から鑿と槌を取り出し、ゆったりとしたレースの袖口から白い手を伸ばし、小箱の番人である錠前を跳ね飛ばした。

 すると紙の束が姿を見せた。悪意のある仕掛けが飛び出したり命に関わる毒の香りが立ちのぼったりして、フランスの中枢を担っている役人を亡き者にするつもりなのではないかという恐れは、杞憂に終わった。

 最初に目に飛び込んで来たのは、どうやら筆跡を隠しているらしき次のような文章だった。

 親方マスター、バルサモの名を捨てるべき頃合いです。

 署名の代わりにL・P・Dの三文字があるだけだ。

 ド・サルチーヌ氏は鬘の巻き毛をいじった。「この筆跡に見覚えはなくとも、この名前には聞き覚えがある。バルサモか、Bの項目を見てみよう」

 二十四の抽斗の一つを開けて、小さな名簿を取り出した。アルファベット順に細かい字で三、四百の略号が並び、その前後に夥しい覚書が記されている。

「これか! バルサモの項目は随分と長いな」

 目に見えて不満を表しながらそのページを読んだ。

 やがて名簿を抽斗に戻し、再び小箱の中身に取りかかった。

 それほど経たずして、目の色が変わった。やがて幾つもの名前や数字が書き込まれた紙切れが見つかったのだ。

 これは重要だと直感した。余白いっぱいに鉛筆で記号がつけられている。ド・サルチーヌ氏は呼び鈴を鳴らした。召使いが現れた。

「大急ぎで大法官府の助手を呼んでくれ。時間を節約するために、事務室から広間を通って来てもらいなさい」

 従僕が立ち去った。

 十分後、事務員が到着した。手に羽根ペンを持ち、帽子を脇に挟み、大きな名簿を反対脇に抱え、制服の袖の上に古びた黒サージの袖を重ねている。ド・サルチーヌ氏は鏡の中にその姿を認めて、肩越しに件の書類を手渡した。

「内容を読み取ってくれ」

「かしこまりました」

 解読を任されたのは、痩せた小男だった。口唇は薄く、考え込む時には眉を寄せ、上と下が尖った青白い顔をして、顎の線は細く、額は後退し、頬骨が張り、目は落ち窪んで生気がなかったが、それが時折り輝いた。

 ド・サルチーヌ氏はラ・フイヌと呼んでいた。

「坐ってくれ」手帳、暗号表、覚書、羽根ペンをもてあましているのを見かねて声をかけた。

 ラ・フイヌはちょこんと腰掛けに坐り、足を閉じて膝の上で何か書きつけながら、真剣な顔をして辞書や覚書をめくり始めた。

 五分後には、以下の文章を書きあげていた。

 § 三千人の同胞をパリに集めること。

 § 三つの交友会と六つの支部を作ること。

 § 大コフタに護衛をつけ、四つの住居を用意し、そのうちの一つは王家に設えること。

 § 警察対策として五十万フラン用意すること。

 § 文学と哲学の精華を残らずパリの第一交友会に登録すること。

 § 役人を買収するか官職を買うこと、特に警視総監については買収、暴力、陰謀の如何なる手段を用いても確保すること。

 ラ・フイヌはここでいったん書くのをやめた。考え込んだわけではない。そうしないように普段から気をつけていた。考え込むのは犯罪も同然だ。そうではなく、ページが埋まったのでインクが乾くまで待たなくてはならなかったのだ。

 ド・サルチーヌ氏は我慢できずに手から紙をもぎ取り読み始めた。

 最後の文章を読んで、顔に恐怖を浮かべ、青ざめた顔が鏡に映っているのを見て青ざめた。

 その紙は返さずに、真っさらな紙を手渡した。

 ラ・フイヌは再び解読の結果を書き留め始めた。あまりにも易々と解いているものだから、暗号製作者ならぞっとするに違いない。

 ド・サルチーヌ氏はそれを肩越しに覗き込んで読んだ。

 § バルサモの名前はパリで捨てること。大分知られて来てしまった。代わりにド・フェ……

 後半はインクの染みで潰れてしまっている。

 見えない部分に何という単語が隠されているのか考え始めた瞬間、外で呼び鈴が鳴り響き、従僕が来客を告げた。

「ド・フェニックス伯爵です!」

 ド・サルチーヌ氏は声をあげ、鬘が乱れるのも気にせずに頭の上で手を組むと、大急ぎでラ・フイヌを隠し扉から追い出した。

 それから机に戻って従僕に返事をした。

「入ってもらいなさい!」

 数秒後、鏡の中に険しい顔をした伯爵の姿が見えた。デュ・バリー夫人の認証式でちらっとだけ見たことがある。

 バルサモは躊躇うことなく部屋に入って来た。

 ド・サルチーヌ氏は立ち上がり、素っ気なくお辞儀すると、足を組んでわざとらしく椅子にもたれかかった。

 一目見ただけで訪問の理由も目的も見当がついた。

 バルサモの方でも、机の上の小箱の蓋が開いて中身が空けられていることに、一瞬で気づいていた。

 小箱に目を走らせたのは一瞬とはいえ、警視総監の目を盗むことは出来なかった。

「このたびはどういったご用件でご訪問いただいたのでしょうか、伯爵殿?」

「閣下」バルサモは愛想よく微笑んだ。「私はこれまで、欧州の君主、大臣、大使の方々にご紹介いただく名誉を授かって参りました。しかしながらあなたに紹介して下さる者がおりませんので、自ら紹介に与りに参ったという次第です」

