アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
第百二十五章 お喋り
ド・サルチーヌ氏はしばらく衝撃から立ち直れなかった。まるで拳銃の中を覗き込もうとでもしているように銃口を見つめ、額にひんやりとした鉄の筒の感触すら覚えていた。
ついにド・サルチーヌ氏が口を開いた。
「残念ながらこちらに分がありますよ。相手がどんな人間かわかっていながら、当たり前の悪党にするような用心をしていないのですから」
「ははッ! 苛立ってますね。悪党呼ばわりとはご挨拶だ。だが自分がどれだけ不当なことをしているのかおわかりではないらしい。私は手助けをしに来たんですよ」
ド・サルチーヌ氏が身じろぎした。
「手助けです」バルサモは続けた。「あなたはそこを誤解している。私を陰謀家呼ばわりするんですからね。陰謀家どころか、むしろ陰謀を密告しに来たというのに」
だがバルサモがいくら話そうとも、今のところド・サルチーヌ氏の注意を引くには至らなかった。普段であれば食いつきそうな「陰謀」という言葉にも、耳がぴくりと動いたただけであった。
「私が何者かご存じなのであれば、フランスでどんな任務に就いているのかもおわかりのはずだ。フリードリヒ大王陛下から遣わされた、いわばプロイセン国王陛下の私的大使のようなものです。そして大使とは聞き込み屋のようなものでしてね。聞き込み屋たる者、およそ起こっていることで知らぬことはなく、なかでも詳しいのが穀物の独占なんです」
バルサモは最後の一言を何気なく口にしたのかもしれないが、それはほかの何よりも効果的だった。事実ド・サルチーヌ氏はその言葉を聞いて反応を示したのだ。
ド・サルチーヌ氏がゆっくりと顔を上げた。
「穀物がどうしたと仰いましたか?」会話を始めた時のバルサモのように揺らぎがなかった。「今度はこちらが教えていただきたい」
「もちろんです。つまりですな」
「お願いします」
「ですが申し上げるまでもないでしょう……有能な投機家たちが、国民のために飢饉に備えて穀物倉庫を造るべきだとフランス国王陛下に働きかけて来た結果、倉庫が建てられました。建てている間は誰もが、大きくした方がよいと考えていました。それで石も石材も惜しみなく用いられましたから、随分と大きな倉庫が出来上がりました」
「ええ、それで?」
「それで、倉庫に中身を詰め込まなくてはならなくなりました。空っぽの倉庫など意味がありませんからね。そこで倉庫が満杯にされました」
「つまり?」ド・サルチーヌ氏には、バルサモの言わんとしていることが今以てよく見えない。
「つまり、大きな倉庫を満杯にするには、山ほどの小麦を入れなくてはならない。違いますか?」
「でしょうな」
「そこでです。小麦の流通が絶たれれば、国民は飢えてしまう。わかりませんか? 流通が絶たれるというのは、凶作も同然なんですよ。倉庫に穀物を千袋保管すれば、市場からは千袋消える。この千を十倍にしてご覧なさい、それだけで小麦はたちまち高騰してしまいます」
ド・サルチーヌ氏が苛立たしげに咳をした。
バルサモは話をやめて、咳が治まるのをじっと待った。
落ち着くと、バルサモは話を続けた。「高騰すれば投機家さんたちは大儲けだ。火を見るよりも明らかではありませんか?」
「明らかですな。しかしどうも、陰謀や犯罪の犯人が陛下だということを告発せよと言われているように聞こえますが」
「その通りです。わかっていただけたようだ」
「何と厚かましい。実際のところ陛下があなたの告発をどう受け取られるか、非常に興味がありますな。あなたがいらっしゃる前にこの小箱の書類に目を通しながら考えていたことがあるのですが、どうやらその時と同じ結論になってしまいそうだ。お気をつけなさい、いずれの結論もバスチーユ行きですからな」
「ああ、まだわかってはいただけないようだ」
「というと?」
