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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 136

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百三十六章 国王たちの記憶

 リシュリューが約束通り果敢にも国王陛下の目の前に進み出たため、ド・コンデ氏が国王のシャツを引っ張った。

 国王は元帥を見て慌ててそっぽを向いたのでシャツが落ちそうになり、ド・コンデ公は驚いて後じさった。

「済まぬな」ルイ十五世が声をかけ、急に動いたのは公のせいではないと伝えた。

 だからリシュリューとしては、国王の怒りは自分に向けられているのだとはっきりと悟った。

 だがそもそも怒りを引き出そうと思ってやって来たのだし、いよいよとなれば真剣に話し合うために、フォントノワ時代のように豹変して部屋への退路を塞ぐつもりだった。

 国王はもう元帥には見向きもせず、寛いだ様子で会話を再開した。着替えをして、マルリーに狩りに行く計画を立て、コンデ公と長々と話し合った。コンデ家の人間は評判の狩猟家だったのだ。

 ルイ十五世が慌てたように話をやめた。

「まだいたのかね、ド・リシュリュー殿?」

「恐れ入りますがその通りです」

「そうするとヴェルサイユを離れぬのか?」

「四十年来、ほかならぬ陛下のためにヴェルサイユを離れたことを除けば、ほとんど離れたことはありませぬ」

 国王は元帥の目の前で立ち止まった。

「何か言いたいことでもあるのかね?」

「老生が?」リシュリューがにんまりとした。「いったい何を?」

「余を追いかけ回しているではないか! すっかり気づいておるのだぞ。違うか?」

「愛と敬意を込めてその通りです。ありがとうございます、陛下」

「聞こえぬふりなどしおって。ちゃんとわかっておるのだろう。よいか、元帥殿、こちらにはそなたに言うことなど一つもない」

「一つも、でございますか?」

「一つとしてない」

 リシュリューは無関心を装った。

「陛下、常日頃から変わらぬ思いを抱いておる老生にとって、魂と良心にかけて、陛下に対するひたむきな思いには私利私欲などございません。重要なのは、この四十年というもの陛下にはそのようにしてお話しして来たということです。どれだけ嫉妬深い人間であっても、陛下がこれまでに老生に何かをお許し下さったことがあったとは言いますまい。幸いなことにその点では世評も定まっておりましょう」

「公爵、用件があるのなら言いなさい。ただしさっさとすることだ」

「要望など一切ありませんし、現在のところは陛下にお願いするのを差し控えさせて……」

「何の話だね?」

「陛下に感謝をお伝えしたい者が……」

「誰のことだ?」

「陛下に大変な恩義のある方です」

「つまり誰なのだ?」

「陛下が輝かしい栄誉をお与えになった人間でして……さいですな、陛下と食卓を共にする栄誉を賜ったり、同席者としてこのうえない陛下の洗練された会話や魅力的な明るさを味わったりした者は、そのことを決して忘れませぬし、瞬く間にそうした幸せに慣れてしまうものでございます」

「おべっかは結構、ド・リシュリュー殿」

「陛下……」

「要するに誰のことを話しておるのだ?」

「友人のタヴェルネのことでございます」

「友人だと?」国王が声をあげた。

「はあ」

「タヴェルネか!」国王が恐怖の声をあげたので、公爵はひどく驚いてしまった。

「どうなさいました、陛下! 昔からの同僚で……」

 そこでいったん言葉を切り、

「共にヴィラールで軍役に就いておりましたが」

 そこで再び言葉を切った。

「ご存じの通り世間では友人という言葉を、知り合いであるだとか敵ではないという意味合いで使っておりまして。これといって裏のない型通りの言葉でございます」

「危険な言葉、ではないかな、公爵」国王は辛辣だった。「慎重に用いた方がよい言葉だ」

「陛下のお言葉ありがたく拝聴いたしました。改めましてド・タヴェルネ殿は……」

「ド・タヴェルネ殿は不道徳な人間だ」

「貴族の名誉にかけて、老生もかねがねそう思っておりました」

「気遣いに欠けた人間だ」

「気遣いにつきましては意見を申し上げるのを控えさせていただきます。知らないことは請け合えませぬゆえ」

「ほう! 友人であり同僚でありヴィラールの同胞であり、今から余に引き合わせようとしている男のことを、請け合えぬと申すか。よく知っておるのだろう?」

「それはもちろんです。ですが気遣いについては存じませぬ。シュリーは高祖アンリ四世に対して、緑の服を着た熱が出て行くのを見たと申しました。老生といたしましても、恐れながらタヴェルネの気遣いがどんな服を着ているのかは存じ上げません」

「すると余が言わねばなるまいな。鼻つまみ者が鼻持ちならない役を演じたわけだ」

「陛下が仰るというのでしたら……」

「そうだ、余が言おう!」

「陛下にそう仰っていただけますとこちらも気が楽になります。はっきり申し上げますと、タヴェルネは気遣いなど持ち合わせておりませぬし、そのことは老生もよく存じております。ですが陛下がご意見を明らかになさるほどでは……」

「結論を言おう。余はあの男が嫌いなのだ」

「判決は為されましたな。しかしあの男にとっては幸いなことに、力強い味方が陛下のおそばにおりますからな」

「何のことだね?」

「生憎なことに父親が国王に疎まれたとしても……」

「ひどく嫌っておる」

「否定はいたしません」

「だから何の話をしておるのだ?」

「青い目と金色の髪をした天使の話でございます……」

「わからんな、公爵」

「そうかもしれませんな」

「わからぬとはいえ、理解したいのだがね」

「老生のような俗人は、愛しさと美しさの謎を秘めているヴェールの裾をめくろうと考えただけで震えてしまいます。しかしながら国王の怒りを和らげるのに、タヴェルネがその天使にどれだけのおかげを蒙っているでしょうか! さよう、アンドレ嬢は天使にほかなりませぬ!」

