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アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
雪につけられた足跡はジルベールのものだった。先日バルサモと話し合いを持ってからというもの、監視を怠らず果たし復讐の準備をおこなっていたのだ。
何一つ苦労はなかった。甘い言葉と愛想の良さを弄して、ルソーの妻から受け入れられるどころか慈しまれてさえいた。方法は単純なものだった。ルソーからは書写代として一日三十スー貰っており、週に三回その中から一リーヴル取り除けて、テレーズにあげるささやかな贈り物を購入したのだ。
ある時はボンネット用のリボン、ある時は砂糖菓子や、ワインボトル。テレーズは味覚や誇りをくすぐられてその気になり、時には食卓に飛びついたジルベールから料理の腕前を褒められて気をよくした。
そうなのである。ルソーの口添えの甲斐あってジルベールは食卓に着くことを許されていた。こうして二か月前から面倒を見てもらえたおかげで、藁布団の下に仕舞い込んでいた財産に二ルイを加えることが出来た。その隣にはバルサモから預かった二万リーヴルがある。
それにしても何という生活だろう! 振舞や考えの端々に揺るぎがない。朝起きるとジルベールは無謬の目でアンドレの状態を確かめ、暗く規則的な隠遁生活に何の変化も入り込んでいないことを見極めた。
ジルベールの目から逃れられるものなどなかった。庭の砂上にあったアンドレの足跡も見逃さなかったし、閉められたカーテンの隙間の多寡によってアンドレの機嫌を見抜いた。カーテン――閉じ籠もったアンドレは天の光に晒されることさえ拒んでいたのだ。
このようにしてジルベールはアンドレの胸中や家の中で起こっていることを把握していた。
同じようにしてフィリップの歩き方から意図を推しはかるすべも覚えた。それがわかってからというもの、何の為に出かけようとしているのかも、どういう結果を持って帰って来たのかも、誤ることはなかった。
フィリップがルイ医師に会いにヴェルサイユに向かった晩には、跡を尾けるに至るまで徹底していた……このヴェルサイユ訪問にはジルベールも戸惑った。だが二日後に医師がコック=エロン街の庭に人目を避けて入り込んだのを見て、一昨晩の謎が氷解した。
日にちは知っているのだ。すべての希望が実現する瞬間が近づいているのを知らないわけがない。困難に満ちた計画を滞りなく成功させる為に必要な用意を始めていた。計画はこのように進められた。
二ルイはフォーブール・サン=ドニで二頭立ての二輪馬車を借りるのに使った。必要な日に指示通りに動いてくれるのだ。
さらにジルベールは三、四日休みを貰ってパリ近郊を調査した。その間、パリから十八里離れたところにある、巨大な森に囲まれた、ソワソネの小村を訪れた。
この村の名はヴィレル=コトレという。ジルベールは村を訪れると真っ直ぐにニケ氏という名の村でただ一人の公証人の許に向かった。
ジルベールは自分のことを大領主の会計係の息子だと名乗った。小作人の子のことを考えた領主から、子守りを見つけて来いと頼まれたのだと告げた。
大領主は気前がいいから子守りの月給に糸目はつけないはずだ、と伝えてから、子供の為にと言ってニケ氏の手に幾ばくかの金を握らせた。
なるほどニケ氏には三人の息子がいたので、ヴィレル=コトレから一里のところにアラモンという小村があり、息子たちの子守りだった女の娘が、この事務所で正式に婚姻の手続きをした後で母の仕事を継いでいると教えてくれた。
この女将さんの名はマドレーヌ・ピトゥといい、何処から見ても健やかな四歳の息子がいた。そのうえもう一人産んだばかりなので、ジルベールの好きな時に赤ん坊を連れてくればいい。
こうしてすべての手筈を整えると、几帳面なジルベールは休暇の終わる二時間前にパリに戻った。さて、ジルベールがどうしてほかの村ではなくヴィレル=コトレを選んだのか疑問に思われる方もおいでだろう。
今回もほかの多くの場合と同様に、ジルベールはルソーの影響を受けていた。
ルソーはかつて、ヴィレル=コトレの森を、類を見ないほど植生の豊かな森だと言っていた。そしてこの森の中に、木の葉の奥に隠れている巣のように、三つか四つの村が存在していると。
だから、この村のどれかでジルベールの子供を探そうとしても見つけられる心配はない。
分けてもアラモンはルソーに強い印象を与えた。人間嫌いで孤独な隠者であるルソーが、いつも繰り返すほどだった。
「アラモンはこの世の果て。人跡も途絶えた地。枝の上で生き葉の下で死ぬ鳥のように、生き死にすることが出来るのです」
ルソーは田舎家の詳しい事情までジルベールに話していた。心を温かくするような家庭の様子を語って聞かせていた。子守りの笑顔に、山羊の鳴き声。簡素なキャベツのスープの立てる食欲をそそる匂いに、野生の桑や紫ヒースの香り。
――あそこに行こう、とジルベールは考えた。ルソーさんが希望や失望を味わった木陰の下で、僕の子は大きくなるんだ。
ジルベールにとって思いつきで行動するのはいつものことだったし、今回の場合は表向き道徳的な理由があるのだからなおさらだった。
だからジルベールの気持を汲んだニケ氏が、希望にぴったりの村だと言ってアラモンの名を挙げた時には、喜びもひとしおだった。
パリに戻るジルベールが心配していたのは二輪馬車のことだった。
