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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 140-1

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百四十章 帰還

 ド・リシュリュー氏はフィリップの扱い方を心得ていたし、自分が戻って来たことをわざわざ知らせることも出来た。事実その朝ヴェルサイユを出てリュシエンヌに向かう際に、トリアノンに通ずる中通りで、フィリップの顔に悲しみと不安の徴候が浮かんでいるのに気づくほど近くをすれ違っていた。

 フィリップがランスで忘れ去られていたのは事実だ。寵愛、無関心、忘却のすべてを経験したのだ。初めこそ昇進を羨む将校たちから友情の印を受け取ったり上官たちからさえ好意を見せられることに戸惑っていた。やがて寵愛が失われて輝かしい未来が吹き払われるにつれ、友好的な態度が冷やかな態度に変わり、好意が拒絶に変わるのを見るのに疲れていた。繊細な魂の内部では、苦しみが無念という形を取っていた。

 王太子妃のフランス入国時にストラスブールで任務に就いていた上官のことが懐かしかった。友人たち、同輩たち、仲間たちが恋しかった。とりわけ父親の邸の静かでこざっぱりとした部屋が懐かしかった。そばの暖炉ではラ・ブリが大司教だった。どれだけ苦しくても精神活動を休止し、沈黙と忘却の中に慰めを求めていた。人も物も朽ち果てた人里離れたタヴェルネにいれば、力強く話しかける内省的な声に耳を傾けていられた。

 だが何よりも残念なのは、妹の手を借りられないことだ。経験ではなく自尊心によって生み出された妹の助言が、間違っていたことはほとんどなかった。というのも気高い魂の持ち主というのは実に見事な考えを持っており、意図せずともごく自然に下世話なものの考え方を飛び越え、その気高さ故に汚名や痛手や罠を避けることが出来た。これが下層階級の抜け目のない虫けらたちになると、いつまで経っても泥沼の中で遠回りをしたり企みを練ったりうじうじ考えたりして、上手く避けることが出来るとは限らないものなのだ。

 ひとたびいとわしく感じてしまえば瞬く間に心が折れて孤独に苛まれ、アンドレのことしか考えたくなくなっていた。アンドレというフィリップの半身はヴェルサイユで幸せでいられたかもしれないが、フィリップというアンドレの半身はランスでひどい苦しみに苛まれていた。

 そこでフィリップは前述した手紙を男爵にしたため、今度戻る旨を伝えた。これを聞いても誰も驚かなかったし、もちろん男爵も驚かなかった。むしろフィリップがここまで我慢していたことに驚いていた。焼けた炭に乗っかったような状態のまま、この二週間というもの、リシュリューに会うたびに手続きを早めてくれるよう懇願していたのだ。

 約束の日になっても任命状が届かなかったために、フィリップは将校たちに休暇を願い出た。見たところ嘲笑や揶揄を浮かべている気配は見られなかったが、そもそも当時のフランス人は礼儀正しく軽蔑を隠す術を心得ていたし、さり気なく敬意でくるむのが親切な男いうものであった。

 そういうわけだから、期待よりもむしろ不安を感じながら任命状の到着を待っていたが、出発しようと決めていた時間になると、馬に乗ってパリへの帰途についた。

 旅にかかったのは三日間であったが、フィリップには死ぬほどの長さに思われた。パリに近づけば近づくほど、父親からの連絡がないことや、最低でも週に二回は手紙を書くと約束していた妹からも連絡がないことに、どんどん不安を掻き立てられていった。

 こうして前述の通りフィリップはド・リシュリュー氏と入れ違いに、昼頃にヴェルサイユに到着していたのである。ムラン(Melun)では数時間しか眠らずに、夜の間も先を急いでいたからだ。だがあまりにも不安に心を奪われていたため、馬車に乗っていたド・リシュリュー氏に気づかなかったし、その従者にも気づかなかった。

 フィリップは出立の日にアンドレと別れの言葉を交わした庭園の柵に向かって真っ直ぐ進んでいた。あの時のアンドレは、悲しむような理由など何もなくそれどころか一家の幸福の絶頂だというのに、何ともつかない悲しみの気色を頭の中に立ち昇らせていたのだった。

 あの日、フィリップはアンドレが苦しんでいるのを見て何も考えずに説得されてしまった。だが徐々に落ち着きを取り戻して呪縛から解き放たれてみると、はっきりした理由があるわけでもないのに、あの日のものと同じ予感に導かれるようにして同じ場所に戻って来ていたが、これといった理由もないのに、予感にも似た抑えがたい悲しみの原因になりそうな事情を想像することことさえ出来ずにいた。