「父親が精神上の怪物であるなら、アンドレ嬢は肉体上の怪物だ!」

「はてさて!」リシュリューは呆れかえった声を出した。「わしらはすっかり勘違いしておったようですな。あの美しい見た目が……」

「あの女子おなごの話はよしてくれ、公爵。考えただけで怖気が立つ」

 リシュリューは同情したようなふりをして手を合わせた。

「まさか! あんな姿形の娘が……王国一の観察眼をお持ちで、無謬を体現されている陛下が仰ったことでなければ、信じられますまい……あの見た目が偽りであると?」

「それどころではない。病気の発作……恐ろしい……罠だ、公爵。神に誓って、そなたは余を殺すところであったのだぞ」

「もう口を開きますまい。陛下を殺してしまうとは! 恐ろしい! 何という一家なのだ! あの青年も気の毒に!」

「今度は誰の話をしておるのだ?」

「忠実にして献身的な偽りなき陛下の奉仕者のことです。言うなればあれこそ臣下の鑑、陛下もそう判断なさいました。今回こそは陛下の寵愛も裏切られはなさいませんでした」

「だから誰の話をしておるのだ? さっさと言いなさい。焦れったい」

「申し上げているのは――」リシュリューは落ち着いて答えた。「タヴェルネの息子であり、アンドレ嬢の兄のことです。フィリップ・ド・タヴェルネ、陛下が聯隊をお任せになった勇敢な若者の話をしております」

「余が聯隊を任せただと?」

「左様です。フィリップ・ド・タヴェルネが待ちわび、陛下がお任せになった聯隊のことでございます」

「余が?」

「そう思っておりますが」

「馬鹿を言うな!」

「はて?」

「そんなもの一切任せてはおらぬ」

「まことですか?」

「どうしてそんな話を持ち出したのだ?」

「しかし陛下……」

「そなたに関係があるのか?」

「まったくありません」

「ではそんな厄介ごとの山で余を火あぶりにしようとでも思ったのか?」

「何を仰います! どうやら――老生が間違っていたようですが――陛下が約束なさったとばかり思っておりましたもので……」

「余には関係ない。そもそも陸軍大臣がおるのだぞ。聯隊を任せたりはせぬ……聯隊を任せるだと! たいした法螺を吹き込まれたものだな! そなたはそのひよっこの辯護人なのか? 余に話すのは間違いであったと言われた時には、血が煮えくり返る思いがしたぞ」

「陛下!」

「煮えくり返ったのだ。たとい悪魔が辯護人であろうと、一日たりとも我慢するつもりはない」

 そう言うと、国王は公爵に背中を向け、腹を立てて小部屋に引っ込んだ。残されたリシュリューは、言うべき言葉が見つからないほどにしょげ込んでいた。

「まあ、これでどうすべきかわかったわい」

 動揺のあまり汗まみれになっていたのを手巾で拭うと、じりじりしながら友人が待ちわびている一隅に歩いて行った。

 元帥の姿を見つけると、男爵は獲物を襲う蜘蛛のように、最新の報せを目がけて駆け出した。

 目を輝かせ、口を尖らせ、腕を組んで、たずねた。

「何か報せは?」

「報せはある」リシュリューは口に蔑みを浮かべ、馬鹿にしたように胸飾りをつついて、胸を張った。「二度とわしに話しかけないでもらいたい」

 タヴェルネが唖然として公爵を見つめた。

「貴殿は国王から嫌われておる。国王に嫌われおる人間は御免蒙りたい」

 タヴェルネは足が大理石に根づいてしまったかのように、呆然として立ちつくしていた。

 だがリシュリューはそのまま歩き続けた。

 やがて鏡の間の出口まで来ると、待っていた召使いに声をかけ、姿を消した。

「リュシエンヌに!」

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『ジョゼフ・バルサモ』 135

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百三十五章 再び地に落ちる次第

 ド・リシュリュー公爵はヴェルサイユにある自宅の寝室にいた。バニラ入りのチョコレートを飲みながら、ラフテ氏から会計についての報告を聞いていた。

 とは言うものの秘書が伝える正確な数字にはなおざりな注意しか払わず、鏡に映った自分の顔を遠くから見つめるのに忙しかった。

 不意に短靴の鳴る音が聞こえた。控えの間を誰かが訪れたのだ。公爵はチョコレートの残りを急いで飲み干して気がかりな様子で戸口を見つめた。

 ド・リシュリュー氏には年老いた悪女のように、誰にも邪魔されたくない時間があるのだ。

 召使いがド・タヴェルネ氏の来訪を告げた。

 公爵としては別の日に出直してくれとか、せめて別の時間に改めて訪問してくれないかと言い訳するつもりであった。ところがそうする間もなく、開いた扉から矍鑠とした老人が部屋に飛び込んで来た。そうして元帥を指さしながら、大きな安楽椅子に駆け寄り腰を沈めると、椅子はその重さというよりもその衝撃に呻きをあげた。