二輪馬車は立派ではないが頑丈だった。それでいい。馬はずんぐりとしたペルシュ馬で、御者は愚鈍な馬丁だったが、ジルベールにとって大事なのは人目を引かずに目的地に着くことだった。
ジルベールのついた嘘はニケ氏には何の疑念も抱かれなかった。新しい服を着て立派な身なりをしていたので、良家の会計係なり人目を忍んだ公爵や大貴族の従僕なりだと名乗っても不自然ではなかったのだ。
御者の方は輪を掛けて何も疑わなかった。庶民から貴族に至るまで秘密を持っていた時代なのだ。当時の人間は心づけを受け取りさえすれば何もたずねたりはしなかった。
そのうえ当時は二ルイに四ルイの価値があったし、四ルイは今日から見ても稼ぐに値する金額だ。
そこで御者は、二時間前に知らせてくれさえすれば、希望通りの場所に行くと約束した。
この計画はジルベールにとって、詩心と哲学観という異なる衣装を纏った二匹の妖精が好ましい事態と決断をもたらすという点において、魅力的なものだった。冷たい母から子を攫おう。恥と死を敵陣に撒き散らそう。その後で姿を変えて、田舎家に乗り込むのだ。ルソーの言う通りなら善良な村人たちの許に。そうして揺りかごの上に大金を置いておけば、貧しい人たちが守護神のように見守ってくれるだろう。大人物の子供なのだと思ってくれるはずだ。これで誇りと恨みを満足させられる。隣人の為の愛も、敵に対する憎しみも、満足させられる。
ついに運命の日がやって来た。この十日間というもの、日中は苦悶のうちに過ごし、夜間は眠れずに過ごしていた。どんなに寒かろうとも窓を開けて横たわり、アンドレやフィリップの一挙手一投足に耳を預けた。紐を引く手を呼鈴に預けておくように。
その日はフィリップとアンドレが暖炉のそばで語らっていた。女中が鎧戸を閉めるのも忘れて大急ぎでヴェルサイユに向かったのも目撃していた。ジルベールは直ちに御者に知らせに走った。御者は厩舎の前に馬を留めて拳を咬んだり歩道を蹴ったりして苛立ちを抑えていた。すぐに御者は馬に跨り、ジルベールは馬車に乗り込んだ。そして市場のそばの人気のない通りの端で馬を止めさせた。
そこでルソーの家に戻って、ルソーへの別れの手紙とテレーズへの感謝の手紙を書いて、南仏でちょっとした遺産が入ったことや戻って来るつもりのこと……詳しいことは書かずにそれだけを伝えた。ポケットに金を入れ、袖口に長庖丁を入れて、鉛管を伝って庭に降りた途端に、一つのことに思い当たった。
雪だ!……この三日というもの無我夢中だったので、そんなことを考える余裕もなかった……雪の上に足跡が残る……ルソー家の壁まで続いている足跡を見れば、フィリップとアンドレは間違いなくそれを調べさせるだろうし、そうすればジルベールの失踪と誘拐が関連づけられ、すべての秘密が明るみに出てしまうだろう。
こうなればコック=エロン街から迂回して、庭の門から入る必要がある。こんな時の為に、ジルベールは一月前から万能鍵を身につけていた。門から続いている小径は踏み固められているから、足跡は残らない。
ジルベールは時間を無駄にしなかった。目的地にたどり着くと、ちょうどルイ医師を運んで来た辻馬車が正面玄関に止まっているところだった。
ジルベールは慎重に門を開けたが、誰の姿も見えなかったので、温室から近い家の陰に隠れた。
恐ろしい夜だった。あらゆる声が聞こえて来た。苦痛による呻きや叫び。産まれた我が子の第一声も聞くことが出来た。
だがジルベールは剥き出しの石にもたれたまま、石の冷たさを感じもせずに、真っ暗な空から固く詰まった雪が落ちて来るのに任せていた。胸に押しつけているナイフの柄に、心臓の鼓動が伝わる。凝視する目には血の色が、炎の光が宿っていた。
ようやく医師が出て来て、フィリップと別れの言葉を交わした。
ジルベールは鎧戸に近づいた。くるぶしまで埋まって雪の絨毯に足跡をつけた。アンドレが寝台で眠っている。マルグリットが肘掛椅子でまどろんでいる。母の傍らに赤子を探したが、何処にも見えない。
すぐに状況を理解して玄関に向かい、音も立てずに扉を開けて、ニコルのものだった寝台までたどり着いた。手探りのまま凍えた指で赤ん坊の顔に触れると、痛がって泣き出した。アンドレが耳にしたのはこの声だった。
ジルベールは赤ん坊を毛糸の毛布にくるんで連れ出した。音を立てる危険を冒さないように、扉は半開きのままにしておいた。
一分後、ジルベールは庭から外に出ていた。二輪馬車まで駆けて行き、幌の下で眠っていた御者を押しのけた。革のカーテンを引いている間に、御者が改めて馬に跨った。
「十五分で市門を越えられたら半ルイやる」
蹄鉄をつけた馬がギャロップで駆け出した。
アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
ひどい疲れに襲われ、眠ってそれを癒している間に、心は二つの力を勝ち取ったようだ。安全な状況を理解し、死ぬほど憔悴している肉体に目を配っていた。
意識を取り戻したアンドレが目を開けると、傍らに女中が眠っている。火床が元気に爆ぜる音を聞き、部屋が静けさに包まれているのを感じた。何もかもが自分と一緒に眠っていたようだった……
智性はまだ目覚めきってはいない。さりとて眠りに就いているわけでもない。そんな半醒半睡の状態をだらだらと引き延ばすのが心地よかった。疲弊した意識の中に感性が一つ一つゆっくりと戻って来るに任せよう。理性のすべてが突然戻ってしまうのが怖いわけではないけれど。
