翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 131・132

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百三十一章 血

 邸の扉が閉まるのをデュ・バリー夫人が目にするよりも早く、バルサモは隠し階段を上って毛皮の部屋に取って返した。

 伯爵夫人との会話が長びいたこともあるし、急いでいるのには二つの理由があった。

 一つにはロレンツァに会いたい気持。二つ目にはロレンツァの体力が持たないのではないかという恐れだ。何しろ与えられたばかりの新しい人生には、麻痺状態に耐えられるだけの余裕がなかった。催眠状態からトランス状態に陥ることがあると、ぐったりとしてしまうのだ。

 霊力によって身体の機能を上手く調整できなければ、トランス状態に陥ると決まって叫びをあげて苦しんでいた。

 バルサモは扉を閉め、ロレンツァが横たわっているはずの長椅子に急いで目を向けた。

 ロレンツァはいなかった。

 肩掛けに用いていた金糸で花模様が縫い取りされたカシミアのケープだけがクッションの上に残されており、持ち主が確かにこの部屋にいたし、この長椅子の上で休んでいたことを証言していた。

 バルサモは強張ったまま、空っぽの長椅子から目を離すことが出来なかった。部屋に漂っている嫌な匂いに耐えかねて出て行っただけに違いない。無意識のうちに本来の人生の習慣に従って、本能的に部屋を変えたのに違いない。

 まずは先ほどまで一緒にいた研究室に戻ったのだろうかと考えた。

 そこで研究室を訪れたが、見たところ誰もいないようだ。だが東洋のタペストリーの裏にある巨大な竈の陰になら、女一人くらい容易く隠れられる。

 バルサモはタペストリーをめくって竈を一回りした。ロレンツァがいたという形跡すら何処にも見つけられなかった。

 残るはロレンツァの寝室だ。自室に戻っているのだろう。

 あそこは昨日のような状態の時だけに用いられる牢獄だった。

 バルサモは部屋まで急いだが、羽目板は閉まっていた。

 ロレンツァが部屋に戻っていないという証拠にはならない。何故なら、催眠状態で千里眼に目覚めているロレンツァがこの仕掛けを覚えていることは否定できないし、覚えているのなら頭の中に残っている夢の欠片に従うことも否定できないからだ。

 バルサモはバネを押した。

 研究室同様、部屋は空っぽだった。ロレンツァはここに足を踏み入れてさえいないようだ。

 こうして、前々から心に巣食っていた悪い予感が、ロレンツァは幸せなのだという想像や期待を一掃してしまった。

 ロレンツァは役を演じていたのだろう。眠っているふりをして、バルサモの心に居着いていた疑念や不安や警戒を逸らしていたのだろう。自由になる機会を得るが否や、またもや逃げ出したのだ。前回前々回の教訓を踏まえ、これまで以上に確実を期して。

 バルサモはそう確信するや呼び鈴を鳴らしてフリッツを呼んだ。

 フリッツがなかなか来ないことに苛立って、バルサモの方から部屋を飛び出すと、隠し階段のところでフリッツと出くわした。

「シニョーラは?」

「どういたしました?」バルサモの慌て方を見て、何かただならぬことが起こったのだとフリッツは理解した。

「見かけたか?」

「そのようなことは」

「出ては行かなかったんだな?」

「出て行くとは何処からでしょうか?」

「この家からに決まってるじゃないか」

「ここから出たのは伯爵夫人だけです。その後で私が扉を閉めに参りましたから」

 バルサモは気違いのように部屋まで駆け戻った。目の覚めている時のロレンツァは眠っている時とは違い、子供っぽいことをすることもあった。隅に隠れておいて、バルサモがぎょっとしたのを読み取ったり、驚かせてからほっとさせて楽しんだりしていた。

 そこでバルサモはつぶさに捜し始めた。

 部屋の隅を見るのも怠らず、箪笥の中を確認するのも忘れず、衝立も移動させた。その姿は情熱のあまり理性を失った人間、もはや何も見えていない狂人、酔っ払ってふらついている人間の姿そのものだった。もはや両腕を広げて叫ぶ力しか残されていなかった。『ロレンツァ! ロレンツァ!』。そうすれば喜びの声をあげて腕の中に飛び込んで来るのではないかという望みを抱いて。

 だがその異常な思いや気違いじみた呼びかけに応じたのは、沈黙だけ。陰鬱な静寂が続いているだけだった。

 走り回り、家具を揺すり、壁に呼びかけ、ロレンツァの名を叫び、盲になった目を向け、利かなくなった耳をそばだて、火の消えた鼓動を鳴らし、考えることも出来ずに震え、そんな状態のまま三分が過ぎた。バルサモにとっては三世紀にも匹敵する苦悶の一時であった。

 半ば気が狂ったように錯乱したまま部屋を出て、冷たい水の入った容器に手を漬け、こめかみを濡らして、動こうとする手を片手で押さえ込み、脳内で脈打つ煩わしい鼓動の音を意思の力で締め出した。命に関わって休みなく脈打つその規則的な音こそ、静と動を繰り返しているうちは生をもたらしているが、不規則になったり気にし出したりすると死や狂気が待っているのだ。

「よし、冷静になろう。ロレンツァはもういない。言い逃れはすまい。ロレンツァはいないんだ。つまり出て行ったということだ。間違いない、出て行ったんだ!」

 もう一度周りに目を走らせてから、再び名前を呼んだ。

「出て行ったんだ! いくらフリッツが見ていないと言い張ろうと、出て行ったんだ。まんまと出て行っちまった。

「可能性は二つある。

「一つは実際に見なかった可能性だ。あり得ない話ではない。人間は完璧ではないからな。もう一つはロレンツァに買収された可能性だ。

「フリッツが買収されたというのか?

「ないとは言い切れん。これまで忠実だったからといって、こうした推測を否定する理由にはならん。ロレンツァや愛や科学だってここまで人を欺いたり嘘をついたり出来るのだ、脆くて意志の弱い人間という生き物が誤りを犯してもおかしくはあるまい?

「待て待て! 俺には何だって知ることが出来るじゃないか! ド・タヴェルネ嬢が残されていなかったか?

「アンドレを使えばフリッツが裏切ったかどうかわかる。ロレンツァが裏切ったかどうかわかる。今度ばかりは……愛情も偽りで、科学も誤りで、忠誠も罠だったとすれば……今回ばかりは加減も遠慮もせんぞ。慈悲を捨て去り誇りを抱いて、復讐に燃える人間として罰を与えてやる。

「そうと決まれば急いで出かけるとしよう。フリッツに気づく暇を与えてトリアノンに逃げる機会を与える必要もない」

 バルサモは床に転がっていた帽子をつかんで戸口に走った。

 が、慌てて立ち止まった。

「そうだ、その前に……あの老人のことをすっかり忘れていた! まずはアルトタスの様子を確認しておかなくては。狂気に駆られて異常な愛に囚われている間中、ずっとほったらかしだったからな。俺も恩知らずで薄情な男だよ」

 バルサモは興奮に駆られてかっかしながら、バネに近づいて天井の仕掛けを動かした。

 やがて昇降台がするすると降りて来た。

 バルサモはその上に飛び乗り、錘を作動させて上昇させたが、その間も頭はすっかり混乱しており、ロレンツァのことしか考えられなかった。

 アルトタスの部屋まで来ると、老人の声が耳を打ち、悲痛な夢から引きずり出された。

 ところが驚いたことに、アルトタスの第一声は覚悟していたのとは違い罵倒ではなかった。飾り気のない無邪気な歓声で迎えられたのだ。

 バルサモは訝しげに師匠を見つめた。

 アルトタスは車椅子に反っくり返っていた。嬉しそうに大きく息を吸い込んでいる。息をするたびに生の喜びを吸い込んでいるかのようだった。目には暗い炎が満ちていたが、口元に浮かんでいる嬉しそうな微笑みによって表情は和らげられており、そんな目つきをバルサモにじっと注いでいた。

 バルサモは動揺を見せるまいと意識を集中させた。人間の弱さには厳しい人なのだ。

 集中している間も、バルサモの胸に奇妙な重みがのしかかっていた。恐らく呼吸のたびに空気が汚されているせいだ。重く濁った生暖かい匂いに吐き気がする。その匂いは階下にいる時から匂っていたが、かすかに漂っているだけだった。秋になると日の出や日の入りに湖沼から立ちのぼる沼気にも似ており、粒となって窓ガラスを曇らせていた。

 そうした酸っぱい空気が澱んでいるせいで、バルサモの心はくじけ、頭がぼうっとして眩暈を感じた。酸素と力がいっぺんに足りなくなるのがわかった。

「先生」バルサモは手を着ける場所を探し、大きく息を吸い込もうと努めた。「先生はこんなところで暮らしていられるのですか。息も出来ないじゃありませんか」

「そうか?」

「先生!」

「じゃが儂はたっぷり息を吸っておるぞ!」アルトタスは嬉々として答えた。「それでも生きておる」

「先生、先生」バルサモの頭がだんだんとくらくらとして来た。「くれぐれも用心して下さらなければ。窓を開けさせてもらいますよ。床から血が立ち上って来るようです」

「血か! 気づいたか!……血か!」アルトタスがからからと笑い出した。

「そうですよ! 殺されたばかりの死体から漂って来るような匂いがします! それが脳と心にずっしりとのしかかって来て耐えられそうにありません」

「そうじゃろう、そうじゃろう」老人は皮肉な笑みを浮かべた。「儂はとうに気づいておったぞ。そちの心が繊細で、脳があまりにも脆弱だということにな、アシャラ」

「先生」バルサモは真っ直ぐ老人に歩み寄った。「先生の手にも血がついてます。この卓子にも血がついてます。先生の目の中までも、炎のような血にまみれています。先生、ここに充満している匂いは――眩暈がするような匂いは――息が詰まりそうな匂いは――血の匂いですね」。

「ほう、そうか?」アルトタスは動じなかった。「血の匂いを嗅いだのは初めてか?」

「そんなことはありません」

「儂の実験を見たことはなかったか? そちも実験したことはなかったか?」

「だがこれは人間の血だ!」バルサモは汗に濡れた額を押さえた。

「そいつはたいした嗅覚だな。しかし人間の血と動物の血を嗅ぎ分けることが出来るとは思えんがな」

「人間の血です!」バルサモが呟いた。

 ふらつく身体を支えようとして、バルサモは家具の出っ張りにつかまろうとした。そこで銅製のたらいに気づいてぎょっとした。その内側が真新しい血で漆のように真っ赤に輝いていたのだ。

 たらいは半分ほど満たされていた。

 バルサモは驚いて後じさった。

「血だ! この血はどうやって?」

 アルトタスは無言だった。だがその目はバルサモの動揺や混乱や恐怖を見逃してはいなかった。突然バルサモが恐ろしい声で吠えた。

 獲物に襲いかかるような勢いで部屋の一隅に駆け寄り、床から絹紐を拾い上げた。金の刺繍のあるそのリボンからは、長い黒髪の房が垂れていた。

 身を切るような痛ましい悲鳴がやむと、死んだような沈黙が部屋を支配した。

 バルサモは震える手でゆっくりとリボンを持ち上げ、その黒髪をよく確かめた。一端は金の髪留めでリボンの端に留められ、反対端は綺麗に切り揃えられている。赤く泡立った滴が髪の先からしたたっているところを見ると、どうやら先端が血に染まった前髪のようだ。

 バルサモが手を上げるに従い、手の震えが大きくなった。

 汚れたリボンに目を引き寄せられるにつれて、鉛色の顔色がさらに青ざめた。

「これがどうしてここに?」呟きの言葉は耳に届くほど大きかったため、アルトタスに問いかける形になっていた。

「それか?」

「ええ、これです」

「これは、髪を束ねる絹のリボンじゃな」

「そうではなくこの髪です。濡れていますがこれは何なんです?」

「見ての通り、血じゃな」

「何の血ですか?」

「たわけたことを! 霊薬に必要な血じゃよ。そちが拒んだ血、儂に必要な血じゃ。そちに断られたから自分で手に入れたまでよ」

「ですがこの髪は――この編み込みは――このリボンが、どうしてここに? どう見ても子供のものではありません」

「子供の喉を掻き切ったとは言っておらんぞ」アルトタスはしれっとして答えた。

「しかし、霊薬には子供の血が必要だったのではありませんか? そう仰ったではありませんか」

「または生娘の血じゃよ、アシャラ」

 アルトタスは骨張った手を肘掛けに伸ばしてフラスコをつかみ上げ、その中身を嬉しそうに眺め回した。

 それから穏やかで優しい声を出した。

「助かったぞ、アシャラ。この部屋の真下のすぐ手の届くところにあの女を住まわせておくとは、なかなか賢く先見の明のあるやり方じゃったぞ。これで人類は苦しまずに済み、この世を司る理とて何も手に出来ん。血が手に入らず死にかけておったというのに、生娘を調達したのはそちではなかったな。儂がこの手でつかみ取ったのだ。はは! 済まんな、礼を言うぞ、アシャラ」

 そう言って再びフラスコに口唇を近づけた。

 バルサモの手から髪の房が落ちた。目の前が真っ白になっていた。

 正面にはアルトタスの作業台がある。いつもならこの大理石の作業台は、植物や本やフラスコでごちゃごちゃしていた。それが今は薄気味悪い花柄の白緞子のシーツで覆われており、ランプから放たれた赤みを帯びた光の先には忌まわしい輪郭が浮かんでいたが、バルサモはまだそれには気づいていなかった。

