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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 03-1

第三章 伯母の家のアンジュ・ピトゥ

 伯母の家に長逗留することにアンジュ・ピトゥが難色を示したのはお読みになった通りである。アンジュ・ピトゥは宿敵である動物に匹敵するどころか動物を凌駕しかねない本能に恵まれていた。ゆえに、滞在すればどのようなものがのしかかってくるのかをすっかり悟っていた。失望ではない。一瞬たりとも思い違いするような人間ではないのだから。それは苦しみであり、試練であり、嫌悪であった。

 これは申し上げておかねばなるまいが、ピトゥが伯母を嫌っていたから、というわけではない。ジルベール医師が去ってしまうと、ピトゥを奉公に出す話など吹き飛んでしまった。公証人は正式な契約の言葉を述べたが、アンジェリク伯母ときたら、甥はまだ若く身体も弱いので体力が足りなくなるような仕事には就けない、と言い出した。これを聞いた公証人はアンジェリク伯母に心から思いやりがあるのだと思い込み、奉公を一年先延ばしにした。まだ時間はある。アンジュ・ピトゥはまだ十二歳になったばかりなのだから。

 家に着くと、アンジェリク伯母は甥を最大限利用する方法に頭を巡らせ、アンジュはアラモンの頃と同じような暮らしをヴィレル=コトレで送るために、森の地形をほぼすっかり頭に入れていた。

 散策の結果、最適な水たまりはダンプリュー、コンピエーニュ、ヴィヴィエール(Dampleux, Compiègne, Vivières)の路上にあり、獲物が多いのはブリュイエール=オー=ルー(Bruyère-aux-Loups)の村だということがわかった。

 ピトゥはこうして手筈を整えた。

 手に入れるのが容易で、軍資金がいらないのは、鳥もちともち竿である。柊の樹皮をすりこぎで挽き、水で洗えば、鳥もちが完成する。もち竿の方は近くの樺の木の上に幾らでも生えている。ピトゥは誰にも言わずにもち竿と最高級の鳥もちを幾つも作り、伯母のお金でパン屋でパンを買ったその翌朝、夜明け前に家を出て、一日中外で過ごし、すっかり陽が落ちてから帰宅した。

 ピトゥは何も先の見通しをつけずにこうしたことを決めたわけではない。嵐は予想していた。ピトゥにはソクラテスのような叡智こそなかったものの、かのアルキビアデスの主人(=ソクラテス)が妻クサンティッペの機嫌を察知できたように、アンジェリク伯母の機嫌を察知することが出来た。

 部屋に入るなり雷が落ちた。

 アンジェリク嬢は甥を見逃すまいとして扉の陰で待ち伏せていた。ピトゥは部屋に足を踏み入れた途端、後頭部にばちんと一撃を喰らった。忘れようとしても忘れられない干涸らびた手による一撃だ。

 幸いなことにピトゥは石頭だったのでさして揺らぎもしなかったのだが、手加減なく叩いたせいで指を痛めて怒りを募らせている伯母の同情を引こうとして、倒れそうなふりをして部屋の反対側までよろめいて見せた。ところが伯母が糸紡ぎ棒を手にして追って来たものだから、ピトゥは慌ててポケットからお守りを取り出し、家を抜け出ていたのを大目に見てもらおうとした。

 お守りとは鳥が二ダース。駒鳥一ダースと鶫半ダースも含まれていた。

 アンジェリク伯母は目を見開きながらも、形だけは小言を繰っていたが、小言を繰りながらも、手は獲物をつかんで明かりにかざしていた。

「何だい、これは?」

「それはですね、そのう、鳥です」

「食べられるのかい?」老嬢は信仰篤き人間の常として食欲が盛んであった。

「食べられるに決まってるじゃないですか! 駒鳥と鶫ですよ!」

「どっからくすねて来たんだい、タコ助?」

「くすねたんじゃなくて、捕まえたんです」

「どうやって?」

「水たまりでです!」

「水たまり? 何だい、それは?」

 ピトゥは驚愕を浮かべて伯母を見た。水たまりが何なのかを知らないまま生きている人間がいるとは信じられなかった。

「水たまりですよ? 水たまりです」

「だから水たまりがどうしたんだい」

 ピトゥは憐れみを浮かべていた。

「水たまりですから、水が溜まっているところです。そんなのが森の中に三十個くらいあって、周りにもち竿を仕掛けておけば、鳥が水を飲みに来たら、罠に気づかずに捕まってしまうんです」