「勘違いなさっている、誤解されているということですよ。どうやら私のことを馬鹿だと思ってらっしゃるようだ! 国王を非難しに来たとでも思っているんですか? 大使である私が? 聞き込み屋が?……あなたの仰っていることこそ頓珍漢というものですよ。どうか最後までお聞きなさい」
ド・サルチーヌ氏がうなずいた。
「フランス国民に対するこうした陰謀を暴いたのは……貴重な時間を割いていただいて申し訳ありませんがね、しかし一刻も無駄に出来ないことはわかっていただけたでしょう――さて、フランス国民に対する斯かる陰謀を暴いたのは経済学者たちです。彼らは極めて熱心かつ細心に、この不正行為に観察の目を注いだ結果、事を演じているのは国王だけではないことをついに発見したんです。陛下が市場ごとの穀物相場を記した正確な帳簿を持っていることもわかっています。相場が上がって十万エキュほどの利益が出れば、陛下が揉み手をして喜ぶこともわかっています。だがもちろん、国王のそばには、取引に有利な立場の人間、地位――というのはつまり、役人の地位ですが――その地位を利用して買い付け、着荷、換金を監督する人間、つまり国王の仲介をしている人間がいることもわかっています。ですから虫眼鏡越しににらめっこしている経済学者という連中もですね、国王を非難するつもりなどないんですよ。彼らも阿呆ではありませんからな。そうではなく、国王のために不正を働いている人間を、役人を、代理人を非難しているんです」
ド・サルチーヌ氏はずれかけた鬘を直そうとしたが、上手くいかなかった。
「では本題に入りましょう」とバルサモは続けた。「警察の長であるあなたは、私がド・フェニックス伯爵であるということを知っており、私は私であなたがド・サルチーヌ氏であることを知っています」
「どういうことかな?」警視総監は戸惑いを見せた。「確かに私はド・サルチーヌだが。たいした問題ですな!」
「ああ、しかしわかっていただかないと! このド・サルチーヌ氏こそが帳簿や不正や換金を掌中にしている人間なんです。国王がそれを把握しているかどうかはともかく、本来ならば二千七百万のフランス人の胃を満たす義務があるというのに、それと引き替えに不正行為を働いているんです。考えてもご覧なさい、こんなことが明らかになったらどうなるか! 国民からはいい感情を持たれないでしょうね。国王はそれほど優しくはありませんよ。飢えた国民があなたの首を求めて声をあげれば、共犯だとしたら口裏を合わせていると疑われないために、共犯ではないとしたら正義をおこなうために、即座に絞首台に吊してしまうに違いありません。アンゲラン・ド・マリニーのことはご存じでしょう?」
「詳しくは知りませんが」ド・サルチーヌ氏は真っ青になっていた。「私のような地位の人間に絞首台の話をするとは、随分と悪趣味なお方ですな」
「こんな話をするのも、あの気の毒なアンゲランをまた目にしているような気がするからですよ。ノルマンディの旧家に生まれた立派な貴族で、フランスの侍従にしてルーヴルの長官であり、財政と建築を任されていました。ロングヴィルの伯爵で、ダルビーのあなたの領地より大きな伯爵領の持ち主でした。本人が造ったモンフォーコンの絞首台に吊されるのを、この目で見ましたよ。繰り返し本人に訴えていたのも間違いではなかった。『アンゲラン、アンゲラン、気をつけろ! そんなに財政を刈り込んでは、シャルル・ド・ヴァロワが許さないぞ』とね。生憎と聞く耳持たなかったため、死んでしまいましたが。イエス・キリストを磔にしたポンティウス・ピラトゥスから、街灯を整え恋唄を禁止したあなたの前任者であるベルタン・ド・ベル=イル氏、ド・ブルデイユ伯爵、ブラントーム領主に至るまで、幾人もの警察長官を見て来ましたよ!」
ド・サルチーヌ氏は立ち上がり、渦巻く動揺を隠そうとした。