 バルサモはシーツの一端をつかんで乱暴にめくった。

 途端に髪の毛は逆立ち、開いた口からは喉の奥から絞り出されるような恐ろしい悲鳴がほとばしった。

 シーツの下から現れたのはロレンツァの死体だった。ロレンツァは大理石に横たえられ、顔は土気色だというのに今も微笑みをたたえ、長い髪の重さで引っ張られたように顔を仰け反らせていた。

 鎖骨の下に開いた大きな傷口からは、もはや血の一滴も流れてはいない。

 両手は強張り、目は薄紫色の瞼の下で閉じられていた。

「さよう、生娘の血じゃよ。生娘の動脈血の最後の三滴、それが儂には必要じゃった」アルトタスはまたもやフラスコを眺め回した。

「人でなしめ!」絶望の叫びが毛穴の一つ一つから洩れ出しているようだった。「死んでしまえばいい。ロレンツァは数日前から俺の恋人だった、俺の妻、俺の女だったんだ! 殺しても何の意味もない……ロレンツァはもう生娘じゃなかったんだからな!」

 この言葉を聞いてアルトタスの目が揺らいだ。眼窩の中で電気にはじかれたように、びくりと。瞳孔が恐ろしいほどに開いた。抜けた歯の代わりに歯茎を軋らせる音が聞こえた。手からフラスコが擦り抜け、床に落ちて粉々に割れた。アルトタスは心と頭を同時に打たれたように、腑抜けたように呆然として、ゆっくりと椅子に倒れ込んだ。

 バルサモはロレンツァの遺体に泣きながらすがりつき、血塗れの髪に口づけすると意識を失った。

 
 

第百三十二章 人と神

 時間というのは手を繋いだ姉妹のようなものだ。不幸な人間のところには遅々として留まり、幸福な人間のところは矢のように通り過ぎる。時間は今、溜息とすすり泣きに満ちた部屋の上で、重い翼を畳んで静かに羽根を休めていた。

 一方には死。一方には断末魔。

 間には、断末魔にも等しい苦しみと死ぬほどの重みを持つ絶望。

 喉から叫びを絞り出してしまうと、バルサモの口からはもはや何の言葉も出て来なかった。

 衝撃的な事実を暴露して、残忍な喜びに浸っていたアルトタスを打ちのめして以来、バルサモは微動だにしていなかった。

 そのアルトタスはと言うと。神が人間に用意した普通の人生に荒々しく投げ返されて、未知の環境に沈んでいる様子は、鉛弾を撃たれて雲間から湖に落ちた鳥が、もがけばもがくほど翼を傷めることを知りもしないで湖面でもがいている姿を思わせた。

 鉛色に染まった行き場のない惚けた表情が、その絶望のただならぬ大きさを表していた。

 アルトタスはもはや考えることすらやめていた。目的に向かって順調に進んみ、岩のようにしっかりとしていると信じていた確信が、ついさっき煙のように掻き消えてしまったのだ。

 絶望に打ち沈み物も言わず、意識は既に朦朧としていた。絶望に縁のなかった精神にとって、物を言わぬこととは即ち何かを考えている印だったのだろう。さらに、絶望を垣間見たことすらないバルサモに至っては、これは力と理性と命の断末魔に等しかった。

 アルトタスは割れたフラスコから目を離さなかった。それは無惨にも砕けた希望そのものだった。粉々に割れて散らばった破片を数えているように見える。それだけの日々が人生から失われてしまったのだ。床にこぼれた貴重な――不死の基だと束の間だけ信じていた液体を、目で吸い上げようとしているように見えた。

 時折り、落胆の苦しみが大きくなると、老人は火の消えた瞳を上げてバルサモを見つめた。それからロレンツァの死体に目を向けた。

 その姿はまるで脚を罠に挟まれているのを朝になって猟師に見つかった野獣のようだった。首を巡らせもせずじっと脚の痛みに耐え、狩猟用の刀剣や銃剣を突き刺されようものなら、憎しみと復讐と非難と驚きの詰まった真っ赤な目を上げて横目で睨みつける獣のようだった。

「あり得ぬ」虚ろではあったが目にはまだ力があった。「これほどの不幸、これほどの手違いが儂に降りかかることなど信じられるか? 死んだこの女のようなくだらんもんの足許に、目の前でひざまずいているそちのようなちんけな存在のせいで、こんなことになるとはの。自然や科学や道理がひっくり返りおったわ。下司な弟子の分際で尊い師匠をもてあそびおって。たった一粒の塵のせいで、全速力で何処までも飛ぶように走っている戦車が止まってしまうとは、とんでもないことではないか?」

 バルサモはぼろぼろに打ちひしがれ、声もなく身動きもせず、生きている形跡すら見えず、脳の中に広がっていた血塗れの靄の向こうからは、人間らしい感情が何一つ現れては来なかった。

 ロレンツァ、愛しいロレンツァ! ロレンツァ、妻であり、偶像であり、天使であり恋人である大切な女性、ロレンツァ、喜びと栄光、現在と未来、力と信仰。ロレンツァ、バルサモがすべての愛を捧げ、すべての欲望を捧げ、何を措いてもそばに置いておきたかった存在。ロレンツァが永遠に失われてしまった!

 泣きもせず、叫びもせず、溜息すらついていなかった。

 驚く間もなく、恐ろしい災難に襲いかかられたのだ。寝ている間に洪水に襲われ、闇の中に流されたようなものだ。水に沈んだ夢を見て目を開ければ、頭上には波がうねっており、もはや叫び声すらあげることも出来ずに、黙って死を待つしかない。

 バルサモは三時間にわたって死の底に飲み込まれていた。無限の苦しみに沈んだまま、自分に起こったことは死者たちが見る不吉な夢のようなものだと、永遠の闇や墓地の静寂に包まれた死者たちの夢のようなものだとしか思えなかった。

 もはやアルトタスも、憎しみも復讐もなかった。

 もはやロレンツァも、生も愛もなかった。

 ただ眠り、夜、無があるだけだった!

 こうして時間は音もなくしめやかに絶え間なく部屋の中を流れていった。そうして原子に請われるように生命の素を受け渡してしまうと、血はすっかり冷え切っていた。

 突如、夜の静寂を破って、呼び鈴が三度鳴った。

 バルサモの居場所を知ったフリッツが、アルトタスの部屋の呼び鈴を鳴らしたのだろう。

 だが荒々しい音は三度とも無為に響くだけで、鈴の音は空中に散った。

 バルサモは顔を上げようともしなかった。

 数分後、再び呼び鈴が鳴らされたが、一度目と変わらずバルサモを夢想から引き剥がすことは出来なかった。

 やがて計ったように、それほど間を置かずに、三たび呼び鈴が鳴り響いた。割れるような音が催促するように部屋を揺るがせた。

 バルサモは慌てもせずゆっくりと顔を上げ、墓から抜け出した死者のように無表情なまま、目を彷徨わせた。

 三度にわたってキリストに呼びかけられたラザロは、きっとこんな目をしていたのだろう。

 呼び鈴がやむ気配はなかった。

 音はますます大きくなり、ついにバルサモの理性を目覚めさせた。

 バルサモは遺体の手から手を離した。

 身体の熱はロレンツァに伝わることなく、すっかりバルサモから奪われていた。

「重大な報せか重大な危機だな」バルサモは呟いた。「恐らくは重大な危機の方か!」

 バルサモはすっかり立ち上がっていた。

「とはいえ、応える必要などあるのか?」その声が薄暗い穹窿の下、死の漂う部屋の中に陰鬱に響いたが、それには気づかず独白を続けた。「これからはもう何かを気にしたり恐れたりする必要があるのか?」

 急かすようにまたもや呼び鈴が鳴り、青銅の内側を鈴の舌がけたたましく打ちつけたため、鈴の舌が外れてガラスの蒸留器の上に落ち、ガラスが乾いた音を立てて砕け散り、粉々になって床の上に散らばった。

 バルサモはもはや抗わなかった。大事なのは誰も――フリッツでさえバルサモのいるところまでは追っては来ないということだ。

 バルサモは落ち着いた足取りで歩き、バネを押して揚戸に上った。揚戸はゆっくりと降り、毛皮の部屋の真ん中に停まった。

 長椅子のそばを通った時、ロレンツァの肩から落ちたケープにぶつかった。死のように無慈悲な老人が二本の腕でロレンツァを攫った時に落ちたものだ。

 本人に触れた時よりも一層の生々しさを感じて、バルサモは刺すような震えに襲われた。

 バルサモはケープを手に取り、叫びを押し殺すように口づけした。

 それから階段に通じる戸口に向かった。

 一番上の段にはフリッツがいた。青ざめて息を切らし、片手に明かりを、片手に呼び鈴の紐を握って、怯えたように何度も何度も紐を引っ張り続けてバルサモが出て来るのを待っていた。

 バルサモの姿を見て安堵の叫びをあげたが、それはすぐに不安と恐怖の叫びに変わった。

 だがバルサモは叫びを無視し、無言で問いかけただけであった。

 フリッツは何も言わずに、いつものように恭しく主人の手を取り、ヴェネツィア製の大鏡の前まで案内した。鏡はロレンツァの部屋に通じる暖炉の上に飾られていた。

「ご覧下さい、閣下」フリッツは鏡に映る姿を指さした。

 バルサモがびくりと身を震わせた。

 それから微笑みを――永遠に治まることのない無限の苦しみの果てに生み出された死んだような微笑みを、口唇に浮かべた。

 フリッツが怯えるのももっともだ。

 バルサモは一時間で二十歳も年老いていた。目の輝きも消え、肌の血色も衰え、顔からは機知も知性も失われ、口唇には血の混じった泡が浮かび、白いシャツには大きな血の染みがついている。

 バルサモは鏡を見たが、それが自分だとは思えなかった。やがて鏡に映る見知らぬ人物の目をじっと覗き込んだ。

「そうだな、フリッツ、お前の言う通りだ」

 それから、忠実なフリッツが不安そうにしているのに気づいてたずねた。

「ところで何の用だ?」

「そうでした! あの方たちです」

「あの方たち?」

「はい」

「あの方たちとは誰のことだ?」

「閣下」フリッツはバルサモの耳元に口を寄せて囁いた。「五人の親方マスターの方たちです」

 バルサモが身震いした。

「全員か?」

「全員です」

「今いるんだな?」

「いらっしゃいます」

「五人だけか?」

「いいえ、武装した召使いを一人ずつ庭に待たせております」

「五人は一緒だったのか?」

「一緒にいらっしゃいました。かなりお腹立ちのようでしたから、あれほど強く何度も呼び鈴を鳴らした次第でございます」

 バルサモは血の染みをレースの胸飾りの襞で隠そうともせず、乱れた身なりを整えようともせず、来客たちが応接室にいるのか小部屋にいるのかをフリッツに確認してから、足を動かし階段を降り始めた。

「応接室でございます、閣下」とフリッツは答えてバルサモの後を追った。

 そして階段を降りたところでバルサモを呼び止めた。

「閣下、何かご指示はございますか?」

「何もないよ、フリッツ」

「ですが閣下……」フリッツが口ごもった。

「何だ?」バルサモが怖いほど落ち着いてたずねた。

「武器も持たずにお会いするつもりですか?」

「ああ、武器は持たない」

「剣も?」

「どうして剣が必要なんだ、フリッツ?」

「どうしてと言われましても」フリッツは目を伏せた。「思いますには、私としては、不安が……」

「わかった、退っていいぞ、フリッツ」

 フリッツは言われた通りに進んでから戻って来た。

「聞こえなかったのか?」

「閣下、一言申し上げておきますと、二連式の拳銃は金の円卓にございます黒檀の箱に入っております」

「いいからもう行くんだ」

 バルサモはそう言い捨てて応接室に入って行った。

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「あわ」ジュリア・ヴェルランジェ

「あわ」ジュリア・ヴェルランジェ

八月八日

 今日もまたよそびとを見た。長い腕を窓のまえで振って、何かを話していた。話しつづけていた。やすみなく口を動かしていたけれど、わたしには何も聞こえなかった。あたりまえだ。窓のこちらがわには何も聞こえない。今度は腕をガラスに当てて押しはじめた。わたしは怖くなって、ボタンを押して鎧戸を閉めた。もちろんわかっている。よそびとは入ってこれない。誰もなかには入ってこれない。

 父が以前に言っていた。ずっとむかしの窓ガラスは割れたそうだ。信じられない。でも父は知っていた。父によれば、あわがこの時代に現れたのはラッキーだった。むかしだったらきっと一人残らず死んでいた。家もいまとは違ったし、お手伝いもいなかった。あわから逃げることは誰にもできなかっただろう。

 大きくなったら日記を書くことをすすめたのは父だ。「未来のために書いておかなくちゃならない」。いつか、あわに立ち向かう方法が見つかって、何もかも以前のように戻るときが来る。「あわの時代に起こったことをみんなに知らせなくちゃならない。そのために日記をつけなさい、モニカ。おまえが大きくなって、父さんがいなくなってしまったときにはね」。いなくなるのがそれほど早いことだとは、父も思っていなかったはずだ。せめて、そとに出なければ。そとに出ないでくれていたら。

