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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 163/165

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百六十三章 船上にて

 その時から、アンドレの家には墓場のような静寂と陰鬱な空気が垂れ込めた。

 我が子の死を伝えられてアンドレは死んでいたかもしれない。それは永遠に続くかと思われるような、鈍く重い苦しみだったはずだ。ジルベールの手紙は刺激が強すぎた。残されていた激しい力と感情のすべてが、アンドレの穏やかな心の中で爆発した。

 意識を取り戻したアンドレは兄を探し、兄の目に怒りを読み取ると勇気を新たにした。

 アンドレは声が出せるまで力が戻るを待ってから、フィリップの手を取った。

「お兄様、朝になればわたくしをサン=ドニ修道院に入れると仰いましたね。王太子妃殿下が一人部屋を用意して下さったとか」

「ああ」

「今日連れて行って下さいますか」

「わかってくれてありがとう、アンドレ」

「それから先生、お心遣いにお心尽くしには感謝してもしきれません。お礼しようにもこの世ではお礼の方法も見つけられませんわ」

 アンドレは医師に近づき抱擁した。

「このロケットにはわたくしの肖像画が入っています。十歳の誕生日に母からもらったものです。あの子のものになるはずでした。どうか預かっていただけますか。そうして、先生がこの世に生を授けたあの子のことや、看病して救って下さった母親のことに、時々でいいので耳を傾けて下さい」

 そう言ってアンドレは何の感情も見せずに修道院行きの準備を終え、夜六時には顔も上げずにサン=ドニの面会室の小門をくぐった。鉄柵の向こうで、感情を抑えきれないフィリップが、永遠となるであろう別れを心の中で呟いていた。

 憑物が落ちたようにアンドレから力が奪われた。慌てて駆け寄って来たフィリップが腕を広げ、アンドレの方に手を伸ばした。冷たい柵越しに二人は再会を果たし、涙で火照る頬を寄せ合った。

「さようなら、お兄様!」アンドレが悲しみを抑えきれずに泣き出した。

「さようなら!」フィリップも絶望に息を詰まらせて応えた。

「いつかあの子に会うことがあったなら……」アンドレが囁いた。「一度もこの手に抱きしめずには死にきれません」

「馬鹿なことは考えるな。さようなら」

 アンドレはフィリップから離れると、平修道女に付き添われて前に進んだ。その間中ずっと修道院の奥の暗がりを見つめ続けていた。

 フィリップはアンドレが見えなくなるまで表情で思いを伝え、やがて手巾を振り、最後には暗い回廊の奥からアンドレが送った別れの合図を受け取った。ついに二人の間に重い音を立てて鉄の門が降ろされ、すべてが終わった。

 フィリップはサン=ドニの宿駅に向かった。馬の背に鞄を置き、夜も昼もなく馬を走らせ、翌日の夜にはル・アーヴルに到着した。最初に見かけた宿に泊まり、その翌日の夜明けと共に、次にアメリカ行きの船が出る港は何処かをたずねた。

 ちょうどその日、ラドニ号がニューヨーク行きの出航準備を終えたところだ、という話だった。フィリップは船長に会いに行き、準備を終えたばかりの船長に途中までの船賃を支払って乗船の許可を得た。それから、王太子妃に対する心からの献身と感謝を伝える手紙を書いてから、荷物を船室に入れ、潮時になると自分も船に乗り込んだ。

 四時の鐘がフランソワ一世塔に鳴り響くと、ラドニ号は中檣帆と前檣帆を掲げて水路を出た。海は青く暗く、水平線上の空は赤く染まっていた。フィリップはまばらな同乗者と挨拶を交わし終えると、菫色の靄に覆われたフランスの海岸を見つめていた。船は帆を幾つも掲げ、右に大きく舵を切ると、エーヴ岬を過ぎ、満潮の海を進んだ。

 やがてフランスの海岸も、乗客も、海も、何も見えなくなった。真っ黒な夜が巨大な翼ですべてを包み込んだのだ。

 フィリップは小さな寝台に潜り込み、王太子妃に送った手紙の写しを読み返した。それは人に捧げた別れの言葉であると同時に、神に捧げた祈りでもあった。

『妃殿下、希望も支えもない人間は殿下の許を去らせていただきます。殿下の未来の為に何のお役にも立てなかったことが残念でなりません。殿下が政府の危機と難局の中でお過ごしになる間、斯かる人間は海の暴風と波瀾の中を進みます。お若くてお美しく、誠実なご友人と熱烈な信奉者に崇められ、取り囲まれていらっしゃる妃殿下は、王家の手によって人々の中から掬いあげていただいた者のことなどお忘れのことと存じますが、小生は妃殿下のことを絶対に忘れません。小生はこれから新世界に行って、玉座におわす妃殿下の為にもっとお役に立てる方法を学びます。見捨てられた哀れな花である妹のことはお願いいたします。妹にとって殿下の眼差しだけがもう一つの太陽となることでしょう。時々でよいのでどうか妹にも目を向けて下さい。慈しみの心や王権の力を纏い、万人から祝福を唱和される妃殿下にお願い申し上げます。もうその名を耳にすることも出会うこともない亡命者の為に、どうか祝福をお与え下さい』

 読み返すと心が締めつけられた。船が呻くような陰鬱な音を立て、円窓にぶつかった波が砕け散ってざわめき、どれだけ陽気な気分をも落ち込ませるような侘びしいアンサンブルを奏でていた。