「非難したいのなら非難してもらって結構。あなたのように何の関わりもない人間の言葉など痛くもかゆくもない」
「用心なさい! 何の関わりもないように見える人間があらゆることに関わっているというのもよくある話ですよ。小麦独占の一切合切を哲学者であるフリードリヒ陛下に書き送った場合のことをお考えなさい。そしてフリードリヒ陛下が手ずから註釈をつけた手紙をアルエット・ド・ヴォルテール氏に大急ぎで綴った場合のことを。ヴォルテール氏は恐らくあなたもご存じの筆で『四十エキュの男』のような喜劇をものすることでしょう。優秀な数学者のダランベール氏は、あなたがくすねた小麦だけで三、四十年にわたって一億人の人間を養えると算出することでしょう。エルヴェシウスは穀物の価値を換算して、六リーヴル=エキュ貨なら積み上げれば月まで行けるし、紙幣なら並べればサン=ペテルスブールまで届くことを証明することでしょう。その計算結果が明らかになれば、ラ・アルプには困った芝居を思いつかせ、ディドロには『一家の父』との会話を思いつかせ、ジュネーヴのジャン=ジャック・ルソーにはその台詞の鋭い部分に註釈をつけることを思いつかせるでしょう。あの人はそうしようと思った時には容赦なく咬みつく人間ですよ。カロン・ド・ボーマルシェ氏には回想録の執筆を思い立たせるでしょう。ずたずたに踏みつけられないといいですがね。グリム氏にはちょっとした手紙を、ドルバック氏には大量の警句を、ド・マルモンテル氏にはささやかな寓話を思いつかせることでしょう。下手に禁止しようとしたら殺されてしまいますよ。それがラ・レジャンスのカフェやパレ=ロワイヤル、オーディノ劇場やニコレ氏主催の国王舞踊団のところで話題に上っているところをお考えなさい。ねえ、ダルビー伯爵、あなたは警視総監だ。アンゲラン・ド・マリニーより遙かにまずい。あなたは話を聞こうとしませんでしたがね、アンゲランは絞首台の上で叫んでいましたよ。そうです、無実を訴えていたんです。あれは本心からのものだった、心からの言葉でした。あの声を聞いた私はそう信じていますよ」
その言葉を聞いたド・サルチーヌ氏は、これ以上は作法に構っていられなくなったらしく、鬘を取って汗まみれの頭をぬぐった。
「結構。考えを改めるつもりはない。私を破滅させられるのならすればいい。お互い証拠は握っているんだ。手札の秘密は大事に取っておき給え、私はこの小箱を預かるとしよう」
「おやおや、それも大間違いですよ。あなたほどの方が負けるのを目の当たりに出来るとは驚きましたね。この小箱は……」
「この小箱は?」
「あなたが預かることは出来ませんよ」
「ああ!」ド・サルチーヌ氏は自嘲するように笑った。「その通りだ。ド・フェニックス伯爵が武装した連中から金を巻き上げる胡麻の蠅だということを忘れるところだった。しかし今は拳銃が見えませんな、どうやらポケットに戻したようだ。では失礼しますよ、大使殿」
「何を今さら! 拳銃なんてどうでもいじゃありませんか、ド・サルチーヌさん。まさか取っ組み合って力ずくで小箱を奪うつもりだとは思ってらっしゃらないでしょう。そんなことをすれば階段まで行ったところで、呼び鈴の音を聞き、泥棒だと叫ぶ声を聞くことになる。小箱があなたのものにならないと言ったのはですね、あなたが自らの意思で進んで返してくれるだろうと思ったまでです」
「進んで?」ド・サルチーヌ氏は、壊してしまいそうなほどの勢いで、問題の小箱に手を置いた。
「ええ、進んで」
「冗談じゃない! この命と引き替えでなければ、この小箱は渡せませんな。私の命とです! これまでに危険な目には山ほど遭って来た。血の最後の一滴がなくなるまで、陛下のために尽くすつもりです。殺せるものなら殺せばいい。ただし物音がすれば人が駆けつけて来るだろうし、あなたに罪を認めさせるくらいの声ならまだ出せる自信がある。小箱を返すだと!」ド・サルチーヌ氏は棘のある笑いを見せた。「地獄からせっつかれたってお断りだ!」