 大きくなったら、と父は言った。わたしは今日で十六歳になった。もう大きくなったと思い、けさから日記をつけはじめた。

 父はよくものを書いていた。あわのことなら何でも書いていたし、以前の世界がどのようなものだったかも書き留めていた。わたしは以前の世界を知らない。父が話してくれたことしかわからない。生まれたのが、あわが現れた直後だったのだ。

 父によれば、初めのころにはそれはたくさんの人たちが死んだそうだ。何人も、何人も。あわに立ち向かうことなどできないし、死んだりよそびとになったりするのを避けるにはそとに出ないようにするしかないのだということが、まだわからなかったころのことだ。

 父はそのことにすぐに気づいた。おかげでわたしたちは助かった。これが昔だったら、そとに出ないでいるのは不可能だったろう。飢え死にしてしまう。肉の貯蔵庫も、野菜室も、何もかもやってくれるお手伝いもなかった。古い時代には人が自分ですべておこなっていたそうだ。地面で野菜を育てたり、肉にするために動物を育てたりしていたという。

 滑稽なことに、わたしは動物とは何なのかを知らなかったので、父が古い本に載っていた絵を見せて説明してくれた。笑っちゃうくらい変なものだった! こんなものが実際に存在していたとは信じられそうにない。

 
 

八月九日

 けさは古い本を調べに図書室に行ったけれど、説明をしてくれる父はもういないので、わたしにはわからないことばかりだった。

 そこで、きのう窓のそとに現れたよそびとにそっくりの絵を見つけた。いくつもの腕をくねらせている。絵の下には、女神カーリーとしるされていた。古い時代にもよそびとがいたのだろうか? 父はそんなことは言っていなかったし、人がよそびとになるのはあわのせいだと言っていた。以前にはよそびとはいなかった。

 わたしはよそびとを見ることができない。特にきのうのように窓に近づいて来られると、怖くてふるえてしまう。よそびとはしばしばやって来る。何か言おうとしているらしく、しきりに口を動かしていた。

 父は言っていた。「どうしてだろうな。それほど危険ではないのに、あわよりもよそびとのほうに恐怖を覚えるのは。よそびとを見ているとぞっとするような嫌悪を感じるが、あわの方は美しいと言えるからかもしれないな」。あわがきれいなのは本当のことだ。そとに浮かんでいるのを何度も見た。全体がさまざまな色に控えめに輝いていて、小さいころに遊んだしゃぼん玉にそっくりだ。ただしもっと大きくて、もっと固い。とても固いのでどんなものでも壊すことができない。

 ところが人間の上に来ると割れて、死んでしまう。

 一度、父がまだいたころ、それを見たことがある。男の人。口を大きく開けて、全速力で走っていた。きっと声をあげていたのだと思う。でも何にも聞こえなかった。巨大なあわが後ろから追いかけて来ていた。速く、とても速く。とうとう追いつくと、頭の真上であわが割れた。男の人が虹色のよだれに覆われた。

 いつの間にかわたしは悲鳴をあげていた。駆け寄っていた父がわたしの顔をからだに押しつけた。「見るんじゃない。怖がらなくていい」。ぎゅっと抱きしめていた父から解放されてふたたび見たときには、そとにはもう何もなく、あわと同じくさまざまな色に光る水たまりがあるだけだった。

 父が言った。「かわいそうに、あの人は死んでしまった。一瞬で溶けてしまったよ。よそびとになるよりはその方がよかっただろうね」。もちろん父が間違っていたことはないのだけれど、何度か考えたことがある。本当によそびとになるより死んだ方がいいのだろうか。わたしなら絶対に死にたくない。

 なのにどうしてよそびとはこんなにも恐ろしいのだろう!

 
 

八月十五日

 午前中はずっと乳母がまわりをうろちょろしていた。何もいらないのかとひっきりなしにたずねるのだ。いらいらする。なんでこんなにもいらいらさせられるんだろう。野菜室に行ってじゃがいもを探してくるように命じておいて、戻って来たら部屋から閉め出してやった。

 今も父がいてくれたら! 一人きりになってからもう三年になる。父がやっていたように、毎日しるしをつけているから年月はわかっている。どうしてそんなことをするのかは自分でもよくわからないと、父はよく言っていた。そんなふうにしてただ過去にしがみついているだけなんだと受け止めていたようだ。でもわたしは過去を知らない。わたしがしるしをつけているのは、父がそうしていたからなのと、そうしていれば父がまだどこかにいるような気持ちになれるからだ。

 わたしが知っているのはこんなふうに、あわがいる世界、誰もいない通りによそびとだけが行き交っている世界でしかなかった。

 父から何度も以前の世界の話を聞いていたから、元通りの世界にあこがれていた。そとに出て、よそびとではない人たちと会えるのだ。父の話によれば、町の向こうには田舎というところがあって、緑にあふれ、草や木や花や、囲いのなかには動物もいるという。

 本やスクリーンでそんな風景を見たことがあるけれど、父に言わせればあんなものではないそうだ。肌に太陽や雨を感じるのは最高のことだという。雨が窓ガラスを流れ落ちているのを見たことがあるけれど、どうすれば肌に感じることができるのかはわからない。そのほかにも海というものがあって、とても広くて塩辛い水でできているらしい。わたしが地下室のプールで泳ぐように、昔の人たちは海のなかで泳いでいた。海で泳ぐのはきっと気持ちがいいに違いない。

 いつか以前の世界を目にできると父は考えていた。おそらく父ではなく、わたしだけが、以前の世界を目にできると。あわを倒す方法を見つけ出そうとしている人たちが大勢いるらしい。いつの日か、必ず見つけ出せるはずだと父は信じていた。でもそれにはとても長い時間がかかるから、待たなくてはならないし、それまでのあいだは今の世界があるだけだ。そとにはあわよそびとしかいなくて、なかにはわたしのいる世界。

 さびしい。父に会いたくてたまらない。父がいてくれたら、と心から思う。お手伝いたちや乳母はいるけれど、たまにすごく邪魔に感じるときがある。第一、みんな人間ではない。父はよく機械ロボットと呼んでいた。ヘンな名前。父の話によると、昔はお手伝いがいなかったそうだ。当時お手伝いと呼ばれていたのは、よそのひとよそびとのために働く人間のことだった。

 そんなことがあるのかと思ったけれど、父が知らないことなどなかった。古い本ならすべて読んでいたし、古い時代のことを何時間でも話していた。最近になってわたしも本を読もうとしているけれど、書かれてあることが多すぎてよくわからない。たとえば「恋に落ちている」とか「地下鉄に乗る」とかいうのはどういう意味だろう? 父がいたら説明してくれるのに!

 
 

八月二十三日

 母の部屋に行った。タンスを開けたら、かすかに香水の香りがした。最初のうちはさわるのをためらった。母がうしろからついて来て、うつろな目で見つめるような気がしたのだ。怖かった。でもだんだん大胆になり、ついにドレスを一着つかんだ。柔らかいさわり心地で、宝石箱のなかの大きな石みたいな緑色をしていた。

 着替えてみる。わたしもだいぶ大きくなったのだ。ドレスはぴったりだった。鏡に映してみる。きれい。ドレスの緑が映えて、母の宝石のようにわたしの目を輝かせていた。

 たぶんわたしはきれいなんだと思う。母にそっくりだからだ。母さんはとてもきれいだと父は言っていた。わたしたちは夏の太陽に照らされた小麦畑のような髪をしていると言っていた。夏の太陽に照らされた小麦畑というのが何なのか知らないけれど、口にした父がうっとりとしていたから、きっときれいなものなんだろうと思う。

 わたしの髪はとても長いので、からだを覆うことができる。古い時代には女の人のなかにも、父のように耳の下で髪を切る人もいたらしい。父みたいになりたがるなんて、おもしろすぎる! だって、いくらなんでも母のほうがはるかにきれいだったのだから。でもわたしは父のほうが好きだった。大好きだった。

 わたしは母がちょっと怖かった。人に目を向けても、目を寄せていて、相手を見てはいないのだ。母はわたしにかまわなかったし、話しかけることすらなかった。ときどき、何時間にもわたって泣き出しては、ドアに体当たりしてこぶしをたたきつけ、叫んでいた。「そとに出たい! そとに出して!」。そんなとき、父は母を抱きよせてやさしく話しかけた。「さあ落ち着いて、我慢しなくちゃね」。父は母のことをとても愛していた。そとに出たのも母のためだ。こんなこと言うべきじゃないのはわかっているし、父もよろこばないに決まっているけれど、でも、父は出ていくべきじゃなかった! 出ていくべきじゃなかったのだ!

 一度だけ意地悪をしたことがある。父が母をなだめているときに、こう言ったのだ。「ほっとけばいいのに! どうせ理解できないんだから!」。父はわたしを悲しそうに見つめて、あとでじっくり説明してくれた。「母さんを嫌いにならないでくれ。母さんのせいじゃないんだ。もしこんなふうに……ああ、わかっているよ、母さんはおまえのことをちっともかまわないし、誰にも興味を示さない。だがあわが現れる前はこんなふうじゃなかった。わたしたちの身に起こったことに、頭が耐えられなかったんだ。母さんは空想の世界に生きていて、現実を見ようとしない。でもどうにもならなかったんだ。嫌いにならないでくれ、モニカ。同情の心を忘れないようにしなさい……父さんに何か起こったときには、おまえが面倒を見てやらなくちゃならない。子どもなのはおまえではなく、母さんのほうだと思ってくれ。母さんはときどきそとに出たがるだろう。そういうときは止めなくちゃいけない。母さんには自分が何をしているかわからないんだ……約束してくれるね。母さんと仲よくすること、父さんがいなくなったら母さんの面倒を見ること。約束だぞ、モニカ」。父はすごく悲しそうで、すごく苦しそうだった。でもわたしは約束を守れなかった。

 父が出て行ったときに母は死んだ。

 
 

八月二十六日

 今日は雨。

 けさ窓辺に行くと、雨粒が道路に落ちてたまっていた。あれが肌に触れるとどうなるのか気になったので、窓を開けたくてしかたがなかった。でもそんなことは不可能だ。父の説明によれば、出入口はどこもふさがれているそうだ。窓を開けるには、貯水室と野菜室の向こうにある地下室の奥にまで行って、ブレーカーを落とさなくてはならない。

 父がやり方を教えてくれた。いつかそとに出られる日が来たときに、もう父がいなかった場合のために。けさのわたしのように開けようとしても開けられないように、しっかりと固定されていた。そとに出たがってばかりいた母のためだ。でも父が出て行くときにレバーをオンの位置に動かしていたので、わたしが何日かしてからまた戻しに行った。

 父が言っていたことは正しいことだと思っていたからだ。ブレーカーが完全に壊れていればよかったのに。そうすれば父は出られなかったのに。だから戻しておいた方がいい。けさのようにわたしが窓を開けたくなっても開けられないし、ブレーカーを下ろしに行くあいだに、開けたら死んでしまうかよそびとになるかもしれないことを思い出せる。わたしはどちらも怖くてしかたがない。

 地下室のプールに泳ぎに行った。窓なんて見たくもなかったからだ。そうしていると父が言っていたことを思い出した。もし古い時代にあわが現れていたら、水も光もとっくになくなっていたはずだ。そういうものを管理しているお手伝いがいなかったから。すべて人間がやっていたそうだ。だからあわがそうした人間を殺してしまえば、何一つ動かなくなってしまったはずだ。でもありがたいことに、あわにはお手伝いを殺せないし、とてもとても長持ちするように設計されている。父は言っていた。たとえ人類が全滅しても、お手伝いたちは仕事をやりつづけるに違いないと。何世紀も何世紀も。

 父の説明によれば、たとえばわたしが年を取って死んでしまっても、乳母はずっと待っているはずだという。ほとんど永遠に。わたしの世話を焼くよう設定されているからだ。乳母はつねにわたしを見守り、頼んだことは何でもやってくれる。悪いものからわたしを必ずや守ってくれる。あわが侵入して来るようなことがあったら、追い払おうとしたり、わたしを救おうとしたりすることだろう。でも残念だけれど長くは持たない。あわはいくつもいるし、必ず目的を達するはずだ。わたしたちを殺すという目的を。

 
 

九月一日

 おかしなことだけれど、あわがどこからやって来たのか誰にもわからないし、どうして死ぬ場合と死なずによそびとになる場合があるのかもわからない。

 一度テレビで老人が話しているのを聞いたことがある。父が出て行った直後のことだ。

 父はときどきテレビのスイッチを入れていたが、画面は真っ黒なままだった。もう何も映らなくても、これからもいじってみるのをやめてはいけないよ、と父は言っていた。絶対に生存者はいて、あわを倒す方法を見つけ出そうと頑張っているから。自由にそとに出られるときが来れば、テレビで知らせてくれるはずだから。

 父によれば、これまでのところどんなものでもあわを破壊することはできなかったそうだ。バーナーでも駄目だった。とてもとても恐ろしい武器なのに。初めのうちはあらゆることを試みたが、あわはそのどれにも耐え抜いたそうだ。ところが人間の上に来たときだけ、割れて死んでしまう。死なない場合はもっとひどいことになる。よそびとになるのだ。

 よそびとは変身する。あわの垂らしたよだれで溶けてしまわずに、しばらくすると起き上がるが、見たところは何も変わらない。ところが数日すると、いろいろなことが起こるのだ! 古い本に載っていた女神のようにたくさんの腕が生え、いくつもの脚、からだじゅうにある目、二つの頭、首と胸の上に口が一揃い。寒気がする!

