アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
第百三十一章 血
邸の扉が閉まるのをデュ・バリー夫人が目にするよりも早く、バルサモは隠し階段を上って毛皮の部屋に取って返した。
伯爵夫人との会話が長びいたこともあるし、急いでいるのには二つの理由があった。
一つにはロレンツァに会いたい気持。二つ目にはロレンツァの体力が持たないのではないかという恐れだ。何しろ与えられたばかりの新しい人生には、麻痺状態に耐えられるだけの余裕がなかった。催眠状態からトランス状態に陥ることがあると、ぐったりとしてしまうのだ。
霊力によって身体の機能を上手く調整できなければ、トランス状態に陥ると決まって叫びをあげて苦しんでいた。
バルサモは扉を閉め、ロレンツァが横たわっているはずの長椅子に急いで目を向けた。
ロレンツァはいなかった。
肩掛けに用いていた金糸で花模様が縫い取りされたカシミアのケープだけがクッションの上に残されており、持ち主が確かにこの部屋にいたし、この長椅子の上で休んでいたことを証言していた。
バルサモは強張ったまま、空っぽの長椅子から目を離すことが出来なかった。部屋に漂っている嫌な匂いに耐えかねて出て行っただけに違いない。無意識のうちに本来の人生の習慣に従って、本能的に部屋を変えたのに違いない。
まずは先ほどまで一緒にいた研究室に戻ったのだろうかと考えた。
そこで研究室を訪れたが、見たところ誰もいないようだ。だが東洋のタペストリーの裏にある巨大な竈の陰になら、女一人くらい容易く隠れられる。
バルサモはタペストリーをめくって竈を一回りした。ロレンツァがいたという形跡すら何処にも見つけられなかった。
残るはロレンツァの寝室だ。自室に戻っているのだろう。
あそこは昨日のような状態の時だけに用いられる牢獄だった。
バルサモは部屋まで急いだが、羽目板は閉まっていた。
ロレンツァが部屋に戻っていないという証拠にはならない。何故なら、催眠状態で千里眼に目覚めているロレンツァがこの仕掛けを覚えていることは否定できないし、覚えているのなら頭の中に残っている夢の欠片に従うことも否定できないからだ。
バルサモはバネを押した。
研究室同様、部屋は空っぽだった。ロレンツァはここに足を踏み入れてさえいないようだ。
こうして、前々から心に巣食っていた悪い予感が、ロレンツァは幸せなのだという想像や期待を一掃してしまった。
ロレンツァは役を演じていたのだろう。眠っているふりをして、バルサモの心に居着いていた疑念や不安や警戒を逸らしていたのだろう。自由になる機会を得るが否や、またもや逃げ出したのだ。前回前々回の教訓を踏まえ、これまで以上に確実を期して。
バルサモはそう確信するや呼び鈴を鳴らしてフリッツを呼んだ。
フリッツがなかなか来ないことに苛立って、バルサモの方から部屋を飛び出すと、隠し階段のところでフリッツと出くわした。
「シニョーラは?」
「どういたしました?」バルサモの慌て方を見て、何かただならぬことが起こったのだとフリッツは理解した。
「見かけたか?」
「そのようなことは」
「出ては行かなかったんだな?」
「出て行くとは何処からでしょうか?」
「この家からに決まってるじゃないか」
「ここから出たのは伯爵夫人だけです。その後で私が扉を閉めに参りましたから」
バルサモは気違いのように部屋まで駆け戻った。目の覚めている時のロレンツァは眠っている時とは違い、子供っぽいことをすることもあった。隅に隠れておいて、バルサモがぎょっとしたのを読み取ったり、驚かせてからほっとさせて楽しんだりしていた。
そこでバルサモはつぶさに捜し始めた。
部屋の隅を見るのも怠らず、箪笥の中を確認するのも忘れず、衝立も移動させた。その姿は情熱のあまり理性を失った人間、もはや何も見えていない狂人、酔っ払ってふらついている人間の姿そのものだった。もはや両腕を広げて叫ぶ力しか残されていなかった。『ロレンツァ! ロレンツァ!』。そうすれば喜びの声をあげて腕の中に飛び込んで来るのではないかという望みを抱いて。
