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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 138

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百三十八章 ルイ医師

 アンドレが気絶した場所からほど近いところに、庭師助手が二人働いていた。二人はジルベールの声を聞いて駆けつけて来ると、ド・ジュシュー氏の指示に従ってアンドレを部屋まで運びあげた。それをジルベールは遠くから顔を伏せて追いかけていた。殺し屋が標的の死体につきまとうように、生気のない動かぬ身体を追いかけていた。

 使用人棟の玄関までたどり着くと、ド・ジュシュー氏は庭師たちを重荷から解放した。その時になってちょうどアンドレが目を開けた。

 騒ぎ声や慌ただしい様子を聞きつけてド・タヴェルネ男爵が部屋から出て来た。そこで目にしたのが娘の姿だった。まだふらついているものの、ド・ジュシュー氏の助けを借りて身体を起こして階段を上ろうとしている。

 男爵は駆け寄って国王と同じ質問をした。

「どうしたんだ?」

「何でもありません、お父様」アンドレが弱々しい声で答えた。「ただちょっと気分が悪くなって、頭痛がするだけです」

「あなたの娘さんでしたか?」ド・ジュシュー氏が男爵にお辞儀した。

「まあそうじゃな」

「でしたらこれほど安心なこともありませんね。ただし僭越ながら、医者にお見せした方がいい」

「そんな、大丈夫です!」アンドレが口を挟んだ。

 これにタヴェルネも同調した。

「もちろん大丈夫じゃとも」

「それに越したことはありませんが、お嬢さんは真っ青じゃありませんか」ド・ジュシュー氏が言った。

 それから石段までアンドレに手を貸すと、ド・ジュシュー氏はいとまを告げた。

 父と娘だけが残された。

 タヴェルネはアンドレのいない間に考える時間がたっぷりあったので、立ったままのアンドレの手を取って長椅子に坐らせてから、自分も隣に腰を下ろした。

「すみませんけれど、窓を開けていただけますか。苦しくて」

「実は大事な話があるのだが、こんな住まいではあちこち隙間風だらけじゃな。まあよい。小声で話せば済むことじゃ」

 そう言って男爵は窓を開けた。

 それからうなずきながら娘のそばに戻って腰を下ろした。

「話というのはほかでもない、最初こそあれほどわしらに関心を抱いて下さった国王が、こんなあばら屋にお前をほったらかしにしておいて、ご好意を見せてくれん」

「だってお父様、トリアノンには住むところがありませんもの。あんなところに住めるなんてとんでもありませんわ」

「ほかの場所にも住むところがなかったというわけか」タヴェルネが当てこすりを言った。「百歩譲って納得もして来たが、お前の為には譲るつもりはないぞ」

「お父様はわたくしのことを随分と評価して下さっていますけれど、ほかの方々から見ればそうではありませんもの」とアンドレは微笑みを浮かべた。

「何の、お前のことをちゃんとわかっている者たちなら、みんなわしと同意見じゃよ」

 アンドレは見ず知らずの人に向かってするようなお辞儀をした。というのも父から褒められて何処となく不安を感じ始めたのだ。

「しかもな……」タヴェルネはなおも優しい口調で続けた。「……国王はお前のことをちゃんとご存じなのじゃろう?」

 そう言いながらも、耐え難いほどに厳しい目つきをアンドレに向けていた。

「国王はわたくしのことなどほとんどご存じありませんわ」アンドレはごくさり気なく答えた。「国王にとってわたくしなど物の数ではありませんもの」

 それを聞いて男爵が飛び上がった。

「物の数ではないじゃと! お前の言っていることはさっぱりわからん。随分とまた自分を安く見積もっているようじゃの!」

 アンドレは驚いて父を見つめた。

「何度でも言ってやるぞ。謙虚にもほどがある。自分の価値というものをわかっておらん」

「大げさなことばかり仰って。国王はわたくしたち一家の窮状を気にして下さっているに過ぎませんわ。わたくしたちの為に幾つかのことをして下さいましたけれど、玉座の周りにはほかにも山ほど不幸があって、慈しみ深い国王の手から洩れているんですもの。今はご厚意を見せて下さっていてもいずれわたくしたちのことなど忘れてしまうに違いありません」