 テレビで見た老人は、あわよそびとのことを話していた。ずっと真っ黒だったテレビの画面が、何日かごとのあいだだけ明るくなっていた。大きくて白い部屋のなかで、一人の老人がテーブルの前に座っていた。ずいぶんと疲れて見える。部屋にはお手伝いがたくさんいたが、家のものよりごちゃごちゃしていて、表面にはボタンとランプがたくさんついていた。

 老人の声を聞くのはうれしかった。父と同じ、ほっとするような声をしていた。ひとりぼっちじゃないんだ、と感じられた。

 老人は、戦いのこと、希望のこと、待つことを話していた。勇気をなくしてはいけない。いつの日か、あわが敗れるときが来る。むずかしい言葉を使って説明していたから、わからない部分もあったけれど、話は最後まで聞いた。やさしそうな老人だったけれど、ひどく疲れて見えた。それでも勇気という言葉を口にしたときには、老人の声は熱く若々しい響きをともなっていた。

 長い時間がかかるだろう、と老人は言っていた。あわがどこから現れたのかも、何でできているのかも、誰にもわからないからだ。人間をよそびとに変えたり殺したりする現象についても、解明されていない。あわを倒すためにあらゆる方法を試してみたが、どれも無駄に終わった。何人もの人間がこの戦いのために命を投げ打って来たし、これからもいくつもの命が失われることだろう。よそびとのなかにも手を貸しに来てくれた者たちがいる。変身してしまったことをうとんでいるのだ。危険な目に遭わずにそとに出ることができるから、そのことがいろいろな場面で役に立った。我々と一緒に戦ってくれることを感謝しなくてはなるまい。

 あわは長いあいだ、おそらく何世紀ものあいだ、我々の時代に現れるために雌伏していたのだと信じている者たちもいる、と老人は言っていた。我々はおそらく先祖のあやまちのつけを払っている最中なのだろう。先祖たちはいくどとなく核を経験し、間違っていると知りながらいきあたりばったりに力を用いて来たのだ。我々が犠牲になっているのはおそらく先祖の愚行のせいなのだろう。快適な生活を未来に贈り届けるために用いるべきものを、もっぱら人殺しのために用いて来た連中なのだから。当時の人々が世界中に放射能をばらまいたせいで、いつしかあわが生まれたのだと信じている者たちもいる。それに賛同する者たちも多い。

 戦いはつづいているが、現在の知識はすべて役に立たなかったため、解決策を見つけるために古い科学の知識を取り戻そうとしているところだ。

 最後に老人は言った。テレビを放送するにはあわとの戦いに使える時間と手段を割かなくてはならないから、進捗状況をできるだけ知らせるほかは、まず話をすることはあるまい。それからもう一度くり返した。勇気を失うな、と。それから画面はふたたび暗くなった。

 わたしはこの老人のことを何度も考えた。あれから一度も老人を見ていないし、ほかの誰の声も聞いていない。テレビは一度もつかなかった。わたしは一人で考えた。老人は正しいのだろうか、以前の世界が戻って来るのだろうか。そうであってほしかった。

 
 

九月五日

 窓のよそびとがまたやって来た。ふしぎなことに、時間が経つにつれて、あまり怖くはなくなって来た。腕がたくさんあるとはいえ、ほかのよそびとと比べればそれほど醜くはない。目がたくさんあったり、口が山ほどあったり、そこらじゅうに鼻があるよそびととは違っていた。

 むしろかわいそうにさえ感じた。今日は何か伝えたがっているように見える。腕に抱いている赤ちゃんを、わたしに向かってしきりと見せつけていた。動きまわるたびに長い黒髪がそこらじゅうに舞っていた。

 ついによそびとが赤ちゃんをわたしのほうに差し出した。まるでわたしに受け取ってもらいたがっているようだった。ふしぎなことに、すっかりとは変身していないようだ。とてもかわいくて、わたしが持っている赤ちゃんの人形そっくりだった。よそびとはとつぜん赤ちゃんの服を脱がし、あらためてわたしに向かって見せた。まったく変身していないし、どこにもへんなところがないのがよくわかった。ぽっちゃりとして、しわが寄って、小さな足を動かしていた。口を開け、不機嫌そうな顔をしていた。きっと泣いているのだ。もちろん、こんなふうに服を脱がされて、うれしいわけがない。

 よろい戸を閉めたくはなかったので、向こうに行くよう合図したけれど、離れようとはしなかった。よそびとは泣いていた。顔に涙が伝っているのが見えたが、そのあいだずっと赤ちゃんを差し出していた。もしかすると本当に受け取ってもらいたがっているのかもしれない。ばかげてる! わたしが窓を開けて、あわをなかに入れるとでも思っているのだろうか! とはいえ、そのとき路上にあわはまったくいなかった。もう一度だけ向こうに行くように合図したが、動こうとしなかったので、わたしのほうで窓から離れた。

 あれ以来どうしても考えてしまう。あのよそびとには困ったものだ。ずいぶんと取り乱しているように見えた。赤ちゃんをあずかることも、小さなよそびとを育てることもできるわけがないのに。だいいち、赤ちゃんの育て方がわからない。わたしが知っているのはおもちゃの赤ちゃんだけで、父によれば赤ちゃんにはわたしたちが食べるものが食べられないらしい。乳母なら知っているだろうか? いや、わたしまでおかしくなって来た。父が知ったら怒るに違いない。窓を開けるなんて! それもよそびとのために! よそびとの赤ちゃんを受け取るために! もう考えないようにしなくては。

 それにしても、あの赤ちゃんが変身していないのはふしぎだった。まだ小さいからだろうか? だけどふつうなら、そとに出た人が死ななかった場合、変身にはそれほど長い時間はかからない。ほんの数日だ。数日しか経っていないのだろうか? だけどそれにしては赤ちゃんの人形にそっくりだった。父の話によれば、あの人形は十歳くらいの人間の赤ちゃんの姿をしていた。あのよそびとが赤ちゃんを手渡したがっている理由を考えてみた。あわから守るためだろうか? よそびとにならないうちに救いたがっているのだろうか? だけどあわから守るなんてできやしない。誰にもできやしない。

 
 

九月七日

 怖い、とてもとても怖い。お腹が痛くて、きっと母のように死んでしまうのだろう。泣きじゃくっていると、乳母が大急ぎでやって来た。

 お腹をさわるとわたしを叱りつけ、何でもない、りんごの食べすぎだと言った。それは事実だが、わたしはりんごが大好きなのだ。薬をくれたので、痛みはすぐによくなった。乳母はたいていのことなら治してくれる。

 具合がよくないときに何を飲めばいいのか、父もよく知っていた。でも母の病気のことはわからなかった。母の病気には、父も乳母も何もすることができなかった。

 父が出て行ったのはそのせい。医者を探しに。電話をしても何の役にも立たないからね、往診に来てくれる人などいやしないだろうから、と言っていた。でもバーナーは持って行った。どんなことをしてでも医者を連れてくるからね、と言って。

 ばかげてる、あわのせいだ、それなのに、とにかく父は出て行った。母がお腹を押さえて泣き叫ぶのをもう父は聞いていられなかったのだ。母のことをとても愛していたから。そのせいでおかしくなってしまったのだろう。だってそとに出ても何の意味のないことはよくわかっていたはずなのだから。

 母に注射をして、それからわたしにも注射して眠らせてから、父は出て行った。こんなこと考えるべきじゃないのはよくわかっているけれど、それでも、母をそのまま死なせてあげるほうを父が選んでいればよかったのに。だって父は二度と戻って来なかったし、母はやはり死んでしまった。目が覚めたとき乳母がそれを教えてくれた。母のからだはすでにお手伝いによってくるまれており、父はもうそこにはいなかった。

 悲しくて涙が止まらなかった。乳母はわたしにむりやりご飯を食べさせようとした。そのまま死なせていればよかったのに。そうすればよかったのに。だって、どこで医者を見つけるつもりだったんだろう? それに、たとえ見つかったとしても? わたしには自信がある。医者はあわに立ち向かうより、黒こげになるほうを選ぶだろう。

 ときどき考えることがある。もし父が溶かされていたとしたら、もし……たくさんの腕や足を持った姿でそとにいたら、髪を振り乱し頭にたくさんの目を生やしていたら、もし……だけどそんなこと考えたくもない。いやだ。父は死んでいると信じたい。

 だけど……女神カーリーのような姿で、いつか窓辺に戻って来たとしたら? どうすればいい? 父さん、わたしはどうすればいい?

 
 

九月十日

 一日じゅう電話が鳴っていたけれど、出なかった。

 父がまだいたときにはいつも父が出ていたし、ときには自分からかけていた。人と接触せずに生きてゆくのはいいことではないと言って、生存者を探していた。けれどあわの時代が始まったころに、あまりにもたくさんの人が死んでいたので、見つけるのは不可能に近かった。よそびとが入り込んでいた家ならたくさんあった。いやそれとも、家族全員がよそびとに変身させられていたのだろうか。そのせいで電話の画面に出るのはいつもよそびとばかりだった。だけど話にならなくて、父はいつも決まって電話を切るしかなかった。

 あわと戦う手助けをしているよそびとがいると、テレビの老人が話していたのを思い出した。あれにはびっくりした。よそびとは人間を憎んでいるんだと父は言っていたからだ。だからわたしたちに近づこうとしないのだと父は信じていた。わたしたちにおかしなところがないから嫌悪しているのだと信じていた。

 父が出て行ってしばらくのあいだは、わたしも電話に出ていたけれど、画面に(たくさんの)腕や目を見せたのは、決まってよそびとだった。わたしをののしるか、またはそとに出ていっしょになろうと誘って、わたしを怖がらせた。

 それから一度、人間が画面にいたことがある。女の人だ。

 そのころになるともうほとんど電話には出ていなかったのだが、ベルがあまりにも長くあまりにもしつこく鳴るものだから、どういうことなのか知りたくなったのだ。

 画面にいるのはお婆さんだった。目からはすっかり正気が失われていた。真っ白な髪がいやな色に汚れて顔に垂れかかり、両手をねじって結んだり開いたりしていた。老婆はわたしの姿を見ると、あわてたように話し出した。

「頼むよお嬢ちゃん、医者の居場所を知らないかい? 医者が要るんだ。いろんなところにずうっと電話をかけててね。助けておくれ。助けてもらわないと。夫の具合が悪くてね。死にそうなんだよ。死にそうなんだよ、そうしたら一人きりになってしまう」

 老婆が泣きながら遠ざかると、部屋の奥のソファに老人が横たわっているのが見えた。顔じゅうがむくれて真っ赤で、ときどきひどい痛みに見舞われると、苦しくて息もできないようだった。

 老婆が画面に戻って来た。

「わかった? 死にそうなんだよ、死んじゃう、死んじゃうよ」

 声が大きくなった。わたしはそれ以上は我慢できずに回線を切った。

 そのあとで泣きじゃくった。助けてあげられなかった。何もしてあげられなかった。父のことが頭から離れなかった。父もこんなふうに医者がほしくてほしくてたまらなかったのだ。

 もうそれからは二度と電話には出ないようにした。

 
 

九月十八日

 何かが起こった! 何かが起こったんだ!

 興奮のあまりテレビから窓へ、窓からテレビへ走り回った。じっとしてなどいられない。

 もっと落ち着きなさい、そんなふうにばたばたするものではありませんと乳母に叱られたけれど、叱るのはうわべだけのことだとわかっている。それで満足しているようだし、それで納得しているはずだ。

 何日か前から、そとにいるあわの数が減っていたし、よそびともほとんど見かけなかった。女神カーリーと赤ちゃんも姿を見せない。

 だけどこんなこと想像もできなかった。

 以前の世界が戻って来る! 以前の世界が戻って来る!

 父は正しかった! 老人は正しかった! わたしたちは勝ったのだ!

 テレビをつけると、画面はいつものように黒いままではなく、ぱっと映像が映った。この広間には見覚えがある。老人がいた広間だ。けれど今回そこにいたのは若い人だった。ちっとも疲れては見えなかった。しゃべりかたはきびきびとして力強く、声はよく通り、目はきらきらと輝いていた。

 はじめのうちは何を言っているのかほんとうにわからなかった。あまりにも信じがたかった! 聞こえた単語を組み立てることができそうになかった。そのうち自分が泣いていることに気づいた。うれしくて心臓がはじけそうなときにも涙が流れるものなのだろうか? きっとそのせいで顔じゅうびしょびしょになっている。

 父がここにいて一緒にこの報せを聞けないなんて! わたしたちは勝ったのだ! あわは負けたのだ!

 若者はよく通る力強い声で話しつづけていた。あわを倒した武器のことを説明していた。それから防護服のおかげでそとに出られるようになったので、たった今も有志たちが町を一掃していることを。

 それからたくさんの要望を口にした。何よりも、今の段階では絶対にそとに出ないこと。まだ早い。町にはまだたくさんのあわが残っている。もう少しだけ我慢してほしい。これだけ長いあいだ待ったというのに、急いだせいですべて失ってしまうのはばかげている、そうだろう? 有志たちが防護服を持って迎えに行く。今のところはシェルターから出ずに待っていてほしい。もう少しの辛抱だ。

 それから、仕事に向かう有志たちを紹介した。ここと同じような通りを、十数人の人たちが歩いている。黒くて固い袋のようなものを頭からすっぽりとかぶり、目の部分にガラス板がはめこまれていた。黒くて大きくごわごわの手袋をつけ、父が持っていたバーナーそっくりのチューブを手にしている。ただしもっと大きくてもっと長かった。

 そのとき、三つか四つのあわが現れ、有志たちのほうに飛んで来た。チューブをかまえると、そこから青くて目がくらむほど輝くものが飛び出し、あわはみんな割れてしまった。地面で、だ。人間の頭上ではなく。

 すごい! あの無敵のあわを倒すところを目の当たりにしたのだ。わたしは声をあげて応援していた。

 乳母がごはんの時間に呼びに来たけれど、追い払ってしまった。お腹なんか空いてられない。これだけすごいことを目にしていて、もうすぐ以前の世界を知ることができるというのに。

 
 

九月二十一日

 とうとう来た! 人間だ。話をした!