 馬が大きな音と火花を立てて砂利道に足を入れると、その音を聞きつけてか、並木道の奥から人が出て来た。

 鉈鎌を手にしたジルベールだった。

 ジルベールはすぐにかつての主人に気がついた。

 フィリップの方でもジルベールに気づいた。

 ジルベールは一月前からふらふらと歩き回っていた。不安に急かされるようにして何かせずにはいられなかったのだ。

 この日のジルベールは、頭の中で考え続けていたように抜け目なく、並木道を歩いて、アンドレの部屋なり窓なりが見え、家をずっと見張っていられると同時に自分の不安や震えや溜息に気づかれないような場所を一生懸命に探していた。

 後ろめたさを悟られぬよう手に鉈鎌を持ち、茂みや花壇を眺めまわして、さも剪定でもしているように、花の咲きほこった枝を切り取っていたのだ。さらには樹脂や樹液でも採取しているように、まだ若い菩提樹の何でもない皮を剥ぎながら、耳と目を絶えず働かせて、祈りと懺悔を捧げていた。

 この一か月というもの、ジルベールから生気が失せていた。若さを窺わせるところは、目に宿った異様な光と、白くくすんだむらのない顔色くらいしかない。秘密できつく閉ざされた口元や、歪んだ目つき、ぷるぷると震えている顔の筋肉からは、年を重ねた辛さしか読み取れなかった。

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『ジョゼフ・バルサモ』 139-3

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 デュ・バリー夫人もデギヨンも落ち着いてはいられなくなった。

 だがリシュリューは目立った目つきも身振りもせず二人を放っておいた。それどころか好奇心を嗅ぎ煙草と胸飾りに吸い取られてしまったようだった。

「結局」と言って元帥は胸飾りを指ではじいた。「確かに国王はお嬢ちゃんの許を去りましたな」

「公爵さん、あなたの空想は一言も理解できませんわ。国王は人からそんなことを言われようと絶対に信じようとなさいません」

「そうですか!」

「ええ、そうですとも。あたくしが腹を立てているとあなたは思っておいでのようですし、世間はあなた以上にそんな空想を信じているみたいですけれど、仰ったような方法で陛下の嫉妬心をつつこうなんて思ったこともありません」

「伯爵夫人!」

「誓います」

「見事なお手並みです。女ほど優れた外交官はおりませんな。無駄に智恵を働かすということがない。わしも大使でしたからな、政治に関するこんな箴言を知っております。『成功の秘訣を他人に教えてはならない。そうすれば二度目の成功を手に入れられる』」

「ですけど公爵……」

「成功した秘訣と申しておるのです。国王はタヴェルネ家と仲違いなさいました」

「ですけど公爵、あなたにはあなたなりのやり方がございますでしょう」

「というと、国王とタヴェルネの間の不和をお信じにならないのですか?」リシュリューは巧みに口論を避けた。

「あたくしが言いたいのはそんなことじゃありません」

 リシュリューは伯爵夫人の手をつかもうとした。

「あなたは鳥ですな」

「あなたは蛇ね」

「ごもっとも。あなたに感謝してもらうためにいつかは良い報せを運んで来ることもあるのでしょうな」

「伯父上、お待ち下さい」デギヨンが慌てて割って入った。リシュリューの巧みな弁舌の力をありありと感じ取っていたのだ。「伯爵夫人ほどあなたを大事に思っている方はいらっしゃいません。あなたの話が出るたびいつもそう仰ってますよ」

「わしが友人を大事に思っているのも事実です。ですからあなたが勝利を収めたという報せを真っ先に伝えたいのも当然ではありませんかな。タヴェルネ男爵が娘を国王に売ろうとしていたのはご存じでしたか?」

「もう売ってしまったのではなくて?」

「伯爵夫人、あやつほど狡賢い奴はおりません! あれこそ蛇です。このわしが、友情だとか戦友だとかいうたわごとに丸め込まれておったのですからな。まんまとわしの心を捕えおって。あの田舎版アリスティデスがジャン・デュ・バリーという才人を出し抜こうとわざわざパリに出向くなどとは思わんではありませんか? ささやかな良識や洞察力を取り戻すのに、あなたのため全力を傾けなくてはなりませんでしたぞ。悲しいかな、わしは盲目でした……」