不意に、遠くでかすかな泣き声のするのが、厚い壁を通して聞こえて来た。
あれほど苦しんでいた震えが甦る。壜の中でたゆたっていた澱が衝撃で濁るように、数か月前から無垢と善意を濁らせていた憎しみが甦った。
その瞬間から、眠りも安らぎもなくなった。忘れられない憎しみを覚えていた。
だがたいていの場合、感情の力も肉体の力に比例する。アンドレに残されていたのは、フィリップと過ごした夜に見せた力がすべてだった。
赤ん坊の泣き声が傷のように脳を穿ち、拷問のように脳を穿った……フィリップが思いやりからこの子を遠ざけたのだとすれば、残酷な命令を実行したりはしなかったのか……。
幾ら悪いことを考えようとも、こんな状況ほど嫌悪を抱かせることなどない。アンドレはまだ見ぬこの子を憎んでいた。この子が形を表すのが怖かった。この子の死を望んでいた。それなのに、泣き声を聞くと心が痛んだ。
「辛いのだわ」とアンドレは考えた。
それからすぐに自問する。
「あの子が辛がっているからどうだと言うのかしら……わたくしほど不幸な人間はいないのに」
赤ん坊がさらに大きく辛そうな声をあげた。
その声が不安な声を呼び覚ましたように感じられたことに気づき、見えない糸に引かれるように、泣きじゃくっている見捨てられた存在に向かって心が引っ張られるのを感じた。
漠然とした予感が現実となった。この世の摂理が準備の一つを終えた。腹を痛めたという事実は強い吸引力を持っていた。こうして赤ん坊の僅かな動きにも母親の心は引き寄せられた。
「いけない。今あの子は泣き叫んでいる。天に向かってわたくしを恨んで泣いている。産まれて間もない赤子たちに、気持が届けられるような大きな声を、神様がお与えになったのだ……この子たちを殺して苦しみから救うことは出来るけれど、辛い思いをさせる権利などない……そんな権利があるのなら、そもそもこの子たちがこうして泣き喚くことなど神様も許しはしないはずだもの」
アンドレは顔を上げて女中を呼ぼうとした。だが弱々しい声では眠っている女中を起こすことが出来なかった。いつの間にか赤ん坊も泣きやんでいた。
「きっと子守りが来たのだわ。扉の音が聞こえたもの……ほら、隣の部屋で足音がする……もう泣いてない……助けが来たのだとわかって、小さな心も安心したのでしょう。何てことかしら! あそこにいて子供の面倒を見ているのが母親なのでは?……僅かなお金で……わたくしの腹から産まれたあの子もやがて母を目にすることになるはず。そのうち、あれほど苦しんで命を与えたわたくしのそばを通りかかっても、わたくしには見向きもせずに、献身的な雇われ者に向かってわがままいっぱいに『お母さん!』と声をかけるのだわ。確かに恨みに感じているわたくしよりはよほど献身的でしょうけれど……そんなことさせるものですか……あれほど苦しんで、この子の顔を覗き込んでじっと見つめる権利を得たのだから……わたくしには愛してもらえるように世話をする権利があるし、立派な人だと思ってもらえるように犠牲を払い苦しみを舐める権利があるはずですもの!」
アンドレは懸命に身体を動かし、力を振り絞って声をかけた。
「マルグリット! マルグリット!」
女中がようやっと目を覚ましたが、身動きもせずに痺れたように椅子に沈んでいた。
「聞こえた?」
「はい、お嬢様、只今!」ようやく頭がはっきりとして来たらしい。
マルグリットは寝台に近寄った。
「お飲物でしょうか?」
「いいえ……」
「只今の時刻ですね?」
「そうじゃ……ない」
アンドレは隣の部屋の扉から片時も目を離さなかった。
「わかりました……お兄様がお戻りになったかどうかお知りになりたいのですね?」
高慢な魂が弱々しく、そして熱く高潔な心が力強く、アンドレの願いと戦っていた。
「わたくしは……」アンドレがついに口を開いた。「わたくしは……その扉を開けなさい、マルグリット」
「かしこまりました……まあ寒い!……風が!……凄い風!……」
アンドレの部屋にも風が吹き込み、蝋燭や燈火の炎を揺らした。
「子守りが扉か窓を開けっ放しにしているのではないかしら。見て来て、マルグリット……あの……子が寒がっているでしょうから……」
マルグリットが隣の部屋に向かった。
「毛布でくるんで参りましょうか」
「いい……え!」アンドレの声は途切れがちだった。「ここに連れて来て」
マルグリットが部屋の中で立ち止まる。
「その……フィリップ様が仰るには、赤ちゃんはあそこに寝かせておけと……お嬢様をご不快にさせたり昂奮させたりしないようにとのご配慮かと存じますが」
「連れて来なさい!」心が破けそうなほどの叫びだった。苦しみのただ中で乾ききった目から、涙がほとばしった。幼子たちの守護天使がそれを見ればきっと天国で笑顔を見せたに違いない。
マルグリットが部屋に駆け込む。アンドレは坐ったまま両手で顔を覆っていた。
マルグリットはすぐに戻って来たが、何が起こったのかわからないといった顔をしていた。
「どうしたの?」
「それが……どなたかいらっしゃったのですか?」
「どういうこと?……誰かとは?」
「赤ちゃんがいらっしゃいません!」
「さっき物音がしたけれど……足音が……あなたが眠っている間に子守りが来て……起こしたくなかったのだと……それよりお兄様は何処? 部屋を見て来て」
マルグリットが慌ててフィリップの部屋に向かったが、誰もいなかった!