 タヴェルネは娘をじっと見つめて、度の過ぎた慎みにむしろ感嘆していた。

「よいか、アンドレ」と言って近づいた。「お前の父親はお前とその肩書きにとって一番最初の請願者になるつもりだ、拒絶はせんでくれよ」

 今度は見つめるのはアンドレの方だった。女らしい仕種で説明を求めた。

「お前頼みなんじゃ。わしらのために取りなしてくれ、家族のためになることをしてくれ」

「ですけど何がお望みですか? わたくしは何をすればよいのでしょうか?」アンドレの言葉からは混乱が窺えた。

「わしや兄のために何かする気はあるのか、ないのか? はっきりせい」

「やれと言われたことなら何でもいたします。ですけれど、あまりがっついているように思われるのはお嫌ではありませんか? 既に陛下は十万リーヴルもする宝石を下さいました。そのうえお兄様に聯隊を任せる約束をして下さいました。これほど多くのお恵みをかけていただいているのですもの」

 タヴェルネは哄笑を抑えることが出来なかった。

「つまり充分に報われていると思っておるのか?」

「お父様のご尽力のおかげだということは承知しております」

「何じゃと! そんな話を誰から聞いた?」タヴェルネが爆発した。

「そもそも何の話をしてらっしゃるのですか?」

「隠しごとをして遊んでいる場合か!」

「いったい何を隠しているというのです?」

「すべてお見通しじゃ!」

「お見通しですって……?」

「すべてをじゃ」

「何のすべてでしょうか?」

 慎ましい心に遠慮のない攻撃を受けて、アンドレの顔が赤らんだ。

 父としての我が子に対する敬意など、数々の疑問の前では急な坂道で足を止める如く止まっていた。

「まあよい! お前の好きなようにするがいい。静かにしておきたいというのなら、おかしな話だがそれでいい。父と兄をどん底にほっぽっておくというのならそれも結構。だがわしの言葉を覚えておくがいい。初めから帝国を持たざる者は、最後まで帝国を持てぬかもしれんのだ」

 タヴェルネはくるりと背を向けた。

「わたくしにはわかりません」とアンドレが答えた。

「構わん。わしにはわかっておるからの」

「話をしているのは二人なのに、それでは困ります」

「でははっきりさせよう。我が一族の美徳である、お前の持っている武器を余さず使えと言っておるのだ。そうすれば、機会さえ来れば家族とお前自身のために幸運を引き寄せられる。国王にお会いしたら真っ先に伝えてくれ。お前の兄が任命状を待ち望んでいること、それにお前が空気も景色も悪い住まいで打ち沈んでいることを。要するにだな、あまりに愛や無私を貫くような馬鹿なことはするな」

「でもお父様……」

「今夜からは、国王にそうお伝えしろ」

「いつ国王にお会いしろというのです?」

「それから忘れずに、わざわざお越しいただく必要はないと陛下に伝えてくれ……」

 恐らくタヴェルネは直截的な言葉を使うことで、アンドレの胸に群がりつつある嵐を呼び起こし、疑問を晴らしてくれるような説明を求めるつもりだった。ところがちょうどその時、階段に足音が聞こえた。

 男爵はすぐに口を閉じて手すりから訪問者を眺めた。

 アンドレが驚いたことに、父親は壁際にぴったりと身体を避けた。

 それと同時に王太子妃が、黒い服を着て長い杖を突いた男性を連れて部屋に入って着た。

「妃殿下!」アンドレが力を振り絞って王太子妃の前まで進み出た。

「そうよ、患者さん。お見舞いとお医者さんを連れて来ましたからね。こちらです、先生。まあ、ド・タヴェルネさん」王太子妃が男爵を見て言った。「お嬢さんはお加減が優れないようですが、お一人ではあまりお世話が出来ませんでしょう」

「妃殿下……」タヴェルネが口ごもった。

「さあ先生」王太子妃にしか出来ないような魅力的な心遣いを見せた。「わたしの患者さんの脈を取って、目の隈を調べて、症状を教えて下さい」

「そのようなご親切を……!」アンドレが口ごもった。「わたくしのような者がお受けすることなど……」

「こんなあばら屋で、と仰りたいの? こんなひどいところだったなんて申し訳ないわ。考えておきます。ですからルイ先生に手を見せて。大変よ、この人は何でも見抜く哲学者であるうえに、何でもお見通しの学者なんですから」