 もう我慢ができなかった。一日じゅう窓にはりついていたけれど、通りには決まって誰もいなかった。いるのはもうほとんどいなくなったあわだけ。よそびとはまったくいない。

 あの若者がテレビで話しているのを何度か聞いたけれど、いつも同じことをくり返していた。「迎えに行くまでもう少しの辛抱だ」。とうとうこれには腹が立って来た。待つだけならもうじゅうぶん待った。わたしは一日じゅう乳母を走り回らせたので、乳母はぶうぶう言っていた。

 けれど声をかけてくれたのは乳母だった。またテレビを見ている最中のことだ。「早く早く、モニカ」

 わたしは窓辺に走った。ぶかっこうな黒い袋をかぶった人間が、目の前の通りにいた!

 向こうには聞こえないことなどすっかり忘れて、わたしは大声で叫んでいた。けれど窓のところで一生けんめい手を振っていたので、とうとう向こうもわたしに気づいて、家のほうに向かって合図を送って来た。

 もう三日も前からブレーカーを降ろしていた。このときを待っていたのだ。わたしは玄関に駆け寄り、ドアを大きく開けて招き入れた!

 急いでドアを閉めて黒い袋を脱いだ。

 二人いた。一人は大きくて、一人は小さい。大きいほうの人の髪は黒く、茶色い瞳が陽気な感じで輝いていた。笑うと表情がはじけた。小さいほうの人は丸々としていて、ものすごくちぢれた金髪をしており、肉の隙間から青くて小さな目がのぞいていた。

 大きいほうが言った。

「見ろよ! 長い髪をしたローレライ、緑の目と金色のマントのオンディーヌだ」

 小さいほうが言った。

「やめないか! 怯えているじゃないか。誰にもわからないような冗談なんか言って」

 わからないのは事実だったけれど、わたしはちっとも怯えてなんかいなかった。

 二人が名前を名乗った。大きいほうはフランク、小さいほうがエリック。わたしも名乗った。モニカ。それから手を握って、キスをせがまれた。大きいほうが言った。

「だってきょうは特別な日なんだからね」

 わたしはキスしたけれど、何だかへんな感じだった。父にもキスしたことなどなかったのだ。

 フランクがたずねた。

「ご両親は、モニカ? 一人きりなのかい?」

 わたしは大急ぎで答えた。

「ママは死にました。パパは……出て行きました」

 フランクは悲しそうな目でわたしを見つめて、肩に手を置いた。

「いつのことだい、モニカ?」

「三年前です」

 ため息をついてからこう言った。

「もうそのことは考えなくていい。これからは幸せになるんだ。年はいくつだい?」

「十六です」

 沈黙。二人とも顔を見合わせている。

 フランクがたずねた。

「十六だって? ほんとうかい、ずいぶん小さく見え……」

 エリックが急いで口をはさんだ。

「十六になったのはいつ?」

「先月です」

 また二人とも黙り込んでしまった。顔を見合わせている。どうも様子がおかしい。困惑しているようだ。よく理解できない。ただ十六歳だったからというだけで? 小さすぎると思ったから? 小さな女の子だから? むしろがっかりしているように見える。ずいぶんとがっかりしているように。

 フランクがわたしの頬をなでたけれど、エリックは目をそらした。

 突然わたしも困惑を感じて、いたたまれない気持ちになり、なぜだかわからないけれどちょっと悲しくなった。どういうことなのか確認したかったけれど、どうしても聞けなかった。

 
 

九月二十二日

 フランクが迎えに来てくれるのを待っている。

 窓のところまで小さなテーブルを引っぱって来た。こうすれば日記を書きながらそとを見ていられる。ほんとうならもう日記をつづける必要はない。あわの時代は終わったのだから。だからこれで最後にするつもりだ。

 もうすぐそとに出られるのだ! 信じられない。昨日フランクにたずねた。

「以前の世界を見せてくれる?」

 フランクは戸惑ったような顔をしてから、質問に答えた。

「もちろんさ、以前の世界を見せてあげるよ」

 でもちっとも楽しそうじゃなかった。なぜだろう? 以前の世界というのは、思っていたほど美しくないのだろうか? それとも、完全にはもとに戻らないのだろうか?

 どちらでもいい。そとに出られるのだ。どんな世界であっても、すばらしいに違いない。

 そうして何ごともなければ、わたしは何不自由なく幸せになれる……いまになってようやく理解した。あのよそびとがどうしてあれほど赤ちゃんを受け取らせたがっていたのか。受け取ってあげるべきだったのだ。昨日のフランクとエリックの話も聞こえたし、テレビでも言っていた。

 昨日ちょっとのあいだ二人から離れた。おしゃれをしたかったのだ。母のドレスに着替えに行った。二人は図書室にすわっていて、乳母が父に出していたのと同じ飲み物を出していた。わたしには一度も出そうとはしなかったのに。

 二人を驚かそうと思い、そっと戻ったときに聞こえて来たのだ。

 フランクの声だった。

「そんなことすべきじゃない。人間のやることとは思えない! あいつらにだって生きる権利はあるんだ。あいつらが悪いわけじゃない。ほかにできることはないのか、俺はよく知らないが、たとえば保護区に住まわせるとか」

 エリックの声がした。

「『ほかにできること』なんかない。よくわかっているだろう。もとに戻す方法なんかない。それにきっと伝染する。ほかに解決策はない。こうするしかない」

 フランクの声は怒っていた。

「そりゃあんたはいいだろうさ。でも俺には引き金を引くことなんてできない! 絶対に無理だ! ひどいと思わないのか? 俺は恥ずかしい」

 エリックがとげのある声で答えるのが聞こえた。どういうわけか、弁解しているように聞こえる。乳母に叱られたときのわたしのような声だ。乳母が正しいとわかっているのに、それを認めたくないときの。

「決まりなんだ。ほかに選択肢はない。汚染を広げるわけにはいかない……」

 フランクがさえぎった。

「実際に危険かどうかもわかっていないのに! それにあの子どもたち! あの子どもたちは……!」

「危険は冒せない! よそびとの子どもは変身しない。普通の子どもと見分けがつくか? 選択の余地はない」

「それはきっと免疫のおかげじゃないのか? 知ろうともしないくせに。要するにあんたには何の疑問もないわけだ」

「委員会が決めたことだ。糞ッ! あわが現れたのは十六年二か月前。数字は数字なんだ!」

 家のどこかでミシッという音がして、二人とも飛び上がった。

「しーっ!」フランクが言った。「あの子が戻って来たら……」

 わたしは部屋に入った。よろこんでいると思われているのはよくわかっていたけれど、よろこんでいいほどにはよろこべなかった。何となくはわかっていたのだ。それがけさ、確信に変わった。

 わたしがテレビを見ていると、また前のように、町をきれいにしている有志たちが映った。ただし、映っていたのは前とは違う光景だった。

 よそびとが走っていた。足がたくさんあってうまく走れずに、しじゅうつまずいている。それでも、逃げようとして必死になっているのはよくわかった。有志の一人がバーナーを浴びせると、よそびとはしなびて地面の上の黒いかたまりになった。

 すぐに画面が切り替わり、ほかの話題に移った。明らかにその場面を見せたくなかったのだ。けれどわたしはさすがに気づいてしまった。それも、フランクとエリックの話を聞いてしまったあとでは。

 みんなはよそびとを殺している。そういうことだ。

 ひどい! フランクが正しい。そんなのは間違っているとわたしも思う。たしかによそびとには怖い目に遭わされたけれど、それでも……

 女神があれほど赤ちゃんを手渡したがっていたのは、このためだったのだ。きっと知っていたんだ。あのよそびとも黒こげにされてしまったのだろうか? わたしならカーリーを殺すことはできなかったと思う。じゃあ赤ちゃんは? どこにもおかしなところは見えなかったのに!

 何て残酷なことをしているんだろう。父なら眉をひそめたはずだ。

 でももうそんなことを考えちゃだめだ。悲しんではいけない。きょうはすばらしい日なんだから。フランクが来れば、もうすぐそとに出られる。わたしは窓から見張っていた……

 来た! あそこに……違う。エリックだ。きっとフランクが来られなくなって、エリックに代わりを頼んだのだろう。わたしは少しがっかりした。エリックは親切だけれど、フランクのほうが好きだったのに。

 おかしなほどゆっくりと歩いていた。顔を伏せている。窓のところでわたしを見たけれど、あいさつを返してはくれなかった。なぜだろう?

 バーナーを持っている。どうしてバーナーなんかを? それにここまで来るのにどうしてあんなに時間をかけるのだろう?

 エリックが近づいて来る。ドアを開けに行こう。

 ようやく、以前の世界を見られるのだ……

『ジョゼフ・バルサモ』 130

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百三十章 媚薬

 ロレンツァの予言通り、門を叩いていたのはデュ・バリー夫人だった。

 この美しき貴婦人は応接室に案内されると、バルサモが来るまで死に関する風変わりな本を眺めていた。マインツ製になるこの本には、見事な版画によって、死が男の生を掌握している様子が表現されていた。死は、恋人の手を握ったばかりの男を舞踏室の戸口で待ち伏せしていたり、水浴びをしている水の底に男を引きずり込んでいたり、狩りに持って行く銃身の中に潜んでいたりした。

 一人の婦人が化粧をしたり鏡に姿を映したりしている版画まで進んだところで、バルサモが扉を開けて、にこやかに挨拶した。顔中に喜びが溢れている。

「お待たせして申し訳ありません。距離を見誤ったうえに、あなたの馬がどれだけ速いのか存じ上げませんでしたので、まだルイ十五世広場にいらっしゃるものとばかり思っておりました」

「何ですって? あたくしが来ることをご存じでしたの?」

「無論です。二時間ほど前、青繻子の寝室にいらっしゃるあなたが、馬車に馬を繋ぐようお命じになっているところを目にいたしましたから」

「青繻子の寝室にいたですって?」

「生き生きとした色の花綵が飾られている部屋です。長椅子に横たわっておいででした。その時、『ド・フェニックス伯爵に会いに行こう』という素晴らしい考えを思いつかれ、呼び鈴を鳴らしたではありませんか」

「誰がやって来たかご存じ?」

「ご姉妹きょうだいの方でしたな? あなたが指示をお伝えになると、直ちに実行に移されました」

「あなたって本当に魔術師なのね! 一日中あたくしの寝室を覗いてらっしゃるの? 教えて下さらなきゃ困るじゃありませんの!」

「ご安心下さい。目に見えるところしか見てはおりません」

「目に見えるところだけ覗いて、あなたのことを考えているとわかったというの?」

「はい。しかも好感をもって考えて下さっていました」

「もちろんよ。あなたのことは素晴らしい方だと思ってますもの。でも正直に言うと、それ以上に親切でかけがえのない方だと思っておりますの。あたくしの人生において保護者の役を演じて下さることになるんじゃないかしら。どう考えても何よりも難しい役どころですけど」

「返す返すも光栄に存じます。それで、お役に立てることがございますか?」

「あら!……やっぱり魔術師なのね、それとも見抜いていたわけではないの?」

「それについては差し控えさせていただけませんか」

「そういうことなら。じゃあまず、あなたのためにして差し上げたことについて話をしましょうか」

「その必要はございません。むしろ伯爵夫人についてお話を聞かせていただけませんか」

「いいわ。では差し当たっては、姿が見えなくなる石を貸して頂戴。大急ぎでここに来る途中で、ド・リシュリューさんの密使を見かけたような気がしたの」

「それで、その密使は……?」

「伝令と一緒に馬車を尾けていたわ」

「これをどうお考えになりますか? 公爵はどういう目的であなたを尾けていたのでしょう?」

「あの人流の嫌がらせをするつもりじゃないかしら。あなたは謙遜なさるけれど、あなたは王さえ妬むような幸運を神から授かっている方よ……こうしてあなたのところを訪れたり、あたくしのところに来ていただいたり」