「それはまた、実にいい頃合いにいらっしゃいました。あなたからおいでいただかなくとも、こちらにいらっしゃるようお呼びしようと思っていたところでした」

「へえ! そいつは恐ろしい偶然ですね」

 ド・サルチーヌ氏はにやりと笑って一揖した。

「何かお役に立てることでもあるのでしょうか?」バルサモがたずねた。

 その言葉には昂奮や不安の影もなく、微笑みをたたえた顔には一点の曇りもよぎらなかった。

「伯爵殿は幾つも旅をなさっているとか?」

「幾度となく」

「なるほど!」

「もしや地理に関する情報をお求めでしたか? あなたほどの方でしたら、フランスのみならず、欧州や、全世界……」

「地理ではありません、伯爵殿。むしろ道徳と言った方が正確かと」

「遠慮なさらずとも結構。いずれにしましても、何なりとお聞きしましょう」

「いいでしょう。非常に危険な人物を探しているものとお考え下さい。その男は無神論者であるうえに……」

「ほう!」

「謀反人であり」

「ほほう!」

「偽造犯であり」

「むう!」

「姦通者であり、贋金造りであり、偽医者であり、いかさま師であり、結社の首領なのです。この名簿にもこの小箱の中にも、至るところにその人物の記録があるのですよ」

「ああなるほど、わかりますよ。記録はあるが、本人は見つからないというわけだ」

「如何にも」

「しかし重要なのは本人の方ではありませんか」

「そうですな。だがもうすぐ捕まえてご覧にいれますよ。いやそれにしても、如何にプロテウスでもこの怪人ほど様々な姿はしていないでしょうし、ゼウスといえどもこの旅人ほど多くの名前は持ってはおらぬでしょうな。エジプトではアシャラ、イタリアではバルサモ、サルディニではソミーニ、マルタではダンナ侯爵、コルシカではペレグリーニ侯爵、そして……」

「そして……?」バルサモがたずねた。

「この最後の名前がよく読み取れないので、ご協力いただけないかと考えておるのですよ。何しろあなたは旅行中に、今名前を挙げた国々でこの男に会っているに違いないのですから」

「少し手がかりをもらえますかね」バルサモは平然としていた。

「いいでしょう。お知りになりたいのは見た目の特徴でしょうね、伯爵殿?」

「ええ、お願いします」

「わかりました」ド・サルチーヌ氏は探るような目でバルサモを睨んだ。「この男はあなたぐらいの年齢で、あなたぐらいの体格で、あなたのような顔立ちをしています。ある時は金をばらまく大領主、ある時はこの世界の理を探るいかさま医師、ある時は国王の死と王権の転覆を密かに誓う秘密結社の構成員」

「曖昧ですね」

「曖昧?」

「その特徴に適う男にいったいどれだけ会ったと思っているんですか」

「ああ、なるほど!」

「そういうことです。協力を望まれるのでしたら、もっと詳細に教えていただかないと。例えばそうです、この男が暮らしている国は主に何処なんです?」

「あらゆる国ですよ」

「いやしかし今現在は?」

「今現在はフランスです」

「フランスで何を?」

「巨大な陰謀を指揮しています」

「それこそ手がかりだ。それがどんな陰謀なのかがわかれば、糸を手繰って、可能性をしらみつぶしに当たることで、その男を見つけられますよ」

「異論はありませんな」

「異論はない? だったらどうして人の意見など求めるんです? 無意味だ」

「まだ迷っているからですよ」

「いったい何を?」

「つまりですな……」

「ええ」

「この男を逮捕すべきか、否か」

「逮捕すべきか否か?」

「そうです」

「逮捕しない理由がわかりませんね、警視総監殿。陰謀を企てていると言うのなら……」

「それは事実です。だが名前や肩書きによって守られているとしたら?」

「そういうことですか。それにしてもその名前や肩書きというのは? 捜索に協力するにはそれを教えていただかないと」

「それは既に申し上げました。隠し名は知っているのです。だが……」

「だが通り名がわからない、と?」

「その通り。それがわからないと……」

「それがわからないと、逮捕が出来ないと?」

「すぐには無理です」

「なるほどね、サルチーヌ殿、先ほどあなたが言われたように、ちょうどこの瞬間ここに来たのは運が良かったようですね。どうやらおたずねの点でお役に立てそうな気がします」

「あなたが?」

「ええ」

「つまり名前を教えていただけるのですか?」

「ええ」

「現在使っている通り名を?」

「ええ」

「では名前をご存じなんですな?」

「間違いなく」

「教えていただけますか?」どうせでたらめだろうと思いながらド・サルチーヌ氏はたずねた。

「ド・フェニックス伯爵」

「何ですって? それはあなたが名乗った名前では……?」

「如何にも。私はそう名乗りました」

「あなたの名前なのですか?」

「私の名前です」

「つまり、このアシャラ、ソミーニ、ダンナ侯爵、ペレグリーニ侯爵、ジョゼフ・バルサモというのは、あなたなのですか?」

「いけませんか」バルサモは悪びれずに答えた。「この私ですよ」

 ド・サルチーヌ氏はこの厚かましい告白を聞いて眩暈を覚え、頭を冷やすのにしばらくの時間が必要だった。

「予想はしていましたよ。あなたのことは存じ上げていましたし、バルサモとド・フェニックス伯爵が同一人物なのはわかっていました」

「凄い! たいした政治家ですよ、あなたは」

「そしてあなたはたいした考えなしですな」ド・サルチーヌ氏は呼び鈴に近づいた。

「考えなし? どうしてまた?」

「これからあなたを逮捕するからです」

「そいつは参った!」バルサモは呼び鈴と警視総監の間に立ちふさがった。「逮捕するんですか?」

「悪あがきを! どうやって逃げるつもりです? お聞かせ願いたいものですな」

「聞いてるんですかね?」

「無論」

「ああ、警視総監殿、あなたの頭を吹っ飛ばすつもりなんですよ」

 バルサモはポケットから金で象眼された拳銃を取り出した。ベンヴェヌート・チェリーニの手になる仕事のようだ。ゆっくりと狙いを定められて、ド・サルチーヌ氏は青ざめて椅子に坐りこんだ。