「地底の力を借りるまでもない。いま中庭の門を叩いている人の力だけで充分ですよ」
確かにドン、ドン、ドンと門を叩く音が響いていた。
「馬車ですね」とバルサモが続けた。「中庭に入って来たようだ」
「いらしたのはあなたのご友人のようですな」
「仰る通り私の友人です」
「そのご友人に小箱を返すことになるとでも?」
「ああ、ご名答、ド・サルチーヌ殿、そうして下さい」
警視総監が馬鹿にしたような仕種をしかけたところで、従僕が慌てて扉を開けて、デュ・バリー伯爵夫人が面会を求めていることを告げた。
ド・サルチーヌ氏はぞっとして、唖然とした顔でバルサモを見つめた。バルサモは必死になって薄ら笑いを堪えていた。
ここに従僕の後ろから、一人の女性が香水を漂わせていそいそと入って来た。自分には入室するのに許可など必要ないと信じているのだ。スカートの襞が扉にぶつかりかすかな衣擦れを立てた。
「伯爵夫人でしたか!」ド・サルチーヌ氏は怯えたように、開いたままの小箱を握り締めて胸に押し当てた。
「ご機嫌よう、サルチーヌ」伯爵夫人が朗らかに微笑みかけた。
それからバルサモにも「ご機嫌よう、伯爵殿」と声をかけた。
するとバルサモは、差し出された白い手に親しげに顔を寄せ、国王の口唇が何度も触れいるであろうその場所に口づけした。
こうしている間を利用してバルサモは伯爵夫人に一言二言ぼそぼそと話しかけていた。低い声なのでド・サルチーヌ氏には聞こえない。
「あら本当! あたくしの小箱ですわ」
「あなたの小箱ですと!」ド・サルチーヌ氏が口ごもった。
「ええ、あたくしの。あら、開けてしまったのね、そこまでしなくても!」
「ですが伯爵夫人……」
「やっぱり凄いわ。そう思っていたんですの……小箱が盗まれた時に、考えたんです。『サルチーヌのところに行けば、見つかるに違いないわ』って。あなたが見つけて下さったのね。感謝しますわ」
「ご覧のように、中まで開けていますよ」バルサモが言った。
「ええほんと。まさかそんなこと考えるなんて、ひどいじゃありませんの、サルチーヌ」
「失礼ながら確認いたしますが、強いられているわけではないのですね?」警視総監が念を押した。
「強いるだって!」バルサモが言った。「それは私に対する当てこすりですか?」
「自分が何を知っているかぐらいは承知していますからね」ド・サルチーヌ氏が答えた。
「あたくしは何も知りませんわ」デュ・バリー夫人がバルサモに囁いた。「何があったんですの、伯爵殿? 約束なさったじゃありませんか。頼みがあったらいつでも仰るようにって。男じゃないけど二言はありません。せっかくここにあたくしがいるんですから、どうぞ何なりと仰って下さいまし」"
「伯爵夫人」バルサモはサルチーヌにも聞こえるように言った。「数日前にこの小箱と中身をお預け下さったのを覚えておいでですか?」
「もちろんですわ」デュ・バリー夫人はバルサモの眼差しに目顔で答えた。
「もちろん、ですと!」ド・サルチーヌ氏が声をあげた。「もちろんと仰ったのですか?」
「もちろんと仰ったんですよ。伯爵夫人はあなたにも聞こえるようにはっきり口に出されたと思いますがね」
「箱には陰謀と思われるものが幾つも入っていたんですぞ!」
「ああ、ド・サルチーヌ殿。あなたがその言葉をお嫌いなのはわかっていますよ。ですから繰り返さずとも結構。伯爵夫人が小箱の返却をご所望なのですから、お返しすればいいんです」
「返却をご希望ですか?」ド・サルチーヌ氏は怒りで震えていた。
「ええお願い、警視総監殿」
「ですがせめておわかりいただきたいのですが……」
バルサモが伯爵夫人に目配せした。
「わからないことはわからないままにしておきたいの。小箱を返して下さる? わざわざ無駄足を踏ませないで頂戴な」
「神の御名に誓って、陛下のご利益に誓って……」
バルサモが苛々とした素振りを見せた。