「ド・リシュリュー氏でしたら、如何なる場合でもあなたにとって危険はございません」

「それが危ないところでしたの。もう少しで一大事になるところだったんですから」

 ロレンツァがまだ見抜いていない秘密のあることをバルサモは嗅ぎ取った。そこで見知らぬ領域にわざわざ踏み込むことは避け、微笑みによって返答に代えた。

「ド・リシュリューさんは危険な方よ。あたくしったらもう少しで、あなたも参加していた巧妙な陰謀の犠牲になるところだったんですもの」

「私が? あなたに対する陰謀に参加したと? まさか!」

「ド・リシュリューさんに媚薬を差し上げたのはあなたじゃありませんの?」

「媚薬とは?」

「狂えるほどの恋に落ちる媚薬です」

「それは違いますな。大方ド・リシュリュー氏がご自分で処方なさったのでしょう。作り方はとっくの昔にご存じのはずですから。私はただの麻酔薬しか差し上げませんでした」

「本当ですの?」

「名誉にかけて」

「ちょっと待って、公爵殿はいつ麻酔薬をお求めになったの? 思い出して頂戴、重要なことなの」

「この間の土曜日のことです。ド・サルチーヌ氏のところに来ていただきたいというあなた宛ての手紙をフリッツに託した日の前日のことでした」

「あの日の前ですって! 国王がタヴェルネ嬢のところに行くのを目撃された日の前日ってことじゃない? それですっかり説明がついたわ」

「でしたら、私が関わっているのは麻酔薬だけというのもご理解いただけたでしょうか」

「ええ、あたくしたちが救われたのは麻酔薬のおかげよ」

 今回ばかりはバルサモにも話の見当がつかなかったので、相手の出方を待つことにした。

「たとい偶然にせよ、お役に立てたのならこれに勝る喜びはありません」

「あら、あなたはいつだって素晴らしかったわ。でもまだしてくれていないことで出来ることはたくさんありますもの。ああ医師せんせい、手の込んだ言い方をすると、以前は随分と具合が悪かったものだけれど、最近になってようやく持ち直して気がするんです」

「医者は治療のために詳しい病状を知らなくてはなりません。できればどんな徴候も省かずに、どうかもっと詳しく話していただけませんか」

「幾らでもお聞かせしますわ、お医者さん。それとも魔術師さんの方がいいかしら。麻酔薬が使われた日の前日のことです、陛下がリュシエンヌに立ち寄るのを見合わせて、疲れたことを理由にトリアノンに残ったんですの。後で知ったのですが、陛下が嘘をついたのは、ド・リシュリュー公爵とド・タヴェルネ男爵と一緒に夜食を摂るためだったんです」

「そういうことか!」

「わかっていただけたわね。その夜食の間に、恋の媚薬が垂らされたに違いないの。国王はとっくにアンドレ嬢に夢中ですもの。翌日になってもあたくしに会いに来ないのは目に見えてましたわ。だからあの子の部屋で何かがおこなわれたはずなんです」

「それで?」

「それだけよ」

「何が起こったのでしょうな?」

「正確なことはわからないわ。陛下が使用人棟の方に向かわれたのを見たと言って知らせてくれた人がいるの。つまりアンドレ嬢の部屋の方ってことね」

「アンドレ嬢の住まいは存じております。それからどうなりました?」

「それからですって! 馬鹿なこと言わないで頂戴! お忍びの陛下を尾けるなんて危ない真似できるわけないじゃない」

「しかし最終的には?」

「あたくしに言えることはね、嵐の中をトリアノンまで戻っていらした陛下の顔は青ざめ、身体は震え、錯乱したように熱を出してらっしゃったってことだけ」

「国王が怯えていたのが嵐だったとは思ってらっしゃらないでしょうな?」バルサモが笑みを浮かべてたずねた。

「ええ。第一、従者が叫び声を聞いているんですもの。何度も『死んでいる! 死んでいる!』と叫んでいたそうよ」

「ああ!」

「麻酔薬だったのね。国王が死ほど恐れているものはないし、死者の姿がその次に怖いんですもの。不自然に眠っているアンドレ嬢を見つけて、死んでいると思い込んでしまったんじゃないかしら」

「なるほど、死んでいたのなら、アンドレを起こさずに逃げ出したのもうなずける。死んでいたか、または死んだように見えていたのなら。それで合点が行く。それからどうなったんです?」

「結局、その夜には何も起こらなかったの。少なくともその夜の初めには。国王はただ部屋に戻っていらして、激しい熱を出してがたがたと震えていたので、翌日になるまで何も起こらなかったんです。そのうち王太子妃殿下が陛下のお部屋を開けて、にこやかにお顔を照らす太陽をお見せしようとお考えになったんですの。でも夜のうちに生み出されていた恐ろしい幻覚は、夜と共に消え去っていたようでしたわ。

「昼頃にはかなりお元気になって、ブイヨンと山鶉をお召しになり、夜には……」

 伯爵夫人はそこで口を閉じ、他人には真似できないような微笑みを浮かべてバルサモを見つめた。

「夜には?」

「ええ、前夜に恐ろしい体験をしたトリアノンにはいらっしゃりたくなかったんでしょうね、夜にはリュシエンヌにおいでになりましたの。そこであたくしは、ド・リシュリューさんがあなたと同じくらい優れた魔術師だということに気づいたという次第なんです」

 伯爵夫人の勝ち誇った顔や、優雅で嫋やかな仕種で話すのを見て、まだまだ王に対する影響力が夫人からは失われていないことを知って満足した。

「それでは、私には満足していただけたのですな?」

「それ以上よ。不可能を生み出せると仰ったのは本当のことでしたのね」

 伯爵夫人は感謝の印に、香水をつけた白く柔らかい手を伸ばした。ロレンツァの手ほど瑞々しくはなかったが、その温もりには同じくらいの感情が籠もっていた。

「今度はあなたの番よ、伯爵」

 バルサモは男らしくお辞儀して耳を傾けた。

「危険から守って下さったんですもの、今度はあたくしがあなたを少なからぬ危険から救って差し上げる番だったのじゃなくって」

 バルサモは感情を隠して答えた。「そこまでしていただかなくとも構いませんが、仰ろうとしているのは……」

「ええそう、あの小箱」

「それがどうしましたか?」

「中に入っていた暗号を、ド・サルチーヌさんが部下の専門家全員に解読させたんです。各々解読したところ、すべて同じ結果が出たらしいの。そこで今朝あたくしがヴェルサイユにいる時に、ド・サルチーヌさんが解読結果と暗号事典を抱えて乗り込んで来たんです」

「それで、国王は何と?」

「初めは驚いていたみたいだけど、やがて怯えてらしたわ。陛下が物騒な話を聞かされていると、それがすぐにわかるの。ダミアンの短刀の音がして以来、誰であろうとおそばに寄って一言だけ、『お気をつけを!』と言えばいいのだもの」

「つまりド・サルチーヌ氏は陰謀を企んだかどで私を告発したと?」

「ド・サルチーヌさんは最初あたくしを追い払おうとしたの。でも突っぱねてやりましたわ。陛下はあたくしに対し誰よりも愛情をかけて下さっているのだから、陛下の身に危険が迫っていることをお耳に入れるという時にあたくしを追い出す権利など誰にもありません、と言って。ド・サルチーヌさんは反論なさいましたけど、あたくしも頑固に言い返したところ、陛下がいつものように笑みを浮かべてこちらを見つめ、仰いましたの。

『よいではないか、サルチーヌ、今日は伯爵夫人に何一つ隠さぬつもりだ』

「あたくしがそこにいるとね、ド・サルチーヌさんとしては別れ際の挨拶を覚えていたものですから、あなたを告発したらあたくしの不興を買うんじゃないかと思ったのね。そこでプロイセン王がフランスに悪意を持っているだとか、叛逆の動きを容易にするために超自然の助けを借りようとする傾向があるだとか言うに留めたんです。一言で言えば大勢の人を告発したのね。その人たちが有罪であることは、手元の暗号が証明していると言って」

「何のとがで?」

「何の?……国家の秘密をお伝えしなくちゃなりませんの?」

「ここだけの話ですから。あなたには何の危険も及びませんよ! 口を開いても私には何の得もありませんからな」

「そうね、もちろん口は閉じているべきよ。大胆で巧妙な、腹を決めた信徒たちから成る幾つもの強力な秘密結社が、陛下に対するある噂を広めることで、陛下に支払われるべき敬意を秘密裡に破壊しようとしている――ド・サルチーヌさんはそれを証明しようとしているの」

「噂とは?」

「一つ挙げれば、陛下が国民を飢えさせていると非難されてるんです」

「それを聞いて陛下は?」

「陛下はいつも冗談に紛らせてますわ」

 バルサモは深呼吸をした。

「それはどのような冗談なのでしょうか?」

「『余が国民を飢えさせているというのなら、その非難に応えるには一つの回答しかあるまい。食糧を与えてやればよいのだ』

『どのように?』とド・サルチーヌさんがたずねました。

『噂を流している者たちを王国が養って進ぜよう。そのうえ住処まで提供してやろうではないか。バスチーユにな』」

 バルサモは血管がぞくりと震えるのを感じたが、笑みを絶やさずにたずねた。

「それから?」

「それから、国王が笑ってあたくしの意見を聞いているようだったので、

『陛下、ド・サルチーヌさんが持っていらしたこの黒い数字の塊が、陛下が悪い国王だと書かれているのだとは、あたくしには信じられそうにありませんわ』と答えましたの。

「すると警視総監が抗議なさいました。

「だからあたくしも、『部下の方々の解読が正しいのかどうかも証明できないじゃありませんか』と言ってやりましたの」

「国王は何と?」

「あたくしが正しいかもしれないが、ド・サルチーヌさんも間違ってはいない、と」

「ええ」

「やがて封印状が発行されたんですけれど、ド・サルチーヌさんがそこにあなた宛てのものを滑り込ませようとしているのをはっきり見てしまったんです。でもあたくしだって負けじと呼び止めました。

「あたくしは国王の前ではっきりと言ってやりました。『そうなさりたいのならパリ中の人間を逮捕なさればいいわ、それがあなたの仕事ですもの。でもあたくしの友人に触れようとはなさらないことです……さもないと!……』

「『おやおや! 伯爵夫人はご機嫌が斜めだぞ。気をつけるがいい、サルチーヌ!』と国王が仰いました。

「『ですが陛下、王国の利益のためには……』

「『あなたはシュリー公ではありませんし、あたくしもガブリエルではございません』あたくしは真っ赤になって怒りましたの。

「『アンリ四世を暗殺したように、陛下を暗殺しようとしている連中がいるのです』

「そう言われて国王が青ざめて震え出し、手で額を押さえたんです。

「あたくしは負けを悟りました。

「そこで『陛下、どうかお話の続きをお聞きになるといいわ。きっとこの方たち、あたくしが陛下に対して陰謀を企てていることもその暗号の中に読み取ったに違いありませんもの』と言って、退出しようとしましたの。

「それが媚薬の翌日のことなんです。国王はド・サルチーヌさんではなくあたくしをお選びになって、後から追いかけていらっしゃいました。

「『伯爵夫人、どうか怒らないで』

「『だったらあの男を追い払って下さいな。監獄の匂いがします』

「『仕方ない、サルチーヌ、出て行ってくれ』国王が肩をすくめて命じました。

「『今後はあたくしのところを訪れることはもちろん、声をかけることも禁止いたします』と、あたくしも畳みかけました。

「今度ばかりは警視総監も顔色を失い、へりくだってあたくしの手に口づけしましたの。

「『そういうことでしたら、これ以上はお話しいたしません。しかしあなたは国を滅ぼすことになりますぞ。あなたが断固として譲らぬ以上は、私共もあなたのご友人に敬意を表しますが』」

 バルサモは物思いに沈んでいるようだった。

「これでもうバスチーユ行きを免れたといって感謝していただく必要もありませんわ。そんなの不当なだけじゃなく、不愉快なことですものね」

 バルサモは何も言わずに、ポケットから血のように真っ赤な液体の入った小壜を取り出した。

「お受け取り下さい。私の自由を守って下さったお礼です。これで後二十年の若さを保つことが出来ます」

 伯爵夫人は小壜をコルセットに仕舞うと、うきうきとして勝ち誇って出て行った。

 バルサモはなおも物思いに沈んでいた。

「女が媚びなければ、あいつらも救われていただろうにな。あの女が小さな足で崖の底まで蹴落としたというわけか。やはり神は俺たちの味方だぞ!」

『ジョゼフ・バルサモ』 129

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百二十九章 愛

 バルサモにとって新しい人生が始まっていた。それまではこれほど生き生きとして胸が苦しく豊かな生活など知らなかった。三日前から怒りや不安や嫉妬が増し、政治の話も陰謀の話も謀叛人の話も手につかなかった。ロレンツァのそばを一瞬たりとも離れずに、外の世界のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。感じたことのないこの激しい恋情は、人間の世界の遙か上空を飛んでいたと言ってもいい。恍惚と神秘に満ちた、幻覚のような恋――というのも、優しい恋人を容赦ない敵に変えるにはたった一言あればいいという事実から目をそらすことは出来なかったから――自然と科学の不思議な気まぐれのおかげで憎しみから剥がれ落ちたこの恋は、忘我と熱狂にまみれた幸福のうちにバルサモを引き込んでいた。

 この三日の間、何度となく、恋の麻薬に溺れたようなまどろみに包まれて目を覚ましては、微笑みを絶やさず陶然としている恋人を見つめていた。これからはバルサモが作り上げた家庭の中で、恍惚として偽りの眠りに就いたまま作り物の人生を過ごすことになる。バルサモは落ち着いて淑やかで幸せそうなロレンツァを見つめては、そのとろけるような名前を呼び、官能的な歓びにうっとりとしながら、何度となく自問していた。神の秘密を奪った現代の巨人に、神が気を悪くしないだろうか。警戒を解くために嘘で丸め込んでしまえという考えを、神はロレンツァに吹き込まなかっただろうか。そしてひとたび警戒を解いてしまえば、今度は逃げるために嘘をつき、戻って来るのは復讐の女神エウメニデスとしてだけでいいと吹き込まなかっただろうか。