 フィリップには長く苦しかった夜が終わった。朝になって船長の訪問を受けても、心は元のようには晴れなかった。船長の話では、大部分の乗客は海を恐れて船室に籠っているという。航海は短いが厳しいものになるだろう。暴風のせいだ。

 それ以来フィリップは船長と夕食を摂り、部屋で朝食を給仕させてもらうようになった。快適とは言い難い海に耐性があるとは思えなかったので、士官の外套にくるまって長い時間を上部甲板で過ごすようになった。残りの時間はこれからの計画を立てるのと、手紙を読み返して心の支えにするのに充てた。時々は乗客にも出会った。二人の婦人は遺産を相続しに北アメリカに行くところだった。二人の息子のいる老人を含む四人の男にも会った。こうした人々は一等船室の乗客だった。もっと庶民的な身なりをした人を見かけたこともある。興味を惹かれるような人間はいなかった。

 決まったことを繰り返すことで苦しみは和らぎ、空のように穏やかな心を取り戻していた。晴れ渡り嵐もない天気のいい日が続いているのは、温暖な気候帯に近づいているからだろう。甲板で過ごす人も増えた。人とは話さないと決め、船長にさえ名前を明かさず、如何なる話も避けて来たフィリップにも、夜中まで頭上で足音がしているのが聞こえていた。乗客たちと歩いている船長の声さえも聞こえる。上に出ないのはそういう理由だった。円窓を開いて冷たい空気を吸い込み、次の日が来るのを待った。

 一度だけ会話も足音も聞こえない夜に、フィリップは甲板に上がった。生暖かく、空は曇り、航跡が泡を立てて輝いていた。乗客たちにとっては、どうやら今夜は暗くて天気が悪いのだろう。船尾楼甲板では誰にも会わなかった。だが船首に行くと、第一斜檣に寄りかかって眠っているか空想に耽っているかしている人影が見えた。どうにか見分けたところでは、二等船室の乗客らしい。フィリップがフランスの港を見つめていた間、アメリカの港を夢見て前方を見つめていた亡命者だろう。

 フィリップはこの乗客を長いことじっと見つめていたが、朝の冷気に触れられて、船室に戻ろうとした……だが前甲板の乗客は白み始めた空を見つめたままだ。船長の足音を聞いてフィリップは振り返った。

「涼みにいらしたのですか?」

「今起きたところです」

「乗客に起こされてしまいましたか」

「あなたに、ですよ。軍の方も船乗りに負けず早起きのようですな」

「ぼくだけではないでしょう……あそこで物思いに耽っている人がいますよ。あの人も乗客ではありませんか?」

 気づいた船長が驚きを見せた。

「あれは誰です?」フィリップがたずねた。

「あれは……商人ですよ」船長が困ったように答えた。

「財産を追い求めているというわけですか? そういう人にはどうやらこの船は遅すぎるようだ」

 船長はそれには答えずに、乗客のところに行って声をかけた。すると乗客は中甲板に姿を消した。

「考え事の邪魔をしてしまったようですね」フィリップは戻って来た船長にそう言った。「別に迷惑だったわけではないのですが」

「なに、この辺りは朝の冷え込みが厳しいと忠告して来たんですよ。二等船室の客はあなたのように立派な外套を持っていませんからな」43825

「ここはどの辺りなのですか?」

「明日にはアゾレス諸島に着くので、そこで冷たい水を補給する予定です。暑くなりますから」

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『ジョゼフ・バルサモ』 162

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第百六十二章 ジルベール最後の挨拶

 フィリップは恐ろしい夜を過ごしていた。雪の上に足跡があるのを見れば、誰かが家に侵入して赤ん坊を攫ったのは明らかだった。だがいったい誰が? それを明らかにする手がかりが何もない。

 フィリップは父親のことがよくわかっていたから、父親こそこの事件の共犯であるのだと信じて疑わなかった。ド・タヴェルネ男爵はこの子の父親がルイ十五世だと信じていた。である以上、国王がデュ・バリー夫人におこなった不貞の、生きた証拠を確保することに大きな価値を見出したに違いない。遅かれ早かれアンドレが寵姫に助けを求め、もたらされるありきたりの財産にもっと高い値をつけて買い戻そうとすると信じたに違いない。

 父の性格について天啓を受けて、フィリップは多少なりとも落ち着きを取り戻した。誘拐犯が誰なのかわかっている以上、取り返す見込みはある。

 そこで八時にルイ医師を待ち伏せ、通りを歩きながら恐ろしい夜の出来事を話して聞かせた。

 医師は相談相手として最適だった。庭の足跡を調べ、考えた結果、フィリップの推理を後押しした。

「私も男爵のことは知っています。このくらいのことはしかねないでしょう。しかしですね、別の利害――もっと直接的な利害を持った人物が、この子の誘拐をおこなった可能性はないのでしょうか?」

「どういうことでしょうか?」

「本当の父親ですよ」

「そのことは考えました。でもあいつにはパンすらないんです。それにあの気違いは今頃は逃げ出して、ぼくの影にさえ怯えているはずです……間違ってはいけません、あいつは好機に乗じて罪を犯しました。でも今のぼくは怒りとは程遠いところにいるんです。あの犯罪者を憎んでいるのはもちろんですが、二度と顔を合わせないようにするつもりです。会うと殺してしまうでしょうから。あいつだって悔恨の念を感じて罪の意識に打たれているものだと信じてます。あいつなんて飢えてさすらえばいいんです、この剣を用いずともそれが復讐になるでしょうから」