「取りあえずあなたの仰りたいことは済んだかしら?」

「これで全部です。あの唐変木にはきつく言っておきましたから、恐らく今ごろは心を決めているでしょう。そうなればこっちのものです」

「国王はどうなるの?」

「国王ですか?」

「ええ」

「陛下からは三つのことを聞き出しました」

「一つは?」

「父親について」

「二つ目は?」

「娘について」

「三つ目は?」

「息子について……まず、陛下は父親のことをおべっか使いだと判断なさり、娘のことは高慢だとお考えになり、息子のことは何とも思ってないどころか覚えてさえいらっしゃいませんでした」

「いいわ。じゃああの一家のことはすっかり片づいたのね」

「そう思います」

「田舎にとんぼ返りさせられるのかしら?」

「そうは思いません。一時的なものでしょう」

「確か陛下は息子さんに聯隊の言質を与えているとか……?」

「国王よりも記憶力が優れてらっしゃいますな。フィリップ殿があなたに魅力的な流し目を送っていた美青年であることは間違いありませんからな。もはや聯隊長でも中隊長でも寵姫の兄弟でもありませんが、あなたに覚えていただいてはいたというわけですか」

 こんな台詞を言って老公爵は甥の心を嫉妬の爪で引っ掻こうと試みた。

 だが差し当たってデギヨンの心を占めていたのは嫉妬ではなかった。

 デギヨンはどうにかして老元帥の狙いを読み取り、戻って来た真の理由を探ろうとしていたのだ。

 しばらく考えてみたが、或いは寵愛の風向きが変わってリシュリューをリュシエンヌに押し戻しただけなのかもしれない。

 老元帥が暖炉の鏡を覗いて鬘を直しているのを見て、デギヨンが合図を送ると、デュ・バリー伯爵夫人はすぐにリシュリューをチョコレートに誘った。

 デギヨンは伯父に恭しい素振りでいとまを告げ、リシュリューも挨拶を返した。

 デギヨンが去ると二人の前にザモールが円卓を運んで来た。

 老元帥は伯爵夫人の手際を見ながら独白していた。

 ――二十年前に柱時計を見ながら「一時間後には大臣になれそうだ」と呟き、その通りになっていればのう。人生とは何と愚かなものか。第一の段階では肉体を精神の使用人にしておいて、第二の段階になると精神だけが生き残って肉体の下僕となる。馬鹿げたことじゃわい。

「元帥さん」伯爵夫人が元帥の物思いを破った。「もう仲直りしたんですし、二人しかいないんですから、どうしてこれほど苦労してあの小娘ちゃんを国王の寝床に潜り込ませたのか教えていただけないかしら?」

「実はですな」リシュリューがチョコレートの器に口をつけた。「わしもそれが知りたいのです。わしにもとんとわかりません」

 
 139章終わり。

『ジョゼフ・バルサモ』 139-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「ええ、戻って来たのを祝ってみんな花火を打ち上げてるわ。とっくにご存じでしょうけれど……」

「何も存じ上げませんが」元帥は子供のように無邪気に答えた。

「花火の火の粉のせいで鬘は焦げているし、帽子は杖でくしゃくしゃよ」

 公爵は鬘に手を伸ばし、帽子を見つめた。

「そらご覧なさい。何にしても戻って来てくれたのはありがたいわ。デギヨンさんが仰ったように、嬉しくて仕方がないの。どうしてだと思います?」

「まだ意地悪をなさいますか」

「ええ、でもこれが最後」

「では謹んでお聴きいたしましょう」

「どうして嬉しいのかというと、あなたが戻って来たのは晴天の報せだからよ」

 リシュリューはぺこりと頭を下げた。

「そうなの。あなたと来たら嵐の終わりを告げる叙事詩の鳥と一緒。あの鳥は何と言ったかしら、デギヨンさんは確か詩をお書きになるのよね?」

「アルキュオネです」

「それだわ! 素敵な名前の鳥に喩えたからと言ってお怒りにならないでね、元帥殿」

「それどころか――」とリシュリューはにやりと笑った。それは満足している印であり、満足しているということは何か企んでいる印であった。「それどころか、譬えが適切であるだけに腹は立ちませんな」