 アンドレは微笑んで医師に手を預けた。

 医師はまだ若かったが、その顔は王太子妃の信頼を窺わせる智的なものであり、部屋に入ってからはすぐに病人の様子を眺め、次いで部屋の様子を、さらには奇妙なことに不安ではなく不機嫌を浮かべている父親の顔を眺めていた。

 学者として調べようとしたが、哲学者としては既に見抜いていたのではないだろうか。

 ルイ医師はしばらく脈を診てから、アンドレに病状をたずねた。

「何を食べても受けつけないんです。それから突然の引きつけ、急な発熱に、痙攣、動悸、失神があります」

 アンドレの話を聴いて、医師の顔がだんだんと曇り出した。

 とうとう手を離し、目を逸らした。

「どうでしょうか、先生?」王太子妃がたずねた。「病状は如何でした? 危険な状態ですの? 死を宣告しなくてはなりませんの?」

 医師はアンドレに目を戻し、無言でもう一度診察をした。

「殿下、こちらのお嬢様の患いは特別なものではございません」

「深刻ではないの?」

「普通はそうでございます」医師は微笑んだ。

「そう、よかった」大公女はほっと息をついた。「あんまり辛い目に遭わせないであげてね」

「辛い目に遭わせることなど一切ございません」

「薬を飲ませたりしないの?」

「こちらのお嬢様には一切必要ございません」

「そうなの?」

「ええ」

「何も?」

「何もいりません」

 そう言うと医師は、それ以上の説明を避けるようにして、患者が待っていると言って大公女にいとまを告げた。

「先生、わたしを安心させるためだけにそんなことを仰っているのでしたら、わたしの方が具合が悪くなってしまいます。どうか今晩いらっしゃる時にはわたしがよく眠れるように、約束なさった糖衣ドラジェを忘れずにお持ちになって下さい」

「戻ったらこの手でご用意いたします」

 そう言って医師は立ち去った。

 王太子妃は朗読係のそばに残った。

「大丈夫ですからね、アンドレ」王太子妃は励ますような笑顔を見せた。「心配するようなものではないわ。ルイ先生が何も処方しなかったんですから」

「安心いたしました。妃殿下へのお仕えを休まなくて済みますもの。それだけが心配でございました。でもお医者の先生には悪いのですが、実を申しますと少し具合が悪いのです」

「でも医者を嘲笑うようなひどい病気の苦しみではないはずよ。ぐっすり眠ることです。あなたのお世話をする人を手配しておきます。一人きりですものね。お見送りいただけますか、ド・タヴェルネ殿」