 リシュリューはそれをホフマンの作品に出て来る奇怪な人間のように見つめた。椅子が大きく軋み、大きな溜息が洩れるのを聞いて、リシュリューは男爵に向き直った。

「やあ男爵、何か新しい報せでも? 随分と辛そうだな。まるで死人のようではないか」

「辛い? 辛いじゃと!」

「はてさて? 嬉しくて息をついているようには見えんぞ」

 男爵は元帥を見つめた。ラフテがいる間は溜息の理由を説明せぬぞ、とでも言いたげだった。

 ラフテは背中を向けたままそれを理解した。主人同様よく鏡を覗き込んでいたからだ。

 そこでラフテはさり気なく退出した。

 男爵はそれを目で追って、扉が閉まるのを確認した。

「辛いとは言わんでくれ、公爵。不安なのだ。死ぬほど不安なのだ」

「ほほう!」

「せいぜいとぼけなされ」タヴェルネが手を擦り合わせた。「もう丸一月近く、曖昧な言葉でごまかしてわしを引きずり回しておるな。ある時は『国王にお会い出来なかった』、ある時は『国王が会って下さらなかった』、ある時は『国王はご機嫌斜めだ』。いい加減にせんか! それが旧友に対する返答か? たかが一月とはいえ、永遠のように感じておるのだぞ」

 リシュリューは肩をすくめた。

「何をどう言えば満足なのだ、男爵?」

「真実に決まっておろう」

「おいおい、わしが伝えたのは真実じゃぞ。貴殿の耳に入れるのは真実だ。信じたくないのならそれで構わんがな」

「ふん、公爵にして大貴族、フランス元帥、部屋付き侍従のあなたが、国王にお会い出来ないと言ってわしを騙すおつもりか? 毎朝起床の儀に参加しているあなたが? 馬鹿馬鹿しい!」

「事実そうなのだから繰り返すしかあるまい。たとい信じられなくとも、事実なのだ。三週間前からは昼にならぬとお部屋に入れぬ。公爵にして大貴族、フランス元帥にして部屋付き侍従のこのわしがな!」

「国王があなたと口を利かぬと言うつもりか?」タヴェルネが口を挟んだ。「あなたが国王と口を利かぬと? そんな嘘が信じられるか!」

「さすがに無礼が過ぎぬか、男爵。四十年のつきあいも無視して、そんな汚い言葉で罵倒するとはの」

「だが口惜しいのだ、公爵よ」

「何を言うか。口惜しいだと。わしだって口惜しいわい」

「あなたが?」

「当然だ。あの日からというもの、国王はわしのことを見ようともしてくれん! 陛下はわしに背中を向けたままじゃ! 気持ちよく笑ってもらえるに違いないと思うたびに、恐ろしく顔をしかめて返事が返って来るのだぞ! わざわざ愚弄されるためにヴェルサイユに行くのはうんざりだわい! どうしろと言うのだ?」

 タヴェルネは言い返されている間中、ぎりぎりと爪を咬んでいた。

「わしにはわからん」ようやくそう答えた。

「わしもだよ、男爵」

「実際のところ、あなたがやきもきするのを国王は楽しんでいる、と見てよいのだろうな。要するに……」

「うむ、わしが言っているのはそういうことだ。要するにな!……」

「そうなると公爵、わしらはこうした窮状から抜け出さなくてはならぬぞ。すべてに説明がついて丸く収まるような上手いやり方を考え出さなくてはならん」

「男爵、男爵」リシュリュー。「国王に説明を求めるのは危険だ」

「そうであろうか?」

「うむ。話しても構わぬか?」

「頼む」

「どうにも解せぬことがあってな」

「何のことかな?」男爵がたずねた。

「ふん、怒っておるな」

「それも当然、ではないかな」

「では話すのをやめよう」

「いやいや、話は続けよう。だが説明してくれ」

「貴殿は説明が好きだのう。いやまったく、気違いじみておるぞ。気をつけんとな」

「嫌なお人じゃな、公爵。わしらの計画が支障を来し、どういうわけか停滞しているというのに、あなたと来たら『待て』と忠告するのだからな!」

「停滞だと?」

「まずはこれだ」

「手紙か?」

「うむ、わしの伜からじゃ」

「ほう、聯隊長殿か!」

「たいした聯隊長だわい!」

「ふん、何かあるのか?」

「こういうことじゃ。これも一か月ほど前から、国王が約束された辞令をフィリップはランスで待っておるのだが、とんと音沙汰がない。ところが聯隊は二日後には出発するという始末じゃよ」

「何と! 聯隊が出発すると?」

「うむ、行き先はストラスブールじゃ。つまりフィリップが二日後に辞令を受け取れぬ場合は……」

「うむ?」

「二日後にもフィリップはここにいることになるじゃろう」

「なるほどな。忘れられておるのか。新しい大臣を任命する時のように、普通ならばすっかりお膳立てされておるはずじゃからのう。わしが大臣であったなら、とっくに辞令を出しておるのだがな!」

「ふん!」タヴェルネは吐き捨てた。

「何じゃ?」

「一言だって信用できんわ」

「ほう?」

「あなたが大臣だったとしたら、フィリップを追放しておったであろうに」

「おい!」

「そして父親もな」

「おいおい!」

「そして妹はさらに遠くにやらされてしまうわけじゃ」

「貴殿と話をするのは面白いのう、タヴェルネ。極めて頭がよい。しかしそういう話はやめにしようではないか」

「わしは自分のために善処を請うているのではない。息子のために話をやめるわけにはいかぬのだ。今の地位では耐え難い。公爵、国王に会わなくてはならん」

「わしには会うことしか出来ぬと言ったはずだ」

「話がしたい」

「国王が話を拒めば話すことなど出来ぬ」

「そこを無理にでも」

「わしは教皇ではないのだぞ」

「のう、わしは娘と話をするつもりだ。すべてにおいて疑わしい点があるのでな、公爵殿」

 この言葉が魔法のように効いた。

 リシュリューはタヴェルネのことをしっかりと調べていた。若い頃の友人だったラ・ファル氏やド・ノセ氏のように奸智に長けた人物であり、それは今も衰えていないことはわかっていた。それ故、父と娘が手を組むことを恐れていた。失脚をもたらしかねない未知のものを恐れていたのである。

