翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 147

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百四十七章 トリアノンへの道

 話し合いや説明にはかなりの時間がかかったので、サン=クロード街を出たのは午前二時を回っていた。

 ヴェルサイユまでは一時間十五分かかり、ヴェルサイユからトリアノンまでは十分を費やした。つまり目的地に到着した時にはまだ三時半にしかなっていなかった。

 旅も後半になると朝日も顔を出し、セーヴルの丘やひんやりとしている森を薔薇色に染め上げていた。目の前で幕が上げられたように、ヴィル=ダヴレーの池や遠くに見えるビュク(Buc)の池が、鏡のように照らされている。

 やがてヴェルサイユの列柱と屋根が見え始めた。太陽はまだ姿を見せぬものの、建物は既に赤く染まっている。

 だんだんと、朝日を反射して窓ガラスがきらめき、紫色の朝靄に穴を穿つ。

 ヴェルサイユからトリアノンまで通ずる並木道の端まで来ると、フィリップは馬車を停めさせ、同乗者に声をかけた。バルサモは道中むっつりと黙り通しだった。

「伯爵、もしかすると待たされることになりそうです。トリアノンの門は朝の五時まで開きません。規則に逆らえば、ここに来た理由を衛兵や門番に疑われかねません」

 バルサモは何も言わず、首を縦に振って同意を示した。

「もっとも、その時間を利用して、道中あれこれ考えていたことをお話しするにはいい機会です」

 バルサモはフィリップをぼんやりと見つめた。その瞳には倦怠と無気力が浮かんでいる。

「話したいのなら、そうなさい。聴きましょう」

「お話によれば、五月三十一日の夜に、妹をド・サヴェルニー侯爵夫人のお宅に運んでくれたのでしたね?」

「そのことを疑ってはいないのでしょう。侯爵夫人にお礼をしに行ったくらいなのだから」

「それから、国王の馬丁をお供に、侯爵夫人邸からコック=エロン街のぼくらの宿までいらっしゃったんですね。つまりあなたと妹は二人きりではなかった。名誉を尊重してあなたのことを信じていました」

「当然のことです」

「ですが、最近の状況を考えてみると、あなたが一か月前にトリアノンの庭に忍び込んだあの夜、妹と話をする為に部屋に入り込んだのだと思わざるを得ないのです」

「トリアノンで妹さんの部屋に入ったことはありません」

「ですが!……アンドレに会う前に、すべてをはっきりとさせておかなくてはなりません」

「すべて明らかにするのは望むところです。その為にここにいるのですから」

「でしたらあの晩――答えにはお気をつけ下さい、これから申し上げるのは確実なことなのですから。何しろ妹本人の口から聞いたのです――あの晩、妹は早い時間に床についていました。つまりあなたは寝台にいる妹を見つけたのではありませんか?」

 バルサモは否定の印に首を振った。

「否認するのですか!」

「否認ではない。質問に答えたまでだ」

「では質問を続けますから、引き続き答えて下さい」

 バルサモは苛立ちを見せるどころか、急かすように合図した。

「あなたは妹のところに行き――」フィリップはだんだんと昂奮していた。「霊力で眠らされている妹を見つけた。アンドレは横になって本を読んでいたが、あなたの霊力のせいでいつものように眠気を催し、意識を失った。質問しただけだ、と仰いましたね。いや、そのほかに、立ち去る際に術を解くのを忘れたとも仰った」フィリップはバルサモの手首をつかんでぎりぎりと締めつけた。「ところが――妹が翌日になって目を覚ますと、寝台ではなく長椅子の下にいた。服のはだけた状態で……この点について申し開きをお願いします。言い逃れは許しません」

 フィリップが話している間、バルサモは寝起きのような顔で、心を翳らせる暗い考えを払っていた。

「本音を言えば、その問題をほじくり返すべきではないし、いつまでも諍いを続けようとするのも間違ったことだ。俺がここに来たのは善意からと、あなたに興味があったからです。それを忘れておいでのようだ。あなたはまだ若いし、そのうえ軍人だ。剣の柄に手をかけて高圧的に話すのに慣れているのだろう。そういった事情のせいで、深刻な事態に対して間違った解釈をしてしまったんでしょう。俺はあそこや自宅で、あなたを説得し、ささやかな安らぎを与えるためにすべきこと以上のことをして来たんだ。もう一度チャンスを与えよう。ただし、俺を退屈させるようなら、深い悲しみの底に籠ってしまうから、そのつもりで。俺の悲しみに比べたら、あなたの悲しみなど、暇つぶしのようなものに過ぎない。眠りに籠った俺を起こす奴など死んでしまえばいい! 俺は妹さんの部屋には入らなかった。言えるのはそれだけだ。俺の意思が大きかったとはいえ、自分で庭まで会いに来たのは妹さんなんだ」

 フィリップが動きかけたが、バルサモが制した。

「約束通り証拠をお見せしましょう。今からで構いませんな? 結構。トリアノンへ行こうではありませんか。無駄な時間を費やしていたも仕様がない。それとも待つとしますか? それならそれで構わないが、静かに取り乱さずにお願いしたい」

 こう言うと、これまで同様バルサモは一瞬だけ目を光らせ、また元のように物思いに沈んでしまった。

 フィリップは咬みかかろうとする猛獣のように、無言の叫びを発したが、すぐに態度を変えて考えを改めた。

 ――この男といれば、説得するなり主導権を握るなりしなくてはなるまい。だが一時間のうちにや威圧したり説得したりする方法を見つけられそうもない。まずは我慢だ。

 だがバルサモのそばで衝動を堪えるのは難しかったので、馬車から飛び降りると、馬車の停まっている青々とした並木道を歩き回り始めた。

 十分もすると、もう待つのには耐えられなくなった。

 人から疑われる危険を冒してでも、一時間早く鉄柵を開ける方を選ぼう。

 フィリップはこれまで幾度となく心に浮かんでいた考えを改めて持ち出した。「だいたい、スイス人衛兵が疑ったりするだろうか? 妹の具合が悪いから心配になってパリまで医者を呼びに行き、叩き起こしてここまで連れて来たんだと言えばいいんじゃないのか?」

 不安も徐々に薄らいでこのように考え出すと、いてもたってもいられなくなり、馬車に駆け寄った。

「仰る通りでした。長々と待つのも意味がありません。行きましょう……」

 だがフィリップはその言葉を繰り返さなくてはならなかった。ようやく二度目にバルサモは外套を脱ぎ捨て、茶色い鉄製ボタンのついた黒っぽいウプランドを纏い、馬車を降りた。

 庭園の柵に向かう小径を、フィリップは近道をして斜めに横切った。

「急ぎましょう」

 言葉通りにフィリップが足を早めた為に、バルサモは遅れそうになった。

 柵が開くと、フィリップはスイス人衛兵に事情を説明して、通してもらった。

 柵が元のように閉じられたところでフィリップが立ち止まった。

「最後に一言だけいいでしょうか……これが最後です。あなたが妹に何をたずねるつもりなのかはわかりませんが、眠っている間に起こった恐ろしい出来事については、詳しい話をするのを避けてもらえませんか。魂は清らかなままでいさせてやって欲しいのです。清らかな魂は清らかな肉体に宿るものなのですから」

「よく聞いて欲しい。俺はあそこに見える木立より奥には入ったことがない。妹さんの部屋の向かいの木立だ。だから、ド・タヴェルネ嬢の部屋にも入ったことがない。それは名誉にかけて誓った通りだ。恐ろしい事実に妹さんの魂が耐えられるかどうか心配しているようだが、不安があるとしたらあなたの方だ。眠っている人間には関係ない――というのも、今から――俺が一歩踏み出してから、眠りに就くよう妹さんに命じるからだ」