 王太子妃はアンドレの手を取り、励ましをかけ約束してから立ち去った。

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『ジョゼフ・バルサモ』 137

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 引っ越しするのでたぶん一か月くらい更新できません。
 

第百三十七章 アンドレの失神

 タヴェルネが正気に戻って、災難の原因をじっくりと考えてみると、機会と大義が幾つもの警報を俎上にして深刻にぶつかり合っていたことに気づいた。

 そこでタヴェルネは、かんかんに怒ってアンドレの住まいに向かった。

 アンドレは身繕いを終えようとしていたところで、ふっくらとした腕を上げて頑固な髪を耳の後ろに留めようとしていた。

 控えの間に父親の足音が聞こえると、腕に本を抱えて戸口を跨いだ。

「ご機嫌よう、アンドレ。出かけるのかね?」

「はい、お父様」

「一人か?」

「ご覧の通りです」

「まだ一人なのだな?」

「ニコルがいなくなってから、小間使いを使っておりませんから」

「それでは着替えも出来まい。それはいかんぞ。そんななりでは宮廷で出世できん。それはそれとして話したいことがあったのじゃが」

「申し訳ありませんがお父様、王太子妃がお待ちですので」

「悪いがの、アンドレ」タヴェルネは話しているうちに昂奮して来た。「そんな質素ななりでは、笑われるのが落ちじゃぞ」

「お父様……」

「何処であれ笑いものにされるのは死の宣告に等しいが、宮廷ではなおのことだ」

「覚悟はしております。ですが現時点では質素な身なりであれすぐにおそばに駆けつける方が妃殿下もお喜びになると思っております」

「では出かけるがよい。お許しが出たらすぐに戻って来てくれ。重大な話がある」

「わかりました、お父様」

 アンドレはそう言って先を急ごうとした。

 男爵はそれをまじまじと見つめていた。

「待ちなさい。そんななりで出かけてはならぬ。紅を忘れておるぞ。ひどく真っ青ではないか」

「そうでしょうか?」アンドレが立ち止まった。

「鏡を見てもそうは思わんか? 頬は蝋のように真っ白で、目には隈が出来ておる。そのまま出かけては、人を驚かせてしまうぞ」

「ですがやり直している時間はありません、お父様」

「何てことだ!」タヴェルネは肩をすくめた。「世の中はこんな女ばかりで、それがわしの娘と来ておる! まったくひどいこともあったもんじゃ! アンドレ! アンドレ!」

 だがアンドレはとっくに階段の下まで行っていた。

 アンドレが振り返った。

「せめて具合が悪いのだと言ってくれぬか。めかし込む気はなくとも、自分のことを気に掛けてくれ」

「そういうことでしたら簡単です。嘘をつく必要もありませんわ。実際に気分が優れないんですもの」

「左様か」男爵が唸った。「問題はそれだけだ……具合が悪いのだな!」

 それから歯の隙間から絞り出した。

「まったく澄まし屋どもと来たら!」

 男爵は娘の部屋に戻り、懸命になって自分の憶測が正しいことを確かめようとした。

 その間にもアンドレは広場を横切り花壇に沿って歩き続けた。時折り顔を上げて、空気をもっと貪るように吸い込もうとした。新鮮な花の香りが脳に染み入り五感のすべてを揺るがしていたのだ。

 こうして太陽の下で眩暈を起こして何処かにつかまりたいと感じ、経験したことのない辛さと戦いながら、アンドレはトリアノンの控えの間までたどり着いた。王太子妃の小部屋の前に立っているド・ノアイユ夫人の一言で、アンドレはたちまち理解した――とっくに時間は過ぎ、待たせてしまったのだ。

 大公女公認のフランス語教師である×××修道院長が妃殿下と朝食の席に着いていた。王太子妃は親しい間柄の人々をよくこうして招いていたのだ。

 修道院長はバター入りのパンの出来に舌鼓を打っていた。ドイツ製の食器が綺麗に積み上げられた横には、クリーム入りコーヒーが置かれてある。

 修道院長は朗読ではなく、情報屋や外交官のところで仕入れてきたウィーンの現状を王太子妃に話していた。この時代には政治は屋外でおこなわれていた。屋外というのは穴蔵に隠してある大法官府の最高機密と同じくらい安全なのである。パレ=ロワイヤルの貴族たちやヴェルサイユの植え込みの陰から見抜いたりでっちあげたりした報せが内閣に報告されるのも、この時代には稀ではなかった。

 なかでも修道院長はつい先日起こった小麦高騰に絡む密かな暴動について話をしていた。「暴動」という言葉が用いられた。大きく買い占めていた五人をド・サルチーヌ氏が迅速に逮捕してバスチーユに送ったという。

 アンドレが入って来た。王太子妃もここ何日かは気まぐれと頭痛に悩まされていた。修道院長もそれが気になっていた。会話が弾んでいる最中にアンドレが本を手にやって来ると、王太子妃の機嫌が悪くなった。

 そこで王太子妃は朗読係に速やかに出て行くように命じ、朗読のようなことには何よりも頃合いというものがあるのだと言い添えた。

 アンドレはそうした非難に恐縮しつつ、それ以上に不当な思いを感じながらも、口答え一つしなかった。父に引き留められたために遅くなったうえに、体調が悪くてゆっくりとしか歩けなかった、と言い訳することも出来たのだが。