 考えている間中、古代から連綿と受け継がれて来た科学に懐疑を覚えたものの、証拠といっては目の前の実体験しかなかった。

 とはいえ、愛撫を求めて渇き続ける絶え間ない炎も、やがて落ち着きを見せた。

「ロレンツァが本心を隠し、逃げようと考えているのなら、俺を遠ざける機会を窺って、一人になる口実を見つけるはずだ。だがそれどころか、ロレンツァの方から鎖のように両腕でがっちりしがみついているじゃないか。それに燃えるような目が『行かないで』と訴えているし、優しい声は『ここにいて』と囁いているじゃないか」

 こうしてバルサモは己自身と科学に対する自信を取り戻した。

 実際のところ、バルサモの力の源泉である魔術の極意が、何の予兆もなしに、失われた記憶や立ち消えた煙のように風に吹き飛びそうな他愛もない継ぎ接ぎになってしまったということがあり得るだろうか? ことバルサモに関することなら、ロレンツァはこれほど冴え渡っていたこともなかったし、これほど見透せたこともなかった。頭の中に流れ込んで来る思考と、心を震わせる感情を、ロレンツァは同時に再生していた。

 こうした透視能力のキレが好意とは無関係なのかどうかは今のところわからない。バルサモやロレンツァから離れたところ――二人の愛によって縁取られ愛にまみれた輪とは別のところで、心の目、つまり千里眼が、新たなエヴァが堕落する以前と同じように闇を射抜くことが出来るかどうかは今のところわからない。

 バルサモは敢えて確認しようとはせず、希望を持ち続けていた。希望を抱いている限りは、自らの幸せの上に星の王冠を輝かせていられる。

 時々、ロレンツァがうっとりするような愁いをたたえてバルサモに声をかけた。

「アシャラ、ほかの女のことを考えているでしょう。茶色い髪をした、青い目の北部の女。いつもあなたの頭の中で私のそばを歩いているのは誰なんです?」

 バルサモが優しい眼差しを向けた。

「では俺のことが見えるのか?」

「ええ、鏡に映すようにはっきりと見えます」

「だったら俺がこの女を愛しているかどうかもわかるだろう。ほら、俺の心を読むんだ、ロレンツァ!」

「それはわかりません」ロレンツァは首を振った。「だけどロレンツァ・フェリチアーニがあなたを苦しめていた頃のように、考えていることは二人の間で共有されてはいますから。あなたが眠らせて目覚めさせたがらなかった生意気なロレンツァの頃です」

「そんなことを言うな。少なくとも心から、俺はおまえのことしか考えてない。幸せが訪れてからは、すべて頭から追い出してほったらかしだ。嘘だと思うならちょっと覗いてみればいい。研究も政治も仕事もだ」

「嘘ね。あなたの仕事には私が必要だもの」

「何だと?」

「違う? 以前なら一日中研究室に閉じ籠もっていたでしょう?」

「確かにな。だが無駄な努力はやめた。その分の時間をほかのことに割くつもりだ。そうなるとその間はおまえに会えなくなるな」

「だったらどうして私を連れて行かないの? 愛情だけじゃなく、仕事のお手伝いも出来るのに。幸せだけじゃなく、力を与えることも出来るのに」

「おまえが美しいのは確かだが、を調べるには向いていないからだ。美と愛は神からもたらされるものだが、科学をもたらすのは調査と研究だけだ」

「魂になら何もかも見通せます」

「つまりおまえは確かに魂の目でものを見ているんだな?」

「ええ」

「賢者の石を探す手伝いが出来るんだな?」

「そのつもりです」

「いいだろう」

 バルサモはロレンツァの腰に腕を回し、研究室に連れて行った。

 四日前から何の管理もされずにいた巨大な炉からは火が消えていた。

 窯の上の坩堝もすっかり冷えてしまっている。

 失われつつある錬金術の残り火であるこうした奇怪な設備を見ても、ロレンツァは驚かなかった。まるで一つ一つの用途を知っているようだった。

「金の作ろうとしているのですか?」ロレンツァが微笑んでたずねた。

「そうだ」

「坩堝には何通りかに分けて試薬を入れているんですね?」

「すべて冷え、すべて失われてしまったがな。だが後悔はしていない」

「それはそうでしょう。金色をしているのは水銀に色がついただけですもの。固体には出来ても、成分を変えることは出来ない」

「それでも金を作ることは可能なんだろう?」

「いいえ」

「だがトランシルヴァニアのダニエルは、卑金属の精錬法をコジモ一世に二万デュカートで売ったのだぞ」

「トランシルヴァニアのダニエルはコジモ一世を騙したんです」

「だがチャールズ二世に死刑を宣告されたサクソン・ペイケンは、鉛の塊を四十デュカート相当の金塊に変えて命を買い戻し、その金塊の一部を用いて記章を鋳造した腕利きの錬金術師だ」

「腕利きの錬金術師とは腕利きの奇術師にほかなりません。鉛の塊を金の塊にすり替えれば済むことです。確実に金を作ろうと思ったら、アシャラ、あなたがやったように、世界中から奴隷に集めさせた財産を溶かせばいいんです」

 バルサモはじっと考え込んでいた。

「では金属の性質を変えることは不可能なのか?」

「不可能です」

「だがそれならダイヤは?」バルサモは思い切ってたずねた。

「ダイヤは別です」

「ではダイヤを作ることは出来るんだな?」

「ええ。ダイヤを作るのは成分を変えるわけではありませんから。元々ある元素の組み立て方を変えるだけでいいんです」

「ダイヤが何の元素で出来ているのかも知っているのか?」

「もちろん。ダイヤモンドとは純粋な炭素の結晶です」

 バルサモは唖然としていた。見たこともないほどまばゆい光が目の中で輝いていた。まるでその光に目が眩んだかのように、両手で顔を覆った。

「何てことだ! おまえは凄すぎる。怖いくらいだ。おまえの嫉妬を抑えるために、俺はどれほど貴重な指輪を海に捨てなくてはならないんだ? 今日はもう充分だ、ロレンツァ」

「私はあなたのものではないのですか? ご命令を」

「そうだな。来るんだ」

 バルサモはロレンツァを研究室から連れ出し、毛皮の部屋を通って、頭上で音がきしきしと鳴っているのは無視して、鉄格子のついた部屋に戻った。

「それでは、ロレンツァに満足して下さったんですね、バルサモ?」

「むう!」

「いったい何を恐れていらっしゃるんですか? 仰って下さい」

 バルサモは両手を合わせ、顔に恐怖を浮かべてロレンツァを見つめたが、心を読めない人間ならばようやく気づくか気づけないかというほどの表情でしかなかった。

「糞ッ! 俺はこの天使を殺すところだったのか。絶望で死なせてしまうところだったのか。幸せと全能の力の問題が同時に解決したじゃないか。可能性というのは現状の科学によって引かれた境界線を常に越え続けるのだということを忘れていた。真実というものは大抵の場合、後で事実だとわかったとしても、初めのうちは妄想のように見えるのだということを忘れていた。俺はすべてを知っているつもりだったが、何一つ知らなかったのだ!」

 ロレンツァが神々しい微笑みを浮かべた。

「ロレンツァ、つまり造物主が男の肉体から女を生み出し、二人に一つの心だけを与えると言ったその謎めいたお告げが実現したんだな! エヴァは俺のために甦った。エヴァがものを考えるには俺が必要で、エヴァの人生は俺がつかんでいる紐にぶら下がっているんだ! 畜生、一人の人間には重すぎるぜ。恩恵の重みに押しつぶされてしまいそうだ」

 バルサモはひざまずいて、天使のように美しいロレンツァを敬うように抱きしめた。ロレンツァはこの世のものとは思われぬ微笑みを浮かべていた。

「もう何処へも行くんじゃないぞ。闇を貫くおまえの目の下でなら、俺は安心して生きて行ける。困難な研究もおまえが助けてくれる。いや、おまえが言ったように、それを完了させられるのはおまえしかいないんだ。ひとこと言ってくれるだけで、いとも容易く実りが生まれるはずだ。金を作れなければ、それは金が均質な物質で基本元素だからだと教えてくれるだろう。神が被造物からどんな領域を隠したのかを教えてくれるだろう。広い海の底に何百年も飲み込まれたままの宝が何処に眠っているのか教えてくれるだろう。おまえの目を借りれば、真珠貝の中で真珠が玉になるのを見ることが出来るし、人間の思考が肉体という泥の層の下で大きくなるのを見ることが出来る。おまえの耳を借りれば、ミミズが地面に掘っている穴の音も聞くことが出来るし、近づいて来る敵の足音を聞くことも出来る。俺は神のように偉大になり、神よりも幸福になれるんだ。天には神の友人や恋人はいないだろうし、いくら全能でも一人きりで、せっかく作った全能の力を、同じ力を持った仲間と分かち合うことも出来ないのだからな」

 ロレンツァは微笑みを絶やさぬまま、愛情に満ちた言葉を返した。

「それでも――」まるでバルサモの頭を覗いて、脳の神経が不安に震えているのを読み取ったように囁いた。「それでもやはり自信を持てないのね、アシャラ。あなたが言ったように、私たちの愛が一線を越えても、私から千里眼が失われないかどうかはわからない。でも私が駄目でもあの女がいると思って考え直したんでしょう」

「どの女のことだ?」

「金髪の女。名前を言った方がいいかしら?」

「ああ」

「待って……アンドレ」

「ああ、そうだ。確かに俺の考えを読んだようだな。最後に一つだけ気になっていることがある。おまえの目はどんな空間でも飛んで行けるのか? 物理的な障碍などは無いも同然なのか?」

「試して頂戴」

「手を貸せ」

 ロレンツァはバルサモの手を力強く握り締めた。

「俺について来られるか?」

「何処へでも」

「来るんだ」

 バルサモは頭の中で、ロレンツァを連れてサン=クロード街を出た。

「ここが何処だかわかるか?」

「山の上です」

「正解だ」バルサモは喜びに震えていた。「何が見える?」

「前ですか? それとも左に? 右に?」

「前だ」

「森と村に挟まれた大きな谷が見えます。その真ん中を川が流れていて、大きな城館の城壁に沿って、地平線の向こうまで続いています」

「その通りだ。これはベジネの森と、サン=ジェルマンの村と、メゾン城だ。中に入るぞ。真後ろの棟から入ろう」

「入りました」

「何が見える?」

「控えの間に、おかしな恰好をした黒ん坊がいて、お菓子を食べています」

「それはザモールだ。先に進もう」

「立派な家具のある広間です。誰もいません。戸口の上には女神とキューピッドが象られています」

「誰もいないんだな?」

「ええ」

「よし、どんどん進むぞ」

「ご婦人の寝室です。青い繻子と瑞々しい色の花で飾られています」

「ここも空か?」

「いいえ、ご婦人が長椅子に横たわっています」

「誰だ?」

「待って下さい」

「以前に見た覚えはないのか?」

「いえ、デュ・バリー伯爵夫人でした」

「そうだそうだ。わくわくして来たぞ。何をしているところだ?」

「あなたのことを考えています」

「俺のこと?」

「はい」

「すると、伯爵夫人の考えを読めるのか?」

「はい。あなたのことを考えていると申し上げました」

「どんなことを考えているんだ?」

「あなたが約束なさったことです」

「うむ。具体的には?」

「ウェヌスがサッポーに復讐するためパオンに与えた、あの美の水を約束なさいました」

「そうだ、まったくその通りだ。それで、考えながら何をしている?」

「決心しました」

「何を?」

「待って下さい。呼び鈴に手を伸ばしました。呼び鈴を鳴らすと、別のご婦人が現れました」

「茶髪か? 金髪か?」

「茶髪です」

「背は高いか? 低いか?」

「小柄です」

「伯爵夫人の姉妹きょうだいだ。これから話すことを聞き逃すなよ」

「馬車に馬を繋ぐように言っています」

「行き先は?」

「ここです」

「間違いないか?」

「そう命じて、その通りにされました。馬と四輪馬車が見えます。二時間後にはここに来るはずです」

 バルサモがひざまずいた。

「二時間後に伯爵夫人が実際にここに来たとしたら、神よ、あなたに望むことなどもう何もない。俺の幸せを憐れんでくれるだけでいい」

「可哀相に。怖がっていたのね?」

「ああ、そうだ」

「何を恐れるというんですか? 愛は肉体的存在を完全にするだけでなく、精神的存在も成長させるんです。溢れる情熱にも等しい愛があれば、神に近づくことも出来るし、神の光を一身に浴びることだって出来るんです」