 バルサモは言葉を切って腕を組み、アンドレが住んでいる別館に向き直ると、しばらく動かずに、眉を寄せて、意思の力を顔中に浮き上がらせた。

「これでいい」バルサモは腕を戻した。「今頃はもうアンドレ嬢は眠っているはずだ」

 だがフィリップの顔には不審の色が浮かんでいる。

「ほう! 信じていないのですな? いいでしょう! お待ちなさい。部屋に入る必要がないことを証明して見せましょう。これから妹さんに命じて、眠っているままでいいから、階段の下まで会いに来るように伝えましょう。妹さんとこの間お話ししたのもその場所です」

「実際に目にすれば信じるのもやぶさかではありません」

「この並木道の中まで入って、熊垂の後ろで待つとしよう」

 フィリップとバルサモはその場所まで向かった。

 バルサモがアンドレの部屋に向かって手をかざした。

 だがそうした途端、かたわらの熊垂からかすかな物音が聞こえた。

「誰かいる! 気をつけて」バルサモが言った。

「何処ですか?」フィリップは目を凝らした。

「そこです、左の茂み」

「あっ! ジルベールだ。昔の使用人です」

「見つかるとまずいことでもありますか?」

「そんなことはありません。でも放っておきましょう。ジルベールが追い出されたら、ほかの人間も追い出されかねません」

 そんな話をしているうちに、ジルベールは怖くなって逃げ出していた。フィリップとバルサモが一緒にいるのを見て、もうお終いだと直感的に理解したのだ。

「さて、どうしますかな?」

 フィリップはいつの間にかバルサモの魔力に囚われているのを感じていた。「アンドレをここまで連れて来るほどあなたの力が大きいのが事実なら、誰にでも盗み聞き出来るようなこんなところに妹を連れて来るのではなく、何か別の証拠を見せていただけませんか」

「ぎりぎりだったな」バルサモがフィリップの腕をつかんで、使用人棟の廊下の窓に気づかせた。アンドレが部屋から抜け出し、バルサモの命令に従って、階段を降りようとしていた。

「止めて下さい」フィリップが恐慌と驚愕を露わにした。

「そういうことなら」

 バルサモがド・タヴェルネ嬢に向けて腕を伸ばすと、すぐに歩みが止まった。

 それから、石の饗宴に現れた石像のように、くるりと振り返ると部屋に戻った。

 フィリップがそれを追い、バルサモも後に続いた。

 フィリップはアンドレとほぼ同時に部屋に入り、腕をつかんで坐らせた。

 やがてバルサモも追いついて来て、扉を閉めた。

 だが、フィリップがあまりに素早すぎた為、バルサモが部屋に入るまでには間隔が開いていた。そこで第三の人物が二人の間に割り込み、ニコルの部屋に忍び込む時間があったのである。隠れている人物は、これから繰り広げられるであろう場面に己の人生が左右されることを自覚していた。

 第三の人物とは、ジルベールであった。

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『ジョゼフ・バルサモ』 146

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百四十六章 二つの苦しみ

 ド・タヴェルネ嬢を悲劇が襲ったあの晩に目撃された謎の人物のことを指して、ジルベールがこう言ったのには、然るべき理由があった。「誰だかばれるのではないか?」と。

 ジョゼフ・バルサモ、ド・フェニックス伯爵の住処をフィリップが知らないのは確かだ。

 だがあの貴婦人――五月三十一日にアンドレを休ませてくれたド・サヴェルニー侯爵夫人のことなら覚えていた。

 サン=トノレ街の住まいを訪問できないほど遅い時間ではない。フィリップが昂奮も感情も抑えて夫人の住まいを訪れると、小間使いからすんなりと、バルサモの住所を教えてもらった。マレー地区、サン=クロード街。

 フィリップは直ちにそこに向かった。

 だが問題の家のノッカーに触れた時には、少なからぬ昂奮を隠せずにいた。フィリップの推測では、ここにアンドレの安らぎと名誉が永久に飲み込まれたままなのだ。だが訪いを告げる頃には、憤懣も癇癪もようやく抑え込み、これから必要とする力を温存することが出来た。

 そこで迷いなくノッカーを敲くと、扉が開いた。

 フィリップは中庭に入り、馬の手綱を引いた。

 だが四歩と進まぬうちに、玄関の階段上に現れたフリッツから問いただされた。

「ご用件は?」

 これには思いもかけなかったらしく、フィリップはぎょっとした顔を見せた。

 フリッツが召し使いの義務を果たしていないとでも言いたげに、眉をひそめて睨みつけた。

「この家のご主人であるド・フェニックス伯爵とお話ししたい」フィリップは手綱を輪に通し、そのまま歩いて家に入った。

「主人は不在でございます」と言いながらも、フリッツはフィリップを丁寧に受け入れた。

 あらゆる場合を想定していたが、これほど素っ気ない返答だけは予期していなかった。

 フィリップは虚を衝かれた。

「何処に行けば会えるでしょうか?」

「存じません」

「と言いつつ知っているのでは?」

「遺憾ながら行き先を告げられておりません」

「すぐに話をしなくてはならないのだ」

「それは難しいかと存じますが」

「何が何でも話がしたい。極めて重大な用件なんだ」

 フリッツは無言でお辞儀をした。

「出ていると言うんだな?」

「さようでございます」

「だが戻って来るんだろう?」

「そうは思いません」

「そうは思わないって?」

「はい」

「わかったよ」フィリップの声に怒気が滲み始めた。「取りあえずは、ご主人に伝えてくれ……」

「重ねて申し上げますが、主人は不在なのです」フリッツは飽くまでも冷静に答えた。

「命令されているのはわかるし、それに従うのも否定はしない。だがぼくはその命令の適用外だ。突然の訪問なのだからね」

「どなたに対してもという命令でございます」フリッツが口を滑らせた。

「つまり命令はしたんだから、ド・フェニックス伯爵は家にいるんだな?」

「だとしたらどうだと仰るのですか?」あまりのしつこさに、今度はフリッツの方が苛立ちを見せ始めた。

「だとしたら、ここで待つとしよう」

「主人は不在だと申し上げたはずです。しばらく前に火が出たせいでこの家には住めなくなってしまいましたので」

「だが君は住んでいるじゃないか」今度はフィリップが口を滑らせた。

「管理人として寝泊まりしているのです」

 フィリップは乱暴に肩をすくめた。何を言われようと一言も信じられなかった。

 フリッツがいよいよ苛立ち始めた。

「そもそも伯爵閣下がいらっしゃろうといらっしゃらなかろうと、ご在宅だろうとご不在だろうと、力ずくで家に入ろうとなさる方などおりません。しきたりに従わないと仰るのでしたら、私といたしましてはやむを得ず……」

 フリッツは語尾を濁した。

「何だと言うんだ?」フィリップが腹を立てた。

「やむを得ず外に連れ出さざるを得ません」

「君が?」フィリップの目が光った。

「私がでございます」フリッツのドイツ人らしいところが出て、怒りが大きくなるにつれてうわべはますます冷やかになっていた。

 フリッツが足を踏み出すと、フィリップは思わず剣をつかんでいた。

 フリッツは剣を見ても狼狽えもせず、誰かを呼びもしなかった――とは言え、もともと誰もいないのだろう。フリッツは短いが鋭く尖った金属のついた杭のようなものをつかむと、剣術ではなく棒術のような動きでフィリップに飛びかかった。その一撃で、短剣の刃がきらめいて跳ね飛ばされた。