「もうその話はやめにしましょう」

「一つだけ嘘に付き合ってくれませんか。何よりも大事なのは、アンドレを安心させることですから。昨日は赤ん坊の具合が心配になって、夜になってから乳母のところに連れて行ったのだと伝えてくれませんか。アンドレのことを思って最初に考えついた作り話なのです」

「伝えましょう。あなたは赤ん坊を捜しに?」

「手はあります。ぼくはフランスを離れます。アンドレがサン=ドニの修道院に入る際に、父上と会うことになるでしょうから、すべて知っていると告げるつもりです。赤ん坊の隠し場所を引き出してみせますよ。世間にぶちまけると言ったり妃殿下に口を利いてもらうと言ったりして圧力をかければ、きっと上手くいきます」

「妹さんが修道院に入るとなると、赤ん坊はどうするつもりなのです?」

「どなたか紹介していただけますか。その方のところに子守りに預けたいと考えています……学校に進み、大きくなったら、引き取るつもりです。ぼくが生きていればの話ですが」

「あなたも子供もいなくなることに、母親は同意しているのですか?」

「ぼくのやろうと思っていることになら、アンドレは何にでも同意してくれます。ぼくが妃殿下に陳情申し上げたことは知っていますし、ぼくは妃殿下から約束の言葉をいただきました。ぼくらを庇護して下さる方に対して敬意を欠くようなことは妹もするはずがありません」

「よければ母親のところに戻りませんか」

 医師は言葉通りアンドレの部屋に入った。アンドレはフィリップに看病されたおかげで安らかに眠っていた。

 目を開けて最初に口に出したのは、医師への質問だったが、答えるまでもなく医師の明るい表情がすべてを語っていた。

 それでようやくアンドレもすっかり落ち着いて、快復も早まり、一週間すると起き上がり、ステンドグラスに陽が落ちる頃には温室を歩けるようになっていた。

 ちょうどその日、何日か家を空けていたフィリップがコック=エロン街の家に帰って来た。その表情があまりにも暗かったので、扉を開けた医師は、何か良くないことがあったのだと悟った。

「何があったのです? お父上から赤ん坊を返してもらえませんでしたか?」

「父上は……熱を出して、パリを発った日から三日間、寝台に釘付けになっており、ぼくが訪れた時には息も絶え絶えでした。これはきっと病気のふりをして一杯食わせるつもりだな、それこそ誘拐に関わっていた証拠に違いない、と考え、強気で責め立てました。ですが父上はキリストの名にかけて、何を言われているのかわからない、と誓ったのです」

「それで何の手がかりもないまま戻って来たと?」

「そういうことです」

「男爵が本当のことを仰っているのは間違いありませんか?」

「まず間違いありません」

「あなたよりも狡猾な方だ。本音を見せなかったのではありませんか」

「妃殿下に口を利いてもらうと言って脅すと、真っ青になって言ったのです。『わしを破滅させたいのならすればいい。父と自分の名誉を汚せばよかろう。怒りにまかせてとち狂ったところで、何の解決ももたらされんぞ。お前が何を言いたいのかわしにはさっぱりわからん』と」

「それで……?」

「それで、ぼくはがっかりして帰って来たのです」

 その時、アンドレの呼ぶ声が聞こえた。

「いま入って来たのはフィリップなの?」

「何てこった! こんな時に……何と言えばいいのだろう?」

「何も言ってはいけません!」医師が諫めた。

 アンドレが部屋から出て来て優しく抱きしめるので、フィリップは肝を冷やした。

「何処に行ってらしたの?」

「まずは父上のところだよ。話しておいただろう」

「お父様はお元気でした?」

「ああ、元気だったよ。でも立ち寄ったのは父上のところだけじゃない……お前をサン=ドニに入れる為に、いろいろな人に会って来たんだ。ありがたいことに、これですべての準備は整った。これで髪を下ろして、将来を修身と信仰に費やすことが出来るよ」

 アンドレがフィリップに近寄り、穏やかに微笑んだ。

「お兄様、わたくしは自分の将来になどもう何も費やしません。わたくしの将来には誰も時間を費やしてはならないんです……我が子の将来こそが、わたくしのすべて。神が与えて下さった息子の為だけにすべてを捧げます。それがわたくしの決意――体力が回復して心に迷いがなくなってから、心に決めたことです。息子の為に生き、切りつめて生活し、必要とあらば働くことも厭いませんが、息子から片時も離れるつもりはありません。それがわたくしの描いた将来です。修道院も諦め、我欲も捨てます。わたくしは他人のもの。神様もわたくしのことはもうお構いなさいませぬよう!」

 医師がフィリップに目顔で問いかけた――先ほど言った通りではありませんか?