「さて」バルサモはそばまで別の椅子を引き寄せて腰を下ろした。「では腰を据えて、ちょっとお喋りをしようじゃありませんか」

『ジョゼフ・バルサモ』 122・123

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百二十二章 意思

 バルサモが出て行くところまではお伝えしておいた。

 ジェリドはバルサモを乗せて閃光のようにひた走った。苛立ちと恐怖で真っ青になっているバルサモは、揺れる鬣に身を伏せて、小さく開けた口から空気を吸い込んでいた。すいすいと進む船の船首が水を割るように、駿馬の胸先で空気が二手に分かれている。

 夢でも見ているように、木々や家々が置き去りにされてゆく。車軸の上で軋みをあげている鈍重な二輪馬車と通りがけに行き会おうものなら、重さに喘ぐ五頭の馬たちは生身の流星が飛んで来るのを見て怯え、よもやそれが自分たちと同じ種族であるとは思いもしなかったに違いない。

 バルサモはそのようにして一里近くを進んだ。頭を燃え上がらせ、目を爛々と輝かせ、音を立てて燃え上がるその喘ぎを見れば、当時の詩人なら、煙を吐く巨大な機械を火と蒸気の恐ろしい怪物たちが動かして鉄路を疾走させている光景と比較したことであろう。

 ジェリドとバルサモはほんの数秒でヴェルサイユを通過した。道を彷徨っていた幾人かの人々が、光の筋が通り過ぎるのを目撃したに過ぎない。

 さらに一里を駆けた。ジェリドは十五分もかけずに二里を征服したが、この十五分は一世紀にも匹敵していた。

 不意にバルサモはある思いに駆られた。

 逞しい足首で、鋼の筋肉を持つ駿馬を急いで止めた。

 ジェリドが後脚を折り曲げ、前脚を砂にめり込ませた。

 バルサモとジェリドは束の間息を吐いた。

 そうしながらバルサモが顔を上げた。

 手巾をびしょびしょのこめかみに押し当て、そよ風に鼻をふくらませ、闇に向かってこんなことを吐き出した。

「お前は頭がおかしいに違いない! いくら馬を走らせても、いくら思いを募らせても、雷の一撃や電気の火花ほど速く飛べるわけもないのだから。だがそれもこれも、頭上にぶら下がっている災いを避けるためにはやむを得ん。その足で駆け込まれるかもしれん、口から裏切りの言葉が飛び出すかもしれん、その足取りや言葉を止めるには、迅速な結果、一刻も早い行動、絶対的な力が必要なのだ。鎖を千切って逃げ出した奴隷を連れ戻すには、これほど離れているとはいえ、催眠の力を駆使することが必要なのだ。上手く行けば俺の手の内に戻って来るかもしれない……」

 バルサモは絶望に身をよじらせて歯軋りした。

「畜生! いくら念じても無駄だよ、バルサモ。いくら走ってももう遅い。ロレンツァはとっくに到着して、これからぶちまけるところだ。いいや、もうぶちまけた後だろう。哀れな女め! どれほどの罰を受けようとも、おまえの犯した罪に比べれば軽すぎるぞ!」

 バルサモは眉をひそめ、宙を睨み、顎に掌を当てた。「いいだろう、科学とは言葉だけのものかもしれんし実行できるものかもしれん。可能か不可能かのどちらかだ。俺はやるぞ……やってやる……ロレンツァ! 俺はおまえを眠らせてやる。ロレンツァ、何処にいようとも、眠れ、眠るんだ。それが俺の願いだ!」

「いや、違う」バルサモは力を落として呟いた。「違う、今のは嘘だ。そんなことは思っちゃいない。願うつもりはない。だが俺には意思しかない、意思がすべてなんだ。確かに望んではいるが、俺という存在の持てる力のすべてをかけて望んでいるんだ。空気を切り裂いて進め、人智を越えた俺の意思よ! 悪意のある冷淡な意思の流れを蹴散らして進め。弾丸のように壁を通り抜けて進め。何処にいようとも追いかけてゆけ。打て、叩きのめせ! ロレンツァ、ロレンツァ、眠るんだ! ロレンツァ、口を開かないでくれ!」

 バルサモは標的に向かってしばし思念を飛ばし、パリに出たらさらに勢いをつけるつもりのように、その思念を脳に焼きつけた。あらゆるものの神や支配者に命を与えられている神聖な原子を一心に込めて、以上のことをおこなうと、バルサモはまたも歯を食いしばり、拳を固め、ジェリドの手綱を取ったが、今度は膝や拍車で打つようなことはしなかった。

 バルサモは自分自身を納得させようとしているようだった。

 やがてジェリドは暗黙の命令を読み取り、緩やかに脚を進めた。さすが名馬といった手並みで静かに舗道に置いた脚は、ほとんど音も立てなかった。

 その間バルサモは虚ろな目をして放心しているような顔つきで、対策を考えていた。ジェリドがセーヴルの舗石に触れた時には、答えが出ていた。

 公園の柵まで来ると、馬を止めて、待ち人でも捜しているように周囲に目を走らせた。

 すると確かに大門の下から人影が現れ、バルサモの方にやって来た。

「お前か、フリッツ?」

「そうです」

「確認は終わったか?」

「はい」

「デュ・バリー夫人はパリとリュシエンヌどちらにいる?」

「パリです」

 バルサモは勝ち誇ったように天を仰いだ。

「ここにはどうやって?」

「シュルタンに乗って来ました」

「今は何処に?」

「あの宿屋の中庭です」

「鞍はつけてあるな?」

「つけてあります」

「よし、準備してくれ」

 フリッツはシュルタンの綱を解きに行った。忠実で気性のいいドイツ馬である。無理をさせられれば多少の不満は表すものの、胸に空気がなくなったり乗り手が拍車を休めたりしない限り、前に進むことをやめようとはしない。