「小箱をこちらに!」伯爵夫人がきっぱりと口にした。「ウイかノンです。ノンと言うつもりならようく考えてからになさいまし」
「仰せのままに」ド・サルチーヌ氏が折れた。
ド・サルチーヌ氏は伯爵夫人に小箱を手渡した。机の上に散らばっていた書類は、既にバルサモによって小箱に仕舞われていた。
デュ・バリー夫人がバルサモに向かってにっこりと微笑みかけた。
「伯爵殿、この小箱を馬車まで運んで下さらないかしら? それに控えの間にはぞっとするような顔つきをした人たちが並んでいるでしょう、一人で通りたくないので腕を貸して下いません? ご機嫌よう、サルチーヌ」
バルサモが伯爵夫人と戸口に向かっていると、ド・サルチーヌ氏が呼び鈴に駆け寄るのが見えた。
バルサモは目顔でそれを制し、「伯爵夫人、ド・サルチーヌ殿に仰っていただけませんか。小箱を返してくれと頼んだことを根に持っているんですよ。警察が動いたせいで私に何か起こりでもしたら、あなたがどれだけ悲しむか、それに総監がどれだけの不興を買うことになるかを教えて差し上げてもらえませんか」
伯爵夫人がバルサモに微笑んだ。
「今のをお聞きになりましたでしょう、サルチーヌさん? 嘘じゃありませんわ。伯爵殿はあたくしの素晴らしい友人ですもの、何か困らせるようなことでもあれば、あなたのことは許しませんよ。さようなら、サルチーヌ」
そして今度こそ、小箱を持ったバルサモに手を預けて、デュ・バリー夫人は執務室から立ち去った。
ド・サルチーヌ氏は二人が出て行くのを黙って見守っていた。怒りを爆発させるのではないかというバルサモの読みは外れた。
「まあいい!」ド・サルチーヌ氏は呟いた。「小箱はお前のものだ。だが女は私がいただく!」
腹いせに、千切れそうなほどの勢いで呼び鈴を鳴らした。
第百二十六章 バルサモが魔術師だとド・サルチーヌ氏が信じ始めた次第
慌ただしい呼び鈴の響きを聞いて、取次が駆け込んで来た。
「あの女は?」ド・サルチーヌ氏がたずねた。
「どの女でしょうか?」
「ここで気を失った女だ。お前に頼んでおいたはずだ」
「あの女でしたらすっかり元気になりました」
「よかった。連れて来なさい」
「どちらに伺えばよいのでしょうか?」
「あの部屋に決まっている」
「あそこにはもうおりません、閣下」
「いない? では何処にいるんだ?」
「存じ上げません」
「出て行ったのか?」
「はい」
「一人で?」
「はい」
「だが一人では立てなかったはずだ」
「気絶してからしばらくはそうでした。ですがド・フェニックス様が執務室に案内されてから五分後に、精油も気付け薬も嗅がせていないのに目を覚ましたのです。目を開けて立ち上がると、嬉しそうに息を吸い込みました」
「それから?」
「それから戸口に向かいました。引き留めるようには命じられておりませんでしたので、そのまま立ち去らせました」
「立ち去らせた? 間抜けどもが! まとめてビセートルに放り込んでやりたいくらいだ! 急げ、大急ぎでを刑事長を呼べ」
取次は命令に従って大急ぎで出て行った。
「あいつは魔術師だ……私が国王陛下の警察長なら、あいつは悪魔の警察長だ」
ド・サルチーヌ氏にはわけがわからなくとも、読者の方々には見当がついておいでだろう。拳銃の場面の直後、警視総監が我に返るまでの一瞬の隙を利用して、バルサモは四方位を確認し、その一つにロレンツァがいることを見抜いたのだ。そして目を覚まして部屋を出て、来たのと同じ道をたどってサン=クロード街に戻るように命じたのである。
バルサモがそれを心に念じると、二人の間に磁力の流れが生じ、それを感じたロレンツァが命令に従って目を覚まし、誰にも引き留められずに退出したのだ。
その晩ド・サルチーヌ氏は床に入ってからも血を吐きそうなほど苦しんだ。混乱が大きすぎてただでは耐えられそうになかった。後十五分そんなことが続けば卒中で死んでいたと医者なら言うことだろう。