「アンドレ、アンドレ、何を言っているんだ?」

「怒らないで、フィリップ。弱くて見栄っ張りな女の気まぐれではないんです。お兄様に迷惑はかけません、すべて自分で面倒を見ます」

「だが……だがアンドレ、ぼくはフランスを離れなくちゃならない。すべてを置き去りにしていくつもりなんだ。もうぼくには財産もない。未来もない。祭壇の下におまえを置いていくつもりだったんだ。それなのに、世間だって?……仕事だって?……アンドレ、大丈夫なのか?」

「もう覚悟は出来ています……愛してます、フィリップ。でもわたくしの許を離れるというのなら、涙は堪えて、息子の揺りかごのそばで引き籠もることにします」

 医師が近づいた。

「あなたは混乱しているんです」

「仕方ないじゃありませんか、先生! 母親というのは混乱しているものですわ! でもこの混乱も神様が下さったのです。あの子がわたくしを必要としている以上は、決意を曲げるつもりはありません」

 フィリップと医師が目を交わした。

「お嬢さん」医師が初めに口を開いた。「私は説教師ではありませんから上手く話せませんが、神が人間に対して激しすぎる執着を禁じていたことは覚えていますよ」

「そうだとも、アンドレ」

「神様も母親に対して我が子を愛することを禁じてはいなかったのではありませんか、先生?」

「いいですかお嬢さん。哲学者も医者も、人間の愛の為に神学者が掘った穴の深さを測ろうとしているんです。神から授かった教えに従い、大本を探りなさい。精神的な理由を探すだけではいけません。それだと完全で細かすぎることがありますからね。物質的な理由も探すのです。神は母親に対して、子供に愛を注ぎすぎることを禁じました。子供とは弱く細い茎であり、災いや苦しみを引き寄せやすいからです。束の間の命に過剰な愛を注ぐことは、絶望に陥る危険を伴っているからです」

「先生、どうしてそんなことを仰るんですか? それにフィリップも、どうしてそんな慰めるような顔をして見つめているの? 真っ青じゃない」

「アンドレ、友人からの助言だと思って聞いてくれ。元の身体に戻ったんだから、出来るだけ早くサン=ドニ修道院に入った方がいい」

「フィリップ!……あの子を置いては行けないと言ったじゃありませんか」

「あなたのことが必要ならそうしますよ」医師が静かに言った。

「どういうことです? 話して下さい。何かひどいことでもあったのですか?」

「お気をつけなさい」医師がフィリップに耳打ちした。「まだ衝撃に耐えられるほどではありません」

「お兄様、答えてくれないのね。説明して下さい」

「アンドレ、帰りがけにポワン=デュ=ジュールを通って、あの子を子守りに預けて来たと言っただろう」

「ええ……それで?」

「うん、あの子は具合が悪くてね」

「あの子の具合が……マルグリット……マルグリット……急いで馬車を! あの子のところに行かなくては!」

「無茶だ! あなたはまだ馬車に乗れるような状態じゃない」医師が声をあげた。

「今朝は大丈夫だと仰ったじゃありませんか。フィリップが戻って来た時、明日になればあの子に会えると仰ったじゃありませんか」

「きっと良くなりますから」

「嘘ではございませんね?」

 医師は答えなかった。

「マルグリット! 言う通りにして……馬車を!」

「そんなことをしては死んでしまう」フィリップが止めた。

「だったら死にます!……命に未練はないもの……」

 マルグリットはアンドレとフィリップと医師に代わる代わる目を遣りながら立ち尽くしていた。

「早く! 命令です!……」アンドレの頬が真っ赤に染まった。

「アンドレ!」

「何も聞くつもりはありません。馬車を用意できないというのなら、歩いて行きます」

「アンドレ」フィリップがアンドレをとっさに抱きしめた。「行くな、行っても仕方がないんだ」

「あの子は死んでしまったのね!」アンドレは凍えるような声を出した。フィリップと医師が椅子に坐らせると、アンドレは椅子に滑らせるように腕を落とした。

 フィリップは何も言えずに、冷たく強張った手に口づけすることしか出来なかった……やがて首筋から緊張も解けると、アンドレはうなだれて涙を流した。

「神の思し召しだよ。ぼくらはこの試練に耐えなくてはならない。偉大で公正な神のすることだもの、きっとお考えがあるんだよ。あの子がおまえのそばにいるのは不当な罰だったと判断なさったんだ」

「でも……どうして神様は罪もないあの子を苦しめるようなことをなさるのかしら?」

「神は苦しめたりなどなさっていませんよ」と医師がいった。「あの子は生まれたその晩に亡くなったのです……消え去った幻にいつまでも未練を抱いてはいけません」

「わたくしが聞いたあの声は……?」

「あの子がこの世に別れを告げる声でした」

 アンドレが顔を覆うと、フィリップと医師は目を交わした。優しい嘘が効果を上げたという点で、二人の思いは一致していた。

 突然マルグリットが手紙を持って戻って来た……アンドレ宛てだ……

『アンドレ・ド・タヴェルネ嬢、パリ、コック=エロン街、九番地、プラトリエール街を出て最初の正門』

 フィリップはアンドレの頭越しに医師に手紙を見せた。アンドレは泣きやんでいたが、苦しみのうちに閉じ籠もっていた。

 ――誰だろうな? とフィリップは考えた。ここの住所は誰も知らないはずだし、父上の筆跡ではない。

「アンドレ、おまえ宛てだよ」

 考えることも抵抗することも驚くこともせず、アンドレは封筒を破って目を拭い、手紙を広げて読み始めた。だが三行の文章に目を走らせただけで、大きな悲鳴をあげ、気が違ったように立ち上がり、四肢を痙攣で強張らせ、駆け寄って来たマルグリットの腕の中に彫像のようにずさりと倒れ込んだ。

 フィリップが手紙を拾い上げて読んだ。

『海上にて、一七……年、十二月十三日

 あなたに追い払われて旅に出ます。もう会うことはないでしょう。僕の子は預かってゆきます。この子があなたを母と呼ぶことはありません!