「まあ怒るでない。もう一つやってみようと思っておることがあるのだが、口実がないのでな」リシュリューは答えた。

「口実ならあるではないか」

「何?」

「違うか?」

「何のことだ?」

「国王が約束なさった」

「誰に?」

「わしの伜に。その約束を……」

「ふむ?」

「思い出してもらえばよい」

「搦め手じゃな。手紙はあるのか?」

「うむ」

「見せてくれ」

 タヴェルネは上着のポケットから手紙を取り出し、大胆且つ慎重に、公爵に手渡した。

「火と水じゃな」リシュリューが言った。「人が見たら気が違ったと思われるじゃろうが。それでも乗りかかった船じゃ、もう後には引けん」

 呼び鈴を鳴らした。

「着替えの用意と、馬を繋いでくれ」

 それからタヴェルネに向かって落ち着かなげにたずねた。

「着替えを手伝ってくれるおつもりかな、男爵?」

 そのつもりだと答えれば友人の機嫌を損ねるのはタヴェルネにもわかった。

「いや、無理じゃな。ちょっと町まで行かねばならんのでな。何処かで落ち合えんかな」

「では宮殿で」

「では宮殿で」

「重要なのは貴殿も陛下にお会いすることじゃぞ」

「そうかね?」タヴェルネが喜色を浮かべた。

「絶対にだ。わしの言葉が正しいことを貴殿が自分で確かめてみればよいではないか」

「もとよりそのつもりだ。まあなんだ、あなたがそこまで言うのなら……」

「そこまで思っておるのか?」

「無論だ」男爵は即答した。

「では鏡の間で、十一時に。わしは陛下のお部屋にお邪魔することにする」

「心得た。ではまた」

「恨みっこなしじゃぞ、男爵」リシュリューは飽くまでも、相手の力がはっきりする瞬間までは、敵に回そうとはしなかった。

 タヴェルネは馬車に戻ることにして、一人物思いに耽りながら延々と庭を歩いた。リシュリューは召使いの手を借りてあっさりと若作りをした。著名なマオンの勝者がそうした重要な作業を終えるのには二時間もかからなかった。

 しかしながら、タヴェルネ男爵が悩んでいたのはわずかな時間だった。やきもきしながら見張っていると、十一時ちょうどに元帥の馬車が宮殿の石段前に停まり、リシュリューに向かって宮殿の士官たちが挨拶し、取次たちが迎え入れた。

 タヴェルネの心臓は激しく脈打っていた。散策をやめ、はやる心の許す限りゆっくり落ち着いて、鏡の間に向かった。そこには寵愛の薄い廷臣たちや、請願書を持った士官たちや、野心を抱いた貧乏貴族たちが、彫像のように立ちつくしていた。つやつやに磨き上げられた床は、運命に焦がれるモデルたちにぴったりの台座であった。

 タヴェルネは人混みの中で途方に暮れて溜息をついたが、元帥が国王の部屋から出て来ると、周りを気にしながら隅に近寄って行った。

「何たることだ!」田舎貴族や汚れた羽根飾りを除けながら、歯の隙間から声を洩らした。「一か月前には陛下と差し向かいで夜食を取っていたというのに!」

 顰めた眉には哀れなアンドレを恥じ入らせるようなおぞましい疑いが浮かんでいた。

『ジョゼフ・バルサモ』 134

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百三十四章 人と神

 これまでお伝えして来た恐ろしい光景がバルサモと五人の親方の間で繰り広げられている間も、家のほかの部屋には見たところ何一つ変化はなかった。一つだけ変わったところといえば、バルサモが部屋に戻ってロレンツァの死体を運び出すのを見たアルトタスが、こうした新たな動きに触発され、周りで起こっていたことを思い出して正気を取り戻したことだった。

 バルサモが肩に死体を担いで階下に降りて行くのを見て、これが最後だ、老いた心を打ち砕いた男ともこれで永久にお別れだ、と思い込んだ。取り残された老人を恐怖が捕らえた。アルトタスにとって、それも不死にすべてを捧げて来たとあっては、常人以上に死ぬのが恐ろしかった。

 バルサモが何をしに行ったのかも何処に向かったのかもわからなかったが、とにかく声をあげて叫んだ。

「アシャラ! アシャラ!」

 幼名を呼べば、素直だった頃のように従順になるのではないかと期待して。

 だがバルサモは降り続けた。下に降りても揚戸を戻そうともせず、廊下の奥に姿を消した。

「糞ッ! 所詮こんな男だわい。無知で恥知らずの畜生め。戻って来い、アシャラ! 戻って来い! そちは女という馬鹿げたものより、儂のような完璧な人間の方を選ぶであろうな! 永遠の生命の欠片を選ぶであろうな!

「馬鹿馬鹿しい!」すぐに声を荒げた。「あのチンピラは師匠を裏切り、儂の信頼をもてあそんだのじゃ。儂が長生きするのを見て、科学の分野で儂に追い越されるのを見るのが怖かったのじゃろう。完成間近だった研究成果を受け継ぎたがって、儂を罠に嵌めたではないか。師匠であり恩人であるこの儂を。アシャラよ!……」

 徐々に老人の怒りに火がつき、頬に熱気が戻って来た。閉じかけていた目にも暗い光が戻り、悪戯小僧が頭蓋骨の眼窩に塗りつけた燐光のような輝きを放った。

 アルトタスは再び声をあげた。

「戻って来い、アシャラ! 用心するがいい。儂が火を呼び起こしあの世の精霊を呼び出す呪文を知っているのはそちも承知しておろう。儂は司祭たちにフェゴールと呼ばれていたガド山の悪魔を呼び出し、闇に沈んだ深淵に押し込められていた悪魔が姿を現したのじゃ。神の怒りを担う七人の天使と口を利いたこともある。モーセが律法の石板を授かったあの山の上でじゃぞ。トラヤヌスがユダヤ人から奪った七つの燭を持つ三脚を、意思の力だけで燃え上がらせたこともある。用心するがいい、アシャラよ、今に見ておれ!」