だがその異常な思いや気違いじみた呼びかけに応じたのは、沈黙だけ。陰鬱な静寂が続いているだけだった。
走り回り、家具を揺すり、壁に呼びかけ、ロレンツァの名を叫び、盲になった目を向け、利かなくなった耳をそばだて、火の消えた鼓動を鳴らし、考えることも出来ずに震え、そんな状態のまま三分が過ぎた。バルサモにとっては三世紀にも匹敵する苦悶の一時であった。
半ば気が狂ったように錯乱したまま部屋を出て、冷たい水の入った容器に手を漬け、こめかみを濡らして、動こうとする手を片手で押さえ込み、脳内で脈打つ煩わしい鼓動の音を意思の力で締め出した。命に関わって休みなく脈打つその規則的な音こそ、静と動を繰り返しているうちは生をもたらしているが、不規則になったり気にし出したりすると死や狂気が待っているのだ。
「よし、冷静になろう。ロレンツァはもういない。言い逃れはすまい。ロレンツァはいないんだ。つまり出て行ったということだ。間違いない、出て行ったんだ!」
もう一度周りに目を走らせてから、再び名前を呼んだ。
「出て行ったんだ! いくらフリッツが見ていないと言い張ろうと、出て行ったんだ。まんまと出て行っちまった。
「可能性は二つある。
「一つは実際に見なかった可能性だ。あり得ない話ではない。人間は完璧ではないからな。もう一つはロレンツァに買収された可能性だ。
「フリッツが買収されたというのか?
「ないとは言い切れん。これまで忠実だったからといって、こうした推測を否定する理由にはならん。ロレンツァや愛や科学だってここまで人を欺いたり嘘をついたり出来るのだ、脆くて意志の弱い人間という生き物が誤りを犯してもおかしくはあるまい?
「待て待て! 俺には何だって知ることが出来るじゃないか! ド・タヴェルネ嬢が残されていなかったか?
「アンドレを使えばフリッツが裏切ったかどうかわかる。ロレンツァが裏切ったかどうかわかる。今度ばかりは……愛情も偽りで、科学も誤りで、忠誠も罠だったとすれば……今回ばかりは加減も遠慮もせんぞ。慈悲を捨て去り誇りを抱いて、復讐に燃える人間として罰を与えてやる。
「そうと決まれば急いで出かけるとしよう。フリッツに気づく暇を与えてトリアノンに逃げる機会を与える必要もない」
バルサモは床に転がっていた帽子をつかんで戸口に走った。
が、慌てて立ち止まった。
「そうだ、その前に……あの老人のことをすっかり忘れていた! まずはアルトタスの様子を確認しておかなくては。狂気に駆られて異常な愛に囚われている間中、ずっとほったらかしだったからな。俺も恩知らずで薄情な男だよ」
バルサモは興奮に駆られてかっかしながら、バネに近づいて天井の仕掛けを動かした。
やがて昇降台がするすると降りて来た。
バルサモはその上に飛び乗り、錘を作動させて上昇させたが、その間も頭はすっかり混乱しており、ロレンツァのことしか考えられなかった。
アルトタスの部屋まで来ると、老人の声が耳を打ち、悲痛な夢から引きずり出された。
ところが驚いたことに、アルトタスの第一声は覚悟していたのとは違い罵倒ではなかった。飾り気のない無邪気な歓声で迎えられたのだ。
バルサモは訝しげに師匠を見つめた。
アルトタスは車椅子に反っくり返っていた。嬉しそうに大きく息を吸い込んでいる。息をするたびに生の喜びを吸い込んでいるかのようだった。目には暗い炎が満ちていたが、口元に浮かんでいる嬉しそうな微笑みによって表情は和らげられており、そんな目つきをバルサモにじっと注いでいた。
バルサモは動揺を見せるまいと意識を集中させた。人間の弱さには厳しい人なのだ。
集中している間も、バルサモの胸に奇妙な重みがのしかかっていた。恐らく呼吸のたびに空気が汚されているせいだ。重く濁った生暖かい匂いに吐き気がする。その匂いは階下にいる時から匂っていたが、かすかに漂っているだけだった。秋になると日の出や日の入りに湖沼から立ちのぼる沼気にも似ており、粒となって窓ガラスを曇らせていた。