 フィリップは怒りの声をあげ、武具飾りの方に駆け寄り、武器を取ろうとした。

 その時、廊下の隠し扉が開いて、薄暗い戸枠の中に伯爵の姿が浮かび上がった。

「何事だ、フリッツ?」

「何でもございません」フリッツは矛を下ろし、それをバリケードのように主人の前に掲げた。それを伯爵が隠し階段の上から見下ろしていた。

「ド・フェニックス伯爵」フィリップが声をかけた。「客人を矛でもてなすのがお国のしきたりなのですか? それともあなたの家だけの特殊な事情でしょうか?」

 フリッツは矛を下ろし、主人の指示に従って玄関の隅に置いた。

「どなたですか?」伯爵がたずねた。控えの間を照らしている明かりの下でも、フィリップのことがわからないようだった。

「是が非でもあなたとお話しをしたがっている者です」

「是が非でも?」

「ええ」

「それではフリッツに分があるようですな。私は誰とも話したくありませんし、家にいる時に誰かが訪ねて来ても話し合いを認めることはありません。あなたは私に対して過ちを犯したわけですが――」バルサモは溜息をついた。「早々と立ち去って静かにしておいてくれると約束して下さるなら、許して差し上げましょう」

「静かにしておいて欲しいとはさすがですね。ぼくの静けさを奪った癖に!」

「あなたから静けさを奪ったですと?」

「ぼくはフィリップ・ド・タヴェルネだ!」この言葉ですべての説明がつくと信じていた。

「フィリップ・ド・タヴェルネ?……そうでしたか。お父上にはお世話になりました。どうぞお寛ぎ下さい」

「ありがたい!」フィリップは呟いた。

「こちらへどうぞ」

 バルサモは隠し階段の扉を閉めてフィリップのところまで来ると、この物語の中で読者には何度もお見せして来た応接室まで案内した。もっとも近いところでは、五人の親方マスターの場面で用いられた場所である。

 誰かをもてなす予定だったのかのように、応接室はこうこうとした明かりに照らされていた。だがそんな贅沢もこの家では普段通りのことに過ぎないのだ。

「今晩は、ド・タヴェルネ殿」穏やかでくぐもったバルサモの声に、フィリップは思わず目を上げた。

 だがいざバルサモを見るや後じさっていた。

 伯爵はもはや本人の影にしか過ぎなかった。目は落ち窪んで光も失せ、頬はそげて二本の皺となって口を囲い、骨張った剥き出しの顔の出っ張りを見ていると死者と対面しているような気にさせられた。

 呆然としたままのフィリップを見たバルサモは、暗く悲しげな微笑みを白い口唇にかすかに浮かべた。

「使用人のことはお詫びいたしますが、命令に従ったまでのこと。それに言わせていただければ、力ずくで押し入ろうとしたのはあなたの方だ」

「伯爵、極限状況下における命の問題はご存じでしょう。今のぼくがまさにそれなのです」

 バルサモは答えない。

「お会いしてお話ししたかったのです。あなたに会えるなら、死にさえ立ち向かう覚悟でした」

 バルサモは無言を貫いていた。フィリップが説明するのを待っているのだろうか、問いただすだけの気力も好奇心もないようだった。

「こうしてお会い出来たからには、話し合わせてもらえませんか。ですがその前に、この男を追い出して下さい」

 フィリップがフリッツを指さした。フリッツは闖入者をどうするか指示を仰ぎに来たのか、扉のカーテンを持ち上げたところだった。

 フィリップから逸らされることのないバルサモの視線の先が、心の奥まで突き刺さりそうだった。だが身分も階級も同じ男を前にして、フィリップは落ち着きや威厳を取り戻していた。

 バルサモは顔どころか眉を動かしただけで、フリッツを立ち去らせた。二人は向かい合って坐り、フィリップは暖炉を背にし、バルサモは円卓に肘を預けた。

「では端的にお話し下さい。こうして話をお聴きするも好意からに過ぎませんし、正直に申し上げると飽きっぽい人間なのですよ」

「ぼくとしては失礼に当たらないと判断した限りで、話すべきことを話すまでです。よろしければ、質問から始めさせていただきたいのですが」

 これを聞いてバルサモの眉が寄り、目から火花が散った。

 この言葉から思い出したことがあったのだ。バルサモの心の奥で蠢いているものを知れば、フィリップは震え上がったに違いない。

 だがバルサモはすぐに我に返った。

「おたずね下さい」

「伯爵。あなたはあの五月三十一日の夜どのように過ごしていたのかを、お話しして下さったことはありませんでしたね。ルイ十五世広場を埋める怪我人や死者の山から妹を連れ出してから後のことです」

「何を仰りたいのですかな?」

「以前から気になってはいたのですが、あの夜のあなたの行動に極めて疑わしいところがあると申し上げているのです」

「疑わしいとは?」

「総体的に見て、とても立派な人間のすることとは思えません」

「よくわかりませんな。失礼ですが頭が重くてはっきりしないのです。そのせいで短気になっているところもあります」

「伯爵殿!」激情と落ち着きが綯い交ぜになったフィリップの苛立ち声に、バルサモが目を向けた。

「失礼ですが」と答えたバルサモの声には変化はない。「初めてあなたにお会いしてから、不幸に遭いましてね。家の一部が焼けて、あまりにも貴重なものの数々が失われてしまったのです。それ以来というもの、辛くて頭がどうかしてしまいそうなのです。お願いですからもっとはっきり仰っていただけませんか。そうでなければ直ちにお引き取りいただきたい」

「とんでもない! そう簡単においとまするわけにはいきませんよ。ぼくの事情を汲んでくれれば、あなたの側の事情を袖にするつもりはありません。というのも、ぼくも大変な不幸に遭ったのです。恐らくはあなたが遭った不幸よりも大変な不幸に」

 バルサモは悟ったような微笑みを浮かべた。先ほどから口唇に浮かんでは消えていたものだった。

「ぼくは、家族の名誉を失ったのです」

「それで、私に何が出来るというのですか?」

「何が出来るかですって?」フィリップの目が光った。

「ええ」

「失ったものを返してくれることが出来るではありませんか!」

「何ですって! 正気ですか!」

 バルサモが呼鈴に手を伸ばした。

 だがその動きには勢いがなかったし、怒った様子もなかったので、すぐにフィリップに腕をつかまれた。

「正気かと言うのですか?」フィリップの声はかすれていた。「では妹の話だということもわかりませんか? 五月三十一日、あなたの腕の中で気絶していた件についてです。妹はある家に連れて行かれた。あなたに言わせれば『名誉にも』だったのでしょうが、ぼくに言わせれば『汚らわしくも』です。結論を申し上げましょう。どうか剣を手にしていただきたい」