 ジルベール』

 フィリップは怒鳴り声をあげて手紙を握りつぶした。

「糞ッ!」と歯軋りし、「その場の勢いに流されて犯した罪だからこそ、大目に見てやっていたんだ。今回は明確な意思を持って罪を犯した以上、報いは受けさせてやる……アンドレ、失神したおまえの心にかけて誓おう。あいつが目の前に現れたらその場で殺してやる。神もぼくらを邂逅させてくれる。あいつは一線を越えたんだ……先生、アンドレは意識を取り戻すことが出来ますか?」

「ええ、大丈夫ですよ!」

「先生、明日はアンドレをサン=ドニの修道院に入れて、明後日には次の寄港地に行かなくてはなりません……あいつが逃げ出した以上……追いかけてやる……それに、ぼくにはあの子が必要なんです……先生、一番近い寄港地は何処ですか?」

「ル・アーヴルです」

「三十六時間後にはル・アーヴルに着いてみせます」フィリップが答えた。

『ジョゼフ・バルサモ』 161

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第百六十一章 出発

 公証人の家でおこなわれた取り決めは万事速やかだった。ジルベールは数百リーヴルを子供の教育や世話に充て、さらには成人した子に農場を作る為に取りのけてから、残りの二万リーヴルを預けた。

 十五年の間は年に五百リーヴルを教育と扶養に充て、残りは何らかの持参金なり農家や土地の購入に充てるなりする心積もりだった。

 そんな風に我が子のことを考えるにつけ、子守りのことを考えた。子供が十八歳になったら、ピトゥには二千四百リーヴルが渡るようにして欲しい。それまでは年に五百リーヴルまでしか払ってはいけない。

 ニケ氏には仕事の見返りに利子で満足してもらうことになった。

 ニケからはお金の、ピトゥからは赤ん坊の受領書を書いて貰った。ピトゥはニケの署名と金額を確認し、ニケは赤ん坊に対するピトゥの署名を確認した。そして昼頃、若いに似合わぬ賢明さに驚いているニケを感嘆のうちに、そして突然の財産を得たピトゥを歓喜のうちに残して、ジルベールは立ち去った。

 アラモン村のはずれまで来ると、全世界とお別れするような気分になった。この世界などもはやジルベールには何の意味も見込みもない。暢気な若者の生活に別れを告げて来たばかりなのだ。人からは犯罪と呼ばれ、神からは厳しく罰せられるような、重大な行動を終えて来たばかりなのだ。

 それでもジルベールは自分の考えと力を信じていたので、迷いなくニケ氏の腕から離れた。ニケ氏は友情を露わにして様々な訴えを持ちかけながらついて来ていたのだ。

 だが心とは気まぐれで、移ろいやすいのが人間の性だ。意思や気力の強い人間であればあるほど、考えていることを速やかに実行に移すものだ。ジルベールはその第一歩で隔てることになる距離を測った。迷いのなさに翳りが見えたのはその時だ。カエサルの言う如く、「ルビコンを渡るべきなりしか?」と自問したのはその時だった。

 ジルベールは森のはずれまで来ると、改めて木立に向かって振り返った。梢の赤く色づいた森はアラモン全体を覆い隠し、見えるのは鐘楼だけだった。幸福と平和に満ちたその美しい光景を見て、未練と歓喜の綯い交ぜになった夢に溺れた。

「僕は気違いだ。何をしようとしているんだ? 神様は天の向こうで怒りに顔を背けないだろうか? 糞ッ! 思いついてしまったものは仕様がない。思いつきを実行に移すのに状況が味方していたんだ。天啓に打たれて悪事をおこなった僕のような人間が、悪事の償いをしようという考えを受け入れて、今では財産と我が子を手にしているんだぞ! 一万リーヴルあれば――残りの一万リーヴルは我が子の為に取っておくから――善良な村人に混じって、この肥沃な大自然の中で、幸せな農夫のように暮らせるさ。働いたり考え事をしたり、世間のことを忘れたうえに僕のことを忘れてもらったり……そんな甘い幸福に埋もれて過ごしてもいいじゃないか。この手で我が子を育て、仕事を楽しめたら最高に幸せだろうなあ!

「駄目かな? 苦しんだ代償に幸運がもたらされたっていいはずだ。そんな風に暮らすのもいいじゃないか。お金の残りを使ってこの子の代わりに農夫になり、雇い人に払うお金はそうやって稼いで、子供はこの手で育てればいい。父親は僕なんだと、前に話したことはどれも僕のことだったんだと、ニケさんに告白したっていいじゃないか!」

 心の中に徐々に喜びと希望が満ちて来た。まだ味わうまでには至らないが、愉快な幻を夢見るまでに空想はふくらんだ。

 突然、果実の奥で眠っていた虫が目を覚まし、醜い頭をもたげた。悔恨、恥辱、不幸。

「無理に決まってるじゃないか」顔から血の気が引いていた。「僕はあのひとから赤ん坊を奪ったんだ。あのひとの名誉を奪ったように……その償いをする為にあの人からお金を引き出したんだ。もう僕には幸せになる権利なんかない。赤ん坊を育てる権利もない。あのひとに権利がないのなら、僕にだってあるわけがない。あの子は僕ら二人のものか、そうでなければ誰のものでもないんだから」