「変ね!」胸の動悸が激しくなっていた。「わたくしに会いもせずにまた出かけたのかしら……?」
「お嬢様!」
「何?」
「通りの扉が開きました!」
「確認して!」
「フィリップ様です、お戻りになりました……早く、早くお入り下さい!」
確かにフィリップだった。後ろには粗末な毛糸の外套を纏った農婦が、家庭的な好ましい笑顔を見せている。女中は改めて歓迎の言葉を伝えた。
「アンドレ、戻って来たぞ」部屋に入るなりフィリップが言った。
「お兄様!……迷惑をかけてしまってごめんなさい! あら、そこにいるのは子守りの方ね……出て行ってしまったかと思っておりました……」
「出て行ったって?……今来たところだぞ」
「戻って来たと仰りたいの? だって……先ほど確かに聞いたんです、静かにとは言え歩いているのを……」
「どういうことだい。誰も……」
「ありがとう」アンドレがフィリップを引き寄せて、言葉の一つ一つをはっきりと口にした。「お兄様はわたくしのことをよくわかって下さってますもの。わたくしがこの子に会って……抱きしめるまでは、連れ出そうとはなさらなかったんでしょう……フィリップ、わかって下さって嬉しいわ……ええ、そうなんです、落ち着いて聞いて下さい、わたくし、この子を好きになれそうなんです」
フィリップがアンドレの手をつかんで口唇を押し当てた。
「ここに連れて来てくれるよう子守りに伝えて……」若き母親はそう言った。
「それがフィリップ様、赤ちゃんはあそこにはいらっしゃいませんから」
「何だって? 何を言っているんだ?」
アンドレが不安げに兄を見つめた。
フィリップが女中の寝台に向かい、そこに誰もいないのを目にして恐ろしい悲鳴をあげた。
アンドレは鏡に映ったフィリップの動きを追って、フィリップが青ざめ、腕を硬直させるのを見た。悲鳴に応えるように吐き出された溜息を聞き、真実の一部を悟った。アンドレは気を失って枕の上に倒れ込んだ。またもや不幸が起こるとは、しかもこれほど大きな衝撃だとは、よもやフィリップも想像していなかった。懸命になって、アンドレをさすり、慰め、涙を流し、ようやく意識を取り戻させた。
「赤ちゃんは何処?」アンドレが囁いた。「赤ちゃんは?」
――母親を助けなければ、とフィリップは考えた。「アンドレ、ぼくらも馬鹿だなあ。先生が連れて行ったのを忘れていたよ」
「先生が?」その声には疑いと希望が相半ばしていた。
「ああ、そうさ。そうだとも……ちょっと混乱していたんだ……」
「フィリップ、誓って本当なのね?……」
「アンドレ、ぼくが誠実なのはわかっているだろう……どうしてあの子が……いなくなるだなんて思ったんだ?」
フィリップは子守りと女中に同意を求めるようにして作り笑いを浮かべた。
アンドレはなおも言い募った。
「でも聞こえたんです……」
「何をだい?」
「足音が……」
フィリップがぎょっとした顔を見せた。
「何を言っているんだ! 眠っていたんだろう?」
「いいえ、起きていました。聞こえたんです……聞こえたんです!……」
「そうか、じゃあ先生だよ。赤ん坊の具合が心配で、後で戻って来て連れて行こうとしたんだろう……そんな風に話していたからね」
「本当ね」
「本当に決まっているじゃないか……何でもないよ」
「でもそうしますと、あたしはここで何をすればよろしいのでしょうか?」子守りがたずねた。
「まったくだ……先生があなたのお宅で待っているはずだ……」
「あらまあ」
「先生のところに行くといい。さあ……マルグリットはぐっすり眠っていたから、先生の言ったことが聞こえなかったんだ……或いは先生が何も言おうとしなかったのかもしれない」
アンドレが衝撃から立ち直り、落ち着きを取り戻した。
フィリップは子守りを追い払い、女中を部屋に残した。
それから明かりを手に取り、隣室の扉を丹念に調べ、庭の門が開いて雪の上に足跡があるのを見つけた……足跡をたどって門までたどり着いた。
「人間の足跡だ!……赤ん坊は攫われたんだ……何てことだ! 何てことだ!」
アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
苦しみの日が、屈辱の日が、近づいていた。ルイ医師が頻繁に通う日数が増えても、フィリップが心を込めて優しく世話を焼いても、最期の刻が迫る死刑囚のように、アンドレは日に日に打ち沈んで行った。
フィリップは気づいていた。アンドレが時々ぼうっとして震え……両の目が乾いていることに……何日もの間アンドレは一言も口を利かなかった。それが急に立ち上がって、自分自身から逃れようと――苛まれている苦しみから逃れようと――部屋を慌ただしく駆け巡った。
とうとうある晩、アンドレがいつもより青ざめて感じやすくなっているのを見て、フィリップは医師にその夜のうちに来てもらえるよう遣いを送った。
十一月二十九日のことだった。フィリップは食事が終わるとアンドレといる時間を出来るだけ引き延ばすことにしていた。辛く悲しい内輪の話を二人で話し合った。だが怪我人が傷を乱暴に触られるのを嫌がるように、アンドレはその話題を嫌がっていた。
フィリップは灯りのそばに腰を下ろしていた。医師を呼びにヴェルサイユに向かっている女中が鎧戸を閉めるのを忘れていた為に、その灯りが反射して、初冬の寒さで庭の砂を覆っている雪の絨毯を穏やかに照らしていた。
フィリップはアンドレの心が落ち着く時が来るまで待ってから、何の前触れもなく口を開いた。
「ねえ、心は決まったかい?」
「何について?」ため息は悲痛にまみれていた。
「それは……おまえの子供のことだよ」
アンドレが身体を震わせた。
「もうすぐだろう?」
「おぞましい!」
「だけど驚かないよ、それが明日でも……」