 バルサモは肩をすくめた。

「単純な話を随分と回りくどくなさいましたな」

「人でなしめ!」フィリップは叫んだ。

「何という声だ!」バルサモは辛く苛立った声をあげた。「耳が潰れそうだ。私が妹さんを侮辱したと言いに来たわけではないのでしょう?」

「まさにそう言いに来たのです、卑怯者め!」

「無意味に怒鳴ったり罵ったりするのはおやめなさい。いったい何処の誰から吹き込まれたのです。私が妹さんを侮辱したなどと?」

 フィリップが躊躇いを見せた。バルサモの声を聞いているとわからなくなって来た。よほどの厚顔無恥なのか、まったくの無実なのか、どちらかだろう。

「誰から聞いたかですって?」

「ええ、教えていただけますかな」

「妹本人からですよ」

「そうか。妹さんも……」

「何が言いたいんですか?」フィリップが脅すような仕種をした。

「お話を聞いた限りでは、あなたも妹さんもお気の毒に。ご婦人を辱めようとは、これ以上におぞましいことはありません。それであなたは、イタリア劇に登場する髭面の兄貴のように、脅しを口にしにやって来たのですな。剣を取るか、妹さんと結婚するか、選択を迫る為に。妹さんが結婚を望んでいるのか、あなたの為にお金を作ろうとしているのかはわかりませんが、あなた方としては私が金持だとご存じなのですからな。ところがあなたは二つの点で間違っている。あなたの手には一銭も入らないだろうし、妹さんはこれからも独身のままだろうということです」

「あなたが腹を立てているというのなら、ぼくも同じように血をたぎらせることに異存はない」

「腹を立ててさえおりません」

「何ですって?」

「血をたぎらせるとしたら、もっと重大なことが起こった時です。あなたも血を静めてもらえませんか。騒ぎ立てるというのでしたら、頭が痛くなるので、フリッツを呼びます。フリッツが来れば、命令に従ってあなたを葦のように真っ二つにしてしまいますよ」

 バルサモが呼鈴を鳴らした。フィリップに止められそうになると、円卓に置かれた黒檀の箱を開いて、拳銃を取り出した。二発の弾丸が装填されている。

「望むところです。どうぞ殺すがいい!」フィリップが怒鳴った。

「どうして殺さなくてはならないなどと?」

「あなたを侮辱したからですよ」

 フィリップの言葉には真実の重みがあった。バルサモがそれを穏やかに見つめていた。

「それを本心から仰っているとでも言うのですかな?」

「嘘だとでも? 紳士の言葉を疑うのですか?」

「それともド・タヴェルネ嬢が卑劣な考えを思いついただけで、あなたをそそのかしていたと?……そう思いたいところですな。ではすっきりさせて差し上げましょう。名誉にかけて誓います。五月三十一日の夜、私が妹さんに取った行動は、非難のつけようのないものです。名誉に照らしても、人間の法廷に於いても、神の審判を仰いでも、何処の裁判所からも反論されるような点はありません。信用していただけますかな?」

「何ですって!」

「こちらとしては決闘も厭わない。それはあなたもご承知だ。目を見ればわかります。体調が悪そうだと思っているのなら大間違い、見た目だけですよ。確かに顔色は悪い。だが筋肉は衰えちゃいない。証拠が見たいですかな? では……」

 ブールの手になる家具の上に青銅製の大きな花瓶が置かれてあるのを、バルサモは片手だけで軽々と持ち上げて見せた。

「わかりました。五月三十一日については信じます。ですがあなたは誤魔化しておいでだ。別の日のことも同じように証明なさろうとしていますが、後日また妹に会ったはずです」

 バルサモが躊躇いを見せた。

「確かに会いました」

 一瞬だけ顔が輝いたが、それも瞬く間に翳った。

「ほらご覧なさい!」

「確かに妹さんには会ったが、それがどうしたと?」

「どうしたもこうしたも、これまで三度にわたっておかしな力を使って眠らせて来たではありませんか。あなたに近づかれて発作を起こした妹を、無力なのをいいことにもてあそんで知らんぷりを決め込んでいるのではありませんか」

「改めてたずねるが、誰がそんなことを?」バルサモが大声でたずねた。

「妹本人がです!」

「眠っていたのに何故わかる?」

「では、眠っていたことを認めるのですね?」

「認めるどころではない。この手で眠らせていたことを認めよう」

「眠らせていた?」

「そうだ」

「辱める為でなければ、何の為に?」

「何の為に?」バルサモはがっくりと頭を垂れた。

「話して下さい!」

「俺にとっては命よりも大事な秘密を教えてもらう為にだよ」

「嘘だ! 言い逃れだ!」

「あの夜のことか……」バルサモは、フィリップの侮辱に応えるというよりも、自らの考えを追うようにして呟いた。「あの夜、妹さんが……?」

「辱められたのです」

「辱められた?」

「妹は母親になったのです!」

 バルサモが声をあげた。

「そうだった! 忘れていた。術を解かずに立ち去ってしまったんだ」

「お認めになるのですね!」

「ああ。何てことだ。あの夜。俺たちにとって悲劇だったあの夜、何処かの卑怯者が妹さんが眠っているのにつけ込んだんだ」

「からかおうと言うのですか?」

「いや、説得しようとしているのだ」

「それは難しいでしょうね」

「妹さんは今どこに?」

「よくご存じの場所ですよ」

「トリアノンに?」

「ええ」

「ではトリアノンに行こう」

 フィリップは驚きのあまり動けなかった。

「俺は間違いを犯した。だが罪は犯しちゃいない。催眠術にかけたまま放っておいてしまっただけだ。だがそのお詫びに犯人の名前を教えよう」

「誰なんです?」

「俺は知らない」

「では誰が知っているのですか?」

「妹さんだ」

「でもぼくには教えてくれませんでした」

「恐らく俺には言ってくれるだろう」

「妹が?」

「妹さんが犯人を名指ししたら、信じるな?」

「ええ。無垢な天使のような人間なのですから」

 バルサモは呼鈴を鳴らした。

「フリッツ、馬車の用意を!」

 フィリップは狂ったように応接室を歩き回っていた。

「犯人ですって! 犯人を教えると約束してくれるんですね?」

「先ほどの小競り合いで剣を折ってしまったようだが、よければ別のを差し上げようか?」

 そう言って椅子の上から金柄の見事な剣をつかみ、フィリップのベルトに通した。

「あなたはどうするのです?」

「俺には必要ない。自分を守らねばならぬとしたら、トリアノンに着いた時だ。妹さんが話してくれたら、その時はあなたが俺を守ってくれるだろう」

 十五分後、二人は馬車に乗り込み、フリッツが二頭の馬を操ってヴェルサイユまでの道を全速力で走らせた。

『ジョゼフ・バルサモ』 145

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第百四十五章 ジルベールの良心

 ここまで記して来た出来事は、ジルベールに対して恐ろしい影響を及ぼしていた。

 良くも悪くも傷つきやすいジルベールにとって、極めて厳しい試練のただ中に放り込まれていたのである。庭の好きなところに隠れて、日毎にアンドレの顔色や足取りが衰えてゆくのを目にしていたのだ。前日に恐ろしいほど真っ青な顔をしていたというのに、翌日ド・タヴェルネ嬢が朝日と共に窓辺に現れると、危険な色合いがさらに増していた。ジルベールの眼差しや顔つきを見た者なら誰もが、そこに古代ローマの画家が素描したような悔恨の色を読み取ったに違いない。

 ジルベールはアンドレの美しさを愛している反面、憎んでもいた。輝くばかりの美しさに気位の高いところが加わると、二人の間の境界に新たな線が引かれる思いがする。とは言うものの、そうした美しさこそ新発見の宝のように我がものにしたい気もする。これがジルベールの愛と憎しみに対する申し分であり、憧れとも蔑みともつかない言い訳であった。

 だがこの美しさが汚された日、アンドレの顔に恥と苦しみが浮かんだ日。その日から、アンドレにとってもジルベールにとっても由々しき事態となった日から、状況が完全に変わり、ジルベールのアンドレに対する見方も変わってしまった。