「どんな風に?」

「鳥もちです」

「ああ、そういうことかい。でもお金はどうしたんだい?」

「お金ですか?」そこまで金に取り憑かれていたとは信じられなかった。

「そうだよ」

「誰からももらってません」

「だったらどうやって鳥もちを買ったんだい?」

「自分で作ったんです」

「もち竿は?」

「もち竿もです」

「じゃあこの鳥を……」

「何ですか、伯母さん?」

「捕まえるのに何の苦労もないんだね?」

「しゃがんで拾うだけです」

「水たまりにはいつでも行けるのかい?」

「毎日だって行けます」

「えらい!」

「でも無理ですけど……」

「何が無理なんだい?」

「毎日は行けません」

「何でだい?」

「だって駄目になってますから」

「何が駄目なんだい?」

「水たまりですよ! 鳥は捕まえたら……」

「ふん?」

「いなくなってしまいますから」

「その通りだね」

 ここに来てから伯母に認められたのは初めてのことであり、前代未聞の事態にピトゥはすっかり参ってしまった。

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『アンジュ・ピトゥ』 02-4

 医師とピトゥが家に入って来たのは、アンジェリク伯母が最後にもう一度椅子の周りを回ってお金がはみ出ていないか確かめ、お金を隠している間は閉めていた扉を再び開いた直後であった。

 それは感動的な場面であってもおかしくなかったはずなのだが、ジルベール医師のような観察眼の持ち主には、異様な場面にしか見えなかった。甥の姿を目にするや、老婆は義妹のことを口にして、涙を拭ったように見えた。医師はどういった態度で接するべきか見極めるためにも、老嬢の本心を見たかったので、伯母が甥に果たすべき義務について試しに説教をしてみた。だが話が進み、医師の口唇からねちっこい言葉が洩れるにつれて、老嬢の乾いた目からは濡れていたのも感じられないほどの涙も干上がり、それまでは隠されていた羊皮紙のようなひび割れが顔中に甦り、左手を尖った顎の辺りまで上げ、右手では椅子の貸し出しで年におよそ何スー手に入れたかを指で計算し始めていた。偶然にも計算が終わるのと説教が終わるのが同時だったので、どれだけ義妹を愛していようといかほど甥を気に掛けていようと、これだけの収入しかないのでは、如何に伯母であり名付け親であるという立場だろうとも、余計な出費はまかりならない、と即答した。

 もっとも、医師の方ではこうした拒絶は織り込み済みだったから、驚きもしなかった。新しい思想の信奉者であり、ラヴァーターの著作の第一巻が出版されたばかりということもあって、このチューリヒの思想家の観相学を、アンジェリク嬢の痩せて黄ばんだ顔に当てはめていたのである。

 老嬢の貪欲な目つき、細い鼻、薄い口唇からは、守銭奴、利己主義者、偽善者であることが明らかだった。

 そんなわけだから老嬢の返答にも慌てることはなかった。それどころか、探究者の目から見て、この三つの欠点が何処まで枝を伸ばすのか見てみたいという思いがあった。

「ですが、アンジュ・ピトゥは孤児なんです。それにご兄弟の息子さんではありませんか」

「ようござんすか、ジルベールさん。最低でも一日にあと六スーないと。少なく見積もって、ですよ。この子ならパンを一日一リーヴル【500g】は食べるでしょうからね」

 ピトゥは顔をしかめた。いつも朝食にだけパンを一リーヴル半食べていた。

「それに洗濯するのに石鹸がいりますしね。泥だらけにして来るのを思い出しましたよ」

 実際にその通りだったし、ピトゥがどういった生活を送って来たかを思い返してみれば想像もつこう。しかしながらピトゥの名誉のために言っておくと、汚すよりも破いて来る方が多かったのである。