「明日ですって!」
「今日でもおかしくないだろう」
アンドレの青ざめ方が尋常ではなかったので、フィリップはぎょっとして、アンドレの手をつかんで口づけした。
すぐにアンドレは落ち着きを取り戻した。
「お兄様、わたくしは惨めな魂を貶めるようなこうした偽善をお兄様と分かち合うつもりはありません。わたくしにとっては良かろうと悪かろうと偏見は偏見です。善なるものを疑い出してからというもの、悪なるものがわからないのです。ですから、これから申し上げるものの考え方を真面目に聞いていただく気がないのであれば、どうか狂人の言うことだと思ってあまり厳しくお咎めにならないで下さい。これから申し上げるのは、わたくしのたった一つの心そのもの。わたくしの思いをまとめたものです」
「おまえが何を望もうとも、何をしようとも、ぼくにとって誰よりも愛しく誰よりも大切な女であることに変わりはないよ」
「ありがとう、お兄様。お兄様が仰ったことが的を外している、とは申しません。わたくしは母親になります。それでもわたくしは信じております」アンドレは顔を赤らめた。「人間の出産とは植物が実を結ぶのと変わらないものであるべし、と神が望んでいることを――。果実は花の後にしか実りません。植物は花が開いている間に準備をして形を変えるのです。わたくしが思いますに、花、とはつまり、愛に当たるのではないでしょうか」
「その通りだね、アンドレ」
「わたくしは準備も変化もしておりません。畸形なのですわ。愛にも色欲にも溺れたことはなく、身体と同じく心も魂も処女《おとめ》なのですから……それなのに!……ひどい奇蹟!……望んでなどいないのに、思ってさえいないのに、神様から授かったなんて……実をつけぬ木に果実を授けたことなどない神様が……いつそんな事実が? 可能性さえなかったというのに?……子を産む苦しみを味わう母親は、産まれてくる子供のことを知っているというのに、わたくしは何もわからない。考えるだけで恐ろしい。その日が来ることを思っても、死刑台に上る心地しかしないのです……フィリップ、わたくしは呪われているのですわ!……」
「アンドレ!」
「フィリップ……」アンドレが声を荒げた。「この子を憎まずにいられるでしょうか?……無理です。この子が憎い! 生きているうちは毎日、初めてこのおぞましい子を腹に宿した日のことを思い出さずにはいられないでしょう。そして思い出すたびに怖気を震わずにはいられません。無垢な赤ん坊が身動きすれば、母であれば嬉しいはずです。でもわたくしの血は怒りに燃え、これほどまでに汚れのない口唇からも呪詛の言葉が吐き出されることでしょう。フィリップ、わたくしはいい母親にはなれません! わたくしは呪われているんです!」
「アンドレ、頼むから落ち着くんだ。考え過ぎて気持を乱してはいけない。この子はおまえの血肉を分けた生命じゃないか。ぼくはこの子を愛している。だっておまえの子なんだから」
「この子を愛しているですって!」アンドレは怒りに青ざめていた。「よくもわたくしに向かって、わたくしたちの恥を愛していると言えたものですね! こんな犯罪の証拠、卑劣な犯罪者の忘れ形見を愛しているだなんて!……いいわフィリップ、先ほど言った通り、わたくしは臆病でもなければ偽善者でもないんです。この子が憎い。わたくしの子じゃありませんから! こんな子、望んだわけじゃないのですから! この子が呪わしい。きっと父親に似ているに違いないもの……父親!……そんな言葉を口にしたら、いつか死んでしまいそう! ああ神様!」アンドレが床に膝を突いた。「主よ! わたくしには産まれて来る子を殺すことが出来ません。あなたが生命を吹き込んだ子だから……子を宿している限りは自らの命を絶つことも出来ません。あなたが殺人に加えて自殺も禁じたからです。でもどうか、お願いですから、願いを聞いていただけたら、主よ、あなたに正義があるなら――この世の悲しみを気に掛けて下さるなら――このわたくしが恥と涙にまみれて生きた後で絶望のあまり死んでしまうことはないと請け合って下さるなら――どうか主よ、この子をお持ち帰り下さい! この子を殺して下さい! わたくしを救って下さい! わたくしの名誉をお返し下さい!」
激しい怒りと神がかった力で、アンドレは大理石の角に頭を打ちつけた。フィリップが懸命にしがみついても止めることは適わなかった。
突然、扉が開いた。女中が医師を連れて戻って来たのだ。医師は一目見て状況を読み取った。
「よいですか」医師は常と変わらぬ冷静な声を出した。それである者は命令に従い、ある者は素直に言うことを聞くようになる。「陣痛が来ても騒ぎ立ててはなりませんよ。間もなくかもしれない……」それから女中に向かい、「馬車の中で伝えたものをすべて用意するように。それからあなたは――」とフィリップに向かい、「妹さん以上に落ち着かねばなりません。一緒になって怯えたり弱気になったりせずに、私と一緒に励ましてあげるのです」
アンドレが狼狽えたように立ち上がったが、フィリップが椅子に押し戻した。
アンドレは苦しさに赤らみ、痛みに引きつって倒れ込んだ。握り締めた拳が椅子の縁飾りに触れ、青ざめた口唇から呻き声が洩れた。
「こんな風に苦しんだり倒れたり怒ったりするから発作が進んだのです。部屋に戻っていただけますか、ド・タヴェルネさん、それから……さあ、しっかり!」
フィリップは胸をふくらませてアンドレに駆け寄った。横たわって胸を上下させていたアンドレが、苦しさに耐えて起き上がり、フィリップの首に両腕を巻きつけた。
アンドレはがっちりとしがみつき、フィリップの冷たい頬に口唇を押しつけ、囁いた。
「さよなら!……さよなら!……さようなら!……」