 正直に言えば、最初に感じたのは深い悲しみであった。アンドレの美しさや健やかさが損なわれてしまったのを、涙なくして見ることはならなかった。ジルベールを蔑んでいた高慢な女を憐れんでやるのは誇りがくすぐられて気分が良かったし、アンドレが隠していたあらゆる恥辱に憐れみをかけてやるのも心地よかった。

 だがだからと言ってジルベールが許されるわけでもない。誇りが言い訳になると思ったら大間違いだ。だから、状況を検討することにしていたのも、誇りから出た習慣でしかなかった。青ざめてやつれてうなだれたド・タヴェルネ嬢が幽霊のように目の前に現れるたびに、ジルベールの心臓は飛び跳ね、血が瞼まで上って涙を誘った。ジルベールは不安で引きつった手を胸に押し当て、意識が暴発しそうになるのを抑えていた。

「アンドレが駄目になったのは僕のせいだ」

 貪るようにアンドレを見つめると、また会えると信じて、声なき呻きに追われるようにして、逃げ出していた。

 そんな気持に打たれるたびに、強い人間でも耐えられないような痛みを感じていた。狂えるほどの愛情は安らぎを求めていた。アンドレに跪き手を握り優しい言葉をかけ失神から目覚ざめさせる権利が得られるなら、時には命を投げ出してもいい。こんな時に何も出来ないのは、拷問という言葉ですら言い表せないほどの責苦だった。

 ジルベールは三日間、この苦しみに耐えていた。

 初めから、アンドレの部屋で起こっているゆっくりとした変化には気づいていた。やがて、もはやわからないことなどなくなり、すべてにはっきりとした説明をつけることが出来た。さらに。病気の進行具合から逆算して、起点となった正確な日付も手に入れた。

 気絶した日だ。恍惚状態で、汗をかき、夢遊歩行し、確実に意識が飛んでいた、あの日。行ったり来たり、冷淡だったり昂奮していたり、思いやり深かったり軽蔑を露わにしたり、そうしたことすべてをジルベールは最高の隠しごとや戦術だと見なし、シャトレの一書生、サン=ラザールの一牢番でしかない人間が、ド・サルチーヌ氏の密偵が暗号文書を読み写したのと同じように完璧に、分析し、翻訳したのである。

 息を切らして走り、突然足を止め、聞こえぬほどの声を洩らし、不意に暗い沈黙に沈んだのを、誰も見た者はいない。地面を擦るような、乱暴に木々を引っ掻くような、かすかな音が空中に響いたのを、聞いた者はいない。もしいたなら、呟いたに違いない。「気違いがいるぞ、さもなきゃ後ろめたいところのある人間だな」と。

 気持がすっきりすると、同情は引っ込み、ジルベールの身勝手な部分が出始めた。あれほど頻繁に気絶していては、よもや普通の病だとは思われていないだろうし、何が原因なのかとあれこれ噂されていることだろう。

 その時ジルベールは、乱暴で早急な裁判上の手続きのことを考えていた。余所の世界には知られていない尋問、調査、類似によって、予審判事と言う名の才能溢れる探偵が、犯人の足取りにたどり着き、人の名誉を傷つけ得るありとあらゆる犯罪について問い合わせる場所。

 ジルベールが犯したのは、道徳的にもっとも忌まわしく罪深いことなのではないか。

 途端にジルベールは身体の芯から震え出した。アンドレが苦しんでいるために自分が尋問されやしないかと怯え始めたのだ。

 それからは、青い松明を掲げた懺悔の天使を追い求めたあの著名な絵の罪人のように、絶えず怯えた目を周りに向け続けた。物音や囁き声が気になった。話をしているのが聞こえると、それがどうでもいい話題であっても、ド・タヴェルネ嬢か自分のことなのではないかと気が気ではない。

 ド・リシュリュー氏が国王のところに出かけ、ド・タヴェルネ氏が娘のところを訪ねるのが見えた。その日はいつもとは違って、家の中が陰謀と疑惑に満ちているように思えてしょうがなかった。

 王太子妃の医師がアンドレの部屋に向かうのを見た時にはさらにひどくなった。

 ジルベールは何も信じない懐疑論者だ。他人の視線や神の視線など気にならない。だが神の代わりに科学を信奉し、その全能性を高らかに公言していた。

 ジルベールは至高の存在が持つ無謬の洞察力には否定的だったが、医師の洞察力を疑ったことはなかった。だからルイ医師がアンドレを訪れたという事実に、ジルベールの心は立ち上がれないような衝撃を受けたのである。

 ジルベールは部屋まで駆け寄り、何もかも放り出し、上からの命令にも銅像のように固く耳を塞いでいた。急いでカーテンの陰に隠れて、診察結果を窺わせるようなどんな言葉も仕種も聞き逃すまい見逃すまいと、全神経をかき集めた。

 明かりは何もない。王太子妃が窓辺に近づいた時に顔が見えただけだ。窓ガラス越しに中庭を見ようとしたのだろうが、恐らく何も見えなかったに違いない。

 ルイ医師が窓を開けたのも確認できた。部屋の空気を入れ換えようとしたのだ。話を聞くことも顔色を窺うこともジルベールには適わなかった。厚いカーテンがブラインド代わりとなって窓全体を覆い、そこでおこなわれている出来事を遮っていた。

 ジルベールが怯えているのは明白だった。鋭い目を持つ医師は謎を見抜いていた。ジルベールの見るところ、爆発は起こるに違いないが、今すぐではない。今は王太子妃の存在が邪魔しているが、部外者二人が立ち去ったら、すぐに父と娘の間で火種がはじけるのだろう。

 苦しみと苛立ちで頭がぼうっとなり、ジルベールは屋根裏の壁に頭を打ちつけた。

 ド・タヴェルネ男爵と王太子妃が出て来るのが見えた。医師は既にいなくなっていた。

 つまり、話し合いはド・タヴェルネ男爵と王太子妃の間で為されるのだ。

 男爵は戻って来なかった。アンドレは一人きりで長椅子に横たわって過ごしていたが、やがて痙攣と頭痛に読書を妨げられ、ぐったりとして深い眠りに陥った。風にめくれたカーテンの隙間越しにそれを目にしたジルベールは、アンドレがトランス状態に陥ったものと誤解した。

 実際には苦しみと不安に押されて眠っていただけなのだが。とにかくジルベールはこれを機会に、噂を集めに外に出た。

 この時間は貴重だった。何をすべきか考えなくてはならない。

 事態は差し迫っていたので、思い切った迅速な決断を下すことが必要だ。

 それが揺れ動く心の最初の支点となって広まり、気力と安らぎを取り戻せた。

 だがどうすればいい? こうした状況の変化が明らかになったら。逃げるべきか? そうだ。若さを振り絞り、絶望と恐怖をバネに、逃げればいい。絶望や恐怖は武力にも匹敵するほどの力を人から引き出す……昼は隠れ、夜に歩き、やがてたどり着けばいい……。

 何処に?

 何処に隠れれば、王の裁きも手が届かないのだろう?