 だが答えはなかった。

 アルトタスの意識がだんだんと混濁して来た。

「馬鹿め、そちにはわからぬのか」絞り出すように声をあげた。「そこらの人間と同じように死神が儂を捕らえに来るのだぞ。いいか、戻って来ても構わぬ、アシャラ。悪いようにはせん。戻って来い! 火を呼び起こしたりはせぬ。邪悪な精霊や復讐の七天使を恐れんでもよい。復讐は諦めよう。それでもそちを恐怖に陥れ、理性を奪い去り大理石のように凍えさせることは出来る。儂には血の巡りを止めることが出来るからの。アシャラ。戻って来い。ひどいことをするつもりはない。それどころか幾らでもそちの役に立てるのだぞ……アシャラよ、見捨てんでくれ。儂の命を見守ってくれ。儂の財産も秘密もすべてそちのものじゃ。それを伝えるまでは、生き長らえさせてくれ、アシャラ。頼む!……アシャラ、頼む!……」

 アルトタスは震える指を上げ、部屋にある幾つもの品物や書類や巻物を目顔で示した。

 そうして少しずつ抜け出してゆく体力をかき集めながら、耳をそばだてて待った。

「そうか、戻っては来ぬのか。儂がこのまま死ぬと思っておるのか? 見殺しにすればすべて手に入ると思っておるのか? 儂が死んだら殺したのはそちじゃぞ。糞ッ垂れめ、儂にしか読めぬ覚書を読めたとしても、一生と引き替えにして二百年三百年をかけて儂の科学を精霊から学ぶことが出来たとしても、儂が集めた材料をどう用いればよいかはわからぬぞ。何度でも言おう。絶対にわからぬ。そちには引き継ぐことは出来ぬ。考え直せ、アシャラ。アシャラ、戻って来い。戻って来てこの家が滅びるのを見るがいい、そちのために素晴らしい光景を用意しておくから見とれるがいい。アシャラ! アシャラ! アシャラ!」

 答えはなかった。その頃バルサモは親方マスターたちの告発に応えて、殺害されたロレンツァの死体を放り出していたのだ。見捨てられた老人の叫び声は徐々に高まり、絶望に増幅されて、しわがれた咆吼が廊下にまで轟き、恐怖が遠くまで伝わって来た。それはあたかも虎が鎖を千切り檻の柵を曲げて吠えているようだった。

「そうか、戻っては来ぬのか! 見捨てるのだな! 死にかけているから都合がいいというわけか! よかろう、見ているがいい。火事じゃぞ、火事じゃ、火事じゃ!」

 客たちを追い払うことに成功したバルサモは、アルトタスの憤怒の叫びをはっきりと耳にして、苦しみの淵で目を覚ました。ロレンツァの死体を抱え直すと階段を上り、二時間前には催眠術で寝かせていた長椅子に今は亡骸を横たえ、昇降台に上がると、前触れもなくアルトタスの目の前に姿を表した。

「ほほっ! やはりな」老人の声は喜びに酔いしれていた。「不安になったのじゃろう! 儂が自分の片くらいつけられるのはわかっておろうからな。確かにやって来たな。やって来るのが正解じゃった。もうちょっと遅ければ、この部屋に火をつけていたところだわい」

 バルサモは肩をすくめてアルトタスを見つめたが、一言も口を利こうとはしなかった。

「喉が渇いた」アルトタスが叫んだ。「喉が渇いたぞ! 水をくれ、アシャラ」

 バルサモは口も開かず、動きもしなかった。死にかけた老人の断末魔の苦しみを目に焼きつけておこうとでもするように、じっと見つめているだけだった。

「聞いておるのか?」アルトタスが吠えた。

 鬱々としたバルサモからは答えも反応もないままだった。

「聞いておるのか、アシャラ?」アルトタスは怒りを吐き出すために、最後の力を振り絞って喉を開いて怒鳴り散らした。「水じゃ、水をくれ!」

 アルトタスの顔が見る見るうちに苦痛に歪んだ。

 目にはもはや炎はなく、邪悪でおぞましい光があるだけだった。肌の下にはもはや血の気もなく、身体も動かず、息さえほとんどしていなかった。長く筋張った腕は、先ほどまではロレンツァを赤子のように軽々と抱え上げていたというのに、持ち上げようとしても動かず、ポリプの触手ようにふわふわと揺れるだけであった。絶望に駆られて束の間甦っていた力も、怒ったせいで使い果たしてしまった。

「は、は! そう簡単にはくたばらんぞ。は! 干涸らびさせて死なせるつもりなのであろう! 儂の研究、儂の宝を物欲しそうに見つめおって! はん! もう手に入れたつもりなのじゃろう! ふん、待っておれ!」

 アルトタスは力を振り絞って、椅子に敷いてあった座布団の下からガラス壜を取り出し、栓を抜いた。空気に触れると、液体が炎となって壜から流れ出し、アルトタスの周りを魔法のように取り巻いた。

 途端に、椅子のそばに積み上げられていた研究成果や、部屋に散らばっている書籍、クフ王のピラミッドやヘルクラネウムの遺跡から苦労して盗んで来た巻物が、火薬に着火したように瞬く間に燃え上がった。火は大理石の床にまで届き、ダンテが語った地獄の火の輪のようにバルサモの面前で揺らめいた。