一方、バルサモは伯爵夫人を馬車まで見送り、いとまを告げようとした。だが伯爵夫人は目の前で繰り広げられた奇妙な出来事の意味を知らぬままに、或いは知ろうとせぬままにしておくような女ではなかった。
同乗を促されたバルサモは、ジェリドを馬丁に預けて隣に坐った。
「あたくしが誠実な人間かどうか、それに人を友人扱いしたのが口先だけからなのか心の底からなのかくらいは、おわかりになりますでしょう。リュシエンヌに戻るところだったんですのよ、国王が明日の朝いらっしゃると伺ったものですから。それでもあなたのお手紙を受け取って、あなたのために取るものも取りあえず駆けつけて来たんです。ド・サルチーヌさんに目の前で陰謀だとか陰謀家だとか言われてぞっといたしましたわ。でもまずはあなたの目配せを確認して、ご希望に添うように行動したんです」
「あなたのためにたいしたことも出来なかったのに、お釣りが来るほどのことをして下さって恐縮の至りです。だが私にとっては天の助けでした。このたびのご恩は忘れません。お礼はいつか必ず。ド・サルチーヌ氏の言葉を真に受けてはいけませんぞ。私は犯罪人でも陰謀家でもありません。私を裏切った人物がいましてね、警視総監はその人の手からあの小箱を受け取ったのですが、中身は化学上の秘伝なんですよ。あなたには是非とも伝授したいものですな。そのまばゆい美しさ、若さを永遠に保っていただきたいと考えておりますから。それはそうと、ド・サルチーヌ氏はあの数字の羅列を見て、大法官府の助けを借りたのですが、その役人は間違いを指摘されたくないばかりに、自己流で数字を解読したのでしょう。以前に申し上げました通り、この種の技術というのは、中世に脅かされた脅威からまだ脱していないのですよ。あなたのように若く知的な考え方の持ち主を除けば、好意的に捉えては下さいません。今回の苦境から救っていただいたお礼は、いつか必ずさせていただきます」
「ですけど、あたくしが助けに来なかったらどうなっていましたの?」
「見せしめの意味で、フリードリヒ大王陛下のお嫌いなヴァンセンヌかバスチーユに入れられるところでした。一吹きで岩をも溶かす業を使えば、無論すぐに出ることは出来ますが、それだと小箱が取り戻せません。先ほど申し上げたように、中に仕舞ってある不可解な数字には、科学上の偶然によって永遠の闇から掬い上げられた秘密が詰まっているのです」
「嬉しいと同時にほっとしましたわ。つまり若返りの媚薬をいただけますのね?」
「はい」
「いついただけますの?」
「お気が早い。二十年後にお申しつけ下さい。子供に戻りたいわけではないでしょう?」
「ほんとに素敵な方ね。最後に一つだけいいかしら。そうしたら許してあげます、どうやらお急ぎみたいだから」
「お聞きしましょう」
「あなたを裏切った人がいるって仰ったじゃない。男かしら、女かしら?」
「女です」
「まあ伯爵殿ったら。恋愛がらみなのね!」
「まあそういうわけです。嫉妬に火がついてとうとう憎しみまで抱き、ご覧になったような結果と相成ってしまいました。私を殺せないことはわかっていたから、刺し殺そうとはせずに、監獄に入れるなり破滅させるなりしようとしたんですよ」
「破滅させるですって?」
「本人はそのつもりだったようですね」
「もう停めましょうか」伯爵夫人が笑い出した。「殺せないから裏切るだなんて、血管に水銀でも流れているのかしら? 死なないのはそのせい? ここで降りますか、それともご自宅までお送りしましょうか?」
「そこまでご迷惑を掛けることは出来ません。私にはジェリドがおりますから」
「あの風よりも速いという馬のこと?」
「きっとお気に召すはずです」
「確かに素晴らしい馬ね」
「あなた以外の人には乗らせないという条件で、よければお譲りいたしましょうか」