 田舎のことならよくわかっている。寂れた未開の土地では、どう思われるだろうか――都市部のことは考えるな。村や字では、パンを乞う余所者をどんな目で見るだろうか、盗っ人だと疑われるだろうか? ジルベールははっきりと自覚していた。これからは秘密で刻まれた消えない痕跡を顔に残してゆくのだ。一目で注意を引くことになるだろう。逃げるのは危険だ。だが見つかるのは恥辱だった。

 逃げれば、罪があると判断される。ジルベールは逃げようという考えを退けた。もはや一つのことを考える力しか残されていないかのように、逃げるのでなければ、死ぬことしか考えられなかった。

 そんなことを考えたのは初めてのことだったが、そうした忌まわしい妄想に顔を出されても、恐ろしいという気持にはならなかった。

 ――万策が尽きれば、どちらにしても死ぬことを考えなくちゃならないんだ。だけど、自殺するのは卑怯者だ、とルソーさんが言っていたな。苦しむことこそ尊いんだ、と。

 ジルベールは顔を上げて、あてもなく庭園をうろつき始めた。

 初めに安らぎの兆しが見えたのは、既に記したようにフィリップが不意に姿を見せた時だった。これにはジルベールも考えを掻き乱され、またもや混乱し始めた。

 兄か! 兄が呼ばれたのか! 間違いない! 一家は秘密を守ることに決めたのだ。だが詳細を徹底的に探られることは、ジルベールにとっては、コンシェルジュリ、シャトレ、トゥルネルの拷問道具に等しかった。そうなればジルベールはアンドレの前に引きずり出され、ひざまずかされ、卑屈に罪を告白させられ、棍棒かナイフで犬のように殺されるのだろう。幾つもの恋愛事件という先例が、正当な理由のある復讐を認めている。

 国王ルイ十五世は似たような立場の貴族には極めて好意的だった。

 それに、アンドレが復讐を恃むならフィリップになるだろうが、フィリップほど恐ろしい敵はいない。フィリップは一家で唯一ジルベールに同じ人間らしい感情を示してくれた。そんなフィリップが罪人を殺すとしたら、剣ではなく言葉で充分ではないだろうか。例えば「ジルベール、我が家の飯を食いながら、我が家を辱めるとはな!」

 そういう事情で、フィリップを一目見た途端にジルベールの足はがくがくと震え出した。我に返ると、罪を認めず口を閉ざすためには本能に従うしかなかった。その瞬間から、一つの目的に向かって全力を傾注した。抵抗するしかない。

 後を尾けるとフィリップがアンドレの部屋に入り、ルイ医師と話すのが見えた。すべてを覗き見て判断したところでは、フィリップは絶望に沈んでいた。苦しみが生まれ、大きくなるのがわかった。アンドレとの激しい諍いが、カーテン越しに影絵となって伝わって来た。

「もうお終いだ」

 そう思った途端に頭が真っ白になり、ナイフをつかんでフィリップを殺そうとしていた。戸口に現れるのを待ちかまえよう……それとも、必要とあらば自殺すべきだろうか。

 ところがフィリップは妹と仲直りした。フィリップがひざまずき、アンドレの手に口づけするのが見えた。これは新たな希望、救済の扉だ。フィリップがまだ怒りをはじけさせていないとしたら、それはつまり、アンドレが犯人の名前をまったく知らないということではないのか。唯一の証人であり告発者であるアンドレが何も知らないとしたら、誰一人として知っている者はいないのだ。希望的観測として、アンドレが知っていて口をつぐんでいるとしたら、救済どころではない。幸運、いや、大勝利だ。

 ジルベールはすぐに覚悟を決めて現場と同じ高さになるように背伸びした。見晴らしを遮るものがなくなると、もはや足を止めることは出来なかった。

「ド・タヴェルネ嬢が僕を告発しないとしたら、証拠は何処にある? 気が狂いそうだ。告発するとしたら、結果を責めるのだろうか、それとも罪そのものを責めるんだろうか? でも罪を咎められたりはしなかった。三週間経ったけれど、以前よりも嫌われたり避けられたりした形跡は微塵もないじゃないか。

「アンドレが原因を知らなかったのなら、結果については誰にも増して僕も安全だ。国王その人がアンドレ嬢の部屋にいるのを見たんだからな。必要とあらばフィリップにそれを証言してもいい。陛下がいくら否定しようと、僕の言うことを信じるだろう……きっとそうだ。でも危険な手だな……黙っているに越したことはない。国王なら、無実を証明し、僕の証言をぺしゃんこにする方法を幾らでも持っているだろう。だが国王の名前が出されることがないとすれば、国王は措いておくとして、あの晩ド・タヴェルネ嬢を庭に連れ出した謎の人物がいなかっただろうか?……あの人物はどう抗弁するだろう? あの人物は姿を見られているはずではないか? だとすれば、また姿を見られればばれるのではないか? あいつは当たり前の人間でしかない。そうであって欲しいし、いつだって負けるもんか。もっとも、僕のことなど考えもしないに違いない。見ていたのは神様だけさ……」ジルベールは苦笑いした。「それにしたって神様と来たら、ぼくの辛さや苦しみを何度も見ながら何も言わずにいたんだからな。どうしてこんな状況にぼくを陥れるような不公平なことをするのだろう? 初めて神様から与えてもらった幸運だったというのに……。

「そもそも、罪があるとしたら、神様にであって僕にはない。ド・ヴォルテール氏が何度も言っていたように、奇蹟なんてもはやありはしないんだ。助かった。安心だ。秘密は僕だけのもの。未来は僕のものだ」

 これだけのことを考えると、いや、良心によって組み立てると、ジルベールは農機具をつかんで、同僚たちと夜食を摂りに行った。晴れ晴れとして、のうのうとして、挑発的でさえあった。さっきまでは後悔もあったし、怯えもあった。それは男なら、哲学者なら、急いで忘れてしまわなくてはならない少なからぬ弱点だった。ただし、自覚はせずとも頭から離れることはなかった。ジルベールは眠らなかった。

『ジョゼフ・バルサモ』 144

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百四十四章 診察

 外には深い沈黙が立ち込めていた。

 空気を震わせるそよ風も、ざわめく人の声もなく、何もかもが静まり返っている。

 一方トリアノンの仕事もすべて終わっていた。厩舎や車庫の働き手は部屋に帰り、小さな中庭には人気がない。

 アンドレはフィリップと医師の態度から胸の内に大きな不安を感じていた。

 今朝はたいした病気ではないし薬もいらないと言っていたルイ医師が再び訪れたことに、訝しく意外な思いを感じていた。だが元来が素直な性根だったので、澄んだ魂の鏡が疑いに吹かれて曇ることはなかった。

 やがて医師はアンドレを見つめるのをやめてランプの明かりを向けると、医師としてというよりは、友人か懺悔僧であるかのように、脈拍を取り始めた。

 こうした思いがけない行動に、繊細なアンドレはいよいよ驚きを隠せずに、もう少しで手を引っ込めるところだった。

「お嬢さん、私に会いたがったのはあなたでしょうか、それとも私はお兄さんの望みに従っただけなのでしょうか?」

「戻って来た兄から、先生がまたいらっしゃると聞きました。ですが今朝、それほど重い病ではないと仰って下さったのですから、改めてご迷惑をかけるまでもないとわたくしは考えております」

 医師は一つうなずいた。

「お兄さんはかなり昂奮して、名誉を気にかけ、ある点にこだわっておいでのようでした。あなたが正直に打ち明けなかったのは、恐らくはその辺りに原因があるのではありませんか?」

 アンドレはフィリップを見つめた時と同じような目つきで医師を見つめた。

「先生もですか?」かなり苛立った口調だった。

「失礼ですが最後まで言わせて下さい」

 アンドレは我慢するといったような、いやむしろ諦めたような仕種をした。

「お兄さんが苦しんだり腹を立てたりすることを心配して、かたくなに隠し続けるのはよくわかります。ですが私に対しては――肉体の医者であると同時に魂の医者でもある私には――すっかり見てわかっている私には――つまり秘密を打ち明けるという辛い道をあなたと分かち合っている私には――率直に打ち明けて下さるのを待つ権利があります」