 アルトタスとしてはこうした貴重な財産と共に滅ぶつもりであったので、バルサモがそれを救おうとして炎に飛び込むものと考えていたのだろう。だがそうはならなかった。バルサモは慌てる素振りも見せずに、炎が届かぬように昇降台の上でじっとしていた。

 炎がアルトタスを包み込んだ。だが老人は怯えたりはせずに、むしろ本来の元素に還ることを受け入れているようであった。それはあたかも古い城館のペディメントに刻まれたサラマンダーが、炎によって焼かれるのではなく愛しまれているかのように見えた。

 バルサモはアルトタスを見つめ続けていた。炎は板張りにまで達し、老人を完全に包み込んでいる。炎は楢で出来た椅子の脚を舐め、とうに下半身に喰らいついているというのに、どういうわけか老人は何も感じていないようだった。

 それどころか炎が浄化装置の役目を果たしたらしく、炎に炙られて筋肉が徐々にほぐれ、得も言われぬ安らぎが仮面のように顔中に貼りついていた。最後の瞬間になって肉体から離れた老予言者は、火の戦車の上で天に昇る準備をしているように見えた。全能の老人の心は最後の瞬間になって物質界のことなど忘れ捨て、もう何も期待する必要はないのだと悟り、炎に連れ去られるようにして至高の世界を真っ直ぐに目指した。

 それまでは炎に照らされてこの世に舞い戻ろうとしているように見えたアルトタスの目も、その瞬間から虚ろな目つきになって彷徨い、天でも地でもなく地平線を射抜こうとしているように見えた。穏やかなまま醜態も見せず、あらゆる感覚を分析しあらゆる苦しみに身体を預け、この世に別れを告げでもするように、力と生と希望に向かってひっそりと声を洩らした。

「よいか、儂は後悔しておらぬぞ。儂は地上のすべてを手に入れた。すべての知識を身につけた。神から人間に与えられたことで出来ないことはなかった。もうすぐ不死になれるところであった」

 バルサモがくつくつと笑い出した。その嘲るような笑い声を聞いて、老人ははっと我に返った。

 するとアルトタスはヴェールのように覆っている炎の向こうから、威厳と憤怒に満ちた目つきで睨みつけた。

「うむ、そちが正しい。儂に予想できなかったことがある。それは、神の存在じゃ」

 その激しい言葉に魂を引っぺがされたように、アルトタスは椅子に倒れ込んだ。神から掠め取ろうとしていた最期の呼気を、今ようやく神に返したのだ。

 バルサモがため息をついた。アルトタスという第二のツァラトゥストラが死の床に選んだ貴重な薪から逃れようともせずに、ロレンツァのそばに足を降ろして揚戸のバネを動かし、元通り天井に戻しておいた。そうしておけば燃えさかる猛火も目に触れることはない。

 炎は一晩中頭上で嵐のように唸っていたが、バルサモは火を消そうとも逃げようともせず、危険も顧みずにロレンツァの冷たい死体から離れずにいた。だが炎の勢いも続かなかった。すべてを貪り尽くして立派な装飾を煉瓦の穹窿を裸にしてしまうと、炎は勢いを失った。アルトタスの声にも似た咆吼が最後に洩れると、それもやがて衰えて呻き声に変わり、臨終の溜息を吐くのが聞こえた。

『ジョゼフ・バルサモ』 133

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百三十三章 裁判

 フリッツは正しかった。サン=クロード街にやって来た来客たちの態度は、もはや平和的でも友好的でもなかった。

 五人の馬丁が馬車を護衛しており、横柄で陰気な顔つきをした五人の使用人が完全武装して、閉じた門を見張っていた。そうやって主人たちを待っているようだ。

 馬車に坐った御者と二人の従僕は、外套の下に狩猟用ナイフと小銃を携えている。このように、サン=クロード街に現れた者たちは総じて訪問というよりは探検に赴いたような気配を漂わせていた。

 かかる恐ろしき人々が夜中に押しかけて来たのを見て、フリッツはただならぬ恐怖に襲われた。小窓から護衛の姿を目にして武装していると気づいた時には、全員を追い返そうとした。だが絶対的な合図、抗えぬ権利の証拠を見せられては、もはや異議を唱えることは出来なかった。主人たちが部屋に向かうと、使用人たちは熟練した軍人のように戸口を固め、敵意を隠そうともしなかった。

 中庭や通路を従者もどきに占拠され、応接室を主人もどきに陣取られて、フリッツとしては悪い予感しかしなかった。呼び鈴を乱暴に鳴らしたのにはこうした理由があった。

 バルサモは驚きもせず何の心積もりも持たずに応接室に足を踏み入れた。訪問者たちに失礼のないようにと、フリッツによって部屋には然るべく明かりが入れられていた。

 バルサモが姿を見せても五人とも立ち上がらず椅子に腰を下ろしたままだ。

 この家の主人であるバルサモは、五人を見回して丁寧にお辞儀をした。

 これに対して五人は顔を上げ、厳めしい挨拶を返しただけであった。

 バルサモは五人と向き合うように椅子に坐ったが、奇妙な椅子の並びには頓着しないのか、または気づいていないようだ。五つの椅子は半円形に並べられており、二人の補佐役を従えた裁判長がいた。これは昔の裁判と同じである。またバルサモの席は裁判長の正面に置かれており、これは議会や法廷で被告人が坐る位置だった。

 初めに口を切ったのはバルサモではなかった。別の状況ならばそうしていたであろうが、衝撃のあまり放心状態から抜け切れておらず、目には物が見えていなかったのだ。

「どうやらわかっておるようだな」裁判長が、言い換えるなら中央に坐している者が声をかけた。「ぐずぐずしておるから、探しに行くべきかどうか話し合っていたところであったぞ」