「そうなの?」

「と言いますのも、素晴らしい朗報を携えておりますので」

「まあ!」

「いったいどのような?」デギヨンもたずねた。

「慌てないで、デギヨン公爵さん。元帥にもお話をさせてあげて」

「何の。すぐにお話し出来ますぞ。何せもうとうに済んだことですからな」

「そんな。ぽんこつ情報を教えていただいても……」

「こちらは一向に構いませぬぞ。取るか取らぬかです」

「いいわ、いただきましょう」

「どうやら国王は罠に嵌ったようですな」

「罠ですって?」

「まさしくその通り」

「どんな罠ですの?」

「あなたが掛けた罠です」

「あたくしが国王に罠を仕掛けたと仰いますの?」

「はてはて! よくご存じでしょうに」

「まさか。誓って存じませんわ」

「おや、誤魔化すとはお人が悪い」

「本当に存じませんの。どうか説明して下さいな」

「お願いします、伯父上」とデギヨンも言った。元帥が曖昧な笑みを浮かべているのを見て、何か企んでいることに気づいていたのだ。「伯爵夫人が期待と不安を抱いていらっしゃるじゃありませんか」

 老公爵が振り返った。

「うっかりしておったわ! 伯爵夫人がお前に打ち明けぬわけはないからのう。しかしそうなると、思っていた以上に根深いようだな」

「私がですか?」

「デギヨンさんが?」

「さよう、お前が、デギヨンが、じゃ。いいですか、伯爵夫人、率直に言って、陛下に対するあなたの陰謀の多くには……こやつが大きな役割を担っているのではありませんか?」

 デュ・バリー夫人が真っ赤になった。まだ朝が早く、頬紅もつけぼくろもしていなかったので、真っ赤になることもあり得たのだ。

 だが赤くなるのは危険な徴候でもあった。

「そんなに吃驚した目で見つめなさるところを見ると、ずばり言い当てたに違いありませんな?」

「図星ですとも」デギヨン公爵と伯爵夫人が口を揃えて答えた。

「となると賢明なる国王はすっかりお見通しで、不安を抱えていらっしゃることでしょうな」

「何を見抜いていると仰いますの? あなたと来たら人を焦らすのがお上手ね」

「しかしどうしたって甥と示し合わせているように見えますからな……」

 青ざめたデギヨンが伯爵夫人に向かって、「ご覧なさい、思っていた通りの嫌味っぷりですよ」と言いたげに目配せした。

 こうした場合には女の方が男よりも度胸が据わっている。伯爵夫人は直ちに臨戦態勢に入った。

「あなたにスフィンクス役となって謎々を出されるのは御免蒙りたいわね。きっと遅かれ早かれ食われちゃうに違いないもの。どうか怖がらせないで。冗談だというのなら、生憎だけど悪い冗談だと云わせてもらいます」

「悪い冗談ですと! それどころか良い報せですぞ。無論わしではなくあなたにとって、です」

「ちっともそうは思わないんですけど」デュ・バリー夫人は口唇を咬んだ。小さな足をぴょこぴょこ動かして、見るからに焦れている。

「まあまあ。プライドは捨てて下され。国王がド・タヴェルネ嬢に惹かれているのではないかと心配なのでしょう。いやいや、何も仰いますな。わしならすべてお見通しです」

「ええその通りです。何一つ隠し立ていたしませんわ」

「それを不安に感じたからこそ、あなたとしては出来るだけ陛下に食い下がりたかったはずですな」

「否定はいたしません。それで?」

「結構、結構。しかし歯を立てるには陛下の皮膚はちと硬い。かなり鋭いエギヨンではないと……おや失礼! つい嫌味な語呂合わせを申してしまいました。どうかご理解を」

 そう言って元帥はけたたましく笑った。少なくとも表向きは笑っているように見せていた。哄笑に引きつりながらも、不安そうな二人の顔をよく確かめたかったのだ。

「語呂合わせとは?」最初に我に返ったデギヨンが無邪気を装ってたずねた。

「わからんか? まあ毒が強いから、わからんならわからん方がよいかものう。伯爵夫人が王に嫉妬心を起こさせたいと思い、顔と頭のいい名門貴族を選んだと言いたかったまでのこと」

「誰がそんなことを?」と怒る様は、後ろめたい権力者そのものだった。

「誰が?……みんなそう言っておりますよ」

「みんな言ってるなんていうのは誰も言っていないのと同じじゃありませんか」

「何の。みんなと言えば、ヴェルサイユだけで十万人。パリなら六十万。フランスなら二千五百万ですぞ! これでも、パリの噂はもちろん新聞も手に入るデン・ハーグ、ハンブルク、ロッテルダム、ロンドン、ベルリンは数には入れておりませんからな」