「ありがたいけど、やめとくわ。馬には乗らないし、乗ってもおっかなびっくりなんですもの。気持だけはいただいておくわ。じゃあ十年後に、媚薬を忘れないで下さいまし」
「二十年後と申し上げましたが」
「だって諺にもあるでしょう。『明日の百より……』って。ですから五年後にいただけるのでしたらなおのこと……何が起こるかなんて誰にもわかりませんもの」
「ではご所望の折りに。あなたのためなら何でもいたしますよ」
「最後に一つだけ」
「どうぞ」
「この話をするのはあなたを心から信用しているということにほかなりません」
バルサモは既に馬車から降りていたが、苛立ちを抑えて伯爵夫人に近づいた。
「噂では、国王はタヴェルネ嬢に気があるそうね」
「まさかそんなことが?」
「聞くところによるとぞっこんだそうじゃない。ちゃんと仰って下さらなきゃ駄目よ。本当のことだとしたら、遠慮はいらないわ。どうか友人として、真実を仰って」
「いくらでも申し上げます。アンドレ嬢が国王の寵姫になることは断じてありません」
「どうして?」
「私がそれを望まないからです」
「ふうん!」デュ・バリー夫人は疑わしげだった。
「お疑いですか?」
「何の保証もないじゃありませんの?」
「科学をお疑いになってはなりません。ウイと言った時には信じて下さったではありませんか。ノンと言った時にもお信じ下さい」
「つまりあなたには……?」
伯爵夫人は言葉を止めて微笑んだ。
「どうぞ最後まで仰って下さい」
「つまりあなたには、国王のお心を翻させたり、気まぐれに抗ったりする手段がおありのね?」
バルサモの口にも笑みが浮かんだ。
「私には人を好きになる気持を生み出すことが出来ます」
「ええ、わかります」
「わかるだけではなく、信じて下さい」
「信じます」
「ありがとうございます。反感を生み出すことも出来るし、必要とあらば、不可能を生み出すことも出来るのです。ですから安心して下さい、私が目を光らせておりますから」
バルサモはこうした言葉を錯乱したように切れ切れに発していた。バルサモがどれだけ急いでロレンツァに会いたがっているのか、その燃えるような思いを知っていれば、デュ・バリー夫人もそれを予知能力ゆえの昂奮だと誤解せずに済んだはずだ。
「よかった。やっぱりあなたはただの予言者ではなく、あたくしの守護天使でしたわ。伯爵殿、いいこと、あたくしもあなたを守るから、あなたもあたくしを守って下さいな。同盟を結びましょう!」
「同盟成立です」バルサモが答えた。
そして再び伯爵夫人の手に口づけした。
それからシャン=ゼリゼーに停められていた馬車の扉を閉め、馬に乗ると、喜びにいなないた馬を駆って夜の闇に姿を消した。
「リュシエンヌへ!」元気を取り戻したデュ・バリー夫人が命じた。
バルサモの方は口笛を鳴らし、軽く膝を締めて、急いでジェリドを走らせた。
五分後には、サン=クロード街の前に到着し、フリッツを見つめた。
「首尾は?」と不安げにたずねる。
「問題ありません」目の色を読み取って答えた。
「戻っているんだな?」
「上にいらっしゃいます」
「どの部屋だ?」
「毛皮の部屋です」
「様子は?」
「疲れ切った様子でした。待ち受けていたところ、随分と遠くから全速力で走って来たようでしたから、迎えに出る間もありませんでした」
「だろうな!」
「ぎょっといたしました。奥様は嵐のようにこちらに駆け込むと、息を整える間もなく階段を上がりましたが、部屋に入ろうとしたところで急に黒い獅子皮に倒れ込みました。そちらにいらっしゃるはずです」
バルサモが急いで階段を上ると、そこには確かにロレンツァがいた。発作に襲われ為すすべもなく痙攣に悶えている。かなり前から霊気に捕らえられ、激しい動きに身を委ねていたのだ。山に押しつぶされたような苦しみに呻きをあげ、両手でそれを押しのけようともがいていた。
バルサモはそれを見るや怒りに駆られ、ロレンツァを抱えて部屋に運び入れ、隠し扉を閉めた。