「俺にはわからない」とだけバルサモは答えた。

「こうして向かい合っているのは、被告人の立場と態度をわきまえているからだと思っておったが」

「被告人?」バルサモは呆然として呟き、肩をすくめた。

「俺にはわからんな」

「ではわからせて見せよう。難しいことではない。顔は青ざめ、目は翳り、声は震えているではないか……聞いているのか?」

「もちろん聞いているさ」つきまとっている幻影を振り払おうと、バルサモはぶるぶると首を振った。

「結社の大幹部の一人が裏切りを目論んでいることについて、先の通達によって最高議会が忠告を与えたことは覚えているな?」

「多分……ああ……違うとは言わない」

「その答えを聞く限りでは意識が混乱しておるようだな。正気になってもらわねばならん……倒れてもらうわけにはいかぬぞ。はっきりと答えてもらおう。状況は抜き差しならぬ。納得できるような明確な説明をしてもらおう。こちらは予断も敵意も持ってはおらぬ。我らは法なり。法律が口を利くのは判事が話を聞いてからだ」

 バルサモは答えなかった。

「繰り返す。バルサモ、こちらは一度忠告を与えた。拳闘士たちも殴り合う前には忠告を受け取るものだからだ。これから公正ではあるが容赦のない武器で告発をおこなう。弁明してみよ」

 バルサモが動揺も見せずに冷静でいるのを見て、四人は驚いて顔を見合わせたが、やがて裁判長に目を戻した。

「聞いているのか、バルサモ?」

 バルサモは肯定の印に首を振った。

「では誠実にして寛大なる同志の名に於いて、予め忠告し、尋問することをそれとなく知らせていたのは間違いないな。忠告を受け取った以上は心して聞くがよい。

「忠告を伝えると、結社は裏切り者として告発された人物の足取りを見張るために五人の会員をパリに放った。

「知っての通り、手に入れた情報が間違っていることはまずない。人々の中には忠実な諜報員が紛れておるし、物事の中には確実な証拠があるし、ほかの誰にもわからぬ自然界の複雑な神秘の中から徴候や兆しを読み取ることが出来るからだ。一人に貴下を幻視させ、間違っていないことが確かめられた。そこで警戒を怠らず、貴下を見張っておったのだ」

 バルサモは苛立ちどころか正気を保っているらしきところすら見せなかった。

「貴下のような人間を見張るのは容易ではなかった。何処にでも現れ、結社と敵対している人間の家や当局にも足を運ぶ。生まれついての豊かな才能は、目的達成のために結社が与えた助力より遙かに大きい。リシュリュー、デュ・バリー、ロアンといった敵たちが家を訪れるのを見て、長い間疑いを抱いておった。そのうえ、先日プラトリエール街で開かれた会議では巧みな逆説に満ちた演説をして、この世から一掃しなくてはならない類の人間に愛想を使い、交際しているように見えるのは、そういう役割を演じているのだと、信じさせようとした。目的がわからぬ間は尊重し、良い結果が出るものと期待しておったのだ。だが結局はそれも失望に終わった」

 相変わらず身動きもせず狼狽えもしないバルサモを見て、裁判長は苛立ちに襲われた。

「三日前、五通の封印状が発行された。ド・サルチーヌ氏が国王に請願したものだった。署名が済むとすぐに交付され、同日、パリに住む五人の忠実な諜報員の許に届けられた。五人は逮捕され、連行された。二人はバスチーユの奥深くに、二人はヴァンセンヌの地下牢に、一人はビセートルの劣悪な物置に収監された。こうした事情は知っておるか?」

「いいや」バルサモが答えた。

「貴下が王国の権力者と知り合いであることを考えれば、それは解せぬな。しかしさらに解せぬことがある」

 バルサモは続きを待った。

「ド・サルチーヌ氏は五人を逮捕させるに当たって、五人の名前を記した覚書を目の前に持っていたそうだ。その覚書は一七六九年の最高会議で貴下に手渡されたものであり、新しい会員を受け入れ、最高会議から承認された地位を五人に授けたのは、貴下自身ではなかったか」

 バルサモは記憶にないといった仕種をした。

「では思い出させて進ぜよう。五人には五つのアラビア文字が与えられた。この文字は貴下に手渡された覚書にある五人の名前と頭文字に一致する」

「そうかい」

「覚えはあるな?」

「好きなように考えてくれ」

 裁判長は四人に対し、この告白をよく覚えておくように目顔で告げた。

「ではこの覚書が一枚しかなく、また同志たちに危険をもたらしかねないものであることは承知のうえで、六番目の名前が記されていたことは覚えているか?」

 バルサモは答えなかった。

「その名は、ド・フェニックス伯爵!」

「なるほど」

「五人の名前が封印状に記されていたにもかかわらず、貴下の名前が宮廷や官廷で敬意を払われ、大事にされ、愛しまれているのはどういったわけだ? 監獄行きが五人に相応しいなら、貴下も同じではないか。何か言うことはあるか?」

「何も」

「ふん! 言い訳の見当はつく。名も無い同志には容赦がないが、大使や権力者の名前には敬意を払うのが警察のやり方だと言いたいのであろう。それどころか警察は疑いもしなかったと言うつもりであろう」

「何も言うつもりはない」

「名誉よりも自尊心を取るつもりか。最高会議が手渡した覚書を読まなければ知りようのない五人の名前を、警察がどのように知ったというのか……貴下が小箱に仕舞っておいたはずだ。そうであるな?