 フリッツが戻って来た。

 家畜店の店員たちが税金を計算するために一晩中灯している街灯の下で、バルサモは何か書いていた。

「パリに戻ってくれ。デュ・バリー夫人が何処にいようとも、本人にこの手紙を渡すんだ。三十分やる。それからサン=クロード街に戻って、シニョーラ・ロレンツァを待っていろ。必ず戻って来る。何も言わず何の邪魔もせずに通してやるんだ。では行け、三十分後には仕事を終わらせておかなくてはならないことを忘れるなよ」

「心得ました。心配ご無用」

 こう答えてバルサモを安心させるや否や、シュルタンに拍車と鞭をくれると、いつもとは違う荒々しい合図を受けたシュルタンは、不意打ちに驚いて痛ましいいななきをあげて走り出した。

 バルサモは徐々に落ち着きを取り戻し、パリに向かって再び走り出すと、四十五分後には冷ややかな顔でパリに入った。目は穏やかというよりは物思いに沈んでいた。

 バルサモは正しかった。砂漠の申し子であるジェリドの足がどれだけ速くとも間に合わない。牢獄から逃げ出したロレンツァに追いつけるのは意思の速さだけだ。

 サン=クロード街から出たロレンツァは、大通りに行き当たり、右に曲がるとやがてバスチーユ要塞が見えた。だがずっと閉じ込められていたロレンツァにはパリのことがわからない。それに何よりも独房でしかない忌まわしい家から逃げることだけを考えていたのだ。復讐は二の次だった。

 そういうわけで、わけもわからぬまま大急ぎでフォーブール・サン=タントワーヌに駆け込んだロレンツァだったが、その時、驚いて追いかけて来た若い男に声をかけられた。

 なるほどロレンツァはローマ近郊出身のイタリア人であったので、当時の習慣や服装、それに流行から外れた特異な生活をずっと営んで来た。だからロレンツァの恰好は欧州の女というよりは東洋の女のようだった。つまりゆったりとした大げさな恰好をしており、可愛い人形さんたちとはあまり似ていなかった。人形たちときたら長いブラウスの腰を雀蜂のようにぎゅっと絞り、揺れ動く絹やモスリンの下に目を凝らしても一見すると肉体も野心も存在するようには見えないのである。

 だからロレンツァが受け入れた、もとい採り入れたフランスの流行りものは、二プスのハイヒールだけであった。この耐え難い靴ときたら足も反るしくるぶしもすぐ痛くなるしで、この神話じみた世紀にあってアルペイオスたちに追われて逃げるアレトゥーサたちに耐え難い思いをさせていた。

 つまり我らがアレトゥーサを追いかけたアルペイオスが追いつくのは容易かったのである。繻子とレースのスカートから伸びた見事な足、髪粉のつけられていない髪、頭から首まで覆ったケープから覗く異国の炎に燃えた瞳。そんなロレンツァを見て、きっと変装して仮装舞踏会か逢い引きに向かう途中に違いない、辻馬車が見つからず歩いて郊外の家まで行くつもりなのだと考えた。

 そこで男はロレンツァのそばまで寄って帽子を取った。

「お待ちなさい! そんな歩きづらい靴を履いていては、とても遠くまでは行けませんよ。馬車のあるところまで腕を貸して差し上げますから、どうかご案内させて下さい」

 ロレンツァは慌てて振り返り、たいていの女性には無礼に感じられそうな申し出を口にした男を、黒く澄んだ目で見つめ、立ち止まった。

「お願い出来ますか」

 若い男が慇懃に腕を差し出した。

「どちらまで?」

「警察長官の邸まで」

 若者が震え上がった。

「ド・サルチーヌ氏のところに?」

「名前は知りません。ただ警察長官とお話ししたいんです」

 若者は考え込み始めた。

 若くて美しいご婦人が、異国風の服装をして、夜の八時に腕に小箱を抱えてパリの街路を走り、警視総監の邸をたずねていながら、そこに背を向けているのが疑わしい。

「警視総監の邸はここらへんではありませんよ」

「では何処に?」

「フォーブール・サン=ジェルマンです」

「フォーブール・サン=ジェルマンにはどうやって行けばいいのでしょう?」

「ここからなら――」相変わらず丁寧とはいえ平板な態度に変わっていた。「馬車を拾った方がいいでしょう……」

「馬車。仰る通りね」

 若者はロレンツァを大通りまで連れて行くと、辻馬車を見つけて声をかけた。

 御者が合図に応えてやって来た。

「どちらまで、マダム?」

「ド・サルチーヌ氏の邸まで」若者が答えた。

 若者は最後まで礼儀を忘れずに、いや、驚きを隠せずに扉を開け、ロレンツァにお辞儀して乗り込むのに手を貸してから、馬車が遠ざかってゆくのを夢か幻でも見ているように見つめていた。

 御者はその恐ろしい名前には一目置いていたので、馬に鞭をくれて目的地に向かって走らせた。

 ロレンツァがロワイヤル広場を通り、アンドレが催眠状態の中で見聞きしたロレンツァの行動をバルサモに知らせていたのは、こうした時であった。

 二十分後、ロレンツァは邸の門前にいた。

「待っていましょうか?」御者がたずねた。

「お願い」ロレンツァは機械的に答えた。

 そして軽やかに、豪華な邸の大門をくぐった。

 
 

第百二十三章 ド・サルチーヌ氏の邸

 中庭に入ると、指揮官代理や兵士に囲まれていた。

 ロレンツァは近づいて来た近衛兵に話をして、警視総監に案内を乞うた。近衛兵がスイス人衛兵にロレンツァを引き渡すと、スイス人衛兵はこの美しく風変わりで華やかな服装をして立派な小箱を抱えた女性を見て、無意味な訪問ではなさそうだと判断し、大階段を上らせて控えの間に通した。ここを訪れる者なら誰でも、スイス人衛兵の鋭い審査の後、昼夜を問わずド・サルチーヌ氏に釈明や密告や請願を届けることが出来た。