 その言葉に胸が裂かれたように痛んだ。ジルベールは絶望に駆られて立ち上がった。顔には暗くおぞましい激情が浮かんでいた。

「いいだろう、僕は不幸を選ぶ。苦しみを選ぶ。何もかも失う方を選ぶ。だが僕の幸せの為に使うはずだったお金は、災いの為に使うことにしよう。これからの僕が遺すのは復讐と不幸だ。怖がらなくていいよ、アンドレ、僕も一緒に辛い思いをしてあげるから!」

 ジルベールは右に曲がり、考えるたびに向きを変えた挙句、森の中に飛び込み、ノルマンディー目指して休みなく歩いた。四日歩けば到着する計算だった。

 九リーヴルと少しある。見た目は誠実そうで、顔は穏やかで落ち着いていた。本を抱えた姿は、実家に戻る学生そのものだった。

 夜は綺麗な道を歩き、昼は太陽の下で牧草地で眠るようにした。二度だけ、そよ風に邪魔されて民家に入るのを余儀なくされた時には、暖炉にある椅子の上で、夜が来たことも気づかずにぐっすりと眠った。

 言い訳も目的地も用意してあった。

「ルーアンの伯父に会いに行くんです。ヴィレル=コトレから来ました。若いので気晴らしも兼ねて歩いて行きたいんですよ」

 農夫たちは疑わなかった。本は尊敬の塊であったのだ。農夫たちの薄い口唇に疑いが上っていれば、天命を学んでいる神学校の話をするつもりだったのだが、ジルベールの悪い予感は完全に裏切られた恰好だった。

 こうして一週間が過ぎた。ジルベールは農夫のように暮らし、一日に十スー使い、十里を歩いた。ついにルーアンに到着した。もう道をたずねる必要も探す必要もない。

 携帯していたのは『新エロイーズ』の豪華本だった。一ページ目に署名を入れてルソーから贈られたものだ。

 所持金が四リーヴル十スーにまで減ると、ジルベールは大事にしていたこのページを破り取り、三リーヴルで本屋に売った。

 こうしてジルベールはル・アーヴル目指して進み、三日後の日暮れには海を見ることが出来た。

 短靴の状態はとてもではないが絹靴下を履いて街歩きをしゃれ込もうとする若者のものには見えない。だがジルベールにはまだ考えがあった。絹靴下を売った――というよりは、頑丈な短靴と交換してもらったのだ。野暮は言わぬ、多くは語るまい。