そうした酸っぱい空気が澱んでいるせいで、バルサモの心はくじけ、頭がぼうっとして眩暈を感じた。酸素と力がいっぺんに足りなくなるのがわかった。
「先生」バルサモは手を着ける場所を探し、大きく息を吸い込もうと努めた。「先生はこんなところで暮らしていられるのですか。息も出来ないじゃありませんか」
「そうか?」
「先生!」
「じゃが儂はたっぷり息を吸っておるぞ!」アルトタスは嬉々として答えた。「それでも生きておる」
「先生、先生」バルサモの頭がだんだんとくらくらとして来た。「くれぐれも用心して下さらなければ。窓を開けさせてもらいますよ。床から血が立ち上って来るようです」
「血か! 気づいたか!……血か!」アルトタスがからからと笑い出した。
「そうですよ! 殺されたばかりの死体から漂って来るような匂いがします! それが脳と心にずっしりとのしかかって来て耐えられそうにありません」
「そうじゃろう、そうじゃろう」老人は皮肉な笑みを浮かべた。「儂はとうに気づいておったぞ。そちの心が繊細で、脳があまりにも脆弱だということにな、アシャラ」
「先生」バルサモは真っ直ぐ老人に歩み寄った。「先生の手にも血がついてます。この卓子にも血がついてます。先生の目の中までも、炎のような血にまみれています。先生、ここに充満している匂いは――眩暈がするような匂いは――息が詰まりそうな匂いは――血の匂いですね」。
「ほう、そうか?」アルトタスは動じなかった。「血の匂いを嗅いだのは初めてか?」
「そんなことはありません」
「儂の実験を見たことはなかったか? そちも実験したことはなかったか?」
「だがこれは人間の血だ!」バルサモは汗に濡れた額を押さえた。
「そいつはたいした嗅覚だな。しかし人間の血と動物の血を嗅ぎ分けることが出来るとは思えんがな」
「人間の血です!」バルサモが呟いた。
ふらつく身体を支えようとして、バルサモは家具の出っ張りにつかまろうとした。そこで銅製のたらいに気づいてぎょっとした。その内側が真新しい血で漆のように真っ赤に輝いていたのだ。
たらいは半分ほど満たされていた。
バルサモは驚いて後じさった。
「血だ! この血はどうやって?」
アルトタスは無言だった。だがその目はバルサモの動揺や混乱や恐怖を見逃してはいなかった。突然バルサモが恐ろしい声で吠えた。
獲物に襲いかかるような勢いで部屋の一隅に駆け寄り、床から絹紐を拾い上げた。金の刺繍のあるそのリボンからは、長い黒髪の房が垂れていた。
身を切るような痛ましい悲鳴がやむと、死んだような沈黙が部屋を支配した。
バルサモは震える手でゆっくりとリボンを持ち上げ、その黒髪をよく確かめた。一端は金の髪留めでリボンの端に留められ、反対端は綺麗に切り揃えられている。赤く泡立った滴が髪の先からしたたっているところを見ると、どうやら先端が血に染まった前髪のようだ。
バルサモが手を上げるに従い、手の震えが大きくなった。
汚れたリボンに目を引き寄せられるにつれて、鉛色の顔色がさらに青ざめた。
「これがどうしてここに?」呟きの言葉は耳に届くほど大きかったため、アルトタスに問いかける形になっていた。
「それか?」
「ええ、これです」
「これは、髪を束ねる絹のリボンじゃな」
「そうではなくこの髪です。濡れていますがこれは何なんです?」
「見ての通り、血じゃな」
「何の血ですか?」
「たわけたことを! 霊薬に必要な血じゃよ。そちが拒んだ血、儂に必要な血じゃ。そちに断られたから自分で手に入れたまでよ」
「ですがこの髪は――この編み込みは――このリボンが、どうしてここに? どう見ても子供のものではありません」
「子供の喉を掻き切ったとは言っておらんぞ」アルトタスはしれっとして答えた。
「しかし、霊薬には子供の血が必要だったのではありませんか? そう仰ったではありませんか」
「または生娘の血じゃよ、アシャラ」