 最初の二つの訪問理由が最後のものより喜ばれることは言うまでもない。

 ロレンツァは取次にたずねられても、たった一言しか答えなかった。

「ド・サルチーヌ氏ですか?」

 取次の黒服や鉄鎖と、警視総監が身につけている刺繍入りの服や灰色の鬘を間違えられたことに、取次は驚きを隠せなかった。だが大尉に間違われて腹を立てる中尉などいないし、ロレンツァの外国風のアクセントにも気づいていた。それに力強く揺らぎのない瞳は狂人のものではない。どうやら大事そうに腕に抱えている小箱に、何か重要なものを入れて運んで来たのだろうと見当をつけた。

 だがド・サルチーヌ氏は慎重で疑り深い人間であったし、イタリア美女のような魅力的な餌を撒いて罠を掛けられたこともこれまでに何度もあったので、厳重な警戒態勢を敷いていた。

 そこでロレンツァは半ダースもの秘書や従僕から、確認や尋問や疑いを向けられた。

 いろいろとやり取りをした結果わかったのは、ド・サルチーヌ氏は帰っていないので、待たなくてはならないということだった。

 そこでロレンツァはむっつりと黙り込み、広々とした控えの間の飾りのない壁に目を彷徨わせた。

 ついに呼び鈴が鳴った。馬車が中庭に乗り入れられ、やがてド・サルチーヌ氏が待っている旨を別の取次が伝えた。

 ロレンツァは立ち上がり、二つの広間を横切った。そこには疑わしい顔つきをしてロレンツァ以上に変わった恰好をした人々が溢れていた。やがて、幾つもの蝋燭が灯された八角形の大きな執務室に案内された。

 五十代前半、部屋着姿、髪粉と巻き毛がふんだんにくっついている大きな鬘をかぶった男が、背の高い家具の前に坐って仕事をしていた。家具の上部は洋服箪笥のようになっており、そこに嵌められた二枚の鏡板を使えば、部屋に入って来た人々のことを仕事を続けながら見ることが出来るので、訪問者が取り繕った顔を作る前に表情を観察することが出来た。

 家具の下部は書き物机になっている。奥には紫檀の抽斗が並び、そのいずれにも文字合わせ錠がついていた。ド・サルチーヌ氏はそこに書類や暗号を仕舞い、自分の生きている間は誰にも読めないようにしていた。本人にしか抽斗を開けることは出来ないので、死後は誰にも読むことは出来なくなる。開けるための暗号は、ほかの秘密にも増して厳重に抽斗に仕舞ってあった。

 この書き物机、というよりは洋服箪笥と言うべきか、上部の鏡の下には十二の抽斗があり、外からはわからない仕組みでこちらも施錠されていた。これは化学や政治の秘密を仕舞うためにわざわざ摂政が作らせたもので、大公からデュボワに、デュボワから警視総監ドンブルヴァル氏(M. Dombreval)に譲られたものである。そして後者からド・サルチーヌ氏がこの家具と秘密を引き継いだのである。ただしド・サルチーヌ氏は寄贈者が亡くなるまでは家具を使うことに同意しなかったし、その時でさえ錠前の並びをすっかり変えさせてしまっていた。

 この家具のことは世間でも評判になり、厳重に閉ざされているのはド・サルチーヌ氏が鬘を仕舞うためにほかならない、と噂された。

 当時山ほどいた批判者たちは、もし羽目板を透視できたならば、抽斗の一つにあの条約が見つかるに違いないと取り沙汰していた。忠実な警官であるド・サルチーヌ氏の仲立ちでルイ十五世が小麦に投機していたというあれである。

 要するに、ロレンツァが青ざめた深刻な顔で小箱を抱えて近づいて来るのを、警視総監氏は鏡に写して見ていたのだ。

 部屋の真ん中まで来ると、ロレンツァが立ち止まった。その服装、その姿形、その歩き方に、総監は強い印象を受けた。

「どなたかな?」鏡を見たまま振り返らずにたずねた。「何のご用でしょうか?」

「こちらにいらっしゃるのは警視総監のド・サルチーヌ氏でしょうか?」

「如何にも」ド・サルチーヌ氏は簡潔に答えた。

「確かですか?」

 ド・サルチーヌ氏が振り返った。

「あなたがお探しの人間が私であるという証拠に、監獄に放り込まなくてはなりませんか?」

 ロレンツァは返事をしなかった。

 母国の女に相応しい気品に溢れた態度で周囲に目を走らせ、ド・サルチーヌ氏から勧めてもらえなかった椅子を探した。

 その視線だけで充分だった。ダルビー・ド・サルチーヌ伯爵はそれほど気高い男だったのである。

「お坐り下さい」と、出し抜けに椅子を勧めた。

 ロレンツァは椅子を引き寄せ腰を下ろした。

「では手早くお話し下さい。ご用件は?」

「あなたに保護していただきたいんです」

 ド・サルチーヌ氏は持ち前の皮肉な目で眺めた。

「ははあ!」

「閣下、私は家族の許から攫われ、偽りの結婚によって三年前からある男に虐待されて来たんです。死んでしまいそうなほど苦しい毎日でした」

 ド・サルチーヌ氏はロレンツァの気高い顔立ちを見つめ、歌うようにまろやかな声の響きに感銘を受けた。

「ご出身は?」

「ローマです」

「お名前は?」

「ロレンツァ」

「ロレンツァ何ですか?」

「ロレンツァ・フェリチアーニ」

「ご家族のことは存じませんな。ドモワゼルでよろしいですね?」

 この時代、ドモワゼルとは良家の子女を意味する。今日の女性たちは結婚しただけで威厳を覚え、マダムと呼ばれることしか考えない。

「ドモワゼルです」

「それで、ご用件とは?……」

「私を監禁した男に裁きをお願いします」

「何とも言えませんな。あなたはその男の妻なのでしょう」

「少なくとも当人はそう言ってます」

「言っているのは当人だと?」

「ええ。私にはそんな記憶はありません。眠っている間に婚姻が交わされたんです」

「よほど眠りが深いんでしょうな」

「何ですか?」

「やはりこちらでは何にも言えません。弁護士にご相談下さい。家庭の問題に巻き込まれるのはご免こうむりたい」

 そう言うと、ド・サルチーヌ氏は出て行くように合図をした。

 ロレンツァは動こうとはしなかった。

「どうしたんです?」ド・サルチーヌ氏は驚いてたずねた。

「まだ話は終わってません。ここに来たからには、つまらないことで不満を洩らしているわけではないことをわかっていただかなくてはならないんです。ここに来たのは復讐するためです。私が何処の生まれかは申し上げました。故国くにの女たちは復讐を成し遂げこそすれ、不満など洩らしません」