 最後の夜をアルフルールで過ごし、十六スーで泊まり、食事をした。そこで生まれて初めて牡蠣を食べた。

 ――貧乏人にはたいしたご馳走だな。人間が悪行を為している間も神は善行だけを為していた、というルソーさんの言葉は本当だったわけだ。

 十二月十三日、朝の十時、ジルベールはル・アーヴルの町に入り、三百トンの帆船ラドニ号が船渠ドックに浮かんでいるのを目にした。

 港には人気がない。ジルベールは思い切ってタラップを渡った。見習い水夫が近づいて来て、誰何した。

「船長は?」ジルベールがたずねた。

 水夫が三等船室で合図すると、すぐに下から声が聞こえた。

「降りて来てもらえ」

 ジルベールが降りて行くと、簡素な家具の入った、マホガニーで出来た小部屋があった。

 男は三十歳ほど。青白く、逞しい。目には輝きと不安。壁と同じマホガニー製の机に新聞を置いて読んでいた。

「用件は?」男がたずねた。

 ジルベールが水夫を退らせてくれるよう身振りで頼むと、すぐに水夫は出て行った。

「ラドニ号の船長さんでしょうか?」

「ああ」

「ではこの手紙の受取人はあなたで間違いありませんね?」

 ジルベールはバルサモの手紙を船長に差し出した。

 手紙を見た途端に船長は立ち上がって、慌ててジルベールに笑顔を見せた。

「あんたも?……随分と若いな? 結構結構!」

 ジルベールはお辞儀をするだけに留めた。

「行き先は?」

「アメリカ」

「いつ発つ?」

「あなたが発たれる時に」

「では一週間後だ」

「それまで何をすべきでしょうか、船長?」

「旅券は?」

「ありません」

「ではサン=タドレス辺りに行って町の外を一日ぶらついてから、今夜のうちに船に戻って来るといい。誰にも話しかけないように」

「お腹が空いたら食べなくてはなりませんが、お金がありません」

「ここで食べろ。今夜のところは夜食を食っていけ」

「その後は?」

「いったん乗り込んでしまえば陸には戻れん。ここに籠っていろ。海に出るまで太陽を拝むことは出来ない……二十里の海の彼方に出てしまえば、好きなだけ自由にしていい」

「わかりました」

「やり残したことがあれば今日のうちに済ませておけ」

「手紙を書かせてもらえますか」

「書くといい……」

「でも何処で?」

「この机を使え……ペンとインクと紙はそこだ。郵便宿は郊外にあるから、見習いに連れて行ってもらえ」

「ありがとうございます!」

 一人になったジルベールは、短い手紙を書いた。宛名は以下の通り。

『アンドレ・ド・タヴェルネ嬢、パリ、コック=エロン街、九番地、プラトリエール街を出て最初の正門』

 手紙をポケットに仕舞い、船長がわざわざ運んでくれた食事を食べ、見習い水夫の案内で郵便宿まで行き、手紙を投函した。

 一日中、ジルベールは崖の上から海を見ていた。

 夜になって戻ると、船長が待ち受けていて、ジルベールを船に入れた。

『ジョゼフ・バルサモ』 160

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第百六十章 ピトゥ家

 道すがら何を見聞きしてもジルベールは怯えていた。後ろを走る馬車や追い抜いてゆく馬車の音、葉の落ちた木々の間を吹き抜ける風の呻き――そうした音の一つ一つが、群れをなして追って来る追跡者の声や、子供を奪われた者たちの叫びのように聞こえた。

 だが危険は迫ってなどいなかった。御者は立派に務めを果たし、二頭の馬は湯気を立てて時間通りにダマルタンに到着した。曙光もまだ見えてはいない。

 ジルベールは御者に半ルイ渡し、馬と御者を替えて逃走を続けた。

 この間赤ん坊は毛布にくるんでジルベールが自ら抱えていた。寒さでひきつけを起こしたり泣き声もあげたりもしなかった。陽が昇ると間もなく遠くに村が見えた。ジルベールはいっそう安心を確かにし、ぐずり始めた赤ん坊をおとなしくさせる為に、タヴェルネで狩りから帰る時に歌っていた歌を歌い始めた。

 車軸や革紐の軋み、車体の金属音、馬の鈴の音が不気味な伴奏となっているところに、御者がブルボネーズをがなり立てたおかげで、いっそう騒がしくなった。

 こうしたわけで、馬車の中に赤ん坊がいるとは、御者はゆめゆめ疑わなかった。御者はヴィレル=コトレの前で馬を止めると、約束通り馬車賃に加えて六リーヴル=エキュ受け取った。ジルベールは赤ん坊を念入りに毛布でくるむと、いっそう力を込めて歌を歌いながら馬車から離れ、溝を跨いで落葉の散らばった小径に姿を消した。道を下り、左に曲がれば、アラモン村に着く。

 寒さが増して来た。数時間前から雪の量が増えていた。固い地面は棘や筋のある茂みで覆われている。上空には葉の落ちた陰気な森の木々がくっきりと姿を見せ、まだ靄に覆われた白い空に枝がさやかに浮かび上がっていた。

 痺れるような空気、楢の蜜の香り、枝の先から垂れる氷の粒……こうした野性や詩情の何もかもが、ジルベールの想像力を荒々しく揺すぶった。

 小さな谷間を自信満々に素早く歩き回った。身じろぎもせず、躊躇いもしなかった。木立の中で、村の鐘や、暗い枝の格子越しに洩れて来る暖炉の青い煙を探していたのだ。小半時後、土手に木蔦と黄クレソンの生えた小川を渡り、最初に見つけた小屋で、農夫の子供たちにマドレーヌ・ピトゥの家まで案内を頼んだ。

 子供たちは呆然として固まるような農夫の如き反応は見せずに、無言でいそいそと立ち上がり、余所者の顔を覗き込み、手を繋いで、それなりに大きく立派な藁葺きの家までジルベールを連れて行った。その家はこの村のほかの家と同じように、小川のへりに立っていた。

 小川には澄んだ水が流れ、雪解けでわずかに増水していた。木で出来た橋、というか、大きな板の向こうには、家の土台と同じ高さにある道が見えた。

 案内している子供の一人が、マドレーヌ・ピトゥはあそこに住んでいる、とジルベールに目顔で教えた。

「あそこかい?」

 子供が口を閉じたままうなずく。

「マドレーヌ・ピトゥだね?」ジルベールが改めてたずねた。

 またも子供が無言で同意を示したので、ジルベールは橋を渡って扉を押した。それを再び手を繋いだ子供たちがじっと見つめていた。茶色い服を着て留金つきの短靴を履いたこの紳士は、マドレーヌの家で何をするつもりなのだろう。

 扉が開くと、一般的に言って誰の目にも魅力的な光景が――分けても哲学者の卵の目には魅力的な光景が、飛び込んで来た。

 体格のいい女将さんが生後数か月の赤ん坊に乳をやっていた。その前では四、五歳の逞しい男の子がひざまずいて祈りを口にしていた。

 窓のそばにある暖炉の角に三十五、六の夫人が一人いて、亜麻を紡いでいた。もっとも、窓といっても壁に空いた穴にガラスを嵌めたようなものであった。夫人の右には紡ぎ車が、足許には木製の腰掛けが、腰掛けの上には大きなプードルがいた。

 犬はジルベールを見て礼儀正しく歓迎の吠え声をあげた。それが犬の示した警戒心のすべてであった。祈っていた子供が主の祈りをやめて振り返った。二人の夫人は驚きと喜びの中間くらいの声をあげた。