「ヴェルサイユ、パリ、フランス、デン・ハーグ、ハンブルク、ロッテルダム、ロンドン、ベルリンで話題になっていると……?」

「さよう、あなたはヨーロッパでもっとも機知に富み、もっともお美しい女性だという噂ですぞ。そして今回の独創的な企みのおかげで愛人を手に入れたという噂です……」

「愛人ですって! いったいどんな根拠があって、そんな馬鹿な非難をされなくてはいけませんの?」

「非難と仰いますかな? 感嘆ですよ、伯爵夫人! 非難などしても無意味だと承知のうえで、この企みには誰もが一様に感嘆しておりました。いったい何処に感嘆し、熱狂していると思われますかな? あなたの機知に富んだ振舞と巧妙な戦術に感嘆しておったのです。夜を水入らずで過ごしたように見せかけた見事な手際に感嘆しているのですよ。わしがいて、国王がいて、デギヨンがいて、わしが最初に部屋を出て、次に国王が、三番目にデギヨンが出て来た夜のことです……」

「続けて頂戴」

「まるで愛人のようにデギヨンと二人きりで過ごしたように見せかけたことや、朝になって本物の愛人らしく密かにリュシエンヌを発たせたこと、さらにはそれを、わしのような馬鹿やお人好しに見せるようにして言いふらせようとし、そうなれば国王がそれを知って不安になり、あなたを失うまいとして大慌てでタヴェルネの嬢ちゃんの許を去るだろうという計画に感嘆しておったのです」

『ジョゼフ・バルサモ』 139-1

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百三十九章 Les jeux de mots de M. de Richelieu

 既に見て来た通り、ド・リシュリュー公爵はリュシエンヌに向かっていた。その決断の素早さと智性の冴えは、まことウィーン大使にしてマオンの勝者に相応しいものだった。

 晴れやかな様子で到着すると、若者のように石段を上り、耳が冴えた日にやるようにザモールの耳を引っ張り、あの青繻子の閨房に乗り込んだ。デュ・バリー夫人がサン=クロード行きの準備をしているところをロレンツァが目撃した場所である。

 伯爵夫人は長椅子に横たわってデギヨン氏に朝の指示を出しているところだった。

 物音に驚いて振り向いた二人は、元帥を目にして呆気に取られていた。

「まあ公爵閣下!」伯爵夫人が声をあげた。

「伯父上!」デギヨンも声を出した。

「さよう、わしです、伯爵夫人。無論わしじゃよ、甥っ子殿」

「あなたでしたか」

「まさしくわしです」

「来ないよりはましね」

「歳を取ると気まぐれになるものです」

「リュシエンヌにまた囚われたと言いたいのかしら……」

「気まぐれ故に遠ざかりましたが大いなる愛の力に引き寄せられて。まさしくそういうことです。見事にわしの考えをまとめてくれましたな」

「それで戻っていらしたと……」

「それで戻って来たというわけです」リシュリューは一番いい椅子を一目で見抜いて腰を下ろした。

「そうかしら。まだ仰っていないことがあるんじゃなくて? 気まぐれだなんて……あなたらしくもない」

「そういじめなさるな。わしは評判よりはいい男ですぞ。戻って来た以上は……」

「来た以上は……?」

「心の底から本心です」

 デギヨンと伯爵夫人がどっと笑い出した。

「自分が冗談のわかる人間でよかったわ。あなたの冗談を聞いて笑えるんですもの」

「さようですか?」

「それはそうよ。馬鹿な人間なら理解できずにぼうっとしているだけで、お戻りになったのには何か別の理由があるに違いないと勘繰るに違いないわ。デュ・バリーの名にかけて、登場するにも退場するにもあなたが必要なの。あのモレだってあなたと比べたら大根役者もいいところ」

「すると、わしが衷心より戻ったとはお信じにならないのですな? 伯爵夫人、それはいけません。こちらも考えを改めざるを得ませんぞ。こら、笑うでない、甥っ子よ。ペトロと呼んだうえで、何も建ててやらんぞ」

「ちょっとした内閣さえも?」

 伯爵夫人はそうたずねてから再び大笑いした。いつものように天真爛漫なところを隠そうともしなかった。

「どうぞからかってくだされ」リシュリューは受け流した。「やり返したりはしませんぞ。もう歳を取り過ぎた。戦うのはうんざりじゃ。好きになさるがいい。今なら苦もなくわしをもてあそぶことも出来ましょう」

「額面通りに受け取ってはなりませんよ」とデギヨンが言った。「伯父上がもう一度体力の衰えを嘆こうものなら、私たちは破滅です。公爵殿、あなたに襲いかかったりはしますまい。あなたが幾ら衰えようとも、衰えたと言い張ろうとも、利子をつけて返して来るでしょうからね。実際あなたは嬉々として立ち直るに違いありませんよ」

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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