「先日、女が小箱を手に家から出て来た。目撃した見張りが尾行すると、たどり着いたのはフォーブール・サン=ジェルマンにある警視総監の邸であった。すべての元凶を差し押さえることも出来た。小箱を取り返し、女を捕まえれば、すべては平穏無事に治まったことであろう。だが我々は掟に従うことにした。会員の誰かが目的のために用いている独自の手段を尊重しなくてはならぬ。見たところその手段が裏切り行為や軽率な行動に見えたとしてもだ」

 バルサモはこれに同意したように見えたが、その仕種があまりに目立たなかったので、これまでにまったく動いていなかったという事実がなければ、誰もその動きには気づかないところだった。

「この女は警視総監のところに行き、小箱を手渡し、すべてが明るみに出た。そうだな?」

「完全にその通りだ」

 裁判長が立ち上がった。

「この女は何者であったか? 貴下に身も心も熱烈に捧げ、深く愛しているこの美しい女は? 才気に優れ狡猾でしなやかな闇の天使のように、男を助け悪事を成功に導くこの女は? ロレンツァ・フェリチアーニというのがその女だ、バルサモ!」

 バルサモは落胆に満ちた吠え声を聞き流した。

「納得したか?」

「結論を聞かせてくれ」

「まだ終わってはおらぬ。女が警視総監の邸に入ってから十五分後、今度は貴下が入って行った。女が裏切りの種を蒔き、貴下が報酬を刈りに来たのだ。女は従順な召使いとして罪を犯し、貴下が汚い仕事に手際よく最後の一仕上げを加えたのだ。ロレンツァは一人で出て来た。貴下は女を切り捨て、一緒に歩くような危険を冒したくなかったのであろう。貴下が出て来た時にはデュ・バリー夫人と一緒だった。自分を売り込もうとしている証拠を、本人の口から聞かせるために呼び出されたのであろう……貴下はこの娼婦の四輪馬車に乗り込んだ。罪人マグダラのマリアと船に乗り込んだ渡し守のように。我々を破滅させる覚書をド・サルチーヌ氏のところに残しておきながら、我々だけではなく自分を破滅させかねない小箱は持ち去った。ありがたいことにすべてお見通しだ! 神の光は然るべき時に我らと共にあるのだ……」

 バルサモは何も言わずに一揖した。

「結論を言おう。裏切者が二人いるという報告が結社に届いた。共犯者である女の方は、恐らくそうとは知らずに罪を犯したのであろうが、我らの秘密を暴露して計画に支障をもたらしたのは間違いない。次は親方マスターであり大コフタである貴下だ。輝かしい光という存在でありながら、裏切りが目立たぬように女の背後に隠れるような卑劣な行為をおこなった」

 バルサモは青ざめた顔をゆっくりと上げ、尋問が開始された時から胸に温めていた炎を瞳に燃やして一同を見据えた。

「女を告発する理由は?」

「かばうつもりなのであろうが、貴下が何よりもこの女を愛していることは承知している。この女こそ科学と幸福と運命の宝庫であり、何にも増して得難い触媒なのだということも承知している」

「お見通しというわけか?」

「その通りだ。貴下を攻撃するなら本人ではなくこの女を狙う方が効果的だということもわかっている」

「続けてくれ……」

 裁判長は立ち上がった。

「判決を申し渡す。ジョゼフ・バルサモは裏切りの罪を犯した。誓いに背いた。ただしその科学的知識は豊富であり、結社にとって役に立つ。バルサモは今後、裏切りを働いた計画に尽くすために生きるものとす。本人が如何に拒もうとも、同志たちから逃れることは出来ぬのだ」

「ふん!」バルサモは陰気に吐き捨てた。

「永久に拘束しておけば新たな裏切りから組織を守ることが出来るし、いろいろと役に立つことをバルサモから手に入れることも出来るであろう。会員の一人一人にそれを手にする権利があることは言うまでもない。ロレンツァ・フェリチアーニに関しては、厳しい罰を……」

「待ってくれ」バルサモの声はいつにも増して落ち着いていた。「俺がまだ辯護を始めちゃいないことを忘れてもらっちゃ困る。被告人には自分が正しいという主張を聞いてもらう権利があるはずだ……一言だけでいい。証拠は一つだけだ。ちょっと待っていてくれたら、俺が約束していた証拠を持って来よう」

 五人が相談を始めた。

「ふん! 自殺されやしないかと心配しているのか?」バルサモが馬鹿にしたように笑った。「そうするつもりならとっくにやっていたさ。この指輪を開ければ、あんたたち五人をそっくり殺すことだって出来るんだ。それとも逃げられるのを恐れているのか? だったらついてくればいい」

「行って来い!」裁判長が答えた。

 バルサモはしばらく姿を消した。やがて階段を降りる重たげな音が聞こえて、バルサモが戻って来た。

 肩に担いでいるのは、強張り冷え切って色を失ったロレンツァの死体だった。白い手が床にだらりと垂れ下がっている。

「これが俺の愛していた女だ。俺の宝だった女、唯一無二の俺の命。あんたらが言う通り、これが裏切りを働いた女さ。受け取るがいい! あんたらが罰するまでもない、神が裁いてくれたよ」

 そして稲妻の如き勢いで腕から死体を滑り落とし、判事たちの足許の絨毯まで転がした。冷たい髪と強張った手が、恐怖におののいていた五人に触れた。ランプの明かりの下で、白鳥のように白い首の真ん中に、おぞましい傷口がぱっくりと開いているのが見えた。

「さあ、判決を聞かせてくれ」

 判事たちは怯え切って悲鳴をあげ、目も眩むような恐怖に囚われて、恐慌を来して逃げ出そうとした。やがて馬がいななき、中庭を蹄で蹴る音が聞こえて来た。門の蝶番が唸りをあげ、やがて静寂が――冷え切った静寂が、死と絶望のそばに腰を下ろしに戻って来た。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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