 ジルベールは子守りに向かって微笑んだ。

「マドレーヌさん、はじめまして」

 夫人が飛び上がった。

「あたしの名前を知っていなさるんですか?」

「お聞きの通りです。でもどうか口を挟まないでいただきたい。世話をする赤ん坊を一人から二人に増やしてもらいます」

 ジルベールは村の赤ん坊が寝ている揺りかごに、抱いていた町の赤ん坊を寝かせた。

「可愛いねえ!」糸を紡いでいる夫人が言った。

「そうだね、アンジェリク、可愛いよ」マドレーヌも言った。

「ご姉妹《きょうだい》なのですか?」

「ええ、良人のね」

「ジェリク叔母さんなんだ」男の子がひざまずいたまま低い声で呟いた。

「お黙りなさい、アンジュ。話の邪魔をしちゃいけないよ」

「面倒なことをお願いするつもりはありません。この子は主人の領地で働いていた農夫の息子なのですが……その農夫は破産してしまい……主人はこの子の代父だったことから、田舎で育てて、立派な農夫にさせてやりたいと……健康で……善良な……この子を預かっていただけますか?」

「でも旦那さん……」

「昨日産まれたばかりで、まだ子守りもいません。この子のことはヴィレル=コトレの公証人ニケさんからお聞きしているかと思いますが」

 マドレーヌはすぐに赤ん坊を抱き寄せ、惜しみなく乳を与えた。ジルベールはそれを見て感動を覚えた。

「間違ってはいませんでした。あなたは立派な方です。主人の名の許に、この子をお預けいたします。ここでなら幸せになれるでしょうし、何かを見つけてこの藁葺き家に幸運をもたらしてくれるものと願ってます。ヴィレル=コトレのニケ氏の子供には月に如何ほど費やしておいでですか?」

「十二リーヴルです。でもニケさんはお金持ちですから、砂糖代や世話代に何リーヴルか足して下さることもありました」

「マドレーヌさん、ではこの子には月に二十リーヴルお支払いいたしましょう。年に二百四十リーヴルです」ジルベールは誇らしげに答えた。

「それはまあ! ありがたいことです」

「今年の分です」ジルベールが卓子の上に十ルイ並べると、二人の夫人は目をまん丸くし、アンジュ坊やはがさがさの手を伸ばした。

「でも赤ん坊が死んでしまったら?」子守りがおずおずとたずねた。

「それは大変な不幸ですね。起こってはならない不幸です。これが子守りの月給になりますが、不満はありませんか?」

「ええ」

「来年からの宿代の話に移りましょう」

「この子はずっとここで預かることに?」

「そうなるでしょうね」

「そうなりますと、あたしらがこの子の父母になるんですか?」

 ジルベールは青ざめた。

「そうです」押し殺した声を出す。

「そうしますと、可哀相にこの子は捨てられたんですね?」

 こうした不安や質問はジルベールにはまったくの不意打ちだったが、どうにか自制することが出来た。

「まだお話ししていないことがあります。この子の父親は苦しみのうちに死にました」

 二人の夫人は感情も豊かに手を合わせた。

「母親は?」子守りのアンジェリクがたずねた。

「母親ですか……母親は……」ジルベールはやっとのことで深呼吸した。「……既に産まれて来た子であろうと、これから産まれて来る子であろうと、あのひとを当てにすることは出来ません」

 ちょうどその時、父親のピトゥが畑から帰って来た。穏やかで機嫌が良さそうだ。グルーズが絵に描いたような、優しさと健康に満ちあふれた無骨な正直者といった類の人物だった。

 話をすっかり聞くまでもなかった。ピトゥは自尊心によって状況を――それも自分には理解できない状況を――理解していた。

 ジルベールはピトゥに話をした。赤ん坊が大人になるまで――つまり智恵と肉体の力を借りて一人で生きられるようになるまでは――必ずや宿代を払い続けると。

「そうだな。この子のことを可愛がってやれるだろう。何たって可愛いしな」

「この人もだよ!」アンジェリクとマドレーヌが言葉を交わした。「あたしらと同じことを感じたらしいね!」

「では一緒にニケ氏のところまで来ていただけますか。必要なお金はニケ氏に預けようと思います。そうすればあなたがたにもご満足いただけるだろうし、この子も幸せになれるはずですから」

「すぐ参りますよ」と言ってピトゥが立ち上がった。

 ジルベールは夫人たちに暇乞いをして、家の子を押しのけて我が子を寝かせておいた揺りかごに近づいた。

 覗き込んで初めて我が子をしっかりと見てみると、アンドレに似ていることに気づいた。

 心が音を立てて砕けた。身体に爪を立てて、心の奥から湧き出てこようとする涙を懸命に堪えた。

 おずおずと、震えながら、赤ん坊の冷たい頬に口づけをしてから、ふらふらになって後ろに下がった。

 ピトゥは既に戸口に向かい、手には鉄を履かした杖を持ち、上着を身につけていた。

 ジルベールが足許にまとわりついていたアンジュ・ピトゥ坊やに半ルイやると、夫人たちが田舎特有の親密さで抱擁を求めた。

 こうした感動は十八歳の父親には刺激が強すぎたので、もう少しでそれに負けそうになった。青ざめて神経質になり、冷静さを失い始めた。

「行きましょうか」ジルベールがピトゥに言った。

「いつでもどうぞ」先に進んでいたピトゥが答えた。

 そうして二人は出かけた。

 突然、マドレーヌが戸口から大声でジルベールを呼んだ。

「旦那さん!」

「何か?」

「名前ですよ! 名前! この子の名前は?」

「ジルベールと言います!」若者は誇らしげに答えた。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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