「へえ、アンジェリクさん。キリスト教徒として慈善を積んでいらっしゃるあなたのような方が、甥である名づけ子のために、そんな見積もりをなさいますか」

「それに服も繕わなくちゃなりませんからね」義妹のマドレーヌが上着の袖やキュロットの膝に継ぎを当てているのを山ほど見ていることを思い出した。

「つまり、甥御さんを預かるつもりはないと……ほかに身寄りのない孤児が伯母の家から追い出されては、他人の家の好意にすがるしかありませんね」

 如何に強欲なアンジェリク嬢といえども、甥を引き取るのを拒んだせいでそんな極端な救いに走られては、自分に憎しみが跳ね返ってくることに気づいた。

「そんな。引き取りましょう」

「おお!」干涸らびていたと思われた心に善意を見出し、医師は喜びの声をあげた。

「ええ、ブール=フォンテーヌの聖アウグスチノ修道会に預けて、平修道士にするつもりです」

 前述のように、医師は哲学者であった。この当時、哲学者という言葉にどのような価値があったかのもご存じの通りである。

 それゆえ、すぐに医師は聖アウグスチノ修道院から子供を取り返すことに決めた。聖アウグスチノ修道会の方でも同じくらい強い気持で哲学者から信徒を奪って来たのだ。

「わかりました」手をポケットの奥に入れ、「自由に出来るお金がないがために甥御さんを他人の手に預けざるを得ないという難しいお立場は重々承知しております。斯くなるうえは甥御さんの養育費をあなたよりも上手く使ってくれる方を見つけるといたしましょう。僕はアメリカに戻らなくてはなりません。その前に甥御さんを指物師か車大工のところに弟子入りさせることにします。選ぶのは本人ですがね。フランスを離れている間にしっかりと成長し、戻って来る頃には立派な職人となっていることでしょう。皆さん助けてくれるはずです。さあおいで、伯母さんに口づけをするんだ。では行こう」

 皆まで言わせずピトゥは伯母に駆け寄り、長い腕を伸ばした。その口づけが二人の間で交わされた永遠の別れの印であることは、ピトゥが口唇を強く押しつけたことからも明らかだった。

 だがお金という言葉と、手をポケットに入れた動きと、その手で鳴らしたエキュ貨の音から推察される金額を裏づける服の突っ張りとを確認して、老嬢の金銭欲が胸に舞い戻った。

「ねえジルベールさん、ご存じじゃありませんか」

「何をです?」

「あたしほどこの子を愛している人なんていないってことですよ!」

 アンジェリク伯母はピトゥが伸ばしていた腕に細い腕を絡め、両頬に口づけをして、ピトゥをすっかり震え上がらせた。

「もちろん存じておりますとも。あなたの愛情を疑ったことなどありません。だからこそ頼りになるあなたのところに真っ直ぐ連れて来たのです。しかしお話を聞いて、善意はあるがそれを実行する手だてがないことはわかりました。ご自身以上に貧しい者を助ける余裕がないほどに貧しいのですね」

「ねえジルベールさん、神は天におわすんじゃないんですか? 天は生けとし生けるものを養って下さるんじゃないんですか?」

「そうは言うものの、鳥に餌を与えてはくれても、孤児を徒弟にしてはくれません。だからこそ、あなたの財産を鑑みれば高額に過ぎるであろう金額を、アンジュ・ピトゥのために費やしていただかなくてはならないんです」

「それですけどねえ、そのお金をいただけたら……?」

「そのお金とは?」

「先生がお話ししていた、ポケットの中のお金ですよ」老嬢は茶色い服の裾に曲がった指の先を向けた。

「間違いなくお渡しいたしますよ、アンジェリクさん。ただし、一つ条件があります」

「何ですかね?」

「この子が仕事に就いていることです」

「ようござんすよ。アンジェリク・ピトゥの名に懸けて、約束いたしました」と言っている間も、揺れるポケットから目を離さずにいた。

「約束ですね?」

「約束いたします」

「絶対にですね?」

「神掛けて! ジルベールさん、誓いますとも」

 老嬢はそう言って痩せた手を差し出した。

「わかりました!」ジルベール医師がポケットからぱんぱんになった袋を取り出した。「この通り、お金の用意はして来ました。そちらもこの子を預かる用意は出来ていらっしゃいますね?」

「十字架に懸けて!」

「誓うまでもありませんよ。署名をいたしましょう」

「署名いたしますよ、ジルベールさん」

「公証人の前で?」

「公証人の前で」

「ではニゲ先生《せんせ》のところに行きましょう」

 長いつきあいのおかげで親しみを込めて医師からニゲせんせと呼ばれているこの人物、『ジョゼフ・バルサモ』の愛読者の方ならご存じの通り、村で評判の公証人であった。

 ニゲ氏はアンジェリク嬢の公証人でもあったので、医師の人選に否やはなかった。そこで言われた通りに事務所までついて行った。公証人はローズ=アンジェリク・ピトゥ嬢の約束を記録した。即ち甥のルイ=アンジュ・ピトゥを預かり、職に就けさせることを条件に、年に二百リーヴルを与えるという約束である。契約は五年間。医師は公証人に八百リーヴル預け、二百リーヴルは前払いで支払った。