「ロレンツァ、おまえのおかげで嬉しくて気が狂ってしまいそうだ」

 バルサモはロレンツァの膝に頭を預けた。

 そうしてバルサモは、幸せに瑕一つないことを証明する新たな証拠を待ち続けた。

 新たな証拠とは、デュ・バリー夫人の来訪である。

 二時間はあっという間だった。時間の感覚はすっかり失われていた。

 不意にロレンツァが震え、バルサモの手を握った。

「まだ疑っているのね。伯爵夫人が何処にいるか知りたいんでしょう?」

「ああ。その通りだ」

「大通りを全速力で駆けているところ。こっちに来ている。サン=クロード街に入って、門の前で停まり、戸を叩いています」

 二人が閉じ籠もっていた部屋は音の届かない奥にあったので、銅のノッカーで敲く音が聞こえるはずもなかった。

 それでもバルサモは身体を起こし、じっと聞き耳を立てていた。

 フリッツが二度、飛び跳ねた。覚えておいでだろうか、二度というのは重要な訪問者が来たという合図だ。

「本当だったのか!」

「確認して来るといいわ、バルサモ。でもすぐに戻っていらして」

 バルサモが暖炉に駆け寄った。

「階段口までお見送りさせて頂戴」

「来るんだ」

 二人は毛皮の部屋を通り過ぎた。

「この部屋から離れるつもりはないな?」

「はい。あなたを待っています。心配しないで。今の私はあなたを愛しているロレンツァ。あなたを恐れている私とは別人です。何なら……」

 ロレンツァは口を閉じて微笑んだ。

「何だ?」

「私とは違って、あなたには私の魂が見えないのでしょう?」

「もちろんだ」

「何なら、戻って来るまで眠るよう命じて下さい。長椅子の上でじっとしているよう命じてくれたら、眠りに就いてじっとしています」

「いいだろう。眠れ、ロレンツァ。戻るまで待っていろ」

 ロレンツァは睡魔に襲われながらも、もう一度バルサモと口づけを交わし、ふらふらとしながら長椅子に向かい、ひっくり返るようにして倒れ込んだ。

「後でね、バルサモ、また後で」

 バルサモが手を挙げたが、ロレンツァは既に眠っていた。

 それにしても何と美しく純粋なのだろう。はだけた長い髪、かすかに開いた口唇、火照ったように赤らんだ頬、何処か遠くを眺めているような瞳――人間の女とは思えぬほどのその姿を見て、バルサモはロレンツァのそばに引き返し、手を取って腕や首筋に口づけをしたが、敢えて口唇には触れずにいた。

 再び二度の合図が鳴った。伯爵夫人が苛立っているのか、バルサモに聞こえていないのかとフリッツが心配したのか。

 バルサモは戸口に急いだ。

 扉を閉めた際、前にも聞いたきしきしとした音が聞こえた気がしたので、扉を開けて確かめたが、何も見えなかった。

 ロレンツァが横になり、愛の重さに喘いでいるだけだ。

 バルサモは扉を閉めて応接室に急いだ。何の不安も恐れも予感もなく、心は楽園のように満ち足りていた。

 だがバルサモは間違っていた。ロレンツァの胸を押しつぶし、喘がせていたのは、愛などではなかった。

 それは死と隣り合わせの昏睡に陥っているせいで見たと思しき、夢のようなものであった。

 ロレンツァは夢を見ていた。不吉な考えを映した醜い鏡の奥で、翳り始めた闇の真ん中に、木楢の天井が丸く開くのが見えたような気がした。大きな薔薇窓のようなものが外れて、無駄なくゆっくりと静かに、軋るような音を立てて降りていた。その丸い物体に押しつぶされそうな気がして、だんだんと息苦しさを感じていた。

 ついにその揚戸の上に、『テンペスト』のキャリバンのような形を為さないものが動いているのが見えた。人の顔――老人の顔――をした怪物で、目と腕だけが生きているようだった。その恐ろしい目でロレンツァを見つめ、痩せ細った腕を伸ばして来た。

 ロレンツァは身をよじったがどうすることも出来なかった。逃げることも能わず、どのような危険が迫っているのか察することも出来なかった。感じることが出来たのは、二本のかすがいが生き物のように自分を締めつけ、その先端が白い部屋着をつかみ、長椅子から引き剥がして揚戸に乗せたことだけだった。やがて揚戸はゆっくりと上昇を始め、鉄と鉄が擦れる悲痛な軋みを立ててゆっくりと天井に戻って行った。ぞっとするような甲高い笑い声が、人間の顔をした怪物の醜い口から洩れた。そのまま揺れも痛みもないまま、天井に運ばれて行った。

『ジョゼフ・バルサモ』 128

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百二十八章 葛藤

 バルサモは痛ましい思いを胸にして立ち止まった。

 感じていたのは痛ましさである。もはや激しさは失せていた。

 アルトタスと修羅場を演じたことで、恐らくは人間界の無常に気づき、怒りは何処かに追いやられてしまったのだ。哲学者のしきたりに倣って、ギリシアのアルファベットを最後まで暗誦しようとした。黒い髪をしたアキレウスの巫女の神託を聞く準備だ。

 それから、ロレンツァが横たわっている長椅子の前で、しばし心を静めて無言の瞑想をおこなった。

「こういうことだ。悲しいことだが態度を決めて現状とはっきり向き合わなくては。ロレンツァは俺を憎んでいる。俺を裏切ると脅して、言葉どおりに裏切った。俺の秘密はこの女の手に委ねられて、風に乗せてばらまかれちまった。まるで虎挟みに掛かった狐だな。肉と皮を残して骨だけ引き抜いたはいいが、翌朝には狩人に『狐はこの辺りにいるな。生きているか死んでいるか、一つ確かめるとしよう』と言われるのが落ちか。

「絶体絶命だな。アルトタスには理解できないだろうと思ったから、話しはしなかったが、この国の希望は粉々に砕け散ってしまう。この世の魂であるフランスの希望は、ここに眠っている女、甘い笑顔をした彫像のように美しいこの女に懸かっているんだ。俺はこの黒い天使のせいで屈辱や破滅に見舞われ、いつか逮捕、亡命、死という目に遭うに違いない。

「要するに――」とバルサモは吹っ切れたように呟いた。「損得を勘定すれば、ロレンツァは有害なのだ。

「ああ蛇よ、巻かれたとぐろは優雅だが、それで人を絞め殺すことも出来るのだ。喉は黄金色に輝こうとも、そこには毒が詰まっているのだ。だから、頼むから眠っていてくれ、目を覚まされると殺さなくてはならなくなるんだ!」

 バルサモは薄笑いを浮かべてゆっくりとロレンツァに近づいて行った。すると、向日葵や朝顔が朝の陽射しに顔を向けて花開くように、愁いを帯びた目がバルサモの動きを追った。

「糞ッ! だがこの目を永久に閉じなければならんのだ。今こうして愛おしげに俺を見つめているこの目を。愛しさが消えると同時に炎が燃え上がるこの美しい目を」

 ロレンツァは嫋やかに微笑み、真珠のように美しく滑らかな歯を見せた。

「だが――」と、バルサモは身をよじらせた。「俺を憎んでいるこの女を殺すということは、俺を愛している女も殺してしまうことになるんだぞ!」

 胸のうちでは深い悲しみと形にならない願望が奇妙に混じり合っていた。

「いや、無理だ。誓ったのも無駄だった。脅してみても無意味だった。駄目だ、俺には殺せない。この女はこれからも生きていくんだ。ただし目を覚まさずに眠ったままで。だがそんな作り物の人生を生きてゆく方が、ロレンツァにとっては幸せなはずなんだ。さもなくば絶望が待っているのだから。俺にならロレンツァを幸せに出来るんだ! 重要なのはそれだけだ……これからのロレンツァは一つのためだけに生きてゆく……俺の手になる存在として、俺を愛している存在として、今この瞬間に生きている通りの存在として」

 バルサモはロレンツァの愛しげな眼差しに優しい目を向け、ゆっくりと頭に手を置いた。

 すると、ロレンツァは本を読むようにバルサモの考えを読んだらしく、深い息を吐いて静かに身体を起こし、気だるげな仕種で白く滑らかな腕をバルサモの肩に伸ばした。香しい呼気が口唇のそばをかすめた。

「駄目だ! 駄目だ駄目だ駄目だ!」バルサモは顔を覆った。額は焼けつくように熱く、目は眩んだように回っていた。「無理だ、こんな風に魅入られたような状態でいては身の破滅だ。とてもじゃないが抵抗できない。こんな誘惑者、こんなセイレーンと一緒にいては、栄光も権力も不死の力も手に入れ損ねてしまう。やはり、ロレンツァの目を覚ますよりほかはない」

 無我夢中で押しやると、ロレンツァは影のようにヴェールをはためかせて、雪の一片のように長椅子に倒れ込んだ。

 手練れの悪女でも、恋人の目を引くために、これ以上に効果的な姿勢を選んだりはしなかっただろう。

 バルサモはそのままさらに離れることも出来た。だがオルフェウスのように振り返り、オルフェウスのように罠に嵌ってしまった!

「だが目覚めさせれば、また争いが始まるのは目に見えている。目が覚めればまた死のうとするか、俺を殺そうとするか、俺に殺させようとするに違いない。

「底なしじゃないか!

「この女の運命はもう決まっている。火で書かれた文字が読めるようだよ。死と愛か!……ロレンツァ! ロレンツァ! おまえに定められているのは愛することと死ぬことなんだ。ロレンツァ! 俺はこの手におまえの命と愛をつかんでみせる!」

 答える代わりにロレンツァは立ち上がり、バルサモのところまでまっすぐ近づいてひざまずき、催眠と快楽に溺れた目を向けた。そしてバルサモの手を取り胸に当てた。

「死を!」珊瑚のようにつやつやと湿った口唇から、低い声が洩れた。「死を、ではなく愛を!」

 バルサモはぎょっとして後じさり、頭を仰け反らせて、手で目を覆った。

 ロレンツァはひざまずいたまま、喘ぎを洩らして後を追った。

「死を!」うっとりするような声で繰り返した。「ではなく愛を! 愛を! 愛を!」

 それ以上は我慢できなかった。バルサモの心が炎に包まれた。

「もう充分だ。人間の歴史と同じくらい長い間、俺は戦って来た。おまえが未来において悪魔なのか天使なのかは知らん。だがどちらであってもおまえはそれを受け入れなくてはならないんだ。俺はもう長いこと、この身体のうちに渦巻いている熱い熱い情熱を、利己心や誇りのために犠牲にして来たんだ。畜生! そんな馬鹿な話があるか。心の奥で醸されるただの人間らしい感情に、どうして抗わなくちゃいけないんだ。俺はこの女を愛している。愛しているんだ。それなのに、この俺の激しい愛が、この世で一番の憎しみ以上にひどい結果を生むなんて。愛のせいでこの女を殺すのか。臆病者め! 俺は気違いだ。欲望と折り合いをつけることも出来ないのか。俺がいつか神の御許に向かうことになっても――詐欺師でもあり偽予言者でもある俺が、至高の審判者の前で欺瞞と偽善のマントを脱ぐ時が来ても、俺には告白すべき寛大な行いの一つもないし、永遠の苦しみを和らげてくれるような楽しい思い出の一つすらないのか!

「駄目だ、ロレンツァ。おまえを愛せば破滅することはよくわかっている。この女をこの腕に抱いた途端に、告発の天使が天まで報せに行くのはよくわかっている。

「だがロレンツァよ、おまえはそれを望むのか!」

「ああ、あなた!」とロレンツァが息を吐いた。

「ではおまえは、本当の人生を捨てて、作り物の人生を受け入れるのか?」

「ひざまずいてお願いします。この人生を、この愛を、この幸せを与えて下さい」

「俺の妻になればそれが叶うんだぞ? 何物にも増しておまえを愛しているのだから」

「わかっています。あなたの心を読みましたから」

「今後は人を前にしても神を前にしても、自分の意思や心を裏切って俺を告発するようなことは二度とないな?」

「二度とありません! それどころか人の前でも神の前でも、愛を与えてくれたことに感謝し続けます。あなたの愛こそこの世で唯一の幸せ、唯一の真珠、唯一のダイヤですから」

「自分の翼で決めたことだ、悔いはないな、白鳩よ? かつて予言者たちの顔を照らした黙示の光を探しに、エホバのおわす、輝きに満ちた場所に行くことも二度とないのだぞ。俺が未来を知りたがったり、人を操ったりする時にも、畜生! もはやおまえの声が答えることもないんだぞ。これまでのおまえは俺の最愛の女であると同時に守護天使でもあった。これからはその一つきりになるんだ、それに……」

「信じてないのね! 信じてないんでしょう! 心に疑いがあるのが、黒い染みのようになって見えるもの」

「いつまでも俺のことを愛してくれるか?」

「ずっといつまでも!」

 バルサモは額に手を当てた。

「いいだろう。だが……」

 しばし考え込む。

「だが、この女でなくては駄目なのか? 替えの利かない人間なのか? この女を選べば俺は幸せになれるだろうし、別の女を選べば富と力を手にすることが出来るだろう。アンドレもおまえと同じく神に選ばれた千里眼なのだからな。アンドレは若く、清らかで、男を知らない。俺はアンドレを愛してない。それでもアンドレは眠っている間は、おまえと同じように従順なのだ。アンドレはいつでもおまえの代わりに犠牲に出来る。俺にとってアンドレとは、医者の実験台のようなもので、あらゆる経験に活かすことが出来るだろう。アンドレなら遠くまで、もしかするとおまえよりも遠くまで、未知の闇の奥まで飛んで行ける。アンドレ! 俺の王国のためにお前を手に入れておこう。ロレンツァ、この腕の中に入れ。俺の妻として恋人として守ってやる。アンドレといれば俺は無敵。ロレンツァといれば俺は幸せだ。たった今この時より、俺の人生は完璧なものとなるのだ。不死ならずとも、アルトタスの夢を実現し、不死ならずとも、神と等しくなったのだ!」

 そしてロレンツァを起こして腕を広げると、ロレンツァはその胸の中に飛び込み、二人は木に絡まる蔦のようにしっかりと抱き合った。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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