「先生! 先生!」フィリップが絶望の叫びをあげた。「聞いて下さい……」
ルイ医師は優しいながらも断固として二人を引き離し、アンドレを再び椅子に坐らせ、フィリップを部屋に連れて行った。そうしてアンドレの部屋についている錠を掛け、カーテンも扉もすべて閉めて、この部屋に閉じ込めることで、女が医師も無しで、そして二人が神も無しで済まそうとしていた出来事をすっかり覆い隠した。
午前三時、医師が扉を開けると、その向こうでフィリップが泣きながら祈っていた。
「妹さんは男の子を産みましたよ」
フィリップが手を合わせた。
「入らないで。今は眠っている」
「眠っている……先生、本当に眠っているのですか?」
「もし違っているのなら、別の言い方をしていますよ。『妹さんは男の子を産みましたが、この子は母を亡くしてしまった……』と。何なら確かめてご覧なさい」
フィリップは覗いてみて、
「本当だ! 本当です!」と呟いて医師を抱きしめた。
「乳母の用意も出来ていますよ。ポワン=デュ=ジュールを通りがかった際に、そこに住んでいる乳母に、準備しておくように前もって伝えておきましたから……とは言うものの、連れて来るのはあなたでなければなりません。会いに行くのはあなたでなくてはならないのです……妹さんが眠っている間に、私が乗って来た馬車でお出かけなさい」
「先生はどうなさるのです?……」
「ロワイヤル広場に重篤な患者がいて……肋膜炎です……夜の間はそばにいて、薬を与えて結果を確認したいのです」
「冷えますよ……」
「外套がありますから」
「街は安全ではありません」
「この二十年というもの、何度も夜中に襲われましたよ。そのたびに答えて来ました。『私は医者で、病人のところに行くのです……欲しいのは外套ですか? 差し上げます。しかし命は取らないでもらえますか。私がいないと病人が死んでしまうのです』。この外套は二十年間役に立ってくれたのです。追剥ぎたちは取らずにいてくれました」
「先生!……明日でよいでしょうか?」
「明日の八時に参りましょう。では」
病人のそばで手厚く看護するようにと、医師は女中に指示を出した。医師の気持としては、子供は母のそばにいるべきだったが、フィリップは離してくれるように頼んだ。妹から先ほど見せられた激しい反応を忘れられなかったのだ。
そこでルイ医師は手ずから赤子を女中部屋に入れ、モントルゲイユ街から抜け出し、その間にフィリップはルール側から辻馬車に乗って出かけた。
女中はアンドレの傍らで、椅子に坐って眠りに就いた。
アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む。
十一月、言い換えるなら我々がお話しした出来事があってから一月後、フィリップ・ド・タヴェルネはその時期にしては朝早く――端的に言えば夜明けに、妹と暮らしている家から出かけた。まだ明かりも消えぬ時間ながら、パリ中の産業が目を覚ましていた。朝の瑞々しい空気の中、湯気の立ったお菓子を、田舎の貧乏商人がご馳走でも食べるように貪っている。野菜でいっぱいの籠。魚や牡蠣を積んだ二輪馬車が、市場を走り回っている。こうして忙しく立ち働きながらも、富裕層の眠りを妨げてはなるまいとばかりの控えめな様子も身体に染みついていた。
フィリップは人でごった返した自宅周辺地区を急いで通り抜け、人気のないシャン=ゼリゼーにたどり着いた。
梢の先で色褪せた葉がくるくると回転している。大部分は王妃の中庭の踏み固められた並木道を覆っていた。この時間帯には人気のない球技場も、震える葉群に隠れている。
フィリップはパリでも指折りのブルジョワのような裾のゆったりした服と絹のキュロットと靴下を身に着けていた。腰には剣を佩いている。丁寧に整えられた髪からは、昼前に当時のファッションの最高峰である鬘師の手に任せていたことが窺える。
だから、朝方の風によって髪が乱され髪粉が飛び散り始めたことに気づいて、フィリップはシャン=ゼリゼーの並木道で眉をひそめて、この道で営業している貸し馬車がどれか一台でも、まだ出発してはいないかどうか確かめた。
長くはかからなかった。使い古され壊れかけた年代物の四輪馬車が、痩せた川原毛色の雌馬に曳かれて、揺れ始めた。御者が何物も見逃すまいとした暗い目つきをして、木立の中に乗客がいやしないかと遠くに目を凝らしている。その様はあたかもティレニア海の波間に船を探すアイネイエスの如きであった。
フィリップを見つけた御者がさらに激しく鞭を当てた為、四輪馬車はすぐにフィリップのところにたどり着いた。
「九時頃までにヴェルサイユに行けるようにしてくれ。半エキュやろう」
言葉通り九時には、謁見を始めていた王太子妃からフィリップも朝の謁見を賜っていた。細心の注意を払い、また作法を脱ぎ捨てて、大公女はトリアノンでおこなわせている仕事を朝のうちに見て回ることにしていた。途中で謁見の約束をしていた請願者に出会うと、急いで用件を済ませた。智性と優美な佇まいの中にも威厳を失わず、優しさを誤解されていることに気づこうものなら尊大にさえなった。
初めこそフィリップは歩いて訪問しようとしていた。それだけ経済的に逼迫していたのだ。だが自尊心から――或いは、軍人なら目上の人間と対する際に決して失うことのない、敬意の気持から――ヴェルサイユを礼服で訪れんが為に倹約の日々を過ごさざるを得なかったのだ。
フィリップは徒歩で戻るつもりだった。梯子の同じ段の上で、正反対の地点から飛び出していながら、貴族階級のフィリップと平民階級のジルベールは交差していたのである。