 翌日、医師はヴィレル=コトレを去った。出立前に農夫の一人と金銭上の取り決めを終え、この農夫については後述する。前払いされた二百リーヴルに禿鷹《コンドル》のように飛びかかったピトゥ嬢は、椅子にルイ金貨を八枚継ぎ足した。

 残りの八リーヴル【8 louis d'or = 192 livres】については、三、四十年にわたって様々な小銭の往き来を見て来た陶器の小皿の中で、日曜日が二、三回来てお金が集まり二十四リーヴルに達するのを待っていた。前述した通り、二十四リーヴルになれば金貨に替えられ小皿から椅子に移動していたのである。

『アンジュ・ピトゥ』 02-3

 それからフォルチエ神父に自分の所在を知らせてパリに戻った。

 ピトゥの母親はこうした事情をすべて知っていた。死に臨んで、「金に困ったらいつでも頼りなさい」という言葉を思い出した。これは啓示だ。哀れなピトゥが失うよりも大きなものを見つけられるように、神がお導きになったのだ。母は主任司祭を呼び寄せた。文盲だったから。主任司祭は手紙を書き、同日、フォルチエ神父まで手紙を届けさせた。神父は急いで宛名を書き加え、配達の手続きをした。

 それを待っていたかのように、翌々日、母は死んだ。

 まだ幼かったピトゥには、喪失したものがどれだけ大きいのかがはっきりとはわからなかった。母を悼んで泣いたのは、死出の旅が永遠のものだと理解していたからではなく、母が冷たく青ざめ醜く変わってしまったからだ。それでもやがて本能的に悟っていた。炉辺の守護天使が飛び去ってしまったことを。母を失くした家からは寂しく人気がなくなってしまったことを。将来の生活どころか、明日の暮らしすら覚束ないのだ。母を墓地まで運び、棺に土をかけ、もろく冷たい土饅頭を作り上げると、そこに坐り込み、墓地から離れるように人から言われても首を振って、マドレーヌ母さんとは一度だって離れたことはないのだと言って、母のいる場所にいつまでもいたがった。

 ピトゥはその日の残りと一晩を墓場で過ごした。

 尊敬すべき医師が――やがてピトゥの後ろ盾となるのが医者であったことはもうお伝えしていただろうか?――その尊敬すべき医師がピトゥを見つけたのがこの墓場であった。かつて交わした約束の重大さを理解していた医師は、手紙が発送されてから四十八時間後には、約束を果たすためにピトゥの許にたどり着いていた。

 アンジュが初めて医師に会ったのはまだ幼い頃だった。だがご承知のように、子供の頃に深い感銘を覚えたことはいつまでも記憶に植えつけられるものだし、若者が訪れた痕跡は家の中に刻みつけられていた。若者は幼子を預けて、安心して立ち去っていた。アンジュが母からジルベールの名前を聞くたび覚えていたのは、崇拝にも似た感情だった。成人となったジルベールが医師の肩書きを身につけてピトゥ家を再訪し、過去の施しに加えて将来を約束した際、ピトゥは母が感謝するのを聞いて自分も感謝しなければいけないのだと悟り、何を言っているのかもよくわからないままに、母の言われた言葉を感謝の念と共に記憶に刻み、呟いていた。

 それゆえ、墓地の格子門を通り抜ける医師の姿を目にすると、草の生い茂った墓や折れた十字架の間を慌てて進み出て、医師本人であると確認すると立ち上がって歩み寄った。母に呼ばれてやって来たこの人物に対して、ほかの人に話すのと同じようには口を利くことが出来ないのはわかっていた。だから手を引かれて泣きながら墓地の外に連れ出される時にも、せめて後ろを振り返ることくらいしか出来なかった。門の外には二輪馬車が待っていた。ジルベールはアンジュを馬車に乗せると、不幸に貪欲な大衆の善意と好奇心に乗じて、一時的に家を空けて町まで連れて行き、当時は王太子のものだった最高の旅籠で馬車から降ろした。腰を据えてすぐに仕立屋を呼びに行かせたところ、予め知らせられていた仕立屋が既製服を持って現れた。ジルベールはピトゥの背が伸びるのを見越して、二、三プス長めの服を選んだ。その余裕も長くは持つまい。それが済むと前述のプリュー地区に二人で向かった。