「それはそれとして、端的にどうぞ。私の時間は貴重なのです」

「保護していただきたいと申し上げました」

「誰から保護せよと?」

「復讐するつもりの男からです」

「では力のある男なのでしょうな?」

「国王よりも力のある男です」

「どうやら話をする必要がありそうだ……お説によれば国王よりも力があるそうだが、そんな男からあなたを保護し、何やら犯罪らしき行為のために擁護の手を差し伸べるとでも? 復讐しなくてはならないというのなら、おやりなさい。関わるつもりはない。ただし罪を犯すというのなら、止めなくてはならない。それから話をするとしましょう。そういう段取りで如何です」

「いいえ、あなたには止めることは出来ません。出来ませんとも。私が復讐を果たすことが、あなたや国王やフランスにとっても大変な意味を持つのですから。この男の秘密を明かすことこそが復讐なんです」

「なるほど! 秘密があるのですか」ド・サルチーヌ氏は思わず興味を示した。

「大変な秘密です」

「どういった方面の秘密でしょうか?」

「政治に関することです」

「お話し下さい」

「では、保護していただけるのですね?」

「どのような種類の庇護がお望みですか?」警視総監は冷たい笑みを見せた。「お金? それとも愛情?」

「私の望みは修道院に入ることです。そこで人知れず引き籠もって生を送ることです。修道院を墓として、俗世間の誰にも暴かれずに過ごすことです」

「うん、難しい要求ではない。修道院に入れますよ。お話し下さい」

「約束して下さいますね?」

「そう申し上げたと思いましたがね」

「では、この小箱をお取り下さい。国王や王国の安全を脅かすような秘密が入っております」

「どのような秘密かご存じですか?」

「形だけですが、秘密が存在することは知っています」

「そして重要であることも?」

「恐ろしいということをです」

「政治上の秘密と仰いましたな?」

「秘密結社があるとお聞きになったことはありませんか?」

「メーソンの結社ですか?」

「目には見えない結社です」

「聞いてはいますが、信じてはおりません」

「この小箱を開けていただければ、お信じになるはずです」

「ふむ!」

 ド・サルチーヌ氏は鋭く叫び、ロレンツァの手から小箱をつかんだが、不意に考え込むと、机の上に小箱を置いた。

「いや――」疑わしげに呟き、「やはりあなたがご自分でお開けなさい」

「でも鍵がありません」

「鍵がない? 王国の安全を仕舞い込んだ小箱を持って来ながら、鍵を置いて来たとは!」

「では錠を開くのは難しいのでしょうか?」

「いや。開け方を知っていれば何と言うことはありません」

 それからすぐに話を続けた。

「ここに万能鍵がある。一つお貸ししますから、ご自分でお開けなさい」話している間も、ロレンツァから目を離さなかった。

「お貸し下さい」

 ド・サルチーヌ氏はいろいろな形状の鍵のついた鍵束をロレンツァに手渡した。

 手渡す時にロレンツァの手に触れたが、それは大理石のように冷たかった。

「しかしどうして鍵を持って来なかったのです?」

「持ち主が絶えず身につけていましたから」

「その国王より力を持っているという小箱の持ち主は何者なんです?」

「あの人はあの人、それしか言えません。あの人がどれだけの時間を過ごして来たのか知っているのは永遠のみ。あの人が成し遂げたことを目に出来るのはただ神だけです」

「だが名前は? 名前です」

「名前なら何度も変えていました」

「ひとまずあなたがご存じの名前は?」

「アシャラ」

「住まいは?」

「サン=……」

 俄にロレンツァが震え出し、手に持っていた小箱と鍵を取り落とした。答えようとしたが、口元が引きつるばかりだった。口から出かかっている言葉を締めつけようとでもするように、両手を喉元に当てた。それから震える腕を掲げたかと思うと、一声もあげずに、絨毯の上に倒れ込んだ。

「いったいどうしたんだ? しかし本当に綺麗なご婦人だ。ふん、ふん、どうやらこの復讐には嫉妬が絡んでいるな!」

 すぐに呼び鈴を鳴らして抱え上げた。目は見開かれ、口唇は動かず、とうにこの世から旅立ってしまったように見える。

 従僕が二人やって来た。

「こちらのご婦人を慎重に運んでくれ。隣の部屋がいい。意識を回復させてくれ。だが乱暴はいかん。さあ行け」

 従僕たちが指示に従ってロレンツァを運び出した。

『ジョゼフ・バルサモ』 121

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百二十一章 仮死

 アンドレは突然倒れたわけではなく、徐々に変化したのだということをこれからお伝えしよう。

 相次ぐ強い衝撃を神経に受けてぞっとするような冷たさに襲われ、一人きり見捨てられたアンドレは、まるで癲癇の発作が始まったかのように、ぐらぐらと揺れぷるぷると震え出した。

 ジルベールはがちがちに固まったままじっと動かず、前のめりに身体を乗り出してアンドレをまじまじと見つめていた。だが催眠磁気のことを知らないジルベールには、眠っているようにも暴力を受けているようにも見えなかったのである。二人の会話はまったくと言っていいほど聞こえなかった。だがアンドレがバルサモの呼び出しに応じるのは、タヴェルネに続いて二度目であった。アンドレに対して何か恐ろしく謎めいた影響力を及ぼしているのは間違いない。要するにジルベールにとって、すべてはこの一言に集約された。「アンドレ嬢には恋人がいるか、少なくとも片思いの男がいて、夜中に逢い引きをしているのだ」と。