 だが何も言わずに狼狽えて慌てて頭を下げると、死んだようになって目を閉じてぐらりと身体を傾けた。

 ド・ノアイユ夫人がいなければ倒れていたところだ。

「お行儀がなっておりませんね!」とエチケット夫人が呟いた。

 アンドレから答えはない。

「具合が悪いのではなくて?」王太子妃が立ち上がってアンドレに駆け寄ろうとした。

「大丈夫です」慌てて答えたアンドレの目には涙が浮かんでいた。「具合は悪くありません。いえ、よくなりましたから」

「でも顔色が手巾のように真っ白じゃありませんか。公爵夫人もご覧なさいな。わたしが悪かったわ、叱ったりして。どうかお坐りなさい」

「妃殿下……」

「命令ですよ!……修道院長、その折りたたみ椅子を譲って差し上げて」

 アンドレは腰を下ろした。王太子妃の気遣いのおかげで、少しずつ頭も落ち着き頬にも色合いが戻って来た。

「では本を読んで下さるかしら?」

「ええ、もちろんです。どうかお願いします」

 アンドレは昨日の続きから本を開き、出来る限り聞き取りやすく耳に快い声を出そうとした。

 だが二、三ページほど目を通したところで目の前を小さな黒点が飛び回り、渦を巻いて震え出したので文字が見えなくなってしまった。

 再び顔が土気色になり、嫌な感じの汗が胸元から額にまで滲んで来て、男爵が厭ったような黒い隈がどんどん目元に広がっていた。アンドレが堪えているのを見て、王太子妃が顔を上げた。

「まただわ!……公爵夫人、この子はやっぱり具合が悪いのよ。気を失っているじゃないの」

 王太子妃は気付け薬を朗読係に吸い込ませた。アンドレが意識を取り戻し、本を拾おうとしたが上手くいかなかった。手の震えがしばらく止まらなかったのだ。

「やはりアンドレは体調が悪いようね、公爵夫人」王太子妃が言った。「ここに引き留めてはさらに具合が悪くなってしまうわ」

「では直ちにお部屋に戻っていただきましょう」

「あらどうして?」

「恐らくこれは――」夫人は恭しく答えた。「天然痘の徴候でございますから」

「天然痘?」

「そうです、失神、人事不省、震え」

 修道院長はド・ノアイユ夫人から指摘され、天然痘を移されてはかなわないと思い、椅子から立ち上がったが、誰もがアンドレの様子を気に掛けていたので、爪先立って密かに逃げ出しても誰一人それには気づかなかった。

 アンドレは王太子妃の腕に抱かれるような恰好になっていることに気づいて、畏れ多くも大公女にそんな迷惑を掛けていると思うと申し訳なくなり、そのために力が――いやむしろ勇気が――湧いて来た。そこでアンドレは窓辺に近寄り深呼吸をした。

「そんなんじゃなく、外の空気を吸った方がいいわ」と王太子妃が言った。「お部屋に戻りなさい、ついて行ってあげますから」

「とんでもございません。もうすっかり良くなりました。席を外すお許しをいただけるのでしたら、一人で戻れます」

「わかったわ、お大事にね。もう叱ったりはしません。これほど繊細な方だとは知らなかったものですから」

 アンドレはまるで姉妹のような心遣いに感激し、王太子妃の手に口づけして部屋を出た。王太子妃がそれを心配そうに見守っていた。

 アンドレが階段の下まで行くと、王太子妃が窓から大きく声をかけた。

「すぐに戻らずに花壇を少し散歩なさい。陽に当たれば良くなりますよ」

「何てお優しいんでしょう!」アンドレは呟いた。

「それから修道院長に戻って来てもらって頂戴。あそこのオランダ・チューリップの花壇で植物学の講義をしているわ」

 アンドレは修道院長に会いに、行き先を変えて道を曲がり、花壇を横切った。

 アンドレは下を向いて歩いていた。朝から続く眩暈のせいで今もまだ頭が重い。花の咲いた生け垣や並木道の上を驚いて飛び回る鳥たちにも、タイムやリラの上でぶんぶんと羽根を鳴らす蜜蜂にも、まったく意識が向かなかった。

 だから少し離れたところで二人の男が話をしていて、そのうちの一人が戸惑い顔で心配そうにアンドレを見つめていることにも気づかなかった。

 二人はジルベールとド・ジュシュー氏であった。

 ジルベールは鋤に凭れて著名な師匠の話に耳を傾けていた。草状の植物に水をやるに当たって、地面に水を溜めずに染み込ませるやり方を説明している最中だった。

 ジルベールはその説明を真剣に聴いているようだし、ド・ジュシュー氏の方でもこうした技術に興味を持つのは当然のものだと思っていた。というのも、教室に坐っている生徒の前で同じ話をすれば拍手が巻き起こるような内容であったのだ。哀れな庭師の青年にとって、教材を目の前にして偉大な教師に教えを受けることほどの幸運はあるまい。