「先生。もしお兄様の苦しんでいる顔を目にしなかったなら、もし先生の素晴らしい評判を存じ上げなかったなら、二人揃ってわたくしを騙そうとしているのではないかと思うところです。わたくしを出しにして喜劇を演じるつもりなのではないか、病名を告げて恐怖を植えつけ黒くて苦い薬を飲ませるつもりではないのだろうかと思ってしまいますわ」

 医師が眉をひそめた。

「申し訳ありませんが、そのように隠し立てするのはやめていだたけませんか」

「隠し立てですって!」

「芝居と申し上げた方がよいでしょうか?」

「侮辱なさるおつもりですか!」

「図星だったと仰って下さい」

「先生!」

 アンドレは立ち上がったが、腰を下ろすよう丁寧に医師から命じられた。

「侮辱などしておりません。手を貸そうと思っているだけです。説得することさえ出来れば、あなたを救うことが出来るのですから!……怒った目つきで睨まれようとも、見せかけの癇癪を起こされようとも、私の決意を変えることは出来ませんよ」

「何を仰りたいのです? 何が望みなのですか?」

「正直に打ち明けて下さい。さもなければ、あなたご自身の口から惨めな事実を聞かせていただくことになりますよ」

「かばってくれる兄がいなくなったからと言って、また侮辱なさるのですか。意味がわかりません。先生が言うところの病気について、もっとはっきりとした説明をお願い出来ませんか」

「改めて確認しますが、あなたに恥ずかしい思いをさせる役目からは降ろしていただけませんか?」医師は驚きを浮かべていた。

「意味がわかりません! わかりません! わかりません!」アンドレは三度繰り返した。その目には、問いかけるような、挑発するような、いやほとんど脅すような光が籠っていた。

「私にはわかっております。あなたは科学に疑いを持ち、ご自身の状態を周りから隠したがっておいでですが、たった一言でその思い上がりをへし折って、過ちを正して差し上げましょう。あなたは妊娠しておいでです!……」

 アンドレは恐ろしい悲鳴をあげて、長椅子にひっくり返った。

 悲鳴に続いて扉が激しく音を立て、フィリップが部屋に飛び込んで来た。剣をつかみ、目を血走らせ、口唇を震わせていた。

「恥知らず! 嘘をついたんですね」

 とぎれがちなアンドレの脈拍を確かめながら、医師はゆっくりと振り返った。

「申し上げた通りに申し上げたまでです」医師は蔑むように答えた。「抜き身であろうと鞘にしまっていようと、その剣を使って私に嘘をつかせることは出来ませんよ」

「先生!」フィリップは口ごもって剣を落とした。

「改めて診察して初めの診断を確かめることをお望みだったのでしょう。私はそうしたまでです。確信は深まり、揺らぐことはありません。確かに残念なことです。あなたには共感を覚えていたのですから。飽くまで嘘をつく妹さんに反感を覚えたようにね」

 アンドレはぴくりともしなかったが、フィリップは身体を震わせた。

「私も一家の長ですから、あなたの苦しみはよくわかります。ですからあなたには協力するつもりですし、このことは誰にも洩らしません。私の言葉は絶対です。誰かに聞いていただければわかります。私は自分の命よりも言葉に重きを置く人間です」

「でも、でも、あり得ません!」

「あり得ないことかどうかは私には判断できませんが、これは事実なのです。それでは、ド・タヴェルネさん」

 医師はいたわるようにフィリップを見つめ、静かな足取りでゆっくりと立ち去った。フィリップは苦しみに身をよじり、扉が閉まった瞬間には、苦しみに打ちひしがれて、アンドレのすぐそばにある腰掛けに倒れ込んでいた。

 医師が立ち去るとフィリップは立ち上がり、廊下と部屋の扉と窓を閉めに行った後で、アンドレの許に戻って来た。アンドレは兄がこうした準備をするのを、不安そうに呆然として眺めていた。

「おまえは嘘をついた。卑怯なうえに愚か者だ」フィリップは腕を組んで話し始めた。「おまえは卑怯者だ。一つには、兄に嘘をついたのだから。一つには、弱みを持っている人間に嘘をついたのだから。ぼくはおまえのことを何よりも愛しているし何よりも素晴らしいと思っているし、こうして信頼しているからには愛情とは言わぬまでもせめておまえからも信頼されてしかるべきなのだから。おまえは愚か者だ。不名誉でおぞましい秘密を第三者に委ねたのだから。いくらおまえが口を閉ざそうとも、他人の目には明らかだったに違いない。自分の置かれている状況を真っ先にぼくに打ち明けていてくれたなら、恥をかかずに済ませてやれたのに。愛情からなのか身勝手からなのかはわからないけれどね。というのも、おまえを助けるべきかどうか躊躇っているんだ。おまえがどういう経過でどのように過ちを犯すことになったのかわからないからね。結婚していない以上、おまえの名誉はおまえ一人だけのものじゃない。おまえに名前を汚された者たちのものなんだ。だがそっちの方でお断わりだというのなら、もうぼくは兄なんかじゃない。ぼくが欲しているのは、どんな手を使ってでも隠していることをすべて吐き出させることだけだ。すっかり吐き出してもらえれば、何かの慰めにはなるだろうからね。だからぼくは腹を立てているし心を決めたんだ。いいね、おまえは嘘で誤魔化そうとした卑怯者なんだから、卑怯者が受けるような罰を受けるべきなんだ。罪を認めなさい、さもないと……」

「脅しですか! 女を脅すなんて!」

 アンドレは真っ青になって立ち上がり、脅すように叫んだ。

「脅しだとも。ただし女を、ではない。信仰も名誉もない人間を、だ」

「脅しですって!」アンドレもだんだんと感情を高ぶらせる。「何も知らないしわからないわたくしを脅すのですか? 残酷なことの大好きな気違いが協力して、絶望に追い込んだり辱めを与えたりして殺そうとしているみたい!」

「だったら死ぬがいいさ! 認めようとしないのなら死ぬがいい。それも今すぐだ。神が判断して下さるだろうから、打ちつけてやる」

 フィリップは発作的に剣をつかみ、稲妻のような速さで、アンドレの胸に切っ先を突きつけた。

「わかりました、殺して下さい!」刃からほとばしる稲光に怯えもせず、剣先の痛みから逃げようともしなかった。

 フィリップの怒りと乱暴もそこまでだった。後じさって手から剣を落とすと、膝を突いてすすり泣き、アンドレの身体を抱き寄せた。

「アンドレ! アンドレ! 駄目だ! 死ぬのはぼくの方だ。もうぼくのことなど何とも思っていないんだろう。おまえに捨てられては、この世に未練などない。これほどまでにおまえが愛しているのは誰なんだ? ぼくの胸に告白するよりは死を選ぶほど愛している人間は誰なんだ? アンドレ! 死ぬべきなのはおまえじゃない、ぼくなんだ」

 フィリップは逃げようとしたが、アンドレが狂ったように首筋にしがみついて、口づけを浴びせ、涙を降らせた。

「そんなことはありません。やはりお兄様が正しいの。わたくしを殺して下さい、フィリップ。だってわたくしに非があるそうじゃありませんか。ですけど、気高く純粋で善良なお兄様を責める人などおりません。生き抜いて、わたくしを恨む代わりに憐れんで下さい」