フィリップは心を締めつけられながらも、なおも心を奪われているヴェルサイユに戻って来た。二人の将来を魅了して来た、黄金色と薔薇色の夢に満ちた場所。心をずたずたに切り裂かれて、不幸と恥の思い出であるトリアノンに戻って来た。九時ちょうどに、謁見状を手にして、四阿近くの花壇に沿って歩いていた。
およそ百歩ほど離れたところに、王太子妃が建築家と話をしているのが見えた。寒い季節ではないというのに、建築家は貂の毛皮を羽織っていた。王太子妃はワトーの描く貴婦人のような小さな帽子をかぶり、緑豊かな木立を背景にして立っていた。時折り、澄んだ声の震えた響きが届き、フィリップの感情を掻き立てた。普段であれば、傷ついた心のうちの悲しみを消し去っていたであろう。
フィリップと同じく謁見を許された人々が、次々と四阿の戸口に現れた。控えの間では取次が謁見の順序を按配しに来ていた。王太子妃が建築家のミックと戻って来るたびに、その途上にいる人々が言葉をかけてもらっていた。特別な計らいで言葉を交わした人さえいる。
それが終わると別の謁見者が現れるのを待った。
フィリップは今もしんがりにいた。王太子妃の目が自分に向けられたことにはとうに気づいていた。まるで王太子妃の方からも会いたがってくれていたように感じられて、フィリップは赤面し、その場に相応しい謙虚で忍耐強い態度を取ろうと努めた。
ついに取次がフィリップに声をかけた。ご用件はございませんか。王太子妃殿下は遅れてお戻りになるわけにはなりませんし、ひとたびお戻りになってしまえば誰ともお会いにはなりません。
そこでフィリップは進み出た。王太子妃から見つめられるままに、百歩の距離を縮め、適切な機会を捉えて恭しく挨拶をした。
王太子妃が取次を見た。
「この挨拶した者の名前は?」
取次が謁見状を読み上げた。
「フィリップ・ド・タヴェルネ殿です」
「ええ……」
王太子妃はフィリップのことをさらにじっくりと物問いたげに見つめた。
フィリップは身体を折り畳んだような状態で待っていた。
「ご機嫌よう、ド・タヴェルネさん。アンドレ嬢はお元気?」
「臥せっております。ですが妃殿下からいただいたご厚意のしるしを見れば元気になるに違いありません」
王太子妃は答えなかった。フィリップの痩せて青ざめた顔に苦しみを読み取り、町人のような簡素な服装の下に、初めてフランスの地を訪れた時に案内役を務めたあの将校を認めた。
「ミックさん、では舞踏室の内装についてはそういたしましょう。隣の森林園のことはもう決定いたしましたわね。こんなに長く寒い思いをさせてしまってごめんなさい」
「それでは失礼いたします」ミックはお辞儀をして立ち去った。
王太子妃からお辞儀をされて、待機していた人々もすぐに退出した。王太子妃は自分にも型通りに挨拶するはずだ、と考えて、フィリップはずっと苦しんでいた。
「妹さんは臥せっている、と仰ったわね?」目の前に王太子妃が現れてたずねた。
「臥せっております」フィリップは躊躇った。「控えめに申しましても元気がありません」
「元気がない?」王太子妃が首を傾げた。「あれほど健康的でしたのに!」
フィリップが頭を下げた。王太子妃は一族の許では鷲の視線と呼ばれる問うような目つきでそれを眺めてから、こう言った。
「少し歩いてもいいですか。風が冷たいので」
王太子妃が歩き始めても、フィリップは動かなかった。
「あら、いらっしゃいませんの?」マリ=アントワネットが振り向いてたずねた。
フィリップはひと飛びで王太子妃のそばに寄った。
「どうしてもっと早くにアンドレ嬢の具合を知らせて下さいませんでしたの?」
「そんな。妃殿下ご自身が仰ったのではありませんか……以前には妹に目を掛けて下さいましたが……今は……」
「今もまだ気に掛けておりますわ……ですけれど、ド・タヴェルネ嬢がとっとと仕事を辞めてしまったのではありませんの?」
「そうするしかなかったのです!」フィリップは声を絞り出した。
「何ですって? そうするしかなかった?……その言葉を説明して下さいな」
フィリップは答えなかった。
「ルイ先生が話してくれました。ヴェルサイユの空気はド・タヴェルネ嬢の健康に良くないそうですね。お父様の家で過ごせば元通りになると……そう言われました。妹さんが出発前に一度だけ訪ねてくれましたが、顔色も悪く悲しそうでした。その際に妹さんがどれだけ我慢しているのかはっきりと伝わって来ました。あんなにたくさんの涙を流していたのですから!」
「嘘偽りのない涙でございます。心が激しく打ちつけ、涸れることもなりません」
「確かお父様に宮廷に連れて来られたはずでしたから、故郷が恋しくなって、何処か具合が……」
「妃殿下」フィリップが急いで口を挟んだ。「妹が恋しがっているのは妃殿下を措いてほかにございません」
「それなのに苦しんでいるなんて……おかしな病気ですね。故郷の空気で良くなるはずなのに、悪化してしまうなんて」
「いつまでも妃殿下に誤魔化しているわけには参りません。妹の病気は深い悲しみによるもので、絶望と隣り合わせの状態にまで悪化してしまいました。ド・タヴェルネ嬢が愛しているのはこの世で妃殿下とぼくだけであるにもかかわらず、愛情よりも神を信じるようになったのです。ここに謁見をお願いしましたのも、妹のこうした願いを妃殿下に援助していただきたかったからでございます」
王太子妃が顔を上げた。
「修道院に入りたがっているというのですか?」
「はい、殿下」
「それは辛いでしょう? あなたは妹さんを愛してらっしゃるのに」
「妹の立場に相応しい判断をしたと思っておりますし、そもそもこれはぼくが言いだしたことです。ぼくはアンドレを愛しています。この考えが間違っているとは思いませんし、欲得ずくだと思われることもないでしょう。アンドレを幽閉することでぼくには何の益もありません。お互いに何一つ持ってなどいないのですから」