アルトタスは骨張った手を肘掛けに伸ばしてフラスコをつかみ上げ、その中身を嬉しそうに眺め回した。
それから穏やかで優しい声を出した。
「助かったぞ、アシャラ。この部屋の真下のすぐ手の届くところにあの女を住まわせておくとは、なかなか賢く先見の明のあるやり方じゃったぞ。これで人類は苦しまずに済み、この世を司る理とて何も手に出来ん。血が手に入らず死にかけておったというのに、生娘を調達したのはそちではなかったな。儂がこの手でつかみ取ったのだ。はは! 済まんな、礼を言うぞ、アシャラ」
そう言って再びフラスコに口唇を近づけた。
バルサモの手から髪の房が落ちた。目の前が真っ白になっていた。
正面にはアルトタスの作業台がある。いつもならこの大理石の作業台は、植物や本やフラスコでごちゃごちゃしていた。それが今は薄気味悪い花柄の白緞子のシーツで覆われており、ランプから放たれた赤みを帯びた光の先には忌まわしい輪郭が浮かんでいたが、バルサモはまだそれには気づいていなかった。
バルサモはシーツの一端をつかんで乱暴にめくった。
途端に髪の毛は逆立ち、開いた口からは喉の奥から絞り出されるような恐ろしい悲鳴がほとばしった。
シーツの下から現れたのはロレンツァの死体だった。ロレンツァは大理石に横たえられ、顔は土気色だというのに今も微笑みをたたえ、長い髪の重さで引っ張られたように顔を仰け反らせていた。
鎖骨の下に開いた大きな傷口からは、もはや血の一滴も流れてはいない。
両手は強張り、目は薄紫色の瞼の下で閉じられていた。
「さよう、生娘の血じゃよ。生娘の動脈血の最後の三滴、それが儂には必要じゃった」アルトタスはまたもやフラスコを眺め回した。
「人でなしめ!」絶望の叫びが毛穴の一つ一つから洩れ出しているようだった。「死んでしまえばいい。ロレンツァは数日前から俺の恋人だった、俺の妻、俺の女だったんだ! 殺しても何の意味もない……ロレンツァはもう生娘じゃなかったんだからな!」
この言葉を聞いてアルトタスの目が揺らいだ。眼窩の中で電気にはじかれたように、びくりと。瞳孔が恐ろしいほどに開いた。抜けた歯の代わりに歯茎を軋らせる音が聞こえた。手からフラスコが擦り抜け、床に落ちて粉々に割れた。アルトタスは心と頭を同時に打たれたように、腑抜けたように呆然として、ゆっくりと椅子に倒れ込んだ。
バルサモはロレンツァの遺体に泣きながらすがりつき、血塗れの髪に口づけすると意識を失った。
第百三十二章 人と神
時間というのは手を繋いだ姉妹のようなものだ。不幸な人間のところには遅々として留まり、幸福な人間のところは矢のように通り過ぎる。時間は今、溜息とすすり泣きに満ちた部屋の上で、重い翼を畳んで静かに羽根を休めていた。
一方には死。一方には断末魔。
間には、断末魔にも等しい苦しみと死ぬほどの重みを持つ絶望。
喉から叫びを絞り出してしまうと、バルサモの口からはもはや何の言葉も出て来なかった。
衝撃的な事実を暴露して、残忍な喜びに浸っていたアルトタスを打ちのめして以来、バルサモは微動だにしていなかった。
そのアルトタスはと言うと。神が人間に用意した普通の人生に荒々しく投げ返されて、未知の環境に沈んでいる様子は、鉛弾を撃たれて雲間から湖に落ちた鳥が、もがけばもがくほど翼を傷めることを知りもしないで湖面でもがいている姿を思わせた。
鉛色に染まった行き場のない惚けた表情が、その絶望のただならぬ大きさを表していた。
アルトタスはもはや考えることすらやめていた。目的に向かって順調に進んみ、岩のようにしっかりとしていると信じていた確信が、ついさっき煙のように掻き消えてしまったのだ。
絶望に打ち沈み物も言わず、意識は既に朦朧としていた。絶望に縁のなかった精神にとって、物を言わぬこととは即ち何かを考えている印だったのだろう。さらに、絶望を垣間見たことすらないバルサモに至っては、これは力と理性と命の断末魔に等しかった。