「アンドレ、天の名に懸けて、かつての友情の名に懸けて、おまえも、おまえが愛している人間も、怖がる必要はない。それが何者であろうと、ぼくの一番の敵であれ、人類最後の男であれ、ぼくは祝福するつもりだ。もっともぼくには敵はいない。おまえも気高い心と精神を持っているのだから、然るべき恋人を選んだことだろう。おまえが選んだ人間となら会うつもりだし、兄弟と呼ばせてもらうとも。どうして何も言わないんだ? 結婚できないような間柄なのか? そう言いたいのかい? 構うものか! ぼくは甘んじて痛みに耐えるつもりだし、血を求める名誉の声を抑えるつもりだ。相手の男の名前さえもう聞いたりはしない。おまえが気に入ったのなら、ぼくにとっても大事な人間だ……一緒にフランスを離れて逃げだそう。国王から高価な宝石を貰ったと聞いている。それを売って、半分を父に送ろう。残りを持って人知れず暮らすんだ。おまえの言うことなら何でも聞く。ぼくの言うことは何でも聞いてくれ。おまえ以外の誰も愛していない。おまえに尽くしていることはわかっているだろう。ぼくがしていることはわかっているね。ぼくの友情を当てにしてくれて構わない。ここまで言ったからには、信用してくれるだろうね? それとも、もう兄とは呼んでくれないのか?」

 アンドレは激昂したフィリップの言葉に黙って耳を傾けていた。

 心臓の鼓動だけが生きている証であり、眼差しだけが理性の存在の語り部だった。

「フィリップ」アンドレがようやく口を開いた。「わたくしがお兄様を愛してないと思われていたなんて! 別の人を愛していると思われていたなんて。名誉の作法を忘れていると思われていたなんて。名誉という言葉の持つあらゆる意味を理解している貴族の娘だというのに!……でもそんなことは水に流します。おぞましいと思われたのも、卑怯者と呼ばれたのも、気にしません。お兄様のことを恨むことなどありません。偽りの誓いを立てるほど不信心で卑劣な人間だと思われない限りは。わたくしの言葉を聴いて下さる神に誓って、母の魂に誓って――わたくしのことをあまり可愛がっては下さらなかったそうですけれど――それからお兄様へのひたむきな愛に誓って、愛について考えて理性を曇らせたことなどありませんし、誰かから『愛している』と言われたこともありませんし、誰かから口づけされたこともありません。生まれた時のままに、わたくしの心は清純ですし、肉体は清らかです。ですからフィリップ、神様がわたくしの魂を包み込んで下さるなら、お兄様の方は両の手でこの肉体を支えて下さい」

「わかったよ」フィリップも長い沈黙の後で口を開いた。「ありがとう。これでようやく心の奥まではっきりと見えるようになった。おまえは純粋で、無垢な、犠牲者に過ぎなかったんだ。だがこれは魔法の液体であり、毒入りの媚薬だぞ。誰かがおまえを罠に嵌めたんだ。目を覚ましているおまえから盗むことが誰にも出来なかったものを、眠っている間に盗んだ奴がいるんだ。おまえは罠に嵌ったんだ。だがぼくらは今は一つだ。一緒なら誰にも負けない。おまえの名誉も、復讐も、ぼくに預けてくれるね?」

「いけません!」アンドレは即答した。その様子は悲しみに溢れていた。「復讐は罪ですもの」

「いいかい、ぼくの手助けをして支えてくれ。過ぎ去った日々を遡って、一緒に探してみよう。記憶の糸をたどって、隠れた横糸と結ばれた最初の結び目で……」

「やってみます! 探してみましょう」

「ではまず、誰かにつけ回されたり見張られたりしたことは?」

「ありません」

「誰かから手紙を貰ったことは?」

「ありません」

「誰かから愛を告白されたことも?」

「ありません」

「女はその方面の直感が働くだろう? 手紙や告白でなくとも、誰かから……望まれていると気づいたことは?」

「気づいたことはありません」

「では普段の暮らしの、私的な部分を考えてみよう」

「お願いします」

「一人で歩き回ったことは?」

「覚えている限りではありません。妃殿下のところにお伺いする時を除けば」

「庭園や森に行ったことは?」

「ニコルがいつも一緒でした」

「そう言えばニコルはいなくなったんだろう?」

「ええ」

「いつ頃だい?」

「確か、お兄様がお発ちになった日だったと思います」

「いかがわしい子だったな。逃げ出した詳しい事情は?」

「存じません。ですけれど、好きな人と一緒でした」

「最後に会ったのはいつ?」

「九時頃でした。いつものように寝室に入って来て、着替えを手伝い、コップに水を入れてから出て行きました」

「その水に何か混ぜたかどうか気づかなかったのか?」

「気づきませんでした。もっとも、あの時の状況では、そんなのは意味のないことですけれど。コップを口に持って行った瞬間、異様な感覚に囚われたのを覚えていますから」

「異様な?」

「タヴェルネで感じたのと同じ感覚でした」

「タヴェルネでだって?」

「ええ、あの旅人が立ち寄った時です」

「旅人? 誰のことだい?」

「ド・バルサモ伯爵です」

「ド・バルサモ伯爵だって? どんな感じがしたんだ?」

「眩暈のような立ちくらみのようなものを感じると、身体から力がすっかり抜けてしまうんです」

「タヴェルネでそうした感覚を受けたと言ったね?」

「ええ」

「その時の状況は?」

「ピアノの前に坐っていると、意識が失われるのを感じたんです。前を見ると、鏡の中に伯爵が映っていました。それからのことは何も覚えていません。気づくとピアノの前で目を覚ましており、どのくらい眠っていたのかもわかりません」

「そうした異様な感覚を受けたのは一度きりだったのか?」

「もう一度ありました。花火の日、正確に言うと花火の夜のことです。人混みに連れ去られ、押しつぶされてぐったりとしていた時のことでした。わたくしは力の限りに抗おうとしていました。突然、強張っていた腕が楽になり、目の前が雲に覆われたんです。でもその雲の向こうに、またもやあの人の姿が見えました」

「ド・バルサモ伯爵か?」

「そうです」

「おまえは眠っていたのか?」

「眠っていたのか気絶していたのかはわかりません。タヴェルネでわたくしがどのようなことをされたのかはご存じの通りです」

「うん、そうだな。それであの夜、ニコルがいなくなった日の夜にも、伯爵に会ったのか?」

「姿を見てはいません。ですが存在を窺わせる徴候は感じていました。それにあの異様な感覚、神経が引きつるような眩暈、痺れ、眠り」

「眠り?」

「眩暈を伴った眠りです。抗おうとしても、不思議な力に押し切られてしまうのです」

「何てことだ! 続けてくれ」

「わたくしは眠っていました」

「場所は?」

「もちろん寝台の上です。ところが気づくと床の絨毯の上で、生き返ったばかりの死人のように冷たくなって、一人苦しんでいたのです。目が覚めるとすぐにニコルを呼びましたが、返事がありません。ニコルはいなくなっていました」

「その眠りもいつもと同じだったのか?」

「ええ」

「タヴェルネの時や、花火の時と?」

「ええ、そうです」

「最初の二回の時には、意識を失う前に、そのジョゼフ・バルサモ、ド・フェニックス伯爵を見たんだな?」

「間違いありません」

「なのに三度目の時には見なかった?」

「はい」アンドレは怯えていた。理解しかけていたのだ。「でも、姿こそ見ませんでしたが、存在は感じられました」

「わかった。もう落ち着いて、安心して、自信を持つんだ、アンドレ。事情はわかった。

 フィリップはアンドレに腕を回し、優しく胸に掻き抱くと、心を固め、昂奮に駆られて、待とうとも聞こうともせずに部屋から飛び出した。

 厩舎まで駆けつけると馬に鞍をつけて背中に飛び乗り、全速力で一路パリに向かった。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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