王太子妃は動きを止めて、改めてフィリップを盗み見た。
「あなたは理解しようとはなさらなかったけれど、わたくしが先ほど申し上げたのはそのことです。お金には苦労なさっているのでしょう?」
「妃殿下……」
「うわべだけの恥などお忘れなさい。大事なのは妹さんの幸せではありませんか……率直にお答え下さい。誠実に……あなたが誠実な方なのはわかっておりますもの」
誠実に光るフィリップの目が大公女の目とぶつかり、そのまま下がらなかった。
「お答えいたします、殿下」
「では。妹さんが俗世を離れたがっているのには、すぐにでもそうしなくてはならない止むに止まれぬ事情があるのですか? 何ということを口になさるのかしら! 君主というのも不便なものですね! 神から不幸を憐れむ心をいただいていながら、慎みの名のもとに、それを見抜く洞察力を拒まれているのですから。率直にお答え下さい。そうなのですか?」
「違います」フィリップはきっぱりと答えた。「そうではありません。ですが妹はサン=ドニ修道院に入りたがっておりますし、それなのに必要な持参金の三分の一しかないのです」
「持参金は六万リーヴルでしたね。では二万リーヴルしかお持ちではないのですか?」
「それだけは何とか。ですが妃殿下ならお出来になるはずです。たった一言で、財布の紐をゆるめることなく、寄宿生を受け入れさせることが出来るはずです」
「確かにその通りです」
「でしたら特別にご厚意をお願いするわけには参りませんか。既に妹がルイーズ・ド・フランス様のところでどなたかに仲介の約束を取りつけていなければの話ですが」
「聯隊長、突然のお話ですね」マリ=アントワネットが不思議そうに言った。「わたくしの周りには、貧しい貴族の方がたくさんいらっしゃるのです! それがわかっていなかったことはお詫びいたします」
「ぼくは聯隊長ではありません」フィリップの声は穏やかだった。「今のぼくは妃殿下の忠実な僕でしかありません」
「聯隊長ではないと仰いましたか? いつからでしょう?」
「一度でもそうだったことはありません」
「国王はわたくしの見ているところで聯隊の約束をなさったじゃありませんか……」
「任命状が届かなかったのです」
「でも階級が……」
「国王の不興を買って落ちぶれた以上は、それも諦めました」
「国王の不興? 何故ですの?」
「わかりません」
「ああ! 宮廷というところは……」王太子妃は悲しみを露わにした。
フィリップが侘びしげに微笑んだ。
「妃殿下は天使でいらっしゃいます。フランス王家にお仕えして、妃殿下の為に死ぬ機会を得ることが叶いませんのが残念でなりません」
王太子妃の双眸に激しい光がよぎり、フィリップは両手で顔を覆った。王太子妃はそれを慰めようとも、この瞬間にフィリップの頭を占めていた考えを取り除こうともしなかった。
王太子妃は声も立てず何とか息を吸って、ベンガル薔薇の花を震える手でむしり取った。
フィリップが再び口を開いた。
「許していただけますか」
マリ=アントワネットはその言葉には応えなかった。
「妹さんがそうしたければ明日にでもサン=ドニに入れます」王太子妃の声は燃えるように鮮やかだった。「そしてあなたは、一月後には聯隊の責任者になっているはずです。わたくしがそういたしましょう!」
「妃殿下、先ほどの言葉を聞いてもなおこのようなご厚意を寄せて下さるのですか? 妹は妃殿下のご親切をお受けいたしますが、ぼくの方はお断わりせねばなりません」
「断ると言うのですか?」
「ええ。ぼくは宮廷で侮辱を受けました……侮辱した人たちは、ぼくが今より厚遇されたらもっとひどいことをしてくるでしょう」
「わたくしの庇護があってもですか?」
「その故にますますひどくことなるでしょう」フィリップは断言した。
「その通りですね!」大公女は青ざめて呟いた。
「それに……忘れていました。殿下とお話ししながらすっかり忘れていました。この世に幸運などもうないことを……暗がりに籠ってもう外に出るべきではないことを。暗がりの中で勇気を持って祈り、心のよすがにいたします!」
フィリップの声の響きに、王太子妃は背筋がぞっとするのを感じていた。
「その時が来たら、今は頭の中で考えるしか出来ないことも、口にすることが出来ますもの。妹さんがそうしたくなったらいつでもサン=ドニに入れますよ」
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
「あなたの方は……どうか希望を仰って」
「ですが……」
「お願いですから!」
王太子妃の手袋を着けた手が下がるのが見えた。何かを待つように宙ぶらりんのまま。意味するところは恐らく命令にほかならなかった。
フィリップはひざまずき、手を取り、胸を高鳴らせながらゆっくりと口唇をつけた。
「希望を!」王太子妃は感動のあまり手を引っ込めることもしなかった。
フィリップが顔を伏せた。辛い思いが波となって、船を飲み込む嵐のようにフィリップを飲み込んだ……しばらくは口を聞くことも動くこともしなかったが、やがて立ち上がった顔色は変じ、目からは生気が消えていた。
「フランスを出る旅券を下さい。妹がサン=ドニ修道院に入った日に、ぼくはフランスを発ちます」
ぎょっとしたように王太子妃が後じさった。フィリップがどれほど苦しんでいるのかを理解し、共感してしまっては、曖昧な言葉を返すことしか出来なかった。
「そうですか」
そして常緑の帷子を纏った孤独な糸杉の並木道に姿を消した。
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