 アンドレとバルサモの間で交わされた会話は、小声ながらも諍いのように感じられた。バルサモは絶望に駆られた恋人のように、尋常ではなく取り乱して飛び出して行った。アンドレは見捨てられた恋人のように、一人きり無言で立ち尽くしていた。

 アンドレが揺れ出したのはこの時だった。腕をよじって身体を捻った。それから胸を引き裂くような、声にならない喘ぎを幾つか洩らした。千里眼については前章でご覧いただいた通りだが、催眠状態の間にその千里眼をもたらしていた不安定な霊力の塊を、アンドレというよりはアンドレの本能が、外に吐き出そうとした。

 だが本能は敗れ、バルサモの置き土産を払い落とすことが出来なかった。しっかりと縛り上げられた、謎めいて錯綜した結び目を、ほどくことが出来なかった。抗おうとすれば、かつて神殿に居並ぶ人々の敬虔な質問を三脚台に坐して受けていた巫女ピュティアのように、痙攣を起こし始めた。

 アンドレはよろめき、痛ましい呻きをあげると、時あたかも天穹を引き裂いた雷に打たれたかのように、砂利道に向かって倒れ込んだ。

 だが地面に着くよりも早く、ジルベールが虎の如き勢いで飛び出した。両腕で身体をつかみ、重荷を背負っているという意識もせずに、バルサモから呼ばれるまでアンドレが過ごしていた部屋まで運び込んだ。乱れた寝台の傍らに、まだ蝋燭が燃えていた。

 アンドレが扉を開けっ放しにしておいたことにジルベールは気づいた。

 部屋に入って長椅子にぶつかると、冷え切って意識のないアンドレを静かに横たえた。

 意識のないアンドレの身体に触れると、ジルベールの身体中が熱くなった。感覚という感覚が震え、血がたぎった。

 だが真っ先に浮かんだのは清らかで純粋な思いだった。何を措いても生ける彫像の息を吹き返さなくてはならない。アンドレの顔に水を掛けようと思い、水差しを目で探した。

 だがその時だった。震える手を水晶壜の細首に伸ばした瞬間、小さいがしっかりとした足音が聞こえたような気がした。アンドレの部屋に通じている木と煉瓦の階段が軋んでいる。

 ニコルではない。ド・ボージール氏と逃げたのだから。バルサモでもない。ジェリドに乗って全速力で出かけたのだから。

 ということは見知らぬ人間だ。

 見つかればジルベールは追い出されるだろう。ジルベールにとってアンドレとは、たとい命を救うためであっても臣下が触れてはならないというイスパニア王妃のような存在だった。

 こうした様々な思いが、音を立てて渦巻く雹のように、ジルベールの心に降りかかった。それは避けがたい足音が階段を一段上るよりも短い間の出来事だった。

 この足音――近づいて来るこの足音が――どれだけ離れているのかジルベールにははっきりとはわからなかった。それほどまでに空では嵐が唸りをあげている最中だったのだ。だが持ち前の冷静さと用心深さによって、その場にいるのは賢明ではなく、何よりも重要なのは姿を見られないことだと判断した。

 アンドレの部屋を照らしていた蝋燭を素早く吹き消し、ニコルが部屋として使っていた小部屋キャビネに飛び込んだ。そしてそこからガラス扉越しに、アンドレの部屋と控えの間に同時に目を凝らした。

 控えの間では、飾り台コンソールの上で灯火が燃えていた。初めジルベールは、これも蝋燭と同じく吹き消そうかと考えたが、その暇がなかった。廊下の舗石で足音が鳴り、息を詰めたような呼吸が聞こえ、戸口に人影が現れると、しずしずと控えの間に入り込み、扉を押して閂を掛けた。

 ジルベールにはニコルの小部屋に飛び込んでガラス扉を引き寄せる時間しかなかった。

 ジルベールは息をひそめてガラスに顔を押しつけ、耳をそばだたせた。

 群雲の奥で嵐が厳かな唸りを立て、大粒の雨が部屋や廊下の窓ガラスに打ちつけた。開いていた廊下の窓が蝶番を軋ませ、吹きつける風に徐々に押し戻されて、大きな音を立てて窓枠にぶつかった。

 だが自然の猛威や戸外の物音が如何に恐ろしいものであっても、ジルベールには無関係だった。気持と命と魂のすべてを賭けて見ることに意識を集中させ、目を侵入者から絶対に離さなかった。

 侵入者は控えの間を通り抜け、ジルベールの眼前を横切って、躊躇うことなく寝室に入り込んだ。

 アンドレの寝台が空っぽなのを見て驚き、その直後、卓子の蝋燭に腕をぶつけるのが見えた。

 蝋燭が倒れ、大理石の上で水晶の受け皿が割れる音が聞こえた。

 すると、二度にわたって怯えて人を呼ぶ声がした。

「ニコル! ニコル!」

 ――ニコルだって? とジルベールは隠れ家の奥で自問した。――アンドレを呼ぶのならともかく、どうしてニコルを呼んでいるんだろう?