 目的地が近づくにつれて、ピトゥの足取りが重くなった。向かう先がアンジェリク伯母の家なのははっきりしていたからだ。名付け親に――何を隠そうピトゥに詩的な洗礼名をつけたのはアンジェリク伯母だったのだが――名付け親に会ったのは数えるほどしかなかったが、伯母の存在はピトゥにとてつもない印象を植えつけていた。

 何せこのアンジェリク伯母なる人物、ピトゥのように母親の愛情に包まれて育った子供にとって魅力的なところなど一つもない。この頃のアンジェリク伯母は五十代後半であり、履き違えた信仰に心を砕いていたせいで、優しく慈悲深い人間らしい感情をひっくり返し、その代わりに生来の貪欲な智性を耕すべく町の浮気女と交際を切らさずに日毎に智識を増やしていた。施しをしていたわけではない。自分で紡いだ亜麻を売ったり、参事会の許しを得て教会の椅子を貸したりして、見せかけの信仰心に騙されたままの敬虔な人々から、折にふれて小銭やまとまった金額を受け取り、それをまずは銀貨に替え、銀貨をルイ金貨に替えていたが、何処に消えたのか見た者はいなかったし、そもそも存在を疑ってみる者さえいなかった。糸紡ぎの際に坐っている椅子のクッションの中に隠すことにしていたのである。暗い隠れ場所の中で金貨たちは同じように集められていた友人たちに再会し、いつの日か死後に相続人の手に渡るまでの間、流通を止められることと相成った。

 今ジルベール医師がでかピトゥの手を引いて向かっていたのが、その伯母の住まいであった。

 でかピトゥと書いたのは、生まれてからの三か月で既に歳の割りに大きくなっていたからだ。

 ロー=ザンジェリク・ピトゥ嬢は、扉を開けて甥と医師を迎え入れた時には上機嫌だった。アラモンの教会で義妹の亡骸に弥撒があげられている間、ヴィレル=コトレの教会では婚礼と洗礼がおこなわれていた。そのため椅子貯金の額はたった一日で六リーヴル増えた。アンジェリク嬢はスー貨幣をエキュ貨一枚に替え、別の日に貯めていた三枚と合わせてルイ金貨に替えていた。ついさっきこのルイ金貨をほかのルイ金貨と一緒にしたばかりであり、そうしてお金を増やした日こそアンジェリク嬢にとっては記念日にほかならないのだ。

『アンジュ・ピトゥ』 02-2

 人間性の評価というものが、生み出される舞台なり観客なりに応じて変化するように、アラモン村のただ中で、田舎者――自らの能力の半分を自然界に頼ることに慣れた人々――に囲まれているピトゥは、文明に対して本能的な憎しみを抱いている田舎者の例に洩れず、息子が間違った道を歩んで来たとは母には思いも寄らなかっただろうと考えたり、お金をかけて人間に出来うる限りの完璧な教育を受けるという点では恵まれていたがそれを自主的に受けていたわけではないのだと考えたりしていた。

 だが母親は病に倒れ、死期を悟り、息子をこの世にひとりぼっちで残してゆくのだとわかった時、不意に不安を覚え、やがて孤児になる息子の支えとなるものを見つけようとした。そこで思い出したのが、十年前に一人の若者が真夜中に門を叩き、嬰児を預ける代わりに大金をぽんと残していったうえに、ヴィレル=コトレの公証人の許にさらなる金額を預けていたということだった。あの不思議な若者についてはジルベールと名乗ったこと以外は何も知らない。だが三年ほど前に若者は再び姿を見せていた。二十七歳の大人になった若者は、言葉にも話し方にも角があって独断的で、冷たい印象を覚えた。だがその冷たい膜は、子供に会って健やかに育っているのを見ると氷解した。自然と触れ合うことで、そうあって欲しいと願った通りに、逞しくにこやかに成長していた。男は母親の手を握り、一言だけ口にした。

「金に困ったらいつでも頼りなさい」

 そうして子供の手を引き、エルムノンヴィルへの道をたずね、ルソーの墓参りをしてからヴィレル=コトレに戻って来た。恐らくは健やかな空気を吸い込み、運よく公証人からフォルチエ神父の寄宿舎のことを耳にしたからであろうか、信用できそうな人物のところにジルベール坊やを置いて来たのだった。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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