アルトタスは割れたフラスコから目を離さなかった。それは無惨にも砕けた希望そのものだった。粉々に割れて散らばった破片を数えているように見える。それだけの日々が人生から失われてしまったのだ。床にこぼれた貴重な――不死の基だと束の間だけ信じていた液体を、目で吸い上げようとしているように見えた。
時折り、落胆の苦しみが大きくなると、老人は火の消えた瞳を上げてバルサモを見つめた。それからロレンツァの死体に目を向けた。
その姿はまるで脚を罠に挟まれているのを朝になって猟師に見つかった野獣のようだった。首を巡らせもせずじっと脚の痛みに耐え、狩猟用の刀剣や銃剣を突き刺されようものなら、憎しみと復讐と非難と驚きの詰まった真っ赤な目を上げて横目で睨みつける獣のようだった。
「あり得ぬ」虚ろではあったが目にはまだ力があった。「これほどの不幸、これほどの手違いが儂に降りかかることなど信じられるか? 死んだこの女のようなくだらんもんの足許に、目の前でひざまずいているそちのようなちんけな存在のせいで、こんなことになるとはの。自然や科学や道理がひっくり返りおったわ。下司な弟子の分際で尊い師匠をもてあそびおって。たった一粒の塵のせいで、全速力で何処までも飛ぶように走っている戦車が止まってしまうとは、とんでもないことではないか?」
バルサモはぼろぼろに打ちひしがれ、声もなく身動きもせず、生きている形跡すら見えず、脳の中に広がっていた血塗れの靄の向こうからは、人間らしい感情が何一つ現れては来なかった。
ロレンツァ、愛しいロレンツァ! ロレンツァ、妻であり、偶像であり、天使であり恋人である大切な女性、ロレンツァ、喜びと栄光、現在と未来、力と信仰。ロレンツァ、バルサモがすべての愛を捧げ、すべての欲望を捧げ、何を措いてもそばに置いておきたかった存在。ロレンツァが永遠に失われてしまった!
泣きもせず、叫びもせず、溜息すらついていなかった。
驚く間もなく、恐ろしい災難に襲いかかられたのだ。寝ている間に洪水に襲われ、闇の中に流されたようなものだ。水に沈んだ夢を見て目を開ければ、頭上には波がうねっており、もはや叫び声すらあげることも出来ずに、黙って死を待つしかない。
バルサモは三時間にわたって死の底に飲み込まれていた。無限の苦しみに沈んだまま、自分に起こったことは死者たちが見る不吉な夢のようなものだと、永遠の闇や墓地の静寂に包まれた死者たちの夢のようなものだとしか思えなかった。
もはやアルトタスも、憎しみも復讐もなかった。
もはやロレンツァも、生も愛もなかった。
ただ眠り、夜、無があるだけだった!
こうして時間は音もなくしめやかに絶え間なく部屋の中を流れていった。そうして原子に請われるように生命の素を受け渡してしまうと、血はすっかり冷え切っていた。
突如、夜の静寂を破って、呼び鈴が三度鳴った。
バルサモの居場所を知ったフリッツが、アルトタスの部屋の呼び鈴を鳴らしたのだろう。
だが荒々しい音は三度とも無為に響くだけで、鈴の音は空中に散った。
バルサモは顔を上げようともしなかった。
数分後、再び呼び鈴が鳴らされたが、一度目と変わらずバルサモを夢想から引き剥がすことは出来なかった。
やがて計ったように、それほど間を置かずに、三たび呼び鈴が鳴り響いた。割れるような音が催促するように部屋を揺るがせた。
バルサモは慌てもせずゆっくりと顔を上げ、墓から抜け出した死者のように無表情なまま、目を彷徨わせた。
三度にわたってキリストに呼びかけられたラザロは、きっとこんな目をしていたのだろう。
呼び鈴がやむ気配はなかった。
音はますます大きくなり、ついにバルサモの理性を目覚めさせた。
バルサモは遺体の手から手を離した。
身体の熱はロレンツァに伝わることなく、すっかりバルサモから奪われていた。
「重大な報せか重大な危機だな」バルサモは呟いた。「恐らくは重大な危機の方か!」
バルサモはすっかり立ち上がっていた。
「とはいえ、応える必要などあるのか?」その声が薄暗い穹窿の下、死の漂う部屋の中に陰鬱に響いたが、それには気づかず独白を続けた。「これからはもう何かを気にしたり恐れたりする必要があるのか?」