「いいかい、ここには大きく分けて四種類の土壌がある」とド・ジュシュー氏が説明していた。「私ならこの四種類をさらに細かく十に分けられる。だが見習いの庭師が見分けるのは難しいだろうね。いずれにしても栽培人は土を知らなくてはならないし、庭師は植物を知らなくてはならない。わかるね、ジルベール?」

「はい、わかります」そう答えたジルベールの目は一点に釘付けで、口は半開きだった。アンドレを見つめていたのだ。それでも態度を変えたりはしなかったので、ずっとアンドレを目で追っていても、上の空で講義を聴いて空返事をしているとは気づかれずに済んだ。

「土を知るには――」ド・ジュシュー氏はジルベールが脇見している間も話し続けた。「簀の子に土を乗せて、そっと水を注ぐといい。土で濾された水が簀の子の下から出て来たら、水を舐めてみなさい。しょっぱいか、苦いか、水っぽいか、育てたい植物の性質に合った成分の香りがするのか。あなたがお世話になっていたルソーさんが言っていたように、自然界のものはどんなものでも似たもの同士や同じもの同士が引かれ合うものだからね」

「大変だ!」ジルベールが腕を前に伸ばした。

「どうしたね?」

「気絶してしまいました!」

「誰のことだ? 大丈夫かい?」

「あの人です!」

「あの人?」

「ええ、ご婦人です」ジルベールは必死で伝えた。

 ド・ジュシュー氏が指の先に目をやりジルベールから視線を外さなければ、言葉はもちろん怯えて青ざめた表情から何もかもばれてしまっていたことだろう。

 だが指さす方向に顔を向けて、ド・ジュシュー氏もアンドレを見つけた。熊垂の並木道の向こうからのろのろと歩いて来て、並木道までたどり着くと腰掛けに倒れ込み、そのまま動かなくなってしまった。最後まで残っていた意識の欠片が消え失せてしまったかのようだった。

 ちょうどその時はいつも国王が王太子妃を訪問する時間帯だった。国王がグラン・トリアノンからプチ・トリアノンに向かおうとして、果樹園から姿を現した。

 つまり陛下は突然現れたのである。

 早なりの桃を手にわがままな国王は、フランスの幸福のためには国王自身がこの桃を味わうよりは王太子妃が味わった方がよいと言えるのだろうか、と自問していた。

 ド・ジュシュー氏がアンドレの方に慌てて駆け出すのを見ても、目の悪い国王には事情がよくわからなかったが、押し殺したようなジルベールの叫びを聞いて足を早めた。

「どうしたんだ?」ルイ十五世は道を挟んだ反対側に来ていた。

「陛下!」アンドレを抱きかかえたド・ジュシュー氏が声をあげた。

「陛下!」アンドレは囁いて気を失った。

「それは誰だね?」国王がたずねた。「ご婦人だな? 何が起こったのだ?」

「気絶なさったのです」

「何と!」

「意識を失っています」ド・ジュシュー氏はぐったりとしたアンドレを、改めて腰掛けに横たえ直した。

 国王はそばに寄ってアンドレに気づき、悲鳴をあげた。

「またか!……恐ろしい。それほど具合が悪いなら部屋に籠もってなくてはならん。しょっちゅうみんなの前でこんな風に気を失っているとは言語道断だ」

 ルイ十五世はきびすを返してぶつぶつと文句を垂れながらプチ・トリアノンに向かった。

 ド・ジュシュー氏はそれまでのことを知らなかったので、しばらくぽかんとしていたが、ふと振り返ってジルベールがすぐそばで不安そうにしているのに気づいた。

「来てくれ、ジルベール。君なら力があるからド・タヴェルネ嬢を部屋まで運んでくれるかな」

「僕がですか!」ジルベールは震え出した。「僕が手を触れて運ぶんですか? いけません、そんなの絶対に許してくれません。絶対に出来ません!」

 ジルベールはその場から逃げ出し、助けを呼びに行った。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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