 だが応える声がないので、侵入者は床の明かりを拾い上げ、控えの間の灯火に火をつけに行った。

 ジルベールはここぞとばかりに奇怪な夜の訪問者に意識を集中させ、壁を射抜こうとするほどの強い意思を持って目を凝らした。

 途端にジルベールはがくがくと震え出した。既に隠れているというのに、さらにまた後じさった。

 二つの炎が重なった薄明かりの中で、ジルベールは馬鹿のようにぽかんとして震えながら、明かりを手にしている人物のうちに国王の姿を認めたのである。

 これですっかり説明がつく。ニコルが逃げ出したこと、ニコルとボージールがやり取りしていたお金のこと、扉が開けっ放しだったこと、リシュリューのこと、タヴェルネのこと、謎めいたあくどい陰謀のこと、そのすべての中心にはアンドレがいたのだ。

 国王がニコルを呼んでいた理由もわかった。今回の悪事を取り持ち、にこやかな顔で主人を裏切って引き渡したユダだったのだ。

 それよりも、国王が何をしに来たのか、これから目の前で何が起ころうとしているのかを考えると、目に血が上り眩暈がした。

 声をあげて叫び出したかった。だが相手がフランス国王と称される威信に満ちた人物であることを考えると、恐怖という本能的で身勝手な抗い難い感情に囚われて、言葉も喉の奥に貼りついてしまった。

 そのうちにルイ十五世は蝋燭を持って寝室に戻って来た。

 すぐに白モスリンの夜着姿のアンドレに気づいた。アンドレはほとんど何も身につけておらず、頭は長椅子の背にもたれ、片足はクッションに乗っかり、もう片足は強張って靴も脱げて絨毯に投げ出されていた。

 国王はそれを見て微笑んだ。蝋燭がその陰鬱な微笑みを照らしている。だがそれと同時に、国王の微笑みと同じくらい重苦しい微笑みがアンドレの顔に浮かんでいたのが照らし出された。

 ルイ十五世が何事かを呟いた。それはジルベールには愛の囁きに聞こえた。国王はテーブルに明かりを置いて、振り返って燃えさかる空に目を走らせてから、アンドレの前にひざまずき、その手に口づけをした。

 ジルベールは額に流れる汗を拭った。アンドレは微動だにしない。

 アンドレの手がひんやりとしていることに気づいた国王は、自らの手で包み込んで温めながら、もう片方の手で美しく柔らかな身体を抱き寄せ、顔を近づけると、眠っている娘に囁くのに相応しいような睦言を耳元に囁いた。

 国王の顔がアンドレの顔に近づき、触れた。

 ジルベールは身体を探り、上着のポケットに入れてあった剪定用のナイフの柄に触れてふうと息をついた。

 アンドレの顔は手と同じように冷え切っていた。

 国王が身体を起こした。シンデレラのように白く小さな、靴の脱げた足に目を落とした。両手で包むように足に触れた国王が震え出した。アンドレの足は大理石のように冷たかった。

 目の前に晒されている光景があまりに美しかったため、国王の毒牙が盗もうと迫っているのがまるで我がことのように感じられて、ジルベールは歯軋りして、それまで畳んであったナイフの刃を開いた。

 だが国王は既にアンドレの足を離していた。手を離した時も、顔を離した時も、あまりに眠りが深いのでぎょっとしたのだ。初めのうちこそ、アンドレが目を覚まさないのは貞淑ぶって誘っているのだと思っていた。だが身体の隅々まで死んだように冷え切っていることに気づいて、手足や顔がここまで冷たいとなると、果たして心臓がまだ動いているのかどうかが気になり出した。

 アンドレの夜着をはだいて真っ白な胸を露わにし、びくびくとしながらも大胆に、白く引き締まった丸みを持つ石膏のような冷たい肉体に、手を当てて鼓動を確かめたが、応えはなかった。

 ジルベールはナイフを持って飛び出しそうになった。目を見開き、歯を食いしばって、国王がこれ以上こんなことを続けるつもりなら、ナイフで国王を刺して自分も刺して果てるつもりだった。

 不意に恐ろしい雷鳴が部屋中の家具を震わせ、ルイ十五世がひざまずいていた長椅子にも震えが走った。次いで黄色の混じった紫色の稲光が瞬いたため、アンドレの顔が鉛色に煌々と照らされた。その顔があまりに青白く、ぴくりとも動かないうえに声も立てないため、怯えたルイ十五世は尻込みして呟いた。

「間違いない。死んでいる!」

 死体を抱いていたのだと思うと血がぞわぞわと沸き立った。国王は蝋燭を取りに行き、アンドレのところに戻って来ると震える光の中でよく確かめた。口唇が紫色で、瞳が黒く澱み、髪が乱れ、胸が呼吸でふくらみもしないのを見て、国王は叫びをあげた。明かりを落としてがくがくと震え、酔っぱらいのようにつまずき、恐怖で壁にぶつかりながら、控えの間まで逃げ出した。

 やがて慌ただしい足音が階段を降り、庭の砂を踏むのが聞こえて来た。だがすぐに、空で渦巻き木々をしならせていた風が、荒々しく力強いその息吹でもって、物音も足音も吹き飛ばしてしまった。

 そこでジルベールはナイフを手にしたまま、隠れ場所から物も言わず憔悴したように抜け出した。寝室の前まで来ると、深い眠りに沈んでいるアンドレをしばらくじっと見つめていた。

 その間も、床に落ちた蝋燭が絨毯に倒れたまま燃え続け、美しい死体のほっそりとした足首や真っ白なふくらはぎを照らしていた。

 ゆっくりとナイフを畳んでいる間、ジルベールの顔に避けようのない決心が少しずつ浮かんで来た。国王の出て行った扉から耳を澄ませた。

 まるまる一分以上にわたって耳を澄ませていた。

 それから国王と同じように、扉を閉めて閂を掛けた。

 そして控えの間の灯火を吹き消した。

 それが終わるとなおもゆっくりと、目に暗い光を湛えたままアンドレの部屋に戻り、床に流れ出していた蝋燭を踏みつけた。

 不意に訪れた暗闇が、ジルベールの口唇に浮かんだ恐ろしい笑みを掻き消した。

「アンドレ! アンドレ! 言ったはずだろう。今度この手に転がり込んで来たら、これまでの二度とは違って逃れられないと言ったんだぞ。アンドレ! アンドレ! 僕が書いたと言って貶した小説には、恐ろしい結末しか残されていないんだ!」

 ジルベールは腕を伸ばし、アンドレが横たわっている長椅子に向かって真っ直ぐ進んで行った。今も冷たいまま身動きもせず、感覚を奪われたままのアンドレに向かって。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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