急かすようにまたもや呼び鈴が鳴り、青銅の内側を鈴の舌がけたたましく打ちつけたため、鈴の舌が外れてガラスの蒸留器の上に落ち、ガラスが乾いた音を立てて砕け散り、粉々になって床の上に散らばった。
バルサモはもはや抗わなかった。大事なのは誰も――フリッツでさえバルサモのいるところまでは追っては来ないということだ。
バルサモは落ち着いた足取りで歩き、バネを押して揚戸に上った。揚戸はゆっくりと降り、毛皮の部屋の真ん中に停まった。
長椅子のそばを通った時、ロレンツァの肩から落ちたケープにぶつかった。死のように無慈悲な老人が二本の腕でロレンツァを攫った時に落ちたものだ。
本人に触れた時よりも一層の生々しさを感じて、バルサモは刺すような震えに襲われた。
バルサモはケープを手に取り、叫びを押し殺すように口づけした。
それから階段に通じる戸口に向かった。
一番上の段にはフリッツがいた。青ざめて息を切らし、片手に明かりを、片手に呼び鈴の紐を握って、怯えたように何度も何度も紐を引っ張り続けてバルサモが出て来るのを待っていた。
バルサモの姿を見て安堵の叫びをあげたが、それはすぐに不安と恐怖の叫びに変わった。
だがバルサモは叫びを無視し、無言で問いかけただけであった。
フリッツは何も言わずに、いつものように恭しく主人の手を取り、ヴェネツィア製の大鏡の前まで案内した。鏡はロレンツァの部屋に通じる暖炉の上に飾られていた。
「ご覧下さい、閣下」フリッツは鏡に映る姿を指さした。
バルサモがびくりと身を震わせた。
それから微笑みを――永遠に治まることのない無限の苦しみの果てに生み出された死んだような微笑みを、口唇に浮かべた。
フリッツが怯えるのももっともだ。
バルサモは一時間で二十歳も年老いていた。目の輝きも消え、肌の血色も衰え、顔からは機知も知性も失われ、口唇には血の混じった泡が浮かび、白いシャツには大きな血の染みがついている。
バルサモは鏡を見たが、それが自分だとは思えなかった。やがて鏡に映る見知らぬ人物の目をじっと覗き込んだ。
「そうだな、フリッツ、お前の言う通りだ」
それから、忠実なフリッツが不安そうにしているのに気づいてたずねた。
「ところで何の用だ?」
「そうでした! あの方たちです」
「あの方たち?」
「はい」
「あの方たちとは誰のことだ?」
「閣下」フリッツはバルサモの耳元に口を寄せて囁いた。「五人の
バルサモが身震いした。
「全員か?」
「全員です」
「今いるんだな?」
「いらっしゃいます」
「五人だけか?」
「いいえ、武装した召使いを一人ずつ庭に待たせております」
「五人は一緒だったのか?」
「一緒にいらっしゃいました。かなりお腹立ちのようでしたから、あれほど強く何度も呼び鈴を鳴らした次第でございます」
バルサモは血の染みをレースの胸飾りの襞で隠そうともせず、乱れた身なりを整えようともせず、来客たちが応接室にいるのか小部屋にいるのかをフリッツに確認してから、足を動かし階段を降り始めた。
「応接室でございます、閣下」とフリッツは答えてバルサモの後を追った。
そして階段を降りたところでバルサモを呼び止めた。
「閣下、何かご指示はございますか?」
「何もないよ、フリッツ」
「ですが閣下……」フリッツが口ごもった。
「何だ?」バルサモが怖いほど落ち着いてたずねた。
「武器も持たずにお会いするつもりですか?」
「ああ、武器は持たない」
「剣も?」
「どうして剣が必要なんだ、フリッツ?」
「どうしてと言われましても」フリッツは目を伏せた。「思いますには、私としては、不安が……」
「わかった、退っていいぞ、フリッツ」
フリッツは言われた通りに進んでから戻って来た。
「聞こえなかったのか?」
「閣下、一言申し上げておきますと、二連式の拳銃は金の円卓にございます黒檀の箱に入っております」
「いいからもう行くんだ」
バルサモはそう言い捨てて応接室に入って行った。